『寄生獣』あるいは野生の寛容(PDF:258kb)

TASC MONTHLY no.477
シリーズ
豊 か な 生 き 方 、 豊 か な 社 会 を 考 える
『 寄 生 獣 』あるいは
野 生の 寛 容
松浦雄介
熊本大学文学部教授
寛容の逆説と呼ばれるものがある。渡辺
た。たとえば K・ポパーは『開かれた社会と
一夫のエッセイ「寛容は自らを守るために
その敵』で、不寛容が合理的議論ではなく
不寛容に対して不寛容になるべきか?」は、
「拳やピストル」によって寛容に対抗しよう
こ の逆 説 をその まま タイト ルと し てい る。
とするとき、寛容の名において不寛容を排
寛容とは一般に、自己と異なる思想・信仰
除することは当然の権利だと断言している。
をもつ他者を認め、受けいれること、すな
無 際 限 の 寛 容 は 不 寛 容 を 増 大 さ せ、 つ い
わち差異の承認である。この承認が相互的
にそれによって寛容は滅ぼされて消滅する。
になされることによって、寛容は安定的に
これがポパーの考える寛容の逆説である。
成立する。Aは自分と異なる思想・信仰をも
寛 容 の逆 説 にた い する 渡辺 の 判断 は ポ
つBの存在を認め、そしてBもまたAの存在
パーと対照的である。寛容が自らを守るた
を認める。このような差異の相互承認によ
めに、不寛容を打倒するべく自ら不寛容に
り、思想・信仰を異にする者どうしの共生
なることはありうるし、歴史上、そのよう
が可能となる。ただし、寛容それ自体はか
な場合は幾度となくあったが、しかしその
ならずしも相互性を必要条件としていない。
ことは、不寛容にたいして自らが不寛容に
Bの考えや振る舞いの如何にかかわらず、A
なって良い、ということを意味しない。
「不
が寛容になることは可能である。とすれば、
寛 容に 報い る に 不寛 容 を以 てす る こと は、
もしもBが自分以外の思想・信仰を認めない
寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるに
不寛容の態度を示し、この相互性の条件が
すぎない」からである(前掲論文、260頁)
。
満たされないとき、AはBにたいして寛容で
この場合の寛容の逆説は、寛容が(ポパー
あるべきだろうか。
が危惧するように)不寛容によって滅ぼさ
この問いはこれまで何度か論じられてき
れ る の で は な く、 そ れ 自 体 の 不 寛 容 化 に
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『 寄 生 獣 』 あるい は 野 生の 寛 容
よって自滅するところにある。
ロリズムであり、もう一つは特定の民族や
J・ロールズは『正義論』で寛容の逆説を
人種またはそのメンバーを主に言葉の暴力
取りあげているが、その議論は、ちょうど
によって一方的に排除しようとするレイシ
ポパーと渡辺との調停を試みるものとして
ズ ム で あ る。 こ れ ら の 不 寛 容 に お い て は、
理解することができる。ロールズによれば、
差異の相互承認という、寛容の安定的実現
各人の自由が平等に保障されるうえで寛容
のために必要な条件は欠けている。このよ
は重要であるが、その寛容が不寛容を制限
うな不寛容が顕在化するにともない、
「寛容
できるのは、この各人の平等な自由という
は不寛容にたいして不寛容になるべきか?」
社会の根本原理(正義の原理)が損なわれ
という寛容の逆説が、今日的な問いとして
る明白な危険があるときのみであり、そう
浮上してくる。
でない限りは不寛容を選択する自由も許容
もしもこの問いにたいする答えを得よう
される。
とするならば、テロリズムとレイシズムに
これら三者の議論は、見かけほど離れて
固有の形態や文脈を考慮しつつ、寛容の逆
いるわけではない。三者とも、寛容を自由
説におけるポパー的契機と渡辺的契機、す
な 社会 に 不可 欠なもの として肯定 しつ つ、
なわち不寛容が自由な社会を破壊する危険
不寛容が自由な社会を破壊する危険がある
と、不寛容を制限することによって自由な
場合にはそれを制限することに同意してい
社会それ自体が不寛容になる危険との、ど
るからである。この原則を共有しつつ、し
ちらがより大きいかを比較考量して判断す
かし、その原則の適用の仕方に少なからぬ
ることになるだろう。この小論で述べたい
違いがある。ポパーは無際限の寛容の結果、
のは、しかし、この問題ではなく、少し別
不寛容が台頭して寛容な社会を滅ぼす危険
の事柄である.
を強調するのにたいし、渡辺は不寛容の無
渡辺は上記のエッセイで、
「寛容と不寛
際限の制限の結果、社会全体が不寛容にな
容の問題は、理性とか知性とか人間性とか
る危険を強調する。そしてロールズは原則
いうものを、お互いに想定できる人間同士
の適用基準を明確にしようとする。
の間のことであって、猛獣対人間の場合や、
今 日、 自 由 な 社 会 を 脅 か す 二 種 類 の 際
有 毒 菌 対 人 間 の 場 合 や、 天 災 対 人 間 の 場
立った不寛容がある。一つは他者を物理的
合は、論外とすべきであろう」と述べてい
暴力によって一方的に排除しようとするテ
る(前掲論文、250頁)
。しかし現実に生じ
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ている不寛容においては、しばしば他者が
設け、前者の後者にたいする優位を前提と
猛獣や有毒菌のような存在になぞらえられ
しているが、それは裏を返せば、動物には
る。たとえばテロリストの行いは、しばし
尊厳が無いから排除・抹殺しても良いとい
ば “brutal”(野獣のような、野蛮な)と形容
うことになりかねない(少なくともそのよ
される。あるいはレイシストは、しばしば
うな論理が成立する余地を残す)からであ
他者を有毒菌のような存在(ゴキブリ、ウ
る。人間と他の動物とのあいだに設定され
ジ虫、ばい菌…)として語る。
(厳密に言え
るこの垂直的な落差があるかぎり、他者を
ば、他者を害獣扱いするのが、前者の場合
動物化(さらには害獣化)する論理がそこ
は寛容の側、後者の場合は不寛容の側とい
に派生しかねない。
う違いがあるが、さしあたりここではその
この落とし穴に陥ることなく、他者の害
違いは置いておく。
)
獣化という不寛容の論理を乗り越える論理
このような他者の害獣化は、もちろん近
と は ど の よ う な も の だ ろ う か。 そ れ を 考
年に始まったことではない。太平洋戦争中、
えるために、突飛に見えるかもしれないが、
日本では「鬼畜米英」と語られ、アメリカ
猛獣や有毒菌との関係において寛容の問題
のプロパガンダ用ポスターでは、日本兵が
を考えてみることは、一つの思考実験とし
アメリカ人を襲うタコやネズミとして表象
て試みるに値するだろう。この思考実験を
された。他者は殺しても構わない、なぜな
試みるうえで最良のテクストは、岩明均の
ら“それ”は人間ではなく、われわれに危害を
マンガ『寄生獣』である。
及ぼす害獣だから―このような認知枠組み
この作品の大よその物語は以下のとおり
の転換が、通常であれば暴力行使の歯止め
である。あるとき、人間を捕食対象とする
となる心理的障壁を解除し、暴力行使を容
寄生生物が現れる。この生物は人間の脳を
易にする。
乗っ取り、他の人間を捕食する(捕食後の
このような他者の害獣化にたいするまっ
「食べ残し」はミンチ殺人の遺体のようであ
とうな対抗手段は、他者が猛獣や有毒菌な
る)
。高い知性と攻撃能力をもつこの寄生
どではなく、尊厳をもった人間であること
生物は人間の言語を習得して操ることがで
を想起させることだろう。しかしこの論理
き、 外 見 的 に も 普 通 の 人 間 の よ う に 見 え
には落とし穴がある。なぜならそれは、人
る。主人公の少年・新一にも寄生生物が侵
カテゴリカル
間と他の動物とのあいだに絶 対的な境界を
入するが、右腕から脳に向かおうとする途
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『 寄 生 獣 』 あるい は 野 生の 寛 容
中で新一が止めたため、寄生生物は脳を奪
ところにある。
うことに失敗し、右腕にとどまらざるをえ
最初、これらの哲学的・倫理学的問いを
なくなる(だからそれは「ミギー」と名付
新一に問いかけるのは、寄生生物たちであ
けられる)
。それ以来、新一とミギーとの奇
る。たとえばミギーは新一にたいし、人間
妙な共生関係が始まり、少しずつ両者の融
はあらゆる種類の生物を殺して食っている
合・混淆が進むことで新一の自己変容が生
が、寄生生物が食うのはほんの1~2種類
じる。そして高度な戦闘能力を獲得した新
であり、人間よりはるかに質素なものだと
一は、母親や友人をはじめ多くの人間を殺
述べる(第3話)
。別の寄生生物・田宮良子
害した寄生生物たちと戦ってゆく。
は、高い知性を持ち、乗っ取った女性の体
寛容論の観点から見た場合、この作品の
を使って人間の子供を出産するなど、さま
問いは「人食い寄生生物にたいして人間は
ざまな試みをつうじて寄生生物が生まれて
寛 容 で あ る べ き か 」 で あ る。 お そ ら く ポ
きた意味を問い続けた結果、新一に人間と
パーも渡辺もロールズも、
「否」と答えるだ
寄生生物との共存を呼びかけ、次のように
ろう。なぜならこの寄生生物たちは、本能
述べる。
「例えば人間と家畜は共存してると
の命じるただ一つの行動原理に従って生き
言えない?もちろん対等ではないわ ブタ
ているのだが、その原理とは「この種(=
から見れば人間は一方的な人(ブタ)食い
人間)を食い殺せ」だからである。他者の
の化け物になるわけだしね」
(第36話)
。さ
自由や生存を否定するような不寛容の排除
らに、人間でありながら特異なエコロジー
を認める点で、三者は(認め方にニュアン
思想を持つがゆえに寄生生物の側に立つ広
ス の 違 い は あ れ ) 一 致 す る だ ろ う。 し か
川は、寄生生物の生存・活動をより円滑に
し、
『寄生獣』がたんにグロテスクな“クリー
するために市長になり、市役所を寄生生物
チャーもの”にとどまらないのは、人食い
の巣窟にする。そして寄生生物の駆逐に来
寄生生物という、絶対に受けいれ難いはず
た特殊部隊にたいして次のような演説をぶ
の他者と不本意ながら共生せざるをえなく
つ。
「人間に寄生し生物全体のバランスを
なった主人公が、その関係をつうじて、人
保つ役割を担う我々から比べれば人間ども
間と他の動物との関係、生命と物質との違
こそ地球を蝕む寄生虫!! いや…寄生獣
い、動物を殺すことや食べることの倫理な
か!」
(第55話、強調原文)
どの問いについて、自問や対話を展開する
人間の命を奪う寄生生物は、通常の人間
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にとってたんなる害虫または害獣にすぎな
生まれてきたのかを自問し続けた田宮良子
い(作品のなかで、特殊部隊や警察は寄生
は、人間と寄生生物との共生という結論に
生物の掃討作戦を「害虫駆除」に喩えてい
たどり着く。この場合の共生とは、人間と
る)
。しかし人間は日常的にさまざまな生物
家 畜 と の あ い だ に あ る よ う に、 < 殺 す ―
を殺し、その肉を食べている。生きるため
殺される><食う―食われる>という関係
に他の生物を殺して食うという点で、人間
を含んだうえでの、差異の相互承認のこと
と寄生生物とのあいだに何ら違いはないし、
である。この考えに触発され、新一もまた、
むしろ人間のほうがさまざまな生物を必要
さまざまな寄生生物との戦いを繰り返しな
以上に殺して食べている。ミギーたちから
がら、異なる生物どうしの関係について自
の問いかけをつうじて、しだいに新一のな
問し続ける。そして最終的に見出した共生
かで、人間の動物にたいする道徳的優位や、
のかたちが、以下である。
寄生生物を“害獣”として駆逐することの正当
性などについての確信が揺らぎ始める。
違う生き物どうし時に利用しあい時に
こうして見ると、新一にとっての寄生生
殺しあう でも理 解りあうことは無理
物が、近世ヨーロッパの思想家にとっての
だ…いや相手を自分という「種」の物
「善良な野蛮人」に近い役割を担っている
差しで把握した気になっちゃだめなん
ことがわかる。すなわち、人間に自らの行
だ 他の生き物の気持ちをわかった気
いを省みさせ、自己中心的な認識を相対化
になるのは人間のうぬぼれだと思う
させる道徳的な鏡としての他者なのである。
他の生き物は誰ひとり人間の友だち
モンテーニュは『エセー』のなかで、
「野
じゃないかもしれない でも… たと
蛮人」と呼ばれている他者をよく理解して
え得体はしれなくとも 尊敬すべき同
みれば、実は他者なりに筋の通った論理に
居人には違いない(第63話)
わ
か
従って存在しており、むしろ野蛮人以上に
野蛮なのは自分たちかもしれない、と述べ
今日一般に語られる共生が、他者との相
て西洋中心主義を相対化したが、モンテー
互理解にもとづく差異の承認であるとすれ
ニュにこの反省をもたらしたのも、野蛮人
ば、ここでは他の生き物との相互理解は幻
カニバリズム
の食人慣習だった。
想として退けられている。他の生き物との
人間の子どもを出産し、寄生生物がなぜ
あいだにあるのは「時に利用しあい時に殺
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しあう」ような関係である。にもかかわら
ままに自明視されるならば、寛容と不寛容
ず、他の生き物は「尊敬すべき同居人」と
とは、自己を正当化し、他者を排除する口
して受けいれられている。そのような論理
実になりかねない。そうならないためには、
「われわれ」を寛容の側に、
「かれら」を不
がどうして可能なのだろうか?
生き物たちは同じ場所に共存し、そのな
寛容の側に位置づけたうえで互いに関わら
か で互 い に不可避 的に関わり あいな が ら、
せる関係とはいったい何なのか、という点
各々がただ生きようとしている。もちろん
こそが問われなければならないだろう。こ
この関わりあいには、<殺す―殺される>
の問いを起動させる契機となるのは、われ
<食う―食われる>といった関係も含まれ
われが寛容の側にあるのは確かなことなの
る。あらゆる生物は、この生命の大いなる
かというモンテーニュ的懐疑である。次の
連鎖のなかにあり、もちろん人間もその例
ように書くとき、渡辺はそのことを認識し
外ではない。自然状態の下の生物の平等―
ていたように思われる。
「我々人間が常に危
この認識を持つことにより、新一は人食い
険な獣であるが故に、それを反省し、我々
寄生生物も含めてあらゆる生物を「尊敬す
の作ったものの奴隷や機械にならぬように
べき同居人」として承認するに至る。
努めることにより、はじめて、人間の進展
ホッブズは、自然状態において「人間は
も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取ら
人間にたいして狼である」と述べ、そのよ
れるだろう」
(前掲論文、263頁)
。
『寄生獣』
うな相互闘争を克服するものとして社会契
は、人食い寄生生物の視点を導入すること
約を説いた。ポパーや渡辺、ロールズの寛
によってこの懐疑を極限まで進める。その
容は、基本的にこの社会契約が共有される
結果、自然状態におけるすべての生物の平
範囲でのものであり、自然状態にある(狼
等という認識に至り、害獣さえも他者とし
のような)人間は対象外とされる。
て承認する。そこに示されているのは、自
「寛容は不寛容にたいして寛容であるべき
然状態の下の野生の寛容である。
か」という問いは、基本的に寛容の側にあ
参考文献
岩 明 均『 新 装 版 寄 生 獣 』 全10巻、 講 談 社、
る(とされる)者が不寛容な(とされる)
2014年
他者 に 直面し た ときに発 する問い であ る。
モンテーニュ『世界の大思想4 随想録<エセー
>』上巻、河出書房、1965年
しかし、
「寛容なわれわれと不寛容な彼ら」
ロ ー ル ズ,J.,『 改 訂 版 正 義 論 』 紀 伊 国 屋 書 店、
という区別が実態を省みられることもない
2010年
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TASC MONTHLY no.477
ポパー , K.,『開かれた社会とその敵 第一部 プ
渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容にたい
ラトンの呪文』未来社、1980年
して不寛容になるべきか?」『寛容について』
筑摩書房、1972年
プロフィール…………………………………………………
まつうら・ゆうすけ 熊本大学 文学部 総合人間学科
社会人間学コース 教授(社会学)。1973年生まれ。京
都大学 文学部卒業。京都大学 文学研究科 文化行動
学系 社会学専修 博士課程 満期退学。専門は社会学、
とくに国際社会学、文化社会学、理論社会学。
著書に『記憶の不 確定性― 社会 学的 探 求 』
( 東信堂、
2005年)、共著書に『帝国以後の人の移動―ポストコロ
ニアリズムとグローバリズムの交錯点』蘭信三編(勉誠
出版、2013年、担当:
「アルキあるいは見知らぬ祖国
への帰還―フランスにおけるアルジェリア戦争の記憶」
401-436頁)『多元的世界における寛容と公共性』芦名
定道編著(晃洋書房、2007年、担当:
「差異の共和国
―フランスにおける多文化主義の受容をめぐって」182
―197頁)
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