北大路魯山人年譜 - 古美術 春鼎庵 しゅんていあん

北大路魯山人年譜(出典:美食もてなしの芸術「北大路魯山人展」朝日新聞社 主催)
吉田耕三(美術評論家)編
1883(明治 16)年
0歳
3月 23 日,
京都府下山城国愛宕郡上賀茂村第 166 番戸(現在の京都市北区上賀茂北大路町)
で北大路清操(せいそう)の次男として生まれる。北大路家は上賀茂神社の社家の家柄で
あり,清操は同じく上賀茂神社の社家の家柄である西池登女(とめ)を妻とし,既に登女
の連れ子清晃(きよてる)を長男として入籍していた。
当時,120 軒あった社家の生活は困窮していて,正月の初詣,5月の葵祭,1年に1ヶ月
しか回って来ない月番での収入以外の生活費は,宮家や御所の仕事を兼務することでまか
なっていたという。
不幸にも清操は魯山人誕生の前年明治 15 年 11 月 21 日に死去していた。
母登女は生まれて来た赤児を房次郎と名付けると直ぐに上賀茂駐在の巡査服部良知夫妻に
托して比叡山を越えた坂本の貧農の家にやってしまった。しかしここでの虐待を見かねた
服部巡査の妻もんは房次郎を上賀茂の自分の家に抱いて帰り育てる決心をする。登女は房
次郎を手ばなすと清晃を伴って上賀茂から去ってしまっていたからである。房次郎が正式
に服部良知・もんの戸籍に入籍されたのは明治 16 年9月6日であり,その戸籍には,その
2ヶ月も前の7月2日に失踪した良知のほか,53 歳の妻もん,年齢不詳の養子茂精,22 歳
の養女やすが家族として記載されている。そしてその後,この茂精とやすが結婚して明治
19 年に朝吉という長男がまた入籍されている。茂精も考査で良知失踪後の上賀茂に駐在し
ていた。後日,晩年の魯山人から再三にわたって聞かされた話によると,彼が物心のつい
た3歳の頃に初めて目にしたものは,5月の陽光の中で真赤に群れ咲いた山擲躊の花の色
であったという。養母の背におぶわれて上賀茂神社裏の神宮寺山へ散歩に行った時の思い
出とのことであるが,この時の感動は子供心にもこれは正に天が自分に下された啓示であ
ると信じ,その後,どんな逆境に遭遇した時でも,自分の生涯は美しいものを追い求める
ためのものだとの信念を貫き通して迷うことも挫けることもなかったというのである。た
だし天からの啓示を受けた時,背負ってくれていた養母は,もんであったかやすであったか
は魯山人も定かではなかった。不幸は続き,やがて茂精狂死のため,やすは義弟房次郎と
実子朝吉をつれて京都上京区東竹屋町の実家一瀬家に戻るが,やすの母の房次郎に対する
虐待は目に余るものがあった。
1889(明治 22)年
6歳
見るに見かねた近所の人々のはからいで,6月 22 日京都上京区東竹屋町油小路東入の長屋
に住む木版師福田武造・フサの養子として入籍,当時 32 歳と 35 歳の武造夫婦,若い徒弟1
人,捨て犬を拾って胴着を着せた室内犬4,5匹とが6畳1間でざこ寝する暮しが始まる。
ここでも房次郎は愛情をかけて貰えず,外に出ると二条城の扉についている乳房金具をい
じり母を慕っていた。だが幸にも丸大町新町の梅屋尋常小学校での4年の義務教育課程は
修了する。
1893(明治 26)年
10 歳
小学校卒業と同時に京都二条鳥丸の「千坂和薬屋」へ丁稚奉公に出されるが,フサが着替え
を持って来てくれないため,何時も五条橋の上から虱をつまんでは捨てていたという。
1895(明治 28)年
12 歳
第4回内国勧業博覧会を京都で見て,竹内棲鳳(後の栖鳳)の日本画「百騒一睡」(四曲一
双屏風)を見て感激する
1896(明治 29)年
13 歳
1月,棲鳳の実家の料亭「亀政」の掛行燈を見に行き泥棒と間違えられるが棲鳳に助けら
れそこの時から強く日本画家を志すようになり,奉公先を飛び出して養家武造のもとに戻
るや京都絵画専門学校への入学を頼むが家が貧しいという理由で許して貰えなかった。や
むなく棲鳳の門に入って修業しようと考えるが,紙,絵の具,刷毛,筆,その他の画材を
買うことが出来ず一時期養父の木版の仕事を手伝う。この頃,同じ町内の田中伝三郎(後
の便利堂社長)の仕事を貰って知り合いとなる
1898(明治 31)年
15 歳
家業を手伝うかたわら,日本画の画材を買うお金ほしさから,当時流行の「一字書き」と
いう書の懸賞に応募してその当初から次々と受賞を重ね,やがてそれまで気付かなかった
書才が自分にあることを自覚する
1899(明治 32)年
16 歳
一字書きの名手として名を売ると共に初めて京都に入って来た「西洋看板」(ペンキ看板)
の仕事にも熱中するようになり,多額の収入を得たので書家への志望を心に決める。親戚
が次々と名のり出て来る
1903(明治 36)年
20 歳
近視のため兵役免除となる。生母登女が東京千駄ヶ谷の四条隆平男爵邸に奉公していると
聞き、書道修業に東京に出る。生母の居所を教えたのは北大路清操の姉で二条通り西洞院
で縫箔の店を構えていた中大路屋寸(やす)である。房次郎が東京に着き最初の宿にした
のは,屋寸の娘かねの嫁ぎ先で東京京橋に住む丹羽半次郎茂正の家であった。茂正は播州二
本松の丹羽長門守の家老職を務めた家柄の士族で,この頃の家業は石版刷りのレッテル類
にアラビア糊を引く「ゴム引屋」であるが,凡そ歪ったことの大嫌いな癇症な性格で知られ
ていた。そしてこの「松清堂ゴム引店」には,既に京都の屋寸の図らいで,北大路登女をは
じめ,深川の鉄工所で働いている清晃や,登女が先夫との間で設け,自分の生家西他家を
継がしていた西池氏雅(国鉄に勤務)も出入りしていたのである。房次郎は丹羽家の世話に
なると,先ず夢に懐いていた生母を四条家に訪ねるが,奉公先にも届けていない息子の突然
の来訪にあわてた登女からは冷淡に扱われて失望する。しかし令嬢駒子の図らいで男爵に
会うことが出来,上京の目的であった書道の二大名家日下部鳴鶴と巌谷一六への紹介状を
書いて貰う。
1904(明治 37)年
21 歳
早速に日下部,巌谷の両書家を訪ねるが,房次郎には聞くと見るとは人違いに思われ,共に
師事を断念する。そしてこの年の 11 月,第 36 回日本美術展覧会の書の部に隷書「千字文」
を出品,これが見事1等賞2席を受賞,宮内大臣子爵田中光顕に買い上げられる
1905(明治 38)年
22 歳
町書家で版下書きの名手岡本可亭(漫画家岡本一平の父で画家岡本太郎の祖父)の京橋の家
に弟子として住み込む。
1907(明治 40)年
24 歳
可亭から福田鴨亭(おうてい)の号を貰い,京橋に書道教授の看板をかかげて独立する。版
下書きの注文が殺到するようになる。
1908(明治 41)年
25 歳
2月,かつて京都の竹屋町に住んでいた頃,将来を約束していた寿司兼仕出料理店「今堀」
の娘安見タミを呼び寄せて結婚,7月に長男桜一が誕生する。この頃,
「東京印刷株式会社」
1字が約3尺5寸四方の大看板を書き上げて想像もしなかった大金を手にする。また鴨亭
に書を学びに来ていた京橋の和本屋「松山堂」(木造3階建て土蔵造りの資産家)の娘藤井
せきと相思相愛の仲となり,このタミとの三角関係を丹羽茂正から手きびしく叱責される。
1909(明治 42)年
26 歳
条家では駒子が二条支英を婿として養子縁組,支英は四条隆英と改名する。しかし隆英は妻
駒子の養育係を鼻にかける登女と折合わないところから,登女は四条家を出されて南青山
に仮住居していた。そして2度目に母を南青山に訪ねて来た房次郎に,その頃朝鮮の京城
で国鉄の機関手として働いているわが子の西池氏雅に是非とも会いたいと願ったところか
ら,房次郎は登女をつれてタミにも茂正にも告げずに朝鮮に赴いてしまったのである。三
角関係のいざこざからただ逃げる思いであったのだろう。
1910(明治 43)年
27 歳
母登女を義兄氏雅に送り届けてから,松清堂にかつて出入りしていて親交のあった坪山六
哉が朝鮮京城の韓国統監府(後の朝鮮総督府)印刷局の仕事をしていたのを頼って印刷局
に傭われ,やがて版下書きの腕前とその能筆を見こまれて,総督府から中央の軍司令部へ
提出する上奏文を清書する仕事に従事していた。3年にわたる朝鮮滞在の間,朝鮮各地は
もとより,満州(現在の中国泉北部地方)を旅行,さらには中国の各地にも足をのばして
古代の石碑や篆刻から書を一心に学び取ることが出来た。
1912(明治 45)年
29 歳(大正元)
帰国の途中,上海で書と篆刻の大家呉昌碩を訪ね,大いなる感銘を受けてこれを今後の指針
とする。日本には初夏に帰り,丹羽茂正にはうまく詫び,再び京橋で書,篆刻の看板を掲
げる。増田義一に認められて「実業之日本」の大看板を刻み,「日本少年」の表紙の字を書
いている。こうして福田鴨亭のファンが次々に現われるが,その中でも江州長浜在住で紙
問屋の主大河路豊吉 (通称紙平)がぞっこん房次郎の才能に惚れ込んで来た。そして長
浜へ招待されることとなる。
タミは房次郎失踪後は桜一をつれて京都の実家に帰ってしまっていた。
1913(大正2)年 30 歳
河路豊吉の招きにより食客として長浜の河路家に逗留した房次郎は,号を鴨亭から大観に
改めて福田大観と名のり,毎日食客としての身分で書や篆刻,刻字看板を彫って暮らしてい
た。それらを豊吉は作品が集まると頒布会を催し近郷の同好者に周旋して楽しんでいた。
大観が豊吉に頼まれて紙問屋の見事な刻字看板「淡海老舗」を制作したのはこの時である。
豊吉との親交によって,豊吉の金銭的に細かい点,何事にも桃山時代の大名気分といった豪
壮さを好む点,美術骨董が好きでそれらに素晴らしく目が利く点などが房次郎にうつされ
たことはいうまでもない。
河路家の次には長浜の近くの室に住む豪商で,二十一国立銀行の頭取をし,東京日本橋芳町
に丸太柴田商店の本店,さらに京都堺町六角堂と大阪南本町に夫々支店を置いて縮緬,ビロ
ードを商っていた柴田源七の食客となっている。この頃,柴田源七の長男寅二郎と京都の日
本画家竹内栖鳳の長女園が結婚して京都に新居を構えたことから,栖鳳がしばしば室の源
七宅に来るようになり,房次郎の大観と出会うことが多かった。この時に栖鳳は大観の彫
る篆刻に驚嘆して,以後栖鳳の号である霞中軒の款印が出来たら幾つでも購入するという
約束をしてくれる。一方房次郎も柴田家で未だ会ったことのない京都の冨田渓仙が描いた
日本画の素晴らしさに驚嘆,渓仙の雅号「燕巣楼」の濡額を刻って送りつけたことから,渓
仙も大観の才能に感じ入り,自分が世話になっている京都の豪商で美術好きの内貴清兵衛
へ房次郎を引き会わす手引きをしてくれた。
内貴清兵衛は京都東洞院御池上ル船屋町に木綿問屋「内貴」を営む 35 歳の豪商で,ことの
ほか書画骨董を好むと共に天才的なひらめきを持つ日本画家や芸術家の世話をすることを
楽しみにしていた。彼の父甚三郎はかつて京都市長を務めたこともある。渓仙により清兵
衛に会った房次郎は自ら進んで内貴家の居候となり,倉庫係と清兵衛の書生を兼務して一
心に励んだのである。清兵衛は子供の頃から何時も食べさせられている料理家の料理を嫌
い,毎日錦市場に出かけて季節の材料を買って帰り,自室にコンロや炭を置いて,自ら好
きなように料理しては食べていた。書生として当然それを手伝わされていたので,何時しか
房次郎はその気分を覚えてしまった。晩年の魯山人がこれと全く同じことをしていたのは,
この時の感化によるものに違いない。この年の暮,京都へ勉強に来た速水御舟や小茂田青
樹と内貴家の別荘である松ヶ崎山荘で出会っているほか,土田麦僊,榊原紫峰,村上華岳
らとも知り合うようになり,そこには自ら天才同志の心の交わりがあったものと考えられ
る。なおこの年,柴田源七の計らいにより京都堺町六角堂に家を借り再びタミや桜一と好き
な時に身を寄せ合うことが出来るようになる。このような時に,房次郎は登女から清晃が死
んだので,福田の籍を出て北大路の籍に相続人として入ってくれと頼まれていた。
1914(大正3)年 31 歳
清兵衛の頼みで京都姉小路通乗洞院の料亭八百三に「柚味噌」の刻字看板を刻って掲げ,こ
れを見た千代田火災京都支店長南莞爾(後の東京火災保険社長)が驚嘆してしまい,内貴家
で房次郎と会う。以後南は熱烈なファンとなって生涯魯山人を援助する。既に大正2年 10
月2日,房次郎は桜一を福田の相続人として自分は北大路の籍に戻るが,この事はタミに
も武造にも内緒にして正月にはクミと桜一と共に清水寺の奥深くに在る泰産寺に六角堂の
家から移り住んだ。山の上にあって子安の塔の傍に建つこの寺は,二階建なので見晴らしも
良く,俗塵を離れて字を書くアトリエとしては申し分がないが,4月から小学校へ通う桜
一には不向きな場所であった。このことでタミと争い「芸術家の妻として失格だ」と一方的
に 11 月に離婚,自らも気に入っていた泰産寺萬松閣から出て再び放浪の旅に出る。この年
の6月,松山堂の娘藤井せきと東京で婚約している。
1915(大正4)年 32 歳
再び江州長浜で河路豊吉の食客となる。既に北大路姓に復籍しているが,なお福田大観を名
のり続ける。豊吉の紹介で7月に福井県鯖江へ窪田朴了を訪ねて行き,ここで約1ヶ月食客
として逗留するが,たまたま朴了の妹つるが経営する料理旅館「東屋」の二階で金沢の細
野燕台に出会い,竹内栖鳳の印譜を夥しく刻っている福田大観に興味を待った燕台から金
沢へ来るように薦められる。燕台は金沢の殿町に店を持ち,半分を浅野セメントの代理店,
半分を美術骨董を商う店にしており,漢学者としての造詣も深い人物であった。福田大観が
細野家へ訪ねて来だのは8月 30 日,服装は白絣の木綿の着物に羊糞色の綿羽織,履き古し
た草履を素足に履いて,手垢で薄よごれたカンカン帽をかぶり,トランク1つ持たずに風
呂敷包みに身の廻りのものをくるんで手にしていたという。燕台の家に食客となった時,
ここでは家族が一緒の食卓で食事をするのだが,その食卓の食器総てが燕台自作の食器で
あったことに驚かされた。それは燕台が,金沢で金沢料や懐石料理で有名な料亭「山の尾」
の主人太田多古,山代温泉の旅館「古野屋」の主人吉野治郎,同じく山代温泉で登窯を持つ
陶芸家の初代須田菁華と特に仲が良く,しばしば煎茶の席を持ち廻って楽しんでいた関係
から,良く菁華の窯場で自作の陶磁器を焼いてもらえたからである。房次郎は,自分が造
った食器に料理を盛って毎日食事することは,何とも贅沢なことだと感心したのである。
そしてその後,燕台に連れられて山代温泉に赴くが,それは大観に山代温泉の旅館の看板を
彫らせようとする燕台の温情からであった。大観が山代温泉で彫った刻字看板は,吉野屋,
白銀屋,あらや,それに須田菁華などの看板で,これは現在でも現地に存在している。山
代温泉に滞在中,大観は須田菁華の窯場に行き自作の陶磁器を遣らせて貰った。そこで発
見したことは,熟練したロクロ師に的確に指示を与えて自分の思った通りに造形をし,その
後も給付や施釉を自分でやって焼いて貰えば,結構自分のものといえる陶磁器が焼けると
いうことであった。初代菁華が大観にこうまで試作を勝手にやらせたのは,染付や上絵の筆
さばきに初めから非凡なものがあることを感じ取り大いに敬服もし興味を持つたからであ
った。また料亭「山の尾」の主人太田多古から大観は金沢料理や懐石料理の奥義を習い,
秘蔵の木阿弥光悦の茶盆を貰っている。これは多古が大観の天才匪を認めての贈り物であ
った。後にこれは「山の尾」と命名される。
1916(大正5)年
33 歳
1月、上京して藤井せきと結婚、北大路魯卿と名のる。5月には金沢を引き上げて京都に戻
り田中伝三郎宅に寄宿するが田中家に子供が生まれ、居づらくなる。
1917(大正6)年 34 歳
上京して神田駿河台紅梅町に二階家を借り,せきと所帯を持って「古美術鑑定所」の看板を
掲げる。この頃,日本画家の款印を盛んに注文を取って彫る。鎌倉に住む田中伝三郎の弟
の中村竹四郎が特に魯卿の料理と美術品に対する造詣の深さに敬服するようになり互に意
気投合する
1918(大正7)年
35 歳
北鎌倉明月谷に家を借り長男桜一,養父母の福田武造夫婦を住まわせる。
1919(大正8)年 36a
5月,中村竹四郎と東京の京橋南鞘町に間口3間,奥行5間,二階建の美術骨董の店「大
雅堂芸術店」を開業する。房次郎夫婦は紅梅町から北鎌倉の家に移る。
1920(大正9)年
37 歳
1月1日「大雅堂芸術店」を「大雅堂美術店」と改称している。 2月 11 日,生母登女死
去。骨董店は初め面白いほど売れて儲かったが,第1次世界大戦後の第1回目の暴落があ
ってからは大恐慌がやって来て,商売はぱったり停滞してしまった。北大路魯卿『栖鳳印
存』を編集して刊行する。
1921(大正 10)年
38 歳
4月,
「大雅堂美術店」二階で会員制の食堂「美食倶楽部」を発足させる。店の古陶磁器に
魯卿手造りの料理を盛りつけた目の覚めるような演出が好評を博す。
1922(大正 11)年
39 歳
7月,正式に北大路家の家督を相続して北大路魯山人を名のる。
1923(大正 12)年 40 歳
美食倶楽部は会員が急速に増え益々盛んとなる。魯山人は食器を自分で造ろうと思い立ち
山代温泉の須田菁華窯でこれを大量に四窯分制作する。その直後,9月1日に関東大震災
発生し「大雅堂美術店」も焼失した。しかし同時に東京中心部の有名な料亭もなくなったの
で,直ぐさま芝公園内で焼け残った「花の茶屋」を買い取って美食倶楽部を再開する。こ
れも竹四郎と共同で事を運び,25 円 10 枚綴りの食券を発行して大盛況であった。しかし高
貴の会員がお忍びとはいえ土間にしつらえた長机長椅子では申し訳ないと,貴族院議員二
条基広,徳川家達や後藤新平(東京市長)長尾半平(東京市電気局長)山岸慶之助(三三
井商事専務取締)らの骨折りで,さらに立派な料亭へ美食倶楽部を移すべく計画がねられ
はじめた。
1924(大正 13)年
41 歳
1月から京都伏見の初代宮永東山窯に赴き青磁の食器を制作する。この折,工場長荒川豊蔵
の指導を受け,これが後に星岡窯へ豊蔵を招く契機となっている。
1925(大正 14)年 42 歳
かねてから目を付けていた東京赤坂山王台日枝神社境内に建っていた「星岡茶寮」は,東
京遷都の明治初めに京都から来た公家達が建てた京都人だけの倶楽部であったが,その後
使用されなくなってからは放置されたまま荒れるに任されていた。そこで美食倶楽部の会
員に星岡茶寮再興資債の募集を行ったところ,募集予定額3万円にもかかわらず2日間で
5万円も集まった。
早速改装にかかったが,料理場も新たに設け自動車の通る坂道をコンクリートで造るなど
開設以前の苦労は並大抵のものではなかった。その結果,3月 20 日,中村竹四郎を社長,
北大路魯山人を顧問兼料理長とし,料理人8名,女中 40 名,その他 10 名に及ぶ「星岡茶
寮」が新しく開設され,これを美食倶楽部の会員約 400 名が利用することとなったのであ
る。昼食が5円,夕食が 10 円であるが,その頃築地の「錦水」が夕食8円をとって高いと
評判であったことを考えると「星岡茶寮」の豪華さが偲ばれる。料理は見た目に美しい火
鉢の盛込みが中心で,美しい給仕の女性がそこからそれを各人に銘々皿に盛って配る方法
が多かった。 12 月,書家として魯山人は『常用漢字三体習字帖』を刊行している。
漆器類は金沢の遊部外次郎(石斎)とその息子の重二が魯山人に協力して制作していた。
1926(大正 15)年
43 歳
「星岡茶寮」で使用する陶磁器の調度品を自ら大量に制作するため,その場所を神奈川県の
北鎌倉(現在の鎌倉市山崎)に決め約 7000 坪の土地を借りる。作陶の職方として山代の須田
菁華窯から山木仙太郎,金沢の中村梅山窯から松島小太郎ら優秀な陶工を引き抜いて登窯
を築かせ,その他工房を設け制作に必要な諸材料を整備させたほか,窯場建設の総監督と
して金沢から恩人の細野燕台を招き,北鎌倉明月谷に住居も贈っている。さらに窯場の近
くには近郷から豪壮な田舎家数軒を買い求めて次々と移築,それらを自らの住居や迎賓の
場に当てるなど私邸構築の態勢を着々と実現に移していった。
1927(昭和 2)年
44 歳
2 月,松島小太郎が去ったので,京都の宮永東山窯から荒川豊蔵一家を招き寄せる。豊蔵の
協力で従来の石ものに加えて美濃系の土ものが加わる。豊蔵は窯場設立の支配人としても
良く働き,窯場もようやく整備されたので,10 月には「魯山人窯芸術研究所星岡窯」の看板
を掲げるまでに至り,いよいよ本格的な作陶を始めた。またそれまで魯山人が蒐集した美
術骨董品を保存陳列して,自ら参考とするのは勿論,来訪する会員や客に見せる「古陶磁器
参考館」も完成,前年来から移築中の天保年間建造の田舎家は母屋に,300 年前徳川家康が
陣屋にしたという田舎家は迎賓用に改築して「慶雲閣」と命名するなど,多忙な毎日であっ
た。さらには数寄屋風茶室「夢境庵」も建てている。 10 月 25 日,せきと別れて島村きよを
入籍,新橋堂の野村鈴助夫妻の仲人で室町時代の神前結婚を挙げる。この年,加藤作助の協
力を得て瀬戸古窯趾の発掘調査を行う。
1928(昭和3)年
45 歳
2月4日,東京府下羽田町椛谷の借家できよが長女和子を生む。5月,魯山人は川島礼一,
荒川豊蔵,福田桜一を連れて朝鮮南部の古窯趾を発掘調査する。そして6月には,星岡窯
へ久邇宮邦彦,同妃両殿下をお迎えし「慶雲閣」で御接待する。同じ月,東京日本橋で「星
岡窯魯山人陶器展」を開催,12 月には再度久邁宮・同妃両殿下を窯場にお迎えしている。
魯山人の卒直な心と,窯場の雰囲気が気に入られたのであろう。
1929(昭和4)年
46 歳
3月,東京日本橋三越で「魯山人陶器展」を開催,10 月には大阪の三越でも「魯山人陶瓷
器展」を催している。その間の4月に金沢と鯖江で陶磁器や小品画の展覧会を行って放浪
時代の知人・友人との再会を楽しんだ。 12 月,田中伝三郎死去。
1930(昭和5)年
47 歳
4月,名古屋の松坂屋で「星岡窯主作陶展」を開催。この展覧会が終った折魯山人は荒川
豊蔵と名古屋の関戸家に伝来している玉川という銘の志野茶盈をゆっくりと手にして見る
ことが出来た。この茶盈は胴に二本の笥が鉄絵で描かれた明らかに向付の離れたものであ
り,魯山人は瀬戸で焼けたもの,豊蔵は美濃で焼かれたものと意見を対立させ,翌日豊蔵は
休暇を申し出て故郷の美濃に向い,魯山人は鎌倉に戻ったのである。豊蔵は志野の古窯趾を
探してその2日後に大萱の牟田洞で偶然というにはあまりにも不思議なことに,銘玉川の
志野茶盈と全く同じ手の向付の破片で二本の笥の絵が描かれたものをしかも最初に掘り出
しているのである。魯山人は豊蔵から美濃古窯趾発見の報告を受けるや,しばしば現地に
も赴き,火萱の牟田洞,窯下窯,弥七田窯,さらには大平窯,姥が懐,笠原等,豊蔵の発
掘調査に対し,金銭的に援助している。そしてこの美濃古窯の発見を主要なテーマとして
タブロイド版の月刊新聞「星岡」を 10 月に創刊すると共に,発掘された夥しい発掘品や破
片を北鎌倉の窯場や「星岡茶寮」に陳列,陶芸関係の学者や作家を招いて報告するなど,
これによって魯山人の名声は一段と高まった。また,
「星岡」12 月号の紙上で当時台頭して
来た民芸運動の提唱者柳宗悦の民芸論を徹底的に鄭楡攻撃して注目された。
1931(昭和 6)年
48 織
6月,星岡茶寮で「古陶美味会」
,大阪三越で「星岡窯魯山人陶器展」を開き,8月には『古
染付百品集』
(上巻)を便利堂から刊行する。
「星岡茶寮」に新館を増設してさらに料理に
も新風を加えると共に,11 月から会員各位に茶寮内で夫々茶席を持たせ,愛蔵の道具で自由
に接待させる「洞天会」や,早朝北鎌倉の星岡窯で行う「洞天会朝飯会」など,次々と新
しい企画を成功させて会員も増えていった。
1932(昭和7)年
49 歳
1月,
『古染付百品集』
(下巻)を便利堂から刊行する。 3月には『魯山人家蔵百選』『魯
山人作陶百影』
(第一輯)を便利堂から刊行。 6月にチャツプリンが「星岡茶寮」を訪れ
て魯山人の料理を楽しんだ。この年の7月から8月にかけて,星岡茶寮では魯山人の発案で
前庭の芝生を利用し「納涼園」を開設する。今日は何処にでもある接待だが,当時は珍し
く,ここだけは会員以外の人も,茶寮に入れない子供たちも自由に出入りしてビールや軽
食,清涼飲料,アイスクリームなどが夕刻から屋外で飲食出来たので,大変な人気を呼ん
だ。 9月号の「星岡」
(第 23 号)からタブロイド版が雑誌のタイプとなる。
1933(昭和 8)年
50 歳
銀座に星岡茶寮の支店「銀茶寮」が開かれる。魯山人は入口から直ぐ調理場が見える構造
にして客の食慾をそそることを考えたが今ではそれが小さな料亭の伝統となっている。荒
川豊蔵の美濃窯発見の功績は完全に魯山人が奪った結果となり,豊蔵は魯山人という人が
わからなくなって星岡窯を去り,以後大萱に寵って志野と瀬戸黒の研究に専念することと
なった。
『魯山人印譜』
『魯山人小品画集』(第1-5輯)を便利堂から刊行する。
1934(昭和 9)年
51 歳
星岡茶寮で各界の名士を集め,
「習書要訣」と題して書道講座を開く。 4月に養母福田フ
サ死去。 9月,上野松坂屋で「北大路家蒐蔵古陶磁展覧会」を開催。
1935(昭和 10)年
52 歳
1月,上野松坂屋で「魯山人作陶百種展覧」を開く。また2月から3月にかけて「北大路
家蒐蔵古陶磁展覧会」を大阪と名古屋で開催する。この頃の星岡茶寮は隆盛を極め,料理
人が 30 名,女中は,5,60 人に増加していた。魯山人は既に 700 名にも及ぶ東京の星岡茶
寮の会員に加え,大阪にも星岡茶寮を設けてさらに会員を増やそうと計画した。そして大
阪市曽根に在る志方氏の旧邸を改築し 11 月に「大阪星岡茶寮」を開設した。そして河路豊
吉の恩に報いるためその息子の孝造を寮頭にしたのである。
1936(昭和 11)年
53 歳
3月に東京と大阪の両星岡茶寮で「魯山人近作鉢の会」を華々しく開催している。そして
7月,大阪の星岡茶寮へ向っていた特急の列車の中で「スグカエレ」の電報を自宅から受
け取った時は,最愛の和子が病気にでもなったものと思い急いで北鎌倉の自宅に戻るが,そ
こできよから見せられたのは,内容証明扱いの社長竹四郎からの解雇状であった。こうな
ったのも数目前竹四郎の身内で星岡茶寮の会計主任田中源三郎を顧問の立場で魯山人が解
雇したことへの報復と,高価な古美術をやたらに参考品として購入し,その支払を茶寮に
廻して来る放漫な経済観念に業を煮やしたからであろう。古くからの会員の主立った人々
が連名で2人の和解を図ったが,互に意地を張って自分の方から頭を下げることを拒んだ
ため,ついに魯山人は北鎌倉の窯場と陶工だけを確保するに過ぎない立場に追い込まれて
しまった。これを人々は星岡騒動と呼び,河路豊古や柴田源七ら近江の豪商達は,琵琶湖畔
に星岡茶寮にも優る料亭を建設してこれを魯山人に運営させてやろうという計画を立てて
いたという。だが魯山人はそれには乗らなかったらしい,しかし魯山人は不当解雇として
竹四郎を告訴し,これは昭和 20 年に示談となって魯山人が勝訴の立場で解決している。
北鎌倉の窯場に籠り,作陶一筋で生計を立てざるを得なくなった魯山人は,当初やや自信
を失いかけていたが,やがて東京火災保険(後の安田火災海上)の南莞爾,勧業銀行の田辺
加多丸,利根ボーリングの塩田岩治,横浜亀楽せんべいの長谷川亀楽,わかもと製薬の長尾
鉄弥夫妻などの協力によって贈答用の注文品を盛んに焼きはじめると,俄かに元気を取り
戻して威張り始める。この年,瀬戸黒の茶盤の研究で自信作が焼けた豊蔵は,魯山人に見て
貰うため北鎌倉の窯場を訪ねて偶然星岡騒動を知る。瀬戸黒の茶碗は魯山人も大いに褒め,
長尾夫妻の頼みもあって約一年間,豊蔵は魯山人の仕事を北鎌倉の窯場で手伝うこととな
る。
1938(昭和 13)年
55 歳
3月 20 日,魯山人窯芸研究所の名で陸軍病院へ慰問用そば 1200 人分を寄進する。6月,
魯山人監修の雑誌『雅美生活』
(隔月)が創刊される。 7月,きよ夫人との協議離婚届が
提出されたが,和子は手許で育てることになる。 12 月,黒田陶苑(黒田領治)が魯山人を
中心とした雑誌『陶心雅報』を創刊する。魯山大作芸展覧会に陶器,書,絵画,濡額を出
品しその多芸さに人々は驚く。かねてから料理研究家として親交のあった熊田ムメと結婚
するも一ヶ月で去られる。
1939(昭和 14)年
56 歳
3月,義姉やす死去。魯山人窯芸研究所は以前にも増して盛況となり,京都から上絵師の
山越幸次郎も加わり,従来からの職方松島文智,藤原正由,井口八郎らに「雅窯会」を結成
させる。一方 11 月,東京日本橋白木屋(現在の日本橋東急)の地下1階に食料品売場白木屋
特選食品館を開設,ここでは魯山人が特に推薦する珍味嘉肴を産地直送で集めて計り売り
をするほか,全国の主婦を対象に「山海倶楽部」の会員を募集した。会員になると,月々おい
しいものが宅送されて来るシステムであり,それら会員には魯山人が監督し雅窯会のメン
バーに造らせた食器の頒布会も行っている。これらの作品は魯山人が箱書きしているので,
しばしば魯山人の作品として間違われていることがある。この年,研究所での上絵金欄手の
技術も向上して,中国の本歌を超える出来栄えのものも焼かれている。
1940(昭和 15)年
57 歳
この頃より作画に精を出すようになる。竹林に雀,武蔵野に月,葡萄図など,軽妙な筆致
の内に独特な風格を漂わしている。 12 月,新橋の芸者で源氏名を梅香,本名は中道那嘉能
と結婚する。
1941(昭和 16)年
58 歳
5月,大阪高島屋で「北大路魯山人近作画と陶器展」を開催。 12 月,最初の妻安見タミが
大阪府下で死去する。
1942(昭和 17)年
59 歳
現時色濃厚となり,窯は一時休業する。那嘉能と別れる。
1943(昭和 18)年
60 歳
専ら漆器の制作に没頭,職方には金沢の遊部重二,山中の辻石斎,名古屋の稲塚芳朗らか
協力する。
1944(昭和 19)年
61 歳
3月,和子は鎌倉女学校を卒業。秋には桜一が召集される。
1945(昭和 20)年
62 歳
5月,東京の空襲で星岡茶寮は焼失する。この前に大阪星岡茶寮も空襲で焼けてしまって
いる。竹四郎との訴訟は細野燕台が仲に入って示談となり,魯山人は北鎌倉山崎の窯場と
蒐集美術品の半分を得ることとなった。桜一は終戦時捕虜となり満州からシペリヤに送ら
れて労役に服していた。
1946(昭和 21)年
63 歳
5月,東京の銀座5丁目あずま通りに自作を直売する「火土火土美房」を開設。山崎の窯場
を「魯山人雅陶研究所」に改称する。
1947(昭和 22)年
64 歳
茶人批判の「或る日の長次郎と利休」を雑誌『陶磁味』に発表する。この頃,進駐軍向け
に電気スタンドを盛んに制作して火土火土美房に並べる。10 月,桜一は復員するも堺にあ
る妻房子の実家に身を寄せる。
1948(昭和 23)年
65 歳
1月,桜一は山崎の窯場に魯山人を訪ね,作陶を手伝う。その後に妻房子も二人の子を伴っ
て山崎に移り住んだが,この年の暮に桜一は大船病院に入院する
1949(昭和 24)年
66 歳
1月 15 日,桜一は死去,京都東山寂光寺に葬る。3月,桜一の未亡人福田房子は二見を伴
って山崎の窯場から去った。4月,金沢の兼六公園成巽閣で「魯山人作品発表会」を開く。
この年2回,岡山の金重陶陽の窯ヘイサム・ノグチと訪ね,備前焼の制作を試みて成功す
る。
1950(昭和 25)年
67 歳
山崎の自宅の庭で転び,腰を痛める。この年,富山の素封家綿貫家と知り合い大量の作品を
納める。
1951(昭和 26)年
6繊
パリのチェルヌスキ美術館で行われた「現代日本陶芸展」で魯山人の「柿の葉文組皿」が
好評を博し,この展覧会が引き続き南仏ヴァロリスの美術館に移動した時も,ピカソが見
に来て魯山人の作品に特に感銘を受けたと伝えられた。3月,東京丸の内の工業倶楽部で
「魯山人展」を開き,4月には鎌倉在住の文士,画家を自邸に招いて観桜会を盛大に催し
ている。
10 月,日本橋高島屋で「北大路魯山人展」を,12 月にはまた東京丸の内の工業倶楽部で
「魯山人小品絵画および書道展」を開くなど,正に八面六腎の活躍というべきであろう。
この年の 12 月,イサム・ノグチ,山口淑子夫妻が魯山人邸の一隅に入居し生活するように
なる。
1952(昭和 27)年
69 歳
1月,病を得て金沢の遊部家に赴き,約4ヶ月の療養生活を送る。5月には岡山の金重陶
陽の窯ヘイサム・ノグチを同行,備前焼の制作をする。 6月には魯山人の個人誌『独歩』
を創刊する。
10 月の初め東京高島屋で「魯山人件陶 25 年記念展」を催し,さらに前田友斎の斡旋で裏千家
において「魯山人作品展」を開き,12 月初めには東京丸の内の工業倶楽部で「魯山人新作研究
展示会」を行っている。
1953(昭和 28)年
70 歳
パナマ船籍の貨客船アンドリュー・ディロン号の喫煙室に,二面の壁画制作を頼まれ,木板,
陶片,鉛板を素材にして漆で接着する「桜」と「富士」の2点を制作した。また2月には
金重陶陽に依頼して自邸に備前焼の窯を築いて貰い,士も取り寄せて成形に没頭し,3月,
窯詰と焼成は藤原建に任せて焼き上げた作品は上々の出来であった。これを4月,東京日
本橋壷中居の画廊で「備前作品展」として発表している。
1954(昭和 29)年
71 歳
ロックフェラー財団の招聘により4月から約2ヶ月半の間,アメリカ,ヨーロッパ各地を
旅行,自作約 200 点を持参してニューヨーク近代美術館ほか各美術館で展覧会や講演会を
催し,作品は総て官公立の美術館に寄贈している。また旅行中ピカソやシャガールとも親
しく会ってきている。
1955(昭和 30)年
72 歳
春と秋の2回,京都美術倶楽部を会場に作品展を,東京高島屋で「第 50 回個展」を催して
いる。
1957(昭和 32)年
74 歳
6月,東京高島屋と大阪高島屋で「新作雅陶展」
,10 月,名古屋名鉄百貨店で「53 回魯山
人作品展(陶芸と書画)
」
,12 月初めに京都美術倶楽部で「魯山人第5回作陶展」を行う。
1958(昭和 33)年
75 歳
5月,東京高島屋で「北大路魯山人作陶展」を開催。この頃から魯山人は体調の衰えを急
激に意識するようになった。6月は松江市公会堂で,10 月には京都美術倶楽部で作陶展を
催したほか,12 月にも東京日本橋の壷中居で「魯山人近作陶芸展」を行っている。大変な
苦業であったと思えるが,しかし外国への旅行で多方面から多額な借金をしていたから,
それを少しでも早く返済しようとして無理をしていたのであろう。
1959(昭和 34)年
76 歳
5月,東京国立近代美術館主催「現代目本の陶芸」展で魯山人の「織部蟹絵平鉢」1点が
拡大されて同展のポスターとなる。この展覧会を観に来た魯山人は,もはや会場を独りで
歩行出来ず,同行した男の肩につかまりながら,ようやく歩いているといった状態であっ
た。 10 月,京都美術倶楽部で「魯山人書道芸術個展」を催したが,その後山崎の自邸に落
着いていた 11 月4日,突然尿閉症となって苦しみ出したので直ちに横浜十全病院に入院す
る。その後,オレンジ大に膨張した前立腺を手術によって摘出してからはしばらく小康を保
っていたが,やがて吐血するようになったので開腹したところ,ジストマによる肝硬変は
もはや手のほどこしようもなく,一応傷口を縫合し後は死を待つばかりであった。 12 月
21 日午前6時 15 分,静かに死を迎える。純真無垢な子供のようにあどけない死顔であった。
22 日,病院の霊安室から出棺した遺体は久保山の火葬場で荼毘にふされて自邸に帰り,12
月 24 日,鎌倉市大船山崎 2348 の自邸で神式による葬儀が盛大にいとなまれた。そして遺
骨は現在,魯山人の故郷である京都市上京区西賀茂鎮守庵 50 番地,西方寺境内の北大路家
の墓に葬られている。