和久山 きそ

キリスト教幼児教育の実践
わ く や ま
和久山 きそ
慶応4年(1865)-昭和18年(1943)
《 三田とのゆかり 》
和久山きそは三田屋敷町に三田藩士和久山
いわ お
盤尾の長女として生まれる。三田小学校を中退
し神戸ホームに転校した。
宣教師のタルカット女史に導かれ明治15年
(1882)に洗礼を受ける。明治18年(1885)、
和久山きそとハウ女史
神戸英和女学校卒業、同校の3期生である。
晩年は父・磐尾が関係した北海道浦河へ移り、77歳で生涯を閉じた。和久山磐尾の
墓は心月院にあり、その傍らに和久山喜素の墓がある。
〈 どんな人? 〉
和久山きその父和久山盤尾は藩主に従い、明治7年(1874)神戸に移り、明治13年に
妻とともにキリスト教に入信した。明治15年、赤心社に入社し息子3人を連れて北海
道に入植した。妻と娘は神戸に残り、きそは神戸英和女学校(現・神戸女学院)卒業
後、同志社女学校にすすみ、心理学と理科を学び、卒業後は英語教授兼舎監となった。
しょうえい
明治22年(1889)
、神戸にキリスト教会による「頌 栄 保姆伝習所」が設立され、ハ
ウ(A.L.Howe)女史が紹介したキリスト教に基づくフレーベルの幼児教育が行われた。
ハウ女史の日本側のパートナーとして和久山きそが推挙され、以降は幼児教育に専
しょうえい
念した。二人の協力により「頌 栄 」をもり立て、ハウ女史と和久山の頌栄保育学院は
日本最高の保母養成機関と評価された。
彼女は昭和2年(1927)から7年間ハウの後継者として幼稚園園長と保母伝習所所長
を兼務し、45年間幼児教育に献身した。日本における幼児教育の先駆者である。
幼稚園・短期大学・人間福祉専門学校を有する頌栄保育学院は今日も神戸市東灘区
で教育を行っている。