ダグラス=マッカーサー「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」

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ダグラス=マッカーサー「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」
福岡県立京都高等学校
大塚宏志
フィリピンと日本に縁のあったマッカーサー父子 イテ沖海戦」であった。
ダグラス=マッカーサーは1880年に生まれ,陸軍
マッカーサーの遺産 日本の戦後は太平洋戦争
士官学校を首席で卒業したあと,父親がかつて初
に敗れ,1945年9月2日戦艦ミズーリ艦上での降
代軍政総督を務めたフィリピンに配属された。父
伏文書調印から始まる。その3日前の8月30日に
親が1905年に駐日アメリカ大使館付武官となり,
専用機バターン号が神奈川県厚木海軍飛行場に着
マッカーサーも副官として東京で勤務している。
陸,レイバンのサングラスにトレードマークの
1918年には「レインボー師団」の参謀長となり,
コーンパイプをくわえたマッカーサー元帥は感慨
第一次世界大戦の実戦に参加した。新婚旅行でも
深げに周囲を見わたしたあと,タラップを降りて
来日し,横浜のホテルニューグランドに宿泊して
から記者団に対して「メルボルンから東京まで長
いる(戦後もこのホテルを定宿とした)
。1930年
い道のりだった」と語っている。
には史上最年少で参謀総長になり,1935年には
連合国軍最高司令官として国民主権・基本的人
フィリピン軍の軍事顧問に就任し,1941年にはマ
権の尊重・平和主義を3本柱とする日本国憲法の
ニラに本拠地をおくアメリカ極東陸軍司令官とな
制定をはじめ,財閥解体・農地改革・労働組合育
り,太平洋戦争を迎えることになる。
成など多方面にわたる一連の占領政策を実行した。
I shall return 1941年12月,日本軍によるフィ
また昭和天皇が「責任は自分にある。国民を助け
リピン上陸が始まった。マニラを占領され,バタ
てほしい」と面会で語ったことに感銘を受け,天
アン半島およびコレヒドール島で持久戦を指揮し
皇制存続を決めている。戦後70年間,戦争を一度
たが,1942年3月11日に4隻のPTボート(全長
もしなかった日本の今を知ったならば「日本を太
21mの高速魚雷艇)で幕僚らとともにコレヒドー
平洋のスイス」にしたいという理想が実現できた
ル島を脱出,敵中突破してミンダナオ島から爆撃
とマッカーサーも喜んでいるにちがいない。
機に搭乗しオーストラリアまで直行した。
「私は
1950年6月朝鮮戦争が勃発,国連軍を指揮して
大統領から日本の戦線を突破してコレヒドールか
仁川上陸作戦を成功させて武名をあげたが,中華
らオーストラリアへ行けと命令された。その目的
人民共和国の参戦を招き,原爆投下を主張してト
は日本に対する米国の攻勢を準備することで,そ
ルーマン大統領と対立,1951年4月国連軍とGHQ
の最大の目標はフィリピンの救援にある。私は
の双方の司令官を解任された。もし朝鮮戦争が勃
やってきたが,また私は戻る運命にある」と述べ
発しなかったならばアイゼンハウアーではなく
た が, 最 後 の「 私 は 戻 る 運 命 に あ る(I shall
マッカーサーが次期大統領となっていたかもしれ
return)」という言葉が有名になっていった。し
ない。離日の際には20万人が沿道を埋め,
「松笠
かし,フィリピンに残した将兵は日本軍の捕虜と
さん」と別れを惜しんだ。占領下の人々にこれほ
なり,いわゆる「バターン死の行進」で犠牲者が
ど愛された旧敵国軍人は世界史上どこにもいない。
多数出てしまうのである。
帰国後に議会で述べた「老兵は死なず,ただ消え
戦局は物量豊富な米軍がしだいに日本軍を圧倒
去るのみ」の言葉は彼の若いころ兵士の間で流行
し始め,
1944年10月にはマッカーサーはフィリピン
していた風刺歌のフレーズの引用であったが,今
のレイテ島に上陸,宿願だった「I shall return」
なお彼の代名詞のように語りつがれている。
の公約を果たす。ちなみに,戦艦武蔵が撃沈され,
神風特攻隊が初めて出撃したのもこのときの「レ
世界史のしおり 2015②
【参考文献】増田弘『マッカーサー フィリピン統治から
日本占領へ』(中央公論新社,2009年)
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