(1)鷲香取神社の伝説 (1)鷲香取神社の伝説

わしかとりじんじゃ
でんせつ
(1)鷲香取神社の伝説
(1)鷲香取神社の伝説
へいあん じ だ い
むかしむかし、今から1200年くらい前の平安時代のことです。
うちまき
うま
まよ
ある朝、内牧の村にそれはみごとな毛なみの馬が迷いこんできました。
「いったいだれの馬だろう?」
か
村の人々は首をかしげましたが、飼い主は見つかり
ません。
ち ば け ん
か と り じんぐう
じつは、その馬は今の千葉県にある香取神宮で飼
われていたものでした。なんと、馬はその香取神宮か
に
ら逃げだし、はるばる内牧まで来てしまったのです!
やがて香取神宮の人たちが馬を追ってきたので、村
の人はぶじ、馬を返してあげることができました。
えん
そして、これもなにかの縁と、内牧に香取神社を建
てることにしました。
かまくら じ だ い
それから300年ほどたった鎌倉時代のことです。
の
ある日、香取神社に馬に乗った男の人がやって来ました。この男の人はかの有名な
みなもとのよりとも
ぶ し
げんざい
わしみやまち
わしのみやじ ん じ ゃ
きゅうけい
源 頼 朝。鎌倉幕府をたてた武士です。現在の鷲宮町にある鷲宮神社に行くとちゅう、休憩
をとるために立ちよったのです。
わ し か と り じんじゃ
そののち、香取神社は鷲宮神社とひとつになり、鷲香取神社とよばれるようになりま
した。
わ し か と り じんじゃ
鷲香取神社にはいろいろな人々がやって来ました。
え ど じ だ い
たび
えんくう
こま
たとえば、江戸時代には日本全国を旅して歩いた円空というお坊さん。円空は困った
たす
人々を助けようというねがいをこめて、仏さまを作るために日本中を歩いていたのです。
ま る た
ちょうこく
お
ここ、内牧の鷲香取神社でも丸太でえびすさまを彫刻して置いていきました。そして
また旅にでてしまいました。
わ し か と り じんじゃ
まつ
毎年7月18日は鷲香取神社のお祭りです。
すぎ
お祭りの日ににぎやかなおはやしをはじめると、神社のうしろの杉の木からまっ白な
ヘビがでてきたそうです。村の人はこれをよいことが起こる前ぶれとして、とてもよろ
のこ
こびました。しかし、今ではこの木は残っていません。
ふたつの神社の名前を持った内牧の鷲香取神社のお話でした。
ふ ど う い ん
れ き し
(2)不動院の歴史
(2)不動院の歴史
せんごく じ だ い
むかしむかし、今から200年以上も前の戦国時代のことです。
げんざい
か す か べ し こ ぶ ち
ふ ど う い ん
しゅげんじゃ
現在の春日部市小淵のあたりに不動院という修験者のための大きなお寺がありました。
やまぶし
しゅぎょう
いの
修験者は山伏ともいい、山に入って修行をし、お祈りやうらないをする人々のことで
す。
きょうと
しょうごいん
は い か
え ど じ だ い
春日部の不動院は京都にある聖護院というお寺の配下で、江戸時代にはたいへん大き
な力を持っていました。
ふ ど う い ん
れ き し
不動院の歴史で忘れてはならないのがお
みきという女の人です。
こうもん さま
――黄門様。そう言えばみんなにおなじ
み と こうもん
み、水戸黄門のことですが、おみきはその
ようじょ
水戸黄門のむすめ(養女)でした。
じゅうしょく
らいえい
そして、不動院の8代目の住 職、頼栄と
いう人のおよめさんになったのです。
このとき、おみきは何人ものお供をつれ
な か じ ま け
て来ましたが、このお供のひとり、中島家
み と
ぶつぞう
かたな
には、水戸からもってきたという仏像と 刀
が今もたいせつにつたわっています。
とき
め い じ じ だ い
ふ ど う い ん
しかし、時がたって明治時代になると、不動院にとってたいへんな時代がやって来ま
め い じ せ い ふ
しゅげんどう は い し れ い
しゅげん じ い ん
した。明治政府が修験道廃止令をだしたのです。そのため、たくさんの修験寺院が消え
ていきました。
よわ
たいしょう
げんざい
こうした中で不動院の力もしだいに弱まり、明治42年から大正5年にかけて、現在
とうきょうと こ う と う く
の東京都江東区にひっこしてしまいました。
しょうわ
せんそう
や
けれども、このお寺も昭和20年に戦争で焼けてしまい、今ではもう残っていません。
ちゅうおうじ
み た ら し い し
この土地のあとには中央寺というお寺がたち、不動院時代に使われていたという御手洗石
とうきょうと た い と う く
しょうぼういん
が残されています。また、不動院と合わさった東京都台東区の正宝院にも、不動院から
いしぼとけ
ゆずりうけたという石仏が残っています。
か す か べ し
ふ ど う い ん の
ち め い
と う じ
現在の春日部市には不動院野という地名だけが残り、当時のおもかげは少しもありま
せん。
おも
しかし、この地名がそのむかし、不動院というお寺があったことをかすかに思いださ
せるよすがとなっているのです。
うしじま
ふじ
でんせつ
(3)牛島の藤の伝説
(3)牛島の藤の伝説
かまくら じ だ い
むかしむかし、今から700年くらい前の鎌倉時代のことです。
おおがね
の う か
す
ある大金もちの農家に、17才のむすめが住んでいました。
げ ん き
ところが、このむすめはかぜをひいてしまい、なかなか元気になりません。
「ごほん、ごほん!」
くる
びょうき
とても苦しそうなのでおいしゃさんにみてもらっても、どのおいしゃさんも病気をな
おすことができません。
たび
ぼう
そんなある日のこと、この家にひとりの旅のお坊さんがやって来ました。
「お坊さま。じつは、うちのむすめの病気がちっともよくならないんです!」
こま
困ったお母さんがそうだんすると、
にわ
ふじ
きんじょ
てら
「それでは、庭にある藤の木を近所のお寺
にあげなさい。そうすればきっとよくなり
ます」
とお坊さんはいい残し、どこかへ行ってし
まいました。
れ ん げ い ん
そこで、家の人が蓮花院というお寺に藤
うつ
の木を移しかえすと……
なんてふしぎなことでしょう! むすめ
の病気はきれいさっぱりなおってしまった
のです。
げんざい
てんにょさん
この蓮花院は現在の藤の牛島のあたりにあり、天女山ともよばれていました。しかし、
かたち
今ではかげも 形 ものこっていません。
と う か え ん
こうぼう だ い し
じゅれい
けれど、そのあとにできた藤花園には、弘法大師がうえたといわれる樹齢1200年
め い じ じ だ い
せ
なが
さ
ほどの大きな藤が今もあります。明治時代のころまでは人の背よりも長い花が咲き、外
けんぶつ
国のおきゃくさんもたくさん見物に来たそうです。
藤花園は、今でも春になるとうつくしい花を咲かせています。
ほろはか
でんせつ
(4)幌墓の伝説
(4)幌墓の伝説
ぶ
し
むかしむかし、武士がかつやくしていたころのお話です。
ふ る と ね が わ
まよ
あるとき、古利根川のほとりにケガをした武士が迷いこんで来ました。それを見つけ
しんせつ
た親切な村の人が手あてをしましたが、男のキズはよくなりません。
いき
そして、ある日とうとう息をひきとってしまいました。
し
ゆ み や
死んだ武士は名まえはおろか年さえもわかりません。ただ、弓矢をふせいだり目印と
ほろ
ぬの
なる幌という布をせなかにつけていました。
はか
ほろはか
そこで、村の人たちは幌といっしょに武士をほうむり、そのお墓を幌墓とよぶことに
しました。
え
ど
ところが、今から150年ほど前の江戸
じ だ い
時代もおわりのころ――。
いったいどうしたことでしょう、なんとこ
はか
まいばん
のお墓に毎晩人だまがでるといううわさが
たったのです!
ちか
村人はこわがってだれも近よりません。
な ぬ し
な
そこでさわぎをききつけた名主さんが、亡
くなった武士のたましいをなぐさめるため
せ き ひ
に石碑をたてることにしました。
うちまきむら
ふ か ん
な か ま
は い く
また、そのときに内牧村の不干という人も、11人の仲間とともに供養のための俳句
をよみ、それを石碑にきざみました。
ぶ
し
しんぱい
それからは武士の人だまもでなくなり、村人の心配もなくなりました。
ほろはか
とよ の
ち
く
こうじょう
しず
ねむ
そして、今でもこの幌墓は、豊野地区にある工場のわきに静かに眠っています。
みめぐりじんじゃ
でんせつ
(5)三囲神社の伝説
(5)三囲神社の伝説
むろまち じ だ い
むかしむかし、今から600年も前の室町時代のことです。
ぼう
し が け ん
み い で ら
か す か べ
ある日、ひとりのお坊さんが今の滋賀県にある三井寺から春日部にやって来ました。
ば し ょ
とおいところから来たお坊さんには、とまる場所がありません。
しんせつ
いえ
やしろ
そこで、親切な村の人が家にとめてあげたところ、この夜、お坊さんのゆめに古びたお 社
があらわれたのです!
「きっとこのお社をさがせということにち
がいない」
おも
そう思ったお坊さんは、村の人にも手つ
だってもらい、お社をさがすことにしまし
た。そして、とうとう草むらの中に古びた
お社を見つけたのです。
そのお社の下には、つぼがおいてありま
した。
「いったいなんのつぼだろう?」
ふしぎにおもってのぞいてみると、何と
ぞう
中には、キツネにまたがったおじいさんの像が入っていました。
そして、さらにふしぎなことには、白いキツネがとつぜんあらわれると、像のまわりを
き
3回まわってけむりのように消えてしまったのです。
みめぐり じんじゃ
そこで、村の人々はこのお社を三囲神社と名づけてたいせつにすることにしました。
それから何年もたったある日のことです。
ちか
三囲神社のすぐ近くに、おじいさんとおばあさんがすんでいました。
ばん
おも
ある晩、そろそろねようかと思っていると、トントンととびらをたたく音がします。
「こんな時間にいったいだれだろう?」
たび
おそるおそるとびらを開けてみると、そこには旅の男がいました。
つま
妻にもうすぐ赤んぼうが生まれるので、手だすけしてほしいというのです。
さん
おばあさんは男の人といっしょにお産のたすけに行きました。そして、おばあさんの
たびびと
おかげで旅人の妻はぶじ、元気な男の子を生みおとしました。
ば し ょ
けれど、よく朝もういちど同じ場所に行ってみると――。なんと、きのうあったはず
いえ
の家がありません!
「いったいどうしたことだろう?」
みめぐり じんじゃ
ふしぎにおもったおばあさんがおじいさんにたずねると、おじいさんは「三囲神社の
ば
たす
キツネが、人間に化けて助けをもとめに来たのだろう」といいました。
それからしばらくたったある日のことです。
ぴき
し
このおばあさんの家の前に1匹のキツネが死んでいました。
そのそばには元気な子ギツネが1匹よりそっています。
ばん
「きっとこのキツネたちは、あの晩の母親と赤んぼうにちがいない」
そう思ったおばあさんは、かわいそうな子ギツネをそだてることにしました。
しつもん
じつは、この子ギツネはふしぎな力をもっていました。おばあさんが質問すると、天
み ら い
かんしゃ
気をあてたり、人の未来をうらなうことができるので、村のみんなから感謝されました。
ふるす みだが わ
たいしょう じ だ い
ば し ょ
うつ
この神社は古隅田川のほとりにありましたが、大正時代のはじめに今の場所に移され
ば し ょ
か す か べ ちゅうがくこう
こうてい
あかまつ
ました。移されたばかりのころはもとの場所(現在の春日部中学校の校庭)に赤松が生
えていましたが、今ではもうあとかたもありません。
と う ぶ
い
せ さきせん
か す か べ ちゅうがくこう
みめぐり じんじゃ
しず
けれど、東武伊勢崎線と春日部中学校のあいだにある三囲神社は、今も静かに春日部
れ き し
の歴史を見まもっているのです。
ありわらのなりひら
たび
(6)在原業平の旅
(6)在原業平の旅
きょう
ありわらのな り ひ ら
き ぞ く
むかし、 京 のみやこに在原業平という貴族がいました。
ふじわら し
この時代、みやこでは藤原氏という貴族が力をもっていて、藤原の一族ではない業平
し ご と
には、なかなか仕事がまわってきません。
い ば し ょ
「ああ、このみやこに自分の居場所はないのかなぁ」
おも
そう思った業平は、ふとあるかんがえを思いつきました。
ひがし
たび
「そうだ! 東 のほうへ旅をして、自分にぴったりの場所をみつけよう!」
なか
そこで、業平は仲のいい友だちといっしょに旅にでることにしました。
たび
なりひら
みち
まよ
さて、旅にでた業平たちは、道に迷いながらも東へ東へとすすみます。
「あれ?
ここはいったいどこだろう?」
き
あ い ち け ん
やつはし
ば し ょ
気がつけば今の愛知県あたり、八橋という場所です。
「おや、川がクモの足みたいにたくさんわかれているぞ?」
「ほんとうだ! ひとつひとつに橋がかかっている!」
ひとーつ、ふたーつ、みーっつ……
はし
やっ
かぞえてみると橋は八つあります。
やつはし
「なるほど、だから八橋というんだ!」
かんしん
やす
感心した業平たちは、その川のほとりで休
むことにしました。
「お、きれいな花がさいているぞ?」
「ああ、それはかきつばたというんだ。せ
も じ
く
っかくだから、かきつばたの5文字を句の
うた
うえにおいて歌をよもうよ」
そこで、業平がかんがえた歌は、
ころも
おも
から 衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
(着なれた唐の衣のように、添いなれた妻を 都 に残して来たのでこの遠い旅が悲しく思われることだ)
き
そ
つま
みやこ
のこ
とお
たび
かな
おく
という、奥さんをなつかしむ歌でした。
あまりにかなしい歌だったので、いっしょにいた友だちはなみだをこぼすほどでした。
なりひら
しずおかけん
さらにすすんで、業平たちは今の静岡県のあたりにまでやって来ました。
みち
「なんだか道がほそくなってきたよ」
「ツタやモミジがしげってうすぐらいよ」
き み わ る
気味悪がりながらすすんでいくと、前から男がやって来ました。
たび
しゅぎょう
ぼう
かっこうからすると、旅をしながら修行をしているお坊さんのようです。
「やぁ、おひさしぶりですね。こんな道でどうされたのですか?」
かお
し
そうきかれて顔を見れば、業平の知っている人です。
き か い
のこ
て が み
とど
ちょうどいい機会なので、みやこに残った友だちに手紙を届けてもらうことにしまし
た。
みち
やがて、さびしい道をぬけると目の前に山があらわれました。
「うわぁ、なんて大きな山なんだろう!」
ふ じ さ ん
「あれは富士山っていう山さ」
ふ
富士山を見れば、冬でもないのに雪が降り積もっています。
しん
「なんだか信じられないなぁ」
ひ え
かさ
かたち
しお
つ
富士山はみやこにある比叡という山を20ばかり重ねた高さで、 形 は塩を積みあげた
ようです。
き せ つ
「まったく、富士山ていうのは季節をわきまえない山だなぁ」
なりひら
かんしん
業平たちは感心してしまいました。
なりひら
さいたまけん
つぎに、業平たちはいまの埼玉県のあたりにやってきました。
とお
「ほんとうにずいぶん遠くまで来てしまったものだなぁ」
かな
悲しい気もちになって川を見ていると、
ふね
はや
「おーい、舟にのるなら早くしろ!
日がしずんでしまうぞ!」
わた
もり
と渡し守が声をかけてくれました。
の
業平たちは舟に乗ります。
か わ も
日ぐれどきの川風はつめたく、ひどくもの悲しい感じです。ふと川面を見ると、くち
さかな
ばしと足の赤い鳥が、 魚 をとりながらむれていました。
「渡し守さん、あれはいったいなんという鳥だい?」
業平がきくと、
どり
「あれはみやこ鳥っていうのさ」
と渡し守はおしえてくれました。
「みやこ鳥だなんて、京のみやこを思いださせる名
まえだなぁ」
おく
それを思うと急にみやこにおいてきた奥さんのこ
き
とが気になって、業平たちは舟の上で泣いてしまい
ました。
か す か べ し
ふる すみだ がわ
このおはなしにでてくる川は、今、春日部市をながれる古隅田川だともいわれていま
は ま か わ ど
はちまんじんじゃ
せ き ひ
す。そして、浜川戸の八幡神社には、業平にかんする石碑も残っています。
うめわかまる
でんせつ
(7)梅若丸の伝説
(7)梅若丸の伝説
むかしむかし、今から1000年も前のことです。
きょう
よ し だ の しょうしょうこ れ ふ さ
は な ご ぜ ん
す
ふ じ ゆ う
京 のみやこに吉田少 将惟房と花御前という人が住んでいました。ふたりはなに不自由
なくくらしていましたが、ざんねんなことに子どもがいませんでした。
かみさま
がん
ばん
うめ
そこでふたりが神様に願をかけたところ、ある晩花御前は口の中に梅の花が入るゆめ
を見ました。そして、かわいい赤ちゃんが生まれたので、ふたりはとてもよろこんで、
うめわかまる
その男の子を梅若丸と名づけました。
うめわか まる
これふさ
びょうき
な
ところが、梅若丸が4才のとき、お父さんの惟房が病気で亡くなってしまいました。
は な ご ぜ ん
かな
べんきょう
お母さんの花御前はとても悲しみ、「しっかりと勉強してお父さまのようなりっぱなか
たになるように」と7才になった梅若丸を
お寺に入れました。
ところが、このようすをものかげからこ
っそり見ている男がいました。
し の ぶ
と う た
あくにん
それは、信夫の藤太という悪人でした。
信夫の藤太は、子どもをだましてゆうか
いし、どこか遠いところへ売りはらってし
ひと か
まう人買いでした。梅若丸がかわいらしい
のに目をつけ、なんとかだましてつれて行
けないものかとかんがえました。
びょうき
そこで、藤太は梅若丸に、お母さんが病気だからむかえに来たとうそをつき、まんま
つ
とお寺から連れだしてしまいました。
と う た
うめわかまる
つ
ひがし
藤太は梅若丸を連れてどんどん 東 にあるいていきます。
びょうき
か す か べ
ふるすみだがわ
い っ ぽ
ある
つかれはてた梅若丸は病気になり、今の春日部、古隅田川のあたりまでくると一歩も歩
お
に
さ
けなくなってしまいました。おこった藤太は梅若丸を川につき落とし、どこかに逃げ去
ってしまいました。
なが
まも
梅若丸は川の流れに流されてしまいましたが、お母さんからもらったお守りのひもが
えだ
きし
ヤナギの枝にひっかかり、どうにか岸にはいあがることができました。
しんせつ
そして、ちょうどとおりかかった親切な村の人にたすけられたのです。
びょうき
かんびょう
わる
けれども、梅若丸の病気は少しもよくなりません。村人たちが看病しましたが、悪く
なるいっぽうです。
そして、あるとき梅若丸は、
か わ ら
し
「もしも、お母さんがぼくのことをさがしにきたら、川原のつゆのようにはかなく死ん
でしまったとつたえておくれ、隅田川のみやこ鳥よ」
うた
のこ
いき
という歌を残して息をひきとってしまいました。
うめわか まる
し
は な ご ぜ ん
か す か べ
さて、梅若丸がゆうかいされたと知った花御前は、梅若丸をさがしに今の春日部のあ
たりにまでやって来ました。
つか
ねんぶつ
すると、村の人たちがさくらの木をうえた塚の前で、念仏をとなえています。ふしぎ
はか
に思ってきけば、1年前に人買いにだまされてすてられた、梅若丸という男の子の墓だ
というのです。
かな
いっしん
悲しみにしずんだ花御前は、一心に念仏をとなえました。すると、さくらの木の下に
梅若があらわれたのです。
なつかしさのあまり花御前がだこうとしても、
梅若丸は、まぼろしのようにさわることもできま
せん。
き
そして、夜明けがくると梅若丸はいつのまにか消
えてしまいました。
かわいそうに思った村人たちは、花御前のため
こ や
に梅若丸の塚のそばに小さな小屋をたててあげま
した。
あま
いけ
花御前は尼となり、毎日のように念仏をあげていましたが、ある日、池に梅若丸のま
む が む ち ゅ う
ぼろしがうつっているのを見て無我夢中でとびこんでしまいました。
のこ
その池は今はもう残っていません。
にいがたふくろ
ま ん ぞ う じ
ただ、春日部の新方袋にある満蔵寺というお寺には、今も梅若丸の塚が残り、この悲
しいお話をつたえています。
おど
(8)やったり踊りのはじまり
(8)やったり踊りのはじまり
むかしむかしのお話です。
たけさと
おおはた
び ん ご
さくもつ
みの
武里の大畑と備後のあいだには、作物の実らないあれはてた大地が広がっていました。
だいかん さま
ね ん ぐ
し ご と
めい
この土地をもつと、イネが実らないのに代官様によけいに年貢をとられたり、仕事を命
お
じられたりしてしまいます。だから、大畑と備後の人々は、おたがいに土地を押しつけ
あっていました。
けっちゃく
けれども、なかなか決着はつきません。
「そうだ、すもうで決着をつけよう!」
こま
えら
ま
困った村の人々は、村の力もちをそれぞれ選び、すもうで負けたほうがその土地をひ
き
きとるということに決めました。
「はーっけよい、のこったのこった!」
おおはた
び ん ご
大畑のせんしゅも、備後のせんしゅもいっしょうけんめいがんばります。
「がんばれがんばれ!」
「まけるなまけるな!」
しょうぶ
いき
なかなかつかない勝負に、だれもが息をのんだとき――
「えいやっ!」
せんしゅ
大畑の選手が備後の選手をなげとばしてしまいました。
「ヤッタリナー、ヤッタリナー!(やった、やったぁ!)」
大畑の村人は大よろこびです。みんな、おどりあがって
しまいました。
き ね ん
まつ
ちか
よろこんだ大畑の人々は、これを記念してお祭りをひらきます。毎年7月15日に近
たけさとえき
おおはた か と り じんじゃ
い土よう日、武里駅近くの大畑香取神社で
おこなわれます。
「ヤッタリナー、ヤッタリナー」
げんざい
のかけ声とともにおどり、現在ではちびっ
さ ん か
子も参加してそれはみごとなものです。
さいたまけん
む け い みんぞく
このやったりおどりは埼玉県の無形民俗
ぶ ん か ざ い
し て い
だいひょう
文化財に指定され、春日部を代表するとて
ゆうめい
も有名なおどりになりました。