言い伝えでは 秦の始皇帝の時代に 辺境を守る将軍であった蒙恬(もう

言い伝えでは 秦の始皇帝の時代に
辺境を守る将軍であった蒙恬(もうてん)は
柘植を筆の管とし
鹿皮を中心にし
羊皮でまわりを囲んで
職人に秦の筆を作らせたという
これを蒼毫という
こうして蒙恬は毛筆の創始者となった
また毛筆を発明しただけではなく
筆と一緒に使用する硯も作ったといわれている
その硯の材料は
賀蘭山に産する賀蘭石である
寧夏府志の記載によると
筆架山は賀蘭山の小滾鐘口にあり
三つの峰がそびえ立ち 筆架(筆置き)に見えるそうだ
その山からとれる紫色の石が硯の材料である
二百年前の地方誌の記載によって
賀蘭山の紫石硯は
当時から名が知られていたことがわかる
清朝末年にも
硯については
一に端渓(たんけい)、二に歙州(きゅうじゅう)、
三に賀蘭(がらん)の言い方がある
端渓とは広東省高要県の端渓石
歙州とは江西省婺源県の歙渓石
賀蘭はその名の通り
まさに賀蘭山の紫石を指す
これら三種類の石は
すべて硯の材料となることで有名になった
よい硯の見分け方を教えてください
硯の色を見てください
割合に明るい色をしています
ここの色を見ると
青や、緑色もあります
また硯の陸や海の部分に光沢があります
油を塗ることで光沢が出ます
このような硯で墨をすると
長く使っても変な臭いがしません
異臭が出ないということです
さっきハーっと息を吹きかけたのは?
水滴が珠になるんです
こういうふうに水を弾きます
水滴ですね
普通あまりよくない硯ではこうはなりません
ほかのものには見られない特徴です
青石の種類のものだけがこうなります
石のままだと ハーっと息を吹きかけると水が浸透しますが
ここに油を塗ると
水分が浸透しなくなります
それに乾燥もしません
かつて 硯の種類には
石、瓦、銅、銀、玉、水晶、竹の節などがあったそうだ
これらの材料にどのような由来があるかはさておき
いわゆる「文房四宝」のなかで
硯はもっとも遅い時期に生まれたという
蒙恬が筆を発明したとき
硯も発明したかどうかは
今後の考証を待たなければならない
だが少なくとも秦代以前には
文献上に硯を使用したという記録はない
西漢の時代になると
墨は固形状に作られるようになり
そこで初めて硯を使う必要が生まれ
記録にも残るようになった
すなわち その時代から
ようやく多くの人々が
紙・墨・筆・硯について真剣に研究し始めたのである
唐代以前には瓦の硯だけで
石の硯はなかったという説がある
これは確かではないが
石の硯が生まれたのが
比較的新しいことは
確かなことのようである
古代の文人たちは
詩文を作り 風月を吟じる際に
様々なこだわりを持っていた
文房四宝に対しては
筆の寿命は日で数え
墨の寿命は月で数え
硯の寿命は世で数えた
言い換えれば
筆、墨、紙はいつでも新しいものに換えられるが
硯は長くそばにおいて愛用する
それは伴侶や友人のようなものだ
そのため これまでずっと
硯の材料や 産地について
何度も研究されてきた
古代から現代まで
このように長い間 研究対象となってきたものは
決して多くない
端渓の硯と歙州の硯は
きわめて貴重なものといえるが
そのほかについては
十中八九は平凡なものに過ぎない
この硯の特徴は
石が板状になっていることです
とくに この縁の風化した様子が見事です
さらに 墨のはじき具合がよいことで
これが徐公硯(じょこうけん)の最大の特徴といえます
ある言い伝えがあります
ある読書人が
北京に科挙を受けに行ったとき
自分の硯を持って行くのを忘れてしまいました
沂南(ぎなん)で徐公店という土地を通りかかり
石を一つ拾いました
その石を持って行き
北京で試験を受けるとき使いました
ほかの硯は墨が凍ってしまったのに
その硯だけは違いました
暖房のない部屋の中で
ほかの硯の墨は凍ってしまい
筆を墨液に浸すことができなかったのに
彼の硯だけは凍らなかったのです
試験官はそれを見て驚き
そのおかげで
彼は役人に取り立てられました
役人になった後も
その硯のことを忘れられず
また沂南に戻って
徐公店に硯を製造する工房を開きました
そこで硯に徐公という名がついたのです
この葉硯(ようけん)も
徐々に形成されたものです
最初から葉硯というものがあったわけではなく
段階的にできてきました
この硯は もとは実用的な価値が大きかったのが
後に鑑賞的な価値も大きくなってきたのです
そうなってからは
この硯は墨をするだけの道具ではなく
飾り物として鑑賞するようになりました
コレクションとしての役割が生まれたのです
実は 私はもともと絵を描いたり
書道や文物の仕事をしていました
文物の研究です
硯の製作では石の限界を超えて
全国各地の石を 私は全て削ります
自分の特徴が出るようにしています
その特徴というのは
古拙 質樸 優雅 怪異 です
今回 北京美術館で展覧会を行ったとき
専門家が私の作品を総合的に評価した言葉です
専門家の座談会があり
また葉硯の技術展示会も行われました
(工芸品としての)硯は
細工が非常に巧みにできています
山東省臨沂 王羲之 旧居
洗硯池
歴代の名家が硯について論じた
見方はそれぞれ異なる
硯の伝記を書いた者もあり
硯の銘を書いた者もあるが
いずれも自分の好みを表したことには変わりない
言い伝えでは 蘇東坡は一振りの銅剣と
友人の龍尾紫石硯を交換したという
丁寶臣は端州に着任したとき
緑石硯を作り
王安石に贈った
王羲之の子孫は
家産が傾いたために
風字硯を二万元で質入れした
また 王羲之は子供のころ
木訥で口べたであったと言うが
大人になると
弁舌に長け ずけずけと物を言うようになった
そこで硬骨漢(こうこつかん)と呼ばれたが
だれもがよく知っているように
彼はその弁舌のために
筆墨を疎かにすることはなかった
書道の歴史において
その華麗で洗練された書風は
自ら一家をなし
後世に「書聖」と称されることになった
行書で書かれた「蘭亭序」は
さらに王羲之の
伝統的な書道における第一人者としての地位を
揺るぎないものとした
王羲之の墨跡
紹興の墨華亭
蘭亭は紹興会稽山の北にある
言い伝えでは 越王 句踐が
かつて この地で蘭の花を栽培し
漢代にはここに宿場が置かれた
そのため蘭亭の名がついた
1638年 旧暦の三月三日
王羲之は当時の名士を 四十二人 招いて
蘭亭で盛大な宴を設けた
宴席では皆が詩を吟じて楽しみ
王羲之は宴を記念してその場で筆を振るった
「蘭亭序」はこうして後の世に伝わり
中国第一の行書と讃えられることとなった
蘭亭もまた王羲之の作品から
広く人々に知られるところとなり
歴代の書道の大家は
ここを聖地として崇めている
王羲之は五十九歳で亡くなったが
行書の「蘭亭序」のほかに
楷書の「楽毅論」があり
草書には「十七帖」がある
王羲之の書は後世の書き方の手本となったが
彼の硯は
子孫の借金のかたになってしまった