3 思いつくまま* 小 澤 光 利 *本誌『経済志林』編集担当者から突然,退職記念号に本人の巻頭言が必要で ある旨を伝えられ,急きょ以下に駄文を草することにした。論理的に推敲する暇 もなかったため,大方のご寛容を乞いたい。 北海道大学経済学部校内の掲示板で法政大学の教員公募を知ったのは, 文部教官教育職「経済学部研究助手」を拝命して2年目の初夏のことであ る。 助手任期も残り1年を切り就職先を探さなくてはならない身としては, 直ちに応募することにした。書類審査を通り面接試験の呼び出し通知をも らって上京したのは,ちょうど金木犀の香るころ。不謹慎ではあるが,ち ょうど結婚早々の妻との上京は新婚旅行気分であったので特に印象深い。 その後, 「本学経済学部特別研究助手採用の件につき,本学教授会の慎重な る審査の結果,貴殿を採用することに決定しましたのでご通知申し上げま す」という通知(1974年12月2日付)が届いたのは12月初めのことである。 就任初年度は, 「特別助手」として,講義担当も教授会や委員会の出席義 務も免除されていたため,出校せずにもっぱら自宅研修で過ごしていた。 2年目以降は, 一挙に「社会科学入門」というクラス授業4クラス4コマ, 大教室授業の「経済原論」 (2部)1コマそしてゼミナール2コマの計7コ マとなり,その後は6コマ以上が常態となった。 当時,多くの大学はその数年前の大学紛争も終息して北大を含めキャン 4 パスに落ち着きが戻っていたが,法政大学は依然として騒然とした状態が 続いていた。学内集会や校内デモなどにより授業も妨害され,通年授業で 計7講しかできなかったこともあり,定期試験も数年にわたって実施でき なかった。経済・経営・法・文・社会の5学部が共用する超過密の混乱し た市ヶ谷キャンパスから新天地への脱出と学部毎の自律的管理による再生 が希求されたのは,至極当然である。かくて経済学部と社会学部の多摩キ ャンパス移転が1984年4月に実現する。それにつけても,市ヶ谷最後の 1983年のキャンパス内外での尋常ならざる体験は決して忘れることはで きないだろう。ともあれ,私も10か年の電車乗り換えによる市ヶ谷キャン パスへの埼玉からの通勤を経て,居住地も変えて多摩キャンパスへ車で登 校することになる。 光陰矢のごとし。それから今年で30年,私にとってあっという間に市ヶ 谷時代の3倍の時間が経過した。気が付けば,4回更新を続けた定年延長 も最終年度を迎えている。通年講義で30講を要求される現在と7回しか授 業ができなかった市ヶ谷時代とどちらが良いか特に解を求めるまでもな い。教授会に出て周りを見渡せば,知らない人ばかり。かつて「マルクス 経済学のメッカ」と言われたわが学部も,今ではすっかり大変貌を遂げた ようである。また最近の学部内世論では,都心回帰,市ヶ谷への再移転の 声が高まっているという。はたして多摩移転は「失われた30年」なのであ ろうか? 大学が文科省の「スーパーグローバル大学創成支援」に採択されたとい う報道に沸き立つ中,私自身今はただ静かに“fade away”するのみ。あえ て付言するならば,私が市ヶ谷・多摩合わせて40年間に残した遺産といえ るものは,社会に送った346人のゼミ生であるといえるかもしれない。
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