内ヶ巻の集落に立つと、川口 方面に見事な水田が広がってい ます。晴れ

∼内ヶ巻の開発①
内ヶ巻の集落に立つと、川口
方面に見事な水田が広がってい
ます。晴れた日は遠くに魚沼三
山も望める絶景です。しかし、
内ヶ巻にこの美しい水田が出来
るまでには多くの苦難がありま
した。それを物語る石碑が県道
沿いに立派に整備されています
( 写 真 )。 こ の 石 碑 は 大 正 7 年
に建てられたもので、正面には
「 新 田 開 拓 者 」、「 川 上 半 右 衛 門
君 之 碑 」、
「北魚沼郡長正七位 加
賀谷朝蔵謹書」とあります。裏
面に開発工事の沿革が簡単に記
されています。それによると、
田 植 え 後 、内 ヶ 巻 を 探 検 す る 3・4 年 生( 平 成 21 年 6 月 )
慶 応 3 年 ( 1867) 8 月 に 工 事 が
始 め ら れ 、4 年 後 の 明 治 4 年 11 月 に 完 成 し 、そ の 功 績 が 認 め ら れ 、大 正 6 年 11
月 に 役 所 よ り 表 彰 を 受 け た と あ り ま す 。 屋 号 「 半 年 」 家 の 第 12 代 当 主 で あ る 川
上半右衛門さんが私財を投じて新田開発を始め
た功績が認められたものです。また、この石碑を建てた発起人として真嶋英之
助 ・ 佐 藤 保 太 郎 ・ 川 上 亀 蔵 の 3 人 の 名 前 が あ り 、「 金 壱 百 円 也 内 ヶ 巻 新 開 地 持
一 同 」と 石 碑 に か か っ た 経 費 も 書 か れ て い ま す 。そ の 直 ぐ 横 に は 現 在 の 水 田 が で
き あ が っ た 圃 場 整 備 の 石 碑 (「 農 は 生 命 の 源 」 平 成 8 年 建 碑 ) が あ り 、 裏 面 に は
60、 7 ヘ ク タ ー ル に 1 億 7000 万 円 、 県 営 た め 池 整 備 に 2 億 4800 万 円 と 刻 ま れ
ています。現在の水田が、多額の事業費で完成したことが分かります。
さ ら に 、そ こ の 場 所 よ り 県 道 を 挟 ん だ 東 側 に も う 一 つ の 開 田 碑 が 建 て ら れ て い
ま す 。 大 正 11 年 4 月 に 建 て ら れ た も の で 、 正 面 に 「 故 川 上 半 右 衛 門 君 、 故 佐 藤
重 右 衛 門 君 、故 篠 田 市 兵 衛 君 」の 3 名 の 名 前 が 刻 ま れ 、顕 彰 さ れ て い ま す 。内 ヶ
巻 地 区 で は 毎 年 7 月 11 日 を 開 墾 記 念 日 と し て 石 碑 祭 り を 行 っ て き ま し た 。 そ の
日 は 2 ヶ 所 の 石 碑 の 前 に ほ ぼ 全 戸 の 人 々 が 集 ま っ て 神 主 の お 祓 い を 受 け 、御 神 酒
を 飲 み ま す 。水 田 に か か る 用 水 は 江 戸 時 代 よ り 田 麦 山 方
面の小高より4kmほどの距離を開削して水を引くよ
う に し ま し た 。ま た 、関 番 が 決 め ら れ 、用 水 か ら 田 へ 水
を 入 れ る 時 に 立 ち 合 っ た そ う で す 。用 水 普 請( よ う す い
ぶ し ん )の 作 業 は 6 班 に 分 け ら れ 、修 繕 場 所 は ク ジ 引 き
で 決 ま り 、資 材 経 費 や 人 足 賃 は 秋 に な り「 新 開 割 」と し
て 各 戸 に 割 り 当 て ら れ ま し た 。し か し 、そ の 用 水 路 も 中 越
一 面 の 黄 金 色 。実 り の 秋 の
大 震 災 で 大 き な 被 害 を 受 け 、経 路 を 変 更 す る な ど し て 災 害
内 ヶ 巻 ( 平 成 21 年 9 月 )
復旧されました。
この3つの石碑が物語るように現在の内ヶ巻に広がる
美 田 は 、長 い 歳 月 に わ た っ て 多 く の 人 た ち の 努 力 に よ っ て 出 来 上 が っ た 景 観 で す 。
川 上 半 右 衛 門 さ ん 始 め 開 拓 に 尽 力 さ れ た 先 人 が 、こ の 黄 金 色 の 景 色 を 見 た ら ど ん
なにも喜んだことでしょう。 (川上忠義様、田村新吾様から貴重な話をご教示いた
だ き ま し た 。)