岡山もんげー講座 館長閑話 02 平成 27 年6月7日 第2回 「ぼっけえ岡山県の成立」をめぐって 何 を 基 準 に す る か に よ っ て 、「 岡 山 県 の 成 立 」 の 時 期 は 異 な り ま す 。 岡 山 県 の 名 称 は 廃 藩 置 県 を し た 明 治 4 年 (1871)7 月 14 日 が 始 ま り で す 。 こ の と き は 諸 藩 が 県 に な っ た わ け で す か ら 、 現 在 の 岡 山 県 域 に は 20 余 り の 県 が あ り ま し た 。 「 ほ ぼ 」 今 日 の 地 理 的 形 状 の 岡 山 県 と い う こ と で い え ば 、 明 治 9 年 (1876)4 月 18 日 で す 。 美 作 地 域 の 諸 県 を 統 一 し て で き た 北 条 県 を 岡 山 県 に 併 合 し 、 前 年 岡 山 県に併合されていた小田県のうち備後6郡を広島県に管轄替えすると太政大臣三 条実美が達した日です。北条県からの文書引き継ぎが完了したのは同年6月3日 (『 岡 山 県 政 史 第 1 巻 総 篇 』) で す 。 わ た く し の よ う な 実 務 に 携 わ る 者 は 、 こ の 日を「成立」と考えたいと思います。 ところで江戸時代、今日岡山県にあたる地域は、じつに多くの所領に分かれて い ま し た 。 幕 末 の 慶 応 3 年 (1867)、 旧 備 前 国 は 岡 山 藩 の 一 国 一 領 主 で し た が 、 旧 備 中 国 に は 大 名 が 9 、旗 本 16、飛 び 地 6 、代 官 2 で 計 33 所 領 で し た 。旧 美 作 国 は 大 名 ・ 飛 び 地 ・ 代 官 ・ 預 地 が あ わ せ て 12 あ り ま し た 。 岡 山 県 域 で は 40 余 り に な り、領主ごとに領内政治や年貢徴収の方法は異なっていました。 そ れ を わ ず か 10 年 足 ら ず の 間 で 一 つ の 県 に ま と め て し ま う 訳 で す か ら 、人 々 は 随分混乱したと思います。その間に新政府は県を通じて、地租改正や学制・徴兵 制 な ど 、大 規 模 な 改 革 を 次 々 と 実 施 し て い ま し た 。政 府 や 県 も 大 変 で し た が 、人 々 にとっては、さぞや「ぼっけえ」新県時代だったと思います。 ここまでの諸県統合経緯は次ページ(参考)をごらんください。 そ の 後 、 明 治 29 年 (1896)4 月 1 日 に 北 東 部 の 吉 野 郡 石 井 村 と 讃 甘 村 中 山 が 、 昭 和 38 年 (1963)9 月 1 日 に 和 気 郡 日 生 町 福 浦 の 一 部 が 、 そ れ ぞ れ 兵 庫 県 に 編 入 し て います。また、瀬戸内海沿岸では干拓や埋め立てが進んでいますので、現在も岡 山県域の地理的形状は変化しています。 こうした地理的な枠組みとしての岡山県の成立に対して、人々はどのような思 いであったのか気になったので少し調べてみました。 す る と 、明 治 9 年 (1876)4 月 広 島 県 へ 管 轄 替 え と 決 ま っ た 旧 小 田 県 の 備 後 6 郡 は 岡 山 県 を 離 れ た く な い と い っ て い ま す (『 福 山 市 史 近代現代資料Ⅰ政治・行財 政 』 )。 明 治 18 年 (1885)2 月 7 日 付 「 山 陽 新 報 」 に よ り ま す と 、 美 作 地 域 で は 分 県 論 が 盛 り 上 が っ て い ま す 。 ま た 、 大 正 7 年 (1918)に は 広 島 県 東 城 町 地 域 が 岡 山 県 へ 編 入 す る 動 き を し て い ま す ( 広 島 県 東 城 町 役 場 資 料 )。 その後の分県や離反の動きは前述日生町の話以外、寡聞にして知りません。立 県 し て 140 年 に な る 「 も ん げ ー 岡 山 県 ! 」 は 、「 も ー え ー 県 」 に ( 岡 山 弁 で 「 既 に 良 い 県 」) に な っ て い る の で す 。 ※ 岡 山 弁 で 「 も ー え ー け ん 」 と い え ば 、「 も う 不 要 だ 」 の 意 味 も あ り ま す が 、 そ れ で は あ り ま せ ん 。 岡山もんげー講座 館長閑話 02 平成 27 年6月7日 (参考) ※『学習漫画 岡 山 の 歴 史 13 明 治 維 新 』( 山 陽 新 聞 社 1990 年 ) の 表 紙 裏 の 図 を 修 正 加 筆
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