初期クリスチャンは「家から家に」戸別伝道をしましたか

初期クリスチャンは「家から家に」戸別伝道をしましたか
この一つ前のレポート「60 福音を宣べ伝えるーどのように」という記事の中で、「福音を
宣べ伝える」と訳されている「エウアンゲリゾー」は「福音を分かち合う」という風に訳さ
れるべきだという根拠を示しました。
このレポートは、その続編という位置づけになりますが、その記事の中でも引用した、
使徒5:42に注目してみたいと思います。
(使徒 5:42)
「そして彼らは毎日神殿で,また家から家へ(カト オイコン)とたゆみなく教え,
キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し(エウアンゲリゾー)続けた。」
これを行ったのは、当時の一般の不特定多数のクリスチャンではありません。
これは厳密に「使徒たち」だけの行動です。
この聖句のそれまでの時間的流れを 5 章の最初から追うと、シーンが明確に見えてきます。
先ず、その虚偽の行いから、それを糾弾するペテロの言葉を聞いただけで命を落とすことに
なったアナニヤのサッピラの一件後、ペテロを代表とした使徒たちは、その「手を通してそ
の後も多くのしるしや異兆」を起こし、「エルサレム周辺の都市の大勢の人が,病気の人や汚
れた霊に悩まされる者たちを連れて集まり,彼らはひとり残らず治され」ます。そのことによっ
て使徒たちは拘留されますが、み使いが獄の錠を解き、「行って,神殿の中に立ち,この命に
ついて言われたすべてのことを民に語りつづけなさい」。と指示します。
それで、夜明けになって神殿に入り、人々を教えていると、またもや捕らえられ、サンヘド
リンに連行されます。大祭司から、咎められたとき、「ペテロとほかの使徒たちは,「わたし
たちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません。」と断言します。
それから、「使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命
じてから,彼らを去らせた。」ことがあった翌日からの記録が、この「彼らは毎日神殿で,ま
た家から家へ・・・」という5:42の記録です。
何と、壮絶なスペクタクルなシーンではありませんか。
マタイ28:19,20で与えられた使徒たちへの使命を、果たせるように尋常ではない聖
霊が働いていました。
この聖句は、その後の、全てのクリスチャンが見倣うべき、あるいは、同じ務めがあること
を示すために書かれた記述ではありません。全く次元の違う話です。
そして、さらに、新世界訳のこの聖句の訳し方の間違い(というより、恐らく意図的な誤導
と思われる)を指摘しておかなければなりません。
次に挙げるのは、使徒 5:42 の「カト オイコン;家から家に」という部分についての、参照
資料付きの脚注の引用です。
「字義,「家ごとに」。ギ語,カト オイコン。ここで「カタ」は対格単数形を伴い,配分的な
意味で用いられている。R・C・H・レンスキは…使徒 5:42 に関して次の注解を加えている「使
;
κατ’ οἴκον[ カト オイコン ] にも行なっ
徒たちは…『神殿で』公然と,
そして言うまでもなく,
た。これは配分的な,
『家から家へ』の意味であって,単に副詞的な,
『家で』の意味ではない」。
この脚注の目的は、新世界訳が「ギ語:カト オイコン」を「家から家へ」と訳しているこ
との根拠、もしくは言い分けですが、単に「家で」という意味ではない、と言う学者の言葉
を引用し、その故に「家から家に」であると主張しているわけですが、では、そうなら、ど
うして素直に字義通りに「家ごとに」と訳さなかったのでしょうか。
[ 新世界訳 日本語版 ] のように基本的に英語に翻訳されたものをさらに日本語に訳している
もの(重訳と言います)ではなく、ギリシャ語原本からダイレクトに訳された著名な日本語
版聖書の多くは、「カト オイコン」を「家々で」と訳しています。
(色々調べましたが、「カト オイコン」を「家から家に」と訳しているのは新世界訳だけのよ
うです。)
[ 使徒 5:42 ] 他の翻訳
新改訳
そして、毎日、宮や家々で(カト オイコン)教え、イエスがキリストであること
を宣べ伝え続けた。
新共同訳
毎日、神殿の境内や家々で(カト オイコン)絶えず教え、メシア・イエスについ
て福音を告げ知らせていた。
塚本訳
そして毎日、宮や家々で(カト オイコン)教えること、すなわち救世主イエスの
福音を伝えることを、やめなかった。
前田訳
そしていつの日も宮や家で(カト オイコン)教え、キリストであるイエスをのべ
伝えることを止めなかった。
新世界訳はカトオイコンを「家から家で」と訳し、同じ表現を別の所では「家々で」と訳して
いる例がありますので、関連したあと二つの聖句も紹介しておきましょう。
[ 使徒 2:46 ]
新世界訳
思いを一つにして日々絶えず神殿におり,また個人の家々(カト オイコン)で食
事をし,
(脚注:「個人の家々で」。または,「家から家で」。ギ語,カト オイコン。)
新改訳
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家で(カト オイコン)パンを裂き、喜
びと真心をもって食事をともにし、
新共同訳
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに(カト オイコン)集
まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
塚本訳
また毎日、心を一つにして(熱心に)宮に詣で、家々で(カト オイコン)(一緒に)
パンを裂き、喜びと純な心とで食事をして、
前田訳
そして日ごと心をひとつにして欠かさず宮に行き、家々で(カト オイコン)パン
を裂き、よろこびと真心とで食を共にし、
この聖句では [ カト ] は文頭と途中に二回出て来ます。「日(毎に)
」
「カト オイコン;家々で」
まったく同一の「カト オイコン」が食事の時は家々で、伝道の時は「家から家」になります。
さすがに,宣べ伝える業ではないところでカトオイコンを「家から家に」と訳すと、一軒づつ、
軒並み食べ歩いている事になり、さすがにそれはへんだと思ったのでしょう。
本来、「それぞれの家(ごとに)という意味でしょう。
[ 使徒 20:20 ]
新世界訳
また公にも家から家に(カト オイコス)もあなた方を教え」
(脚注:
「家から家にも」。または,「個人の家々でも」。字義,「また家ごとに」。)
新改訳
「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前
でも、家々でも(カト オイコス)、あなたがたを教え」、
新共同訳
「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも(カト オイコス)、あ
なたがたに伝え、また教えてきました。」
塚本訳
(の集会
またあなた達(の救い)に役立つことを、公にでも家庭(カト オイコス)
ででも、)人をはばかって知らせなかったり教えなかったりしたことは、何一
つないことが(あなた達にはわかっているはずだ。)
前田訳
あなた方に役だつことはひとつとしておろそかにせず、公にも家々で(カト オ
イコス)もあなた方に知らせ、また教えました。
よく読むと、「家から家に、あなた方を教え」という表現ですが、ここは「宣べ伝え」ではな
く、
「教えている」と言うことですが、家から家に、一軒づつ軒並みに、誰を、教えたのでしょ
うか。 エフェソス会衆の年長者たちをです。
パウロは、奉仕区域にある、よその家に年長者を連れ込んで、家の人にではなく年長者に淡々
と教えたのです。そしてのその隣の家でも、同じことをし、その次でも、「家から家に」移動
しながらそうしたのです。
「家から家に、あなた方を教え」と言う文を具体的にイメージするとこういうことになります。
どうしてこんなことになっちゃうんでしょうか。きっとこの訳し方のどこかに問題があるに
ちがいありません。そうです。この聖句は「カト オイコン」は「家から家に」という意味
ではないという証拠になっているのです。
そうではなく、1 世紀当時のクリスチャンの習慣について僅かでも知識があれば、こんな訳
は出て来ないはずです。(もっとも、この訳し方に固執する何か別のワケでもあるのなら、ま
た別ですが、)
ともかく、他の同様の聖句も示しているように、「教えた家」は基本的に聖書を学び合う、仲
間のクリスチャンの個人宅であり、そうした、目的の場所が方々にありました。そこで、集
められたパンを割いたり、そこで共に食事をしたり、み言葉を教えたりしていました。
事実そうした場所はクリスチャンたちの生活必需品の集配所ともなっていました。「奉仕者」
とはそうした様々な仕事を円滑に進めるためのボランティアでした。
それで、その場所は、「会衆」として確立したものや、臨時であったり、拡大に伴って途上で
あったりしたものもあったかもしれません。
いずれにしてもこうした描写に出て来る「家:オイコン」とはそうした会衆(集会場所)の
目的を果たした個人宅でした。それで、「カト オイコン」はそうした家々、で「各会衆毎に」
もしくは「各群れ毎に」とほぼ同様の意味あいで使われています。この点「塚本訳」はその
辺を分かり易く表現しています。
それで、カト オイコンが使われているのはどれも個人の家を使用した会衆を指していること
が分かりますが、特に使徒20:20はカトオイコンを「公」と対比して用いています。
「公でも個人宅でも」というのは、つまり、パブリックとプライベートの対比で、この文の意
図するところは、あらゆるケースを活用したということであり、宣べ伝える際の方法論を述
べている分けではありません。
「ギリシャ語聖書中に「カト オイコン」が出て来るその他の場所全リスト
(コロサイ 4:15)
「…ヌンファと彼女の家にある会衆にわたしのあいさつを…」(家にある)
(コリント第一 16:19)
「…アクラとプリスカ,ならびに彼らの家にある会衆が…」(家にある)
(ローマ 16:5)
「…彼らの家にある会衆にも [ よろしく伝えてください…」(家にある)
(フィレモン 2)
「…あなたの家にある会衆へ」(家にある)
これから分かるように、全く同一の言葉を、教えた、宣べ伝えたという記述の時に限って「家
から家」と訳していることが分かります。
余談ですが、同じギリシャ語の「カト」が使われている新世界訳の、別の聖句の訳し方も何
か「ヘン?!」というのをご紹介しておきましょう
まずは「新共同訳」からの引用です。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」(マタイ 24:7)
これと新世界訳を比較してみて下さい。
…そこからここへと(カタ トポス(場所))食糧不足や地震がある…
「○○から○○へ」という文章は連続して繋がった部分と、それに対する方向を示す表現です
から、その後に続く表現は「行く」とか「向かう」「移動する」という類のもので、「ある」
と言う語はつながりません。「東京駅から大阪駅へ 地震がある」 というのと同じ文章です。
希に活断層に沿って一直線上に順番に地震が起きる事があるとしても、その場合「そこから
ここへと地震が [ 起きる ]」という表現ならまだましですが、いずれにしても、適切さを欠
いた訳と言えます。おそらく、こうした訳し方によって、読者に「連続的に頻繁に」生じる
というイメージを植え付けることには成功していますが、「カト トポス」は字義的に「場所
毎に」という意味であり、所々、方々という意味しか無く、「ひんぱん」というニュアンスは
ありません。 ギリシャ語 カタ を 何としても「○○から○○へ」と訳そうとするあまり、とうとう、
日本語の文章まで壊れてしまっていることにも気付かないほど、「家から家」妄想が強い症状
となっていることを物語っているのでしょう。