8、中藤新田

たぶん村になってから(明治 22 年)付けられた小字名ではないで
しょうか。
さらに榎戸新田は左図に示したように西町地区にも飛び地とし
て広がり、弁天と呼ばれていました。ここはもともと野中新田の区
域ではなく、砂川村(現立川市)と入り組んでいました。ちなみに、
はけ北
弁天八幡は地域内にありますが、榎戸弁財天は砂川村にあります。
榎戸新田のお寺は小川村(現小平市)から引き寺した妙法寺で、
神社は愛宕神社です。
はけ南
今この地域は、第1種低層住宅が立ち並び、住宅街になっていま
すが、南北道路がないため狭い道が通り抜け道路となっています。
特に今の北町地区は上記のような土地の形状や、最寄りの駅が遠い
ため開発は他と比べ遅れていますが、逆に畑が多く残され、のんび
りとした土地柄となっています。
8、中藤新田
中藤新田は、享保 12 年(1727)頃、中藤村(現武蔵村山市)の住人佐兵衛、源蔵等により開発
されました。史料上、中藤新田の名が用いられるのは享保 18 年(1733)で、それ以前は、中藤村
新田と呼ばれていたようです。この新田は、観音寺前の道と国分寺崖線に沿った南北に長い地域で、
今の西町2丁目から5丁目に至る地域です。高木通りを境に、はけ北とはけ南の2小字名を持ちま
す(上図)。
中藤新田分水は崖線の上と道沿いに別れ、戸倉新田に至るものと、
平兵衛新田・ハケ下を通るものがあり、西町5丁目には貴重な「胎内
掘り※」(明治期)の跡がかすかに残されています。
村内の観音寺は、開発
から約 10 年後に中藤村
から神明社とともに引
き寺されました。この
寺は、滝山城(現八王
子市)の守護神として
中藤村に建立されてい
た、と言われています。
今は西町4丁目ハケの
上にはけやき台団地の
一部があり、周辺の開
発はこれによって加速
されたものと思われます。明治以降の貴重な建物として、上図にあるような養蚕棟が現存家屋の一
部として残っていたり、醤油醸造場や富士塚がある(個人宅)のもここ中藤新田だけでしょうか。
※胎内掘りとは…水が出ないこの地区に玉川上水から畑や生活用の水を引くために作った地中用水路
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