1571 年 ネン ~1600 年 ネン

1600迄(3010件)
1571年-04:00|ロシア/ウクライナ| |||クリミアのタタール人がモスクワを焼き討ち
1571年-01:00|アルバニア| |||アルバニアのイブラヒム・ベヨリの反乱
1571年-01:00|スペイン/チリ| |||スペイン軍,プレンの戦いで大敗
1571年 00:00|ポルトガル/インド| |||ポルトガルがアーディル・シャーヒー朝と攻守同盟を締結
1571年 05:00|ペルー| |||<即位>インカ帝国(ビルカバンバ亡命政権)サパ・インカ:トゥパック・アマル[マンコ・インカ・ユパンキの息子](~157
20924スペイン人に殺される)
1571年1月2日-09:00|日本| ||元亀1年12月07日|一条町周辺より出火し大火事「禁中」小御所・台所・車寄をはじ
め、勧修寺・大祥寺殿・伏見殿・三条西・四辻・万里小路・知恩院など方々所々が焼失
1571年1月3日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)ヨハン・ゲオルク[ヨアヒム2世の息子](~15980108
)
1571年1月8日-09:00|日本| ||元亀1年12月13日|上杉輝虎、「謙信」となる
1571年1月9日-09:00|日本| ||元亀1年12月13日|近江で対陣中の朝倉義景と織田信長が二条晴良の仲介で和平
し、双方とも人質を出して撤収
1571年1月22日-09:00|日本| ||元亀1年12月27日|武田信玄と北条氏政が誓紙を交換して講和、同盟を結び上杉
謙信と断交
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年|仁木義視:伊賀守護(1578年伊賀を追放され甲賀に逃れた)
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年|土佐国の長宗我部元親は一条氏の家臣であった津野氏を滅ぼし、高岡
郡を平定.三男親忠を津野家養子にする
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年|肥前・龍造寺隆信、勢福寺城(江上氏)を攻略。神代氏と講和
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年|美作・宇喜多の武将・花房職之、毛利属城・篠山城を攻略
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年1月|神戸城主神戸具盛を近江日野城に蟄居させ、織田信孝を神戸家當主
、幸田彦右衞門尉を補佐に
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年1月|明智光秀を宇佐山城に配置
1571年1月26日-09:00|日本| ||元亀2年1月1日|武田信玄、駿河興国寺に奇襲をかけるが失敗
1571年2月10日-09:00|日本| ||元亀2年1月16日|武田信玄、駿河・深沢城を攻略
1571年2月13日-01:00|イタリア| |||イタリアの彫刻家・金工家チェリーニ/死去
1571年2月24日-09:00|日本| ||元亀2年2月|遠江・小笠原長忠、武田軍の攻撃を撃退し、高天神城を守る
1571年2月24日-09:00|日本| ||元亀2年2月|備中・穂田元清・三村元親(毛利方)、松山城(庄氏)を攻略
1571年3月6日-09:00|日本| ||元亀2年2月11日|剣豪塚原卜伝が死去.83歳(新当流の創始者)
1571年3月11日-09:00|日本| ||元亀2年2月16日|<第6次駿河侵攻>武田信玄、駿河に侵攻
1571年3月18日-09:00|日本| ||元亀2年2月23日|武田信玄が、北条氏の深沢城を攻略
1571年3月19日-09:00|日本| ||元亀2年2月24日|<第1次三遠侵攻>武田信玄、遠江に侵攻
1571年3月19日-09:00|日本| ||元亀2年2月24日|佐和山城の磯野員昌、織田信長に投降
1571年3月19日-09:00|日本| ||元亀2年2月24日|丹羽長秀:近江佐和山5万石/拝領(-天正11年若狭小浜へ)
1571年3月23日-09:00|日本| ||元亀2年2月28日|上杉謙信、椎名康胤と一向一揆勢のこもる富山城を攻略
1571年3月25日-08:00|中国/モンゴル| ||明・隆慶5年3月|明がアルタンを順義王に封じ帰化城(ホフホト)に居住させ、大同
など馬市を開く
1571年3月26日-09:00|日本| ||元亀2年3月|大崎義隆、最上義光の援軍を得て、陸奥葛西領の栗原郡有壁・磐井郡
流に攻め入るが、撃退される
1571年3月26日-09:00|日本| ||元亀2年3月|大村純忠、ポルトガル人に肥前長崎を開く
1571年3月27日-09:00|日本| ||元亀2年3月2日|武田信玄、遠江高天神城を包囲、その後城外で城主小笠原信興と
戦う
1571年4月23日-09:00|日本| ||元亀2年春|龍造寺隆信、兵を東肥前に動かし、ついで江上氏と和す
1571年4月24日-09:00|日本| ||元亀2年4月|毛利軍、本太城を包囲戦の末に攻略
1571年5月 05:00|ペルー| |||<死去>インカ皇帝ティト・クシ,天然痘により死亡→<即位>異母弟のトゥパク・アマル(トゥパマロ),最
後のインカ皇帝となる
1571年5月2日-09:00|日本| ||元亀2年4月9日|龍造寺隆信、蓮池の小田鎮光を誘殺
1571年5月4日-01:00|イタリア| |||マイーナ、モレア島の残りの土地、ヴェネツィア人に与えられる
1571年5月12日-09:00|日本| ||元亀2年4月19日|武田軍は三河足助城の鈴木重直を降し、それを下条信氏に守ら
せ、ついで野田・浅ヶ谷・阿摺・大沼・田代・八桑城を落とす
1571年5月19日-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペインがマニラを占領し、フィリピンの首都とする
1571年5月20日-01:00|バチカン/イタリア/スペイン| |||ローマ教皇が、スペイン・ヴェネツィアと同盟してトルコに対抗
1571年5月22日-09:00|日本| ||元亀2年4月29日|武田信玄、吉田城を攻め、家康の臣・酒井忠次と二連木で戦う
1571年5月24日-09:00|日本| ||元亀2年5月|<交野城合戦>松永久秀、交野城・飯盛山城主安見直政を攻める.安見
直政は自害
1571年5月24日-09:00|日本| ||元亀2年5月|武藏国小机城主北條左ヱ門左氏尭が下妻を攻めたる際に円福寺が
兵火に懸って炎上
1571年5月24日-08:00|中国| ||明・隆慶5年5月|兪大猷、広西古田の壮族蜂起を平らげる
1571年5月25日-02:00|ルーマニア| |||イシュトヴァーン・バートリが、トランシルヴァニア公となる
1571年5月27日-09:00|日本| ||元亀2年5月04日|大浦(津軽)為信、陸奥・石川城(南部高信)を攻略
1571年5月28日-09:00|日本| ||元亀2年5月05日|大浦(津軽)為信、陸奥・和徳城(小山内讃岐)を攻略
1571年5月29日-09:00|日本| ||元亀2年5月6日|<箕浦の合戦>近江・浅井長政、釜刃城を攻撃するが、木下秀吉こ
1600迄(3010件)
れを撃退
1571年6月1日-09:00|日本| ||元亀2年5月9日|松永久秀が窪城へ押し寄せるが11日に陣を払う
1571年6月4日-09:00|日本| ||元亀2年5月12日|<第1次長島合戦>織田信長、北伊勢に侵攻.佐久間(尾張衆)、柴田
(美濃衆)らが従軍.柴田勝家、負傷.氏家直元、討死
1571年6月4日-09:00|日本| ||元亀2年5月12日|氏家直元(卜全)が伊勢長島攻めで戦死/83歳(誕生:延徳1(1489)
)/剣客
1571年6月8日-09:00|日本| ||元亀2年5月16日|伊勢長島一向一揆攻撃で、戦況が進展しないまま付近に放火し
ながら兵を返す/一揆勢が弓・鉄砲を駆使して追撃を加え信長軍は敗退
1571年6月17日-09:00|日本| ||元亀2年5月25日|北条氏政、佐竹義重を攻め、小田原勢は真壁郡下妻城主多賀谷
政経を攻めるが多賀谷政経は城より打って出て小田原軍を破る
1571年6月22日-09:00|日本| ||元亀2年5月30日|松永久秀・松永久通、織田信長へ敵対し出陣;三好三人衆、松永
久秀の織田信長に対する謀叛に呼応し畠山昭高居城の河内国高屋城を攻撃
1571年6月23日-09:00|日本| ||元亀2年6月|伯耆・吉川元春、末吉で山中幸盛を破る
1571年6月24日-08:00|フィリピン|マニラ||<市制>レガスピがマニラに市政を敷き、市役所を設置
1571年7月 07:00|メキシコ| |||メキシコ市に異端審問所設置.植民地社会の精神生活を規制
1571年7月3日-09:00|日本| ||元亀2年6月11日|<高屋城合戦>(~5月30日)高屋城主の畠山昭高、三好義継と松永
久秀と三好三人衆を撃退
1571年7月3日-09:00|日本| ||元亀2年6月11日|<吹田城合戦>和田惟政、吹田城を攻め落とす
1571年7月4日-09:00|日本| ||元亀2年6月12日|箸尾為綱が松永久秀に背き、松永派十市氏と南柿森で戦う
1571年7月6日-09:00|日本| ||元亀2年6月14日|毛利元就病死/75歳(誕生:明応6(1497)0314)
1571年7月15日-09:00|日本| ||元亀2年6月23日|薩摩の島津貴久死去.58歳
1571年7月15日-09:00|日本| ||元亀2年6月23日|筒井順慶軍、大和国北之庄の近辺まで襲撃するも特に情勢変化
が無かったため撤退
1571年7月22日-09:00|日本| ||元亀2年7月|葛西晴信、大崎義隆と陸奥佐沼・石越方面で戦い、佐沼を奪還す
1571年7月25日-09:00|日本| ||元亀2年7月4日|吐山・簀川氏が守っていた郡山の付城で吐山氏が筒井方に寝返
り簀川衆を討つ
1571年7月26日-09:00|日本| ||元亀2年7月5日|筒井勢が櫟本の付城を落とし、久秀勢は筒井城へ入る
1571年8月1日-02:00|キプロス/トルコ| |||ファマグーストが占領され、キプロス島がトルコ人に奪われる
1571年8月8日-09:00|日本| ||元亀2年7月18日|箸尾勢が川合の付城を攻めるが失敗
1571年8月20日-09:00|日本| ||元亀2年7月30日|大隅の肝付良兼:伊地知などを攻めて島津軍を撃退したが、直
後に死
1571年8月21日-09:00|日本| ||元亀2年8月|<芦屋城合戦>武田高信、山名家部将の塩冶高清を攻めるも敗退
1571年8月24日-09:00|日本| ||元亀2年8月4日|辰市城へ松永久秀・三好義継勢が攻め掛かるが大敗、多数の討死
衆を出し多聞山城へ逃れる/辰市の戦い
1571年8月26日-09:00|日本| ||元亀2年8月6日|筒井順慶、松永軍との戦闘で勝利し筒井平城・高田城・「カヰト」
城・番条城・森屋蔵堂城などを回復
1571年8月27日-09:00|日本| ||元亀2年8月7日|筒井順慶、高田出城を布施某(大和国人)より奪取/40余人を討ち
取る
1571年9月3日-09:00|日本| ||元亀2年8月14日|越智・箸尾氏が十市氏の久秀派を攻め、十市郷を略取
1571年9月7日-09:00|日本| ||元亀2年8月18日|<第3次近江侵攻>織田信長、近江に侵攻.佐久間、柴田、丹羽、蜂屋
、木下、明智、中川、西美濃衆らが従軍
1571年9月10日-09:00|日本| ||元亀2年8月21日|出雲・吉川元春、寺内城を攻略
1571年9月10日-09:00|日本| ||元亀2年8月21日|出雲・吉川元春、尼子勝久に真山城を放棄させ、京都へ敗走させ
る
1571年9月10日-09:00|日本| ||元亀2年8月21日|伯耆・山中幸盛、末吉城から京都へ敗走
1571年9月11日-09:00|日本| ||元亀2年8月22日|松永久秀が竹内秀勝を河内若江に自害させる
1571年9月15日-09:00|日本| ||元亀2年8月26日|織田信長が浅井長政の小谷城を攻め、木本余吾に放火
1571年9月17日-09:00|日本| ||元亀2年8月28日|<白井河原合戦>摂津三守護の和田惟政、摂津郡山に荒木村重家
臣池田城主池田知正(重成)と戦い戦死、中川清秀に首級を挙げられる、和田惟政援軍美濃金山城主長井道利が
摂津白川河原で戦死
1571年9月19日-09:00|日本| ||元亀2年9月|南部晴政、信直に与する陸奥五戸城・清水城・剣吉城を攻め落とす
1571年9月19日-09:00|日本| ||元亀2年9月|備中・毛利輝元・三村元親、佐井田城を攻撃するが、宇喜多直家、救援
し毛利軍を破る
1571年9月19日-09:00|日本| ||元亀2年9月|蘆名盛氏、石川氏を攻め、陸奥石川郡の大半を領有す
1571年9月19日-09:00|日本| ||元亀2年9月1日|<志村城合戦>信長が、志村城に志村資則を攻めてこれを下す/小
川城主小川孫一郎降伏
1571年9月21日-09:00|日本| ||元亀2年9月3日|<金森城合戦>織田信長:近江常楽寺に移動/一向一揆の立て籠も
る金ヶ森(川那辺秀政)を降伏させた
1571年9月23日-09:00|日本| ||元亀2年9月5日|摂津国に於いて池田軍が戦闘で敗北を喫し、多数の戦死者を出
す
1571年9月25日-09:00|日本| ||元亀2年9月7日|筒井順慶軍(筒衆)、大和国山田を攻撃/竹内秀勝(竹下)は退散
1571年9月28日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王フサイン・アリ・リアーヤット・シャー(~15790608死去)
1600迄(3010件)
1571年9月30日-09:00|日本| ||元亀2年9月12日|織田信長が比叡山延暦寺が朝倉義景を支援していることを怒
り、延暦寺を焼打ち/死者は女子供をも含み3000から4000
1571年10月1日-09:00|日本| ||元亀2年9月13日|近江・明智光秀、志賀郡を領有
1571年10月3日-09:00|日本| ||元亀2年9月15日|武田信玄、北条氏政と榛沢に戦
1571年10月6日-09:00|日本| ||元亀2年9月18日|織田信長、竹内季治(入道真滴)を近江永原に暗殺/理由は「信長
は極みに達したため,後は熟した無花果のように地上に落ちるだけだ」と失言
1571年10月7日-02:00|ギリシャ/スペイン/トルコ| |||レパント沖の海戦でドン・ファン・デ・アウストリア率いるヨーロッパ連合艦隊がトルコ
海軍を破る
1571年10月9日-09:00|日本| ||元亀2年9月21日|河尻秀隆・丹羽長秀に命じて、高宮右京亮と一族を佐和山に呼
びつけ殺害する
1571年10月10日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ギアノット・ロメッリニ(~15731010)
1571年10月11日-09:00|日本| ||元亀2年9月23日|武藤(真田)昌幸、上野白井城を攻める
1571年10月19日-09:00|日本| ||元亀2年10月|宮部城の宮部継潤、織田信長に投降
1571年10月21日-09:00|日本| ||元亀2年10月3日|北条氏康、死去/57歳(誕生:永正12(1515))氏政が嗣ぐ/氏政、
父の遺言により輝虎との同盟を断ち、信玄と結ぶ
1571年10月28日-09:00|日本| ||元亀2年10月10日|松永久秀、山城国久世郡槙島城を攻撃
1571年11月17日-09:00|日本| ||元亀2年11月|<山垣城合戦>山名祐豊、丹波に侵攻するも赤井直正が阻止
1571年11月17日-09:00|日本| ||元亀2年11月|里見義弘・正木時茂、下総小弓城を攻略/千葉胤富の軍と合戦
1571年11月24日-09:00|日本| ||元亀2年11月8日|武田信玄、御岳城を北条氏に返還
1571年12月6日-09:00|日本| ||元亀2年11月20日|肝付・禰寝・伊地知連合軍、海上より100余捜の軍船で鹿児島を
攻めるが失敗
1571年12月19日-09:00|日本| ||元亀2年12月3日|武田信玄、武蔵に入り北条氏邦と戦
1572年-08:00|フィリピン/メキシコ| |||フィリピンとアカプルコ間の太平洋ガレオン貿易が開始
1572年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第5代国王ラジャ・パティク・シアム(~1573年)
1572年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王セーン・スリンタルサイ王(~1574年)
1572年-04:00|ロシア| |||<即位>スルツク公(オレリコ家)アレクサンドラス・オレルカイティス(~1592年)、ヨナス・シモナス・オレルカイティス(~1591年)、ユリ
ウス・オレルカイティスの兄弟で分割相続(~1586年)
1572年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ナバラ王(アルブレ家)エンリケ3世(フランス王アンリ4世)(~1610年)ウルヘル司教(ブ
ルボン家)ヨアン・ディマス・ロリス(~1576年)
1572年-01:00|スペイン| |||<即位>ナブラ王国(ブルボン家)国王エンリケ3世[アントニオとフアナ3世の男子](~16100314,死去57歳
)
1572年 05:00|コロンビア| |||ボゴタ大学創立
1572年 05:00|ペルー| |||リマにサンマルコス大学創立
1572年1月-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王シュリーランガ1世(~1586年)
1572年1月4日-09:00|日本| ||元亀2年12月19日|筒井順慶(筒井)、大和国十市郷へ総攻撃を仕掛ける
1572年1月10日-05:30|インド| |||ムガル帝国アクバルがグジャラート地方を征服
1572年1月10日-01:00|デンマーク| |||チコ・ブラーエがカシオペア座に超新星を発見
1572年1月12日-09:00|日本| ||元亀2年12月27日|北条氏政、武田信玄と同盟を締結(甲相同盟)北條氏政は上杉
謙信と断交
1572年1月12日-09:00|日本| ||元亀2年12月27日|毛利元就により厳島神社本社本殿が造替され、遷宮の儀が行
われる/広島県
1572年1月15日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・洪福1年|大越後黎朝3代・英宗が洪福と改元(-1573)
1572年1月20日-01:00|オランダ/スペイン| |||オランダ独立戦争でスペイン軍が反撃を開始し、レイデンで攻防戦
1572年1月23日-09:00|日本| ||元亀3年1月9日|佐竹義重、下野國那須の各地を討取
1572年1月29日-09:00|日本| ||元亀3年1月15日|宇都宮広綱の病に乗じ、皆川心鉄斎(俊宗)、宇都宮城入り家政
の実権を握る
1572年2月7日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王ファラン(~15930704)
1572年2月14日-09:00|日本| ||元亀3年閏1月|北条氏政の命を受けて小山秀綱(弾正少弼)を討つべく、小山祇園
城に北条氏邦(新六郎)・太田氏房(十郎)の軍勢を派遣したが落とせず
1572年2月14日-08:00|中国| ||明・隆慶6年2月|明が広東恵州・潮州の倭寇に通じる盗賊藍一清・頼元爵の反乱に
対して軍隊を派遣征伐
1572年2月15日-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王イーアン3世(~15740611)
1572年2月16日-09:00|日本| ||元亀3年閏1月03日|上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し城郭を破却
1572年2月16日-09:00|日本| ||元亀3年閏1月3日|上杉謙信、利根川の対陣 武田・北条軍と勝敗つかず
1572年2月29日-09:00|日本| ||元亀3年閏1月16日|明智光秀が近江坂本城を築く
1572年3月4日-09:00|日本| ||元亀3年閏1月20日|大地震。死者多数
1572年3月14日-09:00|日本| ||元亀3年2月|上杉謙信が常陸国の佐竹義重と和平
1572年3月14日-09:00|日本| ||元亀3年2月|島津将兵が境、二河で肝付軍を破った
1572年4月1日-01:00|オランダ| |||オランダ独立戦争/反スペインの軍事集団ゼー・ゴイセンがブリーレを攻略
1572年4月13日-09:00|日本| ||元亀3年3月|常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経が小田原の北條氏政と和平
1572年4月13日-09:00|日本| ||元亀3年3月|真田幸隆、計略で上野白井城を攻略
1572年4月13日-09:00|日本| ||元亀3年3月|南部晴政、陸奥瀬多田石隠岐に大浦為信の征伐を命ずるが、乳井で
1600迄(3010件)
敗れる(高畑城の戦い
1572年4月15日-09:00|日本| ||元亀3年3月03日|南部晴政、信直を陸奥川守田毘沙門堂に急襲するも、逆に晴政
が信直に敗北
1572年4月17日-09:00|日本| ||元亀3年3月5日|信長、5万の大兵を動員、小谷城(浅井長政)を攻撃
1572年4月19日-09:00|日本| ||元亀3年3月7日|織田信長:小谷城と山本山の間に陣を布き,余呉・木之本まで出
兵して放火
1572年4月23日-09:00|日本| ||元亀3年3月11日|織田信長が近江和邇に布陣し六角氏残党を掃討、木戸・田中城
に追い込む/砦を作り,明智光秀・中川重政・丹羽長秀を置いた
1572年4月28日-09:00|日本| ||元亀3年3月16日|順慶が箸尾為綱・岡某とともに各地で久秀方と戦う
1572年5月-01:00|スペイン/ペルー| |||インカ帝国最後の拠点のビルカバンバがスペイン軍に占領される
1572年5月1日-01:00|バチカン| |||224代ローマ教皇ピウス5世死去/68歳(誕生:15040117)。エリザベス女王を排斥した
1572年5月1日-09:00|日本| ||元亀3年3月19日|武田信玄、徳川家康、三方ヶ原で決戦/散々に敗れ、浜松城に逃げ
込
1572年5月12日-09:00|日本| ||元亀3年4月|伊予・西園寺公広、一条兼定を攻撃/大友宗麟、佐伯惟教を遣わし、西
園寺属城・黒瀬城・飯森城を攻撃し公広を降す
1572年5月13日-09:00|日本| ||元亀3年4月2日|龍造寺隆信が養父郡朝日山・勝尾両城を攻略、筑紫広門は降伏
1572年5月25日-01:00|バチカン| |||225代教皇グレゴリオ十三世(-1585年4月10日)
1572年5月26日-09:00|日本| ||元亀3年4月15日|比叡山衆徒・近江高嶋郡伊黒城主新庄俊長(放泉坊)が降伏する
が浅井長政に攻め滅ぼされる
1572年5月27日-09:00|日本| ||元亀3年4月16日|佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政
・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら2万余の軍勢、河州表へ出陣/松永久秀の軍勢を河内国河内郡騎西城で攻撃
1572年5月27日-09:00|日本| ||元亀3年4月16日|三好義継が松永久秀・松永久通と示し合わせ、高屋城の畠山昭
高の家臣を河内交野城に攻めた/信長が交野救援の兵を差し向けると松永久秀は信貴山に退いた
1572年6月8日-09:00|日本| ||元亀3年4月28日|大和国「ツタノ付城」陥落
1572年6月9日-09:00|日本| ||元亀3年4月29日|大安寺の門付近で多聞山衆(松永久通麾下)と筒井衆が戦う
1572年6月10日-08:00|中国| ||明・隆慶6年5月|明13代皇帝穆宗隆慶帝が急死
1572年6月11日-09:00|日本| ||元亀3年5月|越中・一向宗門徒、富山城を攻略
1572年6月13日-09:00|日本| ||元亀3年5月3日|日向の伊東軍が肥沃な真幸院奪取をもくろみ、三千の兵で侵攻/
伊東軍は、加久籐城攻めに失敗し、飯野川を渡って池島方面へ退却/伊東加賀守祐安は絶命
1572年6月14日-09:00|日本| ||元亀3年5月4日|伊東軍勢、伊東加賀守、伊東新次郎、伊東又次郎、伊東修理亮の4
人を大将に任じ飯野・加久藤地方の島津陣営を攻撃/初戦に勝利したが大敗/木崎原合戦
1572年6月18日-09:00|日本| ||元亀3年5月8日|足利義昭、光浄院暹慶(後に還俗し山岡景友)を上山城半国守護
に補任
1572年6月19日-09:00|日本| ||元亀3年5月9日|織田軍(尾張衆)、大和国「大黒カ尾」から多聞山城の北側まで包
囲/午刻に松永久秀の多聞山城に攻撃を仕掛ける
1572年6月24日 05:00|ペルー| |||トゥパク・アマル,ビルカバンバ峡谷のコヤオ・チャカで副王軍と対決敗れる/トゥパクは逃亡中をオ
ンコイ付近で捕らえられる
1572年7月2日-09:00|日本| ||元亀3年5月22日|北條氏政が大形郷仁江戸に於て多賀谷政経と戰ったが大敗北
1572年7月10日-08:00|中国| ||明・隆慶6年6月|明14代・神宗万暦帝が即位(-1620)
1572年7月17日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<死去>ポーランド・リトアニア共和国君主ジギスムント2世/51歳(誕生:15200801)
ヤギェウォ朝が終る
1572年7月21日-09:00|日本| ||元亀3年6月12日|尼子残党の山中幸盛、因幡国甑山城に侵攻し武田高信に勝利
1572年7月24日-09:00|日本| ||元亀3年6月15日|上杉謙信の武将鯵坂長実・山本寺定長らが加賀・越中の一向一
揆と戦って敗れる
1572年7月29日 00:00|イギリス/キューバ| |||ドレイクがノンブレ・デ・ディオス港を襲撃
1572年7月29日 05:00|パナマ| |||ドレイク,パナマへの第一回攻撃.ノンブレ・ディオスを奇襲.一時町を占拠
1572年7月30日-09:00|日本| ||元亀3年6月21日|那須資胤の娘を佐竹義重の嫡子義宣の妻とする事を條件に両
家の講和が成立
1572年8月9日-09:00|日本| ||元亀3年7月|佐竹義重、陸奥寺山城に在陣し、葦名盛氏/結城義親/田村清顕と戦い
、後に和睦
1572年8月9日-09:00|日本| ||元亀3年7月|肥前の大村純忠は深堀純賢と図った西郷純堯からの攻撃を受けた/
このとき、深堀純賢は長崎氏を攻撃
1572年8月23日-01:00|フランス| |||新教徒の弾圧「聖バルテルミーの虐殺」が始る。メディチ家出身のカトリーヌがユグノー派貴族を
殺害。第4次ユグノー戦争開始
1572年8月24日-09:00|日本| ||元亀3年7月16日|<上桜城合戦>篠原長房、三好長治に攻められて討死
1572年8月25日-01:00|フランス| |||「聖バルテルミーの虐殺」の3日目/カトリーヌ・ドゥ・メディチに殺されたユグノー貴族たちの数は
2万とも10万ともいわれる
1572年8月27日-09:00|日本| ||元亀3年7月19日|織田信長・織田信忠、近江国小谷城攻め/佐久間信盛・柴田勝家・
木下秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆に城下を蹂躙させる
1572年8月30日-09:00|日本| ||元亀3年7月22日|木下秀吉、近江国山本山城の阿閉貞征攻撃/城より足軽100騎余
が出撃、木下秀吉がこれを撃破し敵首50余を討取
1572年8月31日-09:00|日本| ||元亀3年7月23日|織田信長、近江国・越前国境の与語・木本地蔵坊中など「堂塔伽
1600迄(3010件)
藍名所旧跡一宇」を残らず焼き払う
1572年9月1日-09:00|日本| ||元亀3年7月24日|織田軍、草野谷に放火、大吉寺を攻め、海津浦・鹽津浦・余呉入海
沿岸を焼き払い、竹生嶋を攻める
1572年9月1日-09:00|日本| ||元亀3年7月24日|木下秀吉・丹羽長秀、織田信長の命令を受けて共に近江国草野谷
に放火、大吉寺に於いて敵勢「一揆僧俗」を殲滅;林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫次郎・居
初又二郎、織田信長の命令を受けて「囲舟」を建造し、近江国海津浦・塩津浦・与語入海・江北の敵地を焼き払い、
竹生島に停泊し「火屋」・「大筒」・「鉄炮」を以て一揆勢を殲滅
1572年9月6日-09:00|日本| ||元亀3年7月29日|朝倉軍が小谷に到着し大獄に設陣/大獄を攻める
1572年9月8日-09:00|日本| ||元亀3年8月|因幡鳥取城主武田高信が但馬阿勢井城を攻めるも、嫡子武田又太郎、
一族および部将格の兵を多く失う
1572年9月8日-09:00|日本| ||元亀3年8月|速水勝太守久・蜂須賀彦右衞門正勝の画策で近江速水城の渡邊周防
が降伏
1572年9月8日-09:00|日本| ||元亀3年8月|武田信玄、飛騨諏訪城を攻撃し、城主江間輝盛は逃亡
1572年9月8日-09:00|日本| ||元亀3年8月|北条氏政は羽生城を攻める
1572年9月8日-09:00|日本| ||元亀3年8月01日|山中鹿之助が但馬亡命中の山名豊国を助け、鳥取城主に返り咲
かせる
1572年9月15日-09:00|日本| ||元亀3年8月8日|朝倉勢の中から前波吉継父子が信長に降った
1572年9月16日-09:00|日本| ||元亀3年8月9日|朝倉勢の中から越前府中城主富田長秀(長繁)・戸田與次・毛屋猪
介が信長に降った
1572年9月24日 05:00|ペルー| |||インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマル1世がクスコで斬首刑/インカ帝国の最終的崩壊
1572年9月25日-01:00|クロアチア| |||<即位>クロアチア王(ハプスブルグ家)ルドルフ1世(~16080626)
1572年9月25日-09:00|日本| ||元亀3年8月18日|<摂津中嶋城合戦>細川昭元、三好・松永連合の攻撃を撃退
1572年9月25日-09:00|日本| ||元亀3年8月18日|上杉謙信が、一向一揆平定のため越中へ進軍して新庄城へ入り
、ついで富山城を攻めるが勝敗つかず
1572年9月25日-09:00|日本| ||元亀3年8月18日|石山本願寺の下間頼資や下間頼廉らが、三好義継とともに、200
00の兵で織田方の細川信良の守る摂津中島城を攻めて、城下に放火.織田方は多くの死傷者を出す
1572年9月26日-09:00|日本| ||元亀3年8月19日|柳本城において森本左京が自害、伊源二郎らが捕らえられる
1572年10月7日-09:00|日本| ||元亀3年9月|佐竹義重、陸奥赤館を攻めるも、結城義親/葦名盛氏に破れる
1572年10月24日-09:00|日本| ||元亀3年9月18日|上杉謙信、滝山城(富崎城)攻略/越中一向一揆に対し勝利
1572年11月-05:30|インド| |||アクバル、アムダーバードに入城しグジャラート地方征服
1572年11月1日-09:00|日本| ||元亀3年9月26日|島津歳久を大将に、禰寝氏領の小浜古塁を攻め落とす
1572年11月6日-09:00|日本| ||元亀3年10月|毛利輝元、浦上宗景、宇喜多直家と和睦
1572年11月6日-09:00|日本| ||元亀3年10月1日|加賀・越中の一向宗徒が蜂起して越中を攪乱、上杉謙信が富山
城を落としこれに対抗
1572年11月11日-01:00|デンマーク| |||デンマークの天文学者ティコ・ブラーエが、カシオペア座の中に新星を発見(超新星の大爆
発と考えられている)
1572年11月14日-09:00|日本| ||元亀3年10月10日|武田信玄が家康方遠江飯田城を落とす
1572年11月15日-09:00|日本| ||元亀3年10月10日|武田信玄が信濃と遠江の国境の青崩峠を越え、家康の支城二
俣城を攻める
1572年11月17日-09:00|日本| ||元亀3年10月12日|武田信玄軍、馬場信春、只来城を攻略/本隊は徳川家康方の天
方城、飯田城、各輪城を攻略
1572年11月18日-09:00|日本| ||元亀3年10月13日|武田信玄、遠江に侵入/徳川家康が三千の兵をもって威力偵
察させるが、一言坂で小競り合いとなり退却
1572年11月21日-09:00|日本| ||元亀3年10月16日|遠江・武田勝頼、二俣城を攻略
1572年12月 05:00|パナマ| |||ドレイクの一行に伝染病流行.28人が死亡
1572年12月1日-09:00|日本| ||元亀3年10月26日|秋山信友が岩村の大円寺住職希庵を暗殺
1572年12月5日-09:00|日本| ||元亀3年11月|三好三人衆に味方していた淡路の安宅信康が足利義昭に降り,信
長からも許された
1572年12月7日-09:00|日本| ||元亀3年11月3日|羽柴秀吉、近江国虎御前山城に攻撃を仕掛けてきた浅井七郎を
先鋒とする浅井・朝倉連合軍を撃退
1572年12月18日-09:00|日本| ||元亀3年11月14日|武田信玄部将の秋山信友が岩村城を攻略
1572年12月24日-09:00|日本| ||元亀3年11月20日|上杉謙信が織田信長と同盟を結んで武田信玄を牽制/北陸に
転じて越中一向一揆勢力と戦う
1572年12月26日-09:00|日本| ||元亀3年11月22日|松永軍、大和国多聞山城より出撃し今市を放火す/筒井順慶
軍(筒井衆)が撃退したが、少々の損害を受けた
1572年12月31日-09:00|日本| ||元亀3年11月27日|武田勝頼ら遠江国二俣城を陥落さす
1573年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第6代国王スルタン・バードゥル・シャー(~1584年)
1573年-01:00|ドイツ| |||<就任>オルデンブルク伯(オルデンブルク家)ヨハン7世(~1603年)
1573年-01:00|チュニジア| |||<即位>ハフス朝第28代国王ムハンマド7世(~1574年)
1573年-01:00|イタリア/トルコ| |||オスマン朝がヴェネチアと和平協定を締結
1573年 06:00|ホンジュラス| |||コマヤグアがホンジュラスの首都となる
1573年 06:00|コスタリカ/グアテマラ/ニカラグア| |||ニカラグア,コスタリカ,グアテマラ総督領に編入
1600迄(3010件)
1573年1月4日-09:00|日本| ||元亀3年12月|佐竹義重、皆川領に進出し、那須/小山/結城/田村等が加勢
1573年1月6日-09:00|日本| ||元亀3年12月03日|朝倉義景、近江国より撤退
1573年1月22日-09:00|日本| ||元亀3年12月19日|武田勝頼が遠江二俣城を水の手を断って落とす
1573年1月23日-09:00|日本| ||元亀3年12月20日|香西元成らの三好三人衆・松永勢と門徒衆が、織田方の細川信
良が守る摂津中島城に攻め寄せるが撃退
1573年1月25日-09:00|日本| ||元亀3年12月22日|武田信玄、遠江三方ヶ原で徳川家康と織田援軍をり、家康は命
辛々浜松城に逃げ込む.徳川方の討死300.織田信長方の武将平手汎秀が討死
1573年1月29日-09:00|日本| ||元亀3年12月26日|下野・北条氏政、下野侵入するが、宇都宮氏これを撃退
1573年1月29日-09:00|日本| ||元亀3年12月26日|佐竹義重、那須資胤、小山高朝、結城晴朝、田村清顯等が小田原
方の下野国皆川城主皆川山城守廣照を攻める(-4年2月13日)
1573年1月30日-09:00|日本| ||元亀3年12月27日|<上村合戦>武田家部将の秋山信友、遠山残党に勝利
1573年2月 05:00|パナマ| |||ドレイクら18名,シマロンの協力を得て「王道」の要衝クルセスに達し財宝の奪取を試みるが失
敗/そのあとノンブレ・デ・ディオス近くで二度目の襲撃に成功
1573年2月1日-09:00|日本| ||元亀3年12月29日|小田原城主北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田中務大輔晴
助を攻め、更に下野国の多功原に於て佐竹義重、宇都宮廣綱らと戰ったが敗北し、佐竹義重は皆川領の深沢、南
摩の十一ヶ城を攻略し皆川城を裸城にして残した
1573年2月2日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・嘉泰1年|後黎朝4代・世宗が即位(-1599)嘉泰と改元(-1577)
1573年2月2日-08:00|中国| ||明・万暦1年1月1日|明・万暦と改元
1573年2月8日-09:00|日本| ||元亀4年1月6日以降|肝付兼亮、島津方の北郷時久を大隅末吉城に攻撃し敗れる
1573年2月10日-09:00|日本| ||元亀4年1月08日|松永久秀、織田信長に「不動国行」を献上し恭順
1573年2月14日-09:00|日本| ||元亀4年1月12日|小田勢は小田城を取り戻す
1573年2月28日-09:00|日本| ||元亀4年1月26日|信長、柴田勝家、明智光秀に命じ、足利義昭が砦を築いた石山を
攻めさせ勝利
1573年3月4日-09:00|日本| ||元亀4年2月|肝付省均、島津氏に対して謀反し独立
1573年3月4日-09:00|日本| ||元亀4年2月|氏繁、羽生・深谷両城を攻める
1573年3月6日-09:00|日本| ||元亀4年2月3日|武田信玄、野田城の菅沼定盈を降す
1573年3月7日-01:00|イタリア/キプロス/トルコ| |||コンスタンチノープルの和約が結ばれ、ヴェネツィアがキプロスをトルコに割譲
1573年3月9日-09:00|日本| ||元亀4年2月06日|山本久政、北山城で蜂起.磯谷、渡辺らもこれに参加
1573年3月10日-09:00|日本| ||元亀4年2月7日|太田城主佐竹義重は下妻城主多賀谷修理大夫政経に命じ、政経
は筑波郡上大島城主平塚周防守を夜襲して討取り攻略
1573年3月10日-09:00|日本| ||元亀4年2月07日|武田信玄、徳川方菅沼定盈・松平忠正の拠る三河野田城を落と
す
1573年3月16日-09:00|日本| ||元亀4年2月13日|佐竹義重、下野深沢城(皆川広照)を攻略
1573年3月18日-09:00|日本| ||元亀4年2月15日|<野田城合戦>武田信玄、菅沼定盈の守る三河野田城を陥れる
1573年3月23日-09:00|日本| ||元亀4年2月20日|光浄院暹慶、一向衆徒を糾合して、近江石山・堅田で蜂起
1573年3月29日-09:00|日本| ||元亀4年2月26日|<近江石山城合戦>柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、足
利義昭与党の籠もる近江国石山城を攻略、破却す
1573年3月29日-09:00|日本| ||元亀4年2月26日|将軍足利義昭が、浅井長政・朝倉義景・武田信玄らと信長打倒を
画策し挙兵
1573年3月30日-09:00|日本| ||元亀4年2月27日|三好義継・松永久秀、攝津中島で細川昭元を破り、昭元堺に敗走
1573年3月30日-09:00|日本| ||元亀4年2月27日|沼尻家忠は筑波郡上大島城の多賀谷勢を攻め破って攻略し、多
賀谷勢は下館方面に逃れ、沼尻が上大島郡を取り戻した
1573年4月1日 04:00|ボリビア/ペルー| |||ペルー副王のトレドがミタ労働令を発し、ポトシで強制労働が導入
1573年4月1日-09:00|日本| ||元亀4年2月29日|<今堅田城合戦>織田信長の命令を受けた柴田勝家・明智光秀・丹
羽長秀・蜂屋頼隆、辰刻に近江国今堅田城への攻撃を開始.明智光秀、近江国今堅田城を攻略
1573年4月2日-09:00|日本| ||元亀4年3月|葛西晴信、大崎義隆を破って陸奥岩ヶ崎城を落とし、栗原郡を制
1573年4月2日-09:00|日本| ||元亀4年3月|白井城が上杉軍に奪われる/真田幸隆、上野で上杉方と戦う
1573年4月3日-09:00|日本| ||元亀4年3月2日|草野城は、龍造寺隆信率いる5400騎に取り囲まれ/龍造寺は敗走
1573年4月6日-09:00|日本| ||元亀4年3月5日|越中・一向一揆勢、椎名康胤が再び背く/謙信は再び越中に入り富
山城を攻略
1573年4月7日-09:00|日本| ||元亀4年3月6日|高槻城で謀反.高山重友、幕府派の和田惟長を追放
1573年4月7日-09:00|日本| ||元亀4年3月6日|将軍義昭が三好三人衆・松永久秀らと通じ、信長の人質を返して
講和申請を拒否、宣戦布告
1573年4月10日-09:00|日本| ||元亀4年3月09日|武田信玄、三河鳳来寺から信濃に退却
1573年4月13日-09:00|日本| ||元亀4年3月12日|金山城・由良国繁、桐生氏の内紛に乗じ、桐生城を攻略
1573年4月14日-09:00|日本| ||元亀4年3月13日|摂津池田城主・池田知正が京都八条に出陣、東寺衆徒と争う
1573年4月26日-09:00|日本| ||元亀4年3月25日|真壁入道道夢は筑波郡に侵入し小田城を襲い城内に乱入、小田
天菴は小田城に引き返せず新治郡の藤沢城に入り、小田守治も木田余城に入り、太田三楽斉は小田城を攻略
1573年4月27日-09:00|日本| ||元亀4年3月26日|将軍が大野原神社社務長澤市介を殺す
1573年4月30日-09:00|日本| ||元亀4年3月29日|荒木村重は信長から「摂津守」の官位を受けて摂津郡の統治委
任(守護職)を受ける
1573年5月2日-09:00|日本| ||元亀4年4月|越中・上杉謙信、富山城を奪回
1600迄(3010件)
1573年5月8日-09:00|日本| ||元亀4年4月7日|二条第に正親町天皇の勅命で、将軍足利義昭と織田信長が和睦
1573年5月9日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国君主(ヴァロワ家)ヘンリク・ヴァレジ[フランス王シャルル9
世の弟]初の国王選挙で選ばれる(~15750512王座を捨てフランスに逃亡アンリ3世として即位)
1573年5月9日-09:00|日本| ||元亀4年4月8日|織田信長:百濟寺に滞在、六角承禎の鯰江城を包囲
1573年5月12日-09:00|日本| ||元亀4年4月11日|織田信長、近江国百済寺を灰燼に帰させる
1573年5月13日-09:00|日本| ||元亀4年4月12日|甲斐守護武田信玄は長篠城に1ヵ月ほど滞在していたが、帰国
の途中、長野県の駒場で病死/53歳(誕生:大永1(1521)1103)勝頼が嗣ぐ
1573年5月14日-09:00|日本| ||元亀4年4月13日|美濃国の吉村源介・吉村安実、足利義昭に呼応した江南表の一
揆を撃破
1573年6月8日-09:00|日本| ||元亀4年5月9日|徳川軍が大井川を越え駿河に侵攻、岡部に放火
1573年6月28日-09:00|日本| ||元亀4年5月29日|柴田勝家,木下秀吉が小谷城を攻めて撃退された/長嶋一向宗
徒が濃尾国境を放火
1573年7月7日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでユダヤ人追放令撤回
1573年7月11日-01:00|フランス| |||ブローニュの和議で、第4次ユグノー戦争が終結
1573年7月13日-01:00|スペイン| |||スペインのフィリペ2世が発見と征服統制法を公布
1573年7月23日-09:00|日本| ||元亀4年6月25日|遊佐信教(畠山昭高老臣)、畠山昭高(河内守護・河内国高屋城主
)を弑逆.三好康長、入城
1573年7月29日-09:00|日本| ||元亀4・天正1年7月|謙信は椎名康胤、神保長職を討伐して越中を平定
1573年7月29日-09:00|日本| ||元亀4・天正1年7月|佐竹義重は再び小田氏治と戦って、その支城の宍倉城(菅谷
隠岐守勝則)を攻略
1573年7月29日-09:00|日本| ||元亀4・天正1年7月|佐竹義重は宍倉城主菅谷隠岐守勝則を攻め破り、菅谷は人質
を差出して降服
1573年7月31日-09:00|日本| ||元亀4年7月3日|将軍足利義昭が宇治の槙島城にたてこもり、再挙
1573年8月2日-09:00|日本| ||元亀4年7月05日|織田信長、「事も生便敷大船」を完成させる
1573年8月4日-09:00|日本| ||元亀4年7月7日|織田信長:入京、二條妙覺寺を本陣に二條城(三淵藤英)を包囲陥
落させる<二条御所合戦>
1573年8月7日-09:00|日本| ||元亀4年7月10日|細川藤孝が山城国桂川以西(西岡)の支配権を与えられた
1573年8月9日-09:00|日本| ||元亀4年7月12日|織田信長、京都二条城を破却
1573年8月13日-09:00|日本| ||元亀4年7月16日|阿波・篠原長房、上桜城で三好長治に攻撃され敗死
1573年8月15日-09:00|日本| ||元亀4年7月18日|<槇島城合戦>将軍足利義昭、織田信長に降伏.追放/240年の室
町幕府が滅亡
1573年8月20日-09:00|日本| ||元亀4年7月23日|渡辺宮内少輔、稲葉一鉄の勧降により山城国愛宕郡一乗寺城を
退城/一乗寺城は破却
1573年8月21日-09:00|日本| ||元亀4年7月24日|島津軍、肝付氏と早崎で合戦
1573年8月24日-09:00|日本| ||元亀4年7月27日|織田信長、京都を発し近江国高島郡へ「大船」を以て参陣/残敵
の籠もる近江国木戸城・田中城を占領
1573年8月25日-09:00|日本| ||天正1年7月28日|この日、「天正」と改元される
1573年8月25日-09:00|日本| ||天正1年7月28日|織田信長、村井貞勝を山城・京都所司代とする
1573年8月26日-09:00|日本| ||天正1年7月29日|織田信長:将軍方の丹波船井郡八木城主内藤如安忠俊(ドン=ジュ
アン)の所領を没収
1573年8月28日-09:00|日本| ||天正1年8月|高山右近高槻城主となる
1573年8月28日-09:00|日本| ||天正1年8月|山本山の阿閉貞征が速水城を開城し秀吉に降参
1573年8月28日-09:00|日本| ||天正1年8月|武田勝頼は武田信豊・土屋昌続らを三河に、山県昌景・穴山信君・武
田信廉らを北遠江へ侵攻させるが、遠江国森で信廉軍が徳川軍の伏兵に遭って、敗退
1573年8月28日-09:00|日本| ||天正1年8月01日|因幡・山中幸盛、因幡守護山名豊国とともに武田高信を攻撃、居
城・鳥取城を山名豊国が奪回
1573年8月29日-09:00|日本| ||天正1年8月2日|山城・長岡(細川)藤孝・三淵藤英、淀城(石成友通)を攻略
1573年9月-05:30|インド| |||ムガル帝国アクバルがグジャラート地方の反乱を平定
1573年9月4日-09:00|日本| ||天正1年8月8日|織田信長:浅井家臣山本山城主阿閉淡路守貞征の内通を受け、岐
阜を出陣、月ヶ瀬城を陥す
1573年9月6日-09:00|日本| ||天正1年8月10日|上杉謙信が朝日山城攻略/越中一向一揆を平定
1573年9月8日-09:00|日本| ||天正1年8月12日|小谷城焼尾丸の守将が浅井から寝返り織田軍を引き入れた。そ
の夜中に大獄を攻め落とし,丁野(湖北町)を攻めて,朝倉の将兵を放逐
1573年9月9日-09:00|日本| ||天正1年8月13日|織田信長、この夜中に朝倉義景(朝倉左京大夫)の陣所を攻撃/朝
倉義景、若狭国敦賀に向けて敗走
1573年9月10日-09:00|日本| ||天正1年8月14日|兼松正吉(織田信長部将)、中村新兵衛(朝倉義景部将)を越前国
八田口刀根山に於いて討ち取る
1573年9月11日-09:00|日本| ||天正1年8月15日|小田天菴は菅谷左ヱ門尉範政(正光)に命じ土浦城主信田和泉
守重成を手賀郷の中根主膳の邸に誘ひ出して毒殺、土浦城を攻略し、菅谷正光が土浦城に入城
1573年9月13日-09:00|日本| ||天正1年8月17日|織田信長、木目峠を越えて越前国へ乱入
1573年9月17日-09:00|日本| ||天正1年8月21日|朝倉義景、大野郡山田荘の六坊賢松寺で自害/41歳(誕生:天文2
(1533)0924)朝倉家滅亡
1600迄(3010件)
1573年9月20日-09:00|日本| ||天正1年8月24日|織田信長:中嶋宗左衞門尉直親の近江丁野城を陥す
1573年9月21日-09:00|日本| ||天正1年8月25日|佐竹義重は小田氏治の支城の戸崎城(戸崎大膳亮長俊)を攻略
1573年9月23日-09:00|日本| ||天正1年8月27日|羽柴秀吉、小谷城京極丸を陥し、浅井久政自害
1573年9月24日-09:00|日本| ||天正1年8月28日|信長,京極丸に上り小谷城落城,浅井長政を攻めて自害させ,浅
井氏は滅亡-浅井氏の旧領は木下秀吉に与えられた
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年秋|宇喜多直家:備前沼城から岡山城に移る/次に秀家が嗣ぐ(-慶長5年)
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年秋|宇喜多直家が備前平野を流れる旭川沿いの石山に岡山城(烏城)築城
/岡山県
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年9月上|北条氏政、小山領淡志川城を攻めるが退けられる
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年9月|土佐・長宗我部元親、土佐国司一条兼定を出家させる
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年9月01日|丹羽長秀:若狭10万石を領治
1573年9月26日-09:00|日本| ||天正1年9月01日|木下秀吉を近江湖北三郡12万石に配置.武藤舜秀を越前敦賀郡
に配置.蜂屋頼隆を近江国肥田城に配置
1573年9月29日-09:00|日本| ||天正1年9月4日|織田信長:佐和山入城/柴田勝家に命じて鯰江城を攻めさせ城主
六角義治(義弼)降伏
1573年10月3日-09:00|日本| ||天正1年9月08日|徳川家康、武田勝頼に属す三河長篠城を陥れ城将室賀信俊は鳳
来寺に弄る
1573年10月5日-09:00|日本| ||天正1年9月10日|織田信長:かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を処刑
1573年10月16日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジアコモ・ドゥラッゾ・グリマルディ(~15751017)
1573年10月16日-09:00|日本| ||天正1年9月21日|北条氏政、下野鹿沼に出兵
1573年10月19日-09:00|日本| ||天正1年9月24日|伊勢・織田信長、長島願証寺を攻撃
1573年10月21日-09:00|日本| ||天正1年9月26日|織田信長:桑名の一向一揆に攻撃開始。西別所で多数の一揆を
討ち取った/また,坂井城(桑名市)の一揆敗退
1573年10月26日-09:00|日本| ||天正1年10月|京都静原山の山本対馬守が明智光秀により討ち取られた
1573年10月26日-09:00|日本| ||天正1年10月|武田勝頼、大軍を率いて遠江に侵入し、浜松城を窺う
1573年10月31日-09:00|日本| ||天正1年10月6日|柴田勝家・滝川一益、伊勢国坂井の片岡城を攻略
1573年10月31日-09:00|日本| ||天正1年10月6日|柴田勝家・滝川一益、伊勢国深谷部(桑名市)の近藤城陥落
1573年11月2日-09:00|日本| ||天正1年10月8日|信長,東別所へ移動。北伊勢の一揆をほぼ鎮圧した/白山(一志
郡白山)の中嶋将監が降伏
1573年11月14日-09:00|日本| ||天正1年10月20日|小田彦太郎守治は藤沢城外の太田三楽斉、梶原美濃守らの陣
営を夜討して破り小田城へ撃退し、土浦城では菅谷左ヱ門尉らが城外に於て北條出雲守、真壁道夢らと戰って
破る/太田三楽斉、梶原美濃守、真壁道夢、北條出雲守らは藤沢、土浦の戰いに敗北し小田、北條の両城に楯籠り/
小田守治は梶原景国、真壁道夢らと小田川に於て戰い、菅谷正光は君島川に於て北條治高と戰って之れを破る
1573年11月15日 03:00|アルゼンチン/パラグアイ| |||アスンシオン入植者のフアン・ド・ガライ,大西洋岸に向け探検.サンタフェの町を
建設
1573年11月15日-09:00|日本| ||天正1年10月21日|筒井氏の一族で画家・彫刻家として知られる山田道安が没す
/享年不詳
1573年11月18日-09:00|日本| ||天正1年10月24日|因幡・吉川元春、伯耆を経て因幡に入り、山名豊国を降す
1573年11月19日-09:00|日本| ||天正1年10月25日|信長が岐阜へ引き上げる途中,長嶋一向一揆の攻撃を受け,
かなりの損害を出して大垣城へ入った
1573年11月22日-09:00|日本| ||天正1年10月28日|佐竹義重は小田方の新治郡小高館主小月輝正、永井館主前野
七郎大夫、本郷館主井坂右近將監などを攻め破って攻略し一週して大志戸の甲山城主小神野越前守経憲を攻め
小神野経憲は甲山城を放棄して土浦城に脱出し甲山城は攻略された
1573年11月24日-08:00|中国| ||明・万暦1年11月|明の張居正が孝成法を制定し、綱紀粛正を図る
1573年11月25日-09:00|日本| ||天正1年11月|駿河・武田勝頼、駿河から遠州見附まで進出するも退く
1573年11月25日-09:00|日本| ||天正1年11月初旬|上杉謙信が関東に入り、上野国の新田、金山、猿窪などの諸城
を攻略
1573年11月25日-09:00|日本| ||天正1年11月初旬|北條氏政、氏照兄弟が下総国葛飾郡関宿城主簗田政信、綱政
父子を攻め、佐竹義重は武藏国の羽生に出陣し北條氏邦や北條氏規らと戰ったが敗北
1573年12月-01:00|ベルギー/スペイン| |||この月、オランダ総督アルバ公が独立運動の鎮圧に失敗して解任され、スペインに
召喚される/後任にドン・ルイ・レクエセンスが就任
1573年12月4日-09:00|日本| ||天正1年11月10日|信長が河内若江城に佐久間信盛を差し向け、三好義継を攻め
る
1573年12月10日-09:00|日本| ||天正1年11月16日|佐久間信盛が、若江城の三好義継を攻め滅ぼす
1573年12月10日-09:00|日本| ||天正1年11月16日|織田信長、浦上宗景に備前、美作、播磨を安堵
1573年12月12日-09:00|日本| ||天正1年11月18日|織田信長と石山本願寺、和睦
1573年12月13日-09:00|日本| ||天正1年11月19日|佐竹方の額田四郎義房、塩井内膳信行、太田資正入道三楽斉
道誉、梶原美濃守景国、北條出雲守治高、真壁久幹入道暗夜軒道夢等が新治郡の藤沢城を攻め攻略
1573年12月19日-09:00|日本| ||天正1年11月25日|小田天菴が新治郡の片野峠に押し寄せ、片野城主太田三楽斉
を攻めたが敗北して、小田城は太田三楽斉の爲めに攻略され、天菴は土浦城に退く
1573年12月24日-09:00|日本| ||天正1年12月|草野攻め/隆信が自ら兵を率いて上松浦に侵出した/龍造寺隆信
の大軍の前には鶴田前は屈服し、波多鎮は自ら軍を草野攻めに向けざるを得なかった
1600迄(3010件)
1574年-08:00|フィリピン| |||倭寇の巨頭林鳳がフィリピンのマニラを襲撃
1574年-07:00|ラオス/ミャンマー| |||ラーンサーン王国をタウングー王朝が支配(~1603年)
1574年-05:30|インド| |||ニザーム・シャーヒー朝がイマード・シャーヒー朝を併合
1574年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ペトル6世(~1577年)
1574年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(バサラブ朝)ヴィンティル→同年<再位>ワラキア公アレクサンドル2世ミーシャ[2度目](~1577
年)
1574年 00:00|モロッコ| |||<即位>サアド朝アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世(~1576年)
1574年1月5日-09:00|日本| ||天正1年12月13日|島津義久、大隅平小場に出陣。肝付氏、伊東氏と連合して根占に
出兵して合戦になる
1574年1月6日-09:00|日本| ||天正1年12月14日|島津軍、平常岡を攻め、肝付加賀、島津氏に降伏
1574年1月16日 03:00|ブラジル| |||ふたたび先住民奴隷化禁止令.バイアのポルトガル人は、北部海岸沿いに残存する
独立したトゥピナンバ族を掃討
1574年1月18日-09:00|日本| ||天正1年12月26日|松永久秀、多聞城落ち、信貴山城に入る
1574年1月21日-09:00|日本| ||天正1年12月29日|龍造寺は、再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した(平
原の合戦)
1574年1月23日-09:00|日本| ||天正2年|垂水において、伊地知氏・安楽氏降伏
1574年1月23日-09:00|日本| ||天正2年1月|出羽/最上義光、父義守・弟中野義時ら反義光派と戦う
1574年1月23日-09:00|日本| ||天正2年1月|龍造寺隆信、草野鎮永、原田氏を降伏させる
1574年2月7日 05:00|ペルー| |||トレドがペルーの鉱山開発に関する包括的政令を発する
1574年2月10日-09:00|日本| ||天正2年1月19日|越前に一向一揆勃発/越前守護代・府中城主前波長俊が富田長
繁に攻められ自害
1574年2月10日-09:00|日本| ||天正2年1月19日|島津軍、牛根城を攻める/伊東氏、伊東権頭を派遣し、肝付・伊地
知氏と連合して牛根城援軍に向かうが、敗北
1574年2月16日-09:00|日本| ||天正2年1月25日|<天正最上の乱>伊達家臣・小梁川盛宗が上山城を攻めると上山
満兼は伊達方に降伏
1574年2月18日-01:00|オランダ| |||ネーデルランド軍が、ゼーラントを占領
1574年2月18日-09:00|日本| ||天正2年1月27日|武田勝頼、東美濃岩村口に出陣し岩村城付城十八城を陥れる
1574年2月18日-09:00|日本| ||天正2年1月27日|武田勝頼、美濃国岩村へ侵攻/その後、美濃国明智城を攻撃
1574年2月22日-09:00|日本| ||天正2年2月|多賀谷政経が筑波郡の手子丸城を攻略
1574年2月22日-09:00|日本| ||天正2年2月|土佐・長宗我部元親、一条兼定を豊後追放して土佐をほぼ制圧/この
のち吉良親貞、中村に入る
1574年2月22日-09:00|日本| ||天正2年2月|能登守護・七尾城主畠山義慶が遊佐續光・温井景隆に謀殺される
1574年2月22日-09:00|日本| ||天正2年2月|肥前・龍造寺隆信、横辺田で後藤惟明・平井経治を破る
1574年2月23日-01:00|フランス| |||第5次ユグノー戦争が始まる
1574年2月23日-09:00|日本| ||天正2年2月02日|<天正最上の乱>村山地方の国人たちが伊達輝宗への忠義を示
すため攻めた最上義光に近い寒河江城主・寒河江兼広降伏
1574年2月27日-09:00|日本| ||天正2年2月6日|佐竹義重、白河義顕の支城陸奥赤館・本拠小峰城を攻撃
1574年2月28日-09:00|日本| ||天正2年2月07日|田村清顕、白石城を攻略
1574年2月28日-09:00|日本| ||天正2年2月07日|武田勝頼、織田方の属城の明智城などを攻落
1574年3月4日-09:00|日本| ||天正2年2月11日|十市遠長、大和国九条城を攻撃
1574年3月12日-09:00|日本| ||天正2年2月19日|一向宗が越前金津溝江館を陥し、溝江宗天・溝江長逸・小泉長利
・加賀守護富樫泰俊自害
1574年3月16日-09:00|日本| ||天正2年2月23日|十市遠長、内膳城を攻略し、城将の藤田左近以下7人の首を討ち
取る
1574年3月17日-09:00|日本| ||天正2年2月24日|<天正最上の乱>最上義光側が伊達氏北条荘(置賜郡川樋)を攻
め、目々沢丹後守等を打ち取る
1574年3月20日-09:00|日本| ||天正2年2月27日|下妻城主多賀谷修理大夫政経は小田氏の敗北に乗じて下総国
の豊田城主豊田安芸守四郎治親を攻略せんとするが豊田治親は之れを迎へ撃って多賀谷勢を破って撃退し多
賀谷政経は豊田治親に和談を申し込み互いに誓書を交換して和睦
1574年3月20日-09:00|日本| ||天正2年2月27日|佐竹勢が土浦城の総攻撃を開始/小田天菴、守治父子は城より
脱出して秘かに遁れ片岡治部左ヱ門の中館城に落ち行き土浦城は攻略さる
1574年3月21日-09:00|日本| ||天正2年2月28日|<天正最上の乱>最上義光と義守の間で和議がなり、北条荘の戦
いでの捕虜の解放及び楢下に出陣した義光側の手勢の退却
1574年3月21日-09:00|日本| ||天正2年2月28日|一向一揆勢、大野郡平泉寺を攻撃するが敗れる
1574年3月23日-09:00|日本| ||天正2年3月|北条氏繁羽生出陣、花崎城自落
1574年3月27日-09:00|日本| ||天正2年3月05日|武田信玄の父信虎、信濃国高遠で死去.81歳(信玄に追放されて
以降、甲斐国に戻ることはなかった)
1574年3月28日-09:00|日本| ||天正2年3月06日|佐竹義重、白川義親と和睦
1574年4月4日-09:00|日本| ||天正2年3月13日|上杉謙信、御覧田城(五乱田城)攻略/北条氏政軍に対し勝利
1574年4月4日-09:00|日本| ||天正2年3月13日|上杉謙信、山上城攻略/由良成繁軍に対し勝利
1574年4月4日-09:00|日本| ||天正2年3月13日|上杉謙信、女淵城攻略/沼田景義に対し勝利
1574年4月4日-09:00|日本| ||天正2年3月13日|上杉謙信、深沢城攻略/阿久沢兄弟に対し勝利
1600迄(3010件)
1574年4月4日-09:00|日本| ||天正2年3月13日|上杉謙信、膳山城攻略/由良成繁軍に対し勝利
1574年4月21日-01:00|イタリア| |||<死去>トスカーナ大公コジモ1世[1519年06月11日生~](享年54)→<即位>(メディチ家)フラ
ンチェスコ1世・デ・メディチ[コジモ1世の息子](~15871019死去)
1574年4月21日-09:00|日本| ||天正2年4月|<天正最上の乱>伊達輝宗の重臣伊達実元、畠山義継の陸奥八丁目城
を攻撃奪取
1574年4月21日-09:00|日本| ||天正2年4月|陸奥/葛西晴信、本吉重継の反乱を鎮圧す
1574年4月22日-09:00|日本| ||天正2年4月2日|本願寺顕如が信長打倒の兵をふたたび石山本願寺で挙げ中嶋堀
城を攻撃/三好康長と遊佐信教らがこれに呼応し、河内高屋城にこもる
1574年5月1日-09:00|日本| ||天正2年4月11日|武田家臣・天野景貫、犬居城に攻撃を仕掛けたの家康を破る
1574年5月2日-09:00|日本| ||天正2年4月12日|<第1次高屋城合戦>織田家部将の柴田勝家らが攻め遊佐信教が
討死
1574年5月3日-09:00|日本| ||天正2年4月13日|上杉謙信、金山城攻め/由良成繁と勝敗つかず
1574年5月3日-09:00|日本| ||天正2年4月13日|上杉謙信、利根川の対陣(大輪の陣)北条氏政と勝敗つかず
1574年5月3日-09:00|日本| ||天正2年4月13日|織田信長の武将佐久間信盛に攻められ、六角義賢・六角義治父子
、近江国石部城を脱出;織田信長、近江国石部城には佐久間信盛を配置
1574年5月5日-09:00|日本| ||天正2年4月15日|土橋信鏡(朝倉景鏡)、平泉寺で下間頼照に殺される
1574年5月9日-09:00|日本| ||天正2年4月19日|宇喜多直家、備前鯉山で浦上宗景を破る
1574年5月21日-09:00|日本| ||天正2年5月|織田家部将の塙直政を南山城に配置
1574年5月21日-09:00|日本| ||天正2年5月|織田家部将の伏見城から三淵藤英を更迭.伏見城廃城;槙嶋城から
細川信良を更迭
1574年5月21日-09:00|日本| ||天正2年5月|蘆名盛氏、田村清顕と陸奥安積郡福原で戦い八百人が討ち死にする
大敗
1574年5月30日-01:00|フランス| |||<死去>フランス国王シャルル9世/23歳(誕生:15500627)→<即位>(ヴァロワ=アングレーム家)アンリ
3世[アンリ2世の子フランソワ2世・シャルル9世の弟](~15890802)
1574年5月31日-09:00|日本| ||天正2年5月11日|最上義光、義守、義時の内紛に、伊達輝宗が介入して最上領に侵
入
1574年6月 03:00|アルゼンチン/ペルー| |||トレドがチャコのチリグアノ人討伐に出発
1574年6月8日-09:00|日本| ||天正2年5月19日|武田信玄に従っていた信濃の真田幸隆死去.62歳
1574年6月14日-09:00|日本| ||天正2年5月25日|上杉謙信が西上野の武田方属城を攻略、由良成繁・国繁と戦う
1574年7月5日-09:00|日本| ||天正2年6月17日|武田勝頼、小笠原長忠を追放し遠江国高天神城を陥落させる
1574年7月11日-09:00|日本| ||天正2年6月23日|後藤貴明と養子惟明の変起こり貴明住吉城に逃れる
1574年7月23日-09:00|日本| ||天正2年7月6日|織田信長:三淵藤英・三淵秋豪を自殺させる
1574年7月29日-09:00|日本| ||天正2年7月12日|織田信長が一向宗徒がたてこもる長島願証寺に対して攻撃を
開始
1574年7月31日-09:00|日本| ||天正2年7月14日|織田具豊旗下の九鬼宮内少輔嘉隆水軍が大嶋砦を猛攻、夜、篭
城軍が願証寺本陣へ退却
1574年8月1日-09:00|日本| ||天正2年7月15日|織田信長:殿名の伊藤屋敷付近に陣を張り、長嶋願証寺勢を長嶋
に追い込める
1574年8月6日-09:00|日本| ||天正2年7月20日|荒木村重・高山友祥、石山本願寺の出城である摂津国中島城を攻
撃し一向一揆を撃破
1574年8月13日-09:00|日本| ||天正2年7月27日|武蔵・上杉謙信、武蔵に入り、鉢形・松山・忍城を攻撃
1574年8月13日-09:00|日本| ||天正2年7月27日|北條氏政は下総国の関宿城主簗田晴助を攻め、弟の北條氏照を
して関宿の該城を攻めさせる
1574年8月14日-09:00|日本| ||天正2年7月28日|上杉勢が越中を制圧、加賀に兵を進める
1574年8月16日-09:00|日本| ||天正2年7月30日|細川藤孝、織田側の河内国若江城などに攻撃を仕掛けてきた遊
佐信教・三好康長らを撃
1574年8月17日-09:00|日本| ||天正2年8月|織田信長:羽柴秀吉と反目した近江鎌刃城主堀秀村を改易
1574年8月18日-09:00|日本| ||天正2年8月02日|織田信長軍、伊勢国大鳥居城を出た一揆勢1000人ばかりを殺害
、織田信昌死去
1574年8月24日-01:00|チュニジア/トルコ| |||オスマン朝エジプト総督がチュニスを再占領し、ハフス朝が滅亡
1574年8月28日-09:00|日本| ||天正2年8月12日|しのはせ(篠橋)陥落/籠城の一向宗徒は長嶋に合流
1574年8月29日-09:00|日本| ||天正2年8月13日|大浦為信、滝本重行の籠もる陸奥大光寺城を攻めるが、失敗
1574年9月2日-09:00|日本| ||天正2年8月17日|織田信長:越前木芽峠の守将樋口直房が出奔したので、羽柴秀吉
に命じて追手を出し関盛信に殺させる
1574年9月5日-09:00|日本| ||天正2年8月20日|葦名盛氏/大関高増等、佐竹義久を陸奥羽黒にて破る
1574年9月10日-09:00|日本| ||天正2年8月25日|佐竹義重は常陸国の小田氏治の属城である新治郡の宍倉城主
菅谷隠岐守勝則や戸崎城主戸崎大膳亮長俊らを攻める
1574年9月19日-09:00|日本| ||天正2年9月5日|上杉謙信、御覧田城攻略/北条氏政軍に対し勝利
1574年9月21日-09:00|日本| ||天正2年9月7日|佐竹義重が再び陸奥国の赤館城を攻める
1574年9月24日-09:00|日本| ||天正2年9月10日|<天正最上の乱>伊達輝宗と最上義光和議が成立
1574年9月28日-01:00|イタリア| |||<即位>ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ(~1621年)16310423死去
1574年10月1日-09:00|日本| ||天正2年9月17日|佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝ら、河内国へ進撃し飯盛城下に
1600迄(3010件)
於いて三好軍・一向一揆を撃破
1574年10月3日-09:00|日本| ||天正2年9月19日|佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝ら、河内国萱振砦を攻略
1574年10月6日-09:00|日本| ||天正2年9月22日|因幡・尼子勝久・山中幸盛、山名豊国に支援され、鳥取城を奪う
1574年10月7日-09:00|日本| ||天正2年9月23日|多賀谷政経が下総国岡田郡の花島に於て小田原の北條勢と戰
い、大生郷城を夜討して火を放ち北條左ヱ門佐氏尭を破って撃退し、猿島郡の弓田城主染谷民部を攻略して降
伏させる
1574年10月11日-09:00|日本| ||天正2年9月27日|上杉軍長尾憲景(白井城主)が由良成繁の金山城を攻める
1574年10月13日-09:00|日本| ||天正2年9月29日|停戦の和睦により長嶋を出る一向宗徒を織田軍が攻撃/反撃
を受け織田軍損害を蒙る.織田信広、織田秀成、平手久秀らが討死/長嶋城・中江城を火攻めにし一向宗信者を殲
滅
1574年10月14日-09:00|日本| ||天正2年秋|土佐・長宗我部元親、安芸郡東部の諸城を攻略
1574年10月15日-09:00|日本| ||天正2年10月|蟹江城主・滝川一益は長島城も与えられた
1574年10月15日-09:00|日本| ||天正2年10月|三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1574年10月15日-09:00|日本| ||天正2年10月|三好長治、三好越後守・篠原入道らに、大窪寺を越え香西の拠る勝
賀城を攻めさせるが、成功せず退く
1574年10月15日-09:00|日本| ||天正2年10月|平井経治は高城を囲んだ/高城にいた弟平井直秀は敗れて自害
1574年10月15日-08:00|中国| ||明・万暦2年10月|建州の女直が遼東に侵入し、遼東総兵官の李成梁に撃退され
る
1574年10月23日-09:00|日本| ||天正2年10月9日|宇都宮広綱が武田勝頼と下野金崎原で戦い勝利
1574年11月14日-09:00|日本| ||天正2年11月|佐竹義重が陸奥国白川城主白河上野介義親と和睦
1574年11月14日-09:00|日本| ||天正2年11月|上杉謙信、館林城攻め/長尾顕長と勝敗つかずる
1574年11月14日-09:00|日本| ||天正2年11月|上杉謙信、唐沢山城を攻める
1574年11月14日-09:00|日本| ||天正2年11月|織田信長:岡周防守国高の大和葛城郡岡城を焼き討ちにする
1574年11月16日-09:00|日本| ||天正2年11月3日|長宗我部元親、土佐白髪社を再建
1574年11月20日-09:00|日本| ||天正2年11月7日|上杉謙信、騎西城攻め/小田家時と勝敗つかず
1574年11月20日-09:00|日本| ||天正2年11月7日|上杉謙信、金山城攻め/由良成繁と勝敗つかず
1574年11月20日-09:00|日本| ||天正2年11月7日|上杉謙信、忍城攻め/成田長泰と勝敗つかず
1574年11月28日-09:00|日本| ||天正2年11月15日|荒木村重ら、織田信長に反乱した伊丹親興の摂津伊丹城を攻
め落とす
1574年12月12日-02:00|トルコ| |||<死去>オスマン朝スルタン:セリム2世/50歳(誕生:1524)
1574年12月22日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第12代ベイ:ムラト3世[セリム2世の息子](~15950116死去)
1575年-09:00|日本/フィリピン| |||フィリピン産の金が多量に日本へ輸入
1575年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第7代スルタン:サイフル・リジャル(~1600年)
1575年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ウォラ・ワンソー王(~1579年)
1575年1月1日-09:00|日本| ||天正2年閏11月19日|上杉謙信は自ら羽生城を破却し越後へと去っていった
1575年1月1日-09:00|日本| ||天正2年閏11月19日|北条氏政は弟・氏照と遠山政景を派遣し関宿城を攻め落とし
た/簗田氏は水海城にうつされた/北条が下総北部平定
1575年1月2日-09:00|日本| ||天正2年閏11月20日|備中松山城主三村元親が毛利氏に背いたため毛利輝元・小早
川隆景が出兵、備中小田に着陣
1575年1月7日-09:00|日本| ||天正2年閏11月25日|上杉謙信、古河城攻め/古河公方足利義氏と勝敗つかず
1575年1月12日-09:00|日本| ||天正2年12月|菅谷左ヱ門尉正光は牛久城主岡見治部大輔頼房、江戸崎の諸岡逸
羽、板橋の月岡大学、江戸崎城主土岐伊予守等の加勢を得て牛久より出陣し、土浦城を攻め破って再び之れを取
り戻す
1575年1月31日-09:00|日本| ||天正2年12月20日|竜造寺軍は高城を総攻撃/平井軍が敗北/平井経治は山中に逃
れ高城は落城
1575年2月11日-09:00|日本| ||天正3年1月1日|大浦為信、滝本重行が籠もる陸奥大光寺城を大雪の中奇襲し、こ
れを落と
1575年2月11日-09:00|日本| ||天正3年1月1日|毛利輝元・小早川隆景、三村政親の備中国吉城を攻め落とす
1575年2月14日-09:00|日本| ||天正3年1月04日|白河氏に内訌がおき、小峰義親は白河晴綱の七歳になる嫡子七
若丸(のちの義顕)を追放し白河家惣領の地位を得た
1575年2月21日-09:00|日本| ||天正3年1月11日|毛利輝元、但馬国の山名韶熙・山名氏政父子と和睦
1575年3月4日-09:00|日本| ||天正3年1月22日|宇喜多直家が浦上宗景に背き、宗景方三浦貞広と戦うが敗れる
1575年3月4日-09:00|日本| ||天正3年1月22日|大和国人「古市」某、筒井順慶の属城長井城を攻略/狭川衆6人が
討死
1575年3月10日-09:00|日本| ||天正3年1月28日|伊東義祐が海路より大隅櫛間・志布志を攻める
1575年3月13日-09:00|日本| ||天正3年2月|佐竹義重は白河領に再度侵攻し白河義親を捕らえ義親の弟善七郎(
義名)を名代とし白河氏を佐竹氏の旗下に組み込んだ
1575年3月30日-09:00|日本| ||天正3年2月18日|七里頼周の加賀一向宗軍が越前府中城の富田長繁を敗死させ
る
1575年4月 00:00|ポルトガル| |||ポルトガル,アルカサル・エル・キビールの戦闘で惨敗.国王ドン・セバスチアンは戦死
1575年4月11日-09:00|日本| ||天正3年3月|この月、長宗我部元親が土佐国崎浜の土寇を平定
1575年4月11日-09:00|日本| ||天正3年3月|佐竹義重/宇都宮広綱、足利義氏を通じて北条氏政に服属
1600迄(3010件)
1575年4月11日-09:00|日本| ||天正3年3月|龍造寺隆信、肥前・西島城(横岳鎮貞)を降す
1575年4月14日-09:00|日本| ||天正3年3月4日|伊達実元が陸奥二本松城主畠山義継攻撃をはかるが、蘆名盛隆
が調停に乗り出す
1575年4月18日-09:00|日本| ||天正3年3月8日|織田信長、三好康長を河内国高屋城に攻撃し、くだす
1575年4月23日-09:00|日本| ||天正3年3月13日|宇喜多直家の将大森義臣が浦上宗景の兵と備前辛川に戦う
1575年4月24日-09:00|日本| ||天正3年3月14日|信長、問跡や公家の債務に対し徳政令を出す
1575年4月30日-09:00|日本| ||天正3年3月20日|龍造寺隆信が三池鎮実の拠る三池城を攻め落とす
1575年5月3日-09:00|日本| ||天正3年3月23日|織田信長:多聞山城の柴田勝家を更迭、塙直政が大和国の守護に
任命される
1575年5月14日-09:00|日本| ||天正3年4月5日|徳川家康が武田勝頼に内通した家臣の大賀弥四郎を三河岡崎で
鋸引きの刑に処す
1575年5月17日-09:00|日本| ||天正3年4月8日|織田信長が三好康長・遊佐信教の籠もる河内高屋城を攻める
1575年5月21日-09:00|日本| ||天正3年4月12日|日笠青山城落城
1575年5月23日-09:00|日本| ||天正3年4月14日|織田軍、本願寺光佐の攝津石山本願寺(大坂)を攻撃
1575年5月26日-09:00|日本| ||天正3年4月17日|織田信長:和泉新堀の十河因幡守・香西越後守と交戦
1575年5月28日-09:00|日本| ||天正3年4月19日|三好康長(三好笑岩)、松井友閑(友閑)を介して織田信長に降伏
1575年5月28日-09:00|日本| ||天正3年4月19日|織田軍、和泉国新堀城を総攻撃し陥落させる/十河因幡守戦死、
香西越後は捕虜として織田信長のもとへ引き立てられ、誅殺
1575年5月30日-09:00|日本| ||天正3年4月21日|織田信長が三好笑岩を降伏させて京都に戻る
1575年5月30日-09:00|日本| ||天正3年4月21日|武田勝頼、奥平信昌を討伐するために三河・長篠城を攻める
1575年6月15日-09:00|日本| ||天正3年5月7日|武田勝頼が家康の吉田城を攻撃し、後長篠に向かう
1575年6月15日-09:00|日本| ||天正3年5月07日|毛利輝元、信長と断交する
1575年6月19日-09:00|日本| ||天正3年5月11日|武田勝頼ら武田の軍1万8000が長篠に着陣し、城を包囲(野牛門
を攻撃)
1575年6月21日-09:00|日本| ||天正3年5月13日|武田勝頼が長篠城の瓢郭を落とす
1575年6月24日-09:00|日本| ||天正3年5月16日|奥平信昌の臣鳥居強右衛門勝商、武田勝頼に包囲された長篠城
への援軍を要請するべく城を脱出するが、帰路で捕まり、磔にされたのち、槍で刺殺される
1575年6月26日-09:00|日本| ||天正3年5月18日|織田信長、三河国長篠より3里余りの地点に於いて武田軍と遭
遇。「鉄炮放」で撃退
1575年6月29日-09:00|日本| ||天正3年5月21日|信長別働隊は夜半に設楽原南方を迂回して,午前6時頃に鳶ノ巣
山を攻め落とし,さらに長篠城を包囲から解放/織田・徳川軍は鉄砲での防戦により武田軍は敵陣地突破に失敗
して多数の兵力を失った
1575年6月30日-01:00|ドイツ/チェコ/イタリア/オーストリア| |||<即位>神聖ローマ(ハプスブルグ朝)第23代皇帝ルドルフ2世[マクシミリアン2
世の子]兼イタリア王(ハプスブルク朝)ロドルフォ2世(~16120120死去)
1575年7月3日-09:00|日本| ||天正3年5月25日|小早川隆景が三村元親を備中松山城に、上月隆徳を常山城にそ
れぞれ攻め、この日松山城を落とす
1575年7月9日-09:00|日本| ||天正3年6月2日|徳川家康が駿河に侵攻、織田信忠、岩村に着陣
1575年7月9日-09:00|日本| ||天正3年6月02日|毛利家部将の小早川隆景、備中松山城を開城.三村元親、自害
1575年7月16日-09:00|日本| ||天正3年6月9日|佐竹義重、結城義親を破る
1575年7月30日-09:00|日本| ||天正3年6月23日|織田信長、「御茶セン」(二男:信雄)を伊勢北畠氏の跡目継承のた
め伊勢国に入国させる
1575年7月31日-09:00|日本| ||天正3年6月24日|家康、光明寺城を落とす
1575年8月6日-09:00|日本| ||天正3年7月|一条兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、長宗我部元親
は一時、窮地に追い込まれたが弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦い(渡川の戦い)でこれを撃破
1575年8月6日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦3年7月|朝鮮で士林派が東人派と西人派に分裂し党争が始まる
1575年8月17日 03:00|ブラジル| |||散発的抵抗を続けていたタモイオ連合,最終的に降伏/先住民のうち4千人以上が
奴隷とされ,2千人以上が虐殺された
1575年8月21日-09:00|日本| ||天正3年7月16日|長宗我部元親、土佐・野根城・甲浦城を攻略し、土佐平定
1575年9月5日-09:00|日本| ||天正3年8月|阿波・長宗我部元親、三好長治属城・海部城を攻略。弟香宗我部親泰を
置く
1575年9月5日-09:00|日本| ||天正3年8月|東茨城郡阿波山大山城主大山義景は小場三河守、石塚土佐守らの連
合軍と桂村北方の頓ヶ原に於て戰い之れを破る
1575年9月7日-09:00|日本| ||天正3年8月3日|武藏国滝山城主北條陸奥守氏照、同国鉢形城主北條左ヱ門佐氏邦
らが常陸国に侵入し筑波郡の谷田部城主多賀谷淡路守政伯を攻め破って攻略し政伯を討取るが、多賀谷重経が
小田原勢の背後より攻めて谷田部城を取り戻し回復
1575年9月19日-09:00|日本| ||天正3年8月15日|惟任光秀・羽柴秀吉が大良(河野村)を攻め落とし夜、府中(武生
市)竜門寺を攻め三宅權丞の根城陥落
1575年9月19日-09:00|日本| ||天正3年8月15日|織田信長:原田備中守直政に命じ阿波賀三郎・阿波賀与三を殺
す
1575年9月20日-09:00|日本| ||天正3年8月16日|織田信長:府中城入城/向駿河守に命じて安居朝倉景健・下間和
泉守・下間頼照・專修寺を殺す
1575年9月22日-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)ルドルフ2世[神聖ローマ皇帝](~16110311)
1600迄(3010件)
1575年9月22日 03:00|ブラジル| |||タモイオ連合が最終的に降伏/ヨーロッパ人士官は絞首刑に処され先住民のうち2千
人以上が虐殺され、4千人以上が奴隷とされた
1575年9月22日-09:00|日本| ||天正3年8月18日|金森長近らが郡上・根尾(岐阜県)から大野に討ち入った
1575年9月22日-09:00|日本| ||天正3年8月18日|柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄、越前国鳥羽城を攻撃
1575年9月23日-09:00|日本| ||天正3年8月19日|柴田勝家・丹羽長秀、朝倉与三郎の籠もる要害を攻撃
1575年9月23日-09:00|日本| ||天正3年8月19日|織田軍により、越前一向一揆平定
1575年9月23日-09:00|日本| ||天正3年8月19日|北条軍、房総に侵攻し東金城・土気城を攻略
1575年9月25日-09:00|日本| ||天正3年8月21日|織田信長、越前・府中・北ノ庄を攻略/朝倉景健を「生害」させる
1575年9月28日-09:00|日本| ||天正3年8月24日|徳川家康が武田勝頼の居城諏訪原城を攻め落とし、これを牧野
城と改める
1575年10月2日-09:00|日本| ||天正3年8月28日|信長軍、加賀に進入し能美、江沼を平定/信長、坂井郡豊原に進
入し檜屋、大聖寺を占領
1575年10月3日-09:00|日本| ||天正3年8月29日|因幡・小早川隆景・吉川元春、尼子属城・若桜鬼ヶ城を攻略
1575年10月4日-09:00|日本| ||天正3年9月|<天神山城合戦>宇喜多直家、浦上宗景を追放
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|金森長近:越前大野郡に所領を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|原政茂:越前大野郡に所領を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|佐々成政:越前府中3万3千余石を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|柴田勝家:越前国北ノ庄(福井市)を与えられ、前田利家・佐々成政
らを付属されて北陸地方の平定を任される
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月02日|若狭・丹後守護・一色義道:越前一向一揆討伐にも参陣して、信
長から丹後一国を安堵される
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|前田利家:越前府中3万3千余石を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|不破光治:越前府中3万3千余石を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|武藤舜秀:越前敦賀郡に所領を与えられる
1575年10月5日-09:00|日本| ||天正3年9月2日|別喜広正を加賀に配置
1575年10月7日-09:00|日本| ||天正3年9月04日|織田軍、加賀国奧郡の反乱分子「大坂代坊主兵衛卿」・「松浦子共
」ら1000余人を討ち取る
1575年10月10日-01:00|フランス| |||ドルマンの戦いで、アンリ・ド・ギーズの旧教軍が大勝
1575年10月17日-01:00|イタリア| |||ベネツィア、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ(ザニポロ)教会にロザリオ相互扶助同信組合を設立
1575年10月17日-09:00|日本| ||天正3年9月14日|羽柴秀吉,加賀の一揆を討ち帰参
1575年10月22日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでチェンバロの発明に対し特許
1575年10月27日-01:00|ドイツ| |||<即位>ドイツ王(ハプスブルグ朝)ルドルフ2世(15761102皇帝~16120120)
1575年11月3日-09:00|日本| ||天正3年10月|明智光秀、丹波・黒井城(狄野直正)を攻撃
1575年11月4日-09:00|日本| ||天正3年10月2日|織田信忠、岩村城兵の夜襲を撃退
1575年11月18日-01:00|フランス| |||マリニィで休戦協定が結ばれ、ユグノーが安全保障都市を確保
1575年11月23日-09:00|日本| ||天正3年10月21日|攝津・本願寺顕如が、三好義継・松井有閑を介し、織田信長と
和睦
1575年12月12日-09:00|日本| ||天正3年11月10日|織田信忠、岩村城兵の夜襲を撃退する
1575年12月12日-09:00|日本| ||天正3年11月10日|夜,水晶山(岐阜県恵那郡)に陣取る織田軍を武田軍が夜襲
1575年12月15日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国君主(ヤギェウォ家)アンナ・ヤギェロンカ[ジグムント1
世の娘]男性の王として即位(~15861212.15960909死去72歳),(バートリ家)ステファン・バートリ[トランシルヴァニア公](~1586121
2死去53歳)共同統治
1575年12月23日-09:00|日本| ||天正3年11月21日|五ヶ月間持ちこたえた美濃岩村城が織田信忠に降伏,城将秋
山信友らを捕えて疎殺
1575年12月23日-09:00|日本| ||天正3年11月21日|北条氏政、小山秀綱の居城祇園城を攻略、秀綱は佐竹義重の
元に逃れる
1575年12月30日-09:00|日本| ||天正3年11月28日|織田信忠:信長から家督を譲られ、美濃、尾張を与えられ、岐
阜を居城とした
1575年12月30日-09:00|日本| ||天正3年11月28日|織田信長:秋山信友・大嶋森之助・座光寺左近進・織田つやを
岐阜長良川河畔で逆磔刑に處す
1575年12月30日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:プロスペロ・セントゥリオーネ・ファッティナンティ(~15771017)
1576年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王チェイチェター1世(~1594年)
1576年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第二王朝)ンダヒロ2世(~1600年)
1576年-01:00|ドイツ| |||<就任>シャウエンブルク伯・ホルシュタイン=ピンネベルク伯アドルフ14世(11世)(~1601年死去)
1576年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フローニンゲン州・フリースラント州総督レンネンベルフ伯ヘオルヘ(~1580年死去)
1576年-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(ヴァロワ=アングレーム家)フランソワ1世[フランス国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの五
男](~15840619死去29歳)
1576年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=シュヴェリーン系)ヨハン7世[ヨハン・アルブレヒト1世の息子](~1592年)
1576年 00:00|モロッコ| |||<即位>サアド朝アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世(~1578年)
1576年 00:00|ポルトガル/イギリス| |||イギリスとポルトガルがギニア紛争で講和、効果的占領主義が成立
1576年 07:00|メキシコ| |||メキシコで大疫病、労働力不足が深刻化
1576年1月24日-09:00|日本| ||天正3年12月24日|徳川家康、二俣城を攻略.守将依田信蕃が城を開き全員が退去
1600迄(3010件)
⇒二俣城をとりもどした家康は大久保忠世に与えた
1576年1月27日-09:00|日本| ||天正3年12月27日|織田信長:徳川家康に命じて知多郡緒川城主水野信元を尾張
大樹寺に殺害させる
1576年1月31日-09:00|日本| ||天正4年|岸権旅館創業(伊香保温泉)/群馬県
1576年1月31日-09:00|日本| ||天正4年|柴田勝豊は豊原城から丸岡に移り丸岡城築城【現存する日本最古の天
守】福井県
1576年1月31日-09:00|日本| ||天正4年|北条軍、上総へ侵入。土気城の酒井康治、北条氏政に屈伏する/氏政、西
上総を攻め、原氏・高城氏らに上総有木城・椎津城・窪田城の在番を命じる
1576年1月31日-09:00|日本| ||天正4年1月|多賀谷政経が下総国岡田郡飯沼村古間木城主渡辺周防守勝重を攻
め破って攻略/政経は更に水海道城主田村彈正左ヱ門を攻め破って攻略し之れを降参させる
1576年1月31日-09:00|日本| ||天正4年1月01日|津軽為信が大光寺と城支城の新屋城・尾崎城(滝本重行)を攻略
1576年2月5日-01:00|フランス| |||ジャン・ボーダンが「国家論」を刊、絶対君主登場への嚆矢
1576年2月12日-01:00|フランス| |||過激派カトリックが「旧教同盟」を結成
1576年2月14日-09:00|日本| ||天正4年1月15日|丹波八上城主波多野秀治が叛旗、明智光秀、近江坂本城に退却
1576年3月1日-09:00|日本| ||天正4年2月|龍造寺隆信、有馬属城・肥前横沢城を攻略
1576年3月23日-09:00|日本| ||天正4年2月23日|織田信長、岐阜城から近江国琵琶湖々岸に完成した安土城に移
る
1576年3月25日-09:00|日本| ||天正4年2月25日|織田軍、大和国森屋城を接収
1576年3月25日-09:00|日本| ||天正4年2月25日|壬生周長、甥綱雄を天神の祠前で暗殺し鹿沼右衛門尉と共に坂
田山城主を奪う(徳雪斎の乱)が綱雄の子義雄とその家臣板橋親棟に討たれた
1576年3月30日-09:00|日本| ||天正4年3月|宇都宮国綱が六百余騎を率いて壬生城を攻撃した際、壬生勢が赤塚
に布陣し合戦に及んだが、壬生勢は敗退
1576年3月30日-09:00|日本| ||天正4年春|太田三楽斉、梶原景国らが真壁郡真壁城主真壁久幹入道暗夜軒道夢
を攻め破って攻略し、之れを天目山に落去させる
1576年4月2日-09:00|日本| ||天正4年3月04日|織田信長の命令で勢田橋普請が大方出来上がる
1576年4月3日-09:00|日本| ||天正4年3月5日|松永久通(金吾)、大和国十市平城を攻撃
1576年4月15日-09:00|日本| ||天正4年3月17日|上杉謙信、越中に進攻し、守山城、湯山城を攻略しようとする
1576年4月20日-09:00|日本| ||天正4年3月22日|塙直政(原田備中守)、大和国十市城へ入城
1576年4月21日-09:00|日本| ||天正4年3月23日|真田軍岩櫃城を乗っ取る
1576年5月6日-01:00|フランス| |||ボーリューの王令/ユグノーに王権の一時的譲歩が約束され、第5次ユグノー戦争が終結
1576年5月12日-09:00|日本| ||天正4年4月14日|攝津・顕如、足利義昭に通じ、石山城に籠もり、信長に抵抗/織田
信長に属する武将たちが本願寺を海陸の三方から包囲攻撃
1576年5月14日-03:30|イラン| |||サファヴィー朝の第2代君主タフマースプ1世が首都カズヴィーンで死去/62歳(誕生:1514)、イスマ
イール2世が即位
1576年5月25日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第3代シャー:イスマーイール2世(~15771124)
1576年5月26日-09:00|日本| ||天正4年4月28日|大関高増、白旗城より黒羽城に移る
1576年5月28日-09:00|日本| ||天正4年5月|宇喜多・毛利軍、美作・高田城(三浦貞広)を攻略
1576年5月30日-09:00|日本| ||天正4年5月3日|山城大和守護塙直政・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衞門・丹羽小
四郎、三津寺を攻めるが一向宗軍に囲まれ戦死。一向宗軍により四天王寺炎上
1576年5月31日-09:00|日本| ||天正4年5月04日|武田高信、山名豊国の命により自害
1576年6月-05:30|インド| |||ムガル軍がメーワール地方のブラターブ軍に勝利
1576年6月2日-09:00|日本| ||天正4年5月6日|織田信長:槙嶋城へ行き井戸良弘を城主とする
1576年6月3日-09:00|日本| ||天正4年5月7日|信長は後続の軍勢を待ちきれず自ら指揮をとり続け一向宗徒を
破って天王寺砦に入った/信長はさらに砦から出撃して敵を城門まで撤退させた
1576年6月6日-09:00|日本| ||天正4年5月10日|織田信長、筒井順慶を大和守護に任じる
1576年6月7日 00:00|イギリス/カナダ| |||イギリス人フロビッシャーがカナダへ初航海
1576年6月14日-09:00|日本| ||天正4年5月18日|上杉謙信、本願寺顕如との和睦が成立
1576年6月27日-09:00|日本| ||天正4年6月|波多鎮は伊万里城の伊万里治、有田唐船城主有田と盟約して龍造寺
に帰属していた獅子カ城の鶴田前を突如として攻撃/鶴田前は戦死したが、鶴田方は援軍により波多軍を撃破/
波多軍は龍造寺に屈伏
1576年6月27日-09:00|日本| ||天正4年6月|北條氏政が常陸国下妻城主多賀谷重経を攻め、佐竹義重は多賀谷に
加勢し筑波郡の高道祖原に於て小田原勢と戰い之れを破る
1576年7月-05:30|インド| |||アクバルが、ベンガル、オリッサ、ビハールを征服し、北インド全域を支配下に収める
1576年7月2日-09:00|日本| ||天正4年6月6日|織田信長、槙嶋城へ行き井戸良弘を城主とする
1576年7月25日-09:00|日本| ||天正4年夏|里見義弘、佐貫在城の三浦下等成良・同右馬助雇父子に命じて、水軍
に三崎表を攻めさせる/北条水軍梶原氏と戦う
1576年7月26日-09:00|日本| ||天正4年7月|奥平信昌:三河新城城3000貫/拝領(-天正18年上野宮崎へ)
1576年7月26日-09:00|日本| ||天正4年7月|家康、遠江犬居城を攻略.城主の天野景貫は甲州へ逃亡
1576年7月26日-09:00|日本| ||天正4年7月|上総・北条氏政、有木城を攻略
1576年7月26日-09:00|日本| ||天正4年7月|相馬盛胤・義胤父子、陸奥妙賀山で伊達輝宗と戦
1576年7月26日-09:00|日本| ||天正4年7月|飛騨・上杉謙信、塩屋筑前守を先陣に飛騨に侵入し、三木自綱らを降
す
1600迄(3010件)
1576年8月7日-09:00|日本| ||天正4年7月13日|<第1次木津川河口合戦>毛利水軍、和泉国堺津住吉表から摂津国
木津川口に進み織田水軍に攻撃を開始、戦闘は明朝まで継続.織田信長が毛利水軍に敗れる
1576年8月9日-09:00|日本| ||天正4年7月15日|長宗我部元親:阿波白地を奪う/阿波宍喰、海部を占領
1576年8月11日-09:00|日本| ||天正4年7月17日|相馬盛胤・義胤父子、陸奥矢ノ目で伊達輝宗を破る(矢野目の戦
い)
1576年8月15日-09:00|日本| ||天正4年7月21日|南蛮寺(蛸薬師室町西入姥柳町)が竣工し,献堂式が行われ,多
くの信者が参集
1576年8月24日-09:00|日本| ||天正4年8月|播磨・宇喜多直家、上月城を攻略
1576年8月29日-09:00|日本| ||天正4年8月6日|氏政、足利義昭の命に従い甲相越三国同盟に同意
1576年8月31日-09:00|日本| ||天正4年8月08日|上杉謙信、1万5千の兵をもって唐沢山城を攻めたが一族の結城
氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍撤退
1576年9月7日-09:00|日本| ||天正4年8月15日|南蛮寺(珊太満利亜寺)が未完のまま献堂式を挙行(本尊は聖マリア
)
1576年9月15日-09:00|日本| ||天正4年8月23日|高城城主伊東勘解由、和議を要請し、城を退却/義久、高城に入
る/続いて、高原・高崎・内木場・岩牟礼・須木・須師原・奈崎の7城も放棄され島津領となる
1576年9月16日-09:00|日本| ||天正4年8月24日|三ノ山城陥落
1576年9月19日-09:00|日本| ||天正4年8月27日|佐竹義重は陸奥国会津城主葦名盛氏を長沼や太里に攻める
1576年9月30日-09:00|日本| ||天正4年9月8日|上杉謙信が越中国に入り栂尾、増山の二城を攻略して降伏さす
1576年9月30日-09:00|日本| ||天正4年9月8日|上杉謙信、湯山城(森寺城)攻め 神保氏張と勝敗つかず
1576年10月12日-01:00|ハンガリー/オーストリア| |||<死去>ボヘミア・ハンガリー王・神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世⇒<即位>ハンガリー国
王(ハプスブルグ朝)ルドルフ(~16080626)兼オーストリア大公(ハプスブルク家)ルドルフ5世(~16120120死去59歳)兼ボヘミア王国モラヴ
ィア辺境伯ヤギェウォ家(ハプスブルク家)ルドルフ2世(~1608年)[ミクシャ1世(マクミリアン)の次男.ボヘミア王・ドイツ王]
1576年10月14日-09:00|日本| ||天正4年9月22日|田村清顕、葦名盛氏と和睦
1576年10月15日-09:00|日本| ||天正4年9月23日|佐竹義重、白河に撤退
1576年10月22日-09:00|日本| ||天正4年10月1日|肝付兵部、伊東領南郷を攻めるが大敗
1576年10月26日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ジンメルン家系選帝侯)ルートヴィヒ6世(~15831022)
1576年11月5日-09:00|日本| ||天正4年10月15日|畠山高政(河内国守護)、没
1576年11月8日-01:00|ベルギー/オランダ| |||全ネーデルランド17州が、スペインに対抗ためのヘント協定を結ぶ
1576年11月19日-09:00|日本| ||天正4年10月29日|下妻城主多賀谷政経が大生郷天神宮を焼失
1576年11月21日-09:00|日本| ||天正4年11月|佐野宗綱、北条氏政の援軍を得て上杉方の唐沢山城の城代、本庄
繁長を越後に追い戦国大名として独立
1576年12月7日-09:00|日本| ||天正4年11月17日|上杉謙信、穴水城攻略/長続連・綱連軍に対し勝利
1576年12月15日-09:00|日本| ||天正4年11月25日|<三瀬館の変>北畠具教、織田信雄の謀略で家臣の襲撃を受け
自刃/具教の子・北畠具房も幽閉され北畠氏は完全滅亡
1576年12月20日-09:00|日本| ||天正4年12月|北条氏政、小山秀綱の居城祇園城を攻略し、秀綱は佐竹義重の元
に逃れる/更に宇都宮口に出兵
1576年12月20日-09:00|日本| ||天正4年12月|北畠信雄が田丸城に津田掃部介一安を誘殺する
1576年12月21日-09:00|日本| ||天正4年12月2日|北畠信雄、伊勢霧山城を攻撃、大宮景連戦死
1576年12月24日-09:00|日本| ||天正4年12月5日|霧山城陥落、城主北畠政成・北畠壱枚御前・大宮水谷御前・飯南
粥見城主北畠成時・一志波瀬城主北畠頼重・三雲小野江城主北畠重光自害
1576年12月28日-09:00|日本| ||天正4年12月9日|大友宗麟の軍勢が乱暴を働き、宇佐神宮上宮が焼ける
1577年-05:30|インド| |||シク教の総本山ハルマンダル・サーヒブが創建
1577年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:メフメト2世ギレイ2世(~1584年)
1577年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(バサラブ朝)摂政キャスリーン・サルヴァレッソ(~1583年)
1577年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ミカエル・ジェロニ・モレル(~1579年)
1577年-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペインがルソン島全体を支配下に置く
1577年 03:00|ブラジル| |||バイア,リオデジャネイロ総督府を合一し,リオデジャネイロを首都と定める
1577年 04:30|ベネズエラ| |||カラカス盆地を中心とするベネズエラ中央部がほぼ平定される
1577年1月7日-09:00|日本| ||天正4年12月19日|上杉謙信、七尾城攻め/畠山春王丸と勝敗つかず
1577年1月18日-01:00|イタリア| |||ヴェスパシャーノ・ゴンザーガがサッビオネータ公になりサッビオネータ公国成立
1577年1月18日-09:00|日本| ||天正4年12月30日|瀧川一益が伊勢員辨郡金井城主種村秀信を自刃させる/瀧川
一益が伊勢浜田城主田原元綱を戦死させ、田原重綱が美濃へ逃亡
1577年1月18日-09:00|日本| ||天正4年12月30日|瀧川一益が伊勢濱田城主田原元綱を戰死させ田原重綱が美濃
へ逃亡
1577年1月19日-09:00|日本| ||天正5年|この年、茨城大宝八幡神社本殿を下妻城主多賀谷下総守尊経が建立
1577年1月19日-08:00|中国| ||明・万暦5年|四川省の役人だった潘允端が両親のために贈った庭園「豫園」完成(
中国上海市)
1577年2月9日-09:00|日本| ||天正5年1月22日|武田勝頼が北条氏政の妹と結婚し第2回甲相同盟成立
1577年2月12日-01:00|オランダ| |||ネーデルランドのドン・ファン総督が、永久法令を発布
1577年2月13日-09:00|日本| ||天正5年1月26日|春奈良東門院の僧・北畠具教弟が還俗し北畠具親と名乗って、
吉原氏を頼り伊勢森城に挙兵
1577年2月18日-09:00|日本| ||天正5年2月|阿波・長宗我部元親、池田白地城(大西覚用)を攻略
1600迄(3010件)
1577年2月26日-09:00|日本| ||天正5年2月9日|土持軍、門川へ侵攻/日智屋地方の諸衆、これを防ぎ、乱は終結
1577年3月-01:00|フランス| |||第6次ユグノー戦争が始まる
1577年3月2日-09:00|日本| ||天正5年2月13日|雑賀一向宗軍・根来寺大傳法院・畠山貞政が蜂起
1577年3月4日-09:00|日本| ||天正5年2月15日|織田信長、泉州表へ出陣し根来寺衆徒を味方に紀伊国雑賀衆を
攻撃
1577年3月5日-09:00|日本| ||天正5年2月16日|織田信長:和泉香庄に陣、貝塚の一向宗軍海路退却
1577年3月6日-09:00|日本| ||天正5年2月17日|織田信長軍先陣が貝塚の雑賀・根来一向一揆を攻めて退かせた
1577年3月10日-09:00|日本| ||天正5年2月21日|細川藤孝、和泉国長尾に於ける合戦で「先駈」として敵を撃破
1577年3月11日-09:00|日本| ||天正5年2月22日|織田信長:和泉志立へ移陣、織田軍先鋒、紀伊雑賀を攻める
1577年3月17日-09:00|日本| ||天正5年2月28日|織田信長:和泉淡輪へ進軍、紀伊中野城降伏
1577年3月20日-09:00|日本| ||天正5年3月|謙信は七尾城攻めに際し、能登熊木城を落とすと三宝寺平四郎、斎
藤帯刀、内藤久弥、七杉小伝次を守将とした
1577年3月20日-09:00|日本| ||天正5年3月|駿河国府中浅間社の造営完成
1577年3月20日-09:00|日本| ||天正5年3月|肥前・龍造寺軍、有馬征討のため島原に入るが退く
1577年3月20日-09:00|日本| ||天正5年3月1日|織田信長:瀧川・惟任(明智)・蜂屋・長岡(細川)・筒井・若狭衆軍に
命じて鈴木孫一の居城を攻める
1577年4月2日-09:00|日本| ||天正5年3月14日|上杉謙信、唐沢山城を攻撃
1577年4月3日-09:00|日本| ||天正5年3月15日|鈴木孫一を始めとした雑賀衆の指導者七名が連署して降伏を申
し出た
1577年4月9日-09:00|日本| ||天正5年3月21日|織田信長、雑賀一揆を平定し帰途につ
1577年4月16日-09:00|日本| ||天正5年3月28日|<荒田野合戦>三好長治、細川真之と阿波荒田野で戦い敗死
1577年4月17日-09:00|日本| ||天正5年春|奈良東門院の僧・北畠具教弟が還俗し北畠具親と名乗って吉原氏を
頼り伊勢森城に擧兵
1577年4月18日-09:00|日本| ||天正5年4月|足利城の長尾顕長が免鳥城に攻め込み城を落としたが佐野宗綱に
よって奪い返された
1577年4月18日-09:00|日本| ||天正5年4月上旬|北條氏政が上総国の三船表に於て里見義弘と戰ったが敗北、帰
国途中、常陸国筑波郡小田城主梶原美濃守景国を攻めるが抜けず筑波辺りに放火して引き払い筑波の知足院な
どが焼失
1577年5月23日-09:00|日本| ||天正5年5月06日|浦上与次郎、宇喜田直家により毒殺される
1577年5月30日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第85代アルヴィーゼ・モチェニーゴ1世
1577年5月31日-09:00|日本| ||天正5年5月14日|小寺政職、播磨国英賀方面に出撃し、敵兵毛利軍を討取
1577年6月2日-09:00|日本| ||天正5年5月16日|能登熊木城が長綱連に攻められ斎藤帯刀は降伏、七杉小伝次は
自刃、三宝寺平四郎、内藤久弥は宝憧寺で誅殺された;その後長綱連は上杉家臣藍浦長門の守る能登富木城を攻
め長門を自刃に追い込む
1577年6月11日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第86代セバスティアーノ・ヴェニエル(~15780303)
1577年6月16日-09:00|日本| ||天正5年6月|肥前・龍造寺隆信、大村城(大村純忠)を攻略
1577年6月16日-09:00|日本| ||天正5年6月|北条氏政、安房・里見義弘と和睦.以降、里見家は北条家に従属
1577年6月16日-09:00|日本| ||天正5年6月1日|大友義統、豊後国作原八幡宮を造営
1577年7月3日-09:00|日本| ||天正5年6月18日|伊東義祐と祐兵、櫛間に攻め入るが、島津側の援軍に敗れる
1577年7月23日-09:00|日本| ||天正5年7月8日|上杉謙信越中へ出兵
1577年7月30日-01:00|ポーランド/トルコ/リトアニア| |||オスマン・ポーランド条約が調印される
1577年8月14日-09:00|日本| ||天正5年閏7月|徳川家康、高天神城を攻撃
1577年8月15日-09:00|日本| ||天正5年閏7月2日|佐竹義重は白河城を出て赤館・寺山両城に退いた
1577年8月18日-09:00|日本| ||天正5年閏7月5日|北條氏政は下総国結城城主結城中務大輔晴朝を攻め破って降
伏せしめ之れを攻略
1577年8月30日-09:00|日本| ||天正5年閏7月17日|能登・七尾城主畠山義春病死し、畠山氏滅ぶ
1577年9月2日-09:00|日本| ||天正5年閏7月20日|飯見大膳は鶴料理に事を寄せ、主君下総国豊田城主豊田安芸
守四郎治親(初名政高)を自宅に招き、酒宴の最中之れを殺害して多賀谷重経に降参したが重経は之れを許さず
、主殺しの罪人として捕え縛首に処刑し、多賀谷重経は豊田、石毛の両城を攻略し豊田氏は赤須將基より二十代
にして滅亡
1577年9月2日-09:00|日本| ||天正5年閏7月20日|毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し、讃岐
元吉城に攻め寄せ、三好方の讃岐惣国衆と戦う
1577年9月13日-09:00|日本| ||天正5年8月02日|肥後・龍造寺軍、隈部親永の要請により、山鹿郡長坂城(赤星氏)
を攻略
1577年9月17日-01:00|フランス| |||フランスでベルジュラック和約が結ばれて第6次ユグノー戦争が終わる
1577年9月19日-09:00|日本| ||天正5年8月8日|柴田勝家を大将として織田軍が加賀に侵攻
1577年9月21日-09:00|日本| ||天正5年8月10日|浦上氏の天神山城落城/浦上氏滅亡
1577年9月28日-09:00|日本| ||天正5年8月17日|<末森城合戦>上杉軍、畠山方の攻略し能登を平定
1577年9月28日-09:00|日本| ||天正5年8月17日|松永久秀・松永久通、天王寺砦を引き払い大和信貴山城に叛旗
1577年9月28日-09:00|日本| ||天正5年8月17日|能登守護畠山義春が能登七尾城で病死
1577年10月3日-01:00|デンマーク| |||彗星が現れティコ・ブラーエが距離を測定
1577年10月19日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・ジェンティレ・ピグノロ(~15791019)
1600迄(3010件)
1577年10月24日-09:00|日本| ||天正5年9月13日|能登・遊佐・温井・三宅ら上杉に内応し、長綱連一族を誘殺し、
七尾城陥落
1577年10月26日-09:00|日本| ||天正5年9月15日|上杉謙信に内通した遊佐継光が七尾城代・能登鳳至郡穴水城
主長續連・長綱連を殺害、七尾城陥落
1577年10月28日-09:00|日本| ||天正5年9月17日|長続連・畠山綱連軍の末森城上杉謙信の攻撃を受けて陥落/七
尾畠山氏は滅亡/上杉軍、能登統一
1577年11月-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王イーアン4世(~1577.12)
1577年11月3日-09:00|日本| ||天正5年9月23日|<手取川合戦>上杉謙信が、柴田勝家らの織田軍を湊川(手取川)
で破る
1577年11月9日-09:00|日本| ||天正5年9月29日|<二条御新造竣工>信長の二条新第竣工.信長政権の京都の政庁
となる
1577年11月9日-09:00|日本| ||天正5年9月29日|西空に彗星が現れる
1577年11月10日-09:00|日本| ||天正5年10月|<第2次丹波侵攻>織田家明智軍、丹波に侵攻<安口城合戦>安口城
攻略.籾井綱重、敗走
1577年11月10日-09:00|日本| ||天正5年10月1日|細川藤孝・明智光秀・筒井順慶ら、大和国片岡城の森秀光(松永
被官)を攻略し敗死させる
1577年11月12日-09:00|日本| ||天正5年10月3日|信忠、大和信貴山城を包囲し城下に放火、毘沙門堂が焼失
1577年11月14日-09:00|日本| ||天正5年10月5日|永原の佐久間与六郎盛明の元にいた松永二子を京都六條河原
に處刑
1577年11月19日-09:00|日本| ||天正5年10月10日|織田信長、織田信忠を大将に、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・
佐久間信盛らを従軍させ、松永久秀を大和国信貴山城で自爆死においやる/松永氏は完全に滅亡
1577年11月29日-09:00|日本| ||天正5年10月20日|小山城に入っていた武田勝頼が大井川を越えて撤退
1577年12月2日-09:00|日本| ||天正5年10月23日|織田信長、秀吉に播磨を攻略させる/秀吉、姫路城に入る
1577年12月8日-09:00|日本| ||天正5年10月29日|<籾井城合戦>織田軍家明智軍の攻撃を受けて落城.籾井綱利、
自害
1577年12月13日 00:00|イギリス| |||ドレイク船長が世界周航に出発(-1580)
1577年12月20日-09:00|日本| ||天正5年11月11日|羽柴秀吉、但馬に侵入し岩州城攻略
1577年12月21日-09:00|日本| ||天正5年11月12日|羽柴秀吉、但馬・竹田城を攻略
1578年-08:00|モンゴル| |||モンゴルのアルタンがラマ教に帰依し、ダライラマの称号を授与
1578年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王ノーヤターミンソー(~1607年)
1578年-02:00|ルーマニア| |||<再位>モルダヴィア王ペトル6世(2度目~1579年)
1578年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ヘルダーラント州総督ディレンブルク伯ヨハン6世[ナッサウ=ディレンブルク伯ヴィ
ルヘルムの次男](~1581年)16061008死去69歳
1578年-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首ニコロ・ダ・ポンテ就任(-1585)
1578年-01:00|ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国で最高裁判所が設置
1578年 00:00|モロッコ| |||<即位>サアド朝アフマド・アル=マンスール(~1603年)
1578年 06:00|ホンジュラス| |||ホンデュラス南東部山岳地帯に金鉱発見
1578年1月4日-09:00|日本| ||天正5年11月26日|羽柴秀吉が播磨佐用郡高倉城を陥し、城主福原主膳助就戦死
1578年1月5日-09:00|日本| ||天正5年11月27日|<福原城合戦>織田軍羽柴秀吉の黒田孝高・竹中半兵衛らの郡制
が播磨・福原城攻略
1578年1月8日-09:00|日本| ||天正5年12月|日向・島津義久・義弘、飫肥城を攻略
1578年1月8日-09:00|日本| ||天正5年12月|福永丹後守らの内応により野尻、戸崎、紙屋、富田の諸城が陥落、伊
東義祐は大友家を頼って豊後に逃走
1578年1月8日-09:00|日本| ||天正5年12月1日|黒田官兵衞孝高が播磨佐用郡佐用城を陥し、城主福原馬允則尚
が高尾山圓福寺で自刃
1578年1月10日-09:00|日本| ||天正5年12月03日|<上月城合戦>織田軍羽柴秀吉、赤松政範の播磨国七条城(上月
城)を攻略し尼子勝久・山中幸盛に守備させる
1578年1月12日-09:00|日本| ||天正5年12月5日|<死去>陸奥の戦国大名・伊達晴宗(奥州探題)
1578年1月12日-09:00|日本| ||天正5年12月05日|<龍野城合戦>織田軍羽柴秀吉の軍勢が播磨・播磨龍野城(赤松
広秀)攻略
1578年1月15日-09:00|日本| ||天正5年12月8日|島津軍、日向・戸崎城を攻め、城主漆野豊前、城を放棄
1578年1月20日-09:00|日本| ||天正5年12月13日|伊東義祐、祖母ヶ谷に到着/この日、一族の伊東大炊助、島津氏
に攻められ自刃/この頃、三納地頭飯田肥前も島津側にとらえられ自刃
1578年1月31日-01:00|オランダ| |||ドン・ファンが、パルマ公ファルネーゼの援軍を得てネーデルランド軍をガンブールの戦いで破る
1578年2月7日-08:00|中国| ||明・万暦6年|李時珍の薬典「本草綱目」52巻完成(1590年刊行開始、1596年完結)
1578年2月7日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・光興1年|大越後黎朝4代・世宗が光興と改元(-1599)
1578年2月7日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・延成|大越莫朝の英宗・莫茂洽が延成と改元(~15860217)
1578年2月7日-09:00|日本| ||天正6年1月|三好長治の死によって、長治の遺跡を継いだ十河存保は阿波勝瑞城
入り、阿波.讃岐二ケ国の主におさまった
1578年2月11日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第4代シャー:ムハンマド・ホダーバンデ(~15871001)
1578年2月11日-03:30|イラン| |||ペルシャのサファヴィー朝のシャー、イスマーイール2世死去/(誕生:1551)4代目バンデが即位
1578年2月20日-09:00|日本| ||天正6年1月14日|筒井順慶、箸尾為綱と和解
1600迄(3010件)
1578年2月23日-09:00|日本| ||天正6年1月17日|山毛地頭米良弥次見、日知屋地頭福永新十郎、島津氏に降伏
1578年3月-01:00|スペイン/イギリス| |||イギリスのドレイク艦隊がスペインのガレオン船を襲撃
1578年3月1日-09:00|日本| ||天正6年1月23日|門川地頭と塩見地頭、島津氏に降伏
1578年3月3日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第86代セヴァスティアーノ・ヴェニエル
1578年3月11日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第87代ニコロ・ダ・ポンテ(~15850730)
1578年3月11日-09:00|日本| ||天正6年2月03日|樺ノ沢城が上杉景勝方に陥落/北条方は小田原へ帰陣
1578年3月11日-09:00|日本| ||天正6年2月03日|近江高島郡・磯野員昌、信長の意思に背いて所領を没収され高
野山に追放.津田信澄、高島郡に配置
1578年3月12日 00:00|イギリス| |||スコットランド王ジェームズ6世が親政を開始
1578年3月30日-09:00|日本| ||天正6年2月22日|米良四郎右衛門尉、伊東残存勢力を率いて県土持氏を破る
1578年4月7日-09:00|日本| ||天正6年3月|肥前・有馬晴信、龍造寺隆信に降伏
1578年4月9日-09:00|日本| ||天正6年3月3日|長倉勘解由左衛門残兵を集め、石城を占拠
1578年4月13日-09:00|日本| ||天正6年3月07日|別所長治が播磨三木城で謀反、織田陣営から離反
1578年4月15日-09:00|日本| ||天正6年3月9日|<死去>丹波豪族・赤井直正、病死
1578年4月15日-09:00|日本| ||天正6年3月9日|松平家忠、大井川を渡河し武田側の駿河国田中城を攻めて外曲
輪を破った撃/松平家忠、敵勢の佐野孫助・行家彦十郎を討ち取
1578年4月18日-09:00|日本| ||天正6年3月13日|徳川軍、武田側の遠江国小山今城を攻撃
1578年4月19日-09:00|日本| ||天正6年3月13日|上杉謙信が西上を目前にして脳溢血のため春日山城で死去/49
歳(誕生:享禄3(1530)0121)。越後の武将
1578年4月30日-09:00|日本| ||天正6年3月24日|越後・上杉景勝、春日山城に入り家督継承(御館の乱)
1578年5月8日-09:00|日本| ||天正6年4月2日|毛利軍と紀伊国「雑賀者共」が連合して別所孫右衛門の播磨国阿
閉砦を攻撃.羽柴秀吉、黒田孝高を派遣して撃破
1578年5月9日-09:00|日本| ||天正6年4月03日|羽柴秀吉が、播磨国野口城(別所長治の属城)を攻め、長井四郎左
衛門を降ろす
1578年5月16日-09:00|日本| ||天正6年4月10日|<園部城合戦>織田家部将の明智光秀と滝川一益、園部城を攻略
1578年5月21日-09:00|日本| ||天正6年4月15日|大友宗麟、日向県(延岡)松尾城(土持親成)を攻略.捕らえられ
た土持親成は豊後へ送られ、土持氏は滅亡
1578年5月21日-09:00|日本| ||天正6年4月15日|毛利輝元、播磨に侵攻<西播磨侵攻>
1578年5月24日-09:00|日本| ||天正6年4月18日|佐竹義重が下野国壬生城主壬生義雄を攻め北條氏政と対戰
1578年5月24日-09:00|日本| ||天正6年4月18日|但馬国人垣屋豊続が毛利氏からの援兵と共に水生古城で織田
方と合戦して勝利
1578年6月-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペインがモロ族掃討の征服戦争を開始
1578年6月6日-09:00|日本| ||天正6年5月|北条氏邦、上野沼田を攻略
1578年6月8日-09:00|日本| ||天正6年5月3日|法明寺鬼子母神建立/豊島区
1578年6月8日-09:00|日本| ||天正6年5月3日|北条氏政、下総結城/山川近辺を攻める
1578年6月10日-09:00|日本| ||天正6年5月05日|上杉景勝勢と景虎勢、春日山城下で戦闘を開始(御館の乱)
1578年6月16日-09:00|日本| ||天正6年5月11日|信濃海津城将春日虎綱病没(52).越後に対する押えとして任を
全うし武田の柱石といわれた
1578年6月18日-09:00|日本| ||天正6年5月13日|11日よりの大雨で洪水/鴨川・白川・桂川が氾濫し、京市中に水
があふれる/溺死者多数/四条橋も流失
1578年6月18日-09:00|日本| ||天正6年5月13日|上杉景虎は身の危険を感じて春日山城を脱し、府内(直江津)の
御館に逃れて対抗(御館の乱)
1578年6月25日-09:00|日本| ||天正6年5月20日|<死去>里見義弘(49:上総久留里城主)⇒子の梅王丸と義頼(義
継から改名)が後継者争いをはじめる
1578年6月25日-09:00|日本| ||天正6年5月20日|北条氏政、下総・山川城を攻め、生城とする
1578年7月5日-09:00|日本| ||天正6年夏|長宗我部元親、讃岐藤目城(斎藤下守)・財田城を攻略
1578年7月11日-09:00|日本| ||天正6年6月07日|武田勝頼、上杉景勝と和議を結ぶ.甲越同盟が成立
1578年7月25日-09:00|日本| ||天正6年6月21日|毛利・宇喜多軍が、羽柴秀吉らを播磨・上月城下で破る
1578年7月30日-09:00|日本| ||天正6年6月26日|<淡輪沖海戦>九鬼嘉隆、新造の鉄船を率いて紀伊国熊野浦に出
撃し紀伊国雑賀一揆・淡輪一揆を撃破
1578年7月31日-09:00|日本| ||天正6年6月27日|羽柴秀吉、播磨国神吉城(別所長治の属城)を攻撃し敗退
1578年7月31日-09:00|日本| ||天正6年6月27日|光秀の第二次攻撃で八木城落城
1578年8月4日 00:00|モロッコ/ポルトガル| |||<死去>ポルトガル王セバスティアンがモロッコのアルカセル・キビールでサード朝スルタン軍と戦い
戦死
1578年8月4日 00:00|ポルトガル| |||<即位>ポルトガル王国国王(アヴィス家)エンリケ1世[マヌエル1世の子](~15800131死去)
1578年8月6日-09:00|日本| ||天正6年7月3日|毛利方、上月城を陥落させ、尼子勝久自害/26歳(誕生:天文22(155
3))尼子家滅亡.山中鹿之介幸盛捕縛
1578年8月8日-09:00|日本| ||天正6年7月5日|佐竹義重/宇都宮衆、壬生領を攻める
1578年8月9日-09:00|日本| ||天正6年7月6日|大友・伊東連合軍、新納石城の島津勢力を攻める
1578年8月19日-09:00|日本| ||天正6年7月16日|織田信忠、佐久間信盛、荒木村重、丹羽五郎左衛門、滝川左近、播
州神吉城を落とす
1578年8月20日-09:00|日本| ||天正6年7月17日|山中鹿之介が、上月城から護送される途中、備中松山城下で刺
1600迄(3010件)
客の手にかかって没/34歳(誕生:天文14(1545))
1578年8月20日-09:00|日本| ||天正6年7月17日|島津征久・伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼、石城を攻め落とす
1578年8月23日-09:00|日本| ||天正6年7月20日|織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国神吉城攻略.城主神吉頼定死去
1578年8月23日-09:00|日本| ||天正6年7月20日|陸奥津軽の大浦為信、波岡御所北畠顕村を浪岡城に攻め、敗死
させる(浪岡城の戦い)
1578年8月24日-02:00|トルコ| |||オスマン朝が、トビリシを占領
1578年8月28日-09:00|日本| ||天正6年7月25日|梶原政景、小田氏治の木田余城を攻略
1578年8月28日-09:00|日本| ||天正6年7月25日|楯岡ノ道順指揮下の伊賀者百名,織田信雄の丸山城を攻撃.鎮
将滝川三郎兵衛を追い出す
1578年9月11日-09:00|日本| ||天正6年8月10日|下総結城晴朝の仲介で、常陸の佐竹義重と陸奥白河結城義親が
和睦して起請文を交換
1578年9月11日-09:00|日本| ||天正6年8月10日|織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国志方城を攻撃
1578年9月13日-09:00|日本| ||天正6年8月12日|大友義鎮は3万5000の兵を率いて日向国に侵攻
1578年9月15日-09:00|日本| ||天正6年8月14日|<穴水城合戦>織田家部将の長好連、穴水城を攻略(11月まで占
拠)
1578年9月18日-09:00|日本| ||天正6年8月17日|織田信忠が、播磨から撤退
1578年9月20日-09:00|日本| ||天正6年8月19日|武田勝頼と上杉景勝、同盟締結<甲越同盟>
1578年9月23日-09:00|日本| ||天正6年8月22日|徳川家康、駿河に侵攻
1578年9月29日-09:00|日本| ||天正6年8月28日|武田勝頼、越後から兵を引き上げる
1578年10月1日-09:00|日本| ||天正6年9月|関東の北条氏政が景虎救援のために弟・氏輝を将として越後魚沼
郡に侵入させ景勝方の坂戸城を攻めたが攻略できず
1578年10月15日-09:00|日本| ||天正6年9月15日|佐竹義重,再び木田余城を攻略(小田氏治,居城を失う)
1578年10月15日-09:00|日本| ||天正6年9月15日|大友勢、新納石城で島津側援軍と合戦
1578年10月24日-09:00|日本| ||天正6年9月24日|織田信長:斎藤新五郎が越中に派遣され越中太田(富山市)城
から敵が退散し,織田方勢力下となる
1578年11月 04:00|チリ| |||ドレイクはマゼラン海峡のはるか南に流され,そこにドレイク海峡を発見
1578年11月3日-09:00|日本| ||天正6年10月4日|月岡野の合戦/斎藤新五郎長龍、越中に河田長親を破り、今和泉
城を攻略
1578年11月11日-09:00|日本| ||天正6年10月12日|九鬼嘉隆、木津川に於いて敵軍を撃破
1578年11月16日-09:00|日本| ||天正6年10月17日|摂津守護の荒木村重が信長にそむき、本願寺顕如・足利義昭・
毛利輝元と盟約を結ぶ
1578年11月19日-09:00|日本| ||天正6年10月20日|大友軍は切原川東方台地上に本陣を築き日高城攻撃を開始
1578年11月21日-09:00|日本| ||天正6年10月22日|三木城の別所勢が平井山で包囲する羽柴勢を攻撃するも、撃
退される.別所方は長治の弟治定が討たれる
1578年11月22日-09:00|日本| ||天正6年10月23日|三納の反乱軍、平野城を攻め、八代・本城・綾の各城を焼く
1578年11月23日-09:00|日本| ||天正6年10月24日|長倉勘解由左衛門尉、策をもって平野三納を攻める
1578年11月24日-09:00|日本| ||天正6年10月25日|伊賀衆が伊賀丸山城を攻撃、瀧川三郎左衞門、伊勢へ逃亡
1578年11月29日-09:00|日本| ||天正6年11月|神保長住:上杉謙信の急死を契機として兵を与えられて越中へ侵
攻し、一族の神保氏張とともに、上杉軍と戦い、富山城を奪う
1578年12月-01:00|イタリア| |||ベネツィアでヴェロニカ・フランカ贖罪のため救貧院をつくる
1578年12月 04:00|チリ| |||ドレイク,バルパライソを襲撃.砂金を積んだ船を捕獲し,町を焼き払う
1578年12月4日-09:00|日本| ||天正6年11月6日|九鬼嘉隆、大船6艘を率い大阪湾に於いて毛利水軍600余艘を撃
破(第二次木津川沖海戦)
1578年12月7日-09:00|日本| ||天正6年11月9日|大友氏の先鋒が、名貫川に布陣していた島津家久勢を破る
1578年12月10日-09:00|日本| ||天正6年11月12日|田原紹忍率いる大友軍が日向高城を包囲攻撃するが惨敗
1578年12月10日-09:00|日本| ||天正6年11月12日|島津義久、大友義鎮(宗麟)を日向国耳川に於いて撃破
1578年12月14日-09:00|日本| ||天正6年11月16日|高槻城主の高山右近が、織田信長に降伏/所領高槻安堵し播
州芥川2万石を加増
1578年12月22日-09:00|日本| ||天正6年11月24日|織田信長、摂津国刀根山へ進軍し中川清秀(摂津国茨木城主)
を勧降させる
1578年12月23日-09:00|日本| ||天正6年11月25日|武田勝頼軍が甲州へと撤退
1578年12月28日-08:00|中国| ||明・万暦6年12月|明で張居正の丈量(検地)が開始、中国全土を測量
1578年12月29日-09:00|日本| ||天正6年12月|九鬼嘉隆:信長から志摩国など3万5千石を給せられる
1578年12月31日-09:00|日本| ||天正6年12月3日|織田軍、摂津国大矢田城(荒木村重の属城)を陥落させる
1579年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国ユースフはパジャジャラン国を併合
1579年-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アンナジール・アルハサン・ビン・アリ(~1585年)
1579年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王イーアン5世(~1582年)
1579年-01:00|オーストリア/ドイツ| |||<即位>バイエルン公ヴィルヘルム5世(~1597年)
1579年-01:00|ポーランド/ロシア/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国とロシアが戦争
1579年 05:00|パナマ| |||パナマのスペイン軍とシマロンとの間で和平協定
1579年1月1日-09:00|日本| ||天正6年12月4日|秋月種実が筑紫鎮恒と共に大宰府に出陣し、大友家臣高橋紹運
の立て籠もる宝満、岩屋城を攻めるも撃退さる
1600迄(3010件)
1579年1月5日-09:00|日本| ||天正6年12月8日|<有岡城合戦>織田軍堀秀政ら摂津国有岡城を総攻撃するも、攻
略ならず.万見重元が討ち死にする
1579年1月6日-01:00|ベルギー| |||ベルギー南部のカトリック諸州がアラス同盟を結成
1579年1月22日-09:00|日本| ||天正6年12月25日|顕如、信長と講和
1579年1月23日-01:00|オランダ/スペイン| |||南部ネーデルラントはスペインの軍門に屈したが、北部7州はユトレヒト同盟を結成し
て結束を固めた
1579年1月27日-09:00|日本| ||天正7年|稲葉良通(一鉄):美濃清水1万2千石/隠居して別家を立てた/次に重道(
12000石)、道重と続く(-慶長12年常陸筑波に配流、断絶)
1579年1月27日-09:00|日本| ||天正7年1月|讃岐・香川信景、長宗我部元親に降伏/次いで羽床氏・長尾氏も降伏
1579年1月27日-09:00|日本| ||天正7年1月|筑前・秋月種実・筑紫惟門、岩屋城を攻撃するが落とせず
1579年1月27日-09:00|日本| ||天正7年1月|豊前・杉重良、豊前蓑島(行橋)で毛利に叛旗
1579年2月6日 04:00|チリ| |||ドレイク,ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃
1579年2月15日 05:00|ペルー| |||ドレイク,アリカに続きカリャオを襲撃.停泊中のサン・クリストバル号を掠奪
1579年2月17日-08:00|中国| ||明・万暦7年1月22日|万暦帝の首輔の張居正が、書院の全国的な閉鎖を命じる
1579年2月26日-09:00|日本| ||天正7年2月|宇喜多家部将の延原景能、鷺山城を攻略.星賀光重、討死
1579年2月26日-09:00|日本| ||天正7年2月|武田勝頼、厩橋城を開城.上杉家部将の北条高広、武田家に帰属
1579年3月8日-09:00|日本| ||天正7年2月11日|佐野清左衛門尉:旗持城を出て景虎軍を撃破/蓼沼友重とともに
鯨波の景虎軍を降伏させる
1579年3月22日-09:00|日本| ||天正7年2月25日|蓼沼友重:鯨波を攻め、景虎勢を破る
1579年3月27日-09:00|日本| ||天正7年3月|肥後・龍造寺隆信の将・鍋島信昌、大友属城・小代城(小代親伝)を攻
略
1579年3月29日-09:00|日本| ||天正7年3月3日|長曽我部元親は仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らを討
ち取る/土佐兵は更に金光寺を焼き中上館を攻めここにも放火
1579年3月30日-09:00|日本| ||天正7年3月4日|佐野清左衛門尉:琵琶島城、上条城を攻撃。上条城を攻め取り、琵
琶島城と御館を切り離した
1579年4月 06:00|グアテマラ| |||ドレイク,グアテマラの港町グアタルコを襲撃
1579年4月10日-09:00|日本| ||天正7年3月15日|羽柴秀吉旗下の中川瀬兵衞清秀・塩川伯耆守・山崎左馬介・池田
三右衞門が摂津有馬郡道場(蒲公英)城を陥し、城主松原右近大夫貞利自刃
1579年4月12日-09:00|日本| ||天正7年3月17日|上杉景勝軍の総攻撃で御館城はついに陥落/上杉景虎は北条氏
政の小田原城への逃亡を計画し御館城を脱出したが鮫ヶ尾城へたどり着いた
1579年4月12日-09:00|日本| ||天正7年3月17日|真田昌幸、上野・中山城を奪取
1579年4月13日-09:00|日本| ||天正7年3月18日|上杉憲政/御館の乱に巻き込まれて殺害され、山内上杉家の血
筋は断
1579年4月14日-01:00|スペイン| |||スペイン王室がフィリピンとペルー間の直接貿易を禁止
1579年4月19日-09:00|日本| ||天正7年3月24日|府内の御館にいて上杉景勝と対立していた上杉景虎が武田勝
頼に攻められ、鮫尾(さめがお、現在の新井市篭町)で自刃してはてる(御館の乱の終結)
1579年4月23日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでサン・フィリッポ・エ・ジャコモ、コレッジオ・グレリアーノと呼ばれる学校をつくる
1579年4月26日-09:00|日本| ||天正7年4月|下妻城主多賀谷修理大夫重経は多賀谷勘解由大夫経家と倶に常陸
国筑波郡水守城を攻略して小田城を攻めんとし山木に於て梶原美濃守景国と戰ったが敗北
1579年4月26日-09:00|日本| ||天正7年4月1日|岐阜で織田信忠の小姓佐治新太郎が金森甚七郎を刺し殺し切腹
する
1579年5月1日-02:00|リトアニア| |||リトアニアでヴィルノ・アカデミーが創設
1579年5月16日-09:00|日本| ||天正7年4月21日|有岡城から攻勢があり戦闘が起きた。包囲側の織田軍が撃退/
信忠が包囲中の三木城から攻勢があるが,数十人を討ち取り信忠が勝利
1579年5月17日-01:00|ベルギー| |||ベルギー総督ファルネーゼが、アラス同盟と講和を結ぶ/同盟側はフェリペ2世の主権を認
める
1579年5月18日-09:00|日本| ||天正7年4月23日|勝頼江尻に出で家康と対陣
1579年5月20日-09:00|日本| ||天正7年4月25日|摂津有馬城を織田信忠軍が攻略、有馬加賀守滅亡
1579年5月24日-09:00|日本| ||天正7年4月29日|長宗我部元親:讃岐羽床城を攻撃
1579年5月27日-09:00|日本| ||天正7年5月02日|<三星城合戦>宇喜多直家、三星城を攻略.後藤元政、討死
1579年5月30日-09:00|日本| ||天正7年5月5日|<氷上城合戦>明智光秀、丹波・氷上城(波多野宗長・宗貞父子)を
攻略し、自刃さす
1579年6月5日-09:00|日本| ||天正7年5月11日|近江に織田信長の安土城天守閣が完成する.五層七階だての絢
爛豪華な天守閣であったとされる
1579年6月8日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王ムダ→同年<即位>サリ・アラム→同年<即位>ザイナル・アラウッディン(~1
5791005死去)
1579年6月17日 00:00|イギリス/アメリカ| |||ドレイク,サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣
言
1579年6月24日-09:00|日本| ||天正7年6月|長宗我部元親、阿波美馬郡重清城攻略
1579年6月24日-09:00|日本| ||天正7年6月01日|明智光秀、丹波八上城(波多野秀治・秀尚)を攻略
1579年6月25日-09:00|日本| ||天正7年6月2日|降伏した丹波八上城の波多野秀治・秀尚兄弟が安土で磔にされ、
波多野氏は滅ぶ
1600迄(3010件)
1579年7月6日-09:00|日本| ||天正7年6月13日|竹中半兵衛が病没/36歳(誕生:天文13(1544))/羽柴秀吉の軍師
1579年7月8日-09:00|日本| ||天正7年6月15日|多賀谷重経は平沼龍嵜普門寺を新地脊上ヶ原の砂沼辺りに移し
て、沿音山普門寺と号す
1579年7月27日-09:00|日本| ||天正7年7月04日|陸奥/南部方の比山六郎・七郎兄弟・滝本重行らが津軽に侵攻す
るが、津軽方が撃退する(六羽川合戦)
1579年8月11日-09:00|日本| ||天正7年7月19日|織田信長:織田信忠に命じて津田与八・前田玄以・赤座七郎右衞
門に井戸才介将元を殺させる
1579年8月11日-09:00|日本| ||天正7年7月19日|明智光秀が宇津頼重の居城丹波宇津城を攻略
1579年8月11日-09:00|日本| ||天正7年7月19日|明智光秀、波多野一族が籠った丹後・峰山城を攻略.次いで弓木
城(一色義定)を攻略
1579年8月15日-09:00|日本| ||天正7年7月23日|結城晴朝、小山城を攻め、榎本近辺に攻め入る
1579年8月22日-09:00|日本| ||天正7年8月|肥後・島津春忠、葦北に攻め入り、水俣城(深水宗方)を攻撃するが撃
退される
1579年8月22日-09:00|日本| ||天正7年8月|備前・小早川隆景、備前辛川で宇喜多忠家に敗れる
1579年8月23日-09:00|日本| ||天正7年8月2日|教如、石山本願寺を退却
1579年8月29日-09:00|日本| ||天正7年8月08日|越前北ノ庄の柴田勝家、加賀の阿多賀、本折、小松を攻略
1579年8月30日-09:00|日本| ||天正7年8月9日|明智光秀、赤井忠家の丹波国黒井城を攻略.斎藤利三に守備させ
る.赤井家、滅亡.丹波平定
1579年9月4日-09:00|日本| ||天正7年8月14日|足達対馬守等の立花衆、高祖の原田衆と生松原に激戦す
1579年9月18日-09:00|日本| ||天正7年8月28日|加賀白山地獄谷噴火。神社焼失(翌年織田氏三社を再建)
1579年9月19日-09:00|日本| ||天正7年8月29日|徳川家康の正室の築山御前も遠江の富塚で信長の命令で殺さ
れた(甲斐の武田信玄と通報していた疑いにより)
1579年9月21日-09:00|日本| ||天正7年9月|宇喜多直家、信長と講和
1579年9月21日-09:00|日本| ||天正7年9月|真田昌幸、矢沢頼綱(真田幸隆の弟)に沼田城を攻めさせる/矢沢頼
綱ら小川・名胡桃城を攻略
1579年9月21日-09:00|日本| ||天正7年9月01日|伯耆・羽衣石城主・南条元続、毛利に謀反
1579年9月22日-09:00|日本| ||天正7年9月2日|荒木村重、「女子共」を残して摂津国有岡城を脱出、摂津国尼崎城
に籠城
1579年9月25日-09:00|日本| ||天正7年9月5日|北条氏政、勝頼と国交断絶をし、徳川家康と同盟を結ぶ<第1次遠
相同盟>
1579年9月30日-09:00|日本| ||天正7年9月10日|<三木平田合戦>三木城に兵糧を入れようとして,籠城する別所
氏の軍勢が打って出て羽柴秀吉と合戦になるが,秀吉は敵部将数十人を討ち取って勝利
1579年10月2日-09:00|日本| ||天正7年9月12日|織田信忠が尼崎を攻撃
1579年10月3日-09:00|日本| ||天正7年9月13日|徳川家康、北条氏政の要請を受けて、駿河に侵攻し、持舟城を陥
落させる
1579年10月5日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王アラウッディン・マンスール・シャー(~1585年)
1579年10月5日-09:00|日本| ||天正7年9月15日|岡崎・松平信康が家康により遠江二股城で自刃させられる/21
歳(誕生:1559)
1579年10月6日-09:00|日本| ||天正7年9月16日|織田信雄、伊賀に侵攻するも敗退<第1次伊賀合戦>
1579年10月9日-09:00|日本| ||天正7年9月19日|荒木村重を欠いた伊丹城が信長に落される
1579年10月9日-09:00|日本| ||天正7年9月19日|徳川家康、武田側の遠江国遠目城・遠江国持船城を攻略
1579年10月10日-09:00|日本| ||天正7年9月20日|土佐国清水寺金堂造営
1579年10月12日-02:00|トルコ| |||オスマン朝大宰相ソコルルが暗殺される
1579年10月20日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ニコロ・ドリア(~15811020)
1579年10月20日-09:00|日本| ||天正7年冬|葛西晴信、陸奥流荘(現岩手県平泉町)を侵略した富沢貞綱、貞運父
子の内乱を鎮め
1579年10月20日-09:00|日本| ||天正7年10月|大友軍、耳川南岸にて島津家久軍を撃破/島津氏の拠点・高城に進
攻
1579年10月20日-09:00|日本| ||天正7年10月|筑前・一万田統賢、杷木で龍造寺軍と戦う
1579年10月20日-09:00|日本| ||天正7年10月|徳川家康、高天神城を攻める
1579年10月24日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||バイエルン公ヴィルヘルム5世即位(アルブレヒト5世の息子,~1597年10月15日退位)
1579年11月3日-09:00|日本| ||天正7年10月15日|摂津国有岡城の外の「カワメ市場」が裏切りにより焼亡。織田軍・
荒木軍で多数の死者が出た
1579年11月4日-01:00|ポーランド| |||<即位>チェシン公(シロンスク・ピャスト家)アダム・ヴァツワフ(~16170713死去)
1579年11月18日-09:00|日本| ||天正7年10月30日|小西行長・安宅信康が室津から乗り出し毛利水軍を家嶋に追
い上げる/宇喜多直家が信長に降伏
1579年11月20日-09:00|日本| ||天正7年11月02日|筑後・龍造寺隆信、大友属城・山下城(蒲池鑑広)を攻略
1579年11月21日-09:00|日本| ||天正7年11月03日|龍造寺隆信が筑後山下城を攻略.城主蒲池鑑広は降伏
1579年11月29日-01:00|フランス| |||フランスのコンデ親王が、ラ・フェールを急襲し、第7次ユグノー戦争が始まる
1579年11月30日-09:00|日本| ||天正7年11月12日|島津軍の攻撃により大友軍の先鋒が崩れ,宗麟、務志賀より
逃げ帰る
1579年12月7日-09:00|日本| ||天正7年11月19日|有岡落城。滝川一益の調略で有岡城に内応があり,一益の軍兵
1600迄(3010件)
を城内に引き入れた
1579年12月18日-09:00|日本| ||天正7年12月|<御着城合戦>羽柴秀吉に攻められ播磨・御着城落城.小寺政職は
英賀城に逃亡
1579年12月18日-09:00|日本| ||天正7年12月|播州高砂城落城。梶原景秀、沼島からさらに引田へ移る
1579年12月30日-09:00|日本| ||天正7年12月13日|伊丹に残された荒木村重の人質の内,122人を尼崎で磔にし,
510余人を焼殺
1580年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1596)4代マウラナ・ムハマッド即位
1580年-07:00|ラオス| |||<再位>ラーンサーン王朝国王セーン・スリンタルサイ王(2度目~1582年)
1580年-05:00|カザフスタン| |||<即位>カザン・ハン国ハン:シガイ[ジャーニー・ベクの七男ジャディクの次男](~1582年)
1580年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フローニンゲン州・フリースラント州総督オラニエ公ウィレム1世[ナッサウ=ディレンブル
ク伯ヴィルヘルムの長男](~15840710死去)
1580年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教フーゴ・アンブロス・ド・モントカーダ(~1586年)
1580年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公にカルロ・エマヌエーレ1世即位(-1630)
1580年-01:00|フランス| |||フランス全土にペストやはしかなどの疫病が流行し、多くの死者がでる
1580年-01:00|フランス| |||モンテーニュが「随想録」を執筆
1580年 00:00|世界| |||地球の気候が寒冷期にはいり、氷河が進行
1580年 00:00|ポルトガル/スペイン| |||アルバ公指揮下のスペイン軍がポルトガルに侵入し、王位を主張するドン・アントニオの軍
を撃ち破り、ポルトガルを制圧
1580年 03:00|アルゼンチン| |||アルゼンチン北西部のサンタフェで本国人の横暴に反対する「7人の統領の反乱」発生
1580年 04:00|チリ| |||ウィリチェ族とピクンチェ族が大反乱
1580年1月-05:30|インド| |||ベンガル、ビハール地方で反乱が勃発
1580年1月2日-09:00|日本| ||天正7年12月16日|京都六条河原に於いて村井貞勝を「奉行」とし荒木村重子息・女
房衆らの処刑を断行
1580年1月17日-09:00|日本|立正大学|天正8年|日蓮宗の教育機関として下総国飯高郷に飯高壇林・飯高寺を創立
1580年1月22日-09:00|日本| ||天正8年1月6日|羽柴秀吉が宮の上砦を乗取り、別所彦進友之が三木城本丸へ退
却
1580年1月27日-09:00|日本| ||天正8年1月11日|鷹の尾の別所山城吉親が三木城本丸に退却。三木城本丸が焼け
る
1580年1月31日 00:00|ポルトガル/スペイン| |||ポルトガル国王エンリケ1世が没し、スペイン王が継承権を宣言
1580年2月2日-09:00|日本| ||天正8年1月17日|羽柴秀吉の包囲作戦に耐えてきた三木城(兵庫県三木市)の別所
長治が、城中の諸兵の命と引き換えに、弟友之・伯父賀相とともに自害/23歳/戦国大名としての別所氏は滅亡
1580年2月6日-09:00|日本| ||天正8年1月21日|真田昌幸は海野中務太輔を先駆として総勢七百余騎で夜のうち
に利根川を渡り明徳寺城を占拠
1580年2月16日-09:00|日本| ||天正8年2月2日|戸次道雪、十時摂津守をして早良郡鳥飼村の肥前勢を討たしむ
1580年2月24日-09:00|日本| ||天正8年2月10日|筑後・蒲池鎮並、柳川に籠城し龍造寺隆信に叛旗
1580年2月26日-09:00|日本| ||天正8年2月12日|芳情軍、武田勢と深沢で戦う
1580年2月28日-09:00|日本| ||天正8年2月14日|秀吉に湯原春綱攻めを命じられた宇喜多秀家の属城美作の寺
畑城が、吉川元春に落とされる
1580年3月6日-09:00|日本| ||天正8年2月21日|徳川家康、駿河国駿府城を占領
1580年3月9日-09:00|日本| ||天正8年2月24日|北条氏照/氏邦、谷田部城を攻略し、多賀谷経明(52)/経命(17)父
子が戦死
1580年3月12日-09:00|日本| ||天正8年2月27日|織田信忠、信濃国鳥居峠から信濃国飯田に進軍し大島城を攻略
/織田信忠は大島城を河尻秀隆・毛利良勝に守備させる
1580年3月16日-09:00|日本| ||天正8年3月|宇喜多直家が草刈重継の美作信山城を攻めるが敗北、隠岐土佐守戦
死
1580年3月16日-09:00|日本| ||天正8年3月|島津氏についた隈本城主城親賢らが大友方の肥後・阿蘇氏を攻めた
が阿蘇氏重臣の御船城主甲斐宗運によって白川亘過瀬で撃退された
1580年3月17日-09:00|日本| ||天正8年3月2日|織田信忠(中将殿)、信濃国高遠城を攻略し武田信豊(典厩)・仁科
盛信(武田四郎舎弟)以下を「打果」
1580年3月24日-09:00|日本| ||天正8年3月9日|上杉景勝、佐々成政を越中国小出城に攻撃
1580年3月30日-09:00|日本| ||天正8年3月15日|勝頼、伊豆に侵攻し、武田水軍と北条水軍が伊豆沖で海戦に及
び、引き分ける
1580年4月2日-09:00|日本| ||天正8年3月18日|肥前の神代・執行両家の衆、荒平城主小田部新介を攻め
1580年4月6日-09:00|日本| ||天正8年3月22日|徳川軍、武田属城となっていた遠江国高天神城を攻撃
1580年4月8日-09:00|日本| ||天正8年3月24日|長連竜ら、越中国に侵攻してきた上杉景勝を撃破
1580年4月9日-09:00|日本| ||天正8年3月25日|土岐治英と岡見彦五郎が協力し多賀谷氏の谷田部城を攻撃
1580年4月9日-09:00|日本| ||天正8年3月25日|武藏国の八王子城主北條陸奥守氏照、鉢形城主北條左ヱ門佐氏
邦らが筑波郡の谷田部城主多賀谷淡路守政伯を攻め破って討取り攻略したが、下妻勢の多賀谷彦次郎重康、同
信濃守政顯らが小田原勢を逆襲して再び之れを攻略して取り戻した
1580年4月11日-09:00|日本| ||天正8年3月27日|武田信廉、上武国境付近で北条氏邦と戦う
1580年4月15日-09:00|日本| ||天正8年閏3月2日|池田勝三郎恒興・池田勝九郎元助・池田幸親(輝政)と花隈城守
兵と戦闘
1600迄(3010件)
1580年4月18日-09:00|日本| ||天正8年閏3月05日|石山本願寺顕如が信長との和議の誓詞へ署名/石山合戦終結
1580年4月22日-09:00|日本| ||天正8年閏3月09日|<飯山合戦>織田家部将の長連竜、温井景隆に勝利
1580年4月22日-09:00|日本| ||天正8年閏3月9日|柴田勝家が加賀に攻め入り,能登の末盛城(石川県羽咋郡)に
せまる
1580年4月29日-09:00|日本| ||天正8年閏3月16日|尼崎城の荒木村重が毛利の元へ逃れる
1580年5月13日-09:00|日本| ||天正8年閏3月30日|菱脇(石川県鹿島郡)で長連竜が,七尾の温井景隆を破る。そ
の後,温井景隆は織田家に降伏
1580年5月14日-09:00|日本| ||天正8年4月|<野々市合戦>織田家部将の柴田勝家、加賀・金沢御堂を攻略
1580年5月14日-09:00|日本| ||天正8年4月|里見義頼、上総小櫃川上流域へ兵を進め、久留里・千本・亀山の諸城
を攻略/佐貫開城し、梅王丸出家
1580年5月14日-09:00|日本| ||天正8年4月上旬|多賀谷重経は筑波郡大穂村の篠崎に於て梶原景国と戰ったが
敗北して下妻に帰陣
1580年5月22日-09:00|日本| ||天正8年4月9日|攝津石山本願寺の顕如光佐、大坂を退去/主戦派の教如は石山本
願寺に留まる
1580年5月26日-09:00|日本| ||天正8年4月13日|豊後・大友宗麟・義統父子、謀反した田北紹鉄を討つ
1580年6月-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペインのフィリピン総督ペニャローサがマニラに着任
1580年6月4日-09:00|日本| ||天正8年4月22日|上杉景勝、越後中郡に侵攻<栃尾城合戦>本庄秀綱、敗走
1580年6月5日-09:00|日本| ||天正8年4月23日|佐久間盛政、金沢御坊を攻略/加賀一国を領して、尾山(金沢)城
に入った
1580年6月6日-09:00|日本| ||天正8年4月24日|羽柴秀吉が播磨宍粟郡の宇野民部居城を攻め大勝/その後,毛利
攻めの最前線である姫路の英賀城(三木通秋)を攻略.播磨平定
1580年6月7日-09:00|日本| ||天正8年4月25日|羽柴秀吉、備中国巣蜘塚城を攻撃
1580年6月11日 03:00|アルゼンチン| |||ガライがブエノスアイレス市を再建,ラ・トリニダーと命名
1580年6月12日-09:00|日本| ||天正8年5月|桑山重晴:但馬竹田1万石/拝領(-天正13年紀伊和歌山へ)
1580年6月12日-09:00|日本| ||天正8年5月|島津氏、相良領肥後水俣を攻める/日向からも出兵
1580年6月13日-09:00|日本| ||天正8年5月2日|羽柴秀吉、備中国河屋城・備中国加茂城・備中国亀石城を攻撃
1580年6月15日-09:00|日本| ||天正8年5月4日|勝頼、真田昌幸に命じて上野沼田城を攻撃し開城させる
1580年6月16日-09:00|日本| ||天正8年5月05日|<菱脇合戦>織田家部将の長連竜、温井景隆に勝利
1580年6月17日-09:00|日本| ||天正8年5月06日|武田家部将の真田昌幸、沼田城を攻略
1580年6月19日-09:00|日本| ||天正8年5月8日|羽柴秀吉、備中国高松城を包囲し川を切って水攻めにす
1580年6月21日-09:00|日本| ||天正8年5月10日|<長水城合戦>羽柴秀吉軍に攻められ長水城(宇野政頼)落城
1580年6月30日-09:00|日本| ||天正8年5月19日|紀伊国一揆、中島堀城を攻撃
1580年7月1日-09:00|日本| ||天正8年5月20日|四条橋、流失
1580年7月1日-09:00|日本| ||天正8年5月20日|中川清秀、紀伊国一揆から中島堀城を奪回
1580年7月2日-09:00|日本| ||天正8年5月21日|<有子山城合戦>山名祐豊、織田軍と交戦中に病死
1580年7月2日-09:00|日本| ||天正8年5月21日|但馬・羽柴秀長、出石城を攻略、山名祐豊死亡し山名氏滅ぶ/次い
で因幡に侵入
1580年7月3日-09:00|日本| ||天正8年5月22日|長連竜、卯刻に能登国棚木城を攻略、長景連(上杉景勝家臣)を討
取
1580年7月7日-09:00|日本| ||天正8年5月26日|<第1次鳥取城合戦>織田家部将の羽柴秀吉、鹿野城を開城
1580年7月9日-09:00|日本| ||天正8年5月28日|波川玄蕃が謀反、長宗我部元親責めて自殺させる
1580年7月13日-09:00|日本| ||天正8年6月02日|織田信長軍が荒木村重の拠点、尼崎城を攻略
1580年7月16日-09:00|日本| ||天正8年6月5日|羽柴秀吉、播磨国宍栗郡の長水山城を陥落
1580年7月17日-09:00|日本| ||天正8年6月6日|秀吉は鳥取攻めの軍を起こし城主の山名豊国を降した
1580年7月20日-09:00|日本| ||天正8年6月09日|<菱脇合戦>織田家部将の長連竜、温井景隆に再度勝利
1580年7月21日-09:00|日本| ||天正8年6月10日|湯原国信(上杉家臣)、富山から出撃してきた佐々成政を撃退/
佐々成政一族3名および兵数百余を討ち取
1580年7月24日-09:00|日本| ||天正8年6月13日|羽柴秀吉(筑州)、丹波国勝龍寺城を「落居」させ
1580年7月28日-09:00|日本| ||天正8年6月17日|<死去>陸奥国の武将・戦国大名蘆名盛氏
1580年7月31日-09:00|日本| ||天正8年6月20日|神余親綱は自刃し三条城は上杉景勝に降伏
1580年8月7日-09:00|日本| ||天正8年6月27日|長連竜、遊佐続光・遊佐四郎右衛門を捕獲し斬首
1580年8月9日-09:00|日本| ||天正8年6月29日|勝頼、駿河・伊豆で北条氏政と対戦
1580年8月10日-09:00|日本| ||天正8年6月30日|信濃上田城の真田昌幸が北条氏の沼田城を奪取
1580年8月11日-09:00|日本| ||天正8年7月|柴田勝家が七尾城、奪回.能登平定
1580年8月11日-09:00|日本| ||天正8年7月|龍造寺隆信、筑前西南9郡を獲得
1580年8月12日-09:00|日本| ||天正8年7月02日|<花隈城合戦>織田家部将の池田恒興、花隈城を攻略.摂津平定
1580年8月12日-09:00|日本| ||天正8年7月02日|<三条城合戦>神余親綱、討死.御館の乱が終結
1580年8月14日-09:00|日本| ||天正8年7月04日|正木憲時(上総大多喜城主)、里見氏に背き上総興津城を根拠地
として房州に攻め入ったが敗れる
1580年8月17日-09:00|日本| ||天正8年7月7日|羽柴秀吉旗下龜井新十郎茲矩が兵主源六の因幡氣多郡金剛城(
汚登路免城・コンコノ城・踊見ノ城)を陥す
1580年8月17日-09:00|日本| ||天正8年7月07日|越後・上杉景勝、三条城(神余親綱)を攻略し、御館の乱およそ治
1600迄(3010件)
まる
1580年8月23日-09:00|日本| ||天正8年7月13日|本願寺教如、摂津国辻城・安田城が陥落したことで織田信長に
屈服
1580年8月30日-01:00|フランス/イタリア| |||<即位>サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世(~16300726死去)
1580年9月9日-09:00|日本| ||天正8年8月|長井坂城は真田家の海野輝幸に攻め落とされる
1580年9月9日-09:00|日本| ||天正8年8月|島津義久は肥後水俣城の相良義陽を攻め肥後国南部を占領
1580年9月9日-09:00|日本| ||天正8年8月|北条氏照・氏邦、牛久に出陣し、常陸・谷田部城を攻略
1580年9月10日-09:00|日本| ||天正8年8月02日|織田信長、攝津を池田信輝父子に与える
1580年9月10日-09:00|日本| ||天正8年8月02日|長岡藤孝(三淵晴員の長男):山城長岡→丹後舞鶴12万石/次に
細川忠興(長岡藤孝の長男)が嗣ぐ(-慶長5年豊前中津へ)
1580年9月10日-09:00|日本| ||天正8年8月2日|本願寺顕如の子教如は徹底抗戦していたが、ついに雑賀へ退き、
石山本願寺は焼失
1580年9月10日-09:00|日本| ||天正8年8月02日|明智光秀:丹波一国を与えられ亀山城主となり明智秀満を福知
山に封じる
1580年9月11日 00:00|ポルトガル/スペイン| |||スペイン国王フェリペ2世が、ポルトガル国王に即位することを宣言
1580年9月14日-01:00|バチカン| |||改暦委員会が、グレゴリウス13世へ提出する正式の報告書に署名/アロイシウス・リリウスのア
ルゴリズムがほとんどそのまま採用される/グレゴリウス13世はこの案に賛成し、実施を1581年10月と決める(実際は1
年間延期される)
1580年9月20日-09:00|日本| ||天正8年8月12日|徳川軍の鳥居元忠・水野勝成、信濃国黒駒に於いて北条氏忠の
率いる8000余の軍勢を撃つ
1580年9月21日-09:00|日本| ||天正8年8月13日|吉川元春、伯耆・羽衣石城(南条元続)を攻略
1580年9月23日-09:00|日本| ||天正8年8月15日|佐久間信盛が無策無能を理由に息子の信栄ともども信長に追
放された
1580年9月23日-09:00|日本| ||天正8年8月15日|上総・里見義頼・正木頼忠、大多喜城主・正木憲時の謀反を鎮圧.
正木憲時は大多喜城に逃げ帰った
1580年9月24日-09:00|日本| ||天正8年8月16日|佐久間盛政、某へ能登国荒山に籠もる温井備前守・三宅備後守(
畠山遺臣)らを攻撃
1580年9月25日-09:00|日本| ||天正8年8月17日|織田信長、宿老林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝を追放
1580年9月26日 00:00|イギリス| |||フランシス=ドレーク、英人初の世界1周を果たしプリマスに帰港
1580年9月26日-09:00|日本| ||天正8年8月18日|黒木中務宗俊(黒木城主)・堀内四郎宗和兄弟がひそかに伊達家
に内通陰謀が発覚/義胤は黒木城を陥とす/兄弟は追放
1580年9月27日-09:00|日本| ||天正8年8月19日|大和国筒井城が破却される
1580年10月9日-09:00|日本| ||天正8年9月01日|黒田孝高:秀吉より播磨揖東郡1万石を与えられた
1580年10月9日-09:00|日本| ||天正8年9月01日|織田信長、長連龍に能登・鹿島半郡を与える
1580年10月21日-09:00|日本| ||天正8年9月13日|長宗我部元親、伊予東宇和郡三滝城主北之川親安を攻め滅ぼ
す
1580年10月28日-09:00|日本| ||天正8年9月20日|武田勝頼、新田・小泉・館林を攻撃し、さらに膳城を攻め、城主
河田備前守らを討ち取る
1580年10月29日-09:00|日本| ||天正8年9月21日|鳥取城主・山名豊国、秀吉に降伏し城を出る
1580年11月3日-09:00|日本| ||天正8年9月26日|下野国下都賀郡小山城主小山下野判官朝矩は織田信長と通じ
て佐竹義重や古内兵郡大輔義重らの了解にもとに陸奥国白河郡の白坂に出陣中に、多賀谷修理亮重経、信太小
太郎ら其の留守を窺って軍勢を率い下野国の小山城を奇襲し城を焼き打ち
1580年11月4日-09:00|日本| ||天正8年9月27日|信太小太郎は時を移さず手兵五百余騎を以て古内の陣屋を攻
め、其の爲めに清音寺の伽藍も焼け落ち城主の小山下野判官朝矩も遂に討死し其の首級は家来の手によって持
ち去られた
1580年11月5日-09:00|日本| ||天正8年9月28日|穴山信君,遠江高天神域を救うため徳川家康の軍と戦い敗れる
1580年11月7日-09:00|日本| ||天正8年10月|羽柴秀吉、因幡に侵入し、若桜鬼ヶ城を攻略
1580年11月7日-09:00|日本| ||天正8年10月|肥後・島津属将・新納忠元、矢崎城(中村惟冬)を攻略
1580年11月13日-09:00|日本| ||天正8年10月7日|豊前・大友義統、毛利家に内通した田原親貫を鞍懸城に攻め、
自刃させる
1580年11月14日-09:00|日本| ||天正8年10月08日|武田勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城を攻落
1580年11月18日-09:00|日本| ||天正8年10月12日|武田勝頼、出陣。北条氏政、後詰め。本庄城等攻略し帰
1580年11月26日-01:00|フランス| |||ル・フルクスの和約が結ばれ、第7次ユグノー戦争が終結
1580年12月7日-09:00|日本| ||天正8年11月|村上義明(戸田氏繁の子):加賀小松66000石/拝領(-慶長3年越後村
上へ)
1580年12月13日-09:00|日本| ||天正8年11月07日|大和・織田信長・郡山城を筒井順慶に与え、大和を治めさせる
1580年12月16日-08:00|中国| ||明・万暦8年11月10日|明の宰相の張居正(55)が、大地主の抵抗を押切って全国
の丈量(検地)を強行し完了
1580年12月17日-09:00|日本| ||天正8年11月11日|北條氏照が常陸国筑波郡谷田部城主多賀谷淡路守経伯を攻
め破って攻略し、経伯は自害
1580年12月23日-09:00|日本| ||天正8年11月17日|加賀・柴田勝家、加賀一向一揆を平定/加賀鳥越城主鈴木出羽
守親子討死
1600迄(3010件)
1581年-08:00|フィリピン| |||マニラに最初の中国人街ができる
1581年-05:30|スリランカ| |||<即位>シタワカ王国(シリ・サンガ・ボ家)ラジャシンハ1世(~1593年)
1581年-04:00|ロシア| |||コサックの首領イェルマークがウラル山脈をこえシベリアへ東進
1581年-01:00|オランダ/スリナム| |||オランダ人がスリナムに入植
1581年-01:00|ドイツ/トルコ| |||ビュスベックが回想録を著し、オスマントルコをヨーロッパに紹介
1581年1月1日-09:00|日本| ||天正8年11月26日|出雲国杵築社できる
1581年1月5日-09:00|日本| ||天正8年12月|大隅の肝付兼護は島津氏に所領を没収され、ここに大名としての肝
付氏は事実上、滅亡
1581年2月3日-09:00|日本| ||天正8年12月末|<祝山城合戦>宇喜多勢は美作祝山城を陥れて、美作の東半分を
制圧
1581年2月4日-08:00|中国| ||明・万暦9年|明がこの年から一条鞭法(銀納)を全国的に施行、銀需要が増大し大
商人台頭
1581年2月19日-09:00|日本| ||天正9年1月16日|大分に初神学校[コレジオ]開校
1581年3月5日-09:00|日本| ||天正9年2月|沼田景義、真田昌幸によって謀殺
1581年3月5日-09:00|日本| ||天正9年2月|佐々成政:越中国の守護となり、富山城に入城し富山を本拠地とした
1581年3月5日-09:00|日本| ||天正9年2月|長宗我部元親、伊予・一条内政を法華津に逐う
1581年3月5日-09:00|日本| ||天正9年2月|北条城の北条輔広も上杉景勝に降伏し越後における景勝の領国支配
体制の基盤が確立される
1581年3月18日-09:00|日本| ||天正9年2月14日|備前岡山城主宇喜多直家死去.53歳
1581年3月25日 00:00|ポルトガル| |||<即位>ポルトガル王国国王(ハプスブルク家)フィリペ1世慎重王[マヌエル1世の孫.スペイン
王フェリペ2世](~15980913死去)
1581年4月4日-09:00|日本| ||天正9年3月|堀秀政:信長から近江国2万5000石を与えられ
1581年4月9日-09:00|日本| ||天正9年3月6日|越中の反織田派国侍たちが上杉景勝を引き入れて一揆
1581年4月12日-09:00|日本| ||天正9年3月09日|佐久間盛政、加賀・白山麓・ニ曲城を攻略し、加賀一揆を鎮圧
1581年4月12日-09:00|日本| ||天正9年3月9日|上杉景勝、佐々成政を越中国小出城に攻撃
1581年4月17日-09:00|日本| ||天正9年3月14日|旧沼田城主・沼田平八郎景義が沼田奪回をはかって挙兵するが
叔父金子泰清に城を明け渡すと沼田城内に引き入れられ殺された
1581年4月25日-09:00|日本| ||天正9年3月22日|徳川軍、武田属城となっていた遠江国高天神城(岡部長教)を攻
略
1581年4月27日-09:00|日本| ||天正9年3月24日|上杉景勝、長連竜らに敗北を喫し、越中国より越後国に帰る
1581年5月1日-09:00|日本| ||天正9年3月28日|菅屋長頼を能登七尾城代として派遣し、能登が平定される
1581年5月2日-09:00|日本| ||天正9年3月29日|武田軍、伊豆久竜津で北条水軍と戦う
1581年5月3日-09:00|日本| ||天正9年4月|伊達輝宗は相馬氏から旧領の小狭井・金山・丸森を奪還しようと坂本
に出陣/相馬軍もこれを聞いて菅谷に陣を張り激戦/小深田合戦/相馬軍の勝利
1581年5月3日-09:00|日本| ||天正9年4月|長尾顕長が再度免鳥城に攻め込み落城させた/佐野宗綱は奪還しよ
うとしが退却
1581年5月16日-09:00|日本| ||天正9年4月14日|<虎倉城合戦>毛利軍、宇喜多軍を攻めるも大敗
1581年5月22日-09:00|日本| ||天正9年4月20日|信長の部将堀秀政が指出検地を拒否した槙尾城を焼き討ちに
する
1581年5月23日-09:00|日本| ||天正9年4月21日|肥後・龍造寺隆信、隈府城(赤星親隆)を攻略/次いで肥後の諸将
隆信に降る
1581年6月5日-09:00|日本| ||天正9年5月04日|<願海寺合戦>織田方、越中・願海寺城を攻略、城主の寺崎盛永父
子をとらえる(6.11,七尾に送られ切腹)
1581年6月11日-09:00|日本| ||天正9年5月10日|織田信長:堀久太郎に命じて槙尾寺の堂塔伽藍・寺庵・僧坊・経
巻を焼き払わせる
1581年6月21日-09:00|日本| ||天正9年5月20日|京都洪水/四条橋、流失
1581年6月30日-09:00|日本| ||天正9年5月29日|筑後柳川城主・蒲池鎮並、佐賀で龍造寺隆信に謀殺
1581年7月16日-09:00|日本| ||天正9年6月16日|上杉家部将の新発田重家、上杉景勝から離反
1581年7月25日-09:00|日本| ||天正9年6月25日|羽柴秀吉が毛利方の吉川経家の鳥取城を包囲し、兵糧攻めにす
る
1581年7月25日-09:00|日本| ||天正9年6月25日|毛利軍中村頼宗、宇喜多属城・美作岩屋城攻略
1581年7月26日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ヘルダーラント州総督ウィレム・ヴァン・デン・ベルフ(~1583年)
1581年7月26日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州総督オラニエ
公ウィレム1世[ナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルムの長男](~15840710死去51歳)
1581年7月26日-01:00|オランダ| |||ネーデルランドの北部ユトレヒト同盟7州、スペインから独立を宣言しネーデルラント連邦共和国
結成
1581年7月27日-09:00|日本| ||天正9年6月27日|菅屋長頼が畠山氏の旧臣遊佐続光らを処刑
1581年7月28日-09:00|日本| ||天正9年6月28日|織田信長、島津氏と大友氏を和睦させる
1581年7月31日-09:00|日本| ||天正9年7月|最上義光、小野寺義道方の鮭延秀綱の拠る出羽鮭延城(真室城)を攻
略
1581年7月31日-09:00|日本| ||天正9年7月|最上義光、天童頼澄の舅細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り出羽小国
城を攻略
1600迄(3010件)
1581年8月5日-09:00|日本| ||天正9年7月06日|越中・木舟城の石黒成綱、長浜で丹羽長秀に謀殺.織田軍、木舟城
を接収
1581年8月12日-09:00|日本| ||天正9年7月13日|伊達輝宗、相馬盛胤の属城陸奥金山・丸森両城を攻め、矢野目の
戦いで敗れる
1581年8月16日-09:00|日本| ||天正9年7月17日|佐和山に幽閉中の寺崎民部左衞門・寺崎喜六郎に切腹を命じる
1581年8月21日-09:00|日本| ||天正9年7月22日|織田信長の元家臣・佐久間信盛が高野山で死去.55歳
1581年8月29日-09:00|日本| ||天正9年8月|北条氏政、海陸より上総・安房に侵入するも、里見義頼これを撃退
1581年9月8日-04:00|ロシア/リトアニア/ポーランド| |||ポーランド・リトアニア共和国軍が、ロシアのプスコフを包囲
1581年9月14日-09:00|日本| ||天正9年8月17日|荒木村重の残党をかくまった高野山を罰するため,高野聖数百
人を捕らえて処刑
1581年9月14日-09:00|日本| ||天正9年8月17日|織田信長、命令にそむいた高野山への復讐で、諸国の高野聖100
0余人を捕らえて殺害
1581年9月14日-09:00|日本| ||天正9年8月17日|前田利家:能登26万3千石を与えられ七尾城主となる(-天正11
年居所を加賀金沢に移動)
1581年9月14日-09:00|日本| ||天正9年8月17日|前田利勝(利長):越前府中3万3千余石/織田信長より拝領
1581年9月14日-09:00|日本| ||天正9年8月17日|能登七尾城の遊佐美作守續光・遊佐四郎右衞門尉盛光が逐電し
たので捕らえて斬首する
1581年9月24日-09:00|日本| ||天正9年8月24日|<備前八浜合戦>毛利氏・穂井田元清と戦い宇喜多基家、流れ弾
に当たって討死
1581年9月27日-09:00|日本| ||天正9年8月30日|伊丹城主荒木村重の家臣5名の匿いと、5名の引き渡し要求のた
めに派遣した信長の使者を殺害したことを理由に、紀伊金剛峯寺の高野聖1300人余りを処刑
1581年9月28日-09:00|日本| ||天正9年9月1日|御館の乱での論功行賞に不満を持った毛利秀広は、山崎秀仙を
春日山城内で殺害/秀仙と同席していた直江信綱が秀広に切りかかるも、返り討ちにされた
1581年9月30日-09:00|日本| ||天正9年9月3日|信雄を総大将として伊賀へ攻め入った。甲賀・信楽・加太(伊賀町
)・大和の四方面から伊賀に進攻
1581年10月7日-01:00|モナコ| |||<即位>モナコ領主シャルル2世(~15890517)
1581年10月8日-09:00|日本| ||天正9年9月11日|<伊賀平定>瞬く間に平定され、織田信雄・信包の分国となった
1581年10月10日-06:30|ミャンマー| |||<死去>タウングー王朝国王バイナウン→<即位>タウングー王朝国王ナンダ[前王の甥](~159
91219)
1581年10月13日-09:00|日本| ||天正9年9月16日|細川藤孝、松井康之ら1千5百の兵が毛利水軍・鹿足元忠ら65艘
を撃退
1581年10月18日-09:00|日本| ||天正9年9月下旬|島津義久、相良属城・肥後水俣城(犬童頼安)を攻略し、相良義
陽降伏
1581年10月21日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジェローラモ・ド・フランキ・トッソ(~15831021)
1581年10月24日-09:00|日本| ||天正9年9月27日|近江日野城主蒲生賦秀が玉瀧口から伊賀に侵攻し、伊賀阿山
郡の土豪田矢三郎左衞門戦死
1581年10月26日-09:00|日本| ||天正9年9月29日|里見家部将の正木憲時、大多喜城内で家臣に暗殺される.房総
争乱が終結
1581年10月27日-09:00|日本| ||天正9年9月30日|武田勝頼、甲斐韮崎新府中城竣工(12月24日,勝頼、新府城に移
る)
1581年10月29日-09:00|日本| ||天正9年10月2日|織田信長、前田利家に能登国を与える、越前国での知行分を菅
屋長頼に宛行
1581年11月11日-09:00|日本| ||天正9年10月15日|伊賀一宮城陥落、伊賀猪田郷の森田浄雲入道康治戦死
1581年11月12日-09:00|日本| ||天正9年10月16日|百地三郎義則・百地太郎太・百地甚六義久に織田軍撹乱され
る
1581年11月20日-09:00|日本| ||天正9年10月24日|羽柴秀吉が山陰海賊の奈佐日本助・佐々木三郎右衞門を丸山
城で自刃させる
1581年11月21日-09:00|日本| ||天正9年10月25日|羽柴秀吉、因幡国鳥取城(山名豊国)を攻略し吉川経家を自刃
させる
1581年11月21日-09:00|日本| ||天正9年10月25日|亀井茲矩、鹿野城主13800石
1581年11月22日-09:00|日本| ||天正9年10月26日|吉川元春が羽衣石城の南条元続を攻めた
1581年11月26日-09:00|日本| ||天正9年11月|荒木重堅:因幡若桜城主となり八東・智頭2郡2万石を領す
1581年11月26日-09:00|日本| ||天正9年11月|尼子氏の遺臣・亀井茲矩が豊臣秀吉に13500石を与えられ因幡国
鹿野城主となる
1581年11月26日-09:00|日本| ||天正9年11月01日|松平忠吉:断絶した東条松平氏の名跡を継ぎ、1歳で三河東条
1万石の領主となる
1581年12月5日-09:00|日本| ||天正9年11月10日|武田四郎勝頼が小田原方の伊豆国戸倉城主笠原新六郎政尭を
誘って降服せしめ攻略
1581年12月12日-09:00|日本| ||天正9年11月17日|羽柴秀吉・池田輝政、淡路国岩屋城・由良城(安宅清康)を攻略
し淡路島を平定/後、仙石秀久に洲本を封じる
1581年12月16日-09:00|日本| ||天正9年11月21日|海野幸光兄弟逆心の報を受けた真田昌幸が、弟信昌ら討手を
岩櫃城の海野館に差し向ける
1600迄(3010件)
1581年12月19日-09:00|日本| ||天正9年11月24日|織田信長、織田勝長を犬山城主とする
1581年12月27日-09:00|日本| ||天正9年12月2日|肥後・相良義陽、島津軍の先鋒として、響原で阿蘇軍(甲斐宗運
)に敗れ、戦死(響原合戦)
1582年-02:00|ルーマニア| |||<再位>モルダヴィア王ペトル6世(3度目~1591年)
1582年 00:00|ポルトガル/スペイン/インドネシア| |||スペインとポルトガルがモルッカ諸島の争奪戦争を開始
1582年 04:00|チリ| |||アラウコ族の抵抗,いったん終焉.ペルー副王の息子ウルタード・デ・メンドサ,チリ初代総督として赴任
1582年 05:00|キューバ| |||海賊リチャード,マンサニージョを襲撃
1582年1月24日-09:00|日本| ||天正10年|(松平)大須賀康隆:遠江横須賀城/拝領(-天正17年上総久留里へ)
1582年1月24日-09:00|日本| ||天正10年|松平忠康:三河東条1万石→駿河沼津4万石/加増移封
1582年1月24日-09:00|日本| ||天正10年|牧野康成:駿河興国寺城/拝領(-天正12年)
1582年1月24日-09:00|日本| ||天正10年1月|肥後・島津義久、相良義陽の死に乗じ、八代古麓城を奪う
1582年1月24日-08:00|中国| ||明・万暦10年1月|淮揚の海氾濫、塩場三十が浸水、溺死者二千六百
1582年2月3日-09:00|日本| ||天正10年1月11日|前田利家が小丸山に居城を築き、所口・府中を併せて七尾と称
す
1582年2月19日-09:00|日本| ||天正10年1月27日|織田信張が鈴木孫一救援のため土橋平次の子を攻める
1582年2月19日-09:00|日本| ||天正10年1月27日|武田家部将の木曾義昌、武田勝頼から離反
1582年2月20日-09:00|日本| ||天正10年1月28日|<天正少年使節>大友、大村、有馬氏のローマ教皇への使節団伊東マ
ンショら長崎を出帆
1582年2月23日-09:00|日本| ||天正10年2月|戸次道雪、早良郡山門村の叛民を討伐/帰途、原田衆これを生松原
に激撃し鉄砲戦を交える
1582年2月23日-09:00|日本| ||天正10年2月|柴田勝家・佐々成政、越中魚津城攻城開始
1582年2月23日-09:00|日本| ||天正10年2月1日|木曽福島城主木曽義昌が武田勝頼に叛旗し織田に内通
1582年2月24日-01:00|バチカン| |||グレゴリウス13世が、旧暦12月10日を12月20日とする暦法改正の布告を行う
1582年2月28日-09:00|日本| ||天正10年2月6日|織田信忠は信濃国下伊那郡に侵攻し、瀧ヶ澤城下条信氏・信昌
父子は逃亡
1582年3月4日-01:00|フランス| |||パリの高級レストラン・トゥールジャルダンが開業
1582年3月8日-09:00|日本| ||天正10年2月14日|高野衆が織田方筒井順慶の陣を襲う
1582年3月8日-09:00|日本| ||天正10年2月14日|織田信忠・滝川一益、木曽峠を越えて信濃国伊那郡岩村に進入.
小笠原信嶺(信濃国松尾城主)、織田信長への恭順を申し入れ
1582年3月10日-09:00|日本| ||天正10年2月16日|徳川家康、遠江小山城を開城させる
1582年3月10日-09:00|日本| ||天正10年2月16日|木曽討伐のため出陣した今福昌和らが、鳥居峠で織田・木曽軍
に敗れる
1582年3月11日-09:00|日本| ||天正10年2月17日|武田家部将の保科正直、飯田城を放棄し逃走
1582年3月12日-09:00|日本| ||天正10年2月18日|織田信忠、信濃国下伊那郡大島城を攻撃/城代武田信綱は逃亡
1582年3月14日-09:00|日本| ||天正10年2月20日|天正遣欧使節/九州のキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠
、ローマに使節を遣わした。伊東マンショ・千々石(チヂワ)ミゲルを正使、中浦ジュリアン・原マルチノを副使とし、ローマ教皇グレゴリウス
一三世に謁見、同一八年帰
1582年3月14日-09:00|日本| ||天正10年2月20日|徳川家康、駿河田中城を囲み、依田信蕃を降す
1582年3月15日-09:00|日本| ||天正10年2月21日|徳川家康、駿河駿府城を占領
1582年3月21日-09:00|日本| ||天正10年2月27日|織田信忠、信濃国鳥居峠から信濃国飯田に進軍し大島城を攻
略/河尻秀隆・毛利良勝に守備させる
1582年3月22日-09:00|日本| ||天正10年2月28日|北条軍が伊豆・駿河に侵攻し、三枚橋城・戸倉城などを攻略
1582年3月23日-09:00|日本| ||天正10年2月29日|穴山梅雪,徳川家康に降る
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月|越中石動山城主小嶋職鎮が上杉景勝に寝返り、神保覺弘と富山城
を奪い城主神保長住を幽閉
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月|織田信忠、信濃上水内郡牧之嶋城を陥し、城主馬場民部信春(昌房)
戰死、信濃上尾城主平林正恒逃亡
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月|大宝寺義氏は大軍を率いて滝沢城を攻略/矢島、打越氏らを降して
岩屋古館に侵攻、さらに二手に分かれ小助川氏の居城の荒沢館に襲いかかった
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月|長宗我部軍、伊予・三間に侵入/西園寺公広これを撃退
1582年3月24日-08:00|中国| |||杭州で月給額の削減をめぐり兵士が反乱
1582年3月24日-08:00|中国| ||明・万暦10年3月|杭州で月給額の削減をめぐり兵士が反乱する
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月1日|駿河江尻城主・穴山信君(梅雪)が徳川家康に投降
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月1日|徳川家康、駿河国田中城を攻略
1582年3月24日-09:00|日本| ||天正10年3月1日|北条氏が深沢城を攻略
1582年3月25日-09:00|日本| ||天正10年3月2日|織田信忠、信濃国高遠城を攻略し仁科盛信・小山田昌行・今福昌
和・原貞胤らが全滅
1582年3月25日-09:00|日本| ||天正10年3月02日|北条氏が駿河国の富士川以東を制圧
1582年3月26日-09:00|日本| ||天正10年3月3日|高野衆が紀伊菖蒲谷に布陣する織田陣を襲う
1582年3月26日-09:00|日本| ||天正10年3月3日|織田信忠、上諏訪に進攻し諏訪大明神を焼く
1582年3月26日-09:00|日本| ||天正10年3月3日|武田勝頼、新府城に火をかけ、郡内岩殿城をめざし、逃亡/この
日、深志城が自落
1600迄(3010件)
1582年3月29日-09:00|日本| ||天正10年3月6日|織田信忠が甲府を占領
1582年3月30日-09:00|日本| ||天正10年3月7日|織田信忠、府中に入り、一條大輔・清野美作守・朝比奈摂津守・諏
訪越中守・武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守・山縣三郎兵衞子息・武田信親を殺害、武田信綱(信廉)を府中
相川で殺害
1582年4月1日-09:00|日本| ||天正10年3月09日|武田家部将の小山田信茂、武田勝頼から離反
1582年4月3日-09:00|日本| ||天正10年3月11日|佐々成政・前田利家、越中富山城を奪還/信長は神保長住を越中
から追放
1582年4月3日-09:00|日本| ||天正10年3月11日|柴田勝家・前田利家、越中国魚津城・越中国松倉城を攻囲
1582年4月3日-09:00|日本| ||天正10年3月11日|武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北/田野に於いて
一族・郎党と共に自刃/37歳(誕生:天文15(1546))甲斐武田氏滅亡
1582年4月7日-09:00|日本| ||天正10年3月15日|小山田信茂父子ら斬首される
1582年4月8日-09:00|日本| ||天正10年3月16日|信濃小諸城において、武田信豊が自害
1582年4月9日-09:00|日本| ||天正10年3月17日|羽柴秀吉が織田秀勝を奉じ備前児島に侵攻
1582年4月10日-09:00|日本| ||天正10年3月18日|伊達輝宗は金山城を取り返すため再び出陣/金山城主・佐藤将
監(金山城主)の強烈な反撃にあって退却
1582年4月10日-09:00|日本| ||天正10年3月18日|真田昌幸、織田信長に臣属
1582年4月11日-09:00|日本| ||天正10年3月19日以降|小山城は滝川氏を経て小山秀綱に返還され
1582年4月15日-09:00|日本| ||天正10年3月23日|滝川一益、関東管領に任じられる
1582年4月18日-09:00|日本| ||天正10年3月26日|長宗我部元親:南予に侵入、西園寺氏と戦う
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|(松平)松井康重:駿河三枚橋城(沼津古城)拝領(-天正18年)
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|河尻秀隆、穴山信君の本知を除外した甲斐国および信濃国諏
訪を拝領
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|小笠原貞慶:信濃の一部に所領を与えられる
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|森長可、信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を拝領
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|滝川一益、上野国と信濃国の小県・佐久郡を拝領
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|徳川家康、駿河国を拝領
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|毛利秀頼、信濃国伊那郡を拝領
1582年4月21日-09:00|日本| ||天正10年3月29日|木曽義昌、信濃国木曽谷安堵の上に安曇郡・筑摩郡を拝領
1582年4月25日-09:00|日本| ||天正10年4月3日|織田信忠、謀反人らを匿った塩山恵林寺を焼き討ちし、快川紹
喜ら焼死
1582年4月25日-09:00|日本| ||天正10年4月3日|織田信長、坂井越中守に命じて飯羽間右衞門尉を殺害、長谷川
竹に命じて美濃衆秋山萬可・秋山摂津守を殺害
1582年4月25日-09:00|日本| ||天正10年4月5日|川中島で一揆が起きる
1582年4月29日-09:00|日本| ||天正10年4月7日|森長可,一揆鎮圧
1582年4月30日-09:00|日本| ||天正10年4月8日|駿河持舟城主朝比奈駿河守信置を切腹させる
1582年5月2日-09:00|日本| ||天正10年4月10日|織田信長、恭順した甲斐国の穴山信君へ甲斐国「本地」を安堵し
、甲斐国を宛行
1582年5月6日-09:00|日本| ||天正10年4月14日|宇喜多直家、羽柴秀家ら備中宮路山城、冠山城を攻略
1582年5月13日-09:00|日本| ||天正10年4月21日|彗星が現れる
1582年5月17日-09:00|日本| ||天正10年4月25日|羽柴秀吉、備中国冠山城の城主林三郎左衛門・松田孫次郎およ
び三百人を討ち果た
1582年5月17日-09:00|日本| ||天正10年4月25日|羽柴秀吉、備中国巣蜘塚城を攻略
1582年5月17日-09:00|日本| ||天正10年4月25日|羽柴方の宇喜多忠家が備中宮路山城を落とす
1582年5月19日-09:00|日本| ||天正10年4月27日|信濃伊那郡の菅沼定忠が伊那郡知久平で牛久保城主牧野康成
と戦い戦死
1582年5月20日-09:00|日本| ||天正10年4月28日|九戸政実、陸奥国和賀郡河崎城(金ヶ崎城)を夜襲により攻め
落とす
1582年5月22日-09:00|日本| ||天正10年5月|伊達政宗、相馬属城・陸奥丸森城を攻略
1582年5月22日-09:00|日本| ||天正10年5月|上杉景勝家臣長與一景連が海上より奥能登を襲い、棚木城に篭も
る
1582年5月23日-09:00|日本| ||天正10年5月2日|羽柴秀吉、備中国河屋城・加茂城・亀石城を攻略
1582年5月24日-09:00|日本| ||天正10年5月03日|羽柴秀吉、備中国河屋城を陥落
1582年5月28日-09:00|日本| ||天正10年5月7日|羽柴秀吉が、毛利氏の武将清水宗治の守る備中高松城を包囲し
、水攻め作戦を開始
1582年6月1日-09:00|日本| ||天正10年5月11日|三好康長が四国攻め先鋒として勝瑞(徳島県藍住町)に着き一
宮と蛮山(夷山)の両城(ともに徳島市内)を攻め落とした
1582年6月5日-09:00|日本| ||天正10年5月15日|上杉景勝が越中天神山に陣を置き、織田勢と戦う
1582年6月7日-09:00|日本| ||天正10年5月17日|信濃伊那郡の武田遺臣菅沼定吉(浄秀)殺害
1582年6月10日-09:00|日本| ||天正10年5月20日|長景連(正院川尻城主)再び海路から奥能登に攻め込む。棚木
城を落とすが、長連龍の攻撃によって落城
1582年6月13日-09:00|日本| ||天正10年5月23日|<関川合戦>織田家部将の森長可、田切城を攻略
1582年6月13日-09:00|日本| ||天正10年5月23日|滝川一益が越後に攻め入ろうとして三国峠を攻めた
1600迄(3010件)
1582年6月17日-09:00|日本| ||天正10年5月27日|織田信長家臣の森長可が上杉景勝の留守に乗じ信濃から越後
境を侵す。上杉景勝は越後春日山城危機の報に接し、越中から陣を払い帰国
1582年6月18日-09:00|日本| ||天正10年5月28日|細川忠興が一色義清の丹後弓木城を落とす
1582年6月20日-08:00|中国| ||明・万暦10年6月|明の宰相張居正が死去し10年間の綱紀粛正政治に幕、死因は媚
薬の過飲
1582年6月21日-09:00|日本| ||天正10年6月2日|佐々成政が柴田勝家らの来援で上杉方中条景泰の拠る越中魚
津城を落とす
1582年6月21日-05:00|日本| ||天正10年6月2日|<本能寺の変>未明,織田信長が明智光秀に急襲され、自害/49歳
(誕生:天文3(1534)0512);織田信忠、京都妙覚寺を出て二条御所(下御所)に籠もったところ、同じく明智光秀が
襲撃し後刻「打死」す/村井貞勝(村井春長軒)以下も「悉打死」した/二条御所炎上
1582年6月22日-09:00|日本| ||天正10年6月03日|穴山信君、山城宇治田原で領民に殺害される/42歳(誕生:天文
10(1541))
1582年6月22日-09:00|日本| ||天正10年6月3日|柴田勝家、上杉方の越中魚津城を落とす/山本寺景長(不動山城
主)魚津城にて自刃/竹俣慶綱(越中松倉城)魚津城にて自刃
1582年6月23日-09:00|日本| ||天正10年6月4日|3日に本能寺の変を知った羽柴秀吉軍が毛利軍と講和/備中高
松城は落城し、清水宗治自刃/急ぎ撤退開始
1582年6月23日-09:00|日本| ||天正10年6月4日|上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から
川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める
1582年6月23日-09:00|日本| ||天正10年6月04日|備前・毛利・宇喜多和睦し、備前・備中・美作を宇喜多領とする
1582年6月23日-09:00|日本| ||天正10年6月4日|明智光秀、近江国安土城をはじめとする近江・美濃の大半を平
定
1582年6月24日-09:00|日本| ||天正10年6月5日|織田信孝が丹羽長秀とともに明智光秀の女婿津田信澄を大坂
城に攻め、これを討つ
1582年6月24日-09:00|日本| ||天正10年6月5日|明智光秀が長浜城・佐和山城を占領、焼け落ちた瀬田橋を修理
して安土城に入城、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る
1582年6月25日-09:00|日本| ||天正10年6月06日|毛利軍、備中高松から撤収
1582年6月26日-09:00|日本| ||天正10年6月7日|柴田勝家は上杉軍に敗れて越前へ退却
1582年6月26日-09:00|日本| ||天正10年6月7日|北條氏政が上野国に於て織田方の部將瀧川左近將監一益を破
って追撃
1582年6月27日-09:00|日本| ||天正10年6月08日|森長可、越後二本木から撤退
1582年6月28日-09:00|日本| ||天正10年6月9日|羽柴秀吉が一隊を淡路島洲本に派遣し、明智方の将菅平平右衛
門尉を攻撃
1582年7月1日-09:00|日本| ||天正10年6月12日|羽柴秀吉軍先鋒隊、京都山崎に於いて明智軍と交
1582年7月1日-09:00|日本| ||天正10年6月12日|中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領、明智軍先鋒と小
競り合いとなる
1582年7月2日-09:00|日本| ||天正10年6月13日|明智光秀、山崎で織田信孝・羽柴秀勝・羽柴秀吉等と交戦、敗れ
る
1582年7月2日-09:00|日本| ||天正10年6月13日|明智光秀、逃走中に京都郊外小栗栖村の土民に殺害される/55
歳(誕生:享禄1(1528))
1582年7月3日-09:00|日本| ||天正10年6月14日|秀吉軍の先鋒高山重友・中川清秀らが明智光秀の亀山城を攻め
落とす
1582年7月3日-09:00|日本| ||天正10年6月14日|勝龍寺城は秀吉軍の攻撃を支えられず落城
1582年7月4日-09:00|日本| ||天正10年6月15日|近江国安土城、安土山下からの「類火」により焼失
1582年7月4日-09:00|日本| ||天正10年6月15日|堀秀政隊、坂本城を包囲/明智秀満は、光秀の妻子及び妻(光秀
の娘)を刺殺し、城に火を掛けて自殺
1582年7月5日-09:00|日本| ||天正10年6月16日|丹羽長秀が佐和山城を陥れる
1582年7月6日-09:00|日本| ||天正10年6月17日|斎藤利三、京都引き回しの上斬首される
1582年7月7日-09:00|日本| ||天正10年6月18日|甲斐の新領主河尻秀隆が一揆によって討ち取られる
1582年7月7日-09:00|日本| ||天正10年6月18日|滝川一益は倉賀野へ出陣/神流川にて北条氏邦の軍を破る
1582年7月8日-09:00|日本| ||天正10年6月19日|滝川一益、北条氏直との一戦で大敗/一益は箕輪から信濃小諸
に入り小諸城を蘆田(衣田)信シゲに渡し、木曽経由で本領長島に帰った
1582年7月13日-09:00|日本| ||天正10年6月24日|佐竹義重が下野国烏山城主那須資胤と和睦
1582年7月15日-09:00|日本| ||天正10年6月26日|森長可、東濃攻めを始め、可児郡大森城(可児市大森)、上恵土
館(可児市上恵土)を攻略
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>/柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の四人が
尾張国清洲城にて会談、信長の嗣子三法師を定め遺領を処分
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>羽柴秀吉、丹波・播磨・山城・河内を受領;羽柴秀勝
が丹波を領有
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>柴田勝家、越前・北近江三郡(旧羽柴領)を領有;柴
田豊勝(勝家の甥)が近江長浜6万石(旧秀吉本領)
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>織田三法師、近江坂田郡2万5千石(堀秀政が管理)
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>織田信孝、美濃・北伊勢二郡を領有
1600迄(3010件)
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>織田信雄、尾張・南伊勢五郡を領有
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>滝川一益、伊勢長島のみ旧領安堵
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>丹羽長秀、若狭・西近江二郡(旧明智領)を領有.近
江坂本城主となった
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>池田恒興、摂津池田・伊丹に大阪と尼崎を新たに
領した
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|<清洲会議>堀秀政、近江佐和山20万石受領(-天正13年7月)
1582年7月16日-09:00|日本| ||天正10年6月27日|谷衛友:丹波山家16000石/羽柴秀吉から拝領/以後衛政(弟衛
冬:1500石、弟衛之:2500石、甥衛清:2千石分与1万石)、衛広、照憑(広頼)、衛衝、衛将、衛秀、衛量、衛萬、衛弥、衛昉
、衛弼、衛滋と続く(-明治4年)
1582年7月20日-09:00|日本| ||天正10年7月|<川中島対陣>上杉と北条が講和.上杉家は高井郡、水内郡、更科郡、
埴科郡を獲得.北条家は佐久郡、小県郡、安曇郡、筑摩郡、諏訪郡を獲得,真田家、木曾家、諏訪家などは北条家に
帰属
1582年7月21日-09:00|日本| ||天正10年7月3日|森長可、米田城(加茂郡川辺町)、馬串山砦(美濃加茂市下米田)
を攻略
1582年7月22日-09:00|日本| ||天正10年7月4日|森長可、加治田城(加茂郡富加町)を落城させる
1582年7月28日-09:00|日本| ||天正10年7月9日|徳川家康が甲斐侵攻を開始
1582年7月30日-09:00|日本| ||天正10年7月11日|秀吉、丹後国内の旧明智領を細川忠興に与える。
1582年7月31日-09:00|日本| ||天正10年7月12日|葛西晴信、重臣寺崎吉次を遣わし、陸奥和賀郡河崎城を攻める
が、九戸勢が吉次を討死させ、これを撃退
1582年7月31日-09:00|日本| ||天正10年7月12日|真田昌幸、北条氏に臣従
1582年7月31日-09:00|日本| ||天正10年7月12日|北条氏直、信濃小県郡海野平に進攻、小諸城主依田信蕃を攻め
る
1582年8月4日-09:00|日本| ||天正10年7月16日|小笠原貞慶、旧領信濃深志城を回復し松本と改称する
1582年8月5日-09:00|日本| ||天正10年7月17日|<深志城合戦>小笠原貞慶、深志城を攻略
1582年8月7日-09:00|日本| ||天正10年7月19日|武田元明、明智光秀に加担したため丹羽長秀によって自害を命
じられて、若狭武田氏は滅亡
1582年8月12日-09:00|日本| ||天正10年7月24日|松野篤通、那須領興野に攻め入る
1582年8月18日-09:00|日本| ||天正10年8月|仙石秀久:近江野洲→淡路洲本5万石(-天正13年讃岐へ)
1582年8月18日-09:00|日本| ||天正10年8月|那波顕宗(那波城主)高広に攻められるが、宇津木下綱と共に撃退
1582年8月18日-09:00|日本| ||天正10年8月|武藤義氏、出羽由利郡に侵入し、安東愛季と戦う(荒沢合戦)
1582年8月18日-08:00|中国| ||明・万暦10年8月|マテオ・リッチがマカオに上陸し布教活動を開始
1582年8月19日-09:00|日本| ||天正10年8月2日|那須資晴、武茂守綱/豊綱父子を攻める
1582年8月23日-09:00|日本| ||天正10年8月06日|香西佳清、長宗我部軍と香西郡伊勢馬場・西光寺等で戦う.香
川信景の仲裁により和議を結び、長宗我部親政に降る
1582年8月24日-09:00|日本| ||天正10年8月7日|羽柴秀吉が浅野長吉・杉原家次を京都奉行に任命/杉原家次:近
江国内で3万2000石を与えられ
1582年8月27日-09:00|日本| ||天正10年8月10日|徳川家康が甲斐新府に着陣、若神子で北条氏直とにらみ合い
となる
1582年8月29日-09:00|日本| ||天正10年8月12日|徳川軍の鳥居元忠・水野勝成、信濃国黒駒に於いて北条氏忠の
率いる8000余の軍勢を撃退
1582年9月1日-09:00|日本| ||天正10年8月15日|伯耆佐陀の杉原景盛が兄元盛を殺害したため、毛利輝元が諸将
に命じてこれを討つ
1582年9月2日-09:00|日本| ||天正10年8月16日|佐久間盛政、某へ能登国荒山に籠もる温井備前守・三宅備後守(
畠山遺臣)らを攻略
1582年9月8日-09:00|日本| ||天正10年8月22日|木曾義昌、北条陣営から離反し徳川家に帰属
1582年9月11日-01:00|イタリア| |||ベネツィア共和国、グレゴリウス暦を受け入れる
1582年9月12日-09:00|日本| ||天正10年8月26日|毛利軍と島津軍衝突
1582年9月14日-09:00|日本| ||天正10年8月28日|奥羽では小野寺義道と由利十二頭が対立、雄物川畔大沢で戦
う/黄昏となり両軍は兵を引いた
1582年9月14日-09:00|日本| ||天正10年8月28日|土佐の長宗我部元親が阿波に侵入し、中富川で十河存保を破
る
1582年9月16日-09:00|日本| ||天正10年8月30日|徳川家康が木曾義昌に本領を安堵
1582年9月17日-09:00|日本| ||天正10年9月|仙石秀久、秀吉の命により十河存保を救うため、兵3000を率い小豆
島より渡海.屋島城を攻め、長宗我部軍と戦うが、攻めきれず小豆島に退く
1582年9月18日-09:00|日本| ||天正10年9月2日|越後・上杉景勝、新発田城(新発田重家)を攻撃/長期戦になり景
勝はこの秋一旦兵を引き揚げた
1582年9月23日-09:00|日本| ||天正10年9月07日|獅子吼城が夜襲によって徳川軍に落とされた
1582年9月24日-09:00|日本| ||天正10年9月8日|細川忠興、若狭・丹後守護一色義定を丹後宮津城にて誘殺し、弓
木城を接収/一色氏は完全に滅亡
1582年10月-08:00|中国/ミャンマー| |||ビルマが雲南に侵入
1582年10月2日-09:00|日本| ||天正10年9月16日|長宗我部元親:新開道善(実綱)を丈六寺に誘殺
1600迄(3010件)
1582年10月15日-01:00|バチカン/イタリア/ポーランド/ポルトガル/スペイン/リトアニア| |||カトリック教国でグレゴリオ暦が施行される(ユ
リウス暦では10月5日に相当する)
1582年10月17日-09:00|日本| ||天正10年9月21日|長宗我部元親、阿波勝瑞城(十河存保)を攻略/存保、讃岐虎丸
城に敗走
1582年10月24日-09:00|日本| ||天正10年9月28日|真田昌幸、徳川家康に属し上州長野一跡と甲州の2千貫文と
諏訪郡知行を安堵される
1582年10月26日-08:00|中国| ||明・万暦10年10月|蘇州ら地に大水、家屋千万・田地十万頃損壊、死者二万
1582年10月27日-09:00|日本| ||天正10年10月|姉小路頼綱は小島氏、鍋山氏を討って、飛騨を完全に制圧
1582年10月27日-09:00|日本| ||天正10年10月|田尻鑑種、龍造寺氏と断ち島津氏に通じる/龍造寺隆信、田尻氏
を攻める
1582年11月5日-09:00|日本| ||天正10年10月10日|長宗我部元親、阿波岩倉城を攻略
1582年11月5日-09:00|日本| ||天正10年10月10日|北条氏邦、上野沼田城(真田昌幸)を攻撃
1582年11月14日-09:00|日本| ||天正10年10月19日|真田昌幸、北条方の小県郡祢津昌綱を攻める
1582年11月22日-09:00|日本| ||天正10年10月27日|飛騨/江馬輝盛は、三木(姉小路)自綱を討つべく荒城郷八日
町に戦って敗死し、江馬氏は滅
1582年11月22日-09:00|日本| ||天正10年10月27日|北條勢、上野津久田で真田勢と戦う
1582年11月23日-09:00|日本| ||天正10年10月28日|北条氏邦、沼田城を攻め敗退
1582年11月24日-09:00|日本| ||天正10年10月29日|北条・徳川講和(信濃佐久郡・甲斐都留郡を徳川領、上州沼田
を北条領とする)
1582年11月26日-09:00|日本| ||天正10年11月|肥前・有馬晴信、島津氏に降る
1582年11月27日-09:00|日本| ||天正10年11月2日|柴田勝家、前田利家を山崎城に派遣し、秀吉と講和
1582年12月20日-01:00|フランス| |||フランスでグレゴリオ暦が採用される(ユリウス暦で12月10日)
1582年12月25日-09:00|日本| ||天正10年冬|山崎堅家:摂津山崎城→摂津三田3万石/次に家盛(23000石)が嗣ぐ
(-慶長5年因幡若桜へ)
1582年12月25日-09:00|日本| ||天正10年12月|<五箇篠山城合戦>北畠具親が蜂起するも2日で落城
1582年12月25日-09:00|日本| ||天正10年12月|那波顕宗(那波城主)、再度北条高広に攻められるが、宇津木下綱
と共に撃退
1582年12月25日-09:00|日本| ||天正10年12月|肥後・御船城主・甲斐宗運、島津氏に降伏
1582年12月28日-09:00|日本| ||天正10年12月4日|土岐頼芸(美濃国守護)、没
1583年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ナコーン・ノーイ王(~1583年タウングー王朝の直接支配~1591年)
1583年-06:30|ミャンマー/タイ| |||アユタヤ朝が下ビルマを攻撃
1583年-05:30|インド| |||<復位>グジャラート・スルターン朝ムザファール・シャー3世(同年ムガール帝国に併合)
1583年-05:00|カザフスタン| |||<即位>カザン・ハン国ハン:テウェケル[シガイの次男](~1598年)
1583年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>シャイバーニー朝ハン:アブドゥッラーフ2世[イスカンダルの子](~1598年)
1583年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ペトル2世(ペーター2世)(~1585年)
1583年 00:00|モロッコ/ニジェール| |||カネム・ボヌル国がモロッコに臣従
1583年1月1日-01:00|ベルギー/オランダ| |||フランドルとベルギーの一部でグレゴリオ暦が採用される/ここでは12月21日の
次の日が1月1日になり、クリスマスが飛ばされたことになる
1583年1月2日-09:00|日本| ||天正10年12月9日|羽柴秀吉、柴田勝豊を近江国長浜城に攻撃し降伏させる
1583年1月13日-09:00|日本| ||天正10年12月20日|羽柴秀吉、織田信孝を美濃国岐阜城に攻撃し降伏させる
1583年1月17日-01:00|オランダ| |||アンジュー公フランソワが、ネーデルランドのアントウェルペンに侵入
1583年1月24日-09:00|日本| ||天正11年1月|岩間党の謀反に乗じて一益は伊勢亀山に入城/さらに峰城を攻略
1583年1月24日-09:00|日本| ||天正11年1月|森長可の家臣・加木屋宇右衛門、杉ヶ洞で(金山城山麓東)久々利城
主・土岐三河守を討ち取る
1583年1月24日-09:00|日本| ||天正11年1月|森長可、高山城、妻木城(各、土岐市)を攻略
1583年1月24日-09:00|日本| ||天正11年1月|真田軍が信州丸子で小県郡の諸氏と合戦。和田・大門・長窪・武石・
内村・丸子氏らを破る
1583年1月24日-08:00|中国/ミャンマー| ||明・万暦11年1月|ビルマ王ナンダバインの軍が雲南に来襲、順寧を落とす
1583年1月24日-09:00|日本| ||天正11年1月1日|佐野宗綱は足利城の長尾顕長を奇襲しようとして須花坂で狙
撃を受けて討ち死に/北条氏は榎本城を奪還した
1583年2月-01:00|ドイツ| |||ケルン大司教領の帰属をめぐってケルン戦争が起こる
1583年2月3日-09:00|日本| ||天正11年1月11日|庄内の大宝寺勢は再度、小助川氏の居城の荒沢城を攻撃/由利
十二頭は安東愛季の後ろ盾のもと芋川を挟んで対峙/大宝寺勢は庄内に引き上げ
1583年2月5日-09:00|日本| ||天正11年1月13日|長宗我部元親、伊予北川城(北川親安)を攻略
1583年2月13日-09:00|日本| ||天正11年1月21日|古河公方:5代足利義氏/死去/形式的に続いていた古河公方は
名実ともに滅亡
1583年3月2日-09:00|日本| ||天正11年閏1月8日|森長可、立花山(武儀郡)の遠藤慶隆を攻撃
1583年3月24日-09:00|日本| ||天正11年2月|松浦道可、肥前国長徳寺を建立
1583年3月24日-09:00|日本| ||天正11年2月|中村一氏:和泉岸和田3万石城主となる、紀州根来・雑賀・泉南地方
の一向宗徒の押えとする
1583年3月24日-09:00|日本| ||天正11年2月|美濃・羽柴秀吉、岐阜城(織田信孝)を包囲
1583年3月31日-09:00|日本| ||天正11年2月8日|新発田刑部は木場城を攻める
1600迄(3010件)
1583年4月2日-09:00|日本| ||天正11年2月10日|羽柴秀吉、伊勢国へ出陣し滝川一益を長島城に攻囲して屈服さ
せる
1583年4月4日-09:00|日本| ||天正11年2月12日|秀吉軍が、勝家側の峯城を攻める
1583年4月5日-09:00|日本| ||天正11年2月13日|常陸国新治郡藤沢城主小田讃岐守氏治入道天菴は五才の嫡子
金寿丸盛治(彦太郎守治)を太田城主佐竹義重に質子として差し出して降伏
1583年4月8日-09:00|日本| ||天正11年2月16日|羽柴秀吉が、勝家側の桑名城を攻める
1583年4月8日-09:00|日本| ||天正11年2月16日|羽柴秀吉が、滝川一益の武将佐治新介が守る伊勢亀山城を攻め
る
1583年4月12日-09:00|日本| ||天正11年2月20日|羽柴秀吉、峯城・亀山城・国府城を制圧
1583年4月14日-09:00|日本| ||天正11年2月22日|佐竹義重/宇都宮国綱、那須資晴と那須領那珂川近辺で戦う
1583年4月14日-09:00|日本| ||天正11年2月22日|常陸/小田氏治:佐竹軍の攻勢に遂に敗れて孫を人質に差し出
して降伏
1583年4月17日-09:00|日本| ||天正11年2月25日|小笠原長時、陸奥国会津において家臣によって謀殺
1583年4月22日-09:00|日本| ||天正11年3月|安藤勢、比内の浅利勝頼を扇田の長岡城で謀殺し、領地を奪う
1583年4月22日-09:00|日本| ||天正11年3月|越中・佐々成政、魚津・松倉城を攻撃
1583年4月22日-09:00|日本| ||天正11年3月|重家が再び木場城を攻めた
1583年4月22日-09:00|日本| ||天正11年3月|木場城将の菱沼、山吉らも新潟城を攻めたが戦果はなかった
1583年4月24日-09:00|日本| ||天正11年3月3日|柴田勝家が兵を上げ、秀吉にいどむ
1583年4月24日-09:00|日本| ||天正11年3月3日|秀吉に攻められた伊勢の亀山城が落城
1583年4月27日-09:00|日本| ||天正11年3月6日|義氏は前森蔵人に大浦城を攻められ自刃,義興が家督を継ぐ
1583年4月27日-09:00|日本| ||天正11年3月06日|最上義光(最上氏11代当主)は隣国の大宝寺義氏を謀略で滅ぼ
して、その所領を奪った
1583年5月5日-09:00|日本| ||天正11年3月14日|更科郡屋代城主屋代秀正,本領安堵
1583年5月6日-09:00|日本| ||天正11年3月15日|戸次道雪、高橋紹運、許斐岳を攻めてこれを陥す
1583年5月11日-09:00|日本| ||天正11年3月20日|山吉景長(木場城守将)新発田勢を破る
1583年5月19日-09:00|日本| ||天正11年3月28日|信濃・徳川家康、諏訪頼忠に諏訪郡を所領安堵
1583年5月22日-09:00|日本| ||天正11年4月|景勝は自ら新潟津に出陣、新潟城を攻撃するが兵を納めた
1583年5月22日-09:00|日本| ||天正11年4月|相馬勢は伊具郡金津付近で伊達勢と戦い敗れ金津城を失った
1583年5月22日-09:00|日本| ||天正11年4月|淡路国菅平右衛門が香宗我部親秦に降る
1583年6月3日-09:00|日本| ||天正11年4月13日|秀吉方にあった柴田勝豊の武将山路正国が堂木山で勝家方に
寝返る/秀吉はこれを捕らえて磔とする
1583年6月6日-09:00|日本| ||天正11年4月16日|織田信孝、滝川一益が挙兵
1583年6月9日-09:00|日本| ||天正11年4月19日|山吉景長(木場城守将)新発田勢を破る
1583年6月10日-09:00|日本| ||天正11年4月20日|佐久間盛政、賤ヶ岳の大岩山を守備する中川清秀を奇襲し戦
死させる
1583年6月11日-09:00|日本| ||天正11年4月21日|羽柴秀吉の軍勢が柴田勝家方の佐久間盛政・柴田勝政らを賎ケ
岳周辺で破り、さらに勝家の本陣を突き崩す(賎ケ岳の戦い)勝家は越前北ノ庄に落ちのびる
1583年6月11日-09:00|日本| ||天正11年4月21日|長宗我部元親:仙石秀久を讃岐引田で破る
1583年6月12日-09:00|日本| ||天正11年4月22日|羽柴秀吉、越前国府中に前田利家を降伏させる
1583年6月14日-09:00|日本| ||天正11年4月24日|柴田勝家とお市の方が北ノ庄城で自刃/62歳(誕生:大永2(1522
))羽柴秀吉に包囲されていた
1583年6月14日-09:00|日本| ||天正11年4月24日|織田信孝は織田信雄からの降伏勧告を受け入れて岐阜城を明
け渡し尾張国に退いた
1583年6月15日-09:00|日本| ||天正11年4月25日|羽柴秀吉が加賀国を平定/北陸諸将をくだす
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|伊奈郡高遠城主保科正直、旧領回復
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|伊奈郡松尾城主小笠原信嶺、旧領回復
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|蒲生氏郷:秀吉の伊勢滝川一益攻めに加わり、柴田勝家の滅亡
後、日野を安堵された
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|小県郡上田城主真田昌幸、家康に臣従
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|諏訪郡高島城主諏訪頼忠、家康に臣従
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|前田利家:加賀金沢120万石/能登一国加増/以後利長、利常(11
9万2760石)、光高、綱紀(102万5020石)、吉徳、宗辰、重熙、重靖、重教、治脩、斉広、斉泰、慶寧と続く(-明治4年)
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|前田利勝(利長):松任4万石に転封される
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|丹羽長秀:賤ヶ岳の合戦後、越前一国・加賀二郡123万余石を領
有し、越前府中の城主となる
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|東筑摩郡深志城主小笠原貞慶、家康に臣従
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|徳永寿昌:美濃高松3万石/拝領(-慶長5年美濃高須へ)
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|堀秀政:近江長浜→近江佐和山9万石(-天正13年越前北庄へ)
1583年6月18日-09:00|日本| ||天正11年4月28日|堀尾吉晴(可晴):丹波内→若狭高浜17000石(~天正13年近江坂
本へ)
1583年6月20日-09:00|日本| ||天正11年5月|伊達輝宗・政宗父子、相馬義胤方の陸奥丸森城を攻撃
1583年6月20日-09:00|日本| ||天正11年5月|出羽/浅利勝頼、安東愛季に謀殺され
1600迄(3010件)
1583年6月20日-08:00|中国| ||明・万暦11年5月|この月頃、女真族のヌルハチ(24)が、蘇子河上流の興京付近で、100
人足らずの兵で挙兵
1583年6月21日-09:00|日本| ||天正11年5月2日|織田信雄、岐阜の織田信孝を攻め、信孝が、尾張内海の大御堂寺
で自刃/26歳(誕生:永禄1(1558))
1583年7月1日-09:00|日本| ||天正11年5月12日|佐久間盛政:山城槙島で斬られ、六条河原に梟された
1583年7月9日-09:00|日本| ||天正11年5月20日|森長可、苗木城(中津川市苗木)を攻略し東濃平定
1583年7月14日-09:00|日本| ||天正11年5月25日|池田信輝(恒興):大坂城→美濃大垣15万石/息子池田元助、岐
阜城を拝領/次に輝政が嗣ぐ(-天正12年)
1583年7月19日-09:00|日本| ||天正11年6月|森長可(長一):信濃海津→美濃金山7万石/次に忠政が嗣ぐ(-慶長5
年信濃海津へ)
1583年7月29日-09:00|日本| ||天正11年6月11日|伊予虎丸城、讃岐十河城落城
1583年8月-01:00|オランダ| |||オラニエ公ウィレムがネーデルランドの主権を確立
1583年8月5日 00:00|イギリス/カナダ| |||イギリス人ギルバートが、ニューファウンドランドをイギリス領と宣言/イギリス最初の植民地
となる
1583年8月20日-01:00|スウェーデン/ロシア| ||ロシア暦8月10日|イヴァン4世(雷帝)が、スウェーデンと休戦条約を締結し、リヴォニア
戦争が終結
1583年8月29日-09:00|日本| ||天正11年7月29日|山吉景長(木場城守将)新発田勢を破る
1583年8月29日-09:00|日本| ||天正11年7月12日|秀吉から一益に3千石、子の一時に1万2千石を与えられた
1583年9月16日-09:00|日本| ||天正11年8月1日|秀吉から滝川一益に3千石、子の一時に1万2千石を与えられた
1583年9月16日-09:00|日本| ||天正11年8月1日|滝川一益、秀吉に降る/秀吉、領国を諸将に分与
1583年10月-01:00|オーストリア| |||オーストリアの一部がグレゴリオ暦を採用
1583年10月3日-09:00|日本| ||天正11年8月18日|越後・上杉景勝、八幡で新発田重家を破る
1583年10月11日-09:00|日本| ||天正11年8年26日|高取城主越智玄蕃自害
1583年10月16日-09:00|日本| ||天正11年9月|伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼、肥後堅志田城を攻撃
1583年10月16日-09:00|日本| ||天正11年9月1日|高塩政平の居城・山本城を益子家宗らが襲うが高塩勢の前に
一度敗北
1583年10月22日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ジンメルン家系選帝侯)フリードリヒ4世(~16100919)
1583年10月31日-09:00|日本| ||天正11年9月16日|益子家宗が水谷蟠龍ら結城氏の加勢を得て高塩氏が立て篭
もる山本城を攻め、山本城から高塩氏を追い落とす
1583年11月3日-09:00|日本| ||天正11年9月19日|三木氏は瀬宗域を攻め滅ぼす/これにより内ヶ島氏が領地の
白川地方を除いて飛騨国をほぼ手中にした/自綱は高堂城を居城とし、秀綱を当主として松倉城に移らせた
1583年11月4日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ゲローラモ・シャヴァリ(~15851104)
1583年11月9日-09:00|日本| ||天正11年9月25日|重家は新発田城を討って出、池ノ端城主の高橋掃部之介らとと
もに上杉軍に襲い掛かった(放生橋の合戦)景勝は杉原右近の他、菅名綱輔、上野九兵衛らを失って、水原城は新
発田方の手に渡った
1583年11月12日-09:00|日本| ||天正11年9月28日|小笠原貞慶:家康から信濃松本城を与えられ、大名となる
1583年11月15日-09:00|日本| ||天正11年10月|小笠原貞慶、信濃・木曽義昌を攻撃し、服属させる
1583年11月15日-09:00|日本| ||天正11年10月|壬生/皆川/多賀谷/水谷家、後北条家に降伏
1583年11月15日-09:00|日本| ||天正11年10月|大友義統、豊前佐野城を攻略
1583年12月14日-09:00|日本| ||天正11年11月|羽柴秀長:秀吉から姫路城を与えられる
1583年12月14日-09:00|日本| ||天正11年11月|肥後で島津と龍造寺の和議が成立
1583年12月14日-09:00|日本| ||天正11年11月|豊臣秀吉:山城伏見→摂津大坂城/次に秀頼が嗣ぐ(65万7400石)
(-元和1年大坂夏の陣で敗北、改易)
1584年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:初代スルタン、セーナパティ(~1601)/パジャン(スラカルタ地方)王アディヴィジャヤの死後パ
ジャンを併合、ドゥマクも支配下に入れてマタラーム王国を開く
1584年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第7代国王ラジャ・ヒジャウ(緑の女王)(~1616年)
1584年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:サーデト2世ギレイ2世(~1588年)
1584年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ヘルダーラント州総督アドルフ・ヴァン・ニーウェナール(~1589年)
1584年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯ユリウス[エーリヒ2世の従甥](~1589年死去)
1584年-01:00|イタリア| |||<即位>ナポリ王国アマルフィ候フェランテ2世(~16300805)
1584年-01:00|デンマーク| |||クロンボー城完成
1584年-01:00|フランス/アメリカ| |||フランスのラ・ロッシュが第1回北アメリカ遠征を開始
1584年 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||レシフェ周辺のフランス人入植者を駆逐.ポルトガル支配を確立
1584年1月9日-09:00|日本| ||天正11年11月27日|由良国繁/長尾顕長、上野小泉城を攻める(-12月13日)
1584年1月17日-01:00|ドイツ| ||ユリウス暦1月7日|ドイツのカトリック諸邦でグレゴリウス暦が採用される
1584年1月19日-01:00|スペイン/イギリス| ||ユリウス暦1月9日|ロンドンのスペイン大使が追放され、イギリスとスペインの国交が断
絶
1584年1月22日-01:00|スイス| ||ユリウス暦1月12日|スイスでグレゴリオ暦が採用される
1584年2月12日-09:00|日本| ||天正12年1月|伊達輝宗・政宗父子、相馬義胤の属城陸奥金山城を攻略
1584年2月12日-09:00|日本| ||天正12年1月|伊予・御荘勧修寺基経、長宗我部軍に降伏
1584年2月12日-09:00|日本| ||天正12年1月|長尾輝景:川田城を攻めるが真田家に撃退された
1584年2月12日-09:00|日本| ||天正12年1月1日|下野国佐野城主佐野宗綱は再び同国足利岩井山城を攻めたが
1600迄(3010件)
鉄砲で射殺される
1584年2月12日-09:00|日本| ||天正12年1月1日|根来・雑賀衆徒、和泉岸和田城(中村一氏)を攻撃
1584年2月14日-09:00|日本| ||天正12年1月3日|中村一氏、五ヶ所の出城を攻める
1584年2月27日-09:00|日本| ||天正12年1月16日|中村一氏、近木川で対戦/紀州勢敗れる
1584年3月12日-09:00|日本| ||天正12年2月|肥後・龍造寺隆信、合志親為を攻撃
1584年3月12日-09:00|日本| ||天正12年2月|北条氏直、下野宇都宮(宇都宮国綱)を攻撃/佐竹義重、国綱を支援
1584年3月28日-04:00|ロシア| ||ロシア暦3月18日|ロシア皇帝イヴァン4世(雷帝)死去/53歳(誕生:15300825)フョードル1世即位
(-1598)
1584年4月11日-09:00|日本| ||天正12年3月|蒲生氏郷:伊勢松が島城・峯城・加賀野井城を攻略
1584年4月11日-09:00|日本| ||天正12年3月|怡土の原田信種と肥前唐津の波多信時、鹿家海岸ニ於イテ戦イ、原田方
の勝利
1584年4月16日-09:00|日本| ||天正12年3月6日|織田信雄、徳川家康と図り三老臣を斬り、老臣岡田氏の居城尾
張星崎を攻略/秀吉に宣戦布告
1584年4月19日-09:00|日本| ||天正12年3月9日|信雄の将,神戸正武が関盛信、一政親子の居城伊勢亀山襲う
1584年4月23日-09:00|日本| ||天正12年3月13日以降|豊臣秀長:美濃大垣城/拝領(-天正13年)
1584年4月23日-09:00|日本| ||天正12年3月13日|池田元助(大垣城主・恒興の子)は信雄の属城犬山城を陥れ拝
領(-天正14年)
1584年4月27日-09:00|日本| ||天正12年3月17日|羽黒の戦い/徳川家康の先鋒酒井忠次・奥平信昌等が、犬山の
南方一里弱のところにある羽黒に陣せる北軍の将、森長可・池田元助を破った
1584年4月27日-09:00|日本| ||天正12年3月17日|毛利輝元の将宍戸元孝が元親の兵と伊予恵良で戦う
1584年4月28日-09:00|日本| ||天正12年3月18日|菅平右衛門が一千余の兵を率いて根来寺救援に向かうも退却
1584年4月28日-09:00|日本| ||天正12年3月18日|徳川家康・織田信雄、尾張小牧山を占領(小牧合戦)
1584年5月 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||スペイン=ポルトガルの合同部隊がバイアを出発。パライーバでフランス船を撃破。河口
から数キロ入った河畔にサン・フェリペ要塞を建設。ポティグアール族は川を上ってきた掃討部隊を待ち伏せ。司令官をはじ
め40人のポルトガル人、多くの先住民兵士を殺害
1584年5月1日-09:00|日本| ||天正12年3月21日|雑賀・根来、海上と陸上から堺まで進撃/岸和田城へ雑賀衆攻め
るが敗走
1584年5月4日-09:00|日本| ||天正12年3月24日|沖田畷の戦いで、有馬・島津連合軍が肥前の龍造寺軍に勝利/龍
造寺隆信戦死/56歳(誕生:享禄2(1529))
1584年5月6日-09:00|日本| ||天正12年3月26日|根来・雑賀衆徒、和泉堺を攻撃
1584年5月8日-09:00|日本| ||天正12年3月28日|北条氏直、下野足利を攻め長尾氏と戦う
1584年5月12日-09:00|日本| ||天正12年4月3日|羽柴秀吉、尾張国から西方へ出馬し美濃国加賀野井城・奥城・竹
鼻城を包囲
1584年5月18日-09:00|日本| ||天正12年4月9日以降|織田信重:伊勢林1万石/拝領(-慶長19年所領収公)
1584年5月18日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでピサーニ=ティエポロ銀行破産
1584年5月18日-09:00|日本| ||天正12年4月9日|長久手の戦い/羽柴秀次・池田恒興・森長可ら、徳川家康本国の
三河侵入を図るが途中の長久手において徳川家康の奇襲により惨敗する/池田恒興父子、森長可が討死
1584年5月22日-09:00|日本| ||天正12年4月13日|羽柴秀吉軍、尾張国に於いて敗戦/小早川秀包、羽柴秀吉と共
に退く
1584年5月22日-09:00|日本| ||天正12年4月13日|羽柴秀吉、木曽川を越えて出陣し犬山城を攻撃
1584年5月22日-09:00|日本| ||天正12年4月13日|那須資晴、川崎塩谷家と沢村で戦う
1584年5月26日-09:00|日本| ||天正12年4月17日|佐竹義重/宇都宮国綱/大田和に在陣、北条氏政/氏直父子は藤
岡にて対陣する(沼尻合戦)
1584年5月31日-09:00|日本| ||天正12年4月22日|佐竹義重軍の一隊が小山表攻撃の陣に移動中に北条氏直軍と
遭遇し北条側が勝利
1584年6月9日-09:00|日本| ||天正12年5月|御子田正治:備中庭瀬2万石/廃絶(小牧合戦で敗戦)
1584年6月9日-09:00|日本| ||天正12年5月|田村清顕・佐竹義重・岩城常隆の調停により、伊達輝宗と相馬義胤が
和睦し金山城と丸森城が伊達氏に返還された
1584年6月15日-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペインがマニラに高等裁判所を設置(王立最高司法院)
1584年7月8日-09:00|日本| ||天正12年6月|長宗我部元親、讃岐十河城を攻略/次いで虎丸城を攻略し、十河存保
を京都に逐う
1584年7月8日-09:00|日本| ||天正12年6月|蘆名盛隆(会津蘆名氏十八代当主)が羽黒山東光寺に参詣した隙を
突いて松本太郎や栗村下総守らが反乱を起こし、黒川城を占拠したが、盛隆はこれを素早く鎮圧
1584年7月10日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フリースラント州総督ディレンブルク伯ウィレム・ローデウェイク[ディレンフ
゙ルク伯ヨハン6世の長男](~16200531)
1584年7月10日-01:00|オランダ| |||ネーデルランド独立の指導者のオラニエ公ウィレムが暗殺される/31歳(誕生:15530416)
1584年7月12日-09:00|日本| ||天正12年6月5日|佐竹方と後北条方で合戦
1584年7月14日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1584/7/4|ウォルター・ローリーの派遣したイギリスの探検隊,現北カロライナ州ロアノ
ーク島を探検.ヴァージニアと命名
1584年7月14日-09:00|日本| ||天正12年6月07日|最上義光、白鳥長久を暗殺して居城出羽谷地城を攻略
1584年7月15日-09:00|日本| ||天正12年6月08日|最上義光、寒河江高基を中野原で破り、居城寒河江城を攻略
1584年7月18日-09:00|日本| ||天正12年6月11日|秀吉、信雄の属城竹ケ鼻城を水攻めにより陥れる
1600迄(3010件)
1584年7月20日-09:00|日本| ||天正12年6月13日|蒲生氏郷:近江日野→伊勢松阪12万石(-天正18年会津若松へ)
1584年7月25日-09:00|日本| ||天正12年6月18日|夜、家康軍は下市場城を攻め崩して九鬼嘉隆を海上に追い出
し前田城も奪った
1584年8月6日-09:00|日本| ||天正12年7月|真田昌幸、室賀山城守信俊を上田城内で謀殺
1584年8月8日-09:00|日本| ||天正12年7月3日|滝川一益は蟹江城を家康軍に明け渡して伊勢三重郡楠に退去
1584年8月8日-09:00|日本| ||天正12年7月3日|北条軍が五覧田を攻略
1584年8月17日-09:00|日本| ||天正12年7月12日|秀吉より滝川一益に3千石、子一時に1万2千石の地が与えられ
た
1584年8月20日-09:00|日本| ||天正12年7月15日|岩舟山の戦い/北条氏直軍が宇都宮国綱・佐竹義重と戦い佐竹
方の退路である岩舟山を抑える
1584年8月20日-09:00|日本| ||天正12年7月15日|秀吉方の軍勢が家康の兵と戦う
1584年8月27日-09:00|日本| ||天正12年7月22日|4月に小田原の北条氏直が下野佐野鯉名の沼尻に攻め込んだ
が宇都宮氏は佐竹氏と力を合わせ110日間に及ぶ長期戦を戦い抜き引き分ける
1584年8月31日-09:00|日本| ||天正12年7月26日|北條氏直が下野国皆川城主皆川山城守廣照を攻め、佐竹義重
と戰ったが間も無く和睦
1584年9月9日-09:00|日本| ||天正12年8月5日|丹羽長秀、溝口秀勝へ4万4千石の領知を宛行
1584年9月13日-01:00|スペイン| |||マドリードの北西のエスコリアルに、エル・エスコリアルの王宮が完成
1584年9月15日-09:00|日本| ||天正12年8月11日|大和の筒井順慶、神経性胃疾で没
1584年9月22日-09:00|日本| ||天正12年8月18日|新発田方の細越将監が接収していた水原城を景勝方の藤田能
登守、島津左京亮、安田上総介、河田摂津守、直江山城守らが攻め細越将監は討ち死に
1584年10月2日-09:00|日本| ||天正12年8月28日|越中の佐々成政が兵を発して前田利家の朝日山の塁を攻める
が敗れ去る
1584年10月2日-09:00|日本| ||天正12年8月28日|秀吉、尾張小牧付近に放火し、徳川の兵を破る
1584年10月4日-09:00|日本| ||天正12年9月|那須資晴は那須に近い佐竹方の松野城を攻めたが資晴配下の大屋
宗国が討ち死にしたため兵を退く
1584年10月13日-09:00|日本| ||天正12年9月10日|佐々成政は、能登末森城を総攻撃
1584年10月14日-09:00|日本| ||天正12年9月11日|前田利家:未明、隠密行動で佐々勢の哨戒線を突破し、佐々軍
を背後から襲う奇襲作戦を敢行/佐々勢主力は大損害を被り総崩れ
1584年10月23日-09:00|日本| ||天正12年9月20日|多賀谷重経が河内郡牛久城主岡見中務少輔保完を破って攻
略
1584年10月30日-09:00|日本| ||天正12年9月27日|龍造寺政家、肥後を島津義久に渡して和睦
1584年11月4日-09:00|日本| ||天正12年10月2日|秀吉、北伊勢攻撃
1584年11月8日-09:00|日本| ||天正12年10月6日|陸奥・蘆名盛隆が側近の大庭三左衛門に殺害される/24歳(誕
生:1561)
1584年11月9日-09:00|日本| ||天正12年10月7日|堀秀政、近江国百済寺の本堂を再建
1584年11月18日-09:00|日本| ||天正12年10月16日|家康は榊原康政を小牧城将とした
1584年11月21日-09:00|日本| ||天正12年10月19日|長宗我部元親が西園寺公広の黒瀬城を落とし、南伊予を平
定
1584年11月21日-09:00|日本| ||天正12年10月19日|北条方、佐野宗綱を攻めるも、宇都宮衆の援軍により新田表
に退散
1584年12月-06:30|ミャンマー/タイ| |||ビルマのナンダパイン王がタイへ侵入
1584年12月16日-09:00|日本| ||天正12年11月15日|羽柴秀吉、織田信雄と伊勢国桑名の南にある矢田川原にお
いて会見し和睦を締
1584年12月28日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,私立の銀行を廃し公立銀行を設立
1584年12月31日-01:00|フランス/スペイン| |||スペインのフェリペ2世が、フランスの旧教同盟とジョワンヴィル協定を結んで財政援
助を約束
1585年-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王バイユン(~15890628死去)
1585年-08:00|フィリピン| |||フィリピンでエンコメンデーロに対する反乱おこる
1585年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ミーニア2世(~1591年)
1585年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州総督オラニエ公マウリッツ[
オラニエ公ウィレム1世の次男](~16250423死去57歳)
1585年-01:00|アフリカ/トルコ| |||オスマン朝の総督アリー・ベイが東アフリカ沿岸一帯を略奪
1585年-01:00|オランダ| |||オランダのステヴィンが「十分の一」を出版しヨーロッパでは始めてとなる10進法の小数表記を導
入
1585年1月1日-01:00|ドイツ/スイス| |||ドイツのカトリック圏とスイスでグレゴリオ暦が採用される
1585年1月12日-09:00|日本| ||天正12年12月12日|羽柴秀吉が徳川家康の第2子於義丸を養子にすることで家康
と和睦
1585年1月12日-09:00|日本| ||天正12年12月12日|北条氏照、下野藤岡城を攻略
1585年1月31日-09:00|日本| ||天正13年|前田利家が前田家の祈願所として金沢城付近に妙立寺創建(石川県金
沢市、1643年移転、忍者寺)
1585年2月3日-09:00|日本| ||天正13年1月4日|北条氏照、由良国繁の金山城・長尾顕長の館林城を攻略
1585年2月11日-09:00|日本| ||天正13年1月12日|加藤光泰:美濃大垣4万石/拝領(-天正13年
1600迄(3010件)
1585年2月11日-09:00|日本| ||天正13年1月12日|池田輝政:美濃大垣⇒美濃岐阜10万石/移封
1585年2月11日-09:00|日本| ||天正13年1月12日|池田長吉:近江佐倉3万石/拝領(-慶長5年因幡鳥取へ)
1585年3月9日-09:00|日本| ||天正13年2月8日|家康、羽柴秀吉と講和
1585年3月19日-09:00|日本| ||天正13年2月18日|小早川秀包、安芸国への下国に際し羽柴秀吉より河内国内に1
万石を宛行われる
1585年3月23日-01:00|バチカン/日本| ||天正13年2月22日|天正遣欧使節がローマのバチカン宮殿帝王の間で、教皇グレゴ
リウス13世に拝謁
1585年3月25日-09:00|日本| ||天正13年2月24日|前田利家、蓮沼で佐々成政と戦う
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年春|備中・高梁川を境に毛利・宇喜多で東西分割とすることで領土問題
解決
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年春|伊予守護・河野通直:長宗我部元親に降伏/長宗我部元親は伊予を制
圧し、四国全土を統一
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年3月|皆川広照:草倉山の合戦で常陸の佐竹氏の援助を得てと戦ったが、
北条氏に降伏
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年3月|秋月の兵、立花城を攻めるも戸次統虎これを撃退
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年3月|水谷正村に攻められ羽石盛長の田野城落城
1585年3月31日-09:00|日本| ||天正13年3月|大浦為信、陸奥外ヶ浜の油川城・蓬田城・横内城を落と
1585年4月9日-09:00|日本| ||天正13年3月10日|秀吉は根来寺を、秀長、秀次を副将として6万余の兵を率いて攻
めた
1585年4月10日-01:00|バチカン| |||225代ローマ教皇グレゴリウス13世死去/83歳(誕生:15020101)暦法改革を行った
1585年4月18日-09:00|日本| ||天正13年3月19日|真田昌幸:信濃上田38000石/秀吉から所領安堵(-慶長5年改易
)
1585年4月19日-09:00|日本| ||天正13年3月20日|秀吉根来雑賀の一揆を降す
1585年4月20日-09:00|日本| ||天正13年3月21日|行春、黄金仏を本尊として新井山梅照院薬王寺(新井薬師)創
建(中野区)<真言宗豊山派>
1585年4月20日-09:00|日本| ||天正13年3月21日|千石堀城落城/夕方、田中城落城/夜、畠中城落城
1585年4月21日-09:00|日本| ||天正13年3月22日|積善寺城、和睦に応じ開城
1585年4月22日-09:00|日本| ||天正13年3月23日|紀伊・羽柴秀吉、根来寺を攻撃/沢城、和睦に応じ開城
1585年4月23日-09:00|日本| ||天正13年3月24日|羽柴秀吉、紀伊国雑賀に侵攻し一揆首領である土橋平之丞の
居城を陥落
1585年4月24日-09:00|日本| ||天正13年3月25日|太田城で鉄砲戦/秀吉方51名討ち死に
1585年4月24日-09:00|日本| ||天正13年3月25日|那須家は宇都宮国綱と薄葉ヶ原で戦闘/宇都宮勢国綱は退却/
那須資晴は手薄であった宇都宮属城の泉城、山田城、宇都野城、乙畑城、鷲宿城などを攻め落とし川崎城に迫っ
たが落とすことは出来なかった
1585年4月30日-09:00|日本| ||天正13年4月|陸奥・南部信直、東政勝に浅瀬石城(大浦為信)を攻めさせるが、撃
退された
1585年5月1日-01:00|バチカン| |||226代教皇シクスト五世(-1590年8月27日)
1585年5月7日-09:00|日本| ||天正13年4月08日|前田利家・利勝(利長):加賀鳥越城を攻める
1585年5月15日-09:00|日本| ||天正13年4月16日|越前・丹羽長秀没/長子長重家督継承したが、家中不和のため、
越前・加賀削封/堀秀政、北ノ庄に封じられる
1585年5月15日-09:00|日本| ||天正13年4月16日|上田重安:豊臣秀吉に直仕し、越前国内で1万石を与えられ
1585年5月15日-09:00|日本| ||天正13年4月16日|太田宗隆:豊臣秀吉の直臣となり、美濃国内で1万石を与えら
1585年5月18日-09:00|日本| ||天正13年4月19日|佐竹義重が下野国鹿沼城主壬生義雄を攻める
1585年5月21日-09:00|日本| ||天正13年4月22日|羽柴秀吉が雑賀一揆の紀伊太田城を落とす
1585年5月25日-09:00|日本| ||天正13年4月26日|仙石秀久および尾藤知宣、宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸、
喜岡城・香西城などを攻撃
1585年5月27日-09:00|日本| ||天正13年4月28日|佐竹義重/宇都宮国綱、北条氏直と鹿沼羽地宝山にて戦う
1585年5月27日-09:00|日本| ||天正13年4月29日|太田左近らが篭る太田城は降伏し左近らは腹を切った
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|桑山重晴:紀伊和歌山4万石/次に一晴が嗣ぐ(叔父元晴:1万石、重
晴:隠居料1万石分知2万石)(-慶長5年大和新庄(布施)へ)
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|青木一矩:紀伊入山1万石/拝領
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|中村一氏:岸和田→近江水口城に移る
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|豊臣秀長が紀州・和泉の2カ国を秀吉から与えられ和歌山城(和歌山
県)築城開始
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|堀内氏善:紀伊新宮2万7千石/豊臣秀吉に属し本領安堵
1585年5月29日-09:00|日本| ||天正13年5月|脇坂安治:摂津能勢1万石/拝領
1585年5月29日-01:00|スペイン/イギリス| ||ユリウス暦5月19日|スペインのフェリペ2世が、スペインの港に停泊するイギリス船の拿
捕を命令/イギリスへの宣戦布告となる
1585年6月5日-09:00|日本| ||天正13年5月08日|真田昌幸の調略により上杉家を離反した高井郡福島城の須田
信正が、上杉景勝の命により川中島海津城代の上條氏に成敗される
1585年6月17日-09:00|日本| ||天正13年5月20日|大浦為信、千徳政武の籠もる陸奥田舎館城を攻略し、津軽地方
から南部勢力を一掃す
1600迄(3010件)
1585年6月23日-09:00|日本| ||天正13年5月26日|北条氏に降伏し、金山城・由良国繁桐生に退去
1585年6月28日-09:00|日本| ||天正13年6月|<移封>蜂須賀家政:播磨龍野→阿波徳島17万5700石/以後至鎮(大
阪の陣の戦功で淡路7万石を加増25万7千石)、忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉
裕、茂韶と続く(-明治4年)
1585年6月28日-09:00|日本| ||天正13年6月|羽柴秀吉、讃岐国高松10万石に仙石秀久を封じる
1585年6月28日-09:00|日本| ||天正13年6月|秀吉による四国征伐で讃岐の香西佳清は下野し、香西氏は滅亡
1585年6月28日-09:00|日本| ||天正13年6月|十河存保は旧領の讃岐十河城2万石を安堵される
1585年6月29日-09:00|日本| ||天正13年6月2日|山内一豊:若狭高浜19800石/拝領(-天正13年近江長浜へ)
1585年6月30日-09:00|日本| ||天正13年6月3日|生駒政親:近江高島郡2万3千石/拝領
1585年7月27日 00:00|イギリス/アメリカ| |||イギリスのローリ卿が北米ヴァージニアのロアノーク島に最初の植民団を送る
1585年7月27日-09:00|日本| ||天正13年7月|下野皆川城が北條氏直の攻撃を受けるも佐竹義重らの支援によっ
て退ける
1585年7月27日-09:00|日本| ||天正13年7月|前田玄以:丹波亀山5万石/拝領
1585年7月27日-09:00|日本| ||天正13年7月|肥後阿蘇勢が島津方の花之山城を攻略
1585年7月27日-09:00|日本| ||天正13年7月01日|<死去>一条兼定(土佐国司、権中納言)
1585年7月30日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第87代ニコロ・ポンテ
1585年8月5日 03:00|ブラジル| |||トバハラ族との関係を回復したMartim Leitaoの部隊がふたたび出撃、ポティグアラ
族の二度にわたる待ち伏せ攻撃を撃破し、Jaguaribe 川方面に進出/フィリペイア砦(現ホアン・ペソア)を建設
1585年8月6日-09:00|日本| ||天正13年7月11日|羽柴秀吉が前関白近衛前久の猶子となり姓を藤原と変え、関白
に就任
1585年8月9日-09:00|日本| ||天正13年7月14日|中国勢は黒川広隆が守る丸山城(高尾城の出城)を攻略(丸山城
の戦い)
1585年8月10日-09:00|日本| ||天正13年7月15日|北信濃上田城の真田昌幸が徳川家康と手切れ、越後の上杉景
勝と結ぶ
1585年8月12日-09:00|日本| ||天正13年7月17日|金子元宅と片岡光綱(長宗我部からの援軍)の籠る伊予・高尾
城が毛利輝元軍に破れて落城、元宅は討ち死に
1585年8月15日-01:00|イタリア| |||<初演>ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ《オッフェルトリウム「マリアは天に昇らされたま
いぬ」》
1585年8月17日-01:00|ベルギー/スペイン| |||スペイン軍が、アントフェルベンを占拠
1585年8月18日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第88代パスクアーレ・チコーニャ(~1595年)
1585年8月20日-09:00|日本| ||天正13年7月25日|秀長軍は谷忠澄の篭る一宮城を攻めた/忠澄は城を脱出し、元
親に降伏を進言
1585年8月20日-09:00|日本| ||天正13年7月25日|長宗我部元親、秀吉に降伏、土佐一国を安堵される
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|<移封>高山右近:高槻4万石→明石6万石
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|<移封>脇坂安治:摂津国能勢郡1万石⇒大和国高取20000石
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|斎村政広:但馬竹田2万2千石に封ぜられ
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|小西行長、摂津守に叙任され、塩飽諸島・小豆島・室津など瀬戸内東
部二万石ほどを領した
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|兵庫柏原八幡宮社殿が豊臣秀吉によって造営
1585年8月25日-09:00|日本| ||天正13年8月|別所重棟:但馬八木15千石/拝領/次に吉治が嗣ぐ(-慶長5年関ヶ原
合戦で西軍に与し改易)
1585年8月29日-09:00|日本| ||天正13年8月05日|元日向の戦国大名だった伊東義祐が堺で死去。74歳
1585年8月30日-09:00|日本| ||天正13年8月06日|安国寺恵瓊:伊予国(愛媛)2万3千石/拝領
1585年8月30日-09:00|日本| ||天正13年8月06日|久留島通総(村上通康の四男):伊予来島14000石/次に長親が
嗣ぐ(-慶長6年豊後森へ)
1585年8月30日-09:00|日本| ||天正13年8月06日|香川之景:豊臣秀吉の四国征伐に際し改易/讃岐香川氏は滅亡
1585年8月30日-09:00|日本| ||天正13年8月06日|小早川隆景:伊予一国35万石に封ぜられた
1585年9月12日-09:00|日本| ||天正13年8月19日|肥後の阿蘇惟光は島津義久の侵攻を受けて領地を追われ降伏
1585年9月15日-09:00|日本| ||天正13年8月22日|<死去>小寺識隆(宗円:黒田孝高父)
1585年9月21日-09:00|日本| ||天正13年8月28日|下野の宇都宮国綱が佐竹氏らの支援によって多気山城を築き
本拠を移す
1585年9月22日-09:00|日本| ||天正13年8月29日|佐々成政、越中国富山城を明け渡し降伏/越中国東部の新川郡
を除く全ての領土没収
1585年9月24日-09:00|日本| ||天正13年閏8月|<移封>前野長康:播磨三木⇒出石5万3千石
1585年9月24日-09:00|日本| ||天正13年閏8月|<移封>明石則実:某所1万石⇒但馬豊岡2万2000石
1585年9月24日-09:00|日本| ||天正13年閏8月|中川秀成:播磨三木城12万石/拝領(-文禄3年)
1585年9月25日-09:00|日本| ||天正13年閏8月2日|真田昌幸、上田に徳川家康軍を迎撃して勝つ(神川合戦)
1585年9月26日-09:00|日本| ||天正13年閏8月3日|真田昌幸、徳川軍に丸子城を攻められるが、落ちず
1585年9月29日-09:00|日本| ||天正13年閏8月06日|佐々成政:越中新川一郡に羽柴秀吉が削封
1585年9月29日-09:00|日本| ||天正13年閏8月06日|秀吉は金森長近に命じて飛騨国主・三木自綱を高堂城に攻
め降伏させる
1585年9月29日-09:00|日本| ||天正13年閏8月06日|前田利勝(利長):秀吉による越中の成政征伐後、越中射水郡
1600迄(3010件)
守山城(高岡市)に転封、成政旧領越中3郡(砺波・射水・婦負)を拝領
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|青山宗勝:豊臣秀吉に仕え、越前国内2万石を与えられ
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|丹羽長重:越前府中123万石→若狭小浜12万石/減封/家臣の
軍律違反/次に長秀(近江佐和山→)が嗣ぐ(-天正13年)
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|長谷川秀一:越前東郷11万石に加増
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|島津勢が肥後堅志田、甲佐城を攻略
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|堀秀政、近江佐和山から越前北庄29万石を与えられる
1585年10月6日-09:00|日本| ||天正13年閏8月13日|堀尾吉晴(可晴):若狭高浜1万7千石→近江佐和山4万石/移
封(-天正18年7月遠江浜松へ)
1585年10月8日-09:00|日本| ||天正13年閏8月15日|甲斐親乗が肥後御船城を退去
1585年10月9日-09:00|日本| ||天正13年閏8月16日|小早川隆景、喜多郡に入って大津(のち大洲)・曽根城を陥れ
る
1585年10月11日-09:00|日本| ||天正13年閏8月18日|<移封>筒井定次(慈明寺左門順国の次男):大和郡山⇒伊賀
上野95千石(-慶長13年家中紊乱により改易)
1585年10月14日-09:00|日本| ||天正13年閏8月21日|<移封>山内一豊:若狭高浜⇒近江長浜2万石(-天正18年遠
江掛川へ)
1585年10月16日-09:00|日本| ||天正13年閏8月23日|豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次が近江八幡43万石を与え
られ八幡山山頂に八幡城(滋賀県近江八幡市)築城開始
1585年10月17日-09:00|日本| ||天正13年閏8月24日|伊達成実・原田宗時の猛攻に小手森城は降伏
1585年10月20日-09:00|日本| ||天正13年閏8月27日|伊達政宗、大内定綱の諸城をすべて攻略し、陸奥小手森城
籠城者全員を撫で斬りにす
1585年10月23日-09:00|日本| ||天正13年9月|伊達政宗が塩松城を攻略し大内定綱を追う
1585年10月23日-09:00|日本| ||天正13年9月|一柳直末:美濃大垣25千石/拝領(-天正17年)
1585年10月23日-09:00|日本| ||天正13年9月|二本松義継(畠山氏の庶流/二本松氏第十四代当主)が伊達政宗と
田村清顕に攻められ降伏
1585年10月24日-09:00|日本| ||天正13年9月2日|梅津伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津
宗三は新発田城に退却して水原城は落城
1585年10月25日-09:00|日本| ||天正13年9月3日|羽柴秀長:大和、紀伊、和泉三国百万石[郡山城]/次に秀保(三
好吉房が三子)が嗣ぐ(-文禄4年4月16日痘瘡により夭折)
1585年10月25日-09:00|日本| ||天正13年9月03日|羽田正親:大和国添下郡4万8千石(小泉城)を与えられる
1585年10月25日-09:00|日本| ||天正13年9月3日|藤堂高虎:紀州攻め、四国攻めの功により、5百4千石加増→紀
州粉河1万石
1585年10月25日-09:00|日本| ||天正13年9月03日|本多利久:大和高取15千石/拝領/以後俊政(25千石)、政武と
続く(-寛永14年無嗣断絶)
1585年10月27日-09:00|日本| ||天正13年9月5日|小早川隆景らの中国勢、道後湯築城を攻め、守将河野通直は隆
景の勧告を受け入れて降伏
1585年10月27日-09:00|日本| ||天正13年9月5日|島津氏は肥後に出ていた島津忠平(義弘)が合志城を攻めて合
志親重を追放
1585年10月31日-09:00|日本| ||天正13年9月09日|秀吉:羽柴氏改め豊臣氏と名乗る
1585年11月3日-09:00|日本| ||天正13年9月12日|筑紫広門、筑前・宝満城を占拠
1585年11月3日-09:00|日本| ||天正13年9月12日|島津氏は筑後に入って堀切城を陥れた
1585年11月4日-09:00|日本| ||天正13年9月13日|高橋紹運の子の統増が守っていた筑前宝満城は筑紫広門に攻
められて陥落し統増は岩屋に逃れている
1585年11月8日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アンブロージオ・ディ・ネグロ(~15871113)
1585年11月16日-09:00|日本| ||天正13年9月25日|奥羽では伊達政宗が大内定綱と戦いを続け結局定綱は不利
をさとって塩松を捨てて二本松に逃走
1585年11月16日-09:00|日本| ||天正13年9月25日|小浜城ののど元である岩角城が片倉景綱・伊達成実・白石宗
実・桜田元親の軍勢に攻め落とされる
1585年11月17日-09:00|日本| ||天正13年9月26日|出羽・小浜城は落城
1585年11月20日-09:00|日本| ||天正13年9月29日|北条勢が沼田城を攻めるが上杉の援軍を得た城代矢沢頼綱
らの勇戦により失敗
1585年11月22日-09:00|日本| ||天正13年10月|<移封>脇坂安治:摂津能勢1万石→淡路洲本33千石(慶長14年伊
予大洲へ)
1585年11月22日-09:00|日本| ||天正13年10月|姉小路頼綱:柴田勝家や佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立/
金森長近の侵攻を受けて降伏し姉小路氏は完全に滅亡
1585年11月29日-09:00|日本| ||天正13年10月8日|陸奥二本松城主畠山義継、伊達輝宗を捕らえ乱戦により義継
・輝宗死す/陸奥高田原の悲劇
1585年12月-01:00|オランダ/イギリス| |||イギリスがユトレヒト同盟の要請によりレスター伯の軍隊をオランダに派遣
1585年12月5日-09:00|日本| ||天正13年10月14日|佐竹方、陸奥中村城を攻略
1585年12月21日-09:00|日本| ||天正13年11月01日|小早川隆景、越智郡能島の村上掃部頭武吉・大和守元吉父子
に対し、周防国屋代島の内来島分・能美島・江田島を与える
1586年-08:00|インドネシア| |||ドゥマク国(中部ジャワ北岸で勢力を誇ったイスラム教国)アディヴィジャヤの死後、パジャン王家は
1600迄(3010件)
マタラーム王国の始祖セーナパティに簒奪される
1586年-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王ヴェンカタ2世(~1614年)
1586年-04:00|ロシア| |||<即位>スルツク公(オレリコ家)ソフィア・オレカイティス(~1692年)分割された領土を統合相続
1586年-02:00|エジプト/トルコ| |||エジプトのオスマン朝守備隊が反乱をおこし、総督を監禁
1586年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)フレゼリク2世(~1587年)
1586年 00:00|イギリス/ペルー| |||イギリスの海賊キャベンディッシュがペルー副王領を荒らす
1586年1月1日 04:00|ドミニカ共和国| |||ドレイク,サントドミンゴを襲撃.シマロンの協力を得て奪取に成功
1586年1月2日-09:00|日本| ||天正13年11月13日|徳川家の重臣石川数正、突如秀吉の元に出奔
1586年1月6日-09:00|日本| ||天正13年11月17日|<人取橋の戦い>伊達政宗軍が二本松・芦名・佐竹連合軍に勝利
1586年1月9日-09:00|日本| ||天正13年11月20日|護摩堂城主・宮島三河守が新潟津に押し寄せ、新発田綱之を騙
まし討ち/船団は沼垂城に向かい沼垂城も落城
1586年1月18日-09:00|日本| ||天正13年11月29日|畿内・東海・東山・北陸諸道で地震/飛騨白川谷で大山崩れ,帰
雲山城が埋没、内ヶ島氏理以下300人が圧死し内ヶ島氏滅亡/越中木船城が倒壊し前田秀継以下多数圧死/大垣
城、長浜城も破損/大津波で死者多数
1586年1月22日-09:00|日本| ||天正13年12月03日|信濃・小笠原貞慶、家康と絶ち、保科正直を伊那郡高遠に攻め
るが,父保科正俊が鉾持除の戦いで退けた
1586年1月23日-09:00|日本| ||天正13年12月4日|家康、居城を駿府に移す
1586年1月27日-09:00|日本| ||天正13年12月8日|那須資晴(大関高増)、千本資俊/資政父子を滝寺にて謀殺
1586年1月29日-09:00|日本| ||天正13年12月10日|羽柴秀勝(於次、織田信長4男)、丹波国亀山城で病没/18歳(誕
生:永禄11(1568))
1586年1月30日-09:00|日本| ||天正13年12月中|壬生義雄、後北条方になる
1586年2月7日-09:00|日本| ||天正13年12月19日|15日から北条氏直、宇都宮領に攻め入り、大明神を打ち破った
が引き払う
1586年2月9日-09:00|日本| ||天正13年12月21日|20日から北条氏直が結城城を攻めたが退散
1586年2月11日 05:00|コロンビア| |||サント・ドミンゴを出発したドレイク,カルタヘナを襲撃.攻略に成功
1586年2月12日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)クリスティアン1世(~15910925)
1586年2月18日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・端泰1年|大越莫朝・端泰と改元(~15880127)
1586年2月19日-09:00|日本| ||天正14年|<移封>生駒親正:近江高島郡2万3千石→伊勢神戸3万石→播磨赤穂6万
石
1586年2月19日-09:00|日本| ||天正14年|この年、伊達政宗が出羽に覚範寺を創建
1586年2月19日-09:00|日本| ||天正14年|この年、高野山金剛峰寺金堂できる
1586年2月19日-09:00|日本| ||天正14年1月|石川数正:和泉10万石を得た
1586年2月19日-09:00|日本| ||天正14年1月01日|佐野宗綱:後北条氏により長尾顕景が館林城に攻められてい
る間隙に乗じ、長尾氏の本城足利城攻略を企てたが、足利領須花坂の戦いで討死
1586年3月 06:00|アメリカ| |||ドレーク船長,フロリダのサント・アウグスティンを占領
1586年3月10日-09:00|日本| ||天正14年1月21日|家康、秀吉と講和する
1586年3月13日-09:00|日本| ||天正14年1月23日|肥後・島津軍、阿蘇高森城を攻略し、肥後平定
1586年3月14日-09:00|日本| ||天正14年1月24日|小田氏治、藤沢城に移る
1586年3月20日-09:00|日本| ||天正14年2月|龍松山城に篭った山本主膳守康忠らは降伏し、和睦交渉のために
訪れた郡山城の藤堂氏館で暗殺された
1586年3月27日-09:00|日本| ||天正14年2月08日|豊臣秀吉と徳川家康が和議を結び、小牧長久手合戦終結
1586年4月19日-09:00|日本| ||天正14年春|多賀谷重経/梶原政景、小張城を攻略し、只越全久が戦死
1586年5月19日-09:00|日本| ||天正14年4月|高橋紹運、筑紫広門と講和
1586年5月19日-09:00|日本| ||天正14年4月|陸奥・葛西領内で、本吉重継と歌津十二人衆が争う内乱が起き
1586年6月12日-09:00|日本| ||天正14年4月25日|猪俣邦憲、上野仙人ヶ岩屋を攻略
1586年6月20日-09:00|日本| ||天正14年5月04日|信長に背いた後、各地を放浪し、やがて豊臣秀吉に仕えた荒木
村重(道糞)が死去.52歳
1586年6月24日-09:00|日本| ||天正14年5月08日|有屋峠の戦い/小野寺義道、出羽有屋峠で最上義光と戦う/小
野寺軍の総退却
1586年6月27日-09:00|日本| ||天正14年5月中|皆川広照、北条軍に降伏
1586年6月30日-09:00|日本| ||天正14年5月14日|徳川家康、豊臣秀吉の妹旭と結婚
1586年7月8日-09:00|日本| ||天正14年5月22日|<死去>阿波国領主蜂須賀正勝(小六)61歳(誕生:大永6(1526))
1586年7月30日-09:00|日本| ||天正14年6月14日|上杉景勝が大坂城で豊臣秀吉に謁見し臣下の礼を取る
1586年8月14日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦8月4日|エリザベス1世の暗殺とメアリー・ステュワート即位の陰謀を計画したバビントン
が逮捕される/メアリは絶体絶命に追込まれる
1586年8月15日-09:00|日本| ||天正14年7月|蜂須賀家政、阿波渭津を改称し徳島とし、自身の本拠も移す
1586年8月20日-09:00|日本| ||天正14年7月6日|島津軍は大友に寝返った筑紫広門方の肥前鷹取城を攻略
1586年8月25日-09:00|日本| ||天正14年7月11日|筑紫広門が勝尾城を出て島津軍に降伏
1586年8月30日-09:00|日本| ||天正14年7月16日|伊達政宗、畠山義綱(国王丸)の籠もる陸奥二本松城を攻略し
て畠山氏を滅ぼした
1586年9月-03:30|イラン/トルコ| |||オスマン朝、タブリーズを占領
1586年9月10日-09:00|日本| ||天正14年7月27日|岩屋城の戦いで、島津軍の前に大友家の高橋紹運軍が全員玉
1600迄(3010件)
砕/宝満城も開城
1586年9月11日-09:00|日本| ||天正14年7月28日|佐竹義重/義宣父子、鹿沼を攻める
1586年9月18日-01:00|イタリア| |||<即位>パルマ公(ファルネーゼ家)アレッサンドロ(~15921203死去47歳)
1586年9月18日-09:00|日本| ||天正14年8月06日|島津軍が宝満城を攻略
1586年9月19日-09:00|日本| ||天正14年8月7日|<移封>金森長近:越前大野→飛騨高山6万1千石/拝領/以後可重
、重頼、頼直、頼業、頼トキと続く(-元禄5年出羽上山へ)
1586年9月19日-09:00|日本| ||天正14年8月07日|<移封>青木一矩が越前大野8万石で入る
1586年9月30日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1586/9/20|バビントンが処刑される/24歳(誕生:1561/11)エリザベス1世の暗
殺を企てた陰謀家
1586年10月-05:30|インド| |||ムガル帝国がスリーナガルに侵入しカシミールを併合
1586年10月7日-09:00|日本| ||天正14年8月25日|立花統虎が島津勢を追撃し高鳥居城を攻略
1586年10月9日-09:00|日本| ||天正14年8月27日|筑紫広門は、秋月家の那珂郡一の岳城を奪回
1586年10月10日-09:00|日本| ||天正14年8月28日|筑紫広門は、勝尾城を奪回
1586年10月21日-09:00|日本| ||天正14年9月9日|秀長は伊藤掃部ら1党を全滅させた/龍松山城に篭った山本主
膳守康忠らは3ヶ月後に降伏し、和睦交渉のために訪れた郡山城の藤堂氏館で暗殺された
1586年10月21日-09:00|日本| ||天正14年9月9日|滝川一益没/62歳(誕生:大永5(1525))/信長の家臣だった
1586年11月5日-09:00|日本| ||天正14年9月24日|多賀谷方、足高城を攻めるも、退散
1586年11月10日-09:00|日本| ||天正14年9月29日|奥州斯波氏の雫石御所が南部氏の攻撃で陥落
1586年11月11日-09:00|日本| ||天正14年10月|島津軍、豊後侵攻/大友家は豊前宇佐郡竜王城に退く
1586年11月14日-09:00|日本| ||天正14年10月04日|吉川元春・小早川隆景、高橋家本拠・香春岳の支城・豊前小倉
を攻略
1586年11月28日-09:00|日本| ||天正14年10月18日|島津義久、大内氏を討つ
1586年12月4日-09:00|日本| ||天正14年10月24日|島津義弘が津賀牟礼城を攻略
1586年12月7日-09:00|日本| ||天正14年10月27日|徳川家康が大坂城を訪れて秀吉と会見し、臣従を誓う
1586年12月11日-09:00|日本| ||天正14年11月|陸奥/蘆名氏の系譜が絶え、後継者に佐竹義重の弟義広を推す佐
竹派と伊達政宗の弟小次郎を推す伊達派が争
1586年12月12日-09:00|日本| ||天正14年11月02日|加藤嘉明(岸教明の子):淡路志知城15千石/拝領(-文禄2年
伊予松前へ)
1586年12月13日-09:00|日本| ||天正14年11月3日|脇坂安治、淡路国洲本城主、30000石
1586年12月15日-09:00|日本| ||天正14年11月5日|伊東祐兵、黒田軍に属して島津軍と戦う
1586年12月17日-09:00|日本| ||天正14年11月7日|106代正親町天皇譲位/107代後陽成天皇践祚/11月25日即位
~16110327
1586年12月25日-09:00|日本| ||天正14年11月15日|吉川元春、豊前国小倉において病死
1586年12月27日-09:00|日本| ||天正14年11月17日|毛利軍が豊前宇留津城を攻略
1586年12月31日-09:00|日本| ||天正14年11月21日|会津黒川城主蘆名亀王丸が3歳で死去し後継者を佐竹義重
の子である白河義広とする
1587年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教アンドリュー・カペラ(~1609年)
1587年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)フィーリプ(~1590年)
1587年-01:00|オランダ/イギリス/ブラジル| |||英蘭連合軍,ペルナンブコを襲撃
1587年-01:00|イタリア| |||ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世、マントヴァ公に
1587年-01:00|アルジェリア/トルコ| |||オスマン朝がアルジェリアに総督を任命
1587年1月9日-09:00|日本| ||天正14年12月|毛利軍、豊前香春岳城(高橋元種)を攻略.城主高橋元種は降伏
1587年1月12日-09:00|日本| ||天正14年12月4日|家康、本拠を駿河浜松から駿府へ移す
1587年1月20日-09:00|日本| ||天正14年12月12日|戸次川合戦/十河存保奮戦虚しく島津家久の猛攻の前に戦死
/享年32歳:讃岐十河3万石/廃絶
1587年1月21日-09:00|日本| ||天正14年12月13日|戸次川の戦いにて、島津軍が羽柴秀吉配下仙石秀久軍に勝利
/長宗我部信親戦死
1587年1月21日-09:00|日本| ||天正14年12月13日|島津家久が豊後府内城を攻略
1587年1月24日-09:00|日本| ||天正14年12月16日|大友義統、宇佐郡龍王岳城において防戦
1587年1月27日-09:00|日本| ||天正14年12月19日|豊臣秀吉、太政大臣に任じられる
1587年1月30日-09:00|日本| ||天正14年12月22日|仙石秀久:讃岐高松15万石/廃絶/戸次川の戦いでの不覚を責
められ没収
1587年2月 05:00|ペルー| |||キャベンディッシュ,太平洋に入りペルー各地の港を攻撃
1587年2月1日-09:00|日本| ||天正14年12月24日|尾藤知宣:讃岐丸亀5万石/豊臣秀吉より拝領
1587年2月8日-09:00|日本| ||天正15年|<移封>青木一矩:秀吉の直臣となって紀伊入山1万石→播磨立石
1587年2月8日-09:00|日本| ||天正15年|この年、太田資房の信長公記できる
1587年2月8日-09:00|日本| ||天正15年|この年、北条氏房、武蔵国浄国寺を創建
1587年2月8日-09:00|日本| ||天正15年|市橋長勝:美濃福束→美濃今尾1万石(-慶長15年伯耆矢橋へ)
1587年2月8日-09:00|日本| ||天正15年|天正通宝を鋳造
1587年2月18日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月8日|メアリー・ステュワートが断頭台で処刑される。44歳(誕生:15421207)。フランス
の王妃、スコットランドの女王だった悲劇の女王
1587年3月28日-02:00|ラトビア| |||<即位>クールラント公フリードリヒ・ケトラー(~16420817死去)
1600迄(3010件)
1587年4月 00:00|イギリス| |||この月、イギリスの神学者ジョン・フォックス没(誕生:1516)「教会の活動」を出版した
1587年4月10日-09:00|日本| ||天正15年3月3日|佐竹義重の次男である佐竹義廣が陸奥国会津黒川城主葦名盛
氏の養子と成って葦名家の跡を継ぎ、蘆名・佐竹同盟が成る
1587年4月11日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでリアルト銀行設立
1587年4月19日-01:00|スペイン/イギリス| |||海賊ドレイクのひきいるイギリス艦隊,スペイン艦隊の根拠地カディスを急襲/集結
中の無敵艦隊に甚大な被害
1587年4月22日-09:00|日本| ||天正15年3月15日|島津義弘は夜半に風雨にまぎれて府内城を脱出し豊後松尾城
の家久と合流して島津軍は豊後から退却
1587年4月25日-09:00|日本| ||天正15年3月18日|島津軍は梓峠で佐伯惟定が率いる大友軍の追撃を受けて多く
の犠牲を出しながら日向まで撤退
1587年5月3日-09:00|日本| ||天正15年3月26日|新納忠元ら島津勢、宮之路において羽柴秀吉軍先発隊と交戦・
撃破
1587年5月6日-09:00|日本| ||天正15年3月29日|秀吉軍の先鋒秀長・黒田孝高・小早川孝景らの軍勢が島津方の
日向県城を陥落させる
1587年5月8日-09:00|日本| ||天正15年4月|安藤愛季、角館城主の戸沢盛安と仙北淀川(秋田県仙北郡共和町)で
戦い、淀川を攻略
1587年5月8日-09:00|日本| ||天正15年4月1日|前田利長、蒲生氏郷:豊前巌石城(福岡県添田町)を攻め1日で落
とす
1587年5月10日-09:00|日本| ||天正15年4月3日|羽柴秀吉が、島津方に属した筑前の秋月種実の筑前国厳石城を
攻め、秋月は降伏
1587年5月11日-09:00|日本| ||天正15年4月4日|筑前・秋月種実降伏し、古処山城開城
1587年5月13日-09:00|日本| ||天正15年4月6日|羽柴秀長軍、耳川を渡り、高城を包囲/この頃伊東祐兵、日向の
伊東旧臣を煽動して蜂起させる
1587年5月13日-09:00|日本| ||天正15年4月06日|戸沢盛安は主力千余人を率い唐松野で秋田軍を迎え撃ち、唐
松野合戦は安東愛季軍の敗戦
1587年5月17日-09:00|日本| ||天正15年4月10日|黒田軍、財部城兵を撃破
1587年5月19日-09:00|日本| ||天正15年4月12日|四国軍は島津軍と戸次川で激突し長宗我部元親の嫡子・信親、
十河存保らが戦死するなど大敗/仙石秀久は豊前・小倉城、大友宗麟の嫡子・大友義統も龍王城にまで退却(戸次
川の戦い)
1587年5月19日-09:00|日本| ||天正15年4月12日|十河存保:讃岐十河3万石廃絶(戸次川合戦で戦死)
1587年5月20日-09:00|日本| ||天正15年4月13日|肥後・隈本城(城久基)降伏
1587年5月23日-09:00|日本| ||天正15年4月16日|肥後隈本に到着、島津方の隈本城主・城親賢を降した
1587年5月24日-09:00|日本| ||天正15年4月17日|高城で両軍衝突、島津軍敗北
1587年5月24日-09:00|日本| ||天正15年4月17日|肥後・宇土城(名和顕孝)降伏
1587年5月25日-09:00|日本| ||天正15年4月18日|島津義久が、羽柴秀長・藤堂高虎に敗れる
1587年5月25日-09:00|日本| ||天正15年4月18日|肥前のキリシタン大名・大村純忠が死去.55歳
1587年5月27日-09:00|日本| ||天正15年4月20日|(17日~)島津義弘・家久、日向・根白坂の豊臣秀長軍を襲うが撃
退される
1587年5月28日-09:00|日本| ||天正15年4月21日|薩摩/島津義久、豊臣秀吉に降伏/秀吉は九州を制圧
1587年6月-01:00|スペイン/イギリス| |||海賊ドレイク,アゾレス沖合でインドからの帰還途中にあったスペイン船サンフェリペ号を
急襲.12万ポンド相当の財宝を奪取し帰国
1587年6月4日-09:00|日本| ||天正15年4月28日|<薩摩平佐城の戦い>平佐城を守っていた島津軍桂忠昉が4百に
満たない小勢ながら秀吉軍小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆等8千余を迎え討ち島津義久の降伏命令により開城
1587年6月6日-09:00|日本| ||天正15年5月|阿気野の戦い/出羽阿気野で、戸沢盛安と小野寺義道方の大築地秀
道が戦い小野寺軍は散々の敗戦
1587年6月6日-09:00|日本| ||天正15年5月1日|宮部継潤、高城に配置される/島津義久は鹿児島に引き上げ、島
津義珍は真幸に引き上げる
1587年6月8日-09:00|日本| ||天正15年5月3日|豊臣秀吉は島津義久の降伏申し入れを受け島津義久に薩摩、義
弘に大隅を安堵
1587年6月13日-09:00|日本| ||天正15年5月8日|島津義弘が薙髪して龍伯と号し、泰平寺に秀吉を訪ねて正式に
降伏
1587年6月26日-09:00|日本| ||天正15年5月21日|伊集院忠棟、羽柴秀長の本営を訪問、島津氏側からの人質を提
出し和睦成立
1587年6月28日-09:00|日本| ||天正15年5月23日|<死去>豊後のキリシタン大名大友義鎮(宗麟)58歳
1587年6月30日-09:00|日本| ||天正15年5月25日|豊臣秀吉が、大隅を島津義弘に、日向諸県郡をその子久保に与
える
1587年7月1日-09:00|日本| ||天正15年5月26日|羽柴秀吉、島津久保へ日向国真幸院一郡を宛行う
1587年7月1日-09:00|日本| ||天正15年5月26日|北郷時久・北郷忠虎、島津義久・島津義弘の勧降で都城・安永・末
吉・財部砦を明け渡し、大隅国宮内で石田三成・安国寺恵瓊に謁見
1587年7月2日-09:00|日本| ||天正15年5月27日|羽柴秀長、島津家久に対し佐土原城と知行地の安堵を伝える
1587年7月5日-09:00|日本| ||天正15年5月30日|秀吉が肥後1国を佐々成政に与える
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|<所領安堵>五島純玄(宇久純尭の長男):肥前福江(石田城)155
1600迄(3010件)
30石/以後玄雅、盛利、盛次、盛勝(12530石)、盛暢、盛佳、盛道、盛運、盛繁、盛成、盛徳と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|伊東祐兵:日向飫肥36千石/拝領/以後祐慶(57千石)、祐久(弟
祐豊に3千石分知54080石)、祐由(弟祐春に3千石分知51080石)、祐実、祐永、祐之、祐隆、祐福、祐鐘、祐民、祐丕、祐
相、祐帰と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|加藤嘉明:豊後戸次川合戦で殿軍して3万石加増
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|高橋元種(秋月種実の子):豊前香春→日向延岡5万石(-慶長18
年改易)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|高橋直次(鎮種):筑後江浦18千石/拝領(-文禄4年筑後内山へ)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|黒田孝高(如水):播磨山崎→豊前国内6郡(大分県中津付近)12
万5千石/次に長政が嗣ぐ(-慶長5年筑前福岡へ)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|宗義調・義智、筑前箱崎の豊臣陣所に参じ、対馬を安堵される
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|秋月種長:筑前秋月→日向高鍋3万石/以後種春、種信、種政(種
封に3千石を分知27千石)、種弘、種美、種茂、種徳、種任、種殷と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|松浦鎮信:肥前平戸(肥前松浦郡の一部および壱岐国一円)6319
6石/本領安堵/以後久信、隆信、鎮信(61700石)、棟、篤信、有信、誠信、清(10万石)、熈、曜、詮と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|森勝永(森勝信の子):豊前にて1万石(一説に4万石)を拝領し毛
利勝永に改姓
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|森勝信:豊前小倉6万石(一説に15万石)を拝領し毛利勝信に改
姓
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|青木一矩:播磨立石→越前大野8万石/九州征伐の戦功により
加増移封
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|仙石秀久:讃岐高松15万石廃絶(戸次川合戦で敗戦による)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|相良長毎:肥後人吉22165石/旧領安堵/以後頼寛、頼喬、頼福、
長興、長存、頼峯、頼央、晃長、頼完、福将、長寛、頼徳、頼之、長福、頼基と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|大村喜前:肥前大村21427石/拝領/以後純頼(27973石)、純信、純
長、純尹、純庸、純富、純保、純鎮、純昌、純顕、純熈と続く(-明治4年)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|大村純忠:秀吉の九州征伐に際しては、秀吉に属して本領を安
堵された/純忠の死後、子嘉前(喜前)が家督を継ぎ、2万7千石が安堵
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|大友義統:豊臣秀吉の九州征伐によって豊後一国37万8500石安
堵
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|丹羽長昌:越前藤枝5万石に加増され
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|筑紫広門:筑後山下18,015石
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|島津家久:佐土原に封ぜられ/直後に急死廃絶
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|島津義久:薩摩・大隅一円・日向諸県郡55万石/本領のみ安堵
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月07日|藤堂高虎:1万石を加増され紀州粉河城主2万石
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|波多親:上松浦郡8万石/安堵
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|尾藤知宣:讃岐丸亀5万石/廃絶/日向国根白坂の合戦で豊臣秀
吉の怒りをかい没収
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|毛利吉成:豊前規矩・田河両郡で6万石を与えられて小倉城主と
なる
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|有馬晴信:肥前日野江38千石/秀吉により所領を安堵/次に直純
が嗣ぐ(-慶長19年日向延岡(県)へ)
1587年7月12日-09:00|日本| ||天正15年6月7日|龍造寺政家:豊臣秀吉の九州平定により肥前七郡32万石を安堵
され
1587年7月16日-09:00|日本| ||天正15年6月11日|立花宗茂(高橋鎮種の長男):筑後柳川13万2200石/秀吉により
就任(-慶長5年関ヶ原で西軍に与し、一時除封)
1587年7月21日-09:00|日本| ||天正15年6月16日|多賀谷重経、足高城を攻め、多賀谷信濃守等が戦死
1587年7月24日-09:00|日本| ||天正15年6月19日|高山右近:播磨明石6万石/廃絶/禁教令に従わず
1587年7月24日-09:00|日本| ||天正15年6月19日|豊臣秀吉が5箇条のキリシタン禁令を発布し、宣教師に対しては20
日以内の国外退去を命じる
1587年7月29日-09:00|日本| ||天正15年6月24日|伊集院久治、羽柴秀吉軍の攻撃を受ける
1587年7月30日-09:00|日本| ||天正15年6月25日|羽柴秀吉、鍋島直茂へ「新恩地」として肥前国養父郡・有馬郡の
半分ずつを宛行う
1587年7月30日-09:00|日本| ||天正15年6月25日|小早川秀包:伊予宇和郡内35千石→筑後久留米75千石/後130
千石
1587年7月30日-09:00|日本| ||天正15年6月25日|小早川隆景(毛利元就の三男):伊予国→筑前一国・筑後二郡・
肥後二郡(筑前名島)30万7300石/就封/次に秀秋が嗣ぐ(-慶長5年備前岡山へ)
1587年8月12日-09:00|日本| ||天正15年7月09日|河野通直、道後湯築城を去り、有馬温泉を経て安芸国竹原に向
かう(7.14死去)
1587年8月14日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公・モンフェラート公(ゴンザーガ家)ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ(~16120209)
1587年8月17日-09:00|日本| ||天正15年7月14日|河野通直が嗣子無くして没したため、河野氏は完全に滅亡
1587年8月19日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国国会がスウェーデン王子を国王に選出、ジグムント3世ウ
1600迄(3010件)
゙ァザ(ジグムント1世の女系の孫、~1632年4月19日)
1587年8月31日-09:00|日本| ||天正15年7月28日|上杉景勝、新発田重家を滅ぼす
1587年9月8日-09:00|日本| ||天正15年8月6日|肥後で隈部親永らが一揆を起こし、佐々成政が討伐のために3千
の兵をくりだす
1587年9月12日-09:00|日本| ||天正15年8月10日|生駒親正:播磨赤穂6万石→讃岐丸亀6万石/以後一正(17万180
0石)、一正、正俊、高俊と続く(-寛永17年生駒騒動により出羽矢島1万石に転封)
1587年9月18日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国君主(ヴァーサ家)ジグムント3世ヴァザ[ジグムン
ト1世の女系の孫](~16320419)スウェーデン王を兼ねる(16320430死去65歳)
1587年10月1日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第5代シャー:アッバース1世(~16290119)
1587年10月1日-09:00|日本| ||天正15年8月29日|会津の芦名盛隆は新発田へ援軍と兵糧を送ったが山内村附近
で上杉勢のために迎撃され、半ば戦死して引き揚げた
1587年10月2日-09:00|日本| ||天正15年9月|益子家宗は茂木の佐夫良峠に攻め寄せたが茂木治良率いる軍に敗
れて退却
1587年10月6日-09:00|日本| ||天正15年9月5日|浅野長政(長吉):近江大津・京都所司代→若狭小浜30040石(-文
禄2年甲斐甲府へ)
1587年10月6日-09:00|日本| ||天正15年9月05日|丹羽長重:若狭小浜12万石→加賀松任4万石/減移封/領主・家
臣の軍律違反により
1587年10月6日-09:00|日本| ||天正15年9月05日|福島正則:伊予国今治11万3200石/拝領(-文禄4年尾張清洲へ)
1587年10月8日-09:00|日本| ||天正15年9月7日|上杉景勝は新発田城攻撃に先立ち、同族の加地秀綱が立て籠も
る加地城を攻撃、秀綱は奮戦空しく討ち死にし、加地城は落城
1587年10月14日-09:00|日本| ||天正15年9月13日|聚楽第完成
1587年10月15日-09:00|日本| ||天正15年9月14日|越後・上杉景勝、芦名属城・赤谷城を攻略
1587年10月19日-01:00|イタリア| |||<即位>トスカーナ大公(メディチ家)フェルディナンド1世・デ・メディチ[フランチェスコ1世の兄弟.コジモ
1世の息子](~16090207死去)
1587年10月20日-01:00|フランス| |||ナヴァル王アンリが、フランス王アンリ3世の軍をクートラで破る
1587年11月1日-09:00|日本| ||天正15年10月|高橋元種、日向県5万石に封ぜられる
1587年11月1日-09:00|日本| ||天正15年10月|西郷信尚、龍造寺家晴の伊佐早城を襲い、これを奪う/家晴、つい
で奪回
1587年11月1日-09:00|日本| ||天正15年10月1日|豊前各地で国人衆が蜂起/宇都宮鎮房にくみして、緒方・如法
寺氏らが兵を挙げ、姫隈山(上毛町)に立て籠もった
1587年11月1日-01:00|ハンガリー| ||ユリウス暦10月22日|ハンガリーでグレゴリオ暦が採用される
1587年11月14日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ダヴィデ・ヴァッカ(~15891114)
1587年11月14日-09:00|日本| ||天正15年10月14日|羽柴秀吉、島津義久へ「在京堪忍分」1万石を宛行
1587年11月14日-09:00|日本| ||天正15年10月14日|出羽・最上義光に内応した伊達の将・鮎貝宗信が政宗に征伐
される
1587年11月16日-09:00|日本| ||天正15年10月16日|戸田勝隆、宇和・喜多両郡16万石の領主となり大洲地蔵嶽城
主となる
1587年11月21日-09:00|日本| ||天正15年10月21日|北条氏に内通している日光山が倉ヶ崎城を急襲し守備に就
いていた上郷衆を討ち取り倉ヶ崎城を落とす
1587年11月24日-09:00|日本| ||天正15年10月24日|上杉景勝は五十公野城を攻略/城兵一千余が討ち死に
1587年11月25日-09:00|日本| ||天正15年10月25日|越後・上杉景勝、新発田城を攻略.城主新発田重家を討ち取
る
1587年11月25日-09:00|日本| ||天正15年10月25日|日光山勢力が小倉城の今泉氏、戸祭氏を討ち小倉城を奪回
1587年12月6日-09:00|日本| ||天正15年11月7日|黒田長政は如法寺庄川底で円藤源兵衛を討ち取り、やがて、伊
藤田・中尾・山田・八屋らが滅ぼされた
1587年12月23日-09:00|日本| ||天正15年11月24日|最上義光が庄内に出陣,出羽尾浦城を急襲し大宝寺義興が
降伏のち自害
1587年12月30日-09:00|日本| ||天正15年12月3日|豊臣秀吉、「関東・奥羽惣無事令」を宣言(私闘禁止令)
1588年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:ガーズィー2世ギレイ(~1596年、1期目)
1588年-01:00|オランダ| |||ユトレヒト同盟体は1588年ネーデルラント連邦共和国の樹立を宣言
1588年 00:00|ポルトガル/トルコ| |||ポルトガルがオスマン朝の東アフリカ遠征軍を撃破
1588年1月9日-09:00|日本| ||天正15年12月11日|伊予・西園寺公広:宇和の新領主となった秀吉の家臣・戸田勝
隆に殺された/大名としての西園寺氏は完全に滅亡
1588年1月17日-09:00|日本| ||天正15年12月19日|羽柴秀吉太政大臣叙任、豊臣姓を賜る
1588年1月19日-09:00|日本| ||天正15年12月21日|この日までに賀来、福島城が陥落した/鎮房は黒田孝高に和
議を申し入れ黒田氏は領内をほぼ平定
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年|稲葉貞通:美濃郡上八幡4万石/再封(-慶長5年豊後臼杵へ)
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年|皆川広照は宇都宮国綱、佐竹義宣の連合軍の来攻を受け西方真名子富
張の地を失う
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年|秀吉、天正大判・小判を鋳造
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年|西尾光教:美濃曽根3万石/拝領(-慶長5年)
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年|天海が無量寿院北院を喜多院に改称(埼玉県川越市)<天台宗>
1600迄(3010件)
1588年1月28日-08:00|中国| ||明・万暦16年|女真族のヌルハチ(29)が建州三衛の諸族を統一してマンジュ国と称
1588年1月28日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・興治1年|大越莫朝・興治と改元(~15910124)
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年1月|伊達政宗と最上義光の両軍が出羽中山口で対峙するが、80日のち
和睦
1588年1月28日-09:00|日本| ||天正16年1月|本庄繁長が、大宝寺義勝を擁立して庄内に侵攻
1588年2月7日-09:00|日本| ||天正16年1月11日|黒田孝高が中津城築城開始(大分県)
1588年2月28日-09:00|日本| ||天正16年2月02日|中新田の戦い/伊達政宗、泉田重光・留守政景に命じて大崎義
隆の拠点陸奥中新田城を攻めさせるが、大敗
1588年3月27日-09:00|日本| ||天正16年春|小田原城主北條氏政は下総国の小金城主高城下野守、常陸国の土浦
城主菅谷左ヱ門重政、同喜八郎、足高城主由良信濃守光繁、牛久城主岡見治部少輔保定等を攻め破って攻略、次
いで下総国の豊田城主多賀谷左近將監忠経を攻め、太田氏房は常陸国の小田城主梶原美濃守景国、北條城主北
條出雲守治高、真壁城主真壁安芸守氏幹入道道夢などを攻め破って攻略
1588年4月4日-01:00|デンマーク/ノルウェー| |||<死去>デンマーク=ノルウェー二重王国国王フレデリック2世/53歳(誕生:15340701)
1588年4月4日-01:00|デンマーク/ドイツ/ノルウェー| |||<即位>デンマーク=ノルウェー二重王国国王(オレンボー朝)兼シュレースヴィヒ公・ホルシ
ュタイン公(オルデンブルク家)クリスチャン4世[フレゼリク2世とゾフィー・フォン・メクレンブルクの長男](~16480228死去70歳)1640年にホルシュタ
イン=ピンネブルク伯領を獲得し、デンマーク王領ホルシュタインに併合
1588年4月19日-09:00|日本| ||天正16年3月24日|伊達政宗、最上義光(政宗の母の兄)と断交
1588年4月27日-09:00|日本| ||天正16年4月2日|秀吉が、キリシタン領となっていた長崎を収公して鍋島直茂を代官
とする
1588年5月12日-01:00|フランス| |||ギーズ公アンリが率いる旧教同盟と国王軍との紛争で、パリ市民がギーズ公側につい
て蜂起する(バリケードの日事件)
1588年5月13日-01:00|フランス| |||バリケードの日事件。国王アンリ3世が、ギーズ公アンリの旧教同盟とパリ市民の蜂起でパリ
を追われる
1588年5月13日-09:00|日本| ||天正16年4月18日|<郡山合戦>蘆名義広は伊達領に攻め入ったが蘆名勢が伊達成
実、大内定綱らによって退けられる
1588年5月15日-09:00|日本| ||天正16年4月20日|黒田長政は城井鎮房を中津に招き酒宴の席で謀殺、合元寺(赤
壁)で家臣を殺害し、城井に逃げ帰った家臣を追討し城井の館も灰燼と帰した
1588年5月19日-09:00|日本| ||天正16年4月24日|宇都宮朝房が肥後の陣所にて黒田勢に謀殺される
1588年5月20日-09:00|日本| ||天正16年4月25日|佐竹義重が常陸国新治郡石岡の府中城主大掾清幹を攻めて其
の属城である小幡や田余の両砦を攻略
1588年6月3日-09:00|日本| ||天正16年5月10日|陸奥/蘆名氏の重臣猪苗代盛国・盛胤父子の間に内紛が起こる.
盛胤が黒川城に出仕した隙を突いて盛国が猪苗代城を奪取
1588年6月4日-09:00|日本| ||天正16年5月11日|相馬義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中
の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が
討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた
1588年6月6日-09:00|日本| ||天正16年5月13日|肥後の検地反対一揆が鎮圧され、毛利輝元らが兵をおさめて帰
国
1588年6月7日-09:00|日本| ||天正16年5月14日|佐々成政:肥後隈本/改易
1588年6月7日-09:00|日本| ||天正16年5月14日|徳川家康が駿府城を修理し、天守閣が竣工
1588年6月8日-09:00|日本| ||天正16年5月15日|伊達政宗・片倉小十郎が大越城(田村市大越町上大越)を攻めた
が、守備していた標葉郷大将の泉田雪斎・相馬胤清父子らがこれを撃退
1588年6月8日-09:00|日本| ||天正16年5月15日|加藤清正:佐々成政除封のあとをうけて肥後半国19万5千石を
領し隈本(熊本)城主/次に忠広が嗣ぐ(-寛永9年改易)
1588年6月8日-09:00|日本| ||天正16年5月15日|小西行長:肥後南半国(宇土・益城・八代郡)14万石の領主になり
宇土古城に入城/後に24万石に加増
1588年6月9日-09:00|日本| ||天正16年5月16日|伊達政宗は石川弾正と相馬義胤の兵を小手森(二本松市針道)
に攻め,義胤が船引から脱出し、石川弾正が月山城を捨てる
1588年6月10日-09:00|日本| ||天正16年5月17日|伊達政宗は石沢(田村市船引町石沢)・百目木(二本松市)の城
も落とす
1588年7月6日-09:00|日本| ||天正16年閏5月13日|肥後の検地反対一揆が鎮圧され、毛利輝元らが兵をおさめて
帰国
1588年7月7日-09:00|日本| ||天正16年閏5月14日|佐々成政:肥後の一揆の責任で切腹/53歳(誕生:天文5(1536)
)
1588年7月8日-09:00|日本| ||天正16年閏5月15日|佐々成政の遺領が加藤清正と小西行長に与えられ、肥後が2
分される
1588年7月11日-09:00|日本| ||天正16年閏5月18日|政宗は田村月斎の手引きで三春城に入り、反伊達派のこも
る小手森城・大倉城・石沢城に攻め寄せた/大倉城は降伏/相馬勢は石沢城に籠城/大越城の泉田顕清(雪斎胤清)
も政宗の大軍をくい止め、逆に打ち破る
1588年7月16日-09:00|日本| ||天正16年閏5月23日|亘理元宗父子が新地・駒ヶ嶺の間の大森へ出陣してくると
相馬義胤はこれを撃退
1588年7月31日-01:00|スペイン/イギリス| ||ユリウス暦7月21日|ドーバー海峡に無敵艦隊を迎え撃った英蘭連合艦隊はプリ
マス沖で撃破
1600迄(3010件)
1588年8月8日-01:00|スペイン/イギリス| ||ユリウス暦7月29日|スペインの無敵艦隊がグランヴリーヌの海戦で12隻を失い暴風に
あって支離滅裂になりイギリス海軍に大敗
1588年8月8日-09:00|日本| ||天正16年6月16日|津軽為信が浪岡御所(北畠氏)残党のこもる飯詰高盾城を落と
し南部氏に代わって津軽全土を支配下に置き津軽一帯の統一に成功
1588年8月9日-09:00|日本| ||天正16年6月17日|伊達政宗、郡山合戦で佐竹・蘆名連合軍を敗る
1588年8月9日-09:00|日本| ||天正16年6月17日|窪田の戦い(郡山合戦)伊達政宗:陸奥安積郡窪田で、佐竹義重・
芦名義広・岩城常隆と対峙/約40日間の持久戦を経て和議
1588年8月12日-09:00|日本| ||天正16年6月20日|相馬義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船
引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元が百目木より出陣し押し返され退却を余儀なくされた
1588年8月25日-09:00|日本| ||天正16年7月4日|伊達軍と佐竹・芦名・岩城連合軍が戦闘/戦いがあったのはこの
日だけで持久戦となった
1588年8月26日-09:00|日本| ||天正16年7月5日|羽柴秀吉、島津義久へ「在京賄料」として摂津国・播磨国内に1万
石を宛行
1588年8月29日-09:00|日本| ||天正16年7月8日|秀吉が諸国の農民に武器の所持を禁止する(刀狩令)/また、諸
国の海賊を禁止する(海賊禁止令)
1588年8月31日-09:00|日本| ||天正16年7月10日|南部信直、陸奥岩手郡高水寺の斯波詮元を攻め、斯波御所を滅
亡させる
1588年9月11日-09:00|日本| ||天正16年7月21日|伊達政宗:岩城常隆・石川昭光の調停により最上義光と講和
1588年9月21日-09:00|日本| ||天正16年8月|十五里原の戦い/本庄繁長・武藤義勝父子の上杉勢と東禅寺義長ら
の最上勢が出羽庄内十五里原で戦い、上杉勢が勝利
1588年9月21日-09:00|日本| ||天正16年8月|相模・徳川家康の周旋で豊臣・北条講和
1588年9月23日-09:00|日本| ||天正16年8月03日|奥州斯波御所(高水寺の斯波詮直)南部氏の攻撃により滅亡
1588年9月23日-09:00|日本| ||天正16年8月3日|出羽国米沢城主伊達右京大夫政家が陸奥国三春城主田村清顯
を攻め破って攻略し所領を併す
1588年10月6日-09:00|日本| ||天正16年8月16日|越後上杉景勝の将、村上城主本庄繁長・義勝父子が数千の大軍
で庄内に攻め入る
1588年10月14日-09:00|日本| ||天正16年8月24日|越後上杉景勝の将の村上城主本庄繁長が、庄内の尾浦城を囲
む
1588年10月20日-09:00|日本| ||天正16年9月|正木大膳亮、土岐頼春の上総万喜城を攻める
1588年10月20日-09:00|日本| ||天正16年9月|陸奥・葛西晴信、伊達政宗と起請文を交わし軍門に降る
1588年10月29日-09:00|日本| ||天正16年9月10日|羽柴秀吉、島津以久へ大隅国清水の領知を安
1588年10月30日-09:00|日本| ||天正16年9月中旬|佐竹義重は太田資正入道三楽斉道誉、梶原美濃守景国、太田
源三郎資武らをして手配山の麓に押しよせ小田天菴と戰い、小田方の先鋒である江戸山城守、大藤小太郎等は
討死
1588年11月18日-09:00|日本| ||天正16年秋|陸奥/葛西晴信が熊谷直長に命じて、重臣浜田広綱の反乱を鎮圧さ
せ
1588年11月19日-09:00|日本| ||天正16年10月|豊臣秀吉、徳川家康をして、伊達政宗に、最上・佐竹・蘆名・岩城・
相馬諸氏の和議を図らしめ、講和成
1588年11月19日-09:00|日本| ||天正16年10月|北条氏忠・氏勝、上野館林城(長尾顕長)を攻撃
1588年11月19日-09:00|日本| ||天正16年10月|陸奥/葛西領で大原氏と岩渕氏が戦
1588年12月18日-09:00|日本| ||天正16年11月|蒲生氏郷、伊勢松坂城に移る
1588年12月23日-01:00|フランス| |||<死去>ギーズ公アンリがブロアで全国三部会出席中、フランスのアンリ3世の刺客により暗
殺される
1588年12月23日-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ロレーヌ家)シャルル1世(~16400930死去)
1589年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国バイユン即位(~1596)
1589年-08:00|フィリピン| |||フィリピンのカガヤン、イロコス地方で反乱がおこる
1589年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ヘルダーラント州総督オラニエ公マウリッツ[オラニエ公ウィレム1世の次男](~162
50423死去)
1589年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯兼ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯(中ブラウンシュヴァイク家)ハインリヒ・ユリウス[ユリ
ウスの息子](~1613年死去)
1589年-01:00|スペイン| |||スペインのエルシーリャが叙事詩「ラ・アラウカーナ」を完成
1589年 00:00|イギリス| |||ウィリアム・リーが、足踏みメリヤス編み機を発明
1589年 00:00|イギリス| |||ハクルートが「イギリス国民の主要な航海」を刊
1589年1月5日-01:00|フランス| |||カトリーヌ・ドゥ・メディチ死去/69歳(誕生:15190413)。フランス、聖バルテルミーの虐殺を行った
1589年1月14日-09:00|日本| ||天正16年11月28日|佐竹方の真壁氏幹が新治郡の藤沢城を攻め小田方の田伏某
が討死
1589年1月17日-09:00|日本| ||天正16年冬|長宗我部元親、土佐大高坂に築城/岡豊から移る
1589年2月19日-09:00|日本| ||天正17年1月5日|岩城常隆:小野へ進攻/谷津作湯之原で2日から激闘し田村梅雪
斎(相馬派)の小野城を落城させる
1589年2月23日-09:00|日本| ||天正17年1月24日|岩城常隆が鹿股(神股)の城を攻め、千余りの首を落とし、小野
新町の城を攻め右馬頭らは父梅雪と共に降伏
1589年2月23日-09:00|日本| ||天正17年1月9日|岩城常隆が田原谷を攻め、侍百騎その他雑兵4~500の首討ち取
1600迄(3010件)
る
1589年3月16日-09:00|日本| ||天正17年1月29日|興福寺衆徒、神鹿殺傷の犯人を大和国般若寺で斬る
1589年3月17日-09:00|日本| ||天正17年2月|北条氏照が足利城を攻略
1589年3月17日-09:00|日本| ||天正17年2月|檜山城の戦い(湊騒動)安東道季が安東実季を出羽湊城に攻めるが
、実季は檜山城に籠もり、由利諸党の救援を得て撃退
1589年3月21日-09:00|日本| ||天正17年2月05日|遠江・駿河で地震。屋舎倒壊多数
1589年4月 00:00|ポルトガル/イギリス| |||イギリス提督フランシス・ドレークがポルトガル遠征を行うが失敗
1589年4月2日-02:00|トルコ| |||イスタンブールで、オスマン朝の常備歩兵軍団イェニチェリが反乱を起こす(ベイレルベイ事件)
1589年4月3日-01:00|フランス| |||フランス国王アンリ3世が、新教軍のアンリ・ド・ナヴァルが和解
1589年4月23日-09:00|日本| ||天正17年3月09日|豊臣秀吉、聚楽第の壁に落書を書いた者を京都六条河原で磔
にする
1589年5月 00:00|モロッコ| |||モロッコ軍がサハラ砂漠を越えてソンガイ帝国に侵入
1589年5月2日-09:00|日本| ||天正17年3月18日|下野国益子城主益子宮内大夫は宇都宮城主宇都宮国朝の憎む
ところとなって攻められ遂に自害して攻略され滅亡
1589年5月15日-09:00|日本| ||天正17年4月|南部信直、安東氏内紛を機に、出羽鹿角郡から比内に攻め入り、大
館城を奪う
1589年5月17日-01:00|モナコ| |||<即位>モナコ領主エルキュール(~16041129)
1589年5月30日-09:00|日本| ||天正17年4月16日|陸奥・大崎義隆、伊達政宗に降伏
1589年6月3日-09:00|日本| ||天正17年4月20日|岩城常隆が伊達勢の鹿俣城(田村市)を落とす
1589年6月16日-09:00|日本| ||天正17年5月04日|伊達政宗によって蘆名義広の支城陸奥安子ヶ島城が落城
1589年6月17日-09:00|日本| ||天正17年5月05日|伊達政宗によって蘆名義広の支城陸奥高玉城が落城
1589年6月21日-09:00|日本| ||天正17年5月9日|佐竹、岩城、相馬が田村領に侵略/門沢氏、伊達の加勢の将兵100
0余が門沢城の防戦に努めるも、激戦の中、三春に退却
1589年6月28日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王アラウッディン・リアーヤット・シャー・アルムカミル(~1604年)
1589年6月29日-09:00|日本| ||天正17年5月17日|相馬義胤は岩城勢と共に常盤城(田村市常葉町)を攻め落とす
1589年7月1日-09:00|日本| ||天正17年5月19日|相馬義胤は政宗によって駒ヶ嶺城を奪い取られた
1589年7月2日-09:00|日本| ||天正17年5月20日|相馬義胤は政宗によって新地(蓑頸城)を奪い取られた/蓑首城
には亘理重宗が入り宇多郡北部は伊達領となった
1589年7月9日-09:00|日本| ||天正17年5月27日|門沢城(田村市船引町)を岩城勢が落とした
1589年7月13日-09:00|日本| ||天正17年6月|里見義康、土岐氏の万喜領へ侵攻、発坂峠で敗れる
1589年7月16日-09:00|日本| ||天正17年6月04日|大平城(郡山市大平町)を佐竹勢が落とした
1589年7月17日-09:00|日本| ||天正17年6月5日|伊達政宗が、会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(
磐梯山麓)で破り、奥州をほぼ制覇
1589年7月22日-09:00|日本| ||天正17年6月10日|蘆名義広、伊達政宗に攻められて居城の黒川城を出て、白河へ
逃走.これで戦国大名の蘆名家は滅亡
1589年7月23日-09:00|日本| ||天正17年6月11日|伊達政宗は出羽米沢から会津黒川(若松)へ居城を移した
1589年7月28日-09:00|日本| ||天正17年6月16日|上杉景勝:本間三河守を破り佐渡を併呑/慶長5年まで上杉領
となる
1589年8月2日-01:00|フランス| |||<死去>フランス国王アンリ3世/37歳(誕生:15510919)前日ジャック・クレマンに刺された
1589年8月2日-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国首席大臣マクシミリアン・ド・ベスン[サリー公](~16110129)
1589年8月2日-01:00|フランス| |||<即位>フランス国王(ブルボン朝)アンリ4世(良王アンリ・緑の情夫)(~16100514)[ルイ9世の男
系10世孫フランソワ1世の姪の子フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世の再従兄弟であり、最初の結婚により義兄弟
1589年8月9日-08:00|フィリピン| |||フィリピンで「奴隷制」廃止の勅令がでる
1589年8月11日-09:00|日本| ||天正17年7月|伊達政宗、陸奥奥会津の横田中丸城主山内氏勝と久川城主河原田
盛次らを攻撃
1589年8月11日-09:00|日本| ||天正17年7月|十河存保の子・千松丸は何者かによって毒殺され十河氏直系の血
は絶え
1589年8月11日-09:00|日本| ||天正17年7月|陸奥/伊達政宗、白河義親を帰服させ
1589年8月13日-09:00|日本| ||天正17年7月3日|岩城常隆が下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも伊達勢の
激しい抵抗にあい退却
1589年8月31日-09:00|日本| ||天正17年7月21日|真田昌幸、沼田・吾妻城を北条方へ明け渡す。減少分の替地は
家康から伊那郡に給される
1589年9月20日-01:00|フランス| |||アルクの戦いで、アンリ4世が旧教軍を破る
1589年11月3日-09:00|日本| ||天正17年9月25日|大谷吉継:越前敦賀5万石を領有
1589年11月3日-09:00|日本| ||天正17年9月25日|蜂屋頼隆:越前敦賀4万石/無嗣廃絶
1589年11月8日-09:00|日本| ||天正17年10月|小早川秀秋:丹波亀山17万石
1589年11月20日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:バチスタ・ネグローネ(~15911115)
1589年11月30日-09:00|日本| ||天正17年10月23日|北条家家臣猪俣邦憲が真田家支城名胡桃城を奪う
1589年12月3日-09:00|日本| ||天正17年10月26日|伊達政宗、陸奥須賀川城を攻略し、二階堂氏を滅ぼす
1589年12月8日-09:00|日本| ||天正17年11月|小田原方の上野国利根郡倉内城代猪股能登守則直は真田安房守
昌幸の支城である沼田領の呉桃城を攻略
1589年12月8日-09:00|日本| ||天正17年11月|白河義親は伊達政宗に服属
1600迄(3010件)
1589年12月11日-09:00|日本| ||天正17年11月4日|陸奥/伊達政宗、石川昭光を帰服させる
1589年12月23日 03:00|ブラジル| |||クリストバン・デ・バロス総督,リオ・レアルの戦いでムバエペバの率いる先住民反乱軍を撃
破/600人を虐殺
1589年12月31日-09:00|日本| ||天正17年11月24日|秀吉が小田原城主の北条氏直に宣戦布告状を送り、諸大名
に出陣の準備を命じる
1590年-07:00|タイ| |||アユタヤ王朝20代サンペット1世マハータンマラーチャーティラートの後を継いで21代サンペット2世ナレースワン即位(~1605
年4月25日)
1590年-06:30|ミャンマー/タイ| |||アユタヤ朝のナレースエン王がビルマ軍を撃退
1590年-05:30|スリランカ| |||<即位>カンディー王国(ディナラジャ家)Vimaladharmasuriya1世(~1604年)
1590年-05:00|ウズベキスタン/イラン| |||ホラサーンの戦いで、サファビー朝がブハラ・ハン国を撃破
1590年-02:00|レバノン| |||レバノンでファフル・アッディーン2世が台頭
1590年-01:00|オーストリア/スロベニア| |||<即位>ケルンテン公(ハプスブルク家のインナーエスターライヒ公)フェルディナント2世(~1637年)1619年
、インナーエスターライヒ公フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝に選出された後、ケルンテン公領は再び他のハプスブルク家領と統合、以後
神聖ローマ皇帝がケルンテン公を兼ねた
1590年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)ヨハン・アドルフ(~1616年)
1590年-01:00|スウェーデン/ロシア| |||ロシアがスウェーデンと戦争
1590年 00:00|イギリス| |||スペンサーが「神仙女王」を刊
1590年 05:00|ペルー| |||ウルタード・デ・メンドサ,ペルー副王に就任
1590年 06:00|アメリカ| |||先住民五カ国がイロコイ連盟を結成.モホーク族,オナイダ,オノンダガ,カユーガ族,セネカ族が参加する.支
配地域はニューヨーク,ペンシルバニア,オハイオ,ニュージャージー,カナダにまたがる
1590年1月1日 03:00|ブラジル| |||デ・バロス軍,先住民反乱部隊の本拠地カエテを占領
1590年1月1日-09:00|日本| ||天正17年11月25日|加藤清正・小西行長、肥後本渡城(天草伊豆守)を攻略
1590年1月3日-09:00|日本| ||天正17年11月27日|岩城常隆が伊達氏と和睦
1590年1月5日-01:00|フランス| |||ボルドー議会が、アンリ・ドゥ・ナヴァルを国王と宣言
1590年1月6日-09:00|日本| ||天正17年12月1日|陸奥/岩城常隆が田村領の侵略地を返還し、伊達政宗に服
1590年1月8日-09:00|日本| ||天正17年12月3日|下野国宇都宮城主宇都宮国綱が同国の中堂城主益子入道睡虎
を攻略
1590年1月13日-09:00|日本| ||天正17年12月08日|豊臣秀吉、宮部継潤へ因幡国内4万3600石・但馬国二方郡内73
70石、合計50970石を「扶助」内、1万石は「無役」とするが、残り4万石に対しては2000人の「軍役」を課する旨を通
達
1590年1月20日-08:00|フィリピン/ペルー| |||ペルー副王カリャオがフィリピンに交易船を派遣
1590年2月5日-09:00|日本| ||天正18年1月|安東実季、出羽比内に攻め入り、大館城を南部信直より奪還
1590年2月5日-09:00|日本| ||天正18年1月|正木大膳亮、土岐氏の万喜城を攻めるが追い払われた
1590年2月12日-09:00|日本| ||天正18年1月8日|後藤家信:長島庄、有田、小城東郷等19700石余を拝領
1590年2月12日-09:00|日本| ||天正18年1月8日|常陸国の佐竹義重の嫡子義宣が陸奥国の白河に出陣し、浅川城
主浅川次郎左ヱ門を攻める
1590年2月12日-09:00|日本| ||天正18年1月8日|鍋島直茂:肥前佐賀4万5千石/以後勝茂、光茂、綱茂、吉茂、宗茂、
宗教、重茂、治茂、斉直、直正、直大と続く(-明治4年)
1590年2月12日-09:00|日本| ||天正18年1月8日|龍造寺高房、秀吉より佐賀30万9902石の朱印状を賜る
1590年2月23日-09:00|日本| ||天正18年1月19日|安房国岡本城主里見左馬頭義康、上総国鳥山城主正木大膳亮
時茂が上総国萬祇喜城主土岐彈正少弼頼春を攻撃したが敗北
1590年3月3日-01:00|オランダ| |||モーリッツ軍がネーデルランドのブレダを占領
1590年3月5日-09:00|日本| ||天正18年1月29日|常陸国筑波郡手子生城主小田氏治入道天菴は自ら軍を率へて
小田城を取り戻さんと小田の城外なる樋口に進み梶原美濃守景国、太田源三郎資武等と戰い之れを破ったが、
新治郡片野城主太田資正入道三楽斉道誉が樋口に来て景国、資武ら兄弟を救ひ出して小田城内に引き退き、天
菴も手子生城に引き揚げる
1590年3月12日-09:00|日本| ||天正18年2月7日|小田原攻めの先鋒徳川家康の先陣として本多忠勝・榊原康政・
井伊直政らが出陣し、小田原征伐の幕が切って落とされる
1590年3月14日-01:00|フランス| |||アンリ4世が、イヴリーの戦いで旧教同盟軍と激しく戦い、勝利を得る
1590年3月21日-03:30|イラン/トルコ| |||オスマン朝とサファヴィー朝が、1578年以来の戦争を終結させて和約を結ぶ
1590年4月13日-09:00|日本| ||天正18年3月9日|豊臣方の羽柴秀次が伊豆国山中城の北條氏勝、間宮好高、朝倉
重信らを攻め破って攻略
1590年4月14日-09:00|日本| ||天正18年3月10日|戸沢盛安(戸沢氏十八代当主)は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣
して、所領を安堵されたが、盛安が小田原征伐の参陣中に病死
1590年4月19日-09:00|日本| ||天正18年3月15日|真田氏先兵が碓氷峠で大道寺政繁と交戦勝利
1590年4月22日-09:00|日本| ||天正18年3月18日|相馬義胤弟の中村城代・相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺を攻めて敗北
1590年4月29日-09:00|日本| ||天正18年3月25日|佐竹軍は先づ木原を攻め二陣は龍ヶ崎を攻め、一陣、三陣のみ
にて江戸崎を取込めんとす/阿波崎城に到る土岐治綱深傷に堪えず遂に自決
1590年5月1日-09:00|日本| ||天正18年3月27日|津軽為信:豊臣秀吉から津軽三郡・合浦一円の所領安堵
1590年5月2日-09:00|日本| ||天正18年3月28日|北陸軍松井田城を包囲攻撃、落ちず
1590年5月3日-09:00|日本| ||天正18年3月29日|一柳直盛(直末の弟):尾張黒田35千石/拝領(-慶長6年伊勢神戸
へ)
1600迄(3010件)
1590年5月3日-09:00|日本| ||天正18年3月29日|一柳直末、没/美濃軽海5万石/無嗣廃絶
1590年5月3日-09:00|日本| ||天正18年3月29日|豊臣水軍が北条水軍と伊豆ヶ崎で戦う一方、羽柴秀次軍が北
条方の箱根山中城を数時間の戦闘で落とす
1590年5月4日-09:00|日本| ||天正18年4月1日|羽柴秀吉、箱根山へ移陣/途上にて足柄城・鷹巣城・久野祢砦・深
川砦を攻撃
1590年5月4日-09:00|日本| ||天正18年4月1日|長宗我部元親が、軍艦大黒丸で北条方清水康英の籠もる伊豆下
田城を攻略
1590年5月7日-01:00|フランス| |||アンリ4世がパリを包囲
1590年5月9日-09:00|日本| ||天正18年4月6日|羽柴秀吉、湯本早雲寺に本陣を構え相模国小田原城を包囲、兵糧
攻めを開
1590年5月10日-09:00|日本| ||天正18年4月7日|伊達政宗が弟を立てようとした母から黒川城で謀殺されかけ
、弟の小次郎を斬殺
1590年5月11日-09:00|日本| ||天正18年4月8日|上杉景勝・浅野長政らは皆川城を攻め落城させた
1590年5月14日-09:00|日本| ||天正18年4月11日|茶人山上宗二、秀吉によって耳と鼻をそがれたうえで、処刑さ
れる。宗二は千利休の弟子。秀吉の悪口を当人目の前にはばからずに怒りを買ったという
1590年5月15日-09:00|日本| ||天正18年4月12日|豊臣秀吉軍が北条方の松山城を落とす
1590年5月20日-09:00|日本| ||天正18年4月17日|北国勢、国峰城を攻略
1590年5月23日-09:00|日本| ||天正18年4月20日|上杉勢の前田利家、上杉景勝らが上野国の松井田城主大道寺
駿河守政繁を初め倉賀野、箕輪、厩橋等の諸城を降服させて攻略
1590年5月25日-09:00|日本| ||天正18年4月22日|前田利家・上杉景勝らが北条方の大道寺政繁が拠る松井田城
を攻め落とす
1590年5月25日-09:00|日本| ||天正18年4月22日|武藏国江戸城の川村兵大夫は徳川家康の説得によって城を開
け渡して降伏し攻略
1590年5月26日-09:00|日本| ||天正18年4月23日|相馬盛胤・義胤父子は新地城を攻めて失敗
1590年5月29日-09:00|日本| ||天正18年4月26日|上野国の西牧城主多米周防守、大谷帶刀左ヱ門らが本多忠勝
の爲めに攻略/また別に、松平康国、康寛兄弟が西牧城に多米周防守、大谷帶刀左ヱ門らを討取りて攻略
1590年6月1日-09:00|日本| ||天正18年4月29日|真田軍、箕輪城を陥れる
1590年6月2日-09:00|日本| ||天正18年5月|里見義康、上総を没収され安房一国9万2千石に封じられる
1590年6月2日-09:00|日本| ||天正18年5月1日|武蔵河越城の大導寺政繁が豊臣秀吉軍に降伏開城
1590年6月3日-09:00|日本| ||天正18年5月2日|豊臣秀吉の家臣前田利家ら、金山城を接収
1590年6月15日-09:00|日本| ||天正18年5月14日|相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑
で戦い敗北.童生淵(相馬市)で討死
1590年6月16日-09:00|日本| ||天正18年5月15日|長尾政景の白井城は北陸勢に攻められ落城
1590年6月21日-09:00|日本| ||天正18年5月20日|土岐治綱:高田に身を引き降伏/江戸崎城は1千名の城兵を一
兵も損せず?(婦女子を含む虐殺説もあり)秀吉軍に接収さる
1590年6月23日-09:00|日本| ||天正18年5月22日|本多忠勝は武藏国豊島郡岩槻城主太田十郎氏房の留守居伊達
与兵ヱらを攻め破って攻略/浅野長吉、木村重茲らが岩槻城の寄手に加わり岩槻城を攻略し、鉢形城を攻めんと
赴いて攻撃の寄手に加わる
1590年6月25日-09:00|日本| ||天正18年5月24日|豊臣秀吉は結城晴朝の十一万五千石の所領を認める
1590年6月28日-09:00|日本| ||天正18年5月27日|堀秀政、相模国小田原陣中において病没,子の秀治が16万石を
継ぐ
1590年6月30日-09:00|日本| ||天正18年5月29日|石田三成らが北条方の館林城を落とす
1590年7月3日-09:00|日本| ||天正18年6月2日|伊達政宗が豊臣秀吉に対面を許され臣従、会津を没収される代
わりに本領は安堵される
1590年7月7日-09:00|日本| ||天正18年6月06日|戸沢盛安が6月小田原征伐の参陣中に病死したため、弟光盛に
遺領安堵
1590年7月10日-01:00|オーストリア/スロベニア| |||インナーエスターライヒ公フェルディナント2世即位(~1637年2月15日)
1590年7月15日-09:00|日本| ||天正18年6月14日|前田利家、上杉景勝、浅野長吉、木村重茲らが武藏国鉢形城主
北條氏邦を攻め破って之れを降伏させ攻略
1590年7月21日-09:00|日本| ||天正18年6月20日|天正遣欧少年使節団、長崎に帰還.使節に同行したヴァリニャーノに
よって活字印刷機など南蛮技術がもたらされる
1590年7月24日-09:00|日本| ||天正18年6月23日|豊臣秀吉軍が北条方の武蔵八王子城を落とす
1590年7月25日-09:00|日本| ||天正18年6月24日|豊臣秀吉軍が北条方の伊豆韮山城を落とす
1590年7月26日-09:00|日本| ||天正18年6月25日|本多中務大輔忠勝、平岩親吉らが相模国の津久井城の内藤左
近太夫を破り攻略
1590年7月29日-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第21代国王サンペット2世ナレースワン(~16050407)
1590年7月30日-09:00|日本| ||天正18年6月29日|武藏国埼玉郡行田の忍城主成田氏長は小田原に籠城をして居
たが、遂に叛して小田原の城中より豊臣秀吉に書状を送って内通.成田氏長が降伏
1590年8月4日-09:00|日本| ||天正18年7月05日|<改易>豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡したことにより、
臣下の千葉氏も滅亡
1590年8月4日-09:00|日本| ||天正18年7月5日|北条氏政・氏直親子が豊臣秀吉に降伏し小田原城を開城
1590年8月6日-09:00|日本| ||天正18年7月7日|下総国結城城主結城晴朝が下野国小山祇園城主小山小四郎政種
1600迄(3010件)
を攻め破って攻略.その後宇都宮領にも侵攻、鹿沼・壬生などを横領
1590年8月10日-09:00|日本| ||天正18年7月11日|北条氏政・氏照が抗戦の責任を問われ医者田村安栖の宿所で
切腹/享年氏政53歳、氏照50歳/北條氏直、氏規、氏勝らは高野山に入って隠居し北條氏は滅亡
1590年8月12日-01:00|バチカン| |||226代ローマ教皇シクストゥス5世死去/68歳(誕生:15211213)イギリス女王エリザベスを破門
し、日本の大友、有馬、大村の遣欧使節と交渉があった
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|<移封>徳川家康:三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃→武蔵江戸250
万石(慶長8年将軍へ)
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|伊達政宗の会津黒川城を没収、政宗は米沢に本拠を移す
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|加藤光泰:甲斐甲府城主
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|京極高次には八幡山2万8千石を与える
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|織田信雄:尾張清洲100万石/家康の旧領へ移ることを拒絶し
て秀吉の怒りにふれ除封/常陸の佐竹氏に預けられ剃髪
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|真田昌幸:信濃上田3万8千石/所領安堵
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|真田信之:上野沼田3万石/秀吉から父昌幸が所領安堵/以後信
之、信吉、熊之助、信政、信利と続く(-天和1年改易)
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|石川数正:和泉国内8万石→信濃松本8万石/以後康長(弟、康勝
に15千石、泰次に5千石分知58千石)が嗣ぐ
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|石田三成:水口4万石→佐和山城18万石
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|仙石秀久:信濃小諸5万石/拝領/次に忠政が嗣ぐ(-元和8年信
濃上田へ)
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|池田輝政:美濃国10万石→三河国15万2千石/移封
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|日根野高吉:信濃高島27千石/拝領/次に吉明が嗣ぐ(-慶長6年
下野壬生へ)
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|豊臣秀次:織田信雄の旧領尾張・北伊勢57万1737石を与えられ
る
1590年8月12日-09:00|日本| ||天正18年7月13日|毛利秀頼:信濃(伊奈郡)飯田10万石/拝領(-文禄2年閏9月:159
3没)
1590年8月15日-09:00|日本| ||天正18年7月16日|武藏国埼玉郡の忍城兵らは水攻めを受けたが屈せず固守して
居たが、小田原に籠城して居た主君成田氏長より降伏の論告を受けて遂に代官の酒巻靱負は開城して攻略
1590年8月18日-09:00|日本| ||天正18年7月19日|大道寺政繁、羽柴秀吉の命令で自刃
1590年8月21日-09:00|日本| ||天正18年7月22日|岩城常隆が小田原に参陣して没/跡は佐竹義重の弟貞隆が継
ぐ
1590年8月25日-09:00|日本| ||天正18年7月26日|<改易>葛西晴信(奥州30万石)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣で
きず:1597年晴信死去により葛西氏は滅亡
1590年8月25日-09:00|日本| ||天正18年7月26日|<改易>大崎義隆(奥州)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず:
大崎氏は滅亡
1590年8月25日-09:00|日本| ||天正18年7月26日|<所領安堵>相馬義胤、陸奥牛越4万9234石
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>江刺重恒:陸奥国江刺岩谷堂城主/小田原参陣を果たせ
なかったため、秀吉が所領を没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>黒川晴氏:陸奥国黒川郡鶴楯城主/小田原参陣を果たせ
なかったため、秀吉が所領を没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>小山秀綱:豊臣秀吉の小田原城攻めに際しては、北条氏
方として行動したため所領没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>小田氏治:豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったた
め、常陸の所領全て没収/大名としての小田氏は完全に滅亡
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>石川昭光:陸奥国石川/小田原参陣を果たせなかったた
め、秀吉が所領を没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>田村宗顕は伊達家中とみなされ所領および三春城は収
公され田村郡は秀吉から伊達領と認められた/田村氏は大名としての地位を失った
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>那須資晴8万石:豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため
/資晴の子・那須資景に五千石を宛がわれ改易は免れる
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>白河結城氏小峰義親は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し
なかったため、改易されて滅亡
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>稗貫広忠:陸奥国稗貫郡/小田原参陣を果たせなかった
ため、秀吉が所領を没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<改易>和賀義忠:陸奥国和賀郡/小田原参陣を果たせなかった
ため、秀吉が所領を没収
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>宇都宮国綱:秀吉の小田原征伐に参陣
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>皆川広照:下野皆川1万3千石(後関ヶ原の合戦の功
で3万石)/豊臣秀吉により(-慶長8年信濃飯山へ)
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>結城晴朝:豊臣秀吉の小田原攻めに参陣、秀吉猶子
於義丸(徳川家康の庶長子)を跡継ぎにもらう(後の中納言秀康)/秀吉は結城十一万五千石に若千の地を加増し
1600迄(3010件)
十八万一千石を領す
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>戸沢盛安:北浦郡4万4千石
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>佐野房綱:下野佐野3万9千石(豊臣秀吉の小田原征
伐に従軍して)次に信吉が嗣ぐ
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>最上義光:小田原に参陣、遅参をとがめられたが最
上郡を安堵された
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>秋田実季は秀吉から本領を安堵された
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>多賀谷重経:常陸下妻6万石(~慶長6年改易)
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>大関高増:下野黒羽1万3千石/豊臣秀吉より
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>津軽為信:津軽三郡4万5千石
1590年8月26日-09:00|日本| ||天正18年7月27日|<所領安堵>南部信直:陸奥盛岡10万石/拝領/以後利直、重直、
重信、行信、信恩、利幹、利視、利雄、利正、利敬(20万石に高直し)、利用、利用、利済、利義、利剛、利恭と嗣ぐ
1590年8月30日-01:00|フランス/スペイン| |||フェリペ2世の派遣したファルネーゼのスペイン軍がパリに到着し、アンリ4世がパリの包
囲網を解く
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<移封>氏家行広:美濃三塚1万5千石→伊勢桑名2万2千石/加増
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<移封>池田輝政を三河吉田15万2千石城主に任じる
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<移封>徳川家康:関東250万石余,秀吉の命によりこの日関東
に入国江戸城に入る(江戸御打入り)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<移封>堀尾吉晴(可晴):近江佐和山→遠江浜松12万石/次に忠
氏(17万石)が嗣ぐ(~慶長5年出雲松江へ)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<減封>伊達政宗(奥羽約150万石から陸奥出羽のうち13郡、
およそ72万石に減封(翌年の再仕置で葛西大崎一揆の責任を問われ、約58万石に減封の上移封)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>蒲生氏郷:蘆名氏の旧領会津黒川42万石(翌年の再仕置
で約92万石に大加増)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>小笠原貞慶:小田原征伐で軍功を挙げ讃岐半国を与え
られた(後秀吉の怒りを買って改易)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>松下之綱:遠江久野16千石/次に重綱(吉綱)が嗣ぐ(~慶
長8年常陸小張へ)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>石川貞清:尾張犬山1万2千石(小田原の役で功績)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>赤座吉家:越前今庄2万石
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>滝川雄利(木造具康の子):伊勢神戸25千石(~文禄4年秀
次事件で封を無くし、秀吉御伽衆3万石)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>中村一氏:駿河府中城主17万5千石となった
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>田中吉政:三河岡崎10万石(~慶長5年筑後久留米へ)
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>渡瀬繁詮:横須賀3万石を与えられ諸侯に列し、のち5千
石を加増され
1590年8月30日-09:00|日本| ||天正18年8月01日|<新封>牧村利貞(稲葉重道の長男):伊勢岩手2万石(~文禄2年)
1590年9月4日-09:00|日本| ||天正18年8月06日|下総国結城城主結城中務大輔晴朝が退老し、養子秀康(家康の
次男)が10万1000石を継ぐ
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月09日|<再封>蘆名盛重(義勝・義広):常陸江戸崎45千石(~慶長7年所領
没収)
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月09日|<所領安堵>佐竹義宣:常陸水戸54万5800石(~慶長7年)
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月09日|<新封>岡本重政:伊勢亀山2万2千石に封ぜられる
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月9日|<新封>小野寺義道:出羽横手31600石(~慶長6年関ヶ原の合戦の
時、東軍の最上氏と戦い、改易)
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月09日|<新封>木村吉清:寺池城(登米城)を中心とした葛西大崎30万石
(翌年に葛西大崎一揆の責任を問われ改易)
1590年9月7日-09:00|日本| ||天正18年8月9日|豊臣秀吉が会津黒川城に入り、豊臣秀次に検地を命じ奥州仕置
を発令、ついに天下を統一する
1590年9月9日-09:00|日本| ||天正18年8月11日|豊臣秀吉の奥州仕置軍と葛西晴信が戦い、陸奥佐沼城が落城/
領地没
1590年9月10日-09:00|日本| ||天正18年8月12日|榊原康政:上野館林10万石/拝領/以後康勝、忠次と続く(-寛永
20年陸奥白河へ)
1590年9月13日-09:00|日本| ||天正18年8月15日|蒲生氏郷:伊勢松坂→陸奥会津42万石/加増移封/会津黒川城
を居城とした
1590年9月15日-01:00|バチカン| |||227代教皇ウルバノ七世(-1590年9月27日)
1590年9月27日-01:00|バチカン| |||227代教皇ウルバノ七世死去[1521年08月04日生~](享年69)
1590年10月-05:30|インド/パキスタン| |||アクバルがアブドゥルラヒーム指揮の軍隊を派遣してシンド地方を併合
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|(松平)久松康元:下総関宿4万石/拝領/次に忠良が嗣ぐ(-元和
2年美濃大垣へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|(松平)戸田康長:武蔵東方1万石/拝領(-慶長6年上野白井へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|(松平)松井康重:武蔵騎西2万石/拝領(-慶長6年常陸笠間へ)
1600迄(3010件)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|(松平)大須賀忠政(榊原康政の長男):上総久留里3万石/拝領(
-慶長6年遠江横須賀へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|伊奈忠次:武蔵小室1万石/拝領/以後忠政、忠勝と続く(-元和5
年無嗣断絶)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|井伊直政:上州箕輪城主12万石の大名になった
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|岡部長盛:下総山崎12千石/拝領(-慶長14年丹波亀山へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|結城秀康(徳川家康の次男):河内→下総結城10万1千石/拝領(
-慶長5年越前北の庄へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|高力清長:駿河田中→武蔵岩槻2万石/次に忠房が嗣ぐ(-元和5
年遠江浜松へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|三浦重成:佐原から三浦に姓を改め下総本佐倉13千石/拝領/
次に重勝(1万石)が嗣ぐ(-寛永8年無嗣断絶)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|酒井家次:三河吉田→下総臼井3万石(-慶長9年下野高崎へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|酒井重忠:三河西尾→武蔵川越1万石(-慶長6年上野前橋へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|小笠原秀政:信濃松本→下総古河3万石(-慶長6年信濃飯田へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|小笠原信嶺:武蔵本庄1万石/拝領/次に信之が嗣ぐ(-慶長17年
下総古河へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|松平家乗:上野那波1万石/拝領(-慶長6年美濃岩村へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|松平家清:武蔵国内1万石拝領(-慶長6年三河吉田へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|松平康直:武蔵深谷1万石/拝領
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|松平信昌:上野小幡藩3万石(群馬県甘楽郡)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|松平忠吉(徳川家康の四男):駿河沼津4万石→武蔵忍10万石/
加増移封(-慶長5年尾張清洲へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|諏訪頼忠:武蔵に所領を与えられ
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|菅沼定盈:三河野田→上野国阿保城1万石/次に定仍が嗣ぐ(慶長6年伊勢長島へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|菅沼定利:上野吉井2万石/拝領/次に忠政が嗣ぐ(-慶長15年美
濃加納へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|石川康通:上総鳴戸2万石/拝領(-慶長6年美濃大垣へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|大久保忠世:遠江二股→相模小田原45千石/次に忠隣(65千石)
が嗣ぐ(-慶長19年改易)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|鳥居元忠:下総矢作4万石/拝領(-慶長5年出羽磐城平へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|土岐定政:甲斐切石→下総守谷1万石/次に定義が嗣ぐ(-元和3
年摂津高槻へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|内藤家長:上総佐貫2万石/拝領/次に政長(45千石)が嗣ぐ(-元
和8年陸奥平へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|武田信吉:下総小金藩3万石/拝領
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|平岩親吉:上野厩橋(前橋の古称)33千石(-慶長6年甲斐府中へ
)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|保科正光:下総多古1万石/拝領(-慶長5年信濃高遠へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|北条氏勝:下総岩富1万石/拝領/以後氏重が嗣ぐ(-慶長18年下
野富田へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|牧野康成:上野大胡2万石/拝領/次に忠成が嗣ぐ(-元和4年越
後長岡へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|本多康重:上野白井2万石/拝領(-慶長6年三河岡崎へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|本多忠勝:上総大多喜10万石/拝領/以後忠朝(5万石)(-元和1
年大坂夏の陣で戦死)、政朝と続く(-元和3年播磨龍野へ)
1590年10月8日-09:00|日本| ||天正18年9月10日|里見義高:上野板鼻1万石/拝領(-慶長18年勤仕怠慢により断
絶)
1590年10月12日-09:00|日本| ||天正18年9月14日|絵師狩野永徳が襖絵を制作中に急死/享年48歳(誕生:天文12
(1543)0113)
1590年10月18日-09:00|日本| ||天正18年9月20日|<移封>山内一豊:近江長浜→遠江掛川5万石(~慶長6年土佐浦
戸へ)
1590年10月26日-09:00|日本| ||天正18年9月28日|伊達政宗・浅野長吉らが九戸政実の乱を平定/政実は捕らえ
られ護送中に誅殺
1590年11月1日-01:00|スペイン/ペルー| |||スペインのペルー副王領でアルカバラ(売上税)が導入
1590年11月13日-09:00|日本| ||天正18年10月16日|陸奥玉造郡などの大崎領で、木村父子の処置に怒った大崎・
葛西旧臣らが領民と共に一揆を起こし佐沼城を包囲
1590年11月15日-09:00|日本| ||天正18年10月18日|出羽仙北増田・川連・山田等に検地一揆起こるが、上杉景勝
らによって鎮圧
1590年12月8日-01:00|バチカン| |||228代教皇グレゴリオ十四世(-1591年10月16日)
1590年12月12日-09:00|日本| ||天正18年11月16日|大崎・葛西一揆討伐、名生城を攻略
1600迄(3010件)
1590年12月27日-09:00|日本| ||天正18年12月|松前慶広(蠣崎季広の三男)が上洛して豊臣秀吉に謁見し、所領
を安堵された
1591年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ノー・ムアン王(~1598年)
1591年-07:00|ラオス/ミャンマー| |||ラオスでノー・ムアン王が即位し、ビルマから独立
1591年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アーロン1世(~1592年)
1591年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ボグダン朝)ステファン1世(~1592年)
1591年-01:00|イタリア| |||イタリアでガリレイがピサの斜塔で、全ての落下体は同じ時間で落下することを証明する実験
を行う
1591年-01:00|イタリア| |||ウフィツィ美術館一部公開(フィレンツェ)
1591年 00:00|マリ/モロッコ| |||モロッコのサード朝がソンガイ帝国を征服
1591年1月2日-09:00|日本| ||天正18年12月7日|<所領安堵>相馬義胤:陸奥中村(牛越城)48700石(~慶長7年改易
、すぐ許されて元に復した)/以後利胤、義胤(中村城6万石)、忠胤、貞胤、昌胤、叙胤、尊胤、恕胤、祥胤、樹胤、益胤、
充胤、誠胤と続く(~明治4年)
1591年1月14日-09:00|日本| ||天正18年12月19日|豊臣秀吉、「本堂伊勢守」へ出羽国本堂領を安堵
1591年1月14日-09:00|日本| ||天正18年12月19日|常陸国太田城主佐竹義重は嫡子義宣をして那珂郡菅谷村の
寄居城などを攻め破って攻略し、兵を勝田村の勝倉に進め勝倉城主勝倉四郎を攻め之れを討ち取って攻略
1591年1月14日-09:00|日本| ||天正18年12月19日|豊臣秀吉、小野寺義道へ出羽国仙北上浦郡44350石4斗4升9合
を安堵す
1591年1月15日-09:00|日本| ||天正18年12月20日|佐竹義宣:水戸城を攻め取り江戸重通を追放
1591年1月17日-09:00|日本| ||天正18年12月22日|佐竹氏は常陸府中城を攻撃し、大掾氏を服属させ常陸を統一
/秀吉より支配権を認められる
1591年1月25日-09:00|日本| ||天正19年|成田氏長:武蔵忍→下野烏山37千石/以後長忠(泰親)、氏宗(泰之)と続
く(-元和8年改易)
1591年1月25日-09:00|日本| ||天正19年|服部一忠:伊勢一志郡3万5千石を与えられ、松坂城主となる
1591年1月25日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・洪寧1年|大越莫朝・洪寧と改元(~1592年旧10月)
1591年2月1日-09:00|日本| ||天正19年1月08日|毛利輝元が広島城がほぼ完成し入城/広島県
1591年2月3日-01:00|ドイツ| |||カルヴァン派主体のドイツ新教同盟が結成される
1591年2月10日-09:00|日本| ||天正19年1月17日|秋田実季:出羽秋田(湊城)52400石/豊臣秀吉から所領安堵(慶長7年常陸宍戸へ)
1591年2月10日-09:00|日本| ||天正19年1月17日|豊臣秀吉、戸沢光盛(「戸沢九郎」)へ出羽国仙北内の北浦郡443
50石を宛行、出羽角館藩4万4000石/以後、光盛,政盛が相続
1591年2月10日-09:00|日本| ||天正19年1月17日|豊臣秀吉、出羽横手藩(藩主:小野寺義道)検地反対一揆で減封
、出羽国仙北上浦郡31600石を「宛行」い「領知」とすべきことを通達る
1591年2月15日-09:00|日本| ||天正19年1月22日|<死去>豊臣秀長(秀吉の弟)が病没/51歳(誕生:1541)
1591年2月20日-09:00|日本| ||天正19年1月27日|豊臣秀保(三好吉房が三子/侍従)秀長遺領のうち大和・紀伊を
継ぎ、郡山豊臣家を相続
1591年3月25日-09:00|日本| ||天正19年2月1日|佐竹義宣:鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南
方三十三館と称される武将たちを太田城に招き謀殺/常陸一國の支配体制確立
1591年3月31日-09:00|日本| ||天正19年2月7日|北条氏規:河内狭山1万石を与えられる
1591年4月2日-09:00|日本| ||天正19年2月9日|木村吉清:陸奥大崎30万石/廃絶(失政・領内一揆
1591年4月16日-09:00|日本| ||天正19年2月23日|佐竹義宣:額田城の小野崎照通を追放
1591年4月17日-09:00|日本| ||天正19年2月24日|奥州の南部信直の一族九戸政実らが反乱を起こし、信直側の
八戸政栄の兵が九戸側の櫛引清長の砦を攻撃するが九戸側は頑強に抵抗/信直が秀吉に援軍を要請
1591年4月21日-09:00|日本| ||天正19年2月28日|千利休が葭屋町の屋敷で切腹。70歳(誕生:1522)
1591年5月6日-09:00|日本| ||天正19年3月13日|九戸党の櫛引勢か苫米地城を、七戸勢が伝法寺城を、九戸勢が
一戸城や又重城を攻撃
1591年5月6日-09:00|日本| ||天正19年3月13日|毛利輝元:安芸広島120万石を安堵され父祖伝来の吉田都山城
から広島へ居城を移した/次に秀就が嗣ぐ(-慶長5年長門萩へ)
1591年5月16日-09:00|日本| ||天正19年3月23日|佐竹義宣:本拠を水戸城へ移す
1591年6月11日-09:00|日本| ||天正19年4月20日|津田宗及、没
1591年7月10日-09:00|日本| ||天正19年5月20日|方広寺大仏殿の立柱がなる
1591年8月7日-09:00|日本| ||天正19年6月18日|吉川広家:出雲三郡、伯耆半国12万石/拝領(-慶長5年周防岩国
へ)
1591年8月14日-09:00|日本| ||天正19年6月25日|葛西・大崎一揆/伊達政宗、陸奥国大崎宮崎城を攻略
1591年8月19日-09:00|日本| ||天正19年7月|里見義康、本拠地を館山城に移す
1591年8月21日-09:00|日本| ||天正19年7月3日|伊達政宗、この寅刻に陸奥国大崎佐沼城を攻略し、城主兄弟を
はじめ「究意之者共」500名を討ち捕らえ、2000余人を「刎首」、女子供まで「撫切」に処す
1591年9月12日 00:00|ポルトガル/インド/日本| |||豊臣秀吉がポルトガルのインド総督へ書簡、布教の禁止と貿易を求め
る
1591年9月18日-09:00|日本/フィリピン| ||天正19年8月|豊臣秀吉がフィリピンのルソン総督に入貢を求める
1591年9月25日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)クリスティアン2世(~16110623)
1591年10月1日-09:00|日本| ||天正19年8月14日|旧葛西家臣らが伊達政宗によって陸奥須江山で誅殺される
1600迄(3010件)
1591年10月8日-09:00|日本| ||天正19年8月21日|秀吉、奉公人・侍・中間・小者・百姓の身分を固定化する身分統
制令を発布、転職を禁ず
1591年10月10日-09:00|日本| ||天正19年8月23日|<九戸政実の乱>九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引
き連れて美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え,これが緒戦となった
1591年10月16日-01:00|バチカン| |||228代ローマ教皇グレゴリウス14世死去/55歳(誕生:15351102)
1591年10月18日-09:00|日本| ||天正19年9月1日|<九戸政実の乱>中央軍本隊は、九戸の前衛姉帯城を攻略し、根
反・一戸城を敗走させた
1591年10月21日-01:00|オランダ| |||ネーデルランドで、モーリッツ軍がニメーゲンを占領
1591年10月21日-09:00|日本| ||天正19年9月4日|<九戸政実の乱>奥州の九戸政実が蒲生氏郷に降伏
1591年11月3日-01:00|バチカン| |||229代教皇インノチェンチオ九世(-1591年12月30日)
1591年11月6日-09:00|日本| ||天正19年9月20日|<九戸政実の乱>九戸政実が首をはねられた
1591年11月6日-09:00|日本| ||天正19年9月20日|蒲生氏郷:伊達政宗旧領を加増され73万4千石に
1591年11月8日-09:00|日本| ||天正19年9月22日|浅野長政:若狭の蔵入地から6500石加増される
1591年11月9日-09:00|日本| ||天正19年9月23日|伊達政宗:出羽米沢→陸奥岩出山60万5千石(-慶長8年陸奥仙
台へ)
1591年11月13日-09:00|日本| ||天正19年9月27日|県領主高橋元種、高智尾の三田井親武を、甲斐宗説と連合で
攻め、これを滅ぼす
1591年11月16日-09:00|日本| ||天正19年10月|南部信直に荷担しなかったということで、釜沢城主小笠原重清
が南部勢に攻撃され滅亡
1591年11月27日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジオ・アゴスティーノ・カンピ・ギウスティニアーニ(~15931126)
1591年12月-01:00|スペイン| |||フェリペ2世が、アラゴンで起こった反乱を鎮圧して、地方貴族の特権を停止
1591年12月19日-09:00|日本| ||天正19年11月4日|北条氏直が河内国天野で没/30歳(誕生:永禄5(1562))/相模
小田原城主だった/氏直死亡で嫡流は途絶える
1591年12月30日-01:00|バチカン| |||229代ローマ教皇インノケンティウス9世死去[1519年07月20日生~](享年72)
1592年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ペトル7世→同年<即位>モルダヴィア王アレクサンドル5世→同年<即位>モルダヴィ
ア王アーロン1世(2度目~1595年)
1592年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ボグダン朝)アレクサンダー3世(~1593年)
1592年-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(中リューネブルク家)エルンスト2世(~1611年死去)
1592年-01:00|ベルギー| |||<即位>ベルク公ヨハン・ヴィルヘルム1世(~1609年)
1592年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=シュヴェリーン系)アドルフ・フリードリヒ1世[ヨハン7世の息子](~1628年
神聖ローマ皇帝フェルディナント2世によって廃位)
1592年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王シギスムント(-1599)
1592年 00:00|イギリス/フォークランド| |||イギリスの探検家デービスがフォークランド諸島を発見
1592年 05:00|キューバ| |||キューバ総督のオフィスがサンチアゴからハバナに移る.以後,ハバナが実質的な首都となる
1592年 07:00|メキシコ| |||サンルイス・ポトシに銀鉱発見
1592年1月5日-01:00|ドイツ/オランダ| |||<即位>クレーフェ公ヨハン・ヴィルヘルム(~16090325死去46歳)
1592年1月15日-09:00|日本| ||天正19年12月|南部信直:九戸の乱後、津軽三郡の替地として和賀・稗貫・志和三
郡を与えられて10万石/九戸城を福岡城と改めて三戸から移る
1592年2月1日-09:00|日本| ||天正19年12月18日|豊臣秀吉が関白を辞任
1592年2月9日-01:00|バチカン| |||231代教皇クレメンス八世(-1605年3月3日)
1592年2月11日-09:00|日本| ||天正19年12月28日|豊臣秀吉の甥・秀次、関白に補任され秀吉は太閤となる
1592年2月13日-09:00|日本| ||天正20・文禄1年|<移封>諏訪頼忠・頼水:武蔵・奈良梨1万2千石→上野総社(蒼海
城)27千石(-慶長6年信濃高島へ)
1592年2月13日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・洪寧2年1月|大越チン・トゥン(鄭松)がタンロン城を攻撃、莫朝軍の死傷者多数
、莫敬止、城を放棄、都より敗走し(莫朝)亡命
1592年3月14日-08:00|中国| ||明・万暦20年2月|寧夏でモンゴル出身の将軍ボバイが挙兵(~9月)
1592年4月-05:30|インド| |||ムガル帝国がオリッサ地方を併合
1592年4月12日-09:00|日本| ||天正20年3月|(松平)武田信吉(徳川家康の五男):下総小金3万石→下総佐倉4万
石(-慶長7年常陸水戸へ)
1592年4月12日-09:00|日本| ||天正20年3月|松平家忠:武蔵忍(城預かり)→下総上代1万石(-文禄3年下総小見
川へ)
1592年4月12日-09:00|日本| ||天正20年3月|松平忠吉(家康の四男):武蔵忍10万石/拝領
1592年4月12日-09:00|日本| ||天正20年3月|徳川家康が社領57石を寄進して代官成瀬吉右衛門に秩父神社社殿
を建造させた/埼玉県
1592年5月12日-09:00|日本| ||天正20年4月以降|戸沢政盛:出羽角館44350石/拝領(-慶長7年常陸松岡へ)
1592年5月24日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年4月13日|日本軍先鋒の小西行長らが釜山に上陸し、釜山城
を守っていた鄭撥を殺し城を落とす/文禄の役が始る
1592年5月29日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年4月18日|黒田長政等、慶尚道金海城を攻める
1592年5月30日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年4月19日|第二軍、彦陽を落とす
1592年5月31日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年4月20日|北条氏房、肥前国唐津の陣中において病没
1592年6月7日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年4月27日|小西・宗勢、弾琴台にて申竝の率いる朝鮮軍を破る
1592年6月11日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月2日|小西行長と加藤清正の軍が相次いで京城を占領
1600迄(3010件)
1592年6月16日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月7日|全羅左道水軍節度使・李舜臣率いる朝鮮水軍部隊が
巨済島玉浦で藤堂高虎の水軍部隊を破る
1592年6月17日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月8日|朝鮮水軍、赤珍浦にて日本水軍を破る
1592年6月27日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月18日|秀吉、甥の秀次へ関白職を譲る
1592年7月6日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月27日|加藤・小西・黒田・鍋島らの日本軍が朝鮮京畿道開城
を陥とす
1592年7月8日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年5月29日|朝鮮水軍、泗川にて日本軍を撃破
1592年7月13日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年6月5日|李舜臣、唐項浦にて日本軍を破る
1592年7月15日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年6月7日|李舜臣、巨済島粟浦にて日本軍を撃破
1592年7月23日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年6月15日|小西行長、黒田長政らが平壤を占拠
1592年7月23日-09:00|日本| ||天正20年6月15日|島津竜伯の将梅北国兼が朝鮮出陣を忌避して背き、肥前名古
屋に進撃しようとするが肥後佐敷城を襲って敗走
1592年7月24日 05:00|コロンビア| |||キト市議会は,アロンソ・モレノ・ベジドを指導者として反乱開始(アルカバラスの反乱)
1592年8月6日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年6月29日|圧倒的兵力に優る日本軍によって晋州城は陥落/朝
鮮軍将兵、市民は全滅
1592年8月14日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年7月7日|明朝の祖承訓が小西行長の守る平壤を攻めるが、大
敗
1592年8月14日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年7月7日|李舜臣の率いる朝鮮艦隊が閑山島沖で豊臣秀吉の
水軍に大勝
1592年8月16日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年7月9日|李舜臣の率いる朝鮮艦隊が安骨浦の九鬼嘉隆・加藤
嘉明らが率いる水軍部隊を襲撃し、勝利
1592年8月23日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年7月16日|明軍の祖承訓率いる遼東軍に、朝鮮軍3000が合流/
平壌城への攻撃を開始/日本軍が敵兵を撃退
1592年8月25日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン方伯(ヘッセン=カッセル)モーリッツ碩学伯[ヴィルヘルム4世の息子](~16270317)
1592年8月25日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年7月18日|加藤清正、海汀倉にて韓克誠の朝鮮軍を破る
1592年9月9日-09:00|日本| ||天正20年8月4日|秀吉が、大政所の追善のため、高野山に1万石の寄進をして青厳
寺を建てさせる
1592年9月13日-01:00|フランス| |||モンテーニュ死去/59歳(誕生:15330228)。フランスの思想家
1592年9月23日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||天正20年8月18日|忠清道義兵の趙憲・霊圭、錦山の立花宗茂・安国寺
恵瓊を攻めて戦死
1592年10月5日-08:00|中国| ||明・万暦20年9月|ボバイの反乱が鎮圧される
1592年10月7日-09:00|日本| ||天正20年9月2日|李舜臣の朝鮮水軍、日本軍の根拠地釜山浦を攻撃
1592年10月14日-09:00|日本| ||天正20年9月09日|織田秀信:美濃岐阜13万3千石を与えられて豊臣政権下の一
大名となっ
1592年10月14日-09:00|日本| ||天正20年9月09日|織田秀雄:越前大野5万石/拝領/(-慶長5年関ヶ原合戦で西軍
に与し所領没収)
1592年10月14日-09:00|日本| ||天正20年9月09日|織田信雄:大和国内に捨扶持17000石を与えられる
1592年10月14日-09:00|日本| ||天正20年9月9日|豊臣秀勝(小吉、羽柴秀吉甥)、陣中で病没/美濃岐阜/無嗣廃絶
1592年10月20日-09:00|日本| ||天正20年9月15日|義兵鄭文孚、鞠世弼の鏡城を奪取
1592年11月8日-09:00|日本| ||天正20年10月5日|細川忠興・長谷川秀一・加藤光泰等、晋州牧使金時敏等が拠る
晋州城を攻撃
1592年11月13日-09:00|日本| ||天正20年10月10日|日本軍は晋州城から撤退
1592年11月17日-01:00|スウェーデン| |||<死去>スウェーデン王国国王ヨハン3世/54歳(誕生:15371220)→<即位>(ヴァーサ家)シ
ギスムント[ポーランド王ジグムント3世](~15990724)16320430死去65歳
1592年12月 05:00|コロンビア| |||アロンソ・モレノ・ベジドが殺害され,反乱終結
1592年12月3日-01:00|イタリア| |||<即位>パルマ公(ファルネーゼ家)ラヌッチョ1世(~16220305死去52歳)
1592年12月4日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・武安1年11月|大越莫朝・マック・マウ・ホップ(莫茂冷)が殺され、莫子全即位
し武安と改元
1592年12月19日-09:00|日本| ||天正20年11月16日|日本初の木活字本「古文考経」出版
1592年12月27日-09:00|日本| ||天正20年11月24日|本願寺顕如、没
1593年-06:30|ミャンマー/タイ| |||アユタヤ軍がノーン・サライでビルマ軍を撃破
1593年-03:00|ケニア/ポルトガル| |||ポルトガルがモンバサを占領し、要塞を建設
1593年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ミハエル2世(~1600年)
1593年-01:00|オーストリア/トルコ| |||オスマン朝が対オーストリア15年戦争を開始
1593年 00:00|イギリス/ブラジル| |||イギリスのジェームズ・ランカスター,ペルナンブコを襲撃
1593年1月-02:00|トルコ| |||イスタンブールで常備騎兵軍の反乱がおこる
1593年1月3日-09:00|日本| ||天正20年12月|石川康勝:石川数正遺領の内、信濃筑摩1万5千石/拝領(-慶長18年
大久保長安事件で改易/大阪夏の陣で討死)
1593年1月3日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・宝定1年12月|大越莫子全が宝定と改元
1593年1月10日-09:00|日本| ||文禄1年|この年、文禄通宝を鋳造
1593年1月10日-09:00|日本| ||文禄1年|青木一矩:越前大野8万石→越前府中10万石(福井県武生市)/加増移封
1593年1月10日-09:00|日本|駒沢大学|文禄1年|江戸駿河台吉祥寺境内に「学林」設立
1600迄(3010件)
1593年1月10日-09:00|日本| ||文禄1年12月8日|年号を「文祿」に改元
1593年2月1日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・康祐1年1月|大越莫朝・莫敬止(-1593)即位し康祐と改元(~1593正月)
1593年2月1日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・康祐1年1月|大越莫朝・莫敬止殺害される
1593年2月2日-09:00|日本| ||文禄2年|津田高勝:山城御牧13千石/家名相続拝領(-慶長12年婦女への狼藉によ
り除封)
1593年2月6日-09:00|日本| ||文禄2年1月05日|<所領安堵>松前慶広(蠣崎季広の三男):蝦夷松前(-元和2年)
1593年2月6日-09:00|日本| ||文禄2年1月5日|正親町上皇、死去/77歳(誕生:永正14(1517)0529)。106代天皇
1593年2月6日-09:00|日本| ||文禄2年1月5日|豊臣秀吉、蛎崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の
支配権を公認(松前藩成立)
1593年2月6日-09:00|日本| ||文禄2年1月5日|明の李如松は四万の大軍で平壌の日本軍を攻撃/日本軍は大敗し
京城まで敗走
1593年2月8日-08:00|中国/日本/韓国/朝鮮| ||文禄2年1月7日|明の李如松の大軍が平壤を急襲し、小西行長ら
が平壤から撤退
1593年2月27日-08:00|中国/日本/韓国/朝鮮| ||文禄2年1月26日|明の李如松の軍が碧蹄駅で、立花宗茂、小早川
隆景の日本軍に破れて平壤まで退く
1593年3月3日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・乾統1年2月|大越莫朝・乾統と改元(~1625)
1593年3月14日-09:00|日本| ||文禄2年2月12日|漢城奪回をうかがう朝鮮全羅巡察使・権慄の陣する幸州山城を
、宇喜多秀家を総大将として小早川、吉川ら毛利勢及び黒田勢、それに奉行石田三成らの軍勢をもって攻撃した
が撤退
1593年3月21日-09:00|日本| ||文禄2年2月19日|小西行長、大唐軍と交戦、敗北し高麗都へ退却
1593年5月17日-08:00|中国/日本/韓国/朝鮮| ||文禄2年4月17日|日本軍が京城から撤退し、明軍が代りに京城
に入る
1593年5月18日-08:00|中国/日本/韓国/朝鮮| ||文禄2年4月18日|日本と朝鮮の間で休戦協定結ばれる
1593年5月31日-09:00|日本| ||文禄2年5月以降|寺西是成:伊勢国内1万石/拝領
1593年5月31日-09:00|日本| ||文禄2年5月1日|<改易>大友吉統(義統):豊後府内37万8500石/領主・朝鮮出兵中
勝手に陣所を放棄したほか、卑怯の振るまいがあったとして廃絶
1593年5月31日-09:00|日本| ||文禄2年5月1日|島津忠辰:知行没収/「虚病」と称して高麗出陣を怠った
1593年5月31日-09:00|日本| ||文禄2年5月1日|波多親:肥前岸岳8万石/廃絶(朝鮮在陣中の不手際)徳川家康に
預けられ、のち常陸に追
1593年7月4日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王ラーザグリ[前王の息子](~16120704)
1593年7月11日-09:00|日本| ||文禄2年6月13日|蒲生氏郷が会津に城を築く
1593年7月27日-09:00|日本| ||文禄2年6月29日|日本軍は全戦闘隊約12万一千人を動員し晋州城(牧司城)を攻
撃/約11日間の攻防戦で落城
1593年7月28日-08:00|中国/日本/韓国/朝鮮| ||文禄2年7月|日本と明の和議が成立し、両軍が朝鮮から撤退開
始
1593年7月29日-09:00|日本| ||文禄2年7月2日以降|稲葉道通:伊勢岩手城45700石/拝領(-慶長5年伊勢田丸へ)
1593年7月29日-09:00|日本| ||文禄2年7月2日|牧村政治:伊勢岩出2万600石/陣中で病没/廃絶(嗣子幼少)/遺領
は弟の稲葉道通が継ぐ
1593年8月18日-01:00|ドイツ| |||<即位>ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世(~16080129)
1593年8月27日-09:00|日本| ||文禄2年8月|最上勢、秀吉蔵入地の管轄権を巡り、出羽仙北に侵入し、役内・中村・
寺沢・院内・横堀・小野寺を攻撃
1593年8月31日-09:00|日本| ||文禄2年8月5日|今井宗久(茶人・豪商)死去/三大宗匠の一人[1520年生~](享年7
3)
1593年9月-02:00|ルーマニア| |||ミハイ勇敢公がワラキアの公位につく
1593年9月24日-09:00|日本| ||文禄2年8月29日|加藤清正ら、晉州城を攻める
1593年9月25日-09:00|日本| ||文禄2年9月|蒲生氏郷:91万9300石に加増
1593年9月25日-09:00|日本| ||文禄2年9月|前田利政:父の所領のうち能登一国21万5千石を領し七尾城主とな
っ
1593年10月24日-09:00|日本| ||文禄2年閏9月|寺沢広高:肥前唐津6万3千石/拝領
1593年11月9日-09:00|日本| ||文禄2年閏9月17日|京極高知:近江蒲生→信濃飯田6万石(後に10万石)(-慶長5年
丹後宮津へ)
1593年11月9日-09:00|日本| ||文禄2年閏9月17日|毛利秀頼、没/毛利秀秋:信濃国内1万石/拝領(毛利秀頼の遺
領の一部
1593年11月27日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アントニオ・セバ・グリマルディ(~15951126)
1593年12月21日-09:00|日本| ||文禄2年10月29日|松平康直:武蔵深谷1万石/没/断絶したため家康は七男松千
代に継がせる
1594年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王プリー・ラム1世(~1596年)
1594年-07:00|カンボジア| |||アユタヤ軍がクメール王都ロヴックを占領
1594年-01:00|イタリア| |||ピオンビーノ公国成立/レオナルド・アッピアーニ
1594年 00:00|ポルトガル/スリランカ| |||ポルトガルが、キャンディ王国に進軍、失敗
1594年1月10日-09:00|日本| ||文禄2年11月19日|中川秀成:播磨三木→豊後竹田7万4百石/加増移封
1594年1月11日-09:00|日本| ||文禄2年11月20日|浅野長政(長吉)(安井弥兵衛重継の長男):若狭小浜→甲斐甲
1600迄(3010件)
府55千石(-慶長5年隠居後常陸真壁へ)/次に幸長(16万石)が嗣ぐ(-慶長5年紀伊和歌山へ)
1594年1月11日-09:00|日本| ||文禄2年11月20日|木下勝俊:若狭小浜8万石/拝領
1594年1月11日-09:00|日本| ||文禄2年11月20日|木下利房:若狭高浜2万石/拝領(-慶長5年関ヶ原合戦で西軍に
与し改易)
1594年1月17日-09:00|日本| ||文禄2年11月26日|日本初の木活字本「古文考経」出版
1594年1月22日-09:00|日本| ||文禄2年12月|本多忠勝:老中就任(-1609年4月8日)
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|岸田忠氏:秀吉の直臣となり、山辺郡岸田1万石を与えられる
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|戸田重政:越前安居1万石→1万石加
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|水野忠重:伊勢神戸→三河刈谷1.5万石/以後信元、勝成(3万石)と続く(
-元和1年大和郡山へ)
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|石川数正・康長父子によって松本城天守閣完成/長野県
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|丹羽長昌:越前藤枝5万石→越前東郷/移封
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|福島高晴:伊勢長島1万石/拝領(-慶長5年大和宇陀松山へ)
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|木下延俊:播磨国内2万石/拝領(-慶長6年豊後日出へ)
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年|有馬則頼:播磨三木(淡河城)1万石/拝領(-慶長6年摂津三田へ)
1594年2月20日-08:00|中国| ||明・万暦22年|明で播州宣慰使の煬応竜の反乱がおこる
1594年2月20日-09:00|日本| ||文禄3年1月|松平家忠:下総上代→下総小見川1万石/次に忠利が嗣ぐ(-慶長6年
三河深溝へ)
1594年2月22日-09:00|日本| ||文禄3年1月3日|豊臣秀吉,伏見城築城のため六人の普請奉行を任命
1594年2月26日-09:00|日本| ||文禄3年1月07日|加藤貞泰:甲斐府中24万石→美濃黒野4万石/減移封/幼少のた
め
1594年2月27日-01:00|フランス| |||フランス、アンリ4世が、シャトル大聖堂で正式にフランス国王として戴冠
1594年3月1日-01:00|スウェーデン| |||ジギスムントがスウェーデン国王に即位
1594年3月20日-09:00|日本| ||文禄3年1月29日|長谷川秀一:越前東郷11万石/病を得て陣中で没、継嗣なく長谷
川家は廃絶
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|垣見一直:豊後国東郡富来城主となって2万石を与えられる
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|早川長敏:大分府内(郡内1万3千石+太閤蔵入地預かり4万7千石)6万
石/拝領
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|竹中重利:豊後高田1万石/拝領(-慶長6年豊後府内へ)
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|福原直高:豊後臼杵6万石
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|毛利高政:豊後日出(永山城)2万石/拝領(-慶長6年豊後佐伯へ)
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|木下吉隆:豊後国大野・直入・大分・海士辺4郡内2万5300石を与えら
れて諸侯に列
1594年3月22日-09:00|日本| ||文禄3年2月|木村吉清:豊後国内1万4千石/再興
1594年3月27日-01:00|フランス| |||ルーアン、ル・アーブル・アミアンなどがアンリ4世に帰順
1594年3月29日-09:00|日本| ||文禄3年2月08日|中川秀成:播磨三木→豊後竹田(岡城)6万6千石/以後久盛(7044
0石)、久清、久恒、久通、久忠、久慶、久貞、久持、久貴、久教、久昭、久成と続く(-明治4年)
1594年4月 04:00|チリ| |||海賊ホーキンス,バルパライソを襲撃.町を略奪
1594年5月20日-09:00|日本| ||文禄3年4月|蒲生氏郷:検地により、石高を92万7千石に訂正
1594年5月20日-09:00|日本| ||文禄3年4月|陸奥堀越藩4万5000石(藩主:津軽為信),政庁を堀越城に移動
1594年6月4日-09:00|日本| ||文禄3年4月16日|豊臣秀保:大和郡山100万石/無嗣廃絶
1594年6月21日-09:00|日本| ||文禄3年5月3日|波多親、筑波山麓に配流
1594年8月 00:00|アイルランド| |||アイルランドでヒュー・オニールらがイギリスの支配に対して反乱を起こす/反乱軍はスペインに援
助を求める
1594年8月5日-09:00|日本| ||文禄3年6月19日|藤堂高虎:2ヶ月程の高野山での隠棲後、秀吉に伊予国宇和島7万
石の領主を任じられる
1594年9月6日-09:00|日本| ||文禄3年7月22日|藤堂高虎:伊予国宇和郡の板島丸串城7万石に入城、板島を宇和
島と改める/拝領(-慶長5年領有のまま伊予国分へ)
1594年9月6日-09:00|日本| ||文禄3年7月22日|豊臣秀吉が、大政所の3回忌のために東寺に五重大塔を建てる
1594年9月15日-09:00|日本| ||文禄3年8月1日以降|山崎定勝:伊勢竹原・八知で1万石を与えられ、諸侯に列し
1594年9月15日-01:00|イタリア| |||ガリレオ・ガリレイ、ある種の水流の機械の特許を得る
1594年9月15日-09:00|日本| ||文禄3年8月01日|豊臣秀吉、聚楽第から完成した伏見城に移る
1594年10月7日-09:00|日本| ||文禄3年8月23日|石川五右衛門の釜ゆでの刑。豊臣秀吉が大盗賊とその一党を三
条大橋下で処刑させる
1594年10月14日-09:00|日本| ||文禄3年9月以降|富田知信(信広):伊勢津5万石/拝領/次に信高(知信)(7万石)
が嗣ぐ(-慶長13年伊予宇和島へ)
1594年10月28日-09:00|日本| ||文禄3年9月15日|大久保忠世、没/大久保忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を
加
1594年11月11日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||文禄3年9月29日|福島正則・島津義弘らが、朝鮮軍を巨済島で破る
1594年11月17日-01:00|フランス/スペイン/イギリス| ||ユリウス暦11月7日|イギリスとフランスの両国同盟軍が、ブレストをスペイン軍か
ら奪回
1594年12月2日-01:00|オランダ| |||メルカトール死去/82歳(誕生:15120305)。オランダの地図学者
1600迄(3010件)
1594年12月4日-09:00|日本| ||文禄3年10月23日|<改易>戸田勝隆:伊予大洲7万石、病死/無嗣廃絶
1595年-05:30|インド| |||この年、ニザーム・シャーヒー朝、アーディル・シャーヒー朝に敗れ国王戦死
1595年-02:00|ラトビア| |||<即位>クールラント公ヴィルヘルム・ケトラー(~1616年)共同統治
1595年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ステファン8世→同年<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレッティ家)イエリミア・モヴィ
ラ(~1600年)
1595年-02:00|トルコ| |||オスマントルコ、第11代スルタン メフメット3世即位(1595-1603)
1595年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フローニンゲン州総督ディレンブルク伯ウィレム・ローデウェイク[ディレンブルク伯ヨ
ハン6世の長男](~1620年)
1595年-01:00|ドイツ| |||<即位>ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン侯フィリップ2世[ヴォルフガングの弟](~1596年死去、遺領は
リューネブルク侯領に吸収)
1595年-01:00|オランダ| |||オランダが喜望峰経由で東方へ船団を派遣し、東インド交易にのりだす
1595年-01:00|スウェーデン/ロシア| |||ロシアとスウェーデンがタユッシナ条約を締結し、国境を画定
1595年 04:00|チリ| |||チリ総督M.G.オニェス・デ・ロヨラ,ペランターロのひきいるアラウコ族との全面戦争を再開
1595年1月16日-02:00|トルコ| |||オスマン朝ムラト3世が死去し、13代メフメト3世が即位
1595年1月17日-01:00|フランス| |||フランス国王アンリ4世が、スペインに宣戦布告
1595年1月27日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第13代ベイ:メフメト3世[ムラト3世の息子](~16031220死去)
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|加藤貞康:美濃黒野4万石/拝領(-慶長15年伯耆米子へ)
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|高橋直次:筑後江浦→筑後内山18110石(-慶長5年関ヶ原の役で西軍に与
し除封)
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|新庄直頼:近江大津→摂津高槻3万石(-慶長5年関ヶ原合戦で西軍に与し
改易)
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|水野忠重:三河刈谷1.5万石→2万石/5千石加増
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|前田玄以:丹波亀岡5万石/拝領/次に茂勝が嗣ぐ(-慶長7年丹波八上へ)
1595年2月9日-09:00|日本| ||文禄4年|木村由信:美濃北方1万石/拝領
1595年2月16日 00:00|アイルランド| |||アイルランドでオニールの反乱が起こる
1595年3月11日-09:00|日本| ||文禄4年2月1日|大坂城中より多数の金銀が盗難される事件が発生
1595年3月17日-09:00|日本| ||文禄4年2月07日|会津92万石の蒲生氏郷、京都において病死
1595年4月-05:30|インド/パキスタン| |||ムガル帝国アクバルがバルチスターン地方を併合
1595年4月2日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首パスクァーレ・チコーニャ死去
1595年4月3日-09:00|日本| ||文禄4年2月24日|蒔田広定:伊勢雲出1万16石/拝領(-慶長5年関ヶ原合戦で西軍に
与したので一時除封の後、備中浅尾へ)
1595年4月5日 05:00|ペルー| |||メンダーニャがペルーから2回目の財宝探索の航海に出航
1595年4月7日 04:00|トリニダード・トバゴ| |||ローリがトリニダードに上陸し第1回ギアナ探検に出発
1595年4月26日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第89代マリーノ・グリマーニ(~16051225)
1595年5月25日-09:00|日本| ||文禄4年4月16日|豊臣秀保(大和国郡山城主)、横死.郡山豊臣家、断絶
1595年6月5日-01:00|フランス/スペイン| |||フォンテーヌ・フランセーズの戦いで、フランス軍がスペイン軍に大勝
1595年7月-01:00|スペイン| |||スペインの航海者メンダーニァの率いる艦隊がマルケサス諸島を発見。原住民は体中に入墨をし
ていた
1595年7月9日-09:00|日本| ||文禄4年6月3日|羽柴秀吉、毛利輝元・島津義弘へ蒲生氏郷の老臣共の不正を糾弾
し、蒲生秀行を近江国内2万石に転封
1595年7月25日-09:00|日本| ||文禄4年6月19日|佐竹義宣:義重・重臣・与力分を併せて54万5千8百石の朱印状を
与えられた
1595年8月4日-09:00|日本| ||文禄4年6月29日|羽柴秀吉、島津義弘へ薩摩国・大隅国・日向国諸県郡に計57万873
3石を宛行う/内1万石は御蔵入、6200石は石田三成に、3千石は細川藤孝に知行として与え、これを除外した55万
9533石を扶助
1595年8月6日-09:00|日本| ||文禄4年7月以降|池田景雄:伊予大洲2万石/拝領
1595年8月6日-09:00|日本| ||文禄4年7月|古田重勝:近江日野→伊勢松阪54千石/次に重治が嗣ぐ(-元和5年石
見浜田へ)
1595年8月6日-09:00|日本| ||文禄4年7月|前田利家:越中新川郡を領有/北加賀・能登・越中76万5千石を領有
1595年8月6日-09:00|日本| ||文禄4年7月|木下吉隆:1万石を加増され
1595年8月6日-09:00|日本| ||文禄4年7月|有馬豊氏:遠江横須賀3万石/拝領
1595年8月13日-09:00|日本| ||文禄4年7月8日|豊臣秀吉、羽柴秀次を召喚し関白・左大臣の官職を剥奪、羽柴秀
次は出家し高野山へ追放され
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|羽柴秀次、高野山において謀反の科により切腹/28歳(誕生:永
禄11(1568))
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|羽田正親:大和小泉4万8千石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|三好吉房:尾張清洲11万2200石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|山内一豊:遠江8千石を加増
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|前野長康:但馬出石5万3200石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|渡瀬繁詮:横須賀3万5千石/秀次に連座して失脚、自害
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|服部一忠:伊勢松坂3万5千石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|福島正則:伊予(湯月)今治11万3200石→清洲24万石/移封(-慶
1600迄(3010件)
長5年安芸広島へ)
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|明石則実:但馬城崎2万2千石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|木下吉隆:豊後国3万5300石/関白秀次事件に連座して失脚し、
所領没収
1595年8月20日-09:00|日本| ||文禄4年7月15日|木村重茲:山城淀18万石/廃絶/豊臣秀次に連座
1595年8月22日-09:00|日本| ||文禄4年7月17日|増田長盛:郡山22万3千石に封じられる
1595年8月26日-09:00|日本| ||文禄4年7月21日|加藤嘉明(岸教明の子):淡路志知→伊予松前6万石(後20万石)(
-慶長8年伊予松山へ)
1595年8月27日-09:00|日本| ||文禄4年7月22日|豊臣秀吉、藤堂高虎に宇和郡7万石を与え、宇和・喜多・浮穴三郡
内6万5900石の蔵入代官を命じる
1595年9月2日-01:00|ハンガリー/トルコ| |||オスマン朝がエステレゴン城塞をハンガリーに明け渡す
1595年9月4日-09:00|日本| ||文禄4年8月|小出吉政:播磨龍野→但馬出石5万5千石/以後[慶長9年]吉英、[慶長1
8年3月]吉親(29700石)(-元和5年丹波園部へ)
1595年9月4日-09:00|日本| ||文禄4年8月|小出秀政:和泉岸和田1万石/加増/以後[慶長9年]吉政、[慶長18年3月
]吉英(5万石)(-元和5年但馬出石へ)
1595年9月4日-09:00|日本| ||文禄4年8月|石田三成:近江佐和山19万4千石/拝領
1595年9月4日-09:00|日本| ||文禄4年8月|有馬豊氏:遠江横須賀/拝領(-慶長5年丹波福知山へ)
1595年9月5日-09:00|日本| ||文禄4年8月2日|豊臣秀次の子女・妻妾30余人が京都三条河原に於いて処刑される
1595年9月20日-09:00|日本| ||文禄4年8月17日|片桐且元:摂津茨木1万2千石に加増(-慶長6年大和竜田へ)
1595年9月27日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで托鉢教団病院設立
1595年10月-01:00|ハンガリー/トルコ| |||トランシルバニア公バートリ・ジグモントが、ワラキアの戦いでトルコを撃破
1595年10月4日-09:00|日本| ||文禄4年9月|京極高次:近江八幡→近江大津6万石(-慶長5年若狭小浜へ)
1595年10月4日-09:00|日本| ||文禄4年9月|伏見城竣工
1595年10月4日-09:00|日本| ||文禄4年9月|毛利高政:豊後日田・玖珠2万石
1595年10月28日-09:00|日本| ||文禄4年9月25日|方広寺の大仏殿が完成し、落慶法要を挙行
1595年11月12日-01:00|スペイン| |||ドレイク,カナリア諸島を襲うが敗退/プエルトリコのサンフアン攻撃は厚い防御に阻まれ失敗
/その後スペイン軍の追撃にあい敗北
1595年11月22日 06:00|アメリカ| |||フランシス・ドレーク,26隻の艦隊でプエルトリコのサンフアンを攻撃.全市を炎上するも奪取で
きずに引き揚げる
1595年12月 05:00|コロンビア| |||ドレイク艦隊,サンタマルタを襲撃/その後ノンブレ・デ・ディオスを掠奪
1595年12月5日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:マテオ・セナレガ(~15971204)
1595年12月31日-09:00|日本| ||文禄4年12月|小早川隆景:三原城へ退隠/小早川秀秋:筑前名島ほか33万6千石/
相続
1595年12月31日-09:00|日本| ||文禄4年12月1日|鍋島直茂、養父半郡と高来郡神代を賜る
1596年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国アラウッディン・リアーヤット・シャー・アルムカミル即位(~1604)
1596年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1651)5代スルタン・マフムッド・アブドゥルカディル即位
1596年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王プリー・ラム2世(~1597年)
1596年-03:00|スーダン| |||ダルフール王国が成立、スーダンのイスラーム黒人国家
1596年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:フェトフ1世ギレイ→同年<即位>クリミア・ハン国ハン:ガーズィー2世ギレイ(2期目~1
607年)
1596年-01:00|ドイツ| |||ドイツの天文学者ケプラーが「宇宙の神秘」を発表し新しい幾何学的宇宙構造を論じた
1596年1月29日 05:00|パナマ| |||フランシス・ドレークが、西インド諸島に向かう途中に赤痢で死去/53歳(誕生:1545)。イギリ
ス最初の世界周航者
1596年1月30日-09:00|日本| ||文禄5年|杉原長房(家次の子):豊後杵築城主となる
1596年1月30日-09:00|日本| ||文禄5年|土方雄氏:伊勢菰野1万石/拝領/(-慶長4年家康暗殺の嫌疑を受け常陸
太田に追放)
1596年2月7日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ダルムシュタット伯ルートヴィヒ5世誠実伯[ゲオルク1世の息子](~16260627死去)
1596年2月14日-09:00|日本| ||文禄5年1月16日|豊臣秀吉が、毛利輝元・小早川隆景らに命じ、宇治川に大閣堤を
築かせる/伏見城下から大坂への水上交通が一段と便利になる
1596年2月17日-01:00|フランス| |||マルセイユ市民が、反スペイン暴動を起こしてアンリ4世を支持
1596年3月-05:30|インド| |||ニザーム・シャーヒー朝がベラール地方をムガル朝に割譲
1596年5月1日-09:00|日本| ||文禄5年4月4日|浅間山噴火。大石降落により死者多数、近隣諸国でも死者
1596年5月26日-01:00|フランス/イギリス| ||ユリウス暦5月16日|イギリスとフランスが、対スペイン攻守同盟を締結
1596年5月29日-09:00|日本| ||文禄5年5月3日|下妻城主多賀谷修理大夫重経が下総国豊田郡鯨村砦主白井入道
全洞を攻め破って自害させ攻略
1596年6月-01:00|イタリア| |||サンゴを細工する技術、ヴェネツィアに導入
1596年6月20日-01:00|ハンガリー/トルコ| |||オスマン朝メフメト3世がハンガリーへ遠征
1596年6月23日-01:00|オランダ/インドネシア| |||バンテン王国へオランダ人の初来航
1596年7月9日-09:00|日本| ||文禄5年6月14日|黒田長政、平壌を攻略
1596年8月20日-09:00|日本| ||文禄5年7月27日|田中吉政:三河岡崎10万石/加増
1596年9月4日-09:00|日本| ||文禄5年閏7月12日|慶長豊後地震/津波による流出家屋数千戸、瓜生島水没による
死者708名、高崎山と由布岳の山崩れなどの被害をもたらした/伏見城天守閣・大名衆家、本願寺本堂・興正寺御
1600迄(3010件)
堂、徳川家康の長倉、摂津国有馬の羽柴秀吉御殿が倒壊
1596年9月5日-09:00|日本| ||文禄5年閏7月13日|慶長伏見地震/京都や堺で死者合計1,000人以上,伏見城天守
大破,石垣崩れて圧死約500/諸寺・民家の倒壊も多く,死傷多数
1596年9月19日-09:00|日本| ||文禄5年閏7月27日|徳川家の御用商人であり、朱印船貿易商茶屋四郎次郎(初代)
、没
1596年10月23日-01:00|ハンガリー| |||メフメト3世のオスマン朝軍が、エルラウ付近でハンガリー軍を破る
1596年12月16日-09:00|日本| ||慶長1年10月27日|年号を「慶長」に改元
1596年12月23日-09:00|日本| ||慶長1年11月04日|服部半蔵正成没/55歳(誕生:天文11(1542))/伊賀忍者の総帥
といわれた
1597年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王バロム・リヤチア2世(~1599年)
1597年-05:30|インド| |||アブルファルズの「アクバル会典」がなる
1597年-05:30|スリランカ| |||コッーテ王国のダルマパーラ王が死去し、コーッテ王国が滅亡/王権は、キャンディ王国に引き継がれる
1597年-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アルマンスール・アルカジム・ビン・ムハンマド(~16200219)
1597年-02:00|フィンランド| |||フィンランドで農民戦争が勃発、カール大公がシギスムントを追放
1597年-01:00|オーストリア/ドイツ| |||<即位>バイエルン公マクシミリアン1世(~1623年バイエルン選帝侯~1651年)
1597年-01:00|イタリア| |||ベネツィアでアシェンシオーネ教会建立
1597年 05:00|ジャマイカ| |||アンソニー・シャーリー,ハマイカ唯一の港ラ・ビリャ・デ・サント・ハゴ・デ・ラ・ベーガを占拠するが,40日後に
は放棄
1597年2月5日-09:00|日本| ||慶長1年12月19日|11月15日に捕らえられた26人のキリシタンが長崎西坂の丘で処刑さ
れる[26聖人殉教]
1597年2月17日-09:00|日本| ||慶長2年|宇喜多秀家が岡山城天守閣築城/岡山県
1597年2月17日-09:00|日本| ||慶長2年1月|早川長敏:府内→杵築2万石/移封
1597年2月17日-09:00|日本| ||慶長2年1月|太田宗隆:美濃国内1万石→豊後国臼杵6万5千石/加増移封
1597年2月17日-09:00|日本| ||慶長2年1月|福原直高:臼杵→府内(臼杵6万石+大分・速見・玖珠3郡6.3万石)12万
石/拝領
1597年2月17日-09:00|日本| ||慶長2年1月1日|慶長の役始まる
1597年3月11日-01:00|フランス/スペイン| |||スペイン軍がアミアンを占領
1597年4月14日-09:00|日本| ||慶長2年2月28日|津軽為信が千徳政康の陸奥浅瀬石城を攻め滅ぼした
1597年4月17日-09:00|日本| ||慶長2年3月|箕輪城主井伊直政が家康の命令により和田義盛の一族和田正信が
築いた和田城を改築し高崎城完成/群馬県
1597年5月17日-09:00|日本| ||慶長2年4月2日以降|山口宗永:加賀大聖寺6万石に封ぜら
1597年5月17日-09:00|日本| ||慶長2年4月2日|小早川秀秋:越前北庄12万石に移封(朝鮮出兵中の不首尾により
)
1597年6月15日-09:00|日本| ||慶長2年5月|相馬氏は居城を小高城から牛越城へ移した
1597年6月16日-09:00|日本| ||慶長2年5月2日|芳賀高武は上三川城に夜襲をかけた/城主今泉高光は城を出て
菩提寺長泉寺で自害、上三川城は落ちた
1597年6月18日-09:00|日本| ||慶長2年5月4日|伏見城天守閣が完成し豊臣秀吉・秀頼らが移る
1597年7月8日-09:00|日本/ポルトガル| ||慶長2年5月24日|ルイス・フロイスが長崎で死去/65歳(誕生:1532)。ポルトガルのイエ
ズス会宣教師で永禄6年に来日し、「日本史」を著した
1597年7月26日-09:00|日本| ||慶長2年6月12日|豊臣大老職の一人で「毛利両川」として名高い小早川隆景死去.
65歳
1597年8月2日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年6月19日|元均率いる朝鮮水軍が安骨浦と加徳島の日本軍を攻
撃、撃退された
1597年8月27日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年7月15日|朝鮮出征軍の先鋒、朝鮮国唐島の番船が釜山海で朝
鮮出征軍の補給路を脅かしたために壊滅させる
1597年8月27日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年7月15日|日本水軍が巨済島の戦いで朝鮮の元均をたおし、そ
の水軍を全滅させる
1597年8月28日-09:00|日本| ||慶長2年7月16日|温羅島で朝鮮軍を撃破/陸地に逃れた元均は待ち伏せしていた
島津軍に討ち取られた/閑山島も日本方に落ちた
1597年9月5日-09:00|日本/フィリピン| ||慶長2年7月24日|ルソン国使が秀吉を訪ね、黒像1隻と銀器を贈り物とし入貢
を求める
1597年9月6日-09:00|日本| ||慶長2年7月25日|嘉明、巨済島沖にて敵船に遭遇し、単身踊りこんで数人を斬る/
土方長兵衛、萩作右衛門、加藤小次郎等、それに続いて乗りこみ、敵船奪取に成功
1597年9月25日-01:00|フランス/スペイン| |||アンリ4世がスペイン軍に占領されたアミアンを奪回
1597年9月25日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年8月14日|加藤清正等、慶尚道黄石山城を落とし、全羅道全州
に侵入
1597年9月26日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年8月15日|朝鮮の日本軍が、全羅道南原城を攻め落とす
1597年9月27日-09:00|日本| ||慶長2年8月16日|日本軍、赤国(全羅道)・白国(慶尚道)境界安陰郡黄石山城を攻
略/城主・金海上官を討ち取る
1597年10月4日-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)ヤコブ(~1603年)
1597年10月9日-09:00|日本| ||慶長2年8月28日|室町幕府最後の将軍だった足利義昭、死去/61歳(誕生:天文6(1
537)1103)
1600迄(3010件)
1597年10月15日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||バイエルン公ヴィルヘルム5世退位
1597年10月17日-09:00|日本| ||慶長2年9月7日|夜明けには日、明両軍が激突/両軍とも多数の死傷者を出し、日
暮れ頃になって両軍とも引き揚げた
1597年10月18日-09:00|日本| ||慶長2年9月8日|黒田長政、忠清道稷山にて明軍と激突/苦戦して南下
1597年10月25日-09:00|日本| ||慶長2年9月15日|李舜臣、全羅道鳴梁にて日本水軍を撃破
1597年10月26日-09:00|日本| ||慶長2年9月16日|藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅
右衛門八・加藤嘉明、「番船」・「大船」14艘、「小船」数百艘が駐屯している水営城を襲撃
1597年10月26日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年9月16日|鳴梁の海戦で復帰した朝鮮の水師提督李舜臣が日
本の水軍を大破/来島通総が戦死
1597年10月27日-01:00|イタリア| |||<即位>フェラーラ、モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)
チェーザレ(1598年にフェラーラを失う~16281211死去)
1597年11月10日-09:00|日本| ||慶長2年10月|前田利長:守山城→富山城に移る
1597年11月22日-09:00|日本| ||慶長2年10月13日|宇都宮国綱:下野宇都宮18万石廃絶(浅野長政と争論)
1597年12月7日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ラザロ・セバ・グリマルディ(~15990215)
1597年12月23日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||バイエルン選帝侯マクシミリアン1世即位(ヴィルヘルム5世の息子,~1623年2月25日)
1598年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ウォーラ・ウォンサー(タンミカラート)王(~1603年にタウングー朝の支配から脱する~1
622年)
1598年-05:00|カザフスタン| |||<即位>カザン・ハン国ハン:イシム(エシム)[シガイの三男](~1613年or1614年)
1598年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>シャイバーニー朝ハン:アブドゥル=ムウミン[アブドゥッラーフ2世の子]→同年<即位>ハン:ピール・ム
ハンマド2世(~1599年)ジャーニー・ベクの子スライマーンの子
1598年-03:30|イラン| |||サファビー朝がイスファハーンに遷都
1598年-01:00|スペイン| |||<就任>バルセロナ伯(アブスブル家)フェリプ2世[フェリプ1世の子](~1621年)
1598年-01:00|イタリア| |||<即位>ナポリ王・シチリア王(スペイン・ハプスブルク家)スペイン王フェリペ3世(~1621年)
1598年-01:00|デンマーク/オランダ| |||<即位>ブラバント公(アブスブール家)イザベル(~1621年)アルベールと共同統治
1598年-01:00|オランダ| |||アムステルダムに保険会議所が設立(保険業の始まり)
1598年-01:00|フランス/カナダ| |||フランスのラ・ロッシュが第2回アメリカ遠征、ノバ・スコシアに上陸
1598年 00:00|サントメ・プリンシペ/オランダ| |||オランダ艦隊,アフリカのサントメ・プリンシペを攻撃
1598年 00:00|イギリス/アメリカ| |||カンバーランド伯ジョージ・クリフォード三世の率いる英海軍,プエルトリコのサントゥルセに上陸占領/
疫病の発生により支配断念
1598年1月7日-04:00|ロシア| |||ボリス・ゴドゥノフがロシア皇帝に選出
1598年1月8日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)ヨアヒム・フリードリヒ[ヨハン・ゲオルクの息子](~160
80728)
1598年1月12日-01:00|バチカン| |||教皇クレメンス8世が、フェルラーラ公国を奪取
1598年1月29日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||慶長2年12月22日|慶長の役、未明、麻貴の軍が蔚山城外の日本軍の仮
営を襲い退却させる
1598年2月6日-09:00|日本| ||慶長3年|小川祐忠:伊予東部7万石を与えられ国府城を居城とし
1598年2月6日-09:00|日本| ||慶長3年|杉原長房:豊後杵築→但馬豊岡25千石/以後重長、重玄(継嗣がなく養子
を迎え1万石に減封)と続く(-承応2年無嗣断絶)
1598年2月6日-09:00|日本| ||慶長3年|大嶋光義:摂津・美濃・尾張国内1万1200石/拝領
1598年2月9日-09:00|日本| ||慶長3年1月4日|毛利秀元・加藤嘉明等、蔚山の明・朝鮮軍の背後を突き、これを撃
退
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|蒲生秀行:陸奥会津若松91万9千石→下野宇都宮18万石/減移封
/幼少・家中内訌等により(-慶長6年)
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|溝口秀勝:加賀大聖寺4万石→越後新発田6万石/加増移封/以後
宣勝(5万石)、宣直、重雄、重元、直治、直温、直養、直侯、直諒、直溥、直正と続く(-明治4年)
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|上杉景勝:越後春日山→陸奥会津若松120万石/移封(-慶長6年
出羽米沢へ)
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|村上義明(戸田氏繁の子):加賀小松→越後村上9万石/次に忠勝
が嗣ぐ(-元和4年除封改易)
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|堀親良:越後蔵王4万石/拝領
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|堀直政:越後国内→越後三条城/次に直次が嗣ぐ(-慶長15年争
訴により改易)陪臣
1598年2月15日-09:00|日本| ||慶長3年1月10日|堀直竒:越後坂戸5万石/拝領(-慶長15年)
1598年2月17日-04:00|ロシア| ||ロシア暦2月7日|ボリス・ゴドゥノフがロシア皇帝に選出される(-1605)
1598年4月13日-01:00|フランス| |||ブルボン朝のアンリ4世が出した「ナントの勅令」によりユグノー戦争(プロテストタントとカトリック教
徒の戦い)がおさまった/ナントの勅令は個人に宗教選択の権利を与えた
1598年4月20日-09:00|日本| ||慶長3年3月15日|豊臣秀吉、醍醐寺三宝院において「醍醐の花見」を行う
1598年5月2日-01:00|フランス/イギリス| |||フランスとスペインの間でヴェルヴァン条約が結ばれ、仏英戦争が終わる
1598年5月5日-09:00|韓国/日本| ||慶長3年3月30日|越智郡国分城主池田秀雄、朝鮮半島安骨浦で没する
1598年5月6日-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国ブルゴーニュ公(スペイン・ハプスブルク家)フィリップ6世[スペイン王フェリペ3世](~
1621年)
1598年5月6日-01:00|フランス| |||<就任>ブルゴーニュ伯(ハプスブルク家)イザベラ[フィリップ7世の娘](~16210713.16331201死
1600迄(3010件)
去)
1598年5月6日-09:00|日本| ||慶長3年4月|丹羽長重:加賀松任→加賀小松12万5千石(-慶長5年関ヶ原で西軍に
与し改易)
1598年5月7日-09:00|日本| ||慶長3年4月2日|堀秀治:越前北庄18万石→越後春日山45万石/加増移封/次に忠俊
が嗣ぐ(-慶長12年越後福島へ)
1598年6月6日-09:00|日本| ||慶長3年5月03日|<加増>加藤嘉明:伊予松前63000石→10万石
1598年6月6日-09:00|日本| ||慶長3年5月03日|熊谷直盛(直陳):豊後安岐1万5千石/拝領
1598年6月6日-09:00|日本| ||慶長3年5月03日|寺沢広高:肥前唐津6万3千石→8万3千石/加増
1598年7月11日 07:00|メキシコ| |||オニャテ,サンフアンに本部を定めリオグランデ以北ミシシッピ以西の土地の領有を宣言.リオグラン
デ川西岸に最初の首都サンガブリエルを構える
1598年7月23日-09:00|日本| ||慶長3年6月20日|水谷勝俊:常陸下館31千石/拝領/次に勝隆(32千石)が嗣ぐ(-寛
永16年備中成羽へ)
1598年7月25日-09:00|日本| ||慶長3年6月22日|<加増>藤堂高虎:喜多郡・浮穴郡内1万石を加増→8万石
1598年8月2日-09:00|日本| ||慶長3年7月|分部光嘉(細野藤光の次男):伊勢上野2万石/拝領/次に光信が嗣ぐ(元和5年近江大溝へ)
1598年8月21日-09:00|日本| ||慶長3年7月20日|越前の検地完了、石高49万石余から68万石となる
1598年9月-04:00|モーリシャス| |||オランダ船がモーリシャス諸島に寄港、皇太子モーリスに因んで命名
1598年9月5日-09:00|日本| ||慶長3年8月05日|青山宗勝:越前国内2万石→越前国丸岡4万6千石/加増移封
1598年9月6日-01:00|フランス| |||<就任>ブルゴーニュ伯(ハプスブルク家)イザベラ・クララ・ユーゲニア[フェリペ7世の娘](~16210713)
16331201死去
1598年9月13日-01:00|スペイン| |||<死去>スペイン国王フェリペ2世が悪性の腫瘍のため死去/71歳(誕生:15270521)
1598年9月13日-01:00|ベルギー/オランダ/フランス| |||<就任>エノー伯(アブスブール家)・フランドル伯ザベル1世(~16210713)アルベー
ル2世(1世)と共同統治
1598年9月13日-01:00|フランス| |||<就任>ブルゴーニュ伯(ハプスブルク家)アルバート[イザベラの夫.スペイン王フェリペ3世](~16210
713死去)
1598年9月13日-01:00|スペイン/ポルトガル| |||<即位>スペイン国王(アブスブルゴ朝)フェリペ3世兼アラゴン王(アブスブルゴ家)フェ
リペ2世[フェリペ1世(フェリペ1世)とアナ・デ・アウストリアの子](~16210331死去42歳)兼ポルトガル王フィリペ2世
1598年9月13日-01:00|フランス/イタリア/スペイン| |||スペイン国王フェリペ3世、ナーポリ、シチリア王フィリッポ2世に即位、ブルゴーニュ公フィ
リップ6世に即位(~1621年)
1598年9月15日-09:00|日本| ||慶長3年8月15日|井伊直政:上野箕輪→上野高崎12万石(-慶長5年近江佐和山へ)
1598年9月18日-09:00|日本| ||慶長3年8月18日|豊臣秀吉が伏見城で病死/62歳(誕生:天文6(1537)0206)大閤
1598年9月25日-01:00|スウェーデン/ポーランド/リトアニア| |||スウェーデンのグスターヴ・ヴァーサがポーランド・リトアニア共和国王・スウェーデ
ン王ジグムント3世を破る
1598年9月28日-01:00|オーストリア/ハンガリー| |||オーストリア軍がオスマン朝下のブダを包囲
1598年9月30日-01:00|イタリア| |||<即位>サルデーニャ国王フェリペ3世[フェリペ2世とアナ・デ・アウストリアの息子](~16210331死去
42歳)
1598年10月1日-09:00|日本| ||慶長3年9月|織田信包(織田信長の弟):伊勢安濃津→丹波柏原36千石/以後信則、
信勝と続く(-慶安3年無嗣断絶)
1598年10月20日-08:00|中国/日本| ||慶長3年9月20日|明全軍川を渡り、望津、永春、昆陽の三城を奪取
1598年10月21日-09:00|日本| ||慶長3年9月21日|蔚山守備の加藤清正等、7、8万の大明軍に襲撃されるが撃退
1598年10月30日-09:00|日本| ||慶長3年10月1日|明副総兵薫一元の率いる明・朝鮮軍、慶尚道泗川城を攻めるも
、島津軍に敗北
1598年11月7日-08:00|中国/日本| ||慶長3年10月9日|2日から劉廷、全羅道今順天城を攻撃するも、小西行長の
前に敗れ順天を撤退
1598年11月11日-08:00|中国/日本| ||慶長3年10月13日|明軍の参謀である史竜涯と与友理が泗川新城にきて和
議をこい合議の結果成立
1598年11月29日-09:00|日本| ||慶長3年11月|高橋元種、高智尾の三田井旧臣らが反乱を起こしたので、これを
滅ぼす
1598年12月16日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦26年11月19日|李舜臣が日本軍の退路を断つべく戦うが戦死/5
3歳(誕生:1545)朝鮮、秀吉の朝鮮侵略に対して水軍を率いて奮戦した名将
1598年12月23日 04:00|チリ| |||チリ総督M.G.オニェス・デ・ロヨラ,クララバの戦いでペランターロの奇襲を受け戦死
1599年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王バロム・リアチア3世(~1600年)
1599年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:バーキー・ムハンマド[ジャーニー・ムハンマドの次男](~1605年)
1599年-05:00|ウズベキスタン/イラン| |||サファビー朝がウズベク人のシャイバニー朝を滅ぼす
1599年-05:00|ウズベキスタン/イラン| |||ブハラを首都にウズベク人のアストラハン朝が創始
1599年-03:30|イラン/トルコ| |||サファビー朝がオスマン朝からダブリーズを奪回
1599年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ニコライ・ピトラスク(~1600年)父と共同統治
1599年-02:00|トルコ/イエメン| |||オスマン朝の主権がイエメンのほぼ全域に及ぶ
1599年-02:00|南アフリカ| |||バンツー系アフリカ人がリンポポ川の南部へ移住
1599年-01:00|オランダ/ベネズエラ| |||西インド会社のオランダ船十三隻が,ベネズエラのアラヤ半島塩田を占拠.大量の塩を持
ち出す
1599年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王国摂政カール9世(-1604)
1600迄(3010件)
1599年1月6日-09:00|日本| ||慶長3年12月10日|李舜臣の死でようやく助かった島津義弘が博多に到着し、日本
軍全軍の撤退に成功
1599年1月16日 00:00|イギリス| |||英の詩人スペンサー/死去/「詩人の詩人」と呼ばれた
1599年1月27日-09:00|日本| ||慶長4年|<移封>山口修広:越前1万3千石→加賀江沼郡1万3千石(~慶長5年改易)
1599年1月27日-09:00|日本| ||慶長4年|この年、基肄、養父半郡、宗氏領となる
1599年1月27日-09:00|日本| ||慶長4年|石川貞通:山城・丹波両国内で1万2千石を与えられて諸侯に列し
1599年1月27日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・光興22年|後黎朝5代・敬宗が即位(-1619)
1599年2月4日-09:00|日本| ||慶長4年1月9日|基肄一郡、養父半郡、対馬領となる(薩摩出水と振り替え)
1599年2月4日-09:00|日本| ||慶長4年1月9日|島津氏:出水など計5万石を与えられた
1599年2月7日-09:00|日本| ||慶長4年1月12日|松平松千代:武蔵深谷1万石/6歳で早世/六男の忠輝に継がせた(
-慶長7年下総佐倉へ)
1599年2月22日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ロレンツォ・サウリ(~16010221)
1599年3月1日-09:00|日本| ||慶長4年2月5日|小早川秀秋:越前北庄→筑前名島33万石/移封
1599年3月1日-09:00|日本| ||慶長4年2月5日|青木一矩:越前府中10万石→越前北庄20万石/加増移封
1599年3月27日-09:00|日本| ||慶長4年3月|入浜塩田の起源となる鍬島(鳴門市)に塩田がつくられ、周辺に次々
と塩田(斎田4組)が開発される
1599年4月4日-09:00|日本| ||慶長4年3月9日|島津忠恒が伏見の屋敷へ家老・伊集院忠棟を招きその席で惨殺
1599年4月25日-08:00|中国| ||明・万暦27年4月|明の臨清で宦官馬堂の苛斂誅求に対して暴動がおこる
1599年4月27日-09:00|日本| ||慶長4年閏3月3日|後陽成天皇の命で木活字版『日本書紀神代巻』刊行/慶長勅
版と呼ばれた
1599年4月27日-09:00|日本| ||慶長4年閏3月3日|前田利家死去/62歳(誕生:天文7(1538))豊臣氏五大老の1人
1599年4月28日-09:00|日本| ||慶長4年閏3月4日|加藤清正ら七将が石田三成邸を襲撃
1599年4月29日-01:00|ドイツ| |||ホーエンツォレルン家が、王位継承に関するゲラ協定を結ぶ
1599年6月10日-09:00|日本| ||慶長4年4月18日|東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峯に前年没した豊臣秀吉を「豊
国大明神」として祀る豊国神社創建/京都府
1599年7月-01:00|スペイン/フィリピン| |||モロ族がヴィサヤ諸島を攻撃し、反スペイン蜂起
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|<改易>垣見家純:豊後富来2万石/朝鮮出兵中の私曲のため廃絶
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|<改易>熊谷直陳:豊後安岐1万5千石/朝鮮出兵中の私曲のため廃
絶
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|<改易>太田一吉:豊後臼杵6万5千石/朝鮮出兵中の私曲のため廃
絶
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|<減封>福原直高:豊後府内12万石→臼杵6万石/朝鮮出兵中の私
曲6万石没収
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|早川長敏:府内2万石/再び拝領
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|豊臣秀頼、国東、速見両郡を細川忠興に与える
1599年7月7日-09:00|日本| ||慶長4年5月15日|木村秀望:豊後国内1万4千石/拝領
1599年7月24日-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン国王ジギスムント3世死去
1599年8月13日-09:00|日本| ||慶長4年6月23日|島津忠恒は山田城に進発/中務豊久が大手の木戸口まで攻め寄
せ北郷勢や新納忠元らが二重木戸を打ち破って城中に攻め入った/城主・長崎治部少輔は支えることができず、
落ちた
1599年8月15日-09:00|日本| ||慶長4年6月25日|図書守忠長、樺山久高、柏原将監ら都盆地の南に孤立する恒吉
城を攻め城主・伊集院宗右衛門尉は都城に撤退
1599年8月16日-09:00|日本| ||慶長4年6月26日|伊集院忠真の弟・小伝次の守る末吉城を攻撃したが落とせず
1599年8月19日-09:00|日本| ||慶長4年6月29日|山之口城主・倉野七兵衛尉が、北へ大きく迂回して後方撹乱の
ため福山地頭・山田有栄の高原に設けた新関を破り、東霧島の本陣を衝いたが近衛がよく守り倉野は鉄砲にあ
たり戦死
1599年9月2日-09:00|日本| ||慶長4年7月13日|山田城在番の軍勢と東霧島本陣番の北郷勢が志和池、野々三谷
両城に攻撃を仕掛け志和池と高城の軍勢と乱戦/島津方、敗走
1599年10月4日-09:00|日本| ||慶長4年8月15日|北郷勢は戦局の打開を図るため、軍勢を二手に分け、志和池城
を攻めたが失敗
1599年10月9日-09:00|日本| ||慶長4年8月20日|八幡船(海賊船)の禁止令
1599年10月28日-09:00|日本| ||慶長4年9月10日|島津忠恒は野々三谷、安永城をぬき、都城近辺の乙房丸まで攻
め込んだ/伊集院忠真は都城の兵を繰り出し島津方の軍勢は崩れ、平田増宗は本道を退くことができず、野々三
谷へ退いた
1599年11月18日-08:00|中国| ||明・万暦27年10月|明で陳奉らの苛斂誅求に対して武昌・漢陽で暴動おこる
1599年11月18日-09:00|日本| ||慶長4年10月01日|堀尾可晴:家督を嫡男忠氏に譲り、隠居料として別封で越前
府中5万石をうけた
1599年11月19日-09:00|日本| ||慶長4年10月2日|徳川家康が、大野治長や土方雄久らの家康暗殺計画の罪を糾
弾し、治長と雄久を常陸に流し、浅野長吉を甲斐に蟄居させる
1599年11月22日-09:00|日本| ||慶長4年10月5日|島津忠恒は志和池城攻め/戦線は膠着
1599年11月24日 04:00|チリ| |||ペランターロ,バルディビア市を破壊
1599年11月25日-09:00|日本| ||慶長4年10月8日|浅野長吉を甲斐に蟄居させる
1600迄(3010件)
1599年11月25日-09:00|日本| ||慶長4年10月8日|大野治長が常陸結城に配流される
1599年11月25日-09:00|日本| ||慶長4年10月8日|土方雄久:能登石崎2万2千石/廃絶/政争の巻添えで常陸へ配
流
1599年12月15日-09:00|日本| ||慶長4年10月28日|島津義久自身が大隅兵を率い、財部城攻め/城兵が繰り出し
野戦となり寄せ手には大きな損害がでて膠着状態
1599年12月19日-06:30|ミャンマー| |||<死去>タウングー王朝国王ナンダパインがアラカン軍に降伏し、処刑される→<即位>タウンク
゙ー王朝国王ニャウンヤン[前王の兄弟](~16051105)
1599年12月24日-09:00|日本| ||慶長4年11月07日|蠣崎慶広、徳川家康に蝦夷島地図を呈上し、松前氏に改姓し
蝦夷地に対する支配権を認められ松前氏に改姓
1599年12月25日-09:00|日本| ||慶長4年11月8日|志和池城で寄せ手の北郷軍が伊集院軍に切り崩され互いに損
害をだして退いた
1600年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第8代スルタン:シャー・ベルナイ(~1605年)
1600年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王ポニャー・ヨム(~1603年)
1600年-04:00|ロシア| |||<即位>カシモフ・ハン国(大オルダ系)ハン:ウラズ・ムハンマド[オンダン・スルターンの子](~1610年頃)
1600年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=Movile?ti家)ミハエル1世→同年<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モウ
゙ィレスティ家)イエレミア・モヴィレ(2度目,~1606年)
1600年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第三王朝)ルガンズ2世(~1624年)
1600年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公シミオン・モヴィレ(~1601年)
1600年-02:00|エストニア/ポーランド/スウェーデン/リトアニア| |||エストニアをめぐり、ポーランド・リトアニア共和国とスウェーデンが戦争
1600年-02:00|ブルンジ| |||ツチ族がブルンディへ移住(第二波)
1600年-01:00|オランダ/チリ| |||オランダのコルデス兄弟,オリバー・バン・ヌールトらがチリ沿岸を襲撃
1600年 00:00|ガーナ| |||西アフリカのゴールドコーストでアクワム国、デンキーラ国が成立
1600年 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||リオのポルトガル人,フランス人を最終的に駆逐
1600年 07:00|メキシコ| |||ドゥランゴで原住民の反乱
1600年1月1日-09:00|日本| ||慶長4年11月15日|高城に平田増宗、中原中将坊、北郷勢らが撃ちかかったがうち
破られた
1600年1月5日-09:00|日本| ||慶長4年11月19日|徳川家康:大野治長や土方雄久らの家康暗殺計画の罪を糾弾治
長と雄久を常陸に流し浅野長吉を甲斐に蟄居させる
1600年1月23日-09:00|日本| ||慶長4年12月8日|島津忠真方の兵が山田城の軍勢をおびき出し100余が討ち取る
1600年2月 05:00|ペルー| |||ビルカバンバでフランシスコ・チチマのひきいる先住民の反乱
1600年2月14日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・慎徳1年1月|大越後黎朝5代・敬宗が慎徳と改元(~旧10月)
1600年2月15日-09:00|日本| ||慶長5年|この年、狩野光信の花鳥襖絵(三井寺勧学院)できる
1600年2月17日-01:00|イタリア| |||伊の哲学者ブルーノ/汎神論と地動説を主張し宗教裁判で禁固7年の後焚殺
1600年2月24日-09:00|日本| ||慶長5年1月10日|土佐で浦戸一揆が鎮圧
1600年3月8日-09:00|日本| ||慶長5年1月23日|<改易>松平康真:上野藤岡3万石/同僚殺害により廃絶
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月1日|(松平)桜井忠頼:武蔵松山→美濃金山25千石(-慶長6年遠江浜松
へ)
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月01日|河尻直次:美濃・摂津両国内に1万石を与えられ、苗木城主とな
った
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月1日|関一政:信濃飯山→美濃多良3万石(-慶長5年伊勢亀山へ)
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月1日|森忠政:美濃金山7万石→信濃松代(海津城)13万7500石(-慶長8
年美作津山へ)
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月1日|田丸直昌:信濃川中島→美濃岩村4万石/移封
1600年3月15日-09:00|日本| ||慶長5年2月01日|平塚為広:5千石を与えられ、のち美濃垂井に封ぜられて1万2千
石を領し
1600年3月20日-09:00|日本| ||慶長5年2月6日|志和池城が降伏
1600年3月21日-09:00|日本| ||慶長5年2月7日|細川忠興:丹後宮津14万1400石→豊後杵築20万石/6万石を加増(
-慶長7年豊前小倉へ)
1600年4月12日-09:00|日本| ||慶長5年2月29日|梶山、勝岡、山之口の三城が降伏
1600年4月14日-09:00|日本| ||慶長5年3月1日|高城が降伏
1600年4月15日-09:00|日本| ||慶長5年3月2日|安永ついで野々三谷が降伏
1600年4月22日-09:00|日本| ||慶長5年3月9日|末吉兵が城を退去
1600年4月23日-09:00|日本| ||慶長5年3月10日|先に島津本家に叛いた伊集院忠真が、家康の使者山口直文の勧
降を受け義久の富隈城に赴き降伏、荘内の役が終
1600年4月28日-09:00|日本| ||慶長5年3月15日|上野高崎烏川で馬庭念流・樋口定次と村上天流・村上権左衛門
が決闘、定次が勝つ
1600年4月28日-09:00|日本| ||慶長5年3月15日|忠真も都城の城を退去
1600年4月28日-09:00|日本| ||慶長5年3月15日|梅北の兵が城を退去
1600年5月1日-09:00|日本| ||慶長5年3月18日|豊臣秀頼、方広寺大仏殿に七層塔・講堂・廻廊を建てる
1600年5月10日-09:00|日本| ||慶長5年3月27日|摂津国四天王寺再興
1600年5月13日-09:00|日本| ||慶長5年4月|<改易>木曽義利:下総阿知戸1万石/叔父殺害により廃絶
1600年5月16日-09:00|日本| ||慶長5年4月4日|醍醐寺三宝院金堂できる
1600迄(3010件)
1600年7月6日-02:00|ルーマニア| |||ワラキア公ミハイが、ワラキア、モルダヴィア、トランシルバニアを統一して全ルーマニアを支配
1600年7月10日-08:00|中国| ||明・万暦28年6月|明で煬応竜の乱が平定される
1600年8月-05:30|インド| |||ムガル軍、アフマドナガルを攻略
1600年8月5日-09:00|日本| ||慶長5年6月26日|「ややこ踊り」阿国、菊(「時慶卿記」による)
1600年8月6日-01:00|フランス| |||フランス軍が、サヴォーイアに侵入
1600年8月21日-09:00|日本| ||慶長5年7月13日|西軍、丹後田辺城の細川幽斎を攻める
1600年8月25日-09:00|日本| ||慶長5年7月17日|細川忠興の妻で明智光秀の娘たま通称ガラシアが、人質として大
坂入城を強要されて死を選ぶ/38歳
1600年8月25日-09:00|日本| ||慶長5年7月17日|豊臣奉行(石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以)が家康罪状
13ヶ条を挙げ宣戦布告
1600年8月27日-09:00|日本| ||慶長5年7月19日|<改易>加賀井重望:美濃加賀野井1万石/刈屋城主水野忠重・遠
江浜松城主堀尾吉晴らと酒宴を行った際、酔った口論の末忠重を斬殺し、自身もその場にいた兵士達によって
殺害され廃絶
1600年8月27日-09:00|日本| ||慶長5年7月19日|水野忠重が三河池鯉鮒で堀尾吉晴を饗応中、加賀井秀望に刺殺
される/享年60
1600年8月27日-09:00|日本| ||慶長5年7月19日|西軍、伏見城の鳥居元忠を攻める
1600年8月29日-09:00|日本| ||慶長5年7月21日|西軍の小野木重勝らが丹後田辺城の攻撃開始
1600年9月2日-09:00|日本| ||慶長5年7月25日|白石城の戦い/伊達政宗は上杉景勝領の最前線であった白石城
を攻め、本丸を除く城域を制圧した
1600年9月8日-09:00|日本| ||慶長5年8月1日|西軍が伏見城を攻め落とす/家康家臣で忍城主松平家忠は討死、
城将の鳥居元忠は自刃/家忠享年46歳、元忠享年62
1600年9月10日-09:00|日本| ||慶長5年8月3日|前田利長が大聖寺城を攻略
1600年9月11日-09:00|日本| ||慶長5年8月4日|<改易>大聖寺城将山口正弘・修弘父子は自決/戦後その所領加賀
大聖寺5万石は没収
1600年9月16日-09:00|日本| ||慶長5年8月9日|前田利長:浅井畷(小松市)にて松任城主・丹羽長重に襲われるが
破る
1600年9月23日-09:00|日本| ||慶長5年8月16日|東軍の徳永寿昌らが丸毛兼利の拠る美濃福束城を攻め落とす/
兼利は大垣城へ逃れ
1600年9月26日-09:00|日本| ||慶長5年8月19日|東軍の徳永寿昌らが高木一族の拠る美濃高須・駒野・津屋城を
攻め落とす/駒野城の高木帯刀は降伏、高須城の高木盛兼と津屋城の高木正家は大垣城へ逃れ
1600年9月29日-09:00|日本| ||慶長5年8月22日|<改易>佐藤方政:美濃上有地2万石,米野の戦いで福島正則・池
田輝政率いる大軍に破れ廃絶
1600年9月29日-09:00|日本| ||慶長5年8月22日|東軍の池田輝政らが米野で織田秀信勢を破り、福島正則は竹鼻
城を攻め落とす/守将杉浦重勝は自刃.杉浦重勝:美濃竹ヶ鼻1万石廃絶
1600年9月30日-09:00|日本| ||慶長5年8月23日|<改易>織田秀信:美濃岐阜13万3千石/西軍に属し岐阜城が福島
正則・池田輝政らの猛攻により陥落/廃絶高野山に追放
1600年9月30日-09:00|日本| ||慶長5年8月23日|東軍の黒田長政・田中吉政らが河渡川で西軍の舞兵庫らを破る
1600年10月1日-09:00|日本| ||慶長5年8月24日|西軍の鍋島勝茂らが伊勢松坂城の古田重勝を攻め、降伏させる
1600年10月2日-09:00|日本| ||慶長5年8月25日|毛利秀元が伊勢安濃津城を攻め落とす
1600年10月3日-09:00|日本| ||慶長5年8月26日|毛利秀元らの西軍が伊勢安濃津城(城将富田信高)を攻略
1600年10月6日-01:00|イタリア| |||現存する最古のオペラ「エウリディーチェ」上演
1600年10月8日-09:00|日本| ||慶長5年9月2日|東軍の遠藤慶隆らが郡上八幡城を攻略
1600年10月9日-09:00|日本| ||慶長5年9月3日|丹後田辺城開城
1600年10月9日-09:00|日本| ||慶長5年9月3日|八幡城の危急を聞いた稲葉貞通が犬山より取って返し、遠藤慶
隆等を城外に破
1600年10月11日-09:00|日本| ||慶長5年9月5日|遠藤慶隆が同族胤直の籠もる上ヶ根砦を落と
1600年10月11日-09:00|日本| ||慶長5年9月5日|徳川秀忠、真田昌幸の属城信濃小県郡砥石城を陥落せしめ真田
信幸に守備を命ず
1600年10月12日-09:00|日本| ||慶長5年9月6日|徳川秀忠が上田へ出撃し真田昌幸・幸村父子の籠もる上田城を
攻撃するが、真田父子に翻弄される
1600年10月14日-09:00|日本| ||慶長5年9月8日|毛利元康・立花宗茂ら西軍が大津城に攻めかか
1600年10月15日-09:00|日本| ||慶長5年9月9日|西軍に加担した大友義統が長門から豊後に上陸、侵攻を開始
1600年10月19日-09:00|日本| ||慶長5年9月13日|<改易>松浦久信:伊勢井生1万1千石/西軍に属し戦死.除封
1600年10月19日-09:00|日本| ||慶長5年9月13日|石垣原の合戦/黒田如水が大友義統と豊後石垣原で戦い、三日
間の激闘の後これを破る
1600年10月19日-09:00|日本| ||慶長5年9月13日|東軍の細川幽斎が勅命を受けて丹後宮津城を開城
1600年10月19日-09:00|日本| ||慶長5年9月13日|米沢の直江兼続の本隊が、最上領の畑谷城を攻撃し、翌日陥落
させる
1600年10月20日-09:00|日本| ||慶長5年9月14日|西軍の島左近らが杭瀬川で東軍の中村・有馬勢を破
1600年10月20日-09:00|日本| ||慶長5年9月14日|西軍の毛利元康・立花宗茂らが京極高次の拠る大津城を攻め
落とす
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>安見勝之:伊予麻布1万石/関ヶ原の合戦で西軍に
1600迄(3010件)
つき廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>岸田忠氏:大和岸田1万石/関ヶ原の役では西軍に
属し、戦後廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>松浦宗清:伊勢国内1万石/関ヶ原の戦いでは西軍
に属し廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>新庄直忠:近江柏原14600石/関ヶ原の戦いでは西
軍に属して所領没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>新庄直定:摂津国内1万3千石/関ヶ原の戦いで西軍
に与したため廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>生熊長勝:丹波国内2万石/廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>毛利秀秋:信濃国内1万石/関ヶ原の役戦後所領没
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>木下俊定:丹波国内1万石/関ヶ原 の戦いで西軍に
与して大津城の戦いに参加したために廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>木村秀望:豊後国内14千石/関ヶ原の戦いで西軍に
所属し廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日以降|<改易>来島長親:伊予来島14千石/西軍に属し廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>安国寺恵瓊:伊予国内6万石/関ヶ原西軍参加により廃
絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>伊藤盛正:美濃大垣34千石/関ヶ原の戦いで西軍に与し
たため廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>宇喜多秀家:備前岡山57万4000石/関ヶ原西軍参加,薩
摩に落ち延び廃絶/子息とともに八丈島に流罪
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>宇多頼忠:近江国内1万3000石/関ヶ原西軍参加,関ヶ原
で自刃廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>奥山正之:越前国内1万1000石/関ヶ原西軍参加/子に50
0石安堵
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>岡本宗憲:伊勢亀山2万2000石/関ヶ原西軍参加で主力
が敗れると城を明け渡して自害廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>垣屋恒総:因幡浦住1万石,関ヶ原西軍参加し決戦で主
力が敗れたため高野山千手院へ逃れ自殺廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>丸毛兼利:美濃福束2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>吉川広家:出雲月山富田11万石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>宮部長房:因幡鳥取5万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>原勝胤:美濃太田山3万石/関ヶ原西軍参加,関ヶ原で自
刃廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>戸田勝成:越前安居1万石/関ヶ原西軍参加,関ヶ原で戦
死廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>溝江長晴:越前金津1万700石/関ヶ原の役で西軍に属し
、戦後廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>高木盛兼:美濃高須1万石/関ヶ原西軍参加し廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>斎村政広:但馬竹田2万2000石/関ヶ原西軍参加し自刃
廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>坂井与右衛門:加賀国内1万石/関ヶ原西軍参加,戦後所
領没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>山口修弘:加賀国内1万石/関ヶ原西軍参加で戦死廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>山崎定勝:伊勢竹原1万石/関ヶ原西軍参加し、戦後所領
没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>氏家行継:伊勢国内1万5000石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>氏家行広:伊勢桑名2万2000石/関ヶ原西軍参加後所領
没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>寺西是成:伊勢国内1万700石/関ヶ原の役で西軍に属し
、戦後没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>寺西直次:伊勢国内1万石/関ヶ原西軍参加し戦後没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>寺田光吉:大和国内1万5000石/関ヶ原西軍参加,戦後廃
絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>小西行長:肥後宇土20万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>小川祐忠:伊予今治7万石/関ヶ原西軍参加し東軍に寝
返って功を挙げるが戦後所領没
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>小野木重次:丹波福知山3万1000石/関ヶ原西軍参加,関
ヶ原で自刃廃絶
1600迄(3010件)
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>上田重安:越前国内1万石/関ヶ原西軍参加し敗戦によ
り失
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>織田秀雄:越前大野5万石/関ヶ原の戦いに際し西軍に
属し廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>杉谷越中守:不明1万5000石/関ヶ原西軍参加により廃
絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>青山忠元:越前丸岡4万6000石/関ヶ原西軍参加し敗戦
廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>石川貞清:尾張犬山12万石/関ヶ原西軍参加,戦後廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>石川貞通:山城国内1万2000石/関ヶ原西軍参加、戦後所
領没
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>石川頼明:播磨国内1万2000石/関ヶ原西軍参加,関ヶ原
で自刃廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>石田三成:近江佐和山19万4000石/関ヶ原西軍参加によ
り廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>赤松則英:阿波住吉1万石/関ヶ原西軍参加,戦後自刃
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>川尻秀長:摂津国内1万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>早川長政:豊後府内2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶,
盛岡に幽閉
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>糟屋武則:播磨加古川1万2000石/関ヶ原西軍参加によ
り廃絶/慶長7年500石で幕府に仕えのち再び廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>大谷吉継:越前敦賀5万石/関ヶ原西軍参加,関ヶ原で戦
死廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>丹羽長正:越前東郷5万石/関ヶ原西軍参加し戦後廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>池田秀氏:大和国内2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>中江直澄:不明1万石/関ヶ原西軍参加し戦後所領没
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>田丸直昌:美濃岩村4万石/関ヶ原西軍参加し廃絶,越後
に追放
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>島津豊久:日向佐土原28600石/東軍の福島・本多・井伊
の諸隊と激闘を繰り広げた末に討死,戦後所領没収
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>平塚為広:美濃国内1万2000石/関ヶ原西軍参加、小早川
秀秋の寝返りにより敗死廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>堀内氏善:紀伊新宮2万7000石/関ヶ原西軍参加し居城
新宮城も東軍に攻め落とされ所領を失う
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>毛利勝信:豊前小倉6万石/関ヶ原西軍参加、戦後廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>木下重堅:因幡若桜2万石/関ヶ原西軍参加、敗戦ととも
に自害廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>木下頼継(大谷吉継の次男):越前国内2万5000石/関ヶ
原西軍参加
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>木下利久:不明2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|<改易>木村由信:美濃北方1万石,関ヶ原西軍参加,大垣城二の
丸を守備し西軍が本戦で敗れたのちともに守備していた相良長毎・秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより
熊谷直盛・垣見一直らとともに謀殺され廃絶
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|関ケ原の合戦/徳川家康の東軍と石田三成の西軍が関ケ原で合
戦/西軍の小早川秀秋の寝返りで東軍が西軍を破る
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|上杉方の直江兼続、最上義光の支城出羽畑谷城を攻略、長谷堂
城を包囲
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|石垣原の合戦で大友義統が捕らえられ、黒田如水方の森太兵
衛に警護されて中津に送られる
1600年10月21日-09:00|日本| ||慶長5年9月15日|東軍の水野勢らが大垣城へ攻め寄せる
1600年10月22日-09:00|日本| ||慶長5年9月16日以降|榊原康政:老中就任(-1606年5月14日)
1600年10月22日-09:00|日本| ||慶長5年9月16日以降|成瀬正成:老中就任(-1616年4月17日)
1600年10月22日-09:00|日本| ||慶長5年9月16日以降|村越直吉:老中就任(-1614年1月14日)
1600年10月22日-09:00|日本| ||慶長5年9月16日|<改易>岡本宗憲:伊勢亀山2万2千石/関ヶ原西軍参加,桑名城
を守っていたが西軍敗北後に自刃廃絶
1600年10月23日-09:00|日本| ||慶長5年9月17日|<改易>石田正継:近江国内3万石/関ヶ原西軍参加,佐和山城を
守備、小早川秀秋らの猛攻に半日を抵抗するが敗北を認めて自刃.廃絶
1600年10月23日-09:00|日本| ||慶長5年9月17日|<廃絶>宇多頼忠、大和国内13千石/三成の居城であった近江佐
和山城で東軍に攻撃され自害廃絶
1600年10月23日-09:00|日本| ||慶長5年9月17日|西軍の大垣城開城
1600年10月23日-09:00|日本| ||慶長5年9月17日|石田三成に応じた毛利氏の兵が伊予三津浜に陣し加藤嘉明を
攻めるが、嘉明の将加藤忠明・佃十成ら三津で芸州勢を撃退.離反した荏原城の平岡善兵衛を討つ
1600迄(3010件)
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|<改易>石田正澄:近江国内1万石/関ヶ原西軍参加,佐和山城を
守備,小早川秀秋らの軍に攻められ父と長男朝成ともに自害廃絶
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|<廃絶>垣見一直:豊後富来2万石/関ヶ原の役で美濃大垣城を
守衛、東軍に寝返った相良頼房らに謀殺され廃絶
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|<廃絶>熊谷直盛:豊後安岐1万5千石/関ヶ原の役で西軍に属し
、東軍に寝返った相良頼房らに謀殺され廃絶
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|<廃絶>木村由信:美濃北方1万石/関ヶ原の役で西軍に属し、東
軍に寝返った相良頼房・秋月種長らによって子豊統とともに謀殺された
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|近江佐和山城が東軍に攻め落とされ三成の父正継や兄正澄ら
一族は自刃
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|黒田孝高が熊谷氏の安岐城,垣見氏の富来城を攻め落とす
1600年10月24日-09:00|日本| ||慶長5年9月18日|石田方の小野木重勝に包囲されていた丹後田辺城の細川幽斎
が停戦を受諾
1600年10月25日-09:00|日本| ||慶長5年9月19日|<岩崎城の戦い>陸奥の前和賀領主・和賀忠親らが一揆を起こ
す
1600年10月25日-09:00|日本| ||慶長5年9月19日|黒田如水が豊後安岐城を攻略
1600年10月25日-09:00|日本| ||慶長5年9月19日|小西行長が粕川谷の山中で関ヶ原の住人林蔵主の手に捕らえ
られ
1600年10月25日-09:00|日本| ||慶長5年9月19日|徳川家康が奥平信昌を京都所司代とする
1600年10月27日-09:00|日本| ||慶長5年9月21日|加藤清正が小西行長の居城宇土城を攻略
1600年10月27日-09:00|日本| ||慶長5年9月21日|関ケ原に敗れた石田三成が北近江伊香郡高時村の古橋にある
岩窟に身を潜めているところを田中吉政の兵に発見され逮捕される
1600年10月28日-09:00|日本| ||慶長5年9月22日|細川忠興が丹波に入り前田玄以の亀山城を収め、次いで小野
木重勝の福知山城攻めに向け出陣
1600年10月29日-09:00|日本| ||慶長5年9月23日|安国寺恵瓊が潜伏中の京都で捕らえられ
1600年10月29日-09:00|日本| ||慶長5年9月23日|加藤清正は八代城を落城させ、ついで西軍立花宗茂の柳河城
をも落とした
1600年10月29日-09:00|日本| ||慶長5年9月23日|大垣城に籠もっていた福原直高が、剃髪開城して東軍に降伏
1600年10月31日-09:00|日本| ||慶長5年9月25日|伊達政宗が茂庭綱元に上杉領湯原城攻撃を指示、上杉軍不在
のため地侍らは降伏
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<移封>関一政:美濃多良3万石→伊勢亀山3万石(-慶長15年伯耆
黒坂へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<移封>桑山一晴:紀伊和歌山→大和布施1万6千石/相続/以後一
直(兄一晴の女が嫁ぐとき3千石分知13千石)、一玄、一尹(弟2人に2千石分知11千石)と続く(-天和2年改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<移封>桑山重晴:紀伊和歌山4万石→和泉谷川1万6千石/隠居/
次に清晴が嗣ぐ(-慶長14年蟄居となり所領は父元晴に与えられた)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<移封>松下重綱:遠江頭陀寺12千石→遠江久野12千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<移封>浅野長政(長吉):甲斐府中→常陸真壁5万5千石/次に長
重(下野真岡から5万石)が嗣ぐ(-元和8年常陸笠間)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>伊達政宗:陸奥岩出山58万石+刈田郡2万石加増→60万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>皆川広照:下野皆川1万3千石→3万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>亀井茲矩:因幡鹿野13500石→3万8千石/次に政矩(43千
石)が嗣ぐ(-元和3年岩見津和野へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>九鬼守隆:志摩鳥羽3万石→5万5千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>古田重勝:伊勢松坂3万4千石→5万5千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>佐久間安政:近江高島2万石/拝領(-元和1年信濃飯山へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>市橋長勝:美濃今尾1万石→2万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>寺沢堅高:肥前唐津6万3千石→12万3千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>寺沢広高:肥前唐津8万3千石→12万3千石/次に堅高(島
原の乱後、4万石減)が嗣ぐ(-正保4年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>小堀正次:不明5千石→備中国内14460石/次に政一(1246
0石)が嗣ぐ(-元和3年河内奉行へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>諏訪頼永:信濃高島12千石→27千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>成瀬正成:下総栗原4千石→2万石(後3万4千石)/以後之
成(15千石)、之虎と続く(-寛永15年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>生駒一正:讃岐高松15万石→173千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>太田原晴清:下野太田原7、900石→12、400石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>池田長政:播州赤穂2万2000石/1万5000石加増
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>津軽為信:陸奥堀越4万5千石→4万7000石/以後、信枚が
相続
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>内藤政長:上総佐貫2万石→3万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>富田信高:伊勢阿濃津5万石→7万石
1600迄(3010件)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>分部光嘉:伊勢上野1万石→2万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>蜂須賀至鎮:阿波徳島17万7千石→18万7千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>北条氏盛:河内狭山6900石→1万1千石/以後氏信、氏宗、
氏治、氏朝、氏貞、氏彦、氏昉、氏喬、氏久、氏燕、氏恭と続く(-明治2年藩知事を辞任)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増>里見義康:安房館山9万石→12万石/常陸鹿島2万8千石を
加増/次に忠義が嗣ぐ(-慶長19年伯耆倉吉へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>井伊直政:上野高崎12万石→近江佐和山18万石/次
に直継(直勝)(15万石)が嗣ぐ(-慶長8年近江彦根へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>稲葉通孝:美濃中山5千石→豊後国内14156石(-慶長
12年無断離国により改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>稲葉貞通:美濃郡上八幡4万石→豊後臼杵5万65石/
以後典通、一通、信通、景通、知通、恒通、菫通、泰通、弘通、雍通、尊通、幾通、観通、久通と続く(-明治4年)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>稲葉道通:伊勢岩出25700石→伊勢田丸45700石/次
に紀通が嗣ぐ(-元和2年摂津中島へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>遠藤慶隆:美濃小原7500石→美濃郡上八幡2万7千石
/旧領復帰/以後慶利、常友(3千石分知2万4千石)、常春、常久と続く(-元禄5年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>京極高知:信濃伊奈10万石→丹後宮津12万3千石/以
後高三(35千石)、高直、高盛(33千石)と続く(-寛文8年但馬豊岡へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>桑山元晴:不明8千石→大和御所1万石/相続拝領/次
に貞晴が嗣ぐ(-寛永6年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>佐久間安次:信濃長沼1万石→近江高島15千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>細川幽斉:丹後田辺12万石→豊前中津39万9千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>山崎家盛:摂津三田2万3千石→因幡若桜3万石/次に
家治が嗣ぐ(-元和3年備中羽成へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>酒井忠世:武蔵川越ノ内5千石→上野那波1万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>松平一生:下野板橋1万石/拝領/次に成重が嗣ぐ(元和3年:三河西尾へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>松平信一:下総市川5千石→常陸土浦35千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>織田長益:摂津味舌15千石→大和ノ内3万石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>真田信幸:上野沼田27千石→信濃上田115千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>西尾光教:美濃国曽根2万石→揖斐藩3万石/加増移
封/次に嘉教(弟光教が5千石を分知25千石)が嗣ぐ(-元和9年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>大関資増:下野黒羽1万3千石→1万8千石/以後政増、
高増、増親、増栄、増恒、増興、増備、増輔、増陽、増業、増儀、増昭、増徳、増裕、増勤と続く(-明治4年)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>大嶋光義:摂津・美濃・尾張三国五郡内1万1200石→
美濃関1万8千石/加増(-慶長9年没後、光成:7500石、その他を弟3人に分知され旗本に降格)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>中村一忠:駿河府中14万5千石→伯耆米子17万5千石
(-慶長14年無嗣改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>田中吉政:三河岡崎10万石→筑後柳川32万5千石/次
に忠政が嗣ぐ(-元和6年嗣子なく改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>徳永寿昌:美濃松木3万7百石→美濃高須5万673石/
加増/次に昌重(53700石)が嗣ぐ(-寛永5年所領没収、改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>那須資景:下野ノ内15千石→下野那須17千石/次に
資重が嗣ぐ(-寛永19年無嗣廃藩/資景に5千石を与え再勤を命じた)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>福島孝治(高晴)(福島正則の弟):伊勢長島1万石→
大和松山3万石(-元和1年改易)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>牧村道通:伊勢岩出2万600石→伊勢国田丸4万5700
石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<加増移封>堀尾吉晴(可晴):遠江国浜松12万石→出雲国・隠岐
国2国24万石にて入封/松江藩/以後忠氏、忠晴と続く(-寛永10年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<改易>福原直高:豊後府内6万石/廃絶
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<所領安堵>伊東祐兵:日向飫肥5万7000石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>遠山友政:美濃苗木10521石/以後秀友、友貞、友春、友由、
友将(10021石)、友央、友明、友清、友随、友寿、友詳と続く(-明治4年)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>金森長近:美濃高山を子に譲り隠居、美濃上有知(小倉山
城)2万3千石/次に長光が嗣ぐ(-慶長16年無継断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>戸川達安:備中広瀬39千石
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>戸川逵安:備中庭瀬29200石/以後正安(22500石)、安宣(2
1千石)、安風(2万石)と続く(-延宝7年無嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>坂崎直盛(宇喜多詮家):出雲津和野3万石(-元和2年千姫
事件で切腹・断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>織田長孝:関ヶ原の役で東軍に属し戦後その功によって
1600迄(3010件)
美濃国大野郡1万石を与えられ、野村に陣屋を構える
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>織田長孝:美濃野村1万石/次に長則が嗣ぐ(-寛永8年無
嗣断絶)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>森忠政:信州川中島13万石に封じられる
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>水野忠胤:三河国内で1万石を与えられ
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>土方雄久:越中布市1万5千石/次に雄重が嗣ぐ(-元和8年
陸奥窪田(菊多)へ)
1600年11月2日-09:00|日本| ||慶長5年9月27日|<拝領>土方雄氏:伊勢菰野1万2千石/再任/以後雄高、雄豊、豊義
(11千石)、雄房、雄端、雄年、雄貞、義苗、雄興、雄嘉、雄永、雄志(-明治4年)
1600年11月4日-09:00|日本| ||慶長5年9月29日|長宗我部盛親が兄の津野親忠を岩村霊厳寺に攻めて殺害
1600年11月5日-09:00|日本| ||慶長5年9月30日|<改易>長束正家:近江水口5万石/東軍の池田輝政が近江水口城
を攻落し正家自刃
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>奥山正之:越前国内11千石/関ヶ原西軍参加により没収/子
に500石安堵
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>高橋直次:筑後内山18千石/廃絶/子孫は筑後三池藩主とし
て存続
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>滝川雄利:伊勢神戸2万石/関ヶ原西軍参加し、戦後廃絶/後
に2万石安堵
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>別所吉治:但馬綾部1万5000石/関ヶ原西軍参加
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>毛利勝信:豊前小倉6万石/勝永:豊前1万石/親子
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<改易>木村清久(秀望):豊後国内1万4000石/関ヶ原西軍参加
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月|<減封>豊臣秀頼:摂津・河内・和泉65万7千余石の一大名に転落
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月1日|<改易>赤松則英:阿波住吉1万石/関ヶ原西軍参加/京都戒光寺
で自害/廃絶/赤松氏は完全に滅亡
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月1日|宮崎城は伊東氏の家老稲津掃部の軍勢に攻められ一夜のうち
に落城
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月1日|上杉景勝が関ヶ原の西軍敗戦により出羽長谷堂城から撤兵(長
谷堂城の戦い
1600年11月6日-09:00|日本| ||慶長5年10月1日|石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が、市中引回しの上、六条河原
で斬首/三成41歳(誕生:永禄3(1560))
1600年11月7日-09:00|日本| ||慶長5年10月2日|黒田如水が豊後富来城を攻略
1600年11月9日-09:00|日本| ||慶長5年10月4日|<改易>太田宗隆:豊後国臼杵6万5千石/関ヶ原の役では西軍に
属し降伏開城し所領を没収
1600年11月10日-09:00|日本| ||慶長5年10月5日|<加増移封>小早川秀秋:筑前名島30万7千石→備前(岡山)・美
作51万石(-慶長7年無嗣断絶)
1600年11月10日-09:00|日本| ||慶長5年10月5日|<改易>筑紫広門:筑後山下1万8000石/関ヶ原西軍参加により
廃絶/後に3千石安堵
1600年11月10日-09:00|日本| ||慶長5年10月5日|関ケ原での西軍敗北を知った伊達政宗が、福島城攻撃に出陣す
るが翌日撃退されて北目城へ帰城
1600年11月15日-09:00|日本| ||慶長5年10月10日|<改易>青木一矩:越前北庄8万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月15日-09:00|日本| ||慶長5年10月10日|<改易>毛利秀元:長門国内20万石/関ヶ原西軍参加により廃
絶
1600年11月15日-09:00|日本| ||慶長5年10月10日|<改易>毛利秀包:筑後久留米13万石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年11月15日-09:00|日本| ||慶長5年10月10日|<改易>木下勝俊:若狭小浜6万2000石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年11月15日-09:00|日本| ||慶長5年10月10日|<減封>毛利輝元:安芸周防長門備中半国備後伯耆半国出雲隠
岐石見120万5千石隠居→毛利秀就:長門萩29万8480石(長州藩)以後綱広、吉就、吉広、吉元、宗広、重就、治親、斉
房、斉熙、斉元、斉広、敬親(-文久3年周防
1600年11月17日-09:00|日本| ||慶長5年10月12日|<改易>長宗我部盛親:土佐浦戸22万2千石/関ヶ原西軍参加に
より廃絶/高野山に追放
1600年11月18日-09:00|日本| ||慶長5年10月13日|<改易>荒木重堅:因幡若桜2万石/関ヶ原の役で敗北、摂津一
心院で自殺/廃絶
1600年11月19日-09:00|日本| ||慶長5年10月14日|小早川秀包:筑後久留米城主13万石/秀包領の久留米に鍋島、
黒田勢が侵入し開城
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増>加藤清正:肥後熊本25万石→肥後1国52万石
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>京極高次:近江大津6万石→若狭小浜92100石/次
に忠高(113500石)が嗣ぐ(-寛永11年出雲松江へ)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>黒田長政:豊前中津18万石→筑前福岡50万2416石
/以後忠之(長興に5万石、高政に4万石分与43万3100石)、光之(473100石)、綱政、宣政、継高、治之、治高、斉隆、斉
清、長溥、長知と続く(-明治3年)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>細川忠興:丹後宮津23万石→豊前中津36万9千石
1600迄(3010件)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>松平忠吉(徳川家康の四男):武蔵忍10万石→尾張
清洲52万石(-慶長12年無嗣断絶)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>浅野幸長:甲斐府中21万7千石→紀伊和歌山39万5
千石/次に長晟が嗣ぐ(-元和5年安芸広島へ)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>池田輝政:三河吉田152千石→播磨・備前・淡路52
万石/以後利隆(42万石)、光政と続く(-元和3年因幡鳥取へ)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>池田長吉:近江国内1万5千石→因幡鳥取6万5千石
/鳥取藩が立藩/次に長幸が嗣ぐ(-元和3年備中松山へ)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<加増移封>福島正則:尾張清洲20万石→安芸広島49万8223石
(-元和5年改易・信濃川中島へ)
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<所領安堵>前田玄以:丹波・亀山5万石
1600年11月20日-09:00|日本| ||慶長5年10月15日|<拝領>小笠原吉次:尾張犬山2万7千石(-慶長12年下総に転封
)
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<移封>毛利高政:豊後隈府2万石→豊後佐伯2万石
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>横浜茂勝:播磨国内1万7000石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>岸田忠氏:大和岸田1万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>高田治忠:丹波国内1万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>蒔田広定:伊勢雲出1万石/関ヶ原西軍参加廃絶/後に1
万石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>小野弥七郎:不明3万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>新庄直頼:摂津高槻3万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
/宇都宮に追放
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>深津右京亮:不明3万石/関ヶ原西軍参加により廃絶/
後に200石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>杉若氏宗:紀伊田辺1万9000石/関ヶ原西軍参加により
廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>赤座直保:越前国内2万石/関ヶ原西軍参加し戦いの最
中東軍に寝返ったが廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>川尻秀長:美濃苗木1万石,関ヶ原西軍参加,大坂城の
守備につき敗戦後自刃廃絶(後に弟・河尻鎮行200俵支給)
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>前田玄以:丹波亀山5万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
,下総に追放
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>増田長盛:大和郡山20万石/関ヶ原西軍参加により廃
絶/高野山に追放
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>多賀秀種:大和宇陀2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>丹羽長重:加賀小松12万5450石/関ヶ原に参陣せず廃
絶/後に1万石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>南条忠成:伯耆羽衣石4万石/関ヶ原西軍参加につき廃
絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>服部正栄:近江国内1万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>木下延重:播磨国内2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>木下利房:若狭高浜2万石/関ヶ原西軍参加により廃絶
/後に2万5千石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>矢部定政:不明1万石/関ヶ原西軍参加後に200石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>立花宗茂:筑後柳川13万2200石/関ヶ原西軍参加/後に
1万石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|<改易>立花直次:筑後内山1万8000石/関ヶ原西軍参加/後に5
千石安堵
1600年11月21日-09:00|日本| ||慶長5年10月16日|秋田実季が、由利衆とともに小野寺氏の大森城を攻撃
1600年11月22日-09:00|日本| ||慶長5年10月17日|<加増>前田利長:加賀・金沢83.5万石→加賀・能登・越中119.5
万石/利政旧領能登21万石と加賀西部の西軍大名の旧領を加増/以後前田氏が襲封
1600年11月22日-09:00|日本| ||慶長5年10月17日|<改易>前田利政:能登七尾21万5000石/関ヶ原西軍参加し戦
後、領土没収
1600年11月23日-09:00|日本| ||慶長5年10月18日|<就任>丹羽氏次:三河伊保1万石/入封、伊保藩が誕生/以後[
慶長6年3月]氏信(-寛永15年美濃岩村へ)
1600年11月28日-09:00|日本| ||慶長5年10月23日|加藤清正が小西行長の家臣・小西行景の守る宇土城を開城さ
せる
1600年12月3日-09:00|日本| ||慶長5年10月28日|<改易>斎村政広:但馬竹田2万2千石/自刃を命ぜられ所領没収
1600年12月4日-01:00|オランダ/フィリピン| |||マリベレスの海戦でオランダがフィリピン攻撃を開始
1600年12月6日-09:00|日本| ||慶長5年11月|<移封>稲葉貞道:美濃国郡上八幡城→臼杵5万60石
1600年12月6日-09:00|日本| ||慶長5年11月|<加増移封>保科正光:下総多古1万石→信濃高遠2万5千石/次に正
1600迄(3010件)
之(徳川秀忠の四男)が嗣ぐ(-寛永13年出羽山形へ)
1600年12月6日-09:00|日本| ||慶長5年11月|<加増移封>堀尾忠氏:遠江浜松12万石→出雲富田24万石
1600年12月6日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・弘定1年11月|大越後黎朝5代・敬宗が弘定と改元(~1619年旧5月)
1600年12月7日-09:00|日本| ||慶長5年11月2日|<分封>吉川広家:周防岩国(玖珂郡一円)37129石/以後広正(6万
石)、広嘉、広紀、広逵、経永、経倫、経忠、経賢、経禮、経章、経幹、経健と続く(-明治4年)
1600年12月7日-09:00|日本| ||慶長5年11月2日|<分封>毛利秀元:長門長府47,802石(長州藩)/毛利輝元より分
与/後高直し6万石/以後光広、綱元、元朝、元矩と続く(-享保3年無嗣断絶)
1600年12月8日-09:00|日本| ||慶長5年11月3日|<改易>立花宗茂:筑後柳川132200石/加藤清正の開城勧告を受
け入れ、筑後柳河城を明け渡す/廃絶
1600年12月22日-09:00|日本| ||慶長5年11月17日|<加増>阿部正次:武蔵鳩ヶ谷5千石+相模一宮5千石加増→1万
石(-元和3年上総大多喜へ)
1600年12月23日-09:00|日本| ||慶長5年11月18日|<加増移封>加藤嘉明:伊予松前(正木)10万石→伊予松山20万
石(-寛永4年陸奥会津若松へ)
1600年12月23日-09:00|日本| ||慶長5年11月18日|<加増移封>藤堂高虎:伊予大洲8万3千石→伊予国分20万石(慶長9年伊予今治へ)/今張の地をを今治と改名
1600年12月23日-09:00|日本| ||慶長5年11月18日|<改易>小野木重勝:丹波福知山3万1千石/関ヶ原西軍参加/丹
波亀山寿仙院で自刃/廃絶
1600年12月24日-09:00|日本| ||慶長5年11月19日|長宗我部遺臣、土佐でお家再興のために一揆を起こす土佐浦
戸一揆
1600年12月31日 00:00|イギリス/インド| |||イギリス東インド会社を設立