投稿文 ﹁尾敬の牧﹂ と奥地の停囚・安倍富忠との つながりについての一考察 相銀綱は如欄摘雛鯛紬雛銅相 内 知 昭 家︶ である奥六郡の主である安倍頼時を裏切って、朝廷側 ︵源頼義・義家父子︶ に味方したため、安倍氏が滅んで行く 原因となったという歴史は、まさにその離反した背景にこそ、 この地方 ︵尾鮫の牧︶ が、伝統的に〝律令政権におけるとこ ろの御牧と同様であった″という自負心から起こったもので はないだろうか﹂ と推論した。また、稚拙ではあるが、この 歴史講演の資料として添付した目頭園糊の中で、田中広明氏 二〇〇八年9月の ﹃六ヶ所村歴史講演2008﹄ ︵以下、 ﹃歴史講演﹄とする︶報告書の ﹁まとめ﹂ において、筆者は、 うか。また、安倍富忠自身も、頼時を支えるほどの経済的・ せており、安倍富忠の実力も把握していたからではないだろ ﹁源頼義軍の朝廷が安倍富忠軍を頼りとしようとしたのは、 が提示しているけ﹂覇ヨ叫印詞樹を踏まえて、 三人の講師先生方の講演内容を含めて、﹁まさに、当地方が、 軍事的、力を持っていると自負していたための反旗ではな はじめに 律令政権の権威を受け入れる形で牧監を置き、その代償とし かったのだろうか﹂と推論した。今回の提起とは、その推論 すでに中央においては、尾駿の駒のブランド品はその名を馳 て得る、交易の実利を妥協案として選択していたのではない を裏付ける、一歩進めた一考察である。 の前九年の役で、当地方を治めていた安倍富忠が、宗家︵本 か﹂ また、当村の ﹁安倍舘の伝承﹂ を踏まえて、﹁平安末期 56 ﹁ 出土した遺物・遺構から 二〇〇八年9月の ﹃歴史講演﹄ において、北林八洲晴氏が 提示した、持周観潮.り.廟親潮周辺面魂粛渦.覇叫 述しているが、﹁文字を操る人物こそが、地域社会に君臨す 人が必ず獲得すべき文字について、﹁陶硯﹂ を題材として論 る古代的な豪族の本質﹂ とし、また、 ﹁わが国では、六世紀末から七世紀初めにかけて、朝鮮半島 や大陸の影響を受けつつ、焼き物の硯が用いられ始め、平 硯﹂ よりも、食器をひっくり返して底を磨いたり、鷺の破 安時代末まで使われたが、最初から硯として作られた ﹁陶 覇圃欄の中から、①﹁表舘遺跡﹂ 出土の石帯、② ﹁押付遺跡仙﹂ 出土の灰粕陶器﹁︵折戸五三様 片を磨いたりして硯とした ﹁転用硯﹂ も盛んに使われてい 式︶﹂、③ ﹁発茶沢遺跡﹂ 遺構の掘立柱建物跡、これら三つの ついて考察してみたい。 遺物・遺構を取り上げて、中央とのつながり・官人の存在に という瑠璃石質の石帯出土から、﹁律令政府との関連の濃い おいて栗村知弘氏が、五位以上の位階の者が着用を許された そして、﹁陶硯﹂ の出土は、律令国家が、文字による地域 支配を推進していった指標でもあるが、﹁古代国家の宮人と ば、圧倒的に ﹁転用硯﹂ が多かったともしている。 ﹂ た とし、遺跡から出土した ﹁陶硯﹂ と ﹁転用硯﹂ の数を比べれ 何かがあって、その長として、この地の行政や軍事に係わっ 鏡などを威信財や宝物として交換しても、文字による支配の 接触した蝦夷たちであっても、太刀や腰帯、金銅製馬具、銅 その中でも最も注目される①白玉帯については、同講演に た人物が居たということを示すもの﹂ として、八世紀から九 することは無かった﹂ 象徴であった ﹁陶硯﹂ は、交換したり蝦夷の地で作られたり 世紀にかけての陸奥国においての石帯出土例と比較した上で、 いわゆる白玉帯は、平安京や国府、またはそれに関連した遺 この地域の支配者の豪族のものとは考えにくい。また同じく、 そうした点において、﹁沖付遺跡川﹂ 出土の ﹁転用硯﹂ は、 と論述している。︵﹃豪族のくらし﹄すいれん舎 二〇〇八︶ 次に、②灰粕陶器﹁︵高台付小皿︶﹂については、同講演におい 論した。 跡からの出土傾向が強いと云われているところから、そう推 て北林氏が、﹁貴族用の高級陶磁器で、墨書用の転用硯とし 自説の ﹁宮人の存在﹂ を考えたい。 な刀と言われる ﹁蕨手刀﹂ でないところからも、私としては、 この極↓押付遺跡川﹂から出土の ﹁直刀﹂は、蝦夷の代表的 また、そのことについては、田中広明氏は、古代国家の官 て認識しており、文字の存在が認められる﹂ との見解を示し 。 た 57 ﹁黒井峯遺跡﹂ の ﹁平地建物﹂ とされる貧弱な建物が馬小屋 残さないほどの粗末な厩舎で飼われていたのではないだろう また、北林氏の同講演資料 ﹁表6 出土した遺物の一覧﹂ 叫 と想定しているのを例に挙げ、﹁おそらくは、地表に痕跡を 慧 か﹂ と推測している。 川 彗村側団1dd感.−からも山上するものではないとしている。 室 の中には、須恵器の ﹁大中の牽﹂ の出土が提示されているが、 私自身日頃から、この尾駁沼・鷹架沼周辺の発茶沢・表舘遺 そこで、③ ﹁発茶沢遺跡﹂ の掘立柱建物遺構について考え てみたい。﹃歴史講演﹄において北林氏は、竪穴住居+掘立 は を支配する豪族の存在、例えば、尾駿の牧を管理する支配者 いか﹂ とする説を紹介している。 史学の立場から ﹁内厩型民家の祖形とも考えられるのではな 跡を含む各遺跡が存在するこの一体から、何かしら、この地 構などが発掘されないものか?と考えていたが、田中氏の見 また、北林氏は ﹃六ヶ所村史﹄ において、﹁この掘立柱建 代表する独特な建物住居構造であるとし、高島成佑氏が建築 解によれば、 ﹁集落にも、豪族の居館にも多数の大きな倉は無く、﹁郡 物には、カマドがなく、集落の人たちが居住するために使用 柱建物十周堤 ︵盛土︶ の3点セットを、青森県の上北北部を 家﹂ のような役所の倉庫には大量の稲が蓄えられていて、 したとは考えられない建物﹂ であるとし、また、同講演にお を想定した場合、その富の権威を示すような遺物、建造物遺 巨大な米びつだったと言えるが、地域に君臨していた豪族 い て 、 高く盛り上がった土手状のもので、カマドのある南側を開 ﹁凸型の周堤は、掘立柱建物のある平坦面よりもL2mくらい たちは、ある程度は地位が世襲的に保証され、代替わりの ていたため、あえて富を無尽蔵に蓄えなくてもよかった﹂ 儀式を通じて、地域の人々に豪族であることを再認識させ けて囲んでいるところから、この周堤の機能はヤマセ ︵偏 東風︶ 対策の防風施設ではないのか?この地域の人々は、 ︵﹃豪族のくらし﹄すいれん舎 二〇〇八︶ としている。正しく、この地方の支配者たちもその通りで と論じている。そして先に、﹃六ヶ所村史﹄ においても、 ﹁掘立柱部分の性格、機能を確定できるような遺物は出土し る独特な建物住居ではないのか﹂ 人間よりも馬を可愛がって創意工夫した上北北部を代表す また、串噂酸の を想定するならば この地方は広大な あったのだろう。 田中氏は、古代の集落や豪族の居宅から馬小屋は、これまで ていないが、この種の住居は、近世の古民家における ﹁か 慧 利 。 し か し 、 に発見されていないとしている。そして、群馬県渋川市の 58 の下で生活していたのであり、内厩型の民家 ︵曲屋︶ では 四股下端に白徴があること﹂ 等のアラブ種の特徴を全部具え ね上がっていること﹂ ﹁歩き方が側対歩であること﹂ ﹁顔や匝 夷の騎馬文化の ﹁和人起源説﹂ については、問題があること このことについては、森浩一氏も次に挙げる理由から、蝦 高科書店一九九四︶ 改良されたものであろうと断じている。︵﹃古代日本と北の海みち﹄ るべく、海の馬道を通って騎馬民族の優駿が輸入され、品種 提言している、佃蝦夷の騎馬文化の﹁大陸源流説﹂を裏付け 惇男を朝廷への献上した﹂という記事は、新野直吉氏が 記﹄養老二年 ︵七一八︶ 8月14日条の ﹁出羽と渡嶋の蝦夷が また氏は、この日本在来馬の改良を考える時、﹃扶桑略 ていることを挙げている。 まど﹂ や ﹁囲炉裏﹂ の煙からも想像されるように、あの煙 馬や牛が飼われていた。生態人類学の分析によると、岩手 県北から青森県東南部にかけての山地における生業は、古 代以来、﹁あらき﹂ と呼ばれる焼畑農業と馬の飼育であっ たという結論に至ることになりそうである﹂ としている。 二、秋馬の起源と陸奥交易馬制度 次に、そのヤマセ ︵偏東風︶ を含む、この地方の馬飼いの 里としての特異性を見てみたい。盛田稔氏は、けこlq地力が また盛田氏は、﹃歴史講演﹄ において、この地方の馬の呼 拝したのも、①の第一の要因を欠いたからであるとしている。 れた馬で、たくさんの関東や信濃に牧がある時代に、遠隔 令政府が三回にも亘って ﹁数馬売買禁止令﹂ を出すほど優 ものにしてはあまりにも多いこと。二に、蝦夷の馬は、律 り、且つ東北地方出土の馬具は、和人のところから入った を述べている。 ﹁一つには、八世紀にすでに蝦夷は強力な騎馬隊を持ってお 称が ﹁秋馬﹂ から ﹁戸立﹂、﹁糠部の駿馬﹂、﹁南部馬﹂ と変遷 して行く中で、南部地方に奉納されている ﹁小絵馬﹂ ︵近世 とが考えられる﹂ ︵﹃日本古代文化の探求︵八︶蝦夷﹄ 社会思想社一 どこかの馬の文化とつながっているのではないかというこ 馬飼いの里で在り得た三つの要因として、①適切な気候・風 土・広大な牧野・飼料、②種の問題、③馬飼いの民の問題を 挙げ、結論として、陸奥国以外の産出馬が、陸奥国に後塵を の絵馬であるが⋮筆者︶ に日本の在来馬にない多数の駿馬の としている。 九七五二ハ・蝦夷と騎馬の俗一参照︶ の地の蝦夷の馬に憧れている。その背景としては、蝦夷が 存在を見つける時に、先の第二要因にも示しているように、 古くからアラブ種の血が入っているのではないかとしている。 その理由は、絵馬の特徴に、アラブ種特有の ﹁尾がピンとは 59 また、その禁令を読み解く中で、高橋富雄氏は、 ﹁騎馬民族説というものがあって、ヤマト王朝そのものが、 大陸騎馬民族による征服王朝ではないかという論がかなり にもノそのことが確認できるという﹂ また、﹃古今要覧稿﹄同の中に次のような記述もあるとし、 ﹁オランダから献上された馬よりも日本馬のほうが速かった し、李氏朝鮮から献上された馬も日本の奥羽地方 ︵陸奥は ま鵜呑みにすることは危険かもしれないが、一方で実録的な との記述があるとして、近藤氏は、これからの記事をそのま 古代以来名馬の産地である︶ には劣ったという﹂ おそらくは騎馬の民としても強力だった蝦夷たちが、ウマ 馬を買い求める需要者になっていて、馬飼いの民として、 であったと論じているが、これまでの数馬の考察の上からす 要素も強いと考えられる上から、日本馬の能力は優れたもの 広く行なわれているが、︵中略︶ 騎馬民族の末商とみなさ れなければならない王臣らヤマトの支配者層が、争って秋 の供給者になっていて、全く需給関係が逆転している。騎 閂馬を編成して 防衛の.全を確保 ると共に その専売 rL また 良馬を一.馬に するべく 羽瑚笥 る禁令を出してまで、酸別矧の一想到卵割ゐ一矧習欄間筍瀾誼d それでは次に、高橋富雄氏も述べているように、三度に亘 れば、当然の結論ということになりそうである。 馬民族説は、日本列島内においては、北から南へ、北東か ら南西へと語りくだる必要があるように思われる﹂ ︵﹃古代 蝦夷を考える﹄ ﹁28 狭馬の問題提起﹂ 古川弘文館一九九一︶ ところで、その海の馬道を通って騎馬民族の優駿が輸入さ と論じている。全く興味深い見解である。 江戸時代にもあるようである。 れ、アラブ種の血が入っていることを裏付けさせる文献が、 その一端を担ったと思われる、秋馬の産地 ﹁尾駿の牧﹂ との ︵うまやの国体制︶ とも言える ﹁陸奥国臨時交易馬制度﹂ の、 べ.引習判琴簡期の嘲輿固叫国血盟開周到倒椚圃国側制 側 制 封 梱 山 地 u 覇 旬 日本馬を比べる上から、﹃古今要覧稿﹄ ﹁禽獣部・馬﹂ の中で 近藤好和氏は、山部習句澗樹で、外国馬と 引用されている、新井白石の ﹃東雅﹄巻十八 ﹁畜獣・馬﹂ を つながりについて考察してみたい。 匹敵するくらい優秀だと、嶋蘭陀人 ︵オランダ人︶ が言っ ﹁日本馬は巴爾斯亜 ︵ペルシャ︶ の馬、つまり、アラブ種に 行われていた串習簡閲について、天皇が出御している前 高橋氏は、その ﹁陸奥交易馬御馬御覧﹂ の儀式の中で執り 川 駒牽の形態と駿馬の事例 い る 。 採り上げ、次のような意味の文が載せてあることを指摘して たという。また、シャム国王が、日本に馬を所望した書状 60 式に臨んだ全員が馬を牽き、その参列した貴族・官人たちに で、実際に現地で馬を管理する役人 ︵牧監︶ から始まって、 紹介した上で、次に、その頁馬の中に、﹁毛が駿になってい 治二年 ︵一一八六︶ 10月3日条に、奥州藤原氏 ︵秀衡︶ 1頼 る馬﹂ 駿馬がいたことを示す貴重な史料を紹介して見たい。 一昨年の ﹃歴史講演﹄ において、盛田氏は、﹃吾妻鏡﹄文 馬を分配するという儀式は、貢馬を進める東国諸国の服属・ 臣従を表す大事な国家儀式であったとし、﹁陸奥交易馬﹂ は、 に変わって行く。また、その形態は多様化し、三つに分類さ 原氏の頁馬へと受け継がれ、交易馬の形態から貢馬という形 そして、この儀式は、十二世紀前半には姿を消し、奥州藤 が、その内一頭が ﹁栗毛駁﹂ であった。この二つの事例は奥 ことが﹃丘範記﹄ に記されている。いずれも勝ち馬であった において競馬があり、秀衡が貢進した馬二頭が出走している 年前の仁安二年 ︵一一六七︶ 10月26日にも、京都の馬場御所 朝1朝廷へと頁進された御馬五疋の中に、﹁鹿毛鮫﹂ ﹁葦毛 駁﹂ が入っている事を紹介しているが、それを遡ること十九 れて行く。①摂関家への私的な責馬。②奥州藤原氏管理下の ものであるとしている。 その後の勅旨牧の廃れを受けて、その伝統を直接に継承した 荘園年責としての責馬。③ ﹁国土責﹂ としての朝廷に納める 責馬である。そしてそれは、鎌倉幕府の頁馬へと継承されて への大量の頁馬が、王卿も会した場で牽き回しと左右周到叫 尾駿の駒・牧と ﹁陸奥交易馬﹂ 等のつながりを考察する上 佃 ﹁陸奥交易馬﹂ の背景とその基本形態 料︺ を当たって見ることとした。 州藤原氏の貢馬であり、貴重な史料である。しかし、筆者と 一 すれば、﹁陸奥交易馬﹂ の中にもその駿馬の記載を見出せな 61 いものかと思い、﹃青森県史﹄ ︹資料編−古代Ⅰ・文献資 一 行 く 。 そうした中で、大日方克己氏は、加瀬文雄氏が藤原道長を の分給を伴って行なわれている事から、これは、駒牽の衰退 林氏は、六ヶ所村の古代集落の形成開始が奈良時代・平安時 めぐる牛馬の献上・贈与を検討する中で、匝覇﹁天l里 を補う ﹁藤原道長東進駒牽﹂ として位置づけられなければな 到烈日としていることを取り上げ、大日方氏もまた、これ の集団移住によるものではないかと推測し、九世紀中葉とし 代初期の遺跡が見つかっていないところから、上北南部から このように天皇・院・摂関、鎌倉期以降は幕府という、そ 石帯は、石帯出現後間もなくの九世紀中頃に選ばれてきたも ている。それに対し、栗村民は同講演において、表舘遺跡の で、その背景を確認しておきたい。﹃歴史講演﹄ において北 部として捉えなければならないとしている。 は、この時期の国家権力構造に即した責馬と駒牽の体系の一 れぞれの時の権力との関係に即したと思われる駒牽と貢馬を のではないかと推測し、やがては奈良・平安初期の空白を埋 兼国を、この年初めて派遣する﹂ との記載事例が見えている 萄到錦﹂﹂■司1用例姻団剣に、﹁陸奥守1平孝義が馬を ㈱ ﹁駿馬﹂の事例と御馬交易便−下毛野氏 ﹁駿馬﹂ の事例をもう一つ紹介する。それは匝司小粛刻吋.ガ 。 る られ、陸奥国司とともに責馬の確保にあたっていたようであ ﹁御馬使﹂ 自体は、馬寮の允か近衛の将曹・番長などが任じ ところから、こちらの方が古いように思われるのだが⋮。 ﹁尾駿の駒﹂ の歌枕の初出は、天暦5年 ︵九五一︶ で十世 める遺跡も発見されるだろうとした。 紀中頃。﹁陸奥交易馬﹂ の初見は、﹃日本紀略﹄ に延喜16年 ︵九一六︶ 3月5日条に、﹁宇多法皇五十歳の御賀料 ︵50 出すまでには約一世紀近くかかっているということか⋮。栗 れも同じく十世紀前葉。北林氏の説を容れれば、名馬を生み 疋︶ として紫岳殿で御覧になった﹂ という記載が見えて、こ 村民は、空白を埋める遺跡が発見されないとすれば、その理 二疋贈る﹂ とあり、それは鴇毛と ﹁栗毛駿﹂ であったと記さ 次に、﹁交易馬﹂ の基本形態とはどういうものか?大日方 通宛に贈ったもの﹂ であることがわかる。また、この万寿2 そしてこれは、翌日の条から ﹁藤原道長、頼通、実資、教 れている。 由を鮮明にすることが、今後の課題となるとしている。 氏は、﹃本朝世紀﹄永神二年 ︵九九〇︶ 8月5日条に、﹁陸奥 守藤原朝臣国用、さる永延二年 ︵九八八︶ 9月15日官符を蒙 年は、匝相模が﹁尾駿の駒﹂の歌を詠んだ六年後のことであ 割も含めて、相模にしても、兼家にしても、匝萄 り 、 ま た 、 後 に 帥 幽 習 付 り交易し御馬十疋を貢進す。︵但官符の廿疋の内︶﹂ との事例 が示すとおり、太政官符により国司が交易して東進するもの ると、陸奥国が産出する馬の中には確実に、駿馬、﹁尾駿の 人間関係の中に陸奥守に当たる人物が周ことを考え合わせ だったことがわかるとし、また、平貞盛の頁馬も不動穀で交 ものの事をいうのではないだろうかとしている。 それではここで、﹃青森県史﹄ ︹資料編−古代Ⅰ・文献資 ものではないだろうか。 た中では、﹁奥州藤原氏責馬﹂ 以前のものとして、最も古い そして、この万寿2年10月28日条の記載事項は、筆者が調べ 駒﹂ が存在していたことを裏づけるものではないだろうか。 易していることから、同様に太政官符か宮宣旨で指示された また、﹁交易御馬使﹂ の初見としては、﹃本朝世紀﹄長保元 年 ︵九九九︶ 5月9日条による、右馬権小允−橘公意が交易 頁馬と解文を持参してきている例を挙げ、これがその後の慣 例となったとしているが、﹃樗嚢抄﹄ においては、もう少し 早い二十一年前の貞元3年 ︵九七八︶ に、﹁左近番長−尾張 62 料︺ を調べている間に気づいたことであるが、この論考の主 事典﹄ ︵角川書店一九九四︶ によれば、 ﹁天武天皇13年︵六八四︶ には君姓から朝臣姓を賜り、平安 であり、平安中期以降に、近衛府を本属として権門の随身 期に朝廷武官として台頭した東国の在地土豪層出身の氏族 題に近づいてみたい。 調べているうちに気づいたが、前述の万寿2年の翌年の他 囲習、︵上・下両︶毛野氏は衛府官としての履 とある。 たほか、諸社の祭りの舞人や相撲師の相撲使を務めた一 や雑色長・召次長となって活躍した。代々馬術に長じ、傷 叫引・競馬に活躍し、しばしば陸奥御馬交易使に任ぜらわ 方寿3年 ︵一〇二六︶、御馬交易使に右近衛府生−下毛野公 そして・㈱長暦2年︵一〇三八︶にも御馬交易使となって 忠が登用されている。 いる記載が見える。またこの後、刺天喜3年︵一〇五五︶‖ 矧5■副剣には、﹁春日使の出立の儀において、右大将の隋身 く﹂ とある。この間、長元4年 ︵一〇三一︶、長元6年二 叫圏刻があり、毛野氏が蝦夷経営を通して、その基本的性格 歴は律令制の歴史とともに古く、どちらも伽嘲覇で として陸奥の馬葦毛三十疋を下毛野光重、秦近重、これを牽 〇三三︶、永承4年 ︵一〇四九︶、天書3年の陸奥交易御馬御 覧には記載は見えないが、この後、康平4年 ︵一〇六こ、 の地位を固めてきたとし、当初は奈良時代から平安初期、10 である武芸優長な弓馬の家として、また武将の家としてのそ 康平7年 ︵一〇六四︶、治暦2年 ︵一〇六六︶、延久元年 ︵一 かに下毛野氏よりも優位を保っていたことから、上毛野氏が 野氏が任じられることが多かったため、上毛野氏から下毛野 の下層部分に馴染まず、府生以下舎人などの地位には、下毛 色宮家という性格を明白にするに至り、上毛野氏としてはそ にせまく限定されたため、下毛野氏が負名職としての近衛雑 その存続の道が、一段下級の事務官僚その他の雑色官僚の道 氏族に政治官僚としての道がせばまれ、多くの氏族にとって 紀初め頃までの摂関体制の確立期においては、藤原氏以外の 毛野氏の本宗であろうと推論し、逆に、10世紀後半から‖世 世紀半ば頃までは上毛野氏が台頭し、政治官僚としてははる 弔 いて、神慮鰯2■銅﹂﹂9川一望、回剖親元倒﹂﹂.q彗q、帥周 司 〇六九︶、承保3年 ︵一〇七六︶、寛治7年 ︵一〇九三︶ を除 笥 また、陸奥交易馬制が終わり奥州藤原氏の責馬となった、 糊 ∃ 、 ㈱ 刹 九 . ∃ 、 ㈱ 伺 ..∃と、陸奥御馬交易使には下毛野氏の記載が見え 。 る 師 一 ′ の . ﹁ し に ﹁尾駿の駒﹂ が出走した時の騎手も、左右近衛府の下毛野氏 そこで、﹁下毛野氏﹂ について調べてみると、﹃平安時代史 であった。 63 な馬の生産、飼育にかかわる人々を抱え込み、名馬を生 み出すことに励んでいた。優秀な馬は、経済力や社会的 氏への勢力の交替があり、また、下毛野氏をその負名職の地 位から押しのけ得なかったのは、長い間、下毛野氏が、その 権力の象徴でもあった﹂ 三、﹁尾敬の牧﹂と奥地の停甲安倍富忠とのつながり 64 覇 和 の で あ る 。 であり、道長は、それを㈱ 公 に し さらにー にも上る馬の貢進は、まさにこうした背景から起こったもの きで有名な藤原道長への㈲東国の受領たちからの、計数百疋 まさに、﹃栄花物語﹄ に伝えているところの、無類の馬好 としている。︵﹃豪族のくらし﹄すいれん舎 二〇〇八︶ 地位を排他的といえるような形で世襲してきたために、政治 官僚として落ち目の上毛野氏が、すでに確乎たるものとなっ きなかったのだろうとしている。 ていた下毛野氏のこの分野での地位を、置き換えることがで 例えば、平安中期から近衛府が ﹁宮廷舞楽﹂ の府になるに つれて、伶人つまり舞楽の才芸人として近衛の舎人に任用さ れ、本来、武芸の家としての負名氏も、近衛府の体質変化に 応じて、舞楽の家柄として新しく地位を編成し直す氏族も出 てくる中において、平安末期までには、弓馬の道をその世業 日 ﹁下毛野興重﹂について 一 とするこの分野においては、下毛野氏と秦氏とが勢力を折半 するようになり、下毛野氏が陸奥交易馬に関わっていた事が ある ﹁尾駿の牧と奥地の停囚・安倍富忠とのつながり﹂ につ 以上、これまで考察してきた点を踏まえて、本論の主題で こうした背景の中に、駁駒に代表される ﹁尾駿の駒﹂ がも 推察される。 いて考えてみたい。 ﹃陸奥話記﹄ によれば、 して傾く、﹁臣、金為時・下毛野興垂らをして奥地の停囚 ﹁天喜五年秋九月、国解を進めて頼時を誅伐するの状を言上 たらされて来るのではないだろうか。 級のブランド品、あるいは高級外車のような存在であり、 に甘説せしめ、官軍を興こきしむ。是に於いて絶屋・仁土 田中氏によれば、 ﹁古代の天皇や貴族から地方の豪族たちにとって馬は、最高 良い馬を育て、宮中で行なわれる ﹁駒競﹂ に出品し、天皇 呂志・宇曽利三都の夷人を合わせて、安倍富忠を首として ︵書き下し文⋮﹃青森県史﹄ ︹資料編十古代Ⅰ・文献資料、第Ⅰ部 青森 兵を発し、まさに為時に従わんとす。﹂⋮︵後略︶⋮﹂ や貴族の目にとまれば立身出世の足がかりとなった﹂ とし、また、 ﹁都の貴族や天皇、上皇たちは牧のオーナーとなり、優秀 たのではないだろうか⋮。 も、馬に関係していたことで、安倍富忠への使者に起用され は馬つかい的な性格づけが考えられねばならないところから とあるが、この時の使者 ﹁金為時・下毛野興重﹂ の下毛野興 県地域関係資料︺ 参照︶ 重とは、これまでの考察からすれば、近衛府の宮人である下 ところで、源頼義の永承6年二〇五一︶ から康平5年 ㈲ ﹁金為時﹂について 毛野氏の一族の者としか考えられない。 それでは、もう一人の金為時についてはどうか。彼はその られるが、﹃扶桑略記﹄によれば、﹁人々が頼義の指揮に従う には、新羅の朝責使などにたくさんの金氏の事例が見え、㈱ 名が示すとおり、渡来人の未商である可能性が高い。六国史 ︵一〇六二︶迄の任期満了に伴い、高階経重が陸奥守に任じ ため、経重は京に帰った﹂ ため、その後も引き続き、源頼義 は、前九年の役の継続と事後処理につとめているが、その間、 に﹃日本書紀﹄︵以下、﹃書紀﹄とする︶㈲持続元年︵六八 団塊封賜.刀押皿珂Uで叫旬。また帰化人の記事が多い中で、特 この三度に亘る御馬使を下毛野氏が務めている可能性は極 化人と下毛野氏の関係、つながりを匂わせるものではないだ た新羅人を下毛野国に住まわせた﹂ という記事は、新羅の帰 笥司刈qコ川副山り﹁印刻に見える、﹁自ら帰化してき 月﹁ヨ矧∃¶コd叫到1和魂到]甲一六八九﹁要画矧川副剣1揃 めて高い。なぜならば、天書3年日月5日条に ﹁春日使の出 匝雲コ当用﹂コ﹁1圃羽7■弔 事lヨ利鞘H司れJU山.到。 立の儀において、陸奥の馬・葦毛30疋を下毛野光重・秦近重 の十一年後の出来事である。新野直吉氏によれば、輌qq粛 条の新羅の使節金清平に従って、粛慎人七人が入朝した事例 またこの記事は、﹃書紀﹄天武5年︵六七六︶十一月三日 ろうか⋮。 また、下毛野氏の性格は、高橋氏が先にも述べているよう この重要ポストに登用されていないとは考え難い。 が牽く﹂ という記載が、﹃定家朝臣記﹄に見えるからである。 に、弓馬もしくは弓矢の道をもって仕える武芸の家であると 召苛としている。また、樋口 倒刃は表せ 目した いわゆるツ、/ブース系北方 ウ″、つまり ﹁馬の口取﹂ という、最も直接的な近習の奉仕 知志氏も、師 の 、 ある日 カ わ る﹂ ころから、また、近衛舎人の護衛随身の仕方を見れば、〝ロ に類する供まわりにおいては、そのほとんどを下毛野氏と秦 者として、その中核をなす、そのような口取、もしくはそれ 高橋富雄氏は ﹁古代東国の責馬に関する研究﹂ ︵届き一七 としている。 氏が起用されているところからも、その性格は、馬飼もしく 65 一九五八︶ の中で、 宮の内外の御門柱を踏み堅め、踏み凝らす﹂ ということにあ ﹁記紀のいわゆる三韓征伐には、新羅がその政治的独立を放 ついで御門まもりの 〝表″ であるところから、それはいわゆ る馬飼としての奉仕の ﹁神事化﹂ を意味している﹂ と論じ、 るとし、﹁つまりは、馬はまず御門かための 〝表″ であり、 そしてそれは、﹁その絶対奉仕のレアル=イデアル ︵現実的 棄して、日本の属国=植民地として朝貢奉仕するというこ の結果、春秋には〝馬流および馬鞭を献上″するところか とを ﹁馬飼﹂=﹁馬甘﹂ として仕奉すると書いてあり、そ しかし、この責馬は、養老令になると、国造所出の馬は必 =理想的︶ な表現である﹂ と結論づけている。 いし部族に服従する場合の一形式と考えられていた﹂ ら、﹁馬飼﹂ は、一つの国家もしくは部族が、他の国家な へと変化し、その大祓において、責馬が祓柱 ︵神宝︶ の中で さらに、国造所課と令で定められている責馬も、郡司の責輪 ずしも基本的な意味は持たなくなり、また貞観儀式に至ると も最も主要な意味を持つものとしながらも、﹁その国造のそ とし、それを ﹁政治的馬飼﹂ と名付け、 ﹁〝馬飼 ︵馬甘︶ ″ ということが、絶対忠誠の臣従の形式に の馬飼国家の成立というような捉え方をしたい﹂ なっていることを引いて、日本古代国家の形式を、政治上 大化改新以後、多くの郡司となった﹂ ︵﹁広辞葬参照︶という歴 りしてくる﹂ とも述べているところから、筆者は、﹁国造は のような古い機能を肩替りするのが郡司であることがはっき 琉及び馬鞭﹂ の献上を怠らないということも含めて、金為時 史的事実を考え合わせると、金為時がつとめていた郡司その とした視点を示しているが、前述の通り、新羅の国では ﹁馬 ここからも、馬飼的な性格が伝統的に備わった人物と考えら が新羅からの帰化人の末裔だとする推論が成り立つとすれば、 れないであろうか? とし、御剣魂において、必ず国造が一匹の馬を東上しなけれ る四世紀後葉、同盟国である百済が、朝鮮半島でも貴重視さ 因みに、上垣外憲一氏は、帥新羅の騎兵隊に倭国が苦戦す 、Y、︼ 0 ものの務めの中にも、少なからずこれまで説明してきた、 ﹁政治的馬飼﹂ の伝統が生きているのでは?と、考えるのだ また、同氏の㈱﹁国造制の一間題−その頁馬の意味⊥研 ばいけないという特殊規定があることを取り上げ、責馬は国 れた馬の技術者を、倭国の軍備強化に協力する立場から送っ 剤諭刻によれば、﹁国造は、〝政治的馬飼″ の代表である﹂ 造の排他的な責務であるところから、またその意味は、 ﹁天皇の天地日月とともに長く安けき統治の業を祝福し、そ うした背景から、前述の高橋氏が論述している ﹁神功皇后の てきたという記紀の伝承はうなずけるところであるとし、そ の統治をことほぐ〝表物″﹂ であり、その固有の意味は ﹁大 66 ところの、養老二年 ︵七一八︶ 8月14日条との不思議な因果 民らが主張する、蝦夷の騎馬文化の ﹁大陸源流説﹂ における 関係を想起させられるのだが、前述の弘仁元年 ︵八一〇︶ 冬 あがって降服して誓ったという、﹁春秋には 〝馬橋および馬 鞭を献上″したい﹂ という言葉は、新羅を降服させて 〝飼部 10月27日の条は、ちょうど百年後の出来事であり、私として 新羅出征伝説﹂ における、新羅王が神功皇后の神威にふるえ の国″とし、馬具の供給基地としたいという倭人側の願望の は、金為時と馬とのつながりを匂わせる記事だと考えたい。 判は覇としている。また三浦圭介氏は、卿 から沿海州にかけて、古くから住んでいると考えられてい瑠 人であり、また新たに接触した粛槙は、もともと中国東北部 熊田亮介氏は、㈹斉明4年︵六五八︶から六讐叫利げで行 われた阿倍比羅夫の遠征過程において、比羅夫が瑠渉いな ﹁渡島のエミシ﹂ とは、換言すれば、北方文化圏の擦文文化 大事な点は、渡島の秋二百余人は流れついたのではない⋮。 恒何らかの意図を持っての事だと考えねばならないだろう・H。 表れととるべきであろうとしている。 また、日本全国に乗馬の風習が広まっていく五世紀後半、 馬具の需要が膨大して行く中で、その馬具を新羅に求めて容 れられなかった海上交易者の不満が、先の、新羅王を降服さ せて馬具献上を誓わせたという神功皇后伝説に反映されたの ではないかともしている。︵﹃倭人と韓人﹄講談社学術文庫 二〇〇三︶ そうしたことを含めて、﹃日本後紀﹄ 弘仁元年 ︵八一〇︶ ㈱ ﹁尾駿の牧﹂と太平洋側ルート が一緒に出土している例と、更には十世紀前葉の青森市野尻 青森県の十一世紀の田舎館村遺跡から、馬の遺骸と擦文土器 が出土している例を挙げて、擦文文化人の積極的な馬産への ㈲遺跡から同じく、馬と馬の水飲場が描かれている擦文土器 ﹁渡島の秋二百余人が陸奥国の気仙郡にやってきました。こ 冬10月27日条を見てみたい。 の人たちは陸奥国の管轄ではないので、戻るように言った そしてこの条は何よりも、交易等における太平洋側ルート 関わりを指摘している。 ところ、秋らは 〝いま寒い時期で海路は困難ですので、来 を許可した。滞在中は気仙郡が衣と食料を支給することに 年の春をまって帰郷したい″ と願い出ました。秋らの要請 とある。︵現代語訳⋮森田悌編﹃日本後紀﹄︹中︺講談社学術文庫 二〇〇六︶ ている ﹁適切な気候・風土・広大な牧野・飼料﹂ をともなっ の要因の中で、最もその条件を満たさなければならないとし 優秀な秋馬を輩出するための ﹁馬飼いの里﹂ で在り得た三つ が確立していたことをも推測し得る事実ではないだろうか。 周知の通り、金為時は ﹁気仙郡﹂ の郡司である。これまで し た ﹂ の ﹁政治的馬飼﹂ 等の考察を含め、この例は、何よりも盛田 67 た、尾餃沼・鷹架沼・小川原湖を抱える尾駿の牧が、その太 平洋岸に即している事実を考え合わせると、大変興味深い事 また、尾餃沼・鷹架沼・小川原湖とも海とつながる汽水湖 である。そして、この三つの湖沼群の側には、㈱詞錮山野1− ﹁鷹架竪穴遺跡﹂ ﹁内沼蝦夷館﹂ ﹁中志蝦夷館﹂ の防御性集落 に面した急産を有する丘陵先端に、﹁コ﹂ 字状の空堀をもつ があり、三浦氏によれば、その特徴は㈹﹁湖沼あるいは河川 首長層域を配置し、その後背地に集落構成員の住居群を配置 例であろう。 原湖という大きな湖を通って太平洋に抜ける点にある。こ また、斉藤利男氏は、東北北部と北海道の人々が生業が異 小山彦逸民は、 ﹁七戸川 ︵高瀬川︶ 流域と中世城館跡の大きな特徴は、小川 みられる。一方、津軽地方においては、安藤氏の拠点であ なりながらも、擦文文化という共通のアンデンティティをも U.で.川.朝﹂ とする。 る市浦村 ︵現・中泊町︶ の十三湖と共通している。日本海 ち、エゾ社会内部、さらには南北の地域との密接な ﹁交流﹂ のようなかたちは県南地方では、七戸川流域だけに限って 貿易に携わっていた安藤氏も、日本海から十三湖という湖 を展開して行く中で、 ﹁防御性集落の分布が、水・陸の交通路沿いか結節点に集中 を通って平川という河川をとおり、内陸部に物資を搬入し し、交通の要衝の地に大規模で堅固な集落が見つかってい ていた。十三潮、小川原湖とも中世時代には、内陸部へ物 資を運ぶ際、波や風が穏やかで、海運において重要な役割 るのは、北緯40度以北の地に展開した多くの古代防御性集 らみても戦国時代未に手が加えられていることは、明らかで 一つの、アレウトやカムチャツカから千島海流で三陸沿岸に また、新野氏は先の論考の中で、〝北の海みち″ にはもう 世界の変容−︶ 王権と交流Ⅰ ﹃古代蝦夷の世界と交流﹄一九九六−蝦夷社会の交流と ﹁エゾ﹂ ″ として構築されたものであるとしている。︵鈴木靖民編−古代 からだとし、それは、エゾの集団・族長たちの、〝拠点集落 開した ﹁交易﹂ の中で、富を畜え、勢力をもつに至った﹂ 落が、10世紀半ば以降のエゾ社会と ﹁日本国﹂ との間で展 を担っていたのである﹂ としている。後述でこの小川原湖の河口を挟んだ両側には、 ﹁安倍舘跡﹂ と ﹁八幡舘跡﹂ あったといわれていることを紹 介し、﹁八幡舘跡﹂ はその館跡は確認することはできないと しているが、﹁安倍舘跡﹂ は、安倍貞任と源義家の伝承の真 偽は今のところわからないとしているが、少なくとも方形居 あるとしている。︵﹃図説 上北・下北の歴史﹄1中世編−郷土出版社 二 到る海のみちがあることを指摘している。蓑島栄紀氏も、㈹ 館に近い築城技法が取り入れられており、しかも築城技法か 〇〇五︶ 68 ﹁擦文人たちと本州社会との交流は必ずしも日本海側に一元 上の大骨を御使は持ち帰りになったという話がある﹂ と記している。︵﹃菅江真澄遊覧記﹄﹁おぶちの牧﹂ ﹁平凡社﹂二東洋文庫 るため、真偽のほどは定かではないが、これまでの考察と、 化されず、太平洋沿岸の航路も存在していたと考えるべきで 劉初﹂ としている。 地形・気候・風土等を考え合わせると、御馬使の存在自体は、 これも伝承であり、誇張され過ぎていて作り話のようであ ところで、その小川原湖の北岸にある、六ヶ所村倉内地区 ㈱ ﹁七簸平﹂ の伝承と駿馬配給システム 以上の点と点を結んでいくと、﹁金為時・下毛野興重﹂ を あながち軽く否定すべきものではないのではないだろうか? ︶ ﹂ 本 の ﹁七鞍平﹂ には、倉内・木村家の ﹃蟻渡御野発端 ︵ありと の、その馬飼いの民の問題も、渡島の秋等の交流から伺い知 馬民族の優駿が輸入され、品種改良させる技術力・生育法等 使者に立てたのは、やはり、筆者の持論どおり、﹁尾駿の 牧﹂ と安倍富忠はつながっていたためであり、大陸からの騎 おんのはったん︶﹄ の文書によれば、そこには治承 ︵一一七 七∼八一︶・養和 ︵一一八一∼八二︶ の頃、〝七鞍懸けの竜 馬″ が誕生したという伝承があると記されている。 また菅江真澄も寛政5年 ︵一七九三︶ に、尾駿の牧を見た 金為時自身のその背景においても、その馬飼的性格を伴って れる大陸からの馬飼技術に拠るものであり、既述のとおり、 おいてみたところを 〝くらうち″ ︵倉内︶ とよぶように くて当村を訪れた際に、宿泊した出戸村の主人より、 ﹁馬の背が大層長く、七つの鞍を置くほどだったので、その いるものと想定した場合、それに充分関係していたものと推 れているが、まさにこれも、新羅国の馬飼技術の高さを伺い 寸の紫の牒馬 ︵強い馬︶ 二匹を献上した﹂ という記事が記さ 7日条に、﹁正七位上の馬史伊麻呂らが、新羅国の丈五尺五 因みに、﹃続日本紀﹄ 元正天皇・霊亀2年 ︵七一六︶ 6月 測できる。 なった﹂ とし、また、 いうと語った﹂ ﹁この馬を射殺して埋めておいたが、その塚を 〝七くら″ と そして、 ﹁中音のころ、ある貴い君の仰せとして、ななくらの塚の下 また、下毛野興重については、摂関体制の確立期において、 知るものではないだろうか。 下毛野氏の存続の道が、負名職としての近衛舎人の護衛随身 に埋めた馬が、まことに大きかったかどうか、その白骨を つれして、塚をはりこわして、背骨であろう、周囲二尺以 ひとつとってくるようにといわれたので、都から御使をお 69 維持して行く上には、奥地のブランド品は当に垂艇の的であ えられないだろうか? 時の軍勢は少なすぎる⋮とも考えられる上からの表現とも考 ㈹その優秀な数馬からなる騎馬隊に対抗しようものなら、頼 り、中央の貴顕の心をつなぎとめていく格好の買物であるた の全うとともに、その地位をつなぎとめ、また一族の勢力を め、奥地の駿馬配給システムは是が非でも把握しておくべき ろうか?それとも、海路であろうか? ﹁尾鮫の牧﹂ の比定地 内と想定されるところの尾駿沼・鷹架沼周辺の発茶沢・表舘 また、そもそも ﹁金為時・下毛野興重﹂ の使者はどのルー トを通って、安部富忠に会いに行ったのだろうか?陸路であ ものだったのではないだろうか。それが、﹁尾駿の牧﹂ の比 定地内と思われる表館遺跡等の ﹁石帯﹂ の出土であり、﹁転 用硯﹂ の出土の意味ではないだろうか? 平洋岸に接し、水・陸の交通路沿いの結節点に在り、交通の 遺跡や小川原湖河口の ﹁安倍舘跡﹂ は、先に述べたように太 要衝であるところから、また、前述してきたとおり、孔仁元 ゆえに、駿馬等の ﹁尾駿の駒﹂ の駿馬を輩出し続けたもの 年 ︵八一〇︶ の渡島の秋の例をとれば、敵地を通るより、太 こそ、安倍富忠一族であり、言わば、平安後期の陸奥国の国 分を担っていたとも考えられないだろうか。だからこそ、安 街機構全体が厩国体制といわれた配給システムの、その大部 平洋岸を船で北上したと思うのだが⋮。 配給システムは、﹁奥六郡﹂ ではなく、後の糠部の地、奥地 さて以上、これまで述べてきたことから、冒頭で述べた、 ﹁源頼義軍の朝廷が安倍富忠軍を頼りとしようとしたのは、 むすぴ 倍頼時は自ら二千人の兵をつれて、説得に赴いたのである。 この地方は後に ﹁奥州駿馬の主産地﹂ となり、10世紀頃に だったのである。 は、師 の ﹂カ鱈 さ る と に代表される鎮守府・奥六郡の政治勢力の浸透が推測され、 的・軍事的、力を持っていると自負していたための反旗では だろうか。また、安倍富忠自身も、頼時を支えるほどの経済 を馳せており、安倍富忠の実力も把握していたからではない また、﹃陸奥話記﹄ における ﹁衆、二千人に過ぎず﹂ とい すでに中央においては、﹁尾駿の駒﹂ のブランド品はその名 う表現は、弘仁2年 ︵八一一︶ の ﹁都母村において弐薩体の なかったのだろうか?﹂ との説も、あながち誇張ではなく、 まさしく、そうであったとしたならば、益々、富忠の離反は、 村夷1伊加古が兵を訓練し、軍勢を整え﹂ という表現から、 そうした観点からみれば、﹃陸奥話記﹄ における ﹁奥地の停 頼時にとって許せないものであったのである。 大草原におけるところの騎馬部隊を連想させるものであるが、 70 う竪穴住居跡﹂ ﹁表6 出土した遺物の一覧﹂ 参照。 ㈲﹃青森県史﹄ ﹁資料編−古代2出土文字資料﹂ の ﹁第三章 因﹂ という記述は、正しく文字通り、板橋源氏が ﹃北方の王 者 平泉藤原氏﹄ で述べているように、﹁順化の最も進んだ 世界と南部氏﹄高志書院 二〇〇三︶ 参照。その中で、 ㈱・椚盛田稔氏 ﹁蝦夷時代における七戸地方﹂ ︵﹃中世綾部の 参 照 。 県内の主な遺跡 −南部−120沖付加遺跡﹂参照。 もの﹂ との理解で間違いないであろう。で、あればこそ、 ﹁尾鮫の駒﹂ と奥地の停因・安倍富忠はつながってくるので ㈱田中広明氏著﹃豪族のくらし﹄ ︵すいわん舎 二〇〇一へ︶ そして最後に、伊藤一允氏は、㈱安倍富忠の交易品につい あ る 。 て、﹁当時、北海道を含めた北方との交易品は、吊や海獣類 は後世 ﹁七戸の御牧﹂ に含まれるところからも、同じ気候 わち大平原を意味しているとする。ゆえに、﹁尾故の牧﹂ ﹁都母﹂ と比定している ﹁坪﹂ は、本来、平らな土地すな 習剖叫叫﹂ としているが、私とすれば、北方との交 風土と考えられる。 の毛皮、鷹ないしその羽やコンプなどがあったろう。それに る交易品は、秋馬 ︵駿馬︶ の交易であったに違いないと思う ㈲新野直吉氏は ﹃古代日本と北の海みち﹄ の中で、﹁北の馬 易品はそれでいいと思うが、やはり富忠の第一のメインとな のだが⋮。 みち﹂ を考える根拠として ﹁相染神﹂ の存在を挙げている が、相染とは本来 ﹁敦揃﹂ で、葦毛で四蹄あるいは四足首 侶﹃六ヶ所村歴史講演 2008﹄報告書に所収されている は、馬匹が伝わることに伴って馬神信仰が伝わったからだ の存在であると説明し、その相染が東北日本に祭られるの られた馬の中で、﹁聴肺﹂ は神馬から馬神に上昇した最高 の白い神秘の馬のことであり、北方騎馬民族の間に重んぜ 尾駿の駒の里づくりプロジェクトチーム編 ﹁﹃尾鮫の駒・ 注 牧﹄ の歴史と ﹃安倍館﹄ の伝承のつながり ︵推論︶﹂ 参照。 ㈲盛田氏並びに北構保男氏 ︵﹃古代蝦夷の研究﹄雄山閣一 九九〇︶ 等は、千という数字の文字は、当時の書法である ﹁一十疋﹂ の誤読・誤写であろうとしている。また新野氏 としている。 ㈲田中広明氏著﹃地方の豪族と古代の宮人﹄ ︵柏書房二〇〇 三︶ 参照。 料 ﹁図1 六ヶ所村の主な古代遺跡分布図﹂ と ﹁図2 上 は、船で運ぶなら一〇疋ぐらいが限度だとしている。 潮﹃六ヶ所村歴史講演 2008﹄報告書、北林八洲晴氏資 北・津軽地方の掘立柱建物・周堤 ︵盛り土︶・外周溝を伴 略︶﹂ b ﹁万寿二年十月廿九日条 廿九日丁丑、︵中略︶ 宰 ㈲寛仁3年 ︵一〇一九︶ 頃 ﹁綱絶えてひき放たれにしみちの 相来、語次云、陸奥守孝義真二馬四箇所一。禅門・関白・ 船出して、左手の陸地に沿いながら、沿海州漁勝民が日常 くの をぶちの駒をよそに見るかな﹂ と詠んでいる。 ㈲天徳2年︵九五八︶頃﹁われが名ををぶちの駒のあればこ 刺戟をどこからか受けていたにちがいないとして、﹃古代 佃新野氏は、東北に通常の日本馬とは異なる名馬が育まれる 的にも馴染んでいる船路を天候を観ながら東進し、荒天に そ 懐くにつかぬ身ともしられめ﹂ と詠んでいる。因みに、 下官・内府。︵後略︶﹂ とある。 の間宮海峡を渡り、樺太島の西側を同様に南下し、宗谷海 なれば港湾に寄って難を避け好天に従って東進して数キロ ている。 兼家は天延2年 ︵九七四︶ に、陸奥出羽按察使に任じられ 日本と北の海みち﹄ の中で、﹁朝鮮半島北部や沿海州から 達し、北海道島の西側をさらに南下して津軽海峡を渡る。 申二大殿一巳華。﹂とある。 略︶予即参内奏二此由一。今夜宿侍、公思事以二書状一令レ 野公忠可二差遣一之由奏二事由一、可レ仰二右大臣一考 ︵中 即参二関白殿一。︵中略︶ 又命云、御馬交易使右近将監下毛 ㈱﹃春記﹄ に、﹁長暦二年十月八日条 八日辛未、天寿。予 ︵後略︶﹂ とある。 天晴。右近衛府生公忠、﹂竿二易陸奥国御馬廿疋一入京。 ㈲﹃左経記﹄ に、a ﹁万寿三年十一月廿八日条 廿八日庚午、 ならずもあひ見けるかな﹂ と返している。 に、則長は、﹁そのかみも忘れぬものをつるぶちの 駒か 1橘則光の息子・則長への贈答歌だったといわれる。因み 3年に ﹁をぶちの駒﹂ を詠んだ歌は、昔の夫 ︵?︶ 陸奥守 年 ︵九五四︶ 陸奥守に任じられている。また、相模が寛仁 ㈱兼家の妻である右大将道綱の母の父親、藤原倫寧は天暦8 峡を渡って北海道の日本海とオホーツク海の潮目の辺りに そうすれば津軽半島から秋田男鹿半島の方向に来着するこ とになる﹂ これが北の海みちであるとしている。 00近藤好和氏 ﹁日本馬は本当に貧弱か?1馬体の再検討−﹂ ︵﹃牧の考古学﹄高志書院 二〇〇八︶ 参照。 佃高橋富雄著﹃古代蝦夷を考える﹄ ﹁28 狭馬の問題提起﹂ ︵吉川弘文館一九九一︶ 参照。 ㈹高橋富雄氏 ﹁古代東国の頁馬に関する研究﹂ ︵﹃歴史﹄一七 高志書院一九五八︶ 参照。 ㈲加瀬文雄氏 ﹁藤原道長をめぐる馬と牛﹂ ︵佐伯有滴先生古 希記念会編﹃日本古代の社会と政治﹄吉川弘文館一九九 五︶ と ﹁藤原道長執政期の駒牽について﹂ ﹃成城大学民俗 学研究所紀要﹄ 二一一九九七 参照。 ㈲﹃小右記﹄ に、a ﹁万寿二年十月廿八日粂 廿八目丙子、 ︵中略︶陸奥守孝義志二馬二疋一。鳴毛・栗毛駿。︵後 72 ﹃定家朝臣記﹄ に、﹁天害三年十一月五日条 五日己未、 春日使左中将殿従二東三条殿一令二出立一給。︵中略︶次牽レ 馬。陸奥升葦毛。鏡鞍。光量・近重牽レ之。︵右将随身︶ ︵後略︶﹂ とある。 ﹃為房卿記﹄ に、﹁応徳二年十二月四日条 四日甲子、右 近府生下毛野重季陸奥交易御馬腹升匹、今日持参。﹂ とあ 。 る ﹃後二条師通記﹄ に、﹁永長元年三月廿五目条 廿五日乙 毛野武安 六国一栗毛﹂ ﹁八番 左、近衛秦兼宗、勝 御 ︵※㈲・㈱∼即は、﹃青森県史﹄ ︹資料編−古代Ⅰ・文献資 厩秀平栗毛駁﹂ とある。 料、第Ⅱ部 編年資料︺ より参照︶ ㈱・㈱高橋富雄氏 ﹁平安時代の毛野氏﹂ ︵﹃古代学﹄ 9の1︶ 代の特徴的な用語の一つで、 〝馬の口取″ のこと﹂ とある。 参照。﹁ロウ﹂ の漢字は ﹁有﹂ 偏に ﹁龍﹂ と書く。﹁平安時 輌田中広明氏﹃豪族のくらし﹄P46・206参照。 ㈲加瀬文雄氏は、﹁東進理由は、道長からの受領補任等の推 と牛﹂ P543∼549参照︶ 挙を得るためのもの﹂ としている ︵﹁藤原道長をめぐる馬 卯、晴。︵中略︶民部卿来、為二殿御使一申云、従レ院被レ 令レ奏二事由一可二下知︺とある。 ㈲加瀬氏は、﹁馬や牛の責進が、道長の最も政治勢力の安定 した時期に集中しているところから、貴族社会における 馬・牛の流通において、その中心的な役割を担っていた﹂ 73 仰云、御随身近未、陸奥御馬使以二件人一可レ洩苧二差之一。 ﹃中右記目録﹄ に、﹁康和三年十二月廿日条 廿日、交易 御馬御覧 使敦利。行・二幸鳥羽殿一。﹂とある。 ﹃殿暦﹄ に、﹁永久三年十二月六日粂 六日辛丑、天陰、 料︺ と大日方克己著﹃古代国家と年中行事﹄ ︹第四章八月 としている︵﹁藤原道長をめぐる馬と牛﹂P586∼588参照︶ 雨降。︵中略︶ 戊剋許右大弁来。陸奥交易御馬解文井府解 一通持来。余取レ之。大弁退出畢。御馬使候レ院季利。﹂ と ㈲ ﹃青森県史﹄ ︹資料編−古代Ⅰ・文献資料、第Ⅱ部編年史 あ る 。 氏姓を賜った記事も見えている。 女五十三人を請願によって金の姓とした﹂ などのような、 ︵七三三︶ 6月2日条に ﹁武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男 に ﹁金宅良・金元吉に国看連を賜る﹂ の記事や、天平5年 ﹃中右記﹄ に、﹁保安元年十二月十九日粂 十九日乙酉、 駒牽−表5陸奥交易馬一覧︺ 参照。 天晴。︵中略︶今日有二陸奥交易御馬御覧一。︵中略︶御馬 ㈱ ﹃続日本紀﹄ の聖武天皇・神亀元年 ︵七二四︶ 5月13日条 使左近府生下毛野敦利、候レ院人、二ケ度勤二使節一也。 ︵後略︶﹂ とある。 ﹃兵範記﹄仁安二年十月二十六日条に、 ﹁四番 右、左近 府生下毛野公貞、勝 秀平鴇毛﹂ ﹁六番 右、左近番長下 27 ㈲﹃日本書紀﹄全現代語訳 ︵講談社学術文庫一九八八︶ 参 。 照 編﹃日本海域歴史大系﹄第二巻 古代篇Ⅱ 二〇〇六 参 照︶ また、北構保男氏は、﹁渡嶋蝦夷の長期間の滞在が、 出羽国の行政権を冒すという非難を避けるために、あえて 公表し政府の正式許可を仰いだものではないだろうか﹂ と している。︵﹃古代蝦夷の研究﹄雄山閣一九九〇 参照︶ 九四︶ 参照。 ㈹熊田亮介氏 ﹁夷秋・結審と天皇﹂ ︵﹃日本歴史08古代天皇制 佃新野直吉氏著﹃古代日本と北の海みち﹄ ︵高科書店一九 交流11 ﹃古代蝦夷の世界と交流﹄一九九六︶ 参照。また、 師樋口知志氏 ﹁渡島のエミン﹂ ︵鈴木靖民編 1古代王権と 介・坂井秀弥編﹃日本海域歴史大系﹄第二巻 古代篇Ⅱ ㈹三浦圭介氏 ﹁北日本古代の集落・生産・流通﹂ ︵熊田亮 を考える﹄講談社学術文庫 二〇〇九︶ 参照。 るが、その訓みはともに ﹁アシハセ﹂ であり、したがって、 熊田亮介氏は、﹁粛慎はのちに鞍鞄と表記されるようにな 古代史上の粛慎・殊鞠はその実態を同じくする集団と考え 二〇〇六︶ 参照。 ㈱﹃六ヶ所村歴史講演 2008﹄報告書、北林八州晴氏資 てよい﹂ としている。︵﹁夷狭・緒書と天皇﹂ ﹃日本歴史08 古代天皇制を考える﹄講談社学術文庫 二〇〇九 参照︶ 料 ﹁図1 六ヶ所村の主な古代遺跡分布図﹂参照。また、 ﹁防御性集落﹂ とは、環濠 ︵集落をぐるりと囲む︶ と土塁 見られ、10世紀後半から、‖世紀前半にかけての遺跡であ と称する研究者もいる。東北地方北部と北海道南部に多く で囲まれた集落のことであり、﹁高地性集落﹂ ﹁環濠集落﹂ ㈲同論考は、﹃馬の文化叢書﹄第二巻 ﹁古代 馬と日本史 1﹂ ︵㈲馬事文化財団一九九五︶ に所収されている。 佃古来、六月と十二月の晦日に、親王以下在京の百官を朱雀 門前の広場に会して、万民の罪様を祓った神事。 ㈹上垣外憲一著﹃倭人と韓人﹄ ︵講談社学術文庫 二〇〇 いて﹂ ︵三浦圭介・小口雅史・斎藤利男編﹃北の防御性集 ㈹三浦圭介氏 ﹁古代防御性集落と北日本古代史上の意義につ 。 る 敗を重ねながら、ようやく五世紀になって、安定した馬の 三︶ には、﹁四世紀後葉から馬の導入が始まり、飼育に失 増殖が可能になった﹂ として、馬の飼育の難しさについて ㈹蓑島民論考 ﹁北海道・津軽の古代社会と交流﹂ によれば、 ﹁十世紀前後、砂流川流域のカンカン2遺跡 ︵北海道・平 落と激動の時代﹄ 二〇〇六︶ 参照。 取町︶ では、性格不明の周溝盛土遺構から多数の鉄製品、 記述している。 一本にしようとしていたのではないか﹂ と推測している。 ㈲簑島栄紀氏は、﹁古代国家は、北海道との交流を日本海側 ︵﹁北海道・津軽の古代社会と交流﹂ ︵熊田亮介・坂井秀弥 74 銅鋏、五所川原原産須恵器、ガラス玉が出土している﹂ と し、﹁特に銅鏡は、太平洋側 ﹁カリンパ2遺跡・亜別遺跡、 材木町5遺跡︶ を中心に分布し、青森県でも、高屋敷館遺 いて、また、周溝遺構も同時期の青森に類例があり、二〇 跡・野木遺跡。林ノ前遺跡などの拠点的な遺跡で出土して にせよ、モイ遺跡やカンカン2遺跡の状況は、十世紀前後 〇五年度のモイ遺跡の調査においても検出される。いずれ る﹂ としている。 の時期における太平洋側内陸ルートの活性化を示唆してい 仰高橋富雄著﹃天台寺−みちのく守護の寺−﹄ ︵東京書籍 一九七七︶・森田哲郎編﹃伝説 小川原湖物語﹄一九七 八︶ 参照。 ㈹﹃続日本後記﹄承和4年︵八三七︶ 2月8日条に ﹁蝦夷は 一騎をもって、平民十乃至数十に勝る騎馬民族でもあっ た﹂ としている。 の勇者 安倍富忠−﹂ ︵﹃図説 上北 下北の歴史﹄郷土出 ㈹伊藤一允氏 ﹁前九年の役と錐屋・仁土呂志・宇曽利−北方 版社 二〇〇五︶ 参照。 75
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