はじめに 日本国民性の研究 『解放』大正十年四月特大号 (上)

はじめに
大正時代に発行されていた総合雑誌の『解放』は、大正十年四月号で、「日本の国
民性」について特集号を組んだ。当時論壇で活躍していた多数の著名人がそれぞれ
の専門角度から、日本の国民性について論じたものである。執筆者の人物像がうかが
われると同時に、当時の社会情勢や世相がよく分り興味深い。論点は今では当然と考
えられているものが多いが、中にはユニークなものもある。私は昭和 32,3 年にこの本
を古本屋で見つけた。最近再読して興味が湧いたので、簡文化してみたのである。論
議は多項目にわたり、論文数 67 編と分量も多いので、上中下の 3 巻に分けた。
日本国民性の研究
『解放』大正十年四月特大号
目次
◆題言◆
我が国民性の解放運動(同人)
◆概論◆
批判的見地より見た我が国民性
長谷川如是閑
上代日本人より現代日本人へ
佐野
学
国民性摸索とその将来
新居
格
日本国民性の悲観面
大庭
柯公
虚無的日本人
石川 三四郎
◆自然環境より見た国民性◆
人類学上より見た日本人の民族性の一つ
鳥居
龍蔵
(上)
生物学上より見た日本国民性 理学博士
石川 千代松
日本の国民性に及ぼした地理上の影響 理学博士 小川
琢治
農業と日本の国民性
農学博士 石坂
橘樹
日本国民性と植物界
理学博士 草野
俊助
米食栄養と日本の国民性
農学博士 沢村
真
我が国民性と衣食住の欠陥
医学博士 戸田
正三
風土より見た日本国民性
早大教授 矢津
昌永
◆民族心理より見た国民性◆
神話に現われた国民性
文学博士
黒板
勝美
古器物から見た目本国民性
文学博士
浜田
青陵
藤沢
衛彦
安藤
正次
武士道から見た日本の国民性
大町
桂月
風俗上より見た我が国民性
笹川
臨風
日本における貧民の性情
賀川
豊彦
神話伝説童話に現われた国民性
言語上から見た国民性
早大教授
民衆の娯楽生活に現われた国民性情
帝大教授 権田 保之助
模放の心理
木村
久一
模放と日本国民性
三和
一男
題言 我が国民性の解放運動
現代日本人の諸性格において著しく眼立つものは、消極的であり非社会的である事
である。永い封建期に陶冶された隷属観念や階級観念が今も根強く残り、政治的な忠
愛思想が各種の自由精神の発露を縛り、社会の各層は安価な現実主義的気分に満
足している。この国における解放運動は非常に困難な前途であることが容易に想像さ
れるのである。
しかし頽廃の後に革新の生れることは、社会現象上の必然である。外蛮ゲルマン族
がローマ文明の廃墟の上に清新な新ヨーロッパ文明を展開したような作用は、一国家
の内部にも行われる。支配者群が頽廃するとき被支配者群の一部よりこれに代るもの
が生じ、新しい社会進化を展開する現象は、歴史上の美しい法則の一つである。国民
性は流転する。現代日本人の濃い隷属気分は過去の封建的社会組織の結果に外な
らない。優れた種族との接触が頻繁に行われた古代日本人の心的生活は、非常に快
活で純真であった。社会的環境は国民の性格に重大な影響をおよぼすが、これを根
本的に更改するものではない。我々にはまだ古代日本人の清新な活力がなお多く残
っているはずである。我々は日本全体を悲観する必要を少しもない。
今は資本主義時代である。この時代に階級間の反目が激烈になると同時に、各民族
の世界的交通関係が成立する。それは必然に自由思想と解放運動との勃興を促す機
縁となる。弁証的に言うなら、人類史の根本傾向は[解放]にある。自然の暴力と人為
の暴力より解放されて行くところに、人類社会の発達がある。我が日本が独りこの法則
の外に立つことは想像できない。今や我が国社会の上層が日に日に爛熟と頽廃を重
ねつつあるのに反し、被支配者群の一部には強烈な階級的自覚が燃え上りつつある。
我が国の解放運動の前途は困難には相違ないが、同時に祝福に満ちていると思うの
である。
同人 識
◆概論◆
批判的見地より見た我が国民性
長谷川
如是閑
一
『国民』という意義の不明瞭
国民性とは何であるか。これに対して明瞭な答を与えることは非常に困難である。元
来『国民』という言葉が非常に曖昧で、『一つの政治組織の下に総括されている人民』
といえば、簡単明瞭のようであるが、それならば、全く偶然の事情による集団と認める
ほかなく、そういうものにある特別の性質――国民性――を発見することは難かしい。
また国民性という言葉も、意義が明確でない。通常、共通の国民的心意を持った人
民が政治的に独立した集団を国民と称するといっているが、その国民的心意とは何で
あるかといえば、国民の持っている共通の心意という訳で、全く循環論法であり何の説
明にもならない。また国民とはこれこれの条件を備えた集団であるとして、いろいろの
条件が数え上げられているが、どれも決して『国民』に必至のものでないことを発見す
る。またその条件のすべてを備えたものが国民であるといえば、そんな国民は事実存
在しないのである。
通常国民生活の条件として挙げられているものについて考えてみると、第一は地理
的領域を持つことであるが、これは国家というものが、土地に定着して発生したという事
実に依拠しているのであろうが、今日の国民生活は必ずしもそうではない。原始的な
国家では、その国民でないものは、その領土に生活する事は出来なかったし、また一
定領土の国民は他の領土でその領土外の他の国家の国民として生活する事は困難
であった。云い換えると土地と人間との関係が、国民生活から離れられないものになっ
ていた。ところが今日の国民生活は、日本人は日本の領土を離れてアメリカに行って
いても日本国民である。アメリカ人は日本の領土で生れかつ生活していてもアメリカ国
民である。今日では、領土を持たない国家は無いから、国家と領土とは必須の関係に
あるが、国民生活はその国家の領土に限定されてはいない。
次に国民の構成には民族の同一ということが条件になっているが、これは事実上ま
ったく成り立たない事で、国家という生活は決して同一民族から成り立つものではない。
むしろ民族の混同という事が、今日の国家の生活の発生でもあり、発展でもある。人類
学的な研究によると、異種族分化または混合が社会的集団を作り、それが征服によっ
て統一されるところに始めて国民的生活が成立つ。したがってその国民生活において、
決して種族の同一ということはないのであるが、種属の征服的または社会的混同にお
いては、必ずその混同集団は同一種族であるという信仰が成り立つ。多くの場合にお
いてそれは混同種族中の優越者の祖先を共同祖先とする、いわゆるトーテムと称する
同一祖先の信仰が成り立つ。それは太陽とか、獣とか、蛇とかを神体とする共同の神
を持つことであるが、これは少しも実際に同一種族である証拠ではない。ことに共同の
神が成り立つ場合にも、伝来の異種族の神々が依然として存在を続けて行くという事
実がある。日本の祭祀においても出雲の神は有力な異種族の神が保存されたもので
ある。国家的統一と祭祀の統一との間に必至の関係を持った日本の政治状態におい
てすらそうである。国民生活は異種族の統一であって、同一種族の根底はない。ギリ
シャのいわゆる種族国家もその実は異種族のまとまったものであることは歴史家の証
明するところである。このことは国家成立の事情においてそうであるばかりか、後々の
国家の発展においても、異民族の混入という事が非常に重大な国民生活の特徴とな
っている。日本国民の文化は明らかに異種族の混同から成り立ち、その後で大陸の民
族の混同によって発達したものである。朝鮮、支那の文化が、日本古代文化の基礎と
なっていたことは、専門家の研究で明らかに示されている。
もっとも日本の国家成立の経緯は、歴史上疑問であって、今日の日本国家は恐らく
ある中心国家に周囲の種族が統一されて成立したものであろうが、その統一はこれま
での日本歴史が認めているより遥か後代のことであったらしい。無論そうして統一され
た種族は、比較的類似のストックに属したものであるらしいが、統一前にはそれらの種
族の間に、互いに異種族の観念が強かつたことは、専門的な研究に待つまでもなく、
熊襲とか八十梟(やそたける)等の伝説によってうかがうことが出来る。日本国家は確
かにそれらの異種族の混同から成立っている。
次に言語の同一ということが国民生活の条件になっているが、語源の同一と相違は
非常に曖味(あいまい)で、例えばラテン市の言葉は同一のものであるか、違ったもの
であるか。語源を同じくするということのほか区別のつけようがないとすると、それは同
一言語といわなければならない。またそれから生じた分化の末端の相違を持った言葉
が違った言語であるということになると、今の国家は一つも同一の言語を持ったものは
ない。イギリスではイングランド語、ウエルス語、スコットランド語、アイルランド語皆別々
である。それが一つの国民になっている。
その次に宗教の同一ということが、国民生活の条件になっているようだが、これはキリ
スト教国というような広い範囲でいえば、今の国民生活よりは膨大な国民生活をいうよ
うであるし、また仏教、キリスト教などよりはるかに少数の宗教をも考慮に入れると、どの
国でも同一宗教を持っているとはいわれない。日本にも神道、仏教、キリスト教その他
が混在しているが、どこの国でもそうである。これも国民生活の必須の条件ではない。
それから共同の伝統を有するというような曖昧な条件によって国民生活を定義しよう
とすると、これまた発生的にも進化的にも説明が困難になる。伝統というものがどういう
ことであるかを決めるのも困難だが、仮にそれを共同の神話を持つものと解釈すると、
なるほど既成国家は、征服者の意志によって共同の神話が成立っているようだが、そ
れが征服国家特有の不自然さでようやく成立しているものであることは、先に宗教のと
ころで云ったとおりである。この神話は国家の努力で、一定の時代に国民的統一の契
機になったのは事実であるが、国家の進化はこの神話の破壊に向いつつあることは、
いずれの国家においても同一である。元来神話の発生についてはいろいろ議論もあ
ろうが、社会的利害の共通性に基いていると見るべきであろう。同じ運命を享受しなけ
ればならないという境遇が、共同の神話を持つ動機となるのである。同じ運命とは、同
一社会的靭帯によって結ばれていることで、その集団に対する事情が、同じ影響を全
集団に及ぼすことである。一言でいえば、ある集団が共同の神話を持つに至るのは、
勃興と衰滅の影響を一様に感ずることに起因しているのである。例えば戦に勝った時
にその勝利が一様に感ぜられ、負けた時にはその敗北が一様に感ぜられるところの
集団において、共同の神話が発生する。それが一つの国民であるといえば、前に挙げ
た色々の条件の中では、この条件がもっとも国民生活の条件として承認できるもので
ある。
が、このことも今日の国家の下における国民の生活については条件附である。この
神話の成立を国民生活の重要な条件とすると、その神話の共同性が崩れる時には、
国民生活は崩れるといわなければならない。果してそうだとすると、今日の厖大な国家
は、その国家を膨大にすることによって国民生活のもっとも重要な条件を打ち壊してい
ることになる。何となれば、今日の国家は共同の神話を持たない国民を併合することを
国家的膨脹と認めているからである。これは原始国家が違った totem を持った種族を
併合したのと同じことをやった訳であって、原始状態ではそれが漸次同一 totem を持
つことになり、結局それがむしろ国家成立の必要な仕事で、決して国家破壊の仕事で
はなかった。ところが今日では同じようなことが、かえって国家破壊の仕事になってい
る。それはどぅいう訳であろうか。
それは一言でいえば、征服、被征服の事実が原始的な簡単な関係から、今日の複
雑な関係に進化したからである。原始状態においても、今日の状態においても、征服
者と被征服者とは武力の上でも文化の上でも、多分の懸隔があるのは事実である。原
始時代においては、この懸隔が単純に征服被征服の関係を成立させることが出来、そ
してこの関係において被征服者は比較的簡単に優越者(征服者)に全的な服従を捧
げることが出来た。言い換えると、優越者の totem が容易に全混同的集団の totem と
なり得た。これに反して、今日の複雑な人間心理においては、そうたやすく征服被征
服の関係が成り立たない。第一に、武力的に劣等であるということも、また文化的に劣
等であるということも、今日の複雑な心理においては原始的心理におけるようには簡単
に決定されない。例えば原始的な民族心理における神話が、今日の心理においては
文化的な意識に進化している。被征服者は、原始時代には優越な神を持ったものと信
じたのであるが、今日においては優れた文化を持ったものであると信ずることになった。
しかも今日の文明人は、太古の人間のように、征服者の魔術に胡麻化されて、自身の
神話(文化)を棄てて、征服者の神話(文化)に雷同するようなことが出来なくなった。
エマーソンも言ったように、ヨーロッパの文化も文化として立派なものであるが、支那の
文化だってそれ自身完全な文化なのである。各国民のこういう意識は、昔の totem の
ように根強いばかりでなく、その文化意識は、totem よりも複雑で、征服者の魔術ぐらい
では誤魔かされない。ドイツ文化はカイゼルや H・S・チェンバレンが考えたように、完全
無欠のものであったにしても、それをもって他国の文化を地球の表面から排除しような
どと企てれば、諸国民の反抗にあって、その完全無欠の文化すら呪われる。そんな大
規模な征服でなくとも、ある小国民の文化を排除することさえ、今日では無謀であると
考えられている。
アメリカのフィリピンに対する場合がそうである。文化の全的征服なんてことは、昔か
ら行われたことがない。今日では各国民が各自の文化意識を自覚的に保持している
のでいよいよそれがむつかしい。近代国家は、実際は、なんら totem にも神話にも依
拠しない不自然の集団ではあるが、それでも、その内の異民族の totem や神話は、自
覚的にいよいよ根強くなりつつある。これが国家併呑が困難になった理由である。
それにもかかわらず、今日の国家は併合国家であるから、神話をもって国民生活の
中心条件とするならば、今日の国家はその条件を自ら打ち破っている国家である。だ
がそれを逆にいうと、つまり今日の国家生活なりその国家の人民の生活――国民生活
――は、共通の神話に拘泥しないということになるのである。するとこの条件も今日の
国民生活に心須のものではない。
二
『国民性』の意義
厳格に国民とは何であるか、国民性とは何であるかということを定義するのは、結局
非常に困難なことである。一つの国民には共通な性質がある。それを持ち合った集団
が国民であるという循環的な解釈が何事をも説明していないことは、前に言ったとおり
である。国民といってもそれは民族ではない。今日の事実では、国民とは共同の政治
組織を持った集団である。それは事実であるが、政治学者は今日の国民を形作って
いる集団には必然的に共同の政府を持つべき生活条件を備えている、と解するところ
から、その条件が何であるかについて、色々なものにそれを求めている。しかしこれは
偶然の事柄に必然の事情を発見しようとすることで、結局は徒労に帰する。
事実、今日の国民生活は遇然(人為)の関係で、必然の関係ではない。例えば朝鮮
は、日本に属さなければならないという必然の事情があるのではない。それが日本の
国民生活を営なまなければならなくなった事情は、まったく征服者の意識によっている
ので、社会的必然ではない。また民族国家といっても、そのもっとも純粋なものにおい
ても、本質的にどれだけの種族が民族としてまとまらなければならないかということはな
い。言い換えると、本質的な民族の特徴というものは考えられない。外的な特徴、例え
ば皮膚の色とか毛髪の特徴というようなものも無論本質的なものではない。それと同じ
ように内的な性質も、一部の人が考えるように、本質的であるということは疑わしい。社
会学者の間でも、絶対に本質的なものを斥ける人と、まったく本質的なものに根底を
置く人があるけれども、私は絶対という意味では、本質的ではないという側に賛成する。
しかしそういう議論は学問的には必要ではあっても、実際上今日の民族の差異は、多
年の遺伝および環境の特質を持たされていて、ほとんど本質的といって好い位に根強
くなっている。しかし私はそれがどこまで行っても、環境的であることを出ないと思う。し
たがって永い間の環境の影響は、現在本質的と考えられているものも変化させること
が出来るとみなければならない。
このように民族の本質すら環境の所産であるとすると、国民生活は、それが不自然に
成立したものであることは前いったとおりであるにしても、一種の生活環境として、その
集団の生活様式が民族生活に反映することは否定できない。そこで私は、国民的特
性は民族的特性に支配されるといえるように、国民的特性が民族的特性を支配すると
も言えると考える。のみならず国民的特性に支配された民族的特性が、多くの場合、
本来の民族的特性と誤認されていることを指摘しなければならない。
しかし環境は生活を支配するとともに、生活もまた特殊な環境を作り出す。原始社会
の一種族が他種族に併合されると、そこに生じる環境は、征服種族の生活をも被征服
種族の生活をも一様に支配する。そうして出来た生活は、また特殊の環境を形作り、
合併した種族の生活を作り出して行く。こうして出来た民族生活と国家生活との交渉に
よって生まれたものが今日の国民生活である。それは民族的自然が、国家的不自然
に影響されて出来上った自然である。
今日国民性という言葉は、上記の意味における集団生活の特性をいうものであると
私は認める。そう解釈してもまだ国民性という概念を正確につかんだとはいえないが、
今のところでは、このようにして発生した集団生活をほかにしては国民性ということは考
えられない。
要するに今日の人類の生活では、純粋な民族的生活というものはない。いわゆる国
民生活は民族生活に対する不自然的環境である。民族がその不自然の環境に生活
することを出来るだけ免がれて、自然の環境に帰ろうとする運動が、今日の民族国家
の運動である。
しかも歴史は民族の混同において文化の動機を見出しているのであって、今日まで
はその混同の形式は国家という体制に拠っている。したがって国家には民族的特性が
むしろ見出されないという方が当っている。厳重な意味で民族的といえる国家は、いわ
ゆる民族国家というものの中にも少ないのである。殊に異種族の混合が入り組んで行
われないで、別々に地方的に発達した場合には、民族的一致が一層欠けている。例
えばフランスでは Europacus,Alpinus,Mediterrancus の三つのストックから成り立ってい
るが、それがある程度まで地方的に分れて、完全な混交を免れているために、民族的
一致に比較的欠けていると称されている。これらの異なる民族が同一国家の範囲内に
生活するために発生した特質を国民性と呼べば呼び得るのであるが、それはむしろ
inter-racial(民族間)な特性である。しかも今日の国民性と云えば、多くの国家におい
ては、混合民族間のインターレーシャルな特徴をいうほかない。この意味で国民性は
民族性とはまったく区別して考えなければならないばかりでなく、民族性のように、それ
自身の内在的特性ではなく、民族接触の関係状態から発生する性質である。
三
民族接触と国民的生活の発展
日本の国民性も前述の条件を出るものではない。日本の民族がどういう混交状態を
経たかについては、充分な研究が成立っていないようであるが、ただ疑うことの出来な
い事実は、支那大陸(朝鮮を含む)との民族的混交が、征服被征服の関係ではなく、
移住の関係において成立ったことである。その混交が行われる以前のいわゆる大和民
族の祖先は、女子本位の社会制度を持った数多の種族から成立っていて、ある時期
にその統一が行なわれた――種々な形でいろいろな統一が行なわれた――ことが推
察されるが、いわゆる日本国が出来上ったのは、それから遥か後の事で、恐らく支那
大陸との混交が盛んに行なわれてから遥か後であったらしい。今までの歴史に見える
ように、大八州国が成立してから唐土との交通が始まったのではなく、事実はむしろ逆
で、日本成立前に大陸民族との混交があったらしいのである。したがって日本の国民
性は、その成立時において民族接触による混交状態があったことは、他国の例と異な
ることはない。
しかし国家成立後の我が国の民族状態は、比較的純粋であった。征服による混交
状態は、内地の統一において隨分後まで行われたらしいが、大陸の民族との間には
征服による混交は起こらなかった。したがって国民性は同質性を保つ点では優れてい
た。けれどもこの事実は日本の国民性を――多くの日本人が信じているように――そ
のことのために優良にしたとはえない。我が国民性が純粋であると、誇り顔に唱える
人々がいるが、純粋の国民性ということは、必ずしも好ましいことではない。民族はそ
れ自身の純粋を保持することによってのみ発展するものではない。進化論者のうちに
は、民族の純粋な本質は不変的で、先天的に定められた運命を永久に脱することが
出来ず、環境もその先天性をどうすることも出来ないとさえ唱える者もある。つまりニグ
ロはアフリカに何千年生活したものも、またそれとは全く別にアメリカ大陸に何千年生
活したものも両者まったく同じ本質を発揮しているというのである。この議論は第一に、
先天性ということの意味が判然としない。それは、原人時代から備わった条件という意
味に解されているが、それならば矢張り一種の環境説であり、ただそれが非常に遠い
時代に起り、その効果が働く期間が非常に永いというに止まる。結局先天の性質もま
た絶対不変ではないのである。この民族の内的本質は何によって変化するかといえば、
環境の力はそれを動かすことが非常に微々あるいは絶無であるから、民族の混交つま
り雑婚によって本質の濃厚さを薄めて行くよりほかはない。つまり外圏に文化のより進
んだ国を持った民族は、純粋性を保っていたのでは発展しないのであり、優良民族と
の混交によってのみ発展するのである。この事実はあらゆる民族の場合に当てはまる
のであって、民族が純粋を保つということは、ある意味で民族の発展が止まったという
ことである。日本の国民性がある時期に純粋を保っていたならば、それは混交が行わ
れなかったので民族的発達が停止していたことを意昧する。それは自慢になることで
はない。
事実を観察して見れば、この事情は明かである。日本の国民的発展を考えて見ると、
民族混交の行われた上代の発達は非常に目ざましいものであった。文献の不備、人
類学的考究の不十分な今日の知識でも、専門学者は有史以前の我が民族が支那大
陸の民族との接触において、異常な文化的発展をとげたことを推定する根拠を沢山に
見出している。
民族混交が止んだ後でも、文化的に大陸の影響を受けた時代において、我が民族
の内的、外的な生活は、最も著しく進歩したのであった。王朝以前の日本の文明が、
日本の歴史のもっとも華々しい色彩を示しているのは、その時代の大陸の文明が頂点
に達していた事情にもよるのであろうが、その文化的色彩は王朝以後の歴史には見出
せないほどのものであった。法律制度にしても、風俗習慣にしても、模倣的であったと
はいえ、その時代に匹敵するものは後代に見出されない。法律制度はもちろん、服装
でも建築でも、つい近代の徳川時代までは、王朝時代の糟粕をなめていたような趣き
があったではないか。長い武門政治の時代はある意味で日本の暗黒時代であった。
それは大陸の文化が頽廃したことに原因し、その結果我が国の大陸文化との接触が
衰えたからである。
四
いわゆる淳風美俗の発生
外来のものを軽侮する我が国の習慣は、この暗黒時代の所産である。我が国の文
化が外来のものと接触を保っていた時代にのみ著しい発展を遂げたという事実は、暗
黒時代には回顧されたことも、追想されたこともなかった。そしていたずらに軍国的排
他心が発達して、一種の国民的自負心が養われたのである。
国民的特性は民族の純粋性によっては優良なものにはならない。たとえばイギリス国
民といえば、善悪はともかく、非常に強い国民的性格を持っているといわれているが、
その特性は決して純粋に得られたものではなく、むしろ極端な混交の結果である。こと
に征服関係は大きな影響を与えている。ある時代には上流のイギリス人が皆フランス
語を話すという時代があったし、英語の話せない国王を戴いたこともあった。いわば屈
辱的な生活を経験したイギリス国民が、今日のように世界第一の自尊心の強い国民に
なったのである。個人の生活において、複雑な経験が強い意志を生むように、国民的
生活においても複雑な経験の遺伝的蓄積が、国民性の涵養に重大な意義を持つ。日
本国民が大陸の文化の衰退のために、王朝以後ほとんど鎖国状態に陥ったことは、
日本国民にとって何の好結果も得られなかった。その結果得た自負心は、イギリス国
民が辛苦の果てに得た自負心とは違って、根拠のない力の弱いものに過ぎなかった。
少くともその自負心を生んだ時代に、日本の文化が停滞していたことは、争えない事
実である。そして日本の国民性がこの停滞期間に養われ、多くの愛国的日本人もそれ
を受け継いでいることは、いうまでもない。
ただし停滞の時代に得られた日本の国民性も一概には非難出来ない。この時代の
特徴にも優れた点はある。たとえば武士道である。それは軍国的性格――それはどこ
の国でも生活の文化的意義に乏しい時代の生活様式である――が長期の発達をとげ
て次第に純化され、独自の道徳、芸術、エチケットを見出した結果発生したものであっ
た。したがって極めて一面的な生活――軍事生活――と一般社会的な生活意義とを
一致させようと計った点で、その一部的な生活を社会化し、平和的な生活において潜
在的に軍国的道徳性を見出そうとしたものである。つまり武士道はこうして平和的な社
会道徳に編み込むことが出来た。絶対的に平和の敵である腕力生活の中で、道徳を
平和と矛盾しない現象として取り扱うことは、腕力を全く離れた平和時代の人心に、好
奇心による興味を引き起こさせたのである。これが武士道が封建時代のいわゆる泰平
の御代に大いに持て囃やされた理由であって、今日の文明の平和社会にも珍重され
るのである。
このような骨董的で好事的な、優良品を産出することはあったが、しかしそんなもの
は、大陸文明と接触した王朝時代以前の、総合的な文明の所産に較べては、いうに
足らないほどの些細な、むしろ好事的なものに過ぎない。
日本の国民性が、この暗黒時代に涵養されたものであることを承認するのは、少し覚
醒した日本国民が敢てしないところである。しかもこの覚醒は、非常に遅れて我々に到
来したのである。ローマに対する蛮族の襲来のように、地方の豪族が貴族政治に対し
民主政治(?)を主張し、そこに民衆の中間政治が始まった事実は、長い間の日本歴
史を支配したが、この中間の支配は、いわゆる日本の国民性を形成するのに有力なも
のであった。現今の官僚政府が唱え、かつ維持しようとしている国民性は、この中間政
治の所産である。
前にも云ったとおり民族的自然の生活は、国家的不自然(人為)の環境によって変
態に陥るのであるが、日本の民族的特徴もこの中間政治の国家生活が、その変態的
構成に預かって力があった。今日の官僚生活者や、官僚思想家や、普通の老人など
が、淳風美俗と称して、古社寺とともに、保存を計っているところの我が国民特有の道
徳性なるものは、生物学者の意義による我が民族の本質的特徴であるかどうか――言
い換えれば、我が民族本来の良質を発揮したものであるかどうか――疑わしいばかり
か、それが国民生活の道徳として望ましいものであるかどうかも覚束ないのである。
それはただに、いわゆる淳風美俗を醸成した時代の我が国民状態が、文化的な意
義において停滞した時期であったというに止まらない。その醇風美俗の規範は、その
時代の一般社会の生活意義の所産ではなく、生活にそういう規範を与えることによっ
て特に利益を得る階級の所産であったからである。封建時代に武士階級と庶民階級と
が厳正な段階的地位を保っていたと考えるのは、今日の社会において資本階級と労
働階級とが、厳格な段階的地位を保っているという考えと同じく、ことに一種の科学的
解放を社会現象に対して施した上のことであって、必ずしも源氏と平氏というように截
然と明確な客観的匹別がついていた訳ではない。当時の時代に対して社会学的な考
察を施す者がただちに心づくことであろうが、それにしても、このような階級的区別の
存在は争われない事実であった。そうして、その一方の階級である武士の階級が、自
己の階級的生活意識を持っていたように、庶民階級もまた、自己の生活意識を持って
いたのである。しかも前者のそれは武力的闘争の生活意識であって、後者のそれは平
和的協同生活のそれであったことは言うまでもない。したがって、生活の意識という意
味においては、庶民階級のそれが、武士階級のそれに対して、ヨリ社会的――生活ら
しい生活――の意識であったと言わなければならない。この意味で生活の規範が、も
し社会的な意義から抽出しなければならないのであれば、それは確かに平和的、庶民
的、百姓的であった筈である。しかるに規範の意識が特に武士階級において発達し、
道徳化し、制度化し、法律化し、習慣化し、庶民階級の生活意識に根ざした規範は、
潜在的にのみ働く――それは顕在的な制度や法律よりも、事実上ヨリ強く働いたにし
ても――ことになったのは、何れの国家の歴史においても一様に見る現象であって、
日本の封建時代においてもそれと同様であっただけのことである。これは、当時の政
治的支配が、武門の手に帰していたので、その階級は、自己の階級意識に基く生活
の規範を制度化し習慣化することによって、自己の階級の支配を確定することを計っ
たもの――無論多くは無意識的にであろう。彼らはそれが階級的であるよりはむしろ社
会的であると意識したに違いない――にほかならない。
こうして出来上った我が国の淳風良俗は、それ故に、必然的に封建的国家生活を固
持する制度習慣であった。このことは、さらに細目にわたって考察する必要のないくら
い明らかであるが、目下の一般社会の思想程度では、我が国民性をそういう風俗習慣
に釘付けする傾向があり、それは無意義なことといわなければならない。――解り切っ
たことではあるが、必要と思えるから、次にすこし説明してみる。
五
服従と義理
我が国の淳風美俗として、官僚思想家や老人などが唱えている道徳の根拠は、前
述のとおり封建的支配の完成にある。それは広義においては、積極的な封建武士的
行動の一切、いわば『大和魂』の積極的方面を包含するものであるが、しかし実際に
は、我が国の淳風美俗は、そういう積極的な方面には深入りしていないのである。なぜ
そうなのか。それは一層露骨に支配階級の要求に出たものであるからだ。それは支配
者自体の道徳であるよりは、より多く被支配者の拘束であったことの結果である。した
がってその規範は、消極的方面に向って無暗に展開して行き、隨分立派な制度習慣
をこしらえ上げてしまったのである。
今大ざっぱにその消極的方面の特性を組織立ててみると、大体二つの系統があると
見ることが出来る。一つは「服従」で、他の一つは「義理」である。
服従には、そのうちにまた三つの系統がある。第一に主従関係のそれ、第二は家族
関係のそれで、第三は性の関係のそれである。
封建時代における主従関係の服従は、功利的性質を帯びていたことは、日本に限ら
ず西洋各国の封建制に共通の事情である。封建諸侯の従属関係は、ほとんど傭兵の
それに近いものであって、場合によっては、大阪城のそれのように、まったく傭兵制度
そのものであった例もあるくらいである。したがって、武士階級間の服従関係は意志的
であったといえるが、武士と庶民の間の服従関係は意志的ではなかった。武士と庶民
との間には奴隷的支配があって、主従関係はなかった。いわゆる醇風美俗とは、その
うちの主従関係をいうのであって、奴隷関係をいうのではない。もしそうだとすれば、こ
の功利的な契約関係をことさら醇風美俗として賞揚するにも当らないわけである。今の
官僚思想がなぜそれを美俗と考えているかといえば、それは封建武士の主従関係が
功利的な契約関係であったことを忘れ、または気づかずにいるからである。当時の英
雄崇拝的意識によって、功利的でありながら、同時に英雄に対する盲従的服従の状
態にあったために、その盲従的、奴隷的服従状態だけを見て、それを『淳風美俗』と呼
んでいるのである。彼らの変態的一面――奴隷的状態――だけが見えているのであ
る。それならば、それを美風と称するのはいよいよ怪しいことになる。
家族関係の服従は官僚思想家が、我が国民性の長所として大いに維持を計ってい
る道徳であるが、これは家族制度そのものの持続を意図するもので、家族関係の維持
が困難となった今日の社会状態では、その服従だけが取残され保存されるわけには
行かない。それは近世の経済状態の必然の結果――資本制度が生んだ必然的な家
族分離――逃れ難いことなのである。家族制度を維持するためには資本制度を撲滅
する勇気がなくてはならないのであって、それが出来ない以上は、今の社会状態の下
で従来の家族制度による服従関係を保つのは不可能である。親は子を養うことが出来
ず、子も親を養うことが出来ない。父子兄弟各々が自分を生かしていくだけの生活資
料を辛うじて得るに過ぎない状態で――それをするために父子兄弟が離散して職業
に就くほかない状態で、なお家族的服従関係を維持するのは、敗北して逃げ散りつつ
ある軍隊の間になお規律を保とうとするようなものだ。もしその服従が美俗であり、その
存続が必要であれば、資本制度から脱却し、しかも他のより良い制度に移るのを見合
わせ、より原始的な産業組織に移るよりほかない。
性の関係における服従関係――女の男に対する奴隷的関係――は、家族関係と密
接な関係を持つ。後者の崩壊は、必然的に前者の崩壊をきたす。ここでの醇風美俗も
とうてい保存の可能性はない。そのうえ、女が男子に盲従することもあまり醇風美俗と
はいえないから、その保存の不可能を呪い悲しむにも当らない。
封建的服従を今日の社会道徳として国民性の上に置くことの矛盾は、目下の社会問
題の実際的解釈において明瞭に、露骨に感知されていることである。労働問題を昔の
主従関係に引返すことによって解決しようとするような愚挙を――しかもそれを日本の
国民性に根底を置く政策だと称して――実地に試みるものが、今日も絶えない。主従
関係の道徳を、労働関係の理想のように考えている者が実際家のなかにまだ沢山ある。
『服従』に次いで私が挙げた、美風系統の徳目『義理』については、簡単に一言する
に止めたい。これは元来封建的服従関係の形式化であって、儒教の仁義の「義」など
のように空漠な倫理的意義を持つものではない。それは明らかな形式道徳の尊重で
ある。したがってその極端なものは、道徳的「骨化」の尊重となる。社会的には生活の
意義を失った形式に犠牲的に殉ずることによって、倫理的意識の強度を示そうとする
点で、場合によっては一般の倫理感覚を強く刺戟し、また場合によってはその反対に
大切な倫理感覚をくすぐってしまう。
したがって、昔から服従に対する叛逆は、どこまでも否定されたにもかかわらず――
これは我が国の国民道徳が、叛逆肯定の道徳を有する支那人の国民道徳と異なる点
――義理に対する叛逆は、ある方面から肯定されることもあるのである。封建道徳の固
定が強い度合に達するにしたがって、義理はいよいよ形式尊重の度を増すと同時に、
義理の破壊が感情の生活において肯定されることになったのである。近松の戯曲が民
衆的に成功したのはこの大勢を把んだからである。
封建時代に義理に対する反逆が民衆的に発達したところに、我が国民性――しか
しそれはどの国民にも共通通の心理であるが――を認めるのが妥当であるのに、我が
国民性を説くものは義理の制度、習慣、風俗に我が国民性を見出そうとしている。そ
れは君臣(主従)関係、父子関係、夫婦関係というような対人的意識に偏った在来の
――封建時代の必要から発生した――道徳に、我が国民性を釘付けにしようとするも
のである。
我が国民性が、社会的性質に欠けるところがあり、ひたすら対人的性質に偏し、道徳
も感情も、個人の相対関係においてはかなり発達しながら、より公共的、社会的な発
達が欠如しているのは、武士階級の割拠的生活の影響を受けたものに相違ない。そう
いう時代の環境が、我が国民の性情に及ぼした変態的影響は、今日出来るだけ矯正
されなければならない。そうして今日の社会状態は、確かにその矯正に向いつつある。
我が国民性が本来個人的であって、社会的ではない――我が国民はそういう矯正さ
れ難い本質を持つ――ということを私は信じない。前にもいったとおり、私は国民性と
いうものに絶対不変のあるものを認めない。いわゆる淳風美俗論者の骨化道徳の尊重
は、一時的な歴史の影響を過信しているのである。
私は国民性について、また我が国民性について、単に消極的批判を試みただけで
筆をおかなければならなくなった。それは一つには私がまだ我が日本国民の特性に
ついて、積極的に特別な研究をしていないことにもよるが、また一つには、私は国民性
というものを特に意識して、それを規範化する必要を、生活の実践的意義において発
見しないと同時に、元来国民性というものが、そんな風に意識されるものであるか否か
について疑問を抱いているからである。がそれは決して、ある国民の過去または現在
の生活意識を思想的に、また感情的に研究し諒解することを無意義であるというので
はない。それは文明史的知識の要求に必然のことであり、かつ我々の生活意識そのも
のの構成において、内容を形作るものであるに相違ない。しかしそれが、いわゆる国
民性の特異として、恒久的に国民生活にコビリ付いていなければならないという理窟
はない。ニグロの顔の色が永久に真黒でなければならないという理窟のないのと同じ
ではあるまいかと思うのである。
上代日本人より現代日本人へ――日本国民性の社会学的考
察――
第一
佐野 学
上代日本を崇拝することの危険
上代日本人の生活意識のなかから現代日本人の社会生活の統一原理を抽出しよう
とする人々は、いまも我が日本に少くない。それは筧博士のように純粋な哲学思想の
形で現われる場合もあり、上杉博士のように「教会の奴僕」であった中世ヨーロッパの
神学のような形で現われる場合もあり、あの一派の政治家や軍人のように職業的環境
の所産として現われるものもある。これらの人々は最古の古典である古事記や日本書
紀から日本国民性なるものを一つの永遠不動な実在として引き出そうとするのである
が、それは非常に危険な企てである。
古事記や日本書紀は神話と英雄伝説と民間説話との集積であり、上代人の心理的
生活を表現した芸術的作品である。それは処々に上代の社会生活を反映するが、正
確な歴史的事実の記載は僅かである。この二書に表現された上代日本人は「自然児」
の面影が濃い。そこには素朴で純真な情意生活の叙述がある。神秘を恐れる原始的
な感情、太陽や樹木や動物を崇拝するアミニズム、優しい恋の説話、壮快な遠征譚、
帝位簒奪(さんだつ)の陰謀、復讐の物語、反乱の話、歓楽を追う帝王の血のような生
活などが描かれている。これらの物語には、道徳的規範を求めるにはあまりにも奔放
な感情生活がある。これらの物語から愛国的原理を抽出しようと企てるのは、愛国的原
理が善悪の批判により濾過された道徳的要素に立つと称する限り、とうてい危険なも
のとならざるを得ない。また筧博士のような人を除き、一種の成心をもって上代日本の
崇拝を高調する人々は、後述の封建時代に発達し忠義観念に影響された心理状態
に立っており、真に上代日本を理解しているものではない。
しかし客観的態度を必要とする他の学問においては、社会学的対象として上代日本
人を研究することは、現代日本人を理解するうえで非常に重要である。日本民族が日
本国家の政治組織を作って以来、すでに十数世紀を経過した――日本国家の成立
は、早くとも西暦四世紀ころである。通説のようにこれを二千何百年の大昔と見るのは、
伝説に捕らわれたものである――がこの十数世紀間の複雑な社会的環境も、日本人
が石器時代、群の時代、種族組織の時代、つまり歴史以前の時代に陶冶した性格を、
根本から変革することは出来なかった。歴史時代以後の日本人の性格は、歴史時代
以前の日本人の性格と同質であり、その連続であり、展開である。上代はまさにその頂
点である。すべて事物の本質は、発生の当初に原始的ながら露骨に現われている。こ
れは日本国民性の研究の上にも適用しなければならない。我々はいわゆる国民性論
者と違った意味で、現代日本人の諸性格の原型を上代日本に発見する。我々は上代
以後の十数世紀間の日本社会の発達をとうてい賛美できないが、上代日本より回想し
てくると、日本人の諸性格が決して後代のように暗鬱ではなかったことがわかる。私は
このような理由から、歴史的研究が未熟であるにもかかわらず、日本国民性の展開に
関する小論を試みる。
なお、普通に国民性と呼ばれているものは、極めて曖昧であり、科学的な概念では
ない。よってまず国民性というものの本質を調べる必要がある。
第二
国民性の諸定則
国民性という観念は非常に漠然とした瞬昧なものである。それはいわゆる国民性論
者が説くように不動で統一的なものでない。そのなかには実在的なもの、過程的なも
の、擬制的なものが多量に含まれ、愛国心というような政治的観念や家族制度の偏愛
というような社会的観念や、自然の愛好というような民族心理的な観念などが雑然と抱
合されている。
一概に国民性と言われるものは複合観念である。それは少くとも二個の方面に分け
て考える必要がある。第一の方面を仮に「国民」的心理と名付け、第二の方面を「民族」
的心理と名付ける。二者は国民および民族の観念が異るように異る。「国民」的心理は
国家という政治組織のなかに醗酵した集団心理的現象であり、「民族的心理は民族が
国家以前より、つまり有史以前より養い来って、ほとんど内在的となった性格の種々な
展開または変化の現象である。前者は政治的であり、後者は社会的である。この二者
は自然にまたは不自然に合一されて、国民性というヤヌスの首の両面をなす。
国民性をこのように観念すると、これに関して行われる社会的定則を次の三個に概
括することが出来る。
(一)国家組織の成長に連れて「民族」的心理は「国民」的心理に圧倒される。前者
は自然のもの、自律的なものであるにもかかわらず、やや人為的に作られる後者によ
って指導される。「国民」的心理はその構成上、支配者階級から重大な影響を受ける。
支配者の俗世的権力は経済的搾取の物的方面ばかりでなく、被支配者階級の心理
的方面にも向う。支配者が被支配者に同一の習俗、同一の祖神、同一の理想を強い、
自己の階級的敵手を共同の敵と信じさせることは、あらゆる原始的征服国家における
普遍的現象である。被支配者は不自然ながら自己の志向を支配者の志向に合わせる。
こうして「国民」的心理が出来あがる。「民族」的心理はここから強く放射される。こうして
国民性なるものが生まれる。これが国民性の発生に関する第一の定則である。
(二)国民性は時代により変動する。支配者階級の盛衰がその境界線である。支配
者が交替すれば、その志向にも変動を生じ、その影響は国民性の内容にも及ぶ。これ
が国民性の変化に関する第二の定則である。このことは国民性というものが擬制的な
もので、自律的実在的なものでない証拠でもある。
(三)近代において国民性は崩壊しつつある。これには二つの方面がある。第一は政
治的な「国民」的心理が弱まり、社会的な「民族」的心理が強まりつつあることである。
民族という単位が個別に独自の特質を有することは言うまでもない。また各種の民族
がその特質を発揮して世界の文化に貢献しあうことはもっとも望ましい。この状態を実
現するには国民性の内部において政治的部分が消失し、社会的部分が発達しなけれ
ばならない。近代の世界史はこの傾向がますます深まり行くことを暗示している。第二
は在来の国民性を律しつつあった支配者階級に対抗し、被支配者階級が集団的に
決起し、その階級意識を鮮明にしつつあることだ。階級意識は根本的な実在であり、こ
れが鮮明になるにつれて国民性の擬制的側面が暴露されてくる。この崩壊過程が国
民性の進化に関する第三の定則である。
国民性については、上記のように三つの社会定則が行われる。この点で日本の国民
性も他の諸国と何の差異もない。私の小論文は主として我が国民性の発生的方面を
考察し、変化および進化の両方面については簡単に触れるにとどめる。
第三
上代日木人の諸性格
上代は日本国民性の発生時代である。ここで上代日本というのは西暦一世紀前後よ
り七、八世紀頃までを指す。それは九州における日本民性の部族(トライブ)の生活に
始まり、近畿における原始征服国家の創設を経て、奈良朝の完全な神権的族長政治
の発達に至る期間である。日本民族はこの時代に始めて社会生活の秩序を学ぶととも
に、その展開に努力した。原始時代に養われた諸性格は、上代の初期に蛮人特有の
旺盛な活力で発揮され、時とともに活発な若々しい諸相が社会生活の上に編み出さ
れた。「国民」的心理が強く醗酵してきたが、同時に「民族」的心理も鮮明に発揮され
たことが見える。
旧来の伝統的歴史観を離れて自然科学的に上代日本社会の発達過程を考察する
と、部族組織、原始征服国家、族長制神権国家の三過程を経過したと思われる。記紀
の二書は八世紀に作られたのであるから、一世紀前後よりの正確な歴史的記録はここ
からは発見できない。これに反して当時すでに高級な文明を展開していた支那の文
献は極めで明らかに九州の我が上代の部族生活を描いている(注)。最近の古代人
骨の研究によれば、日本人は石器時代よりこの国土に住んでいた証跡が明らかである。
いわゆる東征は、九州の優勢な勢力団体が四世紀前後になんらかの理由により近畿
地方に移動し、弱小の部族を併合し、原始征服国家を作り上げたことであろう。そして
この時代の社会結合の根本形式であった氏族の団結は、ただちに族長政治の基礎と
なり、社会階級の確立や祖先神の崇拝などを伴い、最大の氏族であった皇室を主権
者とする神権制国家にまで発展したのである。
(註) 上代初期の日本は支那に対してあたかもローマの外蛮のような位置を占め
ていた。この時代の日本人を記録する支那の文献は、古代ゲルマンを記録するシ
ーザーのガリア戦記、タキトスのゲルマニアほどの価値はないにせよ、古代スラブ族
を記録するビザンチンの史家やアラビアの旅行家の文献ほどの価値は十分ある。
九州の部族生活を記録する魏志の「倭人伝」は有名である。これによると、当時の日
本人は三十有余の部族に分かれ、古くから古朝鮮の楽浪、帯方地方と通交し、遥
か魏の首府洛陽に朝貢し、三世紀の中ごろ(魏の正始八年、247 年)には邪馬台
(やまと、今の筑後山門郡)の女王卑弥呼(卑弥呼)が隣国の狗奴国との係争事件
の決済のために魏の使節を迎えたこともある。さらに宋書の「倭国伝」によると、五世
紀末(昇明二年、478 年)に雄略天皇が倭国王武の名で上表を捧げた記事がある。
本国では勇猛な君主として知られた雄略帝も、支那に対してはとても謙譲であった。
この態度は遥か後代の足利期まで続いたと見られないこともない。
およそ民族または国民の性格を鋳る溶鉱炉は、自然環境および社会環境である。原
始人はまったく自然環境によって鋳られる。しかし彼らの間に社会生活の秩序が立ち
始めると同時に、社会環境が自然環境に代わって影響し始める。したがって最初に現
われる社会環境は、前代の自然環境の影響の原型である。我が上代の社会環境はど
うかといえば、社会組織が部族より征服国家の創設を経て神権国家に進化したことは
上述のとおりであるが、そのほかに四個の注意する点がある。
第一は生産制度が純粋に農業を基本としていたことである。土地はすでに当時より
最重要の財産であった。社会学上、人類の生産制度が狩猟、牧畜、農業の順で発展
すると説いた仮説は、すでに旧説となり、最初から狩猟民、牧畜民、農業民の区別が
あったし、その区別にしたがって性格を異にしたと説かれている。我が上代人が農業
民であったことは、日本人の性格を決めるうえで重要な動機となった。
第二は上代人の性的結合関係である。当時はすでに母権時代は過ぎ去っていた
が、上代の初期には母権社会の痕跡が残っていた。記紀が記載する神々にも土蜘蛛
にも、また各氏の遠祖の名にも女子の名が多く現れる。しかしすでに一夫多妻の風習
が確立されていた。それが上代の末期には純然とした大家族制度に発展する。
第三は社会階級の分化が確実になったことである。国家成立に際しいわゆる「国譲
り」のような妥協的な方法も用いられたが、その基本は征服関係にあるから、征服者
(皇別、神別)と被征服者との差別は当然に生ずる。
第四は異民族との接触が後代に見られないほど活発に行われたことである。黄河の
流域に発祥した古代支那文明は韓土を通じて流入し、上代日本文化の発達に多大な
影響を及ぼした。
以上のような社会生活に中に表現される上代人の性格はどんなものか。国民性が政
治的な国民心理と社会的な民族心理の二つからなることはすでに述べたが、両者は
上代日本国民の中に鮮明に現われている。
まず「民族」的心理の方面から見る。
第一に上代人が豊富な現実的気分の所有者であったことに眼がつく。これは日本の
自然環境の所産である。社会学上、野蛮人の食物探究の困難が絶大であることが説
かれているが、気候が暖かく士地の肥沃な我が国土は、適度の労働を加えれば容易
に食料を得ることが出来た上に、内には闘争相手となる異種族もなかったから、自然
に太陽の輝きの美しいこの「生の国」「現(うま)し世」を讃嘆する現実的気分に満たさ
れた。同時に重厚な意思的生活や幻想的な空想力は発達の余地がなかった。氷雪と
奮闘する執拗な意思的表現や大河と平原と沙漠から生れる幻想は我が上代人に求め
る由もない。
第二に闘争の欲望が希薄であったことが眼立つ。我が上代には、城郭はほとんど発
達を遂げていない。神武の東征も比較的に大戦争もなく、「国ゆずり」などの妥協的手
段により成就された。これは激烈な民族競争のなかったことと、生産組織が農業を基
礎としていたことに原因する。農業は人を平和にする。農民は彼らが栽培する植物の
ように平和で、狩猟民の兇暴性を持たず、牧畜民の組織的な遠征的行動を学びえな
い。
第三は民族的偏見の少なかったことである。上代に帰化人がいかに気持よくこの国
土に待遇されたかは人の知るとおりである。野蛮人は異国人をすべて敵視する傾向と
ともに、異国人を何となく懐かしみ好遇する傾向がある。我が上代には後者の傾向が
強く現れている。大陸の闘争に敗れた者が集団的にこの国土に帰化して生を安らか
にした。日本には、支那が自ら中華と傲(おご)る心理や、欧米人が異人種を侮辱する
心理があまりない。アラビヤ夜話には、あらゆる人種がバグダッドの市に平和的交通を
する記事があるが、上代日本にもこの種の気分が少なからずあった。
第四に上代人が快活な感情を持っていたことを挙げねばならない。古事記には純真
な恋の物語が限りなく現われている。そこには思弁の所産である善神悪神の対照がな
い。いずれの野蛮人にも見るように魔法を畏れる感情が豊かで、魏志倭人伝にも女王
卑弥呼が「鬼道」を行った記事が見えている。他方には快活な舞踊を楽しみ、恋に身
を捨て、「宝の国」の韓土への航海に憧れる快活な気分がある。そこには封建期の暗
欝な気分もなく、知識の重荷に悩む近代人の襖悩もなく、自然人特有の朗らかな感情
が満ちている。この快活な感情が道徳的に陶冶されると、正義観念となって発露する。
後代の陰鬱な封建政治のなかに、日本人が絶えず糸のように輝かせたものは、この快
活で本能的な暗い卑屈を忌む感情より出た正義観念にほかならない。
次に国民性の他の一面である「国民」的心理はどのようなものであつたか。それは著
しく政治的であった。
第一に階級主義的気分の濃厚さが眼立つ。征服国家の特徴として、社会は上層群
と下層群とに決定的な差別が生ずる。国民は氏(うじ)や姓(かばね)を持つ者と、氏の
みを持つ部民と、氏も姓も持たない奴婢とに分れた。姓には高姓、下姓の別が生じて
高いものほど社会上の勢力を保有した。後には自己の祖先を貴く見せるために神々
の名前を濫用し、これを整理するために盟神探湯(くがたち)の方法まで探用された。
日本人の卑屈な形式主義が早くも現われた。こうして貴族と一般民衆とは心理的にま
ったく隔絶し、別々の発展に向ったのである。
第二は自由思想の発達が阻まれていることである。厳格で組織的な階級制度は上
代人の快活な気分を曇らせたが、上代人の意思的でない現実主義は、それに反発す
る奮闘心を欠き、決死的に自由を欲求する欲望を起さなかった。日本に専制政治は
発達しても自治制度が発達しなかった原因はこれである。古代のゲルマン族やスラヴ
族が共和的な自由社会を作っていたのと比べれば、本質的な差異である。しかしこれ
には人を隷属的にする農業の影響もあったであろう。
第三は模倣的なことである。日本人がまだ部族生活を脱していななかった頃、すで
に支那には高級な政治、経済、芸術、道徳思想が展開していた。この高級な文明は
我が上代人には驚異であり、崇拝の対象であって、支那や韓土は「金銀の」「宝の国」
と思われた。上代日本の文化は模倣より始めざるを得なかった。すでに我が自然環境
が文明を生む要件を有しなかった上に、上代人もまた思弁を好む民ではなかったから、
模倣が創造を押え、これが日本文化の歴史的運命となった。ただし模倣に熱中したの
が貴族階級であったことは注意する価値がある。
第四は形式的な知識主義である。大陸に発生した文化は、ただちにこの国土と適合
するものではない。上代に盛んに探り入れられた支那文化、さらに印度に生れた仏教
は、我が上代人の現実生活とピッタリと合うものでなかった。聖徳太子の十七条憲法も
大化の改新も大宝令も支那の模倣である。それは果して上代日本人の現実主義と遊
離しないものであったかどうか? 一種の形式的な主義が社会の上層を支配した。そ
れは突然として高級な文化に接したものが担う悲劇的運命であった。純真で自然な日
本文化の展開はまったく閉ざされてしまった。
上代日本人の性格はほぼ上述のとおりであった。それは明らかに彼らが低劣な種族
でなかったことを示す。しかし上代以後、消極的な封鎖国的政治組織が完成するにつ
れ、国民性も消極化し、低調となり、社会的な「民族」心理が弱くなり、政治的な「国民」
心理が深刻になっていった。
第四
上代以後の日本人
上代末期の奈良時代から近代資本主義の時代を迎えた明治維新までの間には、十
二、三世紀の長い年代が流れた。この期間の国民性は、支配者の盛衰によって種々
の変化をした。そしてこんなに長い期間に、民族的光栄に輝く事実が非常に少なかっ
たことは、悲観に値する。
日本人はこの期間内部闘争に終始した。狭い国土には、極めて窮屈な型の小さい
政治組織が幾度かつくられたり壊されたりした。日本人の性格は、「国民」的心理が
「民族」的心理を圧倒するにつけ、消極的なものにならざるをえなかった。文明史的に
言えば、ナイル河の沃野、メソポタミアの平原、黄河の大流域のような恵まれた地理的
条件を持たない日本は、とうてい独特の文明体系を創造出来なかった。日本は支那
大陸に発達した文明体系を継承し、発展させなければならなかった。しかも支那本土
の固有の文明は、唐の末より衰退をはじめ、いつしか上代のような日本からの活発な
航海事業も途絶えてきた。日本は王朝時代の末より、異民族からの新鮮な刺激を受け
ることのない封鎖国となってしまった。
この期間に支配層は三度の交替をした。それは王朝時代の貴族、鎌倉期から徳川
期までの武人、徳川中期から勃興したブルジョワジーの順序であった。それはいずれ
も国民性の内容に影響している。奈良朝に絶頂に達した神権的族長政治はいつしか
形式化し、藤原氏系統の貴族群が実質上の支配者となり、中央集権の把握者となっ
た。原始国家に発達した中央集権制度が地方の豪族により破壊され、その後に封建
政治を実現するのは世界史の約束である。藤原貴族政治の衰退後に武人の新支配
者階級が進出した。日本の寸地も、武人の占有しないところは皆無となった。異民族と
の接触が全く絶たれた。日本は純粋な農業的封鎖国となった。武士道が興る。女子の
地位は貞永式目頃まではまだ良かったが、後代になるほど隷属的道徳を強いられた。
回避的な、隠遁的な趣味が跋扈(ばっこ)した。足利の末期には閃光的に古い活力の
記憶が呼び戻されたが、それも花火のように消えた。下剋上の運動が勃発し、土一揆
などの直接行動が頻繁に起ったが、それは建設的理想を欠いた消極的なものであっ
た。織豊二氏に至って海内の統一が実現され、新しい武人の階級専制が始まった。し
かし徳川氏になって、長い間の支配者階級であった武人も遂に衰退に至り、新しい支
配者として、町人つまりブルジョワジーが勃興した。それは足利末期より発達した都市
文明と貨幣経済の発展に伴うもので、政治的権利がなくても財力を持つ町人階級が、
隠然として大小名を威圧した。徳川時代は、武人がブルジョワジーに支配権を譲る準
備時代であった。
以上の期間に起きた国民性の変動は簡単に述べることが出来ない。しかしこの期間
に日本人の諸性格が著しく消極化したことは間違いない。この期間の根本的特徴は、
忠義観念が著しく発達したことである。忠義観念はいずれの国の封建時代においても、
経済的依存関係のある主従の間には必然的に発生する実践的規範である。だが我が
国のように根強い発達を遂げた例は稀である。これは自主的とはいえない道徳であり、
一歩堕落すれば純然とした奴隷道徳に陥る危険がある。武士道に現われた種々の愛
他的物語には、善悪の批判を超越した美しい緊張した情意生活があった。それは光
を好む上代日本人の快活な感情が連続したものであった。しかしこの武士道も、その
支持者であった武士階級の衰退によって形骸化し、徳川末期には単にその隷属的な
面のみが強制された。堕落した武士道を道徳的規範とする社会は実に哀れなもので
あった。明治以後の日本人がなおかつ文化文政期の頽廃腐朽した隷属気分を脱し得
ないのは、当時の社会が律した堕落した武士道の間接的効果である。
忠義観念の発達は他方に自由思想の醗酵を妨げた。我が国には自由主義の哲学
が系統的に編まれた歴史は発見できない。自由のためにする民衆の積極的革命運動
は日本歴史に一頁もない。足利末期の徳政一揆や土一揆は消極的な暴動に過ぎな
い。農民一揆も盲目的な爆発で、組織化された運動は見出せない。キリシタンへの憧
れも、ローマへの使節も、銭屋五兵衛の遠征的商業も夢のように消えざるを得なかっ
た。佐倉宗五郎の犠牲精神も大塩中斎の憤激も果して何物に酬いられたか?
この期間の社会史はやはり支配者を中心とする歴史であった。労働する階級は政治
する階級の搾取に苦しんだ。農業を本位とした封鎖国日本の社会は、同時に農奴経
済の上に立つものであった。我が国の農民が階級的に発達したのは荘園時代以後で
あるが、彼らはいわゆる庄民時代から徳川期の農民に至るまで、まったく農奴としての
社会的地位におかれていたと見ることができる。実にこの労働群は、上層群と心意的
に何らの交通なく、明治の維新に至ったのである。
第五
近代の資本主義社会と国民性の進化過程
日本は明治維新以後、再び活発な世界的交通の舞台に出る。資本主義時代が展
開をはじめた。ヨーロッパの資本主義は中小工業の没落の後に発達してきたが、日本
はただちに前代の大町人の手により、新社会祖織への道を切開いた。これは日本の
資本主義の発展上の根本特徴である。しかし同時に前代の因襲も根強く残り、家長的
資本主義とでも名付けるような方式が極めて眼立つ。これが我が国資本主義の発展
上の特徴である。社会の実質的支配者階級は資本家となったが、他方では前代の支
配者の遺物である貴族階級は何れの国にも比類できないほど優遇されており、その結
果として封建的気分と資本主義的気分の混淆する一種異様な社会心理を現出してい
る。
明治維新以後の我が国民性はどうか。資本主義は人間を物質化する。新興の町人
階級は新たな支配者となった。新しい隷属気分が植えられる。卑屈、功利、俗悪という
喜べない性格が生れて来た。しかしこれに反発する哲学も情熱も運動も同時に力強く
発生した。現代はあたかも私のいわゆる国民性の崩壊期に当るのではなかろうか。そ
れは少しも民族的特質の消滅を意味するものではない。否、民族的特質が優良な条
件を得て、ますます発揮される時期である。ここにいう国民性の崩壊とは、社会的な
「民族」的心理が政治的な「国民」的心理を圧倒することを意味する。少くとも二者が分
化することを意味する。この時、複合的な漠然とした観念であった国民性は、当然崩
壊の段階に達する。
明治以後の文化は模倣の上に立つ。しかし模倣と同時に創造的活動が割合に活発
であることにも注意しなければならない。ここが上代の日本の支那模倣と著しく異なると
ころである。後進国が先進国を崇拝することは一種の社会法則で、少しも卑劣なことで
はない。ローマ人のギリシャ崇拝、ドイツ人のフランス崇拝、アメリカ人のヨーロッパ崇
拝はその例である。要は模倣者がどのような創造的活動を生むかという能力にかかる。
「日本は東西の文明を融合する絶好の地位にある」とは、しばしば語られているが、地
理的位地はエジプト、インド、支那よりも優れてはいない。要は日本人が果して壮大な
使命に堪えるかどうかである。明治時代の文化の根本的特徴は軍事的、政治的なこと
にあった。しかし大正以後には明らかに新しい、社会的な文化精神が眼醒めつつある
ように思われる。非常に遅々としているが、社会的な「民族」的心理が強まり、政治的な
「国民」的心理が弱まって行くのが、日本国民性の将来の運命でなければならない。
こうした気運を醸成する動機が下層労働群の階級的自覚にあることは疑いない。従
来国民性はほとんど支配者階級の意欲に律せられて来た。しかし資本主義社会の必
然的現象としてプロレタリヤの階級意識と集団的行動が鮮明となり、支配者階級に対
する戦いが宣言された。下層労働群が社会の表面に現われたことは古来よりいまだな
かったことである。彼らには野蛮な、貴い、まだ磨滅されていない活力が残っている。
真の民族的特質は彼らの間によく残されている。そして彼らの階級意識は必然に社会
的であるから、これを契機に、いわゆる国民性が徐々に政治的部分を弱めていくこと
は十分想像できる。
政治的部分が弱まると同時に社会的部分が強まり、民族的特質が完全に発揮される
ようになる。これが国民性の進化過程である。この現象は資本主義時代のあらゆる文
明国に見ることが出来る。日本だけがこの範疇外に立つとは想像できない。そして上
代以来、絶えざる糸のように連続し、我が日本民族の心性の奥深く巣食うところの、善
悪の批判を絶する快活な感情、現(うま)し世を賛美する情熱、異国人を好遇する感情、
封建的に陶冶された正義観などが、将来の新しい民族文明を展開する基礎となること
を私は固く信じたい。
国民性の摸索とその将来
新居
格
一
国民性とは何かといえば、分っているような気はする。けれどもそれを具体的に明快
かつ完全に言い表わすのは難かしい。人間はそれぞれに異なった気質と個性とを持
っている。そうした個性の集大成が国民性となっている以上、それを的確には言えな
いように思う。しかしその歴史、伝統、国民生活、その他から一味通ずる類同性がある
ことは否定できない。全体として日本人が持つ色調は、ロシア、ドイツ、フランス、英米
の色調とは異ることは無論指摘できる。そこにその国独自の国民性があると言えるので
あろう。帰するところ、国民性とはボンヤリとはしているが、しかし疑うことのできない色
彩であり、実在である。
国民主義という言葉がある。国民主義は国民性を積極的に開陳し表現しようとする
志向であるにしても、国民性そのものではない。国民性は実質であり賦性であるからだ。
イギリスを常識国というが、イギリス人はそれだけ実際的な性格を帯びているからだろ
う。空想や感情によって動かされることがより少なく、実利によって導かれることがより多
いからであろう。ドイツ人は科学的であると言われ、したがって微をうがち、細に徹する
性格が共通するといわれる。女中が風呂加減を聞かれた場合、摂氏何度と正確に答
えるという実例などがよく示される。ロシアの人間は瞑想的、哲学的だと聞く。その国の
労働者たちは河岸の丸太に腰かけて、黒パンをかじりながらゴーリキーの「どん底」に
あるセリフのような言葉を話しあうのだと、教えられている。日本人はフランス人に似て
いるとか、イタリア人に似ているとかいう比較も、よく聞くことである。
とにかく国民性については、大雑把に何事かが言えるようである。では、日本の国民
性とは一体どのようなものであるか。それについては史的事実、伝統、信仰、あるいは
趣味嗜好その他いろいろな方面から、いろいろにいえるであろうが、私は自然の環境
と国民性との関係を何よりもまず強く思うのである。
二
日本の風土、口本の花暦、梅のちらほら咲く軽暖の頃おいから、野には菜の花、軒
端の緋桃、堤に桜の絵のような春昼の長閑(のど)やかな陽炎のゆらめき、おぼろに白
い月の影、春雨は細く静かに花びらを濡らし、日本の花だといわれている桜のあっさり
した淡紅色と静心なく軽く散る日本らしいスィート・ソロー。こうしたことを思い走らせて
行くと際限のないことだが、若葉、夏過ぎて秋の七草、野分と時雨の後の枯野、昔は
枯野見さえ趣味的に取扱われていた位だから、その寂しみにはなつかしい味はあって
も恐ろしい冬の脅威は感じない。薄氷、霜柱、雪もことごとく親しまれる。一年の間に風
も雨も太陽の輝きも、いや一切の自然現象のいずれもが友でこそあれ、仇敵ではない。
これが日本の風土である。日本にとって自然は人間といつも親和する。風雪のために
二重のガラス窓をこさえる必要はない。紙の障子で沢山である。障子に映る日影の気
持のいい明るさは日本人にはなつかしい。日本の建築は「紙の家」だといわれるが、そ
れで事が足りるだけ日本人は自然と調子を合せて生活が出来る訳である。
取分け琉璃色の秋晴れの空を見よ。
すべてが快い明るさである。去年の秋のこと、丸善の学鐙を何気なくめくっていると、
ふとバジール・スチュアートの“Japanese Colour₋print”という本の広告が目に入った。
その本の表紙か、あるいは本の中の絵の一部なのか、「広重画く」といった風のものが
あった。私はその絵がどんなに日本的であったかをいまだに記憶している。絵は次の
ようであった。
そこには丸窓があって半ば開かれている。窓の外には白梅らしい枝と花とが見えて
いる。開かれた丸窓を通して緩やかに流れる河と、そして松林と堤とが眺められ、川の
遠くの方には白帆が浮び、近くには筏と漕いで行く船とがあった。それは明るいなごや
かな情景である。そうした情景のうちに、それに応じた生活様式と感情、それに国民性
を生む何かしらの象徴がありはしないかと思わせた。
それはビヨルンソンやイプセンの作品の背景になる黒い陰影と冷たい霧の自然では
ない。ロシアの小説にあるあの残酷ともいえる景色――広漠とした野原や森――では
ない。といって色彩のあくまで強烈な――熱帯的な猛獣と毒虫の多い代りに濃緑の木
の葉と深紅の花が焼きつくように燃える――のでも無論ない。
このように柔らかな自然はどんな国民性を打ち出すのか、想像が結論を出すであろう。
三
二、三年前、ある外国雑誌に北ロシアと南ロシアとの比較が書いてあった。そこには
両地の環境とそれから来る生活の差異、民情の相違が書いてあった。豊沃な緑の野と
温和な気候の南ロシアでは自然を楽しみ花を植えて家の周囲に色彩を点ずるが、北
ロシアでは人々は寒い嵐と重苦しい積雪とで自然の索漠を感ずるから、家を花で囲む
心のゆとりは持てない。
日本人の自然親和は南ロシア人とは比較にならないほど濃密である。どんな家のど
んな狭い一坪の庭でも花樹はある。便所ですら赤い実の南天や葉蘭や雲の下くらい
はあって、趣きを示している。この国の音楽に旋律はあっても力はないと云われようが、
絵画が綺麗過ぎて明るかろうが、文学に深刻味が乏しかろうが、それは弱点であるか
も知れないが、むしろそこに不自然がより少ないのではないかと思える。
ドストエフスキーの作のように深刻に、トルストイのように暗い力に、と祈ったところで、
白い春雨が音もなく来て緋桃を濡らす国柄では、嵐と雪と荒野とが生んだ文芸のよう
には行かない。日本は絵に例えると、油絵よりも水彩画であり、水彩画よりも矢張り光と
画仙紙の絵なのであろう。静かな海のなかに淡い霞のほんのりした蓬莱の島という夢
想郷は、支那の徐福でなくても日本を当てはめてもよいであろう。
さて、このような国の国民性は果たしてどういう工合になるのか。
淡泊、したがって執拗や執着に好感が持てないであろう。一気呵成の快挙は出来て
も、油汗を滲ませる穏忍と根気をとかく欠く。朗らかな快活はあるが、移り気も(学問思
想の新奇追及にもその一例がある)ある。笑いの浪費がある。西洋人が、日本人は意
味を解しかねるほど笑いを好むといぶかる。明るい陽性の持ち主であるから、威勢の
いいことを愛する。
活動も好まないではないが、より多く静止を愛し、また逃避にも興味を示す。科学的
であるより詩的に傾き、理屈よりも情緒を好む。このような例を示すとすれば際限がな
いだろう。国土の秀麗、気候の温和は、一きわ優れた郷土愛を生み、史的発展のユニ
ークさと相まって、愛国主義の温床となりやすい。しかし島国という地形的理由から来
る妙にこじれた弊害もある。
四
いったい日本という国がその昔どんな国であったかという科学的説明は遺憾ながら
私には出来ない。古事記の伝説にあるように、神剣のしずくがオノコロ島になつたこと
は、神話の世界以外には通用しない。神代以後について考えるにしても、日本人種は
何であるか、蒙古人種かマレー人種か、天孫人種とは何であり、コロボックルとは何、
アイヌの優勢時代とはどうであつたかは、わたしには無論わからない。イギリスのさる学
者(確かウエブと記憶する)が日本へ来て日本人種の多いことを見て、まるでイギリスの
ようだと言った。その理由は日本とイギリスがともに島国だからで、島国では海流の加
減で漂着した人間はそこへ入るなり出られないからという。そう言われて見ると日本は
南の海上には黒潮が流れており、北から東の一角を走る寒流がある。
科学的精密さにより検索すると、日本の人種は――今では混然としているが――元
をただせばもっと多かったのかもしれない。幾多の人種の混合は民族の優越性を高め
るとは学者の定説であるが、日本人に優越性があるとすれば、そうした議論と関係があ
るのであろう。
ある人種またはある国民の優越如何は一つの命題になる。例えばユダヤ人のビーコ
ンズフィールドが、ユダヤ人は人類の尊貴であるとジョージ・ベンティング伝の中で強
調したのに対し、ユダヤ人は救い難い劣性で恪印されているというホウストン・チェンバ
レンのような者もいる。チェンバレンによれば、ユダヤ人はとりわけ道徳の面ではアーリ
ア人種に及ばないとし、「十九世紀基根論」の中でゴヒノオの「人種平等説」の誤りを指
摘している。こうした見方、つまりある人種ないし国民が優性を持つか劣勢を持つかと
いう問題は、検討に値する。
五
日本国民性の優越性とは何であるか、さらに根本に遡って優越性があるかどうかを
研究してみたい。そう思うと日本の国民性がより多く模倣性で、より少なく創造的である
と言われている言葉が気にかかる。日本人はインド人、アラビア人、ユダヤ人のように
世界的宗教を創造していない。過去ならびに現在の日本に本当の意味の哲年と哲学
者があったかどうかも心細い疑問である。
万葉の歌調は雄渾であり壮大な主観と自然描写があることは誰もが知っている。また
歌という詩形と後世における俳句という小詩形とが日本特有なものであることも断定で
きる。けれども文明において世界的最高位を要求できるものを、過去の歴史的道徳を
通じて創造し得ただろうか。
受容れることの巧みさは必ずしも作り出すことの巧みさではない。仏教と支那朝鮮の
文物制度を受容れ、孔孟の教を道徳的に受容れ、近世に至って欧米の一切の精神
科学と自然科学、政治と軍制の態様、生活様式すら摂取したが、かって「与える者」の
地位に誰が、何時、何事において立ったか。最近代には医学、理学など広くいって科
学的方面にある程度まで「与える者」として寄与しているが、それらも果して日本国民
性そのものによる純粋独創であるかどうか。徳川期の絵画、特に浮世絵がヨーロッパ、
なかでもフランスのある派の絵画に影響を与えたことは気持が良いが、日本の絵画も
元をいえば、支那、朝鮮などの帰化人の手になった仏像に発端し、その後も宋元の美
術を受容れたのである。音楽もインド、支那、朝鮮などの音楽を、宮廷の儀式とともに
受容れたものだ。日本は古い国ではあるが、美術や音楽に日本的色調を持つことが
少ないのである。それがさらにヨーロッパ文化と接触するにあたり、またもより多く模倣
的であり、よい少なく独創的になっている。
受容れることが必ずしも悪いことではない。受容れるだけ良いともいえる。イギリスの
ウイスキーもフランスのアブサンもロシアのウォツカも酒とともに我われは飲んで良いこ
とであり、何も緑茶の澄んだ鶯色とほのかな香りだけが我われの制限された嗜好では
ない。近代生活の態様は色も香も音も互いに交響することにある。万物照応が近代人
の管弦楽であるのは事実だ。
ただ過去において日本の国民性は断じて「与える者」の役目を引受けなかっただけ
の話である。そして過去の国民性は日本特有の自然と受容れたさまざまの外来文化と
の結婚で生れたものだと言いたいのである。もっとも中には、日本の国民性と日本神
代の物語とそれが生んだ古神道から回答を求める人もある。それもあながち間違って
はいないが、すべての理由となるかどうかは考える余地がある。
六
日本の国民性を精細な典拠や史実に即してあげつらうことは、概論担当者である私
のできることではなく、またその任務でもない。だから概論者として、このようなおおそ
れた鳥瞰図を現実の日本についてあえて試みる。そこに顕現しつつある国民性を指
摘し、同時に少しばかりその中身を検討してみたい。
国民性は伝統として、昔話や年中行事やいろいろな衣食住の習慣、趣味の上に面
影を見せている。とりわけ江戸趣味は、日本の国民性が都会的表現を取って繊細巧
妙な形をとって現われた。桃太郎でも花咲爺の話でも、正月、初午、雛祭り、七夕、特
に歌沢の文句にある「金時が、金時が、熊を踏まえてまさかり持って、富士や裾野の松
林、義経、弁慶、渡辺の綱、唐の大将あやまらせ、神功皇后、武内の臣、いくさ人形、
よしあしちまき、菖蒲刀や、あやめ草」というのが良く言い表している端午の節句など、
日本の国民性の匂いがみなぎっている。衣食住の趣味についても、春は春で、夏は
夏で、四季のそれぞれが日本人特有の共通した国民性の色がある。一例を夏に取れ
ば、垣根の朝顔。吊燈籠と風鈴、水色の岐阜提灯。青い蚊帳(かや)と垂簾(すだれ)、
絵団扇(うちわ)、花模様の中形の浴衣(ゆかた)、洗い鯉、その他・・・がある。列記した
だけでも説明は要らない趣味的韻律がある。江戸趣味について語る資格は私にはな
いが、国民性の洗練された(しかし本当は大した意味はないようだが)繊細さがあり、鏡
花、荷風、清方の持味にも日本的な国民性の消え行く余香が残る。歌舞伎劇や各種
の日本音楽、花柳界に流れる色調にも、姿を変えた国民性が澱んでいる。冬の夜の
新内の連弾にそぞろの哀調を感ずるのも、やはり日本人だからである。浪花節と講談、
少なくとも後者は、日本人の誰もが愛好する。ここからも国民性が摸索出来る。
七
だが万物は流転する。そして新しい曙の新しい風が吹き初めている。そのことは推論
が教えるよりも新感覚が暗示する。現在を立場として未来に向っての驀進を教える。国
民性についていえば、国民性にさらに人類的香味を加え、流動的進化によって新しく
創成していくということになるのではあるまいか。変わった意味で言えば伝統の整理と
合理化、国民性の洗浄、極端な厳格さでいえば既成趣味の虐殺とも言える。遠山医
学博士は、過去の日本人が茶人趣味と誇っていた茶室の背景である幽暗なさびのあ
る築庭を、肺結核の最近の温床だと科学的な冷笑いを投げた。無要の典礼が舞台か
ら退場しつつある。江戸趣味の影はうすれ行くばかりである。いや既成趣味はようやく
解体しつつある。永井荷風が近作「雨蕭々」のなかで「時代は変った。禁酒禁煙の運
動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって、毎朝煙草盆の灰吹きの清さを欲
し、煎茶と酒の燗(かん)の程よさを奪うのは愚の至りであろう」と書いているが私も同感
である。
建築の洋式化も服装や食物を広く受容れ、着用し嗜好するもいい。音楽も歌舞伎も
活動写真もオペラも思想も芸術も学問もモザイクでいい。さらにきびきびといえば、混
乱がのぞまれていい。亡ぶべきは亡んで行くがいい。形式的に固定した国民性の残
骸は、屠っても差支えがないようだ。由来、既成の趣味は概して有閑の芸術化、美術
化であるから、新しい瑞々しい国民性は過去の固形的外殻を破らなければ生誕しない。
私に言わせると、何といっても長い間の伝統は血管を通して末梢神経にまで浸潤して
いるであろうし、皮膚の色が黄色い限り、温和な自然がこの国土に微笑を投げている
間、何ともしがたい国民性の先天的傾向は永遠にある。衝突し推移し変化するにまか
せても先天の賦性だけは基調となるから心配はいらない。むしろ断ずべきを断じ切れ
ず、決行すべきを決行しかね、逡巡し徘徊するほど、伝統は強すぎる。だから国民性
の変異ないし喪失を憂うるよりも、生々とした躍進を望むべきだ。
現下の問題を見ると、社会運動と日本国民性の関係はどうか。これから大いに進展
しなければならない労働問題があまりに多くの苦難を持つことを考えると、そしてその
理由を考えると、日本の民衆は、強権の許では整然と団結行動が出来るが、自らの自
覚により、人類の権利のためにはなぜ団結力が不足するのか。なぜお山の大将で満
足し、時代の歩み、思潮の流れに自我を没入して微笑まないのか。
政治特に議会政治と日本国民性との問題もある。愚劣な喧噪、猿芝居に似た滑稽、
それを見聞きするたびに、一体この国の国民性は、議会制度をある点まででも正当に
背負って行けるのだろうかという疑問を起させる。今の議会は豚に真珠の感があると言
われても仕方がない。短気で威勢の良い労働者の一群から、あのようなパーラメンタリ
ズムの啖呵が出ても文句は言えない。さらに根本的な問題は、自治制の問題がある。
社会生活の究極の理想は自治制にある。ところが日本の今までの自治制は、腐ったリ
ンゴより始末が悪かった。自治制の運用どころか、自治の観念すらわかっていないと疑
われる。日本の国民性では自治の世帯は張れないのだろうか。これらの問題は国民性
に関する未解決の謎である。
この種の問題は多く残っているが、国民性の宿命であってどうすることも出来ないも
のか、私の考えるように、流動的に姿態を更改していくことは出来ないものか、読者の
教えを待つものである。
日本国民性の悲観面
大庭
柯公
ある事物を観察する場合、その観察者の第一印象というものがかなり力強いもので、
またかなり正確なものとするなら、ドイツ人ケンペル(一六八九年来日)などを始め、我
が国の開国前後に渡来した諸外国人の「日本および日本人観」は、日本の国民性を
考える上で、一顧の値打がある。もちろん彼らの観察と評言とに種々の相違はあるが、
一致している点もまた決して少なくない。例えば「自慢好きの国民」ということと、概して
「従順でお人好し」の国民であるということの二点は、当時の渡来外国人の間に一致し
ていた日本人観のようである。当時の西洋人といい、今日の日本人といい、双方とも昔
とは変っていることはもちろんであるが、日本人が好んで自慢したがる国民であり、一
方では妥協性に富む「お人好し国民」であることだけは、ケンペル渡来の当時も大正
の今日も少しも変っていない。世には日本人の性情を評するにあたって直ぐに「島国
的」という名で片付けてしまい、すべての場合、すべての事物について小規模であり、
神経的であると言い慣わす傾向がある。自慢好きの国民性もまた結局は島国的性情
の一つに違いない。
はっきり言えば、私は日本国民性に関して極端な悲観論者である。従来日本人の美
点を挙げる者は、第一に優美ということを特性として考え、美術の発達がこれを証明す
ると言うが、日本の美術そのものが組織を欠き、規模の貧弱を示していることを思うと、
またそれが島国的であることを否定できない。美術の上には濃艶華麗な趣を見出すこ
とが難しく、幽艶、瀟洒の趣が主となっている。強いて言えば恬淡な味に富むとでもい
うのであろうが、主観的で感情的であることを否定できない。そして明晰、清透に失し
曖昧模糊を重んずる在来美術の傾向は、日本国民の秘密性を証明するものである。
日本美術が暗示的包蔵的であることも、そこに原因がある。このように日本美術を通じ
て国民性を観察した結果は、決して私自身の私論ではなく、多くの西洋人の日本研究
上の通論ともなっている。恬淡であることは、情熱がないということであって、一時の浮
躁性はあっても、永遠に燃える情熱はない。したがって惰性を伴い「あきらめ」となり妥
協となる。恬淡の性情については、すぐに仏教思想の感化のように断ずる者あるが、
支那人がむしろ執着性に富んでいることを思うと、日本人の恬淡性は日本人自身の特
性であって、島国的な退嬰的自衛性から結果した守成的な心情の一変相である。
美点を数える人は、潔癖であることが日本人の特性であるかのように言う。しかし東
京の市街を世界第一の汚い暗い首府として甘んじている一事を見ても、日本人が清
潔好きな国民であるということは、事実に反する。さらに第二の美点として、勤勉な民で
あるというが、これもまったく誤っており、日本人は天性遊惰の民である。時間の観念
がほとんど無いまでに、懶惰性に富んでいる。たまたま労働者や貧民が勤勉であるこ
とは、日本が本来天産物上の貧乏国であること、また、力の下には抵抗する気力のな
い、言い換えれば、犬馬の労には耐えても現状を打ち破ることは面倒とする。日本人
の勤勉性は「あきらめ」と懶惰性に基づいたものである。
私は日本国民性の悲観的な面を三点挙げたい。それは秘密性と浮躁性と没独創
性である。第一の秘密性は、「愛」の欠乏した性情に属するもので、個々人が利己的
であることに由来する。ある西洋人の日本人評に「キスを行うことを知らない。キスをは
ばかる日本人は愛に乏しい民族である」という者がある。日本人が秘密性に富んでい
ることを考えると、この西洋人の表現がさほど空言ではないと思われる。お互いが非開
放的で、城府を設けて自己を囲い込む。そこに「秘密」が必要になるのは自然の道理
である。その秘密性が政治面では専制政治の驚くような発達をもたらした。また信仰面
でも唯一神を信仰しないで、偶像淫祀に利己的な祈願をかけて熱狂する。日本の家
屋が板塀や土塀の類で囲まれ、ことさら人目を断ち、西洋家屋のように街路に面し見
透しであることを忌む。
次に浮躁性だが、この点ではイタリア人と日本人は似通う点がある。ダヌンチオ一派
のヒューメ占領に対するイタリア国民の軽佻な興奮は、同じような場合に想定される日
本国民の心理と態度そのものである。大戦後の労働運動を見ても、日伊の間には類
似点があるように見える。昨冬頃のイタリア政界は、今にも過激派が占める観があり、
労働者の赤化は一夕にしてロシア流の労農政府の樹立かと思われたが、今日では最
早さほどの熱は持続されていない。日本の労働運動が時に、灯火明滅の光景を繰り
返していることも、浮躁性に呪われた結果ではないだろうか。かの堅実自重性に富む
ドイツ人や気長で重苦しいロシア人の間からこそ、永続的で徹底的な労働運動が生ま
れる。国民性としての浮躁性はもっとも悲しい性情である。この性情は、日本人が理性
に欠けていることから主として生まれたのであろう。
第三の点は独創力に欠けている点である。日本人には模倣があって創造がない。模
倣は驚くほど巧妙、精緻を極めている。この点で最も著しいことは、国民思想が常に外
来的であることだ。近来は往々にして外来思想を危険視する議論が行われるが、外来
思想でない思想が果たして我が国にあるかと反問したい。自己の哲学があるでもなく、
宗教はすべて外国のものである。海洋国としての日本がその時々に取り入れた外国
思想に対し、年とともに自国化してようやく国民思想と認めるに至ったものである。日本
自発の国民思想というものはない。なるほど武士道の精神というものはあった。だがこ
れも支那の倫理思想の変態に過ぎないもので、ちょうど支那の刎頸が日本で切腹とい
う形式に変わったほどの相違に過ぎない。忠孝の思想も支那倫理であることは、忠孝
という漢字の文字と忠孝の思想が離れることのできない関係にあることを見ても解る。
これらから考えても、我が国で外国思想を危険視する論者は、国民思想の発展進歩
に関する歴史的事実を知らないものである。それは可否の問題ではなく、事実の問題
である。もし島国的であることに短所があるとすれば、思想、文物すべてを海洋上から
容易に受け入れ、したがって創造性に欠けたことである。しかし海洋上から外来物を
容易に受容れたことは、一面において、世界と同化することであり、世界思想が勃興し
つつある新時代にあっては、まさしく一個の国民的長所でもある。
虚無的日本人
〇
石川
三四郎
鏡に対して
自分のことは、自分が一番よく知っているに違いない。しかし、鏡に向って始めて自
分の姿を見ることができるように、他人の批評により始めて自分の心の姿をよく観ること
が出来る。我が国民性を研究するにあたっても、矢張り外国人の批評を聞いて啓発さ
れることが少なくない。そしてさらに、その批評をした外国人の本国に行って、その国
民性とわが国民性とを比較すると、今度はその外国人の批評が産み出した背景的心
理がよく了解できる。私はこのような理由により、私自身の考えを述べる前提として、ま
ず一フランス人の観察を紹介して置く。
〇
「近代日本」
彼は日露戦争の時、ロシア軍に従って遼東の戦野にあり、奉天戦で日本軍の捕虜と
なり、日本に送られたルドビック・ノドオ氏である。同氏の著「近代日本」は、アカデミー・
フランセ-ズの月桂冠を得た書で、かなり有名な労作である。
氏はまず自然と人生との関係から説き起して次のように言う。「人類の活動は、ヘン
リー・卜―マス・バックルが言ったように、内部に展開する現象とその周囲に展開する
外部現象との衝動の結果である。モンテスキュー以来、テ-ヌ以来、自然がその物質
と変化と形状により、常に人類に感化を及ぼすということを否定する者はいなくなった。
自然は人間をその環境に適応させる。自然は人類の精神と身体を構造し改造する。
自然は人間の筋肉を作り生命を作る。一つの人種の精神は、その人種が生い立った
環境的自然により制約される。」
「日本民族が居住する諸島は、外国人を恍惚とさせる。その風光は魅惑的で、柔ら
かな空気は我らを愛撫する。黄金の珠玉をちりばめたオレンジの樹は海の入江の砂
上にたわみ、椿は白雪の下に花を開く。桜の花の爛漫と咲くとき、森はたちまち天空の
色に輝く。荘厳の秋、微風にむせぶ時、その色は鮮血のように紅い。」
「しかしこの国の明媚な山水は、我らを欺く。この地はいかにも無限の平和に包まれ
たように見えるが、実はそうではない。常に大激変をはらみ、不安と災禍を蓄えている。
その内面の動揺が地上を震わすと、日に三、四回揺れる。」
〇
日本の自然は欺く
ノドオ君は、日本が美の国であるにも関わらず、地震、津波、火災、暴風、疫病ある
いは飢饉など、民族の生存を脅迫し、破壊する現象が絶えず生起すると説いている。
「一八九九年には赤痢病患者のみで四万五千人という多数に達し、死者は九千人出
た。」と驚いている。このような惨状はヨーロッパでは目撃できない事実だからである。ノ
ドオ君は日本人が非常に優れた生産性を示す国民であるのに、死亡率がこれに匹敵
するほど大きいのに驚いている。「日本人にとって人生は果敢ないもの、安価なもので
ある。」といい、さらに次のように言う。「日本人は常に多くの死を目撃する。死は常に彼
らを囲んでいる。常に彼らを凝視し、常に彼らを脅迫する。彼らはヨーロッパ人のように
自分の生存の延長に多くの執着を見せない。故に勇武である。彼らは死滅の想像に
慣れている。号泣することなく寂滅を迎える。」
ノドオ君はまた、日本人が肉体的苦痛に対して無差別、無感覚なことに驚いている。
日露戦争中日本軍に従って満州に行ったドクトル・マチニヨンの「日本の野戦病院で
は、かつて一叫声を聞いたこともない」という実見談を引いて、その理由を想像してい
る。「彼ら日本人が無感覚なのは、彼らが吾らよりも心が引締り、意志を強く持ち、感情
を征服しているのだろうか。あるいは苦痛を感ずること少いのは、彼らの神経組織が我
らのように繊細ではなく、創造力や個性が我らほどにはないからだろうか? 私はこの
二説ともに真実であると思う。日本人の心は我らのように複雑ではなく、常に緊張して
いる。しかし我らを驚かすこともある。彼らは肉体的苦痛に対しては無感覚であるが、
道徳的苦痛の前には我らより弱い。・・・彼らは自己に対する僅かな人身攻撃にも痛く
反応する。・・・彼らはクロロホルムを用いず厳粛に外科手術を受けることが出来る。し
かし日常生活においもし相手が完全な礼法にしたがって対談しないときは、彼らは大
きな苦痛を感ずるのである。」
〇
狂熱的日本人
さらにノドオ君は、日本人の熱狂的性質を論じて言う。「私は大隈伯を美しい早稲田
の邸に訪れ、日本人の心理について問うた。伯は「日本人は残忍ではないが、短気で
復讐心に富む」と答えた。老国士の言は、賢明かつ真面目のものと私は信じる。尋常
の場合日本人はきわめて従順で、自らを抑制するように見える。彼らはその情熱が点
火されない限り、決して政治に関与しない。彼らを無差別的微笑の心境から引離すに
は、特別な事情に基く激動が必要である。もしある一定の思想が国民の全体、または
一部を動かせば、そこに恐るべき事件が勃発するのだ。日本人は狂熱的である。狂熱
の突然の破裂を火山の突発的噴火に例える人もある。もっとも正しい指摘であると思
う。」
「アメリカの布教帥シドネー・ギュリック氏は、『日本人の勇気は特殊な方法で現れる。
アングロ・サクソンとは大いに異っている。日本人は最極端の瞬間に至ると、自制力を
まったく失うのだ。日本人は一種の狂暴な情熱と猛烈な忿激をもって自らを戦闘に投
ずる。それはまったく狂気のようである。』という。もしギュリック氏の言が単に日本人の
狂熱的心情を語るものとすれば、極めて正当である。しかしもし同氏が、情熱が日本
人を狂乱に追い込み、自制力を喪失するものと信ずるなら、それは誤りである。ここに
日本人の霊魂の奥秘がある。日本人は狂熱的であり、彼らは一種の狂乱的状態にな
らなければ政治に関与出来ないように見える。しかし、彼らは常に自己の衝動、自己
の反省の主人公である。戦争においても、彼らは猛列な攻撃と同時に、防禦戦におい
ても規律を守り余裕を持っていた。」
〇
伝統的感情
ノドオ氏は外国人としてはよく日本人を理解する一人である。さすがにフランス人だ
けあってアングロ・サクソン人の及ばない共鳴性を日本人に対して持っている。しかし
それでも矢張り外国人である。日本人の精神の奥秘に接触し、よく玩味することは
少々難しいようだ。
一国民の特性が成立するには、単に環境的自然のみならず、その民族の伝統的精
神が一種の有力な環境となって、民族性の上に大変化を与えるものである。日本にお
ける儒敦ならびに仏教はすでに一千年の歴史があり、日本民族性の成立の上に大影
響を与えている。この儒教および仏教、次に老荘の道などが入来し、日本の自然その
ものと合一して、ここに日本人特有の人生観、道義観が成立した。伝統的国民感情が
これにより形成されたのである。ではこのようにして形成された日本人の人生観の内容
は何であろう。詳細な説明をすれば非常に複雑なものになろうが、私はこれを次の一
語で表現したい。「日本人は一般に虚無的人生観に養われ、虚無的精神に生活す
る。」
〇
無神経日本人
日本人の生活は西洋人の生活に比べ、きわめて解脱的である。実例を挙げると、日
本の都会にはしばしば火事がある。ある時は数時間のうちに数十数百の家屋と財産が
灰になる。そして新たに建てられる家屋は、以前と同様マッチ箱のようなものだ。全然
防火の工夫は施さない。そして「火事は江戸の花だ」などと称し、請行無常と諦める。
日本の気候は西欧のそれに比べ決して温和でもなんでもない。冬は非常に寒く、夏は
酷く暑い。しかも日本の家屋は古来一様に防寒法と防暑法を欠いている。西洋人がこ
れを見て、無神経、無感覚と言うのは当り前である。
しかし日本人は決して無神経でも無感覚でもない。また徹底的に解脱してもいない。
例えば米一揆、さらには遡って海軍問題の反逆、日比谷焼打事件などは、みなこれを
よくこれを説明している。西洋人はこれらの事件を見て、その動機と行動との因果関係
を明知することが出来ない。そして日本人の心理生活を神秘不可解とする。しかし
我々日本人から見れば、表面に何の理由もないような事件にも深く潜んだ原因がある。
例えば米一揆に際して、民衆が特別の金持の家を焼打する。単にこの事実のみを見
れば、ほとんどど不可解であろう。何となればその焼打によって民衆は一文の利益に
も預からず、米が安くなることもなく、社会の改造が出来るものでもない。しかし誰が何
を説いた訳でもないが、民衆の心裡には互いに共通した一種の激発性を帯びた潜流
があった。それが火口を得た噴火山のように一時に爆発したのである。これが日本人
は虚無的だという理由である。無義の義、超理の理により生活する日本人の行動には、
しばしば不可解な点がある。西洋人がそう思うのはもっともである。
〇
日本人の表現法
日本人の意思表現は、生活が極めて複雑であるのに反し、極めて単純である。西洋
人はこれに反し、一本調子の心意に多くの色彩を付けて表現する。西洋人のノドオ君
が「日本人の心は我らのように複雑ではない」と言ったのには深い意味がある。実際日
本人の表現法はあっけないほど単純である。西洋人は色を尊び、日本人は素を尊ぶ。
白木造りの神殿の神々しさは、容易に西洋人に会得されない。室内の装飾にしても、
西洋人は花瓶に種々雑色の花を沢山に挿さなければ満足しない。もちろんそれには
特殊な豊かな美観があるが、日本人の挿花の趣味から言えばまことに異様である。試
みに単に一枝の梅、あるいは一輪の花を床間の装飾として西洋人に示して見よ。彼ら
は決して美的快感を感じないばかりか、かえってより淋しい哀傷を感ずるであろう。
日本人の心理表現法は暗示的である。象徴主義の芸術において日本人が秀でてい
る理由はここにある。日本人は虚無的統一に慣れ、西洋人は実在的統一を好む。日
本人の俳句は多くの意味を背景に持つ暗示的一点画である。ほのかな微笑的表現法
は日本人の芸術にも社会生活にも随所に行われている。日本人の社会的生活には以
心伝心的現象が非常に多い。不立文字的精神より起る多くの社会現象を外国人が理
解できないのは当然である。この不立文字の虚無的思想は一種伝統的精神となり、昔
から一般日本人の心を支配して来た。今日も支配している。殊にこの伝統的虚無思想
は深く芸術家の心情を養ってきた。ポンと一打ち打たれた小鼓の音にも、地は唄い、
星は舞うと思われる。宇宙はこの小鼓の一打音に統一される。私はこれを虚無的統一
と言う。仏陀のほのかな微笑と変わるところはない。日本人の心生活を研究し日本文
明の神髄を把握しようとすれば、まずこの間の消息を了解しなければならない。
〇
日本の文明
私は今より九年前、初めて西欧の社会を目撃した時の感想を書いて、当時大隈伯の
主宰の下に刊行された「新日本」という雑誌に送ったことがある。その中に「野蛮人の
文明観」と題し、東洋文明と西洋文明を比較してみた。ちょっと面白いところがあると思
うから、数節を拾ってみよう。
「私は横浜からフランス船に乗った。……その時に感じた私の文明人観は、ただ彼ら
が日本人より獣性に富んだ、より多く動物的な人類だという一点にあった。……しかし
それと同時に、我らは自分がかつて久しく経験した獄中の人類を想起し、獄中より社
会の人類を見た時の感想を回想した。獄中では看守を始めとして看守長でも囚人でも、
顔容、ことに目付きに隙がない。深刻な『注意』の浪が顔面に動いている。それもただ
獄中の人のみを見たのではよく分らない。私は多くの被告事件を担当していたので、
しばしば赤衣をまとって法廷に出たが、そのたびに娑婆の人間の顔がいかにも馬鹿顔
に見えた。監獄に帰って看守や囚徒を見ると、いかにも抜け目のない顔をしている。ヨ
ーロッパ人の顔は、どうしても監獄の看守や囚徒の顔に似ているのである。文明人は
獣性を多量に有する囚徒である。」
「今私の下宿する家の女主人、四、五日前の晩餐のとき私に問うていうには、日本
でも食事をするのにナイフとフォークを使いますかと。私は東洋では昔から庖丁や厨
房を遠ざけるという聖人の教えがあって、ナイフなどは用いない。食事に刃物を用いる
のは非常に残酷な感じがするとこたえた。主人のお婆さんもとより分らず、私がペン軸
を使って箸の使用法を示すと、扱い方が難しいのに驚いていた。……要するに日本
人と西洋人との差はナイフとハシによく表われている(ハシは鳥の嘴を模倣し、ナイフ
は猛獣の牙、フォ-クは猛獣の爪を模倣したもの)。東洋ことに日本の文明はハシの
文明である。西洋の文明はナイフの文明である。西洋人は猛獣に学び、東洋人は鳥
に学ぶ。鳥は天に飛び、猛獣は地を這う。東洋人は解脱を好み、西洋人は戦闘を学
ぶ」
「彼らはナイフとフォークをもって今日の文明を建築した。「ハシ」の痕は鈍い曲線を
造るが、ナイフの跡は鋭い直線を造る。西洋の文明には何れの場面にもこのナイフの
跡がある。建築にもせよ、文学にもせよ、舞踊、唱歌にもせよナイフ的な深刻な痕跡が
最も多く発達している。……日本の能楽においては、少々直線美を発揮しているとは
いえ、矢張ハシの直線である。尖鋭を欠くこと多大である。しかし日本舞踊の柔か味と
丸味に至っては、西洋に勝ること多大である。……日本のハシは軽妙に摘み採り、西
洋のナイフは深刻に切り開く。日本の芸術は自然の妙処を摘み採ったものであり、西
洋の芸術は自然の真実を切り開いたものである。」
〇
日本人の陰険
ノドオ君はこの日本の美しく柔い平和の自然は人を欺くものであると言う。この美しい
自然は、裏面に地震や噴火などの多くの危険を有するからである。日本の自然は極め
て陰険である。この陰険な自然に育まれた日本人もまた陰険であると欧米人は批判す
る。欧米人がこのように観察するのは無理もない。かすかな微笑はたちまち変じて米一
揆と化するから、陰険に見えるのであろう。日本人の心は鳥が翔ぶように飛躍する。獣
類のように地上を歩行することだけを学んだ欧米人が、これを神秘的と考えるのは当
然である。日本人の行動は、西洋人の合理的観察眼によれば、不合理、不可解であ
るに相違ない。日本の文明はへその文明だと前に書いたが、日本人の心は鳥のように
極端から極端に飛躍するのである。苦い茗荷を喫し、春雨を聞いて閑寂の美感に酔う
ようなことは、とうてい西洋人の味わい難い神秘境であろう。その寂寞虚無の境界から
突如として日比谷騒動が勃発し、米一揆が破裂するのである。
〇
理屈嫌いの国民
日本人ほど理屈にこだわらない国民は世界にないであろう。理屈を言わないから、
言論は極めて幼稚である。言論の自由などは形なしに蹂躙されても平気である。この
ように理屈に慣れず言論に下手な国民性は、あのヴェルサイユの平和会議において
遺憾なく暴露された。列国民監視のうちに大恥をかいて引下った。しかしそれでも使
臣らは最後まで我慢して、もし受容れられなければという覚悟の腹は固めていたであ
ろう。ともかくも相当の分け前を勝ち得たのである。西洋に行って私がもっとも困ったこ
とは、食卓に列して会話をしなければならなかったことだ。食事時は沈黙を守るのが日
本人の礼であり、慣習である。西洋では食卓で何も語らないのは失礼である。私は『あ
なたはこの食卓に何か不満でもありますか?』と家主に詰問されて大いに困ったことが
たびたびあった。平和会議の失敗も私の食卓の失敗も、帰するところは談話下手の国
民性にある。
言論は暴動を緩和するものである。言論に慣れず、言論の自由を尊重しない日本人
は、常に沈黙から暴動に飛躍する。「日本人は短気で、狂熱的で、復讐心に富む。」と
ノドオ君が言ったのはことである。
◆自然環境より見た国民性◆
人類学上より見た日本人の民族性の一つ
鳥居
龍蔵
一
本題の民族性というものはどんなものであるか。最初にこれから説明しなくてはなり
ません。民族性とは一名人種性のことで、その民族がもっている遺伝的に正しく伝えら
れたメンタルキャラクターのことです。これは比較的正しい人種民族の遺伝性を保有す
るものです。
民族または人種といっても元来人類の一つでありますから、たとえそれが多くの民族
に分かれて存在すると云っても、人類である以上必ずその精神の中には共通した人
類性をもっております。時の古今、洋の東西、文化の差違があっても共通な人類性が
あります。この人類性は決して民族性ではありません。民族性というのはこれらの人類
性を引去ったものです。
人類性は、民族が人類である以上は共通に保有するものであるから、この一般性、
共通性を民族性ということはできない。次になお民族性と混合し、ややもすると民族性
と考えられるものがあります。それは地理的ないし歴史的なもので、これらがある民族
の精神の中に入ってきたとしても、これは移住して来た土地の状態あるいは久しく住ま
っている土地の周囲の状態から来たもので、民族固有のものではない。いわば第二の
性格であるから、これは正しい民族性とはいえません。
次に歴史的なものも同様であります。たとえば儒教や仏教がある時代に日本に入っ
てきて、そのプロパガンダの結果日本人の精神の中に入ったとしても、歴史的な第二
の性格であり、いわば学んで得たものだから、純宗教道徳的な面から言えば別だろう
が、固有の民族性とはいえない。以上のように、民族性というものは、人類性はもとより、
地理的なもの、歴史的なものをとりさったものです。
そして民族性は、民族がある限り遺伝するものであります。その民族が純粋な民族で
あれば民族性も純粋で、雑種混合民族であれば、その民族性も雑種混合した性格に
なります。
人類学者、人種学者は民族研究に際して、民族のキャラクターを二つに大別します。
甲は民族の体質で、乙は民族の性格です。この乙がすなわち民族性です。
民族の体質や骨格が民族的に遺伝していくことは明らかですが、精神の方つまり民
族性も遺伝します。ですから、甲乙の性格は同一価値を持つ者であり、上下の価値を
付けることは出来ません。
甲は物質そのものですから目に見ることが出来ます。頭形、顔形、体部、四肢みな見
ることが出来ます。しかし乙は精神性格ですから、直接目で見て実感することは出来ま
せん。やむを得ず間接的な方法によって知るほかありません。
二
では民族性を知る間接の方法とは何であろう? 民族の口から言い表わされたり、
手で作った物、つまり民族の精神からまさしく表出されたものから見ることが出来ます。
その表出は音楽のメロディや絵画彫刻の色彩、線、家屋の様式、器物の曲線、模様の
分子と配置法、神話詩歌謡などの形式、その他種々の精神作用として現われるものの
上に認められるものです。
人は言うかもしれません。民族といっても人類である以上民族性などというものはな
いのではないか、と。ちょっと考えるともっともに思われます。たとえばある国に文学や
絵画を学ぶ者があるとして、その人はその文学や絵画をそのとおりにいつまでも受け
継いでいけると思うでありましょうが、そうはいかない。それが久しい間を経過し、その
人々が何らの影響も受けず、一人離れた場所で静かにあれば、自然に民族特有のも
のとなるでしょう。しかし今日のように他の民族と盛んに接触する時代になると、そこか
ら民族性を知るのは困難であります。
民族性は時の古今や文化の発達程度に決して関係しません。また他民族より受け
る精神的なものを変える性質を持っています。民族性は例えると本体であり、それに時
代的な色彩や装飾をまとっているのです。色彩や装飾は他から付加されたものであり、
時代や場所により変化していきますが、本体は決して変化しません。これは体質が変
化しないのと同じです。
けれどもその純粋分子と混合分子を区別するには科学者が試験管の中で分子を分
析するようにはいかないので、必ずその民族が表出した作品により間接的に知るよりほ
かないのです。
三
以上は民族性の定義であります。それでは今の日本にこの定義を当てはめると、日
本人の民族性はどんなものだろうか。これはすこぶる難しい困難な問題でありますが、
私が日頃考えていることを発表して読者諸君の御批評を乞いたい。もっともこの民族
性はいくつも考えておりますが、今は例として一つ二つを書いてみます。
日本人の民族性の一つとして認められるものは、淡泊、潔癖、清浄などで、この性格
が日本人の種々の現象の上に表出されています。私はこれを土俗学上の言葉を借り
て、物質文化と精神文化との二つに区別して申します。まず物質文化としては、古代
の衣服の色彩が白妙の衣というように、ほとんどすべて白色であったことは確かにこれ
を暗示しているではありませんか。神社に使用する諸物はおおむね白色であります。
家屋でも天井、柱、壁などことごとく木地で、漢族や欧米人のように濃い色彩を塗らな
い。神社から一般民衆の家屋に至るまで同一であります。今日我々の住む家屋もまた
これでありますから、外国人のある者は日本の家屋の天井、柱、その他の無色の木地
は、未完成品ではないかと疑問を出しています。ある時代から外国の影響として出来
た床の間などの設置がないとすれば、一層これが証明されます。これらの事実は衣服
の白色であると同一ではありませんか。
我々が日常使用する器具にしても、今日すら箸、杓子、火吹竹などの台所の諸器具
をはじめ木箱類皆これでありませんか。これは徳川時代――足利時代…………と古
代に遡るほど明らかになります。徳川足利以前の三宝、高坏、曲げ物など、さらに原史
時代に至るとスエノウツワである祝部土器、その前の弥生式土器その他もよくこれを語
っております。
日本人の用いる紋様の配置方法は欧米や支那人、アイヌなどのようにアクドク複雑
な密集したものでなく、簡単に幾何学的模様の分子でアッサリ散布しているので、他と
比較すると無地といってもよいくらいです。色彩もまた寺院の外はアクドイ色を用いな
い。あの擬宝珠、また寺院などに用いる擬宝珠模様は、曲りの具合がよほど低く柔らか
になっている。これも日本人の性格として見ることが出来ましょう。
さらに精神文化の方から見ても、等しく淡泊、潔癖、清浄の事実を暗示しております。
つまり日本人は穢(けが)れを非常に嫌ったので、祓(はら)いや禊(みそぎ)の風が古
代に盛んに行われた。これは一身、一家、一族、一村、一郡、一国、日本全国みな同
じであります。仏教や儒教渡来以前の日本人の思想の全部、いや、日本の民衆を支
配したものはこれで、推古以前の原史時代の記事(神代も含め)ほとんどこの事実が充
満していると申してよろしい。
日本人はいやしくも身に穢れがある時、また罪の穢れがある時は、必ず川中に入っ
て身を清めたもので、神話中の神々さえ行っております。古代ではこの風習は極めて
厳粛で、上下の別なく実際に行ったものであります。
人の罪、科、病気や土地、家、器物などの穢れを一方では水中で清浄にし、また一
方では幣束(ぬさ)で祓い清めることもあります。この祓い清めは大きく国中の祓いをす
ることもあります。例えば古事記に、仲哀天皇の崩ぜられた時、国之大奴佐(おおぬさ)
として国の大祓いをしたとあります。今日でも神事として大祓いを行っているのはこの
引続きであります。
四
日本の神社には古くは御手洗(みたらし)といって、神社の前に清い川が流れていま
す。このミタラシは(古くはミソギもする所であった)神社に詣るに先だってここで手など
を清めたもので、伊勢の大神宮の前の川はこれであります。今も田舎の神社にこの状
態を見る所があります。ミタラシは仏教渡来後は、石製手水鉢となって神社境内に安
置されることとなりました。この手を洗う風習は、仏教の礼拝にも及んで来て、寺院の境
内にもこれを置くことになりました。仏教は支那でもその他でも手を水で洗って礼拝す
る風習はない。他国では多くは香などをたく風習が多い。仏教では印度、チベット、蒙
古、支那でも法輪といって車の一輪を柱に付け、參詣人は最初にこれを回して身体を
清浄にする。水で手を洗う日本の風習と一見同じようであるが、少しばかり形式を異に
しております。しかし日本の仏教は、いつ頃からか七堂伽藍の一小附属物として神社
式にミタラシから発展した石製手水鉢を置き手を洗うこととなった。これは仏教の日本
民族化の一例として見てよろしかろう。
日本人が今なお塩祓いをしたり、風呂に浴する風習があるのは、皆遺伝的に伝って
いるものと見なければなりません。このキャラクターはたとえ時代的な衣裳や色彩をまと
っているとしても、性格は残っておりまして、これは信仰や思想、文学や音楽の精神、
趣味、情緒などに保存せられているように思われます。
古代の日本人は祓いや禊ぎとともに注連(しめなわ)を張る風もあります。今日はもっ
ぱら神社の儀式にのみ残っているが、朝鮮では今も神々のみならず一般にこの注連
が盛んに張られています。その材料は米の藁(わら)で縒(よ)り方も同じです。日本古
代の注連の使用法や思想信仰もこれによって大体解ります。日本人の注連は、ここは
神の居る所、清浄な所という場所に張るので、一度これが張られるとその時からそこが
神聖な場所となる――これも日本人の性格の一つと見てよろしい。
伊勢では今でも注連を各戸に張っているが、朝鮮の片田舎や蒙古、チベットにもこ
の風習があります。これらの事実から見ると、古代の日本では神社のみならず、一般に
張られていたと推測されます。個人の家に一度張られると、その家は神聖な家となるの
でしょう。これについて思い当るのは、古代旅行者の困難なことで、ただ道路往来の不
便ばかりでなく、人里に来ても容易に一宿を求めることすら出来なかった。それは病気
その他の穢れなどから来るのであります。当時「火」も清浄にしていたから、旅人が食
物調理に他人の家に突然入って火を借りることも出来なかった。これは日本人が無慈
悲であったからではなく、まったく清浄、淡泊の性格から来ているのであります。刺鮮
では門前に注連が張ってあれば、病人や産後の者、死者に途中で会った者はその家
には一切入れない。朝鮮では注連は「禁」の意味があるのです。日本でも昔は等しくこ
の風習があったように思います。注連のシメは門を閉めるなどのシメルで、朝鮮語の意
味の「禁」と同一と思われます。日本人の「火」を神聖なものとしたのもこれで、今なお
神社にも火祭りが行われ、田舎にも火を大切にする風習が残っています。
五
要するに日本人の民族性の一つは確かに淡泊=潔癖=清浄のキャラクターでありま
しょう。この性格は時や場所や文化の高下に関係せず、いつも何らかの事実をきっか
けに、もっとも平安の時に発現表出されるようです。
日本人の民族性は、この淡泊、潔癖、清浄の性格に伴い、霊魂の存在を信じます。
日本の神々は god ではなくむしろ spirit であります。いわゆるミタマ=カミ=ウジンで
す。日本のミタマには善と悪があって、善は幸霊、悪は悪霊で、この二霊が種々に日
本人の思想を支配しています。この思想――信仰は淡泊=潔癖=清浄と結合し、面
白い作用を呈します。原始神道はまさしくこれを代表しているのです。
日本人は光明をよく好み、闇黒を極めて嫌います。光明はつまり高天原で、降って
は現(うつ)し国=中つ国で、闇黒は地下の黄泉の国です。人は中つ国に住み、最高
神は上の高天原に居給い、下界は死者の行く恐ろしい黄泉の国です。宇宙=世界を
このように上中下の三段に区別しているのは面白い。この思想はウラルアルタイ族の
ヤクートにもあれば、カムチャッカ半島、ベーリング海峡附近に居住するコリヤークやチ
ュクチにもあり、同じ宇宙観を信じている。日本の中つ国の「中」の意味は比較神話、
比較土俗学から見れば同じ思想であります。
日本人は暗黒を最も深く嫌っていました。ヤミにはすべての恐ろしい穢れものが充満
しており、そこは死者――悪魔の国であります。これに反し光明は現し国で、幸いの国
であります。我々の代表、祖先の大神として天照大御神を尊んでいるのは、誠に光明
のシンボルであって、これは一方から見れば太陽神であります。ことにこれが男性でな
く女性にましますのは、大いに注目すべきことでありましょう。
光明はある意味からいうと幸魂の住所であって、暗黒は荒魂の住所であります、前者
が人に接触すれば幸いとなり、後者が誤って人に接触すれば色々の悪いことが出来
ます。いわゆる曲罪(まがつみ)です。個人のみならず一村一国同一であります。古代
の日本人は祓いや清めで後者をなるべく接近させない方法を取ったのです。日本人
の淡泊=潔癖=清浄もここから出ているのであります。
六
以上の事実は人種学、土俗学上からいうとシャーマン教的なものであって、日本人
の心的性格の中にシャーマン教的分子が存在することを認めねばなりません。シャー
マンには善悪の二魂があり、鏡、弊(ぬさ)、束、注連、太鼓、鈴もあり巫人(みこ)もあり
ます。信仰の儀式が同一であるばかりか、世界を最上――中つ国――下つ国(黄泉
の国)と区別しております。
このシャーマン的色彩がある日本人の間に仏教が入って来ても、学僧や学問ある
人々は正しく仏教として学んだとしても、一般の国民はなおシャーマン的であります。
これについて面白いのは平安朝の時出来た『源氏物語』を見れば分かります。当時宮
中および上流社会にてもいかに物気(もののけ)=物怪を恐れたか。そしていかに当
時その祟りを恐れたか。このモノノケは古代のアラミタマであります。曲罪(まがつみ)で
あります。これに対して天台真言の著明な僧侶すら加持祈祷をしているではないか。
要するにこの加持祈祷は、幣束のハライまたはキヨメにただ代ったのみであります。宮
中、民間では、なお古代より引続いてハライの風が盛んに行われております。私は『源
氏物語』を読んで、シャーマン教的色彩の濃いのを見ます。
日本人の例は蒙古人、チベット人と同じであります。彼らは仏教のラマ教を信仰して
いるが、元来の宗教がシャーマンであるから、今なおこのシャーマン巫人あり、シャー
マンの色彩が中々多い。彼らの祈祷も要するにシャーマンのハライ、キヨメがこれに代
ったものに過ぎません。
今日日本人の思想――信仰――風習の中になお以上の性格が保存されています。
文化が進めば進むだけ形状や形式が変化しても、骨組はどこかに残っています。日
本人が現世的なのは現し世主義であって、これに単純、淡泊、清潔などが伴っている
のは、詩歌、倫理、哲学などの上にも現われていて、大神秘――大字宙観――絶対
などの哲学的要素に欠けているのはそのためであります。仏教がたとえ最高至難の教
理だと叫んでも、日本人には至極平易のものとなってしまいました。民族性は実に恐ろ
しいものではありませんか。我々は過去の祖先を未開野蛮と罵っておりますが、我らの
血液にも思想にもこれが遺伝して伝わっております。またこれは常にいつも時代的な
色彩、衣裳を着ているのであります。
以上は日本人の民族性の一つを書いたのでありますが、この性格が果してよいのか、
悪いのか? これは民族性であるから学術的見方としては何とも言わないが、さて世の
学者、宗教家、教育家、哲学者、文学者、社会改良論者などの諸君は、この事実を将
来いかに取扱っていくか。私はこれを一つの疑問として諸君の前に発表しておく。
生物学上より見た日本国民性
理学博士
石川千代松
一
日本の国民性を生物学上から見て書いてくれとの依頼でありますが、これは一寸難
しい問題であります。しかし人間もまた生物の一であってみれば、あるいは今回四月
号に論じられる沢山の見地の内で、私に書けと申される生物学上から見たということが
もっともも面白いもので、またもっとも必要なものだろうと思われる。そこで我が日本人
の国民性を論ずる前に、まず日本国に産する生物(とりわけ動物)はどのようなもので
あるかを論ずる必要があろう。
日本は誰も知るとおりアジア大陸の沿岸にある長い島国で、北は樺太から南は琉球
諸島、小笠原まである。それに台湾も入れれば、気候からいっても寒帯から熱帯まで
ある。
そこで動物を見ると、古い昔には日本にも象だの犀だのがいたが、今日ではこれら
のものは潰滅してしまった。これらが日本にいた頃には、まだ我が島嶼は大陸と続いて
いたので、今の黄海は陸地であったし、四国、九州も本州と一つであったろう。そして
津軽海峡が比較的に深いのを見るとこれが湾口で、日本海が大きな湾であったようだ。
もとよりその頃には樺太も大陸と続いていたであろう。日本にいる動物はそのような時
に大陸の南北から来たもので、南から来たサル、北から来たヒグマのなどが今日でもま
だ本州と北海道に残っている。その他カマシシのようなものは多分朝鮮の方から来た
もので、月輪熊も同一であろう。蝶々などでも津軽海峡の北と南とで違うものが沢山あ
る。たとえばアカマダラはこの海峡以北のものは全欧州に分布している種類であるの
に、本州にいるものは一種変ったものである。しかし本州の動物分布には津軽海峡ば
かりでなく、対島海峡にも同様に差がある。ハラマダラ蛙が朝鮮までいて本州にいない
のや、月輪熊が本州のものと朝鮮のものは違っている。この海峡もある時には本州に
来る動物に境界を建てたものである。こうして見ると、北の方の宗谷海峡も同様である
し、間宮海峡もまた同様である。この外海洋を見ても、北海から寒流が来るし、南海か
らは暖流が来り、海産の動物はこのため非常に豊富である。
動物界と同様、人間もまたこの島嶼にいるものは色々である。極めて古い時分にこの
島にどんな人が居たかは、今日でもまだ分らない点が沢山あるが、食肉人も居ただろ
うし、アイヌ人が全島嶼に居たことはほとんど疑いがないようだ。しかしこの他に南洋諸
島から来たものもあろうし、朝鮮から来たものもある。これらの人種が種々雑多に混合
したものが今日の我々である。だから誰でも本邦人に変わった容貌の多いのには驚か
ないものはない。
このように多数違ったものが混合して出来た本邦人は、一方からいうと優性なもので
ある。それは諸方から違った民族が沢山にまた幾回となく来たので、そのつど多少の
戦争があって、いつでも強者が勝利を得たに違いない。つまり我が国民は久しい間の
生存競争で勝を制したものであって、我々はシャモや闘犬が出来たように、我が日本
の附近にある東西南北の種々雑多の民族中最も強いものの集合であると言ってよい
であろう。
こうして今日の本邦人が出来たのであるが、段々と強くなって来てからというものは、
もとより腕力ばかりでなく、智力もこれに伴い、遂に全国民が統一されたのであろう。こ
うなると後に来たものは中々勝を制することが出来ない。それでもこうなるまでに本邦
人は段々と進歩して来たが、このような位置に達すると競争もなくなってくるので退化
が始まる。しかしその内にまた国内で新たに競争が始まり、久しい封建時代を経て明
治の初年に至ったのである。そしてこの封建時代中にも各処の群団は相互闘争した
ので、その結果武士道などというものも生れて来、忠君愛国の精神もそれから出て来
たのである。
この精神は、人間で考えて見ると実に大きな何か偉大なもののようであるが、動物界
から考えて見ると何んでもないことである。生物体は単細胞の時でもすでに多数の違
った単位から出来ているもので、各単位は全細胞体のために生存しており、細胞全体
のためにはいつでも自分の生存は構わないのである。それと同様異細胞生物の各細
胞も、連生体の動物でも(連生体とは cornius のようなもの)、群棲動物でも、同じであ
る。蜂蟻白蟻では、職虫は生殖まで犠牲に供している。人間の社会で、ことに封建時
代の武士の腹切りは、これとまったく同一なもので、社会の生存のために行ったもので、
完全変態のある昆虫の体内にある貪食細胞に比べるべきものである。また我々の体内
にある貪食細胞は、体内に入って来る諸種の不要物または害物を食いつくすものであ
るが、これらの多くはあまり大食するので後には自分で死ぬのである。
生物界ではこのようなことが起っても、細胞自体は自覚もなく、ただ自然陶汰と生存
競争とで生きても行くし、また死んでも行く。しかし人間ではそれが少し変って来たの
である。我々の身体でもそうである。身体のある場所に腫物が出来たとする。当初の内
は医者にかかって早く治療をするとよいのであるが、我々はなかなかそうはしない。し
かし腫のために発熱し食事が取れなくなる、筋内が動かなくなるというようになってつ
いに床に就くようになり、やがて医者の世話になる。それでも医師の治療を受けずに
置いたら、あるいは生命を失うこともある。
二
例えば指先を針で剌すとする。小さな疵ではあっても時と場合によればひどくなるこ
ともある。この原因は何かが針から疵口に入ったのである。色々な物が這入って来るで
あろうが、バクテリアのようなものが入ったとする。そうすると、体内組織に入ったバクテ
リアは組織から食物も取るし、色々不必要な物質を排出する。これらが多くは毒になる
のである。この毒が血液に混じって全身を循環する。身体はそのために中毒となるの
である。傷口には体内の血管から沢山に血液が送られて来るが、血液内にはリンパ球
もまた沢山に這い出して来る。これらは実に兵士であって、バクテリアが居るところに来
ると直ちにそれを食い始める。バクテリアとリンパ球との闘争が始まり、バクテリアはドシ
ドシ増殖し毒物を分泌するが、同時にリンパ球は容赦なくバクテリアを食いつくすので
ある。バクテリアの周囲にはリンパ球が二重にも三重にも集まって包囲するのであるが、
血液も一緒に沢山に流れて来てバクテリアの毒物も薄められる。そして悪化した疵も
遂にまったく癒えるのである。
こんな時のリンパ球は実に戦場で戦う兵士である。そしてリンパ球は誰のために戦う
のであるかと問うと、我々の身体のためである。リンパ球は自分のために働くのではな
く、我々の身体つまり宿主の個体のために働いているのである。
我々の社会もこれと同じ事で、社会を作っている個人は身体の細胞のようなもので、
個人は細胞と同様自分のために生きているのではなく、国家のために生きているので
あることを忘れてはならない。しかしそれが誠に難しいことであるのは、我々個体は何
れも皆知覚を持っているからである。その知覚のもっとも古いもの、つまり本能となって
いるものは、矢張りどの動物にあるものと同様、生存して行くということである。この生存
本能と生殖本能は皆が持っているものである。
我々の個体が義理のために切腹まですることは実に立派なことで、この点だけをと
っても、我が国民がいかに社会的生活において進歩していたかがうかがわれる。
三
ところがこのような立派なことも、時と場合によって違ってくる。義のためには自己の
生命も棄てるというもっとも尊いことが、一方では将来のことを深く考えないようになった
のではあるまいか。こう言っては間違いを生ずるかも知れないが、生命を軽んずる結果、
生活をも軽んずるようになり、武士は食わねど高揚子というような気性が養われてきた
のではあるまいか。もっともこのような気性も見ようによって良くもなれば悪くもなるもの
で、社会のために自分の命をも捨てることはもっとも尊ぶべきことであるが、同時にもし
生活を軽んずるようになり、今日あって明日あることを知らないようになっては困る。本
邦人が全体に物事を忘れることも、あるいはこれに原因してはいないだろうか。
もっともこれも風土気候などが大いに力のあるものである。日本はもっとも北では違う
が、多くの処では草木も禽獣も多く気候も温暖であるから、それほど努力しないでも日
常の食物を得るのに困難は少ない。それに春の気候に桜のような花が咲くのがよろし
くないと思われる。大和心を桜に例えたのは事実であるが、桜には我が国民を堕落さ
せるものであると私は考える。陽春の頃あのように一夜を咲き乱れて何ともいえない浮
いた心地にさせるが、それが見ている間に散ってしまい、その後は毛虫は生ずる、葉
は落ちる、実に始末の悪いものである。だから私は桜を決して賞めない。一瞬を楽しま
せてすぐに消えて行くようなものは夢か幻のようなもので、桜は実に日本人の心を浮薄
にするものであると私は考える。大和心は山桜花のようではあるだろう。が、その山桜
花のような大和心は皆には感心の出来ないものになっている。
動物は自然のままにあるので、その細胞も組織も個体も皆それぞれ生存と生殖をし
て行く。人間も矢張り同一の規則の下に生存しまた生殖して行くものである。しかし人
間はその上に社会的なものであるから、道徳その他社会の存在に必要な習性が生じ
て来たのである。そして社会生存の上から見た我が国民性というものはいかなるもので
あるか。それは本邦人にとってもっとも肝要な問題である。
この点で我々の国民性は、久しい間に築きあげて来た義のために犠牲になるという
ような良いものもあるが、一方には浮薄なことだの、物事を忘れることだの、今後我が
国民の進歩発展にどのような関係を持つであろうか。
これらの国民性はもとより、我々や我々の先祖が悪かったためではなかろう。誰も知
るとおり、我々の先祖は東西南北から来たもので、それらの内のもっとも優等なものか
ら選び出されたものである。これは我々日本人ばかりでなく誰も承認することである。と
ころがこのような立派な人種でも久しい間島嶼に住むと、自然に小さな島嶼に住むだ
けに適した人種になってしまう。
大陸の動物も小さな島に移すと小さくなり、大海の魚介も狭いところに入れると小形
になる。同様に我が大和民族もこの小さな島嶼に住んでいたため今日の有様になっ
たのではあるまいか。小さな民族は小さな島嶼に生存するには好都合になっているが、
世界の広い舞台に出た時には今日までの国民性を変えていかなくては心細い。
幸いに今日日本国民も広い世界の諸民族に接し、新たな境遇に対応しつつあるか
ら、これまでの小さな思想は止めにして大国民の心持ちになって欲しいのである。二
尺余もある鱒は、山間の渓流におれば僅か七、八寸位であり。琶琵湖の小鮎は二、三
寸であるが、瀬田川に遡って来る鮎は尺余になるではないか。今日までの国民性は小
鮎で良かったが、今後は大鮎のようにならなければ我が国民の発展は実に憐れむべ
きものであろう。
私の考えでは我が国民は幸い諸方から来た最優秀なものの混合であるから、銘々の
努力によって発展の余地は充分に備わっているものと信ずる。
日本の国民性に及ぼした地理上の影響
小川
理学博士
琢治
一
日本の地理的位置を考えると、温帯の島国として比較できるのはイギリスで、同じく
大陸に接近するマダカスカルは大部分熱帯圏内にある。他は島国といってもまったく
熱帯あるいは寒帯にあって、比較にならない。またマダガスカルは対岸の大陸の事情
が日本と比較出来ない。イギリスだけが絶好の対比をなしている。イギリスはヨーロッパ
大陸の西に位置し、日本はアジアの東方にあり、欧亜の東西反対の位置を占め、両
者の共通点は極めて多い。
まずイギリスの民族移動を考えてみよう。イギリスは大西洋に面し、中央アジアから
民族移動が起って東から西に侵入して来る波動を受けている。先史時代より歴史時代
にわたり東方民族が西に渡り、前に移往したものは後から来た民族のために圧迫され、
圧迫された民族は更に西に移って英国に入った。最後の渡来者であるアングロサクソ
ンとノルマン人とがイングランドの重な部分を占め、アイルランドとスコットランドおよびウ
エールスの辺隅にケルト民族が残留することになったのである。
日本はイギリスと反対に大陸の東方に位置する島国であるが、民族移動に関する学
説は今日なお一定していない。ある学者は天孫人種が南洋方面から渡来したかも知
れないといい、その他種々の説が立てられている。我々の考えるところでは我が邦もま
たヨーロッパにおけるイギリスと同じく、大陸に起った民族移動が原住民族の間に渡来
民族を入れたかと思う。現在記録によって判明しているのは秦漢の時代に支那から朝
鮮に民族の移動が起り、そして朝鮮に移住したものがさらに日本に渡来したとのことで
ある。これは姓氏録の蕃別の諸家の系圖に明らかに認められているが、これより以前
の皇別に属する天孫民族の移住というのは、恐らく大陸に起った民族移動の余波が
日本に及んだものかと考えられる。周の統一後に、淮水流域に強大であった徐夷淮夷
らが次第に周人に圧迫されて、終に滅亡した歴史がある。この民族の一部は日本に渡
ったと考えるのがもっとも妥当な見解と想われる。これは淮水下流の考古学上の研究
に待たないと、日本との関係は明確にならないが、一つの仮定論には違いない。一層
遡って、それ以前、わが邦にいまだ人類の棲息しなかった時代の状態を考えれば、マ
ンモスの化石の発見によってわが邦と大陸とが接続して、大陸に発達した動物がわが
邦に移住して来たことは疑えない。先史時代の民族移住についても、これと同様の意
味が考えられる。以上を総括して、イギリスであれ日本であれ、均しく大陸に接近した
大島国では、その土地に原住民族がいても、後には大陸の方から新たな民族の侵入
をうけ、そしてそのうちのもっとも優良な民族の勢力の下に融合されてしまうという事実
が認められる。北海道にアイヌが残っており、アイルランドにケルトが残っているというこ
とは、辺境では同化作用が遅れた事実を示すものである。
日本の国民性を考える前提として上に述べた民族分布の地理的関係を知ることに重
大な意味がある。民族の移動によって大陸から島国へ種々の時代に種々の民族が入
り、その中に優良なものがすべてを融和して一個の民族を形成したものが現在の日本
人であることが、イギリスと比較して推定される。
二
第二に気候の影響である。わが邦の気候が国民性にどんな影響を与えたかについ
て、我々の見るところでは、これまで根本的謬見が行われていいたように思われる。ま
ず気候そのものについていえば、通例日本人は我が邦を緯度から見て温帯のうち三
十度から四十度までの間に位置することから、非常に気候の好い国のように迷信的に
考えているが、これは大変な間違いである。もちろん緯度からいえば、わが邦は温帯
中の暖帯であって、これが五十何度というイギリスのような冷帯とは著しく異っている。
しかし両国の気候は大陸の東側の島嶼と西側の島嶼とでは非常に大きな差異があっ
て、単に地図上の緯度の関係だけから決定することは出来ない。
大陸の西側では北まで高温であり、東側は反対に南の方までも低温である。この根
本的な原因は海流の関係に外ならない。つまり温い海流は熱帯の海中を西の方に流
れ大陸に衝突して東北に向う。そこで北の方へゆけば温流は西南から大陸の西側の
方のよほど北方に衝突することになる。だからイギリスやノルウエーでは、この海流の
影響で冬期に温度が高くなる。これと反対に日本のように大陸の東に有る島嶼では、
熱帯に近いところの対岸こそ暖流に流われるが、それから北方に向うにしたがい、暖
流は海岸を離れ、北極圏の寒帯からくる寒流が海岸を洗うことになり、そのため温度は
緯度の低いにもかかわらず同緯度の大陸の西側よりも非常に寒いのである。わが邦の
場合では台湾から房総半島までは冬は暖流の影響を受けて暖いが、北海道から奥羽
の海岸は寒流の影響によって緯度に比べれば気温は低くなっている。
気候についてもう一つ考えねばならないのは気流の関係である。大陸の西側では冷
帯のところに西から東に絶えず動いている気流があって、冬は海の気温の影響が深く
大陸に入って行く。これと反対に大陸の東側にあっては、大陸内部に冬は低温の高
気圧が起っていて、低温の気流が西から東に大洋へ流れ出るのである。そのためわが
邦の冬は、その緯度に比べ著しく低温な気流をうけることになる。
このような二つの理由によって、わが国は夏と冬との気温の較差が非常に大である。
また東京以北の北日本にあっては、冬期北からの乾燥した寒風と、南からの湿潤な暖
風が交差するため、空気の温度も激変する。日本の気候がいかに厳酷なものであるか
はこれで解ると思う。一般の邦人は日本は温和な気候を有する国であると迷信して、
風土をよく見過ぎている傾向がある。
我々の考察によれば、我が邦が厳しい気候を有するからこそ国民は現在のような発
展を遂げたのだ。邦人は苛酷な気候に久しく慣らされた結果、北海道、樺太にも移住
すると同時に、台湾や南洋にも移住し得るのである。極端な寒気と極端な炎熱に堪え
得るこのような性質は、苛酷な気候が養ったものであると見ねばならない。ただし我が
邦と接近した支那大陸と比較していえば、日本は海洋的な気候であって、支那のよう
に大陸的な気候よりはもちろん温和である。したがって支那人は邦人以上に苛酷な気
候に慣らされ。同時に邦人以上に寒熱に堪え得るのである。気候が厳酷であることは
それが温和であるという以上に邦人のために利益であったと考えてよい。
しかしこのように気侯に関連して考える必要があるのは、衛生上の問題である。コレラ
やペストのような熱帯に多い恐ろしい伝染病が支那からわが邦に伝播するのは、主と
して気候のためであり、また呼吸器病も乾湿寒暑の激しい変化の影響により伝染の危
険が大きい。
衣服なり建築なり衛生上の設備は、従来のように我が邦の気候が温和であると心得
る誤った考えでは、非常に不利益であることを忘れてはならない。
三
第三には文化の問題である。イギリスにせよ、わが邦にせよ、大陸辺縁の島嶼である
から、それ自身に固有の文化は発達し得ない。西洋の文化はメソポタヤミとかナイルと
か豊饒な大陸の平地に起り、東洋では印度のガンジス、支那の黄河および楊子江の
ような地味の肥えた大河流の流域に起った。西洋では続いてギリシャの半島、伊大利
の半島を経てフランスに入り前後にイギリスに至った。つまりヨーロッパ大陸では南方
が文化の淵源となり、その余波がイギリスに及んだことは、前述した民族移動とその趨
勢を同じくしている。東洋ではすでに約四千年前から高い文化を有する国家が黄河流
域に組織され、それが千数百年遅れてようやく奈良朝頃から、その輸入によって文化
の進歩を見たに過ぎない。文化の移動および発達の道程よりいえば、イギリスでもわが
邦でも島嶼である関係から、大陸に比べよほど遅れたという不利な運命をもっているの
である。
しかし世界の交通はここ四百年来急激に進歩した。その結果、イギリスの場合でいえ
ば従来の不利は俄然消滅して一躍ヨーロッパと他の大陸との交通の門戸となり、最近
四世紀間イギリスの世界的位置はまったく変貌したのである。アジアにおける我が邦の
位置もこれと同様で、数十年来東アジアとヨーロッパとの交通が自由となり、頻繁にな
るとともに、わが邦は不利な位置から転じて有利な形勢を招き、現在のような邦家の隆
盛を見たわけである。
四
我が邦の地理的位置を以上三つの面からみると、日本の国民というものが、民族とし
ては種々の異なったものの混血民族であり、それが永い間狭い島国のうちに閉じこめ
られて漸次融合し、ほとんど一つのものとなったと考えられる。北海道のように徳川幕
府時代の最後の百年間に漸く開墾されたところでは、アイヌ民族のように今日なお同
化していないものも僅かに残存するが、その他のところでは全体として天孫民族と蕃別
の民族を区別することはできない。国民が居住している個々の環境の影響をうけて、
多少は気質の相違があり、かつ根本の民族の違いから体質の異った点もあるが、現在
ではこのような地方的差別を無視しても決して差支え無いのである。故に日本では内
部の局部的な地理上の影響を考える必要はない。全体として東アジアの辺縁にある
地理上の位置が、民族の分布と融合に影響したことを考えるのみで充分であろう。
最後に一言したい。往々にして日本は島国であり必然的に日本の国民性は島国根
性の欠点があるとの非難を耳にする。しかし我われの考察によれば、このような非難は
全然謂われのないものである。元来島国根性とはその国が島嶼であるところから、周
囲より隔離され交通の連絡がないため、住民が心狭い性格しか持ち得ないことをいう
のであって、現今のように島嶼と大陸との交通、否、世界全体との交通が開けている時
代に、島国根性などはあり得ない。イギリスは島国でありながら世界到る所に領土を有
し、決して島国であるために国民性を損なうことはないのである。その適例は今回の世
界戦である。島国であるイギリスは世界的見地より大局を通観し、究極の勝利を得たの
に反し、大陸に国するドイツはその大陸の一局部の問題に没頭し、開戦以前より外交
の方針も誤り、その結果ついに国を挙げて挽回できない死地に陥ったのである。
また我が邦と支那とを比較しても、大陸国である支那は今なおいたずらに偏狭な排
外騒ぎで国力の発展が遅れ、島国である我が邦はかえって早く世界の大勢に順応し
て大いに発展した。これらの例によれば日本の国民性を国土の島嶼性と結び付けて
重大な関係があるように考えるのは、歴史的に変化する事情を忘れ、過去の交通不便
な時代に起った不利な現象が将来も永久に継続するものとする誤謬の見解であると
判明する。この点においてわが国民として考慮しなければならないのは、我が邦がま
だイギリスのように世界的交通が充分に開けていない点である。この点は今後国民が
世界的に事物を考察して行くことにより、多年鎖国と封建割拠によって養われた偏狭
な考え方を脱却できるであろう。
農業と日本の国民性
一
農学博士
石坂橘樹
自然界より人為階へ
農業より見た国民性の研究には、まず農業は人によっては立たず、自然によって立
つものであることから始めねばならない。ブレンターノがいうように、人間は衣食の欲、
性欲、被認識欲の順序で生きるものではないが、何といっても衣食なくては生きること
が出来ない。この点から農業がどこの国でも、その国民性に少なからず影響を与えて
いる。ただし少なからずというその程度が国により異なるところがある。日本ではその影
響が各種の方面にわたり、確乎として抜くことが出来ないほど大きい。私は現時の日本
国民性は農業的であって、他のものでないと言いたい。他の語で言えば自然的である
というのである。これは人為に対する自然の意義であって、生粋である。初生である。
まだ作物を作ったことのない土壌をバージンソイルというが、その意義のバージンであ
る。然るにこの処女然とした日本の国民性も近来は大いにアバズレてきた。これは世
界大戦の実物教育の生むところであって、好むとも好まないとも仕方がない。来るもの
が来たのであって、誰もかもジタバタせず、その運命を受け入れねばならない。解放も
非解放もあったものではないのである。
農業より見た日本国民性は大ザッパに前後二大時期に分けて研究せねばならない。
しかし日本国民が自然界を抜けて人為界に入ったのはまだ近々のことであり、これか
ら後に本来の性状を鋳型されるのであるから、今からかれこれ論ずるのは尚早であろう。
よって自然の時期における農業より見た日本の国民性を概述しようと思う。
二
農耕の起原
ボックル党やメチニコフが論ずるまでもなく、自然的環境が、誤まることのない影響を
人類に賦与したことは、大河とエル・グラントフリューブ、ヒストリク文明の関係をみても、
また一国の動植物界と国民建設の関係をみても、これを疑うわけにいかない。ただし
その範囲に異論があるのみである。誰も物理的史観論者のいうように、文明の進歩は
ことごとくそれに起因するとは思わないだろうが、これに反してマルクス、エングルスの
唯物史観は遥かに吾人を肯かせる。今日においては、この史観を超えるものはないよ
うに思う。農耕の起原が単に自然の模倣から出発し、畜産の起原が単に迷信に出て
いることはグラント・アレンやハーンの言うとおりであろう。してみれば、初めは自然をま
ねるのみで農耕は出来たので、その後自然より与えられた諸種の資料に事欠くに至っ
て、これを節約する経済的観念を生じ、この観念を実現するために諸種の生産技術な
いし経済技術が隋伴したのである。
しかし我が日本においては、一小島国にもかかわらず自然の恩恵は至大であって、
近来まで優に食糧を生むに差支えなかった。差支えはあったか知らないが、陸上産物
のみならず、四面環海であったので、魚肉類の食料は豊富であった。甚しく農業技術
の切実な必要を感じなかったのであらう。そして徳川三百年の太平と鎖国は、足らぬ
勝であっても武士はひもじいなどといっては罷りならぬとあって、無理にも自ら押えつ
けねばならなかった。さらに国民の大多数は乾物のように、死んでいるのか生きている
のか分らぬ次第のものであった。食糧の不足をいってお上からお目玉を頂戴しないの
は、ヤット明治維新以来のことである。
今であればこそ、国民の大多数が米不売同盟をやっても差支えないことになってい
るが、維新前は百姓はお豆腐を買うにもお上の承認を要するのであった。コンナことは
今いっても誰も本当にしないであろう。もっとも私も実際の目撃した訳ではない。しかし
それは本当であった。そんなに政府からは抑え付けられていたけれども、日本を背負
って立つものはお百姓であったことはいうまでもない。当時の学者はもとより、賢君名
相は皆百姓を尊重し、これを口に筆に上げたのであった。また実際に政治の上にも現
わしたのである。それ故、お百姓の社会および政治上の潜勢力は今日にまで及んで
いる。これ徳川政治の綾のあるところであって、すこぶる妙なことである。人として自惚
と何とかの無いものはないという。この自惚れは、日本は農業で海外に立つということ
である。日本人が海外に知られているのは、その娘子軍と海外農業者ではないか。腕
一本身体一つあれば、世界到るところで身を立てる。これが鎖国時代の抑圧政治の下
にあって、暗々裡に養われた自然的所産である。商業によって立つのは、まだ日本の
国民性とまで成っていない。農業的植民は日本の国民性であるといわねばならない。
三
豊作の豊凶と投機心
農を業とするものは作物を作ることのみを知って、売ることを知らない。売ることを知ら
ないとは、売買の本当の術を知らないという意味である。他の語でいえば、日本人は
農工の民であって商の民でない。これが日本の国民性である。
一体商業の極致は投機である。ことに今日ではそうである。もちろん日本人も投機を
やるにはやるが、その投機はいわゆるお天気師の投機である。真のスペキュレーショ
ンではない。これがまた日本の国民性の一つである。その由来は農業である。日本の
農業ほど不安心なものはない。それは近時米価の変動の激しい事実がもっとも雄弁に
証明する。日本の農民は天候により日々生命を動かされている。中には、今日では学
問の力により天候を左右し得るものもあり、実際これをやってもいるが、大抵のものは
虫害、これは野菜につきものだ。果実の病害、これも附き物だとしていて、テンデ頭に
置かない。すべて運は天に任せてある。しかも相当に作物のとれるのは風土が良いか
らであって、欧米にはないことであった。それだけ投機心に浸潤されているのである。
もっとも徳川時代の花札や類似のかけごとの流行は、社会上下一般に行われ、神社
仏閣の祭礼にも公けに内々に大目にされていた。それが相場の由来であるかのように
いうものもあるが、それは第二次の原因である。日本の天候の変り易いことが、農産物
の豊凶の無常を招き、従って日本の国民性として投機心を誘発助長したのである。し
かし天候の変り易さと温暖湿潤は相対的な関係であり、このため地中養分の風化作用
を促進し、日本農業の豊富な生産性を天下に誇る。悲しむどころかかえって喜ばなけ
ればならない。人間万事塞翁が馬、自然界のこともまたそのとおりである。もし日本の
天候が変り易くなかったなら、とうていこの多数の人口をこの小島で養うことは出来ない。
余り過不足なく養うことが出来るのは、終始変り易く、したがって投機心を誘導助長せ
しめた日本の天候のお蔭ではあるまいか。天道様に向って余り口はばったいことは言
えないのである。
四
日本農業の特徴
豊凶恒ない日本農業は、日本の国民性を何事も投機、一か八かを賭ける態度を育
てた。しかしこの国民性は単に天候や自然環境のみより生れ出でたのではない。常時
食料は過不足なく、優に人口を養い得たから別に経済技術の向上の必要はない。生
産技術にのみ腐心していれば、生産販売組織に心を傾けなくとも済んだのである。こ
の弊は今日においてもなお日本の上下一般に付きまとっている。全体の販売組織に
心を傾けないのは、生産が豊富であって生活の困難を来さなかったせいもあったであ
ろうが、翻って考えてみると、営利は生産が豊富であってもなくても、また豊富であれ
ばあるほど起るはずのものであるのに、そうでなかったのは、結局農業が日本国民性
に賦与したものが、物を作る民であって商売の民でないからである。商売は人を悪くす
るはずのものではない。かえって人を質実に、ゼントルマンライクにするものである。イ
ギリス国民の商売に見るようなものであらねばならない。しかし我が邦では商人同志の
間に「旨くやった」といって、他の不注意に乗じて儲け仕事をするなど、商売の何かを
解していないのである。そして、真に商売の何たるを解しないのは、天候によって相場
をする思想および情緒が日本国民性となっているからだ。日本人は浮かれ易い、悪く
いえば軽卆であり、革命などに乗りやすい、電車の焼き打などに荷担しやすい、煽動
政治家が乗じやすい性分である。あたかもフランス国民のようであるというのも、矢張り
農業が与えた国民性であり、もとは一つであってその分派にすぎない。私はフランスの
国民性についていうものではないが、その国民性が日本に似通っているのは小農制
の故であって、農制も風土の影響のあることを考える。アーサー・ヨングが嘆息したよう
に、礫土をも黄金化するフランスの自作小農制は一面フランスの土壌の自然が根底に
なっている。もしそれがドイツのように痩せ地であったなら、決して桜花に浮くような国
民性を得ず、もっと重々しく動かない組織的な国民性を賦与したであろう。そして大農
制を生ずるに至ったであろう。もちろん人口や法制などが影響を与えたことは否定しな
いが、根本的にはそう思わざるを得ない。
五
愛郷心
余りにボックル党のようであるが、何といっても農業は生産のこともあれば国家の由来
するところでもあり、自然の環境に接するものは何であっても農業の影響を免れること
は出来ない。我が日本で徳川時代の町人が大名を金銭の力によって左右する時代に
なって以来、農業の自然的環境に対して経済的社会的環境も重要さを増してきた。そ
して遂に今日のように社会的環境の人生に対する意義を大いに認めなくてはならなく
なったが、実は今のところは時ならぬ気候がきて早芽が萌出した観もある。その後天候
があと返りもせずに、幸か不幸か芽生えは順調であるから、従来の農業的自然的環境
が生み出した、そしてほとんど固定化した我が国民性も、今後は人為的社会的経済的
環境の鋳型にはめられるであろう。これからの日本国民性は、農業的生産の臭味より
脱して、商業的人為的生産の臭気を帯びなくてはならない。それは善悪の問題ではな
く、必ずそうなるという必然の問題である。しかしそれは後々の話で、今は農業より見た
日本国民性としては、外国に出て、農業によって金を儲け錦を飾って故郷に帰ろうと
いう郷土心、これはすでに述べたように日本に固有な国民性であって農業に由来する
ものである。それはよくいえば一種の愛国心であって尊ぶべきものには相違ないが、
悪くみればしみたれた、ひっこみ思案であって、こんな小さな心では日本民族はとても
世界に乗り出る望みはかけられない。さらにいえば、外国化しない日本国民性もまた
農業に由来するのであって、アメリカで相当に成功した農業者がアメリカ化しないため
に排斥される理由である。外国化しないことは、一面よりみれば前述の郷土心と因果
関係もあろうが、さりとて外国化しないからといって必ずしも錦を着て故郷に帰りたいか
らだけでもない。それは別のものとみて差支えあるまい。また同じものと見てもよいであ
ろう。
六
農と忠君愛国
愛郷心、よくいえば忠君愛国は、日本国民が永く農業国民であったのに基く。そして
農業国民であり得たのは、日本の国土がよく農業に適するからであった。農業に適し
たから、それだけでよく民心を安んずることが出来た。一方日本の国土が食糧を相当
に産出してくれて、民心を安からしめたのは、その風土が変り易いからである。風土の
変りやすい天候のため豊凶常ならぬ国は、今でもそうである。その移り易さを男心と秋
の空と感傷的に詠んだのは女心であるが、平俗にいえば、いまいましい相場心を日本
国民全般に植えつけたのも気候の移りやすさである。世間一般に相場師といっていや
しむが、その実は相場を試みたくなくもない、成金を蔑みながら成金を夢みることなくも
ないという人心は、日本の国民性の中に、どうもあるようだ。いや農業よりみても、ある
はずである。あるのが当然である。この相場心はただ都会にあるのみではない。相場
はいわゆる米屋町を連想させるが、実は米屋町は日本全国どこにもあるのであった。
その具体的シンボルは最近の株熱がもっとも適切な例証であろう。相場心は一方にお
いては錦を着て故郷にみせびらかすという被認識欲にも当るのであって、そしてこの
郷土心は外国化しないゆえんでもある。これがイギリス人であれば決して故郷にみせ
びらかさない、植民地に新たにスィートホームを作り、溜めた金を故郷に持ち帰らず、
そこに死ぬ覚悟をする。愛国心が国家と社会とを大体合一した当時は、一民族内の協
力を内容とする感情に過ぎなかったが、今日では国家という地理的組織のほかに協会、
組合、学会などのような機能的組織が発生する世となり、社会は国際的となっている。
国家は一面ではその国民の個性の保護を目的として民族的自治を行うと同時に、他
面では国際的組織を保障し、各民族を共同に発達させなければならないという新しい
観念が生ずるに至ったのである。日本国民の愛郷心、相場心、外国化しない心も早晩
変化することであろう。いや変化しなければ、国も立ちゆくまい。しかしそれは農業の自
然的時代のことではない。農業の人為的時代に入って後のことであってもならない。そ
れは今すでに来ているのだ。
七
農業より出た依頼心
農業より見た日本国民性として郷土心、投機心、外国化しないことを挙げたのは、
何事でもお上のすることはご無理ごもっともで閉口頓首、いうべきことをいわず、権利を
主張しなければ義務も守らないことである。何事にも攻府にお頼み申すことである。こ
れは農業が自然一天張りで出来ていることによるのである。一面よりみれば、まことに
良風美俗であって、これも徳川政府がもっとも力をこめて涵養したものである。それが
習い性となって大正の今、なお官尊民卑、事大思想に捕われるゆえんである。良風美
俗は今なお常識上尊重するところであり、これをけなすこともないが、あまり良風美俗
に拘泥すると、「凝っては思案にあたわぬ」で、その弊害が我が国民性に現われてい
るのは誰しも知るところであろう。官僚式といえば人の苦笑するところである。今日は官
僚自らこういう位であって、互いに戒めるところである。しかし農業にあっては、今なお
天然に依頼することが、もっとも経済的農業なのである。もっとも利益ある農業といえば、
沃土に農業を経営することである。痩せ地に農業を営めば骨折損のくたびれ儲けに
終らねば幸いである。それ故に、農業そのものにあっては、依頼心は今なおまったく捨
てることは出来ないばかりか、大いに尊重しなければならない。しかし自然以外のもの
に依頼することは農業にあっても間違いである。もし余り官にのみ依頼するならば、我
が邦の農業は立ち行かないことは明かである。近来農業者自ら立って米の不売同盟
などをやったのは、事の善悪は別問題として大いに望むべきことである。私は日本国
民性としていたずらに他を頼んで自らを頼まないのは、その御本尊である農民自らが
打切ることであるから、将来は日本国民性としての依頼心は早晩なくさねばならないと
思う。このような依頼心がない時代になるのは、農業が自然に頼らない人為的時代に
入ってからのことであるのは言うまでもない。
八
民族性の外国化問題
国民性として外国化しないことは、尊ぶことのようであるが、アメリカにおいて排斥さ
れる原因となっているのをみれば、あまり褒めた話ではない。それはそのはずで、世間
並みにならなければお互い同志の間で排斥されるのは当然である。差支えない限り
吾々はなるべく外国化しなければならない。外国化するといっても、外国の悪習慣を
学ぶには当らない。しかし習慣の善悪、便否はその土地にあっては善が悪となり、便
が不便となるものであって、必ずしも良風美俗はいつまでも良風美俗にあらず、不便
な習慣も便利となるものだ。コンパートメントは住んだことのない人には不便であろうが、
住み慣れた人たちは大い便利とし、これでなければビジネスライクでないとさえいう。こ
れは実際丸の内の三菱村の住人皆同様とのことである。日本国民性の外国化しない
ことも早晩持ちこたえ切れまい。すでにその徴候は表面に現われている。農村でさえ
不売同盟のような人聞きのよくないことを表立ってやったではないか。なぜやったかと
いえば、唯物史観をよく解釈して余りあるのである。外国化ということは語弊がある。世
問並になるまでのことである。
農業よりみた日本国民性の研究をすればするほど、吾々の尊重する日本国民性も
影が薄くなったことをおぼえずにいられない。影が薄いなどといえば嘆くようにも聞える
が、嘆いたところで始まるまい。来るものは来り、去るものは去るに決まっているから、
何をくよくよ川ばた柳、浮くのが当世向きではないか。農業が人為的時代に向うこと激
しいものがあるのは、当世向きである証拠である。農村の到る所で蚕を養い絲を引くの
はそれである。これはアメリカと直接によりつもたれつするゆえんである。アメリカが生
絲を買わなければ日本農民は困る、商人は困る、国家が困る。八八艦隊が出来ても
重油は数日間航走するだけしかない、さりとは心細い話。食糧の独立、軍器の独立。
石油の独立、何もかも独立せねばならない。それには農業の発達が第一。イギリスの
ように今さらこれを認めて努力しても日数が足りないという話である。
農業と日本の国民性からみて、農業を尊重する以上は、農業が自然時代を早く抜け
出て人為時代に持っていかねばならない。それにつれて日本の国民性も変動するに
違いない。その変動はよくも悪くも仕方がないのであって、ゆく所にゆくのである。心配
するには当らぬと思う。早い話が農業より見た日本国民性の一つである相場心も、農
業が自然時代より人為的時代に入った後には、かえってお天気相場はなくなって、真
の科学的投機になるだろうと思われる。あるいは相場は全然跡を断つようになるかも知
れない。それは農村について特に明らかに言うことができる。例えば豆粕は、今日で
は農民みな相場をして居る。その相場というのは先が安くなるだろうといって、施用季
節になるまで買入れぬだけのことであるが、それは矢張り彼らの相場である。季節にな
れば誰も彼も買入れねばならないから、皆の衆が一時に買出す、定期が上がる、上が
っても品物が間に合わない。商人にうまくやられるという段取になる。毎年この例を踏
襲して、いつも実害を受けていても矢張り同じ伝でやられる。それが農村の相場なの
である。そしてこの相場が同じように都会の米屋町にも流行するのである。真の相場術
そのものは我が市場には見られない。大ざっぱな非科学的なお天気次第でどうでもな
るという占いのようなものに過ぎない。ところが農業の人為時代に入れば、万事が組織
的で経済的で社会的に連絡統一をはかることが出来るから、生産者と浪費者との間に
無用の中間者を要しない。したがって間に相場を試みる余地を与えない。チャンスを
なくすことが出来る。チャンスがなければ相場を試みることは出来ない。今はチャンス
だらけだから、無智無識のものも、人並にお天気を張るのである。チャンスのない時代
となれば、今日のお天気的相場はなくなるはずである。こういう時代になれば、日本の
国民性もよほど質実となり、組織的となるであろう。なにしろ国民の六、七割を占める農
村の居住者が環境の影響によって変化を受けるのだから、全体の国民性も動かずに
は済まない。今時の日本国民性が根底より揺るがされても心配はしない。ある意味で
は喜ばしいことであろう。
九
人為時代の農業
以上、日本国民性の欠点を挙げたが、これらは反面、愛国心、商業心、独立心の名
で、日本国民としては尊重すべき性質であって、尊農論者は大いに称揚拡張すべき
だと叫んでいる。もっともなことで、これらの国民性の一層の固定を望むが、ただし望ん
で容易に得られないことだけは心得ておかねばならない。農業が自然に立ち、人によ
っては立たずに済んで来た自然時代の間にこそ得られ他国民性であるが、人為時代
に入ったが最後、望んでも中々得られないものになる。そして今は我が日本農業も人
為時代に入ったから、農業より見た日本の国民性も早い変貌を見せるであろう。
日本国民性と植物界
理学博士
草野俊助
一
生物は系統的特微と適応的特徴とを備えている。系統的とは環境の変化によって動
揺しないもので、適応的とは環境に順応して現われたものである。この二つの区別は
厳密ではないが、どの生物にも大体この二種の特徴が認められる。例えば鯨の四肢
の骨組は獣類と同様であって系統的特徴を示しているが、後肢は肉の内に隠れて見
えないにしても、魚類の鰭と外形も作用も同じである前肢は適応的特徴を表わしたも
のである。
国民性を研究する場合にもこの二つの特徴のあることを考えねばならない。大和民
族に固有な遺伝的性質と国土あるいは社会制度の環境によって作り上げられた性質
のあることを推定しておきたい。もちろん国民性のどの部分が民族固有のものであるか、
また環境の影響によるものであるかという断定は、多方面からその全部を研究した後
の結果を見た上でなければ出来ないが、研究に取りかかる前にこの二つの方面のある
ことを念頭に置く必要がある。
私は国民性と植物との関係についても、この二方面から観察することが出来ると考え
る。国民性が日常接触する植物界に反映して現われる方面と植物界が環境として国
民性に及ぼす方面とがそれである。つまり一方は植物という写真の乾板の上に映った
影として、他方は植物という環境の像を映写する乾板として国民性を取扱うことになる。
しかし何れの場合においても人の精神対植物の問題にかかわるので、私のような精神
作用についての知識のない、この場合においての片輪者が、国民性の内から植物に
関連する部分を選出する能力、まして一々それを分解して批判する資格などあるはず
がない。であるから何らの主張はせずに、ただ協議の材料として、私の頭で国民性の
問題に触れていると思われる二、三の点を提供するに止めておく。
二
日本人の姓名には植物の名が多く使われていることは誰でも認めるであろう。梅村、
松本、竹沢というような姓、あるいは松造、竹治などという名前は、欧米人の姓名にもあ
るかも知れないが、普通ではない。人の姓名には植物ばかりでなく、他の自然界例え
ば山、谷、川、池、原のような地形や熊、虎、馬のような動物の名を借りるのも同様に多
いのは事実であるが、今植物の立場から見るならば、とにかく人の姓名に植物の名称
を借りることが、どのような因襲や理由があるにせよ、植物界に映った日本国民性の影
と見ることが出来よう。生れた子の名前は必ずしも親が慎重審議のうえ附ける訳でなく、
無造作に取扱われる場合も六千万の人の内にはかなり多いことであろう。その無造作
なことはかえって国民性の発露を鮮明にする。
社に杜(もり)は付き物である。社のまわりの樹木の植込は風致や社殿の背景として
取扱うものでない。人工の加わらない自然の森は、ことに老杉などの薄暗い森は、森
厳性を具えている。そこに敬神の念が自然に湧き出て来る。これは形式的でなく素朴
の念である。私はここに日本国民性の濃厚な影を認める。
山が高いということでなく、樹があるので貴いのだという思想は古来禿山の多い支那
辺には起り得るかも知れないが、山国の日本では、今日の有様は別として、山には樹
が繁っているのは当然で、禿げているのはむしろ珍らしいのであつたろう。事実日本
の多湿な気候は人為的な障害がない限り、大体において欝蒼とした森林が山岳に成
立ち得るのである。ところが山には樹のあるのは当然であると思う日本人の頭には、平
地には林のあるのは異例で、草の生い繁っているのが普通であるから、山と木、平地
と草を結び付けて考える傾向がある。これは島国における狭い平地が早くから耕作地
になって樹木が追い払われた我が邦自然の成行として、草と木との根拠地が割然と別
れたのである。欧米大陸のように広大な平地を蔽う森林は日本人の頭に浮ばないから
であろう。それゆえ私共には森という言葉は社の森のような田園の中の小さな樹立ちを
表わし、「薪取りに森に行く」は使われず「薪取りは山に限られる」ような感じがする。こ
のような観念は土地の開ける程度によって変り得るものであるが、我が国士の特徴の
影響も少なくないことから、大陸の国民と違った日本国民の思想を、この場合多少窺
い知ることが出来まいか。
これと同様に盆栽、庭園、花道の上に表われている日本人の樹木の姿勢に対する
趣味、不自然な奇形的な姿勢を愛翫する心理の起因は、種々あるかも知れないが、
外人がこれらを日本式と称しているのを見ると、そこに国民性が映っている疑いは充分
にある。
欧米人は樹木に喬木と灌木の区別を立て、普通に取扱っている。それで日本では
樹の下というところを、あちらでは喬木の下と表わし、普通の叙述には喬灌木の総称で
ある樹木という語は使わない。またあちらでは草類に穀草と他の草類とを区別して、日
本で一般にいう草地の代りに穀草地という意味の語をあてている。草地は概して芝、
萱のような穀草類が跋扈(ばっこ)しているのである。このように欧米と日本とを比較し
て見ると、植物に対しての思想に精疎の差違を認めるが、やはりこの場合にも日本人
のある特徴が現われているであろう。
植物の国民性に及ぼす影響は、私共の立場よりも文学者の方面から見れば能く判り
ましょう。山桜の花は大和心の表徴であると歌われる。時には吾々は桜の感化を受け
るような気がする。しかし冷め易く散り易い国民性までも桜の感化に帰するのはどうで
あろう。国民の系統的性質が偶然桜と同気を相求めたのかも知れない。そのほか種々
の我国土の草花や植物景観がどの程度まで国民性に影響を与えるかは私にはまだ
解決のつかない問題であるが、諸方面からの研究によって国民性の善導に植物が貢
献することが明白ならば、私どもは植物の物質的な利用を講ずるばかりでなく、精神的
利用のために広く世界に適当な植物を求めて我が国土に移す道を開く努力をしなけ
ればならない。
米食営養と日本の国民性
〇
農学博士
沢村
真
瑞穂の国に住めば
豊葦原の瑞穂の国――これが我が大和民族が生を託する国土である。瑞穂の名は
稲の穂の房々として茂る様子に由来するから、我が国民の命をつなぐ食物が米である
のは怪しむに足らない。エスキモーは草木の生じない極寒の地に住むから魚や獣の
肉で身を養い、熱帯の蛮人は五殼が実らない土地にすむから椰子の実を採って飢を
しのぐ。我が国のように五穀、ことに稲の生長に適する豊穣な国土では、これを捨て他
に食を求める必要はまったくない。開国以来三千年、もっぱら米により生活してきたの
は決して偶然ではない。
動物には肉食をするものと、草食をするものと、果実を食するものがある。人の祖先と
見られる猿は果食動物であるが、これから進化した人間は純粋の果食者ではなく。果
実とともに肉も摂るので、雑食者という。そして国民によっては肉を比較的に多く摂るも
のとそうでないものがある。エスキモーはほとんど肉食のみをする者で、欧米人は比較
的肉を多く摂る人民である。これに反して印度人のように全く肉食をしない国民もある。
日本人の肉食する程度は、どのくらいであろうか。まず比較のために諸国の一人当り
の年間獣肉消費額を挙げて見よう。ただしこの調査は第一次世界大戦前のものである。
オーストラリア
276 ポンド
アルゼンチン
160
北米合衆国
150
イギリス
118
ドイツ
115
カナダ
90
フランス
77
オーストリア
61
ロシア
51
スペイン
50
イタリア
26
世界最大の獣肉消費者はオーストラリア人である。オーストラリアは土地豊富であり
牧畜業が盛んな結果である。イタリアに少ないのは、一は牧畜が盛んでないこと、一は
地中海に踏出した長靴形の国であるためである。
さて、日本はどうかといえば、大正七年の農商務省統計によれば、全国の屠殺家畜
の頭数が牛、馬、豚、羊、山羊を合せて 64 万 9369 頭で、重量が 1 億 1222 万 6550
斤である。このうち牛の精肉量は全体の 34%であるから、これにより全精肉量を計算し
国民一人当りを割当てれば、一年一人当り僅かに 2 斤 2 分、すなわち 1,8 ポンドとな
る。もっとも朝鮮や青島などからも多少輸入される肉があるが、それは九牛の一毛で計
算に入れる必要はない。我が国民は欧米人に比べ、獣肉を摂ることは非常に少いと認
めねばならない。
〇
肉食しない理由
日本人が獣肉を摂るのが少いのは、いうまでもなく我が国に牧畜が盛んでないから
である。牧畜の盛んでない理由は、歴史的な関係である。国民の生業の発達は、狩猟
漁撈をする原人が少し進んで遊牧の民となり、さらに進んで住居を定め地を耕す農業
の民となるのが順序である。ヨーロッパの国民はこの順序を踏んで進んだ国民である
から、今日農業を営んでも前時代の遺物の家畜を多く飼養する。西洋の農業では耕
種と牧畜とは離せない関係にある。しかし我が大和民族は、豊蘆原の瑞穂の国でこの
発展順序を踏んでいない。我々の祖先が来る前にこの土地に居住したコロボックルは
漁魚により生活した。また他の前住者であるアイヌは狩猟により生活した。しかし忽然と
して蜻蛉州(あきつしま)に来往した大和民族は、すでに遊牧の時代を経過した開化
の民であったので、この国に来るや否や、ただちに農業を始めたのである。彼らは遊
牧を営なまないから家畜を飼養するはずがない。牛馬のような家畜が神代にあったか
否かは問題であるが、あったとしても家畜の群を伴い居を移したヨーロッパ人のように
多数を飼わなかったことは疑いない。もし彼らの生活に家畜が必要であったなら、家畜
は彼らの子孫の繁殖と同様繁殖したであろうが、家畜は彼らの生活に必要の少ない理
由が幾らもあって、繁殖が計られなかった。
世人は我が国の畜産業の不振を見て仏教の影響に帰し、聖武天皇の御宇に肉食を
禁止し、飼育中の禽獣を山野に放つよう法令を出した結果であろうと思うのは誤りであ
る。宗教の力がいかに偉大であっても、自然の要求はとうてい絶滅することは出来ない。
僧侶が遂に公然と肉食妻帯するに至ったのでもわかる。
牧畜が盛んにならなかった理由は、第一に我が国は海岸線が長いのと、国内に河川
が多く水運の便が良かったので、運輸に牛馬の背を借りる必要が少ないためである。
第二には食物として獣肉の需用が比較的に少ないためである。ヨーロッパでは、地中
海沿岸の諸国を除き、魚類の捕獲は少なく、ドイツなどでも魚肉は獣肉よりもかえって
高価であった。肉の美味は人が皆好むところであるから、いかに瑞穂の国であっても、
たまには米飯のほかに美味を求めることはあったであろう。この動機に国民の食指は
獣肉に向わねばならないのに、僅かに鶏肉程度にとどまってしまった。それは日本の
近海に気候と潮流の関係から魚族の繁殖に適し、魚介の捕獲が豊かであったからで
ある。肉に対する欲望を魚で満足させることが出来たのである。現にイタリアで獣肉の
消費が比較的に少ないのは、我が国と同じく地中海の宝庫に数多くの魚族を貯えて
いるからであろう。我が国の魚獲量が多いことは統計の示す所で、大正七年の調査に
よれば、一年間の魚獲量は 2 億 7361 万 4622 貫の大量である。魚類の可食部は五割
から七割位であるが、仮に五割五分として魚肉量を計算すれば、一年一人当り約 3 貫
目である。獣肉消費高の2斤 2 分と比べれば五倍以上の多量である。我が国民が蛭
子以来の漁者であることは、これにより明らかである。そして魚肉獣肉合計すれば我が
国民一人一年間の肉消費額が約 26 ポンドとなり、イタリア人の獣肉消費量とほぼ匹敵
する。
〇
肉食の害
以上統計の示すところによれば、我が国民はヨーロッパ人に比較すれば肉食の民と
はいい兼ねる。先の西洋崇拝の盛んな時代、つまり鹿鳴館で貴顕紳士が仮装会など
をして外国人の嘲笑を買い、あるいは西洋人と雑婚して国民を改造せよなどという優
生学が唱えられた時代には、日本人の体格が倭小なのは肉食しない結果であるから、
大いに肉食を奨励しなければならないという説がもてはやされた。今日ではこのような
迷信的な議論はないが、知らず識らずの間に国民は獣肉に対する嗜好を増して来て、
まさに肉食者の伴侶になろうとしつつある。我が国の趨勢が肉食に進もうとしているの
に反し、肉食の本元の西洋では、肉食排斥、菜食奨励の議論があり、熱心な実行者
のあることには一驚せざるを得ない。
西洋の菜食者が肉食を排斥する理由は、もとより印度人の精進とは出発点を異にし、
全く健康上の見解から起ったのである。西洋の菜食者は仏教信者と異なり、牛乳のほ
かに卵も自由に用いる。彼らはなぜ肉を排斥するかというと、人が疲労するのは尿酸と
いう物質が多量に体内に集積する結果であり、またピュリン塩基という物が腎臓を刺戟
して腎臓の病を起す。だから尿酸やピユリン塩基を多く含む食物、もしくはこれらを生
ずる物質を多く含んだ食物は健康に害がある。肉類は尿酸やピユリン塩基を含む上、
これを生ずる物質も多く含んでいる。よって肉食は労働する人とか、腎臓の機能のす
でに衰えた老人には特に害が著しい。
また肉食をすれば便秘すする傾向がある。便秘すれば食物の残滓つまり糞が長く腸
に留まり、細菌に分解されて毒性のある物質を生じ、これが吸収されて組織に入って
中毒作用を起し、特に腎臓を弱める。こうして、口に苦い薬が病に利くのに反し、口に
旨い肉は身体に悪いものとなる。孔子も「肉が多く出ても食気に負けてはいけない」と
宣言した。
〇
菜食の利
肉食はこのように栄養上の不利があり、日本人が従来肉食を多く摂らなかったのは、
偶然にも栄養の理に適っている。しかし日本人は肉食をしなかったために、西洋人に
比べれば体重が二割以上も軽く、矮小の人種になったのではないかと疑われるが、こ
れは事実ではない。もし肉食が動物の体を大きくする効果があるとすれば、虎や獅子
は牛馬よりもずっと大きくならねばならない。事実はこれに反しもっとも大きな象は草食
動物である。ただし身体の大きさは食物と関係ないとしても、力の強弱は食物の種類
によると思う人もあろうが、これも事実ではない。肉食をする虎や獅子は獰猛ではある
が、力を出すことは牛にとうてい及ばない。絶対的菜食の印度人が西洋人に伴ってヒ
マラヤに登るとき、半裸体の服装で山上の寒気に堪えるばかりか、山岳の歩行に疲労
の状を見せないのは、西洋人も一驚するのである。したがって、日本人も肉食すること
が少ないとて、体格の発育に悪影響を及ぼすことがないのはもちろん、力仕事をする
にもいささかの不利もないと認めてよかろう。
日本人の菜食の主なものは、瑞穂の国の名が示す米である。米の熟れる木はいね
である。いねはまたよねとも呼ばれるが、いねは命の根でありよねは世の根という意味
である。米が古来いかに尊重されたかは、この名によって知ることができる。しかし日本
人と云えば、米ばかりを食していると思うのは誤りである。麦、粟、豆はもちろん、琉球
から渡来した甘藷も、西洋から舶来した馬鈴薯も盛んに米に代えて常食にする。三、
四年前、米価暴騰の折、政府から芋飯の奨励に派遣された役人が田舎に行ってみる
と、百姓連は如才なく芋を食しているので、手持不沙汰であったと聞いた。これは当然
のことである。
都会の生活状態ばかり見ている政府の人は、日本人は米ばかり食していると思って
いるから、雑食奨励などの議も起るが、こんな世話を焼く前に、お手元にある統計を一
覧するがよい。私は農商務省の統計により、我が国の動物質を除いた食物の生産量
を比較してみた。我が国で生産した食物はほとんど全部我が国で消費し、外国へ輸出
することはほとんどない。また外国から輸入する食物も米のほかにはほとんどない。し
たがって本邦で生産した食物の量を調べれば、我が国民の消費する食物の量がわか
る。この表では食物の量は熱量で示してある。サームとは千カロリーのことである。
米
246 千万サーム
麦類
83
芋類
55
54%
雑穀類
16
豆類
26
野菜
35
麦から野菜まで 46%
このように日本人の食物は米ばかりでないばかりか、米は僅かに 54%を占めるに過
ぎない。蜀山人が「世の中は何時も月夜に米の飯さてまた申すかねのほしさよ」と江戸
の真中で吟じたから、昔は花のお江戸でも隨分雑食が行われたと見える。
〇
米とパンの対照
日本人はこのように雑食しているのだが、西洋人とは違うところがある。西洋人は小
麦またはライ麦で作ったパンを主食とするが、日本人は米の飯が主食である。そこで
西洋カブレをした人は、米飯は果してパンより優れるかと考える。特にバタ臭い連中は
日本人の沢庵でお茶漬ザクザクは亡国の基と歎く。しかし私はとうてい同意出来ない。
彼らがパンを飯より優るとする理由は、パンなら必ずバターをつけて食べるが、飯は沢
庵ででも食べられるから、営養不良に陥る恐れがあるという。
物事は見ようによってこんなに違うものか。泥棒が錠前を開くに良いものと思った飴
は、孝心の舜には歯のない老母に捧げるよい食物と思えた。私も沢庵に茶漬は蛋白
質に乏しくて良い食物とは認めないが、さりとてパンにつけるバターを大変に滋養性に
富んだ食物とは認めない。バターは要するに脂肪の塊である。多少ビタミンには富ん
でいても、蛋白質はほとんど含んでいない。脂肪の塊がなぜそんなに尊いのか。生命
の元である蛋白質に富んだ物なら、米なり、麦なり、蛋白質に乏しい食物に付けて、滋
養価値を増して大きな利益があるが、脂肪であれば、パンにつけても生命の根元であ
る蛋白質不足の問題は一向に解決しない。バターをつけるからパンが米に優るという
議論は、髪が赤く眼が碧いから西洋人が優るという議論と論理においては同じと思わ
れる。
バター問題は別として、米食をパン食に代えようという理由は、米は南アジアの一部
に作られるに過ぎないが、麦は世界の各地に作られる。我が国の米作が不作のとき、
米は輸入が困難となるが、麦は外国から買入れるのに都合がよい。世界の供給にユト
リのない米は、我が国では内地の米作の豊凶により、米価に大変動を生じ、一石五、
六十円もするかと思えば、たちまち二十四、五円に暴落する。食物は高くても安くても、
一日に要する養分の量を増減することは出来ないから、食物の価はなるべく変動がな
いようにしなければ生活の安定が保てない。これらの不利を避けるには、米食をやめ
てパン食に改めるのがよいという議論である。
なるほど我が国が世界と経済を共通にした現在では、隣近所の国との交際は大切
である。コブデン・ブライトの主張に従えば、土地狭く人口過多な我が国では、世界に
多く生産する麦を輸入して生活する方法を立てる必要がある。しかし事実は不幸にし
てコブデン・ブライ卜の主張が立国の安全を計る上に不利盆なことがわかった。ウイル
ヘルムの悪戯から火花を散した今次の戦争は、国家経綸の上に幾多の教訓を与えた
が、帰する所は戦前にドイツなどで国是としていた食物の自給が、安全第一の策であ
ることを証明した。
現に戦争中英領に属する各国では、麦類を本国へ送るため他国への輸出を禁じた。
米は欧州人の常食でなかったから、ベトナムなどの米は禁輸されず、我が国で買入れ
ることが出来た。もし我が国民がパン食をしていたなら、三、四年前のような食物不足
の場合に国民はいかに苦しんだであろうか。内閣が二、三度変る位ではとうてい収まら
ないであろう。この場合我が国民が米食の民であったことは不幸中の幸いであった。
〇
食料生産の現状
食物の自給を図らねばならないのは、八々艦隊や二十幾師団を備えなくてはならな
い世の中であることを見て分るであろう。しかし食物の自給を図るとすれば、一定の土
地から最も多くの養分を生産する作物を植えて常食とするのが当然である。一定の土
地から最も多くの養分を生ずる作物は米であるか麦であるか、あるいは芋であるか。統
計により計算して見ると次のようになった。
一反歩より生ずる養分量
米(白米飯として)
72 万カロリー
小麦(パンとして)
23
大麦(麦飯として)
45
甘藷
96
馬鈴薯
76
この計算によれば、芋を作るのが最も多くの養分を生産する。しかし芋は風味の上
において米や麦に劣る。風味を斟酌すれば、米飯でなければパンであるが、この二者
を比較すれば、米は小麦よりも三倍多く養分を生産する。故に食物供給の点から見れ
ば、米ははるかに麦に優るのである。
したがって米を産する国はたいてい人口が密である。もし我が国民が米を作らなかっ
たなら、五千幾百万の人口はとうていこの国に繁殖できなかったであろう。大和民族が
米食の民であったことは誠に慶賀すべきことである。しかし米が麦に優るとしても、パン
を排斥せよというのではない。米の足らぬところはパンなり、麦飯なり、芋飯なりで補う
のがよい。ただパンのみを常食として米作を廃せよという妄説を排斥するのである。
〇
優良な国民である理由
要するに、日本人の食物は雑食であって、しかも米が主食物となっている。この事実
は我が国民性に知らず識らずの間に多大な感化を与えたように思われる。その理由を
述べると、肉食を盛んにしようとすれば、家畜に接触する機会を多くしなければならな
い。畜生に接触する機会が多ければ、人倫として超越した性行が多少変わるようにな
りはしないかと思われる。特に内食をするには屠殺という残酷な仕事をしなければなら
ない。支那人は君子は厨房を遠ざけるなどといって、自分だけ血なまぐさい所を見な
ければよい事にして、平気で肉食をしている。肉食をすれば誰かが罪のない生物の命
を縮めねばならない。大和民族は仁慈の心に富み、かのパルチザンに比べれば千分
の一も残忍性がないのは、肉食をしないことが原因の一つである。
そしてもっとも生産の多い米を選んで常食としたことは、狭い大八島に五千幾百万の
大和民族が生活出来た一大原因であることは少しも疑う余地がない。今日大日本帝
国として世界五大強国の一位を占めるに至ったのは、三千年来米を食して、天の時地
の利に優った人の和を保ち、民族の大繁栄をもたらすと認めるべきである。食物が国
民性に及ぼす影響が大きいことは明らかである。
我が国民性と衣食住の欠陥
医学博士
戸田正三
一
わが国の子供、ことに一歳から五歳までの子供は冬季において実によく死亡する。
そのうちの大多数は初生児である。この点について第一に考えられることは、日本家
屋の不完全さである。子供は母胎内にある間は三十七度の体温のなかで湯に浸った
ような心地よい状態のもとで発育し、発育とともに分娩によって外界に出される。我が
国の出産率は冬季が最も高いのであって、こうして生れた大多数の子供は、三十七度
の体温から急に暖房設備のない、いわば人類の住宅条件としては質の劣等な家屋内
に置かざるを得ない。温度の変動が余りに急激で、しかも皮膚は世慣れていないため、
子供の体温の維持は必然的に困難となる結果、呼吸性の疾病(風邪が誘因となって)
にかかりやすい。そして肺炎(気管支肺炎)で死亡するものが頻出するのである。何故
といえば我々の体温が三十七度の恒温を維持することは人間の生活を営むのに欠く
ことのできない絶対条件であって、しかも日本家屋内では冬期にしばしばこれが困難
となるからである。このため母親は子供を自分の懐に抱いてよく暖めてやらねばならな
い。そうしないと冬季に生まれた子供は育ち難いわけである。今や産業の発達にともな
って、婦人の工場労働に従事するものが都市内において著しく増加しつつある。もし
職業上の関係で初生児に対する母の保護が幾分でも滅少するなら、上述の理により
冬季の死亡率は一層高まるであろう。
次に夏季においては、本邦気候の特徴として六月から九月は気温が非常に高く、同
時に湿度がとても高い。かような気候は人々の生活作用つまり新陳代謝機能を営むの
に困難を感じさせる。成人においてそうであれば幼児は皮膚の機能がまだ発達してい
ないから、外界の刺戟に対し敏感な反応ができない。温度と同時に湿度の高いことは、
その生活作用に悪影響を及ぼすから、この季節には初生児の衣食住に周到な注意を
払わなければならない。そうしないと容易に下痢、腸炎などの病に罹り易いのみならず、
死亡させる危険も大きい。
二
このような我が国民生活の欠陥は次の統計が明かに語るところである。
(大正 2 年度の年齢別男女別原因別死亡者数――略)
つまり我が国民のうち死亡率の最も高いのは0歳以上5歳までであり、死亡の主な疾
病は前述したような理由で気管支炎および肺炎である。また次に詳しく述べる理由か
ら下痢および腸炎である。
次に注目すべきは 15 歳より 30 歳まで、中でも女なら嫁入り前後、男なら徴兵適令
前後のものが数多く肺結核およびその他の結核性疾患で死亡する事実である。元来
この年令の者が死亡するということは人類生活の例外でなければならないのが、特に
我が国に著しいのはなぜであろうか。どの文明国においてもこれらの悲惨な現象は文
化と共に低下しつつあるのに、日本ではこれが増加する事実はなぜであろうか。以下
邦人の生活条件、衣、食、住の三者に現われた国民性の欠陥をざっと観察してみよう。
ついでに生活方法の欠陥に基いて、邦人が死亡しつつある主な疾病原因ならびに
最近の状況を示そう。もとよりこれらの疾病は老年期に来るものと異り、避けようとすれ
ば容易に避け得る性質のものである。
三
第一 衣服 いうまでもなく衣服は我々の体温を自由に調節するためのものである。
今もし気流が摂氏 27 度(華氏 80 度)を超過し、無風の居室内に生活する場合は、衣
服の必要を認めない。それ以上に気温が高い場合は、体温の放散が困難なばかりか、
着衣が乾燥していない時には我々の体表面の蒸発作用は著しく制限され、身体の放
温作用(放射、伝導および蒸発の三作用によって体熱を放散する作用)が困難となら
ざるを得ない。従って体温は鬱積しやすくなり、生活作用を正常に営むことが出来な
い。その結果鬱熱症となり、下痢および腸炎が発症しやすく、ひいては死亡率増加の
一大原因となるのである。しかも育児法の誤った慣習は、生声の初めより児童の発育
に適応する皮膚の鍛錬を怠り、前に述べたように冬季初生児の保温の無頓着と反対
に、夏季には比較的厚着にして顧みない。そればかりで無く哺乳児の着衣はしばしば
湿潤となり、夏季には放熱作用を著しく妨げ、反対に冬季は保温作用を困難としてい
る。哺乳児は自身の感覚によって適宜に着衣を按配出来ないのであるから、哺育の任
にあるものはよほど注意しなければならないのであるが、我が国では悪慣習のまま放
置して怪しまないのは残念である。そして児童には生長とともに漸次薄衣させてよく皮
膚を鍛錬しなければならない。
第二 食物 これに対する悪慣習もまた前者に劣らない。第一夏季の高温高湿の際
には体温の放散作用が困難であるから、なるべく食物を控えなければならないが、多
量の食物を摂取する。その結果はまるで煙突の閉塞したストーブに石炭を詰込んで燃
やすに等しい。腸のうちで過度に流入された食物は吸収されずに返って腸を害し、必
然の作用として下痢を起すのである。これは我が国の夏季に特に下痢症の多い理由
であって、そのため前掲のように大きな死亡率となる。これが国民死亡原因中の第一
位を占めているのである。また一方では上述したように日本家屋の構造は冬季保温の
目的に適せず、しかも食物の主成分は次のようになっている。この数値は最近の全国
食品生産額の平均値を 5600 万人の総人口に相当する成年男子の数約 4000 万人で
割ったもの、つまり一食料需要単位あたりの数値である。
和食主成分
パーセント
数値
白米
50%
3.3 合
麦などの穀類
22
1.7 合
薯類
12
60 匁
豆類
7
0.3 匁
根菜類
2
40~50 匁
砂糖
2
5匁
魚類 (骨付)
2
1.8 匁
その他*
2
*少量の果実、獣肉、鶏卵、嗜好品、茶、酒精飲料など
これを諸外国の平均値に比べてみると、和食は主として植物性食品より成り、比較
的蛋白質に乏しく、脂肪は非常に少く、炭水化物に富む淡白な食物である。和食がこ
のような質を有する主因は、白米が全栄養価の二分の一以上を占めるためである。脂
肪量は洋食が 11 ないし 18 パーセントを有するのに対し和食は僅かに 4 パーセントし
かないのである。従って和食は冬季邦人が恒温を維持するには不適当な食物である。
ただ夏季の食物として、あるいは我が国のように高温多湿の気候には適当だろうが、
それも量に注意しないと結果は以上のように死亡原因を増加してしまうのである。その
他和食の質に関しては種々論じて見たいこともあるが、他日に譲ろう。
第三 住宅 元来我が国の住宅は、夏季の高温多湿の気候に対する適応設備とし
ては比較的良好であろうが、防寒の目的にいたっては断じて不適当である。率直にい
えば邦人は住宅の本領である暖房と換気とが何者であるかを解していない。暖房と換
気の二つのものこそ、人間の文化生活の程度を測定する基準となるものであるのに、
邦人はこれに無関心のまま現在にいたったのである。それゆえ前表に示した原因で死
亡率が高いのである。
元来暖房と換気とは、人間生活に適宜な住宅の構造上密接な関係があるにかかわ
らず、我が国の住宅にはおおむねこの両者が並行していない。だから冬の生活が不
愉快なばかりか、仕事の能率は減少し、風邪に罹る者が多く、ひいては諸々の呼吸器
疾患に犯されやすくなる。次には元来が田舎向きに散在的に建てるような、非融通性
の構造法しかない粗末な日本家屋が、商工勃興の結果人口の郡市集中の趨勢に連
れ、何らの保健的考慮をしないまま無暗に都会に建て詰めた点にある。今や我が国の
郡市における住宅の量的欠乏(いわゆる住宅難)は日増しに増大し、地価の暴騰と過
密家屋により、人間の生活に欠くことのできない住宅は衛生的諸条件を無視され、い
わゆる過密生活を営むにいたった。中でも過密狭隘の居室に多人数がゴロゴロ就寝
する状態は避けられず、室内は著しく汚染され、加えて冬季暖房と換気とが並行しな
い住宅の弊害は、次に述べる状況の下で一層顕著に現われ、呼吸器疾病、中でも肺
結核症の増加を来しているわけである。
四
障子と火鉢 障子の保温率は比較的高く、換気の良好なものと一般に信ぜられ、学
者間でも是認されて来た。しかし私たちの教室の諸君が熱心に研究した結果によれば、
障子紙は住宅の換気に直接役立つものではない。和室が洋館に比べて五倍内外の
換気量を有することは、実験によって明らかであるが、これは障子紙そのものによるの
ではなく、和室には慨して隙間が多いためである。換言すれば和室の換気は室や壁
の材質にほとんど無関係であって、間隙によるものである。したがって冬季室内に気
流が起りやすく、保温の目的のために非常に障害となる。これは私が前に日本の住宅
は換気と暖房が並行せず別個のものとなっていると言った意味に外ならない。我が国
の暖房法は主として火鉢であるが、もし暖房のために火鉢を室内に入れたと仮定する。
火鉢の炭火によって暖められた空気は直接上方の天井に向って昇る。間隙の多い天
井は直ちに暖められた空気を外部へ放散してしまう。その代わりに室内には外へ出た
だけの空気を補うため、寒冷な外気が侵入して来るのであるから、せっかく室の空気を
暖めても結局我々の生活には没交渉のものとなってしまう。これは室内換気の理論的
関係により、また我々の実際生活の経験により明々白々の事実である。我々が火鉢に
よって得るところの熱量は僅かに炭火より受ける輻射熱の一部に過ぎない。室内の天
井部が二十度以上にも暖められながら、我々が実際生活する下部は五度内外に止ま
り、高価な炭の熱量が、一部分の幅射熱を除くほか、ことごとく室内の気流的換気作用
にのみ使われるのは滑稽である。その不経済は言いようがない。しかしもしこれに反し
て室内を密閉し火鉢に多量の炭火を使用すれば、室内構造が密になればなるほど、
炭火より発生する有害ガス(炭火の不完全燃焼による有毒な一酸化炭素。俗にいう柔
か炭、桜炭、松炭の類の燃え始めには、恐ろしいこの毒物が一層多量に発生する)は
我々の真の呼吸作用を強く妨げる。近時洋館内に火鉢を乱用する悪弊があるのは、
憂える事柄である。和室に比し気密な構造であるだけその害もおびただしい。いずれ
にしても我が国の現在の暖房方法は誤っている。ことに煙突を備えない開炉または火
鉢にコークス炭を用いるのは断じて止めなければならない。
採光方法 日本の住宅の採光方法は障子紙を用いてきたのであるが、これはガラス
のなかった時代には止むを得ないことである。しかし障子紙を採光の目的に使用する
なら、探光面は非常に広くしなければならない。しかも家屋構造の関係上窓の高さを
増すことは不可能であるから、みだりに側面のみを広くせざるを得なかった。このような
採光方法は不合理であるばかりでなく、ひいてはこれまた暖房その他に非常によくな
い住宅となってしまう。これを改めるにはどうすれば善いか。この解決策は都市政策、
道路政策の根本義にまで触れなければならない大問題であり、込み入って来るからこ
こでは省略することとした。
五
以上は我が国民性が生んだ衣食住に関する欠陥の一部を概説したものである。もし
邦人が中国および九州のような気候にのみ生活して他に発展を望まないなら、このよ
うな衣食住法に甘んじてもよいが、北海道、樺太または鮮満のような冬季酷寒の地に
活動しようとすれば、こんな衣食住では全然失敗に終わるだろう。由来植民地におけ
る本邦移民が年を経て振わず、年々歳々肺結核患者が激増することは何に基因する
か。わが住宅問題――住宅を量的関係ならびに質的関係の両面より考えて、住宅政
策上確固とした基準を立て、これにより過密家屋および過密生活を解決しなければな
らない。これらの問題はともに後日にゆずっておく。
要するに今わが国の住宅改良問題は生活改善の急先鋒でなければならない。仕宅
の可否が一国文明の標尺となるよう、改善進歩がでるか否かは、将来における国民発
展の表徴となるものである。由来文明人が蛮民を征服するのに用いた最大の文明的
武器は、保健家屋である。しかも今我が国民の生活に最も欠乏するのはこの保健住宅
である。換言すれば保健住宅の弊害は保健食料難のそれよりもはなはだしいものであ
る。中でも大都市の多数細民の生活状況は誠にそのよい例である。
風土上より見た日本国民性
早大教授
矢津
昌永
(一) わが国民性の上に及ぼした風土的影響の最も深いものは島国であること。
(二) 島国は海という人力不可抗の境界により隔離されているから、著しく孤立的
である。
(三) 孤立的であるため、他国とは特異な国民性を有す。つまり島国根性である。
(四) 島国根性とは、(イ)偏狭で、闊達な性質を欠く。(ロ)視界が局限され、大局
にうとい。(ハ)愛郷心が強く、また愛国心に富む。(ニ)内に戦っても、一旦緩急あれば
一致団結すること、堅固なこと。(ホ)その他。
(五) 島国は隔離的であると同時に交通的という反対事象がある。その理由は、(イ)
島は世界交通(近世のように海路交通が世界的通路となる時は)の要衝となる。(ロ)島
は貿易場または中継場となる。(ハ)世界各国の種々の船に遭遇する場合が多い。(ニ)
島国人は保守的であると同時に非常に進歩的である。また地方的であるとともに世界
的である。(ホ)イギリス 国民性の適例。
(六) 島国は大陸の雛形だから、すべての規模が狭少である。したがって(イ)規模
の小さい世界的形式を有する。(ロ)生産量が少なく、富源は貧弱である。(ハ)人の体
格、性情ともに小格であるが、小ジンマリとしている。
次に我が国は世界に稀な山国だから、山国により影響される国民性もまた著しい。
(一) 我が国は面積の七割が山地であり、平地は三割に過ぎない。島国で生産力
が乏しい上に平地の生産地域が少い。
(二)山国人は次のような特別な気風がある。
(イ)地形が階級的で高低差があるように、人心もまた階級差別的であり、平原国のよう
に平等的、均一的ではない。(口)したがって、平原国(特にロシアのような)に涵養され
た思想を山国である我が国に移植するなどは錯誤もはなはだしい。遂に失敗に終るで
あろう。(ハ)山国人は高潔で清貧に甘んじ、平原国のように貪欲ならず拝金宗でもな
い。
次に我が国の気候は温和、順調な島国気候であり、大陸のように酷烈ではない。こ
れに涵養された特異な国民性は、
(一)温良和順であり峻烈ではない。
(二)四季の秩序があるように秩序的(今はまだ幼稚だから逆のようにみえるが、次第
にこうなる筈)である。
(三)建設的で破壊的ではない。
(注)台湾渡航の用および家内に要用が出来たため、要項のみを差出し
たこと寛恕願いたい。
◆民族心理より見た国民性◆
神話に現われた国民性
文学博士
黒板勝美
一
すべての問題について、われわれ日本国民が国民としての自覚をしなければならな
いことは、ここに言うまでもない。その自覚の上に活動するのでなければ、何事もよく出
来ないのである。しかし国民の自覚というものは、過去の歴史に照して我々の祖先が
いかなる活動、いかなる仕事をしたかをよく検証し、国体のいかなるかを知り、国民性
のいかなるかを諒解して、ここにはじめて生ずるのである。
歴史は時代によって発展する。したがって純粋な国民性を諒解し建国の大本を知る
には、歴史の根本にさかのぼって、我々日本民族の活動がいかように現われているか
を考えなければならない。そこでまず日本民族の起った当初の建国の時代を研究しな
ければならないのであるが、この建国時代に日本民族がいかなる活動をしたかを知る
ことは極めて困難である。有史以前、有史以後などという分け方があるが、この有史の
前と後との境界ほど混沌として不分明なことはない。いわば一日の始めが何時からで
あるか、ということを決めるのと同じ道理で、分りにくいことである。
一日の始めである朝が何時から始まるかといえば、仮に午前六時を始めとするのが
よいか。あるいは日の出の時とするのがよいか、もしくは朝日の出る少し前の薄明の時
から朝というのがよいか、一日の始めを定めるにも種々多様である。それで更にそれを
押しつめて行って、結局午前零時がいいという説になって、今日にあっては午前零時
を一日の始めとすることになっているが、朝日の出る少し前までは、全く暗黒の時であ
る。これを我が日本歴史に当てはめれば、その暗黒時代においても、我々の祖先が存
在していたには相違ないけれど、祖先の活動していた有様は暗黒の中に鎖されてい
る。しかもこのことは、どの国の建国時代にもあることであって、この暗黒の中に鎖され
た間に、神話というものが生れ出ているのである。これは一種の夢物語といってよいも
ので、歴史そのものではないけれども、国民の社会活動のうちから形作られた説話の
中には、その国民の面影が自然に現われている。いわば睡眠の間に夢みる夢のような
もので、それが幸いにも今日まで伝えられているとすれば、この神話のほかには建国
当初の頃の面影を観るべきものがないのである。ただどこまでも夢は夢である、神話は
我々の祖先の活動そのものではないが、古人の理想とか、性情とか、趣味とか、すべ
ての民族心理がよく表現されているのである。これが、歴史研究に入るにあたって、神
話のもっとも大切なところであって、これが究められなければ、歴史の日の出ごろに現
れた社会を解することはできない。
無論、この神話は後世まで伝えられていく間に、多少ずつ新しい時代の材料が入っ
たり、外国との交渉が始まったために外国の神話と結びついて色彩を加えて来るから、
徐々に複雑になって我々に伝えられている。つまり我々日本国に伝えられている神話
から我が国民制を研究するには、純粋な日本国そのものの神話について、しかも成る
べく原始的なもので考察しなければ、結論を誤りやすいのである。
およそすべての神話の間には、いろいろの民族に共通のものがある。例えば祖先崇
拝を中心としたものや、英雄神話など、社会的環境やら、信仰などに一致したものがあ
り、原始民族に共通な神話が東西洋を通じて伝えられているので、同じ神話が必ずし
も、甲の民族から乙の民族、丙の民族へ伝えられたのでなく、いわば世界的なものが
存在するといえる。また同時に一つの民族に固有な社会組織や自然的環境からその
民族以外には見られないものもあり、世界共通の神話もまた民族的に色づけられて伝
わっている場合が少なくない。と同時にこの世界的に共通な神話でなく、その民族固
有の神話がいつの間にか民族間の交通によって色づけられ行くばかりでなく、場合に
よっては外国的要素がかえって多いのでないかと思われるほど、種々複雑になってい
るものもある。それであるから、充分に分解、解剖して始めて、いかなるものがその民族
そのものの神話であるかを知ることができる。きわめて困難な研究であると承知してお
かねばならない。当然、日本の神話の研究もこの態度で進んで行くべきものである。そ
していうまでもなく、民族心理は時代の進行にしたがって徐々に発展し、発達するもの
である。あたかも子供が段々と生長するにしたがって、児童心理から少年心理に移っ
て行く過程を見るように、民族心理が段々と発達して行くことが分明であるとすれば、
神話の一つ一つをよく調べて、どの程度の、どの時代の神話であるかということを知っ
た後でなければ神話を取扱ってはならないのである。私が今その研究的態度を取るこ
とはもとより必要なことであるが、その研究の径路を示すことはかえって混乱を来す恐
れがあるから、ここにはもっともよく建国以来の神話を伝えている日本書紀および古事
記について、日本の国民性がいかに現われているかを述べるに止めたいと思う。
二
第一に、原始時代の人々の自然に対する、――自然観というものが、どのように現
われているか、具体的に言えば自然の現象である日月星辰や国土山川の環境に対
する観念がどうであつたか? 神話の語るところは、日本国では極めて初心に残って
いる。児童心理で例えて見れば、赤ん坊式に現われている。つまり、子供が自分の枕
を負って自分と同様に赤ん坊としてお守りをするように、すべてのものを人格化し、擬
人的に解釈している。今日の知識からいえば確かに誤謬であるが、それが原始時代
の思想の現われである。この自然を人格化する心理については、オいケンなども同一
見解をもっているのであって、次の言葉はそれである。試みに引用してみる。
「――しかし吾々は、歴史的回想の届く限り、このような自然的状態は過去に属して
いるのを見る。擬人的および神話的時代の存在は、歴史的研究によって明らかである
が、この時代には人間は万物を人間化し、一切を人間的尺度で測り、一切のものを世
界の中心としての自分の出来事に関係させた。このように実在を人間的観念と願望と
のうちに織り込むことは、確かに誤りである。しかし誤りであるにもかかわらず、同時に
功績であり、力の証明であり、単なる自然の超越である。特殊な事実を見て、その一般
性を忘れてはならない。万有に対する説明は、虚偽にせよ、またその態度は転倒して
いるにせよ、とにかく説明を試み、万有に対する内的態度を求めたことの偉大さを忘れ
てはならない。――」
この考えが、人間の自然に対する一番最初の観念であり思想であって、つまりすべ
てを自分と同一に考える、――海でも山でも自分と同じものだとする。
我が神話で日本固有の神話をあげると、第一のものは、実に大八洲生成にはじまる
のである。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)と夫婦になっ
てまず大八洲をお生みになった。それから海を生み、山を生み、川を生み、草を生み、
最後にこれを支配したまう天照大神以下の三神をお生みになり、そして国民の祖先で
ある八百万神(やおろずのかみ)をお生みになった。この神話の中には、自然物を自
分と同じく皆誰かが生んだものとするところに特徴がある。要するに、万物は自分自身
と同じように生まれたので、すべて二尊のお生みになったものと思惟する。『生む』とい
うほかに、万物の現われて来たことを説明することが出来ない極めて初心な神話であ
った。ここでちょっと言わねばならないことは、これまで大八洲の生成については、
種々雑多に説明されて来た。例えば二尊が大八洲を経略されたことであるとか、大八
洲の各地方にそのお生みになった神々を封ぜられたのであるとか、または二尊が巡視
されたのであるとかいう説であるが、それは一種の合理派歴史家の説で、神話によっ
て歴史が色づけられたものとする解釈の仕方に過ぎない。私はどこまでも神話は神話
として考察する。そしてこの神話は初心の観念によって出来たとするよりほかはないと
思う。つまりすべてのものは人間と同じく生まれたものだとしか考えることの出来なかっ
た程度のものである。
もっとも古事記や日本書紀には、この神話は面白くかつ複雑に伝えられている。しか
しその色づけられたものを取り去ると、上に述べたような極めて原始的なものとなるの
である。例えば伝えられた神話には多少その間に異説もあるが、次のようになっている。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が天の浮橋の上に立ち、天瓊矛(あまのねほこ)で下界を探る
と青海原があった。そしてその矛の鋒から滴り落ちた潮が凝って一つの島となった
のをおのころ島と名づけ、二尊は天降った。夫婦の道をして島国を産もうとし、おの
ころ島を一国の柱として男神は左から回り女神は右から回り出会ったとき、最初女神
から言挙げされたので不吉といって、二回目に男神から唱え、まず淡路洲を生み、
それから大日本豊秋津洲(本島)、伊予二名洲(四国)、筑紫洲(九州)、隠岐、佐渡、
越洲、大島と大八洲国を生んだ云々。その後天下の主を生まねばならないと云わ
れてまず天照大神を生んだ云々。
これには既に男尊女卑という思想も入っており、多少程度の進んだ神話と見るべき
部分もある。要するにその中心となっていたのは、「生む」ということである。そしてこの
生んだお方を皇室の先祖を生んだお方と同一のお方としたところに、また日本の国民
思想の根本が窺われる。元来国士観念の発生は民族の成立やその環境で多少異っ
ている。例えば支那人は盤古氏というものが死んで、その身体が支那の山川国土とな
った、支那に始めて現われたものがその山川国土であったように考えている。ユダヤ
教、またユダヤ教から分れたキリスト教国民は全知万能の神が世界を創造したという考
えで、その国士を支配するために主権者を特に創造するという話はその神話(創世紀)
に見えていない。だからキリスト教国民では、一神が絶対のものと信じられている。だが
我が国では、我が国を支配するために生れた天照大神およびその系統のお方は、す
べて絶対至貴のものという信念が神話に現われている。
またこの大八洲生成の神話には、ただ漠然と世界というようになっておらず、具体的
に大八洲となっている。太古日本人の世界観がその国土以外に及ばなかったと同時
に、国土に対する執着の強いことを示し、そこに熱烈な愛国心が存在している。永久
に天壌無窮の皇室が支配すべきものであるという国体の大本がそこに立っている。大
化改新や明治維新に私領地を喜んで奉還したゆえんである。
太陽や月や暴風などに擬人法を用い、それと同時に実在の皇室をこの擬人と同一
にしたところに国民性のひらめきがある。太陽崇拝は我が国では皇室と結びつけられ
てはじめて我が国の特有な信念となっているのである。
次にこの「生む」ということは、ただ大八洲生成の神話ばかりでなく、日本の太古の話
には一番活動して現わされている。日本人が血統を重んずるという思想は、この間に
萌芽しているといってもよい。もっとも血統を大切にするという考えは、一方から考察す
ると、元来人類のインスチンクトといってよいほど一般性を持っているのであるが、日本
の場合には他民族より強く現われている。そしてこの血統を重んずるということは、太
古以来の社会組織が氏族制度であったこともその表現の一つであって、民族的結合
がいよいよ強くなった理由がここにある。もちろん国民そのものも伊弉諾、伊弉冉から
生うまれた神々の子孫であり、その子孫は各々その職業によって皇室に奉仕するため
に生れてきた。これが国民の対皇室思想である。
三
人類学および民族学の方面から言えば、すでに今日の日本人は高天原から天下っ
て来た天孫民族のほか、アイヌや熊襲などいろいろの民族からなっていることは明瞭
であるが、神話ではその差別がハッキリせず、まずすべて神がお産みになったものとし
て現われている。この点から日本の国体を考えれば、この神話によく国民の信念が現
れていると思う。したがって皇室に対する絶対的服従の観念、国土が皇室のものであ
るという思想、――そこに国民性のもっとも大きな現われが生じて来るのである。また皇
室の方から言えば、国土および国民を支配する意味から、国土および国民をいかによ
く組織立てて行くかがその理想であった。いかにして善政を敷いて国民を治めて行く
かというのが、歴代の御聖徳の綱領である。
神話に現われているように、伊弉諾尊は天下の支配者として実は三人だけお生みに
なっている。一人は日の神つまり天照大神で、一人は月読の尊(月の神で夜を支配す
る神)、今一人は素戔嗚尊である。
素戔嗚尊は、日月に対して暴風を象徴した神である。暴風の神である素戔嗚尊は日
の神である天照大神に無礼のことが多かったので、ついに追いやられて地下の国を
支配するようになった。その神話の中に、伊弉諾尊が、「主権者として生んだのだがお
前のような乱暴者には天の下をしろしめさせることは出来ない」と言われて追いやられ
たという。これは、伊弉諾尊が、支配者の人格を戒めたものである。つまり支配者の資
格がない者は父天皇としてそのまま太子としておく訳には行かないという大御心が現
われているのであると、山鹿素行が『中朝事実』で論じている。日本の神話には、前に
もいつたようにいろいろと異った説があり、それを日本書紀にはそのまま書きつらねて
あるので、矛盾があり、衝突や撞着があるけれども、永い間伝えられて来る間に多くの
異説を生ずるのは当然のことであり、研究的価値もある。あの天照大神の天壌無窮の
神勅も書紀の一書に載せてあることで、この神勅には、皇室が国土に対する精神と、
万世一系の皇室の理想とがよく現われている。また国民が一致してこれを神勅として
崇拝している信念が現われている。ここに国民性の基本である国体が形作られることと
なったのである。
国民性の雄大な気持は、太古の時代ほどよく出ていると思う。国民の思想は、日本
の神話の中に非常に雄大に見えている。それは国土や山川草木を生むとか、八百万
の神々が集って、一度にドッと笑い給うたというようなことである。「生む」ということから
起因して、それに関連した神話がまだほかにもある。その一つを挙げれば、八百万の
神は皆伊弉冉尊から生まれたのだが、最後に火の神の軻遇突智(かぐつち)神が生ま
れた時に、伊弉冉尊は焼かれてしまった。伊弉諾尊は嘆き恨むあまり、夜見の国へ伊
弉冉尊を追いかけて行かれた。その時伊弉冉は、伊弉諾に向つて、「もう遅いのです。
もうあの世の穢ないものを食べたから、お眼にはかかれません」と言われた。声は聞こ
えても周囲は真暗なので、伊弉諾は自分の櫛に火をつけて、伊弉冉の死屍を見ると
すでに蛆が湧いているので、そのまま逃げ帰った。で、今度は伊弉冉が泉津醜女(よ
もつしこめ)にその後を追いかけさせた。伊弉諾は泉津平阪まで来ると小便をされた。
と、それはたちまち海になってしまった。そこで、命は千引岩を当て嵌めてその間を塞
ぎ、この世とあの世を区切ったのであった。もちろん、これは死に対する太古日本人の
思想である。
そこでの誓いに、「麗わしい我が伊弉諾尊、私は貴方の支配なさる国民を、一日に一
千人ずつ殺して見せます。」「では、私は一日に千五百人の国民を生んでみせます」と
いう二人の対話がある。これが日本の人口の繁殖するゆえんである、と太古の人々は
思っていた。これは少し進んでからの思想であるに違いないが、生死に対する日本人
の楽天的思想が出ていて、未来への希望を現わしたものである。
子孫が段々に栄えて行くという思想は同時に子孫を愛重し発達させねばならないと
いうことなので、親子関係を考えてみても、自分の子供に対しては出来るだけその繁
昌を祈る親心、言い換えれば自分の子供を自分以上にしようということになる。子に対
しても親は絶対に服従を強いるのでなく、愛重するのであった。今日でも子供の職業
などについても、極めて適材適所の考え方を持っている方が、この国民性に合致する。
天照大神以下の三神のように各々その徳と力とによって支配をする話が出来ているの
は、子供の力を充分発揮させるという、適材適所主義をとったものといってよい。それ
に子供に対してはその意志を尊重するという思想も現われている。氏族制度の上で、
また国民教育の発達していない時代では、家庭教育のみによるのであるから、また
家々その業を世にすることとなったので、この主義と氏族制度は必ずしも当時にあって
は衝突しない。日本の神話では、支那などの場合と違って、親は子に対して絶対の権
利をふるっていないことを注意しなければならない。大国主尊が天孫に対し国譲りの
時に、「自分が天孫に国を譲ることは差支えないのだが、子供の事代主命が何という
か?」と言われて、事代主命の同意を得て始めてその国を天孫に譲られた。
四
大古の時代には、皇室と国民とは非常に親密なものであった。その頃の日本の社
会組織はどのようなものであったか。
まず結婚について見れば、結婚はおおむね近親結婚が行われた。近親結婚は、後
代にしばしば見るような権力的なものでなく、極めて和親的なものである。お互いに親
しみの気持から夫婦関係が起り、同じ血液が濃厚になっている。その頃は兄弟でも腹
違いのものは結婚していいという思想であった。したがって、親子の関係も非常に親密
なものであり、その時代は平和な空気が満ちていた。そこに日本民族の固い結合が出
来上った。ただ悪に対しての制裁は極めて厳粛なもので、その厳格な気持は、天照大
神が素戔嗚尊のために邪魔されるので、とうとう追い払ったという話にもその気持を窺
うことが出来る。
国民は各々職業を持っていた。その職業によって皇室に仕えていた。たとえば五部
神は五つの神祗をあずかっている神で、その他の神々も皆職業的に皇室に仕えてい
る。
職業は前にもいったように、すべて各家々で教えられていた。そして職業によって各
家の名前が出来ており、子孫が段々とその職に対していい腕を持ってくれることを望
んでいたのであった。そしてその間に血統を重んじ、技術を進め家名を落さないで、
ひいては皇室のためにより善く尽くすことになったのである。
社会制度から言えば、すべて民族組織から成り立っていて、職業的にその家名を持
っている。したがってこれらを支配する皇室には家名というものの必要がなかったので、
太古から今日まで氏の称がない。これは我が皇室ばかりである。そして職業が家の名
前になっていたことは、同時に民族組織が階級的でなかったことを証拠だてる。神話
のうちでも、中には外国思想が入って来ているのを散見するが、もとの混り気のない純
なものには、国民は平等であり、皇室は絶対であり、職業には家により貴賤の差別が
ないのであった。後代には国造、稲置などの姓(かばね)に高低の区別がつくようにな
ったが、神話のうちでも神代では、今日存しているものにはすべて何の神とか何の命
などと現われていて、そのとおりに平等である。後代になると、天皇の詔勅でも臣、連、
天下公民というように国民に階級的な種類が出来ているが、神代では八百万の神とい
う一つの言葉で現われている。天の安河原で大集会が催された時には、八百万の神
が一度に皆集っており、太古神話のうちには国民は平等であることが推測される。これ
は今日の労働主義とか、職業主義とかをもっているものと精神を同じくしている。国民
はその長じた技術――職業によって皇室に仕え、皇室はすべてを支配するという天職
があり、いかによく政治をし、いかによく国民を導くかというところに、その絶対至貴の
尊さがある。我が国は、絶対な皇室と平等な国民によって成り立っているのであって、
この心理が徹底して始めて、これに対する国民の自覚が呼び起される。私は、国民性
を知るためには、皇室および国民の発展の経路を知ることが一番大切なことだと考え
る。
歴史の上で段々階級思想が現われて来るのは、社会の発達からやむを得ないこと
ではあるが、それはおおむね支那思想の影響をうけているものである。今日まで日本
が建国以来続いたことは、皇室の絶対と国民の平等である。それを究めて始めて我々
日本国民の進むべき道があるので、民族性の上からここに基礎を置いて現在の社会
改造などということも考えねばならないと思う。昨今しきりに外国の新しい文化をうけ入
れて、社会改造が叫ばれているが、すべてをこの基礎の上に置かねば、他に日本の
進む道はない。神話もその意味において、日本国民の自覚を促がすよう伝えられてい
るのである。
その他、神話には国民の信仰とか、風俗などがいろいろあり、そこに国民性が沢山
現われている。例えば清浄を尊ぶとか穢れを嫌うとか歌謡が好きであったとか、ここに
述べたいことも多いが、今は日本の神話として残されている部分の一番大切な部分に
ついてざっと記述するに止めておく。
古器物から見た日本国民性
〇
文学博士
浜田
青陵
感じられる国民性は浅薄と虚偽
古器物から見た日本国民性という題で何か書かないかとのことであるが、私も近頃で
は、第一国民性とは何であるか、また国民性というものが各国民にあるにしても、日本
の国民性が一体どんなものか、それが分らなくなってしまった。芳賀博士が昔書かれ
た「国民性十論」にあるようなことを、何の疑問も無く信じてしまえば世話はないが、現
今の自分にはそれがどうしても出来ないのを悲しむ。
元来国民性の研究のような大きな題目は、容易に研究の出来るものではない。現在
の国民の特質を明らかにした上、さらに国民の生活の歴史的道程の全般にわたって、
あらゆる方面から研究して、古今を通じて一貫し、終始している特質を抽象しなければ、
現在日本人の国民性と考えられているものもまったく一時的のものかも知れない。過
去の日本人の特質であったものも、今日まったく失われておれば、それは決して本質
的なものとすることは出来ない。
そこで私は今日日本人の国民性に関する厳密な研究は、少しも出来ていないことを
断言するに憚らない。しかし研究は出来ていなくても、偉い哲人が鋭利な観察によっ
てこれを道破することがないでもない。岡目八目で外国人などが存外適切な見解を有
していることが多い。それらについて私は今言うつもりはないが、日本人は敬神忠君の
精神に富んでいるとか、美術心に秀でているとかいうような一人よがりな国民性を今日
信じているものは恐らくあるまい。私自身は、研究の結果でなくただ何となく感ずるとこ
ろでは、日本人の国民性というものはむしろ浅薄、軽浮、虚偽というような悪い特性ば
かりが揃っているように見える。残念ではあるが、現在の日本はもとより、過去の歴史に
ついても、この特性は明らかに発揮されているようである。自家の醜は自家が発見する
方がましで、臭いものに蓋主義はかえってためにならない。
〇
古器物からはただ原始的性質
前口上が長くなったが、さて古器物――といっても古い墳墓などから発掘する品物を
意味する――から見て、その研究の結果どんな国民性を見つけることが出来るか、と
尋ねられると、一向分り兼ねると答えるほかない。第一古墳の構造が立派で、石棺や
石室が巌重であり、副葬の品物が豊富であることから、日本人は祖先に厚いなどという
国民性を抽き出す人もあるかも知れないが、どこの国でも昔は同様の次第で、日本人
独りがそうであるという訳ではない。日本人は祖先を軽んじたという証拠にならないだ
けで、決してここに国民性が出ているなどとはいえない。
次に刀剣とか、鏡とか各種の装飾品などは、たいてい支那、朝鮮の帰化人の手で出
来たり、その影響を蒙って出来たものであるから、その製作の様式や手法などから、日
本人の特性を考えることも難しい。それでは日本人固有の技術と思われる埴輪の人形
や動物の形、古墳内部の装飾紋様などから見たらどうかというと、これまた単に幼稚な
原始的な作品であって、どこの野蛮人にも通有な分子ばかりである。特に日本人だけ
持っているもの、さらに古来長く保存されたという筋の特性は私には見出せない。
要するに私のような頭の悪い人間には、古墳から出る品物などから日本国民性など
というものは発見しかねるので、ただそこに古い原始時代の民族に通有なナイーブさ、
原始宗教や美術の片破れ、ないしは支那、朝鮮を通じて輸入された文化の痕跡だけ
が目に著くことを白状するよりほかない。その代り現代日本人の特性らしく感ずる軽浮、
虚偽などというものも我が国民の小供時代にはまだ明らかに見つからないから、これも
先天的なものでなく、二千年の歴史的生活の間に身に着いたものであろう。したがっ
て二、三千年の将来には心掛次第で矯正することが出来るという楽観も生ずるのであ
る。
〇
ただ一点
しかし頭の悪い人間にもちょっと気の付く点が一つある。それは古墳から出る青黒
い焼物、祝部土器(朝鮮陶器、陶(すえ)の器(うつわ)ともいう)である。これはご承知
のとおり朝鮮の南部からも新羅焼として古墳から沢山出ているので、両者同根から出
ている産物に違いない。朝鮮南部の民族も矢張り日本人の一派であったらしいが、と
にかく日本島に住んでいた日本人と、朝鮮半島に住んでいた日本人との間に、この同
根から生じて祝部土器の製作に多少の違いを現わして来た事実は確かだ。
朝鮮の新羅焼などには曲線や直線の繁雑な装飾が現われて来たけれども、日本の
祝部土器にはまったくこれを発見することが出来ない。終始簡素な装飾で一貫してい
る。この一点から帰納すると、日本島の日本人の趣味特性は繁雑なものを好まない。
単純な装飾を愛するということが言えないでもない。此の土器以外の品物では、他の
条件が加わってきて、正しい比較が出来ないけれども、この特性らしいものを裏切る現
象は少しもないと云ってよろしい。のみならずこの繁雑な装飾を好まない、簡素な趣味
を愛するという一点だけは、二千年の歴史を通じて日本人の一貫した特性として挙げ
得るものではなかろうか。そしてこの特性の半面には浅薄、軽浮というような悪い傾向
を伴っているのである。――と書いてみたが、さて現代のように繁縟礼、法令規則ずく
め、成金のコッテリ趣味が横行するのを見ては、この一節をも抹殺したくなってくる。
とにかく国民性などは国民自身が研究するよりも、外国人の公平な観察に待つ方が
よいと思う。たとえ古くから国民性などと云われているものがあっても、現代の世界的生
活に適応しないものは、ドシドシ壊して行くべきである。実際壊せるくらいのものなら、
国民性というべきではあるまい。もし恬淡平明とかいうような趣味が、日本人の国民的
特性であるとしても、その「カウンターパート」として、浅薄、軽浮が伴うならば、よろしく
破壌し去って、重厚な趣味を養うべきである。うぬぼれ根性から日本人の国民性などと、
少しくらい善く見える方面を誇張し、必ずそれに件つて来る半面の欠点を隠して喜ん
でいう時代は過ぎ去ってしまった。何よりもまず現在充満している国民の悪徳を除去し
て、虚言をいったり、体裁を飾ったりすることを国家としてもやめてしまい、五大国の一
つなどという自惚を根底から一掃することが刻下の急務である。
神話、伝説、童話に現われた日本国民性
藤沢
衛彦
一
従来日本伝説の研究は、きわめて幼稚のまま顧みられることが稀であった。識者の
多くが、伝説を荒唐無稽なもので、ほとんど研究の価値のないもののように考えてきた
ためである。伝説それ自身は、極めて取りとめのない話を意味し、物好きな研究者を
引きつけるに過ぎないとしか考えられていなかった。したがって、伝説は、少しの事実
に、多くの非事実が加わった、古色蒼然とした小説のようなもので、ただそれが、小説
として起る時代よりも、もっと古い時代に起ったから伝説となり、あるいはより近い時代
に起ったにしても、無智蒙昧な人々の間に起ったから伝説となったのであろう、などと
思われていた。まだ定義もなく、完全な分類もなく、比較研究もできない。もちろん学の
独立など夢にもあるはずがなかった。日本の伝説が研究として顧みられなかったことは、
一面無理からぬことでもあった。材料の蒐集も長く行われず、項目の統一も得ていな
かった。従来の日本の伝説が、研究の価値を疑われていたのは残念なことであった。
現在はもちろん伝説の時代ではない。しかしながら伝説の時代というものは、決して
天狗人狼の時代をいうのではない。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の時代、妖怪変化を指
すのではない。遠い過去に属する神話時代に限るものでもない。純日本所産の伝説
は、過去の日本民族心理の醗酵であり、日本民間信仰の反映であって、それが示す
人生観は、今日においてもなお道徳的宗教観の根底、国民思潮の淵源となっている。
われわれの文学はそこに成り、われわれの芸術はそこに生じる。思うに国語教育の基
礎が国民伝説の上に置かれているのは、この意味からであって、真にわが民族を理解
する鍵は、日本伝説の研究にあるといっても過言ではない。
二
日本伝説の研究も、やがてはその研究の範囲も日本民族という限定を超えて、広く
人類史上に立脚地を設け、世界各国人の有する説話を比較するべきである。こうして
伝説の意義を明らかにし、発達変化を跡付ける必要がある。しかし今日の研究はまだ
そこまで進んでいない。例えば、人類が今日よりもなお数千年前の幼稚であった時代、
日の出は何ものよりも特にいや増す力の表現であったことは、今日に文献を残すほど
の古代文明人の常であった。彼らの棲息した地は、緯度が一層南方に偏し、大気は
一層清澄に、雲影は一屠稀に、空の色は一層華美であると信じられていた。日の出は、
西欧の諸民族よりも、古代東洋に住んだ民族の間に、一番壮観だと信じられていた。
太陽神話、太陽崇拝はこうした間に醗酵した。エジプト、アッシリア、バビロニア、インド
はもちろん、ペルシャ、支那、日本にもある。これらの関係を比較研究するのが比較神
話学の領分である。また巨人伝説の分布、白鳥伝説の系統などを究めることが、比較
伝説学の本分でなければならないのであるが、ひとり日本の神話、伝説は、その性質、
形式、系統、分類の上から、世界的に取り除けられている立場にある。
一例を挙げれば、大洪水の伝説である。
世界開闢(かいびゃく)の昔から、全他界の人類をもっとも驚かせた大事蹟は、東西
諸国の古代史に確然として伝わる大洪水の伝説であるが、これが果して日本にどのよ
うな比較事項を止めているか。洪水当時より数千年の久しい時代を経た今日、その細
事については各々異っていて、妄誕不稽の説、曖昧模糊な物語も数多くあるが、恐怖
の大災害であったことを認める伝説は、必ず各所に残されている。
ことに、1872 年、ジョージ・スミスによってニエヴの古跡で発見されたアッスルバニパ
ル王が建設した図書館中に蔵されていたと推定される、アッシリア、バビロニアの磚
(せん)書板には、この大洪水に関する記録が、精細に認めてあった。不幸にして、板
は決損個所が五、六に止まらなかったので、発見当時は、全体の解読が不可能とされ
ていたが、その後スセイルが、アンミザッガ王代の日付がある磚書板を発見したことに
よって、その欠損は補われ、完備した全文によって、大洪水の伝説が開明されることに
なった。アンミザッガ王代の日附がある磚書板は、少くとも紀元二千年前の古物であっ
て、その磚書板の記文は、その王の時代よりもさらに古いものとされている。なぜならそ
の全文は、原文では無く、まったく写しであるからだとは、アッシリア学者の一致する説
である。
大洪水の事柄が記されている磚書板の記録全体が写しであるという証拠は、当時す
でに使用されていなかった極めて古い文字が、所々に用いられており、かつそれらの
一層古代の文学には、一々意味の註釈を加えてあることによって、それは写しであり、
原文はさらに数百年古いものであると確定したのである。
この磚書板は、現在ロンドンの大英博物館に陳列されている。その翻訳は、Jensen
の “ mythen unt Epen” 、 Condamin の “ Bulletin de Literature celesiasique ” 、
Dhorme の“Choix de Textes”などに詳細に掲げられている。これらの訳文を見ると、
「旧約聖書」に記されている大洪水の伝説に驚くほど似ている。些細な事柄に至るまで
多く一致するけれども、また異ったところも少くない。例えば、「旧約聖書」を除くすべて
の古代史に記されている大洪水の伝説は、皆、真の神の無限の性質を解せず、神々
の尊敬を極外に置いた多神教の話あった。このように、アッシリア、バビロニアの伝説と
「旧約全書」との上には、些細なことにまで隨分酷似したところがあるかと思うと、全然
相反したものもある。その相似ている点、相異る点は決して個々別々に成ったもので
はないという結論に達するようである。
アッシリア、バビロニアの伝説は、ユダヤの民族がまだ起きないよほど前の伝説であ
るから、その伝説が、決して「旧約聖書」の説話を取り、あるいはそれを模倣した伝説で
はない。また「旧約聖書」までの道理的に一貫した伝説は、アッシリア、バビロニア伝説
の非理解的な流れから出発しているとは思われないのである。この相似通った二つの
伝説は、必ずや同一元本から出ているに違いないと結論出来るように思われる。東洋
における鯨の洪水、禹の洪水伝説においても、われわれは同様に考える。日本にお
いての洪水伝説は、遺憾ながらそれほど明確ではない。日金咲命の安曇平における
治水伝説などは、比較研究に値する伝説であろうが、古来何人もその由来を比べ得な
かった。しかしながら思う、アッシリア、ビバロニアの大洪水伝説、「旧約聖書」の大洪
水伝説、禹や、日金咲命の治水伝説は、たとえ異った道を辿り、異った形式に置かれ
ていても、本に遡れば、同一出発しているのではあるまいか。
万物の創造と、天国と、大洪水などのような神話的伝説が、太古に遡るにしたがって
明らかに残っていることを認めるのは真摯な学者などが、もっと大いに感じ、かつ考え
なければならないことと思われる。しかしまたその類似を尋ねて、一々因果関係を結ぶ
べきものでもない。例えば日本の開闢説が、支那哲学の説くところに類似するとして、
ただちにその模倣であると断定することは、非常に用意を欠いていることで、日本の神
話なり伝説は、なお充分の検査を経る必要がある。
さらに対内的に考えると、伝説の研究が不完全なとき、何を苦しんで比較研究を急ぐ
必要があろう。理想は人類史的研究にあろうとも、今のわれわれにはまだ僣越な問題
である。われわれの伝説研究は、まだ収集の段階にある。伝説にはまだ完全な分類さ
え与えられていない。分類さえも未定稿なのである。したがって伝説の研究はなお将
来を期すべきであるから、今与えられた問題に対しては、不完全ながら既往の蒐集伝
説を通じて、断片論をすることになる。
三
最近、わが国には皇室の歴史があり、貴族武人の歴史はあるけれども、平民の歴史
がない、政治の歴史があって、民間の歴史がないという非難の叫びがあげられた。伝
説はその要求を繋ぐ重要な連鎖であって、諸国民間説話の調査研究を度外視しては
平民の歴史を知ることは出来ない。われわれは、郷土伝説を通じて、そこに風土を知り、
人情を解し、生活状態を知り、経済状態を知り、思想を解し、信仰を解すべきで、われ
われの地方伝説蒐集の事業も、ある意味において、そこに至る道程に過ぎないと言え
よう。
一例を民間信仰の一つである生殖器崇拝に取ってみる。
どこの国、どこの郷土でも、太古の幼稚な時代には生殖器崇拝の風習があった、人
類創造の力として、その摩阿不思議な荘厳な事実の上に、神の力の霊妙を信じて、崇
高な讃歎の心を表わした。エジプトのオシリス、印度のシバ神、支那の龍女など、いず
れもそれである。日本の古代においても、確かにその信仰は深刻にまた露骨に行われ
ていたようで、かの岐神(くなとのかみ)の道祖神などが、生殖器崇拝の象徴となってい
る。一歩都会を離れて田舎路を行くと、われわれは男女が抱いた石の彫刻である道祖
神を草むらの中に見出し、さらに諸国に道祖土(さいと)、才土(さいと)、西戸(さいと)、
道祖木(さいと)、才の木、才の前などというそれらの遺跡であったと思われる小字を耳
にする。さらにそれらの信仰の同系統である石神(しゃくじん)の分布は、日本全国に
及んでいる。
岐神は、「日本書記」によると、伊弉諾尊が伊弉冉尊に、絶妻の誓いを立てたとき「爾
(なんじ)ここより越えるなかれ」と言われて、その場に杖を投げ棄てて立ち去った時、
その杖が岐紳となったと言われている。
この岐神信仰の範囲は、徐々に拡がって、安産、育児、武運長久、富貴繁栄の守護
神となり、その崇拝の形式に草靴、石木、布などを納めるようになった。われわれの祖
先のもっとも原始的な信仰は、崇高な讃歎の心をもって生殖という妙智力に、神の姿
を見ようとしたのである。一切の信用は生殖である。そのもっとも精緻な作用が、もっと
も近い我が身の上に行われるところから、彼らは威巌と慈悲の主である神を崇め、これ
を拝し、讃美祈願する表象として生殖器を見、そこに崇拝の信仰を醸したのであろうと
思われる。
古代の生活状態や経営事情は、従来の日本歴史が意を用いなかったところである。
例えば、日本書紀は「元正天皇の霊亀二年五月に、駿河、甲斐、相模、上総、下総
常陸 下野の七国から高麗人 1799 人を移し武蔵国に高麗郡を置いた」と記す。次い
で「文武天皇の大宝三年四月に、高麗から亡命した若光が王姓を賜わる」と記してい
るのみで、その後高麗人がどのような経路でどうしたか、武蔵野における生活状態はど
うであったかを記録していない。歴史は事実の編纂であって、歴史的現象の記録では
なかったのである。しかも、われわれは決して事実の連続によってのみ満足できるもの
でない。その未知の現象によって来るところの彼らの力、彼等の滅亡あるいは発展同
化の有様、歴史と歴史的現象との間の交渉をさらに明らかにしなければとうてい満足
しないものである。従来の歴史家の多くは、全く貴重なこの間の事情を明らかにするこ
とを怠っていたように見受けられる。伝説学を史学の貧弱な補助物に過ぎないと見て
いたので、大方の国史の編纂者は、まったくこの意を欠いていたのであろう。
しかるに長く眠っていた伝説学は、ここにようやく夢から覚めた。伝説学は奮い起っ
て、国史の骨格に血を盛り肉を付けなければならない。伝説は民間の偽らない現象の
記録である。そこには国民性の至純なるものが認められる。
こうして高麗族の武蔵野方面における生活状態は開明され、近辺の日本民族との
交渉がどのような影響を与えたか、彼らの単独開墾事業や彼らとの交渉があった秩父
の養蚕事業が、上古の文化にどのような貢献をしたかが明瞭になるであろう。上古に
は秩父に多治比家と羊氏との間に起った労働対資本家の問題があり、武蔵野には恐
ろしい民族的憎悪の斗争があった。そのような歴史的現象を等閑にして、ただ歴史的
事実の連鎖に時代を見ることはもう過去の史的研究であり、過去の歴史的編纂法とい
わねばならない。
四
比較伝説学において、伝説の同じ要素が、各国民族の間に見出される。例えば、日
本伝説は支那伝説の模倣、支那伝説は印度伝説の変形とするなら、理論上その究極
においては、世界伝説はことごとく一元か二元かに帰して、某氏の所説のように、至る
ところ皆その変形に充たされて、各民族はやがて特異の一伝説一神話をさえ持たない
ものになるであろう。神話伝説の多くは同系民族心理の種々相を説明する材料に過ぎ
ず、相似の伝説はことごとくその帰結への証拠に過ぎなくなる。あるいは地名の類似、
事項の類似から押して、ある者は日本民族の発原地を印度とし、ある者は小アジアとし、
またある者はギリシャとする。こうした見解は、比較神話の上においてことに陥り易いこ
とであって、この偏見は往々にして日本国民性の権威を蔑(さげす)むことになる。わ
れわれは日本神話の研究、日本伝説の研究において、常に国民思想、国民信仰の
伝統的精神に注意し、おもねらず、陥らず、公平な態度を取らねばならない。こう言っ
たとて、われわれは決して日本の天地開闢説をアルメニヤ地方に擬す(木村氏)ことや、
昔アブラハムが居住したハランの国をわれわれわれの祖先の地とみなし(石川氏)たり、
アブラハムを黄帝と解し(佐々木氏)、黄帝と蚩尤との関係をわが天照大神と素戔嗚尊
と比して両者の葛藤を、日神と風伯雨師との斗争と対照することなどを、決して興味の
ないことであるというのではない。それらの比較研究は、新しい意義の闡明に貢献する
ところがあるかもしれないが、その比較の上に直ちに、相互間の交渉があり、必ず同一
事項の転証であると断定して、因果開係を帰結するのが、果して妥当なのか。どちらを
信じてよいのか、その間の国民思想、信仰の経過を、どのように保つのか、不完全なこ
とを恐れるのである。われわれはすべてに対して広い視野を持つべきであるが、その
一つを深く見ることによって、この早計、即断をわが神話伝説の上に結び付けてはなら
ない。日本の神話、伝説は、われわれの神話伝説として、その中にまずわれわれの思
想信仰の発達を見なければならない。
五
神話、伝説の研究者が、時にその開闢的、怪奇的な事項を民族の本来的想像であ
ると断定し、あるいは史実的暗示であると論断することがある。
心理学的に見れば、神話(特種伝説を含む)および宗教における主要な心理作用は
想像であって、ことに神話については、想像の産物であることは何人も容認するところ
である。この事実は、タイロアが力説し、リボー、ヴントなどが主張している。神話に現
われる想像作用には二種の特徴がある。
一つは令活的作用で、この作用は、無心無生の事物を有心有生と想像し、または自
然現象中に人的な存在を想像するもので、呪物、病魔、自然の諸現象を主宰する諸
神の表象のように、屍体化生の伝説、霊魂遊動の伝説、霊魂付説、樹木精霊伝説な
ど、みなこの類である。この令活想像は、その心像の性質からして、二つの発達段階
に分れる。一は単純に無生物を生かすに過ぎないもの、つまり人間と同様に感じ、欲
し、かつ表象するものと想像するもので、この種の特異とするところは、その人格の性
質に明瞭を欠いていることである。例えば霊魂、幽霊、天狗、鬼魔、呪物はこれに属す
る。その二は厳格な意味における人格化であつで、その人格の善悪、その他の性質
が明確なもので、例えば古代神話に見る自然神格の多くはこれに属する。
神話的想像の第二の特徴は、その想像対象が単なる想像表象でなく、現実心像とし
て信じられる場合の特異点である。宗教上の神々その他の表象が、信者自身に取っ
て単に主観物のものでもなく、客観的に存在すると信じられる。神話上の想像神格は、
これに反して単にこれを比喩または象徴とみる学者が少なくない。しかしこれらの表象
も、少くともその純粋の形において、つまり芸術的とならない範囲においては、現実と
信じられることは、リポーも、シュルッエも、ヴントも容認していると、桑田博士は説いて
いる。
つぎにこれらの神話的想像がよって起る動機はどうであっかというと、従来この問題
は、偏知的つまり擬人想像のようなものは、自然および人生の説明であり、知識欲から
発生したものであると説かれていたが、今日では実際の欲求つまり情意方面の欲求に
動機があると解かれている。
思うに、われわれの祖先の眼に映じた自然現象は、みなそのままに実在として、彼ら
の素朴な意識に受入れられたことは、明らかであろう。彼らの特異な妄覚は、われわれ
局外者が無闇に排斥すべきものではない。彼らの場合には、日常抱く信念が、稀有の
盲覚の経験と調和されたものであったのであろう。彼らは自然を観じ、人生を観たので
あって、彼らの思想信仰は、彼らの熱情のうちに発酵し、彼らの意志を加えて、次代に
伝えられたと思われる。
要するに、彼らが実在と認めたところの神話的想像は、単にわれわれの神話時代に
のみ活動した特殊な精神作用と限るべきものではなく、今もなおわが国民思想信仰の
うちに生きて動いているはずのものである。
六
民族心理学者が言うように、神話伝説上の想像作用を事実の比喩とし、歴史の仮託
とする例証として、よく素戔嗚尊の八岐大蛇退治の説が取られる。神話の八岐大蛇は、
「記」に高志八俣遠呂智とあれば、人間で、越(越狄)より渡来した諸酋長を意味するし、
豊玉姫も、鰐に似たような半神半獣的のものに言いなされているが、実はそれは出産
時の状態――姿勢を形容したもので、このようなことはすべて古伝が失われて想像が
加わり、いつしか神怪なものになったというのである。
伝説においてもそのとおりで、鬼神は賊人であり、天狗は山伏であり、人魚は海鹿で
あり、河童は河獺であり、犬神は外来人で、天女は人さらいの遺物であると説明してし
まう。その絶対的解釈が正しいか否かは、説明者自身が困難な立場にあり、神話伝説
をすべて仮託であり、比喩でありとする者の陥る偏見である。
伝説は、史実のみを基礎としていないから、史実を離れても、民間現象の事実として
存在の意義をもつが、比喩説は史実を離れては決して存在し得ない。換言すれば、
比喩説の成立は、史実の証明によって確立される約束である。したがって、史実があ
って、後に比喩説が生じるのが普通であるが、伝説の起原は、古く有史以前から口碑
の伝承を持っている。
ここに説明の経緯が二、三に説き得る問題があるとする。比喩説は例えば神々や、
怪奇の実在を信じないから、これに何らかの説明を無理強いしようとする。よって、山
神は山賊であり、人身御供を要求する魔神は無頼部落の輩であると躊躇なく説明して
しまう。そこに説明の危険があるのは当然で、山神が万一人間ではなかったり、生贄
(いけにえ)を取るものが獣類であったらどうであろう。史実と比喩説はここに矛盾を生
じ、比喩は事実を証明できない立場に陥る。ことに民間信仰上の説明では、大きな事
実を見逃し、心理学者が容認する現実さえも否定するに至るであろう。
もっとも極端な議論は、神話伝説をことごとく荒唐無稽のものとする暴論である。
例えば、酒呑童子の伝説にしても、安寿厨子王の伝説にしても、歴史上その事実が
証拠立てられないからといって、薄弱な自己推論によって葬るのは、不当もはなはだし
い。彼らはいう、酒呑童子の伝説は史実にない、よってこれは坊間の作為に過ぎない
と。また言う。安寿厨子王の説話も正史を欠いている、恐らくある頃の興行人の語り物
が、中頃に民間の伝説になったものであらうと。史的なき史実現象をあくまで拒もうとす
る人たちにとって、民間説話伝承はみな一種不可解な奇蹟であり、意外な架空談と思
われたのである。
七
神話時代の伝説は、平安朝以前の文献、神典、風土記などが源泉であり、かつ徴
証でもある。例えば、「古事記」といい、「日本書紀神代巻」といい、「風土記」というのも、
当時においては当代の口碑伝説の記録にすぎない。しかし歴史がこれらの記録を唯
一の祖としているということは、つまり伝説が、歴史の祖であったということを証明してい
る。歴史を直接間接にして伝説が生じる場合も勿論あるが、最古の神話は、実に記紀、
古話拾遺、祝詞、風土記の文献によるべきで、これらを排斥しては、わが建国の歴史、
皇室の由緒、国民の発展などの次第を知る事はまったく出来ないのである。われわれ
は、これらを本として古代の歴史を組織し、われわれ日本国民は、これらによって教育
を施し、これらによって教育されてきたので、国民思潮の源泉はここに発し、わが教育
の基礎はこの上に置かれているのである。そしてこれは、日本全体の上について言い
得るばかりでなく、各地方地方の上にも同様の意味が言えるのである。
思うに以上の文献はわが国民の民族的研究に明確かつ偉大な価値をもたらすもの
ではないにしても、国民思想の発露であることは間違いない。そこには、わが国民性が
自然に流露している。日本の国語教育の大切な部分は、これらの記録伝説の上に最
初の光を投げたのであった。
これらの記録を通して、日本神話を概観すると、天地初発の時より、他の神話に見ら
れるような神と人類という思想が見えていない。高天原の神勅は常に絶対に日本民族
を支配している。この国が造られたことも、主宰者の基囚にしても、天神の神勅と、天
孫の降臨統一をもって終始一貫している。日本神話は、人類はすべて日本民族と見
ているので、それ以外の民族を認めない。日本民族は全土の人類であって、全土の
人類を保護するために神がある。神は主宰者の祖であって、天孫は神の子であり、全
土の主宰者である。日本民族もその流れから出ている。さらに言えば、神があって後
に国家があり、国家があって後に人類があるという経過を日本の神話は表現している。
つまり、あくまでも国家的思想であって、天孫は絶対的主宰者として、その国家的人文
の中心にあり、国家はその中心から発展して行くという思想である。この思想は、ただ
日本神話を貫いて流れる国民性であったばかりでなく、荘巌と霊光と美となつかしみと
を観ずる。皇室と産生神に対する敬愛の念を通じて、長く今日に及んだ不変の国民思
想である。
日本古代の信仰において、死すればすなわち神を拝み、祖先を祀るということは、
引いて皇室が人民の中心であり、祖先であるということであって、日本国家の宗教はす
なわち神を祀ることであり、日本国家の道徳は祖先の道を重んじ、その教訓を守るに
あった。皇祖皇宗の遺訓は、日本国民道徳の本源であって、日本民族の外にはなか
なか理解出来ないところであろう。(一部脱落)の道であったと同時に、われわれの本
質には早くから子孫を尊重する風があった。天孫降臨に対する天照大神の遺訓は、
子孫愛護、子孫尊重思想の発動であった。これは祖先尊敬の思想とともに没すること
のできない日本国民性の美しい発現である。次に民間信仰においては、天然の勢力
を神として崇拝したこともあり、動物を畏敬して神として祀り、植物を崇拝し、石器を崇
拝した例もある。これも決して天照大神のような主宰者を無視して祀ったのではない。
また彼らが一切の事物や現象にことごとく神ありと信じ、今もこの思想に支配されてい
るところの、例えば火の神、水の神、海の神、山の神、風神、雷神、竈(かまど)神など
という個々の主宰神も、決して主宰神の主宰者である天照大神を外にして信じたもの
ではない。国家の中心であり皇室の祖宗である大神は、八百万(やおろず)の神々の
上に立つ神として、長く尊崇の中心となっていたので、この思想は、天孫の皇統である
皇室を尊敬し奉戴するわが国民の間に発達し確立した信仰である。現代に至って、明
治神宮が絶大な敬虔の念を国民から捧げられていることもその一証左である。
霊魂に、荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二種があって、各々分掌するところがあ
り、人体の内に存在し調和を図っていると、考えられていた。この霊魂は人間が死滅し
ても朽ちず、離れて神となると信じられていた。これが時に、霊魂成化の伝説となる。
日本武(やまとたける)尊が薨じて白鳥となり飛び去ったという伝説がそれである。神は
時に厳罰を示されるが、他民族に見るような神対人の闘争は絶対になかった。これは
日本の神が古代民族の中心であったからで、国家は常にこの天神に保護される約束
であった。国民は永遠に、その恩恵に浴し得られる安心があった。祭祀を怠らず、正し
くその下に仕えるわれわれ国民の上には、常に天佑が信じられるのである。
要するに、日本神話に現われた日本国民性というものは、首尾一貫した国家思想が
流露したもので、その思想は次代よりまた次代へ、そしてこれからも永く、未来永遠に
跡づけられるものであろう。
八
日本神話によると、わが大八洲国は、伊邪那伎命、伊邪那美命の二神が、天神の勅
によってお生みになった。この国土という大したものを、われわれ人類の祖先である神
が産んだと考えたことは、きわめて重要である。二柱の神は、まず国土を生み、次に万
物を生み、それからその万物をそれぞれ支配する神々を生み、最後に天地万物を支
配する主宰人である天照大神を生んだ。これが、日本建国神話のもっとも主要な第一
段で、これより種々の神々の活動があって、序々に社会が発達する。団体は大きくなる。
こうして時代を経るにしたがって、それらの祖先に対する考えは、変じて一つの信仰と
なった。古い時代の国民性は、こうした間に醗酵されて行った。
そうした間にも、自然は漸次に破壊されて行って、そこに文明が築き上げられて行く。
かくて歴史は発達した。
歴史は種々の文明を取入れたけれど、本来の国民性は常に尊重されてきた。過去
の国民性、国民の本質は、時々において新しい文化を迎え、新思想を受け入れたが、
われわれは常に、これによって、時代的思想の訓練を与えられ、新しい生命を与えら
れたという光栄を有するばかりであった。それに支配されて、われわれの本質を無くす
ような事はなかった。一言すれば、新来の文化思想をよく本来の国民性に同化させて
いる。これは、史実の上にも、史的現象の上にも、立派に見られるところであった。
最古の文化を代表したもので、外来の新文化の影響を蒙ることが割合に少かったた
めに、わが国民性を知るのに極めて便利な書物は「万葉集」である。この文献は、古事
記の神話が皇室中心的なものであるのに対し、地方的もしくは民間的伝説であり、別
種の貴重さが認められる。奈良朝に外国の新文明が入り、仏教が伝来して、国民性が
本来的色彩を失ったように見られているが、決して本質を根底から覆したものではない。
われわれ国民は、伝来した仏教をも、日本は神国であるという考えの型の中に入れて
しまった。われわれの祖先は、神の国という思想のうちに仏教を取り籠めて、異人の信
仰もやはり神の一つであると一致して考えた。その後行基という行脚僧が仏教を民間
信仰に注入したのも、こうした方便によって垂迹説などに民間の共鳴を得たのであっ
た。そこに日本国民の国民性の根強さを感じるのである。
飛鳥、奈良時代の「日本霊異記」、平安朝時代の「今昔物語」「宇治拾遺物語」「古今
著聞集」の多くの説話の上に、各時代の思想、信仰が見られるのは、伝説の尊いとこ
ろである。そこに民間歴史の姿を的確に見ることが出来る。日本国民性が常に特殊な
本質を維持できたのは、各時代の先駆者のお蔭でもあった。中心地における聖徳太
子にしろ、民間の名僧にしろ、彼らは常に内を省みて、古来の思想を見ることを忘れな
かった。
霊異記や今昔物語の縁起や伝説は、インド、支那の影響を受けているにせよ、日本
本来の国民性を表わしているのは間違いない。
わが国の文化が絢爛な花を開いたのは、平安朝であった。当代の国民は理知の念
より美しい情操を重んじた。その心なりといい、もののあわれを知るという思想は、利害
を脱し理知を超えた美しい感情であり趣味であった。それは単に上層部だけの思想で
はなく民間思想にも多大の影響を与えたのである。次いで起った剛健鉄のような鎌倉
以後の武家文化は、生死を度外視し、操守を厳にすること、一義によって終始する主
義を貫いた。ただし義によって終始する思想は、必ずしも儒教の影響ばかりでなく、由
来わが国民性のうちに涵養されたところの思想である。上代において三韓のために尽
くした事跡、帰化した韓人を遇したわが民族の思想は、憎悪によって永続したことがな
く、義は大いに国民の間に流露したのである。義の思想はもちろん渾然として沸き起こ
ったのは武家時代であり、この時代には義は国民性の基礎であった。義人の伝説は
民間伝説の精華であった。忠義孝養の伝説も豊富を極める。「源平盛衰記」や「太平
記」はこの時代における伝説の宝庫であり、そこに表現された国民思想の絶美は、今
も国民の追慕するところである。国史教科書の編纂が、国民精神の神髄を多くここに
得ていることも、理由のないことではない。
幕末期に、これら日本国民の精神が尊王思想に権化して、本来の国民性を発揮し、
われわれの祖先のために動いたことは、一面において国民性の本質の維新であった
とも言える。
九
日本童話の源泉も、国史、神典、風土記などから発している。「古事記」中の幾多の
精神生活は、一面より見れば一種の童話と見られる。もちろん神話と伝説と童話とは
厳密に区別しなければならないが、古代の神話は童話的気分に富み、また童話を含
んでいるとも言える。要するにこの時代の童話は、神話的童話とも言える。まだ輸入の
物語が入っていない日本個有の色彩の豊かな説話が主となっている。
「日本霊異記」や「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などが日本の主要な説話を形成し
た時、童話の色彩も本来の思想を離れて、外国かぶれのしたものとなっているが、この
時代は比喩譚の発達を助長していることに注意しなければならない。信仰童話におい
ても、神様の話から仏様の話に移った形跡がある。このほかこの時代には「竹取物語」
を始め、独特の説話作者が出現して、新童話を国民の間に取入れてきた。
武家時代を通して、英雄伝説が童話の分野に取入れられたのも著しい特徴で、この
傾向はやがて金太郎、桃太郎などの英雄伝的童話の源泉となった。
有名な桃太郎英雄譚は、猿蟹復讐童話が根元となって、足利時代以後に出来た説
話であるが、要するに一種の英雄伝説の変形したものに過ぎない。桃太郎話から、越
前辺の民間童話である猿ヶ島退治の形式を除き去ると、まったくありきたりの鬼賊退治
英雄伝説となり、鬼を退治したという英雄には、日本武尊(上総国鹿野山の悪棲鬼を
退治)、坂上田村麻呂(信濃国中房山の魏石鬼を退治)、平維茂(信濃国戸隠山の鬼
女紅葉を退治)、源頼光(丹後国大江山の酒呑童子を退治)、鎮西八郎為朝(鬼ヶ島
の鬼を退治)など、なお沢山の英雄がある。鬼ばかりではない、悪蛇や魔物を退治した
英雄は、民問伝説がざらに伝えるところで、例えば、甲賀三郎、草野太郎のような邪神
退治、観音縁起にからむもの、早太郎の猿神退治など、伝説から童話まで、かなり多く
の説話を数えられる。
神話的童話と、英雄的伝説を比較すると、英雄的伝説は、多くは一定の場所と一定
の時を示して、事件の進展に実在的色彩を添える。しかし、必ずしもすべてがこの型
に入るのでもない。桃太郎説話がその例である。さらに一層その形式を進めて、史的
人物の実在味を加えるものもある。それゆえに英雄譚は、神話的童話に比べれば、不
思議的性質を去って、漸次真実に近いものになっている。しかしこの二つの関係は、
間に沢山の過渡的段階を持ちながら変遷しており、二つの要素は常に混じり合ってい
る。つまり歴史的現象が神話的世界に没することとなり、神話的内容が、歴史的舞台
に出現することもある。したがってそこに、神話的童話が歴史的現象に接触を保って
英雄伝説を進展する場合と、歴史的現象が神話的童話に遡って行く場合との二つの
傾向を生む。例えば鬼女退治説話は前者に属し、草野太郎説話は後者に属している。
ただ草野太郎の場合は、説話の内容に宗教的縁起作成時代の色彩を含んでいるが、
これはその時代の影響を受けた段階的発展の結果にほかならない。
こうして童話に現われた国民性は、常に時代の実人生を反映し、民問信仰と平行し
ている。
神話的妖怪悪霊の活動時代から、実人生の反映時代に展開する説話の径路は、複
雑を極め、研究の興味を誘う推移過程があった。その相互的同化の間には、中間説
話という特異な存在がある。大太法師民間説話などがその例である。
神話的童話が、英雄的伝説に進み、更に発達して現実の信念を失い、芸術的想像
の産物までに弱められることがある。つまり叙事詩の出現であり、早世期のヨーロッパ
にしきりに表われた民族的叙事詩の感激である。その具体化が神秘的英雄である。
神話的英雄伝説から史的英雄伝説に至る間には、まず神話的童話、民間伝説、遊
行伝説などが融合して神話的英雄伝説となり、歴史的英雄伝説となるのであるが、英
雄伝説が時代の特現である場合もある。
民間伝説は伝来の説話を一定の地に結びつけて、一所に固定したものと、特異の
土地に密着して特異の形式に生れ出るものとがある。例えば、天地間の神秘の権威を
崇敬賛仰した印象が、その郷土特異の神怪となり、その郷土の特異の英雄となって、
その特異の野や河を含めた伝説となる場合がある。民間童話もまた同じ約束により発
源し、土地特有の信仰を加え風俗をまとって、あるいは神秘的に囁やき、あるいは現
実的に聞こえてくる。
日本童話も、室町時代に入ると謡曲文学が隆盛となり、ここから後代の童話が多数
生まれた。謡曲の材料は王朝時代の伝記から採ったものと、源平時代の歴史に基くも
のと、当時の巷談街説より採ったものがあり一様ではないが、童話もまたそれらの謡曲
に流れているところの神仏の加護利益に対する信仰と並行して発達した。
徳川時代に版本となった「お伽草子」の童話は、記録を主とした伝承であった。内容
はとりわけ因果応報の理を取り籠めた傾向にあった。趣向としては、浮世物語、滑稽物
語、長者物語、教訓物語などもあるが、元は教法を流布する僧侶に出ているので、宗
教的気分に充たされたものが多い。猿蟹合戦、舌切雀、花咲翁、かちかち山などの童
話に至るまで、王朝以後の多くの童話は、いずれも勧善懲悪の理を示すことにとらわ
れていた。
流石に、文献を無くした民間童話のうちには、この約束にとらわれない幾多の童話に
富んでいる。越前地方の「ちょんきりのちょんさん」、阿波の「とろかし草」、常総の「幸福
物語」、武蔵の「化の皮」、下総の「うんつくらいの翁」、諸国の「瓜子姫子」、能登の「大
豆長者」、肥前の「猿と蟹」、若狭の「笑い茸」、佐渡の「土佐三助」、こういったものは、
まったく地方的特色を発揮した貴重なものである。
しかしこれら純日本所産の民間童話は、あるいは文献をなくし、あるいは転誤の記録
のまま観過されようとしている。これはひとりわれわれの遺憾とするところばかりでなく、
児童ならびにその保護者の不幸である。旧時代に行われた民間の児童説話が、往々
にして誤謬の伝承を有し、あるいは原型のほとんど絶滅の姿にあるということは、まこと
に児童文学界一大欠陥であるばかりでなく、実にわが国民性涵養上の重大問題でな
ければならない。
言語上から見た国民性
早大教授
安藤
正次
一
言語は人間の思想を言語によって表現したものである。人間が人間の思想を表現
するには種々の手段を用いる。絵画、彫刻のようなもの、身振り、手真似などもその手
段の一つであるが、言語の場合は発音器官の運動によって発せられる声音を用い、こ
れを調節按排して思想を表現するのである。人類発達の原始時代は、この方法も極め
て幼稚なものであって、言語の萌芽はほとんだ鳥獣の叫声と似たようなものであったと
考えられる。人類が今日のような言語を発達させ、現在のような言語能力を得るに至っ
たのは、長い間の歳月と人智の進歩の結果である。一種の叫声をあげて喜悦や恐怖
の感情をあらわし、一定しない声音の連続によってある事物を表示した時代のものは、
簡単な身振り、手真似と類を同じくし、反射的表出運動をわずか一歩進めたものに過
ぎない。これによって示されたものも一種の集合観念ぐらいのもので、何らの論理的分
析綜合を経ていない。と同時に、これをあらわす声音もまた渾沌とした一団であり、節
調のないものであった。それが次第に進歩して、思想も論理的になり、発音も節調的
になり、各種の思想を表わし得るようになったのである。
こういう風に発達の歴史を遡って考えれば、言語の萌芽時代における声音と思想と
の結び付きは極めて簡単なものであって、その型もほとんどきまりきったような種類に
止まっていたのであろう。これは世界のいずれの地方においても同様であったと思わ
れる。しかしこのうちには一般的のものと特殊的のものとがある。現時においても世界
の各国語を通じで感動詞のある種のものや、写声的起源の言語には、よく類似した形
のものが存在する。感動詞のような、元来感情をあらわす声音から発達して来たものが
よく似ているのは怪しむに足りない。喜怒哀楽の情が世界の人類に共通なものであり、
驚異、讃嘆の念が普遍的なものであるとすれば、そういう情念に迫られて発する声が
地方を異にすることによって変るわけが無い。身振り、手真似の簡単なものがほとんど
世界共通であることによってもこの事は証明される。鳥獣の鳴き声や自然界の種々の
音響や運動動作によって発せられる音などを模倣した写声語の類が、異なる民族の
間にも趣きを同じくして存在するのもまた同じ理由である。以上は一般的共通的方面
について述べたのであるが、反面地方を異にするにしたがって発達の経路を異にした
特殊なものが存在することを忘れてはならない。物の見方、事の考え方というものは、
人によって異なり、場所がちがうことによって変る。物の名も所により変る。「物の名も所
によりて変るなり難波の葦は伊勢の浜萩」というのは、この点を突いたものである。
声音によって思想をあらわすということ、声音を用いて言語を発達させるようになった
こと、これらの根本的通則は、世界いずれの民族、いずれの国民の言語についても皆
同様であるが、言語に差別が生ずるに至った特殊な影響は、学者の特別な観察を要
する。人類学者の説く所によれば、世界の人類は一種一元多祖であるという。それが
今日のような種に分れたのは、自然の環境、周囲の事情、その他百般の影響をうけた
結果である。毛髪、骨格、皮膚の色の相違は、人類が一元に出ているとは肯定出来な
いように思われるが、学者の研究の結果はこれを是認している。しかも人種の相違によ
る特性、民族性、国民性は顕著であって、人類の平等相、普遍性を認めると同時に、
差別相、特殊性をも認めざるを得ない。言語においてもまた同様である。
言語学者は世界の言語を語族的に分類し、その中にまた小さな分派を立て、さらに
各国語をその中に分属している。これは人類学者が人類を人種的に分類して各民族
をそれぞれに分属しているのと同じである。各人種各民族にそれぞれの特色があるよ
うに、各語族各分派の国語には特殊の固有性がある。インドゲルマン語族にはインド
ゲルマン語の特質があり、ウラルアルタイ語族にはウラルアルタイ語の特色がある。英
語、仏語、独語にそれぞれ固有の性質があるように、日本語には日本語の固有の独
自性がある。英仏独の言語は共通的にインドゲルマン語族の性質を有しているが、同
時にまた英仏独それぞれの特殊性をもっている。この特殊性が英語を英語とし、仏語
を仏語とし、独語を独語としているのである。日本語がウラルアルタイ語に属すものか、
あるいは孤立的なものであるかは別問題として、日本語には朝鮮語にも支那語にも見
られない種々の特殊な性質がある。こういう各国語の特殊の性質はどのように形成さ
れたかといえば、つまりはその国語を語る国民が、祖先以来の長い年代を重ねて錬り
上げたのである。国語は国民の世襲の精神的財宝であり、国語は縦においては幾千
幾万の世代を通じで各時代の国民を結びつけ、横においては幾千幾万幾億の国民
を地域の別無く結びつけた精神的紐帯である。その言語の中には国民の精神的活動
の力が籠っている。その国民の思弁の傾向、表現の態度をはじめ一切の思想的方面
のものが大小となく現われている。人を見るには瞳よりよいものはないといい、眼は心
の窓という語があるが、国民性をみるのに最も適当なものは、言語であるといわざるを
得ない。
しかも国民は国語によってその精神的訓練をうける。思想のまとめ方、考え方、表現
の仕方はすべて国語によって教えられ導かれるのである。国語は国民陶冶の上に大
きな関係をもっている。国語は国民の慈母だというのもまたこの意味にほかならない。
国語と国民性との関係がこのように循環的であるとすれば、国民性の研究において、
国語は一層重要な価値を持つのである。
我が国語と国民性については、多くの語るべきものがある。今その二、三について、
極めて概略を述べてみよう
二
我が国民の現在の生活状態を見ると、衣食住の三つだけをとって見てもその様式は
区々であって、その材料はさまざまである。調和といい、あるいは折衷といっているけ
れども、今日では固有のものと新来のものが錯綜していて、まだ整然とした一体系が
出来ていない。過去の文化の歴史を見ると、新しい外来文明に接触した時代の我が
国民は、いつもこういう混乱時期を経過して来た。単に衣食住のような日常生活の方
面ばかりでなく、すべての精神生活の部門においてもそうであった。
我が国民が過去の長い間に経験して来た精神生活は、国語の上にもっともよくあら
われている。新しい外来文化に接触した場合に、我が国民がどういう態度をとり、どう
消化して来たかということを、国語の上に表われている現象により観察してみよう。
試みに坐右にある新聞紙の一ページを見る。新聞紙上に用いられている言語は、現
代の教養ある人士の間に行われている言葉を代表するものであるが、その言語がいか
に多種多様であり、いかに雑多の分子を含んでいるか、実に驚くほどである。二、三の
題目だけを拾ってみても、「天洋丸のお客様」「軍備縮少は苦しい英国の叫び」「キャラ
メルを頬張る野人の宮内次官」「留守の官舎に夫人の笑顔」というようなのがある。「軍
備縮少」「野人」「官舎」などという堅苦しい漢語があるかと思えば、「キャラメル」という
洋語があり、「苦しい」「頬張る」「笑顔」のような和語がある。和漢洋の言葉を同居させ
て少しも怪しまないのは我が国民である。gentleman ということについて学士院の決議
を経て可決し、これを公布するフランス国民とは大きな差がある。さらに上掲の言葉を
吟味して見ると、「野人」という漢語は単に「野」と「人」の二つの意味を知っただけで解
釈できるものではない。この場合の「野」は野原の意味でもなければ、「朝野」という場
合の「野」とも異なる。「野人礼にならわず」の「野人」の義であって、「野人」には一種特
別の意義が伴っている。この種の語は漢語といえば漢語であるが、字音はまったく日
本流であるから、日本化された漢語というべきものである。ことに「留守」という語は字面
は支那的であるが「るす」という言葉は純粋な日本語である。わが国民はこういう国語を
用いてその思想を表現しているのである。
国語の歴史を顧みると、極めて古い時代からこういう現象があらわれている。我が国
民は文化の未だ十分発達しない時代から大陸の文化に接触したのであるから、国語
の上にも文化とともに海外から輸入された新しい言葉が非常に多かった。三韓や支那
との交通の結果、従来の国語では表現できない文物や思想が発達して来たので、そ
の需要を充たすために多くの新しい言葉の発生をみたわけである。その中には純粋
の国語から出来たものもあったろうが、また三韓や支那で用いられていた言葉をその
まま借用したものも多かった。いずれの民族間の関係においても、比較的劣等な文化
を有するものが、比較的優秀な文化に接触した場合には、文化とともにそれに関する
語彙を輸入することは普通に認められる現象である。しかし新しい語彙を輸入し、新し
い言葉を造り出すにあたっても、その国民の国民性はおのずからその上にあらわれる。
国語史の上において著しく注意を引く事実は、古代の国民が漢語を輸入するにあた
ってよくその自然的能力を発揮し得たことである。もちろん漢字は単音節語の性質を
有する支那語の上に発達した文字であって、多音節語の性質を有する我が国語をあ
らわすには根本的な欠陥があるし、漢語を国語に調和させるには多大の犠牲を払わ
なければならなかったが、わが国民は漢字から仮名文字を発達させ、漢字と混用して
書記上の不便を補い、一方では漢語を国語に同化する方針をもって進んだのである。
文学のことは別問題として、今少しく漢語と国語とについて述べてみよう。
古代の国民は国語に対して非常に敏感であった。古事記を見ても漢字を用いて国
語を写し、大体漢文風には書いているが、「久羅下那洲多陀用弊琉(クラゲナスタダヨ
ヘル)之時」のように、漢文に訳しては十分に意味を通すことが出来ない時には万葉
仮名で書いて、「琉以上の十字は音による」と注している。また「天常立神」の下には、
「常は登許(トコ)と訓じ、立は多知(タチ)と訓ずる」と注している。古事記は特殊な著書
であるが、こういう国語尊重の気分は、一般的に漢字の字訓の上にも見られる。
漢字が輸入された場合に、漢字に相当する国語のあるものは、それを漢字の訓とし
たのであるが、その漢字に該当する国語がなく、しかもその漢字の意義をあらわす言
葉が必要な時は、その漢字の音を採用して国語とするか、別に新しい国語を造り出す
か、二つの方法のいずれかを採らねばならない。前者の場合にはその言葉は漢語とし
て輸人されるのである。こういう類のものも少なからずあった。続日本紀の宣命の中に
ある「三宝(さんぽう)」「孝義(きょうぎ)」という語はこれの類である。後者の場合のように
新語が作成されたものも多い。「糴」を「イリヨネ」と訓(よ)むのは扁の「入+米」を国語
に訓んだのである。「草冠+忘」を「ワスレグサ」、「禾」を「ノギ」と訓むのは字の形によ
ったのである。「佃」を「ツクダ」というのは「作田也」とある字書の訳によったのであり、
「源」を「ミナモト」と訓むのも「水本也」との訳によったのである(以上訓読の解は宮崎
博士の説による)。このように古語の保存と漢語の輸入と新語の作成とが相まって、国
語の語彙は豊富になり、よく人文の発達に伴って来たのである。しかし漢語の輸入に
ついて注意すべきことは、漢字の字音は音声学の方面では漢音呉音の伝習上の注意
が極めて巌密に行われていたのであるが、漢語が言葉として国語に入った場合には、
その音は自由に転訛して、よく国語に調和するようになったことである。平安朝文学な
どの中に見出される漢語などには、ほとんど漢語という感じを起させないようになって
いるのが少なくない。
我が国語は漢文学と常に密接な関係を持って進んで来ている。したがって国語の
中に入って来た漢語の勢力は非常なものであり、普通に用いられる言葉の中で漢語
は二分の一以上を占めているといわれる。漢語のほかに古くはいって来た朝鮮語や
梵語、近世に入ってきた支那語、ヨーロッパ語なども国語の一隅にまじっているけれど
も、それらは数において比較にならない。
漢字は既に我が国では国字の地位に上っている。漢語はもはや外国語ではない。
漢語は我が国語としての生命を持ち、我が国語として発達してきたのである。このよう
に漢語を発達させて国語の欠を補っているのは、一面から見れば外来文明を咀嚼し
てよく同化したという国民性の長所を発揮したものである。しかしながら、現時の国語
の状態を見ると、いたずらに蕪雑な漢語の氾濫を見、国語の純正を乱そうとしている。
この状態を我が文化の発達初期の時代と比較すると、国民性の推移には慨嘆にたえ
ないものがある。国語は国民性の陶冶に重大な関係を有する。我々はあえて国語の
尊重を国民に向って要求する。上古の国民は実にそういう国民性を有していたのであ
る。
三
イギリスの言語学者ヘンリー・スィートは、言語上からギリシャ、ローマ両国民の性情
を観察して次のようにいっている。
「ギリシャ人と、ギリシャ人ほど智的でないローマ人との相違は、明らかに両国民の
国語にあらわれている。実際的気質を持っているローマ人は窮屈で具象的な語彙で
満足し、思想の表現も用向の足りる程度の簡単なものを目的としていた。このためには
表現のフレキシビリティや意義の区別は犠牲にしてもよいと考えたのである。ローマ人
はこういうことが伝統的な組織と両立し得るものであり、またある程度まではこれと調和
するということに気がついたので、これを発展させ、措辞法の上から見ればよく整って
いる語尾変化を作りだしたのである。いっぽう活動的なギリシャ人は抽象的思索を表
現するために、フレキシビリティを有している明快な語詞構成が必要であった。純粋の
語尾変化はこの必要に応ずるには不適当であったので、ギリシャ語には、後期アリア
ン語に発達したような分解的組織の萌芽を見るに至った。……ギリシャ人の天才はギリ
シャ語の分解パーティクルの上にもっとも明らかにあらわれている。しかしまたパーティ
クルが発達し過ぎたということは、彼らの智的気質の弱点を示しているものである。」
スィートはさらに歩を進めて支那語に論及し、「支那語はローマ人の簡潔とギリシャ
人の愛好した表現の明快さおよび温雅さを合わせ持っている」と説き、「支那人の語学
的本能は非常に抽象的であり概括的である。そしてこの傾向に論理的明快を欲する
念が加わって、多数のパーティクルを発達させた。そのパーティクルはギリシャ語のパ
ーティクルのようなものであって、翻訳し難いものが往々にしてある」といっている。
こうした見方で我が国語を観察すると、我が国民もまた抽象的概括的な国民である。
これは、支那朝鮮日本の三民族を通じて、同じ文化圏内についていってみると「かね」
という言葉は、金、銀、銅、鉄のような各種の金属、それらの金属で出来ている品物、
例えば鐘、鉄漿、曲尺のようなもの、貨幣の類までもいいあらわしている。これらを区別
する必要のある場合には「こがね」「しろがね」「あかがね」「くろがね」「つりがね」などと
いうように他の語を複合させ、換言すれば修飾語を加えていいあらわすが、ドイツ話で
Gelt,Silber,Kupher,Eisen,英語で Gold,Silver,Copper,Iron,Bell というような独立した言
葉はないのである。「かわ」といふ言葉も、国語ではどんな河川をもあらわすことが出来
る。支那でも「河」と「川」などの区別があるが、我が国では一様にすべで「かわ」である。
種々の区別をつけるには「おおかわ」「こがわ」「はやかわ」「たにがわ」「ほそたにがわ」
などと他の成分を結びつける。英語では River,Stream,Brook というような別々の言葉が
あ る 。 フ ラ ン ス 語 に は Rivieres , Courant,Ruisseau と い う 言 葉 が あ る 。 ド イ ツ 語 の
Bachlein というのは「こがわ」に相当する語であって、Bach に lein のついたのは「かわ」
に「こ」(小)がついたのと似ているが、Bach が元来「小川」の意味の語であるし、1ein と
いふ縮小接尾語は国語の「こがわ」の「こ」とはやや趣きを異にしている。国語の「くるま」
という語からは「おぐるま」(小車)「うしぐるま」(牛車)「にぐるま」(荷車)「いとぐるま」(紡
績車)「かざぐるま」(風車)のような実際の車もしくは車に似たもの、あるいは「かたぐる
ま」(肩車)「くちぐるま」(口車)「こしぐるま」(腰車)のような一寸考えただけでは無関係
に思われる複合語までも出来ている。すべてこれらは複合的関係であって、特別の言
葉は造り出されない。国語中の漢語でも同様であつで、「車」という語があれば「馬車」
「汽車」「貨車」「自転車」「自動車」というように種々の言葉が出来てくる。国語では、何
でも物を載せるものならば「くるま」という語で総括する。だから「肩車」「口車」「腰車」な
どの語も送り出されるのである。そうして、車の差別性をいいあらわすには別に言葉を
案出せず、属性をあらわす語を添加してすましておく。こういう風に種々の語を結び付
けて複合語を形成するということはドイツ語などにも多く認められる現象ではあるが、ド
イツ語などではすでに分解的で精密な意義をあらわす言葉があって、さらに種々の成
分を結びつけて一層複雑な意義を発展させるのである。国語の語彙にあらわれている
現象は、前にも述べたようにこれとは趣きが違っている。これには種々の歴史的関係
があるが、スィー卜の所論を引合いに出せば、厳密に一々の言葉を型にはめてゆく窮
屈な語法をもっているドイツ語と、融通のきく、悪くいえば茫漠枚糊、よくいえは詩韻溢
れる日本語との相違がここに認められるのであって、前者はローマ人的であり、後者は
ギリシャ人的であるといえる。
古語に例をとってみても「あわれ」「おかし」という類の言葉は、その意義があまりに抽
象的であり概括的であって容易に捕捉することが出来ない。嬉しい事、面白いこと、感
ずること、悲しいことすべて皆「あわれ」という語に摂取される。笑うべきことも、面白いこ
とも、感ずべきことも「おかし」という中に包含される。一方からいえば、こういう言葉は含
蓄があり味が深い。しかし他の方面から見れば意味があいまいで、謎的である。もっと
も我が国民も含蓄や曖昧ばかりを喜んでいるのではない。随分精密な意義を表わす
語彙を持っている。たとえば兄弟姉妹の各々をあらわすのに、国語には「あに」「おとう
と」「あね」「いもうと」という語がある。古い時代には妹を「おとうと」といっている例があり、
「姉」を「いもうと」といった例もあって、長幼の関係から年齢の劣っているものは男女に
限らず「おとうと」と呼び、長幼の関係に拘わらず、男は自分の同胞の姉妹を「いもうと」
と呼んだのであるが、後になって「あに」「おとうと」「あね」「いもうと」の四つの言葉がそ
れぞれを判然と示すようになった。これは英語などよりも区別が精密である。英語では
younger とか elder という語を brother,sister に加えなければ区別を示すことができな
い。マレー語では英語の brother,sister に相当する言葉もなく、兄弟姉妹をあらわすに
はただ「同じ両親の所生」という意味の Sudara という語だけであって、これは国語の「は
らから」に相当する語であるから。兄弟や姉妹をいいあらわすには「男の」とか「女の」と
かいう語をつけて Sudara lakilaki(兄弟)か Sudara perampwan(姉妹)といわなければな
らない。しかし日本語にはマレー語の Sudara に相当する語がなく、「きょうだい」という
言葉で「兄弟」をも「姉妹」をもあらわしている。ブルームフィールドも言っているように、
こういう語彙の存在非存在によって、国民の家族的識別の行否を疑うことは出来ない
のでもあるし、これによって概括力の有無を論ずることは出来ないのではあるが、少な
くとも当該国民がそういう言葉が必要と感ずるか否かによって発達の程度が定まるので
あるから、我が国語にこういう区別があるのは、我が国民が必要によって精密な分類を
なしうる能力をもっていることを証拠立てているものといってよかろう。しかしながら、こ
れは特殊の場合である。一般的には我が国民は拍象的概括的をよろこぶ国民である。
国語に「性」「数」が発達しなかったのも、上述のような国民性による。支那語にも朝
鮮語にもこれらが発達しなかったのは、同じような民族的特性によるのであろう。国語
では「性」や「数」を区別する必要な時には、接頭語接尾語または他の言葉の助けによ
るだけである。主語や客語のような文の成分を省略することが多いのも、国語の著しい
特徴である。これもやはりわが国民が大体を把握して細部を顧みず、一端を力説して
あとは解釈に任せるという表現方法を悦ぶところから来たと考えられる。温雅、流麗、
余裕は認められるが、精緻、剛健、緊張の面では遺憾が多い。
国語における抽象的概括的表現の最もわるい方面は、近時の流行語にあらわれて
いる。ことに漢語に著しい「国調」とか「帝展」とか「労資協調」とかいう語は、その字面
だけを見ては何の意義を認めることも出来ない。全く謎語的なものである。これを漢字
の弱点という人もあるが、実に我が国民の抽象概括をよろこぶ性情の短所をまざまざと
示している。
四
我が国民は、現実的であり楽天的であり、軽快な国民である。花に歌い月に読み、
雪見には転ぶ所までも逍遥する。冥想的思索的ではないが、洒脱であり優雅である。
これらの特長はやはり国語の上に著しくあらわれている。
日本語の音節は開音節である。したがって日本語には母音が非常に多い。母音が
多いということは言葉に軽快味を与える。軽快は荘重とはそぐわない。軽快の半面は
繊弱である。国語が荘重を欠き繊弱の弊害を伴っていることは否定できない事実であ
る。漢語の混和は幾分かその短所を補っているけれども、やはり国語の声調を本とし
ている詩歌に荘重剛健なものは生れない。長歌は万葉以後見るべきものがなく、短歌
俳句の小詩形のみが国語にふさわしいものとして国民の間に勢力を保っている。歌謡
の方面でもっともよく発達したのは江戸時代における繊麗瀟洒な歌曲である。これがま
たよくわが国民の気分を代表している。
軽快をよろこぶ国民は、音韻の屈折を厭う国民である。漢字音を輸入した時代にも、
我が国民はすべてその耳ざわりの音を和らげてしまった。言葉の上においても強い音
を嫌った結果として、音便の現象があらわれるようになった。「行きて」を「ゆいて」、「思
いて」を「おもうて」、「めんぼく(面目)」を「めいぼく」といふ語がこれである。転呼者とか
連濁とかいう音韻上の現象も、同様の原因から生じたものということが出来る。これに
は発音上の努力節減ということ、換言すれば発音を容易にするということが大きな影響
を与えている。
元来わが国民は言葉の発音にはあまり注意を払わない。成るべく自分に都合のよい
ように、在来の耳の習慣、在来の発音の習慣にもとらないように取扱おうとする傾向が
ある。昔の漢字音を国語に取り入れた時代、音便などの習慣を作った時代にもそうで
あったが、近代の一般的傾向もまたそうである。国語の音韻変化にはこの傾向から生
じたものもきわめて多い。
国語の音節が開音節であるということは、複合語の結びつき方を非常に容易にする。
前節に述べたように、国語には複合語の形式で新語が作り出されるものが多いのであ
るが、この場合「酒樽」「舟歌」のような前の語の終りの母音が変って、次の語と密着す
るものは特にいうまでもないが、そういう音韻上の変化を受けないものでも、例えば「白
絹」「青山」「悪口」のように、その前後の二者が渾然として一体をなして感じられる。
「春秋」のような類の語は、場合によって「春」と「秋」との二つの意味にも、「春秋」の複
合的意味にも用いられるが、一見しただけではその区別を見分けにくい。こういう複合
語の構成以外においても、やはり同様の理由から、言葉の前後の連絡が非常に自由
である。ここにおいて、我が国民は懸詞というものを文学上に発達させた。
「妹がめを見まくほり江のさざら波 しきて恋いつつありと告げこそ」という歌の「見まく
ほり江」とある「ほり」は前後にかかっている。「見まくほり」は「見ようと欲して」という意味
で「ほり」という語は上にかかっている。と同時に「堀江」という地名をあらわすものとして
下の語に結びついている。謡曲に「旅衣末はるばるの郡路を 今日思いたつ浦の波」
などとある「たつ」も上には「思い立つ」という関係でつらなり、下には浦波が立つ意味
でかかっている。駄洒落にいう「その手はくわなの焼きはまぐり」も「くわない」という語と
「桑名」という地名とをいいかけている。国語には同音異義の語が多いのと、上述のよう
に前後の言葉の連絡が閉音節の関係で母音のために円滑になっていることから発達
したものである。我が国民が元来洒落好きの国民であることは、文学上にも日常の会
話にも盛んにこの懸詞を利用していることによって認められる。地口とか語呂合せなど
の言語上の遊戯も、この洒落好きの本能から出たものである。
洒落好きの国民は、また一面縁起を祝う国民である。国語には同音異議の語が多い
から、ある言葉と同音の語に不吉な連想を起させるものがあると、これを忍んで言い変
えることを古くから行っている。二、三の例を挙げると、栄花物語に、臍帯を切ることを
「ほそのをつぐ」と書いてあるが、つぐというのは切るといふ語を忌んでいいかえたので
ある。舞の本の鳥帽子折に「御ぐしを御はやしあり」という文句がある。これは元服に髪
を剃ることを述べたのであるが、剃るというのを忌んだのである。今婚礼の席では帰ると
いうことを忌んで開くというが、戦争の際に退くことを開くといった例は、太平記、保元
物語などの諸書にある。このほか病気を歓楽といい、凶事を吉事といい代えている例
も古くからある。梨をありのみというのは「なし」は「無し」の同音異義だからである。商人
などが硯箱をあたり箱、擂鉢をあたり鉢というのは、「する(損をする)」という語を避けた
のであり、花柳界などで「お茶」を「お出花」「あがり花」などというのは、お茶を引くとい
う語の連想が悪いから言い換えて縁起を祝うのである。いずれも国民の禁忌思想の反
映である。
言語と国民性との関係は大きな問題であって、言語学の上からも民族心理学の上か
らも、深い研究を要する。本編は短期間の間に思いつきのままを断片的に書きつけた
に過ぎないので、ほとんど根本問題に触れていないといってよい。蕪雑粗漏の点はひ
とえに読者の寛恕を乞う。(大正十年三月十日稿)
武士道から見た日本の国民性
大町
桂月
一
明治の初めまで、我が国には武士という世襲の階級があった。京都が公家の都であ
り、大阪が商人の町であるのを除いて、日本国中ことごとく武士が占めていた。将軍が
八万騎の軍を擁する江戸は総本家であって、その他の土地は三百諸侯に分割されて
いた。諸侯には多くは千人、少くとも数百の武士が属していて軍備の任に当り、政治を
も行った。天下は武士の天下であった。農工商はほとんど人間という資格がなかった。
『花は桜木、人は武士』というのは、武士の性格の美を賞めたばかりでなく、武士という
階級の勢力あるのを羨んだものである。武士でなくては、人と生れた甲斐がないとまで
思ったのである。馬琴は八犬伝を残すよりも、息子のために武士の株を買うのを名誉と
思った。伊藤博文は武士ではなかったが 『おれは武士だ』と威張った。
武士には武士道があった、武士が羨望の的であるにつれて、武士道は天下一般に
波及した。武士に劣るものかという気慨を武士以外の気骨ある人衆が持っていた。幕
末の勇士近藤勇や土方歳三は、多摩河畔の百姓の子であったが、武士以上の武士
魂を持っていた。幕府で武士に取立てようとしたが、かえって断った。太平が続くにつ
れて、武士に武士らしからぬ人が少なくなかったとともに、武士以外に武士らしい人が
少なくなかったのである。実質が武士である近藤や土方には、武士という名目は必要
がなかったので、腐敗した八万騎への面当てに皮肉ったのである。
明治になってから武士という階級がなくなり、四民平等となった。それでも数百千年
来養成した武士道の精神が、一朝に消滅するものではない。それは強兵のためには
都合がよいが、富国のためには都合が善くないことが多かった。福沢諭吉は明治の先
覚者であったが、一方では拝金の本山といわれた。諭吉の本心は、武士道を蔑んで
黄金を崇拝したものではなかった。日本が国を開いて世界の競争場に立つには武士
道だけでは不十分である、西洋の文明も取らねばならない、科学も盛んにしなければ
ならない、殖産興業を盛んにせねばならない、国を富ませなければならない、というの
が諭吉の意見であった。そのために日本は今日の隆盛を見るに至った。諭吉は時に
応じて説法したのである。今日では諭吉の説法の薬が効きすぎて、武士道の精神が
必要になってきた。
武士の階級がなくなってから五十年にしかならない。武士道の精神は福沢派のため
に打撃を蒙り、生存競争のために打撃を受け、外来思想のために打撃を被ったが、ま
だまだ日本には至るところに武士道の精神は存在している。日清戦争に勝ったのも、
日露戦争に勝ったのも、決して偶然ではない。ほんの五十年前まで武士という階級が
あったからである。これは世界で日本だけが有する一種の強みである。
二
では武士道とは何であるかというと、忠孝の二字で総括することが出来る。しかも忠と
孝とが別々のものでなくて、まったく一致しているのが、日本の武士道の精神である。
この頃は、忠孝は奴隷道徳であるという人が多くなったが、もしも日本人から忠孝の精
神を抜き去ったら、日本人は欧米人の奴隷となるのである。自我の奴隷となるのである。
自利の奴隷となるのである。いかに奴隷の語を厭がっても、忠孝の奴隷となるか自我
自利の奴隷となるか、どうせ人は何かの奴隷になるのを免れない。忠孝の奴隷となっ
たら、人であるが、自利自我の奴隷となったら動物である。
動物は自利自我の傀儡(かいらい)である。孝もない。忠もない。家もない。社会もな
い。国家もない。文明もない。西洋の文明は個人主義の文明であるが、全く自利自我
のみではない。神の奴隷というキリスト教の教えが道徳を維持して来た。正義の観念も
ある。人と人、国と国との競争が激しい中に、文明が発達して来て、常識も発達してい
る。学者の机上ではキリスト教を軽蔑しても、数百千年来西洋の社会に深く根付いた
宗教である。信仰は薄らいでも、風俗となり習慣となり、礼儀となり、作法となって、キリ
スト教はなお西洋の世道人心を支配している。西洋からキリスト教を取り去れば、西洋
は闇になる。日本から忠孝の精神を取り去れば、日本は闇になる。日本に生れながら
忠孝から離れ、西洋の思想を容れながら神の奴隷から離れたら、中ぶらりんの迷子に
なるほかないのである。
今日の人に向って、忠孝の語を発したら、いきなり古くさいというであろうが、そのくせ
毎日米を食っているではないか。百年前の日本人も米を食った。二百年前の日本人も
米を食った。二千年前の日本人も米を食った。米は古いといえば古いが、今日でも日
本人は誰も米と離れることが出来ない。忠孝も日本人に取っては、米と同じである。忠
孝は精神上の米である。米は肉体上の忠孝である。古来日本人の肉体は米によって
養われ、精神は忠孝によって養われて来た。忠孝は武士道を合体した。武士にして忠
孝と離れたものは真の武士でなかったが、武士以外で忠孝と合したものは真の武士で
あった。西洋でキリスト教の信仰が薄らいできたように、日本でも忠孝の精神が薄らい
で来たが、千年来の感化で、西洋の世道人心の奥にはキリスト教の根があり、日本の
世道人心の奥には忠孝の根がある。浮草のようにふわふわした人は自分に根がない
から、日本に生まれても忠孝の根がわからず、西洋をぶらついても、キリスト教の根が
わからないのである。
三
忠とは何であるか、孝とは何であるか。一口に云えば、忠とは君に尽すことである。孝
とは親に尽すことである。君に尽し、親に尽すとはどうすることか。君父のために誠心
誠意を披歴して一心を忘れることである。孝の一例を挙げてみよう。
信州は佐久郡内山村破風山の麓に、総右衛門という農夫があった、家より三町ばか
り隔った字逢月という所に、猪鹿防ぎの番小屋を設けて、夜々守っていた。天明八年
九月二十五日。夕方から子の亀松を伴って見張りに行った。亀松は草を刈り総右衛門
は小屋で火をたいていたが、不意に狼が来て、総右衛門の足に喰付いた。驚いて振
向くと唇から鰓(えら)へかけて喰付いた。彼は狼の耳を握って大声で叫んだ。亀松が
それを聞いて父の難を知り、走り来て所持していた鎌を狼の口ヘ引掛けた。鎌の柄が
狼に噛み折られた。父の鎌を取って、柄の方を狼の口に捻じ込んだ。なお石で狼の牙
を打欠いたが、狼はますます猛って掻付いた。父は数ヶ所の傷に弱って、動くことが出
来ない。亀松は少しも屈せず力の限りを尽した。終に指で狼の眼をくり抜いて漸く狼を
倒した。父の傷は多かったが、みな急所を外れていた。亀松が介抱して家に連れ帰り、
療養して全快した。亀松はこの時わずか十一歳であった。しかも年齢より小柄で虚弱
で力はなかった。ただ孝の一念が亀松を豪傑としたのである。
亀松と正反対の例をあげると、ますます亀松の偉いことがわかる。ある人と云って置く。
北海道にいた。学問もあり理窟もいう。元気で猟を好んだ。友人とともに熊狩りに出掛
けたはよいが、熊が不意に現れて友人に飛び掛った。彼は驚いて腰を抜かした。思わ
ず知らず銃を投け出した。銃を取ろうとしても、手が動かない。ついに熊は友人を殺し
てかついで行ったが、彼は動くことが出来ない。唯目をぱちくりするだけであったが、
幸いにも薬商が通りかかったので、助け起して連れて帰った。その人は亀松のような
少年ではない。立派な大人である。
世人はこの人を目して臆病者というであろうが、臆病者だけではない。誠心誠意が無
くて一身を忘れることの出来ない人である。これに反して亀松は誠心誠意があって、一
身を忘れることの出来る人である。この人が亀松の場合であったら、父はむざむざ狼に
殺されたであろう。亀松がある人の場合であったら、友人は断じて熊に殺されなかった
であろう。ある人は友人に対して友情を尽さなかったが、子としたら孝子になれない。
臣としたら忠臣になれない。学問をしても、学問に忠実でない。事業をしても事業に徹
底しない。亀松は親に対して孝を尽したが、友としたら益友になれる。臣としたら忠臣
になれる。学問をしたら学問に忠実である。事業をしたら事業に徹底する。今世の中を
見渡すと、亀松のような人はだんだん少なくなって、ある人のような人がますます多くな
るばかりである。それでも自らその非であることを知っていれば、まだしもであるが、自
分をよしとして口先ばかりで理窟をこねまわすから、何とも始末に負えない。
四
誠心誠意があって一身を忘れることの出来る亀松と、誠心誠意がなくて一身を忘れ
ることの出来ない北海辺のある人との例で、孝と不孝との分れる根本が判った。孝の対
象である親を何故に大切にしなければならないかといえば、それは報本反始の精神か
ら出ている。我が身は親の分身である。人間の愛他の心はまず親に向わねばならない。
養育の恩を思えばなおさらである。武士なり商なり農なり、家業を世襲する身ではなお
さらである。それを誠心誠意で固まった人は、なまぬるいことでは済まされず、ついに
一身を忘れるに至るのである。
今の世には「頼みもしないのになぜ俺を生んだ」ななどと臆面もなくいう者もあるが、
それは生を呪うものである。この世に生存する資格のないものである。
また「なぜ、賢い子に生んでくれなかったろう」と親を恨む者もあるが、それは慾に迷
うものである。釈迦になりたい、ナポレオンになりたい、カーネギーになりたいと、人の
欲には際限がないが、世の中は欲のとおりになるものではない。学才の多い方がよい
が、学才ばかりが人間ではない。才智が少ないより多い方がよいが、才智ばかりが人
間ではない。適所に適才を発揮するところに人間の価値がある。ことに己れの努力を
忘れてはならない。天分の劣った人がおのれの努力によって、天分の優れた人を超え
る例がいくらでもある。
また「生存競争が激しくなったから、親孝行などと悠長な真似は出来ない。個人の発
展が急務である」という者もあるが、これは前二者に比べれば、一と理窟ある。西洋は
こういう有様である。今日ばかりではない。数百千年前からである。外は国と国との競
争が激しく、内は人と人との競争が激しいから、親は子を顧みる暇がない。子は親を顧
みる暇がない。親は親、子は子で、世に立っている。個人本位となってきた。越後に、
「親不知」という所がある。断崖絶壁になっていて、波が打寄せている。行人は波のあ
いまを見て、命がけで走って通らねばならない。親は子を顧見る暇がなく、子は親を顧
みる暇がなかった。それで「親不知、子不知」と云ったのである。西洋の社会は、不幸
にも「親不知」の世である。したがって孝道が発達しなかった。その代りにキリスト教で
世道人心を維持してきた。幸いにも日本の社会は「親不知」ではなかった。孝道が発
達してきた。今は日本の社会も「親不知」風になってきたが、西洋のように個人本位で
なくて、家庭本位で立っている。そこに日本本来の美風がある。忠孝の精神が失せな
い。もし日本人が忠孝の精神を失い、西洋で世道人心を維持したキリスト教の精神を
も抜きにして、西洋の個人本位のみを真似したなら、折角の日本の美風を失い、西洋
の美風も得なくて、西洋の糟(かす)ばかりを舐(な)めることになる。
「親不知」の西洋では個人本位の道徳が発達して来た。大道を坦々と進んだ日本では、
家庭本位の孝道が発達して来た。西洋には耶蘇教という大黒柱がある。日本には皇
室という大黒柱がある。日本は開国以来、万世一系の天皇を戴いている。これは日本
独特の国体である。西洋の個人本位に対していえば、日本は家庭本位であるが、なお
精しく云えば、皇室中心の家庭本位である。皇室は家庭の総本家である。親を生んだ
ものは祖父であり、祖父を生んだものは曽祖父であるから、孝道は忠道と一致し、また
敬神とも一致した。天皇は現(あき)つ神であり、天照大神は日本の総本神である。天
皇が人民をみること子のように、人民が天皇をみること父のように、これは日本でなくて
は見られない美風である。
日本で孝道の精神に徹底すると、自ら忠道の精神にも徹底する。夫婦相愛する。兄
弟姉妹相睦まじくする。朋友は相信じる。人に対して忠実である。外国人に対しても親
切である。誠心誠意がある。場合によっては一身を忘れて勇躍する元気がある。事務
をサボらない。謹直である。礼儀正しい。一つの孝道に徹底したら、まことに立派な人
間になる。西洋人はキリスト教のおかげで「親不知」を通っているから、キリスト教を信じ
ない日本人を人でなしのように思うが、それは忠孝の教えのあることを知らないからで
ある。日本人で忠孝の精神を解しないものがあるなら、それこそ人でないのである。も
っとも若い時は一身の発達に追われるが、「子を持って知る親の恩」というように、これ
までの日本国民は何人も忠孝の素質を持っていた。この素質を多く持っている者は成
功するにしても大いに成功し、慶福が子孫に及ぶが、この素質が少なくなるにつれて、
成功するにしても小さく成功し、慶福が子孫に及ばないのである。
五
日本の国民性は忠孝が根本になっていて、武士道によって鍛錬された。万世一系
の天皇を奉じて忠と孝とが一致する日本独得の国体によって、さらに鍛錬された。国
歌をみてもわかる。「君が代」の唱歌は君を祝ったものであるが、君が栄えれば国も栄
える。民も栄える。皇室中心の我が国体では、君が代を祝えばそれが国歌となるので
ある。それは他の国では出来ない。この特質が判らないものは国歌を歌う資格のない
ものである。
いうまでもなく、御馬前の討死が、武士の天職である。したがって日本国民は勇敢で
ある。それは干戈の戦争が証拠立てたばかりでなく、平和の戦争において、日本国民
がどしどし海外に進出したのを見てもわかる。三千年来の歴史を見れば、なおさらわか
る。武士は平生武術を修めて勇気を養った。胆を練った。生死に超越した。武術には、
剣術、柔術、弓術、馬術などがある。角力は武器を用いない一種の武術であるが、
上古から行われて今も盛んである。専門の力士もあるが、いたるところに宮角力がある。
学校にも土俵がある。囲碁将棋も腕力を用いない一種の武術である。囲碁将棋にも専
門家があるが、日本中どこへ行っても碁盤将棋盤のないところはない。西洋や支那で
は、立派な紳士の間にも、博奕が行われているが、日本の紳士にはそれがない。その
代りに囲碁将棋が行われている。博奕は金を争うのであるが、囲碁将棋は智勇を闘わ
すのである。「日本人が戦争に強いのは、平生碁が行われているのが一大原因である」
と云った西洋人さえある。
勇気のある者は残酷であり、優雅な者は勇気がないのが普通であるが、日本国民は
勇気があっても残酷でなく、優雅であっても勇気がある。ここに国民性の特質がある。
「武人は物のあわれを知る」といわれている。「桜うえたし軍もした。これが真の日本武
士」という俗謡もある。三千年来の歴史を通観しても、世界の他の国に見るような残酷
な事蹟がない。源義家と安部貞任が戦いの間に連歌を詠みあったようなことは、他国
にはない。那須与一が扇の的を射たようなことは、日本にだけしかない。神代の昔から
和歌がある。十戸の村には必らず和歌を作る人がある。俳句を作る人がある。死に臨
んで従容として辞世の吟を作る人が少なくない。日本のような詩人の国は世界中どこ
にもあるまい。欧米では、日本国民を好戦の国民というものもあるが、これは誤解であ
る。日本国民の気風は尚武ではあるが、好戦的ではない。勝気ではあるが暴慢ではな
い。欧米人でも立入って精しく観察したら、日本国民ほとんどみな詩人であるのに驚く
であろう。角力を見ても解る。欧米の角力は残酷であるが、日本の角力は少しも残酷
ではない。欧米の拳斗はなお一層残酷である。拳斗の行はれる欧米の国民こそ好戦
と云われようが、角力を好む日本の国民を好戦とは云われまい。
六
武士は平生刀を差していた。しかし刀を抜いたら生命がない。御馬前の討死が出来
ない。場合によったら先祖代々の家を棒に振らねばならない。だからよくよくのことでな
ければ、みだりに刀は抜かない。そこに武士道がひらめいて、武士は礼儀を重んじた。
礼儀が正しければ争いは起るものではない。争いが起らなければ刀を抜く必要がない。
礼儀は形ばかりのものではない。内に誠心誠意があればよく敬愛を解するのである。
忠孝の一変形にほかならない。忠孝を解した日本武士は、実に礼儀正しい国民であ
った。武士の階級がなくなるとともに、礼儀は地に落ちた。七尺下って師の影を踏まな
い真似をする者はいなくなった。師を見ることがあたかも雇い人のようになった。その他
は推して知られる。国民の品位が下落した。内では識者を顰蹙(ひんしゅく)させ、外で
は欧米人に軽蔑されるようになった。
人に苦しい顔を見せないというのも、礼儀の一面である。苦しくても苦しそうな顔を見
せない。苦しいとは言わない。「侍の子というものは腹がへってもひもじうない」「武士は
喰わねど高楊枝」、武士には痩せ我慢が付き物である。感情をむき出しにする欧米人
はこれを虚偽と云うようであるが、そこに日本国民性の特質がある。喜怒を色にあらわ
さないばかりでなく、笑って死に就くのである。日本国民は「泣笑い」の出来る人間であ
る。日本人から欧米人を見たら、礼儀の程度が低い、泣き虫である、辛抱がない、たし
なみがない、痩せ我慢ができない。力士でも昔は負けた時、平気な顔もしくは笑い顔
をするものがあったが、この頃はみな恨めしそうな顔、泣きそうな顔をするものばかりに
なった。野球の選手が負けた時一同で泣き出すのは、責任を重んずるという理由もあ
ろうが、武士から見れば、欧米人にかぶれて泣虫になったものである。
武士はみだりに刀を抜かないが、恥を知らねばならない。腰を抜かしてはならない。
刀を抜くべき時には抜かねばならない。殿中では困まるが、浅野内匠頭が刀を抜いた
のは、大いに同情すべき点がある。武士は常に刀の手前ということを心得ていなけれ
ばならない。廉恥が武士道の大眼目である。卑怯でない、賤しくない、不正でない、公
明正大、私利私欲に動かない。実業に従事したら損をすることもあろうが、砂利を喰う
ことはない。ガスを吸うこともないのである。
七
支那は儒教の起った国であるが、儒教は支那に行われなくて、かえって日本で行わ
れた。ことに江戸時代によく行われた。元来儒教は官吏の教えで、人民の教えではな
い。忠義の解釈次第で、儒教はまったく武士道と合っている。しかし例外はある。論語
に「馬小屋が焼けた。師は人に怪我はなかったかと聞いた。馬については聞かなかっ
た」とある。当時の馬は今の飛行機である。「関東の兵は天下を相手にしても勝つ」と
云われたのは、関東の兵が強かったばかりでなく、馬術に長じ良馬を持っていたから
である。山内一豊が良馬を買うのに夫人が賛成したのも、これから出たのである。武士
が馬小屋の焼けた時、人のみを問うて馬を問わなくてはちと困る。徂徠は孔子の語を
次のようにした。「馬は人を傷つけたのではないか」と。
これは「葷酒山門に入るを許さず(不レ許三葷酒入二山門一)」を「葷を許さず、酒は
山門に入れ(不レ許レ葷。酒入二山門一)」とした筆法で、「傷レ人乎。不レ問レ馬」を
「傷レ人乎不。問レ馬」としたのである。于供だましであるが、徂徠は武士道に合うよう
にと努めたのである。徂徠は豪いことは豪いが、御用学者で、曲学阿世の風を免れな
い。こんな小細工をしなくても、いくらでも解釈の仕様がある。馬も大事だが馬よりは人
が大事であると解けばよいのである。儒教は官吏の教であるが、なお精しく云えば、文
官の教であって武官の教ではない。それで徂徠の小細工が起るのである。古来支那
は尚文の国である。廉頗が蘭相如に対して立腹したのも無理はない。日本は尚武の
国である。日本の武士は論語だけでは不足である。孫子を読まねばならない。この頃
問題になった杉浦重剛先生が儒教に達していることは、知っている人も少なくなかろう
が、先生は孫子の愛読者である。家塾で孫子を講じたこともあった。「志願兵制度は良
くない。国民の尚武の気風を殺ぐ」というのが先生の意見である。先生は教育家である
が、普通の軍人よりも強硬な意見を持っている。今日天下みな先生に敬服しない者は
ないが、ただ敬服するだけでは足りない。先生の根本には、武士の精神があることを
知らねばならない。知って学ばなければならない。
八
武士道は婦人に対して、どうであったかと云うと、男尊女卑であった。それには大い
に理由がある。男なら祖先代々の後をついで武士になれるが、女ではなれない。男を
尊ばざるを得ない。今日でも一般に女よりは男を生むのを喜ぶ気風がある。祖先代々
の家を継ぐ子孫が必要なので、養子もしたが、養子よりも実子がよいから蓄妾が許され
た。女に恋着するのを武士の恥とした。女に恋着しては勇ましい門出が出来ない。
花々しい戦が出来ない。小野小町に通った深草少将が深草小納言ならまだしもだが、
少将では困ったものである。平安朝第一の色男の在原中将も中納言でなくて中将で
あるから、これも困まったものである。新田義貞も勾当内侍の色に迷ったから失敗した。
武士に美人は禁物である。「武夫(もののふ)は物のあわれを知る」であるから、何も女
を虐待するわけではない。ただ女尊になっては武士の天職が廃れる。家庭でも女尊に
なっては尚武の風が廃れて文弱になる。盲目の人情が跋扈(ばっこ)する。銅臭が多く
なる。商家では女尊の方が繁昌するが、武士では女尊になったら家が亡びる。どうも
大平が続くと女尊になる。女尊になると弱くなる。弱くなると国が亡びる。古今東西の諸
国みなこれを繰返している。我国でも平安朝ではこのとおりであっ た。江戸時代もこ
の傾向があったが、武士道で維持した。今日はまた平安朝の傾向を帯びて来た。国家
の将来が危ぶまれる。婦人でも、武士道の精神を了解しているなら大いに尊いが、さも
ないと亡国の仲立ちをするようになる。この頃婦人問題がやかましくなったが、まずこの
点を考えねばならない。何も女を賤しむわけではない。女を憎むわけでもない。国家
が大事だからである。
風俗上から見た我が国民性
文学士
笹川
臨風
上
個人に個性があり、地方に地方色があるように、国民に国民性があることはいうまで
もない。個性は教育と境遇により作られるが、遺伝によってまずその基礎が作られる。
地方色は風土の影響と気候の感化などにより、特殊な色彩を帯びるが、遺伝が基礎と
なることも否定できない。地方色の大きなものが国民性に外ならない。個性と個性を比
較すると、その間に大きな隔たりはあるが、地方色は個性の集りで、国民性もまた個性
の集ったものである。しかし複合写真を見るように、異った個性のうちには共有のところ
があって、それが現われたものが地方色で、さらに大きなものが国民性である。テーベ
の同じ大きなものも、エバミノンダスとペロピダスとは性質が非常に相違している。それ
はそれぞれの個性の表現である。スパルタとアテネとの相違は地方色の各自の発揮
である。しかしテーベ人に地方色があるように、ギリシャ人にもギリシャの国民性がある。
子路と顔淵との相違は個性の相違で、北方支那と南方支那との相違は地方色の相違
であるが、支那人を通じて支那の国民性は存在する。同じ関東人にしても、足利尊氏
と新田義貞との相違は個性の相違であるが、関東人としての地色方は両者ともに持っ
ている。関東と関西との相違は地方色の相違であるが、日本の国民性は両者の間に
共通の点がある。
しかし国民性は必ずしも一定不易のものではなく、種々の影響により変化し行くもの
である。今日、日本人の国民性を個条書きにして並べ立てるが、これも永い間に変化
して来た結果のものである。これを過去のある時代に当てはめると、必ずしも適合して
いるとはいえない。恐らくは今日の我が国民性も今後次第に移り行くに違いない。ただ
その中には基礎となる一種の厳として動かせないものが存在して行くことは疑いない。
日本に固有の文化はないといってもよい。こういうと日本には短歌もあった、神ながら
の道もあった、何で固有の文化がないものかと反駁されるであろう。こういう文化ならま
だ沢山ある。出雲の土師が作った埴輪も固有の文化なら、天鈿女命(あめのうずめの
みこと)が舞った踊りも固有の文化であるし、五穀を植えたことも、衣を織ったことも固
有の文化である。しかし私がいう文化とは、そんな些細なことではない。国民の精神的
方面、物質的方面に多大の寄与をし、国民の生活状態を向上させるものを指すので
ある。このような文化はみな外来の文化である。応神朝に渡来した支那の儒教文化、
欽明朝以後に見る朝鮮伝来の仏教文化、下って奈良朝における支那唐代の文化、鎌
倉以後ことに足利東山時代における支那宋元の文化、明治維新前よりようやく将来さ
れ、ことに明治以後に潮のように伝来した西洋文化、これらは我が文化の源泉である。
我が国民性はこれらを日本化して、常に日本文化を作ったのである。これらの外来文
化は日本文化を向上させたと同時に、我が思想も変え、我が風俗を変化させたし、我
が国民性に多大の影響を与えたのである。
大和朝廷時代、奈良朝の国民性は、大和の地方色を帯びた国民性があったろうし、
平安朝の国民性は京都という地方色を帯びた国民性に違いない。鎌倉以後の国民性
は関東の地方色を帯びた国民性である。だから関東と関西との地方色が違うように、
国民性にもその影響は見られるであろう。しかし争うことのできない日本人の血液を受
け継いでいた所に、共通の点があったことはいうまでもない。国民性を論ずるには、横
に見た地方的特色も斟酌すべきであるが、縦に見る時代的変化を見過ごしてはならな
い。時代的変化とは、外来文化、外来思想の影響、国民生活状態の変化などによって、
著しく発揮されるものである。かつて肉食を主としていた国民が、宗教的感化により菜
食を専らとすることになれば、その変化は国民性に影響がないとはいえない。家族制
道徳により教えられていた国民が、外来の個人制道徳の感化を受けることになれば、
国民性は変化する。こういう見方をすると、国民性は必ずしも一定不変のものではなく、
絶えず変化をして行くものである。しかし遺伝なり、風土なり、環境なり、生活状態なり
が集って作り上げた国民性の基礎は、常に存在して、国民性の真髄となっているので
ある。あたかも地方色は各々異なっていても、共通した動かない国民性がその間に形
成されているように、時代的文化はあったにしろ、国民性の基礎はいつの世において
も存在している。しかし今日我々が我が国民性として数え上げる幾多の特徴は、建国
当初より国民がすべて所有していたものではなく、今日までの長い間に、種々な影響、
感化を受けて国民性の基礎の上に鍛え上げたものである。
北史の倭国伝を見ると「性は明るく静か。争訟はまれで盗賊は少い」とか、「性質直に
して雅風あり」とかあって、我が風俗を概評している。奈良朝以前の純朴な風俗はいか
にもこうあったであろう。しかし明るく静かといい、性質直ということが、我が国民性とし
てあげることであろうか。恬淡であきらめのよい人種であるには相違ないが、静かとか
質直だと評する性格が果してあっただろうか。むしろ軽佻で浮燥なことが、我が国民性
の短所ではあるまいか。古史のいうところは、必ずしも今の国民性を道破したものでは
ない。時代の潮には古俗を変ずる力が存在する。
儒教と仏教との二大勢力は、我が国民の風俗に多大の変化を与え、国民性陶冶の
上に少なからず影響を及ぼしている。ただし積極的で進取の気象に富んでいる国民
性は、これを同化する充分な力を持っていた。そこには国体の相違という一大要因が
伏在していたのである。易姓革命の支那は国民を消極的、退嬰的にした。自分一身を
潔くするために、あえて韜晦(とうかい)をしたところから、道徳の上にも消極的退嬰的
分子が強かった。しかし万世一系の我が邦ではその必要を認めなかったのである。仏
教の盛んな支那の六朝時代には、簒奪(さんだつ)の禍が少くなかったが、我が邦で
は聖徳太子の十七条憲法中に上和下睦を合し、上行下効を命じ、君臣礼ありと述べ、
君に忠なれと反覆して説いている。崇峻の変、道鏡の僣上沙汰もないではなかったが、
仏法と王法が並び行われて悖(もと)らなかったのは、我が国民性の同化力の働きとい
わなければならない。しかし一方において儒教と仏教の二大勢力が、我が国民性の陶
冶の上に偉大な力があったことも疑いのない事実である。
公家政治が倒れて、武家政治となり、関東人の勢力が八方に及んだのは、我が風俗
上の一大変革であり、同時に国民性の上に幾多の特異な点を発達させた。身命を軽
んじ名を重んずる武士道も、喜怒哀楽の情を押える自制心も、この時代に著しく発揮
された。いまは責任観念が薄くなり、政治家が二枚舌三枚舌を使う事態となったが、国
民性が鎌倉室町時代と大いに異って来たのである。禅宗の流行は風俗上の影響が少
なからず、国民性にも感化を及ぼした。禅宗は南都六宗、平安二宗とは異り、形に求
めずして心に求め、自ら工夫練磨して安心立命を教えている。武士道と禅と支那宋元
の文化は茶道となって現われ、国民趣味に一新紀元を画し、風俗を一変した。民衆に
普及するとともに国民性の上に及ぼした勢力は非常なものであった。明治以後の西洋
勢力に至っては、論ずるまでもない。我らの衣食住とは根本的に違っている西洋の衣
食住は、怒涛の勢いで我が風俗を変じつつあるではないか。近年の東京の西洋化は
まことに著しいものがある。かつて銀座通りに貧弱な煉瓦家屋を有していた東京は、今
や丸の内三菱ヶ原に高層の西洋風建物を羅列しつつある。銘酒屋、縄暖簾は影を潜
め、到るところにバー、カフェーを現出している。往来する男子に洋服多く、洋装の女
子も市街自動車の車掌ばかりではない。我らは日本料理党であるが、我らの児女はほ
とんど西洋料理党といってもよい。西洋の声楽は盛んに歓迎され、翻訳劇が行われ、
活動写真は西洋物がもてはやされ、若い人々は日本画より西洋画に憧憬の眼を見張
っている。こうして我が風俗は日に日に西洋化しつつある。かつて鹿鳴館時代に西洋
熱の盛んなこともあったが、当時は単に一部の貴族社会における現象で、一般民衆は
関与せず、やがて国粋保存の反抗に遭って一時萎縮してしまった。しかし今日の西洋
化はもう一部分に限られていない。一般民衆的である。物質的文化のみでなくて、精
神的文化までも多大の影響を受けつつある。生活問題、労働問題、思想問題は、
日々東漸して日本を脅かしつつあるではないか。
一体日本の風俗はどうなるであろうか。古来の風俗は全く地を払ってしまうであろうか。
それほどでなくとも、外来風俗が主となり古来の風俗が従となるであろうか。我らの衣食
住は古来の因習を破って西洋化してしまうであろうか。我らは西洋風の建築物に住み、
洋風の飲食物を摂取し、毛織物の筒袖を着用するのであろうか。我らの使用する文字
はすたれてローマ字を用いることになり、外国語入りの言語を用いるのであろうか。こ
れはただに風俗史上の一大変革のみならず、国民陶冶の上にも重大な変動であると
いわねばならない。
中
風俗の変遷は過去の事実であったが、眼前の事実でもある。この当面の問題に対し
ていかに対応すべきであろうか。もとより政治なり法律なりの人為的強制により左右す
る性質のものではない。たとえ一時的効果があるにしろ、それは自然の勢いではない。
徳川氏が取った鎖国政策はよく西洋文化、西洋思想の渡来を防いだが、これは絶対
的専制時代において始めて出来たことで、その鎖国政策も永遠の効果はなかった。
文政年度に出された外国船打払い令も久しく権威を保つことができず、幕末の条約締
結となった。帯刀禁止、ざんぎり頭は法令の命ずるところであったが、これとて自然の
勢いに力を添えたものに過ぎない。
風俗の華美を禁ずるため、為政者はしばしば法令を発布し、狂乱の鎮静化に努める。
しかし効果は案外に微少で、法律の権威は通例長続きしない。江戸時代に衣服の贅
沢を止める手段として、天和年間に厳しい制定を発布したけれど、久しからぬうちに法
律は空文となり、元禄年度の嬌奢を実現している。白川楽翁の寛政倹約令は一時的
功果はあったが、久しからぬうちにまた華美の世に戻り、水越の天保改革は徹底的矯
正を果そうとして、実績はさらに上がらなかった。流れ寄せる時の潮の勢いは恐るべき
ものがある。逆らったところが効果のないばかりでなく、かえって勢いを激しくする。これ
を良導する工夫をするのが為政者の働きであるが、根本の指導に遡ることを忘れ、枝
葉末節の取締りにあくせくしては、勢いあまって功がないばかりか、害毒を残すおそれ
がある。
現代の風俗の変化はどう落ちつくであろうか。自然の勢いのおもむくまま帰着するに
相違ない。では自然の勢いはどうなるであろうか。固有の風俗は西洋化した風俗に代
るのであるか。今の趨勢から見るとこれがもっとも自然のように思われる。しかし実際に
おいてはどうなるであろうか。自然の勢いを順当に導くには、どういう方針を取るのがよ
いか。
私はこの問題に対して、躊躇せずに二重生活説を持ち出そうと思う。つまり固有の風
俗と外来風俗との併用である。いずれ両者の折衷、調和もあるだろうが、それが出来な
い事柄もたくさんある。支那伝来の文化は唐にしても宋元にしても、東洋文化という点
では日本と異るところがなかった。だから風俗の相違はあっても、根本において彼我共
通のところがある。しかし西洋文化が東洋文化と根本的な相違がある以上、風俗にお
いても、淄・渾の両水が容易に合一し難い事情があるのは当然である。よって我が今
後の風俗は、折衷、調和以外では二重生活を営まねばならないと信ずるのである。
二重生活は極めて不経済のようではあるが、必ずしも懸念するほど大きな不経済で
はなかろう。両者に截然とした区別を設ければ、不経済な点を払い、余得がありはしな
いか。公に働く場所を洋風にし、日常座臥する住宅を日本風とするように、また洋食と
日本食とを代るがわる食膳に供するなどは、決して不経済でもなく、現に行われつつ
あるのである。もっとも困難として感ぜられるのは服装であるが、男子についてはほぼ
解決しつつある。将来に保留さされる問題は女子の服装である。しかしこれとても事務
用服と平常服との間に区別が出来て、大勢は次第にその向うところを示している。礼
服については宮内省はすべて洋装本位であるが、世界の大勢は民衆的傾向にあって、
フロックは旧時代の遺物となり、背広モーニングが幅を利かす時代となった。羽織袴と
ともにこれらの通常服を礼式に差支えないとしたらよかろう。現時の大勢は、成るべく
平民的に成るべく自由にするのを目的としている以上、何も形式に拘泥する必要はあ
るまい。軽便に簡素に文化的生活を営むのに郡合のよい方法を取ったらよい。こう楽
観すると、二重生活は実用と趣味とを兼ね備える生活で、我が日本人のみが享有でき
る生活である。東西両洋の文化を打って一団とし、折衷、調和以外にも、両者の特異
な性質を有するものは、今日我が日本人ばかりが行い得る特権ではあるまいか。一日
椅子に腰かけ窮屈袋に身を固めて事務を執るものが、私宅に帰り浴衣一枚の大胡坐
(あぐら)は、別天地に入る感があって真の慰安となる。命の洗濯なるものはここにおい
てしみじみと体得できるであろう。営々とした人間生活もこうして始めて趣味生活となる
のである。
三千年の間に養われた国民の生活状態は、すこぶるのんびりした悠長な余裕のある
ものであった。一概に論ずると、国民の生活は趣味性を有していたのである。国民性も
したがってその感化を受け、一般に趣味あるものであった。例えば、労働者がその境
涯に甘んじて、不平を云わなかったのは、必ずしも微温的服従関係に依ったばかりで
はない。生活状態に趣味を会得していたからである。九尺二間の長屋でも縁日で買っ
て来た草花の鉢を日あたりの好いところに並べたり、切花を一升徳利の空瓶に挿すの
を忘れなかった。朝湯にどっぷりつかって春風春水一時に来るの感をしたり、鮪の刺
身に一本つけさせて太平楽を並べたり、あるいは春衣を調えて家族総出の花見をし、
落語や講釈に一タの興を送るのは、彼らの趣味性の発露にほかならない。
日本固有の生活状態はすこぶる趣味性を帯びていた。二重生活はこの趣味性を継
続させるものである。今後の風俗は二重生活の上に立脚すべきもので、国民性の将来
の変移もこれを追ってほぼ予言できる
どの民族、どの国においても、趣味というものは存在する。ただしそのうちにも佳味
の多少はあり、洗錬された趣味と、垢抜けしない趣味との相違はある。原始的状態に
あるもの、余りに実際的方面に拘泥するもの、物質本位に執着するものは、当然趣味
に乏しい。趣味は精神的進歩の収穫にほかならない。ヤンキーがパリっ子に比べて趣
味性が遥かに劣っているのは、いまだに物質的方面にのみ没頭しているからである。
しかし時代の進歩は、ヤンキーを芸術的生活に導き、趣味性を向上させるであろう。人
は黄金万能に満足するものではない。我らは趣味により生活の単調索漠無味乾燥か
ら脱れるのである。
経済学者は余りに物質的方面ばかりを着眼し過ぎる。唯物史観の弊はここから起る。
元来人間を資本家階級と労働者階級以外にないと考えるのが誤謬である。しかし現
代あらゆる方面が行詰った結果として、すべてのものを原始に帰そうとする傾向がいた
るところに現われれている。社会の事情が余りに煩瑣となり、秩序的となり、科学的とな
ったために、自然の懐に復帰しようとするのは人間の至当な欲求である。歴史は常に
この現象をそのページに留めている。階級打破が叫ばれ、門閥打破が行われ、常に
新しい時代を現出しているのである。けれど文化の発展は、旧時代の文化を土台とし
てさらに向上するものであるから、新時代の文化は原始的状態に復帰して新しく作り
出されるものではない。経済学者の社会改造説は往々文化を雲煙視する根本的誤り
がある。人間階級を資本家と労働者以外にないとするような、旧文化を根底より打破し
て新文化を建設すべしという説は、要するに文化を軽視し文化の性質を了解しないか
らだと思う。文化を論ずるにしても、ただ文化の物質的方面にのみ限り、精神的方面を
等閑する傾向に陥っている。しかし新時代は旧時代の文化に清新の生命を与えた新
しい文化により化育されるべきであり、新時代の文化はまず宗教家と文芸家により建設
されなければならない。奈良朝の文化は行基、鑑真、良弁や吉備真備、万葉詩人、人
麿呂らによって建てられ、平安朝の文化は空海、最澄や紫式部、清少納言、紀貫之、
定朝、隆能らの力で始めて生命があり、鎌倉時代の文化は日蓮、法然などの宗教家、
俊成、定家らの新古今作家、名仏師、絵巻物の巨匠などにより光彩を放っている。東
山文明の精神は五山の禅僧、周文、雪舟、相阿弥、能阿弥などが善く発揮している。
桃山には永徳、山楽あり、江戸が光悦、光琳を始め多くの芸術家を出し、近松、西鶴
などの文学者を出し、傑出した文質のあったことは今さらいうまでもない。国民は物質
的文化以外にこれらの精神的文化に浴して、文化史上の時代相を残している。これら
の時代相は風俗に映り、国民性の上に幾多の消すことのできない感化を与えているの
である。
我が民族性が極めて趣味に富んでいることは、風俗が明らかに証明する。趣味性は
要するに精神的文化の賜物にほかならない。俳句といい川柳という民衆文学が普及し、
床屋の亭主も裏店の熊公八公までも点取に熱心になったのは、趣味性が国民全体に
広がったからである。三馬の浮世風呂を読むとこう書いている。
點兵衛「イヤホンニよい所でお目にかかりました。一寸サ、伺いたいことがござりま
す。この間私が京橋を通りかかります卜、十二、三の丁稚がちょろちょろと走って參り
ましたが、やがて鳶に油揚をさらわれました。」鬼角「ホウ」點「彼のただ今の様子を
見受けまして、なんぞ一句ありそうなものと存じましたから、いろいろ勘案いたしてとう
とう高繩まで来て、やっと出来ました。」鬼「ハテそれは御風流なことでございます。
それで何とナ。」點「ハイ、マアこう作りましたが、これでもよいのでござりましょうか。
エヽと。(卜目をつむりあおむいて暫く考え)京橋の。」鬼「フム京橋の。」點「エエ、鳶
さらいけり揚豆腐。」鬼「ハハハハハハ。」點「(大まじめで)これで発句に相なりましょ
うか。」鬼「ハイ、イヤ、隨分ようございましょう。」點「イェサ、私は下手の横好きで兎
角マア。あなたがたのような俳諧とやら連歌とやら、歌は勿論、ホイこれではお梅粂
之助の浄瑠璃になりました。ハハハハハハ。シタガさようななぐさみが好物でござりま
す。どうぞ御腹蔵なくおっしゃって下さりませ。それが私のためになります。」鬼「ハイ
(とばかり困りきっている)」
言うまでもなく、作者が鬼角と俳諧師の名を挙げたように、この句は其角の「京町の
猫通いけり揚屋町」を地口った落語めいたものであるが、このような民衆文学者は江戸
の隨所に転がっていたのである。
荼の湯、生花、香道を始め、一転しては河東、一中、富本、豊後清元、常盤津などの
音曲に凝って、何らか余裕のある趣味生活を営んだのは江戸の町人であった。必ずし
も享楽主義ではなくとも、道楽気分を持っていたのは、江戸民衆の特色であって、国
民性が趣味に富んでいたことを見るに足りる。黄表紙の寿御夢相妙薬に、
和学は勿論千載集、湖月集、枕の草紙、四季物語、万葉集をあらかじめ覚えたよう
で覚えないから、面白いようで面白くない。それより風流の流れを汲んで俳諧を始め、
歌の方ではなんの造作もないことと翁の嵐三師を招いた。先生というにもあらず、た
だ句を聞いてもらおうとはあまりの高慢である。(略)。この頃は俳諧も少し秋風になり
専ら香の道を志し、年百年中なくなっている獅子の香炉と蘭奢待(らんじゃたい)が
手に入り。蚊いぶしにまで伽羅を焚き、月待日待には慰みに富本の一節で反魂香
までを焚く。(略)それより利休の弟子に成って茶を始め、燻(いぶ)ったものが無上
に好きになり、香も俳諧もグウと茶にして蓑輪と中島の下屋敷へ数寄屋を建て、日
夜朝暮四畳半に気を詰める。(下略)
とある。金持息子の道楽を嘲(あざけ)ったものであるが、江戸三百年の太平は、遊
芸を民衆娯楽として盛んに鼓吹したものである。一言につくせば、大なり小なり何らか
の趣味を有して、長閑(のどか)に人生を送っていた。つまりパン問題以外に種々な余
裕があったのである。
下
我が民族に見るこれらの趣味性は、いつ頃より養成されたものであろうか。原始より
国民が所有したものであろうか。外来の影響が大きいにしても、我が文学芸術の開け
たのは、古いものである。その作品も決して半端なものでなく、実に偉大なものを残し
ている。文学における紫式部の源語、自鳳期天平時代の優秀な彫刻。例えば薬師寺
の薬師三尊、東大寺法華堂の梵天像、法華寺の十ー面観世音、東大寺戒壇院の四
天王尊、平安朝における仏画の名品、例えば伝恵心僧都の二十五菩薩来迎図など
は、日本古文化の絶頂期を示すものといってよいのである。いかにもこれらの文芸作
品は、国民の天才的方面を表明するものではあるけれど、これにより民衆の文化を伺
うことは出来ない。実際に、少数の貴族は平安朝の国民を代表し、少数の武士は鎌倉、
室町時代の国民を代表していた。しかもこれらの時代には、貴族と民衆の距離は遠く、
武士と民衆の距離も決して近くはなかった。当時の国民性はいずれもこれらの特殊階
級により現わされたものである。当時の文化を作ったのもこれらの特殊階級である。そ
の文化の恩恵に浴したのも少数の特殊階級であり、一般の民衆は文化と没交渉であ
った。この時代の民衆に趣味性があったというのも、特殊階級のみに限られていたの
である。
そうであれば趣味的国民性つまり民衆的趣味性はいつごろから生まれたのだろうか。
ほかならない室町時代の東山文化に起ったといっても異存はなかろう。しかもこの時代
の趣味は、奈良、平安朝の頃のものとはよほどの相違があった。極彩色の土佐絵を平
安朝の趣味とすれば、東山時代の趣味は墨画であった。この相違は芸術品だけに見
られたものではなく、風俗全体の趣味の相違であった。またこの新紀元を画する異な
った趣味は、特殊階級のみに行われたものではなく、民衆に普及したものであった。
東山時代から盛んに流行した茶の湯の道は、この趣味を表したもので、茶道により我
が趣味性は一変したといってよい。風俗もこれにより変化し、国民性もこれにより変異し
た。国民性が趣味に富むようになったのは、茶道のお蔭である。茶の湯も初めは貴族
的なものであったが、しかしその性質は民衆的なものであった。茶が我が国に伝わっ
たのは平安朝に僧最澄が将来したものという説もあるが、確かではない。歴史の上に
見えているのは、日本後紀にある弘仁六年の条が最初であろう。また続本朝文粋に惟
宗孝高の茶讃が見える。しかし抹茶が伝わったのは、鎌倉時代の僧栄西の帰朝から
始まる。建久二年、栄西が宋から帰朝した時、茶の種を持ち帰り筑前の背振山に植え
た。これを岩上茶という。その後、種を栂尾の明恵上人に贈り、上人は深瀬の地に植
えた。栄西の喫茶養生記には「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり、山谷にこれを
生ずればその地は神霊なり。人間これを採れば長命なり、天竺唐土ではこれを貴重と
し、我が日本でもかつては嗜んだ。古今奇特の仙薬なり」と云い、「心の臓は五臓の君
子になり、茶は苦味の上首なり、苦味は諸味の上味なり。よって心の臓はこの味を愛す、
心の臓興るときは諸臓を安んずるなり(云々)、しきりに茶を喫すれば、気強盛になる」
とあって、一種の薬と見ていたのである。心情の鬱を散じ、気力を旺盛にするものとし
ていた。故に禅家と茶は密接な関係を有し、酒茶論に云うように「趙州茶を喫して七百
甲子を保ち、風穴茶を賞して三巡礼度を正し、潙山茶を摘んで体用を知り、香厳茶を
点じて好夢を尋ね、南泉は魯袒、帰宗、杉山と茶を喫し、洞山は雪峯、厳鉄山と茶を
行う。夾山監中の一甌、投子飯後の椀皆これ叢林の盛事なり」であった。しかし室町時
代には貴族的傾向を帯び、茶会というものが随分ぎょうぎょうしいものになったことが喫
茶往来に見えている。
そもそもあの会所の体たらく、内の宮殿には珠の簾を懸け、前の大庭には王沙を敷
き、軒には幕を張り窓には帷(とばり)を垂らす。好き者の会衆が集まると、始めに水
繊酒三献、次に索麺茶一杯、そして山海珍味で飯を勧め、林園の美果で甘味を味
わう。起って席を離れると、北窓の築山に向い、松柏の陰に暑を避け、あるいは南
軒の飛泉に望んで襟を開き、水風の涼を求める。ここに奇殿があり、桟敷を二階に
据え眺望を四方に開く。これが喫茶の亭で満月の候は特にすばらしい。左には思
恭(張思恭のこと)の彩色の釈迦が霊山で説化する厳粛な絵、右には牧渓の黒絵の
観音菩薩が堂々と示現する姿を描いた絵を並べる。普賢文珠は脇絵となり寒山拾
得は面飾りとなる。前は重陽、後は対月、不言丹菓の唇は固く結び、無瞬青蓮の眸
は妖しく燃える。卓には金襴を懸け、胡銅の花瓶を置く。机は錦繍を敷き、鍮石の
香炉には火箸を立てる。花瓶に溢れる美しい花は瓶外に飛び、呉山千葉の粧いか
と疑われ、芳郁たる炉中の香は海岸三銖の煙かと誤まる。客の床には豹皮を敷き、
主人の竹倚は金沙に装われている。加えて處々の障子には種々の唐絵を飾る。四
皓は世を高山の月に遁れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。龍は水を得て昇り、虎は
山にもたれて眠る。白鷺は蓼(たで)の花の下に戯れ、紫鴛は柳の枝の上に遊ぶ。
どの絵も後の作品ではなく、漢朝の丹青を使った絵である。香台は並に堆朱堆紅の
茶箱、茶壷は栂尾と高雄の茶袋。西庇の前には式対の飾り棚を置いて、種々の珍
菓を積み、北壁の下には一双の屏風を建てて、色々の懸物を並べ、中に鏙子を立
てて湯を練る。廻りに飲物を並べ巾を覆う。会衆列坐の後、亭主の息子が茶菓を献
じ、梅桃の若冠が建蓋を通す。左に湯瓶を提げ右に茶尖を曳き、上位より末座に順
に茶を献ずる。進行は乱れない。茶は重ねて請わないものだが、礼儀として重杯を
すすめる。酒は杯を重ねるものだが、まだ一滴も飲んでいない。あるいは四種十服
の勝負、あるいは郡鄙善悪の批判、ただに当坐の興を催すばかりでなく、生前の活
計何事にも話が加わる。盧同は「茶少なく湯多ければ雲脚散じ、茶多く湯少なけれ
ば則ち粥面集まる」といった。誠に興あり感あり、誰がこれを嫌うものがあろうか。そし
て日景漸く傾き、茶礼も終りになると、茶具を退け、美肴を調え、酒を勧めて盃を飛
ばす。三遅に先立ちて戸を論じ、十分を引いて飲を励ます。酔顔は紅い霜葉のよう
に、狂粧は風樹の動くに似る。或は歌い舞って一座の興を増し、絃管は四方の耳を
驚かす。夕陽が峯に沈み、夜陰が窓に移ると、堂上に紅灯をかかげ、簾紅紫麝の
薫を飛ばす。 云々。
こうなると、今日随所に見られる貴族的茶会と同様で、貴族の風流事に過ぎないが、
茶道本来の性質は必ずしも牧渓思恭の絵をかけ、茶器道具に贅を並べて飲食に凝る
ことを奨励するものではない。茶は一般的、民衆的、普遍的なもので、特殊階級の者
が独り楽しむものではない。現に酒茶論にも「京洛より蛮夷に至るまで、小となく大とな
く茶を好まないものは人にあらず、もし本朝において論ずれば、西斎詩話にいうように、
『寿山人日本を回り、国産する栂尾山茶に恵まれる。詩を賦して感謝する。幸いに梅
山では初めて日本茶を味わうことができたと信ずる。』とある。本朝では栂尾山の茶を
第一とし、宇治がこれに次ぐ。梅は栂と似ているから通じて用いる。近代茶を好むもの
は宇治を第一とし、梅尾山がこれに次ぐ。本朝の諺に茶を好むものを数寄者という。
云々」とある。茶の需用は極めて広く、都鄙到るところ茶道を楽しんで、四畳半式の風
流を楽しんだのである。なぜ茶道が民衆の間に流行したかは、天正十五年十月朔日、
豊太閤が、此日から十日間興行の北野大茶会における沙汰書を見れば分る。貴賤に
よらず、貧富に拘わらず、望みの面々は參会して十分に楽しめ。美麗を禁じ、倹約を
好んで参加するように、とある。また規定書には「茶道に熱心な者は、若党、町人、百
姓以下によらず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶はこがしでも苦しくない、提げて来
るように。座敷は松原である、畳二畳ただし佗者はとち付いなばきでも苦しくない」と、
極めて平民主義を発揮している。さすがに平民出身の太閤だけあって、茶道の民衆
的極意を呑み込んで、民衆的大風流会を催し、茶道の大精神を表現しようとつとめた
のである。
このように茶道は桃山時代に本来の目的どおり、極めて民衆的に広まったのであっ
た。禅味といい、宋元の文化といい、武士道と云い、いずれも我が風俗、我が国民性
に大影響があるものだが、従来は特殊階級の占有であった。それが融和され渾一され
て、茶道となり民衆に広まったから、我が風俗はこれにより一変し、趣味性が向上し、
国民性におおきな変化を与えた。江戸時代から今日まで我が民族が有する趣味は、
この茶道によって養成されたのである。
茶道は東山時代に珠光から篠道耳に伝わり、宗悟に伝わり、紹鴎、利休、宗淳、示
且、庸軒、瑞流に伝わり、千波万波を生じ千家の表裏となり、石州流となり、鎮信流と
なり、不昧となり、不白流となり、薮内流となり、その他幾多の流派を生じたが、末流の
茶道は国民趣味と何らの関係がない。ただ当初から伝わってきた大精神は知らず知ら
ずのうちに民族の風俗、民族の趣味に大影響を及ぼしたのであった。江戸時代の町
人が趣味性に富んでいるのも、茶道によって自ら鼓吹されたものであった。その趣味
性は今日まで我が国民のうちに生きている。
しかし西洋文化、西洋思想は茶道から出た趣味性と全然背離するものである。しかし
これらの新文化、新思想は非常の勢いで我が風俗を犯し、我が趣味性を変えつつあ
る。しかし我が風俗は全く西洋化し、我が趣味性は全く西洋風になるかというと、民族
の基礎となる国民性はとうてい豹変を許さない。茶道より得た趣味性は決して消えるこ
とはない。折衷調和して同化できるものは同化するであろうが、同化できない点は二重
生活としていつまでも維持並行されるであろう。これが国民の特色として誇るところでは
あるまいか。
時代により移り変って来た我が風俗は、東山時代に茶の湯により著しい変化をして、
我が趣味性を向上させるとともに、国民性の上にも多大の影響を与え、今日にまで及
んだのである。今日以後、風俗が著しく変化し、我が趣味性も変じ、国民性の変化もあ
ろうが、国民性の基礎は依然として動かない。のみならず従来の趣味性から出発した
民族性は外来の勢力に蹴落されず、折衷せず並行して進展することを信じて疑わな
い。二重生活は我が今後の風俗となり、国民性もまた二重生活的に展開するであろう。
日本における貧民の性情
賀川
豊彦
一
どこの国でも貧民心理は同じである。物質に欠乏した人々は人間の性質をそのまま
露出する。これが貧民性情の美しい点であり、また面白い点である。さらに貧民心理の
面白いところは貧民の生活内容が社会の他の部分に比較して遅れ勝ちであるため、
過去の社会的遺伝がそのままに貧民の間に保存されていることである。例えば義理人
情をやかましくいう侠客は、貧民の間には残っているけれども中流階級では今日すで
にその跡を断っている。したがってそれに附隨した賭博の問題、乱婚の問題、迷信の
問題などは、すべて貧民の間に保存されている。ハックスレーは野蛮人を見ようと思え
ばアフリカに行く必要はない、ロンドンの貧民窟に行けばよいと云ったが、これは真理
であって、今日の貧民は過去の文化を色々な形で保存している。特に日本のような守
旧的な国民はこの方面が著しく現われている。土木業者の間では今日まだ徳川時代
の言葉そのままを用いて挨拶とし、親分子分の関係を固く守っている。これはニューヨ
ークの貧民窟にも見ることだが、街の中央に中世紀式の拙い看板を掲げて活動写真
の客を呼んでいるのは、貧民窟でなければ見られない光景である。
二
概していうと日本の貧民は外国の貧民に比較して非常に温和である。極貧者は犯
罪者ではないと貧民研究で有名なチャールス・ブースも云っている。アメリカの都市で
行われる獰猛な犯罪は、多くはイタリアの貧民によってなされているが、日本のそれと
比較して非常な差がある。ことに日本の貧民窟の女性は欧米のそれと比較して優れて
いる。女性が貧困に対する耐久力に強いことは、貧民研究家の常に驚くことであるが、
その中でも日本の貧民窟に住む女性の忍耐には驚く。ニューヨークやロンドンの貧民
窟では、女性が酔潰れて街に倒れているのを見ることは別に珍しくもない。私は貧民
窟の前後十一年四ヶ月間の経験によって、日本の女性がそのような取り乱した状態に
あるのを見たことがない。一般に日本の女性は家事に対して忠実であり、男子に対し
て親切であることは貧民窟に住んでみてよく解る。人はあるいは云うかも知れない、そ
れらの女性は目覚めていないからだと。しかし私は十七年間も病んだ夫に仕えて、女
易者を渡世としながら木賃宿生活をしている夫婦を見たとき、日本の女性の中に優れ
たあるものを発見したのである。あるいは自らが夫の肺病に感染しながら、これも同じく
木賃宿に夫を寝かせて自分はマッチ工場に就労し、わずかな金で夫を養い、不具な
子供を養育していることを見た時、やはり私は貧民窟における日本の女性を賛美した。
このような例を一々挙げておればきりはないが、一体に日本の女性は貧民窟を通じて
見て、男子より優れた美点を持っている。男子は貧困と困難に遭遇すると、妻子を貧
民窟に残してすぐ逃げ出すが、女性は根強く困難なうちにその子女を養育してゆく。
外国においても少し不景気が重なると妻子を置去りにする者は隨分多い。大戦の勃
発した一九一四年の冬は、ペンシルバニヤ州で妻子を捨てたものが四万人あったとい
う。日本で妻子を捨てた数はこんなに多くはないが、しかし少ないこともない。この間に
あって、自己の貞節を破ることなく忠実に子女を教育して行くのは日本の貧民窟の女
性である。もしも日本の貧民窟の女性がこれだけしっかりしていなければ、日本の貧民
窟状態はさらに一層悪くなっていただろう。一般に日本の女性は賭博をせず、酒を飲
まず、烈しく争わず、内気で親切で柔和である。
私は支那に住んで感じたことであるが、支那の貧民窟の女性は身繕いが日本の女
性より遥かに優れている。どんな汚い家に住んでいても髪を取り乱しているものは一人
もなかった。これは支那の風習の一つであろうが、日本の貧民窟の女性がさんばら髪
でいるのと比較奇妙に感じた。やはり支那は昔から教養ある国だけあって、女千が品
格を落さないのだと感心したことであった。この点は日本も同じであって、日本の貧民
窟の女性が貞節を守るという美しい道徳に、日本における儒教、仏教の多年の教養が
彼らの間に沁み込んでいるのだ。そこで私の恐れるのは、この日本の美しい女性の特
質が貧民窟で壊れる時代があるとすれば、今日の救済費の十倍を払っても貧民救済
は困難になると私は思う。
男子の間で感じることは日本の貧民の酒量は欧米に比較して非常に少ない。賭博
も支那に比較して著しく少ない。そして相互扶助の精神は非常に著しいものがある。
三
私が唯物主観に反対するのは、物質を全部除き去った貧民の間にすら、物質的経
済と全然関係のない社会本能の美わしい或るものを見るからである。例えば貧民窟の
相互扶助の一例に、彼らが兄弟仲間という団体組織を作って相互扶助を行い、さらに
隣同士が長屋の同じ筋にいるという理由によって、日掛五銭の無尽講によって相互扶
助をしているのであるが、無尽講は驚くほど発達している。兄弟分同士で救済の不可
能な場合には、親掛と称する無尽講の第一回の払込を困窮者に渡してその窮状を救
うのである。これで日本の貧民窟の幾百人幾千人かが救われているのだ。賭博の寺銭
もそれである。これは勝敗の融通金の一割を積立てて賭博者仲間の困窮者に与える
ようなことは珍しくない。さらに日本の貧民の間には病的とも見える他愛心の発達した
ものがある。彼らは犯罪者、病人、行路病者、淫売婦など、どんな者であるかを問わず、
彼らに接近して来る者を救済しようとする実に美わしい心を持つのである。貧民窟長
屋の十軒位のうちには一人くらい必ずこの種類の人がいる。そしてこれらの他愛病者
が賭博者と一緒になった場合、それが侠客と云われるものになる。すなわち日本の侠
客達の発達は他に色々な理由もあるだろうが、日本人がその本質において、人を愛す
るに吝(やぶさか)でないことが、貧民生活において示されているものであるから、それ
が発達して西洋には見ることの出来ない下層社会の伝統的道徳を作ったと考えること
が出来る。
今日貧民の道徳を支配しているものは、弱者をいたわり強者をくじくという観念であり、
日本のどんな貧民でもよく理解している。これは西洋の貧民窟にはキリスト教の外に何
物も道徳のないのに比べて、非常に心強い心地がする。西洋ではキリスト教を信じな
ければすべて無神論者であるが、日本ではどのような悪人であっても侠客道だけはよ
く理解している。これは日本人の強みであって、私が日本の貧民を諸外国の貧民に比
較して善良な性質を持っていると主張する理由である。
四
もちろん日本の貧民の犯罪も数多いものであるけれども、私は日本の貧民が根底に
おいて唯物的になってしまうとは考えられない。私は彼らがいつでも侠気な行動に感
激し、少しばかりの努力によって多くの感謝を持っていることを知っている。
したがって彼らの言語、行動、風習の多くは、彼らが日常に、芝居、活動写真、ある
いは講談本によって得た侠客の模倣であって、彼ら自身の新しい発見はどれだけある
か疑わしい。貧民の多くは熱烈な宗教心を欠いている。しかしこれも教養によって、一
向宗あるいは救世軍のような宗教に傾くことは容易である。一般に浮浪性の貧民は罪
を犯し易いが、定住的の貧民は堅実であり親切である。彼らはよく秩序を重んじ、人を
尊敬することを知っている。私は日本の国民性を貧民生活より覗く時に、愛らしい日本
の国民性をなお他の一方面においても知る。それは日本の貧民の自然に対する好愛
心である。西洋の視察者が日本の貧民窟に来て驚くことは、隅々に植木鉢の並んで
いることである。彼らはどんな激烈な労働をして疲れて帰って来ても、植木鉢に水をや
ることを忘れない。この美しい日本の貧民の自然愛は他の色々の方面に現われている
のであって、彼らが室内を整理することにおいても、少し余裕があれば秩序を整然なも
のにする。これを支那の貧民窟に比べるならとても話にならない。彼らは一日の労働
のために生活の余裕をなくして、取り乱すことはあるけれど、外国の例に比較すると遥
かに清潔である。私の多年の貧民窟生活は、諸外国の貧民と比較して日本の貧民を
尊敬する念をますばかりである。
民衆の娯楽生活に現われた国民性情
権田
保之助
一
最初私に与えられた問題は「民衆娯楽より見た国民性」であった。しかし私にはこの
「国民性」というものに疑義があったのである。少くとも私に取っては、この「国民性」と
いう観念にある一定の制限を付けておかなくては、問題を考察することが出来なかっ
たのである。私は世の中で一般に称している「国民性」という考えに対して、常に疑い
を挿んでいる。ある論者は、一国民にはその国民生活のそもそもの初めから今日に至
るまで、ある一定不変の性情が与えられているという。この考えを拡張すれば、国民は
国民生活を始める前から、すでに神の命令ででもあるかのように、ある一定の性情を
発現させるように運命付けられており、現在の国民生活に現われている国民性情はそ
の天命の当然の表現であって、この性情はさらに未来永劫、国民生活の継続する限り
――そのような論者に取っては、国民生活の断絶ということはとうてい考えられない事
柄であるから、つまり悠久の将来まで――存続する恒久なものであると考える。私はこ
のような考えには常に疑いを持つ。一体に世の国民性論者はこのような考え方が根本
基調となっており、一国民には「国民性」という超越的なある崇高で至美至善な原理が
与えられ、その原理が国民の歴史の各時代に、絶えず発現し、国民生活を動かして
行くものであって、国民の歴史はこの「国民性」発動の記録にほかならないと考える。こ
のように国民が考え、国民が感激し、国民が行動する根源が「国民性」にあり、「国民
性」が国民生活を作り出すものであるという考え方は、私がかつてある文化主義の一
派である「超越的文化主義」に加えた非難と同一のものを蒙る危険性を持っていると
思う。私は、今日のすべての国民がみな同一の性情をもっているとは思わない。日本
人、ロシア人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人、イギリス人、支那人がそれぞれまったく
同一の性情を持っていて、其の間になんの特異点をも見出し得ないものであるとは考
えない。実際、国民の間には、少くとも現今の国民の間には、それぞれ異った物の考
え方や物の感じ方があるということは事実である。私はこのように国民性情の差異を認
めるものである。しかし私は国民性情の差異を、世の国民性論者のように、それを国民
生活の根本であり基因であるとは決して考えないのである。私はそれを最終の結果で
あると見る。国民性論者はこのような「国民性」が国民生活の最初の原因であって、そ
こから国民生活の事実が編み出されたと考えている。しかし私はまったく逆に、まず国
民生活という事実があって、それから出て来た最終の結果が「国民性」(?)であると考
える。つまり、単に国民性情の特異点を認める点でのみ、私は国民性論者と一致して
いるが、国民性情の発生学的解釈は全然逆であり、国民性の不変性に対してその可
変性を認める点で、かの論者と一致しない。私は国民性論者とはまったく違った正反
対な立場に立っている。私に与えられた問題「民衆娯楽より見た国民性」を棄て「民衆
の娯楽生活に現れた国民性情」という勝手な題を選んだ理由がここにあることを諒とし
ていただきたい。
二
飛弾の山中に住む一部落民や、平家の五家荘にいる人々の物の見方や感じ方が、
今日束京や大阪に住んでいる人々と全然同一であるとは考えない。けれども飛弾の
山の中の人々があのような性情を発揮し、また五家荘の住民はあのように性向を発現
するように、そもそもの始めから「部落性」とも称するものが附与されていて、これが未
来永劫にこの部落の人々に付きまとって行くものであるという考え方には、とても賛成
でき兼ねる。思うに、どんなに頑固な国民性論者でも、このような考え方には賛意を表
するに躊躇されることであろう。だが飛弾山中が一つの国となり、五家荘の人が一国民
となると、そのような考え方がたちまち現われて来るのは、その間にどのような論理的
必然があるのか、私のもっとも不思議に感ずる点である。
私はすでに述べたように、今日の事実として、国民の間に国民性情の特異点を認め
る。一国民の間にこの国民とは異なる性情が存していることを肯定する。しかしそれに
は前に説いたような制限を附しての話であることを承知して置いてもらいたい。「国民
性」が国民生活を編み出すのではなく、国民生活が国民性情を作り出すという意味の
国民性である。そしてこの国民生活を規定するものは社会的環境であると、私は考え
たい。気候や風土の関係もあろう。交通の関係もあろうが、現代ではことに社会経済状
態が、この社会的環境の形成にもっとも力強い決定的な条件になっている。少なくとも
現代に対しては、私は唯物史観の立場に立ちたい。私は以上のような意味で国民性と
いうものを解している。そしてこの意味において、国民性に意義を認めるとともに、この
意味において国民性に意義を認めないものである。
三
私は国民生活の表現としての国民性情を見るため、その国民生活の一部である娯
楽生活に表われた国民性情を研究しようとする。しかしすでに述べたように、国民生活
は社会的環境、とりわけ社会経済状況の変化によって変化するから、国民の娯楽生活
も社会経済状態の推移によって変化していく。従って私がここに説く国民性情は、現
在の日本の民衆の娯楽生活に表現されているものである。
私は日本人の娯楽生活の根本的な基調は、『お』の字であると言いたい。『お』の字
とは何か。日本人は日常生活の上で『お』の字を付け加えることによって、それを娯楽
生活化する、という意味である。空腹をしのぐために寿司を喰べ、餅を食い、汁粉をす
する代りに、満腹になるということを全く意識の外に置いて、「お寿司」を喰べ、「お餅」
を焼き、「お汁粉」を頂くことが、日本人の娯楽生活の基調になっている。「お菓子」を
いただくこと、「お酒」を飲むことは、葉子で腹を膨らませ、酒で酔うためにあるのではな
い。菓子で満腹する快味や、酒で酔う愉快を味わうために菓子を食べ酒を飲むことは、
決して「お菓子」を食べ「お酒」を飲むことではない。菓子をつまむそのこと、酒を飲む
そのことに意味があって、それが一切であるというのが日本人の娯楽生活の基礎であ
るように思われる。活花を習って上手になる、琴を稽古し三味線を覚えて師匠になる、
そういうことは日本人にとって娯楽にはならない。上手になるとか師匠になることは一切
観念の外において、「お花」を習い、「お茶」を立て、「お琴」をし、「お稽古」をするので
ある。風呂の帰りに大工の兄貴が濡れ手拭を下げ、清元のお師匠さんの真似をする
のは、清元が上手になってお師匠さんになるという意味はなく、ただ「お風呂からお師
匠さんへ」というその間に意味があるのだ。そうした気分でお師匠さんのところに行って、
唄うことに意味があるのだ。正月は改暦のときである。改暦だから祝わなければならな
いということは、日本人には不向きである。それは「お正月」として意味がある。大正何
年一月一日から新年が始まったという意味で「お正月」を祝うのではなく、「昨晩の鬼が
礼に来」て「俺の女房にちょっと惚れ」るところに「お正月」の意味があるのだ。月の一
日と十五日の休日を職人は「おついたち」「お十五にち」と呼んで、娯楽生活の中に織
り込んでいる。ここにも日本人の娯楽生活の基調が響いている。
日本人の民衆娯楽の著しいものである「お花見」、それはただ桜の花の咲いた様子
を見に出掛けることではない。桜の花の咲きようがどうだとか、満開だからとか、半開だ
からと云って、それを気にして花の枝ばかりを見て歩くことでは全然ない。それは「花見」
ではなくて、「お花見」なのである。花の下に毛氈や莚を敷いて、お弁当を開き、お酒
を飲んで、花によって飾られた天下の春をお腹の中に入れることが、「お花見」なので
ある。お婆さんは娘たちと一緒になって、花の下に鬼ごっこをして、天下の春を領する
のが「お花見」なのである。瓢箪の酒に酔って、面を付けて花の下に踊り狂い、自分自
身が花になることが、「お花見」なのである。花というものが外にあり、まだ認識の対象
にある間は「お花見」でなくて、「花見」である。花といふものが意識の域外に沈んで、
自分が花と一諸になって、「花」というものがなくなった時に、始めて「お花見」となるの
である。
帝劇や有楽座の椅子席につつましやかに腰かけて「劇」を見るのは、まだ今日の民
衆には不馴れで、味が出て来ないようである。民衆は「劇」を見に行くのではない。「お
芝居」へ行くのである。「お芝居」というある雰囲気にひたって、その場に陶然としようと
するのである。劇は二の次である。劇――引幕――木の音――囃子――観客、そうい
うものが一緒になって出来上った「お芝居」の空気が中心である。「劇」を見るのでなく、
そうした「お芝居」の中に住むことであり、そうした「お芝居」をお寿司やお弁当とともに
食べることである。
日本の民衆はこのように、一切を『お』の字で味わって行くのであるが、この性情はさ
らに、元来は真面目な事柄までも『お』の字化し、娯楽生活の域内に転籍させてしまう。
あの墓詣りも民衆の手にかかると、「お墓詣り」となってしまった。忙しい時間を割いて
電車に乗って墓場に行き、香花を捧げて礼拝して、そのまま電車に乗って帰ることは、
「お墓詣り」とは思っていない。「お墓詣り」には一家知人とともにまず墓に詣ってから
暖い日影をうけて、ほつほつと浅草の六区へ出かけて、活動の二、三巻を見、それか
ら梅園のお汁粉を食べたり、「だるま」でおまんまをいただき、帰りのお土産に雷おこし
でも買って来る、その全体が一つになって「お墓詣り」になっているのである。葬式も、
こういう民衆の手に懸っては、生花造花を何千と並べ、放生籠をかつぎ出し、編笠の
柩(ひつぎ)脇を何十人と行列させ、木遣音頭で繰り出す。「お葬式」にしないと承知し
ないのである。年寄りが後生を願う目的の六阿弥陀詣りも、粋な手甲や派手な脚絆を
誇り顔に、嫁の噂をしながら歩く散歩に化してしまう。水死人の回向のためという殊勝
な心から催される川施餓鬼も、揃いの浴衣で押し出して、鼻唄まじりの念仏で亡者を
面食らわせる。「お施餓鬼」に変わってしまったのである。
人間の押えがたい欲望を満足させるためのお茶屋遊びも、「下々の下の下が居続け
を」して、「振られて帰るのが果報者」となっては、目的は逃がしたものの、廊下の草履
の音、カチカチという木札の響き、夜更けに廓の外を引いていく車の音に妙味を感じ
ないようでは、「お茶屋遊び」の妙諦を覚らないものだというに至っては、日本の民衆
娯楽生活も手数のかかったものだと言わなくてはならない。
勘定の何パーセントをチップにやるのとはまったく違って、持つ、持たないという目的
を超越して、ただその時の気分次第で、放り出す「お茶代」。投げ出すその刹那が面
白くて、後はどうなろうと構わないという「お茶代」の出し方。「お茶代にものをいわせる
な」という金言までが出てくるところにも、民衆の娯楽生活に潜んだ国民性情が現われ
ていると思う。
四
民衆の娯楽生活に現われた一種の性情、私はこれを『お』の字であると言った。この
『お』の字は国語学者によると、一種の敬語であるという。しかし私は別の解釈を取りた
い。それは他目的な観念を自目的な観念に変換するための方便である。今日、少なく
とも今日まで、民衆の娯楽生活を貫いた基調は、自目的または没目的の行き方である。
目的に到達して絶大な満足を感ずる目的行動ではなく、目的に到達すれば満足がゼ
ロになる没目的行動である。そして他目的である様々な事柄を自目的に変えようとす
る強い欲求があるのだ。このような一種の人生観は、果して正当なものかどうか、それ
は私の問題でも何でもない。かような考え方、感じ方は何によって生じたのか、それは
ここでは問題外である。そしてこのような性情がどれほど続くか、もう消滅するのか、そ
れも本篇の域外である。ただ現われたままの性情を現われたまま記述したばかりであ
る。私の国民性に対する考え方に了解が得られれば満足である。(一九二一・三・三稿)
模倣の心理
〇
木村 久一
模倣の両極
模倣とは平たくいえば、他人の行動を真似ることで、普通反射的模倣と意識的模倣
に分けられるが、その間に明確な境界があるのではない。
模倣は高等動物の本能で、人問も生れて間もなくこれを現わす。マクドーガルは、三
か月の嬰児に舌を出してみたら、模倣したと書いている。このような模倣は、純反射的
なものであるが、成長につれて段々意識的なものが多くなる。
新聞によると、ホーカー液という化粧水がよく売れるのを利用して、ホーカー石鹸とい
うものを売り出し、うまい汁を吸った者があるという。そしてクラブ石鹸、レート化粧品に
対するレート石鹸なども同じ関係だという。このような模倣は、意識的も意識的、むしろ
熟慮的なものである。
模倣は前例のような純反射的なものが一方の極となって、その間に無数の段階があ
るのである。
〇
反射的模倣
生れて間もない嬰児に、どうして模倣が可能であるか。本能だからといえば一言で
片づくが、それでは議会における原首相の答弁のようだから、簡単に反射的模倣のメ
カニズムを述べておこう。
心理学者のいうように、観念は動的(ダイナミック)なものである。観念は行動に変ず
る衝動性を持っているという意味である。反射的模倣の基礎はここにある。我々の観念
は、すべて行動に変ずる可能性を持っているが、すべて行動に変ずるものでもない。
各種の観念が互いに牽制しあうからである。牽制の結果、強力な観念だけが一つの行
動に変ずるのである。
したがって観念は、他に牽制する観念がなければ、ただちに行動に変ずる。さて嬰
児の心には観念が少ないから、見る事聞く事は容易にそのまま行動に変ずる。嬰児の
反射的模倣はこうして起るのである。
催眠術にかかった者は、術者の言うことすることを、木霊か鏡のように模倣する。「オ
レは馬鹿だ」といえげ「オレは馬鹿だ」と云い、赤んべいをすれば赤んべいをする。こ
れは催眠状態においては心が空虚であるから、耳から入った知覚がそのまま行動に
変ずるのである。この点は嬰児と同様である。
嬰児期を過ぎても、子供の模倣は大部分反射的なものである。だからこそ子供は言
語や動作を容易に覚えることが出来るので、意識的に覚えるのならとても出来ることで
はない。
〇
成人の模倣も多く半反射的
以上のような訳だから、模倣は成人においても多くの場合半反射的なものである。二、
三の例を挙げてみよう。
同じ寄宿舎にいたRは、工科の学生で音楽が好きだった。彼が製図している時、
我々が口笛を吹くと彼も無意義に口笛を吹く。我々は彼に、『カチュシヤ可愛や』でも
『どこまでも』でも、自由に吹かせることが出来た。しかし後で聞いてみると少しも記憶し
ていない。全く反射的に模倣したのである。
相撲に行ってみると、勝負に見とれて拳を握りながら、無意識に隣りの者をグイグイ
押している者が少なくない。芝居にでも同様。役者のするとおりに眉を上げたり口を歪
めたりする者が、あちこちにいる。
「欠伸の伝染」という現象があって、一人が欠伸すると、そっちでもこっちでも欠伸す
る。また集会などで、一人が咳払いすると、咳払いする者が続出する。これらの模倣は、
誰が見ても半反射的なものである。
こんな場合でなくとも、模倣は普通考えられているより遥かに反射的なものである。流
行における模倣、群衆の行動における模倣は、やはり半反射的なものである。群衆に
加わって議会に押し寄せたり、電車を焼打ちしたりして、後になってどうしてあんなこと
をしたのだろうと思う者が多い。
〇
崇拝と模倣
崇拝は模倣を伴うもので、我々の口調や動作は、崇拝する人に自然に似てくる。妻
が色々な点で夫に似てくるのは周知のこと。生徒の口調や動作も好きな教師に自然に
似てくる。救世軍の士官はいずれも山室口調の演説をする。
伊沢修二氏の話に、島根県の某村にどもりの村長があったが、非常に人望家であっ
たので、その村に七〇余人のどもりが出来たとあった。
〇
共感と感化
ジェームズの有名な句に、「我々は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ。
おかしいから笑うのではない、笑うからおかしいのだ」というのがある。警句だからその
つもりでみなければならないが、要するに、表情が主で感情は従だ。肉体現象は精神
状態の基礎だという意味である。たとえば気が腐った時、試みに胸を張ってみよ。雑念
はただちに霧消する。これに反し、胸を圧して眠ってみよ。必ず悲しい夢を見る。
葬式の席などで、身内の者が泣いたりしゃくったりするのを見ると、反射的模倣によ
って他人に伝染する。外形の表情が伝染するとこれに内容の感情が伴い、共感(シン
パシイ)という現象が起こる。いわゆる貰い泣きである。しかし共感は悲哀に限ったこと
ではない。
同じ理由で親や教師の動作は、子供や生徒に反射的に伝染する。動作が伝染する
とこれに相当する気分が生じ、感化ということが起こる。ゆえに師弟が朝夕寝食を共に
した塾では、師弟が教室で数時間顔を合わせるに過ぎない今日の学校より遥かに感
化が大きかった。
〇
社会における模倣の作用
社会における模倣の作用は非常に大きい。人類の精神的遺産である文化は、半ば
我々の模倣によって保たれている。それは野生児の有様を見るとわかる。野生児とは、
幼児のとき山中に捨てられたとか、野獣にさらわれたかして幸いにも野獣の餌食にもな
らず、餓死もしないで成長したものである。彼らは動作においても知能においても、野
獣を去ること遠くはない。これは模倣する模範がなかったためである。人間の間で成長
した子供は、いかに教育をないがしろにされても、野生児とは雲泥の差がある。
〇
模倣の対象
家庭においては、子供は父母兄姉などの長上を模倣するが、社会においては、模
倣の対象となるものが色々ある。ロッスは第一に、上流社会を挙げている。人々は概し
て上流社会を模倣するものであるが、これは社会を向上させる一要素である。ロッスは、
支那の社会に進歩が少なかったのは、支那に貴族がなかったからだと云っている。し
かし上流社会のする事はすべてが善いと限らない。上流社会が社会を毒した例も非
常に多い。のみならず開化した社会においては、上流社会が進化の原因となることは
少ない。
模倣の対象としてロッスは次に権力者を挙げている。カイゼルの全盛時代に、カイゼ
ル髭は世界的流行となった。ルーズベルト髭も同様であった。明治の初年鹿嗚館時代
に、政府の要路者が欧化主義を取ると、欧化主義は一世を風靡した。上の好むところ、
下これよりはなはだしいものはなく、権力者の風儀はしばしば時代の風俗に影響する。
次に富者も模倣の対象となる。先頃成金がのさばった時、成金気質がいかに社会に
広がったか。このほか摸倣の対象となるものは、挙げれば際限がない。
ついでにいうと、田舎は都会を模倣するものである。しかし都会々々と都会でなけれ
ば夜が明けないような社会は不健全な社会である。善い事はどこからでも始まるような
社会でなければならない。そういう社会は教育が普及した時初めて実現する。
テーヌが云っているが、十八世紀のフランス国王は、代々集権主義を強調したため、
パリは憧憬の中心となって、人々はパリにのみ集まり、田舎は非常に衰微した。ロシア
においても、皇室の豪奢は首府のみを繁昌させ、他に大都会が出来なかつた。ロシア
はあんな大国でありながら、大都会は、新旧の帝都であるペテルグラードとモスコーだ
けである。これに反して民主国のアメリカは、国も大きいが、大都会は到るところにある。
〇
流行
流行は模倣現象である。上流社会、富者らは自己を民衆から区別するために、変
わった服装を工夫する。しかし人々がただちに模倣するので、また新しい服装を工夫
する。こうして流行の鬼ごっこが行われる。
昔は階級の区別が厳しく、各階級の服装が規定されており、下階級の者が上階級の
服装を模倣することは許されなかったから、流行の推移は極めて緩慢であった。だか
ら良い着物を子孫に伝えることは普通のことであった。しかし今日は流行が大速力で
推移するから、去年の着物はもう時代遅れである。
流行は階級社会では緩慢に、無階級社会では急速に行われる。「アメリカ共和国」の
著者ブライスが書いている。「アメリカの田舎町で本屋に立も寄っていると、一人の婦
人が来て流行専門の雑誌を買って行った。聞いて見ると、鉄道工夫の細君であった」
という。アメリカ人の流行に対する熱心さがうかがえる。
流行は、上流社会や富者に対する民衆の鬼ごっこであるから、前者の勢いが去るか、
その馬鹿らしさを悟った者は、これから抜け出て「平民主義」を標榜する。これがいわ
ゆる「平民殿様」である。
流行を追うのは、服装のように外形によらなければ、自己を民衆から区別することが
出来ないからであるから、自分の実力に自信をもっている者は、外形によって自己を
民衆から区別する必要を認めないので、流行を眼中に置かない。学者や芸術家など
によくある無頓着がこれである。
流行を煽動し、これを利用して儲けるのは商工業者である。そしてこの手に乗ってし
なくともよい貧乏をしているのは、中流と称する階級である。貧民は初めから、流行の
鬼ごっこに加わることを断念しているから、気楽である。
〇
模倣の病的現象
次に模倣の病的現象を述べておこう。維新の騒ぎで物騒な頃、東京の近県に面白
い現象が起った。それはどうして始まったか知らないが、一団の人々が「かもこたない
ない」と叫びながら、人家に入って器物を破壊する。するとそれが伝染して家人も「かも
こたないない」と叫びながら、一諸になって破壊する。次にうち連れて隣家に行く。こう
してこの破壊団は一軒毎に人数を増し、数日続いたということである。
古い例を挙げれば、一二六〇年、イタリアに妙な苦行が流行した。裸体の人々が手
に鞭を持って、自分の体を鞭打ちながら行列を作って旅をするのである。すると見物
人の中から着物を脱いでこれに加わる者が続出した。この珍現象は、またたく間にヨー
ロッパ中に広まった。法王はその弊害を見て、人前で体を鞭打つことを禁じ、その結果
半年で止んだ。
また一三七〇年頃、ヨーロッパの諸都市に舞踏狂が流行した。人々が仕事を捨てて
夢中に踊り狂ったのである。ここでも見物人は不可抗力的衝動を感じて舞踏に加わっ
たという。
また一六七〇年、オランダのある孤児院で痙攣の伝染が起り、当事者が持てあまし
たことがあった。孤児の大半が痙攣を起こし、手当に困るほどだった。ついに当事者の
一人が思いついて、彼らを一人づつ一時有志者に引き取ってもらったら、ようやく伝染
が止まった。
同じような痙攣の伝染が、一七八七年、イギリスのランカシアの紡績工場で起きた。
ここでも一人が痙攣を起すと、バタバタ伝染する。ついにやむなく工場を閉鎖するにい
たった。
こう言う現象は宗教団体に特に多い。一七四〇年、ウエルスの諸教会に、聖霊を感
じてピンピン跳ね上がることが流行した。また一八〇〇年頃アメリカのケンタッキー州に、
やはり聖霊を感じて、ゲラゲラ笑うことが流行した。シェーカー、ローラー、クエーカー
などという名を見ても、身体をゆすぶったり転げまわったりしたことがかつて流行したこ
とがわかる。
フライの言うところによると、かつてあるフランスの尼寺に、猫のような奇声を発するこ
とが流行し、毎日ニャーニャー云って手に負えないので、兵隊を送って威嚇し、ようや
く止めることが出来たという。またドイツの尼寺で他人に噛みつくことが流行し、ドイツ全
国からオランダ、ローマまで伝播したことがあった。
以上は非常に反射的な例であるが、それほど反射的でない学校ストライキの流行と
か、華厳の滝の自殺流行なども、少なからず病的なものである。
〇
模倣と独創
私は前に、模倣は人類の精神的遺産である文化を保持し、社会を進歩させる一要
素だと言った。しかし模倣だけで独創がなければ真の進歩は不可能である。
模倣は独創のようにエネルギーを要しないから、我々は独創よりも模倣に堕しやす
い。因習とか習俗と称するものはその結果生じたものである。
独創はエネルギーの産物であるから、劣等人種には模倣が多くて独創が少ない。さ
らに下って動物の社会を見ると、模倣はほとんどすべてが純反射的である。一例を云
えば、羊が列を作って通るとき、横から棒でも出すと、先頭の羊がそれを跳ね越える。
すると以下の羊は棒を引っ込めても同じ行動をする。そして最後の羊までそうする。一
犬虚に吼えると万犬これに和すとは、動物の模倣をよく語っている。
動物の模倣はこのようであるが、劣等人種にも、反射的模倣が多い。いや文明社会
においても、因習だ、習俗だという以外に、何の意味もないことがいかに多く行われて
いるか。
〇
模倣と国民性
’
本号は「国民性研究号」であるから、これに関して一言述べておこう。いわゆる国民
性というものは、先天的なものか後天的なものかということである。これに対する我々の
答は、国民性と称するものの一部分は、いうまでもなく先天的なものであるが、その大
部分は模倣によって保持される、換言すれば、社会学者のいう社会的遺伝による後天
的なものである。国民性から、因襲的思想、因襲的道徳。因襲的趣味などを引き去っ
たら、残るところは果して何があろう。
マクドーガルはこう云っている。もしイギリス国民とフランス国民が五十年間生れる嬰
児をすべて交換したなら、次代のイギリス国民はフランス人から成り、フランス国民はイ
ギリス人から成る訳であるが、それでもイギリス国民とフランス国民は、以前のイギリス
国民、フランス国民と、国民性において大した差はなかろうと。
ここでふと思い出したが、ある人がある日京橋で、事ありげに橋の下を眺めていると、
数人の通行人が直ちにそれにならった。そしてそれからは、来る人も来る人もすべて
橋の下を眺めて通った。半日ほど経ってから、その人が再び行って見ると、同じことが
依然として続いていたそうである。社会的遺伝とは、ちょうどこんなものである。
〇
我が国民と模倣
我が国民はしばしば模倣的だと云われる。しかし後進国民である我々が、先進国の
文物を模倣するのは当然のことで、むしろうまく模倣するほど良いのである。模倣は決
して我が国民の欠点ではない。ただそれ以上の独創が少ないなら、それこそ我が国民
の弱点なのである。
模倣と日本国民性
三和
一男
一
現代の日本の文化内容が、ほとんど外国文化の模倣であるということを、まるで恥辱
であるかのように考える人がある。一方には、日本人が模倣に敏であることを、誇りとし
ている人々もある。前者を代表する者が国粋主義者・復古主義者であり、後者を代表
するものが欧化主義者である。
しかしながら、国粋主義者たちがいかに憤慨しても、欧化主義者が衿持を越えるほ
どの摸倣をあえてした現前の事実――日本の現状――は、どうすることも出来ない。し
かしこの事実は国粋主義者たちとともに慨嘆することであろうか。
模倣(イミテーション)とは、通常相手の優越性を承認して我に受け容れ、我に複写
することを意味する。故に模倣が単に模倣に終る時――つまり単なる模倣のための模
倣であるとき――それはやがて我を亡ぼすことであり、他の努力を掠奪することであっ
て、悲しい事実であろう。しかし模倣はその性質として、一般に新たな創造を誘致する。
じつに模倣は創造の母である。この創造はまた模倣により伝播して、社会の進展を促
す。模倣は社会の発達のきっかけとなるものである。日本人の模倣に敏であることが、
たとえ誇るに足らない事実であるとしても、決して国粋主義者や復古主義者のように、
悲憤慷慨に値するものではない。もしも日本が開国以来今日まで、鎖国を通して来た
としたら、日本の社会はどんな発達をなし得たであろう。想像するも愚かなことである。
とにかく模倣は、人類の社会的生活が発生して以来の、社会の中心事であった。一時
代に生活する人間は、それまでに発達して来た文化内容を継承して生活する。つまり
模倣の生活を営むのである。
この事実は、個人または民族の間に範囲や強さの程度に差があっても、すべての集
団生活を行うものの間に共通な事実である。
二
模倣を社会の説明原理とし、模倣の社会学を建てた学者は、タルド(Tarde )である。
タルドの模倣説によれば、社会は模倣であり、社会的な人であることは何よりもまず模
倣的なことである。また社会的一致――思想、感情、欲望など方向性の一致――は社
会の中心である。それはただ模倣によって生じる。一切の社会的事実の恒常的特徴
は、模倣的なことである。そしてこの事実は社会的事実に特有なものである。個々の新
しい模倣は、すでに結合した人々の紐帯を強めまたは保存し、いまだ結合しない人々
の間には結合の準備をする。こうして模倣は社会の構成原理となる。
社会学者の中で模倣説の代表としてタルドの以外に、ボールドウィン(Baldwin)がい
る。ただしボールドウィンは、模倣を社会の根本的事実とはするけれども、これを社会
の構成原理とは見ないのである。彼の見解によれば、模倣は社会の組織と発達との過
程である。そして社会生活の実質的内容は常に観念であって、模倣は常に過程であ
る。社会生活の内容は、模倣により伝播して社会的となり、個人の上で発達して行くも
のは観念のみである。模倣が社会組織の過程であるということは、発明された観念が
模倣により伝播して社会的内容となり、しかも個人の模倣的同化力が、これを自己の
思想組織の一部分とし、また他人に向って投射することである。そして社会的発達もま
た模倣をその過程とする。個人の特殊力が新観念を創始すれば、社会は普遍的な力
である模倣の過程によって、社会的なものとし、社会的となった内容はまた個人によっ
て変形され新たな社会的内容を増加していくのである。
三
今これを歴史的事実について考察すると、古代ローマの文明を飾る内容は、ほとん
どすべてがギリシャ文明の模倣によっていた。さらに近世のヨーロッパ文化は、何人も
知るように古代ギリシャおよびローマの文明とキリスト教との結合を中心として発達して
来たものであった。これも近世のヨーロッパの諸国民にとっては、外国の産物、外来文
化の模倣による文化であると見るのが妥当である。決してオリジナルなものとは言えな
い。
交通機関の発達した今日では、この模倣はますます敏速に行われる。ある一国、例
えばイギリスの誰かによって創造されたことは、タルドが模倣の一般法則として挙げた、
模倣は幾何級数的に広がるという社会原理によって、ただちに各国に伝播する。そし
てこれは現代の文化内容を構成し、さらに新たな創造を生み、循環的に無限に反覆さ
れて、社会が発達していくのである。
これを日本の歴史に尋ねると、古代の日本文化は支那より伝来した仏教と儒教の思
想および支那文明の、最初の洪水的侵入によって、日本本来の発展の萌芽をことごと
く蹂躙され、以来ひたすら支那丈化の模倣追従に忙殺されて来た。純日本文化として
オリジナルを誇るに足るものは、残念ながら極めて乏しいのである。もちろん長い歴史
の中には、次々に伝来する文化の模倣の過程において、タルドが模倣の一般法則の
二として、模倣は仲介によって屈折するといったように、個々の伝来の文化に多くの日
本性を添加して、支那大陸におけるものとは非常に異った形態――いわゆる日本的
――に発達して来たのは事実であるが、しかしその本質は仏教ならびに儒教文化を
根本から脱した、純日本文化そのものではなかったのである。
先年米国の観光団が、東京を経て京都に遊び、ある所に招待された。席上その中の
某名士は、「東西両京の感想を比較して、東京は形式的に外国の文化の模倣にのみ
努めているので興味が起らなかったが、今京都に来て始めて真の日本を見ることがで
きた。この寺院山川を見て始めて This is Japan!と感じた」と発言して喝采を博したとい
う話を聞いた。
しかしこの京郡を飾る寺院は、前に述べた意味において、それが日本的であるとは
言ひ得るが、This is Japan と叫ぶ性質のものではない。観光客の一アメリカ人がこう感
じたことは、必ずしも無理からぬ所であるが、列席の日本人がこれを喝采したということ
は何を語っているであろう! もし中華民国の人であったら、恐らく This is Chinese と
叫んだであろう。
要するに神武紀元千二百年代の始め、仏教が輸入されて以来、徳川幕府の鎖国ま
でおよそ一千年の間は、主として仏教文明の模倣に終始した。徳川幕府の鎖国約三
百年に近い期間は、外国文明の伝来を断った。けれどもその長い期間にも、ただ新た
に海外文明が伝わらなかったのみで、大体において仏教文明のよい意味での蒸し返
し、焼き直しに過ぎなかったのである。
四
徳川幕府の末期、鎖国がやや緩むと、ほとんど七百年に近い武家制度の束縛圧制
に苦しんで、何とかして脱れたいと煩悶を重ねた国民中の先覚者は、ヨーロッパの文
化が驚くほど進歩発達していると知って、その吸収に全力を注いだ。明治維新の革命
が成り、欧米文化の伝来が自由になると、国民の大多数はあたかも食に飢えた狼のよ
うに、一方に叫ばれる国粋主義者、復古主義者の声に耳をかさず、彼の文化を貪り食
うように猛然として欧化主義に走った。従来外国との交通が絶たれ、世界の大勢に全
然盲目であって、自国ほど偉いものはないと信じ切っていた日本の国民が、初めて欧
米諸国の絢爛(けんらん)とした文化に接した時の驚嘆はどれ程であっただろう。それ
は一から十まで眼を見張るものであった。そして驚嘆はやがて称賛となり、称賛はやが
て模倣となる。今までの自負は無残にも吹き飛ばされ、欧化心酔、没批判的迷信的模
倣の極端に走った。その急先鋒は貴族階級および支配階級のいわゆる鹿鳴館時代と
なり、諸制度の改革、風俗の変遷を誘導した。
このような急進的運動に対し、必然的なリアクションとして、復古的思想が一時勢力を
得た。それは当時の国粋主義であった。彼らは欧化主義に反対し、また消極的、厭世
的な仏教文明を嫌い、原始的でシンプルな生活を慕った。その運動の名残りとして顕
著なものは、神社である。神社はその構造において、寺院と甚だしく類似していたのが、
太古の風によって建てられるようになり、今でも供物用として白木の三宝、土器などが
用いられている。婚礼や争議なども神道の式によるものが非常に増加した。その他裁
判官、弁護士、相撲の行司などの服装が古風に制定された。しかしこれらを除いて、
時代の大勢は滔々として欧化主義に傾いた。こうして五十有余年、混然とした模倣文
化の新日本は建設されたのである。
現代日木の文化内容を考える時、あの欧化主義全盛、没批判的迷信的模倣時代を
象徴する遺物として、浅草の十二階は意義あるものである。しかしながら今日、日本全
国にわたって、大建築物は教会はもとより、官公庁、会社、銀行、病院、学校、停車場
などほとんどが洋風建築であり、邸宅にもこれが多くなってきた。日本風の家にしても、
応接間または書斉として一室くらいは洋風にしているものが多い。行灯カンテラに代っ
てランプ電灯やガス灯がともされ、日本間には洋画がかけられている。軍隊は全部洋
服であり、軍人はベッドに寝かされる。公式の儀式には洋服が用いられ、日常の活動
にも便利であるため洋服がますます普及している。したがって帽子が伴い、靴が用い
られ、洋傘が使われる。婦人の頭は束髪になり、少女はリボンを結び、男子のチョン髷
は落された。牛や豚も食えば牛乳ものみ、パンもかじるようになった。洋食屋、カフェー、
バーがいたるところに繁昌し、ウィスキーも飲めば、五色の酒も注ぐ。藪医者がドクトル
となり、白服の看護婦が生れ、河原乞食は芸術家となった。參勤交代は議会召集とな
り、日比谷烏の談議となった。太陰暦は廃されて太陽暦に代り、一週一度の日曜、クリ
スチャンの休息日も、日本においては本来の意義は失われたが今や一般に採用さ
れ、・・・・と欧米諸国の生活様式はしきりに採り入れられた。汽車も持って来れば、汽
船も持って来た。電信も電話も郵便もその他あらゆる制度、組織――産業制度、工場
組織も敏な日本人はすべて模倣した。
学術においても、形而上学と形而下学とを問わず、法律、経済、宗教、哲学、芸術な
らびにあらゆる自然科学は、ことごとく翻訳的発達を遂げた。こうして日本の現代の文
化内容は、ほとんど大部分外来文化の模倣によって構成されている。
過去約半世紀間、日本がこのような大変革を敢行できたこと、つまり全然異質の文化
を採り入れ、これを模倣した事実――世界史上類例を見ないこの現実――は、日本
国民が非常に模倣性に富んでいることを証するものであって、内外人の等しく承認す
るところである。
五
最高の文化を誇ったローマの滅亡の原因を、歴史家は、版図の過大、奴隷制度、道
徳の腐敗などとしている。しかしこれが主たる理由としても、ローマはギリシャ文明の単
なる模倣に過ぎなかったためであると、一部の史家は観察している。そして日本人が
国民性として認めるに足るほどの、模倣性に富んでいることは上に略述したとおりであ
る。
もし日本人の模倣が将来とも単なる模倣に終るなら、日本民族の将来は悲観せざる
をえない。しかし私は日本人の将来を決して悲観しない。前に述べたように、全然異質
な仏教文明を模倣した私共の祖先は、ともかく日本的な特性を作り上げた。偉大な独
創家、大天才を生むには至らなかったにしても、模倣に創造を生み加えて、日本文化
と見て差支えない多くのものを築き上げた。ヨーロッパ文化を模倣した現代日本人の
大きな使命は、進んで新しい文化を建設し、世界に貢献することでなければならない。
ロシアはマルクス社会主義の思想的感化――言葉を換えれば模倣――からボルシ
ェビズムの偉大な事業を決行した。二十世紀の世界を導くに足る雄偉な創造である。
翻って現代日本人は、ヨーロッパ文化を採り入れて、着々その生活内容を豊富にし
つつある。学問の方面を見ても、直訳的模倣時代より進んで批判的に、形而上学と形
而下学とを問わずすべての方面に、ようやく新たな創造の曙光を認めるのである。思
想方面においても、一部では模倣とか翻訳に過ぎないと言われている間に、新たな創
造が事実となって現れつつあるではないか!
私ども日本人は大なる希望をもって、各々志すところに邁進し、新たな日本文化の
建設に努力し、この使命を果す覚悟がなくてはならない。この意味において模倣に富
む現実を喜ばねばならない。
六
後白河法皇はその地位をもってしても、当時の僧侶の団結の力を左右出来ないのを
嘆いて、「私の意にならないのは鴨川の水と、双六の賽(さい)と、山法師だ」と言った。
眼前の事実を否定することは、王者の威をもってしても不可能である。口を開けば「神
ながらの道」を説き、二千年の伝統を誇る国粋主義者でも、現代の模倣の事実を否認
することは出来ない。
実に彼らは現前の事実によって、これの承認を余儀なくされた。しかし清盛は奇しく
も入日を招き返した。かつて馬を鹿だと言わせた国王もあった。南洋の土人は一個の
時計を怪物だと恐れる。模倣の事実を認める彼らも、模倣文化だ、模倣文化だと言わ
れると、それがいかにも自分を傷つけるかのように感じられて心外でならない。そこで
入日を招き返すような魔法を使ったり、馬を鹿だと言わせたり、わからぬ奴はただ不安
の恐怖に陥る。
彼らのある者は言う。維新以来日本は確かに欧米の物質文明を模倣した。しかし三
千年の伝統を持つ国民の大精神はビクともしない。つまり精神文明は微動だにしない
と言う。そしてこのことは、ほとんど大部分の人々によって承認されているようである。け
れども果してこの説は普遍的妥当性を持っているであろうか? 習慣や環境が変化し
ても精神は変らないだろうか。私はこの説を、真実から目をそらす愚論であり、ために
する目的で事実を曲げる苦しい詭弁であると断言してはばからない。もっともこれを解
説、説明するには、まず国民精神という観念が含む内容および意義を明らかにし、一
つ一つの史実と現実について検討を加えなければならないが、それは少し問題に遠
ざかるし、かつ今はその余裕と余白を持たないから他の機会に割愛するほかない。
しかしながら、遠く神話時代および上古の国民精神が、仏教文明の伝来によって果
して何らの変化を蒙らなかったか? 雲上のやんごとない身をもってすら「三宝の奴」と
まで言われたではないか! 封建的な階級精神は、古来変化しない国民精神であっ
たか? この階級精神――主君のためには水火もあえて辞さないという尽忠的精神―
―は現在微動だもしていないであろうか? ビクともしない三千年の伝統的固有の国
民精神は、金のために生命も名誉も賭して顧みないではないか! 雇主に対し、正義
としてストライキが行われつつあるのはどうしたものか! こう考える時、国民精神の不
動を信じたことの愚かさを自ら笑わざるを得ないであろう。ましてやこれを力説した者は、
その誤解を恥じざるを得ないであろう。
ゴルテルはこの真意を次のように表現している。社会的経験、社会的習慣、教育、境
遇などは、社会的労働および社会的生産関係によって決定される。精神生活の全部
はこれによって決定される。労働は人間精神の根である。精神はこの根から発生する
のである。
七
模倣が人類社会の普遍的事実である以上、我らが先進文化を模倣したことに不思
議はない。だが前に述べたように、日本人が近代においてかくも大胆に、もしくは大仕
掛けに模倣をなしえたのはなぜか。日本国民が模倣性に冨む理由はどこにあるのか。
これは模索する必要がある。
第一に挙げられることは、日本が後進国であることだ。ことにバイタル・フォースに充
ち満ちた後進国であるということに基因する。一般に後進国は、先進国の優越を感じ、
もしくは意識し、貧弱な自己の生活内容を充実しようとする欲望が強い。このような模
倣の動機を一般原則として概念化して言えば、模倣は優者より劣者に流れる。よって
文化的劣者である日本――しかもバイタル・フォースに充ちた後進国である日本――
は、格段に優秀な先進の欧米文化を模倣する資格を十二分に具備していた。
次に日本人はお人よしであることによる。お人よしということは、誇るに足るオリジナル
な何物をも持たないことを含む。優秀かつ確固とした国民性を持たないためである。優
秀な自己を有する者には、他物の侵入する余地がすくない。しかし空虚もしくは貧弱
な自己を持つ者は、これに反して何物をも容れることが出来る。彼の優秀を感じ自己
の空虚あるいは弱点を知ると、模倣作用は活発に行われる。日本人はこうして盛んな
模倣を行った。
さらに理由を求めると、日本の地理的関係、つまり島国であるために外国文化は海を
越えて直接に日本に来る。そしてただちに内地に及ぶ。あるいは日本人が比較的適
応性に富むこと、および事物に恬淡であって、比較的執着心に弱いこと、なども挙げる
ことが出来る。以上のような事柄が互いに相寄り補足しあって史上かって見ない奇跡
的大変革を実行したのである。
八
きわめて大体ながら、以上で模倣と日本国民性との関係について、一通りの考察を
終った。模倣は一般に感じられているほど好ましくないものではなく、――もっとも自国
に誇るに足る文化がないのは結構とはいえないが――社会的生活の中心事実である
こと。また模倣は創造の母である点で、十分な文化的価値があることを明らかにしたつ
もりである。日本の国民は非常に模倣性に富んでいることを具体的事実によって究明
もした。
ある事情によって突然優秀な異質の文明に接した場合に、異常な模倣が行われる
のは当然であって、日本人はこのようなエポックメーキングに二回出会っている。いず
れの場合も少しの支障もなく行われたのではなく、必然的に保守的勢力や国粋主義、
復古主義などのリアクションを伴った。仏教伝来のときには保守的反動的勢力が、日
本には神がありあえて外国の神を崇拝する必要はないと、国賊呼ばわりをして反対し
た。時には暴力に訴えたのだが、時の経過とともに彼らの負けとなり、以来二千年、日
本は純然たる仏教国と化したのであった。
さらに明治維新の当時、憂国の士は錦の御旗を押し立てて、尊王攘夷の気勢が燃
え上がったが、時代の大勢は彼らの迷妄を遺憾なく破壊して、彼らも遂に翻然として
開国説に賛成し、開国進取の国是を立て、明治の新時代を建設するに至った。ただし
軽薄な欧米の物質文明は、三千年鍛え上げた日本道徳を頽廃させ、識者は世道人
心地に落ちたと嘆いた。こうして従来の支配階級と封建制は凋落し、ブルジョワ階級が
代って新たに資本主義を建設した。これに伴いデモクラティックな思想が普及し個人
の自覚を促した。
資本主義的社会制度がますます発達するにつれて、ブルジョア階級は支配的勢力
をほしいままにし、横暴をたくましくする。反面最近になってプロレタリアの自覚と社会
思想の進展は、現代の社会制度の欠陥を完膚ないまでに鮮明にし、現実を暴露する
に至った。この不合理な社会制度を根本的に改革しようとする新しい運動が起きると、
現状維持をモットーとするブルジョアの保守的勢力とリアクションとして台頭した復古的
国粋主義は、頑強に新運動に反抗し、彼らの掌中にある巨大な権力を行使して、圧制
と迫害を加えている。
しかしこの正義に立脚する解放運動は、近い将来目的を貫徹するであろう。それは
歴史的必然性を持つものであり、疑う余地がない。