江戸時代の菅浦村の鉄砲

江戸時代の菅浦村の鉄砲
今回の春季展示では、江戸時代の村々には田畑を荒らす鳥や獣を追い払うための鉄砲(「威(おど)し鉄
砲」)があったことを示す史料を取り上げています。それは、いわば、「農具としての鉄砲」でした。当時の
村々の鉄砲については、歴史学研究者の塚本学氏や、武井弘一氏による研究があります。くわしくは塚本
氏の『生類をめぐる政治』や、武井氏の『鉄砲を手放さなかった百姓たち』といった著作をぜひお読みください。
さて、菅浦村にはいつ頃から、どれくらいの鉄砲があったのでしょうか。展示している史料は寛政十二年(1
800)のものですが、膳所藩の郡(こおり)奉行の下で地域行政に携わった地方役(じかたやく)という役人の
業務記録である『膳所藩郡方日記』には、享保六年(1721)の以下のような記事が見えます。
一つ、菅浦村猪・鹿大分出(だいぶで)、作毛荒し候に付き威し申したく
候、村に鉄砲弐丁御座候(ござそうら)えども、損じ候て用に立ち申さず候
あいだ、御借し下され候様に願い候に付き、登之助殿へ申し
入れ候ところ、然(しか)らば先ず壱挺借し申すべく候、所持の鉄砲
直し候て用い候様に申し付け候様にと仰せ付けられ候
つまり、これ以前から菅浦村には威し鉄砲が二挺あったのですが、どうやら故障してしまっていたようで、
領主である膳所藩へ鉄砲を貸してくれるよう願い出ています。そこで藩は、一挺は貸すが一挺は修理して使
うようにと指示しています。「菅浦共有文書(近世分)」には寛政十二年の史料のほか、明治五年(1872)に
村で鉄砲を二挺所持することを願い出た史料もありますので、江戸時代を通じて鉄砲の数は基本的に二挺
だったようです。
同じく『膳所藩郡方日記』には、延享元年(1744)に菅浦村から「山中に獅子(猪)おびただしく徘徊いたし、
山寄りそのほか村近辺にこれ有り候田畑荒らし難儀いたし候に付き、このたび御鉄砲壱丁拝借つかまつり
たき由(よし)」を願い出たという記事もあります。この時期には多くの猪が出没して、山の方から村の近くま
で広く田畑を荒らし回り、村の人びとを困らせていた様子がうかがわれます。
(附属史料館 青柳周一)