第 4部 天武 天 皇 と観 世 音 寺 305 1 観 世 音 寺 の創 建者 (1) 「観 世音寺」 とは 観世音寺は福岡県 の太宰府 にある寺である。 観世音寺は天智天皇が母斉 明天皇 のために創建 した寺であるとい う。 『続日 本紀』は次 のよ うに書 いてい る。 (元 明)和 銅 二年 (709年 )二 月二 日、詔 して曰 く、 「筑紫の観世 音寺は淡海大津宮御宇天皇 (天 智天皇)が 後岡本宮御宇天皇 (斉 明 天皇 )の 奉為に誓願 して基 (ひ ら)い た所な り。年代 を累 (か さ) ね ると雖 も今迄に未だ了 (お わ)ら ず。宜 て駆使丁 (く (よ ろ)し く大宰商量 し しちょう)五 十許人を充て、及び閑月を逐いて人夫を 差 し発 し、専 ら検校を加 えて早 く営み作 らしむべ し」 とい う。 『 続 日本紀』 「和銅 二年 (709年 )」 に元明天皇は詔 (み ことの り)し て 「筑紫 の観世 音寺は天智天皇が後 岡本宮御宇天皇 (斉 明天皇)の 為に創建 した」寺 であると 述 べ ている。 正史である『 続 日本紀』が このよ うに明記 している。 したがつてこれ を疑 う 人は居ない。 「日本の歴史学」 の常識である。 しかしこれは偽 りであろう。前著「古代史の復元⑦『 天智王権と天武王権』」 に 「百済救援」をしたのは 「天武王権」であると書いた。 「天武天皇の父」 と 「天武天皇」が 「百済救援」を しているのであ り、斉明天皇や天智天皇は 「百 済救援」を していない。 したがって斉明天皇や天智天皇は 「筑紫」には来てい ない。 306 「 。 筑紫 は 「天武 王 権 の領 土」で あ る.「 百済救援 」 の ときは 唐 新羅 」 と戦 うた めに天武 王 権 の 本 陣 は 「筑紫 」にあ つた。 「天智 王権 」 で あ る斉 明天皇や 天智 天 皇 は筑紫 に入 る こ とも出来 な いで あろ う。 天智 天皇 が 「筑紫 の 大宰府 」 「 に観 世 音寺 を創 建 す る こ とな どはあ り得 な い。元明 天皇 の 詔 は 天智 王 権 」に よって 捏造 され て い るのではないだ ろ うか。 (2)『 日本書紀』 の 「斉明天皇 と筑紫」 『 日本書紀』は斉明天皇が「百済救援」をしたと書いている。これをもう一 度 見 て見 てみ よ う。 「 660年 」 に百済 は滅 び る。 百済 の復興 を計 る鬼室福信 等 の 要請 を受 けて 斉 明天皇 は 「百済救援 」 を決 意 し、筑紫 へ 向 か う。 (斉 明 )六 年 さ)に (660年 )十 二月 、天皇 、難波 宮 に幸す。天 皇 は方 (ま (鬼 室 )福 信 が乞 う意 に随 い 、筑 紫 に幸 して将 に救 軍 を遣 わ さん と思 い 、初 めて斯 (こ こ)に 幸 して諸 軍器 を備 え る。 『 日本書紀』 斉 明天 皇 は 「百済救援 」を決意す る と「 660年 12月 」 に大和 の飛鳥 か ら 難 波 に来 る。難 波 で 「諸軍器 を備 える」 とあ る。難 波 で 「百済救援 」 の 準備 を してい る。 翌年 (661年 )の 正 月 に斉 明天皇 は筑紫 へ 向 か う。 (斉 明)七 年 (661年 )正 月、御船西へ征 (ゅ )き 、始 めて海路に 就 (つ )く 。御船、大伯海 に到 る。時に大 田姫皇女、女 を産む。例 りて是女 を名付 けて大伯皇女 とい う。御船 は伊豫 の熟 田津 (に ぎた つ)の 石湯行官に泊 まる。 307 二月、御船、還 りて郷大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇は此を改 め長津 とい う。 『 日本書紀』 ここに不 可解 な記 述 が あ る。 「時 に大 田姫 皇女 、女 を産 む」 とあ る。 「百済 救援 」 の た めに 「唐 。新羅」 と戦 う覚悟 を して筑 紫 へ 向か って い る。何 故 、臨 月 の 大 田姫 皇女 を船 に乗せ てい るので あろ うか。戦場 へ 向か う決 死 の 覚悟 は伺 えない。 ま るで遊行 にで も行 くよ うな雰囲気 で あ る。 『大津 (博 多)か ら筑後 の朝倉宮 に遷 り、そ こで崩御 す る。 斉 明天皇 は朔 (斉 明)七 年 (661年 )四 月、或る本に云 う、四月に天皇は朝倉宮 に遷 り居す とい う。 二 月、天皇、朝倉橘広庭宮に遷 り居す。 是時、朝倉社 の木 を斬 り除き、此 の官 を作 る故に、神 は念 り殿 を壊 す。亦宮中に鬼火 を見 る。是によ り大舎人及び諸近侍は病みて死ぬ 者衆 (お お)し 。 (中 略) 七月、天皇、朝倉宮に崩ず。 『 日本書紀』 「661年 7月 」に斉明天皇は朝倉橘広庭宮で崩御する。天智天皇はその後 を引き継 ぎ 「百済救援」を した とい う。 これが『 日本書紀』の記述である。 筑紫 の朝倉橘広庭宮で崩御 した斉 明天皇 のために天智天皇は 「筑紫」に 「観 世音寺」を創建 したという。これが『続日本紀』の記述である。 これ らはその ま ま今 の 「日本 の歴 史」 にな つてい る。 308 2 「天武 王権」 と筑紫 {1) 「筑紫」 の変遷 「 い 『 日本書紀』は斉明天皇が 百済救援」 のために大和 か ら筑紫に来た と書 「 「 ている。 しか し 「筑紫」は 天武王権 の領土」である。 天智王権」の斉明天 皇は筑紫 に入 ることもできない。 「筑紫」は 「天智 王権」 の領土 になったことはない。 それ を確認す るために 「筑紫 の変遷」を見 てい くことに しよう。 五世紀の 「倭 の五王」の時代 か ら 「筑紫」の変遷 を見てい く。 「五世紀 の筑 紫」を支配 して い るのは築後 の 「倭国 (筑 紫君)」 である。 「531年 」 に物部色鹿火は筑紫君 (倭 国)を 伐 って北部 九州 を支配す る。 「筑紫」は物部危鹿 火 の領 土になる。 「552年 」に物部尾輿は物部色鹿火 王権 か ら 「王権」を奪 い、筑前 の鞍手 郡に阿毎 王権 (『 隋書』 の優国)を 樹 立す る。 「筑紫」は阿毎王権 の領土 にな る。 阿毎 王権 は 「筑紫」に 「元興寺」を創建す る。元興寺極楽坊 の禅 室 の建築部 材 は 「 582年 」に伐採 された ヒノキである ことが判明 している。元興 寺 の造 営 は 「582年 」頃 に始ま っている。 「 591年 」に上宮法皇は阿毎王権 か ら独立す る。 この とき上宮法皇は阿毎 「 王権 が独立を阻止す るために討伐隊を派遣す ることを予想 して 「筑紫」に 二 萬餘」の兵を出す。 「筑紫」は一 時上宮法皇 (天 智 王権)が 軍事的 に支配す る。 ところが阿毎王権 の討伐隊は来なかった。 「594年 」に上宮法皇は兵を引き 上げる。 「591年 11月 ∼ 594年 7月 」の間だけ 「筑紫」には上宮王家 の 軍 が滞在 した。 ただ し 「筑紫」を領有 したのではない。 309 「 594年 7月 」 に上宮法皇 は 「筑紫」 か ら 「二 萬餘 」 の 兵 を引 き上 げ る。 「筑紫 」 は阿毎 王 権 に復 帰す る。 阿毎 王 権 は元 興寺 の建 立 を再 開す る。 「 60 9年 」 に元興 寺 は 「筑 紫」 に完成 す る (本 書 )。 「 635年 」 に阿 毎 王 権 か ら 「天武 王権」 に交代す る。 「筑 紫 」 は 「天武 王 権 」 の領 土 に な る。 「645年 」 の 「乙巳の変」 で 中大兄皇子 は蘇我倉 山 田石川 麻 呂の 協力 を得 て蘇我 入鹿 を討 つ 。肥 前 の飛 鳥 での 出来事 で あ る。蘇我倉 山 田石川 麻 呂は上宮 王 家 (天 智 王 権 )の 右 大 臣にな る。 「 649年 」 に蘇 我倉 山 田石川 麻 呂は 「天武 王権 (天 武 天皇 の 父 )」 に よつ て討 たれ る。 蘇 我 倉 山 田石川 麻 呂 の 本拠 地 は肥 前 の 基 難 郡 で あ る。 「天武 王 権 」は蘇我 倉 山 田石川 麻 呂の地 を得 て肥前 の基難郡 まで を領 土 にす る (古 代 史 の復 元⑦『 天智 王 権 と天武 王権』 )。 上宮王家 の本拠地はその隣 の二根郡 の飛鳥 である。 「649年 」に蘇我倉山 田石川麻 呂が 「天武王権」に討たれ ると上宮王家 (天 智 王権 )も 「天武王権」 に降る (本 書)。 「655年 」に斉明天皇 (天 智 王権 )は 「天武天皇の父」 に 中大兄皇子 の長女大田皇女 (13才 )を 献上 して天武天皇の妃にす る。政略結 婚 である。 「天武王権 」 に対す る忠誠の証 として 「人質」 を出 している。 「656年 」に斉明天皇は肥前 の飛鳥を捨てて大和へ移 る。 「天武王権」か ら逃 げ るた めで あ る。 翌 「 657年 」に斉 明天皇 は再 び 中大兄皇子 の 次女持 統 天皇 武天 皇 の 父 に献 上 して天武天 皇 (13才 )を 天 (35才 )の 妃 にす る。大和 へ 移 って も 「上宮 王 家」 は 「天武 王権 」 の 臣下で あ る こ とを示す た めで あ る。 それ らは遺跡 が証 明 してい る。斉 明天皇 の飛 鳥京跡 か ら 「天武 王 権 」の 「冠 位 」 が 書 かれ た木 簡 が 出土 してい る。上宮 王 家 (天 智 王権 )の 家 臣 は 「天武 王 権 」 か ら 「冠位 」 を授 与 され てい る。上宮王 家 が 「天武 王 権 」 の配 下に あ る こ とを 「木 簡 」 が立 証 して い る。 この よ うに 「筑紫 」 は 「 635年 」以来 、 「天武 王権 」 の領 土 で あ る。 310 {2)捏 造 され た 「百済救援」 『 日本書紀』は「百済救援」のために斉明天皇と中大兄皇子は大和から筑紫 に来た と書 いている。 しか し前述 のよ うに上宮王家は 「649年 」 に 「天武 王権」 に降 っている。 「 降伏 した証 として、斉明天皇 は中大兄皇子 (天 智天皇)の 長女 を 人質」に出 して い る。 さらに斉明天皇は 「天武 王権」を恐れて肥前 の飛鳥を捨 てて大和 ヘ べ 逃げている。筑紫か ら肥前まで 「天武王権」の領土 になる。北部九州はす て 「天武 王権」 の領 土である。 「649年 」 に 「天武 王権」 は北部九州 を統 一 し ている。 このよ うな状況にある とき斉明天皇 (天 智 王権)が 筑紫へ兵 を連れて行 くこ とな どはできるはず がない。『 日本書紀』の 「百済救援」は捏造 である (古 代 史 の復元⑦『 天智 王権 と天武 王権』)。 「 の 「天 『 日本書紀』は 「天武 王権」 を抹殺 している。そ のため 天武 王権」 へ 皇」である天武天皇を天智天皇 の弟に している。斉明天皇が肥前 か ら大和 移 った とき天武天皇 も天智天皇 と共に大和へ行 ったことに している。 したがって 大田皇女 も天武天皇 と共に大和に居 ることになる。そのため斉明天皇 が 「百済 救援」のために筑紫 へ 向か うとき船 の 中で大田皇女は娘を生 んだ とい うことに なる。 「天武 王権」 の本拠地は宗像 である。斉明天皇が差 し出 した大田皇女は天武 天皇 とともに 「宗像」に住 んでいる。大田皇女が大和 か ら筑紫 へ 向か う船に乗 るはず がない。 「 べ の 『 日本書紀』の 百済救援」の記事 はす て捏造である (古 代史 復元⑦『 天 智 王権 と天武 王権』)。 311 (3)観 世音寺 と 「天武 王権」 「筑紫 」は 「635年 」か ら「天武 王権 」の領 土で ある。 「 649年 」に 「天 武 王権 」は蘇我 倉 山 田石川 麻 呂を伐 ち 「北部 九州 (筑 紫 、肥 前 )」 を統 一 す る。 「上 宮 王 家 (天 智 王 権 )」 は 「天武 王 権 」 に降 る。 この よ うな状況 にあ る とき 斉 明天皇 (天 智 王 権 )が 「百済救援 」 のた めに 「筑紫」 に兵 を派遣す る よ うな こ とはで きな い。 「百済 救援 」 を決 意 したの は 「天武 天皇 の父」 で あ る。 「661年 」 に天武 天皇 の 父 は本拠 地 の 宗像 か ら筑 紫 へ 移 る。宗像 は 「唐 。新羅 」 と戦 うには土地 が 狭 くて防衛 には不 向 きだか らで あ る。 ところが 「 661年 7月 」に天武 天皇の父 は筑 紫 で崩 御 す る。皇太子 で あ る 天武 天 皇 は直 ちに即位 して 「自鳳 」年 号 を建 て る。 「天武 王権 」 の 「天皇」 と 「年 号」 は次 の よ うにな つてい る。 ○ 「天武 王権 」 の 天 皇 と年 号 ■ ■ 日 ■ ■ 6 命長 6 常色 6 自雉 6 白眉t 6 僧要 35年 一-639年 40年 ‐-646年 初代 47年 -651年 52年 -660年 61年 -683年 (天 武天皇 の 父 二代 目 天武天皇は父の意志 を継 いで翌 「白鳳 二年 ) 天武天皇 (662年 )」 に太 宰府 の宝満 山 に竃門神社 を、筑後 の三井 (御 井)の 高良山に高良神社 を創建す る。 「唐 。新 羅」 と戦 うための 「城」である。 「唐 。新羅」の軍は博多湾 と有明海 か ら攻め て くることを想定 して備 えている (古 代史の復元⑦『 天智王権 と天武王権』)。 「663年 」に 「白村江 の戦 い」 がは じまる。兵 士は 「筑紫」か ら出発 して い る。 「筑紫」を領土に しているのは 「天武王権 (天 武天皇)」 である。 「自 村江 の戦 い」は 「天武王権 」であることがわかる。『 日本書紀』はそれ を 「天 智 王権 (斉 明天皇、天智天皇)」 に捏造 している。 312 「自村江 の戦 い」で天武天皇は 「唐 。新羅」の軍に敗れ る。 「白村江 の戦 い」 以降 の天武天皇 の行動を 「筑紫」を中心に箇条書きにす ると次 のよ うになる。 ○ 「白村 江 の 戦 い 」 以後 の 「筑紫 」 ■ ・ ・「白村 江 の 戦 い」で天武 天皇 は敗 北す る。筑紫 を唐 「 663年 」・ に割譲 す る。 ■ 「 665年 」…唐 は「筑紫都督府 」を設 置す る。天武 天皇 は難 波 (大 阪 )へ 移 る。 ■ ■ 「667年 2月 」・…斉 明天皇 は大和 の飛鳥 で死去す る。 「667年 3月 」… 天智天 皇は即位 す る と直 ちに近江 へ 移 る。天武 天 皇 か ら大和 を明 け渡す よ うに要求 され て いた ので あ ろ う。 天智 天 皇 は近 江 の 大津 に都 を定 め る と天子 とな り、 「中元」年 号 を建 て る。 「天武 王 権 」 か らの独 立で あ る。 「天智 王 権」 の 再興 で あ る。 日本列 島 に 「二つ の 王 権 」 が 併存す る こ とにな る。 「天武 王 権 」 と 「天智 王 権 」 で あ る。 ■ 「 667年 10月 」・…唐 は筑紫都督府 を廃 止 す る。筑紫 は 「天武 王 権 」 の領 土 に復 帰す る。 ■ 「 667年 11月 」・¨天武天皇 は難 波 か ら大和 に入 る。 ■ 「 668年 7月 」… 天武天 皇は 「筑紫 率」を任命 す る。唐 。新羅 の 侵 攻 に備 え るた めで あ る。 ■ 「669年 」・…水城 を築造す る。 「670年 2月 」・…大野城 ・ 基難城 を築造す る。 ■ 「 671年 ■ 12月 」… 天智天皇 が崩御 す る。皇太子 の大 友 皇子 は直 ちに即位 して天子 とな り、 「果安」年 号 を建 て る。 ■ 「 672年 6月 」・¨天武 天皇 は天 智 王 権 を討 ち 日本 列 島 を統 一 す る。 「壬 申の 乱」 で あ る。 (古 代史の復元⑦『 天智王権と天武王権』)よ 313 り 「筑紫」は 「663年 」 の 「自村江 の戦 い」 で敗れた とき唐 に一 時割譲す る が 、 「667年 10月 」に唐は筑紫都督府 を廃止す るので 「筑紫」は 「天武王 権」 の領土 に復帰す る。 このよ うに 「筑紫」は一貫 して 「天武王権」の領土である。 「筑紫」が上宮 王家 (天 智 王権 )の 領土 になったことはない。 したがつて 「天智天皇」が 「筑 紫」に 「観世音寺」を創建す ることなどはできるはずがない。『 続 日本紀』 に 「筑紫 の観世音寺は天智天皇 が斉明天皇 のために創建 した」 とあるのは 「天智 王権」による捏造である。 314 3 観世音 寺 と天武天皇 (1)『 日本紀』 と「天武王権」 「 『 日本紀』は天武天皇が命 じて作らせた 天武王権」の歴史書である。『 日 本紀』の 「天武王権」の時代は 「年号」を用いて記述している (古 代史の復元 ⑦『 天智王権 と天武王権』)。 「天 武 王 権 」 の 天 皇 と年 号 は 次 の よ うに な つて い る。 ○ 「天武 王権」 の天皇 と年号 ■ イ 曽要 ■ 命長 ■ 常色 ■ 自雉 ■ 自鳳 ■ 朱雀 ■ 朱鳥 ■ 大和 635年 ―-639年 640年-646年 647年 -651年 652年 -661年 661年 -683年 684年 -686年 686年 -694年 695年 -696年 初代 天武 天 皇 の 父 (天 武 天 皇 の 父崩 ) 7月 二 代 目 天武 天皇 7月 (高 市 皇子 に譲位 ) 三代 目 7月 高市天 皇 (高 市天 皇崩 ) 「天武王権」の初代 は 「天武天皇の父」であり、二代 目は 「天武天皇」であ る。三代 目は 「高市天皇」である。それぞれ上記の年号を用いて『 日本紀』は 記述 している。 天武天皇の 「年号」は 「自鳳」と「朱雀」である。『 日本紀』の 「巻二十七 ∼巻二十九」は 「自鳳」と「朱雀」年号を用いて記述 されていた (古 代史の復 元⑦『 天智王権 と天武王権』)。 315 (2)『 三 中歴』 と 「天武 王権」 「 『 三中歴』の「年代歴」に「年号」が列挙されている。その中に 天武王権」 の年 号 が あ る。 ○『 三 中歴』にある 「天武 王権」 の年号 ■ 僧要 五年 己未 ■ 命長 七年 庚子 ■ 常色 五年 丁未 ■ 白雉 九年 壬子 ■ 自鳳 二十 三年 辛酉 ■ 朱雀 二年 甲申 ■ 朱鳥 九年 丙戊 対馬銀採、観世音寺東院造 『 三 中歴』 「年代歴 」 『 三中歴』の 「年号」は連続 している。最後は 「文明年号 (1469年 ∼)」 で終わつている。『 三中歴』は 「文明」年間 (15世 紀後半)に 書かれている ことがわかる。 『 三中歴』の 「天武王権」の 「年号」は 「15世 紀後半」まで伝えられてい たことがわかる。 「 一方、 『 日本書紀』に出てくる年号は「大化 (645年 -649年 )」 と 自 雉 (650年 -654年 )」 と「朱鳥元年 (686年 )」 だけである。 しかも 『 日本書紀』は 「自雉」年号を孝徳天皇の年号に している。 「年代」も狂 って いる。 「 白雉 」年 号 は 「天武 天 皇 の 父」 の年 号で あ る。 「天武 天 皇 の 父 」 は 「 66 1年 7月 」 に死去 して い るか ら 「自雉」年 号 は 「 652年 あ る。 316 -661年 7月 」 で 「 「 「 『 三 中歴』 には 白雉 九年 壬子」 とある。 壬子 」は 652年 」 であ る。 「九年」 とは 「壬子 (652年 )」 か ら 「九年」続 くとい う意味 である。 『 三 中歴』 の 「白雉」年号は 「652年 -660年 」 である。 「天武天皇の父」の 「自雉」年号 とは「1年 」の違いがある。それは『 三中 歴』が 「年単位」に記述 しているからである。『 三中歴』は次の 「自鳳」年号 が 「 661年 ∼ 」 か ら始 ま るので 「自雉」年 号 は 「 652年 -660年 」 に終 わ る と して い る。 『 三中歴』の年号は「天武王権」の天皇の在位と一致する。『 三中歴』の年 号 は 正 しい と言 え る。 (3)『 三中歴』 と『 日本書紀』 「 「 「 『 三 中歴』に 自鳳 二十 二年 辛酉」 とある。 自鳳」年号は 辛酉 (6 61年 )」 か ら「23年 間」続 くとい う意味である。『 三 中歴』 の 「自鳳」年 号は 「661年-683年 」 となる。天武 天皇 の 「自鳳」年号 と一致す る。 「 「 「 『 三 中歴』 の 自鳳」年号には 対馬銀採」 とい う説明がある。 白鳳」年 間に 「対馬で銀 を採 る」 とい う意味 である。 『 日本書紀』にその記録がある。 (天 武 )三 年 (674年 )二 月 、対馬 国 司守 忍海 造大 国言 う、 「銀 、 始 めて営 国 に出 る。 即 ち貢 ぎ上 る。 」 とい う。 是 に 由 り、大 国 に小 錦 下 の位 を授 け る。凡そ銀 が倭 国 に有 るの は初 めて此 の 時 に出 (み ) 『 日本書紀』 えた り。 『 日本書紀』は 「674年 」に日本列島で初めて対馬に銀が出たと書いてい る 317 「 674年 」 は 「壬 申 の 乱」 の二年 後で あ る。 天武天皇 の 時代 で あ る。 対馬 の 国 司は銀 が 出た こ とを 「天武 天皇」 に報告 して い る。 「674年 」は 「自鳳」年間 (661年 -683年 )で ある。『 三中歴』は 「自鳳年間に対馬で銀を採る」 と書いている。『 三中歴』 の記録は正 しいこと を『 日本書紀』が証明 している。 「674年 」に銀を献上 した対馬国司守忍海造大国に「小錦下の位を授ける」 とある。 「小錦下」は天武天皇が制定 した官位 である (古 代史の復元⑦『 天智 王権 と天武王権』)。 対馬国司を任命 しているのは天武天皇である。天武天皇 は大和から対馬までを支配 している。天武天皇は 日本列島を統一 している。 (4)『 三中歴』 と観世音寺 『 三中歴』の 「白鳳」年号には「対馬銀採、観世音寺東院造」とある。 「対 馬銀採」は『 日本書紀』から「674年 」であり、「自鳳」年間 (661年 一 683年 )で あ る こ とが判 明 した。 「観 世音寺東 院造」 も 「自鳳 年 間」 で あろ つ。 「自鳳」年間に 「観世音寺 の東院を造る」 とある。 「自鳳」年号は 「天武天 皇」の年号 である。 「筑紫」に 「観世音寺」を創建 したのは 「天武天皇」であ ろ う。天武天皇は父を尊敬 している。 「観世音寺」は天武天皇が 「父」のため に創建 した寺ではないだろ うか。 『 続 日本紀』は 「観世音寺は天智天皇 が斉明天皇のために創建 した」 と書 い ている。 「天智王権」による 「捏造」である。 「捏造」の首謀者は 「光仁天皇」 である。 「光仁天皇 (天 智天皇 の孫)」 は 「天武王権」を抹殺す るために 「天武王権」 の歴史書である『 日本紀』 を 「天智王権」の歴史書に書き変えて『 日本書紀』 に している。そ の とき書き終えたばか りの『 原 。続 日本紀』 も『 日本書紀』 に 318 合わせて書き直 して『 続 日本紀』として完成 させている (古 代史の復元⑦『 天 智王権 と天武王権』)。 。 『 原 続 日本紀』 には 「観世音寺は天武天皇が父のために創建 した」と書い てあったのではないだろうか。 「自鳳」年号は天武天皇の年号である。『 三中歴』は 「白鳳年間に観世音寺 が 創 建 され た 」 と書 い て い る。 観 世 音 寺 を創 建 した の は 天 武 天 皇 で あ る。 319 4 「新・ 観世音寺」 (1)『 日本書紀』 と「観世音寺」 『 三 中歴』により、観世音寺は 「白鳳」年間に天武天皇によつて創建 された ことがわかった。 ところが『 日本書紀』には 「観世音寺」は出てこない。天武 天皇の時代であるから『 日本書紀』の 「天武天皇の巻」に 「観世音寺」の記事 が出てきてもよさそ うに思われる。何故、『 日本書紀』に 「観世音寺」は出て こないのであろ うか。 天武天皇は偉大な父を尊敬 している。天武天皇は『 日本紀』を編纂するとき 「父の業績」を記録するために 「巻二十三∼巻二十六」の 「四巻」を 「天武天 皇の父」に充てている (古 代史の復元⑦『 天智王権 と天武王権』)。 「観世音寺」は天武天皇が尊敬する偉大な父のために創建した寺である。 『日 「 本紀』には当然 観世音寺」に関する記録があったはずである。ところが「天 智王権」は「天武王権」を抹殺するために『 日本紀』を『 日本書紀』に書き変 えてい る。その とき 「観世音寺」の記録はすべ て削除 したのであろ う。そ のた め『 日本書紀』 には 「観世音寺」 の記録が無 いので あろ う。 (2)観 世音寺 の寺封 観世音寺が出てくるのは『続日本紀』からである。 (701年 )八 月 四 日、太政官処分 、 「近 江 国 の志 我 山寺 の 封 は庚 子 年 (700年 )よ り起 こ して計 り二十歳 に満 ち、 観 世 音 寺・ 筑 紫 尼 寺 の 封 は大宝 元年 (701年 )よ り起 こ して計 り (文 武 )大 宝元年 320 五歳に満 つれば並びに これを停止せよ。皆封に准 じて物を施せ」 と ぃ ぅ。 『 続 日本紀』 「観 世音 寺」 と 「筑 紫 の尼寺」 に寺封 が施入 され た とあ る。 しか し 「 701 「 年 ∼ 705年 」 まで の 「 5年 間」 で停 止せ よ とあ る。 一 方 、 近江 国 の志 我 山 寺 の封 は 30年 間」 とな って い る。 何 故 この よ うな差 が あ るので あろ うか。 この 前 日 (701年 8月 3日 )に 「大宝律令 」 が完成 す る。 (文 武 )大 宝元年 (701年 )八 月二 日、三品刑 部親 王 、正 三位 藤 原 朝 臣不 比等 、従 四位 下 毛野朝 臣古麻 呂、従 五位 下伊 吉連博徳 ・ 伊 余 部連馬 養 等 を遣 わ し律 令 を撰 定 さす。 是 に於 い て始 めて成 る。 大略 浄御 原 朝 廷 を以 て准 正 (基 本 )と 為す。例 りて禄 を賜 る こ と差 有 り。 『 続 日本紀』 「観 世 音寺 」の 寺封記 事 は 「大宝律令」が完成 した翌 日で あ る。 「大宝律令 」 の 「太政官処 分 」 には 二項 目が あ り、 「第 一 項」 が 「寺封 に関す る処置 」 で あ る とい う。 「観 世音 寺 と筑 紫尼 寺」は前 日に成 立 した 「大宝律 令 」 の規 定 に よ り 「 5年 で停 止 」す る こ とにな つてい る。 ところが 「大宝律 令 」の施行 は翌年 の 「大宝 二年 (文 武)大 宝二年 (702年 )二 月」で あ る。 (702年 )二 月、始めて新律を天下に頒 (わ か) 『 続 日本紀』 っ。 「大宝律令」 の施行は 「 702年 2月 」 である。 それにもかかわ らず 「観世 音寺 と筑紫尼寺」にはそ の前年 に 「大宝律令」 の規定が適用 されて い る。 「近江国 の志我山寺」 は 「大宝律令」 が完成す る前年 の 「 700年 」 に寺封 の施入 があ り、そ のため 「30年 間」 の寺封にな っている。 321 何 故 、 「観 世音 寺 と筑紫尼 寺」には 「大宝律 令」 の施行 前 に 「大宝律 令 」 が 適 用 され て い るので あ ろ うか。 「近 江 国 の志 我 山寺」 は天智 天皇 が創建 した 「崇福 寺」 で あ る とい う。 天智 天皇 が創 建 した 「崇福 寺」は寺封 を「 30年 間」 と し、天武 天皇 が創 建 した 「観 世 音寺 と筑 紫尼 寺」 は寺封 を 「 5年 間」で停 止せ よ とな つてい る。 文武 天皇 は 「崇福 寺」を優遇 す るた めに 「大宝律令 」が 完成 す る前年 に 「崇 福 寺」に寺封 の施 入 を してい るの ではないだ ろ うか。 「大宝 律 令 」には寺封 は 「 5年 」 と規 定 され る こ とを予 め知 らされ ていたので はない だ ろ うか。 文武 天皇 は 「天武 天皇 の孫 」で あ り、 「天智天皇 の曾孫 」で あ る。文武 天皇 は天武 天皇 よ りも 「天智天皇」 を慕 う 「天智 王権 」 の 人で あ る とい え る。 文武 天皇 は即 位 して も祖 母 持統天 皇 と 「共治」 してい る。 それ は 「不 改常典 」 の 法 に よって で あ る と『 続 日本紀 』 は書 いてい る。 (元 明 )慶 雲 四年 (707年 )七 月十 七 日、天皇 、大極殿 に於 いて 即 位 す。 詔 して 曰 く、 「 (前 略 )藤 原 宮御 宇倭 根 子 天 皇 (持 統天 皇 ) は丁 百 八月 に 、此 の食 国天 下 の 業 を 日並 所 知 皇太 子 (草 壁 皇子 )之 嫡 子 、今御 宇 天 皇 (文 武 天 皇 )に 授 け賜 い 、並 び坐 して此 の 天 下 を 治 め賜 い と との え賜 い き。 是 は関 (か けま )く も威 (か しこ)き 近 江 大 津宮御 宇 大倭 根 子天 皇 (天 智天 皇 )の 、天 地 と共 に長 く 日月 と 共 に遠 く不 改 常典 (改 め ざる常 の典 )と 立て賜 い敷 き賜 え る法 を受 け賜 り坐 して行 い賜 う事 と衆 (も ろ もろ)受 け賜 りて 、恐 (か しこ) み 仕 え奉 りつ ら く と詔 りた ま う命 を衆 は 聞 きた ま え と宣 ぶ 。 (後 略 )」 とい う。 持 統天 皇 は丁 酉 『 続 日本紀 』 (697年 )年 八月 に草壁 皇子 の嫡 子文武 天皇 に譲位 す る。 ところが 「並 び座 して天 下 を治 めた 」 とあ る。持 統天皇 は文武 天 皇に譲位 した 後 も文武 天 皇 と 「共治 」 してい る。 それ は天智天 皇が立て た 「不 改常典 」 の 法 を受 けて行 った こ とで あ る とい う。 322 「不改常典」は 「長屋親 王の即位 を阻止す るために造 られた架空 の法」 であ る。持統天皇 は 「共治」を しなが ら文武天皇に 「天皇位は文武天皇 か ら子 の聖 武天皇に伝 えるよ うに」 と架空の 「不改常典」を持 ち出 して教育 している (古 代史 の復元⑦『 天智 王権 と天武王権』)。 そ の結果、文武天皇は天智天皇を慕 う「天智 王権」の人にな っている。そ の 「 ため文武天皇は「大宝律令」が施行 される前年に天智天皇 が建立 した 崇福寺」 にだけ寺封 を施入 して 「30年 間」は寺封 が続 くよ うに特別な計 らいを してい るのであろ う。 「 一方、天武天皇 が創建 した 「観世音寺 と筑紫尼寺」については 大宝律令」 が完成す ると翌 日には 「観世音寺 と筑紫尼寺」に 「大宝律令」の規定を適用 し ている。天武 天皇が創建 した「観世音寺 と筑紫尼寺」を冷遇す るためであろ う。 す べ て持統天皇 の指図ではないだろ うか。 (古 代史の復元⑦『 天智 王権 と天武 王権』参照) (3) 「新 ・ 観 世 音 寺 」 の 造 営 「701年 」に観世音寺 の寺封が決 められてい る。観世音寺は 「701年 」 には完成 している。『 三 中歴』 には 「白鳳年間に観世音 寺 の東院 を造 る」 とあ る。 「観世音 寺」は 「自鳳年間 (661年 -683年 )」 に完成 している。 ところが 「観世音 寺」に対 して 「早 く造営 しろ」 とい う詔 が出る。 「和銅 二 年 (709年 )」 の 「元明天皇 の詔」である。 (元 明 )和 銅 二年 (709年 )二 月 二 日、詔 して 曰 く、 「筑紫 の観 世 音 寺 は淡海 大津 宮御 宇 天皇 (天 智 天 皇 )が 後 岡本 宮御 宇 天皇 (斉 明 天 皇 )の 奉 為 に誓願 して基 (ひ ら)い た所 な り。 年代 を累 (か さ) ね る と雖 も今 迄 に未 だ 了 (お わ )ら ず。 宜 (よ ろ)し く大宰商量 し 323 て駆使 丁 (く しち ょ う)五 十許 人 を充 て 、及 び閑 月 を逐 いて 人夫 を 差 し発 し、専 ら検校 を加 えて早 く営み作 ら しむ べ し」 とい う。 『 続 日本紀』 観世音寺は 「年代を累 (か さ)ね ると雖 も今迄に未だ了 (お わ)ら ず。」 と ある。観世音寺は完成 していない。造営中であるとい う。 「自鳳年間 (661年 ∼ 683年 )」 「709年 」 に 「駆使丁 (く には観世音寺は完成 している。何故、 しちょ う)五 十許人を充て、及び閑月を逐 いて人 夫を差 し発 し、専 ら検校 を加 えて早 く営み作 らしむべ し」となるのであろ うか。 「観世音寺」は新 しく造営 しているのであろ う。それを示す史料がある。 七 『 大寺年表』である。 和銅 元年 (708年 )戊 申 依 詔太宰府 造観 世 音寺。 又作法 隆寺 『 七大寺年表』 『 七大寺年表』には 「和銅元年 (708年 )、 詔により太宰府に観世音寺を 造る」とある。 「708年 」に観世音寺を造 りはじめている。新 しい 「観世音 寺」であろう。 『 三 中歴』には 「観世音寺東院造」 とある。天武天皇が創建 した観世音寺は 「観世音寺 の東院」 となつている。天武天皇 が創建 した観世音寺 の西側 に新た に 「観世音寺」を造 ってい るので あろ う。 この 「新 しい観世音寺」を 「新・ 観 世音寺」 と呼ぶ ことにす る。 {4) 「新・観世音寺」の完成時期 「新 ・ 観 世音寺 」 はなか なか完成 しない。 そ こで 元正天 皇 は僧 高誓 を遣 わ し て観 世 音 寺 を造 らせ る。 324 (元 正)養 老七年 (723年 )二 月二 日、僧高誓 臣麻 呂)を 筑紫に遣わ し、観世音寺を造 らしむ。 「 (元 正 )養 老 七 年 (723年 )」 (俗 名従四位 上笠朝 『 続 日本紀』 に 「僧 萬誓 を筑紫 に遣 わ し、観 世 音寺 を 造 ら しむ 」 とあ る。 観 世 音寺 は遂 に完成す る。 聖武 天皇 は観 世音寺 に (聖 武)天 平十年 「食封 」 を施す。 (738年 )二 月二十八日、また5年 を限りて観世 『 続 日本紀』 音寺に食封一百戸を施す。 「新・ 観世音寺」 にも 「太政官処分」 の 「寺封に関す る処置」が適用 されて いる。 「5年 を限 り」 とある。 「新・ 観世音寺」に 「寺封 (食 封 一 百戸)」 が 施 され る。 「738年 」 には 「新・ 観世音寺」は完成 してい る。 ところが聖武天皇は さらに 「 745年 」 に玄防 法師を遣 わ して観世音寺を 造 らせて い る。 (聖 武)天 平十七年 (745年 )十 一月二 日、玄防法師を遣わ し、筑 『 続 日本紀』 紫観世音寺を造らしむ。 僧玄防 はその翌年 (746年 6月 )に 死去する。 (746年 )六 月十八 日、僧 玄防 死す。 玄防 は 俗姓 は阿刀氏。霊亀 二年 (716年 )に 入唐 し学問す。唐 の天子は 玄防 を尊び三品に准 じ、紫 の袈裟を着 さしむ。天平 七年 (735年 (聖 武 )天 平十 八年 ) に大使多治比真人広成 に随 い還帰 る。経論 五 千餘巻及び諸仏像 をも ち来 る。皇朝は亦紫 の袈裟 を施 し、之を着せ る。尊びて僧 正 とし、 内道場に安置す。是 よ り後、栄寵 の 日が盛ん とな り、稽 325 (よ うや ) く沙 門 の 行 い を乖 (そ む )く 。 時 人 、 之 を悪 (に く)む 。 是 に 至 り て、徒所 (う つ しどころ=左 遷)に 於いて死す。 僧 玄防 は派遣 された翌年 (746年 6月 『 続 日本紀』 )に 死去 している。 僧 玄防 が死去 した 「 746年 」 に 「観世音寺は完成」 した と一般には言わ れてい る。天智天皇が斉明天皇のために 「661年 」頃か ら 「観世音寺」を造 り始め、 「約 80年 」の歳月を掛けて 「746年 」に 「観世音寺」は完成 した とい う。 これが 「日本 の歴史学」 の解釈 である。 しか し僧 玄防 は 「 745年 11月 2日 」 に筑 紫に派遣 されて 「 746年 6 月 18日 」に死去 している。その間は僅か 「7ヶ 月」である。京 (奈 良)か ら 筑紫 へ移動す るだけでも相当の 日数がかかる。到着 してか らも生活環境 が整 う までにはある程度 の 日数 が必要 である。 「7ヶ 月」では造営の仕事は何 も出来 ないで あろ う。僧 玄防 は観世音寺の造営 のためには何 もして い ないので はない だろ うか。 僧 玄防 が筑紫に派遣 されたのは 「左遷 」である。『 続 日本紀 』は 「徒所 (う つ しどころ =左 遷 )に 於 いて死す」と書 いてい る。観世音寺の造営 のため に僧 玄防 は筑 紫に派遣 されたのではない。僧玄防 は 「左遷 」 のために筑紫 へ移 さ れたので ある。 「観世音寺 の造営 のために」 とあるのは 「左遷 」の 口実であろ う。僧 玄防 は 「左遷 」の身であるか ら「観世音寺 の造営」には関与 していない であろ う。 「745年 」に僧玄防 によって観世音寺は完成 した とい うのは誤 り である。 「749年 」に次 の記事がある。 (孝 謙 )天 平勝 宝元年 (749年 )七 月十 三 日、諸 寺 の墾 田地 の 限 り を定 め る。 大安・ 薬 師 。興福 。大倭 国法華 寺 、諸 の 国分 光 明寺 は寺別 に 一 千町。 大倭 国国分 光 明寺 は四千町。元興 寺 は 二 千町。弘福・ 法 隆 。四天 王・ 崇福 。新薬 師 ・ 建 興 。下野薬 師寺 ・ 筑 紫観 世音 寺 は寺別 に五 百町。 『 続 日本紀』 326 「 749年 」 に観 世音 寺 は他 の 寺 と共 に 「墾 田地」 を賜 ってい る。 他 と同 じ 扱 い を受 けて い る。観 世音寺 は 「 749年 」 には完成 して い る。 僧 玄防 は何 もして い ないのに観世音寺 は完成 してい る。 「新・ 観世音寺」 は僧 玄防 によつて完成 したのではなく、 「 (元 正)養 老七年 (723年 )二 月 二 日」に僧萬誓 が派遣 された ときに完成 したのであろ う。 「 (聖 武)天 平十年 (738年 )に 5年 を限 り観世音寺 に食封一 百戸を施」 した時点で 「新・観世 音寺」 は完成 しているとみ るべ きである。 「観世音 寺」についてま とめると次 の よ うになる。 ○観 世音 寺 の 造営 ■ 自鳳 年 間 (661年 -683年 )に 天武 天皇 が 「観 世 音 寺」を創 建 す る。 ■ ■ ■ 708年 に 「新 ・ 観 世音寺」 の造営 が は じま る。 723年 に僧 萬誓 を派遣 して 「新・ 観 世音寺」 の 造 営 を急 がせ る。 737年 -738年 に僧 高誓 に よつて「新・観 世音 寺」は完成 す る。 天武 天 皇 の観 世音寺 は 「東院」 と呼 ばれ るよ うにな る。 「観 世 音 寺」 は天武 天皇 が創 建 した 「原・ 観 世音寺 (東 院 )」 と 「新・ 観 世 「 音寺 (西 院 )」 か ら成 ってい るので あろ う。 これ らを区別 して 観 世 音寺 」 の 研 究 は進 め るべ きで あ る。 327 5 考 古 学 か らの 検 証 (1)観 世音寺 の創建 瓦 「観 世音 寺」 の創 建年 代 を考 古学 か ら検証 しよ う。 栗原和彦氏は「大宰府史跡出上の軒丸瓦」 (『 九州歴史資料館 研究論集 2 3』 1998年 )の 中で大宰府史跡から出土した瓦について次のように述ベ ている。 ○大宰府 史跡 出土 の 軒 丸瓦 「軒 丸 瓦 の分類 」 A 第 一段 階 瓦 当文様 朝鮮 半 島 三 国時代 、百済 。新羅 系統 の 単弁 蓮華 文軒 丸 瓦 で あ る。 大宰府 史跡 で は、現在 まで五種 類程 が 出土 して い る。 そ の 分布 は、大野 城 跡 、観 世 音寺境 内地 、大宰府 政 庁跡 、月 山東 地 区官衝域 、 日吉地 区官衝域 な どにお よんで い る。 瓦 当紋 様 に よつて大別す る と、錦 弁軒 丸瓦 三 種 え り弁 軒丸 瓦二種 (4, 5)の (1, 2, 3)、 か 二 通 りが あ る。 出土 点数 は極 めて少 な く、大宰府 史跡 全 体 の 軒 丸瓦 の 出土量 か らす れ ば 1パ ーセ ン トに も満 た な い。 B 第 二段 階 瓦 当紋様 は 、複 弁 蓮華文軒 丸 瓦で あ る。 中房 は 一 段 高 く作 り出 され る もの が 多 く、 中房 に 円圏 がつ き、外 区外縁 に凸鋸 歯紋 の あ る もの が 見 られ るの は この グル ー プだ けであ る。 328 畿内、藤原宮 式系 の軒丸 瓦 とされ る老司式軒丸瓦、興福 瓦当紋様 寺式系 の軒丸 瓦 とされ る鴻腹館式軒丸瓦に代表 され るよ うに複弁蓮 華文を内区紋様 とす る軒丸瓦群である。 C 第 二段 階 瓦当紋様 は、素弁・ 重弁 の蓮華文 が主流 とな り、一部、複弁蓮華文 の紋様 を持 つ軒丸瓦 が残 る。 D 第 四段階 瓦当紋様は、素弁 。重弁 と種 々の蓮華文軒丸瓦である。ただ、瓦当 紋様 は隆起線で表現 されたよ うなものが多 く比較的瓦当面 は平坦な ものが多 い。外区には、連珠紋を配置す るが外 区外縁 がないのが普 栗原和彦 氏 通 である。 「 べ 栗 原 和 彦 氏 は この よ うに分 類 して そ の 年 代 」 を次 の よ うに述 て い る。 ○軒 丸 瓦第 一 段 階 小 田富 士 雄 論 考 Bに よれ ば 、 この グル ー プ の初 現 を『 日本 書紀』 の 大野・ 基昇城 の 築城 の 記事 (665年 )に 置 かれ た。 小稿 も、 この グル ー プの 初現期 につ いては異論 はな い。 (中 略 ) 1977-78年 の 大野城跡 主城 原 地 区 の発 掘調 査 で 出上 した 軒 丸 瓦 には 、小稿 の 2, 3,4の 単弁軒 丸瓦 と老 司式 軒 丸瓦 が あ る。 第 一 段 階 。第 二 段 階 の 軒 丸 瓦 で あ る。発 掘調 査概 要 に よれ ば、単弁軒 丸瓦 3, 4は 礎 石建 物 に先行 す る SB064・ 065の 掘 立柱柱 穴 か ら出 土 して い て 、概 報 は 「柱 穴 か ら瓦 が顕 著 に 出土す る こ とにあ った 。 この瓦 は縄 目の 叩文 を全 く交 えず 、格 子 日叩文 、お よび それ を消 した と考 え られ る平 瓦 と、凹面 に の み布 目を残 す 行基葺 の 丸 瓦 で あ る。 」 と報告 して い る。 また、 7の 老 司式 軒 丸 瓦 は、南半第 Ⅱ 期 (礎 石建 物 )の 基壇 回 りの 瓦堆積 中 か らの 出土 と報告 され て い る 329 こ とか ら、単弁軒 丸瓦 が老 司式軒 丸瓦 と時期 的 に分離 され 先行 して 用 い られ た こ とが わか る。 さ らに、大 野城 跡 主城 原 地 区出土 の 単弁軒 丸 瓦 と観 世音 寺や 大宰府 政庁 付 近 で 出上 してい る単弁 軒 丸瓦 は製 作 技 法 の 点 で も近似 してい る。 この こ とか ら、第 一 段 階 の 軒 丸 瓦群 は老 司式 に先行 す る もの と考 え る。 以 下 で老 司式 の成 立 を八世紀初頭 と考 えた こ とか ら、第一段 階 の盛 期 を七世紀 後 半 い っ ぱ い と考 える。 ○軒 丸 瓦 第 二 段 階 老 司式 軒 丸 瓦 の 出現 に始 ま る。 この 軒 丸 瓦 の 出現期 に 関 して 、森郁 夫 は老 司式 軒 丸 瓦 の 瓦 当紋様 が畿 内本薬 師寺・ 藤 原 宮式 軒 平瓦 の 瓦 当紋様 の 系統 を示 しなが らも硬 化 され た状 況 を とらえ「和銅 二 年 (7 09年 )の 督促 令 が観 世 音 寺造営 に深 くかか わ る もの 」 と した。 私 は この 論 考 を支持 す るが、そ の理 由は 30次 にわた る観 世 音寺 の発 掘 調 査 は 面積 に して一 万三 千平方 mを 越 えて い る もの の 、検 出 され た遺構 で 明 らか に七世 紀段 階 の 遺構 と考 え られ る もの は極 く限 られ て い る こ とや 、督促 令 以 降 に 沙爾 萬誓 が別 当 と して 派遣 され た記事 (723年 ))や 玄防 が派遣 された記事 (天 平十七年 (7 45年 ))を 根拠 として、老司式軒丸瓦を八世紀 の もの と考えた。 (養 老七年 ○軒丸瓦第二段階 時期 を想定す ることはかな り難 しい。 (中 略)こ の段階 の軒丸瓦 の 使用 の開始は、第 二段階 との連続性 を考慮すれば、一部を八世紀終 末期にも入 ると考 えるべ きであろ う。従 って、盛期 を九世紀代に考 えたい。 ○軒丸瓦第四段階 10世 紀段階を中心に置 く軒丸瓦 と考える。 330 栗原和彦氏 「老 司式 軒 丸 瓦」 の 出現 は栗 原和彦 氏 のい う 「軒 丸瓦第 二 段 階」 で あ る。 時 期 は 「八世 紀」 で あ る とい う。 「養 老七年 (723年 )」 に僧 萬誓 を大宰府 に 派遣 して 「新・ 観 世音 寺」 を造営 した ときの軒 丸瓦で あ ろ う。 「軒 丸 瓦第 一 段 階」 は 「原 。観 世音 寺」 の軒 丸瓦 で あろ う。栗 原和彦 氏 はそ の 時期 を 「七 世紀 後 半 い っ ぱ い 」 と してい る。 ま さに 「自鳳 年 間 683年 )」 (661年 ∼ で あ る。 小田富士雄氏はこのグループの初現を『 日本書紀』の大野・基難城 の築城 の 記事 (665年 )に 置いているとい う。栗原和彦氏もそれに異論はないとして いる。 大野城・ 基 鼻城 の 築造 は正確 には 「670年 」で あ るが、ここで はほぼ同 じ 時期 とみ て よいで あ ろ う。天武 天皇 は「 668年 」に「筑紫 率」を派遣 して 「 6 69年 」 に 「水城 」を築 き、 「 670年 」に 「大野城 。基難城 」 を築 いてい る。 そ の 時期 の 瓦が 「軒 丸瓦第 一 段 階」 の 瓦で あろ う。 出土 して い る地域 は 「大野 城 跡 、観 世音 寺境 内地 、大宰府 政庁跡 、月 山東 地 区官衛域 、 日吉地 区官衛 域 な ど」 で あ る とい う。 「大野城 跡 」 と 「観 世音 寺境 内地」 か ら 「軒 丸瓦第 一 段 階」 の 瓦が 出上 して い る。 「原 。観 世 音 寺」 の創 建 時期 は 「大野城・ 基難城 」 の 築城 時期 と同 じで あ る こ とがわか る。 「観 世 音寺」 の創建 時期 は 「 670年 」 ころであ る。 「軒 丸 瓦」 がそれ を証 明 してい る。 「670年 」は 「白鳳年間 (661年 -683年 である。『 三中歴』に は 「白鳳年間に観世音寺の東院を造る」とある。それ と一致する。『 三中歴』 )」 が正 しいことを遺跡が証明 している。 ○ 「原 。観世音寺」 の創建時期 ■ 「原 。観世音寺」 の創建 ■ 創建者 670年 天武天皇 331 ころ 一 方 、天智 天 皇 は天武 天皇 を恐れ て 「667年 」 に近江 へ 逃 げて い る。 「観 世音 寺」が創 建 され る時期 の 「 671年 」 に天智天 皇 は近 江 で死去す る。天智 天皇 は 「観 世音 寺 」の創 建 とは関係 が な い こ とが わか る。それ を軒 丸瓦 が 証 明 してい る。 天智 天皇 が 「筑 紫 」に観世 音寺 を創 建 した とい う『 続 日本紀』 の 元 明天 皇 の 詔 は捏 造 で あ る こ とが 「考古学 (軒 丸瓦)」 に よつて立証 され た と言 え る。 「大野城 跡 」と「観 世音 寺境 内地」か ら出土 した 「第 一 段 階 の 軒 丸瓦」は「原 ・ 観 世音 寺」 の創 建 瓦で あ る。 「大野城 ・ 基難城 」 を築 いた 直後 に 「原 ・ 観 世音 寺」 の 瓦 を焼 いて い る ので あ ろ う。 「天武 天 皇 は 自鳳年 間 に観 世音 寺 を創建 した」 とい う私 の説 が正 しい こ とを 「大野城 跡 」 と 「観 世音 寺境 内地」 か ら出土 した 「軒 丸瓦」 が証 明 して い る。 {2) 「観世音寺の東院」 『 二 中歴』には 「自鳳年間」に 「観世音寺東院造」 とある。『 三 中歴』は 1 5世 紀に書 かれている。 「15世 紀」 ころは天武天皇 が創建 した 「原・観世音 寺」は 「観世音寺 の東院」 といわれてい る。 昭和 52年 度 の 「大宰府史跡」第 45次 発掘調査 で 「東院」と墨書 された土 器 が 出土 している。『 大宰府史跡』 (昭 和 52年 度発掘調査概報、 1978年 九州歴史資料館 )は その報告書 である。観世音寺 の推定中軸線か ら東へ約 10 0mの 地域 を発掘調査 している。 報告書を順に見ていこ う。 第 45次 調査は現観世音 寺宝蔵 の東、推定東面築地跡 を含む 一帯 の 約 1,570ポ について行 った。第 43.次 に引き続 いての、観世音寺 伽藍解明を 目的 とした調査であった。 ○検出遺構 332 (中 略) 第 45次 調 査 で は掘 立 柱 建物 1,溝 2,柵 2,池 状遺構 3基 、土墳 。柱 穴多数 な どを検 出 した。 (中 略 ) 大略 1,井 戸 2 3時 期 に 区分 し うる。 第 I期 は 8世 紀 中頃 ∼ 12世 紀初頭 、第 Ⅱ期 は 12世 紀 前 半 ∼ 中頃 、第 Ⅲ期 は 12世 紀 中頃 ∼ 14世 紀 にわ た る遺構 と考 え られ る。 ○第 I期 以前 の遺構 ・ 土墳 SK1270 SD1300よ り古 く、そ の溝 底 の 地 山面 で検 出 さ れ た土墳 で あ る。 ・ 暗渠施 設 SX1310 茶灰 色 土 中途 の層 か ら、 円筒 形 の 土管 を凸凹組 み合 って 3個 体連 な って 南北 に検 出 した。 そ の全長 は 1.37mで 、北側 が 凹部 とな り、水 は南 へ 流れ る よ うに配置 され て い るが、検 出範 囲 が狭 小 で あ るた め に この 暗 渠 に どの よ うな施設 が 伴 うものか 明 らか に しえなか った。 土管 は ほ ぼ同 一 の 長 さで あ るが、1本 の み他 と比 べ てやや 短 く、長 さ 49.2cmを 測 る。 他 2本 は全 長 51.6cm、 cm、 内径 17.3cm、 さは 中央部 で最 も厚 く約 凸部外径 12.4cm、 3cmを 測 る。 凹部 外径 内径 22,7 7.5cm、 厚 (中 略 ) 土管 の 類 例 は 、基 難城 跡 、 四王天経 塚 で発 見 され てい る。 基 搾城 の 49.3cmで 、今 回 出 土 土 管 に類 『 大宰府 史跡 』 (昭 和 52年 度発 掘調査概 報 もの は長 さ して い る。 ) 「第 I期 以前 の 遺構 」 と して 「SK1270」 構 で あ る とい われ てい る。 「 SX1310」 「 SX1310」 さ 49。 3cmで が あ る。 「 7世 紀後 半」 の 遺 の 暗渠 も「 7世 紀後 半」で あ ろ う。 の暗 渠施設 か ら土管 が 出上 してい る。 「基搾城 の もの は長 、今 回 出土 土管 に類 してい る」とある。基難城 と同 じ時 期 に造 られ てい るので あ ろ う。基難城 の 築造 は 「 670年 」 で あ る。観 世 音寺 の創 建 333 時期 が 「 670年 」 ころで あ る こ とを暗渠 (SX1310)か ら出土 した土管 が証 明 して い る。 第 Ⅲ期 (12世 紀 中頃 ∼ 14世 紀 )遺 構 の 井戸 (SE1320)か ら須恵器 が 出土 して い る。 報告 書 は次 の よ うに書 いてい る。 SE1320出 土 土器 ・ 須恵器 井 戸底 か ら検 出 したが流入 品 と思 われ る。 (中 略 )外 底 お よび体部 外側 に墨痕 の うす い 墨書 がみ られ る。 外底 の それ は 「□ 皿 (1) □東 院 」 と判 読 で きる。 (中 略 )体 部 に は 「□□首 」 と墨書 され て 『 大宰府 史跡』 (昭 和 52年 度発 掘調 査概 報 ) い る。 井戸 (SE1320)の 底 か ら須恵器 の皿 が 出土 してい る。そ の皿 の外底 に は 「□□東 院 」 と墨書 され てい る とあ る。 図 6 「□□東 院」 とは 「観世音寺 の東院」のことで あろ う。 「新・ 観世音寺」 の 東約 100mの ところか ら出土 している。ま さに 「東院」である。 天武天皇が創建 した 「観世音寺 (原・ 観世音寺)」 を『 三 中歴』は 「白鳳年 間 に観世音寺東院造」 と書 いてい る。その 「東院」と書 かれた土器 が出土 して い る。 墨書 された土器は「 12世 紀中頃∼ 14世 紀」の井戸 か ら出土 している。 『二 「 中歴』は 「 15世 紀後半」 に成立 している。 12世 紀 ころ∼ 15世 紀」 ころ は 「原・ 観世音寺」は 「観世音寺東院」 と呼ばれていたことを墨書土器が証明 している。『 三 中歴』 の 「自鳳年間に観世音寺東院造」 とい う記録 が正 しい こ とを遺跡が証明 している。 334 図 6 「 東 院 」 と墨 書 され た 土器 すぐ さらに『 大宰府史跡』 (平 成 2年 度発掘調査概報)は 「西院」と墨書された 土師器 の杯 が出上 したことを報告 している。 第 121次 調 査 本調 査 地 は観 世音 寺 宝蔵 の 北 に接 す る場所 で 、 I日 観 世音 寺 の推 定寺 域 内 の 東 北部 にあた る。 (中 略 ) ○茶褐 色 土層 出土土器 ・ 土師器 15. 6cm、 底径 8.4cm、 杯 (1)口 径 器 高 3.9cm。 (中 略 )外 底 部 には 「西 院 」 と墨 書 され る。 (中 略 )な お 、昭和 52年 度 にお こな った 第 4 335 5次 調 査 出土 の 「東 院 」 の 墨書 を もつ 須 恵器 皿 とともに建物 の 呼称 を示 す もの と して 興味深 い。 『 大宰府史跡』 (平 成 2年 度発掘調査概報) 「旧観 世 音 寺 の推 定寺域 内 の東北部」 とあ る。 「新・観 世 音寺 」の 「東 北部 」 で あ ろ う。そ こか ら出土 した土 師器 の杯 には「西院 」と墨書 され て い る。 「新・ 観 世音 寺 (西 院 )」 で あ る。観 世音寺 は 「西院 」 と 「東院 」 と呼 ばれ て い た こ とが遺跡 に よって 証 明 され た。 「新 ・観 世 音寺 」は『 七 大寺年表』に 「和銅 元年 (708年 )戊 申か ら造 る」 とあ る。 「原・ 観 世音 寺 (東 院 )」 の 西 に新 しく造 つてい る。 それ が 「西院」 であ る。『 七 大寺年 表』 の記録 も正 しい ことが遺跡 に よ り証 明 され た。 ○観 世 音寺 の 「東 院」 と 「西院」 ■ 670年 ころ天武 天皇 が創 建 した 「原・観 世音寺」は 「東院 」 と呼 ばオしる。 ■ 708年 か ら新 しく造営 した 「新・観 世音 寺」は 「西 院 」 と呼 ばれ る。 (3)観 世音寺 と 「九州年号 」 観世音寺の発掘調査により、『 三中歴』の「自鳳年間に観世音寺東院造」は 正 しい こ とが 証 明 され た。 『 三 中歴』 が編纂 された 「15世 紀」 ころまで 「東院」は 「自鳳年間」に造 られた とい うことが伝 え られていたのである。 「自鳳」年号は実在 した年号で あるとい うことになる。 「白鳳」年号が実在 したことは 続 日本紀』 か らもい える。 続 日本紀』に 『 『 「白鳳」 と 「朱雀」年号が出て くる。 336 (聖 武 )神 亀元年 (724年 )十 月、詔 し報 (こ た)え て曰く、 「白 鳳以来、朱雀以前は年代玄遠 に して尋問明 らかにす る こと難 しい。 (中 略)」 とい う。 『 続 日本紀』 べ 「 聖武天皇は詔 (み ことの り)し て 白鳳以来、朱雀以前」 と述 ている。正 史である『 続 日本紀』に 「自鳳、朱雀」年号 が記載 されて いる。それ を聖武天 皇が使 っている。 「白鳳」 「朱雀」は実在 した正規の年号である。 「 『 三 中歴』 には 「白鳳年間 に対馬銀採、観世音寺東院 造」 とある。 対馬銀 「 「 「 採」は 「674年 」であ り、 672年 」の 壬 申の乱」 の 2年 後」 である か ら天武天皇 の時代である。「自鳳」年号は天武天皇の年号 とい うことになる。 「自鳳」 「朱雀」は天武 天皇 の年号である。 「自鳳以来、朱雀以前」とは 「天 武天皇 の時代」をい う。 「天武天皇 の時代 武)神 亀元年 は 「661年 ∼ 686年 」である。 「 (聖 か ら見ると「40年 」前 のことである。それ を「白 (白 鳳、朱雀)」 (724年 )」 鳳以来、朱雀以前は年代玄遠 に して」と述べ ている。 「40年 前 の ことは昔 々 のことであるか らよくわか らない」 と述べ ている。 「天武天皇」を無視す る発 言 である。『 続 日本紀』は 「天武王権」を抹殺 していることが聖武天皇 の詔 か らもわかるであろ う。 「自鳳」 「朱雀」は 「九州 午号」 といわれてい る。 しか し 「日本 の歴史学」 は 「九州年号」を認 めていない。 ところが『 続 日本紀』 も、『 三 中歴』 も 「白 鳳」 「朱雀」は実在 した年号 として使 ってい る。遺跡 も 「自鳳」年号 は実在 し 「 た年号である ことを立証 している。 「九州年号」は実在 した正規 の 年号」で ある。 「九州年号」 を採用 しない限 り、 「日本 の歴 史」は解明できない。 337 (4)観 世音寺 と川 原 寺 の創建 瓦 「川原 寺」は 「天武 天 皇 の父 」が 「 655年 」に創建 して い る (本 書 )。 「川 原 寺 か ら軒 丸 瓦 は複 弁 蓮華文 にな る」とい う。「川原 寺」は帰 国 した 遣唐 使 (工 人 )に よって 「新 しい唐 の 文化 」 で造 られ てい る。 「観 世 音 寺」 は天武 天皇 が 「自鳳 年 間 (670年 ころ)」 に創 建 して い る。 軒 丸 瓦 は 「単弁 蓮華 文」で あ る とい う。瓦 の様 式 か らす る と 「複 弁 蓮華 文 → 単 弁 蓮華 文 」 に逆戻 りして い る。何 故 で あ ろ うか。 ○川原寺 と観世音寺の 「創建年代 と軒丸瓦」 創建年代 ■ 川原寺 ■ 観世音寺 655年 670年 虹 丸瓦 複弁蓮華文 頃 単弁蓮華文 「663年 」の 「自村江 の戦 い」で天武天皇は敗北 して筑 紫 を唐 に割譲す る。 「665年 」に唐 は 「筑紫都督府」を設置す る。 この とき天武天皇は難波 へ移 る。 「筑紫 の川原寺」を建立 した工人等 も天武天皇 とともに筑 紫 か ら難波 へ移 つてい るので あろ う。 「667年 3月 」に天智天皇 が近江へ逃げると 「667年 11月 」に天武天 皇は大和に入 る。工人達 も一緒に大和に入 ったので あろ う。 「667年 10月 」 に唐は筑紫都督府 を廃止す る。天武天皇は 「唐 。新羅」 と戦 うために 「筑紫」に城 を築 く。 ○天武天皇 と筑紫の防衛網 ■ 「668年 7月 」 に天武天皇は 「筑紫率」を任命す る。 「669年 」に水城 を築造する。 ■ 「670年 2月 」に大野城 ・基難城 を築造す る。 ■ 大野城 ・ 基難城 を築 造す るのは百済か らの亡命者 で あ る。 00 へ0 ︵0 (天 智 )四 年 (665年 )八 月、達率答体春初を遣 わ して城 を長門国 に築か しむ。達率憶祀福留・ 達率四比福夫 を筑紫国に遣わ して大野 『 日本書紀』 及び橡 の二城 を築か しむ。 「 (天 智)四 年 (665年 )八 月」 と書 いているが、 「67 『 日本書紀』は 0年 2月 」 である (古 代史の復元⑦『 天智 王権 と天武王権』 )。 「達率憶證福留・ 達率四比福夫を筑紫国 に遣わ して大野及び橡 の二城 を築か しむ」 とある。 「達率」は百済 の 「官位」である。達率答体春初・ 達率憶證福 留・ 達率四比福夫 は百済か らの亡命者 である。 この とき 「観世音 寺」 も造 っている。栗原和彦氏は次 のよ うに述べ ている。 瓦 当文様 朝鮮 半 島 三 国時代 、百済 。新羅系統 の 単弁 蓮華 文軒 丸 瓦 で あ る。 大宰府 史跡 で は、現在 まで五種類程 が出土 して い る。 そ の 分布 は、大野城跡 、観 世音寺境 内地 、大宰府 政庁跡 、月 山東 地 区官 衛 域 、 日吉地 区官衝 域 な どにお よんで い る。 さ らに、大野城跡 主城 原 地 区出土 の 単弁軒丸瓦 と観 世音 寺や 大宰府 政庁 付 近 で 出土 して い る単弁軒 丸 瓦 は製 作技 法 の 点 で も近似 して い 栗原 和彦 氏 る。 「朝鮮 半 島 三 国時代 、百済 。新羅系統 の 単弁蓮華文軒 丸瓦 で あ る」 とあ る。 百済 は 「単弁 蓮華 文軒丸 瓦」 であ る。 「大野城 跡 、観 世 音寺境 内地 、大宰府 政庁跡 、月 山東 地 区官衛域 、 日吉地 区 「 官行 域 な ど」か ら 「単弁 蓮華 文軒丸瓦」 が出土 してい る とあ る。 さ らに 大野 城 跡 主城 原 地 区 出 土 の 単弁 軒 丸 瓦 と観 世 音 寺や 大宰府 政 庁 付 近 で 出土 して い る単弁軒 丸瓦 は製 作技法 の 点 で も近似 してい る」 とい う。 339 百済 か らの亡命者 が 「大野城・ 基難城 」を築 いて い る。それ と同 じ製 作 技法 で 作 られ た 「単弁 蓮華 文軒丸瓦」が 「観 世音 寺」か らも出土 して い る。 「観 世 音 寺」 も 「大野城 ・ 基 難城 」 を築 い た百済か らの亡命者 が造 ってい る。 「朝鮮 半 島 三 国時代 、百済 。新羅 系統 の単弁 蓮華 文軒丸 瓦で あ る」 とあ る。 百済 か らの亡命者 は 「単弁 蓮華文軒丸瓦」 を焼 いて 「観 世音 寺」 の屋根 に葺 い て い る。 そ のた め 「観 世音 寺」 の軒 丸瓦 は 「単弁 蓮華 文」 で あ る。 一 方 、 「川原 寺」を造 った工人達 は唐 か ら帰 国 した 遣唐使 で あ る。遣唐 使 は 「唐 」 か ら 「複 弁 蓮華 文軒 丸 瓦」 を学 ん で帰 国 して 「川原 寺」 を造 つて い る。 そ の た め 「 655年 」 の 「川原 寺」 は 「複弁 蓮華 文」 で あ る。 「川 原 寺 」 を造 った 工 人達 はその後 「薬師寺」 を建 立 して い る。 上 野邦 一氏 は次 の よ うに述 べ て い る。 七 世紀 後 半 に な る と川 原 寺・ 薬 師寺 をは じめお そ らく大官 大寺 も隅 三 組 物 で 、 この 後 の 寺院 は隅三組 物 へ と展 開 して い く。 山 田寺 は隅 一 組 物 の 有力 な寺院 で あ り、川原 寺 は隅 三組 物 を用 いた 最初 の 寺 で あ る と考 え られ る。 上 野邦 一 氏 「川 原 寺」を築 い た遣唐使 の工 人達 は 「新 しい唐 の 文化 」を用 いて 「薬 師寺」 を建 立 して い る。 「この 後 の寺院 は隅三組物 へ と展 開 してい く」 とい う。大和 か ら 「新 しい唐 の 文化 」 が普及 してい く。 「観 世音 寺 の創 建 」 をま とめ る と次 の よ うにな る。 ○観 世音 寺 の創 建 (ま とめ) 670年 ■ 観 世 音寺 の創 建 時期 ■ 創 建者 天武 天皇 ■ 工人 百済 か らの亡命者 340 ころ (白 鳳 年 間) 『 続 日本紀』 に 「天智天皇 が斉明天皇のために観世音寺 を創建 した」 とある のは 「天智 王権」に よる捏造である。 「観世音寺」を創建 したのは 「天武天皇」 である。天武天皇 は 「父」 のために 「観世音 寺」を建 立 して い る。 フE 341 お わ りに 「古代 史 の復元 シ リー ズ 」は本書 を もって 終わ る。本書 では主 に 「考 古学」 に関す る問題 を述 べ て きた。 それ で最後 に 「考古学」 にお け る 問題 点 を指摘 してお きた い。 それ は 「文献」 の利用法 で あ る。 「文献」 には 「百済大寺 は火 災 で焼失 した 」 とある。それ に もかかわ らず 「火 災 の痕跡 の な い 吉備 池廃 寺」 を 「百済大寺」 に してい る。 し か も 「発掘調査報告書」 には 「火 災 で焼失 した 」 とい う 「文献 の記録 」 は載せ てい な い 。 これ で は 「考古学」 は 「真 実 を追究す る学 問」 とは 言 えな いで あろ う。 最 近 の 「考古学者 」 の ほ とん どは 「邪馬 壼国 =纏 向遺跡 」説 にな っ てい る。 そ の 根拠 は 「 日本列 島 の 中 で 最 も素晴 らしい 遺跡 が邪馬 萱国 で あ る」 とい うこ とで あ ろ う。 しか し文献 (『 三 国 志 』 )に は 「女 王 「 国 よ り以北 の 国 に つ いては 其 の 戸数・ 道里 を略載 した 」 とあ る。 戸 。 。 。 。 数 と里数」が 記載 され て い るの は 「対海国 一 大国 末慮 国 伊都 国 奴 国・ 不爾 国」 で あ る。邪馬 壼国は これ らの 国 々の 南 にあ る。す なわ ち福 岡市 の南 にあ る。陳寿 は 「邪馬 壼国 の位置」 を明記 して い る。 それ は 「考古学」 か ら検証 で きる。 当時 の 日本列 島 は丸木舟 の 時代 で あ る。魏 の 下賜 品で あ る絹織物 は トラ ック 1台 分 はあ る。 それ を雨 水や海 水 で 濡 らす こ とはで きな い。 末慮 国 に上陸 した魏 の使 い は陸行 してい る。 そ の 後丸木舟 には乗 っていない。邪馬 壼国は 九州 にあ る。 『 三 国志』韓伝 には 「弁辰国は鉄 を出す。韓・ 減・ 倭 は皆之を取 る」 とある。考古学者 は 「 日本列島の倭」 が朝鮮半島へ行 き、鉄 を取 って 来た と解釈 してい る。 しか し文献には 「 (弁 辰 )国 は鉄 を出す」 とあ る。 「鉄鉱石」 である。 「鉄鉱石」は製鉄 を しなければな らない。 と ころが 「考古学者」 は 日本列島で製鉄 が始まるの は 「六世紀後半」 で あ る とい う。 「三 世紀 」 の 日本列 島ではまだ製鉄 は してい な い。 「考 古学者」 は この矛盾 に気 づい ていない。 『 三国志』韓伝 の 「倭」は朝鮮半島南部の 「倭」である。後漢時代の 「倭」は朝鮮半島南部にあり、日本列島にあるのではない。 「韓伝」を 頭 か ら読 めば 明 らか で あ る。 文献 を利 用す る ときは 「拾 い 読 み」 をす るの ではな く、頭 か ら通 して読んで欲 しい。 「考古学」が文献 を利 用す る ときは 「遺跡 」 と 「文献 」 を一 致 させ よ 「 うとす る ときで あ ろ う。 それ に よって 日本 の歴 史」 は決 ま る と言 え る。 「文 献 の解釈 ミス 」 は 「間違 っ た 日本 の歴 史」 を造 る。 「考古学 者 」は肝 に銘 じて欲 しい。 「邪馬 壼国 =纏 向遺跡 」説 は 日本国民に 「間違 つた 日本 の 歴 史」を教 えてい る。 「シ リーズ 1」 を出版 して 「 12年 」 になる。 この間に多 の しい く 新 発見があ った。今後 は 「古代史 の復元 シ リーズ」 を改訂 。増補 してい くつ も りである。
© Copyright 2024 ExpyDoc