目 次 第一次世界大戦開戦原因 の 謎

目 次
三 開戦原因の謎 ──何が説明されなければならないか …
………小野塚知二 1
目 次
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎 ──通説の問題点と現代的意義
はじめに 一 これまでの開戦原因論 日本における通説
通説の改訂版
欧米での開戦原因研究
経済史研究と開戦原因
開戦原因を問い直すことの意義
原因論の方法的な二類型
統一的な枠組みの必要性と可能性
もう一つの統一的な枠組み──オスマン帝国の蚕食過程
二 新しい開戦原因論の必要性と可能性 2
1
サライェヴォ事件から開戦までの当事者の拡大
イタリアと他の主要参戦国との相違
躊躇・逡巡と開戦への傾斜
ことにイギリスの開戦決定
平和主義思想の無力さ
異なる状況下での戦争熱の共通性
本書では解けない問題──予想された戦争と世界大戦への拡大
v
23
13
4 3 2 1
4 3 2 1
7 6 5 4 3 2 1
目 次
Ⅰ
むすびにかえて 外交・植民地・経済政策
章 ヨーロッパ諸大国の対外膨張と国内問題
部 32
はじめに …
………………………………………馬場
一 ヨーロッパ諸大国の対外膨張と大戦勃発の関連性 (一八九八年)
ファショダ事件
(一九〇五、一九一一年)
二つのモロッコ危機
(一九世紀─一九〇七年)
中央アジアをめぐる英露の「グレート・ゲーム」
二 フィッシャー論争とその影響 フィッシャー論争
フィッシャー論争のインパクト
三 ハプスブルク帝国と大戦勃発 優 …
…………………………………………………………浅田進史 ハプスブルク帝国の内政と外交
帝国をめぐる国際環境の悪化
サライェヴォ事件から第三次バルカン戦争へ
おわりに 章 開戦原因論と植民地獲得競争
67
第
第
第
55
60
3 2 1
2 1
3 2 1
一 開戦原因論と植民地戦場 69
41
69
42
41
1
2
vi
目 次
第
Ⅱ
二 植民地獲得競争と門戸開放 世界分割の論理
ドイツ植民地支配と門戸開放の論理
三 世界再分割への意志と予期しない世界戦争 …
……………左近幸村 89
四 植民地戦争から第一次世界大戦へ 章 経済的相互依存関係の深化とヨーロッパ社会の変容
はじめに 一 大戦前ヨーロッパ経済の概観 二 世紀転換期のドイツ社会とナショナリズム 三 経済史から見たドイツ責任論 四 ロシアとドイツの経済関係 98
五 バルカンをめぐる角逐 ──ロシアの自由港制との関連から まとめ 民衆心理とさまざまな思想
部 111
102
106
章 平和主義の限界 ──国際協調の試みと「祖国の防衛」 … ………………………………渡辺千尋
125
第
第
116
はじめに vii
125
83
81
2 1
73
92
89
3
4
目 次
第
第
一 世紀転換期のフランスと平和主義 法的平和主義の源流
フレデリック・パシーとノーマン・エンジェル
126
二 社会主義における平和・戦争・外国人 ナショナリズムと外国人労働者の排斥
社会主義的平和主義
国際社会主義者の反戦運動
一九一四年七月の危機と反戦運動の挫折
三 第一次世界大戦の開戦の経緯と反戦運動 132
おわりに 章 国際分業論の陥穽 ──自由貿易と国際的相互依存
はじめに 三 第一次世界大戦と国際的相互依存論(一)──シュムペーターの場合 四 第一次世界大戦と国際的相互依存論(二)──ホブスンの場合 おわりに ──国際分業論の陥穽
…………………………井野瀬久美惠
157
二 第一次世界大戦前の国際的相互依存論 ──ノーマン・エンジェルの場合 一 一九世紀イギリスの自由貿易論と国際的相互依存 ──コブデンの場合 …
…………………………………河合康夫 138
2 1
2 1
2 1
章 民衆感情と戦争 ──イギリスにおける「戦争熱」再考
163
149
177
166
154 151
144
149
5
6
viii
目 次
はじめに 一 戦争を支持する民衆たち ──「戦争熱」とは何だったのか 「戦争熱」のかたち
「戦争熱」の中身
広義の「戦争熱」
二 「戦争熱」の培養 ──南アフリカ戦争という経験 「戦争熱」の参照軸
メディアの戦争
マフェキングの群衆
…
………………………………………小野塚知二 三 南アフリカ経験のゆくえ ──攻めの愛国心から護りの愛国心へ 「国民の効率」改善と少年組織
ドイツとの近未来戦争小説
戦争を利用するミュージック・ホール
むすびにかえて ──グレイ外相演説の背後
208
終 章 戦争を招きよせた力 ──民衆心理と政治の罠
はじめに 一 謎を解く方向性 ix
ナショナリズムの強さ
「戦争熱神話」という神話
「戦争熱」という共通性
226
217
二 民衆心理、世論、政治 215
180
177
215
198
191
3 2 1
3 2 1
3 2 1
3 2 1
目 次
民衆心理の所在と証明方法
戦争当事国の拡大と各国の共通性
イタリアと他国との相違
ナショナリズムの二類型──二人のチェンバレン
各国の躊躇・逡巡とイギリスの参戦
三 民衆に注目することの意義 理性と情緒
民主主義と戦争原因論
討論記録
…
…………………………………………………………………………………………………………小野塚知二 …
……………………………………………………………………………………齋藤翔太朗・杉山遼太郎 むすびにかえて あとがき
257
索 引
265
250
246
5 4 3 2 1
2 1
x
第一次世界大戦開戦原因の謎
序 章
はじめに
──通説の問題点と現代的意義 小野塚知二
第一次世界大戦は、それ自体が大きな災厄であり、また、その後の経済・社会の組織化を加速し、財政を肥大化す
るなどさまざまな点で不可逆的な変化をもたらしただけでなく、大恐慌、第二次世界大戦、冷戦の原因ともなり、
(
(
密な相互依存関係を分断し、この関係の中で可能であった安定的で多角的な経済発展を解体したという意味では、戦
しうる。
とともに終焉を迎えた「短い二〇世紀」の後になってようやく回復できるという期待の込められた語であったと理解
に喧伝された「グローバル化」とは、密接な相互依存関係にあった第一次世界大戦前の世界経済と似た状態を、冷戦
争が常に外交の失敗であるという以上に史上まれに見る深刻な大失敗であったということもできよう。一九九〇年代
(
ところが、これほどの大事件であるにもかかわらず、それが発生した原因については意外なほどに貧弱な解釈しか
用意されていない。本書は、第一次世界大戦の開戦原因について多面的かつ総合的に考察して、新しい解釈の枠組み
を提示することを目指す。
1
「短い二〇世紀」全体を規定したできごとであった。さらに一八七〇年代以降開戦直前まで維持された世界経済の緊
はじめに
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎
一 これまでの開戦原因論
これまでの開戦原因論は二つに大別することができる。一つは、わが国の高校世界史等の教科書や西洋史・政治
史・外交史・経済史の概説書にしばしば登場する古い通説とその改訂版であり、いま一つは、欧米の歴史研究が積み
重ねてきた膨大な蓄積である。
日本における通説
章(馬場優)
が明らかにするとおり、それらは
1
「三B政策と三C政策の
対外膨張策の衝突を視覚的にわかりやすく、また中学生・高校生に覚えやすく示すのが、
( (
対立」という図式的解釈である。しかし、地図上で三Bと三Cとをそれぞれ線で結べばただちに判明することだが、
の経験が民衆の心理に与えた影響は無視できないだろう。
帝国主義諸列強が競ってバルカンに植民地を求めようとして発生した衝突ではない。とはいえ、これらの紛争や衝突
ったわけではない。また、第一次世界大戦の引き金となったサライェヴォ事件とそれに先立つ二度のバルカン戦争は、
いずれも外交的に解決されており、こうした衝突が解決されないままに、特定の方向に連鎖的に展開して開戦にいた
件 ・ 一 九 一 一 年)
のように、確かにたびたび発生してはいるのだが、第
や、二 度 の モ ロ ッ コ 事 件(タ ン ジ ー ル 事 件・一 九 〇 五 年、ア ガ デ ィ ー ル 事
そ れ は た と え ば、フ ァ シ ョ ダ 事 件(一 八 九 八 年)
日本で最も広く流布してきたのは、帝国主義諸列強の対外膨張策の衝突が嵩じた結果、第一次世界大戦にいたった
の新規獲得と既存権益確保の対立を意味するのであれば、
という説である。この衝突が、植民地(ないし地理的諸権益)
1
三B政策と三C政策は地政学的には相互にかすりもせず、それらの間に対立は発生しようがない。しかも、ドイツは
(
2
1 これまでの開戦原因論
コンスタンティノープル(ビザンティウム)
もバグダードも植民地はおろか排他的な勢力圏にすらしておらず、
「三B政
策」とはドイツの対外的な展開方向の期待を描いてはいるかもしれないが、インドと南アフリカとエジプトを実効的
に支配していたイギリスの「三C」とは比肩すべくもない。「三B政策」の起点がベルリンだとするなら、到達すべ
き目的地はバグダードにほかならないが、その物的手段として構想されたバグダード鉄道の建設にはドイツの供給し
うる資本だけでは到底不足するため、イギリスとフランスの資本参加が期待され、実際にイギリスとドイツは、一九
一三年七月と一九一四年六月の二度にわたって、バグダード鉄道建設へのイギリスの資本参加と、ポルトガル植民地
の一部をドイツに割譲することについて協定を結んでいる。つまり、ドイツは三B政策であれアフリカの植民地分割
であれ、イギリスとの協調的な関係なしには対外膨張をなしえなかったのである。
(ドイツ、オーストリア =ハンガリー、イタリア)
と三国協商(ロシア、フランス、イギリス)
の両陣営の対立と陣営
三国同盟
内の秘密外交に開戦原因を求める説も少なくない。こうした同盟関係が各国の外交を硬直化させた可能性は完全には
否定できないし、ドイツを当てにしてセルビアへの宣戦布告に踏み切ったオーストリア =ハンガリー(ハプスブルク帝
国)
のように、同盟関係が開戦の心理的コストを低下させるという効果も否定はできないから、開戦の小さな副次的
要因であったということはできるものの、各国が開戦しなければならなかった積極的な理由は同盟関係からは説きえ
ない。同盟関係とは所詮はカルテルなどと同様に、好都合な場合には遵守され、不都合な場合は違反や逸脱がつきも
のの脆弱な取決めにすぎないからである。そのうえ、カルテルでは価格、数量、時期などの事項が明晰に規定され、
( (
カルテル違反に当たる行為も類型化しやすいのに対して、同盟外交の場合、想定されうる事態は非常に複雑多様であ
って、何をもって相互防衛義務に当たるか否かを事前に規定し、また事後的に判定するのは容易なことではない。そ
)
がご都合主義的に適用されて、同盟の義務も、場合によ
れゆえ、しばしば事情変更の原則( clausula rebus sic stantibus
っては同盟関係そのものも、反故にされてしまう。イタリアは第一次大戦開戦時に三国同盟側に立って参戦すること
3
(
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎
4
はせず、早々と中立を宣言したが、それは同盟国オーストリア =ハンガリーがセルビアに侵略されているわけではな
いから、侵略されている同盟国を守る義務は発生していないとの論理によって正当化された。イタリアはその後、一
年近い打算の末に英仏側について、同盟国に対して宣戦したから、三国同盟におけるイタリアの事例は、同盟関係が、
期待されたのとは逆の結果をもたらすこともあるのを示している。
(あるいは堅持すべきものと)
根拠なく考えがちで
日本では、国家とはその名誉のために同盟の義務を堅持するものと
の締約国ドイツが、日独同盟の交渉中であるにもかかわらず、防共協定
ある。たとえば、日独防共協定(一九三六年)
を結んだのに驚き、
「欧洲の天地は複雑怪奇」との理
の事実上の仮想敵国であるソ連との間にも不可侵条約(三九年)
由で平沼騏一郎内閣が総辞職するほどであった。また、その二年後には日本もソ連と中立条約を結んだものの、四五
年八月にソ連が日本に宣戦布告したことを条約違反と非難する見解もある。しかし、ソ連の宣戦が不当であるか否か
を論ずる以前に、そうした条約が常に無条件に守られてしかるべきだという発想そのものを疑うべきであって、同盟
外交を開戦原因とする説はこうした観点からも支持しがたい。
ドイツ、ロシア、フランス、イギリスの参戦は一見するなら、同盟関係にしたがっているように見えるが、各国に
( (
参戦の必然性は固有にはなかったのに、同盟の定めにしたがったために参戦した──すなわちオーストリア =ハンガ
交に開戦原因を求めるのは、帝国主義的対外膨張策の衝突や、「三B政策対三C政策」と同様に、開戦原因について
リーとセルビアの局地戦争を欧州大戦に発展させたのは同盟の情誼である──という解釈は大いに疑わしい。同盟外
(
の過度の単純化であって、学校教育の場での教えやすさや、教科書や事典などの限られた紙数でもっともらしい開戦
原因を書くという以上の意義はない。
通説の改訂版
2
1 これまでの開戦原因論
わが国の西洋経済史研究では、帝国主義諸列強間の経済的相互依存関係というレーニンの『帝国主義論』では軽視
された側面に注目して、経済的に密接な関係にあるのに、なぜ戦争にいたったのかを説明するために、通説を経済史
的に精緻化する試みがなされてきた。
吉岡昭彦は、S・B・ソウルによって提示された多角的貿易決済機構にも内的な矛盾があったとして、それを、ア
メリカ、フランス、ドイツ各国経済のポンド体制からの自立・乖離の傾向ととらえた。フランス銀行の金兌換部分的
停止など、ポンド体制を補完する機能からの離脱が見られたのだが、その中で、
「イギリス、ドイツ両帝国主義の総
機構的=総政策的対立が第一次世界大戦に帰結するにはいま一つの直接的契機が必要であった。それは、大戦前夜と
りわけ一九一三年に至って、ドイツは、東欧諸国、トルコにおける利権獲得競争で、イギリスとりわけフランスに譲
資本輸出競争におけるベルリンの能力の貧困とその限界
歩を余儀なくされたことである。〔中略、その結果、英仏との〕
(フィッシャー)
を意味するものであり、
「危機」の克
が 露 呈 さ れ た の で あ る。 ま さ に そ れ は、
「ドイツ帝国主義の危機」
[吉岡一九八一、二八三─二八四頁]
。また、吉岡は別の書
服は、もはや戦争による決死の跳躍以外にはありえなかった」
物でも、一九〇七年恐慌で露呈したドイツ資本主義の再生産=信用構造の脆弱性を強調して、ライヒスバンクの「第
一機能=国際的支払のための準備金喪失は、ライヒスバンクの国際的破産を意味する。他方、第三機能=現金支払・
全信用制度の崩壊を意味する。それは「ドイツ帝国主義の
銀行券兌換準備金の喪失は、同行を頂点とする〔ドイツの〕
(フィッシャー)
を意味するものであり、「危機」の克服は、もはや戦争による決死の跳躍以外にはあり得なかっ
危機」
、では、戦争という「決死の跳躍」によってドイツ帝国主義の金融
た」と述べるのであるが[吉岡一九九九、二六一頁]
的脆弱性は具体的にどのようにして解決されえたのであろうか。ここでは、帝国主義の矛盾から第一次世界大戦の開
戦原因を説明しようとする吉岡の論理に無理な跳躍があるといわざるをえない。
もとより、吉岡も指摘するとおり、「短期借の長期貸」のドイツは英仏との金融的関係を断ち切ってしまえば、国
5
6
内信用はもとより、中東欧および中近東への資本輸出(=「世界政策」の経済的遂行)
もままならないのであって、もし
)
」に 他 な ら な か っ
deutsche Keil
結果であった」。こうした「帝国主義的な袋小路を避けるため」に模索された選択肢の一つがドイツの帝国宰相ベー
た一九世紀的な国民国家と国際経済秩序を前提とする限り、植民地獲得をめぐる争い、さらに世界戦争は避けがたい
様化する原料を調達しようとする場合、直接の規制あるいは間接の制限をうける可能性を十分に持っていた。こうし
日本が、必要に応じて、そうした帝国内で鉄道、鉱山・石油、農業などの開発投資をしようとし、また、ますます多
うな古い帝国が生み出した枠組に大きく制約されていたため、「後発の工業国であるアメリカ、ドイツ、イタリア、
活動の保障は慣習法的になされるにすぎず、しかも国際秩序はイギリス、フランス、オランダや、ロシア、清国のよ
や政策が必要となる」が、一九世紀的な国民国家にとって国際関係とは高いレヴェルでの外交か戦争であって、経済
立、内的な緊密度の上昇は、国際間であれ、あるいは開発地域内部であれ、経済活動を保護し、紛争を解決する制度
あろう」と述べて、むしろ、既存の国際秩序と後発国の経済発展との矛盾に注目する。
「グローバルな世界経済の成
ことは、論理的にも、また事実のうえでも無理がある。それは、われわれの時代の資本輸出を考えれば理解できるで
戦争の典型であった」としながらも、ホブスンやレーニンを批判して、
「資本輸出と植民地支配を直接に結びつける
[藤瀬一九八〇、二八一─二八二頁]
、後に、開戦原因
藤 瀬 浩 司 は、 元 来 は 開 戦 原 因 へ の 直 接 的 な 言 及 を 控 え て い た が
帝国主義が生み出した世界
について、以下のような帝国主義論的な解釈を示した。藤瀬は「第一次世界大戦は〔中略〕
鉄道の企画を進めることはドイツには不可能だったのである。
たのである」と三B・三C的な理解を示すのだが、すでに見たように、英仏の資本に依存することなく、バグダード
ド・太平洋地域にいたる大英帝国の死活的な通商路〕に打ち込まれた「ドイツの楔
(
ル ク 決 裁 圏」の 先 端 に 位 置 し た バ グ ダ ー ド 鉄 道 は、ま さ に エ ム パ イ ア・ル ー ト
〔ブ リ テ ン よ り エ ジ プ ト を 経 て イ ン
「決死の跳躍」を実際にしたならば、それはドイツ経済の正常な運行の死滅を意味したであろう。また、吉岡は「
「マ
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎
1 これまでの開戦原因論
トマン・ホルヴェークが開戦後に発表した一九一四年の「九月綱領」
( 中欧経済同盟構想)
であり、もう一つがウィル
。
ソンの平和原則一四カ条であった[藤瀬一九九三、一五八─一六一頁]
さらに藤瀬はこの説を、次のように展開した。シュンペーターは「一般的に帝国主義を資本主義から切り離し、そ
の政治的・社会的要因がもつ独立の意義を明確にした点で、研究史において、一つの代表的な立場を代表している」
が、ヴェーラーやセンメルらの、国家秩序・社会安定の破綻を回避する目的で帝国主義的な膨張政策がとられたと考
える社会帝国主義論は、「内政の優位」を強調するあまり、国家政策における国際関係の制約や影響を十分評価せず、
ドイツの権力構造についても「前工業的」、「半絶対主義的」などの一面的理解が難点である。他方、当時の資本主義
が経済的論理、必然的に帝国主義を生み出すと考えているホブスン=レーニンの帝国主義論は、
「資本輸出は必ずし
も植民地領有や国際紛争に導くとはいえないし、各国の資本主義によって資本輸出のもつ意味は違っている」ことが
説明できないことに難点がある。「二〇世紀の歴史をたどれば明瞭なように、経済的要因がいかに重要であるとして
も、国際秩序のあり方、あるいは国際問題の処理の方法と基準、これらを調整する覇権国の能力という政治的要因に
よって、状況は大きく違ってくる」として、帝国主義時代を理解する上での政治的要因の重要性を強調する。藤瀬に
よれば、帝国主義時代の政治的課題は、①一八七〇年代以降の世界経済のグローバル化と稠密化の中で発生する頻繁
な紛争や軍事同盟に対応するための、古い国際秩序の再編、②イギリスが自ら無条件最恵国待遇条項から後退して自
由貿易体制が崩壊しつつあるなかでの新しい通商体制の創出、③旧型帝国の崩壊と多数の民族の政治的独立を求める
運動への対応の三点であった。これらの政治的課題をどの国の主導で進め、いかなる形で実現するかという点で、再
編の主導権を握りえたのは新興のアメリカとドイツであったとして、藤瀬はここでも、
「九月綱領」とウィルソン一
。このように、藤瀬は両著作で、経済の変化に対応
四カ条をその証拠として挙げる[藤瀬二〇一二、一五〇─一五五頁]
できない古い国際秩序・国家システムの問題が第一次世界大戦の原因になりうると示唆するが、直接的な原因──戦
7
≒
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎
0
動はベオグラード占領のみに留めるつもりであったし、参謀総長のコンラート・フォン・ヘッツェンドルフにいたっ
1
8
争によって、古い国際秩序の問題がいかに解決されると当時の政治家たちが考えていたのか──は論ずることなく、
議論は、大戦中に米独で出された世界の再編構想に回収される。はたして、開戦後のできごとで大戦の原因を説明で
きるのだろうか。
欧米での開戦原因研究
欧米の研究は、まずは第一次世界大戦終了直後から、各国の外交文書を用いた外交史的な研究として始まっている。
それらは、自国が開戦した正当性を示すもので、いずれも、相手国側の動員や外交的恫喝、あるいは外交的不作為が
0
。 し か し、 ベ ル ヒ ト ル ト 外 相 は 同 盟 国 ド イ ツ の ベ ー ト マ ン ・ ホ ル ヴ ェ ー ク の 助 言 も あ っ て 軍 事 行
定している(第 章)
どなく、対セルビア戦の支持をドイツより取り付け、七月七日にはセルビアに対して戦争を仕掛けることを事実上決
たとえば、オーストリア =ハンガリーはバルカン戦争で勢力を拡張したセルビアを叩く機会をうかがっていたから、
からほ
当初の参戦国の中では最も開戦に積極的であったと考えられている。実際に、サライェヴォ事件(六月二八日)
ぜ、そのような坂道にはまり込んでしまったのかは明らかにされていない。
0
)
あるいは蟻地獄から這い上がれない──様子である。しかし、な
て押し流される──滑りやすい坂道( slippery slope
0
こで描かれる各国の政治指導者の姿は、戦争に突入することへの逡巡と躊躇がありながらも、否応なく開戦に向かっ
]
についてはさまざまな知見が蓄積されてきた。そ
によって、第一次世界大戦がいかに始まったか[ Clark 2012, p. xxvii
0
に内政上の問題がいかに作用していたのかといった点にまで及ぶようになった。こうした政治外交史の実証的な研究
の後、研究は、旧外交システムの失敗を強調する説やレーニン主義的な帝国主義主因論などを経て、各国の意思決定
自国の危険をもたらしたがゆえに、防衛的な対応として開戦を余儀なくされたとする点で、同型の議論であった。そ
3
1 これまでの開戦原因論
ては、セルビアへ屈辱的な最後通牒(七月二三日)
を突き付けた後になっても、軍隊の動員には動き出さなかった。よ
うやく部分的動員令が皇帝の名で発布されたのが七月二五日であるが、それが実際に効力を発したのは宣戦布告(七
月二八日)
の後であった。すなわち、オーストリア =ハンガリーにとっては、最後通牒だけでなく宣戦布告すらも、そ
の時点では外交的な恫喝だったのであり、それでセルビアを膺懲しうると期待していたのであった。宣戦布告の翌日
にドナウ河艦隊の河用砲艦によってベオグラード砲撃を開始はしたものの、陸軍の総動員令が発せられるのは、さら
に遅く七月三一日のことであって、当初は、まじめに戦争をする気配を示していなかった。同国の動員がほぼ完了す
るのは八月半ば、陸軍がようやく国境を越えてセルビア側に侵入したのは八月一一日のことであるが、できるだけ戦
争は限定して、セルビアを屈服させることのみを目的とした当初の思惑はその頃までには完全に裏切られて、セルビ
アのみならず、ロシア、フランス、イギリスとの戦争に巻き込まれていたのである。
オーストリア =ハンガリーに対して、他国の介入を招く前に迅速な軍事行動でセルビア問題を解決するよう急かし
たのはドイツであったが、帝国宰相たるベートマン・ホルヴェークはバルカンでの限定戦争以上に拡大することは期
待していなかったし、ロシア、フランス、イギリスの三国を敵に回す事態を「人知を越えた巨大な運命」に左右され
た結果と考えており、開戦後は事態の深刻さに茫然自失の態に陥るほどであった。彼も戦争は避けうるし、また避け
たいと考えていたのだが、気付いた時には欧州大戦のただなかにいたのである。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世も、最
後まで、従弟ニコライ二世の統べるロシアとの戦争を回避し、また、他方では、対フランス戦争を回避する可能性を
探っていながら、最後は動員にも宣戦布告にも裁可を与えている。ロシア皇帝ニコライ二世は一方ではオーストリ
ア =ハンガリーの最後通牒に機敏に対抗して七月二六日には部分動員令を、二九日には総動員令を裁可したものの、
他方では最後まで戦争への突入を躊躇し、動員令撤回に心を決めかけるほどであった。イギリスでは、主要閣僚のほ
とんどは開戦に消極的か反対で、諸国間の仲介と、自国の中立維持のために八月初頭までさまざまな努力を重ねてき
9
序 章 第一次世界大戦開戦原因の謎
た。ところが、ドイツがフランスに対して宣戦した八月三日の午後になってからようやく、
「ベルギー中立の尊重」
という奇妙な条件をドイツに提示して、一二時間という短い回答期限の後、ベルギー侵犯の事実を確認してから戦争
に踏み切ることになる。
政治外交史の研究の蓄積は、各国指導者たちが開戦への躊躇と逡巡を共有しながらも、戦争に向かって否応なく滑
り落ちていくさまを、当時の膨大な通信記録、メモ、日記、さらに回想録なども駆使しながら明らかにしてきたのだ
が、では、なぜ彼らが開戦を決意したのかは、個別的な状況証拠によって説明されるばかりであって、躊躇と開戦決
断の関係について納得しうる説明はなされていない。
開戦にいたる政治と外交の過程に関する分厚い研究の蓄積を踏まえて、近年の欧米の第一次世界大戦に関する研究
では、軍事のもつ自律的な性格、たとえば動員令が国内外にもたらす影響や、帝国主義・ナショナリズムが民衆心理
(二〇世紀末までを規
に与えた影響、総力戦という経験が人々の意識・感性・思想・科学に与えた影響とその「現代性」
定 し た 性 格)
、戦争の記憶や記念のされ方、第一次世界大戦の世界的な性格等々、多くの面に議論が及んでおり、開戦
原因も複合要因で論じられることが多い。
(ないし「時代の雰囲気」)
に注目する点である。古いところでは、
複合要因での開戦原因論に共通するのは、民衆心理
)[ Holsti & North 1965
]
、
ホルスティとノースが「紛争の歴史学」で示した各国指導者の言説の内容分析( content analysis
。 そ れ ら は 民 衆 心 理 に 及 ん で い る わ け で は な い が、
および、それに依拠した篠原一の開戦原因論がある[篠原一九八六]
0
0
0
0
開戦を政治と外交の過程から時系列的に跡付けるだけでなく、各国指導者の危害意識のありように注目して、
「戦争
は交戦国指導者の心理の中に準備されていた」との解釈を示した。またナイは、国際関係の構造的要因、国内社会・
政治システムに潜む要因、権力者個人の資質に由来する要因の三層に原因を構造化し、その中で、ナショナリズムが
社会主義、資本主義、王室外交のそれぞれが求める国際連帯よりも強く、人々を戦争に向かわせていた点を指摘して
10