1601年

1700迄(4525件)
1601年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第2代スルタン、マス・ジョラン(~1613)即位
1601年-03:00|バーレーン/イラン| |||サファビー朝がバフライン島を併合
1601年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ラドゥー9世ミーニア(~1602年)
1601年-01:00|ドイツ| |||<就任>シャウエンブルク伯・ホルシュタイン=ピンネベルク伯エルンスト(~1622年)1619年よりシャウムブルク侯
1601年-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがスマトラ北部のアチェに商館を設置
1601年 00:00|イギリス| |||イギリスで救貧法が制定
1601年 00:00|イギリス| |||シェイクスピアが戯曲「ハムレット」を完成
1601年 06:00|コスタリカ| |||コスタリカでカルタゴと太平洋岸のチリキ間の道路が開通
1601年1月-05:30|インド| |||ムガル帝国のアクバルがカーンデーシュ地方を併合
1601年1月9日-09:00|日本| ||慶長5年12月05日|<加増移封>有馬豊氏:遠江横須賀3万石→丹波福知山6万石(-元
和6年筑後久留米へ)
1601年1月9日-09:00|日本| ||慶長5年12月5日|国主交替に反対する長宗我部旧臣らによって起こされた土佐浦
戸一揆が平定
1601年1月16日-09:00|日本| ||慶長5年12月12日|真田信之:今までの沼田2万7千石に父の遺領上田3万8千石と
加増3万石→信濃上田95千石(-元和8年信濃松代へ)
1601年1月17日-01:00|イタリア| |||サヴォイア公カルロ・エマヌエーレと仏王アンリ4世との間でリヨン条約/サヴォイア、サルッツォ侯国を併合、
代わりにローヌ川左岸をフランスに
1601年1月17日-09:00|日本| ||慶長5年12月13日|<加増移封>(松平)大須賀忠政(榊原康政の長男)上総久留里3
万石→遠江横須賀5万5千石/次に忠次が嗣ぐ(-元和1年榊原家を相続し、除封・廃絶)
1601年1月17日-09:00|日本| ||慶長5年12月13日|<改易>真田昌幸:信濃上田城主3万8千石/関ヶ原西軍参加によ
り廃絶/九度山に幽閉
1601年2月1日-09:00|日本| ||慶長5年12月28日|<加増移封>結城秀康(徳川家康の二男):下総結城10万1000石⇒
越前北荘68万石(のち福井)/松平姓を名乗る/次に忠直が嗣ぐ(-元和9年豊後に配流)
1601年2月3日-08:00|中国| ||明・万暦29年|ヌルハチが八旗制度を創設/女直を統一する過程で女直固有の社会組織
を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成
1601年2月3日-09:00|日本| ||慶長6年1月|(桜井)松平忠頼:武蔵松山2万5千石(廃城)→遠江浜松5万石/加増移
封(-慶長14年所領没収)
1601年2月3日-09:00|日本| ||慶長6年1月|<移封>本多忠勝:上総大多喜→伊勢桑名10万石/次に忠政(-元和3年
播磨姫路へ)
1601年2月3日-09:00|日本| ||慶長6年1月|<加増移封>松平家乗:上野那波1万石→美濃岩村2万石/次に乗寿が嗣
ぐ(-寛永15年遠江浜松へ)
1601年2月3日-09:00|日本| ||慶長6年1月|<拝領>本多忠朝:上総大多喜5万石
1601年2月3日-09:00|日本| ||慶長6年1月|遠江新居関所創設
1601年2月4日-09:00|日本| ||慶長6年1月2日|徳川家康が東海道伝馬制を制定
1601年2月10日-09:00|日本| ||慶長6年1月08日|<加増移封>山内一豊:遠江掛川68、600石→土佐浦戸202、600石(
-慶長8年土佐高知へ)
1601年2月18日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月8日|イギリスでエセックスの反乱が起こる
1601年2月20日-09:00|日本| ||慶長6年1月18日|<加増移封>有馬則頼:播磨三木1万石→摂津三田3万石(-慶長7
年嫡子豊氏領に吸収)
1601年2月23日-09:00|日本| ||慶長6年1月21日|<改易>小野寺義道:出羽横手3万1600石/関ヶ原西軍参加により
弟康道(大森城主)とともに石州津和野に流罪廃絶
1601年2月24日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティーノ・ドリア(~16030225)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<移封>松平忠利:下総小見川1万石→三河深溝1万石(-慶長17年三河
吉田へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増>内藤清成:常陸・上総・下総国内1万6000石加増⇒常陸・下総・上
総・相模4国内2万1千石
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>(松平)久松定勝:伊勢長島2万7千石→遠江掛川3万石/次
に定行が嗣ぐ(-元和3年伊勢桑名へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>(松平)戸田康長:武蔵東方1万石→上野白井2万石(-慶長7
年下総古河へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>(松平)竹谷家清:武蔵八幡山1万石→三河吉田3万石/次に
忠清が嗣ぐ(-慶長17年無嗣断絶)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>(松平)藤井信一:下総布川5千石→常陸土浦35千石/次に
信吉(4万石)が嗣ぐ(-元和3年上野高崎へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>戸田一西:武蔵国内5千石→近江大津3万石(-慶長7年近江
膳所へ)/次に氏鉄が嗣ぐ(-元和3年摂津尼崎へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>酒井忠世:武蔵川越5千石⇒上野那波1万石(後42千石加増
52千石)(-元和3年相続して上野前橋へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>小笠原秀政:下総古河2万石→信濃飯田5万石(-慶長18年
信濃松本へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>青山忠成:不明7千石→上総・下総ノ内18千石
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>石川康通:上総鳴戸2万石→美濃大垣5万石/以後家成、忠
1700迄(4525件)
総と続く(-元和2年豊後日田へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>大久保忠佐:上総茂原5千石→駿河沼津2万石(-慶長18年
無嗣断絶)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>天野康景:武蔵ノ内5千石→駿河興国寺1万石(-慶長12年
領民を殺害したとして蟄居、改易)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>内藤信成:伊豆韮山1万石→駿河府中4万石(-慶長11年近
江長浜へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>平岩親吉:上野厩橋33千石→甲斐府中63千石
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>片桐且元:摂津茨木1万2千石→大和竜田2万8千石/以後孝
利、為元(1万石絶家のところ領地を減らされて相続)、為次と続く(-明暦1年無嗣断絶)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>本多康重:上野白井2万石→三河岡崎5万石/以後[慶長16
年3月]康紀[元和9年11月]忠利(55千石)、利長と続く(-正保2年遠江横須賀へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<加増移封>本多康俊:下総小笹5千石→三河西尾2万石(-元和3年近江
膳所へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<再封>別所吉治:丹波綾部2万石(-寛永5年遊猟にふけり参勤せずと
して改易旗本に降格)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<拝領>稲垣長茂:上野伊勢崎1万石/次に重綱が嗣ぐ(-元和2年越後藤
井へ)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<拝領>浅野長重(浅野長政三男):下野真岡(芳賀城)2万石(-慶長16年
常陸真壁[父の隠居領]を相続)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<拝領>鳥居成次:甲斐谷村1万8千石/次に忠房が嗣ぐ(-寛永9年駿河
大納言忠長の改易に伴い、除封)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|<拝領>片桐貞隆:大和小泉16490石/次に貞昌(弟貞晴に3千石分知134
88石)、貞房(庶兄下条信隆に1千石分知、1350石召上11129石)、貞起、貞音、貞芳、貞彰、貞信、貞中、貞照、貞篤と続
く(-明治4年)
1601年3月5日-09:00|日本| ||慶長6年2月|家康が中山道に伝馬の制度を設けた
1601年3月6日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1601/2/24|英軍人エセックス蜂起を企てて失敗し斬首[1566年11月19日生~]
(享年34)
1601年3月10日-09:00|日本| ||慶長6年2月06日|<加増移封>奥平信昌:上野小幡3万石→美濃加納10万石(-慶長7
年所領は菅沼家に養子に行った忠政が継いだ)
1601年3月10日-09:00|日本| ||慶長6年2月06日|<相続>奥平家昌:上野小幡藩3万石(群馬県甘楽郡)
1601年3月21日-09:00|日本| ||慶長6年2月17日|<改易>多賀谷重経:常陸下妻6万石/関ヶ原の役で西軍に与し、
武蔵府中へ逃亡/所領を没収のうえ追放
1601年4月-05:30|インド| |||ムガル帝国の皇子サリームがアクバルに反抗しはじめる
1601年4月 00:00|イギリス| |||イギリス東インド会社がランカスター艦隊をアジアに派遣
1601年4月3日-09:00|日本| ||慶長6年3月|<移封>木下家定:播磨姫路2万5千石→備中足守2万5千石/次に勝俊が
嗣ぐ(-慶長14年領地収公、一時廃藩)
1601年4月3日-09:00|日本| ||慶長6年3月|<加増移封>戸田尊次:伊豆下田5千石→三河田原1万石/以後[元和1年
7月]忠能[正保4年8月]忠治(-寛文4年天草富岡へ)
1601年4月3日-09:00|日本| ||慶長6年3月|<加増移封>竹中重利:豊後高田1万石→豊後府内2万石/次に重義が嗣
ぐ(-寛永11年長崎奉行在任中の奸曲を問われて所領収公、切腹)
1601年4月3日-09:00|日本| ||慶長6年3月|東海道五十三駅を設定
1601年4月3日-09:00|日本| ||慶長6年3月1日|山内一豊が、桂浜で相撲興行を行って観衆の中から長宗我部の遺
臣で浦戸一揆の関係者73名を見つけて捕らえ、種崎で磔にする
1601年4月5日-09:00|日本| ||慶長6年3月3日|<加増移封>酒井重忠:武蔵川越1万石→上野厩橋3万3千石/以後忠
世(9万石加増122500石)、忠行(152500石)、忠清(15万石)、忠挙、忠相、親愛、親本、忠恭と続く(-寛延2年播磨姫路
へ)
1601年4月5日-09:00|日本| ||慶長6年3月03日|<加増移封>酒井忠利:武蔵川越ノ内3千石→駿河田中1万石(-慶
長11年武蔵川越へ)
1601年4月7日-09:00|日本| ||慶長6年3月05日|<加増>陸奥岩出山藩60万石(藩主:伊達政宗)徳川家康より近江
国内5千石→60万5千石
1601年4月7日-09:00|日本| ||慶長6年3月5日|鳥養道晰が、金春流謡本を朝廷に献上する(仮名まじり国文学書
のはじめ)
1601年5月3日-09:00|日本| ||慶長6年4月|<移封>毛利高政:豊後日田2万石→豊後佐伯2万石/以後高成、高直、高
重、高久、高慶、高丘、高標、高誠、高翰、高泰、高謙と続く(-明治4年)
1601年5月3日-09:00|日本| ||慶長6年4月|<加増移封>山崎家盛:摂津三田2万3千石→因幡若桜3万石
1601年5月3日-09:00|日本| ||慶長6年4月|<加増移封>木下延俊:播磨ノ内2万石→豊後日出3万石/以後俊治(弟
延次に5千石分知25千石)、俊長、俊量、俊在、長保、長監、俊能、俊泰、俊胤、俊懋、俊良、俊敦、俊方、俊程、俊愿と続
く(-明治4年)
1601年5月3日-09:00|日本| ||慶長6年4月|<拝領>水野分長:尾張緒川1万石(慶長11年三河新城へ)
1601年5月26日-09:00|日本| ||慶長6年4月24日|南部勢が岩崎城を落城させる
1601年5月28日-09:00|日本| ||慶長6年4月26日|上杉家の家臣・本庄繁長、伊達政宗軍を破る
1700迄(4525件)
1601年6月1日-09:00|日本| ||慶長6年5月|徳川家康、伏見に銀座を置き金銀貨を鋳造する
1601年6月24日-09:00|日本| ||慶長6年5月24日|伊達政宗の支援を受けて領地復興を画策していた和賀忠親が
南部利直に敗れて自害
1601年6月30日-09:00|日本| ||慶長6年6月|<加増移封>菅沼定仍:上野阿保1万石→伊勢長島2万石/次に定芳が
嗣ぐ(-元和7年近江膳所へ)
1601年6月30日-09:00|日本| ||慶長6年6月|<分封>山内康豊:土佐中村2万石/次に政豊が嗣ぐ(-寛永6年無嗣断
絶)
1601年6月30日-09:00|日本| ||慶長6年6月|徳川家康が大津城を廃し藤堂高虎に命じ膳所城築城開始/滋賀県
1601年6月30日-09:00|日本| ||慶長6年6月1日|幕府、佐渡の金山を直営にする
1601年7月5日-08:00|中国| ||明・万暦29年6月6日|蘇州で織工たちが反税闘争に立ち上がる(織傭の変)
1601年7月13日-09:00|日本| ||慶長6年6月14日|<改易>松平家広:武蔵松山1万石/発狂自刃/廃絶
1601年7月13日-09:00|日本| ||慶長6年6月14日|<減移封>日野根吉明:信濃高島2万8千石→下野壬生1万9百石/
幼少のため
1601年7月23日-09:00|日本| ||慶長6年6月24日|家康が江戸城中に富士見亭文庫を設立して金沢文庫の書籍を
移し、目録作成を命じる
1601年8月13日-09:00|日本| ||慶長6年7月15日|鶴子鉱山の山師たちが佐渡相川金山発見/新潟県
1601年8月28日-09:00|日本| ||慶長6年8月|<改易>山川朝信:下総山川2万石/廃絶
1601年9月12日-09:00|日本| ||慶長6年8月16日|<改易>直江兼続(上杉家家臣):出羽米沢24万5700石/関ヶ原西
軍参加により没収
1601年9月12日-09:00|日本| ||慶長6年8月16日|<減移封>上杉景勝:陸奥会津若松120万石→出羽米沢30万石/関
ヶ原西軍参加により/以後定勝、綱勝、綱憲(15万石元)、吉憲、宗憲、宗房、重定、治憲、治広、斉定、斉憲、茂憲(14万
石)と続く(-明治4年)
1601年9月13日-09:00|日本| ||慶長6年8月17日|<加増>最上義光:出羽山形24万石→出羽山形57万石/庄内・由利
33万石を加増/以後家親、義俊と続く(-元和8年改易、近江大森へ)
1601年9月21日-09:00|日本| ||慶長6年8月25日|<加増移封>蒲生秀行:下野宇都宮18万石→陸奥会津60万石/次
に忠郷が嗣ぐ(-寛永4年無嗣断絶)
1601年9月26日-09:00|日本| ||慶長6年9月|<移封>来島長親(康親):伊予来島1万4千石→豊後森1万4千石/以後
通春、通清(弟2人に計1500石を分知12500石)、通政、光通、通祐、通同、通嘉、通容、通明、通胤、通靖と続く(-明治4
年)
1601年9月26日-09:00|日本| ||慶長6年9月|<拝領>秋元長朝:上野総社15千石/次に泰朝が嗣ぐ(-寛永10年甲斐
谷村へ)
1601年10月23日-09:00|日本| ||慶長6年9月28日|家康が京都に所司代を置き、板倉勝重を任命/西国諸大名の監
視、浪人の取締まりが主な狙い
1601年10月24日-01:00|デンマーク| |||デンマークの天文学者ティコ・ブラーエ没/54歳(誕生:15461214)/膨大な観測記録を残
し、弟子のケプラーの理論に寄与した
1601年10月26日-09:00|日本| ||慶長6年10月|家康耶蘇教を禁ず
1601年10月26日-09:00|日本| ||慶長6年10月|家康、朱印船貿易を制度化
1601年11月-01:00|スペイン/フィリピン| |||フィリピンでイゴロト族がスペイン支配に対して反乱
1601年11月6日-09:00|日本| ||慶長6年10月12日|<移封>諏訪頼水:上野総社→信濃高島32千石/以後忠恒、忠晴、
忠虎、忠林、忠厚(3万石)、忠粛、忠恕、忠誠、忠礼と続く(-明治4年)
1601年11月25日-09:00|日本| ||慶長6年11月|<加増移封>一柳直盛:尾張黒田3万5千石→伊勢神戸5万石(-寛永1
3年伊予西条へ)
1601年11月25日-09:00|日本| ||慶長6年11月|<拝領>大久保忠常:武蔵騎西2万石/次に忠職が嗣ぐ(-寛永9年美
濃加納へ)
1601年11月29日-09:00|日本| ||慶長6年11月5日|青山忠成:老中就任(-慶長18年7月20日)
1601年12月15日-09:00|日本| ||慶長6年11月21日|<分封>藤堂高虎が家臣渡辺勘兵衛に喜多・浮穴・宇和・周布・
桑村・新居郡のうち2万石を与える
1601年12月26日-09:00|日本| ||慶長6年閏11月2日|秀頼、四天王寺を再建
1602年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第12代ハン:アラブ・ムハンマド1世[ハージー・ムハンマドの子](~1623年)
1602年-05:00|ウズベキスタン/イラン| |||サファビー朝軍がブハラでウズベク軍に敗北
1602年-02:00|ルーマニア| |||<再位>ワラキア公シミオン・モヴィル(2度目)⇒同年<即位>ワラキア公(バサラブ=モヴィル朝)ラドゥー10世(~1
610年)
1602年-01:00|デンマーク/アイスランド| |||デンマークがアイスランド貿易の独占制度を制度化
1602年 00:00|イギリス| |||シェイクスピアが「ハムレット」を完成
1602年 05:00|ペルー| |||ビルカバンバでフランシスコ・チチマのひきいるインディオの反乱
1602年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>カナダ副王アイマール・ド・シャステ(~1603年)
1602年1月23日-08:00|中国| ||明・万暦30年|マテオ・リッチが明朝の高官・李子藻の助力により「坤輿万国全図」を刊
1602年1月23日-09:00|日本| ||慶長6年12月|内藤清成:老中就任(-慶長11年1月25日)
1602年1月27日-09:00|日本| ||慶長6年12月5日|家康が青山忠成、内藤清成を江戸町奉行に任命し、関東総奉行
を兼務させる
1602年2月7日-09:00|日本| ||慶長6年12月16日|上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津
波あり。人畜死亡多数
1700迄(4525件)
1602年2月19日-09:00|日本| ||慶長6年12月28日|<加増移封>奥平家昌:上野小幡3万石→下野宇都宮10万石(-慶
長19年)/移封/次に忠昌が相続
1602年2月22日-09:00|日本| ||慶長7年|堀親良:越後蔵王4万石/隠居し家督を鶴千代に譲った/1万石を族臣の
近藤重勝に分封し、残る3万石を領
1602年3月20日-01:00|オランダ/インド| |||ネーデルラント諸州は連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進
出
1602年3月24日-09:00|日本| ||慶長7年2月|本願寺光寿、東本願寺を建立/本来の本願寺は西本願寺に
1602年3月24日-09:00|日本| ||慶長7年2月1日|老中井伊直政、没/42歳(誕生:永禄4(1561)0209)/徳川四天王の
一人
1602年6月1日-09:00|日本| ||慶長7年4月11日|<所領安堵>島津家久:薩摩(鹿児島城)72万8700石/以後光久、綱
貴、吉貴、継豊、宗信、重年、重豪、斉宣、斉興、斉彬、忠義と続く(-明治4年)
1602年6月3日-09:00|日本| ||慶長7年4月13日|美濃国に洪水が襲い、人馬が多数死亡
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|<移封>前田茂勝(前田玄以の次男):丹波亀山5万石→丹波八上5万石
(-慶長13年狂気を理由に改易)
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|<加増>根津信政:上野豊岡(根津)5000 石加増⇒1万石/次に吉直が
嗣ぐ(-寛永3年継嗣なく断絶)
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|<加増>西尾吉次:美濃に7000石を加増⇒武蔵原市1万2千石/以後忠
永が嗣ぐ(-元和2年上野白井へ)
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|<加増>大田原晴清:下野大田原:7900石→12400石/以後政清、高清(
弟為清に1千石分与)、典清、純清、清信、扶清、友清、庸清、光清、愛清、広清、富清、勝清と続く(-明治4年)
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|<加増移封>三浦重成:下総佐倉1万石→近江ノ内13千石
1602年6月20日-09:00|日本| ||慶長7年5月|最上義光が由利郡一円を拝領
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<移封>(松平)戸田康長:上野白井2万石→下総古河2万石(-慶長1
7年常陸笠間へ)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<移封>戸沢政盛:出羽角館4万石→常陸松岡4万石(-元和8年出羽
新庄へ)、角館の地は久保田藩に編入
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<加増移封>(松平)松井康重:武蔵騎西2万石→常陸笠間3万石(慶長13年丹波篠山へ)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<加増移封>(松平)武田信吉(徳川家康の五男):下総佐倉4万石→
常陸水戸15万石(-慶長8年無嗣絶家)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<加増移封>六郷政乗:出羽仙北5千石→常陸府中1万石(-元和9年
出羽本庄へ)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月08日|<改易>蘆名義広:常陸江戸崎4万5000石所領を没収(関ヶ原の戦
いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<減移封>(秋田)安藤実季:出羽秋田城主19万石→常陸宍戸5万石
/関ヶ原西軍参加による/次に俊季が嗣ぐ(-正保2年陸奥三春へ)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月08日|<減移封>佐竹義宣:常陸水戸54万5800石→出羽秋田(久保田城)
20万5800石/以後義隆、義処、義格、義峯、義真、義明、義敦、義和、義厚、義睦、義堯と続く(-明治2年)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<所領安堵>土岐定義:下総守谷1万石
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<拝領>山口重政:武蔵5千石、常陸牛久1万石(-慶長18年大久保忠
隣の失脚に伴って改易)
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<拝領>松平(藤井)信一:土浦3万5000石、立藩/次に信吉が継ぐ
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<拝領>水谷勝俊:下館2万5千石
1602年6月27日-09:00|日本| ||慶長7年5月8日|<分封>芦名義広:兄義宣とともに出羽秋田に移り、角館1万6千石
を領す/れ龍ヶ崎城廃城、龍ヶ崎は江戸幕府直轄領となる
1602年7月1日-09:00|日本| ||慶長7年5月12日|<改易>相馬利胤:陸奥牛越4万9234石/佐竹氏の転封に伴い廃絶/
後に牛越に復活
1602年7月31日-01:00|フランス| |||アンリ4世が、ビロン公を陰謀の罪で処刑
1602年8月11日-09:00|日本| ||慶長7年6月24日|家康が、江戸城中に富士見亭文庫を設立して金沢文庫の書籍を
移し、目録の作成を命じる
1602年8月17日-09:00|日本| ||慶長7年7月|<加増移封>土屋忠直:相模ノ内1千石→上総久留里2万石/以後利直、
直樹(頼直)と続く(-延宝7年改易・蟄居)
1602年8月17日-09:00|日本| ||慶長7年7月|佐竹氏の旧臣が一揆を起こして水戸城を奪おうとするが鎮圧され
る
1602年9月12日-09:00|日本| ||慶長7年7月27日|<加増転封>鳥居忠政:下総矢作4万石→陸奥磐城平10万石(-元
和8年出羽山形へ)矢作藩は廃藩
1602年9月12日-09:00|日本| ||慶長7年7月27日|<改易>岩城貞隆:陸奥磐城平12万石/関ヶ原西軍参加により廃
絶/後に川中島1万石
1602年9月13日-09:00|日本| ||慶長7年7月28日|<加増>有馬豊氏:丹波福知山/摂津三田領8万石
1602年10月15日-09:00|日本| ||慶長7年9月|<加増移封>(松平)奥平忠明:上野長根7千石→三河亀山17千石(-慶
長15年伊勢亀山へ)
1602年10月15日-08:00|中国| ||明・万暦30年9月|景徳鎮で反税暴動がおこる
1700迄(4525件)
1602年11月14日-09:00|日本| ||慶長7年10月|<所領安堵>相馬密胤(利胤)の訴えが聞き届けられ旧領陸奥牛越4
万9234石安堵
1602年12月1日-09:00|日本| ||慶長7年10月18日|<改易>小早川秀秋:備前岡山51万石/無嗣廃絶
1602年12月14日-09:00|日本| ||慶長7年11月|細川忠興:中津→小倉/藩庁を小倉城に移し改称/次に忠利が嗣ぐ
(-寛永9年肥後熊本へ)
1603年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王バロム・リアチア4世(~1618年)
1603年-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)ザ・デンゲル(~16041004)
1603年-01:00|ドイツ| |||<就任>オルデンブルク伯(オルデンブルク家)アントン・ギュンター(~1667年)
1603年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=ギュストロー系)カール1世[アルブレヒト7世の息子、ヨハン・アルブレヒト1世お
よびアドルフ・フリードリヒ1世の後見人](~1610年)
1603年 00:00|モロッコ| |||<即位>サアド朝アブー・ファリーズ・アブドゥッラー(~1608年)
1603年 00:00|モロッコ| |||<即位>マラケシュ政権ムーラーイ・ズィダン・アブー・マーリ(~1627年)
1603年1月6日-02:00|トルコ| |||イスタンブールで、ゾルバ反乱が起こる
1603年1月10日-01:00|スペイン/フィリピン| |||マニラで華僑が反乱をおこし、スペイン軍が虐殺
1603年1月10日-09:00|日本| ||慶長7年11月28日|<加増移封>松平忠輝(徳川家康の六男):武蔵深谷1万石→下総
佐倉5万石(-慶長8年信濃川中島へ)
1603年1月15日-09:00|日本| ||慶長7年12月4日|方広寺大仏殿焼失
1603年1月24日-09:00|日本| ||慶長7年12月13日|最上義光が由利郡仁賀保国替のため百姓一揆が起こり、家臣
の秋保出雲が槍兵13人を率いてこれを鎮圧
1603年2月8日-09:00|日本| ||慶長7年12月28日|<加増移封>土井利勝:不明1、500石→下総小見川1万石(-慶長15
年下総佐倉へ)
1603年2月8日-09:00|日本| ||慶長7年12月28日|<減移封>日根野吉明:信濃高島2万8千石→下野壬生1万900石/
幼少のため減封
1603年2月11日-09:00|日本| ||慶長8年|この年、「日葡辞書」長崎で刊
1603年2月11日-09:00|日本| ||慶長8年|藤田信吉(重信):下野西方15千石(-元和2年)
1603年2月26日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ピエトロ・ド・フランキ(~16050227)
1603年3月10日-09:00|日本| ||慶長8年1月28日|徳川義直(家康九男):甲斐甲府25万石/拝領(-慶長12年尾張清
洲へ)
1603年3月13日-09:00|日本| ||慶長8年2月|<減移封>松下重綱:遠江久能→常陸小張16千石(-元和9年下野烏山
へ)無断で城の石垣を築いた罪科により
1603年3月13日-09:00|日本| ||慶長8年2月|<拝領>蒔田広定:備中国賀陽・窪屋、河内国大県、山城国久世、摂津国
豊島・八部1万石を与えられ、備中浅尾に陣屋を構え立藩/次に定正(11316石)が嗣ぐ
1603年3月13日-09:00|日本| ||慶長8年2月|<拝領>青山忠俊:常陸江戸崎1万石(-慶長15年下野国内へ)
1603年3月13日-09:00|日本| ||慶長8年2月|<拝領>丹羽光重:常陸古河1万石
1603年3月13日-09:00|日本| ||慶長8年2月|池田忠継:備前岡山38万石/拝領/以後忠雄、光仲と続く(-寛永9年因
幡鳥取へ)
1603年3月18日-09:00|日本| ||慶長8年2月6日|<加増移封>松平忠輝(徳川家康の六男):下総佐倉5万石→信濃松
代14万石(-慶長10年越後福島へ/所領は元和2年まで)佐倉は幕府領となる
1603年3月18日-09:00|日本| ||慶長8年2月6日|<加増移封>森忠政:信濃松代13万7千5百石→美作津山18万6500
石/以後長継、長武、長成と続く(-元禄10年無嗣改易)
1603年3月18日-09:00|日本| ||慶長8年2月6日|<拝領>皆川広照:信濃飯山4万石/付家老(-慶長14年)
1603年3月24日-09:00|日本| ||慶長8年2月12日|京都知恩院造営
1603年3月24日-09:00|日本| ||慶長8年2月12日|徳川家康(62)が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く/直轄
江戸800万石~慶長10年4月16日
1603年3月31日-09:00|日本| ||慶長8年2月19日|酉刻日蝕/赤色/亥刻月蝕/両蝕同日にあり
1603年4月3日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1603/3/24|<死去>イングランド王エリザベス1世が国民敬愛のうちに/69歳(誕
生:15330907)
1603年4月3日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1603/3/24|<即位>イングランド王国国王(ステュアート家)ジェームズ1世[ヘンリー・ステュアー
トとメアリー・ステュアートの男子](~16250327死去58歳)
1603年4月9日 00:00|アイルランド/イギリス| |||アイルランドで反乱に加わったアルスター地方の族長ヒュー・オニールが降伏/イギリスのア
イルランド征服が完成
1603年4月14日-09:00|日本| ||慶長8年3月3日|江戸日本橋が開通
1603年4月14日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦31年3月4日|朝鮮が鴨緑江で中国との交易を再開
1603年5月2日-09:00|日本| ||慶長8年3月21日|二条城が完成し、徳川家康が伏見城から移る
1603年5月8日-09:00|日本| |||幕府が郷村掟を定め、逃散農民の帰村・直訴などについて定める
1603年5月11日-09:00|日本| ||慶長8年4月|出雲の阿国が京都北野で,男装をして茶屋女と戯れる「かぶき踊」を
始めた(阿国歌舞伎の初見)
1603年5月24日-09:00|日本| ||慶長8年4月14日|陸奥岩出山藩60万5000石(藩主:伊達政宗)居城を岩出山城から
仙台城に移し陸奥仙台藩60万5千石(後62万石)/以後忠宗、綱宗、綱村、吉村、宗村、重村、斉村、周宗、斉宗、斉義、
斉邦、慶邦、宗基(28万石に減)、宗敦と続く(-明治4年)
1603年6月20日-01:00|フランス| |||パリのセーヌ川の石橋ポン・ヌフが完成する(最古の石橋)/国王アンリ4世が渡り初めを行
う
1700迄(4525件)
1603年6月22日-01:00|フランス/カナダ| |||シャンブランがケベックに上陸し、ノバスコシア植民地を建設
1603年7月9日-09:00|日本| ||慶長8年6月|幕府が市中の賭博を禁止
1603年9月6日-09:00|日本| ||慶長8年8月|山内一豊:土佐浦戸→土佐高知20万2600石/以後忠義、忠豊、豊昌、豊
房、豊隆、豊常、豊敷、豊雍、豊策、豊興、豊資、豊熈、豊惇、豊信、豊範(-明治4年)
1603年10月5日-09:00|日本| ||慶長8年9月|幕府、芝に愛宕神社を創建
1603年10月15日-09:00|日本| ||慶長8年9月11日|<改易>武田信吉:常陸水戸15万石/無嗣廃絶
1603年10月21日-03:30|イラン/トルコ| |||アッバース1世の率いるサファヴィー朝軍が、オスマン帝国からタブリーズを奪い返す
1603年11月3日-09:00|日本| ||慶長8年10月|<拝領>島津以久:日向佐土原30070石/以後忠興、久雄、忠高、久寿、
惟久(27070石)、忠雅、久柄、忠持、忠徹、忠寛と続く(-明治4年)
1603年11月3日-09:00|日本| ||慶長8年10月|加藤嘉明、松山城を築く
1603年11月3日-09:00|日本| ||慶長8年10月|出羽仙北六郷で常陸に移封された六郷氏の遺臣と百姓が一揆を起
こす(六郷一揆
1603年11月27日-09:00|日本| ||慶長8年10月25日|<加増移封>立花宗茂:旗本5千石→陸奥棚倉1万石(後3万5百
石)(-元和6年筑後柳河へ)
1603年12月1日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1603/11/21|イギリスの物理学者・医学者ウイリアム・ギルバート没(15440524~)「
磁気学の父」
1603年12月3日-09:00|日本| ||慶長8年11月|<再拝領>滝川雄利:常陸片野2万石/次に正利が嗣ぐ(-寛永2年2千
石の旗本になった)
1603年12月3日-09:00|日本| ||慶長8年11月|<再拝領>丹羽長重(元加賀小松城主):常陸古渡1万石(-元和5年常
陸江戸崎へ)
1603年12月3日-09:00|日本| ||慶長8年11月|勢州山田奉行を設置
1603年12月9日-09:00|日本| ||慶長8年11月7日|<拝領>徳川頼宣(家康十男):常陸水戸20万石(-慶長14年遠江駿
府へ)
1603年12月21日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第14代ベイ:アフメト1世[アブドゥッラー1世の息子](~16171122死去)
1603年12月21日-09:00|日本| ||慶長8年11月19日|滝山一揆が起こる
1603年12月27日-09:00|日本| ||慶長8年11月25日|<加増>原康政:在京料として近江野洲郡、栗田郡、蒲生郡5千
石を加増
1604年-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王アリ・リアーヤット・シャー(~16070404死去)
1604年-05:30|スリランカ| |||<即位>カンディー王国(ディナラジャ家)セナラート(~1635年)
1604年-05:30|インド| |||インドで第5代グルのアルジュンによりシク教の基本教典「グラント・サーヒブ」編纂
1604年-04:00|ロシア| |||ロシア人がシベリア中央部にトムスクを建設
1604年-03:00|イラク| |||このころバグダッドでムハンマド・アッタウィールが台頭
1604年-02:00|シリア・アラブ| |||フサイン・パシャがアレッポ総督となる
1604年-01:00|スペイン/イギリス| |||イギリスとスペインがロンドン講和条約を締結
1604年-01:00|オランダ/ポルトガル/マレーシア| |||オランダ人がマラッカをポルトガルから奪取
1604年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王カール9世(-1611)
1604年-01:00|スペイン| |||セルバンテスが「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」を出版
1604年-01:00|デンマーク| |||デンマーク王クリスチャンセン4世がノルウェー法を制定
1604年-01:00|ハンガリー| |||ハンガリー貴族はシュテファン=ボチュカイに率いられ反ハプスブルクの蜂起
1604年-01:00|オランダ/ブラジル| |||フアン・ケーレンの指揮するオランダ船隊,バイアを攻撃
1604年 00:00|モロッコ| |||<即位>フェズ政権ムハンマド・エッシェイク・エル・マームーン(~1613年)
1604年 00:00|イギリス| |||イギリス東インド会社が第2回艦隊をアジアに派遣
1604年 05:00|キューバ| |||海賊ヒルベルト・ヒローン,サンチアゴ,ヤラ,マンサニージョの町を略奪/最後に黒人サルバドル・ゴロモンに捕ら
えられ殺害
1604年1月2日-09:00|日本| ||慶長8年12月|大久保長安:老中就任(-1613年4月25日)
1604年1月26日-09:00|日本| ||慶長8年12月25日|<加増>青山成重(服部平蔵正信の次男):下総飯田1万石/5000
石を加増(-慶長18年大久保長安の三男を養子にしていたかどで7千石没収)
1604年1月29日-09:00|日本| ||慶長8年12月28日|土井利勝が下総国小見川で1万石を受けて大名となる
1604年1月31日-09:00|日本| ||慶長9年|<分封>小出三尹:和泉陶器1万石/但馬出石藩主小出吉英から分封/以後
有棟、有重、重興と続く
1604年1月31日-09:00|日本| ||慶長9年|玄応和尚の開基により竹園山最勝寺、江戸城内紅葉山に創建/世田谷区
1604年1月31日-09:00|日本/タイ| |||徳川家康がアユタヤ朝向け商船に朱印状を下付し、朱印船貿易開始
1604年1月31日-08:00|中国| ||明・万暦32年|顧憲成・高攀竜らが無錫で東林書院を建設,在野の諸同志を糾合し
て講学活動を展開
1604年1月31日-08:00|中国| ||明・万暦32年|福建で呉権の率いる斎教反乱がおこる
1604年2月14日-09:00|日本| ||慶長9年1月15日|新庄直頼:摂津国から旧領の常陸麻生30300石に移封/以後直定
(弟直房に3千石分知27300石)、直好、直時、直矩(直時に7千石分知-延宝4年没後、継嗣筋違いにより改易)
1604年2月23日-09:00|日本| ||慶長9年1月24日|<拝領>近藤政成:越後蔵王堂の堀秀政の遺領1万石
1604年2月26日-09:00|日本| ||慶長9年1月27日|<就任>松前慶廣:蝦夷松前1万石格(-寛永18年)幕府が蝦夷地統
治の規定3か条を定めた黒印状を下し蝦夷地支配許可(無高)/以後公広、氏広、高広、矩広、邦広、資広、道広、章広
(-文化4年)
1604年3月1日-09:00|日本| ||慶長9年2月|滝山一揆(長宗我部旧家臣による反乱)鎮圧
1700迄(4525件)
1604年3月4日-09:00|日本| ||慶長9年2月4日|江戸・日本橋を基点に全国に一里塚を設ける
1604年3月22日-01:00|スウェーデン| |||<死去>スウェーデン王国国王(ヴァーサ家)カール9世(~16111030死去61歳)
1604年3月26日-09:00|日本| ||慶長9年2月26日|<就任>桑山一直:大和布施1万6千石/藩名を布施から新庄と改
称
1604年3月31日-09:00|日本| ||慶長9年3月|島津義弘,薩摩国で朝鮮人朴平意らに開窯させる
1604年4月19日-09:00|日本| ||慶長9年3月20日|黒田如水死去.59歳
1604年6月1日-09:00|日本| ||慶長9年5月3日|ポルトガル商人の暴利抑制のため輸入生糸を特定商人が一括購入し
て販売する糸割符制を導入
1604年6月27日-09:00|日本| ||慶長9年6月1日|毛利輝元が指月山上に萩城築城開始/山口県
1604年7月27日-09:00|日本| ||慶長9年7月|井伊直勝、近江国佐和山城から彦根城に移る
1604年8月12日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ツヴァイブリュッケン公(プファルツ=ツヴァイブリュッケン家)ヨハン2世(~16350809死
去)
1604年8月25日-09:00|日本| ||慶長9年8月|<拝領>平岡頼勝:美濃徳野1万石/次に頼資が嗣ぐ(-承応2年子の頼
重に相続が認められず改易/頼重は1千石の旗本になった)
1604年9月16日-09:00|日本| ||慶長9年8月23日|<改易>大島光義:美濃関1万8千石/97歳で没後、遺領は4子に分
封それぞれが旗本となったため、関藩は廃絶
1604年9月21日-09:00|日本| ||慶長9年8月28日|出羽土崎湊藩20万5810石(藩主:佐竹義宣)秋田城の完成により
秋田湊城より移る
1604年9月25日-01:00|オランダ/スペイン| |||ネーデルランドのオステンドがスペイン軍に侵略される
1604年10月4日-03:00|エチオピア| |||<復位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)ヤコブ(~1606年)
1604年10月9日-01:00|ドイツ| |||ヘビつかい座に超新星が出現、ケプラーが記録を残す
1604年10月14日-01:00|オーストリア/ハンガリー| |||イシュトヴァーン・ボチカイの対ハプスブルグ独立戦争が始まる
1604年10月23日-09:00|日本| ||慶長9年9月|<加増>徳川頼宣:常陸水戸藩20万石→25万石
1604年10月24日-09:00|日本| ||慶長9年9月|藤堂高虎:今治城(愛媛県)完成し伊予国府から移る/20万石(-慶長
13年伊勢安濃津へ)
1604年11月29日-01:00|モナコ| |||<即位>モナコ領主オノレ2世(後に初代モナコ大公~16620110)摂政ヴァルデタレ公フランシス・ランデ
ィ(~1616年)
1604年12月21日-09:00|日本| ||慶長9年11月|<移封>三宅康貞:武蔵瓶尻→三河衣1万石(桜城)/次に[元和1年]
康信(-元和5年伊勢亀山へ)
1604年12月31日-09:00|日本| ||慶長9年11月11日|築城途中の萩城へ輝元が入り、萩藩が成立
1605年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第9代スルタン:ハッサン(~1619年)
1605年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:ワリー・ムハンマド・ハーン[ジャーニー・ムハンマドの三男](~1611年)
1605年-02:00|エジプト/トルコ| |||オスマン朝エジプト総督イブラヒームが暗殺される
1605年-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首レオナルド・ドナ就任(-1612)
1605年-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがアンボイナのポルトガル城砦を占領し、以後香料を独占
1605年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがインドのマスリバタムに商館を設置
1605年 03:00|アルゼンチン/ウルグアイ| |||ブエノスアイレスのエルナンダリアス,ウルグアイに派兵.チャルーア族を討伐
1605年 06:00|グアテマラ| |||グアテマラの大西洋岸にプエルト・サント・トマス・カスティーリャが開港
1605年1月11日-01:00|スペイン| ||1月中旬|セルバンテスが「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」前篇を出版
1605年1月24日-09:00|日本| ||慶長9年12月6日|紀州、四国、西国で地震と津波。遠州舞坂で津波により80戸流出
。八丈島では民家悉く流出。50余人が死亡。上総では人馬数百が死す
1605年2月3日-09:00|日本| ||慶長9年12月16日|東海・南海・西海諸道地震/関東から九州までの太平洋岸に津波
、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害/水死者3800人
1605年2月7日-09:00|日本| ||慶長9年12月20日|<改易>山岡景友:常陸古渡1万石/無嗣除封
1605年2月7日-09:00|日本| ||慶長9年12月20日|<加増移封>酒井家次:下総臼井3万石→上野高崎5万石(-元和2
年越後高田へ)
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年|この年、幕府一分判金貨を鋳造
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年|安藤直次:老中就任(-1616年4月17日)
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年|江戸平川口の浄心寺を江戸城の用地の爲めに神田に移転
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年|東府屋旅館開業(静岡県伊豆市吉奈温泉)
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年|徳川家康の助成によって増上寺三解脱門・経蔵完成/東京都
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年1月|<拝領>本多忠純:下野榎本28千石/以後政遂、犬千代と続く(-寛永1
7年無嗣断絶)
1605年2月18日-09:00|日本| ||慶長10年1月|関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震
1605年3月1日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ルカ・グリマルディ(~16070302)
1605年3月5日-01:00|バチカン| |||230代ローマ教皇クレメンス8世死去/69歳(誕生:15360224)
1605年3月20日-09:00|日本| ||慶長10年2月|<加増>鳥居忠政:陸奥磐城平10万石+2万石→12万石
1605年3月20日-09:00|日本| ||慶長10年2月|会津の檜原山・石ケ森鉱山で金を産出
1605年3月20日-09:00|日本| ||慶長10年2月|養父郡のうち2800石対馬領となる
1605年4月7日-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第22代国王サンペット3世エーカートッサロット(~1610年)
1605年4月10日-01:00|バチカン| |||231代教皇レオ十一世(-1605年4月27日)
1605年4月18日-09:00|日本| ||慶長10年3月|日光山東照社造営
1700迄(4525件)
1605年4月23日-04:00|ロシア| ||ロシア暦4月13日|ロシア皇帝ボリス・ゴドゥノフ死去/51歳(誕生:1552)16歳の皇太子フョードル・
ゴドゥノフが即位
1605年4月25日-07:00|タイ| |||アユタヤ王朝21代サンペット2世ナレースワンの後を継いで22代サンペット3世エーカートッサロット即位(~161
0年)
1605年4月27日-01:00|バチカン| |||231代教皇レオ十一世[1535年06月02日生~](享年69)※即位後27日で死去
1605年5月18日-09:00|日本| ||慶長10年4月|本多正信:老中就任(~16160607)
1605年5月29日-01:00|バチカン| |||232代教皇パウロ五世(-1621年1月28日)
1605年6月2日-09:00|日本| ||慶長10年4月16日|徳川家康将軍職を秀忠に譲る/直轄江戸800万石(-元和9年7月2
7日)
1605年6月20日-04:00|ロシア| ||ロシア暦6月10日|フョードル2世が暗殺される。16歳(誕生:1589)。ロシア皇帝
1605年7月1日-04:00|ロシア| ||ロシア暦6月21日|モスクワの貴族や民衆に支持された偽ドミートリがロシア皇帝に即位(-1606)
1605年7月13日-08:00|中国| |||海南、瓊山地震/M7.5、死者3,300人
1605年7月27日-01:00|フランス/カナダ| |||フランスの海外植民開始、今日のカナダ・ノヴァスコシア州であるアカディア植民地にポート
・ロワイヤルが創設
1605年9月13日-09:00|日本| ||慶長10年8月|松前慶広、蝦夷地福山舘(北海道松前郡松前町字松城)が完成し、徳
山館より移
1605年9月22日-09:00|日本| ||慶長10年8月|この月、幕府、軍令十三ヵ条を制定
1605年9月22日-09:00|日本| ||慶長10年8月10日|幕府、殿中法度八ヵ条を制定
1605年10月15日-05:30|インド| |||<死去>ムガル帝国第3代皇帝アクバル大帝/62歳(誕生:15421123)
1605年10月15日-05:30|インド| |||<即位>ムガル帝国第4代パーディシャー:ジャハーンギール(~16271108死去58歳)
1605年11月-01:00|オランダ/オーストラリア| |||オランダのヤンスゾーンが初めてオーストラリアに到達
1605年11月1日-09:00|日本| ||慶長10年9月20日|山内一豊、没/60歳(誕生:天文15(1546))/土佐藩の租、高知城
主
1605年11月5日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王アナウペッルン[前王の息子](~16280709)
1605年11月25日-09:00|日本| ||慶長10年10月15日|<移封>菅沼定芳(定盈の6男):上野阿保1万石→伊勢長島2万
石
1605年12月16日-09:00|日本| ||慶長10年11月7日|徳川頼房(徳川家康の十一男):常陸下妻10万石/拝領(-慶長1
4年常陸水戸へ)
1605年12月26日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでドージェ、マリーノ・グリマーニ死去
1606年-04:00|ロシア| |||ロシアでイヴァン・ボロトニコフの農民反乱がおこる
1606年-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)スセニョス1世(~16320917)
1606年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィルスティ家)シミオン・モヴィル(~1607年)
1606年 05:00|キューバ| |||ハバナ,公式にキューバの首都に指名
1606年1月10日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第90代レオナルド・ドナ(~16120716)
1606年1月26日-09:00|日本| ||慶長10年12月18日|八丈島噴火。一夜にして大山が出現
1606年1月31日 00:00|イギリス| |||英上院を爆破し、王・両院議員を暗殺する火薬陰謀事件発覚(11/5)逮捕された
ガイ=ホークスら処刑
1606年2月7日-09:00|日本| ||慶長11年|この年、京都大徳寺龍光院本堂書院できる
1606年2月7日-09:00|日本| ||慶長11年|院内銀山が村山宗兵衛ほか3名によって発見され、佐竹藩直営として開
山/秋田県
1606年2月7日-09:00|日本| ||慶長11年|結城秀康が福井城完成(北ノ庄城)/福井県
1606年2月7日-09:00|日本| ||慶長11年|高台院が高台寺創建<臨済宗建仁寺派>/京都府
1606年2月7日-09:00|日本| ||慶長11年|池上本門寺此経難持坂完成(96段)加藤清正寄進/東京都
1606年2月25日-09:00|日本| ||慶長11年1月19日|三十三間堂で行われた通し矢で、尾張清洲藩松平家中の浅岡
重政が51筋射とおして、「天下一」の称号を家康より許可される
1606年3月3日-09:00|日本| ||慶長11年1月25日|青山忠成:老中解任
1606年3月3日-09:00|日本| ||慶長11年1月25日|内藤清成:老中解任
1606年3月12日-09:00|日本| ||慶長11年2月4日|<拝領>浅野長政:隠居料として常陸国真壁・筑波2郡の内5万石
1606年4月-01:00|スペイン/バヌアツ| |||スペインのキロス艦隊がニューヘブリディーズ諸島に到着
1606年4月10日-09:00|日本| ||慶長11年3月03日|徳川家康、伊達政宗に常陸国竜ヶ崎1万石を加増
1606年4月12日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1606/4/2|イギリスのジェイムス1世が勅状を出して、イングランドのセント・ジョージ・ク
ロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを組合わせた共通旗のユニオン・フラグと呼ばれるようになる旗を艦船が使用する
ように要請
1606年5月1日-09:00|日本| ||慶長11年3月24日|<移封>内藤信成(嶋田久右衛門景信の子):駿府府中→近江長浜
4万石/次に信正が嗣ぐ(-元和1年摂津高槻へ)
1606年5月7日-09:00|日本| ||慶長11年4月|宇喜多秀家、八丈島に流される
1606年5月7日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦34年4月|朝鮮が日本軍との戦火で焼失した「実録」を再印刷
1606年5月16日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでカプッチーニ教団とテアティーニ教団追放
1606年5月25日-09:00|日本| ||慶長11年4月19日|<死去>柳生石舟斎.78歳/新陰流の上泉信綱の弟子で、のちに
流派を継いで、柳生新陰流を創始した
1606年5月27日-04:00|ロシア| ||ロシア暦5月17日|偽ドミートリー帝グリーシカがモスクワの反乱市民に殺される/ヴァシーリイ4世が即
位(-1610)
1700迄(4525件)
1606年6月19日-09:00|日本| ||慶長11年5月14日|榊原康政:老中解任(病死.59歳)
1606年6月23日-01:00|オーストリア/ドイツ/ハンガリー| |||神聖ローマ皇帝が、ハンガリー貴族とウィーンの和約を結ぶ
1606年6月27日-09:00|日本| ||慶長11年5月22日|井伊直継(直勝):近江佐和山→近江彦根15万石/以後直孝(30
万石)、直澄、直興(直該)、直通、直恒、直興(直該)、直惟、直定、直ヨシ、直定、直幸、直中、直亮、直弼、直憲(20万石)と
続く(-明治4年)
1606年6月27日-09:00|日本| ||慶長11年5月22日|譜代井伊家の居城彦根城が完成
1606年7月22日-09:00|日本| ||慶長11年6月18日|<移封>水野分長:尾張小河1万石/廃藩→三河新城1万3千石/次
に[元和6年4月]元綱(-正保2年上野安中へ)
1606年7月26日-09:00|日本| ||慶長11年6月22日|徳川家康が富士山本宮浅間大社社殿竣工/静岡県
1606年7月28日-09:00|日本| ||慶長11年6月24日|豊臣秀頼が醍醐寺の如意輪堂・五大堂を再建
1606年9月-01:00|ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国王と貴族の紛争から、ゼブジドフスキの反乱がおこる
1606年9月3日-09:00|日本| ||慶長11年8月|<廃絶>堀鶴千代:越後蔵王堂3万石/早世し、嗣子なく堀家は廃絶
1606年9月3日-09:00|日本| ||慶長11年8月|角倉了以、私財を投じて大堰川(保津川<桂川上流部>)を開削
1606年9月3日-09:00|日本| ||慶長11年8月|松前氏の福山館(現松前町)が完成
1606年9月28日-09:00|日本| ||慶長11年8月26日|<減封>西尾吉次:武蔵原市1万2000石/無嗣廃絶7000石減封
1606年10月16日-09:00|日本| ||慶長11年9月15日|<加増>藤堂高虎:伊予今治20万石、江戸城増築企画の功によ
って備中国で二万石を加増→22万3千石
1606年10月22日-09:00|日本| ||慶長11年9月21日|豊臣秀頼が東寺(教王護国寺)金堂を再建し、落慶供養を行う
1606年10月24日-09:00|日本| ||慶長11年9月23日|江戸城増築完成
1606年10月26日-01:00|オーストリア/ハンガリー/トルコ| |||オスマン帝国とオーストリアが、ハンガリー領有の争いに関してシトヴァ・トロク条
約を結ぶ
1606年11月1日-09:00|日本| ||慶長11年10月01日|<就任>桑山清晴:祖父重晴遺領のうち1万石相続し、第2代谷
川藩主となっ
1606年11月1日-09:00|日本| ||慶長11年10月01日|<拝領>桑山元晴:大和御所藩1万石/父重晴遺領のうち6千石
1606年11月30日-09:00|日本| ||慶長11年11月|この月、幕府小姓組を創設
1606年12月-01:00|スペイン| |||スペイン人のトレスがトレス海峡(オーストラリア大陸とニューギニア島南岸間の海峡)を初めて通過
1606年12月29日-08:00|中国| ||明・万暦34年12月|明軍が遼東六堡より撤退し、ヌルハチ軍の勢力が強まる
1607年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国第12代イスカンダル・ムダ即位(~1636)
1607年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王チョーイ(~1608年)
1607年-07:00|タイ| |||ラーンナー王朝ノーヤターミンソーの後を継いでチョーイ即位(~1608年)
1607年-05:30|インド| |||ジャハーンギールがゴアへ使節を派遣
1607年-04:30|アフガニスタン/インド| |||ムガル軍がカンダハルを包囲したペルシア軍を撤退させる
1607年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:トクタミシュ・ギレイ(~1608年)
1607年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)ミハイル2世→同年<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴ
ィレスティ家)コンスタンチン1世→同年<再位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)ミハイル2世[2度目]→同年<即位>モルダヴィア王(ハ
゙サラブ=モヴィレスティ家)コンスタンチン・1世[2度目](~1611年)
1607年-02:00|トルコ| |||オスマン朝アフメト1世が兄弟殺し制度を廃止し、カフエス制に変更
1607年-01:00|フランス| |||<即位>オルレアン公(ブルボン家)ニコラ[フランス王アンリ4世次男]~16111117)
1607年 00:00|イギリス| |||イギリス東インド会社が第3回艦隊をアジアに派遣
1607年1月6日-09:00|日本| ||慶長11年12月8日|幕府が永楽銭を止め、慶長通宝を鋳造
1607年1月11日-09:00|日本| ||慶長11年12月13日|豊臣秀頼、生国魂神社を再建
1607年1月28日-09:00|日本| ||慶長12年|<拝領>稲葉正成(林政秀の次男):美濃十七条1万石/(-元和4年越後糸
魚川へ)
1607年1月28日-09:00|日本| ||慶長12年|<拝領>本多正純:下野小山53千石(-元和5年下野宇都宮へ)
1607年1月28日-09:00|日本| ||慶長12年|美濃国林丹波守が畠山神社多宝塔完成(→ユネスコ村へ移築)/大阪府
1607年3月3日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:シルヴェストロ・インヴレア(~3.17)
1607年3月22日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジェローラモ・アセレト(~16090323)
1607年4月1日-09:00|日本| ||慶長12年3月5日|<改易>松平忠吉:尾張清洲52万石/無嗣廃絶
1607年4月4日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王イスカンダル・ムダ(~16361227死去)
1607年4月5日-09:00|日本| ||慶長12年3月9日|<改易>天野康景:駿河興国寺1万石/領民と訴訟により廃絶/子に
1000俵安
1607年4月26日-09:00|日本| ||慶長12年4月|<移転>堀忠俊:越後春日山→越後福島45万石(-慶長15年改易)
1607年4月26日-09:00|日本| ||慶長12年4月|<移封>小笠原吉次:尾張犬山2万7千石→下総佐倉2万8千石(-慶長1
3年)
1607年5月14日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1607/5/4|イギリスの植民者がジェームズタウンに上陸を開始/北アメリカ大陸
最初の永続的植民地ジェームズタウンが設立
1607年5月26日 06:00|アメリカ| |||ジェームズタウンに上陸した植民者がインディアンを撃退
1607年5月26日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月|<加増移封>(松平)久松定勝:遠江掛川3万石→山城伏見城城代4
万石(-元和3年伊勢桑名へ)
1607年5月26日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月|<拝領>(松平)久松定行:遠江掛川3万石を継ぐ
1607年6月2日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月08日|徳川家康の次男結城秀康,北庄において死去(34歳)
1607年6月20日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月26日|徳川義直(徳川家康の九男):甲斐甲府→尾張清洲61万9千石
1700迄(4525件)
(-慶長17年尾張名古屋へ)
1607年6月20日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月26日|平岩親吉:尾張犬山93千石(-慶長16年)
1607年6月21日-09:00|日本| ||慶長12年閏4月27日|松平忠直,福井藩を継ぐ
1607年6月29日-09:00|日本| ||慶長12年5月6日|朝鮮国使呂祐吉らが幕府に国書を呈する(対馬藩の国書偽造な
どの苦肉の計が結実し、朝鮮との国交回復が成る)
1607年8月25日-09:00|日本| ||慶長12年7月3日|駿府城成り家康之に移る
1607年9月17日-09:00|日本| ||慶長12年7月26日|<改易>稲葉通孝:豊後国内1万4150石/山城伏見で没したが遺
領の相続を許されず、無嗣絶家/所領は宗家の臼杵藩領に編入
1607年10月-04:00|ロシア| |||北ウクライナで前年起こった農民反乱のボロトニコフの乱が鎮圧される
1607年10月23日-09:00|日本| ||慶長12年9月3日|江戸城天守台・大手門が修築完成
1607年10月26日-09:00|日本| ||慶長12年9月6日|竜造寺本家(政家・高房)の断絶を契機として、竜造寺家の家督
を鍋島直茂の子勝茂が相続し、ここに名実ともに鍋島佐賀藩が成
1607年12月17日-01:00|ドイツ| |||バイエルン公マクシミリアン1世が、新教派の都市ドナウヴェルトを占領
1608年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王チャイティップ(~1613年)
1608年-07:00|タイ| |||ラーンナー王朝チャイティップがクーデターで王になる(~1613年)
1608年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:セラーメト1世ギレイ(~1610年)
1608年-02:00|ザンビア/ポルトガル| |||ムタパ国がポルトガルに鉱山採掘権を譲渡
1608年-01:00|チェコ/スロバキア| |||<就任>ボヘミア王国モラヴィア辺境伯(ハプスブルク家)マティアス2世[マキミリアンの息子](~1619032
0死去)
1608年-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(古ブルボン=オルレアン家)ガストン1世[兼オルレアン公、シャルトル公、ブロワ伯、アランソン公](~
1626年)16600202死去51歳
1608年-01:00|リヒテンシュタイン| |||初代リヒテンシュタイン公カール1世即位(~1627年2月12日)
1608年-01:00|オランダ/タイ| |||アユタヤ朝がオランダに使節を派遣し、外交通商条約を締結
1608年-01:00|オーストリア| |||オーストリア大公マティアス即位(~1619年3月20日)
1608年-01:00|オランダ| |||オランダで商品先物取引がはじまる
1608年 07:00|メキシコ| |||逃亡黒人奴隷が山岳部に立てこもり指導者イャンガは逃亡奴隷を糾合しパレンケ集落を形成
.自らコンゴ王を名乗る
1608年1月4日-09:00|日本| ||慶長12年11月27日|松平忠昌、1万石を拝領し上総姉崎藩主となる
1608年1月17日-08:00|中国| ||明・万暦35年12月|雲南の金沙江で鄭挙が起兵し武定を攻略
1608年1月29日-01:00|ドイツ| |||<即位>ヴュルテンベルク公ヨハン・フリードリヒ(~16280718)
1608年1月30日-09:00|日本| ||慶長12年12月13日|京都北野神社本殿できる
1608年2月8日-09:00|日本| ||慶長12年12月22日|駿府城、全焼
1608年2月12日-09:00|日本| ||慶長12年12月26日|<改易>稲葉通重:美濃清水2万2000石/京都祇園において山城
御牧藩主津田信成らと酒に酔って庶民に暴行を働いたため、所領没収のうえ常陸筑波に配流
1608年2月12日-09:00|日本| ||慶長12年12月26日|<改易>津田信成:山城牧1万3000石/美濃清水藩主稲葉通重ら
と京都市中で酒に酔って婦女に狼藉を働き、所領没収
1608年2月16日-09:00|日本| ||慶長13年|寺沢志摩守広高が唐津城(舞鶴城)築城/佐賀県
1608年2月16日-09:00|日本| ||慶長13年|池上本門寺五重塔建立/東京都
1608年3月16日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦36年2月1日|朝鮮王宣祖が死去
1608年3月17日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦36年2月2日|朝鮮第15代国王光海君即位(-1623年3月13日)
1608年3月18日-09:00|日本| ||慶長13年2月02日|<改易>堀忠俊:越後福島45万石/家中統制不充分の罪により所
領没収、陸奥磐城平に流刑
1608年4月25日-09:00|日本| ||慶長13年3月11日|駿府城本丸が再建され徳川家康が移り住む
1608年5月12日-01:00|ドイツ| |||アンハルト公クリスティアンとハルツ伯フリードリッヒ4世の新教同盟が結成される
1608年5月14日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)アンリ2世(~16240731)
1608年5月15日-01:00|ドイツ| |||南ドイツ諸議会がプロテスタント同盟を結成
1608年5月19日-01:00|ドイツ| |||カルヴァン派とルター派の諸侯が、ファルツ選帝侯を指導者とする新教徒同盟を結んで、ハフ
゚スブルク家の守護するカトリックと対抗
1608年6月12日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦36年5月|朝鮮が宣恵庁を設置し、京畿道に大同法を施行
1608年6月25日-01:00|ハンガリー/クロアチア/オーストリア| |||<即位>ハンガリー国王(ハプスブルグ朝)マーチャーシュ2世兼クロアチア王マチアス2
世兼オーストリア大公マティアス[ルドルフ2世の弟](~16190320死去62歳)
1608年7月3日-01:00|フランス/カナダ| |||フランス人のシャンプランがケベック市を建設/五大湖地方を版図にいれ,ニュー・フランスを
創設.総督に任命される
1608年7月12日-08:00|中国| ||明・万暦36年6月|遼東の錦州・松山で宦官高准の横暴に反抗する兵士の乱がおこ
る
1608年7月16日-09:00|日本| ||慶長13年6月4日|<死去>狩野派の絵師狩野光信/44歳/織田信長、豊臣秀吉、徳川
家康の御用絵師だった
1608年7月18日-01:00|ドイツ| |||ヨハン・ジギスムントがブランデンブルク選帝侯となる
1608年7月19日-09:00|日本| ||慶長13年6月8日|<改易>筒井定次:伊賀上野20万石/家臣の訴訟により廃絶/伊予
松山に幽閉
1608年7月27日-09:00|日本| ||慶長13年6月16日|<移封>(松平)松井康重:常陸笠間→丹波八上5万石(-慶長14年
丹波篠山へ)
1700迄(4525件)
1608年7月27日-09:00|日本| ||慶長13年6月16日|<改易>前田茂勝:丹波八上5万石/発狂・家臣殺害により廃絶/
甥の出雲松江藩主堀尾忠晴に身柄を預けられ
1608年7月28日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)ヨハン・ジギスムント[ヨアヒム・フリードリヒの息子](
~16191103)
1608年8月7日-09:00|日本| ||慶長13年6月27日|大野治胤が堺で処刑される
1608年8月11日-09:00|日本| ||慶長13年7月1日|松倉重政:大和二見五條(二見城)10307石/拝領(-元和2年肥前
島原へ)
1608年10月2日-01:00|オランダ| |||世界初の望遠鏡がオランダで発表ミデルブルクに住むハンス・リペルスハイがオランダ議会で披
露
1608年10月4日-09:00|日本| ||慶長13年8月25日|<移封>藤堂高虎:伊予今治22万3千石→伊賀一国15万540石、伊
勢安濃津、一志郡5万400石、伊予国越智郡2万石計、22万950石
1608年10月4日-09:00|日本| ||慶長13年8月25日|<分封>藤堂高吉(丹羽長秀の三男):伊予今治2万石(-寛永12年
伊賀名張へ)
1608年10月23日-09:00|日本| ||慶長13年9月15日|<加増移封>富田信高(知信):伊勢津7万石→伊予宇和島10万1
900石(-慶長18年除封改易)
1608年10月25日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで6リレ4ソルディ相当の1金ドゥカート金貨を鋳造
1608年12月8日-09:00|日本| ||慶長13年11月|<加増>松平定勝(山城伏見城代)所領を伏見近隣に1万石,近江滋
賀高島二郡に4万石に改められる
1608年12月20日-01:00|リヒテンシュタイン| |||<即位>第1代リヒテンシュタイン公カール1世[民主党(DP)ルクセンブルク社会主義労働者党
(LSAP)緑の党](~16270212死去)
1609年-02:00|エジプト/トルコ| |||エジプトのオスマン朝守備隊反乱を、総督のメフメドが鎮圧
1609年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ブッツバッハ方伯フィリップ3世[ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク1世敬虔伯の次男](~16
43年死去1代で断絶)
1609年-01:00|オランダ/アメリカ| |||オランダがアメリカで最初となるオルバニー植民地を建設
1609年-01:00|オランダ| |||グロティウスが「自由海論」を刊
1609年-01:00|ドイツ| |||ケプラーが「新天文学」を刊/ケプラーの第1・第2法則をここに発表
1609年-01:00|オランダ/スペイン| |||スペインとの12年停戦協定が結ばれ
1609年 04:00|グレナダ| |||英国人200人がグレナダに入植.カリブ族との戦いに敗れ退散
1609年 05:00|ペルー| |||ガルシラーソが「インカ皇統記」を刊
1609年1月13日-09:00|日本| ||慶長13年12月8日|幕府が、再び永楽銭の通用を禁じる
1609年1月15日-01:00|ドイツ| |||ドイツで、週刊の新聞「レラツィオン」が発行される/世界初の定期新聞
1609年1月29日-09:00|日本| ||慶長13年12月24日|<移封>小笠原吉次:下総佐倉→常陸笠間3万石(-慶長14年改
易)
1609年1月30日-09:00|日本| ||慶長13年12月25日|青山成重:老中就任(-慶長18年8月)
1609年2月5日-09:00|日本| ||慶長14年|<加増>(松平)久松定綱:下総山川5千石→15千石(-元和2年常陸下妻へ)
1609年2月5日-09:00|日本| ||慶長14年|<改易>桑山清晴:和泉谷川1万石/将軍秀忠の意を損じたとして除封さ
れ、谷川藩は廃藩/所領1万石は父元晴の領地に加えられ
1609年2月5日-09:00|日本| ||慶長14年|<拝領>鍋島忠茂:肥前鹿島25千石/以後正茂、直朝(16千石)、直條(2万石
)、直堅、直郷、直熙、直宜、直彜、直永、直晴、直賢、直彬と続く(-明治4年)
1609年2月6日-09:00|日本| ||慶長14年1月2日|幕府、市中での一季奉公と振売(呼売行商)を禁止
1609年2月7日-01:00|イタリア| |||<即位>トスカーナ大公(メディチ家)コジモ2世・デ・メディチ[フェルディナンド1の息子](~16210228
死去)
1609年4月-01:00|スペイン| |||スペインでムスリム追放令が発布
1609年4月 00:00|イギリス/インド| |||イギリス国王がムガル朝に親書
1609年4月1日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティノ・ルチアーニ・ピネロ(~16110402)
1609年4月4日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦37年3月|朝鮮国王,宗氏と通交条約を締結
1609年4月12日-09:00|日本| ||慶長14年3月8日|島津軍が大島制圧
1609年4月16日-09:00|日本| ||慶長14年3月12日|高野山寺坊七百余宇焼失
1609年4月19日-01:00|オランダ/スペイン| ||ユリウス暦4月9日|スペインとネーデルランドが12年間の休戦協定を結ぶ/フェリペ3世
がネーデルランド北部7州の独立を事実上承認
1609年4月26日-09:00|日本| ||慶長14年3月22日|島津軍が徳之島制圧
1609年4月28日-09:00|日本| ||慶長14年3月24日|島津軍が沖永良部を落とした
1609年4月30日-09:00|日本| ||慶長14年3月26日|<改易>小笠原吉次:常陸笠間3万石/長男忠重が松平忠吉に殉
死及び不正
1609年4月30日-09:00|日本| ||慶長14年3月26日|伊達政宗が瑞巌寺本堂建造/宮城県
1609年4月30日-09:00|日本| ||慶長14年3月26日|仙台藩伊達政宗、松島の瑞巌寺を造営
1609年5月8日-09:00|日本| ||慶長14年4月5日|薩摩軍が琉球首里城を攻略し、琉球王尚寧これに降伏
1609年5月11日-09:00|日本| ||慶長14年4月8日|本多忠勝:老中解任
1609年6月2日-01:00|オランダ/日本| |||オランダ船2隻が平戸に入港し、貿易を求める
1609年6月12日-09:00|日本| ||慶長14年5月11日|<改易>(松平)中村忠一:伯耆米子17万5000石/無嗣廃絶
1609年7月10日-01:00|ドイツ| |||ドイツでカトリック連盟(旧教連合=リガ)が結成
1609年7月12日-08:00|中国| |||甘粛、酒泉地震/M7.3、死者840人
1700迄(4525件)
1609年7月28日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦37年6月28日|朝鮮が日本と己酉条約を締結、三浦を再開
1609年8月6日-09:00|日本| ||慶長14年7月7日|家康、島津家久に琉球支配を認める
1609年8月13日-09:00|日本| ||慶長14年7月14日|江戸幕府が喫煙禁止令を発布
1609年8月18日-09:00|日本| ||慶長14年7月19日|金銀銭の比価を公定、永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50匁=1両と
する
1609年8月24日-01:00|オランダ/日本| ||慶長14年7月25日|徳川家康、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える
1609年8月25日-01:00|イタリア| |||ガリレオが望遠鏡を製作しベネチア議会に贈呈、倍率は9倍
1609年8月30日-09:00|日本| ||慶長14年8月|<移封>岡部長盛:下総山崎(廃藩)→丹波亀岡34千石(-元和7年丹波
福知山へ)
1609年9月20日-09:00|日本/オランダ| ||慶長14年8月22日|オランダ商館が肥前平戸に開設される
1609年9月28日-09:00|日本| ||慶長14年9月|<加増>板倉勝重:山城国内において9千860石余を加増され、都合1
万6千610石余を領す
1609年9月28日-09:00|日本| ||慶長14年9月|幕府、貿易の支払に品位の高い南りょう銀の使用を禁止
1609年9月28日-09:00|日本| ||慶長14年9月1日|松平忠頼:遠江浜松5万石/酒宴の席で旗本久米左平次に刺殺さ
れる
1609年10月12日-09:00|日本| ||慶長14年9月15日|<加増移封>脇坂安治:淡路洲本3万石→伊予大洲53500石/次
に安元が嗣ぐ(-元和3年信濃飯田へ)
1609年10月20日-09:00|日本| ||慶長14年9月23日|<加増移封>酒井忠利:駿河田中2万石→武蔵川越3万7千石/以
後忠勝(10万石)が嗣ぐ(-寛永11年若狭小浜へ)
1609年10月20日-09:00|日本| ||慶長14年9月23日|酒井忠利:老中就任(-1627年11月14日)
1609年10月24日-09:00|日本| ||慶長14年9月27日|<改易>木下勝俊:備中足守2万5千石/所領分与違反により廃
絶
1609年10月26日-09:00|日本| ||慶長14年9月29日|<改易>松平忠頼:遠江浜松5万石/殺害される.嫡子忠重に800
0石安堵
1609年10月27日-09:00|日本| ||慶長14年10月|常陸国水戸領で一揆起こる
1609年10月28日-09:00|日本| ||慶長14年10月|姫路城天守閣完成
1609年11月12日-09:00|日本| ||慶長14年10月16日|<改易>水野忠胤:三河国内1万石/配下の大番士久米左平次
と服部半八が口論から刃傷に及び、仲裁に入った遠江浜松藩主松平忠頼を久米が刺殺するという事件を起し切
腹廃絶
1609年11月23日-09:00|日本| ||慶長14年10月27日|<改易>皆川広照:信濃飯山7万9000石/松平忠輝傅役失職に
より廃絶
1609年11月23日-09:00|日本| ||慶長14年10月27日|<改易>山田重辰:不明1万石/松平忠輝傅役失職死罪により
廃絶
1609年11月27日-09:00|日本| ||慶長14年11月|幕府,出羽国米沢藩など東北諸藩に命じ銚子湊完成
1609年12月26日-09:00|日本| ||慶長14年12月|<移封>(松平)松井康重:丹波八上→丹波篠山50020石(-元和5年
和泉岸和田へ)
1610年-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第23代国王サンペット4世シーサオワパーク(~1611年)
1610年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:ジャニベク・ギレイ(~1623年)
1610年-02:00|エジプト/トルコ| |||エジプトで新オスマン朝法典の公布
1610年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ベルナート・ド・サルバ・イ・ド・サルバ(~1620年)
1610年-01:00|スペイン| |||<即位>ナブラ王国(ブルボン家)国王ルイス2世(~1620年.16430514,死去41歳)
1610年-01:00|オランダ| |||アムステルダムに証券取引所が新設
1610年-01:00|スペイン/アメリカ| |||オニャテ,ヌエバメヒコの新たな首都としてサンタフェ建設,旧総督邸を建設
1610年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがカリカットに商館を設置
1610年-01:00|オランダ/フィリピン| |||オランダがフィリピンを攻撃(2次)
1610年 00:00|イギリス| |||イギリスのガラス工業で熱源燃料として石炭の利用が始まる
1610年 06:00|アメリカ| |||ヴァージニア植民地でイギリスとポーハタン族の戦争が始まる
1610年1月3日 00:00|ポルトガル/日本| ||慶長14年12月9日|有馬晴信がポルトガル船を長崎で撃沈、幕府はポルトガルと
断交
1610年1月7日-01:00|イタリア| |||ガリレオ・ガリレイが木星の3個衛星を発見、土星の「耳」も報告
1610年1月12日-01:00|スペイン/日本| |||徳川家康がスペイン国王に書簡を送り、貿易の保護を約束
1610年1月13日-01:00|イタリア| |||イタリアのG・ガリレイが木星の衛星ガニメデを発見
1610年1月16日-09:00|日本| ||慶長14年12月22日|<移封>水野重仲(重央):常陸の内→遠江浜松35千石(-元和5
年徳川頼宣の付家老、紀伊新宮へ)
1610年1月16日-09:00|日本| ||慶長14年12月22日|徳川頼宣(徳川家康の十男):常陸水戸25万石→駿河府中50万
石(-元和5年紀伊和歌山へ)
1610年1月16日-09:00|日本| ||慶長14年12月22日|徳川頼房:常陸下妻5万石→常陸水戸25万石(後28万石)/移封
/以後光圀、綱条、宗堯、宗翰、治保、治紀、斉脩、斉昭、慶篤、昭武と続く(-明治4年)
1610年1月25日-09:00|日本| ||慶長15年|<移封>市橋長勝:美濃今尾→伯耆八橋21300石(-元和2年越後三条へ)
1610年1月25日-09:00|日本| ||慶長15年|<加増移封>青山忠俊:常陸江戸崎→下野国内15千石/次に忠俊(常陸江
戸崎から25千石)が嗣ぐ(-元和6年武蔵岩槻へ)
1610年1月25日-09:00|日本| ||慶長15年|<拝領>浅野長晟:備中足守2万4千石(-慶長18年紀伊和歌山藩相続)
1700迄(4525件)
1610年1月25日-09:00|日本| ||慶長15年|大久保忠隣:老中就任(-1614年2月2日)
1610年1月25日-08:00|中国| ||明・万暦38年|中国で金瓶梅が刊行、作者不詳、神宗万暦帝時代の淫靡な社会を描
く
1610年1月25日-09:00|日本| ||慶長15年1月|<加増移封>土井利勝:下総小見川→下総佐倉3万2400石(-寛永10年
下総古河へ)
1610年2月8日-05:30|インド| |||マイソール王国(オデヤ朝)ラージャ・オデヤ1世はシュリーランガパトナをヴィジャヤナガル王国の長官か
ら奪取したのち、マイソールからシュリーランガパトナへと遷都し、王国に対して独立を宣言(~16170620死去)
1610年2月12日-01:00|フランス/ドイツ| |||アンリ4世が、ドイツの新教同盟と盟約を結ぶ
1610年3月-01:00|イタリア| |||ガリレオが「星界の報告」を刊、月のデコボコや木星の4衛星など報告
1610年3月18日-09:00|日本| ||慶長15年2月23日|<拝領>池田忠雄(輝政3男):淡路6万3千石
1610年3月19日-09:00|日本| ||慶長15年2月24日|長谷川等伯(画家)死去[1539年生~](享年72)
1610年3月26日-09:00|日本| ||慶長15年閏2月02日|<移封>近藤(重勝)政成(堀秀政の四男):越後の内1万石→信
濃川中島1万石(-元和4年継子幼少のため所領半減、旗本に降格)
1610年3月26日-09:00|日本| ||慶長15年閏2月2日|<移封>堀直竒:越後坂戸→信濃飯山5万石(-元和2年越後蔵王
堂へ)
1610年3月26日-09:00|日本| ||慶長15年閏2月2日|<加増移封>松平忠輝(徳川家康の6男):信濃松代14万石→越
後福島75万石/加増移封(-慶長19年越後高田へ)
1610年3月26日-09:00|日本| ||慶長15年閏2月2日|<改易>堀忠俊:越後福島30万石/家臣と訴訟により廃絶/磐城
平に幽閉
1610年3月26日-09:00|日本| ||慶長15年閏2月2日|<改易>堀直次:越後三条5万石/宗家家臣と訴訟により廃絶
1610年5月14日-01:00|フランス| |||<死去>フランス、ブルボン王家の絶対主義の基礎をすえたアンリ4世がパリ街頭で熱狂的
なカトリック教徒に暗殺される/56歳(誕生:15531213)
1610年5月14日-01:00|フランス| |||<即位>フランス国王(ブルボン朝)ルイ13世公正王[アンリ4世の子](~16430514)
1610年7月22日-09:00|日本| ||慶長15年6月3日|加藤清正が名古屋城天守閣一円を普請
1610年8月3日 06:00|カナダ| |||ヘンリー・ハドソンがハドソン湾を発見
1610年9月-04:00|ロシア/ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国軍がモスクワを占領
1610年9月1日-01:00|オーストリア| |||オーストリア大公レオポルトが、ドイツ、イギリス、オランダの軍隊によってユーリッヒから追放される
1610年9月2日-09:00|日本| ||慶長15年7月15日|<加増移封>加藤貞泰:美濃黒野4万石→伯耆米子6万石(-元和3
年伊予大洲へ)
1610年9月6日-09:00|日本| ||慶長15年7月19日|<加増移封>関一政:伊勢亀山3万石→伯耆黒坂5万石(-元和4年
家士等争論絶ずとして改易徐封)
1610年9月13日-09:00|日本| ||慶長15年7月26日|<加増移封>菅沼忠政:上野吉井2万石→美濃加納10万石/移封/
上野吉井は天領に
1610年9月14日-09:00|日本| ||慶長15年7月27日|<加増>立花宗茂:陸奥棚倉1万石+2万石→3万石
1610年9月14日-09:00|日本| ||慶長15年7月27日|<加増移封>(松平)奥平忠明:三河作手1万7千石→伊勢亀山5万
石(-元和1年摂津大坂へ)
1610年9月14日-09:00|日本| ||慶長15年7月27日|<拝領>細川興元:下野茂木1万石(後16200石)(-元和2年常陸谷
田部へ)
1610年9月19日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ジンメルン家系選帝侯)フリードリヒ5世(~16230223廃位)
1610年9月22日-09:00|韓国/朝鮮| ||慶長15年8月6日|朝鮮・許浚が「東医宝鑑」23編25巻を編纂
1610年10月6日-09:00|日本| ||慶長15年8月20日|<死去>丹後田辺城主細川幽斎.77歳/教養人としても名高い
1610年10月18日-09:00|日本| ||慶長15年9月02日|<死去>吉田兼見.76歳/京都吉田神社の神官/日記『兼見卿記
』の著者としても知られる
1610年11月13日-09:00|日本| ||慶長15年9月28日|<拝領>溝口善勝:越後沢海14千石/以後政勝(弟、助勝に3千石
、安勝に1千石分知1万石)、政良、政親と続く(-貞享4年改易/発狂手討)
1610年11月24日-09:00|日本| ||慶長15年10月9日|駿府城炎上
1610年11月29日-09:00|日本| ||慶長15年10月14日|幕府が重ねて煙草を禁ずる
1610年12月15日-08:00|中国| ||明・万暦38年11月|明で日食予測の東西対決、欽天監の予測がはずれ西洋歴法で
歴を作成
1611年-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第24代国王ボーロマラーチャー1世ソンタム(~16281212)
1611年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:イマーム・クリー・ハーン[ディーン・ムハンマドの長男](~1642年)
1611年-02:00|ルーマニア| |||<再位>ワラキア公ラドゥー9世ミーニア[2度目]⇒同年<再位>ワラキア公(バサラブ=モヴィル朝)ラドゥー10世[
2度目]⇒<再位>ワラキア公ラドゥー9世ミーニア[3度目](~1616年)
1611年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)ステファン9世(~1615年)
1611年-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(中リューネブルク家)クリスティアン(~1633年死去)
1611年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=ギュストロー系)ヨハン・アルブレヒト2世[ヨハン7世の息子](~1628年神聖
ローマ皇帝フェルディナント2世によって廃位)
1611年-01:00|オランダ/インドネシア| |||ブローエルが喜望峰経由でジャワにいたる最短の新航路を発見
1611年 00:00|イギリス/インド| |||イギリスがインドのマスリパタムに商館を設置
1611年 00:00|イギリス| |||イギリスで「欽定訳聖書」が出版
1611年1月14日-09:00|日本| ||慶長15年12月|<加増>阿部正次:鳩ヶ谷1万石+下野国鹿沼のうちに5千石⇒1万5
千石
1700迄(4525件)
1611年1月29日-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国首席大臣ニコラス・ド・ノイフヴィル,サイノール・ド・ヴィレロイ(~1614年)
1611年2月13日-09:00|日本| ||慶長16年|三の丸が竣工し高知城完成/高知県
1611年2月13日-09:00|日本| ||慶長16年|堀尾忠晴:出雲富田24万石/居城を富田から松江に移
1611年2月13日-09:00|日本| ||慶長16年|灌漑施設,馬頭サイフォン完成(佐賀県伊万里市)<日本最古のサイフォン>
1611年2月13日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・弘定12年|大越グェン・ホアンがはじめてチャンパを攻撃、フゥイエン(富安)府を置
く
1611年3月5日-09:00|日本| ||慶長16年1月21日|安藤重信:老中就任(-元和7年年6月29日)
1611年3月11日-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)マティアス2世・ハプスブルスキー(~16170516)
1611年3月20日-09:00|日本| ||慶長16年2月06日|<死去>稲富流鉄砲術の開祖・稲富祐直.60歳
1611年4月2日-09:00|日本| ||慶長16年2月19日|幕府堤防道路制を制定
1611年4月6日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アレッサンドロ・ロンゴ・ギウスティニアーニ(~16130406)
1611年4月14日-01:00|イタリア| |||ガリレオの望遠鏡をテレスコープと命名
1611年4月28日-08:00|フィリピン| |||フィリピンでサント・トマス大学が開校
1611年5月-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||スウェーデンとデンマーク間で戦争が勃発
1611年5月4日-01:00|イタリア| |||ガリレオが太陽の黒点について第一書簡を書いた(第二、第三書簡と合わせて1613
年に出版)
1611年5月9日-09:00|日本| ||慶長16年3月27日|107代後陽成天皇譲位/108代後水尾天皇践祚/4月12日即位
1611年6月3日-04:00|ロシア| ||ロシア暦5月24日|ポーランド軍が、スモレンスクを占領
1611年6月11日-09:00|日本| ||慶長16年5月|陸奥堀越藩4万7000石(藩主:津軽信枚)藩庁を陸奥高岡(津軽)へ移
動,陸奥高岡藩となる
1611年6月11日-09:00|日本/メキシコ| ||慶長16年5月|メキシコ使節ビスカイノが来日し家康・秀忠に謁する
1611年6月23日-01:00|ドイツ| |||<死去>ザクセン選帝侯クリスティアン2世
1611年6月23日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)ヨハン・ゲオルク1世(~16561008)
1611年7月13日-09:00|日本| ||慶長16年6月04日|<死去>真田昌幸.65歳/関ヶ原合戦で西軍について戦後に高野
山九度山に配流されていた
1611年8月2日-09:00|日本| ||慶長16年6月24日|<死去>加藤清正.50歳/秀吉子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一
人として知られる/急な発病だったため、毒殺説がある
1611年8月5日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国カルミニ橋での通例の「殴り合い合戦」で21人が窒息
1611年8月8日-09:00|日本| ||慶長16年7月|この月、幕府駅路駄賃の規則を制定
1611年8月11日-01:00|チェコ/ドイツ/スロバキア| |||神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が弟のマティーアスにボヘミア王位を正式に譲る(~16
19年3月20日)
1611年8月22日-09:00|日本/ポルトガル| ||慶長16年7月15日|江戸幕府がポルトガルとの交易を再開
1611年9月-04:00|ロシア| |||ロシアでミーニン・ボジャールスキー率いる国民軍が蜂起
1611年9月7日-09:00|日本|J.フロントリテイリング|慶長16年秋|元織田家家臣、伊藤蘭丸祐道が、名古屋本町に呉服小間物
商「いとう呉服店」創業(→松坂屋)
1611年9月22日-09:00|日本| ||慶長16年8月16日|杉原長房:但馬豊岡2万石/浅野長政の遺領常陸小栗5千石を加
えられて2万5千石を領し
1611年9月22日-09:00|日本| ||慶長16年8月16日|浅野長重:下野真岡2万石→父長政遺領の内真壁5万石を拝領
1611年9月22日-09:00|日本| ||慶長16年8月16日|堀親良:下野真岡1万2千石/拝領(-寛永4年下野烏山へ)
1611年9月27日-09:00|日本| ||慶長16年8月21日|会津で地震/若松城が倒壊/若松城下とその付近で社寺・民家
の被害が大きく,死3700余/只見川がせき止められ猪苗代湖が1日にして出来る
1611年10月2日-09:00|日本| ||慶長16年8月26日|山田勝重:越後蔵王→上田2万石
1611年10月30日-01:00|スウェーデン| |||<死去>スウェーデン王カール9世/61歳(誕生:1550)
1611年10月30日-01:00|スウェーデン| |||<即位>スウェーデン王国国王(ヴァーサ家)グスタフ2世アドルフ(~16321106戦死死去37歳
)
1611年11月10日-09:00|日本| ||慶長16年10月6日|<改易>金森長光:美濃上有知2万石/無嗣廃絶
1611年12月2日-09:00|日本| ||慶長16年10月28日|三陸沿岸および北海道東岸で地震/津波の被害が大きかった
/伊達領内で死1783,南部・津軽で人馬の死3千余
1611年12月4日-09:00|日本| ||慶長16年冬|堀尾忠氏の松江城(千鳥城)築城/島根県
1611年12月18日-09:00|日本| ||慶長16年11月15日|方広寺大仏殿完成
1612年-04:00|ロシア| |||<即位>スルツク公(ラジヴィウ家)ヤヌシュ・ラジヴィウ(~1620年)
1612年-01:00|イタリア| |||<即位>モンフェッラート公(ゴンザーガ家)フランチェスコ2世[マントヴァ公]→同年<即位>モンフェッラート公(ゴンザ
ーガ家)フェルディナンド1世(~1626年)
1612年-01:00|オランダ| |||オランダがベームスー湖を干拓
1612年-01:00|イタリア| |||サルビアーティがイタリア語辞典を出版
1612年-01:00|フランス/ブラジル| |||フランス,マラニョン州イリャ・サンルイスを占領.原住民と手を結び「赤道フランス」を建設
1612年-01:00|ドイツ| |||ヤーコブ・ベーメが「アウロラ」を刊
1612年 00:00|イギリス/インド| |||イギリスがインドのスーラットに商館を建設
1612年 00:00|イギリス| |||イギリスの船医ウッダールが「船医必携」を出版
1612年 00:00|イギリス/タイ| |||イギリス東インド会社がアユタヤに商館を設立
1612年 06:00|アメリカ| |||ロルフがヴァージニアでタバコ栽培に成功
1612年 07:00|メキシコ| |||メキシコ市で黒人奴隷の反乱計画が発覚.首謀者の男女36人が大広場で処刑される
1700迄(4525件)
1612年1月4日-09:00|日本| ||慶長16年12月2日|相馬利胤は居城を小高城より中村城に移した
1612年1月20日-01:00|ドイツ/ハンガリー| |||<死去>神聖ローマ皇帝ルドルフ2世ハンガリー王/59歳(誕生:15520718)
1612年1月23日-01:00|ドイツ/チェコ/オーストリア/イタリア| |||<即位>神聖ローマ皇帝・イタリア王(ハプスブルク朝)マティアス[マクシミリアン2世
の子](~16190320死去)
1612年2月1日-09:00|日本| ||慶長16年12月30日|<改易>平岩親吉:尾張犬山12万3000石/無嗣廃絶
1612年2月1日-09:00|日本| ||慶長16年12月30日|幕府、熱田奉行を設置
1612年2月2日-09:00|日本| ||慶長17年|この年、小堀遠州、大徳寺に弧蓬庵を建立
1612年2月2日-09:00|日本| ||慶長17年|犬山城主の成瀬正茂によって北野山真福寺宝生院(大須観音)が岐阜県
羽島より移転創建(愛知県名古屋市)<真言宗智山派別格本山>
1612年2月2日-09:00|日本| ||慶長17年|徳川家康、門庵宗関を開山として泉岳寺創建(1641年高輪に移転)<曹洞
宗>/東京都
1612年2月2日-09:00|日本| ||慶長17年1月|<移封>小笠原信之(酒井忠次の三男):武蔵本庄→下総古河2万石/次
に政信が嗣ぐ(-元和5年下総関宿へ)
1612年2月2日-09:00|日本| ||慶長17年1月|<加増移封>(松平)戸田康長:下総古河2万石→常陸笠間3万石(-元和
2年上野高崎へ)
1612年2月9日-01:00|イタリア| |||<死去>マントヴァ・モンフェッラート公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ
1612年2月9日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公(ゴンザーガ家)フランチェスコ4世・ゴンザーガ(12.22死去)
1612年4月21日-09:00|日本| ||慶長17年3月21日|岡本大八事件で幕府が岡本大八を火刑に処す
1612年4月21日-09:00|日本| ||慶長17年3月21日|江戸幕府が幕府直轄領にキリシタン禁教令を発令/翌年全国に拡大
1612年4月22日-09:00|日本| ||慶長17年3月22日|<改易>有馬晴信:肥前日野江4万石/岡本大八の訴訟により廃
絶
1612年5月13日-09:00|日本| ||慶長17年4月13日|巌流島の決闘/関門海峡の向島(舟島とも)で宮本武蔵vs佐々
木(巌流)小次郎の戦い/一瞬にして武蔵勝つ
1612年5月20日-09:00|日本| ||慶長17年4月20日|<改易>松平忠清:三河吉田3万石/無嗣廃/弟に5千石安堵
1612年6月5日-09:00|日本| ||慶長17年5月6日|長崎奉行暗殺未遂の罪で肥前の有馬晴信(キリシタン大名として知ら
れる)切腹.46歳
1612年7月4日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王カーマウング[前王の息子](~16220514)
1612年7月16日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第90代レオナルド・ドナ
1612年7月24日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第91代マルカントニオ・メンモ(~16151031)
1612年9月1日-09:00|日本| ||慶長17年8月6日|幕府、煙草・屠牛の禁規を制定
1612年9月27日-09:00|日本| ||慶長17年9月2日|近畿・中国・東海地方で風水害/美作津山で吉井川が氾濫、500余
人が死亡/伊賀上野城天守の工事をしていた180人が死亡
1612年10月27日-04:00|ロシア/ポーランド/リトアニア| ||ロシア暦10月17日|ポジャルスキーの解放軍が、ポーランド・リトアニア共和国軍
に占領されていたモスクワを解放
1612年11月20日-03:30|イラン/トルコ| |||オスマン朝がサファヴィー朝と和平を結ぶ
1612年12月22日-01:00|イタリア| |||<死去>マントヴァ・モンフェッラート公フランチェスコ4世
1612年12月22日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公(ゴンザーガ家)フェルディナンド・ゴンザーガ(~16261029死去)
1613年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第3代スルタン、アグン(~1645)即位
1613年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王チョーイ(2回目~1615年)
1613年-05:30|インド| |||この頃シカンドラもアクバル廟完成
1613年-05:30|インド| |||ムガル帝国がカーマルーバ地方を征服
1613年-05:00|カザフスタン| |||<即位>カザン・ハン国ハン:トゥルスン[ジャリムの子](~1627年)
1613年-02:00|トルコ| |||オスマン朝スルタン・アフメト1世、全土に禁酒令発布
1613年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯(中ブラウンシュヴァイク家)フリードリヒ・ウルリヒ[ハ
インリヒ・ユリウスの息子](~1634年死去、中ブラウンシュヴァイク家断絶)
1613年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世、モンフェッラート占領(~1618)
1613年-01:00|チュニジア| |||チュニジアでムラード朝が興る
1613年-01:00|フランス/カナダ| |||フランス人がオタワ川を遡上し五大湖に到達
1613年 00:00|モロッコ| |||<即位>フェズ政権アブドゥッラー2世(~1623年)
1613年 03:00|アルゼンチン| |||イエズス会,コルドバ大学を創設
1613年 05:00|ペルー| |||リマ商人組合が設立され、ペルーでのヨーロッパ品の販売を独占
1613年1月2日-09:00|日本| ||慶長17年11月12日|<加増移封>松平忠利:三河深溝1万石→三河吉田3万石/次に[
寛永9年8月]忠房(-寛永9年三河刈谷へ)
1613年1月20日-01:00|スウェーデン| |||カルマル戦争で劣勢となったスウェーデンが、イギリスのジェームズ1世の調停でデンマークと
和議を結ぶ
1613年1月21日-09:00|日本| ||慶長17年12月|<拝領>安藤重信:下総小見川36600石(-元和7年上野高崎へ)
1613年1月21日-09:00|日本| ||慶長17年12月|徳川義直(徳川家康の九男):尾張清洲→尾張名古屋61万9千石/以
後光友、綱誠、吉通、五郎太、継友、宗春、宗勝、宗睦、斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶勝、茂徳、義宜と続く(-明治4年)
1613年1月21日-09:00|日本| ||慶長17年12月|名古屋城天守閣完成
1613年2月20日-09:00|日本| ||慶長18年1月|<分封>池田忠雄:淡路洲本(由良城)63千石(-元和1年備中岡山を相
続)
1613年2月27日-09:00|日本| ||慶長18年1月8日|<改易>山口重政:常陸牛久1万5000石/無断婚姻により廃絶/武
1700迄(4525件)
蔵入間に幽閉
1613年3月3日-04:00|ロシア| ||ロシア暦2月21日|ミハイル・ロマノフが、ロシアのツァーリに選出される(ロマノフ朝の始まり)(-1645)
1613年4月19日-09:00|日本| ||慶長18年2月29日|<加増>小出吉英:和泉岸和田3万石→5万石
1613年4月20日-09:00|日本| ||慶長18年3月|徳川家康が先祖の新田義重を祀るために呑龍上人を迎えて大光院
新田寺創建(群馬県太田市、子育て呑龍)
1613年4月20日 00:00|イギリス/日本| |||イギリス東インド会社の艦船が平戸に来航
1613年4月21日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:トマソ・スピノラ(~16150421)
1613年5月16日-01:00|ドイツ/オランダ| |||ドイツの新教同盟が、オランダと同盟を結ぶ
1613年5月23日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでウスコッキ海賊、クリソトフォロ・ヴェニエルのガレー船拿捕、残虐の限りをつくす
1613年5月30日-09:00|日本| ||慶長18年4月11日|幕府、御番に関する法度五ヵ条制を出す
1613年6月13日-09:00|日本| ||慶長18年4月25日|大久保長安:老中解任(死去.69歳)
1613年6月22日-09:00|日本| ||慶長18年5月5日|土佐光吉(画家)死去『源氏物語図帖』[1539年生~](享年74)
1613年7月6日-09:00|日本| ||慶長18年5月19日|<移封>本多成重:井野⇒越前丸岡4万石(北庄藩松平忠直の付家
老として)
1613年7月23日-09:00|日本| ||慶長18年6月6日|<加増>池田忠継:播磨国宍粟・赤穂・佐用3郡約10万石(池田輝政
の遺領の一部)を加増→38万石
1613年7月23日-09:00|日本| ||慶長18年6月6日|<拝領>池田利隆:池田輝政遺領のうち播磨国42万石を与えられ
る
1613年8月2日-09:00|日本| ||慶長18年6月16日|幕府が、公家の生活を統制する公家諸法度と、僧が紫の袈裟を
着用するには勅許を必要とする勅許紫法衣法度を定める(のちの禁中並公家諸法度)
1613年8月7日-01:00|スペイン| |||エル・グレコ(スペイン対抗宗教改革画家)死去[1541年生~](享年73)
1613年8月17日-09:00|日本| ||慶長18年7月2日|(1日~)幕府は江戸で捕らえたキリシタン22人を鳥越で処刑
1613年8月24日-09:00|日本| ||慶長18年7月9日|<改易>大久保長安:武蔵八王子3万石/謀反予備のため廃絶/遺
子7人死罪
1613年9月15日-09:00|日本| ||慶長18年8月|<減封>青山成重:下総飯田1万石/大久保長安に連坐7000石減封
1613年9月15日-09:00|日本| ||慶長18年8月|青山成重:老中解任
1613年9月30日-09:00|日本| ||慶長18年8月16日|<改易>伊奈熊蔵忠勝:武蔵小室1万3000石/大久保長安事件連
座/子に1180石安堵
1613年10月9日-09:00|日本| ||慶長18年8月25日|<本家相続>浅野長晟:備中足守2万4千石(還付天領となる)→
紀伊和歌山37万6560石/兄幸長の遺領を継ぐ
1613年10月23日-02:00|ルーマニア| |||ガーボル・ベトレンがトランシルヴァニア公となる
1613年10月28日-09:00|日本| ||慶長18年9月15日|陸奥/伊達政宗による遣欧使節支倉常長一行が月浦を出航(
慶長遣欧使節
1613年11月9日-09:00|日本| ||慶長18年9月27日|<改易>大久保忠佐:駿河沼津2万石/無嗣廃絶
1613年11月12日-09:00|日本| ||慶長18年10月1日|<改易>里見義高:上野板鼻1万石/勤務懈怠/高崎に幽閉
1613年11月30日-09:00|日本| ||慶長18年10月19日|<加増移封>小笠原秀政:信濃飯田5万石→信濃松本8万石/次
に忠真が嗣ぐ(-元和3年播磨明石へ)
1613年11月30日-09:00|日本| ||慶長18年10月19日|<改易>石川康長:信濃松本6万石/大久保長安事件連座廃絶/
豊後佐伯に幽閉
1613年12月5日-09:00|日本| ||慶長18年10月24日|<改易>高橋元種:日向延岡5万石/富田信高に連座、廃絶陸奥
棚倉に幽閉
1613年12月5日-09:00|日本| ||慶長18年10月24日|<改易>富田信高:伊予宇和島12万石/坂崎左門の隠匿/廃絶磐
城平に幽閉/子孫は旗本として存続
1613年12月6日-09:00|日本| ||慶長18年10月25日|<改易>石川康勝:信濃国内1万5000石/大久保長安事件連座廃
絶
1613年12月12日-09:00|日本| ||慶長18年冬|<移封>北条氏重(保科正直の四男):下総岩富1万石→下野富田1万
石(-元和5年遠江久能へ)
1614年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第3代アグンが王都をカルタに置いた
1614年-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王シュリーランガ2世→同年<即位>国王ジャッガ・ラーヤ
(~1617年)
1614年-04:00|ロシア| |||<即位>カシモフ・ハン国(シビル・ハン国系)ハン:アルプ・アルスラーン[シビル・ハン国クチュム・ハンの孫](~1626年)
1614年-01:00|ベルギー| |||<即位>ベルク公ヴィッテルスバッハ家(プファルツ=ノイブルク系)ヴォルフガング・ヴィルヘルム(~1653年)
1614年-01:00|コンゴ共和国/コンゴ民主共和国| |||西アフリカのコンゴ王国で王位継承戦争が勃発
1614年-01:00|ドイツ| |||フランクフルトでフェットミルヒの乱がおこる
1614年 00:00|イギリス| |||ウォルター・ローリが「世界史」刊
1614年1月28日-09:00|日本| ||慶長18年12月19日|土御門内裏が完成し、後水尾天皇が移る
1614年2月-05:30|インド| |||メーワール地方の支配者アマルがムガル朝に服属
1614年2月1日-09:00|日本| ||慶長18年12月23日|幕府、正式にキリシタン禁令を出す
1614年2月9日-09:00|日本| ||慶長19年|<加増>近藤秀用:上野青柳(近藤)1万石(15千石で諸侯に列したが、5千
石を二男用可に分与)(-元和5年遠江井伊谷へ)
1614年2月19日-01:00|フランス| |||コンデ公マティエンヌに指揮された貴族が、摂政マリ・ド・メディシスに反抗してコンチーニに対し
て反乱を起こす
1700迄(4525件)
1614年2月22日-09:00|日本| ||慶長19年1月14日|村越直吉:死去により老中解任
1614年2月27日-09:00|日本| ||慶長19年1月19日|<改易>大久保忠隣:相模小田原6万5000石/山口重政と無断婚
姻/蟄居廃絶/嫡孫忠職2万石安堵
1614年3月6日-09:00|日本| ||慶長19年1月26日|キリシタン大名高山右近が捕らえられる
1614年3月7日-09:00|日本| ||慶長19年1月27日|<改易>佐野信吉:下野佐野3万9000石/富田信高事件連座廃絶天
領となる/信濃松本に幽閉/子孫は旗本として存
1614年3月12日-09:00|日本| ||慶長19年2月2日|大久保忠隣:老中解任
1614年4月7日-01:00|イタリア| |||スペイン・クレタ島生まれの画家グレコ死去
1614年4月9日-09:00|日本| ||慶長19年3月|<任命>筒井正次:大和福住1万石を給し、郡山城を守衛せしむ
1614年4月9日-08:00|中国| ||明・万暦42年3月|万暦帝の子副王常洵が莫大な庄田を与えられ、洛陽の領地に赴
く
1614年4月15日-09:00|日本| ||慶長19年3月7日|<改易>加賀山隼人佐:不明1万石/キリスト教信仰により改易、弘前
に幽閉
1614年5月24日-09:00|日本| ||慶長19年4月16日|豊臣秀頼方広寺を再建
1614年6月7日-08:00|中国| ||明・万暦42年5月|福建で税監の苛斂誅求に対して暴動がおこる
1614年7月3日-09:00|日本| ||慶長19年5月26日|出羽、阿仁金山が開山し、幕府の直轄となる
1614年8月6日-09:00|日本| ||慶長19年7月|<加増移封>有馬直純:肥前日之江4万石→日向延岡5万3千石/以後康
純、清純と続く(-元禄4年越後糸魚川へ)
1614年8月10日-09:00|日本| ||慶長19年7月05日|<移転>松平忠輝(徳川家康の六男):越後福島→越後高田75万
石(-元和2年改易)
1614年8月17日-09:00|日本| ||慶長19年7月12日|<死去>京都の豪商角倉了以.61歳
1614年8月22日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ズルツバッハ公(プファルツ系ヴィッテルスバッハ家)アウグスト(~16320814死去)
1614年9月25日-09:00|日本| ||慶長19年8月21日|<加増>山田勝重:上田2万石→2万6千石
1614年10月-01:00|イタリア| |||ガリレオが顕微鏡を使用
1614年10月4日-09:00|日本| ||慶長19年9月|伊勢踊り、流行始まる
1614年10月12日-09:00|日本| ||慶長19年9月9日|<減封>里見安房守忠義:安房館山12万石/大久保忠隣事件連座
→伯耆倉吉3万石(-元和8年死後、断絶)
1614年10月27日-01:00|フランス| |||パリで、聖職者、貴族、平民の代表からなる全国三部会が召集される/以後175年
間続く
1614年10月27日-09:00|日本| ||慶長19年9月24日|キリシタン大名の高山右近が国外追放処分を受け、長崎を出港しル
ソン島マニラへ向かう
1614年11月2日-09:00|日本| ||慶長19年10月|<移封>井伊直勝:近江彦根→上野安中3万石/移封/以後直好が嗣
ぐ(-正保2年三河西尾へ)
1614年11月2日-09:00|日本| ||慶長19年10月1日|徳川家康、豊臣秀頼に対し宣戦布告/大阪冬の陣
1614年11月12日-01:00|フランス| |||クサンテン条約が結ばれてユーリッヒ・クレーヴェ戦争が終結
1614年11月14日-09:00|日本| ||慶長19年10月13日|豊臣軍、堺を占領/救援に向かった片桐軍、撤退
1614年11月19日-01:00|フランス/ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガル軍、サンルイス島に向き合って砦を建設。フランス軍基地を攻
撃。この攻撃でフランス人90人、先住民400人が死亡
1614年11月26日-09:00|日本| ||慶長19年10月25日|幕府が東海・東山道に新たな関所を設置
1614年12月7日-09:00|日本| ||慶長19年11月7日|池田忠継、神崎川を渡り、中島の敵を落として進撃。大和田を
取る
1614年12月19日-09:00|日本| ||慶長19年11月19日|軍事衝突開始/大阪方は木津川口の砦を失う/徳川方は伝法
川口も支配し大阪方の水上補給路を断つ
1614年12月26日-09:00|日本| ||慶長19年11月26日|徳川家康方の佐竹義宣・上杉景勝が大坂方の後藤基次・木村
重成と今福・鴫野で激突、大坂方が勝つ
1614年12月29日-09:00|日本| ||慶長19年11月29日|東軍の石川忠総・蜂須賀至鎮が大坂方の薄田兼相の拠る博
労ヶ淵砦を攻撃、兼相不在のため守備兵はみな逃げ散る
1615年-07:00|タイ| |||ナーンの国主パヤ・ポンスークサイをラーンナー王朝の国主に任命(~1631年)
1615年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)アレクサンドル6世(~1616年)
1615年 07:00|メキシコ/ペルー| |||英国人海賊ジョージ・スピルバーグ,アンデス西岸を北上.メキシコとペルーの港を攻撃
1615年1月3日-09:00|日本| ||慶長19年12月4日|前田利常と松平忠直、大坂城の出城真田丸に攻めかかるも敗北
1615年1月19日-09:00|日本| ||慶長19年12月20日|徳川軍と豊臣軍との和平が成立/大坂城の二の丸・三の丸の
濠を埋めることになる
1615年1月27日-09:00|日本| ||慶長19年12月28日|<拝領>伊達秀宗:伊予宇和島10万2154石/以後宗利(72147石)
、宗贇(10万402石)、村年、村候、村寿、宗紀、宗城、宗徳と続く(-明治4年)
1615年1月29日-09:00|日本| ||慶長20・元和1年|<拝領>伊東長実:備中岡田10300石/以後長昌、長治、長貞、長救、
長丘、長詮、長寛、長裕、長トシと続く(-明治4年)
1615年1月29日-09:00|日本| ||慶長20・元和1年|<分封>西尾嘉教:美濃揖斐3万石→2万5千石/5千石を弟氏教に
1615年2月24日-09:00|日本| ||慶長20年1月27日|<拝領>井上正就:小姓組番頭/1万石
1615年2月28日-09:00|日本| ||慶長20年2月|<加増移封>井伊直孝:上野白井1万石/還付→彦根15万石/兄直勝の
遺領を継ぐ
1615年3月9日-09:00|日本| ||慶長20年2月10日|名古屋城本丸が完成し徳川義直が入る
1700迄(4525件)
1615年4月2日-09:00|日本| ||慶長20年3月05日|筒井定次:大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、
自害を命じられる
1615年4月11日-09:00|日本| ||慶長20年3月14日|<改易>奥平信昌:美濃加納5万石/無嗣廃絶
1615年4月12日-09:00|日本| ||慶長20年3月15日|筒井定次・順定父子が大坂方内通の疑いで自刃させられる/定
次享年54歳
1615年4月25日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ベルナルド・クラヴァレッツァ(~16170425)
1615年5月23日-09:00|日本| ||慶長20年4月26日|大坂方の軍勢が大和郡山城を攻略/守将筒井正次自殺/大坂夏
の陣開戦
1615年5月26日-09:00|日本| ||慶長20年4月29日|<樫井の戦い>夜明け、豊臣軍の先鋒塙直之、岡部則綱と亀田高
綱の間で戦闘開始.亀田は豊臣軍を樫井まで誘引し樫井では亀田隊に浅野知近、上田重安らが加わり豊臣軍と
激戦.岡部は敗走、塙と淡輪は戦死.戦闘後、浅野勢は一旦紀伊国山口まで撤退
1615年5月30日-08:00|中国| ||明・万暦43年5月4日|万暦帝の皇太子の朱常洛を狙った刺客が慈慶宮に侵入して
取り押えられる(梃撃の案)
1615年6月-01:00|オランダ/オーストラリア| |||ル・メールのオーストラリア会社が通商航海を開始
1615年6月2日-09:00|日本| ||慶長20年5月6日|<若江の戦い>豊臣軍の木村重成、徳川軍の井伊直孝本隊に破れ
討死
1615年6月2日-09:00|日本| ||慶長20年5月6日|<道明寺口の合戦>豊臣軍の後藤又兵衛、薄田隼人正らが徳川軍
本多忠朝・長重と戦い討死
1615年6月2日-09:00|日本| ||慶長20年5月6日|<八尾の戦い>徳川軍の藤堂高虎、豊臣軍の長宗我部盛親を破り、
殿を務めていた増田盛次を討ち取る
1615年6月2日-09:00|日本| ||慶長20年5月6日|<誉田合戦>豊臣軍の真田信繁、毛利勝永らが伊達政宗隊に攻め
迫るも、他所での敗報に触れて退却
1615年6月3日-09:00|日本| ||慶長20年5月7日|<天王寺口合戦>豊臣軍毛利勝永、真田信繁ら一時徳川家康本陣
に迫る勢いだったが、兵力に劣り、討死
1615年6月4日-09:00|日本| ||慶長20年5月8日|<改易>豊臣秀頼:摂津大坂657400石とその母淀殿が自害し、豊臣
氏は滅亡/秀頼23歳(誕生:文禄2(1593)0803)淀殿49歳(誕生:永禄10(1567))大坂夏の陣が終る
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<加増>青木一重:摂津麻田1760石→1万2千石(2千石弟の可直に
分知1万石)/加増/以後重兼、重成、重矩、一典、一都、見典、一新、一貫、一貞、重竜、一興、一咸、重義と続く(-明治4
年)
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<加増>片桐且元:大和龍田2万8千石→4万石/大坂両陣では徳川
方に属して戦う
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<加増移封>(松平)奥平忠明:伊勢亀山5万石→摂津大坂10万石(
-元和5年大和郡山へ)
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<再興>木下利房:備中足守25千石/以後利当、利貞、キン定、利潔、
利忠、利彪、利徽、利徳、利愛、利恭と続く(-明治4年)
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<拝領>佐久間勝之:信濃長沼13千石/以後勝友、勝豊(1万石)、勝
チカと続く(-貞享5年領地没収・絶家/御側小姓を命じられたが受けず逼塞)
1615年6月6日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|<拝領>堀直重:信濃須坂12053石/以後直升(10053石)、直輝、直
佑、直英、直寛、直堅、直郷、直晧、直興、直格、直武、直虎、直明(15053石)と続く(-明治4年)
1615年6月8日-09:00|日本| ||慶長20年5月10日|筒井定慶:南都で自害
1615年6月11日-09:00|日本| ||慶長20年5月15日|土佐の大名長宗我部盛親が六条河原で斬首される.41歳(誕生
:1575)
1615年6月19日-09:00|日本| ||慶長20年5月23日|豊臣秀頼の遺児国松(8歳)が京中引廻しのうえ六条河原で斬
首
1615年6月23日-09:00|日本| ||慶長20年5月27日|増田長盛が息子盛次の大坂方加担の罪を問われ自刃/享年71
歳
1615年6月24日-09:00|日本| ||慶長20年5月28日|<死去>豊臣家元家老片桐且元(大和龍田4万石)自刃.60歳
1615年6月24日-09:00|日本| ||慶長20年5月28日|<就任>池田輝興:播磨平福(利神城)2万5千石/兄の備前岡山藩
主忠継の遺領の一部拝領(-寛永8年播磨赤穂へ)
1615年6月24日-09:00|日本| ||慶長20年5月28日|<就任>池田輝澄:播磨山崎6万3千石/兄の備前岡山藩主忠継の
遺領の一部拝領(-寛永17年家内の不治により因幡鹿野に蟄居)
1615年6月24日-09:00|日本| ||慶長20年5月28日|<就任>池田政綱:播磨赤穂35千石/兄忠継遺領の一部拝領(-寛
永8年無嗣断絶)
1615年6月26日-09:00|日本| ||慶長20年6月1日|江戸で地震/家屋が倒壊し,死傷多く,地割れを生じた
1615年7月6日-09:00|日本| ||慶長20年6月11日|<改易>吉田織部正重:不明1万石/大坂の役で末子が大坂方にい
たため廃絶自刃/「織部焼」の創始者
1615年7月22日-09:00|日本| ||慶長20年6月27日|大坂方の大野道犬(治胤)が堺の町を引き回され、のち京都三
条河原で斬首
1615年7月23日-09:00|日本| ||慶長20年6月28日|<移封>池田忠雄:淡路洲本6万石/天領となる→備前31万5千石
/池田忠継無嗣子による
1615年7月23日-09:00|日本| ||慶長20年6月28日|藤堂高虎:大坂夏の陣の功により、徳川家康から伊勢国の鈴鹿
、安芸、三重、一志の四郡のうち5万石を加増/合計27万950石
1700迄(4525件)
1615年7月26日-09:00|日本| ||慶長20年閏6月|<移封>内藤信正:近江長浜→摂津高槻4万石(-元和3年伏見城代
へ)
1615年7月29日-09:00|日本| ||慶長20年閏6月04日|<加増>蜂須賀至鎮:阿波+淡路6万3千余石
1615年8月7日-09:00|日本| ||慶長20年閏6月13日|一国一城令/大名の本城を除く支城はすべて破壊するように
命令
1615年8月9日-01:00|フランス| |||コンデ公が新教徒と結んで再び反乱を起こす
1615年8月19日-09:00|日本| ||慶長20年閏6月25日|<改易>福島正頼:大和松山3万石/家内不正により廃絶/子に
500石安堵
1615年8月23日-09:00|日本| ||慶長20年閏6月29日|<改易>織田信重:伊勢林1万石/所領没収/林藩は一代で廃絶
1615年8月30日-09:00|日本| ||慶長20年7月7日|将軍秀忠が13ヶ条の武家諸法度を布告
1615年9月3日-09:00|日本| ||慶長20年7月11日|<加須移封>松倉重政:大和二見五条10,307石→肥前島原3万石
1615年9月5日-09:00|日本| ||元和1年|青山忠俊:老中就任(-寛永12年12月)
1615年9月5日-09:00|日本| ||元和1年7月13日|「元和」に改元
1615年9月9日-09:00|日本| ||元和1年7月17日|江戸幕府、禁中並公家諸法度を制定
1615年9月13日-09:00|日本| ||元和1年7月21日|<加増移封>水野勝成:三河刈谷3万石→大和郡山6万石(-元和5
年備後福山へ)
1615年9月13日-09:00|日本| ||元和1年7月21日|<拝領>建部政長:摂津尼崎1万石(-元和3年播磨林田へ)
1615年9月13日-09:00|日本| ||元和1年7月21日|<拝領>池田重利:摂津国川辺郡など1万石
1615年9月15日-09:00|日本| ||元和1年7月23日|<拝領>織田信雄(織田信長の次男):大和松山31235石/以後高長
、長頼(弟長政に3千石分知28235石)、信武、信休と続く(-元禄8年丹波柏原へ);上野小幡2万石/以後信良、信昌、
信久、信就、信右、信富、信邦と続く(-明和4年出羽高畠へ)
1615年9月16日-09:00|日本| ||元和1年7月24日|徳川家康、仏教の諸宗派の掟を定めた「諸宗寺院法度」を公布
1615年10月2日-09:00|日本| ||元和1年8月10日|<加増>徳川義直:尾張/木曽山及び美濃の地3万石を加封
1615年10月4日-09:00|日本| ||元和1年8月12日|<拝領>織田尚長:大和柳本1万石/以後長種、秀一、秀親、成純、秀
行、信方、秀賢、長恒、秀綿、秀陽、信成、信及と続く(-明治4年)
1615年10月4日-09:00|日本| ||元和1年8月12日|<拝領>織田長政:大和戒重1万石/以後長定、長明、長清、長弘、長
亮、輔宜と続く(-延享2年大和芝村へ)
1615年10月29日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首マーカントーニオ・メンモ死去
1615年11月1日-09:00|日本| ||元和1年9月10日|徳川家康が松平忠輝の越後70万石を没収・松平忠輝を武蔵の深
谷に屏居
1615年12月2日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第92代ジョヴァンニ・ベンボ(~16180316)
1615年12月21日-09:00|日本| ||元和1年11月|<加増移封>松平忠昌(結城秀康の次男):上総姉崎1万石→常陸下
妻3万石(-元和2年信濃松代へ)
1616年-08:00|インドネシア/オランダ| |||オランダがバタビアに、東インド会社の植民地経営の拠点を建設
1616年-08:00|フィリピン/オランダ| |||オランダがフィリピンを攻撃(3次)
1616年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第8代国王ラジャ・ビル(青の女王)(~1624年)
1616年-05:30|インド| |||ヴィジャヤナガル朝の内戦が決着
1616年-05:30|インド/オランダ| |||オランダがインドのスーラトに商館を開設
1616年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)ラドゥー・ミーニア(~1619年)
1616年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(モヴィレスティ家)ガブリエル・モヴィル⇒同年<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)アレクサンドル4
世(~1618年)
1616年-02:00|モザンビーク/ザンビア/ジンバブエ/ポルトガル| |||ポルトガル人がザンベジ川上流を探検
1616年-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国首席大臣コンチノ・コンシーニ(~16170424死去)
1616年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)フレゼリク3世(~1659年)
1616年-01:00|デンマーク| |||クリスチャン4世、デンマーク東インド会社設立
1616年 03:00|ブラジル/ポルトガル| |||フランシスコ・デ・カルデイラ,ガスパル・デ・ソウザ総督の命を受け,セアラからマラニョンに進出.サ
ンルイス・ド・マラニョンのフランス人を駆逐.さらにアマゾン河口にパラ要塞(現ベレン)を建築.原住民とフランス人・イギリス人植民者を
駆逐
1616年 04:00|ガイアナ/オランダ| |||オランダ,ガイアナに植民地を建設
1616年 04:00|ガイアナ/フランス| |||フランス人はアマゾン河北岸(現仏領ギアナ)に入植
1616年 06:00|アメリカ| |||ニューイングランドで伝染病が蔓延し、インディアンが多量死
1616年 07:00|メキシコ| |||メキシコ南部地方でサポテカ族の反乱起こる
1616年1月19日-09:00|日本| ||元和1年12月1日|<移封>(松平)大須賀忠次:遠江横須賀6万石→上野館林10万石(
榊原康勝の遺領を相続)/横須賀6万石は幕府に収
1616年1月26日-01:00|オランダ/チリ| |||オランダ人スハウテンがヨーロッパ人で最初にホーン岬を回航
1616年2月13日-09:00|日本| ||元和1年12月26日|<加増>阿部正次:下野国に7千石加増
1616年2月13日-09:00|日本| ||元和1年12月26日|<加増移封>(松平)戸田康長:常陸笠間3万石→上野高崎5万石(
-元和3年信濃松本へ)
1616年2月13日-09:00|日本| ||元和1年12月26日|<加増移封>松倉重政:大和五条10,307石→肥前日野江4万3千
石(すぐに島原へ移転)/次に勝家が嗣ぐ(-寛永15年島原の乱の責めを負い切腹、断絶)
1616年2月13日-09:00|日本| ||元和1年12月26日|<再拝領>岩城貞隆(佐竹義重の三男):信濃川中島1万石/次に
吉隆(2万石)が嗣ぐ(-元和8年出羽亀田へ)
1700迄(4525件)
1616年2月13日-09:00|日本| ||元和1年12月26日|<拝領>水野忠元:下総山川35千石/次に忠善が嗣ぐ(-寛永12年
駿河田中へ)
1616年2月17日-09:00|日本| ||元和2年|<移封>稲葉紀通:伊勢田丸→摂津中島45700石(-寛永1年丹波福知山へ)
1616年2月17日-09:00|日本| ||元和2年|<移封>西尾忠永(酒井重忠の三男):武蔵原市→上野白井2万石(-元和4
年常陸土浦へ)
1616年2月17日-09:00|日本| ||元和2年|<分封>松平直政:越前木本1万石/兄の福井藩松平忠直より分知
1616年2月17日-09:00|日本| ||元和2年|李参平(金ヶ江三兵衛)が泉山陶石を発見(有田焼)/佐賀県
1616年2月17日-08:00|中国| ||金・天命1年1月1日|女真族を統一したヌルハチがヘアトラで即位(-1626)し、後金が成立/
天命と改元
1616年4月16日-09:00|日本| ||元和2年3月|森忠政が津山城完成/岡山県
1616年4月16日-08:00|中国| ||明・万暦44年3月|江蘇華亭県で民衆暴動がおこる
1616年4月23日-01:00|スペイン| |||スペインの作家ミゲール=セルバンテス死去/68歳(誕生:15471009)「ドン・キホーテ」の作者
1616年4月25日-09:00|日本| ||元和2年3月10日|幕府が銭通用規則を出す
1616年5月3日-01:00|フランス| |||コンデ公に指揮された貴族の反乱がルーダンの和約によって終結
1616年5月3日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦4月23日|イギリスの戯曲作家ウィリアム=シェイクスピア死去/52歳(誕生:15640423)
1616年5月16日-09:00|日本| ||元和2年4月|真田信之:沼田藩、藩庁を上田城に移す→上田藩
1616年5月18日-09:00|日本| ||元和2年4月03日|<加増移封>水野忠清:上野小幡1万石→三河刈谷2万石(-寛永9
年三河吉田へ)
1616年6月1日-09:00|日本| ||元和2年4月17日|安藤直次:老中解任
1616年6月1日-09:00|日本| ||元和2年4月17日|成瀬正成:老中解任
1616年6月1日-09:00|日本| ||元和2年4月17日|徳川家康が駿府城で死去/75歳(誕生:天文11(1542)1226)駿府久
能山に葬られる
1616年6月18日-09:00|日本| ||元和2年5月5日|京都・東河原で石合戦があり、死傷者を出す/民衆の幕府への反
発の現れとも言われる
1616年6月21日-09:00|日本| ||元和2年5月8日|幕府が下田港の守護と諸船出入りの監督のため下田奉行を置く
1616年6月24日-09:00|日本| ||元和2年5月11日|幕府が悪銭の使用と撰銭を禁止し、金1分=銭1貫文の取り引き
厳守を命じる
1616年7月12日-09:00|日本| ||元和2年5月29日|酒井忠利:老中就任(-寛永4年11月14日)
1616年7月12日-09:00|日本| ||元和2年5月29日|内藤清次:老中就任(-元和3年7月1日)
1616年7月14日-09:00|日本| ||元和2年6月|この月、幕府が軍役制を改定(元和軍役令)
1616年7月14日-09:00|日本| ||元和2年6月|この月、幕府が駿府町奉行を廃止
1616年7月20日-09:00|日本| ||元和2年6月07日|本多正純:老中就任(-1622年10月1日)
1616年7月20日-09:00|日本| ||元和2年6月7日|本多正信:老中解任(死去)
1616年8月8日-09:00|日本| ||元和2年6月26日|<加増移封>細川興元(長岡藤孝の次男):下野茂木3800石→常陸
谷田部1万石(後16200石)/以後興昌、興隆、興栄(検知で100石見直し16300石)、興虎、興晴、興徳、興建、興貫(-明
治4年下野茂木に本拠を移した)
1616年8月13日-09:00|日本| ||元和2年7月|<加増>本多正重:下総船戸8千石→1万石/以後正貫(-元和3年正重が
死去したとき2千石減封となり、旗本に降格)
1616年8月13日-09:00|日本| ||元和2年7月|この月、幕府が年貢米・升目・口銭制を制定
1616年8月17日-09:00|日本| ||元和2年7月5日以降|<加増移封>稲垣重綱:上野伊勢崎1万石/前橋藩に吸収→越
後藤井2万石/移封(-元和6年越後三条へ)
1616年8月17日-09:00|日本| ||元和2年7月5日以降|<加増移封>牧野忠成:上野大胡→越後長峰5万石(-元和4年
越後長岡へ)
1616年8月17日-09:00|日本| ||元和2年7月5日|<改易>松平忠輝(将軍秀忠の弟):越後高田60万石/素行不良、主
従関係を犯したとして伊勢に配流
1616年8月22日-09:00|日本| ||元和2年7月10日|<改易>山田長門守(忠輝の傅):1万石/忠輝に連坐除封
1616年8月26日-09:00|日本| ||元和2年7月14日|<改易>藤田信吉:下野西方1万5000石/大坂の陣の不手際により
廃絶
1616年9月1日-01:00|フランス| |||反乱を起こしたコンデ公が逮捕されてバスチーユに投獄される
1616年9月6日-09:00|日本| ||元和2年7月25日|<加増移封>(松平)久松定綱:下総山川1万5千石→常陸下妻3万石
/移封(-元和5年遠江掛川へ)
1616年9月6日-09:00|日本| ||元和2年7月25日|<加増移封>松平忠昌:常陸下妻3万石→信濃松代12万石(-元和4
年越後高田へ)
1616年9月7日-09:00|日本| ||元和2年7月25日|<移封>(松平)戸田氏鉄:近江膳所→摂津尼崎5万石
1616年9月9日-09:00|日本| ||元和2年7月28日|仙台で大地震。城壁楼櫓悉く倒壊
1616年9月11日-09:00|日本| ||元和2年8月|この月、幕府が関東諸関所条目を制定
1616年9月12日-09:00|日本| ||元和2年8月02日|<移封>市橋長勝:伯耆矢橋→越後三条41300石/次に長政(2万石
)が嗣ぐ(-元和6年近江仁正寺へ)
1616年9月18日-09:00|日本| ||元和2年8月8日|幕府が耶蘇教を禁じ、明船を除く外国船の長崎・平戸以外の寄港
を禁ず
1616年9月19日-09:00|日本| ||元和2年8月9日|<改易>大久保忠為:美濃大垣新田1万石/無嗣廃絶
1616年10月21日-09:00|日本| ||元和2年9月11日|<改易>坂崎直盛:石見津和野3万石/謀反自刃廃絶
1700迄(4525件)
1616年10月23日-09:00|日本| ||元和2年9月13日|<拝領>徳川忠長:甲府23万8000石
1616年11月5日-09:00|日本| ||元和2年9月26日|<加増移封>(松平)久松忠良:下総関宿4万石→美濃大垣5万石/
次に憲良が嗣ぐ(-寛永1年信濃小諸へ)
1616年11月5日-09:00|日本| ||元和2年9月26日|<加増移封>石川忠総:美濃大垣5万石→豊後日田(永山城)6万石
(-寛永10年下総佐倉へ)
1616年11月5日-09:00|日本| ||元和2年9月26日|<拝領>本多忠刻:播磨国内10万石/千姫との婚姻に際し化粧料(
-寛永3年無嗣断絶)
1616年11月9日-09:00|日本| ||元和2年10月|<加増移封>佐久間安政:近江小河1万5千石→信濃飯山3万石/以後
安長、安次と続く(-寛永15年無嗣断絶)
1616年11月9日-09:00|日本| ||元和2年10月|<加増移封>堀直竒:信濃飯山4万石→越後蔵王堂8万石(-元和4年越
後村上へ)
1616年11月12日-09:00|日本| ||元和2年10月3日|煙草の栽培を禁ず
1616年11月22日-09:00|日本| ||元和2年10月14日|幕府:人身売買を禁止
1616年11月23日-09:00|日本| ||元和2年10月15日|<加増移封>酒井家次:上野高崎5万石→越後高田10万石/次に
忠勝が嗣ぐ(-元和4年信濃川中島へ)
1616年12月3日-09:00|日本| ||元和2年10月25日|銚子沖で突風により漁民千人以上が遭難
1616年12月9日-09:00|日本| ||元和2年11月|幕府、伝馬及び荷物駄賃の規則を制定
1617年-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王ラーマ・デーヴァ・ラーヤ(~1630年)
1617年-02:00|トルコ| |||オスマン朝15代ムスタファが即位
1617年-01:00|フランス| |||<即位>ヴュルテンベルク=メンペルガルト(モンベリアル)公ルートヴィヒ・フリードリヒ[フリードリヒ1世の次男、ヴュルテン
ベルク公ヨハン・フリードリヒの弟](~1631年)
1617年-01:00|オランダ/フィリピン| |||オランダがフィリピンを攻撃(4次)
1617年-01:00|オランダ/オーストラリア| |||オランダ人がオーストラリア西海岸を探検
1617年 03:00|アルゼンチン| |||ラプラタ地方,アスンシオン地域とブエノス・アイレス地域に分割される
1617年1月25日-09:00|日本| ||元和2年12月18日|<減封>成田氏宗:下野烏山3万7000石→1万石/幼少のため
1617年2月2日-09:00|日本| ||元和2年12月26日|<拝領>前田利孝:上野七日市1万石/以後利意、利広、利慶、利英、
利理、利尚、利見、利以、利和、利豁、利昭と続く(-明治4年)
1617年2月3日 03:00|ブラジル| |||マラニョンのトゥピナンバ系クマ族、奴隷化は必至と見て反乱。タプイタペラの砦を襲撃。白人
30人を殺害。Mathias de Albuquerque(知事の息子)、50人の兵士と先住民兵200を率い、クマ族をジャングルに追い込
む
1617年2月6日-09:00|日本| ||元和3年|<加増移封>土岐定義:下総守谷1万石→摂津高槻2万石(-元和5年定義死
亡により改易)
1617年2月6日-09:00|日本| ||元和3年|<拝領>長谷川守知:美濃国内10111石(-寛永9年没後、正尚が違領を継い
だとき、弟守勝に3千石分与し旗本に降格)
1617年2月6日-09:00|日本| ||元和3年|准如が本願寺築地別院(築地本願寺)創建/東京都
1617年2月6日-09:00|日本| ||元和3年|水野忠元:老中就任(-1620年10月6日)
1617年2月6日-09:00|日本| ||元和3年1月|蜂須賀至鎮:岩屋廻り1万7千石を加増され、淡路全島が蜂須賀領とな
った
1617年2月7日 03:00|ブラジル| |||パラ州クマで奴隷狩りに反抗するトゥピナンバ族の反乱が発生
1617年3月8日-09:00|日本| ||元和3年2月|<加増移封>池田長幸:因幡鳥取6万石→備中松山6万5千石/次に長常
が嗣ぐ(-寛永18年無嗣断絶)
1617年3月8日-09:00|日本| ||元和3年2月|芝東照宮建立/東京都
1617年3月9日-01:00|スウェーデン/ロシア| ||ロシア暦2月27日|ストルボヴァで、ロシアがスウェーデンと和議を結び、戦争(イングリア戦争
)を終わらせた/スウェーデンは占領していたノヴゴロドをロシアに返還/スウェーデンは王弟カール・フィリップのツァーリ継承を放棄/スウ
ェーデンはインゲルマンラント(イングリア)及び西カレリア、ロシアは東カレリアを獲得する(カレリアの分割)
1617年3月31日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1617/3/21|ポカホンタス(レベッカ)がイギリスで没(誕生:1595頃)アメリカインディ
アンの王女だったが、ジョン・ロルフと結婚した
1617年4月11日-09:00|日本| ||元和3年3月06日|<移封>池田重利(頼広)(下間頼竜の嫡子):摂津の内1万石→播
磨鵤1万石(-寛永3年播磨新宮へ)
1617年4月11日-09:00|日本| ||元和3年3月6日|<減移封>池田光政:播磨姫路42万石→因幡鳥取32万石/幼少のた
(-寛永9年備前岡山へ)
1617年4月24日-01:00|フランス/イタリア| |||フランス、ルイ13世と対立していた摂政マリー・ド・メディシスの寵臣、イタリア人コンチーニがルー
ブル宮で暗殺される/ルイ13世の母のマリーもブロワに追放となる
1617年4月25日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・ジャコモ(~16190429)
1617年5月5日-09:00|日本| ||元和3年4月|<分封>毛利就隆:周防下松3万石(後4万5千石⇒慶安3年周防徳山へ)
1617年5月16日-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)フェルディナンド2世(~16370215)
1617年6月4日-09:00|日本| ||元和3年5月|<加増>藤堂高虎:徳川秀忠より、伊勢田丸城5万石加増⇒合計32万3千
石/以後高次、高久(弟高通に5万石、高堅に3千石分与27万950石)、高睦、高敏、高治、高朗、高悠、高嶷、高兌、高猷、
高潔と続く(-明治4年)
1617年6月6日-01:00|オーストリア/スペイン| |||オーストリアとスペインのハプスブルク家が、王位継承の相互条約を結ぶ
1617年6月9日-02:00|トルコ| |||イスタンブールで、建築家アフメト・アーによるスルタン・アフメト・ジャーミー(ブルー・モスク)が完成し、落成式
が行われる
1700迄(4525件)
1617年6月20日-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国(オデヤ朝)ラージャ・オデヤ1世→<即位>チャーマ・ラージャ6世[孫]
1617年6月23日-09:00|日本| ||元和3年5月20日|幕府が諸駅の人馬宿賃を走める
1617年7月1日 03:00|ブラジル| |||パラのトゥピナンバ族も反乱。ベレンの要塞を攻撃し白人14人を殺害.Diogo Botelho
はトゥピナンバ族最大の集落クジュを破壊。この戦いで指導者のグアイミアバが戦死.残存勢力はグアマ川流域で再編成さ
れる
1617年7月13日-01:00|ポーランド| |||<即位>チェシン公(シロンスク・ピャスト家)フリデリク・ヴィルヘルム(~16250819死去)
1617年8月2日-09:00|日本| ||元和3年7月|<移封>安藤直次:遠江川崎の内→遠江掛川28千石(-元和5年紀伊田辺
へ)
1617年8月2日-09:00|日本| ||元和3年7月|<移封>山崎家治:因幡若桜3万石/以後鳥取藩領→備中成羽3万石(-寛
永15年肥後富岡へ)
1617年8月2日-09:00|日本| ||元和3年7月1日|内藤清次:老中解任
1617年8月4日-09:00|日本| ||元和3年7月3日|<減封>本多正重:下総相馬1万石/嫡子幼少のため2千石を収公
1617年8月15日-09:00|日本| ||元和3年7月14日|<移封>内藤信正:摂津高槻→山城伏見5万石(-元和5年大坂城代
へ)
1617年8月15日-09:00|日本| ||元和3年7月14日|<加増移封>(松平)久松定勝:山城伏見5万石→伊勢桑名11万7千
石/以後定行、定綱(美濃大垣6万石→11万3千石)、定良、定重(-宝永7年越後高田へ)
1617年8月15日-09:00|日本| ||元和3年7月14日|<加増移封>本多忠政:伊勢桑名10万石→播磨姫路15万石/以後
政朝、政勝と続く(-寛永15年大和郡山へ)
1617年8月21日-09:00|日本| ||元和3年7月20日|<移封>加藤貞泰:伯耆米子→伊予大洲6万石/以後泰興、泰恒、泰
統、泰温、泰ミチ、泰武、泰行、泰候、泰済、泰幹、泰祉、泰秋と続く(-明治4年)
1617年8月21日-09:00|日本| ||元和3年7月20日|<移封>脇坂安元:伊予大洲53500石→信濃飯田5万5千石/次に安
政が嗣ぐ(-寛文12年播磨龍野へ)
1617年8月21日-09:00|日本| ||元和3年7月20日|<加増>坂崎直盛:津和野藩3万石+1万石/大阪の陣で千姫救出に
活躍
1617年8月22日-09:00|日本| ||元和3年7月21日|酒井忠世:老中就任(-寛永11年閏7月21日)
1617年8月22日-09:00|日本| ||元和3年7月21日|幕府、寺社法度、転封(大名の異動)に関する法度制定
1617年8月26日-09:00|日本| ||元和3年7月25日|<加増移封>戸田氏鉄:近江膳所3万石→摂津尼崎5万石(-寛永12
年美濃大垣へ)
1617年8月29日-09:00|日本| ||元和3年7月28日|<加増移封>(松平)戸田康長:上野高崎5万石→信濃松本7万石/
次に康直が嗣ぐ(-寛永10年播磨明石へ)
1617年8月29日-09:00|日本| ||元和3年7月28日|<加増移封>小笠原忠真:信濃松本8万石→播磨明石10万石(-寛
永9年豊前小倉へ)
1617年8月31日-09:00|日本| ||元和3年8月|<加増移封>(松平)藤井信吉:常陸土浦3万5千石→上野高崎5万石(元和5年丹波篠山へ)
1617年9月6日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで一般平和に対する条約
1617年9月12日-09:00|日本| ||元和3年8月13日|<移封>亀井政矩:因幡鹿野4万3千石/以後鳥取藩領→石見津和
野43468石/以後茲政、茲親、茲満、茲延、茲胤、矩貞、矩賢、茲尚、茲方、茲監と続く(-明治4年)
1617年9月25日-09:00|日本| ||元和3年8月26日|後陽成天皇(上皇)死去/47歳(誕生:元亀2(1571)1215)。107代天
皇
1617年9月26日-01:00|イタリア/スペイン| |||ベネツィア,パリ条約を確認するマドリード条約
1617年9月27日-01:00|ポーランド/トルコ/リトアニア| |||オスマン朝がポーランド・リトアニア共和国と和平
1617年9月30日-09:00|日本| ||元和3年9月|<移封>建部政長:摂津尼崎→播磨林田1万石/以後政明、政宇、政周、
政民、長教、政賢、政醇、政和、政世と続く(-明治4年)
1617年9月30日-09:00|日本| ||元和3年9月|<移封>本多政朝:上総大多喜→播磨龍野5万石(-寛永3年播磨姫路へ
)
1617年9月30日-09:00|日本| ||元和3年9月|<加増移封>阿部正次:武蔵鳩ヶ谷2万3千石→上総大多喜3万石(-元
和5年相模小田原へ)
1617年10月30日-09:00|日本| ||元和3年10月|<移封>本多康俊:三河西尾→近江膳所3万石/次に俊次が嗣ぐ(-元
和7年三河西尾へ)
1617年10月30日-09:00|日本| ||元和3年10月|<加増移封>松平成重:下総板橋1万石→三河西尾2万石(-元和7年
丹波亀山へ)
1617年11月11日-01:00|スペイン/ガイアナ| |||ローリが第2回ギアナ探検に出発
1617年11月13日-09:00|日本| ||元和3年10月15日|<移封>永井直勝:上野小幡→常陸笠間3万2千石(後52千石)(元和8年下総古河へ)
1617年11月22日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第15代ベイ:ムスタファ1世[アフメト1世の弟](~16180226廃位.1639年死
去)
1617年12月19日-09:00|日本| ||元和3年11月22日|六条柳町遊郭惣中の要請で,柳町以外での遊女屋が禁止され
る
1617年12月28日-09:00|日本| ||元和3年12月|<移封>松平重勝:越後三条2万石→下総関宿2万6千石(-元和5年遠
江横須賀へ)
1617年12月28日-09:00|日本| ||元和3年12月|久能山東照宮創建/静岡県
1618年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王チェイチェーター2世(~1628年)
1700迄(4525件)
1618年-07:00|カンボジア| |||クメール王国がウドンに新都を建設
1618年-05:30|インド| |||ヴィジャヤナガル王国ラーマデーヴァラーヤ王が即位
1618年-05:30|スリランカ| |||ジャフナのタミル王国ヤルパーナムで、カトリック信者による反乱が発生
1618年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(モヴィレスティ)ガブリエル2世モヴィラ(2度目~1620年)
1618年-01:00|ドイツ| |||彗星が出現
1618年1月26日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・隆泰1年|大越莫朝・隆泰と改元(~1625)
1618年1月27日-09:00|日本| ||元和4年|<加増>(松平)保科正光:信濃高遠藩2万5千石→3万石(長野県上伊那郡)
1618年1月27日-09:00|日本| ||元和4年1月1日|江戸城大奥に男子禁制や夕刻六つの門限などの大奥法度を発布
1618年2月6日-09:00|日本| ||元和4年1月11日|<拝領>徳川忠長(徳川秀忠の三男):甲斐甲府23万8千石(-寛永9
年改易)
1618年2月26日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第16代ベイ:オスマン2世[アフメト1世の息子.ムスタファ1世の甥](16220519廃
位.翌日殺害される)
1618年3月8日-09:00|日本| ||元和4年2月12日|幕府が撰銭および金銀売買を禁制する
1618年3月16日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首ジョヴァンニ・ベンボ死去
1618年3月30日-09:00|日本| ||元和4年3月04日|幕府が江戸城内に紅葉山東照官を造営(4月17日には神体を移
す遷宮を行う)
1618年3月31日-09:00|日本| ||元和4年3月5日|<拝領>本多紀貞:上野白井1万石(-元和9年継嗣なく断絶)
1618年3月31日-09:00|日本| ||元和4年3月5日|幕府が将軍秀忠の実弟で改易された松平忠輝を伊勢朝熊の配所
から飛騨へ移す
1618年4月6日-09:00|日本| ||元和4年3月11日|<移封>酒井忠勝:越後高田10万石→信濃松代10万石(-元和8年出
羽庄内鶴岡へ)
1618年4月6日-09:00|日本| ||元和4年3月11日|<加増移封>松平忠昌:信濃川中島12万石→越後高田25万石(-寛
永1年宗家を相続し越前北ノ庄へ)
1618年4月6日-09:00|日本| ||元和4年3月11日|<拝領>稲葉正成:越後糸魚川2万石(-元和9年江戸退去・蟄居、後、
下野真岡へ)
1618年4月10日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第93代ニコロ・ドナ(~5.9)
1618年5月9日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第93代ニコロ・ドナ
1618年5月9日-08:00|中国| ||金・天命3年;明・万暦46年4月15日|愛新覚羅ヌルハチが明と開戦し、撫順を占領
1618年5月17日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第94代アントニオ・プリウリ(~16230812)
1618年5月23日-01:00|チェコ/スロバキア| |||ボヘミアの首都プラハの王宮前に、千人をこえる武装した新教徒たちがおし
かけ、皇帝の代官たちを18メートルの高さから突落とす刑を加える(30年戦争の引き金)
1618年5月24日-09:00|日本| ||元和4年4月|二代将軍秀忠により浅草東照宮創建(火災で焼失、現二天門が残る)
/東京都
1618年6月1日-09:00|日本| ||元和4年4月9日以降|<移封>牧野忠成:越後長峰→越後長岡74千石/以後忠成、忠辰
、忠壽、忠周、忠敬、忠利、忠寛、忠精、忠雅、忠恭、忠訓、忠毅(24千石)と続く(-明治3年)
1618年6月1日-09:00|日本| ||元和4年4月9日以降|<加増移封>堀直竒:越後長岡(蔵王堂)8万石→越後村上10万
石/次に直定が嗣ぐ(-寛永19年無嗣断絶)
1618年6月1日-09:00|日本| ||元和4年4月9日|<改易>村上周防守義明:越後本庄9万石/松平忠輝事件連座廃絶/
丹波篠山に幽閉
1618年6月25日-09:00|日本| ||元和4年5月3日|雲谷等顔(画家・雲谷派の祖)死去[1547年生~](享年71)
1618年7月1日-01:00|クロアチア| |||<即位>クロアチア王(ハプスブルグ家)フェルディナンド2世(~16370215)
1618年8月12日-09:00|日本| ||元和4年6月22日|<減封>近藤政成:信濃国・美濃国各所1万石/31歳で没し、嫡子重
直はわずか7歳であったため5千石没収され旗本として存続
1618年8月16日-09:00|日本| ||元和4年6月26日|板倉勝重がキリスト教宣教師を処刑
1618年8月28日-01:00|ドイツ| |||<即位>プロイセン公(ホーエンツォレルン朝)ヨーハン・ジギスムント[ブランデンブルク辺境伯.アルブレヒト・フリ
ードリヒの娘アンナと結婚](~16191223死去47歳)
1618年9月9日-09:00|日本| ||元和4年7月21日|<改易>関一政:伯耆黒坂5万石/領内騒擾により廃絶/養子に5千
石安堵
1618年9月19日-09:00|日本| ||元和4年8月|<移封>西尾忠永:上野白井→常陸土浦2万石/次に忠昭が嗣ぐ(-慶安
2年駿河田中へ)
1618年9月26日-04:00|アゼルバイジャン/グルジア/イラン/トルコ| |||オスマン朝のスルタンのオスマン2世が、サファヴィー朝と和平条約を結
び、グルジアとアゼルバイジャンを割譲
1618年9月28日-01:00|ベルギー| |||世界初の質屋がベルギー・ブリュッセルに登場
1618年9月29日-09:00|日本/イタリア| ||元和4年8月11日|幕府がイタリア船の寄港地を平戸・長崎に限定
1618年10月19日-09:00|日本| ||元和4年9月|<加増>松平家信:留守居役加封/三州形原本領に合わせ房州にて別
に釆邑5千石加増→1万石(-元和5年摂津高槻へ)
1618年11月2日-01:00|オーストリア| |||オーストリア大公(前方オーストリア大公)マクシミリアン3世の後を継いでレオポルト5世即位(~1632
年9月13日)
1618年11月3日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯兼プロイセン公(ホーエンツォレルン家)ゲオルク・ヴィルヘルム[ヨーハン・ジギ
スムントとアンナの息子](~16401201死去45歳)
1618年11月18日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,長い銀の尾を引いた彗星出現
1618年12月11日-04:00|ロシア/ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国がデウリノの休戦(デウリノの和
1700迄(4525件)
約、デウリノ条約、1619年1月4日に発効)/この条約によりポーランド・リトアニア共和国は東へ領土を伸ばした
1619年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第10代スルタン:アブドゥル・ジャイルル・アクバル(~1649年)
1619年-05:30|インド| |||アーディル・シャーヒー朝がバリード・シャーヒー朝を併合
1619年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王(バサラブ=モヴィレスティ家)ガスパー・グラジアニ(~1620年)
1619年-02:00|エジプト| |||エジプトで疫病・飢饉がひろがる
1619年-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがスマトラ南部のパレンバンに商館を建設
1619年-01:00|ドイツ| |||ドイツの天文学者ケプラーが「世界の調和」を刊、惑星第3法則
1619年-01:00|ベルギー| |||フラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワにより小便小僧製作(ベルギーブリュッセル市)
1619年 00:00|ポルトガル/スリランカ| |||ポルトガルが、タミル王国ヤルパーナムのカトリック信者を支援すると称して軍隊を派遣。タミル
王国の国王が捕らえられ、タミル王国が滅亡
1619年1月7日 03:00|ブラジル| |||トゥピナンバ族、ベレンの砦を正面攻撃。新任のJeronimo Fragoso de Albuquerque
が兵100名+先住民兵士とともに防衛。大砲と火縄銃の威力の前に、司令官「老婆の髪」が死亡、残りはジャングルに
逃げ込む
1619年2月15日-09:00|日本| ||元和5年|<移封>丹羽長重:常陸古渡→常陸江戸崎2万石(-元和8年陸奥棚倉へ)
1619年2月15日-09:00|日本| ||元和5年|<拝領>永井尚政:上総潤井戸24千石(-寛永3年山城淀へ)
1619年2月15日-09:00|日本| ||元和5年|松平尚栄が松平東照宮創建(愛知県豊田市、松平氏館跡)
1619年2月15日-09:00|日本| ||元和5年|清亮寺創建/足立区
1619年2月22日-01:00|フランス| |||母后マリー・ド・メディシスが、不平派貴族と結んでルイ13世に反抗
1619年2月22日-09:00|日本| ||元和5年1月8日|<減転封>土岐頼行:摂津高槻2万石→下総守谷1万石/幼少のため
(-寛永5年出羽上山へ)
1619年3月14日-09:00|日本| ||元和5年1月28日|幕府が公家衆の行うべき諸芸稽古の式目・課目を定め、公家に
対する幕府の統制を強める
1619年3月16日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||朝鮮・万暦47年2月|朝鮮が明に救援軍を派遣し、ヌルハチの後金と戦う
1619年3月20日-01:00|オーストリア/ドイツ/スロベニア| |||<死去>神聖ローマ皇帝・ドイツ国王マティーアス/62歳(誕生:15570224)
1619年3月20日-01:00|チェコ| |||ボヘミア王マティアスは死にファルツ選定侯フリードリヒ5世冬王をボヘミア王として選ぶ(~1620年1
1月8日の白山の戦いで敗れ退位)
1619年3月20日-01:00|ドイツ/チェコ/オーストリア/イタリア/ハンガリー| |||<即位>神聖ローマ皇帝・イタリア王・ハンガリー王国国王(ハプスブ
ルク朝)フェルディナント2世兼オーストリア大公フェルディナント3世[フェルディナント1世の孫](~16370215死去58歳)、ケルンテン公領は再び他
のハプスブルク家領と統合された/以後神聖ローマ皇帝がケルンテン公を兼ねた
1619年4月17日-08:00|中国| ||金・天命4年;明・万暦47年3月4日|明軍がサルフの戦いで後金軍に大敗
1619年5月-01:00|オランダ/インドネシア| |||バンテン王国はイギリスと結び、クーン総督率いるVOC商館を攻撃したが、失敗/イギ
リスはジャカトラ全体を領有し「バタヴィア」と名付けた(現ジャカルタ)
1619年5月2日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ピエトロ・デュラッゾ(~16210502)
1619年6月-04:00|ロシア| |||ロシアでミハイルの父フィラレートが共同統治者となる
1619年6月5日-01:00|チェコ/スロバキア/スイス| |||トゥルン伯が、ボヘミア新教軍を率いてウィーンに侵攻
1619年6月20日-01:00|イタリア| |||ベネツィアでアッティリオ・ザノービに新式時計の特許
1619年6月26日-09:00|日本| ||元和5年5月15日|幕府が、町人や浪人が武家の宅地に居住することを禁じる
1619年6月27日-09:00|日本| ||元和5年5月16日|美濃国の内5万石が尾張藩に編入される
1619年7月1日 03:00|ブラジル| |||トゥピナンバ族の反乱部隊,ベレンの要塞を攻撃.この戦いで指導者のグアイミアバが戦
死
1619年7月11日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・永祚1年6月|大越後黎朝6代・神宗が即位(-1643)永祚と改元(~1629年
旧3月)
1619年7月12日-09:00|日本| ||元和5年6月2日|<改易>福島左衛門大夫正則:安芸広島49万8200石/城無断修築→
(翌月)越後・信濃国内4万5千石(-寛永1年正則の死後改易され、後2千石で家は存続)
1619年7月30日 06:00|アメリカ| |||ヴァージニア植民地議会が創設される
1619年7月31日-01:00|チェコ| |||統合領邦議会において、ボヘミア国家(ボヘミア・モラビア・シレジア・上下ラウジッツからなる連
邦)の新しい憲法が承認され、貴族の国王に対する優位・非カトリック多数派のカトリック少数派に対する優位が保証され
た
1619年8月7日-01:00|フランス| |||マリー・ド・メディシス軍がアンジェルでルイ13世軍に敗れる
1619年8月10日-09:00|日本| ||元和5年7月|<移封>(松平)久松定綱:常陸下妻3万石→遠江掛川35千石(-元和9年
山城淀へ)
1619年8月17日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,貧困貴族の教育のために、ジュデッカに貴族アカデミーを設置
1619年8月19日-01:00|チェコ/スロバキア| |||ボヘミア議会が、フェルディナントを廃位
1619年8月24日-09:00|日本| ||元和5年7月15日|<加増移封>浅野長晟:紀伊和歌山37万6560石→安芸広島42万65
00石/以後光晟(37万6500石)、綱晟、綱長、吉長(426500石)、宗恒、重晟、斉賢、斉粛、慶熾、長訓、長勲と続く(-明治
4年)
1619年8月26日-01:00|チェコ/スロバキア| |||ボヘミア議会が、新教同盟のプファルツ選帝侯をフリードリッヒ5世として国王に推戴
1619年8月28日-01:00|ドイツ| |||神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が即位
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|<移封>(松平)松井康重:丹波篠山→和泉岸和田6万石/次に康映
(甥康朗:5千石、弟康命:3千石、弟康紀:2千石分知50400石)が嗣ぐ(-寛永17年播磨山崎へ)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|安藤直次:遠江掛川→紀伊田辺38千石/以後直治、義門、直清、直
名、陳武、陳定、雄能、次由、寛長、次猷(直時)、道紀、直興(直与)、直則、直馨、直裕、直裕と続く(-明治4年)
1700迄(4525件)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|久野宗武:遠江久野→伊勢田丸1万石/拝領(紀州徳川家付家老)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|古田重治:伊勢松坂→石見浜田50400石/次に重恒が嗣ぐ(-慶安
1年継嗣なく断絶
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|小出吉英:和泉岸和田→但馬出石5万石/以後吉重(弟英本・英信
・甥英勝に計5千石分知45千石)、英安(弟英直に1500石分知43500石)、英益、英長(44千石)、英及と続く(-元禄9年
無嗣断絶)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|小出吉親:但馬出石→丹波園部29711石/以後英知(26711石)、英
利、英貞、英持、英常、英タケ、英発、英教、英尚と続く(-明治4年)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|松平定綱:常陸下妻3万石→遠江掛川3万5千石/移封
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|水野重仲(重央):遠江浜松→紀伊新宮3万5千石/以後重良、重上
、重期、忠昭、忠興、忠奇、忠啓、忠央、忠幹、忠幹と続く(-明治4年)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|藤堂高虎:伊勢津32万3950石の内田丸領5万石を大和国4郡・山
城国1郡と交換
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|徳川頼宣:駿河府中50万石→紀伊和歌山55万5千石/以後光貞、
綱教、頼職、吉宗、宗直、宗将、重倫、治貞、治宝、斉順、斉彊、慶福、茂承と続く(-明治4年)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日以降|北条氏重:下野富田1万石→遠江久野1万石(-寛永17年下総
関宿へ)
1619年8月28日-09:00|日本| ||元和5年7月19日|幕府、大坂城代を設置
1619年9月8日-09:00|日本| ||元和5年8月|分部光信(長野正勝の長男):伊勢上野→近江大溝21千石/以後嘉治、
嘉高、信政、光忠、光命、光庸、光実、光邦、光寧、光貞、光謙と続く(-明治4年)
1619年9月8日-08:00|中国| ||明・万暦47年8月|後金軍がイエヘ族を討ち遼東以東の地を支配下に入れる
1619年9月11日-09:00|日本| ||元和5年8月4日|<加増移封>水野勝成:大和郡山6万石→備後福山10万石/以後勝
俊、勝貞、勝種、勝岑と続く(-元禄11年無嗣断絶)
1619年9月23日-09:00|日本| ||元和5年8月16日|伊奈忠勝:武蔵小室1万石/無嗣廃絶/弟忠隆が名跡を継ぎ1千石
1619年9月28日-01:00|チェコ/スロバキア| |||フリードリッヒ5世が、ボヘミア王位を受諾
1619年10月6日-09:00|日本| ||元和5年8月29日|幕府、キリスト教徒60人余りを四条河原で火刑に処す
1619年10月8日-09:00|日本| ||元和5年9月|<移封>阿部正次:上総大多喜→相模小田原5万石(-元和9年武蔵岩槻
へ)
1619年10月8日-09:00|日本| ||元和5年9月|<移封>小堀政一:河内奉行→近江小室12460石/以後正之、正恒、正房
(10630石)、正峯、正方と続く(-天明8年奉行在職中の専権不正ありとして免職・改易)
1619年10月8日-09:00|日本| ||元和5年9月|<加増移封>高力忠房:武蔵岩槻2万石→遠江浜松35千石(-寛永15年
肥前島原へ)
1619年10月19日-09:00|日本| ||元和5年9月12日|藤原捏高(朱子学の祖)死去
1619年10月24日-09:00|日本| ||元和5年9月17日|名古屋東照宮創建/愛知県
1619年11月3日-09:00|日本| ||元和5年9月27日|近藤秀用:上野青柳1万石→遠江井伊谷17千石(-元和6年長男季
用に3059石、次男用可に5300石を分知し旗本に降格)
1619年11月5日-09:00|日本| ||元和5年9月29日|<移封>三宅康信:三河挙母→伊勢亀山12千石/次に康盛が嗣ぐ(
-寛永13年三河挙母へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<移封>(松平)藤井信吉:上野高崎→丹波篠山50020石/次に忠国が
嗣ぐ(-慶安2年播磨明石へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<移封>安藤重信:下総小見川→上野高崎56600石/以後重長(66600
石)、重博(6万石)と続く(-元禄8年備中松山へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<移封>奥平忠昌:下野宇都宮11万石→下総古河11万石/加増移封(元和8年下野宇都宮へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<移封>小笠原政信:下総古河→下総関宿22700石/次に貞信が嗣ぐ(
-寛永17年美濃高須へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<移封>松平重勝:下総関宿2万6千石→遠江横須賀26千石/次に重忠
が嗣ぐ(-元和7年出羽上山へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|<加増移封>(松平)奥平忠明:摂津大坂10万石→大和郡山12万292石
(-寛永16年播磨姫路へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|松平家信:三河形原1万石→摂津高槻2万石/封地の内5千石は長子
康信が庇蔭料(-寛永12年下総佐倉へ)
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|土岐定義:摂津高槻2万石→下総相馬1万石/減移封/嫡子幼少のた
1619年11月6日-09:00|日本| ||元和5年10月|本多正純:下野小山→下野宇都宮15万5千石/移封
1619年12月19日-01:00|ドイツ| |||世界最初義務教育チュ-リンゲンの首都ワイマ-ルで実施
1620年-04:00|ロシア| |||<即位>スルツク公(ラジヴィウ家)ボグスワフ・ラジヴィウ(~1669年)
1620年-02:00|ルーマニア| |||<再位>ワラキア公ラドゥー9世ミーニア(4度目~1623年)
1620年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アレクサンドル7世(~1621年)
1620年-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フリースラント州総督ディーツ伯エルンスト・カシミール[ディレンブルク伯ヨハン6世の
五男](~16320602死去58歳)
1620年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首フランス王ルイ13世(~1643年)
1620年-01:00|デンマーク/インド| |||デンマークがインドのトランクバールに商館を設置
1700迄(4525件)
1620年 00:00|イギリス| |||フランシス・ベーコンが「ノヴム・オルガヌム」を刊
1620年 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ州プリマスの植民地建設
1620年1月5日-09:00|日本| ||元和5年12月|松平直政(結城秀康の三男):越前木本→上総姉崎2万石(-寛永1年越
前大野へ)
1620年1月30日-09:00|日本| ||元和5年12月26日|徳川幕府が人身売買禁止令布告
1620年2月4日-09:00|日本| ||元和6年|近藤秀用は次男の用可に5千石、孫の貞用に3千140石を分知/遠江井伊谷
藩は1年で消滅
1620年2月4日-09:00|日本| ||元和6年|広島藩主浅野長晟が縮景園築庭開始(広島県広島市)
1620年2月4日-09:00|日本| ||元和6年|明国江西省の僧・真円が航海の安全を祈願して興福寺創建/長崎県
1620年2月19日-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アルムアイヤド・ムハンマド1世[アルマンスール・アルカジムの息子](1644.9)
1620年4月2日-09:00|日本| ||元和6年2月30日|放火によるものと思われる大火が発生し,相国寺などが焼ける
1620年4月9日-09:00|日本| ||元和6年3月07日|牧野忠成:越後長岡6万2千石→7万2千石/1万石加増
1620年4月19日-09:00|日本| ||元和6年3月17日|<減転封>市橋長勝:越後三条4万1300石/無嗣⇒<拝領>市橋長政
(林右衛門左衛門の三男):近江仁正寺18千石/以後政信(弟政直に1千石分知17千石)、信直、直方、直挙、長テル、長
昭、長発、長富、長和(長義)と続く(-明治4年)
1620年5月17日-02:00|トルコ| |||トルコの博覧会で世界初のメリーゴーランド設置
1620年5月26日-09:00|日本| ||元和6年4月24日|三浦按針(英人ウィリアム=アダムス)死去/家康の外交顧問として三浦
半島に領地を得た
1620年5月31日-01:00|オランダ| |||<就任>フローニンゲン州総督オラニエ公マウリッツ[オラニエ公ウィレム1世の次男](~16250423)
1620年6月1日-09:00|日本| ||元和6年5月|稲垣重綱:越後藤井→三条2万3千石/移封(-元和9年大坂城代[三河刈
谷]へ)
1620年6月30日-09:00|日本| ||元和6年6月|松平定勝:伊勢桑名11万石/伊勢長島7千石を加増
1620年6月30日-09:00|日本| ||元和6年6月1日|阿倍正次:老中就任(-寛永4年4月15日)
1620年7月25日-01:00|ドイツ| |||バイエルン公マクシミリアンが、リンツを占領
1620年8月18日-08:00|中国| ||元和6年7月20日|明第14代皇帝の神宗万暦帝が死去
1620年8月25日-01:00|ハンガリー| |||ガーボル・ベトレン公がハンガリー国王に選出
1620年9月3日-09:00|日本| ||元和6年8月7日以降|立花宗茂:陸奥棚倉3万石→筑後柳川10万9600石/以後忠茂、
鑑虎、鑑任、貞俶、貞則、鑑通、鑑寿、鑑賢、鑑備、鑑寛と続く(-明治4年)
1620年9月3日-09:00|日本| ||元和6年8月7日|<改易>田中筑後守忠政:筑後柳川32万5000石/無嗣廃絶/兄に2万
石安堵
1620年9月11日-08:00|中国| ||明・泰昌1年8月15日|明15代・光宗泰昌帝が即位/泰昌と改元
1620年9月23日-09:00|日本| ||元和6年8月26日|伊達政宗の遣欧使節支倉常長ら帰国
1620年9月26日-09:00|日本| ||元和6年9月|西郷正員:安房東条1万石/拝領/以後延員、寿員(重員)と続く(-元禄
5年下野上田へ)
1620年9月26日-08:00|中国| ||明・泰昌1年9月1日|明の第15代皇帝泰昌帝が、紅い丸薬を飲んで急死する(紅丸
の案)/32歳(誕生:1588)/前月即位したばかり
1620年9月27日-08:00|中国| ||明・泰昌1年9月2日|明16代目の憙宗天啓帝が李妃の干渉を避けるため別宮に移
され即位、15歳
1620年10月9日-09:00|日本| ||元和6年9月14日|福島正則:信濃高井野4万5千石→2万石/越後2万5千石を幕府へ
返上
1620年10月14日-09:00|日本| ||元和6年9月19日|尚寧、没/57歳(誕生:永禄7(1564))/琉球王
1620年10月31日-09:00|日本| ||元和6年10月6日|水野忠元:老中解任
1620年11月-05:30|インド| |||ムガル軍がカシミール地方のカーングラ城を攻略
1620年11月8日-01:00|チェコ| |||ボヘミア王フリードリッヒ5世退位し、フェルディナント2世即位(~1637年2月15日)
1620年11月8日-01:00|チェコ/ドイツ/スロバキア| |||ボヘミア貴族の選んだフリードリッヒ5世と神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の決
戦がプラハ近くのヴァイサー・ベルクで行われ、皇帝側が勝利する(白山の戦い)
1620年11月14日-09:00|日本| ||元和6年10月20日|青山忠俊:相模・下野の内→武蔵岩槻45千石(-元和9年上総大
多喜へ)
1620年11月19日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1620/11/9|メイフラワ-号に乗り込んだ清教徒の一派ピルグリム・ファーザー
ズの一行102名,プリマス北方のコッド岬に到着
1620年11月24日-09:00|日本| ||元和6年11月|幕府江戸神田川を開く
1620年12月17日-09:00|日本| ||元和6年11月24日|加賀藩の金沢城が焼失
1620年12月20日-09:00|日本| ||元和6年11月27日|陸奥棚倉藩3万石(藩主:立花宗茂)筑後柳川に転封
1620年12月29日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,国勢調査を五年ごとに更新
1621年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ステファン9世(2度目~1623年)
1621年-01:00|スペイン| |||<就任>バルセロナ伯(アブスブル家)フェリプ3世[フェリプ2世の子](~1665年)
1621年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ルイ・ディエス・オークス・ド・アルメンダリッツ(~1627年)
1621年-01:00|イタリア| |||<即位>ウルビーノ公フェデリーコ・ウバルド・デッラ・ローヴェレ(~16230628)
1621年-01:00|イタリア/スペイン| |||<即位>ナポリ王・シチリア王(スペイン・ハプスブルク家)スペイン王フェリペ4世(~1665年)
1621年-01:00|デンマーク/オランダ| |||<即位>ブラバント公(アブスブール家)フィリップ5世(~1665年)
1621年-01:00|オランダ| |||スネルが光の屈折法則を発見
1621年-01:00|デンマーク| |||デンマークのイェンス・ムンクが北西航路発見のため北氷洋へ出航
1700迄(4525件)
1621年 00:00|イギリス| |||イギリスの重商主義者トマス・マンが「東インド貿易論」を刊
1621年 00:00|セネガル/オランダ| |||オランダが西アフリカのゴレ島に要塞を建設
1621年1月-01:00|オランダ/イギリス/フィリピン| |||イギリスとオランダの連合軍がスペインが支配するマニラ湾を封鎖
1621年1月10日-08:00|フィリピン| |||フィリピンのカガヤン地方で反乱
1621年1月14日-09:00|日本| ||元和6年12月22日|幕府が重ねて人身売買の禁止と罰則などを布告
1621年1月22日-08:00|中国| ||明・天啓1年1月1日|明・天啓と改元
1621年1月28日-01:00|バチカン| |||232代ローマ教皇パウルス5世死去/68歳(誕生:15520917)
1621年1月30日-09:00|日本| ||元和6年閏12月8日|有馬豊氏:丹波福知山6万石→筑後久留米21万石/以後忠頼、
頼利、頼元(弟豊祐に松崎1万石分封20万石)、頼旨(松崎1万石返還21万石)、則維、頼僮、頼貴、頼徳、頼永、頼咸と
続く(-明治4年)
1621年2月-08:00|インドネシア| |||オランダ東インド会社総督ヤン・クーン(34)がバンダ諸島を征服
1621年2月14日-01:00|バチカン| |||234代教皇グレゴリオ十五世(-1623年7月8日)
1621年2月22日-09:00|日本| ||元和7年|紀州東照宮創建(和歌山県和歌山市)
1621年2月28日-01:00|イタリア| |||<即位>トスカーナ大公(メディチ家)フェルディナンド2世・デ・メディチ[コジモ2世の息子](~167005
23死去)
1621年3月3日-09:00|日本| ||元和7年1月10日|立花種次:常陸柿岡5千石→筑後三池1万石/移封三池藩創設
1621年3月22日 06:00|アメリカ| |||プリマス植民地とワムパノアグ族が平和条約を締結
1621年3月31日-01:00|スペイン/ポルトガル| |||<死去>スペイン国王フェリペ3世兼ポルトガル王フィリペ2世
1621年3月31日-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国ブルゴーニュ公(スペイン・ハプスブルク家)フィリップ7世[スペイン王フェリペ4世](
~16650917)
1621年3月31日-01:00|スペイン/イタリア/ポルトガル| |||<即位>スペイン国王(アブスブルゴ朝)・サルデーニャ国王フェリペ4世兼アラゴン
王フェリペ3世[フェリペ2世とマルガリータ・デ・アウストリアの息子](~16650917死去60歳)兼ポルトガル王フィリペ3世(~16401201)166
50917死去
1621年4月21日 00:00|イギリス/アメリカ| |||ブラッドフォードがプリマス植民地の総督となる
1621年4月22日-09:00|日本| ||元和7年3月|幕府純金粒銀を改鋳
1621年4月22日-08:00|中国| ||金・天命6年3月|ヌルハチが瀋陽・遼陽を陥れ、明軍を遼河以西に駆逐/ヌルハチは都を遼
陽に移す
1621年5月-01:00|ドイツ| |||ドイツのプロテスタント同盟が自己解散
1621年5月4日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アンブロージョ・ドリア(~16210612)
1621年5月14日-09:00|日本| ||元和7年3月23日|<改易>由良信濃守貞繁:常陸牛久7000石/無嗣廃/弟貞長が名跡
を継ぎ1千石
1621年5月21日-09:00|日本| ||元和7年4月|南禅寺門前・三条油小路などで火事が頻発したため,煙草を厳禁と
した
1621年6月3日-01:00|オランダ/ガイアナ| |||オランダ,エセキボ植民地を中心にガイアナ地方を実効支配
1621年6月3日-01:00|オランダ| |||オランダ西インド会社が設立される/この結果アメリカ大陸とアフリカ西岸での貿易が独占
的に行うことになる
1621年6月10日-09:00|日本| ||元和7年4月21日|水戸藩初代藩主の徳川頼房が家康を祀るために東照宮創建(茨
城県水戸市)
1621年6月20日-08:00|中国| ||明・天啓1年5月|宦官の魏忠賢が天啓帝に信任され明の実権を掌握、専権をふる
う
1621年6月22日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョルジオ・セントゥリオーネ(~16230622)
1621年7月13日-01:00|オランダ| |||<就任>エノー伯(アブスブール家)フィリップ4世(~16650917)
1621年7月13日-01:00|ベルギー/フランス| |||<就任>フランドル伯(アブスブール家)フィリップ6世(~16650917)
1621年7月13日-01:00|フランス| |||<就任>ブルゴーニュ伯(ハプスブルク家)フィリップ8世[イザベラとアルバートの甥.スペイン王フェリペ
4世](~16650917死去)
1621年7月21日-01:00|チェコ| |||プラハ旧市街広場において27名の指導者が処刑される
1621年8月17日-09:00|日本| ||元和7年6月30日|安藤重信:老中解任
1621年8月18日-09:00|日本| ||元和7年7月|松平成重:三河西尾2万石→丹波亀岡22200石/次に忠昭が嗣ぐ(-寛
永11年豊後亀川へ)
1621年8月18日-09:00|日本| ||元和7年7月|本多俊次:近江膳所→三河西尾35千石(-寛永13年伊勢亀山へ)
1621年9月10日 00:00|イギリス/カナダ| |||スコットランド貴族アレクサンダーがノヴァスコシアを付与される
1621年9月12日-01:00|フランス| |||南フランスの空に出来た自然現象をオーロラと名付ける
1621年9月13日-09:00|日本| ||元和7年7月27日|幕府が、九州の諸大名に命じ、日本人の外国船での渡航・武器輸
出入・外国人への日本人売り渡しを禁じる
1621年9月16日-09:00|日本| ||元和7年8月|岡部長盛:丹波亀山→丹波福知山5万石(-寛永1年美濃大垣へ)
1621年9月16日-09:00|日本| ||元和7年8月|菅沼定芳:伊勢長島2万石→近江膳所3万1100石/移封(-寛永11年丹
波亀山へ)
1621年9月16日-09:00|日本| ||元和7年8月|西国諸大名に難破・漂着船救助についての法度を出し、諸港に立札
1621年9月25日-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王グスタヴ2世アドルフが、バルト海沿岸の要衝リガを攻略
1621年10月9日-01:00|ポーランド/トルコ/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国軍とトルコ軍がホチムで会戦
1621年10月15日-08:00|中国| ||明・天啓1年9月|明で四川永寧の土司奢崇明が反乱をおこす
1621年10月15日-09:00|日本/タイ| ||元和7年9月1日|徳川秀忠がシャム国使節と会見し、通商を許可
1700迄(4525件)
1621年11月-08:00|フィリピン| |||フィリピンのカガヤン地方で反乱
1621年11月6日-01:00|ポーランド/ウクライナ/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国軍とトルコ軍がホテインで会戦し、講和
1621年12月 00:00|イギリス| |||7年ぶりに開かれた議会が、ジェームズ1世の外交と財政政策を厳しく批判
1621年12月11日-09:00|日本| ||元和7年10月28日|最上義俊:出羽庄内57万石/内訌除封
1622年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ウパユワラート王(~1623年)
1622年-05:30|インド| |||シャー・ジャハーンがこのころからジャハンギールに反逆
1622年-02:00|トルコ| |||オスマン朝でアバザ・メフメト・パシャが反乱
1622年-01:00|ドイツ| |||<就任>シャウエンブルク伯・ホルシュタイン=ピンネベルク伯ヨープスト・ヘルマン(~1635年死去)
1622年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ1世[ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク1世の三男](~1638年)
1622年 04:00|チリ| |||ブリトンは手兵800を率いサンチアゴを略奪
1622年 04:00|ボリビア| |||ポトシ銀山でスペイン人精錬業者の内紛がおこる
1622年 05:00|キューバ| |||イギリス人海賊のハバナ襲撃攻略には失敗
1622年1月7日-01:00|ドイツ/ルーマニア| |||皇帝フェルディナント2世が、トランシルバニア公ベトレンと和約する(ニコルスブルクの講和)
1622年1月12日-08:00|中国/朝鮮| ||金・天命6年12月|後金軍が朝鮮の西北地方に侵入
1622年1月24日-09:00|日本| ||元和7年12月13日|<改易>織田有楽斎長益:大和国内1万石/無嗣廃絶
1622年2月4日-09:00|日本| ||元和7年12月24日|狩野探幽が山王社歌仙を描く
1622年2月10日-08:00|中国| ||金・天命7年;明・天啓2年1月|後金と明が広寧で戦い、明軍が大敗
1622年2月11日-09:00|日本| ||元和8年|<拝領>堀利重:常陸玉取1万石(寛永10年に4千石加増14千石)/以後利長
(弟・利直に2千石を分知12千石)、通周と続く(-延宝7年改易)
1622年2月11日-09:00|日本| ||元和8年|井伊直継が彦根城築城(金亀城)/滋賀県
1622年2月21日-09:00|日本| ||元和8年1月11日|丹羽長重:常陸古渡1万石→陸奥棚倉5万石/加増移封(-寛永4年
陸奥白河へ)元、加賀小松城主12万5千石
1622年3月5日-01:00|イタリア| |||<即位>パルマ公(ファルネーゼ家)オドアルド1世(~16460911死去34歳)
1622年3月21日-09:00|日本| ||元和8年2月10日|幕府が喧嘩争論・火事場への弥次馬を禁止;撰銭、駅伝、火災な
どの規則を出す
1622年3月22日 06:00|アメリカ| |||ヴァージニアのイギリス植民地で、ポーハタン族のインディアンが一斉蜂起して、植民者347人が
殺害される
1622年3月29日-09:00|日本| ||元和8年2月18日|<改易>成田氏宗:下野烏山1万石/無嗣廃絶
1622年4月-01:00|チェコ| |||プロテスタント軍はウィースロホでティリーの軍をうちやぶったが、その後の戦いで連敗
1622年4月 00:00|ポルトガル/イラン| |||サファビー朝がポルトガルからホルムズを奪う
1622年4月26日-09:00|日本| ||元和8年3月16日|<死去>灰屋紹由(85)/紺灰座を支配した京都有数の豪商で連歌
・茶道・蹴鞠などに造詣が深かった
1622年5月14日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王シリ・サマ[前王の息子](~16380529)
1622年5月18日-02:00|トルコ| |||オスマン朝で、常備歩兵軍団イェニチェリらが反乱を起こし、オスマン2世を退位させる
1622年5月20日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国ベイ:ムスタファ1世(復位)(~16230910廃位.16390120死去)
1622年6月9日-08:00|中国| ||明・天啓2年5月|河北・山東で徐鴻儒の白蓮教徒の乱がおこる
1622年7月-01:00|オランダ/台湾| |||オランダが澎湖諸島を占領
1622年7月27日-09:00|日本| ||元和8年6月19日|<改易>里見忠義:伯耆田中3万石/無嗣廃絶
1622年8月19日-09:00|日本| ||元和8年7月13日|貿易業者の平山常陳、ドミニコ会士ズニガ・フロレスら15人が長崎で処
刑される(平山常陳事件)
1622年9月6日-09:00|日本| ||元和8年8月|田中吉官:近江国野洲郡の他三河国田原・上野国新田2万石を相続
1622年9月6日-09:00|日本| ||元和8年8月|徳川忠長:甲斐甲府23万8千石→25万石/信州佐久郡加増
1622年9月10日-09:00|日本| ||元和8年8月5日|幕府が大名の転封について法度を出す
1622年9月10日-09:00|日本| ||元和8年8月5日|イタリア人イエズス会司祭、カルロ・スピノラが外人宣教師9人、日本人宣教師・
武士・一般信徒46人とともに長崎立山で処刑される(元和大殉教)
1622年9月17日-09:00|日本| ||元和8年8月12日|京極高広:丹後宮津78200石/次に高国が嗣ぐ(-寛文6年親子不
和・悪政を理由に改易)
1622年9月17日-09:00|日本| ||元和8年8月12日|京極高三:丹後田辺3万5千石/兄高広から分封
1622年9月17日-09:00|日本| ||元和8年8月12日|京極高通(朽木宣綱の次男):丹後峰山13千石/拝領/以後高供(
弟高昌:1千石、弟高成:500石分知11600石)、高明、高之(弟高重に500石分知11100石)、高長、高久、高備、高倍、高
鎮、高景、高富、高陳と続く(-明治4年)
1622年9月26日-09:00|日本| ||元和8年8月21日|最上義俊:出羽山形57万石→近江大森1万石/家内不正により減
移(-寛永8年継嗣が幼児のため所領半減、旗本に降格)
1622年9月30日-09:00|日本| ||元和8年8月25日|酒井忠勝:信濃松代10万石→庄内13万8千石/移封/以後忠当、忠
義、忠真、忠寄、忠温、忠徳、忠器、忠発、忠寛、忠篤、忠宝と続く(-明治4年)
1622年10月5日-09:00|日本| ||元和8年9月|内藤清政:常陸・下総・上総・相模4国内2万1千石→安房勝山3万石(元和9年継嗣なく一時廃藩)
1622年10月18日-01:00|フランス| |||ユグノーがルイ13世と和約
1622年10月28日-09:00|日本| ||元和8年9月24日|徳川頼房:常陸水戸25万石→28万石/松岡・小川3万石加増
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|<拝領>井上正就:遠江横須賀52500石/次に正利(47500石)が嗣
ぐ(-正保2年常陸笠間へ)
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|戸沢政盛:常陸松岡4万石→出羽新庄6万石(後68200石)/移封/
1700迄(4525件)
以後正誠、正庸、正勝、正諶、正産、正良、正親、正胤、正令、正実と続く(-明治4年)
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|酒井直次:出羽左沢1万2千石/拝領(-寛永7年無嗣断絶)
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|松平重忠:遠江横須賀2万6千石→出羽上山4万石/加増移封(寛永3年摂津三田へ)
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|仙石忠政:信濃小諸5万石→信濃上田60088石/以後政俊、政明(
58088石)と続く(-宝永3年但馬出石へ)
1622年10月29日-09:00|日本| ||元和8年9月25日|鳥居忠政(鳥居元忠の子):陸奥磐城平8万石→出羽山形22万石
/加増移封/次に忠恒が嗣ぐ(-寛永13年無嗣、所領没収)
1622年11月-08:00|フィリピン| |||フィリピンのボホール島タンブロット、レイテ島バンカウで反キリスト教の反乱
1622年11月1日-09:00|日本| ||元和8年9月28日|上総国内より内藤忠興が陸奥高月藩2万石として入封/以後、政
晴、政親が相続
1622年11月1日-09:00|日本| ||元和8年9月28日|土方雄重:越中布市(下総多古)1万5千石→陸奥窪田2万石/加増
移封/以降雄次、雄隆(2千石を弟雄賀に分与)が嗣ぐ(-貞享1年)
1622年11月1日-09:00|日本| ||元和8年9月28日|内藤政長:上総佐貫→陸奥磐城平7万石/移封/以後忠興(忠長)、
義概(義泰)、義孝、義稠、政樹と続く(-延享4年日向延岡へ)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月1日以降|奥平忠昌:下総古河11万石→下野宇都宮11万石/移封/以後
昌能が嗣ぐ(-寛文8年)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月|(松平)桜井忠重:武蔵深谷→上総佐貫15千石(-寛永10年駿河田中
へ)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月|永井尚政:老中就任(-1633年3月15日)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月|真田信政:信濃松代分藩1万石/拝領(-寛永16年上野沼田を相続)/
次に信重が嗣ぐ(-正保4年継子なく、宗家に返上)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月|真田信之:信濃上田→信濃松代10万石/移封/以後信政、幸道、信弘、
信安、幸弘、幸専、幸貫、幸教、幸民と続く(-明治4年)
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月1日|本多上野介正純:老中解任
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月1日|本多正純:下野宇都宮15万5千石/秀忠への謀反の意思ありとの
ことで所領を没収、出羽に配流
1622年11月3日-09:00|日本| ||元和8年10月1日|本多正勝:下野宇都宮1万石/父正純に連坐除封
1622年12月9日-09:00|日本| ||元和8年11月07日|成田氏宗:下野烏山1万石/無嗣廃絶
1622年12月12日-09:00|日本| ||元和8年11月10日|江戸城の本丸の修理が完成
1622年12月20日-09:00|日本| ||元和8年11月18日|浅野長重:常陸真壁→常陸笠間53500石/移封/次に長直(長綱
)が嗣ぐ(-正保2年播磨赤穂へ)
1623年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王バンティット・ポーティサーン王(~1627年)
1623年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第14代ハン:イスファンディヤール[アラブ・ムハンマドの子](~1643年)
1623年-03:30|イラン/イラク| |||サファビー朝アッバース大帝がバグダッドを奪回
1623年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:メフメト3世ギレイ(~1628年)
1623年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ラドゥー・ミーニア(2度目~1626年)
1623年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)アレクサンドル5世(~1627年)
1623年-02:00|レバノン| |||アンジャルの戦いでレバノンのファフル・アッディーンが勝利
1623年-01:00|オランダ/チリ| |||ハコボ・レルミテ提督の率いる11隻のオランダ船団の内ヤコブ・ショウテン船長の船は,南米の南端
に達し,ホーン岬と名づける
1623年 00:00|モロッコ| |||<即位>フェズ政権アブド・エル・マレク(~1627年)
1623年 00:00|イギリス| |||イングランド北部で大飢饉
1623年 00:00|ポルトガル/スリランカ| |||ポルトガルが、キャンディ王国からトリンコマリーを奪取
1623年1月-01:00|ノルウェー| |||オスロ西部の山脈で銀鉱脈が発見
1623年1月-01:00|オランダ/台湾| |||オランダが膨湖島、台湾を占領
1623年1月3日-09:00|日本| ||元和8年12月03日|酒井忠勝:武蔵深谷5万石/拝領(-寛永4年武蔵川越へ)
1623年1月7日-09:00|日本| ||元和8年12月07日|永井直勝:常陸笠間→下総古河72千石/次に尚政[寛永2年1月](
89100石)(-寛永10年山城淀へ)
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|永井尚政:遠江に5千石を加増/新田も加増され計2万4千石余
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|加藤直泰:伊予新谷1万石/拝領/以後泰觚、泰貫、泰広、泰宦、泰賢、泰儔、
泰理、泰令と続く(-明治4年)
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|高木正次:河内丹南1万石/拝領/以後正成、正弘、正盛、正豊、正陳、正恒、
正弼、正直、正剛、正明、正坦、正善と続く(-明治4年)
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|黒田長政が住吉神社本殿を再建/福岡県
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|酒井(金森)重澄:下総生実2万5千石/拝領(-寛永10年勤仕怠慢で改易)
1623年1月31日-09:00|日本| ||元和9年|内藤忠重:老中就任(-承応2年4月23日)
1623年1月31日 00:00|イギリス/日本| |||イギリスが平戸商館を閉鎖し、対日貿易から撤退
1623年2月24日-09:00|日本| ||元和9年1月25日|幕府が大奥の法度を定める
1623年2月25日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||バイエルン選帝侯マクシミリアン1世(~1651年9月27日)/神聖ローマ皇帝が、プファルツ選
帝侯位と上プファルツを与える
1623年3月9日-01:00|オランダ/イギリス/インドネシア| ||ユリウス暦:1623/2/27|アンボン事件。インドネシアのアンボン島で、オランダ商館
1700迄(4525件)
長がイギリス商館員ら20人を処刑
1623年3月10日-09:00|日本| ||元和9年2月10日|<改易>松平忠直:越前福井67万石/乱行により廃絶/豊後に配流
/子の光長が福井藩を継ぐ
1623年3月15日-09:00|日本| ||元和9年2月15日|幕府が武家屋敷内に町人・浪人が居住することを禁じる
1623年4月12日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・天啓3年3月13日|クーデターによって朝鮮国王光海君を廃位し、第16代国
王仁祖即位(-1649年5月8日)
1623年4月14日-09:00|日本| ||元和9年3月15日|松下重綱:常陸小張2万8百石→下野烏山2万8百石/転封(-寛永4
年陸奥二本松へ)
1623年5月1日-09:00|日本| ||元和9年4月2日|<改易>西尾出雲守嘉教:美濃揖斐2万5000石/34歳の若さで没し、
無嗣廃絶
1623年5月25日-09:00|日本| ||元和9年4月26日|<改易>本多紀貞:上野白井1万石/無嗣廃絶
1623年5月25日-09:00|日本| ||元和9年4月26日|幕府が江戸城西の丸法度10か条を定める
1623年6月13日-09:00|日本| ||元和9年5月16日|江戸初期の碁師・本因坊算砂/死去/将棋所の開祖
1623年6月25日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:フェデリコ・ド・フランキ(~16250616)
1623年6月28日-01:00|イタリア| |||<復位>ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ(~1625年,教皇国家に帰属)
1623年7月8日-01:00|バチカン| |||233代ローマ教皇グレゴリウス15世死去/69歳(誕生:15540109)
1623年7月14日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1623/7/4|イギリス教会音楽の作曲家ウィリアム・バード没/80歳(誕生:1543)
1623年7月23日-09:00|日本| ||元和9年6月26日|<改易>内藤修理亮清政:安房勝山3万石/21歳の若さで没し、無
嗣廃絶
1623年8月9日-09:00|日本| ||元和9年7月13日|加藤泰興:大洲6万石から、弟直泰に1万石(新谷藩)を内分
1623年8月12日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首アントーニオ・プリウーリ死去
1623年8月23日-09:00|日本| ||元和9年7月27日|徳川家光、第3代征夷大将軍に補任/20歳/直轄江戸800万石(-慶
安4年)/秀忠は大御所となり西丸に住む
1623年9月8日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第95代フランチェスコ・コンタリーニ(~16241206)
1623年9月10日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第17代ベイ:ムラト4世[オスマン2世の弟](~16400208死去)
1623年9月18日-09:00|日本| ||元和9年8月24日|幕府が市中に浪人が徘徊することを禁止する
1623年9月27日-09:00|日本/タイ| ||元和9年閏8月03日|シャム(タイ)使節が将軍家光に謁見
1623年9月29日-01:00|バチカン| |||234代教皇ウルバノ八世(-1644年7月29日)
1623年10月24日-09:00|日本| ||元和9年9月|日吉東照宮創建(滋賀県大津市)
1623年11月1日-09:00|日本| ||元和9年9月9日|土井利勝:老中就任(-寛永15年11月7日)
1623年11月10日-09:00|日本| ||元和9年9月18日|<改易>田中主殿頭吉官:近江国野洲郡の他三河国田原・上野国
新田2万石/家臣の不正により
1623年11月15日-09:00|日本| ||元和9年9月23日|幕府が京都市中に牢人取締令を出す
1623年11月22日-09:00|日本| ||元和9年10月|黒田高政:筑前東蓮寺4万石/拝領/以後之勝、長寛と続く(-延宝5
年宗藩を相続し、宗藩に吸収)
1623年11月22日-09:00|日本| ||元和9年10月|黒田長興:筑前秋月5万石/拝領/以後長重、長軌、長貞、長邦、長恵、
長堅、長舒、長韶、長元、長義、長徳と続く(-明治2年)
1623年12月4日-09:00|日本| ||元和9年10月13日|キリスト教徒のシモン遠甫、原胤信ら50名が江戸で火刑に処せられる
1623年12月9日-09:00|日本| ||元和9年10月18日|岩城吉隆:信濃川中島→出羽亀田(天鷺城)2万石/移封(-寛永3
年秋田藩二代藩主佐竹義隆となる)
1623年12月9日-09:00|日本| ||元和9年10月18日|仁賀保挙誠:常陸武田5千石→出羽仁賀保(塩越城)1万石/加増
移封(-寛永2年違領を4人の子供で相続し旗本に降格)
1623年12月9日-09:00|日本| ||元和9年10月18日|六郷政乗:常陸府中→出羽本荘20400石/移封/以後政勝、政信、
政晴、政長、政林、政速、政純、政恒、政殷、政鑑と続く(-明治4年)
1623年12月10日-09:00|日本| ||元和9年10月19日|阿部正次:相模小田原5万石→武蔵岩槻8万6千石/以後重次、
定高(99千石)、正春(11万5千石)、正邦(99千石)と続く(-延宝9年丹後宮津へ)
1623年12月10日-09:00|日本| ||元和9年10月19日|青山忠俊:武蔵岩槻4万5千石→上総大多喜2万石/欠礼により
(-寛永2年下総細戸へ蟄居)
1623年12月10日-09:00|日本| ||元和9年10月19日|青山忠俊:老中解任
1624年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第9代国王ラジャ・ウング(紫の女王)(~1635年)
1624年-04:00|オマーン| |||<即位>オマーン(元首)スルタン(ヤルバ朝)ナジール・ビン・ムルシド(~1649年)
1624年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第三王朝)ムタラ1世(~1648年)
1624年-01:00|オランダ/ブラジル| |||26隻3千3百名からなるオランダ艦隊,総督府所在地サルバドールを占領
1624年-01:00|フランス/仏領ギアナ| |||南米大陸の一角に今日仏領ギアナと呼ばれる植民地を創設
1624年-01:00|スペイン/ウルグアイ| |||ウルグアイのサント・ドミンゴ・デ・ソリアーノにスペイン人入植地建設.まもなくチャルーア族により
破壊される
1624年-01:00|オランダ| |||オランダのナッソー艦隊がホーン岬経由で太平洋に入り地球周回
1624年-01:00|フランス| |||ケルシー地方でクロカンの乱
1624年 00:00|ガーナ/オランダ| |||オランダが西アフリカのファンテと軍事条約
1624年-01:00|オランダ/台湾| ||明・天啓4年1月|オランダが台湾の安平にゼーランディア城を築く
1624年1月3日-01:00|バチカン/イギリス| ||元和9年11月13日|イギリスが長崎の平戸商館を閉鎖
1624年1月5日-09:00|日本| ||元和9年11月15日|幕府:京都市中に牢人取締令
1700迄(4525件)
1624年1月20日-09:00|日本| ||元和9年12月|皆川広照(元信濃飯山藩主):常陸府中1万石/拝領/以後隆庸、成郷(
13千石)と続く(-正保2年無嗣断絶/5千石を弟に分知)
1624年1月24日-09:00|日本| ||元和9年12月5日|稲葉正勝:老中就任(-寛永11年1月25日)
1624年1月28日 00:00|イギリス/セントクリストファー・ネイビス| |||英国人トマス・ウォーナ,小アンティル諸島のセント・キッツ(セント・クリストファー)島
に植民開始/フランス人との共同作戦でカリブ族の抵抗を撃破
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|稲葉正勝:常陸真壁1万石/拝領(-寛永5年下野真岡へ)
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が粟田口で製陶を始めた(粟田口
焼)/京焼最古の窯とされる
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|川越城主酒井忠勝が三芳野神社再建(川越城内)<とうりゃんせ
の唄発祥の地>/埼玉県
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|八条宮智仁親王(後陽成天皇皇子)が桂に別荘(桂離宮)を造営
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|明石志賀之助:初代横綱襲名
1624年2月19日-09:00|日本| ||元和10・寛永1年|雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建/中央区
1624年2月19日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・天啓4年1月|朝鮮で李カツの乱勃発
1624年2月19日-01:00|オランダ/中国/台湾| ||明・天啓4年1月|明が澎湖島を攻撃
1624年3月-01:00|オランダ/コロンビア| |||シュルテのオランダ船隊,8月の二度にわたりグアヤキルの港を襲撃
1624年4月2日-09:00|日本| ||元和10年2月15日|猿若(中村)勘三郎が猿若座(>中村座)を興し、歌舞伎興行を行
う/江戸歌舞伎のはじめ
1624年4月17日-09:00|日本| ||寛永1年2月30日|「寛永」に改元
1624年4月18日-09:00|日本| ||寛永1年3月|猿若(中村)勘三郎が猿若座(>中村座)、歌舞伎公演『新発地太鼓』
初演目
1624年4月29日-01:00|フランス| |||フランスでリシュリューが宰相に就任
1624年5月-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ西インド会社がブラジルのバイアを占領
1624年5月2日-09:00|日本| ||寛永1年3月15日|松平光長:越前北庄→越後高田26万3千石/移封(-天和1年改易)
1624年5月2日-09:00|日本| ||寛永1年3月15日|松平忠昌:越後高田藩25万石→越前福井52万5千石/本家相続/以
後光通(弟昌勝、昌親に5万石、25千石分知45万石)、昌親(47万5千石)、綱昌と続く(-貞享3年改易)
1624年5月6日-01:00|オランダ/アメリカ| |||オランダ人のミニッツが、アメリカのマンハッタン島を買収。ニューアムステルダムと命名
1624年5月11日-01:00|ドイツ| |||デュッセルドルフ協定が締結され、ブランデンブルク公とノイブルク公が相互防衛を約束
1624年5月11日-01:00|スペイン/日本| ||寛永1年3月24日|幕府、スペインの貿易再開要請を拒否/日本とルソンは国交断
絶
1624年5月15日 07:00|メキシコ| |||副王ヘルベスと大司教とのあいだにクリオージョ資産家の逮捕をめぐり抗争.貧民層を
巻き込む内乱に発展
1624年5月24日-01:00|オランダ/アメリカ| |||ヴァージニア植民地がイングランド王領となる
1624年6月15日-09:00|日本| ||寛永1年4月29日以降|板倉重昌:三河深溝15千石/拝領/次に[寛永16年6月]重矩(
弟重直に5千石分与1万石)(-寛永16年三河中島へ)
1624年6月16日-09:00|日本| ||寛永1年5月|日光東照宮の本殿と陽明門 が完成
1624年7月3日-09:00|日本| ||寛永1年5月18日|本多成重:越前丸岡43300石/拝領/以後重能、重昭、重益と続く(元禄8年改易、家臣間の騒動の責めを問われた)
1624年7月18日-09:00|日本| ||寛永1年6月3日|秋田藩の佐竹義宣がキリスト教徒33人を処刑
1624年7月21日-09:00|日本| ||寛永1年6月6日|松平直基が越前勝山に東照宮創建(福井県/→川越→前橋)
1624年7月23日-09:00|日本| ||寛永1年6月8日|松平直基:越前勝山2万5千石/拝領(-寛永12年越前大野へ)
1624年7月23日-09:00|日本| ||寛永1年6月08日|松平直政:上総姉ヶ崎1万石→越前大野5万石/移封(-寛永12年
信濃松本へ)
1624年7月23日-09:00|日本| ||寛永1年6月8日|松平直良(結城秀康の六男):越前木本2万5千石/拝領(-寛永12年
越前勝山へ)
1624年7月26日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで国勢調査
1624年7月31日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)ニコル(~16251125)
1624年8月-01:00|オランダ/スペイン| |||東南アジアで再びオランダとスペインが海戦
1624年8月-01:00|オランダ/中国/台湾| |||明とオランダの協定により、澎湖島は明が支配し、台湾はオランダが支配する
ことになる
1624年8月12日-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国首席大臣アルマン・ジャン・デュ・プレッシ・ド・リシュリュー(~16421204死去)
1624年8月26日-01:00|オランダ/台湾| |||オランダ台南に到着,台湾西部を占領
1624年8月26日-09:00|日本| ||寛永1年7月13日|<改易>福島左衛門大夫正則:信濃川中島4万5000石/検死前火葬
により廃絶
1624年9月1日-09:00|日本| ||寛永1年7月19日|松平忠昌:越前へ入部し、北庄を福居(福井)に改める
1624年9月13日-09:00|日本| ||寛永1年8月|酒井忠勝,武蔵・上総両国内に2万992石の加増をうける
1624年9月23日-09:00|日本| ||寛永1年8月11日|鳥居成次:甲斐谷村1万8千石→3万5千石/加増
1624年9月23日-09:00|日本| ||寛永1年8月11日|徳川忠長(秀忠の三男):甲斐・信州小諸25万石に駿河・遠江東部
の25万石を加え、駿府50万石に移封
1624年10月12日-09:00|日本| ||寛永1年9月|(松平)久松憲良:美濃大垣5万石→信濃小諸4万5千石(庶兄忠利に5
千石を分封)(-正保4年無嗣断絶)
1624年10月12日-09:00|日本| ||寛永1年9月|稲葉紀通:摂津中島→丹波福知山45700石(-慶安1年自殺・改易)
1700迄(4525件)
1624年10月12日-09:00|日本| ||寛永1年9月|岡部長盛:丹波福知山→美濃大垣5万石/次に宣勝が嗣ぐ(-寛永10
年播磨龍野へ)
1624年10月17日-09:00|日本| ||寛永1年9月6日|北政所(ねね)が京都東山の高台寺で没/77歳(誕生:天文17(154
8))/(一説には83歳)/豊臣秀吉の正室で、秀吉の死後落飾して高台院と称していた
1624年11月1日-01:00|フランス/イタリア| |||フランスが、ヴェネツィア・サヴォーイアと同盟してヴァルテシナを占領
1624年11月2日-09:00|日本| ||寛永1年9月22日|江戸城西丸が完成・徳川秀忠は江戸城西丸へ移る
1624年12月6日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首フランチェスコ・コンタリーニ死去
1624年12月23日-09:00|日本| ||寛永1年11月13日|武家諸法度で大名の妻は江戸居住に決定/島津家久が初めて
妻子を江戸藩邸に移す
1625年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ブラウバッハ方伯ヨハン[ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の次男](~1651年1代で
断絶)
1625年-01:00|オランダ| |||グロティウスが「戦争と平和の法」を刊
1625年-01:00|オランダ/アメリカ| |||ボウデウィン・ヘンドリック(バルドゥイノ・エンリコ)の率いるオランダ人海賊がプエルトリコのサンフアンを襲
撃/町の攻略に失敗し撃退される
1625年 00:00|イギリス| |||ジェームズ1世の息子チャールズ1世がイングランド・スコットランド王即位(-1649)
1625年 00:00|イギリス| |||ロンドンでペストが流行、人口のほぼ4分の1が死亡
1625年1月24日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第96代ジョヴァンニ・コルネール1世(~16291223)
1625年2月7日-09:00|日本| ||寛永2年|滝川正利:常陸片野2万石/多病で勤仕に堪えられず、嗣子もないことか
ら1万8千石所領返還、残り2千石を受
1625年2月7日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・隆泰8年|大越莫朝の莫敬恭が後黎朝に討たれて滅びた/莫敬寛は降伏
1625年2月7日-09:00|日本| ||寛永2年1月|(松平)久松定綱:遠江掛川3万石→山城淀35千石(-寛永10年美濃大垣
へ)
1625年2月17日-09:00|日本| ||寛永2年1月11日|徳川忠長(徳川秀忠の次男):甲斐府中25万石→駿河府中55万石
(-寛永9年改易)
1625年4月1日-09:00|日本| ||寛永2年2月24日|仁賀保挙誠:出羽仁賀保1万石/64歳で没し、遺領が長男良俊7千
石、2男誠政2千石、3男誠次1千石に分封されたため、仁賀保氏は大名の地位を失い、旗本に
1625年4月6日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1625/3/27|<即位>イングランド王国国王・スコットランド王(ステュアート家)チャールズ1世(
聖チャールズ殉教王)[ジェームズ1世とアン・オブ・デンマークの男子](~16490130斬首刑48歳)
1625年4月6日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1625/3/27|<死去>イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)/58歳
1625年4月7日-08:00|中国| ||明・天啓5年3月|魏忠賢が東林党の弾圧を開始し、楊連らが獄中で惨殺される
1625年4月23日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州・ヘルダーラント
州・フローニンゲン州総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリック[オラニエ公ウィレム1世の末子](~16470314死去63歳)
1625年4月23日-01:00|オランダ| |||オランダ統領オレンジ公マウリッツ没/57歳(誕生:15671113)
1625年5月1日-01:00|オランダ/ポルトガル/スペイン/ブラジル| |||バイア,64隻からなるポルトガル・スペインの連合艦隊により奪
回
1625年6月9日-09:00|日本| ||寛永2年5月5日|幕府が武家宅地を商人に貸出すことを禁じる
1625年6月16日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジャコモ・ロメッリニ(~16270625)
1625年6月23日-01:00|フランス/イギリス| ||ユリウス暦:1625/6/13|イギリスのチャールズ1世が、フランス王女アンリエット・マリーと結婚
1625年7月2日-01:00|オランダ/スペイン| |||オランダの対スペイン独立戦争の重要拠点の1つのブレダが、1年にわたるスペイン
軍の包囲攻撃で陥落
1625年7月21日-09:00|日本| ||寛永2年6月17日|熊本で地震のため熊本城の火薬庫爆発,天守付近の石壁の一部
が崩れた。城中の石垣にも被害,死約50
1625年8月19日-01:00|ポーランド| |||<即位>チェシン公(シロンスク・ピャスト家)エルジュビェタ・ルクレツィア(~16530519死去)
1625年8月27日-09:00|日本| ||寛永2年7月25日|(松平)大河内正綱:相模玉縄23千石/拝領/以後正信(弟正朝に3
千石分知2万石)、正久が嗣ぐ(-元禄16年上総大多喜へ)
1625年9月15日-01:00|フランス| |||フランスのユグノーの指導者スビーズが、ラ・ロシェルでの蜂起に失敗してイギリスに逃亡
1625年9月28日-09:00|日本| ||寛永2年8月27日|関所・駅伝・貨幣等の制を定む
1625年10月2日-09:00|日本| ||寛永2年9月|朝倉宣正:駿河柿島など→遠江掛川26千石(-寛永9年改易)
1625年10月3日-09:00|日本| ||寛永2年9月02日|酒井忠行:上野板鼻3万石/拝領(-寛永13年父の違領上野前橋を
相続し、廃藩)
1625年10月31日-09:00|日本| ||寛永2年10月|僧天海、江戸忍岡に東叡山寛永寺を創建<天台宗関東総本山>東京
都台東区
1625年11月22日-09:00|日本| ||寛永2年10月23日|牧野忠成:越後長岡7万2千石→7万4千石/新墾田2千石を表高
に加える
1625年11月25日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)フランソワ2世(~12.1)
1625年12月1日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)シャルル4世(3世)(~16340119)
1625年12月8日-01:00|クロアチア| |||<即位>クロアチア王(ハプスブルグ家)フェルディナンド3世(~16570402)
1625年12月9日-01:00|デンマーク/ドイツ| |||デンマークがドイツへ侵攻し、30年戦争が第2ラウンドへ
1626年-05:30|インド| |||アグラーにヌール・ジャハーンの父の廟が建設
1626年-04:00|ロシア| |||<即位>カシモフ・ハン国(シビル・ハン国系)ハン:サイイド・ブルハーン[アルプ・アルスラーンの子](~1679年)
1626年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ミロン・バルノヴスキ=モヴィラ(~1629年)
1626年-01:00|フランス| |||<即位>オルレアン公(ブルボン家)ガストン(~16600202)
1700迄(4525件)
1626年-01:00|イタリア| |||<即位>モンフェッラート公(ゴンザーガ家)ヴィンチェンツォ2世(~1627年)
1626年-01:00|オランダ/アメリカ| |||オランダ人,ニューネザーランド(現在のニュージャージーとマンハッタン)を建設
1626年1月9日-09:00|日本| ||寛永2年12月11日|阿部正次:上総・下総・武蔵に新田を加えて5万6千石に
1626年1月28日-09:00|日本| ||寛永3年|この年、狩野探幽、二条城の二の丸御殿襖絵を描く
1626年1月28日-09:00|日本| ||寛永3年|池田重利(頼広)(下間頼竜の嫡子):播磨鵤→播磨新宮1万石/以後重政、
薫彰、邦照と続く(-寛文10年無嗣断絶)
1626年1月28日-09:00|日本| ||寛永3年|鳥居忠政:出羽山形20万石→22万石/加増
1626年1月28日-09:00|日本| ||寛永3年|内藤正勝:安房勝山2万石/拝領(-寛永6年継嗣が幼く15千石収公され廃
藩)
1626年1月28日-09:00|日本| ||寛永3年|本多政朝:播磨龍野→播磨国内5万石/以後政勝(4万石)、勝行と続く(慶安3年無嗣断絶)
1626年1月28日-08:00|中国| ||明・天啓6年1月|後金軍が寧遠を攻囲するが明将の袁崇煥が撃退
1626年2月6日-01:00|フランス| |||ユグノーがフランス国王と和約(ラ・ロシェルの和約)
1626年3月5日-01:00|フランス/スペイン| |||フランス・スペイン間の平和条約
1626年3月28日-08:00|中国| ||明・天啓6年3月|魏忠賢が東林派の周順昌を逮捕し、蘇州市民が反宦官暴動をお
こす
1626年4月-01:00|デンマーク/ドイツ| |||デンマーク戦争/ワレンシュタインの傭兵部隊は、ドイツのデッサウでプロテスタント遠征軍に最初
の勝利をおさめる
1626年4月7日-09:00|日本| ||寛永3年3月11日|酒井忠勝、武蔵鳴戸領・上総姉崎領内に2万石の加増をうける
1626年4月9日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1626/3/30|フランシス・ベーコン死去/65歳(誕生:15610122)イギリスの哲学者
1626年4月26日-09:00|日本| ||寛永3年4月|<改易>根津吉直:上野豊岡1万石/無嗣廃絶
1626年4月26日-09:00|日本| ||寛永3年4月|阿部正次:老中解任
1626年5月1日-09:00|日本| ||寛永3年4月6日|阿部正次:大坂城代/摂津で3万石加増8万6千石となる
1626年5月6日 06:00|アメリカ| |||ミニュイット、マンハッタン島を約2000ドルでインディアンから買う
1626年5月16日-01:00|スペイン/台湾| |||マニラのスペイン人は台湾基隆港内社寮島(現在の和平島)で占領式/セント・サルバ
ドール城を築城
1626年5月19日-09:00|日本| ||寛永3年4月24日|幕府が松平忠輝を飛騨国の配所から信濃に移す
1626年5月21日-09:00|日本| ||寛永3年4月26日|長崎奉行水野守信ゼズス会宣教師・キリスト教徒らを処刑
1626年6月21日-09:00|日本| ||寛永3年閏4月27日|人身売買を禁ず
1626年6月25日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1626/6/15|チャールズ1世が議会を解散し、3月5日に議会の弾劾を受けたバ
ックンガム公を救う
1626年6月27日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世[ルートヴィヒ5世の息子](~16610611死去)
1626年6月30日-09:00|日本| ||寛永3年5月7日|<改易>本多忠刻:播磨姫路10万石/無嗣廃絶
1626年8月27日-01:00|デンマーク/ドイツ| |||ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国軍が、ルッターでデンマーク軍に大勝
1626年9月1日-09:00|日本| ||寛永3年7月11日|松平重直:出羽上山4万石→摂津三田3万石(-寛永9年豊後竜王へ
)
1626年9月17日-09:00|日本| ||寛永3年7月27日|幕府が大坂定番制を制定
1626年9月21日-09:00|日本| ||寛永3年8月|蒲生忠知:出羽上山4万石/拝領(-寛永4年本家を相続し伊予松山へ)
1626年9月21日-09:00|日本| ||寛永3年8月|水野勝成:備後福山10万石→10万1千石/加増
1626年9月30日-08:00|中国| ||金・天命11年8月11日|寧遠包囲戦での負傷で後金のヌルハチが死去/67歳(誕生:1539
)/後金初代皇帝/清の建国の祖
1626年10月 03:00|ブラジル| |||パレンテ知事、反乱を計画したとしてベレンの先住民指導者24人を捕らえ処刑
1626年10月20日-08:00|中国| ||金・天命11年9月1日|後金で、ヌルハチの第8子ホンタイジ(太祖)(34)が跡を継ぐ
1626年10月29日-01:00|イタリア| |||<死去>マントヴァ・モンフェッラート公フェルディナンド・ゴンザーガ→<即位>(ゴンザーガ家)ヴィンチェ
ンツォ2世・ゴンザーガ(~16271225死去)
1626年11月4日-09:00|日本| ||寛永3年9月16日|小笠原長次:播磨龍野6万石/拝領(-寛永9年豊前中津へ)
1626年11月22日-09:00|日本| ||寛永3年10月4日|幕府:再び女院・中宮の規則
1626年12月28日-01:00|デンマーク/ドイツ| |||ブレスブルクの和約
1627年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王マハープロムテーウォーポーティサット(モーン・ケーオ)王⇒同年<即位>ラーンサーン王朝国王
トーンカム王(~1633年)
1627年-05:00|カザフスタン| |||<復位>カザン・ハン国ハン:イシム(~1628年)
1627年-02:00|ルーマニア| |||<再位>ワラキア公(ヴァリアス朝)アレクサンドル4世(2度目~1629年)
1627年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教アントニー・ペレ(~1633年)
1627年-01:00|チェコ| |||改正領邦法規(新憲法)の発布により、国家のほとんどの権限は国王に属す
1627年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||神聖ローマ皇帝軍、ユラン半島占領
1627年-01:00|オランダ/ポルトガル/スペイン/ブラジル| |||オランダ人,ふたたびバイアを占領するがただちに追い出される
1627年-01:00|オランダ/ミャンマー| |||オランダ東インド会社がビルマに商館を建設
1627年 00:00|モロッコ| |||<即位>マラケシュ政権アブー・マルワン・アブド・アル=マリク2世(~1631年)
1627年 00:00|ヨーロッパ| |||ポーランドのヤクトロウカの森で1頭の雌が死んだのを最後にヨーロッパ原牛のオーロックスが絶滅
1627年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事サミュエル・ド・シャンプラン(~1635年)
1627年1月24日-09:00|日本| ||寛永3年12月7日|幕府が布類の尺度規則を制定
1627年2月12日-01:00|リヒテンシュタイン| |||<即位>第2代リヒテンシュタイン公カール・オイゼビウス[カール1世の息子](~16840405死去
1700迄(4525件)
1627年2月16日-09:00|日本| ||寛永4年|稲葉正成(林政秀の次男):下野真岡(芳賀城)2万石/拝領/次に常陸柿岡
から正勝(自領2万石を加えて4万石)が嗣ぐ(-寛永9年相模小田原へ)
1627年2月16日-09:00|日本| ||寛永4年|下谷神社、上野山下に移転/台東区
1627年2月16日-09:00|日本| ||寛永4年|長盛法印が富岡八幡宮建立(東京都江東区)
1627年2月16日-09:00|日本| ||寛永4年|藤堂高虎が屋敷内に上野東照宮創建<徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜を
祀る>/東京都
1627年2月16日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・永祚9年|ベトナムで鄭氏と阮氏の抗争が始まる
1627年2月16日-08:00|中国| ||金・天総1年1月1日|後金・天総と改元
1627年2月18日-09:00|日本| ||寛永4年1月3日|島原でキリシタン16名、雲仙地獄に投げ込まれ全員殉死
1627年2月19日-09:00|日本| ||寛永4年1月4日|<改易>蒲生忠郷:陸奥会津若松60万石/無嗣廃絶
1627年2月19日-09:00|日本| ||寛永4年1月4日|陸奥国三春の農民らが一揆
1627年2月20日 00:00|イギリス/バルバドス| |||バルバドス島をイギリス人ヘンリ・パウエルが占領
1627年2月20日-09:00|日本| ||寛永4年1月5日|松平信綱、相模国高座郡・愛甲郡にて8千石加増され1万石とな
る
1627年3月1日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||金・天総1年1月14日|後金の太宗ホンタイジが、貝勅と阿敏の2人の将軍に3
万の兵をつけて朝鮮への侵攻を命じる(丁卯胡乱)仁宗が江華島へ避難
1627年3月3日-01:00|オランダ/ブラジル| |||ピート・ヘイン提督の率いる22隻のオランダ艦隊,ふたたびバイアを占領/まもな
くポルトガル人の反撃の前に撤退
1627年3月17日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世不変伯[モーリッツの息子](~16370921);ヘッセン=ラインフ
ェルス方伯エルンスト1世[ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの五男](~1693年死去,断絶ヘッセン=ヴァンフリート方伯カールが相続);ヘッセン=ローテンブ
ルク方伯ヘルマン4世[ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの三男]((~1658年)
1627年3月18日-09:00|日本| ||寛永4年2月|松下重綱:下野烏山2万800石→陸奥二本松5万石/移封/次に長綱が
嗣ぐ(-寛永5年陸奥三春へ)
1627年3月18日-09:00|日本| ||寛永4年2月|森川重俊:下総生美1万石/拝領/以後重政、重信、俊胤、俊常、俊令、俊
孝、俊知、俊民、俊位、俊徳、俊方と続く(-明治4年)
1627年3月27日-09:00|日本| ||寛永4年2月10日|<分封>加藤明利:陸奥三春3万石(-寛永5年陸奥二本松藩へ)
1627年3月27日-09:00|日本| ||寛永4年2月10日|加藤嘉明:伊予松山→陸奥会津若松40万石/次に明成が嗣ぐ(寛永20年)
1627年3月27日-09:00|日本| ||寛永4年2月10日|蒲生忠知:出羽上山4万石→伊予松山20万石、近江日野4万石/転
封(-寛永11年無嗣断絶)
1627年4月6日-09:00|日本| ||寛永4年2月20日|丹羽長重:陸奥棚倉5万石→陸奥白河10万7百石/加増移封/次に
光重[寛永14年4月](-寛永20年7月4日二本松へ転封)
1627年4月6日-09:00|日本| ||寛永4年2月20日|内藤信照:摂津高槻→陸奥棚倉5万石/移封/以後信良、弌信と嗣
ぐ(-宝永2年駿河田中へ)
1627年4月14日-09:00|日本| ||寛永4年2月28日|島原藩主松倉重政がキリシタンを雲仙岳火口へ投込む
1627年4月29日-09:00|日本| ||寛永4年3月14日|堀親良:下野真岡1万2千石→下野烏山2万5千石/移封/つぎに親
昌が嗣ぐ(-寛文12年信濃飯田へ)
1627年5月25日-09:00|日本| ||寛永4年4月11日|今井宗薫、没/76歳(誕生:天文21(1552))/茶人
1627年6月17日-09:00|日本| ||寛永4年5月4日|加藤嘉明が会津若松城に入城
1627年6月27日-01:00|フランス/カナダ| |||リシュリューがヌーベル・フランス社を設立し、カナダ植民を振興
1627年6月28日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・ルカ・シャヴァリ(~16290628)
1627年8月29日-09:00|日本| ||寛永4年7月19日|幕府が僧侶の諸出世法度を定める
1627年9月30日-08:00|中国| ||明・天啓7年8月22日|天啓帝没/22歳(誕生:1605)/明の皇帝/弟の毅宗崇禎帝が明
17代目皇帝に即位
1627年10月22日-09:00|日本| ||寛永4年9月14日|松代地震/M6、死者多数
1627年10月25日-09:00|日本| ||寛永4年9月17日|上野忍岡東照宮ができる
1627年10月28日-05:30|インド| |||ジャハーンギール死去/58歳(誕生:15690830)。インドのムガル皇帝
1627年11月7日-09:00|日本| ||寛永4年9月30日|江戸大火、多数死亡
1627年11月8日-05:30|インド| |||<即位>ムガル帝国第5代パーディシャー:シャー・ジャハーン(~16580802)16660122死去74歳
1627年12月8日-09:00|日本| ||寛永4年11月|片桐貞昌:小泉藩16000石→13000石/弟貞晴に3000余石を分与
1627年12月21日-09:00|日本| ||寛永4年11月14日|酒井忠勝:武蔵深谷5万石→川越8万2300石
1627年12月21日-09:00|日本| ||寛永4年11月14日|酒井忠利:老中解任/死去
1627年12月25日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公(ゴンザーガ=ヌヴェール家)カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルス(~16370922)
1627年12月30日-09:00|日本| ||寛永4年11月23日|富士山が噴火し、江戸にも火山灰が降る
1628年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王ウティ・ウダヤラヤ(~1642年)、トマリヤチヤ2世(~1630年)
1628年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王ルワンティッパネート(~1655年)
1628年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:ジャニベク・ギレイ(~1635年、2期目)
1628年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=ギュストロー系)アルブレヒト(8世)・フォン・ヴァレンシュタイン[ヨハン・アルブレヒト2
世が神聖ローマ皇帝フェルディナント2世によって廃位された後に統治](~1631年)
1628年-01:00|オランダ/インドネシア| |||中部・東部ジャワ全域を支配下に置いていたマタラーム王国軍はバタヴィアを包囲攻撃
/オランダ軍の艦砲射撃の前に敗走
1628年-01:00|オーストリア| |||オーストリア大公(前方オーストリア大公)フェルディナント・カール即位(~1662年12月30日)
1700迄(4525件)
1628年-01:00|フランス| |||フランスでペストが大流行
1628年-01:00|オランダ/インドネシア| |||マタラーム王国:第3代アグンが第一回バタヴィア攻撃/失敗
1628年 00:00|イギリス/セントクリストファー・ネイビス| |||イギリス人がカリブのネビス島の植民に着手
1628年 00:00|ポルトガル/スリランカ| |||ポルトガルが、キャンディ王国からバッティカロアを奪取
1628年1月26日-01:00|ドイツ| |||ヴァレンシュタインが、メクレンブルクを征服
1628年2月4日-05:30|インド| |||インドでシャー・ジャハーンがムガル皇帝に即位
1628年2月5日-08:00|中国| ||明・崇禎1年1月1日|明・崇禎と改元
1628年2月26日-09:00|日本| ||寛永5年1月22日|加藤明利:陸奥三春→陸奥二本松3万石(-寛永18年無嗣断絶)
1628年2月26日-09:00|日本| ||寛永5年1月22日|松下長綱:陸奥二本松5万石→陸奥三春3万石幼少のため減移封
(-寛永21年改易)
1628年3月15日-09:00|日本| ||寛永5年2月10日|土岐頼行:下総相馬→出羽上山25千石/移封/次に頼殷が嗣ぐ(元禄5年越前野岡へ)
1628年3月27日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦3月17日|イングランド国王チャールズ1世が議会を召集/エドワード・クック起草の「権
利請願」が提出される
1628年4月2日-09:00|日本| ||寛永5年2月28日|<改易>徳永昌重:美濃高須5万3700石/出羽新庄に幽閉
1628年4月2日-09:00|日本| ||寛永5年2月28日|<改易>別所吉治:丹波綾部2万石/仮病で参勤を怠り、その裏で鷹
狩をしていたことが発覚改易/別所氏滅
1628年5月6日-09:00|日本| ||寛永5年4月3日|中村座ほか焼失
1628年6月2日 00:00|ポルトガル/スペイン/日本/タイ| ||寛永5年5月|スペイン船がシャムで朱印船を攻撃する。幕府、報復措
置として、長崎のポルトガル船を抑留
1628年6月17日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1628/6/7|イングランド国王チャールズ1世(28)が、議会の提出した権利請願を
裁可し、引き換えに財産難解消のための特別税を承認させる
1628年6月19日-09:00|日本| ||寛永5年5月18日|江戸で地震。城塁多く崩れる
1628年6月29日-01:00|スペイン/台湾| ||寛永5年5月28日|朱印船船頭の浜田弥兵衛が約170人の手勢でオランダ台湾
長官府を襲撃して占領、オランダ台湾長官ピーテル・ノイツら5人を拘束(7月3日没収されていた品や先住民を解放させた
)
1628年7月-01:00|スペイン/台湾| |||スペインが淡水を占領,サンドミンゴ(紅毛城)城建設
1628年7月9日-06:30|ミャンマー| |||タウングー王朝国王アナウペッルンが王子に暗殺される→<即位>ミンニャ・デバ[前王の息子]
(~16290819)
1628年7月18日-01:00|ドイツ| |||<即位>ヴュルテンベルク公エーバーハルト3世(~16740702)
1628年7月31日-08:00|中国| ||明・崇禎1年7月|海上武装船団の首領の鄭芝竜が明に降伏
1628年7月31日-08:00|中国| ||明・崇禎1年7月|給料の欠配で寧遠で明軍兵士が反乱
1628年8月-01:00|スペイン| |||スペインが平価50%切り下げ
1628年8月10日-09:00|日本| ||寛永5年7月11日|江戸で大地震。江戸城の石垣破損
1628年8月29日-09:00|日本| ||寛永5年8月|岩城宣隆:出羽亀田(天鷺城)2万石/拝領/以後重隆、秀隆、隆詔、隆恭
、隆恕、隆喜、隆永、隆信、隆政、隆邦(明治1年2千石減封)、隆彰と続く(-明治4年)
1628年8月29日-09:00|日本| ||寛永5年8月|高岡を津軽と改称、陸奥高岡藩(藩主:津軽信枚)4万7000石は陸奥津
軽藩となる/以後、信義、信政が相続
1628年9月7日-09:00|日本| ||寛永5年8月10日|井上正就:老中解任/江戸城西の丸で目付・豊島信満に突然殺害
される(江戸城殿中刃傷の初め)
1628年9月8日-01:00|オランダ/スペイン| |||ピート・ハイン提督のひきいる31隻のオランダ艦隊,キューバのマタンサス沖合いでスペイン
船団を襲撃.30隻まるごと拿捕/1千2百万ペソ=1500万グルデン相当の黄金を略奪
1628年9月21日-09:00|日本| ||寛永5年8月24日|酒井忠興:1万石/無嗣除封
1628年10月12日-09:00|日本| ||寛永5年9月15日|藤堂高虎が南禅寺山門を再建落慶
1628年10月28日-01:00|フランス| |||フランス、ユグノーの最後の拠点となったラ・ロシェルが、国王軍によって陥落
1628年11月6日-09:00|日本| ||寛永5年10月11日|森川重俊:老中就任(-寛永9年1月24日)
1628年11月6日-09:00|日本| ||寛永5年10月11日|青山幸成:老中就任(-寛永20年2月16日)
1628年11月26日-08:00|中国| ||明・崇禎1年11月|陜西で王嘉胤ら率いる農民の大反乱が開始、李自成や張騫中
も参加
1628年12月11日-01:00|イタリア| |||<即位>モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)アルフォンソ3世(~1629年)
1628年12月12日-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第25代国王ボーロマラーチャー2世チェーターティラート(~1629年)
1629年-08:00|インドネシア| |||中部・東部ジャワ全域を支配下に置いていたマタラーム王国軍はバタヴィアを包囲攻撃/コレラの
流行で敗走
1629年-08:00|マレーシア| |||マラヤのアチェ王国がマラッカを攻撃
1629年-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第26代国王アーティッタヤウォン→同年<即位>アユタヤ王朝第27代国王サンペット5世プラーサ
ートトーン(~1656年)
1629年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アレクサンドル8世(~1630年)
1629年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)レオン・トムサ(~1632年)
1629年-02:00|ザンビア/ポルトガル| |||ポルトガルとムタパ国が条約を締結し、キリスト教に改宗
1629年-01:00|イタリア| |||<即位>モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)フランチェスコ1世(~16581014死去)
1629年-01:00|スペイン/イギリス/セントクリストファー・ネイビス| |||スペイン,セント・キッツを襲撃し,イギリス人を排除.まもなくイギリスが
奪回
1700迄(4525件)
1629年 00:00|イギリス| |||イングランド王チャールズ1世は議会を解散(以後11年間議会を召集せず、専制政治を行なう)
1629年 06:00|アメリカ| |||プエルト・リコのサンヘルマン,フランス人海賊に襲撃される
1629年1月12日-09:00|日本| ||寛永5年12月18日|米沢藩主上杉定勝が藩士を含む領内のキリシタンを処刑
1629年1月17日-01:00|フランス/ポルトガル| |||数十年前にポルトガルの駐フランス大使ジャン・ニコ(ニコチンに名前を残す)によっ
て紹介されたタバコに、宰相リシュリューが煙草税をかける
1629年1月19日-03:30|イラン| |||<死去>サファヴィー朝第5代君主アッバース1世が熱病で死去/71歳(誕生:1557)
1629年1月24日-08:00|中国| ||明・崇禎2年|江蘇大倉州の張溥らが江南の知識人を集めて東林党の精神を引き
継いだ政治結社「復社」設立
1629年1月25日-09:00|日本| ||寛永6年|山口重政:常陸牛久1万石/大阪夏の陣の功で復旧/以後弘隆、重貞、弘豊
、弘長、弘道、弘務、弘致、弘封、弘穀、弘敞、弘達(-明治4年)
1629年1月25日-09:00|日本| ||寛永6年|崇福寺創建/長崎県
1629年1月25日-09:00|日本| ||寛永6年|禅那院日忠、題経院日栄が題経寺(柴又帝釈天)創建/東京都
1629年1月28日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第6代シャー:サフィー1世(~16420512)
1629年1月30日 03:00|ブラジル| |||アントニオ・ラポーソ・タバレスが指揮するバンディランテス,グアイラ地方のイエズス会ミッションを襲撃
.グアラニー族4千人を捕らえる
1629年2月11日-09:00|日本| ||寛永6年1月18日|松山領に水無又兵衛らを首謀者とする一揆が起こり城主蒲生
忠知これを平定する
1629年3月12日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦3月2日|イングランドのチャールズ1世が議会を解散し、無議会時代が始まる
1629年3月20日 03:00|ブラジル| |||アントニオ・ラポーソ・タバレスと別のバンディランテ,マノエル・モラト・コエリョ,3千名の大軍でヘススマリア
のミッションを襲撃
1629年3月29日-01:00|ドイツ| |||神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が回復令を発し、新教徒の領土を旧教徒に返還させ
る
1629年4月23日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・徳隆1年4月|大越後黎朝6代・神宗が徳隆と改元(-1634)
1629年5月22日-01:00|デンマーク/ドイツ| |||デンマーク王クリスティアン4世(52)が、神聖ローマ帝国とリューベックの和約を結んでドイ
ツに侵入しないことを約束
1629年6月16日-01:00|ドイツ| |||ヴァレンシュタインが、メクレンブルク公に封じられる
1629年6月26日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アンドレア・スピノラ(~16310626)
1629年6月28日-01:00|フランス| |||フランスで新教徒とアレスの和議
1629年7月6日-09:00|日本| ||寛永6年5月16日|長雨で鴨川・高野川が氾濫し、三条大橋が壊れる
1629年7月17日-01:00|ハンガリー/イタリア| |||皇帝軍が、イタリアのマントヴァを占領
1629年7月19日 00:00|イギリス/カナダ| |||イギリスがケベックを占領し、シャンブランを捕虜とする
1629年8月19日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王サラン[前王の叔父](~16480827)インワからペグーへ遷都
1629年9月12日-09:00|日本| ||寛永6年7月25日|紫衣事件/紫衣法度に背いた大徳寺の沢庵宗彭らを流刑に処す
1629年9月19日-09:00|日本| ||寛永6年8月3日|<改易>内藤正勝:安房勝山2万石/22歳で病死し、嗣子重頼はわず
か3歳であったため、1万5千石を減封されて5千石の旗本
1629年9月26日-01:00|ポーランド/スウェーデン/リトアニア| |||プロイセン地方のアルトマルクでアルトマルク休戦協定(スウェーデン・ポーランド戦
争の休戦協定)/8年間に渡った両国の戦争の事実上の終戦協定/スウェーデンはリーフランド(リヴォニア)を獲得/スウェーデンはメ
ーメル、ダンツィヒ平原の諸都市の徴税権を獲得する(プロイセン船舶関税)/スウェーデン守備兵のプロイセン北岸への駐留/スウェーデ
ンは東プロイセンをプロシア公国に返還/ポーランド・リトアニア共和国はグスタフ・アドルフのスウェーデン王位を容認(実質的には保留)
1629年10月22日-09:00|日本| ||寛永6年9月6日|武家諸法度を更定
1629年11月13日-09:00|日本| ||寛永6年9月28日|江戸小石川の水戸藩邸に「後楽園」が完成
1629年11月14日-09:00|日本| ||寛永6年9月29日|<改易>桑山貞晴:和泉谷川2万6380石/嗣子のないまま26歳の
若さで病死し御所桑山家は2代で無嗣廃絶
1629年11月15日-02:00|ルーマニア| |||トランシルヴァニア公ベトレン没/(誕生:1580)
1629年11月15日-08:00|中国/モンゴル| ||金・天総3年;明・崇禎2年10月|後金のスレ・ハン軍がモンゴリア経由で長城をこえ
て北京へ進攻
1629年12月7日-09:00|日本| ||寛永6年10月23日|女浄瑠璃・女歌舞伎等禁じられる
1629年12月22日-09:00|日本| ||寛永6年11月8日|108代後水尾天皇譲位/女一宮践祚/寛永7年9月12日109代明正
天皇即位~16431003
1629年12月23日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首ジョヴァンニ・コルネル死去
1630年-07:00|タイ| |||タイの王位継承争いで山田長政が暗殺され、日本人が没落
1630年-06:30|ミャンマー| |||ビルマ語の「マハーラジャ法典」がなる
1630年-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王ヴェンカタ3世(~1642年)
1630年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王モイス・モヴィラ(~1631年)
1630年-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ西インド会社がブラジルのベルナンブーコを占領
1630年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公国ヴィットーリオ・アメデーオ1世(-1637)
1630年 00:00|ガーナ/オランダ/ポルトガル| |||オランダ,奴隷貿易の支配を狙い,西アフリカのアクシム,シャマのポルトガル奴隷基地を
占領
1630年1月18日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第97代ニコロ・コンタリーニ(~16310402)
1630年2月-01:00|アンゴラ/オランダ/ポルトガル| |||オランダはアンゴラ奪取
1630年2月12日-09:00|日本| ||寛永7年|稲荷大神を鎮座して深川稲荷と称す/江東区
1630年2月12日-09:00|日本| ||寛永7年|三浦正次:下総矢作1万石/拝領(-寛永16年下野壬生へ)
1700迄(4525件)
1630年2月16日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ,70隻,7千人の兵力でペルナンブコ占領
1630年3月3日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ペルナンブコでのポルトガル人の抵抗が終了。オランダはレシフェ、オリンダ、アン
トニオ・バス島を支配下におさめ、「新オランダ」と名づける
1630年4月22日-09:00|日本| ||寛永7年3月10日|<改易>酒井直次:出羽左沢1万2000石/35歳で没し、嗣子がなか
ったため除
1630年5月12日-09:00|日本| ||寛永7年4月1日|幕府が日蓮宗の一派・受不施派を弾圧
1630年6月12日 00:00|イギリス/アメリカ| |||イギリス人900名がセーラムに到着し、マサチューセッツ植民を開始
1630年6月24日-09:00|日本| ||寛永7年5月14日|越前で暴風雨により洪水が起こり、二百数十人が死亡
1630年6月27日-09:00|日本| ||寛永7年5月17日|松平信綱:上州白井および阿保で5千石加増され都合1万5千石
となる
1630年7月6日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||スウェーデン王グスタフ2世がドイツに侵攻、30年戦争第3ラウンドへ
1630年7月10日-08:00|中国| ||明・崇禎3年6月|流賊の張献忠が陜西で起兵
1630年7月17日-01:00|ドイツ/イタリア| |||皇帝軍がイタリアのマントヴァを占領
1630年7月26日-01:00|フランス/イタリア| |||<即位>サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世(~16371007死去)
1630年8月5日-01:00|イタリア| |||<即位>ナポリ王国アマルフィ候オッタヴィオ・ピッコロミーニ(~16560811)
1630年9月7日 06:00|アメリカ| |||ピューリタン植民者がマサチューセッツ湾植民地に建設した町を「ボストン」と呼ぶことを宣言
1630年10月29日 06:00|アメリカ| |||最初のマサチューセッツ総会議開催.選挙法(ケンブリッジ合意)を制定
1630年11月5日-01:00|スペイン/イギリス| ||ユリウス暦10月26日|マドリード条約が結ばれ、イギリスとスペインが和約
1630年11月9日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国595人ペストで死亡
1630年11月11日-01:00|フランス| |||リシリューが、マリーとガストン・ドレアンの陰謀を摘発し、マリーはブリュッセルに逃亡
1630年11月15日-01:00|ドイツ| |||ケプラーの法則のドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー死去/58歳(誕生:15711227)
1630年11月30日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで11月の死亡者1万4465人に達する
1631年-03:00|ケニア/ポルトガル| |||モンバサのスルタンがポルトガル支配に反旗
1631年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アレクサンドル7世(2度目~1633年)
1631年-01:00|ドイツ| |||<再位>メクレンブルク公(メクレンブルク=ギュストロー系)ヨハン・アルブレヒト2世[ヨハン7世の息子](~1636年)
1631年-01:00|ドイツ| |||<再位>メクレンブルク公(メクレンブルク=シュヴェリーン系)アドルフ・フリードリヒ1世(~1658年)
1631年-01:00|フランス| |||<即位>ヴュルテンベルク=メンペルガルト(モンベリアル)公レオポルト・フリードリヒ[ルートヴィヒ・フリードリヒの息子](~
1662年)
1631年-01:00|イタリア| |||<即位>モンフェッラート公(ゴンザーガ=ネヴェル家)カルロ1世[モンフェッラート侯フェデリーコの孫](~1637年)
1631年-01:00|サンマリノ| |||教皇ウルバヌス8世より独立を承認される
1631年-01:00|チャド| |||チャドのバギルミー王ブルコマンダが即位し、最盛期をむかえる
1631年 00:00|モロッコ| |||<即位>マラケシュ政権アル・ワーリド(~1636年)
1631年 00:00|モロッコ| |||モロッコでアリー・ユースフがアラウィー朝をおこす
1631年 05:00|ハイチ| |||アンソニー・ヒルトンら,プロビデンス会社を結成しTortugaに植民.アソシエーション島と名づける/ヒルトンは初
代知事に任命
1631年 05:00|ハイチ| |||セント・クリストフ島から逃れたフランス人年期奉公人,トルトゥーガ島の対岸ポール・ド・ペ近くのエスパニョーラ
本島に植民
1631年1月23日-01:00|フランス/スウェーデン| |||フランスが、スウェーデンとのベールヴァルデ協定を結んで軍事資金援助を約束
1631年2月1日-09:00|日本| ||寛永8年|東福院建立/江戸川区
1631年2月1日-09:00|日本| ||寛永8年|日延,覚林寺創建「清正公さま」<日蓮宗>/東京都
1631年2月1日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・崇禎4年|望遠鏡がイエズス会宣教師により朝鮮へ伝わる
1631年2月1日-09:00|日本| ||寛永8年|矢切の渡し開始(東京都葛飾区)
1631年4月2日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首ニコロ・コンタリーニ死去
1631年4月2日-09:00|日本| ||寛永8年3月|(松平)松井康重:和泉岸和田5万石→6万石/加増
1631年4月10日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第98代フランチェスコ・エリッツォ(~16460103)
1631年4月13日-01:00|ドイツ| ||ユリウス暦4月3日|グスターヴ2世が、フランクフルト・アン・オーデルを占領
1631年4月14日-09:00|日本| ||寛永8年3月13日|浅間山噴火、その灰が19日に江戸に降る
1631年5月 00:00|イギリス/バハマ| |||イギリス人がサンタ・カタリナ島に植民地を建設
1631年5月3日-09:00|日本| ||寛永8年4月2日|浅草寺焼失
1631年5月15日-09:00|日本| ||寛永8年4月14日|金沢城が焼失
1631年5月18日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ湾植民地で制限選挙法を制定
1631年5月20日-01:00|ドイツ| |||新教派の都市マクデブルクが、神聖ローマ帝国の将軍ティリに攻撃され陥落
1631年5月30日-01:00|フランス| |||テオフラスト・ルノードが、フランス最初の新聞の「ガゼット」(週刊)を創刊
1631年6月19日-01:00|フランス/ドイツ/イタリア| |||ケラスコの和約が結ばれ、マントヴァ継承戦争が終結/フランス軍と皇帝軍がイタリ
アから撤退
1631年6月27日-09:00|日本| ||寛永8年5月28日|将軍家光の弟で駿府藩主徳川忠長が、近年粗暴なふるまいが多
いという理由で領地を召し上げ、甲斐に蟄居
1631年6月30日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:レオナルド・デラ・トッレ(~16330630)
1631年7月19日-08:00|中国/日本| ||寛永8年6月20日|幕府が奉書船制度を導入し、中国船にも糸割符を適用
1631年8月1日-09:00|日本| ||寛永8年7月4日|<改易>織田長則:美濃野村1万石/没し、嗣子がなかったため除
1631年8月26日-09:00|日本| ||寛永8年7月29日|<改易>池田政綱:播磨赤穂3万5千石/無嗣除封、後弟の輝興が家
督を継ぐことを許された
1700迄(4525件)
1631年8月31日-09:00|日本| ||寛永8年8月4日|<改易>三浦重勝:下総国内1万石/27歳の若さで没し、継嗣なく所
領を没収
1631年9月3日-09:00|日本| ||寛永8年8月7日|池田輝興:播磨佐用2万5千石/廃藩→播磨赤穂35200石(-正保2年
妻を殺害し改易)
1631年9月3日-09:00|日本| ||寛永8年8月7日|池田輝澄:播磨龍野/弟輝興の旧領佐用郡2万5千石を加えられ、合
わせて6万3千石/加増
1631年9月6日-09:00|日本| ||寛永8年8月10日|<分封>本多忠義:播磨新田5万石/拝領(-寛永16年遠江掛川へ)
1631年9月27日-01:00|ドイツ/スウェーデン| ||ユリウス暦9月17日|ブライテンフェルトの戦いで、グスターヴ2世のスウェーデン軍とザクセン
軍の連合軍が、ティリーの皇帝軍を破る
1631年11月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ軍、ポルトガル人の攻勢の前にオリンダを放棄。パライバのCabedel
lo砦、リオグランデ、リオ・フォルモソ、カボ・ジ・サント・アゴスティーニョなどで攻勢に出るが、いずれも敗退
1631年11月7日-01:00|フランス| |||水星が太陽面を通過する「日面通過」をフランスの天文学者ガッサンティが初観測
1631年11月25日-01:00|ドイツ/スウェーデン| ||ユリウス暦11月15日|グスターヴ2世がヴィッテンベルクを占領
1631年12月13日-09:00|日本| ||寛永8年閏10月20日|幕府が、京都に牢人、キリスト教徒を隠匿したり寺院を密かに
建てることを禁止
1631年12月16日-01:00|イタリア| |||ヴェスヴィオ火山がふたたび噴火、1万8千人の犠牲者
1632年-08:00|インドネシア| |||チレボン王国(西部ジャワのイスラム教国)マタラーム王国の属国に
1632年-05:30|インド| |||ムガル皇帝シャー・ジャハーン(40)の愛妃のための廟「タージ・マハール」の建設が始まる
1632年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)ラドゥー11世→同年<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)マテイ・バサラブ(~1654
年)
1632年-01:00|オランダ| |||<就任>フリースラント州総督ディーツ伯ヘンドリック・カシミール1世[ディーツ伯エルンスト・カシミールの子](~1640071
3)
1632年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=エシュヴェーゲ方伯フリードリヒ[ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの四男](~1655年1代で断絶、
弟のヘッセン=ラインフェルス=ローテンブルク方伯エルンスト1世が併合)
1632年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王クリスティーナ(-1654)
1632年-01:00|フランス/ドミニカ国| |||ドミニカ島にフランス人が植民開始
1632年 00:00|イギリス/アンティグア・バーブーダ| |||英国,アンティグア島を確保、入植地を建設
1632年1月13日-09:00|日本| ||寛永8年11月22日|<改易>最上源五郎義俊:近江大森1万石/嗣幼により廃絶/寛永
9年、嫡子義智が名跡を継ぎ5千石
1632年2月20日-09:00|日本| ||寛永9年|身延山久遠寺菩提梯築造(287段)/山梨県
1632年2月20日-09:00|日本| ||寛永9年|前田利常が板屋兵四郎に命じて辰巳用水建設(石川県金沢市)
1632年2月21日-01:00|イタリア| |||ガリレオが「天文対話」を刊
1632年2月24日-09:00|日本| ||寛永9年1月5日|(松平)奥平忠隆:美濃加納10万石/嫡子右京幼少のため改易
1632年3月1日-09:00|日本| ||寛永9年1月11日|大久保忠職:武蔵騎西2万石→美濃加納5万石/蟄居を許され就封
(-寛永16年播磨明石へ)
1632年3月14日-09:00|日本| ||寛永9年1月24日|江戸幕府第2代将軍、大御所:徳川秀忠死去/54歳(誕生:天正7(1
579)0407)。
1632年3月14日-09:00|日本| ||寛永9年1月24日|森川重俊:老中解任/秀忠の死に殉ずる
1632年3月29日-01:00|フランス/カナダ| |||フランスが、サン・ジェルマン・アン・レー条約によりケベックとアカディアを回復
1632年4月14日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||スウェーデン軍が、レヒ河畔の戦いで神聖ローマ皇帝軍を破る
1632年5月1日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||反攻に出たオランダ部隊、イタマルカ島近くのイガラスーを占拠
1632年5月19日-09:00|日本| ||寛永9年4月6日|<改易>脇坂安信:美濃国内1万石/池田長順事件に連座廃絶
1632年6月2日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フリースラント州総督ディーツ伯ヘンドリック・カシミール1世[ディーツ伯エ
ルンスト・カシミールの子](~16400713死去28歳)
1632年6月20日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1632/6/10|チャールズ1世が、ボルチモア卿カルバードにメリーランドを与える
1632年7月17日-09:00|日本| ||寛永9年6月1日|<改易>加藤忠広:肥後熊本51万5千石/徳川忠長事件に連座廃絶
→出羽丸岡1万石/移封(-承応2年)
1632年7月17日-09:00|日本| ||寛永9年6月1日|酒井忠勝:庄内13万8千石/加藤忠広(旧・肥後国熊本藩主)配所料
として領内丸岡1万石分与/代わりに酒井直次(忠勝の弟)遺領・左沢藩1万2千石が与えられ表高14万石とな
1632年8月3日-09:00|日本| ||寛永9年6月18日|池田光政:因幡鳥取→備前岡山31万5千石/以後綱政、継政、宗政、
治政、斉政、斉敏、慶政、茂政、章政と続く(-明治4年)
1632年8月3日-09:00|日本| ||寛永9年6月18日|池田光仲:備前岡山→因幡鳥取32万石/以後綱清、吉泰、宗泰、重
寛、治道、斉邦、斉稷、斉訓、慶行、慶栄、慶徳と続く(-明治4年)
1632年8月14日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ズルツバッハ公(プファルツ系ヴィッテルスバッハ家)クリスティアン・アウグスト(~1708042
3死去)
1632年8月20日-09:00|日本| ||寛永9年7月5日|幕府訴訟・裁判の法度を出す
1632年9月14日-09:00|日本| ||寛永9年8月|松平忠房:三河吉田3万石→三河刈谷3万石(-慶安2年丹波福知山へ)
1632年9月14日-09:00|日本| ||寛永9年8月|水野忠清:三河刈谷→三河吉田4万石(-寛永19年信濃松本へ)
1632年9月17日-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)ファシラダス(~16671018)
1632年10月30日-01:00|フランス| |||アンリが、反リシリューの反乱に失敗して処刑される/モランシー公
1632年11月1日-09:00|日本| ||寛永9年9月19日|酒井忠勝:川越8万石→10万石/加増
1632年11月6日-01:00|スウェーデン| |||<即位>スウェーデン王国国王(ヴァーサ家)クリスティーナ(~16540606)16890419死去62歳
1700迄(4525件)
1632年11月8日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国王(ヴァーサ家)ヴワディスワフ4世ヴァザ[ジグムン
ト3世の息子.称号のみのスウェーデン王](~16480520死去52歳)
1632年11月11日-09:00|日本| ||寛永9年9月29日|諸士法度を制定
1632年11月12日-09:00|日本| ||寛永9年10月|松平重直:摂津三田3万石→豊前龍王3万7千石(-寛永16年豊後高
田へ)
1632年11月15日-09:00|日本| ||寛永9年10月4日|細川忠利:豊前小倉39万9千石→肥後熊本54万1169石/以後光
尚、綱利、宣紀、宗孝、重賢、治年、斉茲、斉樹、斉護、韶邦(慶順)、護久と続く(-明治4年)
1632年11月16日-01:00|ドイツ/スウェーデン| ||ユリウス暦11月6日|スウェーデン王グスタフ2世がドイツとの勝ちいくさの最中に戦
死/37歳(誕生:15941206)
1632年11月22日-09:00|日本| ||寛永9年10月11日|小笠原忠真:播磨明石10万石→豊前小倉15万石/以後忠雄、忠
基、忠総、忠苗、忠固、忠徴、忠嘉、忠幹、忠忱と続く(-慶応3年藩庁を香原に移す)
1632年11月22日-09:00|日本| ||寛永9年10月11日|小笠原忠知:上総・下総→豊後杵築45千石(-正保2年三河吉田
へ)
1632年11月22日-09:00|日本| ||寛永9年10月11日|小笠原長次:播磨龍野6万石→豊前中津8万石/以後長勝、長胤
、長円、長サトと続く(-享保1年無嗣断絶)
1632年12月1日-09:00|日本| ||寛永9年10月20日|<改易>徳川忠長:駿河府中50万石/大逆無道により廃絶/上野
高崎に幽閉
1632年12月9日-09:00|日本| ||寛永9年10月28日|<改易>屋代忠正:甲斐北条1万石/徳川忠長家老失職/後に安房
に安堵
1632年12月9日-09:00|日本| ||寛永9年10月28日|<改易>三枝守昌:甲斐国内1万5千石/徳川忠長家老失職子に7
千石安堵
1632年12月9日-09:00|日本| ||寛永9年10月28日|<改易>朝倉宣正:遠江掛川2万6千石/徳川忠長家老連座廃絶/
大和郡山に幽閉
1632年12月9日-09:00|日本| ||寛永9年10月28日|<改易>鳥居忠房:甲斐谷村3万5千石/徳川忠長に連座して所領
没収
1632年12月9日-09:00|日本| ||寛永9年10月28日|幕府、再度駿府奉行設置
1632年12月11日-09:00|日本| ||寛永9年10月29日|浅野長治:備後三好5万石/広島藩主長晟より分封/以後長照、
長澄、長経と続く(-享保4年一時、無嗣断絶)
1633年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王スリニャ・ウォンサー王(~1690年)
1633年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ミロン・バルノヴスキ=モヴィラ[2度目]→同年<即位>モルダヴィア王モイス・モヴィラ(2
度目~1634年)
1633年-02:00|トルコ/イエメン| |||イエメンでオスマン朝支配に対する反乱がおこる
1633年-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(中リューネブルク家)アウグスト老公(~1636年死去)
1633年-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがモルッカの香料独占権をめぐりマカッサルのゴアと対立
1633年 00:00|イギリス/インド| |||イギリスがハリハルブルとバラソールに商館を開設
1633年 05:00|ハイチ| |||フランス人,ふたたびトルトゥーガに植民
1633年1月1日 07:00|メキシコ| |||メキシコ副王令で鉱山業以外の原住民労働を廃止
1633年1月3日-09:00|日本| ||寛永9年11月23日|稲葉正勝:常陸真壁1万石→相模小田原8万5千石/次に正則、正
往(10万2千石)と続く(-貞享2年越後高田へ)
1633年1月6日-09:00|日本| ||寛永9年11月26日|<改易>長谷川守知:美濃・伊勢・安芸・摂津・備中・山城各国内1万
石余/64歳で没し、遺領が嫡男正尚7千石、3男守勝3千石余に分封/大名の地位を失い、旗本に降
1633年1月12日-09:00|日本| ||寛永9年12月3日|酒井忠勝:老中就任(-寛永20年2月16日)
1633年1月26日-09:00|日本| ||寛永9年12月17日|幕府が水野守信・柳生宗矩ら4名を総目付に任命(大目付の初
め)
1633年2月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ軍、ポルトガル人の守るRio Formosoの砦を攻略
1633年2月-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||スウェーデン王クリスティナが6歳で女王となる
1633年2月9日-09:00|日本| ||寛永10年|寛永6年(1629)に焼失した清水寺本堂が徳川家光の援助によって再興
1633年2月17日-09:00|日本| ||寛永10年1月9日|知恩院が山門のみを残して焼失
1633年3月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ軍、ポルトガル人の拠点となっていたAfogadosの攻略に成功。
新たに砦を建設
1633年3月1日-09:00|日本| ||寛永10年1月21日|相模・駿河・伊豆地震/家屋倒壊多数、死者150人余/駿河・熱海に
津波
1633年3月10日-09:00|日本| ||寛永10年2月|伊丹康勝:甲斐徳美(十組屋敷)12600石/拝領/以後勝長(12千石)、
勝政、勝守(1万石)と続く(-元禄11年発狂自殺/所領収公改易)
1633年3月12日-09:00|日本| ||寛永10年2月3日|秋元泰朝:上野総社→甲斐谷村18千石/次に富朝、喬朝(喬知)(5
万石)と続く(-宝永1年12月25日武蔵川越へ)
1633年3月12日-09:00|日本| ||寛永10年2月03日|青山幸成:常陸の内→遠江掛川26千石(-寛永12年摂津尼崎へ)
1633年3月16日-09:00|日本| ||寛永10年2月07日|小田原で大地震。家屋倒壊多数、死者150人余
1633年3月23日-09:00|日本| ||寛永10年2月14日|江戸幕府が、奉書船以外で海外渡航・海外に長期在住した日本
人の帰国を禁止
1633年4月6日-09:00|日本| ||寛永10年2月28日|幕府が奉書船以外の日本船の海外渡航・帰航を禁止(第1次鎖国
令)
1700迄(4525件)
1633年4月9日-09:00|日本| ||寛永10年3月|九鬼隆季:丹波綾部19500石/拝領/以後隆常、隆直、隆寛、隆貞、隆祺、
隆郷、隆度、隆都、隆備と続く(-明治4年)
1633年4月23日-09:00|日本| ||寛永10年3月15日|永井尚政:老中解任
1633年4月23日-09:00|日本| ||寛永10年3月15日|九鬼久隆:志摩鳥羽→摂津三田36千石/以後隆昌、隆律、副隆、
隆久、隆抵、隆由、隆邑、隆張、隆国、隆徳、精隆、隆義と続く(-明治4年)
1633年4月23日-09:00|日本| ||寛永10年3月15日|内藤忠重:常陸の内→志摩鳥羽35千石/以後忠政、忠勝と続く(
-延宝8年永井尚長を殺害し切腹・断絶)
1633年4月24日-09:00|日本| ||寛永10年3月16日|<改易>黒田忠之:筑前福岡43万3100石/家臣栗山大膳と訴訟即
日旧領復
1633年4月27日-09:00|日本| ||寛永10年3月19日|岡部宣勝:美濃大垣→播磨龍野53千石(-寛永13年摂津高槻へ)
1633年5月1日-09:00|日本| ||寛永10年3月23日|(松平)久松定綱:山城淀3万5千石→美濃大垣6万石(-寛永12年
伊勢桑名へ)
1633年5月1日-09:00|日本| ||寛永10年3月23日|永井尚政:下総古河7万2千石→山城淀10万石/次に尚征(73600
石)が嗣ぐ(-寛文9年丹後宮津へ)
1633年5月1日-09:00|日本| ||寛永10年3月23日|松平信綱らを六人衆に任ず(若年寄起源)
1633年5月3日-09:00|日本| ||寛永10年3月25日|永井直清:山城長岡2万石/拝領(-慶安2年摂津高槻へ)
1633年5月4日-09:00|日本| ||寛永10年3月26日|阿部忠秋:老中就任(-寛文11年5月7日)
1633年5月8日-09:00|日本| ||寛永10年4月|(松平)戸田康直:信濃松本7万石→播磨明石7万石/次に光重が嗣ぐ(
-寛永16年美濃加納へ)
1633年5月8日-09:00|日本| ||寛永10年4月|松平重則:上総百首10500石/拝領(-寛永17年下野皆川へ)
1633年5月14日-09:00|日本| ||寛永10年4月7日|石川忠総:豊後日田→下総佐倉7万石(-寛永11年近江膳所へ)
1633年5月14日-09:00|日本| ||寛永10年4月7日|土井利勝:下総佐倉→下総古河16万石/以後利勝(13万5千石)、
利隆(10万石)、利久、利益(7万石)と続く(-天和1年志摩鳥羽へ)
1633年5月22日-01:00|フランス/カナダ| |||シャンブランがヌーヴェル・フランス総督に就任
1633年5月29日-09:00|日本| ||寛永10年4月22日|松平直政:越前大野5万石/丸岡藩が預かる→信濃松本7万石(寛永15年出雲松江へ)
1633年5月30日-09:00|日本| ||寛永10年4月23日|牧野信成:武蔵石戸11千石/拝領(-正保1年下総関宿へ)
1633年6月-05:30|インド| |||ムガル軍がニザーム・シャーヒー朝のダウラタバード城を攻撃
1633年6月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||イタマラカ島がオランダ軍に制圧される。オランダは新たにイタマラカ植民地を建
設
1633年6月11日-09:00|日本| ||寛永10年5月5日|(松平)大河内信綱:相模の内1万5千石→武蔵忍3万石(-寛永16
年武蔵川越へ)
1633年6月11日-09:00|日本| ||寛永10年5月5日|堀田正盛:老中就任(-慶安4年4月20日)
1633年6月19日-09:00|日本| ||寛永10年5月13日|<改易>酒井重澄:下総生実1万5000石/仮病による勤務懈怠備
後福山に幽閉
1633年6月22日-01:00|イタリア| |||ガリレオが異端審問所で終身禁錮判決
1633年6月29日-09:00|日本| ||寛永10年5月23日|幕府が殉死を禁止
1633年7月5日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・ステファノ・ドリア(~16350705)
1633年8月17日-09:00|日本| ||寛永10年7月13日|幕府が人身売買を禁制
1633年9月4日-09:00|日本| ||寛永10年8月|(松平)桜井忠重:上総佐貫→駿河田中3万石(-寛永12年遠江掛川へ)
1633年9月16日-02:00|トルコ| |||オスマン朝でコーヒー店の閉鎖令が発令
1633年9月16日-09:00|日本| ||寛永10年8月13日|幕府が公事裁許の法を出す
1633年9月17日-03:00|エチオピア| |||エチオピア皇帝がカトリック宣教師を追放
1633年10月26日-09:00|日本| ||寛永10年9月24日|<改易>堀尾忠晴:出雲松江24万石/継嗣なく35歳で死去/堀尾
家は3代で廃絶
1633年11月8日-08:00|中国| ||明・崇禎6年10月7日|徐光啓没/71歳(誕生:1562)/中国近代科学の開祖
1633年11月19日-09:00|日本| ||寛永10年10月18日|松平信綱:老中就任(-寛文2年2月6日)
1633年12月-01:00|ドイツ| |||(冬)オーバーバイエルンで農民蜂起がおこる
1633年12月-01:00|オランダ/ブラジル| |||Van Ceulenの率いるオランダ部隊が、リオグランデ河口のReis Magos要塞を攻略
。セウレン要塞と名づける
1633年12月1日-09:00|日本| ||寛永10年11月|京都清水寺本堂再建
1633年12月1日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・崇禎6年11月|朝鮮が常平庁を設置
1633年12月16日-09:00|日本| ||寛永10年11月16日|仙波東照宮創建(埼玉県川越市)
1634年-07:00|カンボジア| |||カンボジア王国国王ポニャー・ヌー(アントン1世)即位(~1640年)
1634年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ヴァジル・ルプ(~1653年)
1634年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ポー・デュラン(~1651年)
1634年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯ゲオルク[新リューネブルク出身、カレンベルク=ゲッティンゲン侯領を継承](~1641年死去
)
1634年-01:00|フランス| |||上ロレーヌ公シャルル4世譲位、弟ニコラ2世即位(~1661年)
1634年-01:00|オランダ/ベネズエラ| |||オランダ,ベネズエラのキュラソー島を占拠
1634年 00:00|ポルトガル/スペイン| |||スペインによる増税に対するポルトガルの民衆暴動が発生。スペイン軍が暴動を鎮圧
1634年 05:00|ハイチ| |||イスパニョーラ島西部にフランス植民地.Compagnie des Isles d'Ameriqueと名づけられる
1700迄(4525件)
1634年1月19日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)ニコラ2世(~4.1)
1634年1月19日-09:00|日本| ||寛永10年12月20日|幕府が書物奉行を設置
1634年1月29日-09:00|日本| ||寛永11年|関長政:美作宮川1万8700石/津山藩主長継から分知
1634年1月29日-09:00|日本| ||寛永11年|吉川広正:周防岩国/実高である6万石を公称し幕府からも認められる
1634年1月29日-09:00|日本| ||寛永11年|青山幸成:7千石加増
1634年2月22日-09:00|日本| ||寛永11年1月25日|稲葉正勝:老中解任
1634年2月26日-09:00|日本| ||寛永11年1月29日|江戸幕府が各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名
火消しを設置
1634年3月-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ軍、Cabo Santo Agostinhoのポルトガル人拠点"Pontal"を占拠
1634年3月21日-09:00|日本| ||寛永11年2月22日|<改易>竹中采女正重義:豊後府内2万石/長崎奉行在職中の不
正を理由に江戸で切腹
1634年3月29日-09:00|日本| ||寛永11年3月|毛利就隆:周防徳山4万5千石/大名に列する
1634年3月31日-09:00|日本| ||寛永11年3月3日|老中の職務分掌を制定
1634年4月1日-01:00|フランス| |||<復位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)シャルル4世(~16750918)1669年
から1697年まで、ロレーヌはフランスに占領された
1634年4月6日-09:00|日本| ||寛永11年3月9日|初代大橋宗桂(将棋師・初世名人)死去[1555年生~](享年80)
1634年4月15日-09:00|日本| ||寛永11年3月18日|村山座(江戸)許可、役者の村山又三郎が座主、江戸禰宜町/5月
より興行(上堺町)
1634年4月28日-09:00|日本| ||寛永11年4月|松平忠昭:丹波亀山→豊後亀川22200石(-寛永12年豊後中津留へ)
1634年5月-04:00|ロシア/ポーランド/リトアニア| |||ロシアとポーランド・リトアニア共和国がボリャノフカの講和
1634年5月-01:00|フランス/スペイン| |||スペイン(ハプスブルク家)にフランスが宣戦を布告/30年戦争の最後の局面となるフランス
戦争開始
1634年6月6日-09:00|日本| ||寛永11年5月11日|幕府がイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑
1634年6月7日-09:00|日本| ||寛永11年5月12日|牧野康成:越後与板1万石/長岡藩牧野忠成が分封/以後康道、康
重と続く(-元禄15年信濃小諸へ)
1634年6月23日-09:00|日本| ||寛永11年5月28日|幕府が長崎に高札を立て、外国船の来航と奉書船以外の渡航
を禁じる(第2次鎖国令)
1634年6月23日-09:00|日本| ||寛永11年5月28日|幕府が長崎に出島を築き、ポルトガル人を移す
1634年7月9日-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン議会が、最初の政体法(憲法)を採択
1634年7月25日-09:00|日本| ||寛永11年7月|日根野吉明:下野壬生1万900石→豊後府内2万石/加増移封(-明暦2
年継嗣なく断絶)
1634年8月24日-09:00|日本| ||寛永11年閏7月|菅沼定芳:近江膳所3万1100石→丹波亀山4万1100石/加増移封/
次に定昭(38千石)が嗣ぐ(-正保4年無嗣断絶)
1634年8月24日-09:00|日本| ||寛永11年閏7月|石川忠総:下総佐倉→近江膳所7万石/次に憲之(叔父総長:1万石
、叔父貞当:7千石分与5万石)が嗣ぐ(-慶安4年伊勢亀山へ)
1634年8月29日-09:00|日本| ||寛永11年閏7月6日|京極忠高:若狭小浜8万5千石→出雲松江26万4200石(-寛永14
年無嗣断絶)
1634年8月29日-09:00|日本| ||寛永11年閏7月6日|酒井忠勝:武蔵川越10万石→若狭小浜12万3500石/以後忠直(
11万3500石)、忠隆(10万3500石)、忠囿、忠音、忠存、忠用、忠興、忠貫、忠進、忠順、忠義、忠氏、忠禄(-明治4年)
1634年9月-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||ネルトニンゲンの戦いでスウェーデン軍が皇帝軍に敗北
1634年9月15日-09:00|日本| ||寛永11年閏7月23日|酒井忠世:老中解任
1634年9月25日-09:00|日本| ||寛永11年8月4日|江戸幕府が、諸大名の妻子を江戸に置かせる
1634年10月9日-09:00|日本| ||寛永11年8月18日|蒲生忠知:伊予松山24万石/急死無嗣廃絶
1634年10月28日-09:00|日本| ||寛永11年9月7日|長崎くんち始まる/長崎県
1634年11月23日-01:00|スペイン/メキシコ/ペルー| |||スペイン王室がメキシコとペルー間の交易を全面的に禁止
1634年12月18日-09:00|日本| ||寛永11年10月28日|陸奥磐城平藩7万石(藩主:内藤忠興)内藤政晴に2万石(陸奥
高月藩)を分与/以後政親、政森と続く(-元禄15年上野安中へ)
1634年12月19日-01:00|オランダ/ブラジル| |||パライバのCabedello砦が、オランダ軍により陥落。数日後にパライバの町も
降伏する。オランダ軍はサンフランシスコ河口のCabo de Santo Agostinhoからリオグランデにいたる海岸線を完全制圧
1634年12月26日-09:00|日本| ||寛永11年11月7日|伊賀上野の仇討ち/荒木又右衛門の助太刀(鍵屋の辻の仇討
ち)
1635年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第10代国王ラジャ・クニン(~1651年)
1635年-06:30|ミャンマー| |||ビルマのタウングー王朝がペグーからインワへ再び遷都
1635年-05:30|インド| |||ヴィジャヤナガル王国で王位継承をめぐる抗争が終結
1635年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:イナイェト・ギレイ(~1637年)
1635年-02:00|トルコ/イエメン| |||イエメンからオスマン朝が撤退し、ザイド派イマームが支配
1635年-01:00|ドイツ| |||<就任>シャウエンブルク伯・ホルシュタイン=ピンネベルク伯オットー5世(~1640年死去.ホルシュタイン=ピンネベルク伯領
はデンマーク王クリスチャン4世によりホルシュタイン公国に併合)
1635年-01:00|ドイツ| |||<即位>ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯(新ブラウンシュヴァイク家)アウグスト2世[ブラウンシュヴァイク=タ
゙ンネンベルク公ハインリヒの息子](~1666年死去)
1635年-01:00|オランダ/アメリカ| |||オランダ,北リオグランデからサンフランシスコ川までの地域を平定
1635年-01:00|スペイン/イギリス/ハイチ| |||トルテュー島の英仏植民者の抗争が内戦状態に発展/スペインは,二回目の海賊掃
1700迄(4525件)
討作戦を開始/英国人植民者600人の多くは無抵抗のまま捕らえられ全員処刑し,女性はすべて奴隷とする
1635年-01:00|イタリア| |||フィレンツェでの噴水庭園の建築中に、「真空」が発見
1635年-01:00|フランス/グアドループ/マルティニーク| |||フランス,マルティニクとグアドループへの植民開始.マルティニクのフォル・ド・フランスに総
督を配置
1635年-01:00|フランス| |||フランスがフランス・アメリカ島嶼会社を設立
1635年-01:00|フランス/セントルシア| |||フランス人がカリブのセントルシア島に植民
1635年 04:00|英領ヴァージン諸島| |||イギリス,ヴァージン諸島を占領
1635年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事シャルル・ド・モンマニー(~1648)
1635年1月-01:00|オランダ| |||オランダでペストが流行
1635年1月25日-01:00|フランス| |||フランスでリシリューが、フランス語の統一のためにアカデミー・フランセーズをパリに創設
1635年2月17日-08:00|中国| ||金・天総9年|後金のホンタイジが内モンゴルを全て平定/この時、元朝皇帝の象徴の玉爾
を入手
1635年2月17日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・陽和1年|大越後黎朝6代・神宗が陽和と改元(-1643)
1635年2月18日-09:00|日本| ||寛永12年|阿部重次:下野鹿沼1万3千石/拝領(-寛永15年宗藩岩槻藩を相続)
1635年3月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ軍、ポルト・カルボを制圧
1635年3月22日-09:00|日本| ||寛永12年2月4日|幕府が駄賃銭・駄賃馬の規制を制定
1635年4月13日-02:00|レバノン/トルコ| |||レバノンのドルーズ派君主がオスマン朝によって処刑される
1635年4月16日-09:00|日本| ||寛永12年2月29日|松平家信:摂津高槻2万石→下総佐倉4万石/次に康信(36千石)
(-寛永17年摂津高槻へ)
1635年4月17日-09:00|日本| ||寛永12年3月1日|堀田正盛:相模・常陸の内→武蔵川越35千石(-寛永15年3.8信濃
松本へ)
1635年4月23日-01:00|フランス/スウェーデン| |||フランスがスウェーデンと同盟
1635年5月17日-09:00|日本| ||寛永12年4月|松平忠昭:豊後亀川2万2千2百石→豊後中津留22200石(-寛永19年
豊後高松へ)
1635年5月19日-01:00|フランス/スペイン| |||フランス国王ルイ13世がスペインに宣戦布告し、三十年戦争に参戦
1635年5月30日-01:00|チェコ/ドイツ| |||神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が、新教派の諸侯の指導者ザクセン選帝侯とボヘミア
のプラハで和約を結ぶ(プラハの和約)
1635年6月-08:00|フィリピン| |||フィリピンのミンダナオ島に要塞を建設
1635年6月8日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ペルナンブコにおけるポルトガル人の最後の抵抗の拠点Arraial do
Bom Jesusが陥落
1635年7月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ナザレ砦も陥落。ポルトガル知事と7千の部隊はバイア方面へ逃走。オランダ
兵500人が守るポルトカルボを撃破
1635年7月4日-09:00|日本| ||寛永12年5月20日|京で洪水。三条大橋流出
1635年7月11日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジオ・フランチェスコ・ブリグノーレ・サレ(~16370711)
1635年7月12日-09:00|日本| ||寛永12年5月28日|幕府が、日本人の海外渡航・帰国を禁止(第3次鎖国令)
1635年7月14日-09:00|日本| ||寛永12年6月1日|酒井忠行老中就任(-寛永13年11月17日)
1635年7月22日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガル軍、ポルトカルボを放棄し、バイア方面に撤退。24日にオランダ
軍がポルトカルボを再制圧
1635年7月26日-09:00|日本| ||寛永12年6月13日|伊豆・遠江で暴風雨/死者5000人
1635年8月2日-09:00|日本| ||寛永12年6月20日|阿部忠秋:下野壬生2万5千石/拝領
1635年8月3日-09:00|日本| ||寛永12年6月21日|武家諸法度を改定/五百万石以上の船建造を禁じ、外様大名に
参勤交代を制度化
1635年8月9日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ツヴァイブリュッケン公(プファルツ=ツヴァイブリュッケン家)フリードリヒ(~16610709死
去)
1635年8月12日-09:00|日本| ||寛永12年6月30日|幕府、参勤交替の制度(四月交替)を制定
1635年8月20日-09:00|日本| ||寛永12年7月8日|<改易>菅沼右京:美濃加納10万石/4歳で死去したため、無嗣廃
絶
1635年9月9日-09:00|日本| ||寛永12年7月28日|(松平)久松定行:伊勢桑名11万石→伊予松山15万石/以後定頼、
定長、定直、定英、定喬、定功、定静、定国、定則、定通、勝喜、勝成、定昭、勝成と続く(-明治4年)
1635年9月9日-09:00|日本| ||寛永12年7月28日|(松平)久松定房:伊勢長島7千石→伊予今治3万石/以後定時、定
陳(35千石)、定基、定郷、定休、定剛、定芝、勝道、定法と続く(-明治4年)
1635年9月9日-09:00|日本| ||寛永12年7月28日|戸田氏鉄:摂津尼崎5万石→美濃大垣10万石/以後氏信、氏西、氏
定、氏長、氏英、氏教、氏庸、氏正、氏彬、氏共と続く(-明治4年)
1635年9月9日-09:00|日本| ||寛永12年7月28日|松平定綱:美濃大垣6万石→伊勢桑名11万石/移封
1635年9月9日-09:00|日本| ||寛永12年7月28日|青山幸成:遠江掛川→尼崎5万4千石、分家に6千石を分け与え4
万8千石/以後幸利(新田4千石組み入れ、次弟幸道に2千石、三弟幸正に2千石、四弟幸高に1千石分知48千石)、幸
督、幸秀と続く(-宝永8年信濃飯山へ)
1635年9月12日-01:00|スウェーデン/ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国とスウェーデンが正式に停戦条約(ストゥムスド
ルフの和約)を締結/メーメル、ダンツィヒ平原の諸都市のスウェーデンによる徴税権(プロイセン船舶関税)撤廃/スウェーデン守備兵のフ
゚ロイセン北岸からの撤兵
1635年9月12日-09:00|日本| ||寛永12年8月1日|松平直基:越前勝山3万石→越前大野5万石/移封(-正保1年出羽
山県へ)
1700迄(4525件)
1635年9月12日-09:00|日本| ||寛永12年8月1日|松平直良:越前木本2万5千石/廃藩となり福井藩に加えられる
→越前勝山3万5千石/転封(-正保1年越前大野へ)
1635年9月15日-09:00|日本| ||寛永12年8月04日|(松平)桜井忠重:駿河田中→遠江掛川4万石/次に忠倶が嗣ぐ(
-寛永16年信濃飯山へ)
1635年9月15日-09:00|日本| ||寛永12年8月04日|水野忠善:下野山川→駿河田中45千石(-寛永19年三河吉田へ)
1635年9月15日-09:00|日本| ||寛永12年8月04日|太田資宗:下野山川15600石/拝領(-寛永15年三河西尾へ)
1635年11月25日-05:30|スリランカ| |||<即位>カンディー王国(ディナラジャ家)ラジャシンハ2世(~16871206)
1635年12月6日-05:30|スリランカ| |||<即位>シンハラ国王ラジャシンゲ2世(~16871125)
1635年12月18日-09:00|日本| ||寛永12年11月9日|寺社と遠隔地の訴訟を管轄する寺社奉行を設置し、譜代大名
の安藤重長(36)・松平勝隆(47)・堀利重(55)の3名を寺社奉行に命じる
1635年12月19日-09:00|日本| ||寛永12年11月10日|老中・若年寄・勘定奉行等の職務規程が定められる
1636年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国第13代イスカンダル・サニ即位(~1641)
1636年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第3代アグンがムスリム聖者スーナン・ギリの国家(グレシック付近)征服
1636年-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(中リューネブルク家)フリードリヒ(~1648年死去)
1636年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=ギュストロー系)グスタフ・アドルフ[ヨハン・アルブレヒト2世の息子](~1695
年)
1636年-01:00|オランダ/アンティル| |||オランダ,クラサオ島に隣接するアルーバ島,ボナイレ島などを占拠
1636年-01:00|デンマーク| |||デンマークがアフリカ会社を設立
1636年 00:00|モロッコ| |||<即位>マラケシュ政権ムハンマド・エッシェイク・エス・セギール(~1655年)
1636年1月8日-09:00|日本| ||寛永12年12月|稲葉正則:相模小田原8万5千石/新田3千石を従弟正能,2千石を正
定に分与
1636年1月9日-09:00|日本| ||寛永12年12月2日|評定所寄合の規則を制定
1636年2月7日-09:00|日本| ||寛永13年|江戸城大手門完成/田安門再建(東京都)
1636年2月7日-09:00|日本/タイ| ||寛永13年|アユタヤ朝の貿易使節が長崎に至るが通商を拒否される
1636年2月7日-08:00|中国| ||明・崇禎9年|オイラートのグシ・ハーンがチョクトゥ・ハーンを破り青海へ侵出
1636年2月16日-09:00|日本| ||寛永13年1月10日|江戸高田に馬場を造営(高田馬場)
1636年2月26日-09:00|日本| ||寛永13年1月20日|暴風雨で江戸城の石垣が壊れる
1636年4月17日-09:00|日本| ||寛永13年3月12日|酒井忠世:大老就任(-寛永13年3月19日)
1636年4月24日-09:00|日本| ||寛永13年3月19日|酒井忠世:大老解任/死去
1636年5月-05:30|インド| |||ニザム・シャーヒー朝の領土を、ムガル朝とアーディル朝が分割
1636年5月14日-09:00|日本| ||寛永13年4月10日|日光東照宮の本殿と陽明門が完成
1636年5月15日-08:00|中国/モンゴル| ||清・崇徳1年4月11日|後金の君主ホンタイジ(44)が新たに皇帝に即位し満州諸
族とモンゴル16部を支配、国号を「清」、元号を崇徳と改める
1636年5月31日 06:00|アメリカ| |||フッカーがコネティカットのハートフォード植民地を建設
1636年6月 06:00|アメリカ| |||ロジャー・ウィリアムズがプロビデンス植民地を設立
1636年6月4日-09:00|日本| ||寛永13年5月|三宅康盛:伊勢亀山→三河衣1万2千石/次に[万治1年]康勝(-寛文4
年三河田原へ)
1636年6月22日-09:00|日本| ||寛永13年5月19日|幕府が日本人の海外渡航を厳禁し、ポルトガル人とその家族を海
外追放(第4次鎖国令)
1636年6月27日-09:00|日本| ||寛永13年5月24日|伊達政宗/死去(戦国武将・仙台藩主)[1567年08月03日生~](
享年68)
1636年7月3日-09:00|日本| ||寛永13年6月01日|一柳直盛:伊勢神戸5万石→伊予西条6万8600石/加増移封/以後
直重(3万石)、直興と続く(-寛文5年役目不行届などで改易)
1636年7月3日-09:00|日本| ||寛永13年6月1日|幕府が寛永通宝を鋳造
1636年7月25日-09:00|日本| ||寛永13年6月23日|岡部宣勝:播磨龍野→摂津高槻5万石(-寛永17年和泉岸和田へ
)
1636年7月25日-09:00|日本| ||寛永13年6月23日|本多俊次:三河西尾/幕府直轄となる→伊勢亀山5万石(-慶安4
年近江膳所へ)
1636年8月1日-08:00|中国| ||明・崇禎9年7月|明の将軍洪承疇が匪賊連合軍を撃破、高迎祥が死に李自成が継任
1636年8月7日-09:00|日本| ||寛永13年7月7日|<改易>鳥居忠恒:出羽山形22万石/無嗣減封/弟忠春が名跡を継
ぎ信濃高遠30200石
1636年8月21日-09:00|日本| ||寛永13年7月21日|鳥居忠春:出羽山形→信濃高遠30200石/次に忠則が嗣ぐ(-元
禄2年能登鳳至等4郡へ)
1636年8月21日-09:00|日本| ||寛永13年7月21日|保科(松平)正之:信濃高遠3万石→出羽山形20万石/加増移封(
-寛永20年陸奥会津へ)
1636年8月30日-09:00|日本/韓国/朝鮮| ||朝鮮・崇禎9年8月|朝鮮が日本に通信使派遣
1636年9月2日-09:00|日本| ||寛永13年8月2日|箱根の関の法度を定む
1636年9月8日-09:00|日本| ||寛永13年8月9日|蒲生忠知:無嗣断絶
1636年9月13日-09:00|日本| ||寛永13年8月14日|柳生宗矩:大和柳生12500石/拝領(-正保3年)
1636年9月22日-09:00|日本| ||寛永13年8月23日|蒔田定正:備中浅尾11316石/弟の長広に3千石を分与、自分の
所領と合わせて8、310石の旗本に降格
1636年10月4日-01:00|オーストリア/ドイツ/スウェーデン| |||スウェーデンの将軍ヨハン・バネールが、ドイツのウィットシュトックでザクセン・オーストリア
1700迄(4525件)
連合軍に勝利
1636年10月25日-01:00|オランダ/ブラジル| |||ナッソー伯ヨハン・マウリッツ、「新オランダ植民地」の総督に任命されオランダを出発
1636年10月28日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ州ケンブリッジにハーバード大学設立
1636年11月14日-09:00|日本| ||寛永13年10月17日|小浜城天守閣の造営完了
1636年12月15日 03:00|ブラジル| |||ラポソ・タバレス,サンホアキンのイエズス会ミッションを襲撃
1636年12月21日-09:00|日本| ||寛永13年11月24日|一柳直家:播磨小野28600石/父遺領のうち伊予宇摩郡1万36
00石、播磨加東郡5千石を相続/以後直次、末禮、末昆、末栄、末英、末昭、末周、末延、末彦、末徳と続く(-明治4年)
1636年12月21日-09:00|日本| ||寛永13年11月24日|一柳直頼:伊予小松1万石/拝領/以後直治、頼徳、頼邦、頼寿、
頼欽、頼親、頼紹、頼明と続く(-明治4年)
1636年12月22日-01:00|ドイツ| |||<即位>ドイツ王(ハプスブルグ朝)フェルディナンド3世(16370215皇帝~16570402)
1636年12月27日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王イスカンダル・サニ(~16410215死去)
1636年12月27日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||清・崇徳1年12月|清太宗ホンタイジは10万の兵を率いて鴨緑江を越えわ
ずか5日目にソウルを蹂躙/丙子胡乱
1637年-07:00|ラオス| |||スリニヤウォンサー王が即位し、ラオスのランサン王国が最盛期
1637年-05:30|インド| |||ヴィジャヤナガル王国に対してタンジャヴール等が反旗
1637年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:バハディル1世ギレイ(~1641年)
1637年-01:00|イタリア| |||<即位>モンフェッラート公(ゴンザーガ=ネヴェル家)カルロ1世[モンフェッラート侯フェデリーコの孫](~1637年)
1637年-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダがブラジルの占領地にナッソー・ジーゲン総督を派遣
1637年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公にマントヴァ公フェルディナンドの庶子フランチェスコ・ジャチント即位(-1638)
1637年-01:00|イタリア| |||ジェノヴァ総督コルシカ王に
1637年-01:00|スペイン/フィリピン| |||スペイン軍がミンダナオ島と、スールー地方へ遠征
1637年 00:00|ガーナ/オランダ/ポルトガル| |||オランダ,ポルトガルからエルミナを奪取
1637年 03:00|ブラジル/エクアドル| |||テイシュラがアマゾンを遡行し、ベレンからキトまで往復
1637年 06:00|アメリカ| |||ニュー・イングランドでピークオート族と入植者が戦争/エンディコットを指揮官とするマサチューセッツ軍,ピークオ
ート族を壊滅に追い込む
1637年1月10日-08:00|中国/韓国/朝鮮| |||ホンタイジの清軍が朝鮮へ侵攻し首都開城を包囲
1637年1月19日-09:00|日本| ||寛永13年12月23日|京極高和:播磨龍野51千石/再封(-万治1年讃岐丸亀へ)
1637年1月23日 03:00|ブラジル| |||ナッソー伯ヨハン・マウリッツ,バイア総督として赴任.オランダ軍,バイアのたたかいでポルトガル
軍を撃破
1637年1月26日-09:00|日本| ||寛永14年|福井藩、預所であった旧木本領2万石を加増され52万5280石とな
1637年1月26日-08:00|中国| ||明・崇禎10年|宗応星の「天工開物」が成る、中国の産業技術を集大成
1637年1月29日-09:00|日本| ||寛永14年1月04日|酒井忠能:上野伊勢崎22500石/父の遺領のうちから分封(-寛
文2年信濃小諸へ)
1637年2月15日-01:00|ドイツ/ハンガリー/オーストリア/イタリア/チェコ| |||<即位>神聖ローマ(ハプスブルグ朝)第26代皇帝フェルディナンド
3世兼ハンガリー王国(ハプスブルグ朝)国王フェルディナーンド3世兼オーストリア大公(ハプスブルク家)フェルディナント4世[フェルディナーンド2世
の三男](~16570402死去48歳)
1637年2月15日-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)フェルディナンド3世(~1646年)
1637年2月15日-01:00|チェコ/ドイツ/ハンガリー| |||ドイツ皇帝フェルディナント2世がウィーンで死去/58歳(誕生:15780707)ボヘミア・
ハンガリー王フェルディナント3世が神聖ローマ皇帝(オーストリア大公フェルディナント4世)に即位(~1657年4月2日)
1637年2月24日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||朝鮮・崇徳2年1月30日|漢城(現ソウル)近郊の漢江岸の三田渡で、李朝の
王仁祖(42)が、清の皇帝ホンタイジ(太宗)に臣下の礼を行う
1637年2月27日-09:00|日本| ||寛永14年2月3日|本阿弥光悦、死去/80歳(誕生:永禄1(1558))。江戸時代初期を代
表する芸術家、寛永の三筆の一人
1637年3月1日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||Bagnuoli(ナポリ人)の率いるポルト・カルボのポルトガル部隊、2週間の
包囲戦のあと降伏。マウリッツはサンフランシスコ河口を30キロさかのぼったペネードに砦(マウリッツ砦)を建設
1637年3月27日-09:00|日本| ||寛永14年3月|福井藩,預所であった旧木本領2万石を加増され52万5280石となる
1637年5月2日-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国(オデヤ朝)チャーマ・ラージャ6世→<即位>ラージャ・オデヤ2世[叔父](~16381
008)
1637年6月-01:00|オランダ| |||デカルトがオランダで「方法序説」を出版
1637年6月-01:00|イタリア| |||マントヴァ・モンフェッラート公のカルロ1世死去。息子のカルロ2世が後継
1637年6月 00:00|ガーナ/オランダ/ポルトガル| |||マウリッツ、黒人奴隷確保のためアフリカ黄金海岸に部隊を派遣。ポルトガル奴
隷貿易の拠点Sao Jorge da Mina(エルミナ)を奪取
1637年7月13日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティーノ・パラヴィシーニ(~16390713)
1637年7月15日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・崇徳2年5月24日|朝鮮で明年号の使用停止
1637年8月2日-09:00|日本| ||寛永14年6月12日|<改易>京極忠高:出雲松江26万4200石/無嗣廃絶/弟に6万石安
堵
1637年9月1日-09:00|日本| ||寛永14年7月13日|<改易>本多政武:大和高取2万5000石/無嗣廃絶
1637年9月21日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世正義伯[ヴィルヘルム5世の息子](~16630716)
1637年9月22日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公(ゴンザーガ=ヌヴェール家)カルロ2世・ゴンザーガ=ネヴェルス(~16650814死去
)
1637年10月3日-09:00|日本| ||寛永14年8月15日|江戸城本丸の造営が完成
1637年10月7日-01:00|フランス/イタリア| |||<即位>サヴォイア公フランチェスコ・ジャチント(~16381004死去)
1700迄(4525件)
1637年11月18日-01:00|イタリア| |||<即位>イタリア王(ハプスブルク朝)フェルディナンド3世(~16570402三十年戦争に敗北、ヴェス
トファーレン条約でイタリア王位の実権を事実上喪失)
1637年12月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||セアラの州都フォルタレサ、オランダ人に占拠される。ポルトガルはベレンを除くフ
゙ラジル北半分の支配権を喪失
1637年12月11日-09:00|日本| ||寛永14年10月25日|島原半島の北有馬で、代官が農民に殺される/島原の乱の始
り
1637年12月15日-09:00|日本| ||寛永14年10月29日|肥後国天草のキリスト教徒が、島原一揆に応じて蜂起
1637年12月23日 03:00|ブラジル| |||フランシスコ・ブエノ,サンタ・テレサのミッションを襲撃
1638年-06:30|ミャンマー| |||ビルマのタールーン王が初の租税台帳を作成
1638年-05:30|インド| |||アーディル・シャーヒー朝軍がヴィジャヤナガル王国へ侵入
1638年-04:00|モーリシャス/オランダ| |||オランダがモーリシャス諸島の植民地化を開始
1638年-04:00|ロシア| |||ロシアがオホーツク海に到達
1638年-03:00|イラク/トルコ| |||オスマン朝がバグダッドを奪回し、イラクを併合
1638年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ホンブルク方伯ヴィルヘルム・クリストフ(~1669年)
1638年-01:00|オランダ/ポルトガル/スペイン/ブラジル| |||オランダによって占領されていたブラジルの砂糖生産地域を奪還
するために派遣されたスペイン・ポルトガル連合艦隊が敗北
1638年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世即位(-1675)
1638年-01:00|フランス/スペイン/ハイチ| |||スペイン軍800名,フランス人の手薄な時期を狙い,トルテュー島に侵入.島の主要部を占
領し山頂部に本拠を構える/フランス人は夜襲をかけスペイン軍を殲滅
1638年-01:00|オランダ/ポルトガル/スリランカ| |||ポルトガルがキャンディ王国を侵略。しかし、ラジャシンハ2世に包囲され壊滅。オラン
ダが、トリンコマリーとバッティカロアを奪取し、ラジャシンハ2世に返還
1638年 00:00|セネガル/フランス| |||フランス商人がセネガル河口に拠点を建設
1638年2月6日-09:00|日本| ||寛永14年12月23日|京極高和:播磨龍野6万石を与えられる
1638年2月14日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・順徳1年1月|大越莫朝・順徳と改元(-1677)
1638年2月14日-09:00|日本| ||寛永15年1月01日|江戸などで100年に一度という暴風があり民家多数が倒壊
1638年3月23日-09:00|日本| ||寛永15年2月08日|屋代忠正:安房北条1万石/拝領/以後忠興、忠位と続く(-正徳2
年領地没収、逼塞)
1638年3月23日-09:00|日本| ||寛永15年2月08日|三枝守昌:安房国内1万石/拝領(-寛永16年跡を継いだ守全は
弟勘兵衛頼増に3千石を分知し旗本に降格)
1638年3月26日-09:00|日本| ||寛永15年2月11日|松平直政:信濃松本7万石→出雲松江18万6千石/転封幕府より
隠岐1万4千石を預かる/以後綱隆、綱近、吉透、宣維、宗衍、治郷、斉恒、斉斎、定安と続く(-明治4年)
1638年3月29日 06:00|アメリカ| |||スエーデンの南方会社、デラウェア川の岸沿いにニュースウェーデン植民地を建設(現代のウィルミン
トン周辺)
1638年4月5日-09:00|日本| ||寛永15年2月21日|島原の乱、原城の一揆が幕府軍に攻勢をかけるが、撃退される
1638年4月12日-09:00|日本| ||寛永15年2月28日|一揆軍首領/益田(天草)四郎時貞が討ち死に/18歳(誕生:元和
7(1621))肥前島原、原城がついに陥落
1638年4月14日-09:00|日本| ||寛永15年3月|村山又三郎弟の村山左近が女形をはじめる/村山座
1638年4月15日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||ベルンハルト公はドイツのラインフェルデンで皇帝軍に勝利をおさめ、皇帝軍は後退
を続ける
1638年4月21日-09:00|日本| ||寛永15年3月8日|堀田正盛:武蔵川越3万5千石→信濃松本10万石(-寛永19年下総
佐倉へ)
1638年5月25日-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ軍、サルバドル総攻撃に失敗し撤退
1638年5月25日-09:00|日本| ||寛永15年4月12日|<改易>寺沢堅高:肥前唐津12万3千石/島原の乱での不手際か
ら天草4万石は没収
1638年5月25日-09:00|日本| ||寛永15年4月12日|<改易>松倉勝家:肥前島原4万3千石/天草騒乱の責任廃絶/美
作に配流
1638年5月25日-09:00|日本| ||寛永15年4月12日|松倉勝友:肥前島原新田1万石/勝家に連坐除封
1638年5月26日-09:00|日本| ||寛永15年4月13日|高力忠房:遠江浜松3万6500石→肥前島原37千石/次に高長が
嗣ぐ(-寛文8年改易)
1638年5月28日-09:00|日本| ||寛永15年4月15日以降|水谷勝隆:常陸下館→備中成羽5万石(-寛永19年備中松山
へ)
1638年5月28日-09:00|日本| ||寛永15年4月15日|山崎家治:備中成羽3万石→肥後富岡4万石/加増移封(-寛永18
年讃岐丸亀へ)
1638年5月29日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王サナイ[前王の息子](~6.17)
1638年6月4日-09:00|日本| ||寛永15年4月22日|阿部重次:下野鹿沼1万3千石→武蔵岩槻5万9千石/父の知行の
一部を得る
1638年6月4日-09:00|日本| ||寛永15年4月22日|阿部正能(正令):上総大多喜1万石/拝領(-寛文11年武蔵忍藩を
相続)
1638年6月6日-09:00|日本| ||寛永15年4月24日|太田資宗:下野山川15600石→三河西尾3万5千石(-正保1年遠江
浜松へ)
1638年6月7日-09:00|日本| ||寛永15年4月25日|松平乗寿:美濃岩村→遠江浜松35千石(-正保1年上野館林へ)
1638年6月9日-09:00|日本| ||寛永15年4月27日|丹羽氏信:三河伊保1万石→美濃岩村2万石/加増移封/以後氏定
1700迄(4525件)
(19千石)、氏純、氏明、氏音と続く(-元禄15年越後高柳へ)
1638年6月13日-09:00|日本| ||寛永15年5月2日|幕府が諸大名に対し商船に限り500石以上の大船の建造を許可
/将軍家光、諸大名に隣国出兵の禁を緩める
1638年6月17日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王ナラパティ(~16451213)
1638年6月27日-09:00|日本| ||寛永15年5月16日|松平康信:下総佐倉4万石→3万6千石(弟氏信、信忠に2千石ず
つ分地)
1638年7月-01:00|イタリア/オランダ| |||イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイが「新科学対話」をオランダで出版
1638年8月26日-09:00|日本| ||寛永15年7月|仁勢物語が刊行
1638年8月26日-09:00|日本| ||寛永15年7月17日|松倉勝家:乱の責任を問われ、配所にて死罪
1638年9月8日-09:00|日本| ||寛永16年8月1日|<改易>片桐孝利:大和竜田4万石/嗣子のないまま38歳で没し、弟
為元(且元4男)が名跡を許されたものの旧領のうち3万石を幕府に没収される
1638年9月24日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1638/9/14|ジョン・ハーヴァード没/30歳(誕生:16071129)ハーヴァード大学
創立基金の寄贈者
1638年10月4日-01:00|フランス/イタリア| |||<即位>サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世(~16750612死去)
1638年10月8日-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国(オデヤ朝)ラージャ・オデヤ2世→<即位>ナラサー・ラージャ1世[従兄弟](~16
590731)
1638年10月27日-09:00|日本| ||寛永15年9月20日|幕府がキリシタン禁止令を諸大名・旗本に重ねて布告し、密告者に
褒賞を与える
1638年12月4日-09:00|日本| ||寛永15年10月29日|幕府薬園を品川・牛込に開く
1638年12月12日-09:00|日本| ||寛永15年11月7日|阿部重次:老中就任(-1651年4月20日)
1638年12月12日-09:00|日本| ||寛永15年11月7日|酒井忠勝:老中→大老就任(-明暦2年5月26日)
1638年12月12日-09:00|日本| ||寛永15年11月7日|土井利勝:老中→大老就任(-正保1年7月10日)
1638年12月24日-03:30|イラン/トルコ| |||オスマン朝のムラト4世が、サファヴィー朝からバグダードを奪還
1638年12月29日-09:00|日本| ||寛永15年11月24日|<改易>佐久間安次:信濃飯山3万石/無嗣廃絶
1639年-06:00|ブータン| |||ンガワン・ナムゲルがブータンを統一しラマ教国家を樹立
1639年-01:00|フランス/コスタリカ| |||フランス,エスパニョーラ島沖のトルトゥーガ島を奪回
1639年-01:00|フランス/ポルトガル| |||フランス軍がカタルーニャに侵入
1639年 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ植民地で植民地初の郵便局が開設
1639年1月5日-09:00|日本| ||寛永15年12月2日|<改易>成瀬之虎:下総栗原領主1万6千石/無嗣廃絶
1639年1月9日-09:00|日本| ||寛永15年12月6日|真田熊之助:上野沼田3万石/無嗣廃絶
1639年1月24日 06:00|アメリカ| |||アメリカのコネティカット植民地ハートフォードで、近代民主主義思想が成分化された「コネティカット
基本法」が制定される
1639年2月3日-09:00|日本| ||寛永16年|古河城主土井利勝によって旧寛永寺五重塔完成(東京都,上野公園)
1639年2月3日-09:00|日本| ||寛永16年|松平重直:豊後竜王3万7千石→豊後高田(陣屋移転)/次に英親(32千石)
が嗣ぐ(-正保2年)
1639年2月3日-09:00|日本| ||寛永16年|堀直時:安田→越後村松3万石/拝領/以後直吉、直利、直為、直尭、直教、
直方、直庸、直央、直休、直賀、直弘と続く(-明治4年)
1639年2月3日-08:00|中国| ||明・崇禎12年|明で徐光啓が「農政全書」を刊
1639年2月7日-09:00|日本| ||寛永16年1月5日|(松平)大河内信綱:武蔵忍3万石→武蔵川越6万石(後7万5千石)/
以後[寛文2.4.18]輝綱、[寛文12.2.9]信輝(-元禄7年1.7下総古河へ)
1639年2月7日-09:00|日本| ||寛永16年1月5日|阿部忠秋:下野壬生→武蔵忍8万石/以後正能(正令)、正武(10万
石)、正喬、正允、正敏、正識、正由、正権と続く(-文政6年陸奥白川へ)
1639年2月16日-09:00|日本| ||寛永16年1月14日|三浦正次:下総矢作→下野壬生25千石/移封/以後安次、明敬が
相続(-元禄5年日向延岡へ)
1639年3月2日-09:00|日本| ||寛永16年1月28日|松平勝隆:上総佐貫15千石/拝領/次に重治が嗣ぐ(-貞享1年改
易)
1639年3月5日-09:00|日本| ||寛永16年2月|(松平)戸田光重:播磨明石7万石→美濃加納7万石/以後光永(6万石)
、光煕と続く(-正徳1年山城淀へ)
1639年3月5日-09:00|日本| ||寛永16年2月|喜多院多宝塔完成/埼玉県
1639年3月9日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月27日|イングランドとスコットランドの第1次主教戦争が始まる
1639年4月4日-09:00|日本| ||寛永16年3月|水谷勝隆:常陸下館→備中成羽5万石/入
1639年4月6日-09:00|日本| ||寛永16年3月3日|(松平)奥平忠明:大和郡山12万石→播磨姫路18万石/次に忠弘(
弟清道に3万石分知15万石)が嗣ぐ(-慶安1年)出羽山形へ
1639年4月6日-09:00|日本| ||寛永16年3月03日|(松平)桜井忠倶:遠江掛川→信濃飯山4万石/次に忠喬が続く(宝永3年遠江掛川へ)
1639年4月6日-09:00|日本| ||寛永16年3月03日|大久保忠職:美濃加納→播磨明石7万石(-慶安2年肥前唐津へ)
1639年4月6日-09:00|日本| ||寛永16年3月03日|本多忠義:播磨の内→遠江掛川7万石(-正保1年越後村上へ)
1639年4月10日-09:00|日本| ||寛永16年3月7日|幕府が初めて大坂具足奉行を設置
1639年5月3日-09:00|日本| ||寛永16年4月|沢庵和尚を迎え万松山東海寺創建(徳川家光が創建、東京都品川区)
1639年5月17日-03:30|イラン/トルコ| |||オスマン朝とサファヴィー朝の間で、カスル・シーリーン和平条約が結ばれ、トルコとペルシャの国境
が定められる
1639年5月21日-01:00|イタリア| |||伊の哲学者カンパネラが亡命先のパリで没「太陽の都」
1700迄(4525件)
1639年6月2日-09:00|日本| ||寛永16年5月|幕府が前大徳寺住職の沢庵のために東海寺建立
1639年6月6日-09:00|日本| ||寛永16年5月5日|本多政勝:播磨姫路15万石→大和郡山19万石/幼少のため弟勝行
部屋住料として4万石併せて移封/以後政長(9万石)、忠国(8万石)と続く(-延宝7年陸奥福島へ)
1639年6月24日-09:00|日本| ||寛永16年5月23日|幕府が奢侈の者の処罰令を布告
1639年7月1日-09:00|日本| ||寛永16年6月|前田利次:越中富山10万石/加賀前田家から10万石を分知/以後正甫
、利興、利隆、利幸、利与、利久、利謙、利幹、利保、利友、利声、利同と続く(-明治4年)
1639年7月1日-09:00|日本| ||寛永16年6月|前田利治:加賀大聖寺7万石/拝領/以後利明、利直、利章、利道、利精、
利物、利考、利之、利極、利平(10万石)、利義、利行、利カと続く(-明治4年)
1639年7月1日-09:00|日本| ||寛永16年6月|前田利常:加賀小松22万2760石/隠居領として、別家とした(-万治1
年)
1639年7月1日-09:00|日本| ||寛永16年6月|板倉重矩:三河深溝/廃藩→三河中島5万石(-寛文12年下野烏山へ)
1639年7月13日-09:00|日本| ||寛永16年6月13日|蝦夷駒ヶ岳が噴火、大津波により船100余艘が被害、内陸10里
に至り700人が溺死。牛馬魚貝鳥傷亡無数。灰が一丈を埋め、また飛翔して松前、陸奥の空昼夜暗きこと2日。焦土
海に入り島を生ず
1639年7月16日-01:00|フランス| |||フランスでヴァ・ニュ・ピエの反乱が始まる
1639年7月28日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・ドゥラッゾ(~16410728)
1639年8月4日 00:00|ポルトガル/日本| ||寛永16年7月5日|幕府、ポルトガル船の来航とキリスト教の厳禁を通達する(第5
次鎖国令)
1639年8月12日-09:00|日本| ||寛永16年7月13日|松平頼重(水戸藩徳川頼房の長男):常陸下館5万石/拝領(-寛
永19年讃岐高松へ)
1639年8月27日-09:00|日本| ||寛永16年7月28日|幕府が外国漂着民処分令を布告
1639年9月8日-09:00|日本| ||寛永16年8月11日|江戸城本丸が大奥台所から出火して全焼
1639年9月24日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ペルナンブコ奥地のオロボ族,ポルトガル軍を撃破.司令官アルフォンソ・アドルノを殺
害
1639年9月27日-09:00|日本| ||寛永16年9月|鍋島直澄:肥前蓮池52625石/拝領/以後直之、直称、直恒、直興、直寛
、直温、直与、直紀と続く(-明治4年)
1639年10月27日-09:00|日本|龍谷大学|寛永16年10月|西本願寺学寮設立
1639年10月29日-09:00|日本| ||寛永16年10月03日|諸国で牛疫が流行し、伊賀で6511頭が死ぬ
1639年11月24日 00:00|イギリス| |||金星の太陽面通過をイギリス牧師ホロックスが初観測
1639年12月21日-09:00|日本| ||寛永16年11月27日|越前で大地震があり、福井城が倒壊
1640年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第3代アグンがジャワ島最東端バランバンガン制圧
1640年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王ボトムリヤチア(~1642年)
1640年-04:00|レユニオン/フランス| |||フランス人がレユニオンに上陸してフランス領と宣言
1640年-01:00|ドイツ| |||エルベの東でプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルムが即位
1640年-01:00|オランダ/ポルトガル/スリランカ| |||オランダが、ゴールとニゴンボをポルトガルから奪取
1640年-01:00|フランス| |||ギーズ公クロードアンリ2世即位(~1664年6月2日)
1640年-01:00|フランス/グアドループ/マルティニーク| |||グアドループ島,マルティニク島でカリブ族先住民の反乱
1640年-01:00|フランス| |||フランスがバルバリア十字軍を企てるが失敗
1640年1月22日-09:00|日本| ||寛永16年閏11月29日|三枝守昌:55歳で没し、遺領が長男守全7千石、2男頼増3千
石に分封されたため、三枝家はわずか1年余で旗本に降格
1640年2月9日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第18代ベイ:イブラヒム[ムラト4世の弟](~16480808廃位.16480818殺害さ
れる)
1640年2月11日-08:00|中国| ||明・崇禎13年1月20日|農民反乱の指導者李自成の軍が洛陽を占領
1640年3月5日-09:00|日本| ||寛永17年1月13日|幕府が旗本に倹約令を出す
1640年4月23日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦4月13日|イギリス国王チャールズ1世が、11年ぶりに議会を召集する(短期議会)
1640年5月 00:00|ポルトガル/スペイン| |||防衛の為に進駐してきたスペイン軍がカタルーニャで略奪を働いたために、カタルーニャ
で暴動が発生
1640年5月3日 00:00|イギリス/インド| |||イギリスがマドラスに、聖ジョージ要塞を構築
1640年5月15日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月5日|国王チャールズ1世が議会を解散
1640年5月25日-09:00|日本| ||寛永17年4月5日|江戸城本丸が完成し、家光が西丸から移る
1640年5月30日-01:00|オランダ| |||ルーベンス死去/62歳(誕生:15770628)。オランダの画家
1640年6月7日-01:00|スペイン| |||バルセロナで国王軍と市民が戦闘となり、副王が殺害される
1640年6月13日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フリースラント州総督ディーツ侯ウィレム・フレデリック[ディーツ伯エルンス
ト・カシミールの子](~16641031死去51歳)
1640年6月23日-09:00|日本| ||寛永17年5月4日|尚豊、没/51歳(誕生:天正18(1590))/琉球王
1640年7月2日-09:00|日本| ||寛永17年5月13日以降|松平重則:上総百首→下野皆川10500石/移封/以後重正、重
利と続く(-寛文5年無嗣断絶)
1640年7月2日-09:00|日本| ||寛永17年5月13日|<改易>本多犬千代:下野皆川2万8000石/無嗣廃絶
1640年7月30日-09:00|日本| ||寛永17年6月12日|井上政重:下総高岡13千石/拝領/以後政清、政蔽(1万石)、政鄰
、正森、正国、正紀、正瀧、正域、正和、正順と続く(-明治4年)
1640年7月31日-09:00|日本| ||寛永17年6月12日|蝦夷駒ヶ岳爆発/山頂が崩壊し噴火湾に流れ込み、津波を発生
する/沿岸の住民700人以上が死亡
1700迄(4525件)
1640年8月3日-09:00|日本| ||寛永17年6月16日|幕府が、マカオより貿易再開要請のため長崎に来航したポルトガル船
を焼き、乗組員61人を処刑する(原因は3年前の島原の乱)
1640年8月4日-09:00|日本| ||寛永17年6月17日|蝦夷内浦岳(間山岳?)が噴火、大津波により船100余艘が被害、
内陸10里に至り700人が溺死
1640年8月4日-09:00|日本| ||寛永17年6月17日|焼失した川越の東照堂が完成する/画家岩佐又兵衛の「三十六
歌仙絵額」が奉納される
1640年8月20日 00:00|イギリス| |||イングランドとスコットランドが第2次主教戦争
1640年9月11日-09:00|日本| ||寛永17年7月26日以降|(松平)松井康映:和泉岸和田→播磨山崎6万石(-慶安2年
石見浜田へ)
1640年9月11日-09:00|日本| ||寛永17年7月26日|生駒高俊:讃岐高松171800石→出羽矢島1万石/減移封/次に親
敬(15200石)が嗣ぐ(-明治4年)
1640年9月11日-09:00|日本| ||寛永17年7月26日|池田輝澄:播磨山崎宍粟6万3千石→因幡鹿野1万石/家中統制
不充分の罪で領地没収後の配所料/次に政直が嗣ぐ(-寛文2年播磨福本へ)
1640年9月15日-09:00|日本| ||寛永17年7月30日|蝦夷駒ヶ岳爆発。山頂が崩壊し噴火湾に流れ込み、津波を発生
する。沿岸の住民700人以上が死亡
1640年10月25日-09:00|日本| ||寛永17年9月11日|岡部宣勝:摂津高槻→和泉岸和田6万石/以後行隆(弟高成:5
千石、弟豊明:2千石分知53千石)、長泰、長敬、長著、長住、長修、長備、長慎、長和、長発、長寛、長職と続く(-明治4
年)
1640年10月28日-09:00|日本| ||寛永17年9月14日以降|北条氏重:遠江久能1万石→下総関宿2万石/加増移封(正保1年駿河田中へ)
1640年10月28日-09:00|日本| ||寛永17年9月14日|小笠原貞信:下総関宿→美濃高須22777石(-元禄4年越前勝山
へ)
1640年11月11日-09:00|日本| ||寛永17年9月28日|松平康信:下総佐倉3万6千石→攝津高槻5万石(-慶安2年丹波
篠山へ)
1640年11月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦11月3日|エリザベス1世以後、新教(イギリス国教)を選択するスコットランドの王ジ
ェームス1世、チャールズ1世の治政が続いていたが、専政の圧政に議会が反発し、この日から13年間の長期議会が始る
1640年11月23日-09:00|日本| ||寛永17年10月10日|加賀大聖寺で地震/家屋の損潰多く,人畜に死傷が多かった
1640年12月1日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)兼プロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世[ゲオル
ク・ヴィルヘルムの息子](1657年ポーランド王ヤン2世カジミェシュから独立国家としてのプロイセン公国の完全な統治権を獲得~16
880429死去68歳)
1640年12月1日 00:00|ポルトガル/スペイン| |||スペインから派遣されていたポルトガル副王マルガリータ王女が、ポルトガルの貴
族たちによって逮捕され、宮廷革命が成功/ブラガンサ公ドン・ジョアンが、ポルトガル王ジョアン4世として即位(-1656)し、ホ
゚ルトガルの独立を宣言
1640年12月1日-01:00|ドイツ| |||フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝候)が、ブランデンブルク選帝候に即位
1640年12月3日-09:00|日本| ||寛永17年10月19日|植村家政:大和高取25千石/拝領/以後家貞(弟正春に3千石分
知22千石)、家言(弟政明・正澄に1500石分知20500石)、家敬、家包、家道、家久、家利、家長(25千石)、家教、家貴、家
興、家保、家壷と続く(-明治4年)
1641年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国第14代タジ・ウル=アラム女王即位(~1675)
1641年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:メフメト4世ギレイ(~1644年)
1641年-02:00|トルコ| |||オスマン朝イブラヒムが即位
1641年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯クリスティアン・ルートヴィヒ[ゲオルクの息子](~1648年、弟のゲオルク・ヴィルヘルムにカレンベ
ルク侯領を譲る)1665年死去
1641年-01:00|アンゴラ/オランダ| |||アンゴラのルアンダ,21隻のオランダ船隊により占領
1641年-01:00|赤道ギニア/オランダ| |||オランダが西アフリカのビオコ島の実権を掌握
1641年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがインドのビムリバタムに商館を開設
1641年-01:00|オランダ/スペイン/台湾| |||オランダがスペイン勢力を排除して台湾全土を占領
1641年-01:00|オランダ/マレーシア| |||オランダ東インド会社がマラッカを占領
1641年-01:00|オランダ/ブラジル| |||バイアでオランダ人支配に対する反乱
1641年-01:00|オランダ/ポルトガル/マレーシア| |||ポルトガルの東洋における最大の交易拠点マラッカが,オランダの手により陥落
1641年2月10日-09:00|日本| ||寛永18年|加々爪直澄:遠江掛塚(加々爪館)9500石→13千石/加増/次に直清が嗣
ぐ(-天和1年所領収公、改易)
1641年2月10日-09:00|日本| ||寛永18年|三浦安次:下野壬生25千石→2万石(-天和2年)/弟共次に5千石分知
1641年2月10日-09:00|日本| ||寛永18年|狩野探幽の京都大徳寺襖絵できる
1641年2月10日-09:00|日本| ||寛永18年|武士・詩人である石川丈山が一乗寺に隠棲し詩仙堂を営んだ
1641年2月15日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王タジ・ウル=アラム女王(~16751023死去)
1641年2月20日-09:00|日本| ||寛永18年1月11日|常陸、多賀郡金沢村の農民が水戸藩の検地に反対して一揆
1641年2月25日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月15日|イギリスで、3年議会法が成立
1641年3月1日-08:00|中国| ||清・崇徳6年1月20日|農民反乱の指導者李自成の軍が洛陽を占領
1641年3月10日-09:00|日本| ||寛永18年1月29日|江戸、桶町(現、日本橋)より火事、中村座、村山座、焼失
1641年3月11日-01:00|スペイン/ウルグアイ| |||ウルグアイ河沿いでムボローレの闘い/グアラニーが,イナシオ・アビアルの指揮の下に,ド
ミンゴス・カリェイロスら奴隷狩り部隊を打ち破る
1641年5月-01:00|スペイン/イギリス/コロンビア| |||カルタヘナのスペイン軍,2千名を動員してプロビデンシア島のイギリス人を駆逐
1700迄(4525件)
1641年5月 00:00|イギリス/バハマ| |||イギリス人はバハマ諸島のひとつをニュープロビデンスとして新たに植民
1641年5月4日-09:00|日本| ||寛永18年3月25日|加藤明利:陸奥二本松3万石/嗣幼2万7千石減
1641年5月11日-09:00|日本| ||寛永18年4月2日|オランダ平戸商館を出島に移す
1641年5月22日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1641/5/12|ストラッフォード伯が専制の責任により処刑される/48歳(誕生:15
930423)チャールズ1世国王の側近
1641年5月27日-09:00|日本| ||寛永18年4月18日|京都知恩院できる
1641年7月 00:00|イギリス| ||ユリウス暦7月|イギリスで星室裁判所廃止
1641年8月14日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・アゴスティーノ・ド・マリニ(~16420619)
1641年8月26日-01:00|アンゴラ/サントメ・プリンシペ/オランダ/ポルトガル| |||Jol and Hendersonの率いるオランダ艦隊21隻がア
ンゴラのルアンダを占領.その後ベンゲラ、サントメも相次いで占領。ポルトガルの黒人奴隷の供給先が閉ざされる
1641年9月21日-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(ブルボン=オルレアン家)フィリップ1世[フランス国王ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュ
の次男]兼オルレアン公、シャルトル公、アランソン公,ヌムール公、モントペンシル公、シャテルロー公、サイント=ファルゲアウ公、ベアウプレアウ公、ジョアンヴィル
公、ドゥロゥダン伯、ロモランティン伯、モルティン伯、バル=サル=セーヌ伯、アウゲー子爵、ドムフロント子爵、コウシー侯、フォレムブライ、メジエール侯、ベアウヨ
ライス男爵、モンタルジ領主(~1660年)17010609死去60歳
1641年9月30日-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ロレーヌ家)アンリ2世(~16640602死去)
1641年10月10日-09:00|日本| ||寛永18年9月6日|池田長常:備中松山6万5千石/無嗣廃絶/弟長信が名跡を継ぎ
備中後月1千石
1641年10月14日 06:00|カナダ| |||メゾンネーブとシャンプレーン,モントリオールを建設
1641年10月14日-09:00|日本| ||寛永18年9月10日|山崎家治:肥後富岡4万石→讃岐丸亀5万3千石/移封/以後俊
家、治頼と続く(-明暦3年無嗣断絶)
1641年11月2日 00:00|アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦:1641/10/23|アルスター地方でカトリック教徒の反乱。多くの入植者が殺
害される
1641年11月25日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||コーエン・アンデルソン司令官の率いるペルナンブコのオランダ軍が、先住民
奴隷をもとめサンルイス・ド・マラニョンを占領。Sao Cristovaoも再度奪還
1641年12月 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月|民兵条例が発布される/議会が軍事権を握ることとなる
1641年12月9日-01:00|フランス| |||ファン・ダイク死去/42歳(誕生:15990322)。フランス・スランドルの画家
1641年12月10日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ植民地議会が、ナサニエル・ウォード起草の自由法典を採択
1642年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王ラムディパディ1世(~1658年)
1642年-05:30|インド| |||<即位>ヴィジャヤナガル王国(アーラヴィードゥ朝)国王シュリーランガ3世(~1649年)
1642年-05:30|インド| |||シッキム建国
1642年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:ナーディル・ムハンマド・ハーン[ディーン・ムハンマドの次男](~1645
年)
1642年-04:00|レユニオン/フランス| |||ルイ13世によってレユニオンがブルボン島と命名された
1642年-03:00|マダガスカル| |||マダガスカル島の巨鳥エピオルニス(ロック鳥)が絶滅
1642年 00:00|ポルトガル/イギリス| |||ポルトガルとイギリスとの間で同盟通商条約が結ばれた
1642年 05:00|ジャマイカ| |||イギリス海賊ウィリアム・ジャクスン,ジャマイカ島唯一の町サインティアゴ・デ・ラ・ベガを襲撃
1642年1月8日-01:00|イタリア| |||ガリレオ・ガリレイ死去/77歳(誕生:15640215)。イタリアの物理学者・天文学者
1642年1月28日-09:00|日本| ||寛永18年12月28日|比叡山堂塔ができる
1642年1月30日-08:00|中国| ||明・崇禎15年|グシ・ハーンの軍事力を背景にダライ・ラマ政権成立
1642年1月31日-09:00|日本| ||寛永19年|<分封>鍋島元茂:肥前小城(桜岡屋敷)57475石/以後直能(73250石)、元
武、元延、直英、直員、直愈、直知、直尭、直亮、直虎と続く(-明治4年)
1642年1月31日-09:00|日本| ||寛永19年|松平忠昭:豊後中津留2万2千2百石→豊後高松22200石(-万治1年豊後
府内へ)
1642年2月 00:00|ガーナ/オランダ/ポルトガル| |||ポルトガルの最後の奴隷供給基地だった黄金海岸のアクシン砦が、オランダ軍
により陥落
1642年3月19日-09:00|日本| ||寛永19年2月19日|浅草寺焼亡
1642年3月28日-09:00|日本| ||寛永19年2月28日|松平頼重:常陸下館5万石→讃岐高松12万石/拝領/以後頼常、
頼豊、頼桓、頼恭、頼真、頼起、頼儀、頼恕、頼胤、頼聡と続く(-明治4年)
1642年3月31日-09:00|日本| ||寛永19年3月|山村座(江戸)許可、座主、山村長太夫、木挽町<現、銀座>(1644年説
も)
1642年4月-05:30|インド| |||クトゥブ・シャーヒー朝軍がヴィジャヤナガル朝領に侵入
1642年4月1日-09:00|日本| ||寛永19年3月2日|<改易>堀直定:越後村上10万石/無嗣廃絶
1642年4月2日-09:00|日本| ||寛永19年3月3日|江戸幕府が初めて勘定奉行を設置
1642年4月14日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツで公立初頭教育制度が成立
1642年5月15日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第7代シャー:アッバース2世(~16661026)
1642年5月17日-01:00|フランス/カナダ| |||カナダでメゾンヌーブがモントリオールを建設
1642年6月6日-09:00|日本| ||寛永19年5月9日|幕府が譜代大名70人の江戸在勤期間を制定
1642年6月23日-01:00|イタリア/トルコ| |||カネア近くで、トルコ軍カンディアに上陸
1642年6月26日-09:00|日本| ||寛永19年5月29日|一柳直家:播磨小野2万8600石/無嗣・養子1万8600石減
1642年7月4日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・レカーリ(~16440704)
1642年7月27日-09:00|日本| ||寛永19年7月|水谷勝隆:備中成羽5万石/成羽藩廃藩→備中松山5万石/以後勝宗、
勝美と続く(-元禄6年無嗣断絶)
1700迄(4525件)
1642年7月27日-09:00|日本| ||寛永19年7月|堀田正盛:信濃松本→下総佐倉11万石/次に正信が嗣ぐ(-万治3年
改易)
1642年8月17日-02:00|ラトビア| |||<即位>クールラント公ヤーコプ・ケトラー(~16820101)
1642年8月19日-01:00|イタリア/トルコ| |||トルコ軍にカネアが名誉ある降伏
1642年8月20日-09:00|日本| ||寛永19年7月25日|<改易>那須資重:下野福原1万4千石/無嗣父に5千石安堵
1642年8月22日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦8月12日|イギリス国王がノッティンガムで議会に宣戦/第1次内乱が始まる/清教
徒革命が始まる
1642年8月23日-09:00|日本| ||寛永19年7月28日|(松平)藤井忠晴:駿河田中25千石/拝領(-正保1年遠江掛川へ)
1642年8月23日-09:00|日本| ||寛永19年7月28日|水野忠清:三河吉田4万5千石→信濃松本7万石/以後忠職、忠直
、忠周、忠幹、忠恒と続く
1642年8月23日-09:00|日本| ||寛永19年7月28日|水野忠善:駿河田中→三河吉田45千石(-正保2年三河岡崎へ)
1642年9月4日-09:00|日本| ||寛永19年8月10日|幕府が郷村取締令を制定
1642年9月30日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||マラニョンでポルトガル人クリオージョによる対オランダ反乱開始
1642年10月24日-09:00|日本| ||寛永19年閏9月|堀直景:上総刈谷1万石/拝領/次に直良が嗣ぐ(-寛文8年上総八
幡へ)
1642年11月2日-01:00|フランス/ドイツ/スウェーデン| |||第2次ブライテンフェルトの戦い/トルシュテンソン将軍率いるスウェーデン軍とフランス
軍がドイツ皇帝軍を破りライプチヒ占領
1642年11月24日-01:00|オランダ/オーストラリア| |||オランダの探検家タスマン、オーストラリア南方に大きな島を発見、タスマニアと命名
1642年12月4日-01:00|フランス| |||<死去>フランス王国首席大臣リシュリー→<就任>フランス王国首席大臣ジュール・マザラン(~16610
309死去)
1642年12月4日-01:00|フランス| |||フランス宰相リシュリー死去
1642年12月13日-01:00|オランダ/ニュージーランド| |||蘭の航海者タスマン、ニュージーランド「発見」
1643年-12:00|ニュージーランド| |||オランダ人のアベル・タスマンがニュージーランドを発見
1643年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第15代ハン:アブル=ガーズィー[アラブ・ムハンマドの子](~1663年)
1643年-03:00|マダガスカル/フランス| |||フランスがマスカリン諸島のレユニオンに交易拠点を建設
1643年-03:00|マダガスカル/フランス| |||フランス東インド会社がマダガスカルに入植地を建設
1643年-02:00|エジプト| |||エジプトで疫病、続いて飢餓が発生
1643年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首フランス王ルイ14世(~1715年)
1643年-01:00|イタリア| |||トリチェリが気圧計を発明し、「トリチェリの真空」を発見
1643年 06:00|グアテマラ| |||オランダ人海賊,トルヒーリョを襲撃.スペイン人はトルヒーリョの町を放棄
1643年 06:00|ニカラグア| |||ミスキート族と海賊の連合軍がマタガルパを襲撃
1643年1月5日-09:00|日本| ||寛永19年11月15日|松平乗寿:老中就任(-承応3年1月26日)
1643年1月29日-09:00|日本| ||寛永19年12月10日|旗本の士に養子襲禄の法を頒つ
1643年2月-05:30|インド| |||ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの命でインドのアーグラのヤムナー河畔に建設中だったタージ・
マハルが、22年の歳月を経て完成
1643年2月-01:00|オランダ/アメリカ| |||ニューアムステルダム(現NY)でオランダ人と先住民の戦争がはじまる
1643年2月7日-09:00|日本| ||寛永19年12月19日|根本中堂が徳川家光により再建/滋賀県
1643年2月19日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・福泰1年|大越後黎朝7代・真宗が即位(-1649)福泰と改元(-1649)
1643年2月19日-08:00|中国| ||明・崇禎16年1月|李自成が襄陽で新順王と称して政権を樹立
1643年3月7日-09:00|日本| ||寛永20年1月17日|菅沼定昭:丹波亀山4万1100石→3万8千石/弟定実に2千石、定賞
に1100石を分封
1643年3月19日-09:00|日本| ||寛永20年1月29日|大名火消し始まる
1643年3月30日-09:00|日本| ||寛永20年2月11日|幕府が私鋳銭を禁止
1643年3月30日-09:00|日本| ||寛永20年2月11日|幕府がキリスト教を禁じる
1643年3月31日-09:00|日本| ||寛永20年2月12日|夜、三宅島雄山噴火。溶岩が流出し阿古村が焼失。死者無し
1643年4月4日-09:00|日本| ||寛永20年2月16日|青山幸成:老中解任
1643年4月9日-09:00|日本| ||寛永20年2月21日|熊本藩、家臣阿部一族の反乱を鎮圧する
1643年4月29日-09:00|日本| ||寛永20年3月11日|幕府、田畑永代売買禁止令を公布
1643年5月3日-09:00|日本| ||寛永20年3月15日|一柳直家:播磨小野28600石/無嗣減封/養子直次が名跡を継ぎ1
万石
1643年5月3日-09:00|日本| ||寛永20年3月15日|一柳直次:伊予国内1万8600石を没収→播磨国内1万石をもって
家名存
1643年5月14日-01:00|フランス| |||<即位>フランス国王(ブルボン朝)ルイ14世(大王・太陽王)(~17150901)[ルイ13世の子
1643年5月14日-09:00|日本| ||寛永20年3月26日|松平英親:豊後高田藩3万7千石→3万2千石/弟重長に3千石,宮
内重政に2千石を分与
1643年5月18日-01:00|フランス/スペイン| |||フランス領内ロクロアでフランス軍とスペイン軍の対決/スペインは大敗
1643年5月19日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ,プリマス,コネティカット,ニューへブンの4植民地,ニューイングランド連合を形成
1643年6月-01:00|オランダ/チリ| |||ペルナンブコのオランダ人ブロウェル,船隊を組みマゼラン海峡から北上.チロエ島に拠点を建設
しアラウコを攻撃
1643年6月16日-09:00|日本| ||寛永20年5月|保科(松平)正之:出羽山形20万石→陸奥会津若松23万石/加増移封
/次に正経、正容、容貞、容頌、容住、容衆、容敬、容保(役料5万石の編入)(-慶応4年)
1643年6月16日-08:00|中国| ||明・崇禎16年5月|張献忠が武昌で西王と号する
1700迄(4525件)
1643年6月18日-09:00|日本| ||寛永20年5月03日|加藤明成:陸奥会津若松40万石/領内混乱子に石見吉永1万石
に移封(会津騒動)
1643年7月22日-09:00|日本| ||寛永20年6月7日|青山幸利:遺領摂津尼崎5万石→48千石/弟幸通に3千石,幸正に
2千石,幸高に1千石を新田4千石を含めて分知
1643年8月18日-09:00|日本| ||寛永20年7月4日|(松平)榊原忠次:上野館林10万石→陸奥白河14万石/加増移封(
-慶安2年6月9日播磨姫路へ転封)
1643年8月18日-09:00|日本| ||寛永20年7月4日|丹羽光重:陸奥白河10万7百石→陸奥二本松10万7百石/移封/以
後長次、長之、秀延、高寛、高庸、長貴、長祥、長富、長国、長裕(5万石)と続く(-明治4年)
1643年8月18日-09:00|日本| ||寛永20年7月4日|保科正之:信濃高遠3万石→会津若松30万石/移封
1643年9月-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||デンマーク、スウェーデンと戦争(~1645)
1643年9月 00:00|イギリス| |||イギリスで東部連合軍が成立
1643年9月21日-08:00|中国| ||清・崇徳8年8月9日|清の第2代皇帝太宗ホンタイジ死去/51歳(誕生:1592)5歳の息子
が皇帝に選出され、順治帝として即位/実権は叔父の執政ドルゴンが掌握
1643年9月24日-09:00|日本| ||寛永20年8月12日|京都の画家・俵屋宗達/死去「風塵雷神図屏風」
1643年10月13日-08:00|中国| ||明・崇禎16年9月|李自成軍が河南の襄城で明軍を大破
1643年10月21日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦10月11日|国王側と議会側のウィンスビーの戦いが行われる
1643年11月-01:00|フランス/ドイツ| |||フランス軍はドイツのトゥットリンゲンで敗北/これ以後、帝国軍は小さな戦闘をのぞくと
、連戦連敗を繰り返す
1643年11月6日-09:00|日本| ||寛永20年9月25日|「寛永諸家譜図伝」372巻が完成
1643年11月13日-09:00|日本| ||寛永20年10月2日|南光坊天海、死去/108歳(誕生:天文5(1536))天台宗の僧で3
代の将軍に仕えた
1643年11月14日-09:00|日本| ||寛永20年10月3日|109代明正天皇譲位/110代後光明天皇践祚/10月21日即位~1
6540920
1644年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:イスラーム3世ギレイ(~1654年)
1644年-01:00|フランス| |||フランスの哲学者デカルトが「哲学原理」を発表
1644年 06:00|アメリカ| |||ポーハタン族の最後の蜂起が鎮圧され、ポーハタン戦争が終焉
1644年1月19日 00:00|イギリス| |||スコットランド軍が議会派をむすび、イングランドに侵攻
1644年2月-01:00|オランダ/オーストラリア| |||オランダ人のタスマンがオーストラリア北岸の探検航海に出航
1644年2月8日-09:00|日本| ||寛永21・正保1年|京都教王護国寺五重塔再建
1644年2月8日-08:00|中国| ||清・順治1年1月1日|清・順治と改元
1644年2月8日-08:00|中国| ||明・崇禎17年1月1日|李自成が西安で大順国を樹立、永昌(-1645)と建元
1644年4月5日-09:00|日本| ||寛永21年2月28日|松平乗寿:遠江浜松→上野館林6万石/次に乗久(5千石を弟乗政
に分知55千石)が嗣ぐ(-寛文1年下総佐倉へ)
1644年4月5日-09:00|日本| ||寛永21年2月28日|太田資宗:三河西尾3万5千石→遠江浜松3万5千石/移封/次に資
次(32千石)が嗣ぐ(-延宝6年摂津・和泉の内へ)
1644年4月14日-09:00|日本| ||寛永21年3月08日|本多忠義:遠江掛川→越後村上10万石/移封(-慶安2年陸奥白
川へ)
1644年4月21日-09:00|日本| ||寛永21年3月15日|松平直基:越前大野藩5万石→出羽山形15万石/移封(-慶安1年
播磨姫路へ)
1644年4月21日-09:00|日本| ||寛永21年3月15日|松平直良:越前勝山藩3万5千石/幕府領となり福井藩に預けら
れる→越前大野藩5万石(福井県大野市)/移封/次に直明が嗣ぐ(-天和2年播磨明石へ)
1644年4月24日-09:00|日本| ||寛永21年3月18日|(松平)藤井忠晴:駿河田中→遠江掛川3万石(-慶安1年丹波亀
山へ)
1644年4月24日-09:00|日本| ||寛永21年3月18日|北条氏重:下総関宿2万石→駿河田中2万5千石/加増移封(-慶
安1年遠江掛川へ)
1644年4月24日-09:00|日本| ||寛永21年3月18日|牧野信成:武蔵石戸→下総関宿17千石/次に親成(27千石)が嗣
ぐ(-明暦2年京都所司代[摂津河内]へ)
1644年4月24日-08:00|中国| ||明・崇禎17年3月18日|李自成軍が北京を占領
1644年4月25日-08:00|中国| ||明・崇禎17年3月19日|李自成軍に攻められ明の毅宗崇禎帝が紫禁城の裏手の煤
山で首吊り自殺/34歳(誕生:1610)/明朝最後の皇帝、これで明朝は滅亡
1644年5月1日-09:00|日本| ||寛永21年3月25日|(松平)奥平清道:播磨姫路新田3万石/拝領
1644年5月1日-09:00|日本| ||寛永21年3月25日|(松平)奥平忠弘:播磨姫路18万石→15万石/弟清道に3万石分封
1644年5月6日-08:00|中国| ||清・順治1年4月|山海関を守備する明の猛将呉三桂が清軍に寝返り、李自成の遠征
軍を撃破
1644年5月16日-09:00|日本| ||寛永21年4月10日|松下長綱:陸奥三春3万石/発狂廃絶
1644年6月6日-08:00|中国| ||清・順治1年5月2日|執政ドルゴンに率いられた清軍が北京に入る/清朝が始まる
1644年6月11日-01:00|イタリア| |||イタリアの物理学者トリチェリは、水銀柱の実験を行い「水銀は真空の働きによってでな
く、大気によって押し上げられている」と手紙に書き、この日リッチィ宛に出す
1644年6月19日-08:00|中国| ||南明・崇禎17年5月15日|神宗の孫・福王が南京で擁立(安宗弘光帝~1645)され明
の亡命政権(南明)を樹立
1644年7月12日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦7月2日|イギリス、マーストン・ムーアの戦い/クロムウェルの「鉄騎兵隊」の働きにより議会
軍が勝利/これ以降、議会軍が優勢となる
1700迄(4525件)
1644年7月21日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ルカ・ギウスティニアーニ(~16460721)
1644年7月22日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦7月12日|マーストン・ムーアの戦いで勝利したクロムウェルの議会軍がイングランド北部を
おさえる
1644年7月29日-01:00|バチカン| |||234代ローマ教皇ウルバヌス8世死去/76歳(誕生:1568)
1644年8月-01:00|フランス/ドイツ| |||フランス軍,フライブルクの決戦でバイエルン軍に完勝
1644年8月3日-09:00|日本| ||寛永21年7月|京都の東寺五重塔(国宝)が桂昌院(徳川綱吉の生母)の発願で再建
1644年8月12日-09:00|日本| ||寛永21年7月10日|土井利勝/大老解任
1644年10月1日-09:00|日本| ||寛永21年9月1日|土井利長:父利勝の遺領西尾1万石を分け与えられ
1644年10月1日-09:00|日本| ||寛永21年9月1日|土井利房:父利勝の遺領下野足利郡1万石を分け与えられ
1644年10月4日-01:00|バチカン| |||236代教皇インノチェンチオ十世(-1655年1月7日)
1644年10月19日-09:00|日本| ||寛永21年9月18日|由利本荘地方に大地震、余震が翌月20日まで続く.本荘城の
櫓門堀が大破、城下の死者63人
1644年10月30日-08:00|中国| ||清・順治1年10月|清朝三代目の順治帝が北京に遷都し漢族の皇帝として即位、
満漢蒙三族の帝となる
1644年11月10日-09:00|日本| ||寛永21年10月11日|世良田東照宮創建(群馬県太田市)徳川氏発祥の地
1644年11月24日 00:00|イギリス| |||ミルトンが「アレオパジティカ(言論の自由)」を刊
1644年11月27日-09:00|日本| ||寛永21年10月28日|杉原重長:但馬豊岡2万5千石/29歳の若さで没し、女子一人
のみで嗣子がなかったため除
1644年12月4日-08:00|中国| ||清・順治1年11月6日|張献忠、成都で大西国王と称し大順(-1646)と建元
1644年12月19日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月9日|イギリスで辞退条例が成立/議員は軍務から退き、長老派が軍隊
指揮権を失う
1645年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第4代アマンクラット1世(~1677)即位
1645年-05:30|インド| |||ヴィジャヤナガル王国がアーディル・シャーヒー朝に敗北
1645年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:アブドゥル・アズィーズ・ハーン[ナーディル・ムハンマドの長男](~16
80年)
1645年-02:00|モザンビーク/ブラジル| |||ポルトガル領モザンビークからブラジルへ奴隷の輸出が開始
1645年-01:00|オランダ/モルディヴ| |||オランダがモルジブを保護領とする
1645年 00:00|ガーナ/オランダ| |||オランダ東インド会社がゴールドコーストの内陸部に侵入
1645年1月13日-09:00|日本| ||正保1年12月16日|改元され正保元年となる
1645年1月17日-09:00|日本| ||正保1年12月20日|(松平)奥平清道:播磨姫路新田3万石/無嗣廃絶
1645年1月20日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1645/1/10|ウィリアム・ロードが処刑される/71歳(誕生:15731007)ピューリタンを
弾圧したため長期議会で弾劾されたカンタベリ大司教
1645年1月28日-09:00|日本| ||正保2年|大新旅館創業(千葉県銚子市)
1645年1月28日-08:00|中国| ||南明・弘光1年1月1日|南明・安宗弘光帝が弘光元年に改元
1645年2月8日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||スウェーデンとデンマークがブロムセブロ講和条約を締結(トルステンソン戦争)/デンマーク
はスウェーデンにノルウェー領のイェムトランド、ハルイェダーレン、ハランドを割譲しデンマーク本領からはエーレスンド海峡の自由通航権及びゴ
ットランドを割譲、神聖ローマ帝国の司教区であるブレーメンとフェルデンもこの時失った/スウェーデンはスカンディナヴィア半島南端スコ
ーネ地方を占領していたが返還された
1645年2月17日 00:00|イギリス| |||イギリスでニュー・モデル軍条令が制定
1645年2月26日-08:00|中国| ||清・順治2年2月|清軍が李自成軍を討伐し李自成が西安以西へ敗走中に没、大順
国が消滅
1645年3月8日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ジョアン・フェルナンデス・ビエイラ,Andre Vidal de Negreirosらペルナンブ
コのエンジェーニョ,バイアの総督府と組みオランダに対し反乱.タボカスの戦いでオランダ軍に初めて勝利
1645年4月8日-05:30|インド| |||ムガル朝シャー・ジャハーンがアグラーから新都へ遷都
1645年4月16日-09:00|日本| ||正保2年3月20日|<改易>池田輝興:播磨赤穂3万5千石/突如発狂して正室と侍女2
名を殺害したため備前岡山に幽閉廃絶
1645年4月26日-08:00|中国| ||清・順治2年4月|清軍が揚州を占領し、10日間の虐殺
1645年4月30日-01:00|イタリア/トルコ| |||クレタ島領有をめぐりオスマンとヴェネチアが戦争開始
1645年6月6日-09:00|日本| ||正保2年5月12日|剣法の極意を地・水・火・風・空の5巻に説いた宮本武蔵の「五輪書
」が脱稿
1645年6月13日-09:00|日本| ||正保2年5月19日|剣術家・画家・宮本武蔵/死去/62歳(誕生:天正12(1584))/「五輪
書」
1645年6月17日-08:00|中国| ||清・順治2年;南明・弘光1年5月24日|ドド率いる清軍が南京を占領
1645年6月21日-08:00|中国| ||清・順治2年;南明・弘光1年5月28日|南明・弘光帝は清軍に捕らえられ残存の南明
勢力は福州に逃れる
1645年6月24日-08:00|中国| ||南明・弘光1年6月|鄭芝龍が明の唐王を福州で擁立(隆武政権)
1645年6月24日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦6月14日|クロムウェル率いる議会軍が、ノーサンプトン州ネーズビーの戦いで王党軍を
壊滅させる
1645年7月14日-01:00|フランス/カナダ| |||カナダでフランスとイロコイ五族同盟の和平成立
1645年7月19日-09:00|日本| ||正保2年閏5月26日|杉原重長:但馬豊岡25千石/無嗣減封/甥重玄が名跡を継ぎ但
馬豊岡1万石
1645年7月23日-04:00|ロシア| |||ロシア皇帝ミハイル=ロマノフ/死去/アレクセイ即位(-1676)
1700迄(4525件)
1645年7月26日-09:00|日本| ||正保2年6月4日|<改易>皆川成郷:常陸府中1万3千石/無嗣弟に5千石安堵
1645年8月6日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||反乱軍、セリニャエンの砦を攻略。オランダ人守備兵は降伏
1645年8月6日-08:00|中国| ||清の順治2年6月15日|清朝が、全男子に辮髪を命じる薙髪令を発する
1645年8月6日-08:00|中国| ||南明・弘光1年閏6月15日|唐王朱聿鍵が福州で南明・紹宗隆武帝として即位(-1646
年10月)
1645年8月12日-08:00|中国| ||南明・弘光1年閏6月21日|魯王朱以海、監国と称して紹興に亡命政権を立てる(-1
653年)/紹宗(唐王)と対立
1645年8月13日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||Cabo de Santo AgostinhoのPontal de Nazare要塞がポルトガ
ル人部隊の手に落ちる
1645年8月14日-09:00|日本| ||正保2年6月23日|井伊直好:上野安中→三河西尾3万5千石(-万治2年遠江掛川へ)
1645年8月18日-09:00|日本| ||正保2年6月27日|井上正利:遠江横須賀→常陸笠間5万石/移封/次に正任が嗣ぐ(
-元禄5年美濃郡上八幡へ)
1645年8月18日-09:00|日本| ||正保2年6月27日|浅野長直:常陸笠間→播磨赤穂53500石/以後長友(5万石)、長矩
と続く(-元禄14年江戸城大廊下での刃傷事件により改易)
1645年8月18日-09:00|日本| ||正保2年6月27日|本多利長:三河岡崎→遠江横須賀43440石(-天和2年改易/後、出
羽村山へ)
1645年8月18日-09:00|日本| ||正保2年6月27日|幕府が江戸市中での鉄砲の使用を禁じる
1645年8月19日-09:00|日本| ||正保2年6月28日|水野元綱:三河新城/廃藩→上野安中2万石/移封/以後元知が嗣
ぐ(-寛文7年狂気の廉で所領没収)
1645年8月21日-08:00|中国| ||清・順治2年7月|清軍が江南を攻略し、住民を大量虐殺
1645年8月21日-08:00|中国| ||南明・隆武1年7月1日|南明・紹宗隆武帝(朱聿鍵)が隆武と改元
1645年8月23日-01:00|デンマーク/スウェーデン| ||ユリウス暦:1645/8/13|スウェーデンがデンマークから撤退/スウェーデンはバルト海の覇
権を握る
1645年8月31日-09:00|日本| ||正保2年7月10日|秋田俊季:陸奥宍戸5万5千石→陸奥三春55千石/以後盛季(弟季
久に5千石分知5万石)、輝季、頼季、治季(延季)、定季、千季(倩季)、謐季(長季)、孝季、肥季、映季と続く(-明治4年
)
1645年9月4日-09:00|日本| ||正保2年7月14日|小笠原忠知:豊後杵築4万石→三河吉田4万5千石/以後[寛文3年1
0月]長矩[[延宝6年3月]長祐[元禄3年10月]長重(4万石)(-元禄10年武蔵岩槻へ)
1645年9月4日-09:00|日本| ||正保2年7月14日|松平英親:豊後高田3万2千石→豊後杵築3万2千石/以後重栄、重
休、親純、親盈、親貞、親賢、親明、親良、親貴と続く(-明治4年)
1645年9月4日-09:00|日本| ||正保2年7月14日|水野忠善:三河吉田→三河岡崎5万石/以後[延宝4年10月]忠春[
元禄5年12月]忠盈[元禄12年9月]忠之[享保15年7月]忠輝[元文2年9月]忠辰[宝暦2年9月]忠任(-宝暦12年肥前
唐津へ)
1645年9月8日-09:00|日本| ||正保2年7月18日|幕府が、大小刀の寸法および頭髪に関する法度を出す
1645年9月17日-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ポルトカルボのオランダ軍が降伏。翌日にはサンフランシスコ河のマウリッツ砦も
降伏
1645年9月17日-09:00|日本| ||正保2年7月27日|諸国に大風が吹く
1645年9月22日-01:00|オーストリア/フランス/ドイツ| |||ネルトリンゲン近郊で決戦.フランス軍がオーストリア・バイエルン軍を撃破
1645年12月7日-09:00|日本| ||正保2年10月19日|松平光通:越前福井52万石→45万石/弟昌勝へ5万石(松岡藩)、
昌親へ2万5千石(吉江藩)分与
1645年12月7日-09:00|日本| ||正保2年10月19日|松平昌勝:越前松岡5万石/分知/次に昌平が嗣ぐ
1645年12月7日-09:00|日本| ||正保2年10月19日|松平昌親:越前吉江藩2万5千石(福井県鯖江市)/分与
1645年12月13日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー国王サド[前王の息子](~1652.5)
1646年-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)フェルディナンド4世(~16540709)
1646年-01:00|オランダ/インドネシア| |||マタラーム王国:第4代アマンクラット1世がオランダ東インド会社と和約を結ぶ
1646年 00:00|イギリス/バハマ| |||イギリス,バハマ諸島を占領
1646年 06:00|アメリカ| |||ヴァージニア植民地とチョサピーク族が平和条約を締結
1646年1月3日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首フランチェスコ・エリッツォ死去
1646年1月17日-09:00|日本| ||正保2年12月01日|一柳直興:伊予西条3万石→2万5千石/弟直照に5千石を分封
1646年1月20日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第99代フランチェスコ・モリン(~16550227)
1646年1月27日-09:00|日本| ||正保2年12月11日|臨済宗僧侶・沢庵宗彭/死去/73歳(誕生:天正1(1573)1201)
1646年2月 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1646/2|この月、後見裁判所および軍役保有が廃止される
1646年2月16日-08:00|中国| ||清・順治3年|紫禁城の太和殿が再建
1646年3月6日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1646/2/24|イギリスで後見裁判所が廃止
1646年4月-01:00|チェコ/スウェーデン| |||スウェーデン軍がプラハを占領
1646年5月2日-09:00|日本| ||正保3年3月17日|幕府が農民訴訟規則を布令
1646年5月15日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月5日|イングランド国王チャールズ1世が、スコットランド軍に投降/第1次内乱が終る
1646年5月20日-09:00|日本| ||正保3年4月6日|幕府が消防の制を布令
1646年5月21日-09:00|日本| ||正保3年4月7日|薩摩藩の島津光久が犬追物を再興
1646年6月9日-09:00|日本| ||正保3年4月26日|陸奥地方で大地震。青葉城や日光東照宮の石垣が崩壊する。家屋
倒壊多数
1646年6月25日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1646/6/15|イギリス国王軍がオックスフォードで投降し、第1次内乱が終わる
1700迄(4525件)
1646年6月30日-01:00|イタリア/トルコ| |||イブラヒム・パシャ、ノヴィグラーディを包囲。フランチェスコ・ロレダンの防衛失敗
1646年7月13日-08:00|中国| ||南明・隆武2年6月|南明・魯王朱以海、清軍に追われ、鄭成功の所へ逃れる
1646年7月24日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・ロメッリニ(~16480724)
1646年9月8日-09:00|日本| ||正保3年7月29日|細川行孝:肥後宇土3万石/肥後藩主細川光尚が分知/以後有孝、
興生、興里、興文、立礼、立之、立政、行芬、立則、行真と続く(-明治3年)
1646年9月11日-01:00|イタリア| |||<即位>>パルマ公(ファルネーゼ家)ラヌッチョ2世[オドアルド1世の息子](~16941211死去64歳)
1646年10月6日-08:00|中国| ||南明・隆武2年8月28日|南明・紹宗隆武帝(朱聿鍵)が清軍に捕らわれ殺される
1646年11月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ軍、マウリッツ砦をふたたび制圧/しかし半年後に維持が困難と
なり放棄
1646年11月2日-09:00|日本| ||正保3年9月25日|庄内藩のお家騒動(長門一件)に絡み、家老高力喜兵衛の一族縁
者が酒井忠勝の怒りに触れて処罰される/永暇が13人、切腹が11人
1646年12月11日-08:00|中国| ||南明・隆武2年11月5日|南明・紹宗隆武帝の弟,唐王朱聿鍔が広州で即位(文宗紹
武帝)
1646年12月24日-08:00|中国| ||南明・隆武2年11月18日|南明・弘光帝の従兄弟にあたる桂王朱由榔も肇慶で皇
帝に即位(昭宗永暦帝~1661年8月13日)
1647年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:第4代アマンクラット1世が旧都カルタの北東に煉瓦作りの新都プレレッドを造営
1647年-02:00|エジプト| |||エジプトでマムルークの2大派閥が内紛
1647年-01:00|ハンガリー| |||<即位>ハンガリー王国(ハプスブルグ朝)国王フェルディナーンド4世[フェルディナーンド3世の長男](~165
4年)
1647年 00:00|イギリス/ミャンマー| |||イギリスがはじめてビルマで商館を建設
1647年 00:00|イギリス| |||ジョージ・フォックスがイギリスでクエーカー教を創始
1647年1月6日-08:00|中国| ||清・順治3年12月|張献忠軍が成都をすて敗走し、張献忠が戦死/残党は南明へ吸収
1647年1月6日-08:00|中国| ||南明・隆武2年12月|鄭成功が抗清で挙兵(南明の年号を使用)、洪承疇の誘いで清
に投降した父の鄭芝龍と袂を分かつ
1647年1月20日-08:00|中国| ||南明・隆武2年12月15日|清軍の攻撃を受け南明・文宗紹武帝(朱聿鍔)が自害
1647年1月27日-01:00|イタリア/トルコ| |||47隻のガレー船に攻撃されたトンマーゾ・モロシーニの艦隊は果敢に戦って切り抜け
る。モロシーニとムッサ・パシャ共に戦死
1647年2月-01:00|オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||オランダ船団26隻、2400人がバイアを奇襲。トドス・オス・サントス湾内のイタパリカ
島を一時占領
1647年2月5日-09:00|日本| ||正保4年|増山正利:相模高座郡1万石/拝領
1647年2月5日-09:00|日本| ||正保4年|池田恒元:備前児島25千石/拝領(-慶安2年播磨山崎へ)
1647年2月5日-08:00|中国| ||南明・永暦1年1月1日|南明・昭宗永暦帝,永暦と改元
1647年3月14日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州・ヘルダーラント
州・フローニンゲン州総督オラニエ公ウィレム2世[オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの子](~16501106死去24歳)
1647年3月29日-09:00|日本| ||正保4年2月23日|<改易>真田信重:信濃松代新田領主1万7千石/無嗣本家に吸収
1647年5月16日-09:00|日本| ||正保4年4月12日|仙台で大火が起る/80余町が焼失し焼死者は数百人に及ぶ
1647年6月10日-01:00|オランダ/フィリピン| |||オランダ艦隊が最後の大規模なフィリピン攻撃を行う
1647年6月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦6月3日|イギリス、軍隊内に軍評議会が設置される/アジテーターズ、将校、連隊長
などにより構成
1647年6月15日-09:00|日本| ||正保4年5月13日|江戸で大地震。倒壊家屋多数。上野大仏破損
1647年7月7日-01:00|イタリア| |||ナポリで、魚小売商マザニエーロ(27)を中心とする民衆がスペイン総督府の重税に対して
反乱を起こす(マザニエーローの一揆)
1647年7月27日-01:00|オランダ/スペイン/フィリピン| |||フィリピンでオランダ・ムスリム連合軍とスペイン軍が衝突
1647年8月5日-09:00|日本| ||正保4年7月5日|松平信綱:川越6万石→7万5千石/加増
1647年8月27日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦8月17日|軍隊がロンドンへ進軍/長老派と国王との妥協が阻止される/クロムウ
ェルは軍を議会に入れる
1647年9月8日 03:00|ブラジル| |||サンパウロのバンディランテス,ヌエストラ・セニョーラ・デ・タレのミッションを襲撃.ムボインボイを戦ったグ
アラニ族部隊を殲滅
1647年9月11日-09:00|日本| ||正保4年8月13日|<改易>(松平)久松忠憲:信濃小諸4万5千石/無嗣廃絶/弟に1万
石安堵
1647年10月18日-09:00|日本| ||正保4年9月21日|<改易>菅沼定昭:丹波亀山38千石/無嗣廃絶/弟定美・定賞が旗
本に
1647年10月19日-09:00|日本| ||正保4年9月22日|尚賢(琉球王)死去[1625年生~](享年23)
1647年10月25日-01:00|イタリア| |||トリチェリ死去/39歳(誕生:16081015)。トリチェリの真空を発見したイタリアの物理学者
1647年11月13日-09:00|日本| ||正保4年10月17日|酒井忠解:出羽大山1万石/庄内藩主酒井忠當から分地(-寛文
8年無嗣断絶)
1647年11月13日-09:00|日本| ||正保4年10月17日|酒井忠恒:出羽松山2万石/庄内藩主酒井忠當から分地/以後
忠豫、忠休(25千石)、忠崇、忠禮、忠方、忠良、忠匡と続く(-明治4年)
1647年11月13日-09:00|日本| ||正保4年10月17日|酒井忠當:出羽庄内/弟の忠解、忠恒に3万石を分地
1647年12月14日-09:00|日本| ||正保4年11月18日|<改易>寺沢堅高:肥前唐津8万石/発狂・無嗣自刃/廃絶
1648年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第三王朝)キゲリ2世(~1672年)
1648年-02:00|ウクライナ| |||ボグダン・フメリニツキーの指導するウクライナ・コサックとポーランドの間に戦争が始まると同時に、ウクライ
1700迄(4525件)
ナ農民によるユダヤ人の虐殺(ポグロム)も行われた
1648年-01:00|オランダ/スペイン| |||30年戦争を終結させたウェストファリア条約の一部であるミュンスター条約でスペインはネーデルラ
ント連邦共和国の独立を正式に承認
1648年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯ゲオルク・ヴィルヘルム[クリスティアン・ルートヴィヒの弟](~1665年弟のヨハン・フリードリヒにカレ
ンベルク侯領を譲る)1705年死去
1648年-01:00|ドイツ| |||<即位>ホルシュタイン公(オルデンブルク家)フレゼリク3世(~1670年)
1648年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデンで紙幣が発行
1648年 03:00|ブラジル/パラグアイ| |||ブラジルのバンデイラがパラグアイ川を遡上し探検
1648年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事ルイ・ダイユブスト・ド・クロンジェ(~1651年)
1648年1月1日 07:00|メキシコ| |||サンチェスが「グアタガルーペ聖母の画像」刊
1648年1月8日-09:00|日本| ||正保4年12月14日|朽木稙綱:下野鹿沼25千石/拝領(-慶安2年常陸土浦へ)
1648年1月25日-09:00|日本| ||正保5・慶安1年|浦賀と三崎に燈明堂が置かれる/神奈川県
1648年1月25日-09:00|日本| ||正保5・慶安1年|東部で反松前のメナシクル(十勝方面のアイヌ)と、親松前のシュムクル(日高
方面のアイヌ)が衝突
1648年1月25日-08:00|中国| ||南明・永暦2年1月|降清の将軍金声桓が江西で清にそむき、南明・桂王の永歴政権
に帰順
1648年1月30日-01:00|オランダ/スペイン| |||オランダ独立戦争の終結/ミュンスターの和議でオランダとスペインの戦争が終わる
1648年2月24日-09:00|日本| ||正保5年閏1月|(松平)藤井忠晴:遠江掛川3万石→丹波亀岡38千石/以後忠昭、忠
周と続く(-貞享3年武蔵岩槻へ)
1648年2月28日-01:00|デンマーク/ノルウェー| |||<死去>デンマーク=ノルウェー二重王国国王クリスチャン4世/70歳(誕生:15770412)
1648年3月13日-09:00|日本| ||正保5年閏1月19日|青山宗俊:遠江大浜→信濃小諸4万2千石/移封(-寛文2年大阪
城代へ)
1648年3月15日-09:00|日本| ||正保5年閏1月21日|北条氏重:駿河田中2万5千石→遠江掛川3万石/加増移封(-万
治1年無嗣断絶)
1648年3月24日-09:00|日本| ||慶安1年2月|観進相撲、博打、かるた、的射、吉原以外の遊女禁止、役者衣装、絹禁
止
1648年4月7日-09:00|日本| ||慶安1年2月15日|改元され慶安元年となる
1648年4月8日-05:30|インド| |||シャー・ジャハーン、アーグラーより新都シャージャハーナーバードに遷都
1648年4月19日-01:00|オランダ/ブラジル| |||レシフェ近郊のグアララペスで2500の反乱軍が,5千のオランダ軍を撃破
1648年4月20日-09:00|日本| ||慶安1年2月28日|幕府が、江戸市中を対象に、道路・下水・服飾など幅広い範囲で
日常生活を細かく規制した「市中法度」を出す
1648年5月-01:00|オーストリア/フランス/ドイツ| |||バイエルン・オーストリア連合軍は再度敗北
1648年5月1日-01:00|デンマーク/ドイツ/ノルウェー| |||<即位>デンマーク=ノルウェー二重王国国王(オレンボー朝)フレゼリク3世兼シュレースウ
゙ィヒ公(オルデンブルク家)フレゼリク3世[クリスチャン4世とアンナ・カタリーナ・フォン・ブランデンブルクの三男](~16700209死去60歳)
1648年5月11日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1648/5/1|イギリスの議会派内の内乱に乗じて、王党派が各地で蜂起し、スコ
ットランド軍がイングランドに侵入して第2次内乱が起こる
1648年5月20日-02:00|リトアニア/ポーランド| |||ポーランド・リトアニア共和国王ヤン2世カジミェシュ・ヴァーサ即位(ジグムント3世の息子
~1668年9月16日退位し僧侶となった)
1648年5月23日-09:00|日本| ||慶安1年4月|湯屋の女、禁止、以後何回も出される
1648年5月27日-09:00|日本| ||慶安1年4月5日|幕府が、大坂に金銀互商、質物、宅地売買、商人相続などの市中法
度を出す
1648年6月-04:00|ロシア| |||モスクワで塩一揆
1648年6月8日-09:00|日本| ||慶安1年4月17日|日光の杉並木が完成
1648年6月21日-09:00|日本| ||慶安1年5月|(松平)久松康尚:下野那須(福原)1万石/兄久松憲良の名跡継承(-慶
安2年伊勢長島へ)
1648年6月21日-09:00|日本| ||慶安1年5月1日|幕府が、江戸市中に節句の奢侈禁制を出す
1648年7月24日-09:00|日本| ||慶安1年6月5日|幕府が再度大坂市中法度を出す
1648年7月30日-09:00|日本| ||慶安1年6月11日|幕府が農民の土地貸借を禁止
1648年8月-02:00|トルコ| |||オスマン朝イブラヒム1世が軍に処刑され、メフメト4世が即位
1648年8月1日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジャコモ・デ・フランキ(~16500801)
1648年8月2日-09:00|日本| ||慶安1年6月14日|(松平)奥平忠弘:播磨姫路15万石→出羽山形15万石/移封(-寛文
8年下野宇都宮へ)
1648年8月2日-09:00|日本| ||慶安1年6月14日|<改易>古田重恒:石見浜田5万5千石/家内混没収
1648年8月2日-09:00|日本| ||慶安1年6月14日|松平直基:出羽山形15万石→播磨姫路15万石/移封/次に直矩が
嗣ぐ(-慶安2年越後村上へ)
1648年8月8日-02:00|トルコ| |||<死去>オスマン帝国第18代ベイ:イブラヒム1世が、常備歩兵軍団イェニチェリに暗殺される。32歳
(誕生:16151204)
1648年8月8日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第19代ベイ:メフメト4世[イブラヒムの息子](~16871108廃位.16930106死
去)
1648年8月14日-09:00|日本| ||慶安1年6月26日|<改易>内藤信広:不明1万5千石/キリスト教検査懈怠会津に幽閉
1648年8月14日-09:00|日本| ||慶安1年6月26日|保科正貞:上総飯野7千石→1万7千石/加増/以後正景、正賢、正
殷、正寿、正富、正率、正徳、正丕、正益と続く(-明治4年)
1700迄(4525件)
1648年8月19日-09:00|日本| ||慶安1年7月|広島藩主の浅野光晟が広島東照宮創建/広島県
1648年8月20日-01:00|フランス/スペイン| |||ランスの決戦.この戦いでフランス軍が大勝したことから,フェルディナントは講和の
条件に同意
1648年8月24日-01:00|アンゴラ/オランダ/ポルトガル| |||リオのコレイア・デ・サを中心とするクリオージョ,15隻1500人の軍勢をも
ってアンゴラに上陸.オランダからアンゴラを奪回
1648年8月26日-01:00|フランス| |||フロンドの反乱/パリの民衆が、宰相マザランに対して反乱を起こす
1648年8月27日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王ピンダル[前王の息子](~16610603)
1648年9月7日-09:00|日本| ||慶安1年7月20日|松平隆綱(=正信)、父・正綱の遺領2万石余を継ぐ/弟・正朝に新墾
田をあわせて3千石を分与
1648年9月19日-01:00|フランス| |||パスカルと義兄ペリエは実験により大気圧の存在を証明
1648年10月6日-09:00|日本| ||慶安1年8月20日|<改易>稲葉紀通:丹波福知山4万5700石/発狂自刃/廃絶
1648年10月24日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ジンメルン家系選帝侯)カール1世ルートヴィヒ(~16800828)
1648年10月24日-01:00|オランダ/スイス| |||ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)でオランダ(ネーデルラント連邦共和国)、スイスの独
立承認(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)
1648年10月24日-01:00|フランス/ドイツ/オランダ/スウェーデン/スイス| |||ミュンスターでウェストファリア条約締結し30年戦争終結/フランスは
アルザス地方とロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)/スウェーデンは賠償金500万ライヒス
ターラー、フォアポンメルン公位(ポンメルン西半:オーデル川河口、ヴェーザー川河口を含む)、ヴィスマール市、ブレーメン公位(旧大司教)、フェル
デン公位(旧司教)などを獲得/ブランデンブルク選帝侯はヒンターポンメルン公位(ポンメルン東半)を獲得/アウクスブルクの和議の内
容を再確認、カルヴァン派を新たに容認/神聖ローマ帝国内の領邦は主権と外交権を認められた/皇帝は法律の制定、戦
争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならなくなった/議会及び裁判所におけるカトリックとプロ
テスタントの同権が規定された/バイエルン公マクシミリアン1世は、与えられた選帝侯位はそのまま認められた/プファルツ選帝侯カ
ール1世ルートヴィヒは選帝侯位を新たに与えられた/旧プファルツ領は両者で分割されバイエルン選帝侯はオーバープファルツを獲
得
1648年11月20日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国王(ヴァーサ家)ヤン2世カジミェシュ[ジグムント3世
の息子.称号のみのスウェーデン王](~16680916退位)16721216死去63歳
1648年12月10日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(新リューネブルク家)クリスティアン・ルートヴィヒ[先代の公の甥](
~16650315死去)
1648年12月16日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月6日|イギリス、革命を目的とした独立派のプライド大佐が兵を率いて議
会を取り囲み、長老派を追い出し独立派の支配を確立させる(プライドのパージ)
1649年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第11代スルタン:アブドゥル・ジャイルル・ジャーバル(~1652年)
1649年-08:00|フィリピン| |||フィリピンのサマール島でスムロイの反乱
1649年-08:00|ブルネイ| |||ブルネイ国王11代アブドゥル・ジャイルル・ジャーバル即位(~1652年)
1649年-05:30|インド| |||南インドの最後のヒンズー王朝ヴィジャヤナガル王国がビジャープル王国に滅ぼされた
1649年-04:00|オマーン| |||<即位>オマーン(元首)スルタン(ヤルバ朝)スルタン・ビン・サイーフ(~1679年)
1649年-04:00|ロシア| |||ロシアで1649年法典が制定され、農民の農奴化が完成する
1649年 07:00|メキシコ| |||タラウマラ族の反乱
1649年1月28日-09:00|日本| ||慶安1年12月16日|幕府が、大坂三郷に関する法度を出す
1649年2月6日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦1月27日|イギリス、チャールズ・ステュワート1世に死刑判決が下る
1649年2月9日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1649/1/30|<即位>スコットランド王(ステュアート朝)チャールズ2世[チャールズ1世とヘンリエッタ
・マリア・オブ・フランスの息子](~1651年)16850206死去54歳
1649年2月9日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦1月30日|チャールズ1世が、27日の判決によりホワイトホールの外側に設けられた処
刑台上で斬首の刑に処せられる。48歳(誕生:16001129)
1649年2月11日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・慶徳1年|大越後黎朝8代・神宗が即位(-1662)慶徳と改元(-1653)
1649年2月11日-08:00|中国| ||南明・永暦3年1月|清軍の反攻により南明永歴政権の金声桓、李成棟ら将軍が戦
死
1649年2月12日-09:00|日本| ||慶安2年|安部信盛:武蔵岡部19250石/1万石加増/以後信之(20250石)、信友、信峯
、信賢、信平、信允、信享、信操、信任、信古、信宝、信発と続く(-慶応4年三河半原へ)
1649年2月12日-09:00|日本| ||慶安2年|二本松城完成/福島県
1649年2月19日-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ軍,グアララペスでふたたび反乱軍との戦いに敗北
1649年3月10日 03:00|ブラジル| |||ブラジル総合貿易会社が特許会社として設立される
1649年3月13日-09:00|日本| ||慶安2年2月|(松平)久松定政:伊勢長島7千石→三河刈谷2万石(-慶安4年改易)
1649年3月13日-09:00|日本| ||慶安2年2月|松平忠房:三河刈谷→丹波福知山45900石(-寛文9年肥前島原へ)
1649年3月17日 06:00|カナダ| |||イエズス会神父二人がイロコイ族に殺害される
1649年3月23日-09:00|日本| ||慶安2年2月11日|西尾忠昭:常陸土浦→駿河田中25千石/次に忠成(2万石)が嗣ぐ
(-延宝7年信濃小諸へ)
1649年3月27日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1649/3/17|イギリスで貴族院(上院)が廃止される
1649年3月31日-09:00|日本| ||慶安2年2月19日|朽木稙綱:下野鹿沼→常陸土浦3万石/移封/次に稙昌(3千石を
弟に分与27千石)が嗣ぐ(-寛文9年丹波福知山へ)
1649年4月-01:00|オランダ/ブラジル| |||Mathias Beckの率いるオランダ人部隊、43年に放棄したセアラをふたたび占領。S
chonenburgh砦を建設
1649年4月7日-09:00|日本| ||慶安2年2月26日|慶安御触書制定
1649年4月7日-09:00|日本| ||慶安2年2月26日|幕府が農民に忍従を強要する「農民法度」を出す
1700迄(4525件)
1649年4月9日-09:00|日本| ||慶安2年2月28日|(松平)久松康尚:下野那須1万石→伊勢長島1万石/次に忠充が嗣
ぐ(-元禄15年領地収公、重臣を殺害した)
1649年4月17日-09:00|日本| ||慶安2年3月6日|幕府が、諸大名に倹約令を布達
1649年4月29日-09:00|日本| ||慶安2年3月18日|幕府が大坂駅舎条令を出す
1649年5月4日-09:00|日本| ||慶安2年3月23日|関東地方で大地震。家屋に被害、死者多数。日光でも被害
1649年5月29日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月19日|イギリス、議会が共和政宣言(コモンウェルズ宣言)を発する
1649年6月17日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治6年5月8日|朝鮮国王仁祖が崩御
1649年6月22日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治6年5月13日|朝鮮第17代国王孝宗が即位(-1659年)
1649年6月22日-09:00|日本| ||慶安2年5月13日|八王子・川越などで大雪、雹などが降り、人馬多数死傷
1649年7月18日-09:00|日本| ||慶安2年6月9日|(松平)榊原忠次:陸奥白河14万石→播磨姫路15万石/加増移封/
以後政房、政倫と続く(-寛文7年越後村上へ)
1649年7月18日-09:00|日本| ||慶安2年6月9日|松平直矩:播磨姫路15万石→越後村上15万石/移封(-寛文7年播
磨姫路へ)
1649年7月18日-09:00|日本| ||慶安2年6月9日|本多忠義:越後村上→陸奥白河12万石/移封/次に忠平[寛文2年1
1月25日](弟2人に1万石ずつ分地10万石)(-天和1年7月27日下野宇都宮へ転封)
1649年7月30日-09:00|日本| ||慶安2年6月21日|武蔵・下野で地震/侍屋敷・長屋破損し,圧死多数
1649年8月11日-09:00|日本| ||慶安2年7月04日|(松平)藤井忠国:丹波篠山→播磨明石7万石/次に信之(弟信重
に5千石分知65千石)が嗣ぐ(-延宝7年大和郡山へ)
1649年8月11日-09:00|日本| ||慶安2年7月4日|永井直清(山城淀藩主永井尚政の弟):山城神足寺2万石→摂津高
槻3万6千石/以後直時、直種、直達、直英、直期、直行、直珍、直進、直与、直輝、直矢、直諒と続く(-明治4年)
1649年8月11日-09:00|日本| ||慶安2年7月04日|大久保忠職:播磨明石→肥前唐津83千石/次に忠朝が嗣ぐ(-延
宝6年下総佐倉へ)
1649年8月21日-09:00|日本| ||慶安2年7月14日|松平康信:攝津高槻5万石→丹波篠山5万石/次に典信[寛文9年9
月29日]信利[延寳1年1月19日]信庸[延寳5年2月6日]信岑(-寛延1年丹波亀山へ)
1649年8月25日 00:00|アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦:1649/8/15|クロムエル率いるイングランド軍がアイルランドに侵攻
1649年9月1日-09:00|日本| ||慶安2年7月25日|川崎・江戸で地震/民屋が破倒し,人畜の死傷多数
1649年9月17日-09:00|日本| ||慶安2年8月11日|内田正信:相模・下総・常陸内→下野鹿沼15千石/移封/以後正衆
、正偏と続く(-享保9年籠居させられたが、長男の正親が1万石に減封になり下総小見川へ)
1649年9月18日-09:00|日本| ||慶安2年8月12日|(松平)松井康映:播磨山崎→石見浜田50400石/以後康官、康員、
康豊、康福と続く(-宝暦9年下総古河へ)
1649年9月18日-09:00|日本| ||慶安2年8月12日|池田恒元:姫路新田→播磨山崎3万石/以後政周、恒行と続く(延宝6年無嗣断絶)
1649年10月 00:00|イギリス| ||ユリウス暦10月|リルバーンが国外に追放される
1650年-05:30|インド| |||マドゥライのミーナクーシ寺院が建造
1650年-03:00|スーダン| |||スーダンのダル・フールにスルタン国が成立
1650年-01:00|フランス| |||サン・キット島に植民
1650年-01:00|フランス/セントルシア| |||サン・ルシアに植民が行われた
1650年-01:00|フランス/グレナダ| |||フランス人がグレナダ島にセント・ジョージズを建設し植民開始
1650年 00:00|イギリス| |||オックスフォードにイギリス最初のコーヒー・ハウスが開店
1650年 00:00|ポルトガル/オマーン| |||オマーンのヤアリーバ朝がポルトガルを破りマスカトから追い出す
1650年 03:00|ウルグアイ| |||この頃ウルグアイ地方の先住民チャルア族が絶滅
1650年 05:00|コロンビア| |||カルタヘナとマグダレナ河を結ぶディケ運河開通
1650年 06:00|アメリカ| |||北アメリカ東海岸で捕鯨産業が勃興
1650年1月-01:00|フランス| |||宰相マザランがコンデ親王らを投獄/これに対して反マザラン運動が起こる
1650年1月 00:00|ポルトガル| |||ポルトガル勢力がペルシア湾から撤退
1650年2月1日-09:00|日本| ||慶安3年|この年、大和国長谷寺本堂再建
1650年2月1日-09:00|日本| ||慶安3年|琉球史「中山世鑑」が成立
1650年2月11日-01:00|フランス| |||フランスの哲学者で数学者ルネ=デカルト死去/53歳(誕生:15960331)
1650年4月21日-09:00|日本| ||慶安3年3月21日|柳生三厳(柳生十兵衛)、剣術家(*1607年)
1650年4月23日-09:00|日本| ||慶安3年3月23日|関東地方で大地震。家屋に被害、死者多数。日光でも被害
1650年6月15日-09:00|日本| ||慶安3年5月17日|<改易>織田信勝:丹波柏原3万6千石/嗣子のないまま28歳で没
し、無嗣廃絶
1650年6月29日-09:00|日本| ||慶安3年6月|毛利就隆:周防下松→周防徳山45千石/以後元賢、元次と続く(-正徳
6年改易)
1650年7月9日-09:00|日本| ||慶安3年6月11日|本多勝行:播磨竜野4万石/無嗣本家に吸収/3万石は政長がつぎ、
1万石は政信がつ
1650年7月18日-09:00|日本| ||慶安3年6月20日|江戸で大地震。城櫓倒壊。大名町家も破損
1650年7月28日-08:00|中国| ||南明・永暦4年7月|明の遺臣の鄭成功(国姓爺)が厦門、金門の2島を占領し、清朝
への抵抗を本格的に始める
1650年8月23日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティーノ・セントゥリオーネ(~16520823)
1650年8月25日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,サン・シルベストロ教会の再建
1650年9月2日-09:00|日本| ||慶安3年8月7日|内藤信広:1万5千石/過失減封
1700迄(4525件)
1650年9月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1650/9/3|クロムウェルがダンバーの戦いでスコットランド軍を破る
1650年9月26日-09:00|日本| ||慶安3年9月01日|鳥越山(別府)が崩れ、土砂が谷を埋める.死者27人
1650年10月5日-09:00|日本| ||慶安3年9月10日|松平忠直,豊後津守村において死去(56歳)
1650年11月6日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フローニンゲン州総督ディーツ侯ウィレム・フレデリック[ディーツ伯エルン
スト・カシミールの子](~16641031死去)
1651年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1683)6代スルタン・アブドゥルファター即位
1651年-01:00|オーストリア/ドイツ| |||<即位>バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア(~1679年)
1651年-01:00|チュニジア| |||チュニジアでムラード2世が即位し、ムラード朝が自立
1651年 00:00|イギリス/インド| |||イギリス東インド会社がフーグリーに商館を開設
1651年 00:00|イギリス| |||ウィリアム・ハーヴェーが「動物の発生に関する研究」を出版
1651年 00:00|イギリス| |||ホッブスが「リヴァイアサン」を刊
1651年 03:00|スリナム| |||バルバドスのイギリス人,ギアナ(現スリナム)に入植
1651年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事ジャン・ド・ローソン(~1657年)
1651年 06:00|アメリカ| |||ブラッドフォードが「プリマス植民史」を完成
1651年1月21日-08:00|中国| ||清・順治7年12月|清の摂政ドルゴンが死去/38歳、その功労に順治帝が皇帝位を贈
り成宗の諡
1651年2月20日-09:00|日本| ||慶安4年|石川総長:伊勢神戸2万石/拝領/以後総良、総茂(17千石)と続く(-享保1
7年常陸下館へ)
1651年2月20日-07:00|ベトナム| |||宣教師のロードがベトナム語のローマ字表記法を考案
1651年2月20日-07:00|ベトナム| |||アンナン・ポルトガル・ラテン語辞書が刊
1651年2月20日-08:00|中国| ||清・順治8年1月|清・順治帝が親政を開始
1651年3月11日-09:00|日本| ||慶安4年1月20日|幕府が大名の末期養子を許可
1651年5月20日-09:00|日本| ||慶安4年4月|上野国東叡山東照宮社殿できる
1651年5月22日-09:00|日本| ||慶安4年4月3日|徳川綱重(家光三男長松):甲府15万石に封ず
1651年5月23日-09:00|日本| ||慶安4年4月04日|石川憲之:近江膳所→伊勢亀山5万石(-寛文9年山城淀へ)
1651年5月23日-09:00|日本| ||慶安4年4月04日|本多俊次:三河西尾→近江膳所7万石/以後康将、康慶(弟忠恒に
1万石分知6万石)、康命、康敏、康桓、康政、康伴、康匡、康完、康禎、康融、康穣と続く(-明治4年)
1651年6月8日-09:00|日本| ||慶安4年4月20日|阿部重次:老中解任/家光に殉死
1651年6月8日-09:00|日本| ||慶安4年4月20日|阿部正春:上総大多喜新田16千石/拝領(-万治2年武蔵岩槻へ)
1651年6月8日-09:00|日本| ||慶安4年4月20日|江戸幕府3代将軍徳川家光死去[1604年07月17日生~](享年46)
1651年6月8日-09:00|日本| ||慶安4年4月20日|堀田正盛:老中解任/家光に殉死
1651年6月11日-09:00|日本| ||慶安4年4月23日|江戸城大奥女中3700余人が解雇され、大奥殿舎の多くが破却さ
れる
1651年8月-02:00|トルコ| |||イスタンブールで商工民がオスマン朝に対して反乱
1651年9月2日-09:00|日本| ||慶安4年7月18日|<改易>松平定政:三河刈谷2万石/発狂伊予松山に幽閉廃絶
1651年9月4日-09:00|日本| ||慶安4年7月20日|幕府が、婦女衣服制を出す
1651年9月7日-09:00|日本| ||慶安4年7月23日|慶安の変/由井正雪・丸橋忠弥の乱発覚/丸橋忠弥、捕縛される
1651年9月10日-09:00|日本| ||慶安4年7月26日|慶安の変/早朝、由比正雪自害/47歳(誕生:慶長10(1605)0501)
1651年9月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月3日|ウースターの戦い/クロムウェル指揮するイングランド軍がスコットランドを征服、チャー
ルズ2世はフランスに亡命
1651年9月24日-09:00|日本| ||慶安4年8月10日|丸橋忠弥、処刑される
1651年9月27日-01:00|オーストリア/ドイツ| |||バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア(マクシミリアン1世の息子,~1679年5月26日)1654
年まで、叔父ロイヒテンベルク公アルブレヒトの摂政下に置かれる
1651年10月2日-09:00|日本| ||慶安4年8月18日|徳川家綱、第4代征夷大将軍補任/12歳/直轄江戸800万石(-延宝
8年)
1651年10月2日-09:00|日本| ||慶安4年8月18日|保科正之が第4代征夷大将軍徳川家綱の後見人となる
1651年10月8日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治8年8月24日|朝鮮、忠清道に大同法を制定
1651年10月9日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1651/9/29|クロムウェル、航海条例発布/輸入品を積む船を自国船に制限
1651年10月15日-09:00|日本| ||慶安4年9月|稲垣重綱:越後三条→三河刈谷2万3千石/以後[承応3年3月]重昭(2
万石)[貞享4年2月]重富(-元禄15年上総大多喜へ)
1651年10月31日-09:00|日本| ||慶安4年9月17日|鳳来山東照宮創建(愛知県新城市)
1651年11月13日-09:00|日本| ||慶安4年10月|徳川徳松(綱吉)(家綱、弟):上野館林15万石に封ず
1651年11月23日-09:00|日本| ||慶安4年10月11日|幕府、諸大名が浪人を抱え置くことを禁じる
1652年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第12代スルタン:ムハンマド・アリ(~1660年)
1652年-03:00|タンザニア/オマーン| |||オマーンがバテ島のポルトガル勢を攻撃し一掃する
1652年 00:00|イギリス/キューバ| |||英国の清教徒,レメディオス襲撃
1652年 00:00|アイルランド/イギリス| |||クロムウェル(後、護国卿)がアイルランド平定/事実上の植民地化
1652年 00:00|ガーナ/スウェーデン| |||スウェーデン人が西アフリカのゴールドコーストに要塞を建設
1652年1月21日-09:00|日本| ||慶安4年12月11日|大名・旗本の末期養子を緩和
1652年2月10日-09:00|日本| ||慶安5・承応1年|大村純長,旧円融寺庭園完成(長崎県大村市)
1652年2月10日-09:00|日本| ||慶安5・承応1年|徳川幕府三代将軍徳川家光の側室であったお振の方の霊廟自証
院霊屋完成(江戸東京たてもの園へ移築)/東京都
1700迄(4525件)
1652年2月10日-09:00|日本| ||慶安5年1月|かぶき者のお抱え禁止、幕府
1652年3月10日-09:00|日本| ||慶安5年2月|山崎治頼:讃岐丸亀5万石→4万5千石/後見役である叔父豊治に5千
石を分封
1652年4月6日-02:00|南アフリカ/オランダ| |||オランダ人がケープに上陸し、喜望峰周辺に入植
1652年4月22日-09:00|日本| ||慶安5年3月14日|佐渡奉行伊丹勝長、下役人辻藤右衛門らの乱を鎮圧/佐渡一揆
1652年5月-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王サンダ・サマ[前王の息子](~16740611)
1652年5月11日-09:00|日本| ||慶安5年4月4日|村山座、三代目一村宇左衛門に売る、市村座に改称
1652年5月14日-09:00|日本| ||慶安5年4月07日|村山又三郎、没、48才(村山座初代座元)
1652年5月18日 06:00|アメリカ| |||ロードアイランド植民地でアメリカ初の奴隷制違法法が制定
1652年5月19日-01:00|オランダ/イギリス| |||ドーヴァー沖でオランダ艦隊41隻と、イングランド艦隊22隻が遭遇戦、オランダ側が
艦艇2隻を失った/第一次英蘭戦争開始
1652年6月20日-02:00|トルコ| |||オスマン朝で、タルホンジュ・アフメト・パシャが大宰相に就任
1652年6月21日-09:00|日本| ||慶安5年5月16日|若狭、小浜藩領内の熊川・新道村の農民が年貢の引き上げに反
対して越訴する(松本長操一揆)
1652年7月-01:00|オランダ/イギリス| |||第一次イギリス・オランダ戦争が勃発
1652年7月-01:00|フランス| |||コンデ親王の率いるフロンド軍がチュレンヌの国王軍を破りパリに入城/しかしパリ市民の反発
を買う
1652年8月16日-01:00|オランダ/イギリス| |||プリマス沖でオランダ艦隊36隻が、イングランド艦隊45隻に勝利
1652年8月24日-09:00|日本| ||慶安5年7月21日|若衆歌舞伎禁止公布
1652年9月4日-09:00|日本| ||慶安5年8月02日|村田九郎右衛門、没31才(二代目市村羽左衛門)
1652年9月8日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ゲローラモ・デ・フランキ(~16540908)
1652年9月16日-09:00|日本| ||慶安5年8月14日|幕府が回船救護規則を出す
1652年9月18日-01:00|オランダ/イギリス| |||オランダ艦隊59隻は、ケンティシュ・ノックの海戦でイングランド艦隊68隻に、捕獲2隻、
将兵約2000の損害を受けて敗北
1652年9月21日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治9年8月19日|朝鮮、禁酒令を制定
1652年10月15日-09:00|日本| ||慶安5年9月13日|承応事件/浪人、別木庄左衛門らが増上寺における崇源院法要
での老中襲撃を計画
1652年10月20日-09:00|日本| ||承応1年9月18日|改元され承応元年となる
1652年10月23日-09:00|日本| ||承応1年9月21日|承応事件の別木庄左衛門ら、浅草で磔となる
1652年11月30日-01:00|オランダ/イギリス| |||オランダの88隻の艦隊が、ダンジネス沖の海戦で、イギリスの42隻の艦隊に撃沈
3隻、捕獲2隻の損害を与える勝利
1652年12月21日-09:00|日本| ||承応1年11月21日|幕府、火事が多いため江戸市中の風呂屋に営業時間制限令
1652年12月31日-09:00|日本| ||承応1年12月|関長政:美作宮川18700石/拝領/次に長治が嗣ぐ(-元禄10年備中
新見へ)
1653年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ゲオルグ2世ステファン→同年<即位>モルダヴィア王ヴァジル・ルプ(2度目~1653年
)
1653年-01:00|ベルギー| |||<即位>ベルク公フィリップ・ヴィルヘルム(~1679年)
1653年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがチンスラーに商館を設置
1653年-01:00|ドイツ| |||プロイセン選帝侯ヴィルヘルムと領内のユンカーが相互利益協定
1653年-01:00|スイス| |||ルツェルン、ベルン、ソロトゥルン、バーゼルに属する共同支配地の農民たちが通貨の切り下げに反発し
て蜂起/反乱軍はルツェルンとベルンを囲んだが、やがて和解
1653年1月20日-09:00|日本| ||承応1年12月21日|江戸歌舞伎興行停止、幕府、人形浄瑠璃も三座、小芝居も
1653年1月29日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治10年|朝鮮で太陰暦と太陽暦を結合した時憲暦が施行される
1653年1月29日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・盛徳1年|大越後黎朝8代・神宗が盛徳と改元(-1658)
1653年1月29日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・盛徳1年|大越グェン氏がチヤンパを攻め、カインホア(庚和)を併合
1653年2月3日-01:00|フランス| |||宰相マザランがドイツからパリへ帰還し、5年に及ぶフロンドの乱が終結
1653年2月5日-09:00|日本| ||承応2年1月8日|<改易>平岡頼資:美濃徳野1万石/死後、庶子の新十郎と世子頼重
の間に相続争いが起り、徳野藩は所領没収され廃絶
1653年2月18日-01:00|オランダ/イギリス| |||ポートランド沖の海戦/ドーヴァー海峡でトロンプ艦隊80隻とブレイク艦隊70隻が3
日間にわたって激突/イングランド側が自沈1隻、戦死約300、オランダ側が艦艇17隻を失い、戦死約2000でオランダ大敗
1653年3月6日-09:00|日本| ||承応2年2月7日|参勤交代の従者の人数を制限
1653年3月21日-02:00|トルコ| |||オスマン朝の大宰相タルホンジュ・アフメト・パシャが財政改革に対する反発から暗殺される
1653年3月29日-09:00|日本| ||承応2年3月|幕府、歌舞伎興行の再開を許可。野郎歌舞伎始まる
1653年4月-05:30|インド| |||アーグラ城内のモーティ・マスジッドが完成
1653年4月28日-09:00|日本| ||承応2年4月23日|内藤忠重:老中解任
1653年4月30日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦4月20日|クロムウェルがランプ議会を武力解散し、指名議会が開会される
1653年5月1日-09:00|日本| ||承応2年4月4日|3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院廟落成(栃木県日光市)
1653年5月19日-01:00|ポーランド| |||<即位>チェシン公ボヘミア王フェルディナント(~16540709)
1653年5月31日-01:00|ドイツ/イタリア| |||<即位>ドイツ王・ローマ王(ハプスブルグ朝)フェルディナンド4世[フェルディナント3世の子](~
16540709死去)
1653年6月2日-01:00|オランダ/イギリス| |||(~3日)オランダ艦隊92隻は、ガバード沖の海戦で、イギリス艦隊105隻と来援し
た艦隊18隻の攻撃で、沈没10隻、捕獲11隻の損害を受けて敗退
1700迄(4525件)
1653年7月-01:00|オランダ| |||ヤン・デ・ウィットが、事実上のオランダ共和国首相にあたるホラント州法律顧問に満場一致で選
出された
1653年7月14日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦7月4日|クロムウェルが「聖者の議会」を召集
1653年7月17日-09:00|日本| ||承応2年6月23日|内裏炎上
1653年7月18日-09:00|日本| ||承応2年6月24日|伊達宗利、和霊神社を創建
1653年7月29日-09:00|日本| ||承応2年閏6月5日|酒井忠清:老中就任(-1666年3月29日)
1653年7月31日-01:00|オランダ/イギリス| |||オランダ艦隊85隻はテセル水道に閉じ込められていた31隻と合流し、イングラント
゙艦隊104隻と決戦/トロンプは戦死し、オランダ艦隊は約30隻を失って港へと逃げ帰った
1653年8月1日-09:00|日本| ||承応2年閏6月8日|加藤忠広:無嗣/配所領収公、廃絶/出羽丸岡1万石
1653年8月21日-09:00|日本| ||承応2年閏6月28日|秤座、設置
1653年9月21日-09:00|日本| ||承応2年7月30日|大坂の青物市場が手狭になったため、京橋北詰片原町から天満
に移転
1653年9月23日-09:00|日本| ||承応2年8月02日|暴風雨により安芸で洪水が起こり広島城郭破損、9橋、5140軒が
流出
1653年9月26日-09:00|日本| ||承応2年8月5日|三備・安芸・長門・肥後で大風雨。芸備で500余戸、長門で750余戸、
肥後で2457戸と84160石が被害、死者は5千人を超える
1653年11月20日-09:00|日本| ||承応2年10月|毛利元知:長門清末1万石/拝領/次に元平(匡広)が嗣ぐ(-享保3年
長門長府へ)
1653年11月28日-09:00|日本| ||承応2年10月9日|本多政信:大和郡山分藩/本多勝行の遺領4万石のうち1万石を
分知された
1653年12月3日-09:00|日本| ||承応2年10月14日|<改易>杉原重玄:但馬豊岡1万石/17歳で没したため再び無嗣
廃絶
1653年12月22日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月12日|イギリス、軍指令官クロムウェルらのクーデターで議会は解散
1653年12月26日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月16日|イギリス、ランパートが憲法「統治章典」を読上げる/これによりクロムウ
ェルが護国卿の地位につく
1654年-05:30|インド| |||シャー・ジャハーン時代の正史が成る
1654年-04:00|レユニオン/フランス| |||フランスがブルボン島(レユニオン)を占領
1654年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:メフメト4世ギレイ(~1666年、2期目)
1654年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)コンスタンチン1世(~1658年)
1654年-02:00|南アフリカ/ポルトガル| |||ナタール州のWise Kings要塞が、ポルトガル軍の手に落ちる
1654年-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ勢力がブラジルから撃退される
1654年-01:00|スウェーデン| |||スウェーデン王カール10世(-1660)
1654年-01:00|ドイツ| |||ドイツのゲーリケがマグデブルクの半球実験をおこなう
1654年-01:00|フランス/ハイチ| |||フランス人バカニアがイスパニョラ島の北西部に移住開始
1654年-01:00|アンゴラ/オランダ/ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガル,オランダとの海戦に勝利.ブラジル,アンゴラの植民地を回復
1654年 00:00|ポルトガル/エルサルバドル| |||ポルトガル軍と現地クリオージョのゲリラ,オランダ守備隊を打ち破り西インド会社撤
退に成功/サンサルバドル・デ・バイア(現サルバドル)に首都を定める
1654年 04:00|グレナダ| |||グアドループの地主シャルル・ウェルはグレナダを占拠し,カリブ人を皆殺しにする/カリブ族は,マルティ
ニク島,サンルシア島を一時制圧するなど果敢に反撃
1654年 06:00|アメリカ| |||イロコイ族とエリー族が毛皮交易をめぐり部族間で戦争
1654年 06:00|ニカラグア| |||ミスキート族,ヌエバセゴビア地方を襲撃
1654年1月-01:00|フランス/スペイン/ドミニカ共和国| |||スペイン人がみたびトルトゥーガ島を奪還.フランス人海賊を駆逐
1654年1月4日-09:00|日本| ||承応2年11月16日|玉川上水完成/東京都
1654年1月26日-01:00|オランダ/ポルトガル| |||レシフェのオランダ軍、ポルトガル艦隊に降伏。タボルダ条約締結。オランダはレシフェの
ほかParaiba, Ceara, Rio Grande do Norte, Itamaraca, Fernando de Noronhaなどの植民地も手放すことと
なる
1654年3月14日-09:00|日本| ||承応3年1月26日|松平乗寿:老中解任
1654年4月15日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦4月5日|ロンドンで、イギリスとオランダの間でウェストミンスター条約が締結され、
2年間にわたった第1次英蘭戦争が終結
1654年4月17日-09:00|日本| ||承応3年3月|仙台東照宮創建/宮城県
1654年4月17日-04:00|ロシア/中国/韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治11年3月|清の要請で朝鮮が寧古塔(吉林)に鳥銃兵を
派遣しロシアと戦う
1654年5月-04:00|ロシア/ウクライナ| |||ウクライナ・コサックはモスクワ公国の大公の保護下に入る形で、ポーランドとモスクワ大公国によ
って分割された
1654年5月16日-08:00|中国/韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治11年4月|朝鮮が慶源で中国との開市貿易を再開
1654年5月17日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,ダーダネルス海峡の激戦
1654年6月6日-01:00|スウェーデン| |||<即位>スウェーデン王国国王(プファルツ家)カール10世(~16600213死去37歳)
1654年7月8日 06:00|アメリカ| |||最初のユダヤ人移民がニューアムステルダムに移住
1654年7月9日-01:00|ポーランド| |||<即位>チェシン公皇帝フェルディナント3世(~16570402死去)
1654年7月21日-08:00|中国| |||夜に甘粛、天水地震/M8、死者3万1,000人
1654年8月2日-09:00|日本| ||承応3年6月20日|江戸、玉川上水が完成
1654年9月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月3日|議会が召集され、クロムウェルと軍隊の独裁に対抗
1700迄(4525件)
1654年10月9日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アレッサンドラ・スピノラ(~16561009)
1654年10月30日-09:00|日本| ||承応3年9月20日|110代後光明天皇(22)死去(誕生:寛永10(1633)0312)
1654年12月9日-09:00|日本| ||承応3年11月|京都八坂神社本殿できる
1655年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王セーンムアン(~1659年)
1655年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ヨアン・マニュエル・ド・エスピノーサ(~1663年)
1655年-01:00|オランダ| |||アムステルダムで奢侈禁止令が発布
1655年-01:00|フランス/イギリス| |||フランスとイギリスが同盟
1655年 00:00|モロッコ| |||<即位>マラケシュ政権アフマド・エル・アッバース(~1659年)
1655年 00:00|イギリス/ハイチ| |||イギリス人がトルトゥーガ島を占領
1655年 05:00|ハイチ| |||7千のイギリス軍,エスパニョーラ島を攻撃するも失敗
1655年 05:00|キューバ| |||グランド,サンクティ・スピリトゥスを襲撃
1655年 06:00|アメリカ| |||ニューアムステルダムでピーチ戦争が始まる
1655年1月5日-09:00|日本| ||承応3年11月28日|111代後西天皇践祚/明暦2年1月23日即位~16630126
1655年1月7日-01:00|バチカン| |||インノケンティウス10世死去/80歳(誕生:15740506)。ローマ教皇
1655年1月29日-09:00|日本| ||承応3年12月22日|西尾忠成:駿河田中2万石→1万5千石/叔父忠知に5千石を分知
1655年2月1日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦1月22日|クロムウェルが議会を解散
1655年2月17日-09:00|日本| ||承応4年|幕府が上皇宮規制を出す
1655年2月27日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首フランチェスコ・モリン死去
1655年3月25日-01:00|オランダ| |||オランダのC・ホイヘンスが土星の衛星タイタンを発見
1655年3月27日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第100代カルロ・コンタリーニ(~16560501)
1655年4月18日-01:00|バチカン| |||236代教皇アレキサンドロ七世(-1667年5月22日)
1655年5月-01:00|オランダ/イギリス/ジャマイカ| |||提督ウィリアム・ペンが率いるイギリス軍がジャマイカ島に遠征し、オランダ軍を破
って島を占領
1655年5月6日-09:00|日本| ||明暦1年4月|幕府糸割符制を廃止
1655年5月10日 00:00|イギリス/ジャマイカ| |||イギリス軍,首都ラ・ベガ(スパニッシュタウン)を攻めラ・ベガのスペイン人,イギリス軍に
降伏
1655年5月18日-09:00|日本| ||明暦1年4月13日|改元され明暦元年となる
1655年6月21日-01:00|イタリア| |||ダーダネルス海峡でのラッザーロ・モチェニーゴの勝利
1655年7月25日-01:00|ポーランド/スウェーデン| |||カール10世が率いるスウェーデン軍がポーランドに侵入
1655年7月28日-01:00|フランス| |||シラノ・ド・ベルジュラック死去/36歳(誕生:16190306)。フランスの作家で劇作家
1655年7月29日-09:00|日本| ||明暦1年6月26日|九谷村の陶工、田村権左右衛門が花瓶を焼/九谷焼(古九谷)の
生産が始まる/石川県
1655年8月2日-09:00|日本|龍谷大学|明暦1年7月|幕府の命により西本願寺学寮を破却、以後東中筋魚棚下ル仮屋
の学林で講義を行う
1655年8月30日-01:00|ポーランド/スウェーデン| |||スウェーデン軍がワルシャワを占領
1655年9月1日-09:00|日本| ||明暦1年8月2日|幕府宿駅人馬及び新銭等の制を定む
1655年9月26日-01:00|オランダ/スウェーデン/アメリカ| |||オランダ植民地総督ペトルス・ストイフェサントが、ハドソン川河畔のスウェーデン植
民地を占領
1655年11月9日-09:00|日本| ||明暦1年10月12日|幕府、町民の殺人・窃盗・姦通・放火などに関する市中法度を公
布
1655年12月3日-09:00|日本| ||明暦1年11月6日|<改易>片桐為次:大和竜田1万石/15歳の若さで病死し、嗣子な
く所領を没収され、竜田片桐家は4代で絶える
1656年-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第28代国王サンペット6世チャイ→同年<即位>アユタヤ王朝第29代国王サンペット7世シース
タンマラーチャー(~8.26)
1656年-05:30|スリランカ/オランダ/ポルトガル| |||オランダが、コロンボをポルトガルから奪取
1656年3月-01:00|オランダ| |||ホイヘンスが土星の輪を発見
1656年3月14日-09:00|日本| ||明暦2年2月19日|片桐為次:大和竜田1万石/無嗣廃絶/寛文2年に弟且昭が名跡を
継ぎ3千石
1656年4月13日-09:00|日本| ||明暦2年3月19日|酒井忠勝が大老を退任/高齢のため
1656年4月20日-09:00|日本| ||明暦2年3月26日|<改易>日根野織部正吉明:豊後府内2万石/無嗣廃絶
1656年4月26日-02:00|トルコ| |||オスマン朝でメフメト・キョブリュリュが大宰相に就任
1656年4月30日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首カルロ・コンタリーニ死去
1656年5月-01:00|スウェーデン/ロシア| |||ロシア・スウェーデン間で戦争が開始
1656年5月17日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第101代フランチェスコ・コルネール(~6.5)
1656年5月27日-09:00|日本| ||明暦2年閏4月4日|日根野吉明:豊後府内2万石/71歳で病死し嗣子がなかったた
め断絶/以後2年間幕府の管理下に置かれ
1656年6月5日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第101代フランチェスコ・コルネール
1656年6月15日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国第102代ベルトゥッチョ・ヴァリエル(~16580329)
1656年6月26日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア海軍司令長官ロレンツォ・マルチェッロ、ダーダネルス海峡でトルコを敗走さす。海戦中
戦死
1656年7月29日-01:00|ドイツ/ポーランド/スウェーデン/リトアニア| |||スウェーデンと同盟を結んだブランデンブルク大選帝侯フリードリッ
ヒ・ヴィルヘルムが、ワルシャワでポーランド・リトアニア共和国軍を破る
1700迄(4525件)
1656年8月1日-01:00|イタリア/トルコ| |||タッザーロ・モチェニーゴ、片目を失いながらも、海戦に加わり敵艦隊の完全撃滅
1656年8月7日-07:00|タイ| |||アユタヤ王朝27代サンペット5世プラーサートトーンの後を継いで28代サンペット6世チャイ即位、その後を
継いで29代サンペット7世シースタンマラーチャー(スタンマラーチャー)即位(~1656年)
1656年8月11日-01:00|イタリア| |||<就任>ナポリ王国アマルフィ候エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ(~1673年)
1656年8月22日-09:00|日本| ||明暦2年7月03日|山内忠直:土佐中村3万石/再興/以後豊直(豊定)、豊明(直久)と
続く(-元禄2年若年寄の辞職願いを出したのに対し、謹慎・屋敷没収/所領は宗藩に還付)
1656年8月26日-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第30代国王ラーマーティボーディー3世ナーラーイ(~16880711)
1656年9月-05:30|インド| |||インド、デリーのジャーメ・マスジド完成
1656年9月15日-02:00|トルコ| |||第19代スルタンのメフメト4世が治めるオスマン朝で、優れた政治手腕を持つキョプリュリュ・メフメト・
パシャ(78)が大宰相に就任
1656年9月22日-09:00|日本| ||明暦2年8月5日|板倉重宗:山城・近江→下総関宿5万石/移封/以後重郷、重常(45
千石)(-寛文9年伊勢亀山へ)
1656年9月26日-07:00|タイ| |||アユタヤ王朝29代サンペット7世シースタンマラーチャーの後を継いで30代ラーマーティボーディー3世ナーラーイ即
位(~1688年7月11日)
1656年9月27日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月17日|議会が召集される
1656年10月8日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)ヨハン・ゲオルク2世(~16800901)
1656年10月12日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジウリオ・サウリ(~16581012)
1656年11月6日 00:00|ポルトガル| |||<死去>ポルトガル王国国王ジョアン4世/52歳(誕生:16040319)→<即位>(ブラガンサ
家)アフォンソ6世[ジョアン4世の子](~16830912死去)
1656年11月28日-09:00|日本| ||明暦2年10月13日|幕府が鋳銭所を浅草に設置
1656年12月25日-01:00|オランダ| |||ホイヘンスが振り子時計を発明
1657年-01:00|チェコ| |||<即位>ボヘミア王(ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家)レオポルド1世(~17050505)
1657年-01:00|デンマーク/ポーランド/スウェーデン| |||カール・グスタフ戦争/スウェーデン王カール10世のポーランド、デンマーク遠征(-1660)
1657年-01:00|オランダ/ガイアナ| |||ガイアナのPomeroon川沿いにオランダ植民地が作られる
1657年 00:00|イギリス/ジャマイカ| |||ドイリー将軍,キングストンから船でジャマイカ北岸に上陸.オチョ・リオスの闘いでイサッシ軍を撃
破
1657年2月13日-09:00|日本| ||明暦3年|この年、島原温泉岳噴火し、深江村、中木満村氾濫で家屋流出。死者30余
人
1657年2月13日-09:00|日本| ||明暦3年|森家2代藩主長継が衆楽園完成(岡山県津山市)
1657年2月13日-09:00|日本|駒沢大学|明暦3年|吉祥寺駒込に「学林」移転/中国の名僧・陳道栄が「旃檀林」と命名
1657年2月21日-02:00|南アフリカ/オランダ| |||東インド会社から独立したオランダ人9人がケープに入植開始
1657年3月-05:30|インド| |||アウラングゼーブ率いるムガル軍がビジャーブルに侵攻
1657年3月2日-09:00|日本| ||明暦3年1月18日|明暦の大火(振袖火事)/本郷丸山本妙寺から出火/江戸城の日本
一の天主閣もこの火事で焼失/振袖火事と呼ばれる/死者10万人/霊巌寺、浅草本願寺、吉原遊廓、中村座、市村座
が焼失
1657年3月7日-09:00|日本| ||明暦3年1月23日|朱子学派儒者・林羅山/死去(林家の祖)
1657年3月23日-01:00|フランス/スペイン/イギリス| |||前年スペインに宣戦布告されたイギリスが、フランスとパリ条約を結んでスペ
インに対抗
1657年4月-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||デンマークとスウェーデン間で第1次カール・グスタブ戦争が勃発
1657年4月2日-01:00|チェコ/ドイツ/ハンガリー/ポーランド| |||<死去>ドイツ皇帝・オーストリア大公フェルディナント3世48歳(誕生:1608
0713)
1657年4月2日-01:00|オーストリア/ポーランド/ハンガリー| |||<即位>オーストリア大公(ハプスブルク家)兼チェシン公皇帝レオポルト1世兼ハン
ガリー王国(ハプスブルグ朝)国王リポート1世[フェルディナーンド4世の弟](~17050505死去64歳)
1657年4月4日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦3月25日|議会がクロムウェルの王位推戴を決定/クロムウェルはこれを拒否
1657年4月12日-09:00|日本| ||明暦3年2月29日|幕府、江戸の大火で焼死あるいは溺死し放置されていた10万余
人の霊を回向するため本所牛島新田に埋葬し、万人塚を築き回向院を建立
1657年4月21日-09:00|日本| ||明暦3年3月08日|<改易>山崎治頼:讃岐丸亀4万5千石/8歳で没し、継嗣もなく、丸
亀山崎家は絶える/叔父に5000石安堵
1657年5月25日 00:00|イギリス| |||イギリスで新憲法「謙虚な請願と提案」をクロムウェルが受諾
1657年6月27日-01:00|クロアチア| |||<即位>クロアチア王(ハプスブルグ家)レオポルド1世(~17050505)
1657年7月7日-09:00|日本| ||明暦3年5月26日|酒井忠勝/大老解任
1657年7月18日-09:00|日本| ||明暦3年6月8日|幕府が、宅地転換実施のため割渡奉行を設置
1657年7月19日-01:00|イタリア/トルコ| |||三日間の海戦の後、ラッザーロ・モチェニーゴ戦死。後任はフランチェスコ・モロシーニ
1657年7月20日-09:00|日本| ||明暦3年6月10日|霊巌寺焼失,浅草に移転/中央区
1657年8月-05:30|インド| |||ムガル軍がアーディル・シャーヒー朝からカリヤーニ、バレンダ等を割譲させる
1657年8月27日-09:00|日本| ||明暦3年7月18日|江戸の侠客・幡随院長兵衛が旗本・水野十郎左衛門に殺害され
る
1657年8月30日-09:00|日本| ||明暦3年7月21日|伊達宗純:伊予吉田3万石/父秀宗の封地の内3万石を分与/以後
宗保、村豊、村信、村賢、村芳、宗翰、宗孝、宗敬と続く(-明治4年)
1657年8月31日-09:00|日本| ||明暦3年7月22日|幕府が、かぶき者の禁令をだす(長兵衛事件に関連したものと
推測される)
1657年9月8日-09:00|日本| ||明暦3年8月|吉原遊廓が浅草千束に移転/台東区
1700迄(4525件)
1657年10月7日-08:00|中国| ||南明・永暦11年9月|南明の内紛が激化し、孫可望が李定国との戦いに敗れて清に
投降
1657年11月4日-09:00|日本| ||明暦3年9月28日|稲葉正則:老中就任(-天和1年12月8日)
1658年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王バロム・リアチヤ5世(~1672年)
1658年-04:00|ロシア| |||ロシアがネルチンスクに築城
1658年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ゲオルグ3世(~1659年)
1658年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)ミーニア3世(~1659年)
1658年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ローテンブルク方伯エルンスト1世(~1693年)
1658年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク公(メクレンブルク=シュヴェリーン系)クリスティアン・ルートヴィヒ1世[アドルフ・フリードリヒ1世の息
子](~1692年)
1658年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがバラーナガル、カーシムバーザール等に商館を設置
1658年-01:00|オランダ/スリランカ| |||オランダによる植民地支配開始/ジャフナ地域のタミル人が、オランダに降伏/さらにオランダ
は、マンナルを奪取
1658年-01:00|スペイン/イギリス/ジャマイカ| |||ドイリー将軍,ふたたび北部のスペイン軍を攻撃.イサッシ軍部隊はリオ・ヌエボの闘
いで壊滅
1658年-01:00|オランダ| |||ホイヘンスが振り子の等時性を証明
1658年 05:00|ジャマイカ/パナマ| |||ジャマイカの私掠船モルガン船長,パナマを一時占領
1658年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事ムゼ子爵ピエール・ド・ヴォワイエ・ダルジャンソン(~1661年)
1658年2月-01:00|スペイン/イギリス/ジャマイカ| |||クリストファー・ミングスがジャマイカ駐留英海軍の提督に就任、スペインとの海戦に
勝利
1658年2月2日-08:00|中国| ||南明・永暦12年|谷応泰が「明史紀事本末」を刊
1658年2月2日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・盛徳6年|大越グェン氏がビェンホア(辺和)、バリアを占領
1658年2月3日-09:00|日本| ||明暦4・万治1年|松浦鎮信:領内のキリシタン60人余を梟首する
1658年2月3日-09:00|日本| ||明暦4・万治1年|仙厳園築造(鹿児島県鹿児島市)
1658年2月3日-09:00|日本| ||明暦4・万治1年|土井利直(利勝五男):下野大輪1万石/分知/相続に際し一族に諮
らず養子を立てたとして所領を半分に削られ旗本に
1658年2月26日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||ロースキレの和議/デンマークがスコーネ地方、トロンハイム地方及びボーンホルム島をスウェーテ
゙ンに割譲
1658年3月4日-09:00|日本| ||明暦4年2月|松平忠明:豊後高松2万2千2百石→豊後府内22200石/以後近陳(21200
石)、近禎、近貞、近形、近儔、近義、近訓、近信、近説と続く(-明治4年)
1658年3月4日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・永寿1年2月|後黎朝8代・神宗が永寿と改元(-1662年旧9月)
1658年3月29日-09:00|日本| ||明暦4年2月26日|京極高和:播磨龍野6万石→讃岐丸亀60067石/移封/以後高豊(6
1476石)、高或(51476石)、高矩、高中、高朗、高徹と続く(-明治4年)
1658年3月30日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第102代ベルトゥッチ・ヴァリエール
1658年3月31日-09:00|日本| ||明暦4年2月28日|永井尚庸(尚政三男):河内の内2万石/分知
1658年4月8日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第103代ジョヴァンニ・ペーザロ(~16590930)
1658年5月13日-09:00|日本| ||明暦4年4月11日|山王権現社を溜池に移転
1658年5月29日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ植民地議会がクェーカー教徒の集会を禁止
1658年6月4日-09:00|日本| ||明暦4年5月4日|浅草本願寺が浅草に移転/台東区
1658年6月8日-05:30|インド| |||ムガル皇帝シャー・ジャハーンの息子のアウラングゼーブが父を幽閉
1658年7月-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||デンマーク,スウェーデン戦争再開/第2次カール・グスタヴ戦争
1658年7月9日-09:00|日本| ||明暦4年6月9日|歌舞伎役者初代・中村勘三郎、死去/62歳(誕生:慶長2(1597))
1658年7月18日-01:00|ドイツ/オーストリア/イタリア/チェコ| |||<即位>神聖ローマ皇帝・ドイツ王(ハプスブルグ朝)レオポルド1世[フェルデ
ィナント3世の子.ボヘミア・ハンガリー王・チェシン公](~17050505死去)
1658年7月30日-09:00|日本| ||明暦4年7月|狂歌師中川喜雲の著作で最初の京名所記『京童』が刊行された
1658年7月31日-05:30|インド| |||<即位>ムガル帝国第6代パーディシャー:アウラングゼーブ(アーラムギール)(~17070303死去88歳)
1658年8月5日-09:00|日本| ||明暦4年7月7日|植村家貞:大和高取2万5千石→2万2千石/3千石を弟政春に分知
1658年8月15日-01:00|ドイツ| |||中部ラインと北西ドイツの領邦がライン同盟を結成
1658年8月21日-09:00|日本| ||万治1年7月23日|多難だった"明暦"を万治元年とあらためる
1658年8月29日-09:00|日本| ||万治1年8月|東京都 江戸城清水門再建
1658年9月13日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月3日|<死去>イギリスの護国卿クロムウェル/59歳(誕生:15990425)→<就任>インク
゙ランド護国卿リチャード・クロムウェル[オリバー・クロムウェルとエリザベス・ボルチアの男子](~16590507)1712071285歳
1658年10月3日-09:00|日本| ||万治1年9月07日|土井利益(利隆二男):常陸下妻1万石/分知
1658年10月4日-09:00|日本| ||万治1年9月8日|幕府、初めて定火消役を設置
1658年10月14日-01:00|イタリア| |||<即位>モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)アルフォンソ4世(~16620716死去)
1658年10月15日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・セントゥリオーネ(~16601015)
1658年11月5日-09:00|日本| ||万治1年10月10日|<改易>北条氏重:遠江掛川3万石/無嗣廃絶
1658年12月24日-08:00|中国| ||清・順治15年12月|清朝が呉三桂らに命じ雲南に侵攻、桂王は西へ逃走
1659年-07:00|タイ| |||ラーンナー王朝セーンムアンの後、プレーの国主が治める(~1672年)
1659年-05:30|インド| |||マイソール王国ドッダ・デーヴァ・ラージャはカンダハルとベッラヴァッタを征服
1659年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王コンスタンチン・セルバン→同年<即位>モルダヴィア王ステファン10世ルプ(2度目~1661
年)
1700迄(4525件)
1659年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公ゲオルグ1世(~1660年)
1659年-02:00|南アフリカ/オランダ| |||南アフリカで第一次コイ・コイン-オランダ人戦争が勃発
1659年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)クリスチャン・アルブレクト(~1694年)
1659年-01:00|フランス/スペイン| |||西仏間,戦争状態となる
1659年-01:00|アルジェリア/トルコ| |||アルジェリアでオスマン総督に対する反乱がおこる
1659年-01:00|フランス/スペイン/ハイチ| |||サンドマング総督ジェレミ・デュ・ロセはトルチュー島をスペインから奪回
1659年-01:00|フランス/ハイチ| |||フランス人がトルトゥーガ島に植民
1659年-01:00|オランダ| |||ホイヘンスが振り子時計を発明
1659年-01:00|イタリア| |||モナコ公国成立
1659年 00:00|ガーナ| |||デンキーラがアダンシを破る
1659年 00:00|セネガル/フランス| |||フランスが西アフリカでサン・ルイを建設
1659年 00:00|モロッコ| |||モロッコのサード朝が滅亡し、フィラール朝が支配
1659年1月11日-09:00|日本| ||万治1年12月19日|千宗旦(茶道家)死去
1659年1月23日-08:00|中国/ミャンマー| ||清・順治16年;南明・永暦13年1月|清軍が昆明を占領し、南明の永歴帝は緬
甸(ビルマ)へ逃亡
1659年2月16日-02:00|シリア・アラブ/トルコ| |||オスマン朝に反旗を翻したシリア総督アバザ・ハサン・パシャらがオスマン朝軍に殺害さ
れる
1659年2月22日-09:00|日本| ||万治2年|福井藩主松平光通が松平家の菩提寺として大安禅寺創建(福井県福井
市)
1659年2月25日-09:00|日本| ||万治2年1月4日|江戸上野で初の「消防出初め式」が行われる
1659年3月-05:30|インド| |||ムガル朝アウラングゼーブが寺院の新築禁止令を発令
1659年3月21日-09:00|日本| ||万治2年1月28日|井伊直好:三河西尾→遠江掛川35千石/以後直武、直朝、忠喬(信
濃飯山→4万石)と続く(-正徳1年摂津尼崎へ)
1659年3月23日-09:00|日本| ||万治2年2月|増山正利:相模高座郡1万石→三河西尾2万石/移封/次に[寛文2年9
月]正弥(-寛文3年常陸下館へ)
1659年4月21日-09:00|日本| ||万治2年2月30日|会津・下野で地震、猪苗代城の石垣崩れる、南会津で人家多数倒
壊、死者多数
1659年5月22日-09:00|日本| ||万治2年4月02日|福井城下で大火,高知屋敷や町家約1700軒を焼失
1659年5月29日-05:30|インド| |||アウラングゼーブがアーグラ近郊でダーラー・シュコーを破る
1659年6月3日-09:00|日本| ||万治2年4月14日|御水尾上皇の山荘・修学院離宮が京都比叡山山麓に完成
1659年6月4日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月25日|リチャード・クロムウェル護国卿解任
1659年6月5日-05:30|インド| |||ムガル朝のアウラングゼーブが正式に即位
1659年6月7日-09:00|日本| ||万治2年4月18日|阿部正春:上総大多喜1万6千石→岩槻11万5千石/相続
1659年6月23日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治16年5月4日|朝鮮国王孝宗が崩御
1659年6月28日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・順治16年5月9日|朝鮮第18代国王顕宗が即位(-1674)
1659年7月31日-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国(オデヤ朝)ナラサー・ラージャ1世→<即位>ドッダ・デーヴァ・ラージャ[甥](~1
6730211)
1659年8月4日-09:00|日本| ||万治2年6月16日|生駒高清:出羽矢島1万石/拝領/以後親興、正親、親猶、親賢、親信
、親睦、親章、親孝、親愛、親道と続く(-安政2年)
1659年8月9日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで恐ろしい破壊的暴風雨、500隻以上のゴンドラ沈む。800本の煙突倒れる。
家屋、館倒壊
1659年9月5日-09:00|日本| ||万治2年7月19日|道中奉行設置
1659年9月9日-08:00|中国| ||清・順治16年;南明・永暦13年7月23日|南京を包囲していた鄭成功が、観音山の戦
いで清軍に敗れて南京攻略に失敗
1659年9月19日-09:00|日本| ||万治2年8月3日|江戸城本丸が復興/織田信長以来作られていた天守閣は再建さ
れなかった
1659年9月30日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第103代ジョヴァンニ・ペーザロ
1659年10月16日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第104代ドメニコ・コンタリーニ(~16750126)
1659年10月20日-09:00|日本| ||万治2年9月05日|敦賀川向漁師町から出火,298軒焼失
1659年10月22日-01:00|オランダ| |||オランダの航海者タスマン/死去/タスマニア・ニュージーランド発見
1659年11月17日-01:00|フランス/スペイン| |||ピレネー条約が結ばれ、スペインとフランスの間の国境がピレネー山脈に画定/スペイン
が事実上敗北
1659年11月17日-01:00|フランス/スペイン/ハイチ| |||フランス私兵団,エスパニョーラ島の西部(現ハイチ)を占拠
1659年11月18日-01:00|フランス| |||モリエールの風刺的風俗喜劇「プレシューズ」がプティ・ブルボン劇場で上演される
1659年12月25日-09:00|日本| ||万治2年11月12日|幕府が寛永寺・増上寺・伝通院・智楽院の境内・門前・寺領およ
び代官支配地の開発・家屋建築を禁止し、明暦の大火後に建てられた家屋を取り壊される
1660年-08:00|ブルネイ| |||ブルネイ国王13代アブドゥル・ムビン即位(~1673年)
1660年-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国ドッダ・デーヴァ・ラージャはジンナガルとアムリトゥールを征服
1660年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公グリゴレ1世(~1664年)
1660年-01:00|スペイン/コスタリカ/ハイチ| |||スペイン軍,四回目のトルトゥーガ掃討作戦/婦女子をふくむみな殺し作戦を展開/
トルトゥーガの残党は本島側のポ-ル・ド・ぺを占拠
1660年-01:00|スペイン/フィリピン| |||フィリピン各地でスペイン支配に対して反乱が勃発
1700迄(4525件)
1660年-01:00|フランス/マルティニーク| |||フランス人,マルティニクに残存するカリブ人殲滅作戦を開始.結局,抵抗を押さえること
ができず,和平を結ぶ.カリブ族はドミニカ島,サンバンサン島での居住を認められる
1660年 00:00|イギリス/ジャマイカ| |||ボラス,イサッシと離反しイギリス軍につく.ボラスの攻撃を受けたイサッシは抵抗を断念.カヌ
ーでキューバに逃れる
1660年 03:00|ブラジル| |||この頃,サンフランシスコ川下流に広がるバリーガ山地(アラゴアス州北部からペルナンブコ州南部にか
けての一帯)のキロンボがパルマレス連合王国を結成
1660年 06:00|ホンジュラス| |||海賊がホンジュラスのプエルト・カバーリョスを襲撃.町を焼き払った後,さらに内陸部に進出.サン
ペドロ・スーラを占拠
1660年1月25日-09:00|日本| ||万治2年12月13日|武蔵と下総を結ぶ両国橋が完成
1660年2月2日-01:00|フランス| |||<即位>オルレアン公(ブルボン=オルレアン家)フィリップ1世(~17010608)
1660年2月6日-09:00|日本| ||万治2年12月25日|玉川上水より引き水する武家屋敷に水道料を賦課し維持費に
あてる
1660年2月11日-09:00|日本| ||万治3年|讃岐国丸亀藩主京極高和が藩領内の金刀比羅宮の分霊を藩邸があった
芝三田の地に勧請し虎ノ門金刀比羅宮創建/東京都
1660年2月13日-01:00|スウェーデン| |||<即位>スウェーデン王国国王(プファルツ家)カール11世(~16970405死去41歳)
1660年2月13日-01:00|スウェーデン| |||<退位>スウェーデン王カール10世グスタフ
1660年2月24日-09:00|日本| ||万治3年1月14日|湯島天神そばから出火、中村座、村山座焼失
1660年2月24日-09:00|日本| ||万治3年1月14日|名古屋城下大火災。死者16名、焼失家屋2,856戸
1660年4月3日-09:00|日本| ||万治3年2月23日|幕府が防火のため、市中に家屋建築規制を出す/藁ぶき・茅ぶき
の屋根には土を塗るなどの内容
1660年4月9日-09:00|日本| ||万治3年2月29日|幕府が江戸城の防火令を出す
1660年4月23日-01:00|ポーランド/スウェーデン/リトアニア| |||スウェーデンとポーランド・リトアニア共和国が、オリーヴァの和約を結び、戦
争が終結/スウェーデンは占領していた貿易港をポーランドに返還/ポーランドはスウェーデンへの王位要求権を放棄/リヴォニア及
びリガのスウェーデン領の確定(スウェーデンの主権を確認)/ブランデンブルク=プロイセンとハプスブルク家のポンメルンからの撤退の合
意/プロシア公領がポーランド・リトアニア共和国から独立
1660年4月24日 05:00|ペルー| |||ペルーでミタ労働の改革をすすめたデ・クルスが暗殺される
1660年5月10日-01:00|イタリア| |||ジプシー、ヴェネツィアから追放
1660年5月18日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月8日|王政復古/仮議会がチャールズ2世の即位を宣言
1660年5月27日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||コペンハーゲン条約が結ばれてスウェーデン・デンマーク戦争が終結/スウェーデンはトロ
ンハイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還/スコーネ地方のスウェーデン領の確定/デンマーク海軍のバルト海でのスウェーデンに対す
る示威行為の禁止
1660年6月8日-09:00|日本| ||万治3年5月|「森田座」森田太郎兵衛、森田勘彌、木挽町に開場
1660年6月8日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月29日|大陸に亡命していたチャールズ2世がイギリス国王に即位し、王政復古
が成される(~16850206死去54歳)
1660年6月9日-01:00|フランス/スペイン| |||ルイ14世とスペインの王女マリア・テレサが結婚
1660年7月24日-02:00|トルコ| |||イスタンブールで大火災が発生し、49時間燃え続ける/焼け死者は3000人以上でイスタンブ
ールの大半が灰となる
1660年7月25日-09:00|日本| ||万治3年6月18日|大坂城内の火薬庫に落雷し、大火となって城と町屋1500軒が損
壊
1660年8月6日-01:00|スペイン| |||スペインの画家ベラスケス死去/61歳(誕生:15990606)
1660年8月13日-09:00|日本| ||万治3年7月08日|富山藩は加賀藩と領地交換し、富山を富山藩の領地とした
1660年8月23日-09:00|日本| ||万治3年7月18日|幕府が仙台藩主伊達綱宗に不行跡を理由に逼塞を命じる(伊達
騒動の始り)
1660年9月17日-01:00|フランス/イタリア| |||カンディア城壁の下でアルメーゴ・デステのフランス軍の敗北
1660年9月29日-09:00|日本| ||万治3年8月25日以降|伊達宗勝:陸奥一関3万石/拝領(-寛文11年家臣争論により
改易)
1660年9月29日-09:00|日本| ||万治3年8月25日以降|田村宗良(伊達忠宗の三男):陸奥岩沼3万石/拝領/次に建
顕が嗣ぐ(-天和1年陸奥一関へ)
1660年9月29日-09:00|日本| ||万治3年8月25日|徳川家綱が伊達騒動を裁断し、伊達綱村に襲封を命じる
1660年10月28日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジャン・ベルナルド・フルゴーニ(~16610322)
1660年11月28日 00:00|イギリス| |||ロイヤルソサエティの前身がロンドンで発足
1660年12月 03:00|ブラジル| |||リオの砂糖キビ農園の植民者,ラム酒製造の禁止,貿易の本国独占などの戦後の処遇
に不満.知事の免職を宣言し反乱
1660年12月6日-09:00|日本| ||万治3年11月3日|<改易>堀田上野介正信:下総佐倉10万石/幕府に諫書信濃飯田
に幽閉廃絶
1660年12月11日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1660/12/1|イギリス議会が第一次航海条例を改定
1661年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王コンスタンチン・セルバン(2度目)→同年<即位>モルダヴィア王ユーストラティー・ダビヤ(~1
665年)
1661年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=イッター方伯ゲオルク3世[ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の次男](~1676年1代で断
絶)
1661年-01:00|フランス| |||上ロレーヌ公ニコラ2世が退位、シャルル4世(3世)復位(~1675年9月18日)
1661年-01:00|デンマーク| |||デンマークで絶対王政成立
1700迄(4525件)
1661年-01:00|オランダ/ポルトガル| |||ポルトガルとオランダとの間で和平条約が結ばれた
1661年 00:00|イギリス/タイ| |||イギリスがアユタヤの商館を再開
1661年 00:00|イギリス/アンティグア・バーブーダ| |||イギリス人がバーブーダ島に入植地を建設
1661年 00:00|ポルトガル/イギリス/インド| |||インド、ボンベイ島がポルトガルからイギリスに譲渡
1661年 00:00|イギリス| |||ボイルが「懐疑的な化学者」を刊
1661年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス知事ダバウガー男爵ピエール・デュボワ・ダバウガー(~1663年)
1661年 06:00|アメリカ| |||ヴァージニア法が制定され、黒人奴隷制度が成立/黒人奴隷を終身制とし,白人奉公人と差
別
1661年1月28日-09:00|日本| ||万治3年12月28日|五島盛勝:福江12530石/五島盛清:富江藩に3000石分知
1661年1月31日-09:00|日本| ||万治4・寛文1年|羽黒山表参道石段完成(2446段)/山形県
1661年2月3日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国の天文学者ヘヴェリウスが彗星153P(池谷・張彗星)発
見/複数回回帰し周期彗星番号がついた唯一の長周期彗星
1661年2月6日-08:00|中国| ||清・順治18年1月8日|清の皇帝世祖順治帝が天然痘で没/23歳(誕生:1638)
1661年2月8日-08:00|中国| ||清・順治18年1月10日|清4代目、6歳の聖祖康熙帝が即位(-1722)
1661年2月14日-09:00|日本| ||万治4年1月15日|京で火災/内裏・仙洞御所および公家屋敷百余が焼失
1661年2月26日-09:00|日本| ||万治4年1月27日|江戸鷹匠町より出火、山村座、森田座焼失
1661年3月9日-01:00|フランス| |||マザラン(フランス宰相)死去[1602年07月14日生~](享年58)
1661年3月28日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アントニオット・インヴレア(~16630329)
1661年4月10日 03:00|ブラジル| |||リオ・ジェロニモ・バルバーリョ,植民地の重税に反対し反乱を起こす
1661年4月10日-09:00|日本| ||万治4年3月11日|幕府がオランダ人に新条令を渡す
1661年4月28日-09:00|日本| ||万治4年3月29日|伊達堀(今の神田川)完成期間は10か月
1661年4月30日-01:00|オランダ/台湾| ||南明・永暦15年4月2日|明の遺臣鄭成功が、台湾でのオランダの根拠地ゼーランシ
゙ア城とプロヴァンチア城の攻略を開始
1661年5月2日-08:00|台湾| ||南明・永暦15年4月4日|明の遺臣鄭成功が、プロビンシア城攻略
1661年5月3日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1661/4/23|イギリス王チャールズ2世が、ロンドン塔から始める即位式の行列を復
活
1661年5月9日-09:00|日本| ||万治4年4月11日|小石川溝渠が完成
1661年5月18日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1661/5/8|イギリスで騎士議会が始まる
1661年5月23日-09:00|日本| ||寛文1年4月25日|「寛文」に改元
1661年5月28日-09:00|日本| ||寛文1年5月|明から渡来した隠元隆琦が,幕府より宇治の地を与えられ,黄檗山
万福寺を創建/京都府宇治市
1661年5月29日-08:00|台湾| ||南明・永暦15年5月2日|鄭成功がプロヴァンチア城に承天府を築く
1661年6月 03:00|ブラジル| |||リオの反乱者,総合会社の派遣した軍との市街戦のすえ敗北
1661年6月3日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王ピエ[前王の兄弟](~16720414)
1661年6月8日-09:00|日本| ||寛文1年5月12日|幕府が、再び銭貨の価格、新銭鋳造に関する禁規を出す
1661年6月11日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世[ゲオルク2世の息子](~16780424死去)
1661年6月21日-01:00|スウェーデン/ロシア| |||ロシアとスウェーデンがガルディスの講和/ロシアのバルト海沿岸からの撤退
1661年7月 00:00|ポルトガル/イギリス/インド| |||イギリスとポルトガルの条約でボンベイがイギリスに割譲
1661年7月2日-09:00|日本| ||寛文1年6月6日|江戸本所の新溝渠が完成
1661年7月9日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ツヴァイブリュッケン公(プファルツ=ツヴァイブリュッケン家)フリードリヒ・ルートヴィヒ(~168
10411死去)
1661年8月25日-09:00|日本| ||寛文1年8月|江戸桐座開場
1661年8月25日-09:00|日本| ||寛文1年8月|松平乗久:上野館林5万5千石→下総佐倉6万石(-延宝6年肥前唐津へ
)
1661年8月25日-08:00|中国| ||清・順治18年8月|清が遷界令を発布し、沿岸住民を内地へ移動
1661年8月25日-09:00|日本| ||寛文1年8月1日|幕府が関所女手形制を布令
1661年8月27日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア海軍司令長官ジョルジョ・モロシーニ、ミロでトルコを破る
1661年9月5日-01:00|フランス| |||フランスの財務長官のニコラ・フーケ(46)が、公金横領の罪で逮捕され失脚
1661年9月16日-09:00|日本| ||寛文1年8月23日|九州太宰府天満宮の大鳥居信祐が亀戸天神社創建(亀戸天神、
亀戸天満宮)/東京都
1661年10月2日-09:00|日本| ||寛文1年閏8月9日|徳川綱吉:上野館林25万石/拝領(-延宝8年五代将軍へ)/次に
徳松が嗣ぐ(-天和3年無嗣断絶)
1661年10月2日-09:00|日本| ||寛文1年閏8月9日|徳川綱重(徳川家光の三男):甲斐甲府25万石/拝領/次に綱豊(
35万0804石)が嗣ぐ(-宝永1年6代将軍に就任)
1661年10月23日-09:00|日本| ||寛文1年9月|松平頼元(水戸藩徳川頼房の四男):常陸額田2万石/拝領/次に頼貞
が嗣ぐ(-元禄13年常陸守山へ)
1661年10月29日-02:00|トルコ| |||オスマン朝の大宰相キョブリュリュ・メフメト・パシャが没、息子のファーズル・アフメト・パシャが大宰相に
1661年11月17日-09:00|日本| ||寛文1年9月26日|松平頼隆(水戸藩徳川頼房の五男):常陸保内2万石/拝領(-元
禄13年常陸府中へ)
1661年12月18日-09:00|日本| ||寛文1年10月27日|岡部行隆:和泉岸和田6万石→5万3千石/襲封/弟高成に5千石
,豊明に2千石を分与
1661年12月19日-09:00|日本| ||寛文1年10月28日|中村座、山村座焼失
1700迄(4525件)
1661年12月22日-09:00|日本| ||寛文1年11月|(~翌年始め)『河内通』二代目玉川千之丞、ロングラン
1661年12月29日-09:00|日本| ||寛文1年11月08日|渡辺吉綱:武蔵野本13500石/拝領/以後方綱、基綱と続く(-元
禄11年和泉大庭寺へ)
1662年-01:00|フランス| |||<即位>ヴュルテンベルク=メンペルガルト(モンベリアル)公ゲオルク2世[レオポルト・フリードリヒの弟](~1699年)
1662年-01:00|デンマーク/アイスランド| |||アイスランドがデンマークの支配下におかれる
1662年-01:00|スペイン/インドネシア| |||スペインがモルッカ諸島を放棄
1662年 00:00|イギリス| |||ロバート・ボイルが、気体の体積は圧力に反比例するというボイルの法則を発見
1662年 05:00|キューバ| |||英国人海賊グラント,サンチアゴを襲撃.市内で略奪行為
1662年 06:00|アメリカ| |||ミングス提督,カンペチェ湾のサンフランシスコを占領し略奪
1662年1月 00:00|イギリス| |||イギリスでロイヤルソサエティが設立
1662年1月 00:00|イギリス| |||ジョン・グラントが「死亡表」の統計を発表
1662年1月10日-01:00|モナコ| |||<即位>モナコ大公ルイ1世(~17010102)
1662年1月20日-08:00|中国/ミャンマー| ||清・順治18年12月|呉三桂率いる清軍がビルマに侵攻し、永歴帝を捕縛
1662年2月1日-09:00|日本| ||寛文1年12月13日|板倉重形(重宗二男):摂津嶋下郡内1万石/分知
1662年2月1日-01:00|オランダ/台湾| ||南明・永暦15年12月13日|オランダが鄭成功に投降
1662年2月18日-08:00|中国| ||清・康熙1年1月1日|清・康熙と改元
1662年2月19日-09:00|日本| ||寛文2年|芦之湯・松坂屋本店創業/神奈川県
1662年2月19日-09:00|日本| ||寛文2年1月|長崎で天然痘流行、3月までに死者が2千人を超える
1662年3月20日-09:00|日本| ||寛文2年2月|儒学者伊藤仁斎が堀川下立売上るに私塾を開いた(古義堂)
1662年3月25日-09:00|日本| ||寛文2年2月6日|松平信綱:老中解任
1662年4月10日-09:00|日本| ||寛文2年2月22日|幕府が若年寄を再置し、側衆久世広之・土屋数直を任じる
1662年4月18日-09:00|日本| ||寛文2年2月30日|江戸幕府が老中・若年寄の任務を定める
1662年5月15日-09:00|日本| ||寛文2年3月27日|<改易>伊丹勝長:甲斐徳美1万石/代官に殺害される/子に1万石
安堵
1662年5月27日-09:00|日本| ||寛文2年4月10日|幕府が若年寄を再置し、側衆(そばしゅう)久世広之・土屋数直
を任じる
1662年5月29日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1662/5/19|礼拝統一令が議会で承認される/1000人の清教徒が聖職か
ら追放されることになる
1662年6月1日-08:00|中国| ||南明・永暦16年4月15日|南明最後の皇帝永暦帝が呉三桂により処刑され南明滅亡
1662年6月6日-09:00|日本| ||寛文2年4月20日|<改易>本多政信:大和山内1万石/無嗣廃絶
1662年6月16日-09:00|日本| ||寛文2年5月1日|山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・
三河・信濃で地震、亀山・篠山・尼崎・膳所の城が倒壊、方広寺の大仏が倒壊/大溝で死37/彦根で死30余/榎村で死
300,所川村で死260余/京都で死200余など
1662年6月23日-08:00|台湾| ||南明・永暦16年5月8日|鄭成功が台湾で没/37歳(誕生:16240827)明朝再興を目指
した武人/「国姓爺」と言われた
1662年7月-04:00|ロシア| |||モスクワで「銅一揆」がおこる
1662年7月11日-09:00|日本| ||寛文2年5月26日|竹田芝居、道頓堀に開場
1662年7月16日-01:00|イタリア| |||<即位>モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)フランチェスコ2世(~1694年)
1662年7月19日-09:00|日本| ||寛文2年6月4日|酒井忠能:上野伊勢崎→信濃小諸3万石/加増移封(-延宝7年駿河
田中へ)
1662年7月25日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦7月15日|イギリスで、王立協会(ローヤル・ソサイェティ)が設立される
1662年7月29日-09:00|日本| ||寛文2年6月14日|日光,稲荷川の大洪水/目付代・田中高成をはじめ、同心10人、町
人148人が死亡
1662年8月19日-01:00|フランス| |||フランスの数学者・哲学者ブレーズ=パスカル死去/39歳(誕生:16230619)計算機の原型を
考えた
1662年9月29日-01:00|イタリア/トルコ| |||オスマン艦隊、スタンキオ付近で撃破される
1662年10月6日-09:00|日本|東急百貨店|寛文2年8月24日|近江長浜の材木商大村彦太郎が江戸日本橋に間口一間
半の小間物店「白木屋」創業(→東急百貨店)/東京都
1662年10月12日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・万慶1年9月|大越後黎朝8代・神宗が万慶と改元
1662年10月31日-09:00|日本| ||寛文2年9月20日|日向・大隅地震/M7.6、死者多数
1662年11月2日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・万慶1年9月22日|大越後黎朝8代・神宗崩ず
1662年12月11日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・万慶1年11月|大越後黎朝9代・玄宗が即位(-1671)
1662年12月26日-09:00|日本| ||寛文2年11月16日|幕府が金銀の相場の令を出す
1662年12月29日-01:00|フランス| |||モリエールの「女房学校」がパレ・ロアイヤルで上演される
1662年12月30日-01:00|オーストリア| |||オーストリア大公(前方オーストリア大公)ジギスムント・フランツ即位(~1665年6月25日)
1663年-05:30|インド| |||マイソール王国ドッダ・デーヴァ・ラージャはハッサンとサッカレパッタナを攻略し、ビダヌールを首都とするケラデ
ィ・ナーヤカ朝に対しては貢納を命じた
1663年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第16代ハン:アヌーシャ[アブル=ガーズィーの子](~1685年)
1663年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=フィリップスタール方伯フィリップ[ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の三男]((~1721年)
1663年-01:00|アンゴラ| |||アン・デ・スーザが没する。アンゴラ王国を40年にわたって支配してきた女王
1663年-01:00|オランダ/ポルトガル/インド| |||オランダがコーチンをポルトガルから奪取
1663年 00:00|イギリス/セントルシア| |||イギリスがセントルシア島を占領、以後、フランスと争奪戦をくりかえす
1700迄(4525件)
1663年 00:00|イギリス| |||イギリスでターンパイクができる
1663年 00:00|イギリス/バルバドス| |||バルバドス島がイギリス王領となり、以後イギリス人海賊の拠点となる
1663年 00:00|イギリス| |||ロバート・ボイルが鉱物の蛍光現象を発見(熱ルミネッセンス)
1663年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督オーガスティン・ド・サフレー・ド・メシー(~1665年)
1663年1月-01:00|ドイツ| |||ドイツでレーゲンスブルグの永久議会が開く
1663年1月4日-09:00|日本| ||寛文2年11月25日|本多忠以:陸奥浅川1万石//兄の白河藩主忠平より分地/次に忠
晴が嗣ぐ(-天和1年三河伊保へ)
1663年1月4日-09:00|日本| ||寛文2年11月25日|本多忠利:陸奥石川1万石/兄の白河藩主忠平より分地(-天和1
年三河挙母へ)
1663年1月25日-09:00|日本| ||寛文2年12月16日|伊勢で大火、津城本丸などが焼失
1663年2月 06:00|ホンジュラス| |||ミングス提督、14隻1400人からなる最大の海賊艦隊を編成、ホンジュラスのサンフランシスコ・デ・
カンペチェを攻略
1663年2月8日-09:00|日本| ||寛文3年|江戸城桜田門完成/東京都
1663年2月8日-09:00|日本| ||寛文3年|池田政直:因幡鹿野→播磨福本1万石/次に政武が嗣ぐ
1663年2月8日-08:00|中国| ||清・康熙2年|考証学者黄宗羲が政治論「明夷待訪録」を完成
1663年2月8日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・景治1年1月1日|大越後黎朝9代・玄宗が景治と改元(-1671)
1663年2月24日 06:00|カナダ| |||カナダがフランス王権の直接支配下に置かれる
1663年3月5日-09:00|日本| ||寛文3年1月26日|111代後西天皇譲位/112代霊元天皇践祚/4月27日即位~1687032
1
1663年3月17日-09:00|日本| ||寛文3年2月8日|稲葉正則:相模小田原8万5千石→9万5千石/伊豆・相模・武蔵三国
1万石を加増
1663年3月21日-01:00|フランス/カナダ| |||カナダで百人会社が特許状の権利を放棄し、国王直轄地となる
1663年4月 06:00|カナダ| |||ヌーヴェル・フランスに最高評議会を設置
1663年4月3日 00:00|イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦3月24日|イギリス国王チャールズ2世が、王政復古に功のあった8人に、アメリカ
のヴァージニアからフロリダに至るるカロライナ地方を与える
1663年4月13日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ステファノ・デ・マリ(~16650412)
1663年4月18日-01:00|オーストリア/トルコ| |||オスマン朝がオーストリアに宣戦布告
1663年6月6日-09:00|日本| ||寛文3年5月01日|京で地震。行宮・法室新院皆壊れる
1663年6月28日-09:00|日本| ||寛文3年5月23日|武家諸法度を改定/殉死を禁止
1663年7月1日-01:00|オランダ/中国/台湾| ||清・康熙2年5月26日|鄭経軍が金門島で清、オランダ連合軍に大敗
1663年7月5日-09:00|日本| ||寛文3年6月|花火の製造,販売禁止
1663年7月16日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム7世[ヴィルヘルム6世の上の息子](~16701121)
1663年7月27日 00:00|イギリス| |||イギリス議会が第二次航海条例を制定
1663年8月3日-09:00|日本| ||寛文3年7月|笠原水道完成/茨城県
1663年8月3日-09:00|日本| ||寛文3年7月|増山正弥(那須資弥の長男):三河西尾→常陸下館23千石(-元禄15年
伊勢長島へ)
1663年8月3日-09:00|日本| ||寛文3年7月|土井利長:下野の内→三河西尾23千石/以後[天和1年4月]利意[享保9
年6月]利庸[享保19年6月]利信(-延享4年三河刈谷へ)
1663年8月16日-09:00|日本| ||寛文3年7月14日|有珠山噴火。死者5人
1663年9月14日-09:00|日本| ||寛文3年8月13日|土佐国に専売反対一揆が起こる
1663年9月16日-09:00|日本| ||寛文3年8月15日|久世広之:老中就任(-延宝7年6月25日)
1663年10月31日-08:00|中国| ||清・康熙2年10月|清軍が厦門・金門を占領
1663年12月18日-09:00|日本| ||寛文3年11月19日|尾張藩徳川光友が、領内のキリスト教徒207人を処刑
1663年12月24日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1663/12/14|(英)ギニー金貨登場
1663年12月29日-08:00|中国| ||清・康熙2年12月|四川の十三家軍の抗清運動が鎮圧される
1664年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)ラドゥー12世レオン(~1669年)
1664年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教メルシオール・パラウ・イ・ボスカ(~1670年)
1664年-01:00|フランス| |||東洋での貿易のためにフランス東インド会社が創立
1664年-01:00|フランス| |||インド洋上ブルボン島(レユニオン)がフランス領となった
1664年-01:00|オランダ/ブラジル| |||オランダ,最終的にペルナンブコを撤収
1664年-01:00|フランス/ハイチ| |||スペイン領ヒスパニオーラ島の西半分にサン・ドマング(現・ハイチ)創設
1664年-01:00|イタリア| |||モナコ公国成立
1664年 00:00|シエラレオネ/オランダ/イギリス| |||タッソ島にあるイギリスの城砦がオランダのド・リュイテル提督に攻撃される
1664年 06:00|ニカラグア| |||英国人海賊ジャックマンとモリス,カンペチュ湾を襲撃.ビリャ・デ・モサに上陸した後,トルヒージョを攻撃
1664年 06:00|ホンジュラス/ジャマイカ| |||ジャマイカの私掠船隊,ホンジュラスのカンペチェを襲撃し略奪
1664年1月-05:30|インド| |||インド、シヴァージーがスーラト掠奪
1664年1月18日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フローニンゲン州・フリースラント州総督ディーツ侯ヘンドリック・カシミール
2世[ディーツ侯ウィレム・フレデリックの子](~16960325死去39歳)
1664年1月28日-09:00|日本| ||寛文4年|この年、琉球で大地震。海嘯で家屋多く覆没。死者多数
1664年1月28日-09:00|日本| ||寛文4年|加賀藩主・前田利常の息女で安芸藩主・浅野吉長夫人の寄進によって雑
司ケ谷鬼子母神堂創建/東京都
1664年1月28日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙3年|朝鮮の咸鏡道で綿花栽培が始まる
1700迄(4525件)
1664年3月27日-08:00|中国| ||清・康熙3年3月|清軍が厦門(アモイ)を攻略/鄭経は福建沿海の島嶼を放棄し澎湖・
台湾に全面撤退
1664年5月15日-09:00|日本| ||寛文4年4月20日|雲仙岳が大噴火/前山が崩壊、津波発生/溺死者100余人
1664年5月27日-09:00|日本| ||寛文4年5月|戸田忠治:三河田原1万石→肥後富岡2万1千石/移封(-寛文11年関東
へ)
1664年6月2日-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ロレーヌ家)ルイ・ジョゼフ(~16710730死去)
1664年6月3日-09:00|日本| ||寛文4年5月9日|三宅康勝:三河挙母1万2千石/幕府領に→三河田原1万2千石/以後
康雄、康徳、康高、康之、康武、康邦、康友、康和、康明、康直、康保(-明治4年)
1664年6月17日-09:00|日本| ||寛文4年5月23日|松浦鎮信:遺領肥前平戸63200石→61700石/1500石を松浦猪右
衛門信貞に分与
1664年7月18日-09:00|日本| ||寛文4年閏5月25日|稲葉正則:相模小田原9万5千石/常陸真壁郡のうち3千石を正
能に,2千石を正定に分与し先に与えた新田5千石は元に戻す
1664年7月23日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ植民地が選挙権に財産資格を付与
1664年7月27日-09:00|日本| ||寛文4年6月5日|上杉綱勝:出羽米沢30万石/無嗣減封/15万石減封、養子綱憲が名
跡を継ぐ
1664年8月1日-01:00|オーストリア/ハンガリー/トルコ| |||オスマン帝国軍が、セント・ゴットハルトでオーストリア軍に敗北
1664年8月10日-01:00|オーストリア/トルコ| |||オーストリアとオスマン朝がヴァシュヴァールの和
1664年8月27日-01:00|フランス| |||フランスが西インド会社を設立
1664年8月27日-01:00|フランス/インド| |||フランスが東インド会社を再組織
1664年9月7日-09:00|日本| ||寛文4年7月18日|水谷勝宗:備中松山4万8千石を継ぐ/2千石を弟勝能に分与
1664年9月8日-01:00|オランダ/イギリス/アメリカ| ||ユリウス暦:1664/8/29|イギリスが、オランダからニューアムステルダム港を奪取
1664年9月22日-09:00|日本| ||寛文4年8月3日|幕府が絹・紬反物の長さを定めた法令を出し、寸尺不足の絹・紬
の販売を禁じる
1664年10月4日 06:00|アメリカ| |||ニューアムステルダム,ニューヨークと改称
1664年10月10日-01:00|オランダ/イギリス/アメリカ| |||英軍,デラウェアをオランダより奪取
1664年11月20日-09:00|日本| ||寛文4年10月3日|幕府が賭博に関する法度を出す
1664年12月18日-09:00|日本| ||寛文4年11月1日|幕府が忍岡に国史館を置き、林俊斎に本朝通鑑を続修させる
1665年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ゲオルグ4世ドゥカ(~1666年)
1665年-01:00|スペイン| |||<就任>バルセロナ伯(アブスブル家)カルラス2世[フェリプ3世の子](~1700年家系断絶)
1665年-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国ブルゴーニュ公(スペイン・ハプスブルク家)シャルル3世[スペイン王カルロス2世](~1700年)
1665年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒ[ゲオルク・ヴィルヘルムの弟](~1679年死去)
1665年-01:00|イタリア| |||<即位>ナポリ王・シチリア王(スペイン・ハプスブルク家)スペイン王カルロス2世(~1700年)
1665年-01:00|デンマーク/オランダ| |||<即位>ブラバント公(アブスブール家)シャルル3世(~1700年)
1665年-01:00|イタリア| |||<即位>モンフェッラート公(ゴンザーガ=ネヴェル家)フェルディナンド・カルロ(~1708年)
1665年-01:00|オランダ/スリランカ| |||オランダが、キャンディ王国からトリンコマリーを奪取
1665年-01:00|フランス| |||カッシーニが木星の大赤斑を発見
1665年-01:00|フランス/ハイチ| |||ドジェロン総督が着任.正規のフランス領トルトゥーガ植民地が発足
1665年-01:00|フランス| |||フランス,黒人法を制定.自由黒人に同等の権利を認める/奴隷にも人道的対処を定める
1665年 00:00|イギリス| |||イギリスの科学者ロバート・フックが顕微鏡観察によって描いた図説「ミクログラフィア」を発表
1665年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督ダニエル・ド・レミー・ド・クルセル(~1672年)
1665年 06:00|ニカラグア| |||海賊ジョン・デービス,グラナダ,レオン,エルレアレホを襲撃
1665年1月-01:00|フランス| |||パリで「学徒新聞」が刊行
1665年1月12日-01:00|フランス| |||仏の数学者ピエール=ド=フェルマー/死去「フェルマーの定理」
1665年1月21日-09:00|日本| ||寛文4年12月06日|南部重信:陸奥盛岡10万石→8万石/直房に陸奥八戸2万石分地
1665年1月21日-09:00|日本| ||寛文4年12月06日|陸奥盛岡藩10万石から南部直房に2万石を分与、陸奥八戸藩2
万石立藩/以後、直政,通信,広信,信興,信依,信房 隠居,信真,信順が相続(-明治4年)
1665年1月23日-09:00|日本| ||寛文4年12月08日|那須資祇(資弥)(青木利長の次男):下野那須(福原)12千石/復
興(加増があり、再び大名格になった)(-天和1年下野烏山へ)
1665年2月15日-09:00|日本|大谷大学|寛文5年|京都東六条に東本願寺の学寮開設
1665年2月16日-09:00|日本| ||寛文5年1月2日|大阪城天守閣が落雷のために焼失(→266年後の1931年に再建)
1665年3月4日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦2月22日|第2次英蘭戦争が起こる/オランダがイギリスに宣戦布告
1665年3月6日 00:00|イギリス| |||イギリス王立協会が「哲学紀要」(学術会報)を創刊
1665年3月14日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦:1665/3/4|イギリスがオランダに宣戦布告
1665年3月15日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン=ヴィッテンベルク公(新リューネブルク家)ゲオルク・ヴィルヘルム[ブラウンシュヴァイク=カレンヘ
゙ルクの先代の統治者であるクリスティアン=ルートヴィヒの弟](~17050828リューネブルク侯領はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
に統合)、ヨハン・フリードリヒ(~1679年死去)
1665年3月23日-01:00|フランス/カナダ| |||ジャン・タロンがカナダの地方長官に任命される
1665年4月18日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:チェザレ・ドゥラッゾ(~16670418)
1665年4月28日-09:00|日本| ||寛文5年3月13日|幕府金銀を売買するを禁ず
1665年5月9日-09:00|日本| ||寛文5年3月24日|<改易>松平重利:下野皆川1万500石/7歳で没し、無嗣廃絶
1665年7月13日-08:00|中国| ||清・康熙4年6月|雲南でイ族などを中心とする抗清反乱がおこる
1665年7月13日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦:1665/7/3|北海のローエストーフト沖にてヨーク公率いるイギリス艦隊130隻と
1700迄(4525件)
オプダム率いるオランダ艦隊120隻が衝突、イギリスが勝利
1665年7月30日-09:00|日本| ||寛文5年6月18日|松平定房:伊予今治藩3万石→4万石/加増
1665年8月14日-01:00|イタリア| |||<死去>マントヴァ・モンフェッラート公カルロ2世
1665年8月14日-01:00|イタリア| |||<即位>マントヴァ公(ゴンザーガ=ヌヴェール家)フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス(~1708
年ミラノ公国に併合)17080705死去
1665年8月17日-01:00|ベルギー/フランス| |||<就任>フランドル伯(アブスブール家)シャルル4世(~17001101)
1665年8月21日-09:00|日本| ||寛文5年7月11日|幕府が諸宗寺院法度及び下知状を下す
1665年8月23日-09:00|日本| ||寛文5年7月13日|証人制度(諸大名が幕府に差し出していた人質)を廃止
1665年9月 00:00|イギリス| |||ロンドンでペストが大流行
1665年9月8日-09:00|日本| ||寛文5年7月29日|<改易>一柳直興:伊予西条2万5千石/禁裏修理業務懈怠金沢に幽
閉
1665年9月17日-01:00|フランス/イタリア/スペイン| |||<死去>スペイン王・ナーポリ王・シチリア王・ブルゴーニュ公フェリペ4世(アラゴン王フェリ
ペ3世)/60歳(誕生:16050408)→<即位>カルロス2世(ブルゴーニュ公シャルル3世、ナーポリ王カルロ5世、シチリア王カルロ2世)が即位(~17
001101死去38歳)
1665年9月17日-01:00|オランダ| |||<就任>エノー伯(アブスブール家)シャルル3世(~17001101)
1665年9月17日-01:00|フランス| |||<就任>ブルゴーニュ伯(ハプスブルク家)シャルル3世[フィリップ8世の息子.スペイン王カルロス2世](~
16780919フランス王国へ併合)17001101死去
1665年9月17日-01:00|イタリア| |||<即位>サルデーニャ国王カルロス2世[フェリペ4世とマリアナの息子](~17001101死去38歳)
1665年11月14日-01:00|デンマーク/ノルウェー| |||デンマーク=ノルウェー二重王国国王クリスチャンセン5世が国王法に調印
1665年12月4日-01:00|フランス| |||ジャン・ラシーヌの悲劇「アレクサンドル大王」がパレ・ロアイヤル劇場で上演される
1666年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第13代スルタン:アブドゥル・ムビン(~1673年)
1666年-04:00|ロシア| |||ロシア正教会から分離派が出現
1666年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:アディル・ギレイ(~1671年)
1666年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王イリアス3世アレクサンドル(~1668年)
1666年-01:00|ドイツ| |||<即位>ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯(新ブラウンシュヴァイク家)ルドルフ・アウグスト[アウグスト2世の
息子](~1704年死去)
1666年-01:00|スペイン/コロンビア| |||海賊マンスヴェルトとモルガン,モディフォード総督の命を受け,サンタ・カタリナ島(現コロンビア領プロ
ビデンシア島)を占拠.まもなくスペインにより奪回される
1666年-01:00|フランス| |||フランスのパリに王立アカデミーが創設
1666年 00:00|モロッコ| |||<即位>アラウィー朝ムーレイ・ラシード(~16720409死去41歳)
1666年 00:00|イギリス| |||イギリスで王立アフリカ企業会社が設立
1666年 05:00|パナマ| |||モルガン,ポルト・ベリョを二週間にわたり占拠
1666年 06:00|ホンジュラス/メキシコ/ニカラグア| |||海賊モルガン,マンスフィールドら,メキシコ,ホンデュラスを襲撃/その後ニカラグアのサンフアン
川を遡上しグラナダを攻撃
1666年1月11日-09:00|日本| ||寛文5年12月6日|<改易>池田政直:播磨福本領主1万石/無嗣廃絶/寛文6年弟政武
7千石、政済3千石分知
1666年1月22日-05:30|インド| |||シャー・ジャハーン(インドムガル帝国5代皇帝)死去[1592年01月05日生~](享年74)
1666年1月26日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| |||オランダと同盟を結んでいたフランスが、イングランドに対する宣戦布告
1666年1月27日-09:00|日本| ||寛文5年12月22日|板倉重矩:老中就任(-寛文8年5月16日)
1666年1月28日-09:00|日本| ||寛文5年12月23日|土屋数直:老中就任(-延宝7年4月2日)
1666年2月1日-09:00|日本| ||寛文5年12月27日|越後西部で地震、高田城が倒壊し、圧死者多数/夜火災,死約150
0
1666年2月4日-09:00|日本| ||寛文6年|米津田盛:大坂定番として摂津・河内国内1万5千石/拝領
1666年2月4日-08:00|台湾| ||清・康熙5年1月|承天府孔子廟完成
1666年3月7日-09:00|日本| ||寛文6年2月2日|幕府が山川・原野に関する条令を布令
1666年3月30日-01:00|デンマーク/英領ヴァージン諸島| |||デンマークが西インド諸島の聖トーマス島を領有
1666年5月3日-09:00|日本| ||寛文6年3月29日|阿部忠秋:老中解任
1666年5月3日-09:00|日本| ||寛文6年3月29日|酒井忠清:老中→大老就任(-延宝8年12月9日)
1666年5月4日-09:00|日本| ||寛文6年4月|松平近栄:出雲広瀬3万石/拝領/以後近時、近朝、近明、近輝、近貞、直
義、直寛、直諒、直巳と続く(-明治4年)
1666年5月4日-09:00|日本| ||寛文6年4月|松平隆政:出雲母里1万石/拝領/以後直丘、直員、直道、直行、直キヨ、直
方、直興、直温、直哉と続く(-明治4年)
1666年6月1日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| ||ユリウス暦:1666/5/22|北フランスのダンケルク沖の4日間の海戦で、オランダ海軍
提督ミシェル・デ・ロイテルの艦隊とイギリス艦隊が対決し、オランダが優勢となる
1666年6月4日-01:00|フランス| |||モリエールの喜劇「人間嫌い」がパレ・ロアイヤル劇場で上演される
1666年6月5日-09:00|日本| ||寛文6年5月3日|京極高国:丹後宮津7万8200石/父子訴訟陸奥盛岡に幽閉廃絶
1666年7月2日-09:00|日本| ||寛文6年6月1日|但馬蛇山噴火。5、6間裂け、民家倒壊し死者多数
1666年7月15日-09:00|日本| ||寛文6年6月14日|京極高供:峰山藩/弟高昌へ1000石、高成へ500石を分知
1666年7月20日-09:00|日本| ||寛文6年6月19日|有田の陶工・酒井田柿右衛門/死去/赤絵磁器の創始者
1666年7月25日-01:00|オランダ/イギリス| |||(~26日)イングランド艦隊は、ノースフォーランド沖でオランダ艦隊に勝利
1666年8月1日-09:00|日本| ||寛文6年7月|細川利重:熊本新田35千石/拝領/以後利昌、利恭、利寛、利致、利庸、利
国、利愛、利用、利永と続く(-明治3年)
1700迄(4525件)
1666年9月2日-09:00|日本| ||寛文6年8月04日|出雲富田の城下町が洪水で水没
1666年9月12日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月2日|(~15日)ロンドンで大火/89の教会、1万3200の民家(市街地の85%)が
灰になる、死者は4名にとどまる/世界5大大火の一つ
1666年10月 00:00|イギリス| ||秋|イギリスの数学者ニュートンが万有引力の法則を発見
1666年10月6日-09:00|日本| ||寛文6年9月8日|幕府が初めて鉄砲組与力を設置
1666年11月1日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第8代シャー:サフィー2世スライマーン(~16940729)
1666年12月20日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦9月2日|(英)金銀複本位制スタート*鋳造手数料撤廃
1667年 04:30|ベネズエラ| |||トルチュー島のフランス海賊フランソア・ロロノア,ベネズエラのマラカイボおよびヒブラルタルを襲撃
1667年 05:00|キューバ| |||フランセス・ノウ船長,レメディオス,プエルト・プリンシペ,バタバノの町を襲撃
1667年1月10日-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがボンガヤ条約でマカッサルを保護領化
1667年1月30日-01:00|ポーランド/ロシア/ウクライナ/リトアニア| ||ロシア暦1月20日|ロシアとポーランドの間にアンドルソヴォ条約が結ば
れ、戦争が終結/ポーランド・リトアニア共和国がロシアにスモレンスク、ウクライナなどを割譲
1667年4月9日-01:00|フランス| |||世界初の美術展、パリのパレロワイヤルで開かれる
1667年4月12日-09:00|日本| ||寛文7年閏2月19日|幕府が5畿内、近江、播磨の諸国に本田畑の煙草栽培を禁じる
1667年5月10日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:チェザーレ・ジェンタイル(~16690510)
1667年5月22日-01:00|バチカン| |||236代ローマ教皇アレクサンデル7世死去/71歳(誕生:15960213)アヴィニョンの法王領を失っ
た
1667年5月24日-01:00|ベルギー/フランス/スペイン| |||フランス国王ルイ14世が大軍を動員してスペイン領ネーデルランドに侵攻し、フ
ランドル戦争が勃発
1667年6月10日-01:00|オランダ/イギリス| |||オランダ艦隊はチャタム基地を守る鉄鎖を突破して警備艦3隻を撃破すると、
保管中の大型艦5隻を撃沈し、イングランド海軍の旗艦ロイヤル・チャールズを含む2隻を拿捕して撤退
1667年6月12日-01:00|フランス| |||フランスで、世界初の輸血手術が行われる/子ヒツジの血を人間に輸血するというも
のだったが、何故か成功
1667年6月23日-09:00|日本| ||寛文7年5月2日|江戸市中に堕胎業禁令が発令される
1667年6月26日-01:00|バチカン| |||238代教皇クレメンス九世(-1669年12月9日)
1667年7月16日-09:00|日本| ||寛文7年5月25日|幕府が遠江国今切、荒井両関の規則を制定
1667年7月19日-09:00|日本| ||寛文7年5月28日|水野元知:上野安中2万石/乱心して妻を傷つけ、自害をはかっ
たため改易
1667年7月28日-09:00|日本| ||寛文7年6月08日|堀田正俊:相模国内→上野安中4万石/拝領(-天和1年下総古河
へ)
1667年7月31日-01:00|オランダ/イギリス/アメリカ/スリナム| ||ユリウス暦:1667/7/21|ブレダで和平条約が結ばれ、第2次英蘭戦
争が終わる/ニューヨークの英国帰属が決定,総督領として英国に直属/イギリスはスリナムに持つ利権をオランダに委譲
1667年8月8日-09:00|日本| ||寛文7年6月19日|榊原政倫:播州姫路→越後村上15万石/移封/次に政辰(政邦)が
嗣ぐ(-宝永1年播磨姫路へ)
1667年8月8日-09:00|日本| ||寛文7年6月19日|松平直矩:越後村上15万石→播磨姫路15万石(-天和2年豊後日田
へ)
1667年8月20日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦8月10日|ロンドンで、詩人ジョン・ミルトンが長編叙事詩『失楽園』を刊行
1667年9月17日-09:00|日本| ||寛文7年7月29日|幕府が江戸市中の門松を禁止
1667年9月18日-09:00|日本| ||寛文7年8月|二代目中村勘三郎、没
1667年9月23日 06:00|アメリカ| |||ヴァージニアで改宗に関係なく終身奴隷制を確立
1667年10月14日-09:00|日本| ||寛文7年8月27日|山内豊定:土佐中村3万石/弟豊明に3千石を分地
1667年10月18日-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)ヨハンネス1世(~1682年)
1667年11月7日-01:00|フランス| |||ジャン・ラシーヌの悲劇「アンドロマック」がブルゴーニュ座で上演される
1667年11月18日-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダが、スラウェシ島(インドネシア)のゴワ王国を制圧
1667年12月13日-09:00|日本| ||寛文7年10月28日|幕府が閑地に家屋を建てることを禁じる
1668年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ゲオルグ4世ドゥカ(2度目~1672年)
1668年-01:00|オランダ/スリランカ| |||オランダが、キャンディ王国からバッティカロアを奪取
1668年-01:00|スウェーデン| |||ストックホルムに国立銀行が設置
1668年-01:00|フランス/インド| |||フランス東インド会社がインドのスーラトに商館を開設
1668年 00:00|イギリス/トルコ| |||イギリス人ポール・リコーが「オスマン帝国の現況」を刊
1668年 06:00|ニカラグア| |||イギリス,フランス,オランダの海賊があいついでニカラグアを襲撃.農産物の集散地グラナダは壊滅
的な打撃を受ける
1668年 06:00|カナダ| |||ラヴァル司教がケベック・セミナリーを創設
1668年1月23日-01:00|オランダ/イギリス| |||イギリスとオランダが、フランスに対抗してハーグ同盟を結ぶ
1668年1月26日-09:00|日本| ||寛文7年12月13日|幕府が閑地に家屋を建てることを禁じる
1668年2月 00:00|ポルトガル/スペイン| |||ポルトガルとスペインがリスボン条約を締結し、セウタを割譲
1668年2月 05:00|キューバ| |||モルガン,プエルト・プリンシペ(現カマグエイ)の町を攻撃.住民を教会に閉じ込め,財産を掠奪
したうえ町を焼き払う
1668年3月7日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア海軍司令長官フランチェスコ・モロシーニ、サンタ・ペラジア付近で勝利
1668年3月13日-09:00|日本| ||寛文8年2月01日|陸奥高月藩2万石(藩主:内藤政親)陸奥泉に転封/以後、政森が
相続
1668年4月8日-09:00|日本| ||寛文8年2月27日|<改易>高力高長:肥前島原3万7千石/勤務懈怠・領内混乱/陸奥仙
1700迄(4525件)
台に幽閉廃絶
1668年4月12日-09:00|日本| ||寛文8年3月|森田太郎兵衛、没(森田座初代座主)
1668年4月25日-09:00|日本| ||寛文8年3月14日|幕府が農民に倹約令を出す
1668年5月1日-09:00|日本| ||寛文8年3月20日|幕府が町人に倹約令を出す
1668年5月2日-01:00|フランス/スペイン| |||フランス国王ルイ14世とスペインおよびハーグ同盟の間にアーヘンの和約が結ばれてフラン
ドル戦争が終結
1668年5月11日-09:00|日本| ||寛文8年4月01日|遠敷郡上竹原村から出火,161軒焼失
1668年6月9日-09:00|日本| ||寛文8年4月30日|足利学校再建される
1668年6月10日-09:00|日本| ||寛文8年5月|牧野親成:河内高安→丹後田辺3万5千石/移封/以後富成、英成、明成
、惟成、宣成、以成、節成、誠成、弼成と続く(-明治4年)
1668年6月12日-09:00|日本| ||寛文8年5月03日|京極高盛:丹後田辺→但馬豊岡3万3千石/移封/以後高住、高栄、
高寛、高永(継嗣無く一時絶家15千石)、高品、高有、高行、高厚と続く(-明治4年)
1668年6月15日-01:00|スペイン/グアム| |||グアム島にスペインの宣教師団が上陸/以後カトリックの教えは周辺の村々や近隣
の島々へ広がるがチャモロ人の価値観や習慣の違いから反発、スペインとチャモロ人との間でスペイン・チャモロ戦争が勃発
1668年6月15日 03:00|ブラジル| |||モルガン,9隻の船と460人の兵をひきい,ノンブレ・ディオスにかわるペルー貿易の拠点ホ
゚ルト・ベリョを二週間にわたり占拠
1668年6月25日-09:00|日本| ||寛文8年5月16日|板倉重矩:老中解任
1668年7月21日-09:00|日本| ||寛文8年6月13日|酒井忠国:安房勝山1万5千石/拝領/以後忠胤、忠篤、忠大(12千
石)、忠鄰、忠和、忠嗣、忠一、忠美と続く(-明治4年)
1668年7月21日-09:00|日本| ||寛文8年6月13日|酒井忠直:若狭小浜12万3千石→11万3千石/甥忠国に1万石を分
知
1668年7月25日-08:00|中国| |||山東、タン城地震/M8.5、死者4万7,615人
1668年8月5日-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(フランス・ブルボン家)フィリップ・シャルル1世[フランス国王ルイ14世とマリー・テレーズ・
ドートリッシュの次男](~16710710死去2歳)
1668年8月20日-09:00|日本| ||寛文8年7月13日|幕府が京都町奉行を創設し、京都の直接支配の体制を整える
1668年8月21日-09:00|日本| ||寛文8年7月14日|逸然没/66歳(誕生:16010828)/長崎に渡来した中国人僧/明宋
南画を日本に伝えたので「唐絵」の開祖と称された
1668年9月 00:00|イギリス/インド| |||ボンベイ島がイギリス東インド会社に払い下げられる
1668年9月9日-09:00|日本| ||寛文8年8月3日|<減移封>奥平昌能:下野宇都宮11万石→出羽山形9万石/殉死法度
違/次に昌章が嗣ぐ(-貞享2年下野宇都宮へ)
1668年9月9日-09:00|日本| ||寛文8年8月03日|松平忠弘:出羽山形15万石→下野宇都宮15万石/移封
1668年9月16日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国王ヤン2世カジミエシュが退位し、サン・ジェルマン・デ・プレの
修道院長となる
1668年9月27日-09:00|日本| ||寛文8年8月21日|有馬豊祐(小出吉重の子):筑後松崎1万石/久留米藩第4代藩主
頼元から分封(-貞享1年岩槻藩の家督相続争い巻き込まれ改易)
1668年11月3日-09:00|日本| ||寛文8年9月29日|戸田光永:美濃加納6万石→5万石/弟光澄,光賢に各々5千石を
分与
1668年11月21日-09:00|日本| ||寛文8年10月17日|幕府が寺院の新築を禁じる
1668年12月16日-01:00|フランス/イタリア| |||フランスの義勇軍カンディアより出撃を試みるが、失敗
1668年12月22日-09:00|日本| ||寛文8年11月19日|井伊直澄:大老就任(-延宝4年1月3日)
1668年12月31日-09:00|日本| ||寛文8年11月28日|<改易>酒井忠解:出羽大山1万石/26歳で没し、嗣子なく所領
没
1669年-05:30|インド| |||インド、マトゥラー近辺でジャートの反乱勃発
1669年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)アントニー・ヴォダ・ディン・ポペスティ(~1672年)
1669年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ホンブルク方伯ゲオルク・クリスティアン(~1671年)
1669年-01:00|イタリア/トルコ| |||ヴェネツィア共和国オスマン帝国にクレタ島を奪われる
1669年-01:00|ドイツ| |||ハンザ同盟が解消する
1669年-01:00|フランス/インド| |||フランスがインドのマスリバタムに商館を開設
1669年 06:00|アメリカ| |||最初の日曜学校、プリマスで始まる
1669年 06:00|アメリカ| |||ガスパル・デ・ポルトーらカリフォルニアを探検.サンフランシスコ湾を発見,サンディエゴを建設
1669年1月3日-09:00|日本| ||寛文8年12月|堀直良:上総刈谷→上総八幡1万石(陣屋移転)/次に直宥が嗣ぐ(-元
禄11年上越椎谷へ)
1669年1月3日-09:00|日本| ||寛文8年12月|柳生宗冬:大和柳生8300石→1万石/加増を受け、再び諸侯に列す/以
後宗存、俊方、俊平、俊峯、俊則、俊豊、俊章、俊能、俊順、俊益(俊郎)と続く(-明治4年)
1669年2月 00:00|イギリス| |||ニュートンが反射望遠鏡を発明
1669年2月1日-09:00|日本| ||寛文9年|この年東大寺二月堂再建
1669年2月1日-09:00|日本| ||寛文9年|石川憲之:伊勢亀山→山城淀6万石/以後義孝、総慶と続く(-宝永8年備中
松山へ)
1669年2月4日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙8年1月4日|朝鮮李朝が宗時烈の建議で同姓結婚を禁止
1669年3月 04:30|ベネズエラ| |||モルガン,マラカイボとヒブラルタルを襲撃
1669年3月8日-01:00|イタリア| |||エトナ火山が大噴火/カターニア他14の都市を溶岩が飲み込み、1万人が死亡
1669年3月11日 06:00|アメリカ| |||カロライナ領主がジョン・ロック作成の基本法を制定
1700迄(4525件)
1669年3月19日-09:00|日本| ||寛文9年2月18日|幕府が江戸升を廃止し、全国的に京升に統一
1669年3月25日-09:00|日本| ||寛文9年2月24日|永井尚征:山城淀→丹後宮津73600石/次に尚長が嗣ぐ(-延宝8
年殺害され継嗣がなかったので改易)
1669年3月26日-09:00|日本| ||寛文9年2月25日以降|久世広之:相模・武蔵・上総→下総関宿5万石/次に重之(-天
和3年三河吉田へ)
1669年3月26日-09:00|日本| ||寛文9年2月25日|板倉重常:下総関宿45千石→伊勢亀山5万石/5千石加増移封/以
後重冬、重治と続く(-宝永7年志摩鳥羽へ)
1669年3月29日-09:00|日本| ||寛文9年2月28日|幕府が斗量制を定め、江戸升を京升に統一
1669年4月-05:30|インド| |||ムガル朝アウラングゼーブが異教寺院・学校倒壊令を発令
1669年5月13日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア,カンディアの城壁突破される
1669年5月14日-09:00|日本| ||寛文9年4月15日|福井城下で大火,本丸・天守・侍屋敷379軒・町家2676軒焼失
1669年5月30日-08:00|中国| ||清・康熙8年5月|清の康熙帝が専権をふるう輔政大臣のオボイ一派をパージ、実権を
掌握
1669年5月30日-09:00|日本| ||寛文9年5月1日|幕府が、17歳以下の養子は不許可とする
1669年6月18日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:フランチェスコ・ガルバリーノ(~16710618)
1669年6月19日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国王(ヴィシニョヴィエツキ家)ミハウ・コリブト・ヴィシニョウ
゙ィエツキ[有能な軍事指導者ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキの息子](~16731110死去33歳)
1669年6月27日-09:00|日本| ||寛文9年6月|シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサムに対する大戦
争が開始される
1669年7月5日-09:00|日本| ||寛文9年6月8日以降|朽木稙昌:常陸土浦→丹波福知山32千石/以後稙元(弟植治:3
千石分知29千石)、稙綱、稙治(32千石)、玄綱、綱貞、舖綱、昌綱、倫綱、綱方、綱条、綱張、為綱(-明治4年)
1669年7月5日-09:00|日本| ||寛文9年6月8日以降|土屋数直:常陸・武蔵の内→常陸土浦45千石/移封/次に政直
が嗣ぐ(-天和2年駿河田中へ)
1669年7月5日-09:00|日本| ||寛文9年6月8日|松平忠房:丹波福知山45900石→肥前島原65900石/移封/以後忠雄
、忠俔、忠刻、忠祗と続く(-寛延2年下野宇都宮へ)
1669年7月24日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィアで包囲からトルコ軍を逸らせる艦隊の企て失敗
1669年8月8日-09:00|日本| ||寛文9年7月12日|西より東へ飛物あり(隕石/UFO?)
1669年8月17日-09:00|日本| ||寛文9年7月下旬|シャクシャインの軍と幕府軍が国縫で激突/幕府軍の300丁の鉄砲の前
にシャクシャイン軍は敗走
1669年8月26日-08:00|中国| ||清・康熙8年8月|清がフェルビーストらを除きカトリック宣教師による布教を禁止
1669年8月31日 00:00|イギリス| |||イングランド王チャールズ1世の妃でフランス王アンリ4世の末娘ヘンリエッタ・マライア没/59歳(誕生:1
6091125)
1669年9月5日-01:00|イタリア/トルコ| |||オスマン軍が、ヴェネツィアと和してクレタ島を併合
1669年9月6日-01:00|イタリア/トルコ| |||オスマン朝と、ヴェネツィア間のクレタ戦争終結
1669年9月29日-09:00|日本| ||寛文9年9月05日|大洲藩主加藤泰興、如法寺を建立し、この日盤珪永琢入寺
1669年10月4日-01:00|オランダ| |||レンブラント死去/63歳(誕生:16060715)。オランダの画家
1669年10月23日-09:00|日本| ||寛文9年9月29日|藤堂高通:伊勢久居50103石/拝領/以後高堅、高陳、高治、高豊、
高雅、高敦、高朶、高興、高衡、高矗、高兌、高邁、高カズ、高聴、高邦と続く(-明治4年)
1669年11月16日-09:00|日本| ||寛文9年10月23日|シャクシャインが和睦のために松前泰広の陣を訪ねる/ここでシャクシャ
インは謀殺される
1669年12月9日-01:00|バチカン| |||237代ローマ教皇クレメンス9世死去[1600年01月27日生~](享年69)
1669年12月20日 00:00|イギリス/アメリカ| |||モルガン,サンタ・カタリナ島を奪回
1669年12月24日 05:00|パナマ| |||ブラッドレー船長の率いる400名の海賊がチャグレス河口のサンロレンソ要塞の攻略に成功
1670年-08:00|モンゴル| |||ジュンガル部のガルダンが甥を殺してハーン位につく
1670年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(オルデンブルク家)クリスチャン5世(~1699年)
1670年-01:00|オランダ| |||オランダの哲学者スピノザが「神学政治論」を出版
1670年-01:00|オランダ/スリランカ| |||キャンディ王国のラジャシンハ2世が、オランダの支配地域を攻撃
1670年-01:00|フランス| |||パリで、パスカルの遺稿『パンセ』が出版される
1670年-01:00|フランス/マルティニーク| |||フランス,マルチニクを占領
1670年-01:00|スペイン/イギリス/ジャマイカ| |||マドリード条約でジャマイカ島がスペインからイギリスへ譲渡
1670年 06:00|ニカラグア| |||海賊ガヤルディーヨ,グラナダを襲撃
1670年2月-01:00|オーストリア| |||レオポルド1世がウィーンのユダヤ教徒追放令を発布
1670年2月9日-01:00|デンマーク/ノルウェー| |||<死去>デンマーク=ノルウェー二重王国国王フレデリック3世死/60歳(誕生:16090318)
→<即位>(オレンボー朝)クリスチャン5世[フレゼリク3世とゾフィー・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルクの長男](~16990825死去5
3歳)
1670年2月20日-09:00|日本| ||寛文10年|ウンカ対策に「注油駆除法」が開発
1670年3月3日-09:00|日本| ||寛文10年1月12日|幕府が、代官所費用、煙草禁制、家屋新築などに関する法度を定
める
1670年3月19日-09:00|日本| ||寛文10年1月28日|<改易>池田邦照:播磨新宮1万石/13歳で没し無嗣廃絶/弟重教
が3千石で名跡を継ぐ
1670年4月7日-09:00|日本| ||寛文10年2月18日|松平頼純(徳川頼宣の次男):伊予西条33千石/拝領/以後頼致、
頼渡、頼邑、頼淳、頼謙、頼看、頼啓、頼学、頼英と続く(-明治4年)
1700迄(4525件)
1670年4月14日-09:00|日本| ||寛文10年2月25日|芦ノ湖の水を静岡県側に落とす深良用水(箱根用水)が完成(以
来水利権は静岡県側が持つ)
1670年5月-01:00|イタリア/トルコ| |||メフメト4世、和平を批准
1670年5月2日-01:00|バチカン| |||238代教皇クレメンス十世即位
1670年5月2日 06:00|カナダ| |||カナダで毛皮交易のためハドソン湾会社が設立
1670年5月20日-01:00|フランス/イギリス| |||イギリスとフランスがドーヴァー条約を締結
1670年5月23日-01:00|イタリア| |||<即位>トスカーナ大公(メディチ家)コジモ3世・デ・メディチ[フェルディナンド2世の息子](~172310
31死去)
1670年6月22日-09:00|日本| ||寛文10年5月5日|越後村上地震/死者13人
1670年7月1日-09:00|日本| ||寛文10年5月14日|池田光政:日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講
堂は現在・国宝)も開い
1670年7月8日 00:00|イギリス/ベリーズ/ジャマイカ| |||マドリード条約締結.イギリスのジャマイカ領有,ベリ-ズ河河口地帯の租
借権が認められる
1670年7月21日-09:00|日本| ||寛文10年6月05日|越後で大地震。村上城、民屋600余が倒壊。田200余町が損失
1670年8月-04:00|ロシア| |||ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱がおこる
1670年8月13日-09:00|日本| ||寛文10年6月28日|幕府が寛永新銭と古銭を混用することを禁じる
1670年9月1日-09:00|日本| ||寛文10年7月17日|幕府が、花火を弄ぶことを禁止
1670年9月26日-09:00|日本| ||寛文10年8月13日|幕府が家屋、衣服、食料、飲酒などに関する法度を出す
1670年10月-05:30|インド| |||シヴァージーが二度目のスーラト掠奪
1670年10月-04:00|ロシア| |||皇帝アレクセイの政府軍がステンカ・ラージンの反乱軍をシンビルスクに包囲/反乱軍が敗退
1670年10月28日-09:00|日本| ||寛文10年9月15日|醸酒令及び煙草栽培の禁令を下す
1670年11月21日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=カッセル方伯カール[ヴィルヘルム6世の下の息子](~17300323)
1670年11月23日-01:00|フランス| |||モリエールの「町人貴族」がパレ・ロイヤル劇場で上演される
1670年12月15日-09:00|日本| ||寛文10年11月3日|板倉重矩:老中就任(-1673年5月29日)
1670年12月20日 06:00|アメリカ| |||モルガン,サンタ・カタリナ島を奪回
1671年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:セリム1世ギレイ(~1678年)
1671年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ペレ・ド・コポンス・イ・ド・テキシドール(~1681年)
1671年-01:00|アルジェリア/トルコ| |||アルジェリアのデイがオスマン朝から自立
1671年-01:00|フランス| |||ギーズ公クロードフランソワ・ジョゼフ即位(~1675年)
1671年 00:00|イギリス| |||イギリスのクレメントがアンクル脱進機を採用した時計を制作
1671年 00:00|イギリス| |||ジョン・ミルトンが叙事詩『復楽園』と悲劇詩『闘士サムソン』を合本で刊行
1671年 00:00|イギリス| |||ニュートンが「流率法と無限級数」を執筆し、微積分法を開発
1671年 05:00|ハイチ| |||サンドマングの黒人奴隷,最初の反乱
1671年1月13日-09:00|日本| ||寛文10年12月3日|磐城平藩より1万石を分与され、遠山頼直が陸奥湯本藩立藩(
後15千石)/以後政徳、政貞、政醇、政業、貞幹、政広、政偏、政環、政民、政恒、政敏、政養(明治元年、戊辰戦争に破れ
、1千石減封)と続く(-明治4年)
1671年1月13日-09:00|日本| ||寛文10年12月3日|陸奥磐城平藩5万石、藩主:内藤頼長の弟、遠山頼直に新田1万
石を分与
1671年1月18日 05:00|パナマ| |||4百人の海賊部隊,チャグレス川河口のサンロレンソ要塞を奪取/双方併せ死者4百人を出
す激戦となる
1671年1月28日 05:00|パナマ| |||海賊部隊,パナマ攻撃を開始/5日間にわたる激戦の末パナマ占領
1671年2月7日-09:00|日本| ||寛文10年12月28日|幕府が商人の前髪を禁じ、切らせる
1671年2月9日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・景治9年|大越後黎朝10代・嘉宗が即位(-1675)
1671年2月15日-01:00|イタリア| |||ベネツィアで新聞「ジョルナーレ・ヴェネト・ディ・レッテラーティ」第一号出る
1671年2月24日 05:00|パナマ| |||モルガン,3週間にわたりパナマを掠奪
1671年2月25日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1671/2/15|イギリスの数学者ジェームス・グレゴリーが、円周率に関する級数を発
見し手紙で報告
1671年3月11日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙10年2月|朝鮮全国で大飢饉となり死者多数
1671年4月14日-09:00|日本| ||寛文11年3月5日|浅野長友:5万3千石→5万石/長賢へ3500石、長恒へ新田3千石の
分知
1671年4月26日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙10年3月18日|朝鮮で遺棄児収養法(捨て子養育法)制定
1671年5月6日-09:00|日本| ||寛文11年3月27日|仙台藩重臣原田甲斐、伊達安芸ら3名を殺害の末、自害
1671年5月11日-09:00|日本| ||寛文11年4月3日|<改易>伊達宗勝:陸奥一関3万石/宗家の混乱の責任宗家に吸収
土佐国に配流
1671年5月21日-01:00|ドイツ| |||プロイセン王がウィーンを追放されたユダヤ人50家族を受け入れ
1671年6月17日-04:00|ロシア| ||ロシア暦6月7日|ステンカ・ラージンがモスクワで処刑される。41歳(誕生:1630)。ドン・コサックを中心
とする反乱の指導者
1671年6月20日-09:00|日本| ||寛文11年5月14日|二代目玉川千之丞、没
1671年6月27日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アレッサンドリア・グリマルディ(~16730627)
1671年7月30日-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ロレーヌ家)フランソワ・ジョゼフ(~16750316死去)
1671年8月5日-09:00|日本| ||寛文11年7月|江戸の豪商・河村瑞賢が東廻り航路を開く
1671年9月2日-09:00|日本| ||寛文11年7月29日|幕府が難破船救護法を出す
1700迄(4525件)
1671年9月3日-09:00|日本| ||寛文11年8月|仏光寺派に改派していた旧越前専修寺門徒,東本願寺派に転じて法
雲寺をおこす
1671年10月2日-09:00|日本| ||寛文11年8月30日|洪水で、東海道六郷橋が流失
1671年10月25日-09:00|日本| ||寛文11年9月23日|小笠原真方(小笠原忠真四男):小倉新田(篠崎屋敷)1万石/拝
領/以後貞通、貞顕、貞温、貞哲、貞謙、貞嘉、貞寧、貞正と続く(-明治2年)
1671年10月25日-09:00|日本| ||寛文11年9月23日|陸奥棚倉藩5万石(藩主:内藤信良)内藤信全に新田5000石分
与
1671年10月25日 00:00|イギリス| |||イギリスのG・カッシーニが土星の衛星イアペトゥスを発見
1671年11月1日-01:00|フランス| |||フランス国王ルイ14世が、神聖ローマ皇帝レオポルド1世と中立条約を結ぶ
1671年11月28日-09:00|日本| ||寛文11年10月27日|千宗左4代(表千家の祖)死去[1613年生~](享年59)
1671年12月2日-09:00|日本| ||寛文11年11月1日|全国に、偽薬製造販売、毒薬の販売、諸販売の独占、及び偽金を
禁止する法度が出される
1672年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王チェイチェター3世(~1673年)
1672年-07:00|タイ| |||<即位>マンラーイ朝ラーンナー王ウッパラーチャ・インチェマン(~1675年)
1672年-05:30|インド| |||デリー近郊でサナートミー教徒の反乱(農民一揆)
1672年-02:00|ルーマニア| |||<再位>ワラキア公グリゴレ・1世ギーカ(2度目~1673年)
1672年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ステファン11世ペトリセイク(~1673年)
1672年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第三王朝)ミバンブウェ2世(~1696年)
1672年-01:00|フランス/インド| |||フランス東インド会社がインドのポンディシュリーを購入
1672年 00:00|モロッコ| |||<即位>アラウィー朝ムーレイ・イスマーイール(~17270322死去93歳)
1672年 00:00|シエラレオネ/イギリス| |||イギリスがヨーク島に王立アフリカ会社創立
1672年 00:00|イギリス| |||ニュートンが「光と色の新理論」を王立協会の「哲学会報」に発表
1672年 00:00|モーリタニア/フランス| |||モーリタニアのイスラム教徒がフランスの進出に対し聖戦を開始
1672年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督フロンティナック伯爵ルイ・ド・ブアド(~1682年)
1672年1月18日-09:00|日本| ||寛文11年12月19日|阿部正春:武蔵岩槻→上総大多喜16千石(-元禄15年三河刈谷
へ)
1672年1月22日-09:00|日本| ||寛文11年12月23日|本多政長:大和郡山15万石→12万石/政勝遺領のうち9万石と
加増3万石
1672年1月22日-09:00|日本| ||寛文11年12月23日|本多政利:大和郡山国内6万石/政勝遺領のうち分封
1672年1月30日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・陽徳1年|大越後黎朝10代・嘉宗が陽徳と改元(-1674年旧10月)
1672年1月30日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙11年1月|モンゴルのガルダン・ハーンが清に朝貢
1672年3月-01:00|フランス/オランダ| |||フランスがオランダに宣戦布告
1672年3月1日-09:00|日本| ||寛文12年2月2日|浄瑠璃坂の仇討ち。奥平源八ら、父の仇・奥平隼人を江戸浄瑠璃
坂で討つ
1672年3月11日-01:00|フランス| |||パリのパレ・ロイヤル劇場で、モリエールの喜劇「女学者」が上演される
1672年3月20日-09:00|日本| ||寛文12年2月21日|幕府、奥平源八らを大島に流刑とする
1672年3月27日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦3月17日|イギリスがオランダに宣戦布告し、第3次英蘭戦争が始まる(~
1674:ウェストミンスター条約)
1672年4月7日-01:00|フランス/オランダ| |||ルイ14世がオランダに宣戦布告し、オランダ・フランス戦争勃発(~1678/8/10:ナイメーヘン
の和約)
1672年4月9日 00:00|モロッコ| |||<死去>アラウィー朝(モロッコ)スルターン,アル・ラシード(41)→<即位>イスマーイール・ビン・シャリフ(~1727032
2)
1672年4月14日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王ナラワラ[前王の息子](~16730227)
1672年4月20日-09:00|日本| ||寛文12年3月23日|幕府が、京都、大坂、堺の商人に長崎外国貿易の期日や金銀兌
換などの規則を出す
1672年5月15日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツで初の著作権法が可決
1672年5月27日-09:00|日本| ||寛文12年5月|『曾呂利狂歌噺』刊行
1672年5月28日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| |||オランダ艦隊が英仏艦隊に辛勝し海からの侵攻をひとまず回避
1672年5月28日-09:00|日本| ||寛文12年5月2日|幕府が再び食料品の発売時期を限定
1672年6月8日-09:00|日本| ||寛文12年5月13日|徳川光圀が彰考館(文庫)を開設
1672年6月9日-09:00|日本| ||寛文12年5月14日|脇坂安政:信濃飯田5万5千石→播磨龍野51千石/以後安照、安清
、安興、安弘、安実、安親、安董、安宅、安斐と続く(-明治4年)
1672年6月14日-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(フランス・ブルボン家)ルイ・フランソワ1世(~16721104)
1672年6月23日-01:00|フランス/オランダ| |||フランスの大軍はユトレヒト攻略によって首都アムステルダムの目前へと迫ったがオランタ
゙はフランス軍の進撃を当面食い止めることに成功
1672年6月25日-09:00|日本| ||寛文12年6月|池田輝録:岡山新田1万5千石/拝領/以後政晴、政員、政弼、政恭、政
範、政和、政礼と続く(-明治4年)
1672年6月25日-09:00|日本| ||寛文12年6月|池田綱政:備前岡山31万5千石/弟政言に新田25千石,輝録に15千石
を分知
1672年6月25日-09:00|日本| ||寛文12年6月|池田政言:岡山新田(鴨方)2万5千石/拝領/以後政晴、政方、政香、政
直、政養、政共、政善、政詮、政保と続く(-明治4年)
1672年7月4日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州、ヘルダーラント
1700迄(4525件)
州総督オラニエ公ウィレム3世[イングランド王.スコットランド王.オラニエ公ウィレム2世の長男](~17020308死去51歳)
1672年7月26日-09:00|日本| ||寛文12年閏6月03日|板倉重矩:三河中島→下野烏山5万石/次に重種が嗣ぐ(-延
宝9年武蔵岩槻へ)
1672年7月26日-09:00|日本| ||寛文12年閏6月03日|堀親昌:下野烏山→信濃飯田2万石/移封/以後親貞、親常、親
賢、親庸、親蔵、親長、親忠、親民、親シゲ(17千石)、親義(15千石)、親広と続く(-明治4年)
1672年8月4日-01:00|オランダ| |||アムステルダム市民がホラント州議会の全議員を罷免/宰相ヤン・デ・ウィットに辞職を迫り、オラニ
エ公ウィレム3世を総督に任命
1672年8月17日-09:00|日本| ||寛文12年閏6月25日|幕府が外国航路とキリスト教を禁制
1672年9月12日-01:00|フランス/カナダ| |||ニュー・フランス総督にフロントナックが就任
1672年10月13日 00:00|イギリス/台湾| ||清・康熙11年8月23日|鄭経がイギリスと正式に通商条約締結
1672年10月18日-01:00|ポーランド/トルコ/リトアニア| |||オスマン軍がウクライナ・コサックの要請を受けてポーランドに侵攻し、ブチャチの
和約が結ばれる
1672年12月6日-01:00|ポーランド| |||ポーランド・リトアニア共和国王ヤン2世死去/63歳(誕生:16090324)カシミル5世.晩年はフラ
ンスに行き僧職についた
1672年12月17日-09:00|日本| ||寛文12年10月27日|表千家の祖・千宗佐/死去
1672年12月23日 00:00|イギリス| |||イギリスのG・カッシーニが土星の衛星レアを発見
1673年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第14代スルタン:ムフィディン(~1690年)
1673年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王アンチェイ(~1674年)
1673年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ダミトラスク・カンタクジーノ→同年<即位>モルダヴィア王ステファン11年ペトリセイク(2度
目~1674年)
1673年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公(ヴァリアス朝)ゲオルグ2世ドゥカス(~1678年)
1673年-02:00|南アフリカ/オランダ| |||ケープ植民地で第2次コイ・コイン-オランダ人戦争が勃発
1673年-01:00|フランス/オランダ/アンティル| |||フランス艦隊,キュラソー島のオランダ軍を攻撃するも撃退される
1673年-01:00|フランス/バングラデシュ/インド| |||ベンガルのシャンデルナゴルが植民地となった
1673年 05:00|キューバ| |||ヤコブ・グリリョス,ヌエビタスを襲撃
1673年1月1日 06:00|アメリカ| |||ボストンとニューヨーク間に、定期郵便制度が成立
1673年1月21日 05:00|パナマ| |||メルカド,オールドパナマを撤退。8キロ離れた現在のパナマ・シティーに移設
1673年2月4日-09:00|日本| ||寛文12年12月18日|疑わしい出版があれば町奉行へ伺い指図に従うよう、初の出
版統制令が出される
1673年2月11日-05:30|インド| |||<死去>マイソール王国(オデヤ朝)ドッダ・デーヴァ・ラージャ→<即位>チッカ・デーヴァ・ラージャ[甥]
(~17041116)
1673年2月17日-01:00|フランス| |||モリエールが「病は気から」の上演中に舞台で倒れ死去する。51歳(誕生:16220115)。
喜劇作家
1673年2月27日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王ミンニャ・クワティン[前王の甥](~16980504)
1673年3月29日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦3月22日|イギリス国王チャールズ2世がカトリックに傾斜するのを警戒したイギリス議
会が、国教徒以外の者が文武の官職に就くことを禁じる審査法(審査律)を成立させる
1673年3月29日-09:00|日本| ||寛文13年2月11日|幕府が火災制を出す
1673年4月8日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1673/3/29|イギリス国王チャールズ2世がカトリックに傾斜するのを警戒したイギリス
議会が、国教徒以外の者が文武の官職に就くことを禁じる審査法(審査律)を成立させる
1673年4月17日-08:00|中国| ||清・康熙12年3月|清の平南王尚可喜、老年を理由に撤藩を請い、他の2王にも撤藩
命令が下る
1673年4月27日-01:00|フランス| |||<初演>ジャン=バティスト・リュリ《歌劇「カドミュスとエルミオーヌ」》
1673年5月17日 06:00|アメリカ| |||ミシシッピ川発見される
1673年5月28日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| |||英仏艦隊76隻は、スホーネヴェルト水道に潜伏するオランダ艦隊を攻撃する
が勝敗つかず
1673年6月4日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| |||英仏艦隊とオランダ艦隊は再びスホーネヴェルトで戦ったが勝敗つかず
1673年6月22日-09:00|日本| ||寛文13年5月8日|京都が大火になり、禁裏と仙洞が罹災する/天皇・上皇らは近衛
基煕邸に移る
1673年6月22日-09:00|日本| ||寛文13年5月8日|松平隆政:出雲母里1万石/無嗣廃絶
1673年7月5日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティーノ・サルゾ(~16750704)
1673年7月13日-09:00|日本| ||寛文13年5月29日|板倉重矩:老中解任
1673年7月14日-09:00|日本| ||寛文13年6月|松平直丘(隆政弟):出雲母里1万石が与えられ家名相続
1673年8月21日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| |||テセル島沖の海戦/オランダ艦隊が、英仏連合艦隊を破る
1673年8月30日-01:00|ドイツ/オランダ| |||神聖ローマ皇帝レオポルド1世が、オランダと反仏同盟を結ぶ
1673年9月11日-09:00|日本|三越伊勢丹ホールディングス|寛文13年8月|三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」
を開業
1673年10月10日-09:00|日本| ||寛文13年9月|初代市川段十郎『四天王稚立』上演、山村座、荒事のはじまり(段
はのちに團)
1673年10月20日-09:00|日本| ||寛文13年9月11日|内藤忠勝:志摩鳥羽3万5千石→3万3千石/弟忠知に2千石を分
封
1673年10月30日-09:00|日本| ||延宝1年9月21日|「延寶」に改元
1673年11月-01:00|フランス/ドイツ/オランダ| |||オランダ総督のオラニエ公ウィレムが、フランス軍の武器庫があるボンを襲う
1700迄(4525件)
1673年11月9日-09:00|日本| ||延宝1年10月1日|錦帯橋が完成
1673年12月28日-08:00|中国| ||清・康熙12年11月21日|漢人の武将呉三桂が、康煕帝の撤兵命令を拒否し、雲南
の地方長官を殺害して清朝に反旗を翻す/周王と称し利用と建元(~1678)(三藩の乱の始まり)
1674年-08:00|インドネシア| |||中・東部ジャワの大国マタラーム王国アマンクラット1世(位1645~1677)にマドゥラ島の王族トゥルーノジョ
ヨが率いる大反乱が発生,東部ジャワと中部ジャワ一部を征服、クディリに都を定める
1674年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王パドゥマラウア3世(~1674年)
1674年-05:30|インド| |||ラホールでバードシャーヒー・マスジッドが完成
1674年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ドミトラスク・カンタクジーノ(2度目~1675年)
1674年-01:00|フランス| |||インド東海岸ポンディシェリが植民地となった
1674年-01:00|イタリア/スペイン| |||シチリアのメッシーナで反スペイン蜂起
1674年-01:00|フランス/グレナダ| |||フランス,グレナダの領有を宣言
1674年1月5日-09:00|日本| ||延宝1年11月29日|初代市川団十郎が、江戸中村座で四天王稚立(荒事)を演じる
1674年1月7日-08:00|中国| ||清・康熙12年12月|北京で朱三太子を自称する楊起隆の反乱計画が発覚
1674年1月18日-09:00|日本| ||延宝1年12月12日|小出英安:但馬出石4万5千石/弟左近英直に新田1500石を分与
1674年1月29日-09:00|日本| ||延宝1年12月23日|阿部正能:老中就任(-延宝4年6月6日)
1674年2月6日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙13年|朝鮮で甲寅礼訴で西人が粛清され南人政権が成立
1674年2月19日-01:00|オランダ/イギリス| ||ユリウス暦2月9日|イギリスとオランダが再びウェストミンスター条約を結び、第3次英蘭戦
争が終結
1674年2月24日-09:00|日本| ||延宝2年1月19日|片桐貞房:小泉3代藩主/信隆(庶兄)に1千石を分与
1674年3月8日-09:00|日本| ||延宝2年2月|宿駅駄賃及び撰銭等の禁令を下す
1674年3月15日-09:00|日本| ||延宝2年2月8日|戸田氏西:美濃大垣10万石/弟氏廣に新田2千石を分与
1674年4月6日-08:00|中国| ||清・康熙13年3月|耽精忠が呉三桂の「排満復明」反乱に参加,自立し裕民(-1676)と
建元
1674年4月15日-09:00|日本| ||延宝2年3月10日|八戸で強震。家屋倒壊多数
1674年5月21日-01:00|ポーランド/リトアニア| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国王(ソビェスキ家)ヤン3世ソビェスキ[最も有名なホ
゚ーランド王の一人](~16960617死去66歳)
1674年6月5日-05:30|インド| |||シヴァージーがラーイガドで即位しマラータ王国を樹立
1674年6月5日-09:00|日本| ||延宝2年5月2日|幕府が、僧侶に対する土地・家屋の貸与を禁ずる
1674年6月9日-09:00|日本| ||延宝2年5月6日|松平昌親:越前吉江2万5千石/宗家越前福井藩に吸収→越前福井4
7万5280石/宗家襲封
1674年6月11日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王シリ・サマ[前王の息子](~16850416)
1674年7月1日-09:00|日本| ||延宝2年5月28日|前年10月に竣工した錦帯橋が洪水で流失
1674年7月2日-01:00|ドイツ| |||<即位>ヴュルテンベルク公ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(~16770623)
1674年7月4日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙13年6月|鄭経が泉州攻略
1674年7月13日-09:00|日本| ||延宝2年6月10日|会津藩が会津若松城内に藩営学問所「講所」を設置
1674年7月17日-09:00|日本| ||延宝2年6月14日|暴風雨により淀川・大和川が氾濫。天満橋・京橋・天神橋が流出
1674年9月-01:00|オランダ| |||レーウェンフックが顕微鏡でバクテリアを観察
1674年9月17日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙13年8月18日|朝鮮国王顕宗が崩御
1674年9月22日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙13年8月23日|朝鮮第19代国王肅宗,14歳で即位(-1720年)
1674年9月25日-09:00|日本| ||延宝2年8月26日|二代目中村勘三郎、没
1674年9月30日-09:00|日本| ||延宝2年9月|『しのだづま・つりぎつね付あべノ清明出生』作・伊藤出羽掾/人形
浄瑠璃、陰陽師物の初作か
1674年10月29日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙13年10月|鄭経が章州攻略
1674年10月29日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・徳元1年10月|大越後黎朝10代・嘉宗が徳元と改元(-1675)
1674年11月4日-09:00|日本| ||延宝2年10月7日|狩野探幽、死去/73歳(誕生:慶長7(1602)0114)。絵師
1674年11月8日 00:00|イギリス| |||英の詩人ミルトン死去/65歳(誕生:16081209)「失楽園」
1674年12月-01:00|フランス| |||フランス西インド会社が破産
1674年12月19日 00:00|イギリス| |||クラレンドンが逃亡先のルーアンで没/66歳(誕生:16080228)イギリスの政治家で大法官,
歴史家
1674年12月27日-08:00|中国| ||清・康熙13年12月|陜西提督の王輔臣が呉三桂に呼応して反乱をおこす
1675年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国第15代ヌール・アラム女王即位(~1678)
1675年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王チェイチェター4世(~1695年)
1675年-07:00|タイ| |||ラーンナー王朝ウッパラーチャ・インチェマンの後、チェークトラーの息子が治める(~1707年)
1675年-03:00|ケニア| |||マサイ人がケニアまで南下
1675年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アントニー・ラセット(~1678年)
1675年-02:00|ブルンジ| |||ツチ族の王ンタレ・ルシャチがブルンディに王都を建設
1675年-01:00|フランス| |||カッシーニが土星の輪に間隙のあることを発見
1675年-01:00|オランダ/スリランカ| |||キャンディ王国のラジャシンハ2世とオランダとの間に、休戦協定が結ばれる
1675年-01:00|フランス| |||ギーズ公クロードマリー即位(~1688年)
1675年-01:00|イタリア| |||サヴォイア公国ヴィットーリオ・アメデーオ2世(-1720)→サルデーニャ王へ
1675年-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||スコーネ戦争(~1679)
1675年-01:00|フランス/インド| |||フランス東インド会社がポンディシェリーに商館を建設
1700迄(4525件)
1675年 00:00|ポルトガル| |||ポルトガルのマセドが「王国への技術導入に関する論考」刊
1675年 06:00|アメリカ| |||先住民指導者ポープは反乱を組織.21人の聖職者をふくむ400人の入植者を殺害.サンタフェ
を包囲
1675年1月5日-01:00|フランス| |||チュレンヌ元帥がチュルクハイムの戦いでブランデンブルク軍を破る
1675年1月26日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・永治1年|大越後黎朝11代・熙宗が即位(-1705)永治と改元(~1680年旧
10月)
1675年1月26日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第104代ドメニコ・コンタリーニ
1675年2月1日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第105代ニコロ・サグレード(~16760814)
1675年3月16日-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ロレーヌ家)マリー(~1688年)
1675年4月-01:00|フランス| |||フランスで印紙税一揆
1675年4月17日-09:00|日本| ||延宝3年3月23日|戸川安風:備中庭瀬2万石/弟達富に1千石を分封
1675年6月12日-01:00|フランス/イタリア| |||<即位>サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世(1720年サルデーニャ王~1730年)17321031
死去
1675年6月20日 06:00|アメリカ| |||ニュー・イングランドでフィリップ王戦争が勃発
1675年6月22日-09:00|日本| ||延宝3年閏4月29日|<改易>土井利久:下総古河10万石/無嗣廃絶/叔父に7万石安
堵
1675年6月28日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||ブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ・ヴィルヘルムが(55)が、スウェーデン軍をベルリン北
東のフェールベリンで撃破、ボンメルンを獲得
1675年7月 06:00|アメリカ| |||ヴァージニアでインディアン諸部族と植民者の戦争が勃発
1675年7月11日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アントニオ・ダ・パサーノ(~16770711)
1675年7月11日-09:00|日本| ||延宝3年5月19日|幕府、長崎代官末次平蔵父子を密貿易の咎で隠岐国に配流
1675年7月22日-09:00|日本| ||延宝3年5月30日|土井利益:常陸下妻1万石/宗家に吸収→下総古河7万石
1675年8月-01:00|フランス/イタリア/オランダ/スペイン| |||フランス艦隊がオランダ・スペイン艦隊を破ってシチリアを占領
1675年8月10日 00:00|イギリス| |||ロンドン近郊のグリニッジに、王立天文台(グリニッジ天文台)が創設される
1675年8月12日-09:00|日本| ||延宝3年6月21日|代官伊奈忠易無人島(小笠原)を探検して帰国し、珍しい動物や
植物を幕府に献上
1675年8月15日-09:00|日本| ||延宝3年6月24日|山鹿素行、配流を赦される
1675年8月27日-09:00|日本| ||延宝3年7月7日|幕府、関東8ヵ国の鉄砲改めを行い、農民と浪人の鉄砲所持を禁
止
1675年9月18日-01:00|フランス| |||<死去>ロレーヌ公シャルル4世(3世)
1675年9月18日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)シャルル5世(~16900401)
1675年9月24日-09:00|日本| ||延宝3年8月5日|井上政蔽:下総高岡1万石/弟正式に1500石を分与
1675年9月24日-09:00|日本| ||延宝3年8月5日|西尾忠成:駿河田中2万石→2万5千石/叔父忠知死亡により5千石
を還される
1675年9月28日 03:00|ブラジル| |||マヌエル・ロペスが率いる280名の部隊,パルマレス掃討作戦を展開.「2千の家が立ち並
ぶ町」を制圧し,逃亡奴隷45人を捕獲
1675年10月 00:00|イギリス| |||この月、スコットランドの数学者で発明家グレゴリー没(誕生:1638)反射望遠鏡を発明した
1675年10月23日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王ヌール・アラム女王(~16780123死去)
1675年11月2日 06:00|アメリカ| |||ジョシア・ウィンスロー,ナラガンセット族の婦女子を大虐殺
1675年11月22日-01:00|デンマーク| |||デンマークの天文学者オーレ・レーマーは、木星の衛星イオの公転運動を観測することか
ら光速度を算出し、その結果をパリの科学アカデミーに報告
1675年12月17日-08:00|中国/台湾| ||南明・永暦29年11月|鄭成功の子・鄭経が福建章州を占領
1675年12月29日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1675/12/19|イギリスでコーヒー禁止令発布/コーヒー店の反発で11日で取り消す
1676年-04:00|レユニオン/フランス| |||フランス人入植者がブルボン島へ移住
1676年-02:00|エジプト| |||エジプトでイェニチェリ軍団による最初のクーデタ
1676年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ヴァンフリート方伯[ヘッセン=ラインフェルス=ローテンブルク方伯エルンスト1世の息子]カール(~1711年)
1676年 00:00|イギリス| |||イギリスでウォルポールの内閣制が発足
1676年 06:00|コスタリカ| |||大西洋岸の港マティーナに海賊の襲撃
1676年1月10日-09:00|日本| ||延宝3年11月25日|京大火仮皇居炎上
1676年1月12日-05:30|インド| |||ヴィヤンコージーはマドゥライ・ナーヤカ朝アラギリ・ナーヤカを破り、タンジャーヴールを占拠し自らがタンシ
゙ャーヴールのラージャ(王)と宣言.タンジャーヴール・マラーター王国が成立
1676年2月8日-04:00|ロシア| ||ロシア暦1月29日|ロシア皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチ死去/46歳(誕生:16290321)15歳の長男がフ
ョードル3世として即位(-1682)
1676年2月16日-09:00|日本| ||延宝4年1月3日|井伊直澄/老中解任
1676年3月14日-08:00|中国| ||清・康熙15年2月|尚可喜の子・尚之信が呉三桂に呼応して反乱に参加
1676年5月-01:00|フランス/オランダ/仏領ギアナ| |||フランス領ギアナのカイエンヌをオランダ艦隊が攻撃し,占拠
1676年5月10日 06:00|アメリカ| |||ヴァージニア植民地で、農民たちがインディアン討伐軍を組織して、総督に対して反乱を
起こす(ベーコンの反乱)
1676年6月7日-09:00|日本| ||延宝4年4月25日|森長俊:美作津山新田1万5千石/拝領(-元禄10年播磨三日月へ)
1676年6月12日-09:00|日本| ||延宝4年4月30日|<改易>新庄民部直矩:常陸麻生2万300石/養子筋違→一門の新
庄直時:常陸麻生1万石/3千石加増され再封/以後直詮、直祐、直隆、直侯、直規、直計、直彪、直ハツ(偏に×を2つ書
いて、旁が頁)、直敬と続く(明治4年)
1700迄(4525件)
1676年6月16日-09:00|日本| ||延宝4年5月05日|8日にかけて京で洪水。五条・三条両大橋流出
1676年6月18日-09:00|日本| ||延宝4年5月07日|安芸で洪水により田畑37000石が失われ、1122軒が流出
1676年7月11日-08:00|中国| ||清・康熙15年6月|王輔臣が清に降伏
1676年7月11日-09:00|日本| ||延宝4年6月1日|幕府が庄内・羽黒山に山伏法度を出す
1676年7月12日-09:00|日本| ||延宝4年6月02日|石見で大地震。津和野城に被害が出る。家屋133戸倒壊、海土手9
36間が崩れる
1676年7月22日-01:00|バチカン| |||238代ローマ教皇クレメンス10世死去[1590年07月12日生~](享年86)
1676年8月12日 06:00|アメリカ| |||ワムバノア族の大酋長メタカムが射殺され、メタカムの戦いが終焉
1676年8月13日-09:00|日本| ||延宝4年7月04日|東海道各地で洪水。尾張では田142634石、畑2023町が冠水。家屋
2417軒が流出、男女18人、馬30頭が溺死
1676年8月14日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第105代ニコロ・サグレード
1676年8月15日-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アルマフディ・アフマド・ビン・アルハサン[アルムタワキル・イスマイールの甥](~1681071
0)
1676年8月16日-09:00|日本| ||延宝4年7月7日|幕府が、関東8ヵ国の鉄砲改めを行う/農民と浪人の鉄砲所持が
禁止
1676年8月26日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第106代アルヴィーゼ・コンタリーニ(~16840115)
1676年9月5日-09:00|日本| ||延宝4年7月26日|<改易>土井利直:下総大輸1万石/無嗣廃絶/延宝5年6月27日:養
子利良が名跡を継ぎ5千石
1676年10月4日-01:00|バチカン| |||239代教皇福者インノチェンチオ十一世(-1689年8月12日)
1676年10月18日 06:00|アメリカ| |||ベーコンが死に、ヴァージニアの反乱が分解
1676年10月27日-01:00|ポーランド/ウクライナ/トルコ/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国が、オスマン帝国と休戦協定を結ぶ(ジ
ェラヴノ和約)/ポーランド領ウクライナの一部がオスマン帝国に併合される
1676年10月29日-09:00|日本| ||延宝4年9月22日|増上寺焼失
1676年11月6日-08:00|中国| ||清・康熙15年10月|耽精忠が清に降伏
1676年11月12日-09:00|日本| ||延宝4年10月6日|阿部正能:老中解任
1676年11月30日-09:00|日本| ||延宝4年10月25日|松平定陳:伊予今治藩4万石→3万5千石/弟定道へ5千石分地
1676年12月-01:00|フランス/オランダ/トリニダード・トバゴ/アンティル| |||フランス軍,カイエンヌを奪回.さらにトバコ占拠を目指す.一
時トバコを占領するが,恒久的確保には失敗
1676年12月31日-09:00|日本| ||延宝4年11月27日|陸奥湯本藩1万石(藩主:遠山頼直)陸奥湯長谷に転封
1677年-08:00|インドネシア| |||マドゥラ島の王族トゥルーノジョヨが率いる反乱軍はたちまち東部ジャワ一帯を征服、王都プレレ
ッドを占領/アマンクラット1世はバタヴィアに落ち延びる最中に病死
1677年-02:00|ウクライナ/トルコ| |||オスマン朝がウクライナへ出兵し、ロシアと戦闘
1677年-02:00|モザンビーク/ポルトガル| |||ポルトガル人2000人がモザンビークへ移住
1677年-01:00|オランダ| |||アントン・レーウェンフックが、顕微鏡でヒトの精子を発見
1677年-01:00|オランダ/インドネシア| |||マタラーム王国:トゥルーノジョヨ、王都プレレッドを奪う/アマンクラット1世はバタヴィアに逃れる途
中病死/オランダの傀儡アマンクラット2世(-1703)即位/ジャワ西部プリアンガン地方をVOCに割譲(オランダの最初の領土獲得)
1677年1月1日-01:00|フランス| |||ラシーヌの悲劇「フェードル」がブルゴーニュ座で上演される
1677年1月18日-09:00|日本| ||延宝4年12月15日|松井康官:石見浜田50400石/領地内の新田のうち2千石を弟康
明に分知
1677年1月29日-09:00|日本| ||延宝4年12月26日|中村座、市村座、焼失
1677年2月2日-09:00|日本| ||延宝5年|桑山一尹:大和新庄1万6千石→1万1千石/弟一慶、一英にそれぞれ分封
1677年2月2日-09:00|日本| ||延宝5年|彦根藩4代藩主の井伊直興が玄宮園造営(池泉回遊式庭園)/滋賀県
1677年2月2日-07:00|ベトナム| ||大越莫朝・順徳40年|莫敬宇、黎朝の鄭氏に敗れ清に亡命し(莫朝)滅亡
1677年2月8日-09:00|日本| ||延宝5年1月7日|幕府が、火災現場に無用の者の立ち入りを厳禁し、違反者の斬り
捨てを定める
1677年3月4日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙16年2月|清軍が泉州、章州を占領/鄭経軍はアモイに撤退
1677年3月29日-09:00|日本| ||延宝5年2月26日|幕府江戸城三丸において金貨を鋳造
1677年3月31日-09:00|日本| ||延宝5年2月28日|黒田光之:筑前福岡433100石→473100石/子綱政を嗣子とする
ことによりその領地4万石を還される
1677年5月2日-09:00|日本| ||延宝5年4月|「諸国百物語」刊行/怪談集として初の百物語本
1677年5月7日-09:00|日本| ||延宝5年4月6日|江戸浅草寺炎上
1677年5月31日-08:00|中国| ||清・康熙16年5月|尚之信が清に降伏
1677年6月13日-09:00|日本| ||延宝5年5月13日|<改易>黒田長寛:筑前直方4万石/宗家黒田光之を相続/宗家の
吸収
1677年6月23日-01:00|ドイツ| |||<即位>ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒ(~17331031)
1677年6月23日-01:00|フランス| |||パリ科学アカデミーが、銃を使って音速を測定/毎秒356mの値を出す
1677年7月16日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ギアネティーノ・オドネ(~16790716)
1677年7月30日-09:00|日本| ||延宝5年7月|『天狗内裏』初演/作・近松門左衛門説
1677年8月5日-09:00|日本| ||延宝5年7月07日|保科正景:上総飯野藩1万5千石→2万石/加増
1677年8月26日-09:00|日本| ||延宝5年7月28日|大久保忠朝:老中就任(-1698年2月15日)
1677年9月21日 03:00|ブラジル| |||フェルナン・カリリョによる第二次パルマレス討伐
1677年9月26日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||ブランデンブルグ大選帝侯軍、スウェーデンを破り、ステティンを占領
1700迄(4525件)
1677年10月-01:00|オランダ/インドネシア| |||オランダがジャワ西部のブリアンガン地方を領有
1677年10月28日-09:00|日本| ||延宝5年10月2日|法皇御所の造営が完成
1677年11月1日 00:00|セネガル/フランス/オランダ| |||デストレ提督のフランス艦隊が、西アフリカのオランダ領ゴレ島を攻撃し、奪取
1677年11月4日-09:00|日本| ||延宝5年10月9日|磐城・常陸・安房・上総・下総で地震/津波により磐城地方では家
屋1000余軒が流失し、死者500余人、常陸でも36人が死亡
1677年11月8日-09:00|日本| ||延宝5年10月13日|山内豊明:土佐中村2万7千石→3万石/豊定の養嗣子となって
遺領を継ぎ、自身の所領と合わせる
1677年11月27日-01:00|ハンガリー| |||ハンガリーでイムレ・テケリの反乱
1677年12月4日 03:00|ブラジル| |||カリリョの討伐隊,パルマレス王国の首都ホアン・タピアを制圧/ガンガ・ズンバ王の息子を殺
害し,パルマレス軍司令官ガンガ・ムイカら56人を捕らえる
1678年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国イナヤット・シャー女王即位(~1688)
1678年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:ムラト・ギレイ(~1683年)
1678年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ゲオルグ4世ドゥカ(3度目~1683年)
1678年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公セルバン・カンタクジーノ(~1688年)
1678年-01:00|コンゴ共和国/コンゴ民主共和国| |||コンゴ王国が分裂
1678年-01:00|スペイン| |||スペインがコレヒドール職の売官制を定める
1678年-01:00|ドイツ| |||ハンブルグに、ドイツで初の常設オペラ座できる
1678年-01:00|オランダ/インドネシア| |||マタラーム王国:オランダ軍、トゥルーノジョヨの首都クディリを陥れる
1678年 05:00|キューバ| |||スプリンガー,トリニダーを襲撃
1678年 06:00|ホンジュラス| |||フランス人海賊ミシェル・ド・グラモン、ホンジュラスのトルヒージョを占領
1678年1月17日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガル軍,ジョアン・タピアに代わる首都となったサンミゲルのキロンボを攻撃
1678年1月23日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王イナヤット・シャー女王(~16881003死去)
1678年2月18日-09:00|日本| ||延宝5年閏12月27日|水谷勝宗:備中松山4万8千石→5万石/新田2千石を合わせ
1678年2月21日-09:00|日本| ||延宝6年|軽部神社創建(岡山県総社市)<おっぱい神社>
1678年2月21日-09:00|日本|大谷大学|延宝6年|東本願寺の学寮を東本願寺の別邸渉成園内に移転
1678年2月21日-08:00|モンゴル| |||ガルダンがダライラマからハーンの称号を受けジュンガル王国樹立
1678年3月4日-09:00|日本| ||延宝6年1月12日|幕府が過失による出火の罪を加重し、失火者を斬罪、名主五人組
を入牢とすることを定める
1678年3月15日-09:00|日本| ||延宝6年1月23日|松平乗久:下総佐倉→肥前唐津7万石/以後乗春、乗邑と続く(元禄4年志摩鳥羽へ)
1678年3月15日-09:00|日本| ||延宝6年1月23日|大久保忠朝:肥前唐津→下総佐倉83千石(-貞享3年相模小田原
へ)
1678年3月23日-08:00|中国| ||清・康熙17年3月|清朝に対して反乱を起こしていた呉三桂が衡州で帝位に即位
し、大周と号し昭武(~1678)と建元
1678年3月25日-09:00|日本| ||延宝6年2月3日|大坂、初代坂田藤十郎が荒木与次兵衛座の「夕霧名残正月」に出
演し、大当りをとる(和事の初め)
1678年4月19日-01:00|フランス| |||<初演>ジャン=バティスト・リュリ《歌劇「プシシェ」》
1678年4月21日-09:00|日本| ||延宝6年3月|『古今役者物語』刊行、絵、曲、歌詞、せりふなど記す
1678年4月24日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ7世[ルートヴィヒ6世の上の息子](~16780831死
去)
1678年6月26日-09:00|日本| ||延宝6年5月8日|家綱死去40歳
1678年7月18日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||難を逃れたズンバ王は,ポルトガルの和平案を受諾しようとするが,甥
のズンビらはこの方針を覆し,ズンバを処刑
1678年7月19日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙17年6月|鄭経が福建の海澄県を占領
1678年8月10日-01:00|フランス/オランダ| |||フランスとオランダが、ナイメーヘンで和約を結び、オランダ戦争が終結
1678年8月31日-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒ[ルートヴィヒ6世の下の息子](~17390912
死去)
1678年9月-01:00|ハンガリー| |||テケリが北部ハンガリーにクルク公国を樹立
1678年9月3日-09:00|日本| ||延宝6年7月18日|青山宗俊:大坂城代→遠江浜松5万石/以後忠雄、忠重と続く(-元
禄15年丹波篠山へ)
1678年9月16日-08:00|中国| ||清・康熙17年8月|周・呉三桂が病死し、孫の呉世ハン、即位し洪化(~1681)と改元/三
藩の乱が沈静化へ
1678年9月17日-01:00|フランス/スペイン| |||フランス・スペイン間のナイメーヘンの和約
1678年9月26日-09:00|日本| ||延宝6年8月11日|三代目中村勘三郎、没(初代の三男)
1678年10月2日-09:00|日本| ||延宝6年8月17日|東日本で大地震。花巻、白石城などが破損。上野東照宮なども破
損
1678年10月12日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||ブランデンブルグ大選帝侯軍、スウェーデンを破り、ストラルズランド占領
1678年11月23日-09:00|日本| ||延宝6年10月10日|湛海律師によって宝山寺創建(生駒聖天)/奈良県
1678年12月2日-09:00|日本| ||延宝6年10月19日|越後国高田藩松平家でお家騒動/越後騒動
1678年12月2日-09:00|日本| ||延宝6年10月19日|蜂須賀隆重:阿波富田5万石/拝領/以後隆長、正員と続く(-享
保10年徳島藩の世子となり、所領は徳島藩に返上)
1678年12月8日-09:00|日本| ||延宝6年10月25日|徳川綱豊、父綱重の遺跡を継ぎ甲府藩主となる
1700迄(4525件)
1679年-04:00|オマーン| |||<即位>オマーン(元首)スルタン(ヤルバ朝)ビラーラブ・ビン・サルタン(~1692年)
1679年-04:00|ロシア| |||<即位>カシモフ・ハン国(シビル・ハン国系)ハン:ファーティマ・スルターナ[アルプ・アルスラーンの妻でサイイド・ブルハーンの母
](~1681年)
1679年-01:00|ドイツ| |||<即位>カレンベルク侯エルンスト・アウグスト[ヨハン・フリードリヒの弟](~1692年ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッ
ティンゲン侯領はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領として再編)1698年死去
1679年-01:00|オーストリア/ドイツ| |||<即位>バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル(~1726年)
1679年-01:00|ベルギー| |||<即位>ベルク公ヨハン・ヴィルヘルム2世(~1716年)
1679年 05:00|キューバ| |||グラモント・コリアンダー,バラコア,トリニダー,レメディオスを襲撃
1679年2月5日-01:00|フランス/ドイツ| |||神聖ローマ帝国とフランスがナイメーヘンの和約
1679年2月8日-09:00|日本| ||延宝6年12月27日|<改易>池田恒行:播磨山崎3万石/無嗣廃絶
1679年2月11日-09:00|日本| ||延宝7年|(松平)石川乗政:常陸小張1万石/拝領(-天和2年信濃小諸へ)
1679年2月11日-09:00|日本| ||延宝7年|本多忠恒(康将二男):河内西代1万石/拝領/次に忠統(15千石)が嗣ぐ(享保17年伊勢神戸へ)
1679年2月11日-08:00|中国| ||清・康熙18年1月|岳州の戦いで反乱軍が清軍に破れ華中戦線で反乱軍の撤退が
始まる
1679年4月-05:30|インド| |||ムガル朝アウラングゼーブが非ムスリムへの人頭税を復活
1679年4月5日-09:00|日本| ||延宝7年2月25日|初代森田勘彌、没(別名、又七)
1679年5月10日-09:00|日本| ||延宝7年4月1日|播磨山崎3万石/延宝6年12月27日に当主池田恒行(7歳)無嗣のま
ま死去につき廃絶
1679年5月11日-09:00|日本| ||延宝7年4月2日|土屋数直:老中解任
1679年5月26日-01:00|ドイツ| |||バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル(フェルディナント・マリアとアデライデ・エンリエッタの息子,~1726
年2月26日)即位
1679年6月5日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦5月26日|イギリス議会で人身保護法が制定される
1679年6月29日-01:00|ドイツ/スウェーデン| |||ブランデンブルク選帝侯フルードリッヒ・ヴィルヘルムが、スウェーデン国王カール11世と和約
を結ぶ(サン・ジェルマン・アン・レイの和約)
1679年7月-05:30|インド| |||インドのラージプートで人頭税復活に対して反乱
1679年7月7日-09:00|日本| ||延宝7年5月29日|中村座、市村座焼失
1679年7月25日-09:00|日本| ||延宝7年6月18日|本多康慶:近江膳所6万石/襲封/弟忠恒に1万石分与
1679年7月29日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:アゴスティーノ・スピノラ(~16810729)
1679年8月1日-09:00|日本| ||延宝7年6月25日|久世広之:老中解任
1679年8月2日-09:00|日本| ||延宝7年6月26日|(松平)藤井信之:播磨明石6万5千石→大和郡山8万石(-貞享2年
下総古河へ)
1679年8月2日-09:00|日本| ||延宝7年6月26日|本多政利:大和郡山→播磨明石6万石(-天和2年奥州岩瀬へ)
1679年8月2日-09:00|日本| ||延宝7年6月26日|本多忠英:大和郡山→播磨山崎1万石/以後忠方、忠辰、忠尭、忠可
、忠居、忠敬、忠鄰、忠明と続く(-明治4年)
1679年8月2日-09:00|日本| ||延宝7年6月26日|本多忠国(松平頼元の次男):大和郡山→陸奥福島15万石/移封(天和2年播磨姫路へ)
1679年8月6日-08:00|中国| ||清・康熙18年7月|北京周辺で大地震がおこる
1679年8月16日-09:00|日本| ||延宝7年7月10日|土井利房:下野国内4万石に加増
1679年8月16日-09:00|日本| ||延宝7年7月10日|土井利房:老中就任(-延宝9年2月21日])
1679年8月16日-09:00|日本| ||延宝7年7月10日|堀田正俊:老中就任(-天和1年12月12日])
1679年9月2日-09:00|日本| ||延宝7年7月27日|河北、三河・平谷地震/M8、死者4万5,500人
1679年9月11日-09:00|日本| ||延宝7年8月7日|<改易>土屋直樹:上総久留里2万石/乱心減封/嫡子逵直が家督を
継ぎ3千石
1679年9月19日-09:00|日本| ||延宝7年8月15日|古河大仏建立(西光寺、1979年再建)/茨城県
1679年9月26日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||ルンドの講和が結ばれ、スコーネ戦争が終わる
1679年10月10日 00:00|イギリス| |||イギリスの化学者メーヨ没/36歳(誕生:16430524)/呼吸に関する論文を発表/「紫外
線」を発見した
1679年10月10日-09:00|日本| ||延宝7年9月6日|酒井忠能:信濃小諸3万石→駿河田中4万石/領内失政により転
封(-天和1年改易)
1679年10月10日-09:00|日本| ||延宝7年9月6日|西尾忠成:駿河田中2万5千石→信濃小諸2万5千石(-天和2年遠
江横須賀へ)
1679年11月22日-09:00|日本| ||延宝7年10月19日|越後国高田藩主松平光長の家中騒擾が起こる(越後騒動)
1679年12月4日-09:00|日本| ||延宝7年11月2日|<改易>戸川安風:備中庭瀬2万石/9歳で没し、無嗣廃絶
1679年12月4日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1679/11/24|イギリスの哲学者ホッブス没/91歳(誕生:15880405)
1679年12月29日-09:00|日本| ||延宝7年11月27日|戸川逵富(安風弟):備中庭瀬1万5千石/名跡を継ぎ5千石減
1679年12月29日-09:00|日本| ||延宝7年11月27日|陸奥菊多藩2万石(藩主:土方雄隆)→1万8千石/弟雄賀に2千
石を分封
1680年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1687)7代スルタン・アブドゥルナサール・アブドゥル・カハール即位
1680年-05:00|ウズベキスタン| |||<死去>ブハラ・ハン国(ジャーン朝)ハン:アブドゥル・アズィーズ・ハーン⇒<即位>ブハラ・ハン国(ジャーン朝
)ハン:スブハーン・クリー・ハーン[ナーディル・ムハンマドの次男](~1702年)
1680年-03:00|ウガンダ| |||東アフリカのルオ人とマデイ人が統合し、アチョリ集団を形成
1700迄(4525件)
1680年-02:00|ブルンジ| |||このころ、ブルンディ王国が形成される
1680年-02:00|南アフリカ/オランダ| |||南部アフリカのオランダ人入植者の大半がケープ植民地に移住
1680年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ2世(~1708年)
1680年-01:00|オランダ/イギリス/ミャンマー| |||ビルマで政情不安を理由にイギリスとオランダの商館支店が閉鎖
1680年-01:00|フランス/タイ| |||フランスがタイに商館を開設
1680年 00:00|ポルトガル/ウルグアイ| |||ポルトガルがラ・プラタ川の北岸にコロニア・ド・サクラメントを建設
1680年 03:00|ブラジル/ウルグアイ| |||ドンペドロ2世,リオからの植民者2千を送りウルグアイ南端にまで進出,ブエノスアイレス対
岸にサクラメント植民地(現ウルグアイ領コロニア)を建設/ラプラタ川左岸をブラジル領と主張
1680年 03:00|ウルグアイ| |||ラ・プラタ川の北岸にブラジル人が入植地を建設しスペイン人と対峙
1680年 05:00|ハイチ| |||Dageronと交替したPouancey総督,サントドミンゴのスペイン軍を撃退し全植民地の支配権を維
持
1680年 06:00|アメリカ| |||カロライナ植民地でインディアンの部族対立を助長し奴隷狩り戦争
1680年 07:00|メキシコ| |||サポテカ族,ふたたび反乱
1680年1月12日-09:00|日本| ||延宝7年12月11日|<改易>堀通周:常陸香取領主1万2千石/発狂廃絶/弟に3千石安
堵
1680年1月31日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・正和1年|大越後黎朝11代・熙宗が正和と改元(-1705)
1680年2月-01:00|スペイン| |||スペイン通貨危機で平価50%切り下げ
1680年2月12日-09:00|日本| ||延宝8年1月12日|稲葉正則:相模小田原9万5千石→11万石/月番加判の列をゆる
され伊豆国加茂、駿河国駿河郡1万5千石を加増
1680年2月12日-09:00|日本| ||延宝8年1月12日|鹿児島大火・64人焼死
1680年3月1日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙19年;南明・永暦34年2月|清軍が海澄、厦門などを回復し、鄭経勢力
が中国本土の拠点を喪失
1680年4月3日-05:30|インド| |||シヴァージー死去/52歳(誕生:1627)。マラーター帝国を創設した
1680年5月-08:00|インドネシア| |||バンテン王国王子スルタン・ハジによるクーデター/父王を廃し自ら即位
1680年6月-05:30|インド| |||シヴァージーの長子サンバージーがマラータ王に即位
1680年6月3日-09:00|日本| ||延宝8年5月7日|徳川綱吉:上野館林25万石/幕府将軍職を継承天領に吸収/直轄江
戸800万石(-宝永6年)
1680年6月4日-09:00|日本| ||延宝8年5月8日以降|徳川綱豊:甲斐甲府25万石→35万石/加増
1680年6月4日-09:00|日本| ||延宝8年5月8日以降|牧野成貞:常陸国内1万3千石/拝領
1680年6月4日-09:00|日本| ||延宝8年5月8日|徳川家綱、死去/40歳(誕生:寛永18(1641)0803)第4代将軍
1680年7月21日-09:00|日本| ||延宝8年6月26日|<改易>永井尚長:丹後宮津7万3600石/志摩鳥羽藩主内藤忠勝に
脇差で斬り付けられ即死/継嗣がなく、所領没収
1680年7月21日-09:00|日本| ||延宝8年6月26日|<改易>内藤忠勝:志摩鳥羽33千石/奏者番永井尚長を殺害した
罪により切腹廃絶
1680年8月11日-01:00|スペイン/アメリカ| |||アメリカ南西部のインディアンが、スペイン人植民者の圧政に対して反乱を起こし、ス
ペイン人をリオ・グランデ川下流域に追いやる(プエブロの乱)
1680年8月22日-01:00|ドイツ| |||ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世即位(~1691年9月12日)
1680年8月28日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ジンメルン家系選帝侯)カール2世(~16850526)
1680年8月30日-09:00|日本| ||延宝8年8月7日|永井直圓(尚長弟):大和新庄1万石/再興/以後直亮、直国、直温、
直方、直養、直幹と続く(-文久3年大和櫛羅へ)
1680年9月 06:00|アメリカ| |||<分離>ニューハンプシャーがマサチューセッツから分離
1680年9月1日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)ヨハン・ゲオルク3世(~16910922)
1680年9月11日-09:00|日本| ||延宝8年8月19日|後水尾天皇(法皇)死去/85歳(誕生:文禄5(1596)0604)/108代天
皇/院政が閉じられる
1680年9月15日-09:00|日本| ||延宝8年8月23日|徳川綱吉:第5代の征夷大将軍になる
1680年9月29日-09:00|日本| ||延宝8年閏8月6日|暴風雨、地震、高潮が重なり、家屋3420余戸が倒壊/溺死者700
余人
1680年11月13日-09:00|日本| ||延宝8年9月21日|板倉重種:老中就任(-天和1年11月26日])
1680年11月14日-01:00|ドイツ| |||ドイツの天文学者ゴットフリート・キルヒがキルヒ彗星(1680年の大彗星)発見/最初に望遠鏡
で発見された彗星
1680年12月23日-09:00|日本| ||延宝8年11月3日|幕府が、火つけ・盗賊追捕令をだす
1681年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国アマンクラット2世は荒れ果てた旧都プレレッドを見限り、その北方のカルタスーラ(今のソ
ロ)に新しい首都を建設
1681年-08:00|マレーシア| |||マレーシアでブギス族の民族移動が活発化
1681年-04:00|モーリシャス| |||モーリシャス諸島のドードーが絶滅
1681年-01:00|フランス| |||<就任>トゥールーズ伯(ブルボン家)ルイ=アレクサンドル[フランス王ルイ14世とモンテスパン侯爵夫人との三男](
~1737年)
1681年-01:00|スペイン| |||スペイン領西インドでインディアス法集成を編纂し公布
1681年-01:00|オランダ/インドネシア| |||チレボン王国(西部ジャワのイスラム教国)VOCの保護領に/王国はカスプハン、カノマン、カチレボン
の三つに分裂
1681年 00:00|イギリス/アンティグア・バーブーダ| |||アンティグアにサンカルロス神学大学が設立される
1681年1月-05:30|インド| |||ムガル皇帝アウラングゼーブの第4王子のアクバルが、父帝に対して反乱を起こす/しかし反乱
1700迄(4525件)
は失敗し、アクバルはデカン高原へ逃れる
1681年1月-04:00|ロシア/トルコ| |||オスマン朝とロシアがバフチェサライの講和
1681年1月28日-09:00|日本| ||延宝8年12月9日|幕府が「下馬将軍」の大老酒井忠清を罷免
1681年2月19日-09:00|日本|三越伊勢丹ホールディングス|延宝9・天和1年|呉服店「越後屋」店章を丸三井に定める
1681年3月 04:00|チリ| |||チリ総督ジョセ・デ・ガロは,フアン・エルナンデス島を襲撃
1681年3月2日-09:00|日本| ||延宝9年1月12日|幕府が評定所制定
1681年3月4日 06:00|アメリカ| |||クウェーカー教徒のウィリアム・ペンがペンシルヴァニアを開拓
1681年3月17日-08:00|台湾| ||南明・永暦35年1月28日|台湾・鄭経が没し、次子の鄭克ソウが延平王となる
1681年3月19日-09:00|日本| ||延宝9年1月29日|幕府が市中の問屋・商人に米・麦・大豆の買い置き、買い占めを
禁じる
1681年3月20日-09:00|日本| ||延宝9年2月|板倉重種:下野烏山→武蔵岩槻6万石(-天和2年信濃坂木へ蟄居)
1681年3月26日-09:00|日本| ||延宝9年2月7日|5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願により上野国碓氷八幡宮別当
寺の僧亮賢に高田薬園の地を与えて護国寺を建てさせる/東京都文京区
1681年3月28日-09:00|日本| ||延宝9年2月9日|<改易>加々爪直清:遠江掛塚1万3千石/不正裁判土佐高知に幽閉
廃絶
1681年4月9日-09:00|日本| ||延宝9年2月21日|土井利房:老中解任
1681年4月11日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ツヴァイブリュッケン公(プファルツ=クレーブルク家)カール1世(~16970405死去、スウェ
ーデン王カール11世)
1681年4月13日-09:00|日本| ||延宝9年2月25日|土井利益:下総古河→志摩鳥羽7万石(-元禄4年肥前唐津へ)
1681年4月13日-09:00|日本| ||延宝9年2月25日|那須資弥(資祗):下野福原→下野烏山2万石/次に資徳が嗣ぐ(貞享4年除封)
1681年4月13日-09:00|日本| ||延宝9年2月25日|堀田正俊:上野安中→下総古河13万石/次に正仲(10万石)が嗣
ぐ(-貞享2年出羽山形へ)
1681年4月15日-09:00|日本| ||延宝9年2月27日|<改易>酒井忠挙:下総守谷2万石/宗家酒井忠清を相続宗家に吸
収
1681年4月15日-09:00|日本| ||延宝9年2月27日|酒井忠寛:上野伊勢崎2万石/前橋藩より分知/以後忠告、忠温、
忠哲、忠寧、忠良、忠恒、忠強、忠彰と続く(-明治4年)
1681年5月14日-09:00|日本| ||延宝9年3月26日|阿部正武:老中就任(-宝永1年9月17日])
1681年5月18日-09:00|日本| ||延宝9年4月|阿部正邦:武蔵岩槻9万9千石→丹後宮津73600石(-元禄10年下野宇
都宮へ)
1681年6月7日-09:00|日本| ||延宝9年4月21日|陸奥湯長谷藩1万石(藩主:遠山頼直)が2000石加増→1万2000石
1681年7月 00:00|イギリス| |||王位継承排除法案を推進してきたシャフツベリー伯が反逆罪の容疑で投獄される
1681年7月5日-09:00|日本| ||延宝9年5月20日|常陸の志筑藩の農民が年貢の増加と労役負担の過重に反対して
一揆
1681年7月6日-09:00|日本| ||延宝9年5月21日|板倉重形:下野の内→上野安中15千石/以後重同が嗣ぐ(-元禄15
年陸奥泉へ)
1681年7月10日-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アルムアイヤド・ムハンマド2世[アルムタワキル・イスマイールの息子](~16860427)
1681年8月9日-09:00|日本| ||延宝9年6月26日|<改易>松平光長:越後高田28万石/以後幕府領(-貞享2年3月:168
6)
1681年8月10日-09:00|日本| ||延宝9年6月27日|幕府、越後騒動の裁断不正を理由に大目付渡辺綱貞を八丈島に
配流
1681年8月13日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ルカ・マリア・・インヴリエ(~16830813)
1681年9月9日-09:00|日本| ||延宝9年7月27日|(松平)奥平忠弘:下野宇都宮15万石→陸奥白河15万石/移封(養
子忠尚に2万石分与)(-元禄5年出羽山形へ)
1681年9月9日-09:00|日本| ||延宝9年7月27日|本多忠平:陸奥白河10万石→下野宇都宮11万石/移封
1681年9月24日-09:00|日本| ||延宝9年8月13日|松平義行(徳川(尾張)光友の次男):信濃竹佐30537石/拝領(-元
禄13年美濃高須へ)
1681年9月30日-01:00|フランス/ドイツ| |||フランスがストラスブール(アルザス)を占領し併合
1681年10月3日-09:00|日本| ||延宝9年8月22日|幕府が初めて奥右筆を設置
1681年10月12日-09:00|日本| ||延宝9・天和1年9月|本多忠利:陸奥石川1万石→三河挙母(桜城)1万石/以後[元
禄13年7月]忠次[正徳1年12月]忠央(-寛延2年遠江相良へ)
1681年10月26日-09:00|日本| ||延宝9年9月15日|陸奥浅川藩1万石(藩主:本多忠晴)三河伊保に転封
1681年11月9日-09:00|日本| ||天和1年9月29日|「天和」に改元
1681年12月2日-09:00|日本| ||天和1年10月23日|幕府、皇子寛清親王事件に関係がある権大納言小倉実起・公連
父子を佐渡国に配流
1681年12月7日-08:00|中国| ||清・康熙20年10月28日|周・呉世ハンが清軍の雲南城攻めで追い詰められて自殺、清
軍が三藩の乱を完全に制圧
1681年12月10日-09:00|日本| ||天和1年11月|稲葉正往:摂津国内3万石/拝領(-天和3年相模小田原藩相続)
1681年12月24日-09:00|日本| ||天和1年11月15日|戸田忠昌:肥後富岡2万1千石→武蔵岩槻5万1千石/移封/富岡
城は破却され、以後、天草は幕領となる
1681年12月24日-09:00|日本| ||天和1年11月15日|戸田忠政:老中就任(-元禄12年9月10日])
1681年12月31日-09:00|日本| ||天和1年11月22日|<改易>真田信利:上野沼田3万石/懈怠廃絶/出羽山形に幽閉
1700迄(4525件)
1682年-08:00|インドネシア| |||マタラーム王国:トゥルーノジョヨが捕まり、王都で処刑されて、大反乱終結
1682年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ヨアン・デスバッハ・マルトレル(~1688年)
1682年 00:00|イギリス/インドネシア| |||イギリスがスマトラ南部のベンクーレンに商館を建設
1682年 04:30|ベネズエラ| |||ド・グラモン,ベネズエラのラ・グアイラ攻略に成功
1682年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督ジョセフ=アントワーヌ・ド・ラ・バレ(~1685年)
1682年 07:00|メキシコ| |||ド・グラモンとオランダ人ラウレンス・デ・グラーフ,カンペチェを占拠し焼き払う
1682年 07:00|メキシコ| |||ド・グラモンとオランダ人ラウレンス・デ・グラーフ,ベラクルスの攻略に成功
1682年1月-04:00|ロシア| |||ロシアが門地制度を廃止
1682年1月1日-02:00|ラトビア| |||<即位>クールラント公フリードリヒ・カジミール・ケトラー(~16980122死去)
1682年1月3日-09:00|日本| ||天和1年11月25日|板倉重種:老中解任
1682年1月16日-09:00|日本| ||天和1年12月8日|稲葉正則:老中解任
1682年1月18日-09:00|日本| ||天和1年12月10日|<改易>酒井忠能:駿河田中4万石/酒井忠清事件に連座近江彦
根に幽閉廃絶
1682年1月19日-09:00|日本| ||天和1年12月11日|堀田正俊:老中→大老就任(-貞享1年8月28日])
1682年1月21日-09:00|日本| ||天和1年12月13日|伊勢内宮が炎上
1682年2月7日-08:00|台湾| ||清・康熙21年|チベット、ダライラマ5世没(1617~)
1682年2月7日-08:00|台湾| ||清・康熙21年1月|耽精忠が処刑される
1682年2月8日-09:00|日本| ||天和2年|鯛屋旅館創業(静岡県富士市)
1682年2月15日-08:00|台湾| ||清・康熙21年1月9日|顧炎武が陝西省華陰で没/69歳(誕生:1613)/清朝考証学の
祖
1682年2月28日-09:00|日本| ||天和2年1月21日|牧野成貞:常陸国内1万3千石→3万3千石/加増
1682年2月28日-09:00|日本| ||天和2年1月21日|幕府が大老堀田正俊に4万石を加封
1682年3月10日-09:00|日本| ||天和2年2月2日|本多忠周:三河足助1万石/拝領(-貞享4年、勤務が良くないとさ
れ3千石減封されたが、後、交代寄合に復し、幕末まで続いた)
1682年3月18日-09:00|日本| ||天和2年2月10日|<減転封>松平直矩:播磨姫路15万石→豊後日田(永山城)7万石(
-貞享3年出羽山形へ)/松平光長事件に連座8万石減転封
1682年3月18日-09:00|日本| ||天和2年2月10日|<減転封>板倉重種:武蔵岩槻6万石→信濃坂木5万石/失策の責
任1万石減転封/次に重寛(3万石)が嗣ぐ(-元禄15年陸奥福島へ)
1682年3月18日-09:00|日本| ||天和2年2月10日|<減封>松平近栄:出雲広瀬3万石/松平光長に連座し15千石没収
減
1682年3月18日-09:00|日本| ||天和2年2月10日|松平頼雄(水戸藩徳川頼房の七男):常陸宍戸1万石/拝領/以後
頼道、頼慶、頼多、頼救、頼敬、頼カタ[竹冠に均の字]、頼位、頼徳、頼位(-明治4年宍戸藩知事)
1682年3月20日-09:00|日本| ||天和2年2月12日|土屋政直:常陸土浦4万5千石→駿河田中4万5千石(-貞享1年大
坂城代へ)
1682年3月20日-09:00|日本| ||天和2年2月12日|本多忠国(松平頼元の次男):陸奥福島15万石→播磨姫路15万石
/次に忠孝が嗣ぐ(-宝永1年越後村上へ)
1682年3月27日-09:00|日本| ||天和2年2月19日|(松平)大河内信興:武蔵・下総の内→常陸土浦22千石(後32千石
)/移封(-貞享4年大坂城代へ)
1682年3月30日-09:00|日本| ||天和2年2月22日|<減移封>本多政利:播磨明石6万石→陸奥岩瀬1万石/領内混乱(
-元禄6年改易)
1682年3月30日-09:00|日本| ||天和2年2月22日|<減移封>本多利長:遠江横須賀5万石→出羽村山1万石/領内混
乱 4万石減転封/次に助芳が嗣ぐ(-元禄12年越後糸魚川へ)
1682年4月6日-09:00|日本| ||天和2年2月29日|堀田正英:常陸北条13千石/拝領(-元禄1年改易/死後、次男に3千
石、三男に2千石が与えられたが、8千石は収公、長男は蟄居)
1682年4月9日-01:00|フランス/アメリカ| |||フランスの探検家ラ・サールが、五大湖からミシシッピ川流域一帯をルイジアナと名付けてフ
ランス領有を宣言
1682年4月16日-09:00|日本| ||天和2年3月9日|西尾忠成:信濃小諸2万5千石→遠江横須賀2万5千石/以後忠尚(3
5千石)、忠需、忠移、忠善、忠固、忠受、忠篤と続く(-明治1年安房花房へ)
1682年4月18日-01:00|フランス| |||<初演>ジャン=バティスト・リュリ《歌劇「ペルセ」》
1682年4月23日-09:00|日本| ||天和2年3月16日|松平直明:越前大野5万石→播磨明石6万石/以後直常、直純、直
泰、直之、直周、斉韶、斉宜、慶憲、直致と続く(-明治4年)
1682年4月23日-09:00|日本| ||天和2年3月16日|土井利房:下野国内→越前大野4万石/転封/以後利知、利寛、利
貞、利義、利器、利忠、利恒と続く(-明治4年)
1682年4月29日-09:00|日本| ||天和2年3月22日|(松平)石川乗政:常陸小張→信濃小諸2万石/次に乗紀が嗣ぐ(元禄15年美濃岩村へ)
1682年5月6日-01:00|フランス| |||ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移転
1682年5月6日-09:00|日本| ||天和2年3月29日|堀田正休:上野吉井1万石/拝領(-元禄11年近江宮川へ)
1682年5月7日-04:00|ロシア| ||ロシア暦4月27日|ロシア皇帝フョードル3世死去/21歳(誕生:1661)弟のイヴァン5世(-1689)とピ
ョートルを共同統治者として、異母姉のソフィア・アレクセーエヴナ(25)が摂政となる
1682年5月24日-08:00|中国/日本| ||天和2年5月|明の儒学者朱舜水が日本で没/83歳
1682年5月28日-09:00|日本| ||天和2年4月21日|植村忠朝:上総勝浦9千石→11千石/加増/以後正朝(弟忠元に1
千石を分知1万石)、恒朝と続く(-宝暦1年改易)
1700迄(4525件)
1682年6月6日-09:00|日本| ||天和2年5月|中村善五郎座、葺屋町に開場
1682年6月7日-09:00|日本| ||天和2年5月02日|田村建顕:陸奥岩沼3万石→陸奥一関3万石/以後誠顕、村顕、村隆
、村資、宗顕、邦顕、邦行、通顕、邦栄、崇顕(2万7千石)と続く(-明治4年)
1682年7月1日-09:00|日本| ||天和2年5月26日|<改易>桑山一尹:大和新庄1万1千石/勅使に不敬/所領没収
1682年7月18日-09:00|日本| ||天和2年6月14日|勘定吟味役を設置
1682年7月19日-03:00|エチオピア| |||<即位>エチオピア帝国国王(ソロモン朝)イヤス1世(~17061013)
1682年7月23日-09:00|日本| ||天和2年6月19日|加藤明友:石見吉永1万石/廃藩→近江水口2万石/次に明英が嗣
ぐ(-元禄8年下野壬生へ)
1682年8月 00:00|イギリス| |||天文学者エドモンド・ハレーが彗星を発見/ハレーは1705年にこの彗星の軌道計算に成功し、
この彗星は「ハレー彗星」と名付けられることになる
1682年9月2日-09:00|日本| ||天和2年8月|稲葉正休:美濃青野5千石→12千石/加増(-貞享1年絶家・改易)
1682年9月2日-08:00|台湾| ||南明・永暦36年8月|台湾原住民の反乱
1682年10月29日-09:00|日本| ||天和2年9月29日|酒井忠稠:越前敦賀1万石/拝領/以後忠菊、忠武、忠香、忠言、忠
エ、忠マス(11080石)、忠経(9280石)と続く(-明治3年)
1682年10月31日-09:00|日本| ||天和2年10月|坂本重治(小林正信の子):相模深見1万石/7800石加増(-元禄2年
所領7800石収公され旗本に降格)
1682年11月23日-01:00|フランス| |||仏の画家ロラン/死去/風景画の代表的作家
1682年11月29日-09:00|日本| ||天和2年11月|井原西鶴「好色一代男」刊行
1682年12月13日-09:00|日本| ||天和2年11月15日|戸田忠昌:畿内五国内4万1千石→武蔵岩槻51千石(-貞享3年
下総佐倉へ)
1683年-08:00|フィリピン| |||フィリピン、サンパレス地方で反乱
1683年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:ハージー2世ギレイ(~1684年)
1683年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ステファン11世ペトリセイク(3度目~1684年)
1683年-01:00|デンマーク| |||デンマークのクリスチャン5世がデンマーク法を集大成
1683年 00:00|ポルトガル| |||ポルトガル王ペドロ2世(-1706年)
1683年1月25日-09:00|日本| ||天和2年12月28日|八百屋於七火事、中村座、市村座、中村善五郎座、傳内座、焼失
1683年1月28日-09:00|日本| ||天和3年|大日如来坐像建立(目黒不動)/東京都
1683年1月28日-09:00|日本| ||天和3年1月|「役者評判記」著・井原西鶴,刊行
1683年2月6日-09:00|日本| ||天和3年1月10日|喜多見重政(旗本石谷長門守武清の次男)6800石加増→武蔵国喜
多見潘1万石/拝領(-元禄2年所領収公配流)
1683年2月19日-09:00|日本| ||天和3年1月23日|中村勘解由、火附盗賊改を拝命/火附盗賊改の初め
1683年3月3日-09:00|日本| ||天和3年2月5日|幕府が新奇の染織を禁じる
1683年3月16日-09:00|日本| ||天和3年2月18日|歌舞伎役者の衣服の華美が禁止され、先例を守ることが命じら
れる
1683年3月22日-09:00|日本| ||天和3年2月24日|幕府が庶民に衣服制限令を出す
1683年3月27日-09:00|日本| ||天和3年2月29日|幕府が公儀辻番・大名辻番・組合辻番の人員・勤務などの規則を
定める
1683年4月6日-09:00|日本| ||天和3年3月10日|皇大神宮の造営が完成し、この日遷宮
1683年4月25日-09:00|日本| ||天和3年3月29日|八百屋の於七、火炙の刑(1月28日説も)
1683年5月26日-09:00|日本| ||天和3年5月|板倉重寛:信濃坂木5万石→3万石/従兄弟重宣に上総高滝2万石分与
1683年5月26日-09:00|日本| ||天和3年5月|板倉重宣:上総高滝2万石/拝領/次に重高が嗣ぐ(-元禄12年備中庭
瀬へ)
1683年5月26日-09:00|日本|三井住友フィナンシャルグループ|天和3年5月|三井高利(61)の越後屋呉服店に三井両替店を
併設
1683年5月26日-09:00|日本|三越伊勢丹ホールディングス|天和3年5月|三井高利(61)の越後屋呉服店が駿河町に移転
1683年6月1日-09:00|日本| ||天和3年5月07日|陸奥盛岡藩8万石(藩主:南部重信)、新田を幕府に届け出て高直
しを行い、領地の広さはそのままで10万石の格式に復活/以後、行信、信恩、利幹、利視、利雄、利正、利敬が相続
1683年6月23日 06:00|アメリカ| |||ウィリアム・ペンがインディアンとエルム条約を締結
1683年7月14日-01:00|オーストリア/トルコ| |||35万のオスマン帝国軍がウィーンを包囲する(第2次ウィーン包囲)
1683年7月21日-09:00|日本| ||天和3年閏5月27日|稲葉正往:父正則の遺領を継ぐ、還付/摂津国内等3万石
1683年7月22日-09:00|日本| ||天和3年閏5月28日|徳川徳松:上野館林25万石/無嗣廃絶
1683年7月31日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1683/7/21|ウィリアム・ラッセルが反乱罪で断首される/43歳(誕生:16390808)チャ
ールズ2世とヨーク公を暗殺しようと企んで捕らえられた
1683年8月18日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:フランセスコ・マリア・レルカリ・インペリアル(~16850818)
1683年9月12日-01:00|オーストリア/ポーランド/トルコ/リトアニア| |||ポーランド・リトアニア共和国王ヤン3世ソビエスキ率いる10万のヨーロッハ
゚混成軍がウィーンの北方でオスマン軍を破る/オスマン軍はベオグラードへ撤退
1683年9月14日-01:00|オランダ| |||オランダの博物学者レーウェンフークが虫歯菌を発見と学会に報告
1683年9月15日-09:00|日本| ||天和3年7月25日|幕府が武家諸法度を改定し、文治主義を明確にする
1683年9月24日-09:00|日本| ||天和3年8月04日|松平義昌(尾張徳川光友の次男)が陸奥梁川3万石を拝領/以後
義方、義貞、通春が嗣ぐ(-享保15年宗家尾張藩を相続)
1683年10月8日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙22年;南明・永暦37年8月18日|清軍が台湾に入り鄭氏勢力が清に降
伏、台湾が清朝の領土に編入される
1700迄(4525件)
1683年10月11日-09:00|日本| ||天和3年8月21日|久世重之:下総関宿→備中庭瀬5万石(-貞享3年丹波亀山へ)
1683年10月21日-09:00|日本| ||天和3年9月2日|牧野成貞:常陸国内3万3千石→下総関宿5万3千石/移封/次に成
春が嗣ぐ(-宝永2年三河吉田へ)
1683年10月30日 06:00|アメリカ| |||ハドソン川流域植民地会議で自由の憲章が採択
1683年11月6日 00:00|ポルトガル| |||<死去>ポルトガル王国国王(ブラガンサ家)ペドロ2世[ジョアン4世の子](~17061209死
去)
1683年11月30日-09:00|日本| ||天和3年10月12日|於七火事の事件で別に4人火炙りの刑
1683年12月-01:00|フランス/スペイン| |||フランス軍がスペイン領ネーデルランドに侵入したため、スペインがフランスに宣戦布告
1683年12月19日-01:00|フランス| |||<即位>アンジュー公(スペイン・ブルボン家)フィリップ2世(~1700年)17460709死去62歳
1684年-05:30|インド| |||<即位>タンジャーヴール・マラーター王国国王シャーフージー(~1712年)
1684年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:セリム1世ギレイ(~1691年、2期目)
1684年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ドミトラスク・カンテクジーノ(3度目~1685年)
1684年-01:00|ドイツ| |||ドイツのライプニッツが微積分法を発表
1684年 03:00|ブラジル| |||ブラジルでベックマンが反乱
1684年1月15日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第106代アルヴィーゼ・コンタリーニ
1684年1月26日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第107代マルカントニオ・ジュスティニアン(~16880323)
1684年2月1日-09:00|日本| ||天和3年12月16日|中村座より出火、市村座も焼失
1684年2月15日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙23年|この年,朝鮮「宣朝宝鑑」を編集
1684年2月16日-09:00|日本| ||天和4・貞享1年|米津政武:摂津・河内の内→武蔵久喜12千石/以後政矩、政容、政
崇、通政と続く(-寛政10年出羽長瀞へ)
1684年2月16日-09:00|日本| ||天和4年1月|酸ヶ湯温泉開湯/青森県
1684年2月25日 03:00|ブラジル| |||マラニョン州サンルイスの綿花栽培者,マラニョン会社の貿易独占と横暴に対し反乱/知事を
逮捕し革命政府樹立/マヌエル・ベックマンを統領に選出
1684年3月5日-01:00|ドイツ/バチカン/イタリア/ポーランド/リトアニア| |||オスマン帝国に対抗して、教皇を盟主と神聖ローマ帝国、ポ
ーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィアの神聖同盟が結成される
1684年3月16日-09:00|日本| ||天和4年2月1日|竹本義太夫、大坂道頓堀に竹本座を設立
1684年3月17日-09:00|日本| ||天和4・貞享1年2月|松平乗次:三河大給16千石/拝領/以後[貞享4年9月]乗成[元
禄16年12月]乗真(-正徳1年三河奥殿へ)
1684年4月5日-01:00|リヒテンシュタイン| |||<即位>第3代リヒテンシュタイン公ヨハン・アダム・アンドレアス(ハンス・アダム1世)[カール・オイゼビウス
の息子](~17120616)1699年にシェレンベルクを獲得
1684年4月5日-09:00|日本| ||貞享1年2月21日|「貞享」に改元
1684年4月11日-09:00|日本| ||貞享1年2月27日|幕府が関東の譜代大名に半年ごとの参勤交代を命じる
1684年4月15日-09:00|日本| ||貞享1年3月|『門松四天王』〈鳴神〉初演、鳴神・初代市川段十郎、雲の絶間姫・
初代伊藤小太夫(市川團十郎十八番のひとつ)「能の『一角仙人』より」中村座
1684年4月15日-09:00|日本| ||貞享1年3月|竹本座(人形浄瑠璃)大阪に開場、竹本義太夫
1684年4月15日-09:00|日本| ||貞享1年3月1日|服忌令を制定
1684年4月18日-09:00|日本| ||貞享1年3月3日|明の大統暦を採用
1684年5月14日-08:00|中国/台湾| ||清・康熙23年4月|清が台湾に1府3県をおき、福建省に編入
1684年7月15日-01:00|オーストリア/イタリア/ポーランド/トルコ/リトアニア| |||オーストリア、ヴェネツィア、ポーランド・リトアニア共和国の神聖同盟
がオスマン帝国に宣戦
1684年7月17日-09:00|日本| ||貞享1年6月5日|井原西鶴が大矢数俳諧で1日23500句の即吟記録
1684年8月 00:00|イギリス/ジャマイカ| |||マルーン(逃亡黒人)による反乱開始
1684年8月7日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,サンタ・マウーラ征服
1684年8月15日-01:00|フランス/ドイツ| |||ルイ14世が、神聖ローマ皇帝レオポルド1世と20年間の休戦協定を結ぶ
1684年8月15日-01:00|フランス/ルクセンブルグ| |||レーゲンスブルグの和約でフランスがルクセンブルグを占領
1684年8月21日-09:00|日本| ||貞享1年7月10日|土屋政直:駿河田中4万5千石→6万5千石/大坂城代に進んで2万
石を加増
1684年8月29日-09:00|日本| ||貞享1年7月19日|太田資直:河内・摂津・和泉・常陸の内→駿河田中5万石/次に資
晴が嗣ぐ(-宝永2年陸奥棚倉へ)
1684年9月1日-09:00|日本| ||貞享1年7月22日|<改易>土方雄隆:陸奥窪田1万8000石/家督争いの御家騒動によ
り所領没収越後村上に幽閉/幕府領になる
1684年9月9日-09:00|日本| ||貞享1年7月30日|<改易>有馬豊範:筑後松崎1万石/土方雄隆事件に連座筑後久留
米に幽閉/1代で絶家・廃絶
1684年9月29日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ベネツィアにプレヴェザ降伏
1684年10月7日-09:00|日本| ||貞享1年8月28日|<改易>稲葉正休:美濃青野1万2000石/江戸城中において大老堀
田正俊を刺殺し自身もその場で斬殺される
1684年10月7日-09:00|日本| ||貞享1年8月28日|大老堀田正俊、若年寄稲葉正休によって江戸城中で殺害される
1684年10月8日-09:00|日本| ||貞享1年8月28日以降|堀田正虎(正俊二男):下野大宮2万石/分知(-元禄7年兄の
養子となり陸奥福島へ)
1684年10月8日-09:00|日本| ||貞享1年8月28日以降|堀田正高:下野佐野(植野城)1万石/拝領(-元禄11年近江堅
田へ移封し天領に)
1684年10月9日-09:00|日本| ||貞享1年9月01日|日光地震。堂塔倒壊あり、山崩れで川埋まる
1700迄(4525件)
1684年11月7日-08:00|中国| ||清・康熙23年10月|清が海禁政策を解除し、展海令を出す
1684年12月5日-09:00|日本| ||貞享1年10月29日|安井算哲が、平安時代から使われていた宣明暦の誤りを修正・
改良した大和暦を幕府に提出。後の貞享暦
1684年12月17日-09:00|日本| ||貞享1年11月10日|<改易>松平忠勝:上総佐貫1万5000石/大不敬/子孫は旗本と
して存
1684年12月22日-09:00|日本| ||貞享1年11月16日|日向飫肥で地震。城本丸裂ける
1685年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第17代ハン:フダーイダード[アヌーシャの子](~1687年)
1685年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王コンスタンチン・カンテミール(~1693年)
1685年-02:00|ジンバブエ| |||南部アフリカのチャンガミレ国がトルワを滅ぼす
1685年-01:00|ドイツ| |||<即位>ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯(新ブラウンシュヴァイク家)アントン・ウルリヒ(~1714年死去)
1685年-01:00|スペイン| |||スペイン,黒人法制定.すべての黒人をカトリックに入信させ,ブードゥー教を禁止/プランテーションか
らの外出,奴隷主の許可のない結婚,私有財産の保有が禁止される
1685年-01:00|フランス| |||フランスがカリブ植民地で黒人法典を公布
1685年 00:00|イギリス| |||チャールズ1世の息子がイングランド王ジェームズ2世・スコットランド王ジェームズ7世として即位(-1688)
1685年 04:00|チリ| |||海賊スワム船長,バルディビアを攻撃するが,守備隊の猛攻の前に敗退
1685年 04:00|チリ| |||ウィリアム・ナイトの率いる英仏混合軍,数十人がラ・セレーナを襲撃/守備隊に追い返される
1685年 05:00|パナマ| |||グラーフ,グロニエ,タウンリーが率いる海賊軍団がパナマを攻撃するが,失敗
1685年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督ドゥノンヴィル侯爵ジャック=ルネ・ド・ブリセー・ド・ドゥノンヴィル(~1689
年)
1685年 06:00|コスタリカ| |||太平洋岸のエスパルサ,英海賊の襲撃により壊滅
1685年 06:00|ニカラグア| |||コスタリカのプエブロ・ビエホ,ニカラグアのグラナダを攻撃
1685年 07:00|メキシコ| |||フランス人海賊グラモン,カンペチェ攻略に成功
1685年1月-01:00|フランス/アメリカ| |||ラサールがルイジアナにセントルイス要塞を建設
1685年1月5日-09:00|日本| ||貞享1年12月1日|江戸幕府が天文方を設置。貞享暦作成の功により安井算哲(渋川
春梅)を任命
1685年2月3日-08:00|中国| ||清・康熙24年|清が広州、章州、寧波、上海の4海関を設置
1685年2月4日-09:00|日本| ||貞享2年|この年松尾芭蕉「野ざらし紀行」できる
1685年2月4日-09:00|日本| ||貞享2年|松平近栄:出雲広瀬1万5千石→2万石/加増
1685年2月4日-09:00|日本| ||貞享2年1月|『暦』著・井原西鶴・刊行
1685年2月11日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガルは軍を送りマラニョンの反乱を鎮圧/ベックマン,ホルヘ・サンパイオら指導
者を処刑
1685年2月16日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月6日|<死去>イングランド王チャールズ2世/54歳(誕生:16300529)→<即位>ジェ
ームズ2世[弟](~16881223廃位)17010916死去67歳
1685年3月25日-09:00|日本| ||貞享2年2月21日|『椀久一世の物語』著・井原西鶴・刊行
1685年3月26日-09:00|日本| ||貞享2年2月22日|111代後西天皇崩御(49歳)
1685年4月16日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王ワラ・ダマラザ[前王の兄弟](~16920620)
1685年4月23日 06:00|アメリカ| |||<発足>アメリカ植民地に、ニュー・イングランド領が結成
1685年5月 00:00|イギリス/アメリカ| |||ニューイングランド王領の総督に、アンドロスが就任
1685年5月26日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ノイブルク家系選帝侯)フィリップ・ヴィルヘルム(~16900902)
1685年6月2日-04:00|ロシア/中国| ||清・康熙24年5月|清軍とロシア軍がアルバジン(稚克薩)で戦闘
1685年6月11日 00:00|イギリス| |||イギリスでマンモス公の反乱がおこる
1685年7月-05:30|インド| |||アーラム率いるムガル軍がハイダラーバードを攻撃
1685年7月2日-09:00|日本| ||貞享2年6月|池田仲澄:因幡鳥取新田(東館)3万石/拝領/以後仲央、仲庸、澄延、延
俊、澄時、仲雅、仲律、仲建、徳澄と続く(-明治3年)
1685年7月11日-09:00|日本| ||貞享2年6月10日|松平信之:老中就任(-貞享3年7月21日)
1685年7月23日-09:00|日本| ||貞享2年6月22日|奥平昌章:出羽山形9万石→下野宇都宮9万石(-元禄8年)/移封/
次に昌成が相続(-元禄10年)
1685年7月23日-09:00|日本| ||貞享2年6月22日|堀田正仲:下総古河→出羽山形10万石/移封(-貞享3年陸奥福島
へ)
1685年7月28日-09:00|日本| ||貞享2年6月27日|(松平)藤井信之:大和郡山→下総古河9万石/次に忠之(8万石)
が嗣ぐ(-元禄6年狂気により改易)
1685年8月11日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ベネツィア,拠点コロン(ギリシア)を征服
1685年8月13日-09:00|日本| ||貞享2年7月14日|江戸幕府が将軍通行のときの犬猫の繋留を禁止初の「生類憐み
の令」
1685年8月23日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ピエトロ・ドゥラッゾ(~16870823)
1685年9月14日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ベネツィアがカラマータ降伏させる
1685年9月28日-09:00|日本| ||貞享2年9月|久世重之:備中庭瀬5万石→丹波亀岡5万石(-元禄10年三河吉田へ)/
移封
1685年10月12日-09:00|日本| ||貞享2年9月15日|本多忠平:下野宇都宮→大和郡山12万石/以後忠常、忠直、忠村
、忠烈(5万石)と続く(-享保8年嗣子なく断絶)
1685年10月18日-01:00|フランス| |||フランス国王ルイ14世がナントの王令を廃止し、プロテスタントを全面的に禁止
1685年10月23日-09:00|日本| ||貞享2年9月26日|山鹿素行/死去/古学派の儒者・兵学者「聖教要録」
1700迄(4525件)
1685年12月19日-09:00|日本| ||貞享2年11月24日|市村長太夫、没7才(六代目市村羽左衛門)
1685年12月21日-09:00|日本| ||貞享2年11月26日|幕府が、宅地法で野屋敷の購入を許可するが、新築は禁止
1685年12月26日-09:00|日本| ||貞享2年12月|稲葉正往:相模小田原8万5千石→越後高田10万3千石(-元禄14年
下総佐倉へ)
1685年12月26日-09:00|日本| ||貞享2年12月1日|幕府、貞享歴を献上した渋川春海を天文方に任命(天文方の創
置)
1686年-08:00|インドネシア| |||ウントゥン・スロパティ(スラパティ)の反乱(-1706)/西ジャワで蜂起し、中部ジャワに移動してマタラーム
王国の支援を受け、さらにジャワ東部へ逃れてオランダやマタラームを攻撃
1686年 04:00|チリ| |||デービス船長,ラ・セレーナを攻撃.守備隊の反撃に合い,30時間教会に立てこもった後フアン・エルナンテ
゙スに敗走
1686年1月4日-09:00|日本| ||貞享2年12月10日|中国・四国に大地震が発生/阿芸では人家が倒壊して死者が続
出、伊予の道後温泉は黄濁
1686年1月10日 03:00|ブラジル| |||フェルナン・カリリョによる第三次パルマレス掃討作戦
1686年1月12日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙24年12月18日|朝鮮、人参犯罪取締法を制定
1686年1月24日-09:00|日本| ||貞享3年|<加増>喜多見重政:武蔵喜多見1万石→2万石(-元禄2年所領収公配流)
1686年2月13日-09:00|日本| ||貞享3年1月21日|(松平)藤井忠周:丹波亀山→武蔵岩槻48千石(-元禄10年但馬出
石へ)
1686年2月13日-09:00|日本| ||貞享3年1月21日|戸田忠昌:武蔵岩槻5万1千石→下総佐倉6万1千石/次に忠真(67
800石)が嗣ぐ(-元禄14年越後高田へ)
1686年2月13日-09:00|日本| ||貞享3年1月21日|大久保忠朝:下総佐倉→小田原10万3千石/移封/以後忠増、忠方
、忠興、忠由、忠顕、忠真、忠ナオ、忠礼、忠良(75千石)と続く(-明治4年)
1686年2月23日-09:00|日本| ||貞享3年2月|『好色五人女』著・伊原西鶴・刊行
1686年4月23日-09:00|日本| ||貞享3年閏3月|松平吉品:越前福井25万石/5代昌親の再勤/以後吉邦、宗昌(30万
石)、宗矩、重昌、重富、治好、斉承(32万石)、斉善、慶永、茂昭と続く(-明治4年)
1686年4月28日 00:00|イギリス| |||ニュートンは、近代物理学の基礎となる「自然哲学の数学的原理(プリンキピア第1部)」
の原稿を王立協会に提出
1686年4月28日-09:00|日本| ||貞享3年閏3月6日|<改易>松平綱昌:越前福井52万5282石/発狂/一族が25万石相
続
1686年4月28日-09:00|日本| ||貞享3年閏3月6日|松平昌親:越前吉江2万5千石/宗家松平綱昌を相続宗家に吸収
1686年5月-01:00|ポーランド/ロシア/リトアニア| |||ロシアがポーランド・リトアニア共和国との「恒久平和」
1686年6月12日-09:00|日本| ||貞享3年4月22日|幕府が全国鉄砲改め令を公布
1686年7月9日-01:00|ドイツ/オランダ/スペイン/スウェーデン| |||フランスに対抗するため、神聖ローマ帝国、スペイン、オランダ、スウェーデン
がアウグスブルク同盟を結成
1686年7月12日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ベネツィアが重要拠点モドン(コロン付近)を占領
1686年7月17日-09:00|日本| ||貞享3年5月27日|森長武:美作国内2万石/分地
1686年7月20日-09:00|日本| ||貞享3年6月|『鹿の巻筆』著・鹿野武左衛門・刊行
1686年7月20日-09:00|日本| ||貞享3年6月|「古今百物語評判」刊行
1686年8月 00:00|イギリス/タイ| |||タイがイギリス東インド会社に宣戦布告
1686年8月12日-02:00|南アフリカ| |||ステルが南アフリカ、ケープタウンで彗星C/1686R1発見
1686年8月19日-09:00|日本| ||貞享3年7月|松平直矩:豊後日田藩7万石/幕領になる→出羽山形藩10万石/移封(
-元禄5年陸奥白河へ)
1686年8月31日-09:00|日本| ||貞享3年7月13日|堀田正仲:出羽山形→陸奥福島10万石/移封/次に正虎が嗣ぐ(元禄13年出羽山形へ)
1686年9月-05:30|インド| |||ムガル朝がアーディル・シャーヒー朝を服属させる
1686年9月2日-01:00|オーストリア/ハンガリー| |||オーストリア軍が、オスマン朝の支配下にあったブダを解放
1686年9月9日-09:00|日本| ||貞享3年7月22日|松平信之:老中解任
1686年10月 00:00|イギリス/インド| |||ムガル軍と英東インド会社がベンガルで衝突
1686年10月3日-09:00|日本| ||貞享3年8月16日|遠江・三河地震/M6.5~7、死者1180人,行方不明者1126人
1686年10月10日 06:00|エルサルバドル| |||サンサルバドルバドルを中心に大地震.千5百人が死亡,30万人に被害
1686年10月16日-09:00|日本| ||貞享3年8月29日|(松平)藤井信通:大和興留1万石/拝領(-元禄6年備中庭瀬へ)
1686年11月29日-09:00|日本| ||貞享3年10月14日|松本藩領内の1万人を越える農民が年貢増徴の撤回を求めて
松本城下に押し寄せる(加助騒動)
1686年12月6日-09:00|日本| ||貞享3年10月21日|幕府が市中に蕎麦など火を使う屋台商売を禁じる
1686年12月15日-09:00|日本| ||貞享3年11月|『難波立聞昔話』刊行/大坂、芝居評判記
1686年12月15日-09:00|日本| ||貞享3年11月|『本朝廿不孝』著・井原西鶴・刊行
1687年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1690)8代スルタン・ムハマッド・ヤフヤ即位
1687年-05:30|インド| |||ガール帝国がタンジャーヴール・マラーター王国からバンガロールを奪った際、同地をマイソール王国(オデヤ朝)
チッカ・デーヴァ・ラージャ封土として与えられた
1687年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第18代ハン:ムハンマド・アルン1世[アヌーシャの子](~1694年)
1687年-03:00|イエメン| |||<即位>イエメンのイマーム:アルマフディ・ムハンマド[アルマフディ・アフマドの息子](~17180802)
1687年-01:00|スペイン| |||スペイン領西インドでアウディエンシア判事職の売官制を制定
1687年-01:00|フランス/ハイチ| |||フランス,エスパニョーラ島の東1/3の領有を主張.「サンドマング」と名づける
1700迄(4525件)
1687年 06:00|ニカラグア| |||ジャマイカ総督,「モスキート国国王」をでっち上げ,モスキート地方を英国の保護領と宣言/ミスキート族
の王ジェレミ1世,ジャマイカで戴冠式をおこなう
1687年1月12日-09:00|日本| ||貞享3年11月29日|松本藩領内の1万人を越える農民が年貢増徴の撤回を求めて
松本城下に押し寄せる(加助騒動)
1687年2月12日-09:00|日本| ||貞享4年|鍋島藩によって祐徳稲荷神社創建/佐賀県
1687年2月12日-09:00|日本| ||貞享4年1月|『男色大鑑』著・井原西鶴・刊行
1687年3月3日 03:00|ブラジル| |||Domingos Jorge Velho,州政府と契約を結び,第一回目のパルマレス掃討作戦/目
立った戦果を挙げることなく引き上げる
1687年3月11日-09:00|日本| ||貞享4年1月28日|生類憐みの令、初発発布(重病の生類をまだ生きているうちは
捨ててはいけない)
1687年3月14日-09:00|日本| ||貞享4年2月1日|幕府台所頭天野正勝、台所の井戸に猫が落ちて死んだ罪を問わ
れて八丈島へ流される
1687年4月4日 00:00|イギリス| |||イギリス王ジェームズ2世が信仰の自由を宣言
1687年4月9日-09:00|日本| ||貞享4年2月27日|幕府が、食料として魚鳥を飼うことを禁ずる(生類憐みの令)
1687年4月12日-09:00|日本| ||貞享4年3月|『憶硯』著・井原西鶴・刊行
1687年5月2日-09:00|日本| ||貞享4年3月21日|112代霊元天皇譲位/113代東山天皇践祚/4月28日即位式~宝永6
年6月21日
1687年5月7日-09:00|日本| ||貞享4年3月26日|幕府が生鳥を飼うことを禁ずる(生類憐みの令)
1687年5月11日-09:00|日本| ||貞享4年4月|『武道傳来記』著・井原西鶴・刊行
1687年5月21日-09:00|日本| ||貞享4年4月11日|江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が「禽獣の類で、人に傷つけられた
ものあらば訴えよ。主のない犬には食べ物を与えよ。」との令を出す(生類憐みの令)
1687年5月21日-09:00|日本| ||貞享4年4月11日|幕府土地売買を禁ず
1687年6月-04:00|ロシア| |||ロシアが第1次クリミア遠征を開始
1687年6月9日-09:00|日本| ||貞享4年4月11日|幕府が「鳩を礫にて打ったものは処罰する」との令を出す(生類
憐みの令)
1687年7月4日-05:30|スリランカ| |||<即位>カンディー王国(ディナラジャ家)Vimaladharmasurya2世(~17070604)
1687年7月6日 00:00|イギリス| |||ニュートンが「プリンキピア」を出版
1687年7月10日-05:30|インド| |||マイソール王国(オデヤ朝)チッカ・デーヴァ・ラージャはタンジャーヴール・マラーター王国に対し、バンガロー
ルの領土の対価として30万ルピーを支払い、同地を購入する形をとった
1687年7月27日-09:00|日本| ||貞享4年6月19日|博多祗園山笠(追山)始まる/福岡県
1687年8月12日-01:00|オーストリア/ハンガリー/トルコ| |||第2次モハーチの戦いで、オーストリア軍がオスマン軍を破る
1687年8月27日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ルカ・スピノラ(~16890827)
1687年8月27日-09:00|日本| ||貞享4年7月20日|幕府が「市内で、大八車や牛車などが犬がひかないように注意
せよ」との令をだす(生類憐みの令)
1687年9月-05:30|インド| |||ムガル帝国がゴールコンダを併合し、クトブ・シャーヒー朝が崩壊
1687年9月17日-09:00|日本| ||貞享4年8月11日|陸奥湯長谷藩1万2000石(藩主:遠山頼直)が3000石加増→1万50
00石/以後、政徳、政貞が相続
1687年9月25日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ヴェネツィア軍が、オスマン朝支配下のアテネを砲撃し占領/パルティノンの神殿が破壊さ
れる
1687年10月1日-09:00|日本| ||貞享4年8月25日|<改易>溝口政親:越後沢海1万石/酒乱行為,近江水口に幽閉
1687年10月1日-09:00|日本| ||貞享4年8月25日|植村氏高:大和高取22000石⇒20500石(1,500石分知)
1687年10月18日-09:00|日本| ||貞享4年9月13日|幕府が「往来で生類を傷つけた者がいたら、辻番の番人はその
者の住所を聞き後日の調べがあるまで他出しないよう申し付けよ」との令を出す(生類憐みの令)
1687年10月20日-09:00|日本| ||貞享4年9月15日|幕府が、捨て馬を禁止する令を出す(生類憐みの令)
1687年10月26日-09:00|日本| ||貞享4年9月21日|初代伊藤小太夫、没39才(初代市川段十郎の相手役、女形)
1687年11月8日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第20代ベイ:スレイマン2世[メフメト4世の弟](~16910622死去)
1687年11月17日-09:00|日本| ||貞享4年10月13日|土屋政直:老中就任(-享保3年3月3日)
1687年11月18日-09:00|日本| ||貞享4年10月14日|<改易>那須資徳:下野烏山2万石/家中相続騒動,陸奥津軽に
幽閉
1687年11月25日-05:30|スリランカ| |||<即位>シンハラ国王Vimaladharmasurya2世(~17070604死去)
1687年11月25日-09:00|日本| ||貞享4年10月21日|永井直敬:河内・山城・摂津内→下野烏山3万石(-元禄15年播
磨赤穂へ)
1687年11月25日-09:00|日本| ||貞享4年10月21日|土屋政直:駿河田中6万5千石→常陸土浦6万5千石(1万石ずつ
3回の加増があり95千石)/以後陳直、篤直、寿直、泰直、英直、寛直、彦直、寅直、挙直と続く(-明治4年)
1687年12月20日-09:00|日本| ||貞享4年11月16日|室町時代以来130年間廃絶していた大甞会が将軍綱吉の献金
により再興
1688年-08:00|インドネシア| |||アチェ王国カマラット・シャー女王即位(~1699)
1688年-07:00|タイ| |||ナライ王が没しタイで政変、親仏政策を放棄
1688年-02:00|ルーマニア| |||<即位>ワラキア公コンスタンチン2世ブランコヴェアヌ(~1714年)
1688年-02:00|南アフリカ/オランダ| |||オランダに流入していたユグノー難民がケープへ移住開始
1688年-01:00|フランス| |||<即位>ギーズ公(ブルボン=コンデ家)アンリ3世(~17090401)
1688年-01:00|オーストリア/ハンガリー| |||オーストリア軍がトルコ軍を追撃しベオグラードを占領
1700迄(4525件)
1688年 00:00|イギリス/オーストラリア| |||イギリス人ダンピアがオーストラリア大陸の西海岸に上陸
1688年1月3日-09:00|日本| ||貞享4年12月|幕府武具の輸出・海外渡航等を禁ず
1688年1月25日-09:00|日本| ||貞享4年12月23日|幕府が、捨て馬をした者を遠流とする令を出す(生類憐みの令
)
1688年1月29日-09:00|日本| ||貞享4年12月27日|嵐三郎四郎、自殺
1688年2月2日-09:00|日本| ||貞享5・元禄1年|京極二代目藩主高豊侯によって丸亀藩中津別館として丸亀中津
万象園作庭/香川県
1688年2月2日-09:00|日本| ||貞享5・元禄1年|牧野成貞:下総関宿5万3千石→7万3千石/加増
1688年2月2日-09:00|日本| ||貞享5・元禄1年|本多正永:下総船戸7千石→1万石/加増(-元禄16年下野沼田へ)
1688年2月2日-09:00|日本| ||貞享5年1月|井原西鶴『日本永代蔵』刊行される
1688年3月2日-09:00|日本| ||貞享5年2月|『武家義理物語』著・井原西鶴・刊行
1688年3月23日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第107代マルカントニオ・ジュスティニアン
1688年4月1日-09:00|日本| ||貞享5年3月|『嵐は無常物語』嵐三郎四郎追善本、刊行
1688年4月3日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第108代フランチェスコ・モロシーニ(~16940116)
1688年4月9日-02:00|ギリシャ/イタリア| |||ベネツィア,アテネ放棄
1688年4月29日-01:00|ドイツ| |||<即位>プロイセン公国(ホーエンツォレルン朝)フリードリヒ[フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子](17010118フ
゚ロイセン王~17130225死去55歳)
1688年5月7日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1688/4/27|イギリス国王ジェームズ2世が、カトリックの復活を図る「信仰の自由宣
言」を再公布
1688年5月9日-01:00|ドイツ| |||<即位>ブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家)フリードリヒ3世[フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子](
~17130225)
1688年6月16日-09:00|日本| ||貞享5年5月18日|<改易>佐久間勝親:信濃長沼1万石/勤務懈怠所領没収/陸奥二
本松に幽閉
1688年6月28日-09:00|日本| ||貞享5年6月|『色里三所世帯』著・井原西鶴・刊行
1688年6月28日-08:00|モンゴル| ||清・康熙27年6月|モンゴルのガルダン・ハーンがハルハ部に侵入
1688年7月11日-07:00|タイ| |||<即位>アユタヤ王朝第31代国王ペートラーチャー(~1703年)
1688年8月5日-09:00|日本| ||貞享5年7月10日|戸田氏成:美濃大垣新田(畑ケ村)6200石→13千石/加増/以後[享
保4年6月]氏房[宝暦9年12月]氏之[明和8年3月]氏養[天明5年6月]氏興[寛政10年3月]氏宥[文政9年6月]氏綏[
安政2年5月]氏良(-明治2年美濃野村へ)
1688年9月24日-01:00|フランス/ドイツ/オランダ/スウェーデン/イギリス| |||フランス軍の攻撃で、アウグスブルク同盟戦争(プファルツ戦争)
の戦端が開かれる
1688年9月24日-09:00|日本| ||貞享5年9月|『好色盛衰記』著・井原西鶴・刊行
1688年9月24日-09:00|日本| ||貞享5年9月01日|高浜浦町より出火,210軒余りを焼失
1688年10月3日-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王カマラット・シャー女王(~1699年)
1688年10月16日-09:00|日本| ||貞享5年9月22日|<改易>堀田正英:常陸北条1万3000石/堀田正俊と争乱
1688年10月22日-01:00|ドイツ| |||ドイツで対仏マクデブルク協定
1688年10月23日-09:00|日本| ||元禄1年9月30日|「元禄」に改元
1688年11月13日-09:00|日本| ||元禄1年10月21日|(松平)奥平忠尚、白河藩より2万石を分与され、陸奥白河新田
藩立藩(-元禄13年陸奥桑折へ)
1688年11月23日-09:00|日本| ||元禄1年11月|『新可笑記』著・井原西鶴・刊行
1688年12月4日-09:00|日本| ||元禄1年11月12日|柳沢吉保:1万石/拝領
1688年12月29日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1688/12/19|イギリス、ホイッグ党、トーリー党らに離反された王ジェームズ2世がオラ
ンダの総督ウィリアムに追われてイギリスを離れる(名誉革命)
1688年12月31日-09:00|日本| ||元禄1年12月09日|黒田長清:東蓮寺藩4万石→直方藩5万石/加増改称(-享保5年
嗣子が宗藩を相続し、没後、宗藩に吸収)
1689年-04:00|ロシア| |||ロシア帝国ツァーリ・ピョートル1世(-1725)1721年戴冠(西欧よりロシア皇帝と認められる)
1689年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教オレグエール・ド・モントセラ-ト・ラフェット(~1694年)
1689年-01:00|スペイン/コロンビア| |||Jean Du Casse と Baron Jean de Pointis、カルタヘナを占領
1689年 00:00|イギリス| |||ジョン・ロックが「統治二論」を刊
1689年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督フロンティナック伯爵ルイ・ド・ブアド(~1698年)
1689年1月2日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1688/12/23|イギリス、ホイッグ党、トーリー党らに離反された王ジェームズ2世がオランタ
゙の総督ウィリアムに追われてイギリスを離れる(名誉革命)
1689年1月21日-09:00|日本| ||元禄2年|越中売薬行商始まる/富山県
1689年1月21日-08:00|モンゴル| |||ジュンガル国のガルダンが外モンゴルを支配
1689年1月21日-09:00|日本| ||元禄2年1月|『一目玉鉾』著・井原西鶴・刊行
1689年1月21日-09:00|日本| ||元禄2年1月|『本朝櫻陰比事』著・井原西鶴・刊行
1689年2月-05:30|インド| |||ムガル軍がマラーター国王サンバージーを捕らえ、処刑
1689年2月-05:30|インド| |||ラージャラーム、マラーター国王に即位(~1700)
1689年2月20日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙28年2月|朝鮮、己巳換局で南人派政権が成立
1689年2月23日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月13日|<即位>イングランド王国国王(ステュアート家)メアリー2世[ジェームズ2世とアン・
ハイドの女子](~16941228死去32歳)ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)[メアリー2世の夫.ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの男
子](~17020308死去51歳)
1700迄(4525件)
1689年3月22日 00:00|アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦:1689/3/12|イギリスを追われた前王ジェイムズがアイルランドに上陸
1689年3月22日-09:00|日本| ||元禄2年2月2日|<改易>喜多見重政:武蔵喜多見2万石/家中混乱・勤務懈怠/伊勢
桑名に幽閉
1689年3月24日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦3月14日|スコットランド議会が、イングランド王ウィリアム3世とメアリ2世をスコットランド王ウィ
リアム2世と女王として認める
1689年4月9日-01:00|スウェーデン| |||クリスティナ女王死去/62歳(誕生:16261208)。スウェーデン女王
1689年4月15日-01:00|フランス/スペイン| |||フランスがスペインに宣戦布告
1689年4月20日 06:00|アメリカ| |||ボストン市民が安全と平和維持の協議会を設立
1689年4月20日-09:00|日本| ||元禄2年3月|『新吉原常々草』著・井原西鶴・刊行
1689年5月-04:00|ロシア| |||ロシアが第2次クリミア遠征
1689年5月7日-01:00|フランス/イギリス/カナダ| |||カナダでイギリスとイロコイ族同盟がフランス人と戦う
1689年5月12日-01:00|オーストリア/オランダ/イギリス| |||オランダとイギリスがアウクスブルク同盟に加わり、フランスの領土拡大政策に
対抗
1689年5月31日 06:00|アメリカ| |||ニューヨークでライスラーの反乱
1689年6月27日-09:00|日本| ||元禄2年5月11日|松平信孝:駿河小島1万石/拝領/以後信治、信嵩、昌信、信義、信
圭、信友、信賢、信進、信書、信敏と続く(-慶応4年上総桜井へ)
1689年7月17日-09:00|日本| ||元禄2年6月|歌舞伎役者、武家への出入り禁止
1689年7月20日-09:00|日本| ||元禄2年6月4日|<減封>坂本重治:相模深見1万石/奢侈荒淫/7800石没収
1689年7月20日-09:00|日本| ||元禄2年6月4日|<減封>本多忠周:三河足助1万石/奢侈荒淫3千石減
1689年7月25日-01:00|フランス/イギリス| |||フランスがイギリスに戦線布告/イギリスはプファルツ戦争に参加
1689年7月25日-09:00|日本| ||元禄2年6月9日|幕府が屋形船に対する規制を始め、風俗・遊興に対する制限を強
化
1689年8月12日-01:00|バチカン| |||239代ローマ教皇インノケンティウス11世死去/78歳(誕生:16110516)。ローマ教皇
1689年8月17日-09:00|日本| ||元禄2年7月03日|松浦昌(平戸藩主松浦鎮信の二男):平戸新田藩1万石/分知/以
後邑、鄰、到、宝、矩、良、晧、脩と続く(-明治3年)
1689年8月17日-09:00|日本| ||元禄2年7月03日|松浦鎮信:平戸藩/分知残61、696石
1689年8月17日-09:00|日本| ||元禄2年7月03日|牧野康重:越後与板1万石→小諸1万2千石/移封
1689年8月31日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:オベルト・デラ・トッレ(~16910901)
1689年9月6日-09:00|日本| ||元禄2年7月23日|<改易>鳥居忠則:信濃高遠3万200石/勤務懈怠没収
1689年9月7日-04:00|ロシア/中国| ||ロシア暦8月28日;清・康煕28年7月24日|ロシアと清の間にネルチンスク条約が結ばれ、アムー
ル川(黒竜江)流域をめぐる紛争が解決
1689年9月12日-04:00|ロシア| ||ロシア暦9月2日|ロシアでピョートル1世が、異母姉の摂政ソフィア・アレクセーエヴナ(32)を追放し単独
皇帝となる
1689年9月16日-09:00|日本| ||元禄2年8月3日|<改易>山内豊明:土佐中村3万石/不敬宗家に吸収
1689年9月23日-09:00|日本| ||元禄2年8月10日|鳥居忠英:信濃高遠3万200石→能登下村1万石/減移(-元禄8年
近江水口へ)
1689年10月-05:30|インド| |||マラーター国のシャーフーがムガル軍の捕虜となる
1689年10月-02:00|トルコ| |||オスマン朝の大宰相に、キュブリュリュ・ファーズルが任命
1689年10月16日-01:00|バチカン| |||240代教皇アレキサンドロ八世(-1691年2月1日)
1689年11月12日-09:00|日本| ||元禄2年10月|動物芸見世物禁止
1689年11月24日-02:00|南アフリカ| |||ステルが南アフリカ、ケープタウンで彗星C/1689X1発見
1689年12月12日-09:00|日本| ||元禄2年11月|安井(渋川)春海、江戸本所に天文台設立
1689年12月26日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月16日|イギリス、議会が「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を
定める法律」いわゆる「権利章典」を発布
1690年-08:00|ブルネイ| |||<即位>ブルネイ第15代スルタン:ナサルディン(~1705年)
1690年-08:00|インドネシア| |||バンテン王国(~1733)9代スルタン・ムハマッド・ザイヌルアビディン即位
1690年-07:00|タイ| |||<即位>パタニ王国第11代国王ラジャ・マス・クラタン(~1707年)
1690年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ムアン・チャン王(~1691年)
1690年-01:00|フランス| |||タバコの浸出液から、農薬が開発される
1690年-01:00|フランス/インド| |||フランスがシャンデルナゴルに商館を建設
1690年 00:00|イギリス| |||イギリスの思想家ジョン・ロックがロンドンで「統治二論」を刊行
1690年 00:00|イギリス| |||イギリスのペティが「政治算術」を著す(統計学のオリジン)
1690年 00:00|イギリス/フォークランド| |||イギリス人ジョン・ストロング船長,フォークランド諸島に上陸し英国領を宣言/東西のフォーク
ランド島の間の海峡をフォークランド海峡と名づける
1690年 03:00|ブラジル| |||タウバテを出発したバンディラ,ミナスのカタグアーゼスで金鉱を発見
1690年 05:00|ジャマイカ| |||ジャマイカのクラレンドン県チャペルトンで黒人奴隷の反乱が発生.首謀者は処刑されるが,残党は
山に逃げ込む
1690年1月2日-09:00|日本| ||元禄2年11月22日|幕府天文方の渋川春海が、本所に司天台を設ける
1690年1月23日-01:00|ドイツ| |||<即位>ドイツ王(ハプスブルグ朝)ジョセフ1世(17050505皇帝~17110417)
1690年2月9日-09:00|日本| ||元禄3年|島津惟久は義兄である先代・久寿に3千石を分与し、2万7千石となっ
1690年2月9日-07:00|ベトナム| ||ユリウス暦:1690/2|ベトナムの阮氏がメコンデルタの左岸地帯を併合
1690年2月10日-09:00|日本| ||元禄3年1月2日|幕府天文方の渋川春海が、本所に司天台を設ける
1700迄(4525件)
1690年2月12日-01:00|フランス| |||ルブラン(画家)死去フランス[1619年02月24日生~](享年70)
1690年3月11日-09:00|日本| ||元禄3年2月1日|町人の家紋に鶴禁止令
1690年3月17日-09:00|日本| ||元禄3年2月7日|孔子を祭る湯島聖堂(昌平坂学問所)が完成
1690年4月1日-01:00|フランス| |||<死去>ロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世(4世)
1690年4月1日-01:00|フランス| |||<即位>ロレーヌ(ロートリンゲン)公(シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家)レオポール1世(レオポルト・ヨーゼフ)(~
17290327)1702年から1714年まで、ロレーヌはフランスに占領された
1690年5月4日-09:00|日本| ||元禄3年3月26日|幕府、柳沢吉保に2万石加増
1690年7月10日-01:00|フランス/イギリス| ||ユリウス暦6月30日|ドーヴァー海峡のビーチ岬の戦いで、フランス艦隊がイギリス・オランダ
連合艦隊を破る
1690年7月11日-01:00|フランス/アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦7月1日|イギリス国王ウィリアム3世の軍が、ボイン湖畔の戦いで、前
国王ジェームズ2世のアイルランド・フランス連合軍を破る
1690年7月22日-01:00|フランス/アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦:1690/7/12|オーグリムの戦いで英軍がアイルランド・フランス連合軍
を破る
1690年8月13日-09:00|日本| ||元禄3年7月9日|幕府が上野忍ヶ岡の林家の聖堂を湯島台に移築
1690年8月26日-09:00|日本| ||元禄3年7月22日|初代河原崎権之助、没、(河原崎座座主兼役者)
1690年9月2日-01:00|ドイツ| |||<就任>ライン宮中伯(プファルツ=ノイブルク家系選帝侯)ヨーハン・ヴィルヘルム(~17160608)
1690年9月8日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア艦隊司令ダニエーレ・ドルフィンとバルトロメーオ・コンタリーニ、数に優勢なトルコ艦隊をメン
テリーノ運河で破る
1690年9月25日 06:00|アメリカ| |||ボストンで、ベンジャミン・ハリスがアメリカ初の新聞「パブリック・オカレンシズ」を発行するが、翌日イ
ギリス国王の許可を得ていないとして発行を停止させられる
1690年10月8日-01:00|ハンガリー/セルビア| |||オスマン朝軍の大反攻で大量のセルビア人がハンガリーへ移住
1690年10月30日-09:00|日本| ||元禄3年9月29日|幕府が朝鮮人参の売買規則を出す
1690年11月18日-09:00|日本| ||元禄3年10月18日|嵐三右衛門、没、56才(座主兼役者)
1690年11月21日-09:00|日本| ||元禄3年10月21日|加藤明英:近江国水口2万石→2万5千石/加増
1690年11月26日-09:00|日本| ||元禄3年10月26日|幕府が捨て子を禁じる
1691年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王オンロー王(~1695年)
1691年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:サーデト3世ギレイ→同年<即位>クリミア・ハン国ハン:サファ・ギレイ(~1692年)
1691年 05:00|ハイチ| |||エスパニョーラ島全域にわたり,71年に続く大規模な黒人反乱発生
1691年1月29日-09:00|日本| ||元禄4年|陰陽神社創建(茨城県/山方町→常陸大宮市)
1691年1月29日-09:00|日本| ||元禄4年|滝の湯発見(→鬼怒川温泉)/栃木県
1691年1月29日-09:00|日本| ||元禄4年1月|『椀久二世物語』著・井原西鶴・刊行
1691年2月1日-01:00|バチカン| |||240代ローマ教皇アレクサンデル8世死去[1610年04月22日生~](享年80)
1691年2月8日-09:00|日本| ||元禄4年1月11日|土岐頼殷:出羽上山2万5千石→3万5千石/大坂城代に転じて1万
石を加えられる
1691年3月3日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,ヴァローナとイオニアを放棄
1691年3月6日-09:00|日本| ||元禄4年2月7日|湯島聖堂の昌平坂学問所が完成
1691年3月8日-09:00|日本| ||元禄4年2月09日|松平乗邑:肥前唐津→志摩鳥羽6万石(-宝永7年伊勢亀山へ)
1691年3月8日-09:00|日本| ||元禄4年2月09日|土井利益:志摩鳥羽→肥前唐津7万石/以後利実、利延、利里と続
く(-宝暦12年下総古河へ)
1691年3月8日-09:00|日本| ||元禄4年2月09日|内藤清枚(水野守政の次男):摂津富田林→信濃高遠33千石/以後
頼卿、頼由、頼尚、長好、頼以、頼寧、頼直と続く(-明治4年)
1691年3月27日-09:00|日本| ||元禄4年2月28日|幕府が、痩せ犬を飼育すること、闘犬には水をかけて引き分け
ることを定める(生類憐みの令)
1691年5月25日-09:00|日本| ||元禄4年4月28日|幕府が日蓮宗悲田派(不受不施)を禁止
1691年5月28日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙30年5月|清の康熙帝がドロンノールで諸部の会盟を主催し、ハルハ部を服
属
1691年6月27日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第21代ベイ:アフメト2世[スレイマン2世の弟](~16950206死去)
1691年6月27日 00:00|イギリス/アメリカ| |||米国メリランドが王領となる
1691年7月15日-01:00|バチカン| |||241代教皇インノチェンチオ十二世(-1700年9月27日)
1691年7月22日-01:00|フランス/アイルランド/イギリス| ||ユリウス暦7月12日|ウィリアム3世のイギリス軍が、オーグリムの戦いでアイルランド・
フランス連合軍を破る
1691年7月27日-09:00|日本| ||元禄4年7月3日|松尾芭蕉の「猿簑」が刊行される
1691年8月19日-01:00|ドイツ/ハンガリー/トルコ| |||ハンガリーのスランカメンの戦いで、バーデン公ルトヴィヒ率いる神聖ローマ帝国軍が
、オスマン軍を破る
1691年8月19日-09:00|日本| ||元禄4年7月26日|小笠原貞信:美濃高須→越前勝山22777石/以後信辰、信成、信胤
、信房、長教、長貴、長守と続く(-明治4年)
1691年8月20日-09:00|日本| ||元禄4年7月27日|松尾芭蕉の「猿簑」が刊行
1691年9月4日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジョヴァンニ・バチスタ・カッタネオ(~16930905)
1691年9月9日-09:00|日本| ||元禄4年8月17日|熊沢蕃山、没/73歳(誕生:元和5(1619))/儒学者
1691年9月12日-01:00|ドイツ| |||ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク4世即位(~1694年4月27日)
1691年9月22日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)ヨハン・ゲオルク4世(~16940427)
1691年9月22日-09:00|日本| ||元禄4年閏8月1日|住友、別子銅山の稼行開始/愛媛県
1700迄(4525件)
1691年10月17日 00:00|イギリス/アメリカ| |||マサチューセッツがイギリス王領となる
1691年11月14日-09:00|日本| ||元禄4年9月25日|土佐光起(画家)死去/大和絵の最大流派
1691年12月11日-09:00|日本| ||元禄4年10月22日|<改易>有馬清純:日向延岡5万石/領内混乱廃絶
1691年12月14日-01:00|オーストリア/ルーマニア| |||レオポルド文書によりトランシルバニアがオーストリア皇帝に服属
1691年12月30日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦12月20日|イギリスの化学者で物理学者ロバート・ボイル死去/64歳(誕生:16270
125)ボイルの法則を発見した
1692年-07:00|カンボジア/ベトナム| |||チャム人が阮氏の支配を逃れベトナムからカンボジアへ逃亡
1692年-04:00|オマーン| |||<即位>オマーン(元首)スルタン(ヤルバ朝)サイフ・ビン・サルタン(~1711年)
1692年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:セリム1世ギレイ(~1699年、3期目)
1692年-01:00|ドイツ| |||<即位>ハノーファー選帝侯エルンスト[ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公ゲオルクの息子](~1698年)
1692年-01:00|ドイツ| |||<即位>メクレンブルク=シュヴェリーン公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世[クリスティアン・ルートヴィヒ1世の甥](~1713年)
1692年2月14日-09:00|日本| ||元禄4年12月28日|有馬清純:越後糸魚川5万石/拝領(-元禄8年越前丸岡へ)
1692年2月17日-09:00|日本| ||元禄5年1月|『世間胸算用』著・井原西鶴・刊行
1692年2月17日-09:00|日本| ||元禄5年1月|「諸国新百物語」刊行
1692年2月23日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦2月13日|グレンコーの虐殺/イギリス国王ウィリアム3世への忠誠を拒否するスコットラント
゙人が弾圧される
1692年3月18日 00:00|イギリス/アメリカ| |||ペンシルヴァニアがイギリス王領となる
1692年3月24日-09:00|日本| ||元禄5年2月07日|西郷寿員(重員)(大村純長の五男):安房東条→下野上田1万石(
-元禄6年行状が悪く、領地を半減され大名ではなくなった)
1692年4月9日-09:00|日本| ||元禄5年2月23日|(松平)大河内輝貞:常陸土浦→下野壬生3万2千石(後42千石)(元禄8年上野高崎へ)
1692年4月9日-09:00|日本| ||元禄5年2月23日|三浦明敬:下総壬生→日向延岡23千石(-正徳2年三河刈谷へ)
1692年4月10日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||「カニンデ国」のジャンドゥイム王とポルトガル政府とのあいだに「恒久平和」協
定.「カリリ戦争」が終結
1692年4月13日-09:00|日本| ||元禄5年2月26日|土岐頼殷:出羽上山3万5千石→摂津・河内・越前三国3万5千石
1692年4月16日-09:00|日本| ||元禄5年3月|『歌舞伎図屏風』画・菱川師宣
1692年4月23日-09:00|日本| ||元禄5年3月8日|東大寺大仏殿再建開眼供養
1692年5月14日 00:00|イギリス| |||イギリスの農業雑誌で前年の天気を掲載するコーナー始まる世界初の天気予報だと
されている『より良き農業と商業を目指して』
1692年5月15日-09:00|日本| ||元禄5年3月30日|<改易>遠藤常久:美濃郡上八幡2万4000石/無嗣廃絶/1万4000石
減転封
1692年5月29日-01:00|フランス/オランダ/イギリス| ||ユリウス暦5月19日|イギリス・オランダ連合艦隊が、ドーヴァー海峡のラ・オーグの
海戦でフランス軍を破る
1692年6月 06:00|アメリカ| |||セーラムの魔女裁判で約20人を処刑
1692年6月7日 05:00|ジャマイカ| |||ポート・ロイヤルを大地震が襲う.三回の揺れの後,町の大半が海底に沈む/その後津
波が襲来し,二千名が犠牲
1692年6月8日 07:00|メキシコ| |||スペイン領メキシコで都市貧困層が暴動をおこす
1692年6月20日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王ムニ・ダマラザ[前王の兄弟](~16941220)
1692年6月23日-09:00|日本| ||元禄5年5月9日|遠藤胤親(白須政休の長男)常陸国内1万石/美濃郡上領2万4千石
没収後の再興(-元禄11年近江三上へ)
1692年6月24日-09:00|日本| ||元禄5年5月10日|幕府、富突請・百人講を禁止
1692年6月25日-09:00|日本| ||元禄5年5月11日|幕府が午後6時以後、酔った者の江戸城門の通行を禁じる
1692年7月10日-09:00|日本| ||元禄5年5月26日|三条大橋が倒壊
1692年7月14日-09:00|日本| ||元禄5年6月|(松平)奥平忠弘:陸奥白河15万石/閉門蟄居/内訌
1692年7月18日-01:00|イタリア| |||ベネツィア海軍司令長官ドメニコ・モチェニーゴ、カンディアに上陸。カネアの包囲を外側から取り
囲む。失敗
1692年8月12日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・正和13年7月|大越でキリスト教を禁止、教会、教書を炊く
1692年8月20日-09:00|日本| ||元禄5年7月09日|前田利昌:加賀大聖寺新田1万石/大聖寺藩利直から拝領(-宝永
6年改易)
1692年9月 06:00|アメリカ| |||コットン・マザーが「目に見えぬ世界の不思議」を刊
1692年9月1日-09:00|日本| ||元禄5年7月21日|(松平)奥平忠弘:閉門を解かれて出羽山形10万石に封じられる/
次に忠雅が嗣ぐ(-元禄13年備後福山へ)
1692年9月7日-09:00|日本| ||元禄5年7月27日|松平直矩:出羽山形10万石→陸奥白河15万石/移封/以後基知[元
禄8年]襲封(弟知清に新田1万石分与)、義知(明矩)[享保14年閏9月2日](-寛保1年11月1日]播磨姫路へ転封)
1692年9月8日-09:00|日本| ||元禄5年7月28日|金森頼トキ:飛騨高山→出羽上山3万8千石/移封(-元禄10年美濃郡
上八幡)トキは「日」の上に山と横棒を付けた冠を付けた字
1692年11月27日-01:00|イタリア| |||ベネツィア共和国、フランチェスコ・モロシーニ,ドージェ職を受ける
1692年12月18日-09:00|日本| ||元禄5年11月11日|(松平)本庄宗資:下野足利藩2万石→常陸笠間4万石(後5万石
)/移封/次に資俊が嗣ぐ(-元禄15年遠江浜松へ)
1692年12月18日-09:00|日本| ||元禄5年11月11日|井上正任:常陸笠間→美濃郡上八幡4万石/次に正岑(3千石分
知37千石)が嗣ぐ(-元禄10年丹波亀山へ)
1693年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王ディミトリー・カンテミール→同年<即位>モルダヴィア王コンスタンチン・ドゥカ(~1695年)
1700迄(4525件)
1693年-01:00|ドイツ| |||<就任>ヘッセン=ローテンブルク方伯ヴィルヘルム1世((~1725年)
1693年-01:00|オランダ/インド| |||オランダがインドのポンデシュリーを占領
1693年-01:00|フランス| |||フランスで飢饉、94年にかけて餓死者が多数
1693年 00:00|イギリス| |||イギリスで国債制度を導入
1693年 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||サンパウロのバンデイラが,ミナスジェライスのリオ・ダス・ベリャスで金鉱発見
1693年2月5日-09:00|日本| ||元禄6年1月|『古今四場居色競百人一首』鳥居清信画
1693年2月5日-09:00|日本| ||元禄6年1月|『浮世栄華一代男』著・井原西鶴・刊行
1693年2月8日 06:00|アメリカ| |||米国ウィリアム・アンド・メリー大学創設
1693年6月19日-09:00|日本| ||元禄6年5月16日|奈良正倉院が開封される(8/7閉封)
1693年6月27日 00:00|イギリス| |||ロンドンで世界初女性向け週刊誌[ザレディスマ-キュリ-]創刊
1693年7月15日-09:00|日本| ||元禄6年6月13日|<改易>本多政利:陸奥岩瀬1万石/不行跡の上、侍女殺害により
所領没収廃絶出羽庄内に幽閉
1693年8月4日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙32年7月3日|李朝朝鮮が銅銭を私鋳したものを死刑と定める
1693年9月 07:00|メキシコ| ||秋|バルガスの遠征隊,サンタフェに向かう/先住民との激しい戦いの後,征服に成功
1693年9月9日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:フランセスコ・インヴリエ(~16950909)
1693年9月9日-09:00|日本| ||元禄6年8月10日|井原西鶴、死去/52歳(誕生:寛永19(1642))/「好色一代男」の作者
1693年9月18日-09:00|日本| ||元禄6年8月19日|幕府、釣魚に対する生類憐れみの令を出す
1693年11月3日-09:00|日本| ||元禄6年10月6日|<改易>水野勝美:備中松山5万石/無嗣廃絶/叔父に3000石安堵
1693年12月1日-09:00|日本| ||元禄6年11月05日|(松平)藤井信通:大和興津→備中庭瀬3万石(-元禄10年出羽上
山へ)
1693年12月1日-09:00|日本| ||元禄6年11月05日|<改易>松平忠之:下総古河8万石/発狂/弟信通が名跡を継ぎ備
中庭瀬3万石に移
1693年12月24日-09:00|日本| ||元禄6年11月28日|内藤正勝:武蔵赤沼16千石/拝領/次に正友が嗣ぐ(-元禄16年
信濃岩村田へ)
1694年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第19代ハン:チチャク[アルンの子](~1697年)
1694年-02:00|エジプト| |||この年エジプトで疫病・飢饉が発生
1694年-02:00|ルーマニア| |||ブカレストに聖サヴァ・アカデミー設立
1694年-01:00|デンマーク/ドイツ| |||<即位>シュレースヴィヒ公・ホルシュタイン公(ホルシュタイン=ゴットルプ家)フレゼリク4世(~1702年)
1694年-01:00|イタリア| |||<即位>モデナおよびレッジョの公爵(エステ家)リナルド3世(~17371026死去)
1694年1月4日-09:00|日本| ||元禄6年12月9日|<改易>西郷寿員:下野上田1万石/勤務懈怠5千石減
1694年1月12日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ドミンゴス・ホルヘ・ベリョ,ペルナンブコ総督ベルナルド・ビエイラ・デ・メロの手勢を加
え掃討軍を組織.パルマレス王国の首都マカコを攻撃
1694年1月16日-01:00|イタリア| |||<死去>ヴェネツィア共和国ドージェ第108代フランチェスコ・モロシーニ
1694年1月25日-09:00|日本| ||元禄7年|松平近栄:出雲広瀬2万石→3万石/加増
1694年1月25日-09:00|日本| ||元禄7年1月|『西鶴置土産』著・井原西鶴・刊行
1694年1月31日-09:00|日本| ||元禄7年1月7日|(松平)大河内信輝:武蔵川越7万石→下総古河7万石/次に信祝が
嗣ぐ(-正徳2年三河吉田へ)
1694年1月31日-09:00|日本| ||元禄7年1月7日|柳沢吉保:武蔵川越7万2千石(後11万2030石)/拝領(-宝永1年甲
斐甲府へ)
1694年2月6日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||掃討軍の攻撃によりパルマレス王国は壊滅
1694年2月25日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第109代シルヴェストロ・ヴァリエル(~17000707)
1694年3月26日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・康熙33年3月|朝鮮で西人派の政権が成立
1694年4月24日-09:00|日本| ||元禄7年4月|<加増>戸田忠昌:下総佐倉藩6万1千石→7万1千石
1694年4月24日-09:00|日本| ||元禄7年4月|幕府の援助により,応仁元年(1467)以来中絶していた賀茂祭(葵祭)
が再興
1694年4月24日-09:00|日本| ||元禄7年4月|「奥の細道」完成
1694年4月24日-09:00|日本| ||元禄7年4月01日|松平宗資:常陸笠間藩4万石→5万石/加増
1694年4月27日-01:00|ドイツ| |||<即位>ザクセン選帝侯(ヴェッティン家アルブレヒト系)フリードリヒ・アウグスト1世強健王(17330201
)
1694年5月-01:00|フランス/ジャマイカ| |||ドゥ・カッセ提督の率いるフランス艦隊がジャマイカを攻撃.北部/東部の海岸を襲撃し,
50の砂糖農場、50の農園を破壊.黒人奴隷1,300人を連れ去る
1694年5月5日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1694/4/25|長びくフランスとの戦いに対して戦費の調達を円滑にするため、
イングランド銀行が設立される/国債の引き受けが主な業務
1694年5月14日-09:00|日本| ||元禄7年4月21日|土屋政直:常陸土浦6万5千石→7万5千石/1万石加増
1694年5月18日-09:00|日本| ||元禄7年4月25日|別子銅山大火災、142人焼死
1694年5月29日-09:00|日本| ||元禄7年5月6日|三井高利(豪商・三井家の祖)死去[1622年生~](享年72)
1694年6月2日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||フェルナン・カリリョ,セルタンの支配者ジャンドゥイム王討伐に乗り出すが失敗
1694年6月19日-09:00|日本| ||元禄7年5月27日|能代地震/M7.0、陸奥で山崩れなど、死者394人
1694年6月21日-09:00|日本| ||元禄7年5月29日|三井高利(越後屋呉服店開業・三井財閥租)死去[1622年生~](
享年73)
1694年6月21日-09:00|日本| ||元禄7年5月29日|幕府が捨て犬を禁じる(生類憐みの令)
1694年7月19日-01:00|フランス/ジャマイカ| |||フランス軍1,500人がクラレンドン県のカーライル湾に上陸.奴隷を含む農民200人が
1700迄(4525件)
反撃.三日後,農民の抵抗闘争にさらに数百名が加わり,フランス軍を駆逐
1694年7月25日-09:00|日本| ||元禄7年6月4日|菱川師宣、没63才(画家)「見返り美人」ほか
1694年7月29日-03:30|イラン| |||<即位>サファヴィー朝第9代シャー:スルターン・フサイン(~17220911)
1694年8月8日-09:00|日本| ||元禄7年6月18日|京極高通:讃岐多度津1万石/拝領/以後高慶、高文、高賢、高琢、高
典と続く(-明治4年)
1694年8月15日 06:00|アメリカ| |||ニューヨーク等がイロコイ族とオルバニー平和条約を締結
1694年8月21日-09:00|日本| ||元禄7年7月|『好色萬金丹』著・夜食時分,刊行
1694年8月22日-09:00|日本| ||元禄7年7月02日|小田原で津波。人家多数水没
1694年8月25日-09:00|日本| ||元禄7年7月5日|堀田正虎:下野大宮2万石/宗家堀田正仲を相続宗家に吸収
1694年9月16日-09:00|日本| ||元禄7年7月27日|幕府が歌舞伎役者・前髪の少年・踊り子が女性の家に出入りす
ることを禁じる
1694年10月9日-09:00|日本| ||元禄7年8月21日|浅野長矩:播磨赤穂5万石/大学長廣に新田3千石を分知
1694年10月9日-09:00|日本| ||元禄7年8月21日|陸奥盛岡藩10万石(藩主:南部行信)、南部政信に5000石、南部勝
信に3000石分与
1694年10月23日-09:00|日本| ||元禄7年9月5日|将軍綱吉は、生類憐みの令の一環として、江戸市中で飼育され
ている金魚の数を、飼育者が正確に申告するように命じる
1694年11月28日-09:00|日本| ||元禄7年10月12日|松尾芭蕉が大坂で客死/51歳(誕生:正保1(1644))
1694年11月30日-01:00|イタリア| |||イタリアの組織学者マルチェロ・マルピーギ没(162803.10~)「顕微鏡検査の父」哺乳動物の
血液に関する研究/赤血球の発見
1694年12月11日-01:00|イタリア| |||<即位>パルマ公(ファルネーゼ家)フランチェスコ[ラヌッチョ2世の息子](~17270226死去49歳)
1694年12月20日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王サンダ・スリヤ1世[前王の兄弟](~16960804)
1695年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王アウタイ1世(~1696年)
1695年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王ナン・タラート王(~1698年)
1695年-05:30|インド| |||<即位>バラトブル王国君主:チューラーマン(~17210922)
1695年-04:00|ロシア| |||ロシアのピョートル大帝がアゾフに遠征
1695年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王アンティオー・カンテミール(~1700年)
1695年-02:00|トルコ| |||オスマン朝がマーリキャーネ制を部分的に導入
1695年-02:00|ボツワナ| |||ボツワナに、ツワナ人が移住を開始
1695年-01:00|アンドラ| |||<即位>アンドラ公国元首ウルヘル司教ジュリア・カーノ・テーバー(~1714年)
1695年 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ポルトガルが逃亡奴隷の集住地バルマーレスに派兵し、これを破壊
1695年 03:00|ブラジル| |||ブラジルのミナス・ジェライス金鉱が発見
1695年 07:00|メキシコ| |||チアパス州トゥクストゥラの先住民が反乱
1695年1月7日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦1694年12月28日|イギリス女王メアリ2世死去/32歳(誕生:16620510)イギリスはウィリ
アム3世の単独統治となる。
1695年1月10日-09:00|日本| ||元禄7年11月25日|側用人柳沢吉保、老中格となる
1695年1月22日-09:00|日本| ||元禄7年12月8日|柳沢吉保、老中に準じる
1695年1月27日-02:00|トルコ| |||オスマン朝のスルタン、アフメト2世死去/ムスタファ2世が跡を継ぐ
1695年2月6日-02:00|トルコ| |||<即位>オスマン帝国第22代ベイ:ムスタファ2世[メフメト4世の息子.アフメト2世の甥](~17030822廃
位.17040108死去)
1695年2月9日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,スパルマドーリ岬の海戦
1695年2月13日-09:00|日本| ||元禄8年|尾張藩第二代藩主光友の隠居所として徳川園造営(愛知県名古屋市)
1695年2月21日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,シオを戦わないで放棄
1695年3月19日-09:00|日本| ||元禄8年2月5日|<改易>織田信武:大和松山2万8200石/発狂自刃/廃絶
1695年3月19日-09:00|日本| ||元禄8年2月5日|織田信休(信武の継嗣):織田信休:大和宇陀→丹波柏原2万石/以
後信朝、信旧、信憑、信守、信古、信貞、信敬、信民、信親と続く(-明治4年)
1695年3月26日-09:00|日本| ||元禄8年2月12日|幕府飛騨国高山城を破却
1695年5月4日-09:00|日本| ||元禄8年3月22日|<改易>本多重益:越前丸岡4万3300石/領内混乱廃絶
1695年5月13日-09:00|日本|龍谷大学|元禄8年4月|東中筋学林町に学林講堂・衆寮を再建
1695年5月18日-09:00|日本| ||元禄8年4月6日|山西、臨汾地震/M7.8、死者5万2,600人
1695年6月12日-09:00|日本| ||元禄8年5月|(松平)大河内輝貞:下野壬生→上野高崎72千石(-宝永7年越後村上
へ)
1695年6月12日-09:00|日本| ||元禄8年5月|加藤明英:近江国水口2万5千石→下野壬生2万5千石/移封/以後嘉矩
が相続(-正徳2年近江水口へ)
1695年6月12日-09:00|日本| ||元禄8年5月01日|安藤重博:上野高崎→備中松山65千石/次に信友が嗣ぐ(-正徳1
年美濃加納へ)
1695年6月12日-09:00|日本| ||元禄8年5月01日|本多助芳:出羽村山→越後糸魚川1万石/転封
1695年6月12日-09:00|日本| ||元禄8年5月1日|有馬清純:越後糸魚川5万石→越前丸岡5万石/移封/以後一準、孝
純、允純、誉純、徳純、温純、道純と続く(-明治2年)
1695年6月26日-09:00|日本| ||元禄8年5月15日|鳥居忠英:能登下村1万石/下村藩廃藩→近江水口2万石/転封(正徳2年下野壬生へ)
1695年7月8日-01:00|オランダ| |||イタリアの物理学者クリスチャン=ホイヘンスが没/66歳(誕生:16290414)/望遠鏡を製作し土星
の輪を発見
1700迄(4525件)
1695年8月15日-09:00|日本| ||元禄8年7月06日|伊達村和が仙台藩から3万石分与され、陸奥水沢藩立藩
1695年8月24日-09:00|日本| ||元禄8年7月15日|円空、没/64歳(誕生:寛永9(1632))/各地で10万体の仏像を彫刻
した修験僧
1695年9月8日-09:00|日本| ||元禄8年8月|歌舞伎役者等の女性宅出入り禁止
1695年9月16日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ベンディネリ・ネグローネ(~16970916)
1695年9月18日-09:00|日本| ||元禄8年8月11日|金銀貨幣を改鋳/これまでの慶長小判などを改鋳する(元の字
金銀の初め)
1695年10月25日-09:00|日本| ||元禄8年9月18日|知足院を護持院と改称
1695年11月17日-09:00|日本| ||元禄8年10月11日|幕府が捨て子・捨て犬の禁止を命じる
1695年11月20日 00:00|ポルトガル/ブラジル| |||ズンビ,1年半にわたる抵抗のあと密告にあい,おいつめられ同志20
名とともに絶壁から投身自殺
1695年11月21日-09:00|日本| ||元禄8年10月15日|本多忠以:陸奥浅川1万石/白河藩・本多忠平遺領から分封
1695年11月21日-09:00|日本| ||元禄8年10月15日|本多忠利:陸奥石川1万石/白河藩・本多忠平遺領から分封
1695年11月22日-09:00|日本| ||元禄8年10月16日|生類憐みの令違反で与力・同心11人が切腹
1695年12月-05:30|インド| |||インド、マラーター軍がチトラドゥルガ近くでムガル軍を破る
1695年12月6日-09:00|日本| ||元禄8年冬|陸奥盛岡藩9万2千石(藩主:南部行信)、南部大飢饉、餓死者4万余を出
す
1695年12月22日-09:00|日本| ||元禄8年11月17日|幕府:捨て子・捨て犬の禁止を命じる
1695年12月27日-09:00|日本| ||元禄8年11月22日|生類憐みの令:違反で与力・同心11人が切腹
1696年-07:00|カンボジア| |||<再位>カンボジア王国国王チェイチェター4世(~1699年)
1696年-03:00|ケニア/ポルトガル/オマーン| |||オマーンがモンバサを攻略し、ポルトガルを撃退
1696年-02:00|ルワンダ| |||<即位>ルワンダ王国(第三王朝)ユヒ2世(~1720年)
1696年-02:00|フィンランド| |||フィンランドで飢餓、人口の4分の1から3分の1が餓死
1696年-01:00|フランス/ドイツ| |||フランス軍がハイデルベルク城を破壊
1696年 03:00|ブラジル| |||ミナス・ジェライス(何でも鉱山という意味)州のボルバ・ガトー(現サバラ)で砂金発見/ゴールド・ラッ
シュ到来
1696年1月-01:00|スペイン/メキシコ| |||ペテン州イツァール湖畔タヤサルのイツァール族,ウルスアのひきいるスペイン軍により制圧
1696年1月16日-09:00|日本| ||元禄8年12月12日|本多忠常:郡山12万石/白河藩・本多忠平遺領から分封
1696年1月29日-04:00|ロシア| |||イワン5世(ロシア皇帝)死去[1666年08月27日生~](享年29)
1696年1月30日-09:00|日本| ||元禄8年12月26日|火事により山村座、森田座焼失
1696年2月3日-09:00|日本| ||元禄9年1月|津軽藩領で伝染病が流行し、数万人の死者を出す
1696年3月1日-09:00|日本| ||元禄9年1月28日|幕府が日本人の竹島出漁を禁止
1696年3月3日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙35年2月|康熙帝が清軍とハルハ部を率いてジュンガル部のガルダンを征討
1696年3月5日-09:00|日本| ||元禄9年2月2日|伏見・堺両奉行職を廃す
1696年3月25日-01:00|オランダ| |||<就任>ネーデルラント連邦共和国フリースラント州総督オラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾ[ディーツ侯ヘント
゙リック・カシミール2世の子](~17110714死去23歳)
1696年3月25日-09:00|日本| ||元禄9年2月22日|清水・三崎・走水奉行職を廃す
1696年4月20日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1696/4/10|イギリスで航海条例を集大成
1696年4月29日-09:00|日本| ||元禄9年3月28日|米倉昌尹:下野皆川1万石/拝領
1696年5月4日 00:00|イギリス| |||(英)旧鋳貨の流通禁止
1696年5月10日-09:00|日本| ||元禄9年4月9日|<改易>小出重興:和泉陶器1万石/嗣子のないまま34歳で病死し、
無嗣廃絶
1696年5月31日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙35年5月|康熙帝率いる清軍がチャオモードでガルダン・ハーン軍を破る
1696年6月17日-01:00|ポーランド| |||ヤン3世死去/72歳(誕生:16240602)ポーランド・リトアニア共和国王
1696年6月29日-08:00|中国| |||青海各部がジュンガルより離反
1696年7月-01:00|モンテネグロ| |||モンテネグロ王ダニーロ1世即位
1696年7月25日-09:00|日本| ||元禄9年6月27日|磐城小名浜で地震/津波などにより2450人が死亡
1696年7月28日-04:00|ロシア/トルコ| ||ロシア暦7月18日|ロシアの新艦隊が、オスマン帝国領のアゾフ海を征服
1696年8月1日-09:00|日本| ||元禄9年7月04日|宇和島藩、新田を高付けして、10万石に高直し
1696年8月4日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王ナウラタ[前王の息子](~8.18)
1696年8月7日-09:00|日本| ||元禄9年7月9日|新旧金銀貨幣交換・旧貨幣通行停止
1696年8月18日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王マユピヤ[王位簒奪者](~16970513)
1696年8月23日-09:00|日本| ||元禄9年7月26日|<改易>森長武:美作国内2万石/嗣子病弱、廃絶
1696年11月16日-09:00|日本| ||元禄9年10月22日|<改易>小出英及:但馬出石4万5000石/無嗣廃絶
1696年11月25日-09:00|日本| ||元禄9年11月|『子子子子子』《女鳴神》初演、荻野澤之丞、中村座
1696年12月4日-09:00|日本| ||元禄9年11月10日|109代明正天皇崩御(74歳)
1697年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第21代ハン:ヴァリ(~1698年)
1697年-02:00|レバノン| |||シハーブ家のバシール・フサインがレバノンの首領に選ばれる
1697年-01:00|フランス/ハイチ| |||ハイチはフランスの領有となり、フランスの重要な植民地となった
1697年-01:00|フランス/コロンビア| |||フランス海軍のルイ・ドジャン提督,大型船をふくむ20隻の艦隊でカルタヘナを襲撃.サントドミン
ゴ総督のデュカスも海賊650名を率い参加
1697年-01:00|スペイン/グアテマラ| |||ユカタン南部のペテン・イツァール湖畔のタヤサル(現フローレス),マルティン・ウルスア・イ・アリスメンディの率い
1700迄(4525件)
るスペイン軍により制圧
1697年 00:00|イギリス| |||ウィリアム・ダンピアが「新世界周航記」を刊
1697年 06:00|グアテマラ| |||グアテマラで大衆蜂起.武力により鎮圧される
1697年1月-01:00|スペイン/メキシコ| |||最後のマヤ族抵抗の地,ペテン州イツァール湖畔タヤサルのイツァール族,ウルスアのひきいるスペイン
軍により制圧
1697年1月1日-09:00|日本| ||元禄9年12月09日|土佐中村3万石は宗家高知藩に還付
1697年1月1日-09:00|日本| ||元禄9年12月09日|陸奥会津藩23万石藩主・保科正経,松平姓を賜り、松平と改姓/
以後、正容、容貞、容頌、容住、容衆、容敬、容保が相続
1697年1月16日-09:00|日本| ||元禄9年12月24日|下野佐野の小松原次郎右衛門、痴話喧嘩の果てに吉原の遊女
八橋を惨殺/吉原百人斬りとして喧伝される
1697年1月23日-09:00|日本| ||元禄10年|少林山達磨精舎創建(→少林山達磨寺)<黄檗宗>/群馬県
1697年1月23日-09:00|日本| ||元禄10年1月|『参会名古屋』で『暫』『不破』『鞘当』〈浮世塚比翼稲妻〉初
演・【合作・中村明石清三郎、三升屋兵庫《市川團十郎の筆名》】初代市川團十郎、(十八番)
1697年2月21日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙36年2月|康熙帝が清軍を率いてジュンガルへ第3次遠征に出発
1697年3月3日-09:00|日本| ||元禄10年2月11日|(松平)藤井忠周:武蔵岩槻→但馬出石48千石(-宝永3年信濃上
田へ)
1697年3月3日-09:00|日本| ||元禄10年2月11日|阿部正邦:丹後宮津→下野宇都宮10万石/移封(-宝永7年)
1697年3月3日-09:00|日本| ||元禄10年2月11日|奥平昌成:下野宇都宮9万石→丹後宮津9万石(-享保2年豊前中
津へ)
1697年3月6日-09:00|日本| ||元禄10年2月14日|千宗室・4代(裏千家茶道家元)死去[1622年生~](享年76)
1697年4月5日-01:00|スウェーデン| |||<即位>スウェーデン王国国王(プファルツ家)カール12世(~17181130死去36歳)
1697年4月5日-01:00|ドイツ| |||<即位>プファルツ=ツヴァイブリュッケン公(プファルツ=クレーブルク家)カール2世(~17181130退位、スウェー
デン王カール12世)
1697年4月14日-01:00|フランス| |||仏の詩人ラ=フォンテーヌ死去「寓話詩」
1697年4月15日-01:00|スウェーデン| |||<死去>スウェーデン王カール11世/41歳(誕生:16551104)
1697年4月21日-08:00|中国/モンゴル| ||清・康熙36年閏3月|ガルダン・ハンが敗死し、清がジュンガル部と外モンゴルを服属
させる
1697年4月27日-09:00|日本| ||元禄10年3月7日|絵師・狩野永納/死去
1697年5月16日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王カラマンダット[王位簒奪者](~16980605)
1697年5月20日-09:00|日本| ||元禄10年4月|久世重世之:丹波亀山→三河吉田5万石(-宝永2年下総関宿へ)
1697年5月30日-09:00|日本| ||元禄10年4月11日|松平頼職:越前高森3万石/分知(-宝永2年紀伊和歌山藩相続)
1697年5月30日-09:00|日本| ||元禄10年4月11日|松平頼方(吉宗):越前葛野3万石/分知(-宝永2年紀伊和歌山藩
を相続)
1697年6月7日-09:00|日本| ||元禄10年4月19日|小笠原長重:三河吉田→武蔵岩槻6万石/次に長煕が嗣ぐ(-正徳
1年遠江掛川へ)
1697年6月7日-09:00|日本| ||元禄10年4月19日|小笠原長重:老中就任(-宝永2年8月27日])
1697年6月19日-09:00|日本| ||元禄10年5月|「竹抜き五郎」<兵根元曾我>初演[作・三升屋兵庫]五郎、成田不動明
王・初代市川團十郎、通力丸・市川九蔵(初舞台)中村座
1697年6月19日-09:00|日本| ||元禄10年5月1日|火事により大坂道頓堀南側芝居小屋焼失
1697年6月30日 03:00|ブラジル| |||モライス・ナバロの部隊がセルタンに侵入.ジャグアリベのジャンドゥイム王捕獲を試みる
1697年7月27日-09:00|日本| ||元禄10年6月10日|井上正岑:美濃八幡→丹波亀岡47千石(-元禄15年常陸下館へ)
1697年7月28日-09:00|日本| ||元禄10年6月11日|金森頼トキ:出羽上山→美濃郡上八幡3万8900石/次に頼錦が嗣
ぐ(-宝暦8年12月25日宝暦騒動により断絶)
1697年7月30日-09:00|日本| ||元禄10年6月13日|井伊直該:大老となる(-元禄13年3月2日)
1697年8月6日-09:00|日本| ||元禄10年6月20日|<改易>森長成:美作津山16万7800石/無嗣廃絶
1697年8月17日-09:00|日本| ||元禄10年7月|「嫐」初演・中村座、初代市川團十郎(十八番)「寿曾我対面」初演[合
作・中村明石清三郎、三升屋兵庫(初代市川團十郎)
1697年8月25日-09:00|日本| ||元禄10年7月9日|将軍家の祈祷寺院である護持院五智堂・護国寺観音堂が落成
1697年9月-01:00|フランス/スペイン/ハイチ| |||リュウイック/ライスウェイク条約締結.スペインはエスパニョーラ島西半をフランスに割譲.サン・ドマ
ング(ハイチ)となる
1697年9月1日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,アンドロス海軍作戦成功
1697年9月5日-09:00|日本| ||元禄10年7月20日|有馬豊祐の旧領1万石は久留米藩に還付
1697年9月11日-01:00|オーストリア/ハンガリー/トルコ| |||サヴァ公オイゲン(34)率いるオーストリア軍が、ゼンタの戦いでムスタファ2世(33)
のオスマン軍を破る
1697年9月15日-01:00|ポーランド| |||<即位>ポーランド・リトアニア共和国王(ヴェッティン家)アウグスト2世モツヌィ[ザクセン選帝侯](~
17040216廃位~17060924退位)17330201死去62歳
1697年9月15日-09:00|日本| ||元禄10年8月|森衆利:美作津山18万6500石/江戸に出府途中、伊勢で発狂したた
め領地召し上
1697年9月16日-09:00|日本| ||元禄10年8月2日|関長治:美作宮川(廃藩)→備中新見1万8千石/拝領/以後長広、
政富、政辰、長誠、長輝、成煥、長道、長克と続く(-明治4年)
1697年9月16日-09:00|日本| ||元禄10年8月2日|森長継:備中西荏原2万石/森家改易に伴う隠居料として拝領/
次に長直が嗣ぐ(-宝永3年播磨赤穂へ)
1700迄(4525件)
1697年9月16日-09:00|日本| ||元禄10年8月2日|森長俊:津山新田1万5千石(廃藩)→播磨三日月15千石/以後長
記、俊春、俊韶、快温、長義、長篤、長国、俊滋と続く(-明治4年)
1697年9月19日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:フランセスコ・マリア・サウリ(~16990526死去)
1697年9月20日-01:00|フランス/ドイツ/オランダ/スペイン/スウェーデン/イギリス| |||オランダのレイスウェイクでフランスとアウグスブルク同盟がラ
イスワイク条約締結、大同盟戦争(アウクスブルク同盟戦争、ファルツ継承戦争)終結/スペインはフランスに占領されたカタルーニャとルクセンブ
ルクなどの地域を回復し長くフランス領だったロレーヌ公国は一旦神聖ローマ帝国の封土としてロレーヌ公レオポルトに返還/ルイ14
世はウィリアム3世をイングランドの王と認めた/スウェーデンはプファルツ家の継承地プファルツ=ツヴァイブリュッケン公領をフランスより主権
奪回(ツヴァイブリュッケン、帝国諸侯領)/プファルツ選帝侯はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムが継承
1697年9月20日-01:00|フランス/スペイン/インド/カナダ/ハイチ| |||フランスはストラスブールとサンドマング(ハイチ)を獲得し南インドのポンテ
゙ィシェリとカナダのノヴァスコシアを回復
1697年10月29日-09:00|日本| ||元禄10年9月15日|(松平)藤井信通:備中庭瀬3万石→出羽上山3万石/移封/以後
長恒、信将、信亨、信古、信愛、信行、信宝、信庸、信安と続く(-明治4年)
1697年10月30日-01:00|オーストリア/フランス| |||フランスがオーストリアとの和平条約を結び、ファルツ戦争が終結
1697年11月25日-09:00|日本| ||元禄10年10月12日|関東で地震。鎌倉八幡鳥居など多数倒壊
1697年12月13日-09:00|日本| ||元禄10年11月|「江戸土産七化け」水木辰之助、京都萬太夫座/七變化の始まり
1698年-09:30|オーストラリア/ニュージーランド| |||海賊出身のダンピアがオーストラリア・ニュージーランドを探検航海
1698年-07:00|ラオス| |||<即位>ラーンサーン王朝国王サイ・オン・フェ(セタティラート2世)王(~1706年にラーンサーン王国分裂)
1698年-05:00|ウズベキスタン| |||<即位>ヒヴァ・ハン国第22代ハン:シャー・ニヤーズ(~1701年)
1698年-04:00|ロシア| |||モスクワで銃兵隊の反乱がおこるが鎮圧される
1698年-01:00|ドイツ| |||<即位>ハノーファー選帝侯兼連合王国国王ゲオルク1世[エルンスト・アウグストの息子](~1727年)
1698年 00:00|イギリス/インド| |||イギリス東インド会社がムガル朝からカルカッタ等を購入
1698年 06:00|カナダ/フランス| |||<就任>ヌーヴェル・フランス総督ルイ=エクター・ド・カリエール(~1703年)
1698年1月-05:30|インド| |||帝国軍はシェンジを落とした.マラータ王ラージャーラームはデカンへと戻り、サーターラーを王都とした
1698年1月12日-09:00|日本| ||元禄10年12月|長崎会所が設けられる
1698年1月22日-02:00|ラトビア| |||<即位>クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー(~17110121死去)
1698年2月11日-09:00|日本| ||元禄11年|渡辺基綱:武蔵野本→和泉大庭寺13500石(-享保12年和泉伯太へ)
1698年2月11日-07:00|ベトナム| ||大越黎朝・正和19年|広南グェン氏、メコン河にいたるまでのコーチシナを併合
1698年2月24日-09:00|日本| ||元禄11年1月14日|松平宣富:美作津山10万石/光長の名跡を継ぎ再興/以後浅五
郎、長熙(5万石)、長孝、康哉、康ハル、斉孝(10万石)、斉民、慶倫と続く(-明治4年)
1698年3月26日-09:00|日本| ||元禄11年2月15日|大久保忠朝:老中解任
1698年4月17日-09:00|日本| ||元禄11年3月07日|稲垣重定:近江山上13043石/拝領/以後重房、定享、定計、定淳、
定成、太篤、太清、太祥と続く(-明治4年)
1698年4月17日-09:00|日本| ||元禄11年3月07日|遠藤胤親(白須政休の長男):常陸・下野国内→近江三上12千石
/以後胤将、胤忠、胤富、胤統、胤城と続く(-明治3年和泉吉見へ)
1698年4月17日-09:00|日本| ||元禄11年3月07日|堀田正休:上野吉井1万石/天領になる→近江宮川1万石/以後
正朝、正陳(13千石)、正邦、正穀、正民、正義、正誠、正養と続く(-明治4年)
1698年4月17日-09:00|日本| ||元禄11年3月07日|堀田正高:下野佐野→近江堅田1万石/以後正峯、正永、正寛(正
実)、正富、正敦(13千石)と続く(-文政9年下野佐野へ)
1698年4月21日-09:00|日本| ||元禄11年3月11日|堀直宥:上総八幡→越後椎谷1万石/以後直央、直恒、直旧、直喜
、直著、直宣、著朝、直起、直温、直哉、之敏、之美と続く(-明治4年)
1698年5月4日-06:30|ミャンマー| |||<即位>タウングー王朝国王サネイ・セプテンバー[前王の息子](~17140912)
1698年5月14日-09:00|日本| ||元禄11年4月5日|江戸麻布薬園できる
1698年6月2日-09:00|日本| ||元禄11年4月24日|京極高之:峰山藩/弟外記高重へ500石を分知
1698年6月5日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王ナラディパティ1世[前王の息子](~17000617)
1698年6月8日-09:00|日本| ||元禄11年5月|松尾芭蕉の続猿蓑刊行
1698年6月12日-09:00|日本| ||元禄11年5月5日|<改易>水野勝岑:備後福山10万1000石/無嗣廃絶
1698年6月12日-09:00|日本| ||元禄11年5月05日|水野勝長:能登西谷1万石/拝領(-元禄13年下総結城へ)
1698年7月3日-09:00|日本| ||元禄11年5月26日|幕府、今治藩の関東における知行地5000石を収公し替地として
宇摩郡のうち18か村を与える
1698年9月2日-09:00|日本| ||元禄11年7月28日|隅田川に永代橋がかかる
1698年9月3日-09:00|日本| ||元禄11年7月29日|小笠原長胤:豊後中津8万石/不敬4万石減封→弟長円が名跡を
継ぎ中津4万石
1698年9月4日-09:00|日本| ||元禄11年8月|「新色五巻書」著・西澤一風
1698年9月5日-09:00|日本| ||元禄11年8月2日|江戸寛永寺根本中堂できる
1698年9月21日-01:00|イタリア| |||ベネツィア,メテリーノ運河の海戦
1698年10月9日-09:00|日本| ||元禄11年9月6日|江戸寛永寺仁王門・本坊・厳有院焼失
1698年10月11日 00:00|ヨーロッパ/スペイン| |||スペイン王カルロス2世(37)の王位継承をめぐって、ヨーロッパ列強がスペイン領土
第1回分割条約に調印
1698年10月13日-09:00|日本| ||元禄11年9月10日|戸田忠政/老中解任
1698年10月18日-09:00|日本| ||元禄11年9月15日|<改易>伊丹勝守:甲斐徳美1万石/発狂
1698年11月8日-09:00|日本| ||元禄11年10月6日|秋元喬朝/老中就任
1698年12月13日-03:00|ケニア/ポルトガル/オマーン| |||オマーン軍がモンパサのポルトガル要塞フォート・ジーザズを陥落
1700迄(4525件)
1698年12月16日-09:00|日本| ||元禄11年11月15日|幕府、再び伏見奉行を設置
1699年-08:00|インドネシア| |||<即位>アチェ王国国王Badrul Alam Syarif Hashim Jamaluddin(~1702年)
1699年-07:00|カンボジア| |||<即位>カンボジア王国国王アンエム(~1700年)
1699年-07:00|タイ| |||タイのコーラートで農民反乱がおこる
1699年-02:00|ウクライナ| |||<即位>クリミア・ハン国ハン:デヴレト2世ギレイ(~1702年、1期目)
1699年-02:00|トルコ| |||イスタンブールに東洋語の通訳官学校が設置
1699年-01:00|フランス| |||<即位>ヴュルテンベルク=メンペルガルト(モンベリアル)公レオポルト・エーバーハルト[ゲオルク2世の息子](~1723年
)
1699年-01:00|フランス/カナダ| |||フランスの北米植民地はミシシッピ川流域にルイジアナ植民地樹立
1699年-01:00|リヒテンシュタイン| |||リヒテンシュタイン公ハンス・アダム1世即位(~1712年)
1699年 00:00|イギリス| |||イギリスでウール条令が制定
1699年 06:00|グアテマラ| |||グアテマラとユカタンの合同部隊が,ラカンドーネスを攻撃.失敗に終わる
1699年1月6日-09:00|日本| ||元禄11年12月6日|日本橋瀬戸物町に、鰹節専門の「にんべん」が開業
1699年1月10日-09:00|日本| ||元禄11年12月10日|火事により中村座、市村座焼失
1699年1月20日-09:00|日本| ||元禄11年12月20日|幕府が小作地20年以上を永小作とする
1699年1月26日-01:00|オーストリア/ハンガリー/トルコ| |||オスマン帝国がオーストリアなどと和平条約(カルロヴィツ条約)を結び、ハンガリー
などを割譲
1699年1月31日-08:00|中国| ||清・康熙38年|中国の孔尚任が戯曲「桃花扇」を完成
1699年1月31日-09:00|日本| ||元禄12年1月|米倉昌尹:上野・武蔵・相模の内→下野皆川15千石/以後昌明(弟昌
仲に3千石分知12千石)、昌照、忠仰と続く(-享保7年武蔵金沢へ)
1699年2月21日-01:00|イタリア/トルコ| |||ベネツィア共和国、トルコとの平和条約受け入れ。その後大使ロレンツォ・ソランツォにより
平和条約を改正される
1699年3月1日-09:00|日本| ||元禄13年1月11日|堀田正虎:陸奥福島→出羽山形10万石/移封/以後正春、正亮と
続く(-延享3年下総佐倉へ)
1699年3月2日-09:00|日本| ||元禄12年2月|板倉重高(小出英知の五男):上総高滝→備中庭瀬2万石/以後昌信、
勝興、勝志、勝喜、勝モト、勝資、勝貞、勝成、勝全、勝弘と続く(-明治4年)
1699年3月2日-09:00|日本| ||元禄12年2月|肥前で海嘯/300余戸流出し、千余人が死亡
1699年3月2日-08:00|中国| ||清・康熙38年2月|清の康熙帝が第3次南巡を開始
1699年3月14日-09:00|日本| ||元禄12年2月13日|江戸寛永寺本坊再建
1699年6月3日-01:00|イタリア| |||<就任>ジェノヴァ共和国ドージェ:ジローラモ・デ・マリ(~17010603)
1699年6月6日-09:00|日本| ||元禄12年5月9日|初代岩井半四郎、没48才(4月3日説も)
1699年6月11日-01:00|フランス/オランダ/スペイン/イギリス| |||フランス、イギリス、オランダが第1次スペイン分割条約の修正に合意し、
第2次スペイン分割条約が成立となる
1699年6月22日-09:00|日本| ||元禄12年5月25日|江戸での33間堂の通矢が浅草から深川へと移される
1699年6月27日-09:00|日本| ||元禄12年6月|本多助芳:出羽村山→越後糸魚川1万石(-享保2年信濃飯山へ)
1699年6月27日-09:00|日本| ||元禄12年6月01日|福井藩主松平家別邸庭園「御泉小屋敷」完成(→養浩館庭園)/
福井県
1699年8月-08:00|マレーシア| |||ジョホール朝のスルタンが暗殺されマラッカ王朝の血統が途絶
1699年8月4日 03:00|ブラジル| |||モライス,マドレ・デウスで先住民400人を捕らえ虐殺
1699年8月25日-01:00|デンマーク/ドイツ/ノルウェー| |||<即位>デンマーク=ノルウェー二重王国国王(オレンボー朝)シュレースヴィヒ公(オルデ
ンブルク家)フレゼリク4世[クリスチャン5世とシャルロッテ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセルの長男](~17301012死去59歳)
1699年8月25日-01:00|デンマーク/ノルウェー| |||<退位>デンマーク=ノルウェー二重王国国王クリスティアン5世
1699年10月2日-09:00|日本| ||元禄12年9月10日|戸田忠政:老中解任
1699年10月8日-09:00|日本| ||元禄12年9月16日|大久保常春:近江国内1万石の遺領を継ぐ
1699年10月20日-09:00|日本| ||元禄12年9月28日|阿部正喬:武蔵国内1万石/拝領(-宝永1年武蔵忍藩相続)
1699年10月23日-09:00|日本| ||元禄12年閏9月|戸田忠真:下総佐倉7万1千石→6万1千石/父忠昌からの遺領の
うち1万石返納
1699年11月1日-09:00|日本| ||元禄12年閏9月10日|幕府旗本7690人を賑救し大名旗本従者の制を定む
1699年11月26日-09:00|日本| ||元禄12年10月6日|秋元喬朝:老中就任(-正徳4年8月14日)
1699年12月13日-09:00|日本| ||元禄12年10月23日|幕府が江戸城大奥に倹約令を出す
1699年12月18日-09:00|日本| ||元禄12年10月28日|<改易>伊達村和:陸奥水沢3万石/旗本との喧嘩による処罰
で改易廃藩/宗家綱村に還付
1700年-07:00|カンボジア| |||<再位>カンボジア王国国王チェイチェター4世(~1702年)
1700年-02:00|ルーマニア| |||<即位>モルダヴィア王コンスタンチン・デュカ(2度目~1703年)
1700年-02:00|トルコ| |||トルコがグレゴリオ暦の採用
1700年-01:00|スペイン| |||<就任>バルセロナ伯フェリプ4世[フランスのドーファン・ルイの子](~1705年)
1700年-01:00|フランス| |||<就任>フランス王国ブルゴーニュ公(スペイン・ブルボン家)フィリップ8世[スペイン王フェリペ5世](~1706年)
1700年-01:00|デンマーク/オランダ| |||<即位>ブラバント公(ブルボン=アンジュー家)フィリップ6世(~1710年)
1700年-01:00|ドイツ| |||プロイセン科学アカデミーが創立
1700年1月 00:00|イギリス/インド| |||イギリス東インド会社がカルカッタの3カ村を正式に購入
1700年1月6日-09:00|日本| ||元禄12年11月17日|幕府風俗の異様を誡め長刀を佩ぶるを禁ず
1700年1月14日-09:00|日本| ||元禄12年11月25日|幕府が盗賊改・火付改役を廃止
1700迄(4525件)
1700年2月1日-09:00|日本| ||元禄12年12月13日|幕府が江戸城大奥に倹約令を出す
1700年2月16日-09:00|日本| ||元禄12年12月28日|幕府が旗本に住居・武具・衣服・調度・贈り物・宴会などについ
て倹約令を出す
1700年3月1日-09:00|日本| ||元禄13年1月11日|(松平)奥平忠雅:出羽山形10万石→備後福山10万石(-宝永7年
伊勢桑名へ)
1700年3月1日-09:00|日本| ||元禄13年1月11日|陸奥白河新田藩2万石(藩主:松平(奥平)忠尚)陸奥桑折に転封/
以後忠暁、忠恒が嗣ぐ(-延享4年上野上里見へ)
1700年3月1日-01:00|デンマーク/ドイツ| ||ユリウス暦2月19日|ドイツの新教地域、デンマークがグレゴリオ暦の採用を始める
1700年3月2日-05:30|インド| |||マラーター王国のラージャラーム王が没⇒息子シヴァージー2世が王位を継承し、その母であるラ
ージャーラームの妃ターラー・バーイーが摂政
1700年3月3日-09:00|日本| ||元禄13年1月14日|幕府が盗賊改・火付改役を廃止
1700年3月25日-01:00|フランス/スペイン/イギリス| ||ユリウス暦3月14日|イギリス、フランスなどが第2次スペイン分割条約に正式に調
印
1700年3月30日-09:00|日本| ||元禄13年2月12日|肥前いざないで大波/山崩れなどで600戸損壊/千余人が死亡
1700年4月-05:30|インド| |||ムガル軍によりマラータ王国首都サーターラー陥落
1700年4月1日-09:00|日本| ||元禄13年2月13日|京都、糸割符仲間が前年許可された新銭(寛永通宝)鋳造を始め
る
1700年4月18日-09:00|日本| ||元禄13年3月|「風流御前義経記」著・西澤一風
1700年4月19日-09:00|日本| ||元禄13年3月2日|井伊直該:大老辞職
1700年5月12日-09:00|日本| ||元禄13年3月25日|松平義行(徳川光友の次男):信濃内→美濃高須3万石/以後義
孝、義淳、義敏、義柄、義裕、義当、義居、義和、義建、義比、義端、義勇と続く(-明治2年)
1700年5月27日-09:00|日本| ||元禄13年4月10日|初代坂東又九郎、没(森田座座主,二代目守田勘弥の実父)
1700年6月17日 06:00|アメリカ| |||マサチューセッツ植民地がカトリック神父の追放令を制定
1700年6月18日-06:30|ミャンマー| |||<即位>ミャウウー王朝(アラカン)国王サンダ・ウィマラ1世[前王の孫](~17070330)
1700年6月23日-04:00|ロシア| ||ロシア暦6月12日|ロシアがオスマン帝国との戦争を休止し、アゾフを除く黒海艦隊を引き揚げ
る
1700年7月5日-01:00|イタリア| |||ヴェネツィア共和国元首シルヴェストロ・ヴァリエール、国庫に5万ドゥカーティを残して死去
1700年7月10日-09:00|日本| ||元禄13年5月25日|池田綱清:鳥取藩32万5千石⇒31万石/池田清定(池田光仲5男)
に若桜1万5千石を分知
1700年7月10日-09:00|日本| ||元禄13年5月25日|池田清定(池田光仲5男):若桜1万5千石/拝領/以後定賢(2万石
)、定就、定得、定常、定興、定保、清直、清緝、徳定と続く(-明治3年宗藩に併合)
1700年7月10日-09:00|日本| ||元禄13年5月25日|幕府より領内の墾田7万石を本領とすることが許可される/こ
れにて水戸藩は35万石
1700年7月12日 00:00|イギリス| ||ユリウス暦:1700/7/1|イギリスの桂冠詩人で劇作家ジョン・ドライデン没/68歳(誕生:16310
809)
1700年7月17日-01:00|イタリア| |||<就任>ヴェネツィア共和国ドージェ第110代アルヴィーゼ・モチェニーゴ2世(~17090506)
1700年8月4日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||カール12世のスウェーデン軍がシェラン島へ上陸し、デンマークを破る/大北方戦争(
~1720)
1700年8月8日-01:00|デンマーク/スウェーデン| |||スウェーデンとデンマークの間でトラヴェンタール条約締結(大北方戦争における平
和条約)/デンマークの北方同盟からの離脱と、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国における安全が保障された/デンマークはホルシュタイ
ン=ゴットルプ公領の主権を承認
1700年9月27日-01:00|バチカン| |||241代ローマ教皇インノケンティウス12世死去/85歳(誕生:16150313)副音宣教に献身した
1700年10月9日-09:00|日本| ||元禄13年8月28日|幕府日光奉行を置き、日光目付は廃止
1700年10月11日-09:00|日本| ||元禄13年9月|松平頼隆(徳川(水戸)頼房の五男):常陸保内2万石→常陸府中2万
石/移封/以後頼如、頼明、頼永、頼幸、頼済、頼前、頼説、頼縄、頼策(-明治4年)
1700年10月21日-09:00|日本| ||元禄13年9月11日|徳川綱吉が日光山法度を下す
1700年11月1日-01:00|イタリア/スペイン| |||<死去>スペイン国王カルロ2世/38歳(誕生:16611106)
1700年11月1日-01:00|オランダ| |||<就任>エノー伯(ブルボン=アンジュー家)フィリップ5世(~17111012)
1700年11月1日-01:00|ベルギー/フランス| |||<就任>フランドル伯(ブルボン=アンジュー家)フィリップ7世(~1710年)
1700年11月1日-01:00|イタリア| |||<即位>サルデーニャ国王フェリペ5世[フランス王太子ルイとマリー・アンヌ・ド・バヴィエールの息子](~1
713年)17460709死去62歳
1700年11月4日-09:00|日本| ||元禄13年9月25日|松平頼貞:常陸額田2万石/本藩に返還→陸奥守山2万石/以降
頼寛、頼亮、頼慎、頼誠、頼升、頼之(-明治3年常陸松川へ)
1700年11月16日-01:00|スペイン| |||<即位>スペイン国王(ボルボン朝)フェリペ5世[アンジュー公フィリップ.フェリペ4世の大孫](~1
7240114)ナーポリ王シチリア王フィリッポ4世
1700年12月1日-02:00|フィンランド/スウェーデン/ロシア| ||ロシア暦11月19日|スウェーデン王カール12世が、ナルヴァの戦いでピョートル1世
のロシア軍を破る/北方戦争が勃発
1700年12月7日-09:00|日本| ||元禄13年10月28日|水野勝長:能登西谷1万石/西谷藩廃藩→下総結城1万8千石/
加増移封/以後勝政、勝庸、勝前、勝起、勝剛、勝愛、勝進、勝任、勝知、勝寛と続く(-明治4年)
1700年12月8日-01:00|バチカン| |||242代教皇クレメンス十一世(-1721年3月19日)
1700年12月9日-09:00|日本| ||元禄13年11月|「大一大萬大吉」,大和屋甚兵衛、京早雲座/<拍子事>の始まり
1700年12月16日-09:00|日本| ||元禄13年11月8日|幕府が金・銀・銭の公定相場を決定/金1両=銀60匁=銭4貫文