第三四話 水車の音が聞こえた頃―岡本吉良の幼い日々

水車の音が聞こえた頃 ―岡本吉良の幼い日々
西舎の日高種馬牧場(後の日高種畜牧場)の、通称 段 と呼ばれる段丘の下に、 裾をはうように
西川(西舎川とも) と呼ばれる一本の水路がある。この水路は昔、今の五倍もある豊富な水量を誇
る流れであった。水源は日高種馬牧場の大草地の湧水で、この流れが段の崖っぷちから湧きでる水を
集めて、最後に幌別川に注ぐ。この西川に沿って、上流から上田、岡本、尾野と三軒の水車小屋が点
在していた。これらの水車小屋がいつ建ったのかは、 今はもう誰も知る人もいないが、 年寄りは皆明
治の終わり頃にできたものだという。
西舎で米を最初に作ったのは松田七兵衛だといわれるが、幌別川周辺の米作りは明治三十年代後半
から少しずつ増えてきたもので、明治末期にはすでにかなりの水田があった。ここで収穫された稲の
精米が問題となりだす頃には、自然と水車の製作が考えられるようになり、 出身地の九州で、米づく
りを手がけもし、 灌漑に悩みもした身には、水車は決して突飛な思いつきではなかった。入植以来、
稗粟(ひえあわ)を常食としてきた人びとには、米に対して人一倍の憧れがあったし、 経営的にも米
は推奨作物であった。
自家用をまかなうだけなら石臼で十分だが、生産量が増えてくれば石臼ではまかないきれず、天気
の悪い日や冬場の夜なべ仕事に、足踏式の臼や、土臼といって土と細い角材で固めた三、四人で回す
大きな臼を利用していたが、水車は何といっても人力を必要としない。水が米や稗を搗い(つ)てく
れるのである。麦もソバもキビも搗いてくれるし、馬鈴薯摺(す)りをして澱粉づくりを助けてもく
れるのである。
岡本吉良(よしら)は、明治四年の入植者仁五郎の孫である。明治四十五年生まれの次男で、小さ
い頃から体が弱かった。そのうえ幼いときに目を悪くして、両親は この子は長生きするまい と考
えたらしく、教科書は揃えてくれたものの、結局学校へは生涯行かずじまいだった。したがって子ど
もの頃から、水車小屋が遊び場所であり学校であった。見よう見まねで覚えた仕事が、のちに彼の一
生の仕事となったが、その成長期がちょうど水車小屋の全盛期にあたっていた。来る日も来る日も稗
や粟、籾(もみ)が運び込まれてくる。秋の一時期は馬鈴薯摺りだけで一日が暮れた。杵臼や幌別か
らも馬車で俵が運び込まれていたというから、十分採算は合っていたようで盛況だった。
水車は巨大なものである。鋤鍬などの道具は知っていても、ゴトンゴトンとまわる巨大な機械は、
それだけで好奇心をかきたてられる。芋摺り板の水車用を考案したのは父の六助だったが、ここで育っ
た吉良は、後にこの板を銅に変え、継ぎ目を無くした改良型を考えだし、貯籾筒と臼、昇降機、選別
機を一体化した装置を考案するが、このときはまだ好奇心に燃えたひとりの少年だった。
岡本の水車小屋は、三軒あった水車小屋の中で一番大きいものだった。籾が七、八升も入る臼が十
臼ほど二列に並んでいたという。小屋の下を水が流れていて、水車は小屋の中にあった。直径十五尺
もあって、それが落ち水を受けてゴトンゴトンと回転し、その回転軸(親芯棒)が、軸受けと根元に
近い所二ヵ所で歯車に回転を伝え、歯車が副心棒に反対回転を与える。二本の芯棒には各々五ヵ所に
十字に羽根がついていて、これが六、七尺近くもある五寸角の重い杵を持ちあげた。杵にも羽根がつ
いていて、芯棒が一回転するあいだに、四度臼の中の品物を搗くことになるが、一回転するのに三十
秒もかかったような気がするというから、 二、三秒に一回ゴトンと音が聞こえる勘定になる。待つ身
には、まったく今日にひとつ、 明日にひとつと杵が落ちるような気がしたものだという。
臼から出された籾は唐箕(とうみ)に移され、 上からさらさらと落とされる。手まわしで風を起こ
しながら、籾殻と玄米に選別され、籾のままのものは再び臼に戻される。玄米を搗く場合もこれと同
じ方法である。搗く時間や臼の中に入れたアンコ(縄などの丸めたもの)にコツがあって、それ次第
で粉米が多く出たり出なかったりした。あそこは上手いとかこちらは下手だとか、随分評判になった
もので、管理も仇やおろそかにできなかったものだという。
水車は確かにあったが、これを作った大工は探すことができなかった。杵臼には本巣長平の所にも
水車があったが、これは同じ天草移民の小泉和平が作ったのかも知れない。岡本の水車については、
松田宝太郎が何度か修繕するのを吉良は見ているが、造った人かどうかは判らないという。
こうして盛況を極めた水車小屋ではあったが、肝心の日高種馬牧場大草地の湧水が涸れはじめた。
というより、種馬牧場が湿地を改良するために、灌漑水路を掘ったことと重なって、西川に流れ込む
水量がどんどん減った。大正十年頃のことである。このため、上田の水車も尾野の水車も停ってしまっ
た。その頃、中杵臼に静内から進出してきたのが谷岡精米所で、谷岡熊太郎はガス式発動機を備えて
いた。能力がまるで違うから、客足はどんどんそちらへ流れてゆく。仕方なく岡本も機械化を考えて、
三馬力の石油発動機を購入して精米を開始したが、このときが浦河町最後の水車の終焉(しゅうえん)
であった。昭和の初めの頃の話である。
[ 文責 高田 ]
【話者】
岡本 吉良 浦河町西幌別 明治四十五年生まれ
松本 忠雄 浦河町西舎 明治四十二年生まれ
吉田 文夫 浦河町杵臼 明治三十九年生まれ