YMN000803

近松浄瑠璃七行本の研究
年
鑑
-"
説
芭崔や西鶴なみに、肋板本による定本近松全集
祀田
羊
松本の板式を整理する場合の基準とすることができる ので、もう
し突込んで研究してみたい。
口口野郎女柄﹂以後に用,いられた山板
本セ何本の奥書 として﹁
松浄瑠璃本奥書集成二に邸皿乾㎎の四例が嬰がって い る。鶴とⅡ
はぽぽ同文で、次の如くに記してある。︵
振仮名と捺印 笠省略︶
セ行 大字直之正本とあざむく類板世に
近松の丸本には種々様々の版式があり、太夫、板元、時 代 の相違
直之正本にあらず故に今北本は山本丸右衛門 治重
馬なれは文字にも文運 矢 多かるべし全く予が
有 とい へ其丈うつしなる 故 前章の長短墨譜
によって様式を異にするが、その一種にセ 何本がある。 ﹁外題年鑑﹂
親に セ行 大字の板を彫 て直の正本のしるし
が待望されてよい時期に来ているが、そのためには丸本の書誌的所
賞暦 板の叙によると、 賈永セ年 ニセ 一0 ︶㍉吉野部女 楠 ﹂の時に始
を札せよとの求にしたがひ予が印判を加ふる所左の
の中 Z上下あやまり 甚 すくなからす三写烏焉
めて大宇 セ何本を刊行し、同時に、それまでの営り浄瑠璃を七行に
ことし
究 をもっと深く堀り下げ ねば なるまいと思う。
て 、もうそろそろ、
抹して取捨を検討する飴裕 はなかつた。あれから三四十年も脛過し
は近松本を収集するのが精一ぱいで、版式の種類や刊期の前後を吟
大正末から昭和にかけて近松の全集が次々と出版され たが、常時
コヰタ
改版したことが記されている。このような素姓の明ら かな板は 、近
近
と
題
竹本筑後
嫁
正本屋山本丸兵衛 版
大坂高麗情萱丁目
山本丸右衛門版
90 Ⅰ0
右の﹁山本丸右衛門治重﹂を蛇と朋とでは﹁山本沖田衛治重﹂と
改めている外、京都店の住所を書き加えたり大阪店を 削るなど、 四
に及びたい。
いては後に綺れることとして、セ行木開板の事情から述 べて、板木
二、セ石本の開板
山本丸兵衛治重は寛保元年︵ 一セ四一︶十月十三日に セ十三歳で
木像と九右衛門事時建立の墓碑とが現存する。父の家 業を縫いで京
没した。法名は金波院安楽日久居士、尼崎の廣酒手に 葬り、治重の
の九兵衛とは名目上の回別をつけながらも共に治重と しているよう
都 三傑通寺町西 へ入北側に書店を脛管したがⅠ
麒 計九年 ︵一六八四︶
種の間には微細な相違が認められるが、大阪店の九右 衛門と京都店
に、實質 上は同一人の九兵衛治重が實擢を掌握したの だから、この
九右衛門は重時と言い、實暦十二年︵ 一セ六二︶十一月 十セ日に
の全盛期であった。
たことは言うまでもあるまい。九兵衛・九右衛門親子 の時代が山本
版界に活躍することができたのも、彼の力に負うとこ ろが大きかつ
故に、手丸右衛門が、竹本座浄瑠璃本の出版権を濁占 して、大阪田
も、治重が實植を握っていたことは、既に述べた通り である。それ
が四十二歳の働き盛りであったから、名目はどうなうていようと
年儲から見ても、 セ何本を開板して丸本を統一した實 永ゼ年には彼
譲り、自らは京都店 に専念して、京都と大阪とを分離 脛管したが、
丸本の奥書を見ても知られる。そのうちに子息丸君衛 門 に大阪店を
四種は同型の奥書と兄なしてよいだろう。コ奥書集成﹂ にはこの型
に大阪堺筋高麗橋 に出店を開いた。これが後年に大阪の業界で雄飛
の奥書を持つ近松本として四十数篇の書名を摯げている が、二二一ハリ する端緒であって、一人で京都と大阪を兼務したこと
は元禄初年の
八行本を除けば、全部セ石本である。しかも八行本の中 にはセ行,
本
に政校 して同型の奥書を附けたものも湿 っていて、典主日の文句通り
に ﹁新にセ行大字の板を彫 て直の正本﹂としたものに柏 違 ないので
ある。この事實は﹁外題年鑑﹂の記事がそのまま信用 できることを
物語っている。板元の山本治重 が試みた改板の断行は 水際立つたも
ので、丸本出版史 に一時期を劃したものと舌口つてよい。
しかるに上述の四十数篇の板木が現存しているのであ る。少なく
とも書類の上では天理周書館に納まったことになって いて、仙田正
雄氏が﹁大阪蕉加島屋所蔵浄瑠璃板木誌﹂と題する詳 しいど報告を
昭和十三年セ月の﹁日本文化ヒ第十四瑞に登表された が、これに っ
死去した。法名は
費調
眞達居士、父と同廣
じ渡
く手に葬る。彼の活
事解決のための植能を典えられていなかつたから、積 極的な行動に
の申合せを實行 したが、強い組織力を持たぶ
9、重板額
三四
のの
事間
情を述べ
躍は丸本の出版権古
をし
濁たことにあるので、そ
移ることができなかつた。
集画的にほはかばかしくはなかつたけれども、この情 勢 に底じて
板の防止や紛
よう。
く見
でら
あれ
るる
。
浄瑠璃本に異板が多いことは﹁奥書集成﹂如
に
ったよう である。しかし如何に山本が濁占濯を望んだに しても、幕
はむしろ山本が竹本座浄瑠璃木の出版% を猫古するため の下準備だ
山本丸右衛門が取った対策は素晴しい致果 を著わした。 目の敵とし
ん兵
ざ衛
んを
悩さ
ませ
が多かつた。貞享以来長年にわたって山本丸
桂一
こ
をかすめ本
て
た山木元兵衛の如きもその一人であ
本っ
﹂た
の。
一﹁
字
桂二
重記
板さ
類ず
板に
をし
と木の紛らわしい山木の姓を名乗り、住所を
注口
撃し
たために、山本側曾
はあ
機るごとに山木の不正出版
をた
攻が、
府の保護がなければ一業者が企業を濁古することは無 理 であった
注セが、長年渇望した大阪本屋仲間の行事が町奉行から公誌されて、組
少を
愛多
戻
するの
初板本をそのま刻
ま仮するのを重板と言い、内容
板板
のが
所元
有者に
鈴り實
敗を翠げることはできなかつた。重板類
令制度が確立したことが、獅占企業化を促進きせた。
た山木の重板類板を追放するのみならず、遠大な考えを實 現するた
無届で
勝手に行われたことは、道徳的に見れ篇
ばに
不
違正
い行
なか
商へ公布されたのをきっかけに、前述の二十四軒が八 月 に連署して
書、
肥や行
数
を類板と言うが、全く肥
同裁
じにカブ彫
セりしたもの
大
阪が
の、
有取
力締
な法
板規
元の
二な
十い
四時
軒代
がで
連あ
署っ
した
てか
町ら
奉
取、
行
に
そ段
のが
つた
,
ん制
る
手
裁
を
加な
行事公認の請願運動を超こした。その趣旨は新刊書の出版には行事
めに新しい形式のセ何本を開板した。開板とは始めて板木を彫って
かかる重板類板の横行は、浄瑠璃本のみの現
象す
でべ
はて
な
く、
在五
の書籍に通じて行われたから、元禄十一年︵一
九
八六
月セ
日八
に︶
いままに泣き寝入りになっていた。
締を請願した
に前以て草稿を検閲する擢能を典えてほしいとの請願であったが、
だ手
悪の
質こ
なん
もの
を書き改めたものなどがあり、重板類板には
が、その一員に山本丸右衛門が加わった。二
奉十
行一
所日
のに
認許
京都や江戸では既に許されていたから、その例に習って、同年八月
享保八年︵一七二三︶三月に徳川幕府の書籍取締方針が大阪書籍
類板をしなくなったが、七行本開板の眞の意圃 はそう した狙いより
印刷することで、莫大な経費がかかり、非常な負塘で あったが、 こ
注ハの英断以来山本板は 一目で判別がついたから、山木はセ石本の重板
を得たので、十一月より月行事の制度を設け
類て
板﹁
壁重
停板
止﹂
山本丸右衛門は、二十四軒の一員として、営体行事と なって審査
することとなったが、實際にはセ何本を開板した時に 出版樺 の獅占
有利な組織であった。ここにおいて、山本は竹本座の 出版権を猫占
だものであるが、長年竹本座の浄瑠璃を出版した山本丸右衛門には
したに違いなかつたから、浄瑠璃本の重板類板を嚴重 に取締つたこ
が用意されていたのであり、享保八年を待たずに早く から効果を拳
に認可され、類板を追放する法的根接 が成立した。
とだ みぅ 。そうでなくても、浄瑠璃本の出版というものは、興行事
片してモ
い
にL
Ⅰ舌口うL
Ⅰ
こ
バ
出でんさ
る。
山本丸兵衛
九兵衛が高麗橋の出店を出して以来、九右衛門の日本 橋店を閉鎖す
昇し浄瑠璃が隆昌する間は山本も螢えた。貞享元年︵ 一六八四︶に
かかる強大な出版権を山本丸右衛門が濁古したから、竹 本座が上
擢と 舌ロつた。
元株主に交渉して株代極意金 を支排わればならなかつ た。これを分
出版がこの板株に綺れたので、板株を持たぬ者が出版 する際には、
き木をはじめ、道行・景事・檜づくしなど浄瑠璃に閲 するすべての
焼株と僻して、その擢利が有数であった。丸本の一部 分を抜いた抜
たが、板木が焼失した場ムロでも、仲間行事珠帳面に記
入しておけば
丸本の出版権は板木を持つことによって生じ、これを
が中手木の出版権を濁白した。
兵衛・妻屋治兵衛・八文字屋八左衛門・韻尾喜右衛門
本の出版権を濁白したが、京都では五軒草紙屋、すな わち菊屋セ郎
すなかち西澤一風であった。大阪では山本・西澤の雨者が セ行大字
豊竹座で竹本座の山本丸右衛門に該嘗するものは、西 津元左衛門
情 がからむために新しい業者が割り込むことは一般の書物よりは 姦
かに難しかつたが、本屋仲間の確立後はもつと難しくばつて、@大め網
次のような順序で浄瑠璃本を開板した。新作浄瑠璃が圭目き上がる
彫 板 なして 摺
と、座本より町奉行へ書き本を届け出て字句の検閲を受ける。上演
許可が下りると座本から本屋仲間へ原稿が渡される。
木 が作られると奉行所へ献本するが、これを上げ本と壬一ぅ
口。 ア
Ⅰれる
の手績を済ませると、仲間行事珠帳面に記入されて板株 の罹利 が登
生する。上げ木料や白板歩銀 出版賦課金︶を納める と、行事から
恭章︵ 登膏 許可 草 ︶が 下附されて、一般に販 貢 するこ とが認められ
る。上げ木は大阪では住吉御文庫に奉納する慣例であ つた。
以上の順序で出版したから、上演許可を得た浄瑠璃本 は 、出版の
審査を省略して上げ本を納めるだけで出版が許可され たが、一見板
元 に有利と思われる簡便主義の扱いは、板元が興行者 と特別に密接
な 利害 席 係を持つ 場ムロ
には好都合であったが、そうで ない者には 誠
に厄介で、局外者が割込むことのできない組織になって Ⅱ
@キ
・
@
@
@。
@
V
@@
このような開板組織は本屋仲間制度の確立と行事公認か ら 生まれ
三五
その中でもセ石本を出版した猫占企業時代の約五十年
年
る明和元年 ︵一生八四︶ごろまでの、約八十年間を竹本座とともに
終始したが
三一
、
/
ということになれ・ ぱ、 初 坂本とは 国 別せね・
ぱ なるまい。
そうかと言って 、コ奥書集成 L所収本の一々に営 つて 比 較検討す
ることは不可能であるから、
終 1簗の各版におい @ 万板 を使 う 可能
性があるかどうかを検討してみよう。すな れ ち、一は 山本丸右衛門
この種の
この両方面
他 ほ現存の天理
間が 、竹本 座 にとっても最も花々しい時代であったから、セ行木
旬 音節墨譜等 令 加筆 候
右の形式は大鎧召1㎝に共通しているが、詳細に調べ ると個々の
也
の板木を使ったのであれば、多くの板があって奥書が種 々になって
文字、書 肥、字配り、字形の相違、捺印の有無などにそれぞれの 板
典 板元の任所氏名-
典座本名︶
予以 著述芝原木校合一過同篇正本者
只 太夫君︶
師之源 幸甚
師君 針 ︵
錨 ︶弟子如来︵緩 困苦 情所博 抗元
右左木積
奥書は次のような同種の形式を持つている。
ます 最初に 0
、
i
1皿の奥書を検討することから始めるが・
から追求しようと思う。
国書館所蔵の セ行木板木と元版の 閥 係を調査すること、
所有の板株が委譲されて行く過程を追求すること、
浄瑠璃本の代表的な板式と考えられるのも嘗然 であった。
三、奥書の瞼討
刊者について
一
一は上述の即 | 叩で、 セ行 開板 以
山本校 のセ何本を コ
奥書集成﹂から選ぶと、大龍二種類の奥書に
分けることができる。
他は用| 明で、ずつと時代の下った後刷本であるが、
とによって
ほ山本が板株を濁 古したことを述べたから、後者が前者 とどんな 窩
係 にあるか、すな ね ち、後刷本の性質を明らかにするこ
近松 セ何本全糟の性格を知ることができると思う。
邸|弗は初仮の時 か、 又は時間的に多少遅く印刷した場合があっ
そ れより 了っ
元板の板木をそのまま流用したのか、 元
ても、 元 板を使った印刷であることは間違いないが、
と 後に印刷した後刷本は、
仮を カブセ 彫りした重板なのか、初版に似せた類板なのか、それと
初坂本なみに 扱 う ことが
9れであるかが判っていな い。もし元版
も 全く別種なのか、そのいぷ
いたり、板の磨滅が甚しかつたりしても、
の特色が見出されるけれども、そうした細かい考譚は後日に譲
っ
できるが、外見は同じように見えても、もし別種本であるか類板 だ
をた
調か
べたい。
初板木の板
槽が如何なる経路で移動し、現在に到っ
表名
記を
して、
て、こ乙では①太夫君、②座本名、③板元の住所氏
記したが、天理国書館に奥書の板木を所蔵する場合
併に
記は
した。
の推定年代を
国版によられるように願っておく
各。
項の下に、奥書
書くのを省略したから、厳密に調査さ場
れム
るロには奥
﹁書集成﹂の
同
同
同
空板元の住所および氏名︶
版ハ
板木現存するも﹁竹本筑塚
後
高弟﹂は埋木
写
@︵一せ
-五
@
曲ロ
.
暦
阜一佳
万
・一
︵
む五一︶
聖一一
Ⅰ大隅
塚時代しこのころより板元
に鱗形屋
参加
版寛
江戸大博尾口一丁目
鱗形屋孫兵衛版
山本丸右衛門版
大坂堺筋日本橋北汀三丁目山本丸右衛門
版ハ
京三條通寺町酉江天工山本丸兵衛 版
克二棟通寺町西注入下
大坂高麗橋 二町田
三七
大和塚時代。山木は日本橋 へ移@O]
一年︵二五
ビ一
ろ一
|つ
賈暦十二年︵一六
セ二
賞賛 一
ハ大和塚受領以後、山本の高麗情時代し
山本丸兵衛版賞暦元 伸二七三︶1
%暦 二年二七三ビ
︶ろ7
正本屋
山本丸兵衛
山本丸右衛門
版
鱗形屋孫兵衛版
右目
正本屋
一巳
々
寺町西へ入
下
山本丸兵衛版元文二年二 %き@延享元年︵四
播磨ダ嫁時代u 板木現存
大坂高麗情二丁目出店山本丸右衛門
︵年代推定と板木のじ
有無
販﹂の
従って捺印は全部省略し、板元
の老
﹁
衛巨と﹁衞﹂、版
﹁﹂と﹁
典座本名︶
厘別らせずに全部衛
﹁﹂と﹁版﹂に統一した。そのの
他小異も一々
番號- 曾 太夫君︶
︵奥書
右
京三條通寺町西へ入
下
大坂高麗
橋二丁目
江戸大博馬二
一丁目
宝石目
右
竹本筑後塚高弟竹田出雲 塚清
右
れ
貫
宗博
竹本義太夫高弟石岡
木銃
大後
和稼
稼相
%
79
77
㏄
右同
竹本筑後塚高弟
右同
京 三傑通寺町西注入下
山本丸兵衛 版
大坂堺筋日本橋北汀三丁目山本丸右衛門 版
江戸大椿周三丁目
鱗形屋孫兵衛版
右同
版
版
鱗形屋 孫兵衛板
山本丸兵衛
吉川奈兵衛
石岡
京三條 通 寺町 西 江天下
大坂北八太郎町中橋 筋
江戸大椿局町三丁目
有司
右同
山本丸兵衛
右同
克二 條通 寺町
吉川 宗 兵衛 版
鱗形屋 孫兵衛仮
版
大坂塙町適応酉橋
江戸大 博 尾灯三丁目
版
鱗形屋 孫兵衛 版
天満屋源治郎版
山本丸兵衛
鱗形屋 孫 兵衛 版
天満屋源治郎 版
吉川 宗 兵衛 版
版
山本丸兵衛
同
京三條 通 寺町
江戸大 博局町三丁目
大坂西横堀 船町
京三條 通 寺町
江戸大儒塙町三丁目
大坂西横堀 船町
仮
一
さ
@
年
板木
﹁天満屋時代
u
文政十一年二八二八︶以前
安永劫 どろ
ハ吉川が天満屋に 譲る口
明和木か
里遊川は北八太郎町より心芦橋 に移轄u
八丈吉以後し板木現存するも 、
の住所氏名削除
明和ごろ
明和三年︵ 毛奈 ︶| 明和四年二 芸芭
自文吉時代
一一年
定
嫁清
士
一一)
。
簗
太
一こ
七一
(山本1
事
田
三
(一芸
@
現こ
刀
竹田
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嫁
清
宜
竹田
田
本義
存
衛
豪
丘、
,
門干。
が一
, =
,,
士)
ヨ"
竹本義太夫高弟
右
因
幡
塚
清
宜
弟
ぬ
㏄︵大夫名は空白︶
竹本義太夫博載
同
巳
舘右同
85
本義
京三條 通 寺町
江戸本石町十軒 店
江戸大 博塙町三丁目
大坂西横堀船灯
浪華
夫
教
鱗形屋 孫 兵衛 版
山本丸兵衛仮
山崎余兵衛 版
天満屋源治郎 仮
版
ム﹁
井セ郎 兵衛 版
山本丸葉草
"""""
/Ⅰ
平 肋板
版
名
玉水源治郎
即功衛亭 坊
二
八天満屋
玉水が
文政十一
松木
一
京 寺町 通松原上町
江戸日本橋四日市
大坂地積 西横堀船灯
/Ⅰ
"
ム﹁
井セ郎 兵衛 版
前川六左衛門 仮
八木治兵衛板
山崎 余 兵衛 版
玉水源治郎仮
版
版
今井 セ郎 兵衛 版
山本丸葉草
玉水源治郎
年
東寺町 通松原上町
同寺町 通松原上℡
江戸日本橋通三丁目
本石町十軒 店
日
華
大坂 北濱酉 横堀 船町
恒
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紙屋 典右衛門仮
松本年肋板
板
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井セ郎兵衛 版
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玉松台出
天
保
太
竹本義太夫博載
東 寺町 通松原上町
江戸日本橋四日市
大坂 北 濱田横堀 船町
紙屋 典右衛門版
山本丸葉草
玉水源治郎
版
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竹本義太夫 博教
加島屋 清
松本年肋板
肋板
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点寺町 通松原上町
江戸日本橋四日市
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西@喬 i.至 愛た
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Ⅰ
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は正
00 竹本義太夫情致
㏄竹本義太夫博載
右同
有司
古祠
右同
四O
ハ四横堀船 灯 時代 u
天保十年二二 % |明治五年二公し
ハ四横堀船灯時代 口
右同
コ
、
稽古が歓迎きれたが、それに底 じて浄瑠璃本の責行きも丸本の大冊
明治五年︵一名
己|
より稽古用の簡便な抜き本に移った。事實窪
、延
十享
一
より天保へかけて
大阪土佐堀裏町
板元の間で頻々として起こりた紛争は、すべて抜き本 の重板類板の
竹本義太夫博教
0表から観取されることはすべての奥書に山本が出て いること
江北る 。僅かに 卯と 兜にほ 映 くが、㏄は天明寛政 ビ ろの 新 咋浄瑠璃
事件であった。﹁義太夫本公訴一件﹂の﹁なにわの巻 ﹂に次の如く
になっていたことが想像される。このように山本の名を奥書に
句誤貼は適営 に加えた。以下同じご
ある。︵
は座本名を趺いている。明らかにお1 % あたりから 興 何様式が
と 班を除くと、 簗以降の太夫名は竹本義太夫博 教に固 定し、 ㏄
再 板物であることが背けるだろう。
侯 二村、重板類板
之晶出来致候義は、古来より稀二御座 侯得失
貫目前後二課引仕候。克丸本と申品 、大金相出 、真上 側方不軍
も数多御座侯 。依而格別流行乞品は 、丸本青番 二市茂、 代銀拾
行事共在持田取調玄上、重板類板二組敷相見在侯上は、 其故彫
侯 二村、責側方軍敷、依荷重板類板二組敷板木間々出 爽快節 、
菖作 浄瑠璃の
大鉢は取扱内済仕候 。右紛数本流布敷候得は、軍吏真日
叩貫求、
本座が没落して新作物の興行が不人気になると、
りも五行六行の抜き本が歌 迎されるという現象が現わ れた。
つたことが伺えるが、これを境にして板元が次々と愛 づ て、丸
佳士-
抜本と申品は 、諸人之栢好候丸本文内 ニ面友、宜散所 而己抜取
し
化して紋下太夫と座本の擢威が 往年ほど新作浄瑠璃に影響しな
鹿
な
回
く
本
尤数千金相掛 、丸本開板仕侯面皮、不流行二面、捨ニ 相成侯品
る
たのは、山本の板木を使った出版物であることを示し たもの
あ
に
で
捌
元版 は
ける奥書が 湿 ったもので、現存の板木には山本丸栗宇の埋木が
こ
し、 明は山本以下の板元 老 を削って埋木したのだから、
附 あ
山
木
で
収
定 降 90
よ
竹
板敷候者江及掛合、若剛情由帳内湾行居木申供節は、無是非
同年八月に竹本座の一枚看板だった竹本大和塚 宗旨が
の類焼と、手痛いことが連績して経済的に不如意をか こつ たこと、
太夫 本 芝居判形 帳 ﹂に次の記事がある。
浄増刊太夫本名代
︶
長打三丁目
この上に次の貼
紡がしてある。
四一
竹田因幡︵清宮︶
此 名代 生
竹本筑後
慶三辰よりご教示を得たのであるが、明和三年二月の
の果てには竹本座の名代主の権利まで買収することとなった。 左古
し、 そ う せずには浄瑠璃本の板元が勤まらなかつたであろう。揚句
く 、芝居興行の資金を融通するぐらいなことをしたに違いなかつた
山本丸右衛門から板株を譲り受けた吉川奈兵衛も竹本座と 縁が深
板木と考えてよいだろう。
に板株を手放したのだろうが、この場合の セ 行木 は如| 邸と 同種の
繁 りつつあった。もはや往年の全盛を夢みることも難 しくなって 終
めて引退したことなど、諸般の事情が山本丸右衛門柱世 のころとは
一世一代を勤
御出訴華甲上候。
丸本の重板類板でもめた山本丸右衛門時代とは隔世の感 が生
た。新作が期待できなくなっても、丸本の板株を獲得しなければ
き木の出版が許されなかつたから、板株の商品化は額著 となり、
資 の封象 として頻繁に責貴 された。この表を見ても、山本丸君衛
から吉川宗兵衛、天満屋源治郎、紙屋典右衛門、加島星宿坊へと
勤 したことが伺えるだろう。この鮎をもう少し詳しく述べたい。
四、板株の移動
浄瑠璃の最盛
座の類焼、同十一年に雪月花の宴による入牢、同十三年に竹田芝居
田がビ難績きであったこと、すなわち賢暦 九年︵ 一セ五九︶に竹本
期 が過ぎて竹本座にこれと言った営り作がなかったこ と、座本の竹
向かうと九本の實行きも落ちて板元は苦しくねった。
に述べた如く、出版楢は興行と直結していたから、竹本座 が衰運に
九右衛門の死が直接の原因であったことは言うまでも ないが、 既
五︶ ビ ろであった。
ハ四l
、-ハ
の竹田和泉 縁 清宮 が因幡 塚 と改名した明和一・二年︵ 一Lu
長く所有した板株を吉Ⅲ宗兵衛に譲った。奥書㏄ と紅 の間で、座本
山本丸右衛門が賢 暦十二年ニセ六二十一月十 セ 日に 没するや
じ
投 抜
桜 間
竹田文吉方譲り 請
博労 町
四二
縫甜 ㏄を比較すると、抑は吉川奈兵衛の名が残って い
﹁大坂﹂を意味する﹁ 同 ﹂ だげになっていて、吉川が板 株を手放した
直後の奥書であることが知られる。㎝と抑の中間に位する奥書に
京 三傑 通 寺町
吉川 宗 兵衛 版
山本丸兵衛
﹁性根競 姉川頭巾﹂があるので、版元名を左に掲げる。
大坂博労町筋 心酉橋
鱗形屋孫三分市販
吉川屋 惣兵衛⑳
安永二年︵ 一セ七三︶六月一日に名代生すなわち竹本座の興行権
江戸大 博尾灯三丁目
天満屋源治郎版
版
が竹田文吉から吉川屋宗 ︵
惣︶兵衡 に移った。このように浄瑠璃本
大坂西横堀 船町
安永 夷巳年 六月朔日
の出版は興行とからんでいたから 局外者には容易に割込むことが
一セセ 四︶四月六日の上演で、 奥 書から 見
ねば 、判形 帳 の帖紙と同様、吉川奈兵衛の博労何時代のものである。
この浄瑠璃は安永三年︵
投機事業であったから、必ずしも成功するとは言えなかつたし、既
吉 Ⅲ屋は明和には化人太郎町中橋筋 に住んだが、明和末から安永和
できなかつたが、困ったことには興行に開保することが相営危険な
に人気の落ちた竹本座を紐管する ことは容易ではなかつた。吉Ⅲ犀
期 には塙町適応 苫橋 、博労肝心 酉橋へ 移った。これを 簗と 細の中間
て 、天満屋源治郎へ移動したのである。
かくして山本丸右衛門の板株は、吉川宗兵衛が約十年 間使用し
察 できるであろう。その時期は大% 安永三年どろであ つた。
に置く時、板株が吉川奈兵衛より天満屋源治郎へ移動 したことが 推
も名代主に居ること二年、その擢利き貢排ぅのみならず、浄瑠璃本
の板株まで人手に渡す羽目となったのである。
惣 兵衛
佐古慶三氏のご調査を拝借すると、竹本座の名代主は次の如く移
動した。
日吉川屋
天満屋源治郎は 、吉 Ⅲ 宗兵衛よりも早くから出版に開 保 した。
安永二年︵ 一セセ三︶六月朔
安永四年ニ セセ五︶八月十五日米屋 善 右衛門︵過書 町︶
少くとも延享五年︵一七四八︶には、一とかどの板元として一般に
版 擢を譲り受けて出版したに過ぎなかつた。そうした苦労を嘗めた
認められていたが、板株を濁古することなく、山本画 ぽ両家より 出
注十二
天明三年︵一七八二一︶二月九
十日天満屋 吉右衛門︵船町︶
四日同源次郎
寛政四年︵ 一セ九三二月十
右の記録とは別に、﹁奥書集成
ヒ で板株の移動が大胆推定で、さる。
竹本座のみ
だけに浄瑠璃本出版の表裏を知り轟した苦労者であった 。吉川屋 か
ら 板株を譲り受けて約五十年間、この道一筋に励んだ。
ならず豊竹座の板株までも手に入れ、芝居の名代生を兼ねた、東西
に 紙屋 典
切っての第一人者であった。そのように焚 えた天満屋 にも板木を手
放さねばならない時期がやつて来た。
天満屋こと玉水源治郎が文政十一年二八二八︶十一月
右衛門に板株を譲った貢貫 記録が天理国書館に保存さ
田正雄氏が詳しく﹁日本文化﹂に紹介されたので、一切ほ司書に譲
るが、その中に﹁文政十一年伐子十一月﹂の﹁浄瑠璃本板木大字 正
一0 一番︵両面板︶
二 0 二番︵両面板︶
本 転柿弗糊目録 帳﹂がある。天満屋から紙屋へ譲渡した 時の元帳で、
次の如き多数の板木があった。
通しの丸本竹本の部
豊竹の部
四 0 セ ︵四 0 四 ?︶番
上
八一一番
五行床本
エⅡ一八番
一一
焼板
六行抜本
% 、天満屋は五十年も の 長い間 浄瑠
右の全書名を仙田氏が紹介されたが、竹本の部 二 0 二番の中には
近松本が多く含まれている。一
璃木の板元を管んだから、自身で開板したものも多か つたが、山本
九右衛門時代の板木を流用することも頻繁にやりたの で、天満屋 板
近松本が多く現存しているのである。その場ムロ
には 山本の名を奥
くねった事情について、﹁義太夫本公訴一件﹂の﹁あ つまの ふみ
これら多数の板木とその出版擢を天満屋源治郎が手放さねばなら
大 して天満屋に改めることが多かつた。
に 記して 元板の所在を明示したが、包紙や表紙などには板元老 を
埋 嘗 め
譲 の實情は 左の如きものであったと思われる。
斑文具 頃 ︵文政十二年どろか︶大坂西横堀ニ大浦
道 々薄命にて段々身上
四三
元宝年 ︵一八三0 ︶十月支卓也とかや。
向不如意
夜々 之
ね 、 唯世を 仮身を う らみ 力泣 々近きあたりへ蟄居せしは 、天保
本抜本株本姥 興右衛門 万江相渡 、先祀より 博 りし渡世 にもはな
さいそくに、源次郎は詮方なく是迄仕来り渡世教居る義 太夫丸
江奮来引 残金質右左 を嚴敷 催促 二及、是非同相清白日々
郎 所持 2株を引取手段可敦 と 、手代 待兵衛と心を ムロ、右
三者に 其店 を預 ケ 、諸事 彦兵衛 ニ任せ 置 げり。:: 夫
此紙屋真右衛門と云ものは、江州土山より出店にて、彦兵衛 と
々借財出来げれとも、いかにも満すへき術もなく心を苦しめ 居
になり暮し 届けるか、近き 遼りに紙屋真右衛門と云ものより 追
萄来 義太夫本を商ふものあり。
屋源次 郎 とて
﹂に次の如き記事が見える。もつとも年月が多少ずれているが、
移 や な
一、五行抜本
試 百五 拾 六品
四百四品
半株
半株
四四
天満屋は紙屋の借財に苦しめられて悲惨な境遇に陥り、終に 西横
一、六行抜本
︵中略︶
但別紙目録打帳文通
︵中略︶
以上見て来た通り、浄瑠璃本の板株が天満屋、紙屋、加鳥屋、天
まった時も、これを鮎瞼の元帳に使用したのであった。
への譲渡の時も、昭和十一年二九三六︶に天理国書館
満塁から紙屋へ譲渡した時に使った元帳であるが、紙 屋から加島屋
右の﹁別紙目録打帳﹂というのは文政の﹁目録帳﹂ の ことで、天
加島屋清助殿
座れ篇後日板木丼洙膏渡請文政而如件
請取申虎實正也然 ル土着右板木保二村外方違乱妨中音 一切無御
右文通板木半株代銭目試拾五貫目 二相宝典元江永代費 渡代銭鑓
メ
堀船町の家屋敷まで手放した。板元という企業は、管 業用の店の外
に板木の倉庫と印刷の仕事場を兼ねた相富大きな屋敷 が必要であっ
たから、紙屋は屋敷まで買取ったと思われるが、その紙屋も僅か十
年 ほどで加島屋へ譲る羽目となった。天満屋、紙屋、加高屋の板元
三軒が代々同じ屋敷を譲り受けて住んだが、明治五年 二八七一 こ
三月十セ日に西横堀船町を土佐堀裏町と町名改正にな つて以後、加
鳥屋は唐物打四丁目Ⅰ蕃 屋敷 へ移聴した。その跡は繍
つたというから、如何に慶大な屋敷だつたかが想像され るだろう。
紙屋が加島屋へ家屋敷と板木を譲った膏渡代銭 は、天 保九年︵ 一
八三ら十二月と 翌 十年二月との二回に分けて半株ず っ支佛 われ
た。第一回目は銀百二十五貫目、第二回目は百八十貫 目であった
注十三
が、この差額の五十五貫目が家屋敷の代金というから、
に高債であったかが想像されるだろう。
この時に取り交わされた譚支 は、各回とも正式の澄文と 添書の 一
札があって、ムロ計四通残っているが、第二回目の請文
と添書は仙田
理と移動した間に板木の増減はあったと思われるが、多 数のゼ行木
承して増減の跡が認められないのである。従って奥書あ以下の諸本
板木の中で近松本に聞する限りは、文政の﹁目録帳﹂を そのまま纏
浄璃瑠大宇 セ行正本
は ﹁目録
帳﹂通りに同一の元板を使ったと考えられるし、これを碩
氏 が引用しておられるので、第一回目の請文を引用す"
永代費渡甲板木女車
一、竹本豊竹陸竹座都合
三百六指五品 半株
% まで
もその中に含
が判る。それが草に H 1
だけではなく、 叩1
まれていろのである。参考のためにコ目録帳 口の外題 名 、両面板の
%
大すると、山木、吉川、天満屋、紙屋、加島屋と 籠承脛 路の明らか
板木の枚数を記入して﹁奥書集成﹂記載の番號と 対照 してみよう。
0124
4447
49
78
宍奥書集成 二の番 號 ︶
な鴇|囲の諸本は、同一の元版と認めてよかろうと思う。この元版
宍目録 帳 ﹂の外間 名 ︶︵両面板の板木の枚数︶
一ハ枚
四四枚
二八枚
二ゼ枚
0
44
77
8
l上
l5
47
42
四三枚
四五枚
41
女殺油地獄
戯歌加留多
45s52
77789
一セ枚
︵傾城︶島原蛙合戦
三五枚
8g5
778
重井筒︵
恥糾 Ⅱ
大徳 虎稚 物語
大原問答青葉 笛
浦島年代記
︵井筒業平︶河内通
生玉心中
が側|邸をさすこと はすでに述べ た通りであるが、そう即断してよ
いかどうかを板木の側から調査し
五 、文政の﹁目録 帳 ﹂と﹁奥書集成﹂の諸本
% 捧などの山水元正金 伺、丸君 衛 門の奥書も
天理国書館に現存ょ
9るセ 何本の板木には近松本の元版 と 認めてよ
いものが多い。また㌍何
従 って、板木によ る研究は早急
あるが、すべての調査がまだ行き届いてないので、文政の ﹁目録帳﹂
通り現存するかどうかは判らない。
を考えたい。幸い仙田正雄氏が全部の浄瑠璃名を﹁目木文化に 第十
の間に合わないから、板木台帳の﹁目録帳﹂を検討して板木の性質
@45
477
﹁奥書集成﹂の七行本がぼとんど入っているこどが判った。二三の
傾城酒呑童子
0 丁 245g4
4447a8g
四六枚
僅かに巨篇
四二枚
034
477
0 丁 49
4477
例外はあるが、それも焼板 として出版擢を持つていて、
傾
- 城︶反魂香
四 -ハ枚
ゼ行木には多くの種
ぽ とんどが コ目録 帳﹂の板木によ つていること
0468923
47778gg
0450
丁 2
4789g9
五二枚
三八枚
国
姥
四五枚
直
國 佳節後日合戦
性爺合戦
弘徽殿 鵜羽 塵塚
うに見えていても、
のどこかに記載されていることは、
干追加は出来るけれど、それらを含めても全部の書名が ﹁目録帳﹂
のみが記載洩れになっているに過ぎなかつた。
セ 行木 は 日奥書集成﹂
注十四に多く集められている。もつとも東北大豊所蔵本その他によって 若
四號に 翻刻しておかれたので、この中から近松本を選んでみると、
四五
千正大︶
最明寺 殿 百人上 禧
相模入道︵
持統天皇 敵 軍法
澤迦 如来誕生 曾
十二段長生 鳴事
︵源氏︶十二段
酒呑童子枕言葉
聖徳太子 給 悼詞
信州Ⅲ中島合戦
心中天の網島
二セ枚
四五枚
四八枚
四八枚
揺板
三四枚
三九枚
四五枚
四O 枚
Ⅰ
].
エ r.d
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二 二枚
三セ枚
0
447
二八枚
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04
47
蝉
三O 枚
4
丸
善光寺御堂供養
四セ枚
二八枚
五一枚
曽我 扇 八景
曽我 膏稽山
曽我五人兄弟
丹波興作
焼板
焼板
四八枚
三五枚
の
雨
宮 女 振
千 三 女 隅
瓠
焼
株
功
持
天
皇
首
諸
︵丹波興作︶時夜小室節
伊達染手綱
天神 託︵高松︶
天智天皇
嵯
分
四二枚
二 二枚
四一枚
四二枚
一O 枚
四一枚
四三枚
四三枚
四八枚
四セ枚
四ハ
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7
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四六枚
二セ枚
二三枚
一一枚
四九枚
四一八枚
ⅠⅠ
4
大経師昔暦
雪女五枚羽子板
0125
4447
㌍竹
︵﹁室町千畳敷﹂
︵
焼株 ﹁大経師昔暦﹂のタ題 替 ︶
﹁目録
帳﹂ になくてコ奥書集成﹂にある分
熟 八卦昔暦
伯蛇
44
は これの外題 替 ︶
津 園女夫 池
23
拮
42
唐船噺今回佳節
燦静 胎内
淀鯉出世 瀧徳
にあって﹁奥書集成﹂にない分
八枚
不明︶
大
八枚
帳奉敦
人
﹁目録
盛
二八枚
荏柄平
主馬判官
中
八枚
偉株
三八枚
四セ枚
二 二枚
冠
心
職
曽根崎
大
冥途の飛御
百 ムロ右 大臣 野 寺鏡
染
吉野忠倍
吉野忠信
藍
十六夜物語
魂
焼株
焼株
焼株
一心五戒
卯月の紅葉
焼株
焼洙
大掛物土偏一封
傾城南物前
傾城吉岡染
源三位頼政
焼株
焼株
焼株
源氏烏帽子折
焼株
焼株
碁盤太平記
根元曽我
焼株
焼株
焼株
%
焼株
焼株
堀川波鼓
多田尻開帳
々水大鑑
自然居士
焼株
左
高曽我
鑑
松風村雨束帯
焼株
記載の近松 セ有本がほとんど大部分﹁ 目
夕霧阿波鳴渡
このようにコ奥書集成口
録帳 ﹂に載っていることは 、却 1 % 、 用 1 % と多くの種類があって
も 、山本、吉川、天浦昼 、紙屋、加島屋などの諸板元が、同じ板木
四セ
四八
た山木の類いとば同じではなかつた。よしんば重板であっても、坂
園 で出版されたのだから、十字本も一膳限定でさそう だけれども、
ような 條件 にあったが、 セ何本が大韻文政のⅠ目録帳 ﹂
京都でも出版統制以後は中手本が行われ、大阪板 の 七 何本と似た
株所有者の許可を得て聞根したものであった。従って、セ石本に開
この方は ゼ石本より歴史が古いだげにもつと複雑である
を次々と継承流用したに違いなく、勝手にカブセ彫りや類板をやつ
する限りは、これらの諸板を同一に扱って差支えなかろう。板株温
書誌的には有力な資料と見なすことができる。同じ印刷でも初版営
かねるが、奥書群を分類する意義 は、元版と重板類板 との 厘別 を見
が横行した、出版統制以前の時代である。全く混乱状態で手を着 け
なおそれ以上に厄介で、それ以上に重要なのは、丸本の重板類板
時は磨滅が少なくて出来上りがよいから、定本を作る場ムロには肋板
究め、初枝による定本を作るところにあるから、どう しても整理基
有 という事情があったとしても、元版のまま現存していることは、
本を集めるに越したことはないけれども、同時に板木と照合するこ
準を決定することが望まれる。
になってしまうた。
貞享三年内寅
日展﹂山
リヨ尋
と銘打つからには 趺 くべからざるものばかりであった が 、戦災で 灰
群口上演﹂の﹁ 今 Ⅲ 了俊 ﹂八行献上本などが並んでい て、コ 集成口
永忠度﹂十二行本、﹁貞享三年商貢物辰上梓、貞享 四 稔丁卯 正月 吉
正月上旬﹂の﹁ 頼朝 演出﹂八行本、﹁貞享三内宣初冬仝
を見ると、﹁奥書集成﹂に洩れた稲本が載っている。﹁
した豊竹 古靭 太夫︵現在の山城少塚 ︶ 氏所蔵の近松本 百徐 鮎の目録
状態にまでは到っていない。昭和十二三年ごろに大幅 ほ鳥屋で展観
によって随分多くの近松本を収集したが、それでもまだ滴定できる
にも多い。﹁奥書集成﹂は森 ・横山・ 信多二 氏の長年に わたる博捜
それにしては肋板本の登見されないままになっている
とが定本を擢威 づけることになると思う。埋木の有無や板木の磨滅
0度合を知り、包紙や表紙、題簸などの板木を調べることが無意義
とは舌え
ロな卜
円ハりである。
六、近松本の書誌的研究
庄十巴
近松の丸本を幾種類かの奥書 辞にまとめて整理することは、潮田
窪近
十松
こ軍の
曹
貞治氏が﹁近松浄瑠璃丸本奥 旧君﹂ で試みられて以来、
窪十セ﹁近松の丸本﹂で行われ㌔
忙荘田
﹁近松浄瑠璃本書目﹂や横山正氏の
松浄瑠璃本奥書集成﹂に到っているが、奥書群の出版期間を決定す
るのは容易でない。
以後は、大阪でセ行木に統一さ
れたことだけは認められるであろう
のみである。﹁大坂御堂筋﹂となっているが、テ高買物
調万記 ﹂
︵洋 三︶多くの山木根がある申で任所を記しに丸本 は コせみ九口
掛かっていると思われるし、事實、近松の全作品を初板木で集める
︵元禄五年刊︶の﹁大坂ニテ
定本がかなえの軽重を問われるのは、この種の稀本発見の如何に
ことは望ましいに違いないが、早急に實 現は困難であろう。この場
のまへ二百﹂と記してある類か。
祓 、﹁浄瑠璃小面 番 ﹂奥書、
﹁浄瑠璃小菊 丸﹂奥書、六行木﹁曽根崎心中﹂竹本筑後塚 序文。
︵注 四︶﹁貞享四年義太夫節段物集﹂
浄 るり太夫本屋﹂に﹁ 其 外 御だ ぅ
合に考えられる ことは、セ行木の板木が教えてくれたよう に元板の
流用が営然行われたに違いないから、後の板でも、初板本の流用が
認められるものがあれば、それを探すことも次善の策ではないだる
京阪書籍 商 沿革 史 ﹂の﹁大阪書籍 商史 ﹂。﹁
牡
︵
注 五︶蒔田稲城氏 コ
笏大阪出版書籍目録﹂の﹁大阪書籍
うか。それには少々面倒な手蹟が必要である。刊記や奥書などを改
めた後刷り本が残っていることもあるだろうが、一方では重板類板
廊書 に引用した大阪本屋仲間の古文献は、大阪国書 出 版 業組合
われる。
セ行木については奥書何
四年の訴
|
坂と
,思
の他のセ打木 は元株主の許可を得たか、竹本座以外の出
の 一例、蝸に妻屋の一例があるが、すぐに中止したら
セ何 とするは十一・二行の誤。
︵注 六︶﹁奥書集成﹂山木板の項参照。奥書おの﹁平家
女護島口を
0所蔵で、現在は大阪府立圃書館に寄託。
商仲間沿革 略 ﹂。
が横行したことも事實であるから、元板の流用と重板類板の鑑別を
やらねばならない。これは非常に困難だけれども、定木を作るため
には誰かの手で何時かは解決せねばならぬ問題である。ここに取上
げたセ何本の書詩的研究も、その一環の中では準備的な作業に過ぎ
ないのである。
に、 ﹁みと せは麦に山見世 し
︵
注セ ︶ 注五と 同様。
︵註 一︶ ﹁貞享 四年義太夫節段物集目
一
Ⅰ。・・:やつかれ愚父が家業をついで。 浄 るり正本のほやし 板
反
@
︵江 八︶ 國曾 回書館所蔵﹁義太夫本公訴一件三天保二一
記事件の文書︶の﹁なにわの巻 ﹂。﹁京阪書籍商 沿革 史 ﹂ の ﹁大
行の 森 。 某枝 難波津にしげり て。::﹂とある。貞享四年 は人
阪の 出店を脛督して三年目に営るから、逆算すれば貞享元 年と
竹本 千 太郎 座 の後見をし
板書籍 商史 ﹂。
︵注 九︶奥書㏄の形式は、竹本政大キ
盃
@O
二年 とも取れるが、ここでは元年としてわく。
︵洋二一︶
﹁奥書集成﹂所載の山木坂の画板参照。
九
た天明寛政どろの新作浄瑠璃に附けたものである。一揖
ノ
汀0
︵注十八︶昭和三十五年三月二十日大阪府立 藝 懇話 倉登 -
-注十セ ︶昭和三十二年正月﹁ 解津と 鑑賞﹂に発表。
五O
新作を板木に彫刻して開板した時に生ずるが、一度板 植を持つ
とは有り得るし、しかも現存の板木は山本丸葉草を埋木 してい
の 板木 は本文と離して別置するから、玉水が誤つて綴じ込むこ
が開板した近松本に、奥書㏄を附けることはむかつたが、奥書
した。ここに厚くお硝を申します。
理回書館と佐古慶三氏には本文引用の資料を提供し ていただきま
・大阪の両国書館と 森修 ・横山正両氏のお世話にな
﹁義太夫本公訴一件目と大阪本屋仲間の古文献につ
しました。 天
いては、上野
と、永代その権利が認められた。従って名目的にしても、山本
るぐらいだから、玉水では同種の奥書として扱ったのだろう。
四章第二
。 宍 京阪
注十︶奥書 絃 までは、 番附の紋下が奥書の太夫老や 座 本名と共
通していた。
注 十一︶﹁義太夫本公訴一件に。大阪本屋仲間の百文献
書箱 商 沿革 史 ﹂に引用︶。
注十三﹁京阪書籍 商 沿革 史 ﹂の﹁大阪書籍南史﹂第十
節 五一頁。
宍 国語国文
注 十三︶加島屋竹中清 助氏 ﹁浄瑠璃の話﹂ 宍話 ﹂第一巻第三 號 ︶。
梅花 女寧 校は明治十一年の創立という。
注十四︶佐藤移民﹁ 淑翻麒鯉近松浄瑠璃本書目解題﹂
研究 仁 第十八・九号︶
注十五︶昭和八年五月十五日﹁愛書﹂第一、第二 輯に 遵表 、後
﹁博 続演別項 談 ﹂に収む。
注十六︶昭和三十年六月一日大阪府立 藝 懇話 曾 逆行。