多環芳香族炭化水素(PAH)の ハイスループットスクリーニング

多環芳香族炭化水素(PAH)の
ハイスループットスクリーニング
アプリケーションガイド
図 1: PAHのモチーフ。a) HB-アントラセン[ANTCEN]、b) SHB-クアテリレン[QUATER10]、c) β-HB-1,2,3,4-テトラフェニルベン
ゼン[FOVVOB]、d) γ-コロネン[CORONE01]、e) β-アントラ[2,1,9,8-hjkl]ベンゾ[de]ナフト[2,1,8,7-stuv]ペンタセン[BOXGAW]
CASTEPによる分散力補正を考慮したDFT計算により、
結晶構造や電子状態に対してバンドギャップなどの重要
な物性を関連づけて、分子結晶材料のハイスループット
スクリーニングを行うための基礎を確立した事例1の概
要をご紹介します。
背景
電子部品に用いられる安価で柔軟性が高く軽量な材料に関す
る研究において、研究者は有機材料において、いかに有用な
分子配列を構築できるかを模索しています。また、有機電子
材料の有用な特性の予測は、有機電子製品の設計において急
速に不可欠なものとなりつつあります。多環芳香族炭化水
素(PAH)は、電子光学および電気光学への用途で注目を集め
ている有機分子結晶(OMC)を形成します2, 3。その幅広い用途
と存在量の多さに反して、結晶化したPAHの多くについて
は、電子特性の理論的な研究はまだ進んでいません。ここ
で紹介する事例では、分散力補正を考慮した密度汎関数理論
(DFT)を使用して、これらの注目を集めている材料における
構造および電子状態に関する傾向を探索しています。
以前から、PAHは複素環もしくは炭素のみを有する構造の
いずれかであることが判明しており、周囲条件の下で分子
結晶配列が形成されます。水素および芳香族炭素のみを有す
るPAHは、π0-パラメータ(分子の平面間の角度と、分子間
の炭素間の相互作用の割合により決定されるパラメータ4)に
より、5種類の結晶モチーフに分類されます。その5種類と
は、a) ヘリンボーン(HB)型、b) サンドウィッチ・ヘリンボ
ーン(SHB)型、c) ベータ・ヘリンボーン(β-HB)型、d) ガンマ
(γ)型、e) ベータ(β)型で、図 1a~1eに各モチーフの特徴を
示す構造を図示しています5, 6。
気相PAHのバンドギャップの傾向はよく知られています
が、結晶化したPAHのバンドギャップと構造やモチーフ間
の依存関係についてはほとんど知られていません。これま
で、分散力補正を考慮した密度汎関数理論に基づく手法が、
オリゴアセン7, 8(PAHの典型的な基)のきわめて詳細な研究
に使用されてきました。これらの研究では(他と同様に9, 10)
、Tkatchenko-Schefflerの分散力補正(TS法)が、特に分子量
の大きいPAH類で分子結晶の構造と特性の予測の基準とな
っていました。前述のオリゴアセンに関する研究では、TS
法により、実験で得られた構造と非常によく一致する結果
が得られ、ナフタレン、アントラセン、ペンタセンのそれ
ぞれについて圧力誘起による構造変化の精密なモデルも得
られています。また、TS法を用いて、圧力誘起によるテト
ラセンの相転移が再現されていると共に、圧力誘起によるテ
トラセンおよびペンタセンのバンドギャップの変化が再現さ
れています。こうした成果と併せて、Cambridge Structural
Database (CSD)に現在登録されている91種類すべてのPAHの
構造的傾向と電子的傾向について研究し、この独自の結晶分
類について化学的知見を深める段階に来ています。
手法
対象とするPAHの構造はすべてCSDから参照しました(参照
コードを利用)。選択されたすべてのPAHの構造は、水素原
子および芳香族炭素原子のみを含むものでした。
P e r d e w - B u r k e - E r n z e r h o f 交 換 相 関 汎 関 数 ( P B E ) 11と
Tkatchenko-Scheffler分散力補正(TS法)12を使用したPAH結晶
の構造最適化には、CASTEPを使用しました。また、それぞ
れの分子のバンドギャップ(EMolg)の計算も、EMolg以外の結晶
に使用されているものと同一の収束基準を適用してCASTEP
で行いました。EMolgについては、Γ点のみを使用して最適化
された分子に対して計算を行いました。分子は、構造を最適
化する前に、周期系格子内の格子境界から10Å以上離れた場
所に配置しました。
TS法を完全に自己無撞着に適用すると、分子結晶の電子特
性の変化は無視できる範囲に収まるため、バンドギャップ
はTS法を使わずに計算しました。長距離のファン・デル・
ワールスエネルギーはTS法を用いて決定しました(PBEで計
算した全エネルギー-分散力補正を行った全エネルギー)。
すべての計算とそれに対応する分析は、Perlスクリプトによ
り自動化しました。計算時に問題が生じた構造は個別に対処
し、再計算を実施しました。
図 3: 選択されたPAHの気相および液相の光学的バンドギ
ャップの予測結果と実験結果の比較。EPBEgを第2縦軸(右側)
で示す。第2縦軸は、実験で得られた値(詳細は文献1を参
照)に合わせて第1縦軸に対して原点を0.99eVずらしている
(両縦軸の目盛間隔は同じ)。
結果
ハイスループットスクリーニングで使用する計算手法の確立
にまず必要なことは、構造特性の計算の信頼性を確立するこ
とです13, 14。図 2を見ると、実験により得られた結晶構造と
計算により得られた結晶構造がよく一致していることがわか
ります。
考察
図 2に示すように、配置を最適化した構造のほぼすべてで実
験値よりも高い密度が得られました(計算は0 Kの条件)。この
誤差の原因の1つとして、ほとんどのPAHのX線構造解析に
よる研究が、0Kでの計算値よりも密度が低くなる常温で行
われていた点が挙げられます。計算と実験の温度差にかかわ
らず、密度の計算値の77 %以上が実験値から+5 %以内(図 2
の緑の破線)に収まっていました。X線構造解析が低温環境下
(<273 K)で行われた場合、誤差は平均+2.3 %にまで減少しま
した。常温のX線構造解析により得られた構造に対応する、
計算で得られた構造の一部では、+5%を超える高い密度が
得られました。しかし、空間群の分析では、明確な相やモチ
ーフの転移は認められませんでした。
図 2: 91種類のPAHについて計算により得られた密度と実
験により得られた密度の比較。黒の実線は実験結果と計算
結果の正確な一致を示す。緑の破線は±5%の差異を表す。
赤点は常温下で得られた構造、青点は低温環境下で得られ
た構造をそれぞれ表す。
図 3および図 4から、PBEを使用して計算されたバンドギャ
ップ(EPBEg)が、気相と結晶相の両方のPAHの相対的な光学的
ギャップの予測において非常に優れた結果を示したことがわ
かります。興味深いことに、実験により得られたPAHの光
学的ギャップ(EOptg)の正確な値は、相によらずEPBEgに1eV程
度の定数(ここではΔPBEとします)を加えるだけで得られま
す。具体的には、液相および気相でのΔPBEは0.99eV、結晶
相でのΔPBEは1.05 eVでした。ΔPBEを加えた場合、EOptgと
の誤差は各分子で平均±2.6%、結晶集合体では平均±3.5 %
でした。PBE を用いたバンドギャップの計算は、より精度
の高いハイブリッド汎関数(PBE08、HSE038、B3LYP15)や、
準粒子補正 16や時間依存性を考慮した手法15を用いたバン
ドギャップの計算よりも計算コストが1桁低く抑えられるた
め、PBEで計算されたギャップを実験と合わせるための単一
のパラメータが得られたことは有意義な発見であると言えま
す。
図 4: 結晶化したPAHの光学的ギャップの計算結果と実験
結果の比較。PBEによって得られたギャップを第2縦軸(右
側)で示す。第2縦軸は、実験で得られた値に合わせて第1縦
軸に対して原点を1.05eVずらしている(両縦軸の目盛り間
隔は同じ)。
結晶材料のバンドギャップの予測に、DFTに基づくPBEを使
った計算は適さないということは既に知られていましたが、
一方で、この手法は、ナフタレン(2A)からペンタセン(5A)へ
と結晶オリゴアセンの環の数が増加するにつれてバンドギャ
ップが減少する傾向を正確に予測できることが明らかにな
っていました8。気相の分子の場合では、EPBEgの値は実験で
得られたPAHの光学的ギャップ(EOptg)を十分な精度で予測で
きることが示されていました。強固に束縛されているフレン
ケル励起子は励起状態の分子内に留まったままになるため、
弱い分子間相互作用で結合している分子結晶(PAHなど)の場
合、EPBEgでは通常の分子状態のときにEOptgを予測可能である
ことが予想されます13。
結論
CSDに登録されているすべてのPAHについて、構造特性お
よび電子特性がCASTEPを使った分散力補正を考慮したDFT
計算により十分によく表されることが示されました。ま
た、PBEによって得られたギャップに1eV程度の定数を加え
ることで、実験により得られる光学的ギャップとよく一致す
ることが明らかになりました。このことにより、分子結晶材
料の構造特性および電子特性についての、密度汎関数理論
(DFT)に基づいた計算による効果的なスクリーニングの基礎
が確立されたといえるでしょう。
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