金 堂 回 廊 南 門 小 院 南 東隅建物 中門

平成26年度設置 ( 案 )
資料 11-1
平成27 年度以降設置 ( 案 )
こんどう
かいろう
金堂
しょういん
回廊
ほんぞん
小 院
本尊を安置する中心的なお堂で
回廊とは中庭を巡る屋根付きの
東西 45 m×南北 30 m以上を
す。国分寺には釈迦三尊像を置く
廊下のことです。伊勢国分寺では
小規模な築地塀で区画し院を構成
よう命じられていました。当初の
中門と金堂を結んで,東西 69 m
しています。南辺には掘立柱の棟
規模は東西 30.6m ×南北 21.9 m
× 南 北 51 m の 金 堂 院 を 構 成 し
門が開き,主軸は北側の食堂と一
で,東西幅が狭く古い様相を示し
ていました。中門・金堂と同様に
致します。内部には何らかの基壇
瓦 葺礎石建物であったとみられ,
建物が建っていたようです。塔院
の痕がみられ,その際東西幅を縮
基壇の幅は南北辺で約 7.2 m,東
の可能性を考えましたが,塔らし
められて建て直されたようです。
西辺で 6 mでした。
き基壇は見つかりませんでした。
しゃかさんぞん
ます。地盤改良には大規模な改築
なんもん
こんどういん
かわら ぶき そ せ き たてもの
なんとうすみたてもの
南門
南東隅建物
が ら ん ち
ついじ
いん
ほったてばしら
じきどう
きだん
中門
ほったてばしらたてもの
かいろう
南門は,一辺 180 mの伽 藍地
2 棟の掘 立柱建物が,並列して
中門は,金堂を囲む回廊の南面
を囲む築地塀の南辺に開く礎石建
南北に 9 mの間隔をおき,伽藍地
に設けられた礎石建ち瓦葺きの門
ち瓦葺きの門で,聖と俗の世界を
の南東隅におさまるように建て
です。南門からは約 26 m離れて
厳密に区画していました。基壇は
られています。身舎の規模は東西
います。基壇の規模は東西 19.5
東 西 18 m × 南 北 11.4 m で, 外
15 m×南北 6 mで,南側の建物
m× 11.9m でした。本来これよ
周溝から長方形の四隅を切り落と
は南面に廂 構造を持っています。
り内側は僧もめったに入れない仏
した様な八角形状が認められまし
建替えの痕跡はなく創建期の一時
の聖域とされていました。
たが,地上部分の形状は不明です。
期のみ使われた施設のようです。
ついじべい
きだん
が ら ん ち
も
や
ひさし
資料 11-2
既設置分
こうどう
講堂
講堂は仏教の講義や説教が行われる建物です。最も保存状
きだん
態が良く,旧地表から約 0.3 mほど基 壇が残っていました。
講堂基壇
中階段
そせき
基壇上には礎石と思われる石が数点ありましたが,原位置を
保ってはいませんでした。基壇の規模は東西 33.2m ×南北
ほりこみちぎょう
21.2m です。基壇の掘込地業(地盤改良)は旧地表下 0.3 m
そうこん
東階段
き だ ん げしょう
前後施されています。創建期には基壇化粧(外装)の資材と
せん
れんが
2段積み上げられた状態が確認されています。しかし,改修
の際に瓦や塼を混ぜて積み上げたものに変更されたようです。
現在地⇒
台形塼の並び
して伊勢国分寺跡独特の台形塼(断面台形の煉瓦)が用いられ,
基壇の南面には階段が3箇所に取り付けられていました。
それぞれ幅 2 m×長さ 1.8 mです。この階段の長さから講堂
基壇の本来の高さは 1 mを越えるものであったと推定されま
す。基底部は同じように台形塼が並べられていました。
南東隅
講堂跡の発掘状況(東から)
資料 11-3
ついじべい
そうぼう
築地塀・北門
こんろう
僧坊
どうとう
軒廊
伊 勢 国 分 寺 の堂 塔 の 周 囲 180
僧坊とは僧侶の居住や休息のた
m四方は,高さ 4 ~ 5 mの瓦 葺き
めの建物です。通常は長屋状で内
の築地塀(層状に土を突き固めて
部は細かい房(部屋)に区切られ
造った土塀)で囲われていました。
ていました。一般に国分(僧)寺
この地点は金堂・講堂など主要
には 20 人の僧侶が配置されてい
建物の中心軸上に乗っており,南
ました。東西 72m ×南北 9 mの
門に相対する瓦 葺礎石建ちの北門
基壇上に建てられた長大な瓦 葺
があったとみられます。
礎石建物です。
かわら ぶ
こんどう
こうどう
かわらぶき そ せ き
じきどう
ぼう
かわらぶき
下状の施設で,軒廊と呼ばれます。
規 模 は 延 長 18m × 幅 6 m で す。
かわら ぶき
低い基壇の上に建てられた 瓦 葺
そ せ き たてもの
礎石建物であったとみられます。
そ せ き たてもの
ほくとういん
食堂(推定)
そうぼう
僧坊と講堂を南北に結ぶ渡り廊
ほくとういん
北東院
北東院西門
つ い じ べい
食堂とは僧侶に食事を提供する
院とは塀などで区画された施設
北東院を区画する築地塀の西辺
給食施設です。壺地業(礎石下の
を意味します。国分寺の北東部は,
の,講堂北面の延長線上にあたり
地盤改良)跡が並び東西 21m ×
平安時代初め頃の改修の際,創建
ます。ここでは,3 mの間隔をお
南 北 9.3 m の 礎 石 建 ち の 建 物 で
期からある小院(塔院?)を廃止
いて 2 基の柱穴が見つかりまし
あったようです。周囲には土壙(ご
して新たに築地塀により食堂など
た。掘立 柱 式の小規模な棟門(2
み穴)がたくさんあり,土師器の
を区画したようです。
本柱の簡易な門)とみられます。
甕・製塩土器など炊事に関わる遺
この北東院の南辺中央には瓦 葺
通用口の役割を果たしていたよう
物や炭・焼土が出土しています。
礎石建ちの門があったようです。
です。
つぼ ちぎょう
そ せ き
どこう
は
かめ
せいえん ど
じ
き
き
そうこん
しょういん
つ い じ べい
そせき
じきどう
かわらぶき
こうどう
ほったてばしら
むなもん