民族と国家 人文・語学・国際系ゼミ 第1章 第1節 2214 熊田嵩大 はじめに テーマ設定の理由 現在世界では多くの場所で紛争や争いが起こっている。それらの原因には宗教上 の立場の違い、民族の違いなど数多くのものが挙げられる。特に多くの民族を抱えた 多民族国家ではそのような対立や解決にはどのように対処していくのか、また、この 問題は現在進んできている国際化における問題を考える上でも生かすことができると 考えた。これらの理由からこのテーマを設定し、具体的な国家の例やそれらの国家の 歴史的背景を考えて研究した。 第2節 研究のねらい 古い時代から近代までの多民族国家の歴史について調べ、その国が多くの民族に対 しどのように対処したか調べる。そうすることで現代の多民族国家に限らず多くの文 化や違った慣習を持った現在の社会に関する理解を深める。 第3節 研究の内容と方法 多民族を抱えた世界史上の国家の歴史を文献やインターネットを使っていくつかま とめる。国家については大まかな歴史、どのような民族を持っていたか、それらの民 族にどのような対応をとったかなどをまとめる。 具体的には多民族国家としてあげられる近世、近代のヨーロッパの国家であるオー ストリア、旧ユーゴスラヴィアといった他民族に関しての問題を抱えた国家、ごく最 近の代表的な多民族国家アメリカについて世界史を踏まえてまとめていく。 第2章 第1節 研究の展開 多民族国家とは 1、多民族国家の内訳 多民族国家とは国家が複数の民族により構成されている国家である。一口に多民族 国家言っても多くの種類がある。近代のオーストリア=ハンガリー帝国など国家を支 配していた民族が領土を広げていく過程で周辺民族を取り込んで国家を形成していっ た例、支配民族が存在せず古くから多民族が共存していたモザイク国家などがある。 最近ではアメリカ合衆国のような移民によって国家が成り立ち多民族になった国家も ある。そのため多民族国家形成には歴史的背景が多くからんできている。 2、多民族国家の問題点 多民族国家は文字通り多民族が共存しているため、民族紛争が起こりやすい。歴史 1 上では、宗教的対立や多数派民族と少数派民族の対立が激しくなり紛争に発展する例 もある。例をあげれば旧ユーゴスラヴィア内戦などがある。このような事態に対し歴 史上では自治権を拡大し不満を和らげたりする対策がとられた。民族同士が対立する 問題は移民同士の相互理解の不足などでも挙げられる。 第2節 具体的な多民族国家 ここでは具体的な多民族国家の例として近現代の国家を取り上げる。一つは近代の 多民族国家の代表例ともいえるオーストリア=ハンガリー帝国、現代で話題となった ユーゴスラヴィアを取り上げる。 1、 オーストリア=ハンガリー帝国 オーストリア=ハンガリー帝国は 1867~1918 年まで存在したヨーロッパの帝国であ る。ヨーロッパの中では当時のロシアに次ぐ面積を持ち現在のオーストリア、チェコ、 スロバキア、ハンガリーなどにまたがる巨大な帝国だった。オーストリアのドイツ人 をはじめ、ハンガリーのマジャール人、チェコのチェック人、スロバキアのスロバキ ア人など、多くの民族を支配する多民族国家であった。 (図:1870 代のヨーロッパ) ロシア帝国 ドイツ帝国 イギリス フランス共和国 オーストリア=ハンガリー帝国 オーストリア ハンガリー イタリア王国 オスマン帝国 スペイン王国 後のユーゴスラヴィア ギリシア 2 (表)オーストリア=ハンガリー帝国の歴史概要 1789 フランス革命 この後ナポレオンによるヨーロッパ支配 1804 ハンガリーを併合しオーストリア帝国が成立 1815 ウィーン会議 1848 フランスで二月革命、オーストリア帝国でもその影響で三月革命がおき外 ・・・・・A 相がイギリスに亡命 帝国内のベーメンでチェック人の民族運動 ・・・・・B コシュートの指導により帝国内のハンガリーでマジャール人の民族運動 1859 イタリア統一戦争に敗れ領土を失う 1866 普墺戦争に敗れる 1867 オーストリア=ハンガリー帝国成立 ・・・・・C ハンガリーと同君連合の姿勢をとる ・・・・・D 1908 クロアチア人、セルビア人などの住むボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合 1914 サラエボ事件、第 1 次世界大戦勃発 1918 第 1 次世界大戦に敗戦、オーストリア=ハンガリー帝国解体 ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリアから独立 この帝国はハプスブルク家という家が作っていたオーストリア帝国が母体である。 オーストリア=ハンガリー帝国が生まれる以前のヨーロッパは王国・帝国の多い状況 が続いていた。オーストリアは中世からの名家ハプスブルク家がドイツ人をはじめ、 ハンガリーのマジャール人、チェコのチェック人、ポーランド人など多くの民族を支 配していた。支配を受けていたチェコでは民族意識が以前から強くあり、これにより 長年にわたってオーストリアへの民族運動や自由主義運動が盛んに行われていた。そ の後、ヨーロッパの民族意識は 1789 年のフランス革命でフランスの絶対王政が倒され たこと、その後のナポレオンによるヨーロッパ支配によって芽生えていった。 このような民族主義や自由主義運動の高まりを抑えて絶対王政を維持するために、 ヨーロッパ各国は 1815 年オーストリアのウィーンでウィーン会議を開いた。ここでは フランス革命やナポレオン支配により乱れたヨーロッパをどう再編するかが話し合わ れた(表中A) 。これによりヨーロッパはフランス革命前の状態に戻り民族運動は抑え られたかのようにも見えた。これをウィーン体制という。 しかしウィーン体制は長くは続かなかった。1848 年、フランスでウィーン会議後再 び敷かれていた王政が倒される。これを二月革命と呼ぶが、これがウィーン体制が崩 壊する原因になった。この革命により各国に革命が飛び火しウィーン体制は保たれな くなった。オーストリア帝国内でもチェコのチェック人の運動やハンガリーのマジャ ール人の運動などが起こった(表中B) 。 3 他国でも民族主義の機運が高まりドイツやイタリアでは民族で国を統一しようとい う動きが活発になった。その障害となっていたオーストリアに二国はイタリア統一戦 争と普墺戦争を仕掛け、オーストリアは敗北した(表中C) 。この敗北ののちに、オー ストリアは国内のスラブ系民族が独立してしまうことへの危機感を募らせていった。 そこでオーストリア帝国は、国内の人口比率第2位ハンガリーであるマジャール人の 不満を和らげるために政策を打ち出した。それは支配下にあった国ハンガリーを別の 国家とみなし、オーストリアとハンガリーで連合国家を作るというものであった。こ れにより 1867 年ハンガリーとの連合の国オーストリア=ハンガリー帝国が成立する (表中D) 。この国の国家体制は同君連合と呼ばれる体制であった。それは一人の皇帝 のもとにオーストリア政府とハンガリー政府の二つの政府があり、各政府が会議や大 臣などを共有して政治を動かす、というものであった。この政策には、独立志向の強 いハンガリーのマジャール人を繋ぎ止めておくため彼らの不満を和らげようとする意 図があった。オーストリア=ハンガリー帝国内でのこの体制をアウスグライヒ(妥協) 体制という(図を参照) 。しかし実情はオーストリアの方が力が強かったうえ、ハンガ リー以外の多数の民族は依然として抑圧されて自治も認められなかった。この国家体 制は 1918 年にこの帝国が解体されるまで続いた。 (図)アウスグライヒ体制 オーストリア皇帝=ハンガリー王 (ハプスブルク家) 共 通 閣 議 オーストリア政府 ハンガリー政府 共通大臣(外務・陸軍・大蔵) 帝国議会 共 通 会 議 オーストリア代表 60名 王国会議 ハンガリー代表 60名 4 この国家は多民族国家である問題を解決するために連合国家として国家を形作る方 策をとった。しかし多数派民族を優先し少数民族のことを省みなかったためにあまり 長続きせず、第一次世界大戦により崩壊してしまった。この戦争後、この国だけでな く多民族を支配していた国家が多数崩壊し多くの民族国家が独立することになる 2、 ユーゴスラヴィア 第一次世界大戦後オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国が崩壊し多くの独 立国家が誕生した。長年の民族運動が成就したのだ。そんな中これらの国から独立し た国々が連合を組んで成立した多民族国家がユーゴスラヴィアである。この国の体制 は第一次世界大戦後独立した初期のユーゴスラヴィア王国(1918~1945)時代、第二 次世界大戦後のユーゴスラヴィア連邦人民共和国の社会主義時代(1945~1991) 、ユー ゴスラヴィア内戦(1991~95)後のユーゴスラヴィア連邦共和国時代(1992~2003) に分かれる。主な民族としては、セルビア人、モンテネグロ人、アルバニア人、クロ アチア人、マケドニア人、スロヴェニア人、ムスリムがいる。 ユーゴスラヴィアの歴史 <クロアチア> <セルビア> 10 世紀 クロアチア王国成立 12 世紀 ハンガリー・ハプスブルク家 の支配 14 世紀 大セルビア王国の繁栄 1389 コソヴォの戦いでオスマン帝国 に敗北 オスマン帝国の支配 1878 セルビア王国として独立 1914 ――――――――――第一次世界大戦―――――――――――― 1918 オーストリア=ハンガリー帝国崩壊 セルブ=クロアート=スロヴェーン王国建国 (1929 ユーゴスラヴィア王国と改称) 1939 ――――――――――第二次世界大戦―――――――――――― ドイツ軍、イタリア軍による国土占領を、ティトーがほぼ独力で退ける 1945 亡命していたユーゴスラヴィア国王の帰国を拒否 ユーゴスラヴィア連邦人民共和国成立 5 1980 ティトー死去、集団指導制へ 1991 ユーゴスラヴィア内戦、連邦解体 クロアチア、スロヴェニア、マケドニア独立 1992 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立 残ったセルビア、モンテネグロでユーゴスラヴィア連邦共和国(新ユーゴ 連邦)建国 2003 新ユーゴ消滅、連合国家「セルビア・モンテネグロ」が成立 2006 セルビア・モンテグロ分離 ユーゴスラヴィアの構成 スロヴェニア クロアチア セルビア ボスニア・ ヘルツェゴヴィナ モンテネグロ コソヴォ マケドニア ユーゴスラヴィアはセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、ムスリムなど多 様な宗教、民族性を持った国が集まった国であり、体制はなかなか安定しなかった。 第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国支配から独立した地域と、オスマ ン帝国から独立した地域とで連合し、初めて独立した時は「セルブ=クロアート=ス ロヴェーン王国」という国名の王国として独立をした。日本語に訳せば「セルビア人・ 6 クロアチア人・スロヴェニア人の王国」である。この呼び名は短期間しか使われなか った。 この国は元々セルビアを主体として成立した国であるので、セルビア人が他の民族 よりも優位に立つ結果となった。国王もセルビア王家カラジョルジェヴィチ家から出 されており、他民族は周辺の地位に追いやられて、政治的な実権はセルビア人が握っ ていた。また、地域によってはかつてオーストリア=ハンガリー帝国に支配されてい たころの税制が引き継がれ、ユーゴスラヴィアの税より重い負担を強いられる地域も あった。国内の民族の不満は高まる一方であった。 そんな中、カラジョルジェヴィチ家でセルブ=クロアート=スロヴェーン国王のア レクサンダル1世(1888~1934)は、特に民族運動の強かったクロアチアを抑えるた めセルビア人専制体制を強めた。民族対立により議会が機能しなくなると、彼は憲法 を停止し、国王の独裁体制を敷いた。国名をユーゴスラヴィア王国とし、国内の地域 区分を歴史的な区分から変更するなど、中央集権的な性格を強めた。つまり、国内の 多くの民族に、それぞれの民族のつながりを重視せず、ただ「ユーゴスラヴィア人」 としてのみ行動するよう要求したのである。この国王の時代には、多くの民族に対し て抑圧的な姿勢がとられた。 その後この国王が暗殺されペータル2世(1923~70)が即位すると、クロアチア人 との懐柔策がとられた。1939 年にはクロアチア人と妥協し、自治を大幅に認めてクロ アチア自治州を成立させた。しかしクロアチア自治州外にも多くのクロアチア人がお り、自治州内にもセルビア人をはじめ多くの民族が入り混じっていた。また、クロア チア人以外には自治が認められなかったため、結局この政策は民族の不満を増大させ るだけだった。 この後ユーゴスラヴィアは大きな転換期を迎える。第二次世界大戦で中立国として 参戦したユーゴスラヴィアはドイツ、イタリアの侵略を受けた。この支配からユーゴ スラヴィアを解放したのが政治家ティトー(1892~1980)である。彼はパルチザンと 呼ばれる解放軍を率いて、自国の独力でドイツ、イタリアを退けた。当時の東欧諸国 はソ連の力を借りて自国を解放することが多く、これを成し遂げたのはこの国だけで ある。 大戦の終了後ティトーが政権を握ると、彼は王政を廃止し共産主義の体制を打ち立 てた。しかし同じ社会主義のソ連とは、ソ連が東欧諸国を取り込もうとしたことから 対立し、独自の道を歩んだ。 ユーゴスラヴィアの統治の難しさは、 「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四 つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現される。ティトーはこれを 社会主義連邦国家として統治しようと尽力した。その結果、ユーゴスラヴィア連邦人 民共和国の社会主義はソ連のそれとはまったく違うものになった。それは、連邦内の 共和国に大幅な自治を認め、国内企業の方針を国や党ではなく労働者主体で決める、 7 独自の自主管理体制と呼ばれるものである。ティトーは他にも、ある程度の言論・表 現の自由や体制批判を許し、制限の上であるが政治の世界でも野党を認めたりするな どもした。しかし彼は民族主義言動を弾圧し、民族間の対立を抑え表面化を防ぐよう 働きかけた。さらに、自治を認めるなどの民族の宥和政策によって民族主義者たちの 活動を抑え、各民族のバランスをとって連邦の維持に努めた。 対外的には、東西冷戦下でソ連を中心とする東側諸国のグループにも、アメリカを 中心とする西側諸国のグループのいずれにも属さず加担しない姿勢をとった。これは、 国内の各民族によって、対外関係に対する意識の違いが大きいためである。例えばセ ルビア民族は親ソ連の感情が、クロアチアでは西欧への、ムスリムは中東への親近感 が強いことが挙げられる。このため非同盟、中立という立場をとることで国内の民族 の統合が保たれ、有効に機能した。 しかしこの安定は、1980 年に彼が亡くなりその後冷戦も終結したことで乱れ始める。 冷戦において中立を主張することで成り立っていたユーゴスラヴィアは、その終結に より方針を変えざるを得なくなった。一方で、古くからの各民族の歴史的背景を反映 させた過激な民族主張が再燃し受け入れられていった。そのため冷戦終結後の複数政 党選挙において民族色の強い政権が各地域で生まれた。また、絶大な求心力を持った ティトーがいなくなり、連邦の議長は連邦内の共和国代表から交代で出される集団指 導制に変わった。つまり、連邦を支えるリーダーシップと力がなくなってしまったの だ。結果として連邦内では民族主義の機運が高まったのだ。さらに、1979 年の石油危 機や、外国からの借金による国内の経済危機にも、連邦政府は対応できないでいた。 連邦内では共和国間で経済格差が広がっており、経済的に豊かな地域は連邦にとどま る必要性を感じなくなっていた。これらの民族的、経済的、対外的事情から、1991 年 連邦内の国々が独立を宣言して、ユーゴスラヴィア内戦が起きた。歴史的対立なども 絡み戦闘が長期化した場所もあったが、最終的には連邦内のほとんどの国が独立した。 内戦後、連邦に残ったセルビアとモンテネグロで、1992 年ユーゴスラヴィア連邦共 和国を結成した。しかし人口比を反映した議会や、内政のほとんどがセルビアに担わ れたことでモンテネグロの反発がおこった。その結果連邦は解体されて 2003 年緩やか な連合体である「セルビア・モンテネグロ」を結成したのち、2006 年2国は完全に分 離した。 こうしてかつてユーゴスラヴィアを作っていた6か国はすべて独立し、 「ユーゴスラ ヴィア」という国名の多民族国家は消滅してしまった。 3、 現在の多民族国家 近年は違ったタイプの多民族国家も登場している。移民によって成り立った国ア メリカである。はじめはイギリス、その後ヨーロッパ諸国からの移民が訪れ、国家 を形作った。その後南米からのヒスパニック系移民、強制的に連れてこられたアフ 8 リカ系移民、現在では世界中からの移民がいる。アメリカの歴史の中でも民族同士 の偏見や差別もあった。しかし移民の国アメリカは多民族だからこそできる、各人 の技能を生かして国家を新鮮なものにしていくのが成功の秘訣である、とケネディ 大統領は言う。既成の国家の形にとらわれない新しい多民族国家が現在は生まれて いるのだ。 第3章 終わりに ここまで多くの時代にわたる多民族国家を見てきて、多民族国家を維持していくこ との難しさを理解することができただろう。オーストリア=ハンガリー帝国は戦争の 末消滅してしまい、ユーゴスラヴィアは共存していた民族がお互いに傷つけあう結果 に終わってしまった。他民族を理解して共存することは容易ではない。しかし同じ人 間として、民族同士で争い合うことはあってはならないことで、過去の例から学ぶべ きことは多い。前章でみてきた多民族国家は一国にいくつもの民族がいて、今私たち の住んでいる日本とは無縁のように感じてしまうかもしれない。しかし日本にも少数 ではあるがアイヌや琉球民族がいるのだ。また、これは民族の話に留まる事ではない。 グローバル化が進んでいる現在の世界で、他民族の理解に努めることは、日本にいる 多くの外国人文化を理解して、私たちの生活を豊かにすることにつながるのではない か。今や外国人なしでは成り立たない社会に日本はなってきている。そんな時代だか らこそ、私たちは他国の文化を理解し、外国人と上手く共存して共に社会を作ってい く必要がある。 参考文献 ニューステージ世界史詳覧 浜島書店 サイト「Abоut the USA」 旧ユーゴスラヴィア内戦の要因をめぐる諸論争(一柳)――立命館大学 世界史の窓「ユーゴスラヴィア」 世界史の窓「オーストリア=ハンガリー帝国」 Wikipedia ユーゴスラビア/オーストリア=ハンガリー帝国 無料白地図「SEKICHIZU」 9
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