9 死んだ鴉の夜鳴くところ 死んだ鴉の夜鳴くところ 10 黒埜 形 ── Kurono Kei 愛 知 県 在 住。 田 舎 暮 ら し。「 KIG ⊃ ∩ 」 に て、 黒 形 圭 名 R MI 義 で 第 六 回 Y J 新 原 作 大 賞 佳 作 受 賞、 コ ミ ッ ク ス 化。 本 作 に Hiko 新人賞受賞。小説、漫画原作、ノベル て第二十三回 BOX-AiR ゲームのシナリオなど執筆中。 ヒコ ── http://hiko0612.blog.fc2.com/ 装画等でぼちぼちお仕事させてもらってます。和菓子が好きで す。 死んだ鴉の夜鳴くところ 11 くじら ❖ 序 ❖ よ いん ボォォ─…ン、と 鯨 の鳴くような余韻を残して、柱時計の 音が鳴った。 あめいろ ぼ 色がかった帳場の奥──ちょうど正午を指した文字 古びて飴 盤の手前を、ゆらりと紅い金魚がよぎる。まん丸な腹は、まる ほおずき すす で鬼灯。ひらひらと暗がりに揺らめく尾びれは、今が盛りの牡 たん 丹の花だ。空中を泳ぐ金魚たちは、煤けた棚の立ち並ぶ店の売 死んだ鴉の夜鳴くところ 12 り場を、まるで墨絵に散った朱墨のように、あちらこちらと飛 び回る。 この世ならざる光景。それもそのは 一言で評すれば、まさおに りがみ や ず──この店の名は、折紙屋。ヒトならざるモノの営む店だ。 そして、何十と泳ぐ金魚たちの中心に、当の店主の立ち姿が あった。 ひど しゅう じ う 「──まったく店に来て早々、ずいぶん酷いことしますね、ア ンタ」 たたず からすあげ は あで り向いた先に 佇 むその人は、土間床に立った 修 治を、胡 ろ振 ん まな ざ 乱な眼差しで見下している。 りん と黒染めの着物をまとった姿は、 鴉 揚羽の艶やかさ。 凛 死んだ鴉の夜鳴くところ 13 そうぼう 濡れたような黒目がちの双眸、匂い立つほど白い肌──目を 疑うような美貌だった。 しかし、はっと修治が息をのんだのは、別の理由だ。 (──…何だろう、この懐かしさは) にじ み出るその懐かしさは、人 知らず胸が熱くなる。じわりと滲 肌にも似て温かい。 0 0 まるで探し続けていた誰かと、ようやく巡り合うことができ たような──。 0 (そうだ、俺はずっと何かを──…誰かを、こんな風に、夢の 0 中で) 真夜中の暗闇で、顔も名前も忘れてしまった誰かを、ずっと 死んだ鴉の夜鳴くところ 14 ひと 孤りで探し続けてきたような、そんな──。 「ようこそ、折紙屋へ──歓迎はしかねますがね」 冷やかに言葉を放つ店主の、その幽玄の美貌に目を奪われな がら、修治は──今この時この光景が、まるで明け方に見た夢 ❖ 壱 ❖ の続きのようだと思った。 ──こんな夢を見た。 死んだ鴉の夜鳴くところ 15 こう し まど 顔を上げると、天井近くの格子窓から覗く、白い満月と目が む 合った。舞台の書き割りめいたその輪郭は、噎せかえるような ほこり び こう 盛夏の闇に、じわりと溶けて滲んでいる。ふと疲れた足を止め、 しっ くい 息苦しさから深呼吸すると、古びた漆喰と 埃 の匂いが鼻腔を ついた。 ──土蔵だ。 おそらく修治が生まれ育った屋敷の、敷地の片隅に建ってい た蔵。名高い人形師だった父親が、工房として使っていた場所 でもある。一人息子だった修治を含め、屋敷の使用人から取引 先の美術商まで、固く出入りを禁じられていた。 けれど今、修治は一人で、その真夜中の土蔵をさまよってい 死んだ鴉の夜鳴くところ 16 る。 0 (──…早く見つけなければ) 0 探しているのか、それすら修治にはわか しかし何を──誰を しょう そう らなかった。ただ居てもたってもいられない 焦 燥だけが、胸 うず の奥に疼いている。 らん ちょう ぼん (なぜなら──…俺は□□したのだから) もう ろう 朧とした意識は、まるで乱 丁 本をめくるような歯抜けぶ 朦 りだ。 けれど、この暗闇の奥で誰かが泣いているような──そんな 予感が、ただそれだけで誰かを探す理由には十分なのだと、奇 妙に確信めいた思いとなって胸にあった。 死んだ鴉の夜鳴くところ 17 シャン。 その時、背後で鈴の音が鳴った。 音 に つ ら れ て 振 り 返 る と、 大 小 の 道 具 が ひ し め く 土 蔵 の 奥 よど ──澱んだ暗闇が人の形をとったように、ぬっと歩み出る人影 があった。 は、奇怪な様相の男だった。 青い月光に浮かび上がったかの く おび ぞう り 帯をしめた草履姿。一見すると、 紺無地の羽織をはおり、角 やなぎ ごう り 富山の薬売りによく似た格好だ。その背に大きな 柳 行李を背 負い、すげ笠の下からねめあげている。 死んだ鴉の夜鳴くところ 18 かえる 面相は、 蛙 に似ていた。 つぶ へんぺい したような、扁平にひしゃげたガ 性根の悪い子供が叩いて潰 マ蛙の顔。しかし、肌はまぎれもなく人間のものだ。なのに双 眸には、瞳孔の縦に長い爬虫類の目玉がはまっている。人では ありえない異形だった。 (これは──いや、こいつは一体、何なんだ) シャン、とその手元で音が鳴った。旅の僧侶が携えるような しゃくじょう 錫 杖 が、拍子をとるように床をつく。すると、幾つも繋げら れた鉄の輪が、鈴の音に似た音を鳴らした。 お かん 寒を覚えて後ずさりした──その瞬間、ガマ蛙の口 ぞっと悪 がにたりと笑った。 死んだ鴉の夜鳴くところ 19 びんづめ あなた 「瓶詰屋あ、瓶詰屋でございます。貴方様を詰めに参りました あ」 面相と同じくひしゃげた声だ。 シャン、シャン、シャン。 杖で床をついた男が、獲物を追いつめるガラガラ蛇のように 音を鳴らして、立ち尽くす修治との距離を詰める。 シャン! 死んだ鴉の夜鳴くところ 20 ひときわ 一際大きく音が鳴った。 せつ な 那、錫杖の先が跳ね上がった。くるりと回転した杖が、男 刹 の手中にパシリとおさまる。やおら槍のかまえをとった男は、 修治に逃げる隙も与えず、錫杖の先を突き出した。 がくぜん 然と見開かれた修治の左目に向かって。 愕 ❖ 鋭く尖った先端が角膜に突き刺さった──その瞬間、パリン、 と、ガラスの割れる音を聞いた気がした。 「──痛っ!」 死んだ鴉の夜鳴くところ 21 ふ とん 目覚めた途端、左目に走った激痛に、たまらず修治は蒲団か ら跳ね起きた。 まぶた 的に指を押し当てると、熱い涙に濡れる 瞼 の下で、痛 反射 かたまり みの 塊 が、ずきん、ずきん、と脈動している。しばらく動く こともままならず、修治はじっと痛みを噛み殺した。 (──…夢だったのか。今のが、全部?) では、この激痛の原因は一体何なのか。やがて痛みの波が引 くと、ようやく蒲団から抜け出した修治は、よろめく足取りで 洗面所に向かった。築十五年の木造アパート二階、浴室の手前 にかかった鏡に、高校二年生である修治の姿が映し出される。 ほそ おもて 黙な印象の、やや目つきの悪い細 面 。一八 か もく 父親似らしい寡 死んだ鴉の夜鳴くところ 22 ○センチを超える長身は、同級生たちから「剣術の師範代のよ うだ」とからかわれるほど姿勢がいい──そして今、その左目 に明らかな異常が見てとれた。 (──ひび割れ?) 愕然として、修治は鏡に映った自分の顔を見返した。 ──左の眼球に、亀裂があった。 まるで鋭利な刃物で突いたような──割れたビー玉にも似た、 縦長の裂傷。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ずいぶん深そうな傷だ。いや、割れ目と呼ぶべきなのか。な にせ修治の左目は、ガラスでできているのだから。しかも義眼 な ど で は な い。 人 並 み に 視 力 の あ る、 生 身 の 眼 球 だ。 そ れ が 死んだ鴉の夜鳴くところ 23 ぱっくり縦に裂けているのだから、何にせよ、異様な状況には 違いない。 「…………」 恐る恐る人差し指の腹で眼球に触れる。そっと亀裂をなぞる と、割れたガラス特有の危うげな感触が伝わってきた。下手に 力をこめれば、指先を切ってしまいそうだ。 (やけに視界が悪いのは──この傷のせいなんだな) まるでハンマーで割られた窓ガラス越しに、景色を眺めてい るような有様だ。失明していないだけマシかもしれないが── どのみち左目を隠すより他なさそうなので、さほど有り難みも 感じられない。 死んだ鴉の夜鳴くところ 24 (それにしても、一体なんだってこんな傷が) まゆ をひそめる。 理不尽な状況に、やり場のない怒りにかられて眉 昨夜蒲団に入った時は、確かに何の異常もなかった。眠って いる間に槍で片目を突かれれば、こんな状況になるのだろうか。 いや、そんな馬鹿げた話が──。 (──…待てよ、そういえば) その時、修治の脳裏に、夢の中で目にした光景が思い浮かん だ。 かお ──時代劇の薬売りに 真夜中の土蔵で遭遇した、ガマ蛙の貌 よく似た、異形の商人。 確か目覚め際に、手にした錫杖の先で左目を突かれた。もし 死んだ鴉の夜鳴くところ 25 もあれが現実の出来事だったら、こんな傷になったのだろうか。 (けれど──しょせん、夢は夢だ) たとえ、それがガマ蛙の化け物に襲われる悪夢や──暗闇の 中で誰かを探してさまようやるせない記憶だったとしても。 (今はまず──この左目をどうするかだ) 0 「ものもらい」と偽って眼帯をはめれば、しばらくの間はやり 0 過ごせるだろう。しかし、いずれ修理が必要になる。 がん か 窩にはまっていた、本 なにせ修治にとっては、生まれつき眼 物の目玉なのだから。 あ 確かに素材はガラス製だ。しかし、無機物のツクリモノまで ばた るはずの眼球は、生まれつき修治の左目として機能し、 瞬 き 死んだ鴉の夜鳴くところ 26 か ふ し ぎ をし、涙を流し、そして視力を有している。 ま 0 0 訶不思議な部品は、この左 おそらく修治の体内に隠れた、摩 目だけではないのだ。 たとえば、血管を脈動させるため、心臓にば組ねみこまれた大小 の歯車。太股の筋肉にまぎれこんだ金属の発条──そんな世に も珍しい人体部品の数々が、休みなくカチコチと動いているの からくり だ。まるで時計仕掛けの機巧人形のように。 なぜなら修治の体は、半分が人ではないのだから。 木修治という存在だった。 、半人形。 半人間にしかて らす ぎ それが、 鴉 死んだ鴉の夜鳴くところ 27 しゅう ぞう こう ず か ─修治の父親である男は、好事家の間で『生き 鴉木 柊 造た─ た き だい 神』とまで讃えられた稀代の人形師であり、その妻となったの は、彼が生み出した作品だったのだから。 はら から ──修治は、おそらくこの世でただ一人、生き人形の胎 生まれたのだ。 ❖ 今から十七年前──修治が生まれた当時の話だ。 北陸に位置する農村に、古くから屋敷を構えた鴉木家。今な 死んだ鴉の夜鳴くところ 28 そ ほう か お素封家として知られるこの旧家に長年仕える老医師は、ある 夜、若き当主である柊造の命で、工房の土蔵へと駆けつけた。 うし み お つな うぶごえ 三つ時──そこで彼が目にしたのは、奇々怪々 草木も眠る丑 の光景だった。 「──どうして、ここに赤ん坊が」 へそ の緒で繋がったまま産声を それは冷たい床の上で、母親と臍 かたわ 上げる、生まれたばかりの赤ん坊だった。しかし、 傍 らに寄 まつ げ り添う母親は、柊造の作品である女人形だったのだ。 ぼう とく っ そ 冒 涜 的 な ほ ど 人 に 似 せ ら れ、 睫 毛 の 一 本 一 本 に ま で ねずい み み め うるわ 鼠 の毛を植えこまれた、見目 麗 しい生き人形。しかし、しょ せんヒトガタだ。どんなにヒトに似ようと、喋りもしなければ はら 瞬きもせず、まして胎に命を宿すなどありえない──そのはず なのに。 「一体、どうしてこんな──」 ぼうぜん 然と呟いた医師に、柊造は短い答えを返した。生まれた我 茫 しょう すい が子を抱き上げようともしないまま、けれどなぜか酷く 憔 悴 した顔つきで。 ──『折紙屋』に頼んだ、と。 しかし『折紙屋』とは何なのか、どんなに周囲が聞き出そう らったのだと。 こ の 世 な ら ぬ 力 を も っ た 商 人 に、 相 応 の 代 価 を 約 束 し て 『 妻 』 の 命 を 買 い 取 り ── 命 な き 人 形 に、 魂 を 吹 き こ ん で も 死んだ鴉の夜鳴くところ 29 死んだ鴉の夜鳴くところ 30 としても、それ以上柊造が口を開くことはついになかった。そ して、柊造の『妻』となり、修治の『母』となった人形が、再 び命を宿して動き出すこともまたなかったのだ。 と つきとお か 月十日、柊造と共に暮らしたという母親は、出 少なくとも十 で く 産を境に物言わぬ木偶に戻ってしまった。まるで魂のすべてを、 生まれた我が子に譲り渡してしまったように。 死体同然となった妻を、柊造は一族の墓に埋葬した。 そして『鴉木修治』と命名された赤ん坊は、誕生と同時に母 親という存在を失った。 はな から忘れ しかし柊造は、忘れ形見となった修治の存在を、端 てしまったように見えた。世話の一切を使用人に任せ、工房に 死んだ鴉の夜鳴くところ 31 閉じこもったまま、我が子がどんなに周囲から奇異の目を向け られようと、その暮らしぶりを気にかけることもない。 そして修治が七歳の誕生日を迎えた夏、ふらりと屋敷から姿 を消した柊造は、そのまま行方知れずになってしまった。 ──捨てられたのだと、今なお修治はそう思っている。 ❖ 洗面台の蛇口をひねって顔を洗うと、幾らか頭の中がすっき りした気がした。 ぬぐ って鏡を覗くと、未だ涙の滲んだ左目には、 しかしタオルで拭 死んだ鴉の夜鳴くところ 32 変わらずひび割れが走っている。どこか途方に暮れた子供のよ うなその表情に、自然修治は溜息をこぼした。 (──さて、一体どうしたものかな) ゆが み を 何 と か し よ う と、 押 し 入 れ の 奥 を とりあえず視界の歪 探った修治は、埃まみれの救急箱を見つけ出した。中にあった さんぱく 眼帯をはめると、なんとか視界は正常に戻った。もともと三白 がん 眼気味なので、ずいぶん迫力のある面相になったが──まあ、 四の五の言っていられる状況でもない。 よし、と一息ついて時計を見ると、ようやく午前六時を回っ たところだった。 早起きは三文の徳とは言ったものだが、あいにく土曜日で高 死んだ鴉の夜鳴くところ 33 校もない。かと言って休日診療の病院に駆けこめば、診察した 医師に卒倒されるか、未知との遭遇扱いだろう。 いっそ寝直してしまおうか──そうヤケクソ気味に考えた途 端、脳裏にニタリと笑うガマ蛙の顔が思い浮かんだ。今眠れば 悪夢にうなされるのは間違いない。 (──じゃあ、俺は他に何をすべきなんだろうか) 腕組みをして考えてみるものの、一向に妙案は浮かばなかっ た。 知らず、修治は二度目の溜息を吐いた。しかし、ただ思い悩 んでいるのも性に合わない。とりあえず蒲団を畳んで台所に向 かうと、手早く味噌汁を作って昨晩の残り物で朝食をすませた。 ち そう さま が差しこんでくる。 りち ぎ ぽつりと呟いて腕組みをする──と、同時に、脳裏によみが 「──…弱ったな」 ない、と思い直した。 和だ。ついでに蒲団も干すか、と腰を まごうことなき洗濯日 上げかけて──いや、重大問題を放り出したままで洗濯も何も び より 誘われるように窓辺に近づき、修治はカーテンを引き開けた。 薄く曇った磨りガラス越しに、秋晴れを予感させる白い陽射し 午前七時──そろそろ町が動き出す時刻だ。 ジン音が聞こえてくる。 「ご馳走様でした」と律儀に手を合わせた頃、表から車のエン 死んだ鴉の夜鳴くところ 34 死んだ鴉の夜鳴くところ 35 える記憶があった。 かげろう かす 炎 の 向 こ う に 霞 む よ う な そ れ は、 今 か ら 十 年 前 遠く夏の陽 しっそう ──柊造の失踪にまつわる出来事だった。 ❖ 思い出すのは、原色の絵の具をぶちまけたような、鮮やかに 青い八月の空だった。 ず 修治は、夏休みの宿題を終え、暇を持 当時小学二年生だっおた も や ひろえん て余した昼下がりを母屋の広縁で涼んでいた。濡れたように冷 は たい縁側は、その硬さが心地良い。ざあ、とざわめく葉擦れの 死んだ鴉の夜鳴くところ 36 せみ 音に、遠く近く蝉の鳴き声が加わって、まるで雑踏の騒がしさ だ。 か し ぎんねず いつからうたた寝してしまったのだろうか。ふと目覚めた修 治が体を起こすと、ぎょっとするほど間近に人影があった。ま か るで枯れ野の案山子のような、生気の失せた影法師。銀鼠の着 物をまとった体は、今にも盛夏の日射しに溶け崩れそうに見え る。 ──柊造だった。 つ 工 房 か ら 出 て き た の だ ろ う か。 ぬ ぅ、 と 亡 霊 の よ う に たたい ず 佇 んだその顔は、逆光のせいで表情が読めない。ただ真一文 字に口を閉ざしたまま、じっと修治を見下ろしている。 死んだ鴉の夜鳴くところ 37 どこかただならぬその様子に、知らず修治もまた息を詰めた。 ちりん、と。 ─の─ きした 下の風鈴が鳴る。 軒 次 の 瞬 間、 そ の 音 を 合 図 に し た よ う に、 柊 造 の 腕 が 持 ち 上 がった。節くれだった人形師の手が、修治の頭に向かってのば おさな ご される。 幼 子をあやす親が、その頭を撫でようとするように ──いや、作品の出来を確かめようとする人形師の手つきにも 見えた。 一瞬、時間が止まった気がした。 死んだ鴉の夜鳴くところ 38 瞬きを忘れ、呼吸すら止めて、修治は近づくその手を見つめ た。これほど間近で父親と対面したことは一度もない。まして 頭を撫でようとしてくれたことも。 ──けれど。 触れるか触れないかという、その一瞬。 すき ま 間を残して、今まさに修治の頭に触れようとし 指一本分の隙 ていた柊造の手が、ぴたりと止まった。 ──ちりん、ちりん、と。 繰り返し、繰り返し、風鈴が鳴る。 死んだ鴉の夜鳴くところ 39 永遠にも思えたその時間は、実際には数十秒にも満たなかっ たろう。 「お前は、人形じゃないんだな」 ぽつり、と独白めいた呟きが落ちた。同時に手を下ろした柊 造は、結局、修治に触れないまま背を向けると、工房へと遠ざ かっていった。 修 治 は、 と っ さ に そ の 背 を 呼 び 止 め よ う と し て ── で き な かった。お父さん、と呼びかける機会すら、修治には生まれて から一度もなかったのだから。 死んだ鴉の夜鳴くところ 40 果 た し て、 柊 造 が 行 方 を く ら ま せ た の は、 そ の 翌 朝 の こ と ほの だった。誰にも行く先を仄めかすこともなく、書き置き一つ残 さないままで。 それを知った時、修治の脳裏に浮かんだのは、最後に父親の 残した呟きだった。 ──お前は、人形じゃないんだな、と。 その通りだ、と修治は思った。片親が人間である以上、完全 な人形にはなりえない。だからこそ父親は、人形師としての審 美眼によって、修治を『人形ではない』と──『人形の出来損 ない』と断じ、要らないものとして置き去りにしたのだ。 人 形 で は な い か ら 捨 て ら れ た の だ と ── 今 な お 修 治 は そ う 死んだ鴉の夜鳴くところ 41 思っている。 ──けれど、柊造の手によって、修治の元に残されたものも あった。 しゅっ ぽん 奔した日の朝、修治の部屋の前に置かれ それが、柊造が 出 た巻物の箱だったのだ。 ふた の上には、黒く並んだ三つの墨文字。達筆なそれは、 細長い蓋 柊造のものとよく似た筆跡に見えた。 ──折紙屋。 ──よろず相談。 ──地図。 修治を驚かせたのは、その一つ目だった。 死んだ鴉の夜鳴くところ 42 折紙屋──かつて物言わぬ人形だった母親に魂を吹きこんだ という商人の店。 蓋を開けると、中には一本の巻物があった。そして、あれか ら十年が経った今でも、箱の中の巻物は、当時のまま保管され ている。 もしも──と、高校生になった今、修治は再び考えを巡らせ る。 あれが本当に折紙屋の地図だとしたら、どうだろうか。困り 事 が あ っ た ら こ の 店 を 訪 ね る よ う に と、 最 後 に 父 親 が 残 し た メッセージなのだとしたら。 地図を手がかりに折紙屋を訪ねれば、この左目を修理しても 死んだ鴉の夜鳴くところ 43 らえるかもしれない。 ──試してみる価値は、あるように思えた。 ❖ 「──よし、あった。これだ」 果たして、先ほど救急箱を引きずり出した押し入れの、さら くだん に奥の奥の方で、 件 の巻物は見つかった。引っ越し直後に放 いまいま りこんでそのままだったのだろう。まるで目に入るのも忌々し いと言わんばかりの仕舞い方だ。むしろよく燃えるゴミの日に 出さなかったものだと、過去の自分を褒めてやりたい気持ちに 死んだ鴉の夜鳴くところ 44 もなる。 そう考える原因は、箱の中の巻物にあった。 「……やっぱり、白紙のままか」 畳の床に正座した修治は、膝の上に巻物を広げて溜息を吐い た。 十年ぶりに手にした巻物は、幼い頃と何一つ変わらず、見事 に真っ白なままだった。 ち 肝心の地図どころか、筆文字一つ見当たらない、まっさらな 無地。 た 質の悪い冗談だろう」と不快げな 巻物を見た大人たちは「性 顔で口を揃えた。何度も捨てるようにうながされ、修治自身も 死んだ鴉の夜鳴くところ 45 そうするのが一番だと悟ってもいた。 れでも──何か読み解くのに工夫がいるのかもしれないと、 いそ ち る 一縷の望みを捨てきれないまま、さまざまな方法を試してきた。 あぶ 熱や光、そして水による炙り出し。しかし、すべては徒労に終 わり、中学生の頃、危うく端を焦がしそうになってからは、無 ちょうぶつ 用の 長 物として捨て置かれている。 もしかすると十年の月日が経った今なら、何か変化があるの ではないか──そう淡い期待を抱いたものの、やはり今度もま た徒労に終わったようだ。 自然、駄目押しのような溜息がこぼれた。 なに、最初からわかっていたことだ、と胸中で独りごちる。 死んだ鴉の夜鳴くところ 46 そして、元通り巻物を仕舞い直そうとした──その瞬間、修治 は驚きに目を見開いた。 突然、巻紙の表に、じわり、と墨が滲んだのだ。 まるで見えない手で筆を滑らせたような、流麗な墨字が。 ──表へ出ろ。 けん か 嘩を売られているような文句だ。 ……喧 物相手にお 思わず「何様だアンタは」と言いかけて、いやき巻 ょう がく 前こそ何なんだ、と修治は慌てて口を閉じた。 驚 愕のあまり 思考が変な方向に飛びかけたらしい。 死んだ鴉の夜鳴くところ 47 み じ たく 急いで身支度をすませた修治は、指示通りにアパートの外へ と飛び出した。 ──カン、カン。 さ びた金属の外階段が鳴る。コツ、と最 スニーカーの底で、錆 後の一歩でアスファルトの道路に降り立つと、ざあ、と街路樹 を鳴らして、秋の風が吹き抜けていった。 風につられて空を仰ぐと、頭上には雲一つない十月の空が広 がっている。 街に、通行人の姿 見たところ、白々と朝日に照らされた住お宅 うらい はなかった。はたと我に返ってみると「往来で巻物を広げる男 子高校生」というのも、なかなか珍妙な光景なので、目撃者が 死んだ鴉の夜鳴くところ 48 いないのは幸いだった。 せきばら 払いをして、手元の巻物を覗きこむ。てっき こほ、と一つ咳 り、すぐに次の指示が出るかと思いきや、巻物の文字は「表へ 出ろ」のまま何の変化もなかった。 さて、どうしたものか。 眉をひそめて考えこんだ修治が、ふむ、と唸りながら顎に片 手をあてた──その時。 「──あ」 ざあ、と強く風が吹いて、指先からさらわれた巻物が、高く 空へと舞い上がった。 ──次の瞬間。 死んだ鴉の夜鳴くところ 49 ──バサッ、バササッ。 不意に、修治のすぐ目の前で羽音が鳴った。 突然、行く手を遮るように一羽の鴉が舞い降りたのだ。 愕然と目を見開いた修治の前で、あろうことかパクリと巻物 をくわえた鴉は、再びバサバサと羽音を鳴らして飛び去ってし まった。 「 おい、こらっ、待て!」 しかし、そのまま飛び去ってしまうかと思いきや、数度大き 慌てて駆け出した修治が、鴉の後を追いかける。 !? 死んだ鴉の夜鳴くところ 50 く羽ばたいた鴉は、今度は曲がり角の電柱にとまった。 黒く円い瞳が、じっと修治の姿を見つめている。獲物を盗ら れまいと警戒するよりは、「早く来い」とうながすような目つ きで。 「──何だ?」 しみながら、そっと電柱へと歩 いぶか どこか奇妙な鴉の様子を 訝 み寄る。 すると、再びバサリと羽音がして、巻物をくわえて飛び立っ た鴉は、次の曲がり角で郵便ポストの上にとまった。物言いた げなその目が、じっと修治を見つめている。 ──こっちに進め、とうながすように。 死んだ鴉の夜鳴くところ 51 ようやくわかってきた。 自分は今、鴉に道案内されているのだ。 ❖ 鴉の後を追いながら、修治は故郷での日々を思い返していた。 ひら かげ え ちょう この辺りは、拓けたばかりの振興住宅街だ。影繪 町 ──読ん ふもと で字のごとく影繪山の 麓 に広がるこの町は、そこかしこに田 畑を潰した名残があり、新築のビルや高層マンションなどに混 ざって、古びた瓦屋根の民家や昔ながらの駄菓子屋の姿も見え 死んだ鴉の夜鳴くところ 52 る。町全体が、どこかちぐはぐな印象だった。 ちんじゅ 守の森の生い茂る神社、建設中の雑居ビル、昭和の匂いの 鎮 た ば こ 漂う煙草屋──そんな町並みを横目に見ながら、ただひたすら 案内人の鴉を追いかける。 ──謎の失踪から、早くも十年。 今や柊造は、法的にも社会的にも死んだものと見なされてい る。鴉木家の家督は一人息子の修治に引き渡され、当時中学生 だった修治の元には、代々の屋敷と土地、それから少なくない 財産が遺された。同時に、修治の『保護者』を名乗り、我が物 まさ 顔でのさばり始めたのが、今やただ一人の肉親である叔父の雅 ひこ 彦だった。 死んだ鴉の夜鳴くところ 53 ばくち かんどう 博打好きが高じて先代から勘当を言い渡され、一時故郷を遠 ざかっていた雅彦は、しかし兄の柊造に代替わりして以来、何 い そうろう 食わぬ顔で舞い戻り、居 候 生活を続けていた。 いまいま 々しげ しかし雅彦は『保護者』を自称する一方で、修治に忌 ぶ べつ な目を向けた。まるで人でなしの化け物を見るような、侮蔑と 恐れのこもった目で。 ──見ろよ、あの兄貴そっくりの無表情なツラ。まるで木偶 の人形だ。従順なフリして、腹の底じゃ人間を馬鹿にしてるん だよ。アイツだってヒトモドキの化け物なんだ。 さすがに犬猫のように棒で打たれることはないけれど、これ 見よがしの陰口もまた人の心を痛めつける。やがては遺産の使 死んだ鴉の夜鳴くところ 54 い こ み が 発 覚 し て、 当 時 中 学 生 だ っ た 修 治 は、 つ い に 雅 彦 と たもと 袂 を分かち、屋敷から追い出すことになった。 そして修治は、高校への進学をきっかけに、心機一転、遠方 の地へと移り住んだ。屋敷や山林の管理を専門家に任せ、高校 近くにアパートを借りて一人暮らしを始めたのだ。 新天地に、修治の生まれを知る者はいない。ようやく奇異の 眼差しから解放された修治は、自然と同級生の輪に溶けこみ、 時には馬鹿話にも興じられるようになった。 それでも時折、周囲との間に、見えない壁を感じてしまう。 めたさなのだろうか。しかし、 隠し事をしている、という後だろ ま 嘘を吐いたわけでも、悪意で騙したわけでもない。やましさを 死んだ鴉の夜鳴くところ 55 覚えるいわれはないのだ。 ──そのはずなのに。 それでも修治の中には、今なお根深い恐れが巣食っていた。 い もしも正体を暴かれれば──この体の半分が『人間ではつな ちか もの』であることを知られれば、その瞬間に、これまで 培 っ てきた友情や信頼が水泡に帰して、背を向けられてしまうので はないかと。 あの夏の午後、幼い自分に背を向けた父親と同じように。 は、半人間、半人形の出来損ない──どちらに しょせん自は分 ん ぱ もの も属せない半端者だ。 死んだ鴉の夜鳴くところ 56 そんな諦めにも似た想いが、修治の心に根を下ろしている。 ❖ それからも、巻物をくわえた鴉を追って、修治は町を進んで いった。 さび れた商店街だった。入 やがて辿り着いたのは、見るからに寂 り口のアーチにとまった鴉は、それきり彫像のように動かない ──ということは、まさかこの場所に折紙屋があるのだろうか。 慎重にアーチをくぐった修治は、期待や緊張と共に辺りを見回 した。 死んだ鴉の夜鳴くところ 57 廃墟然とした商店街には、しかし誰の姿もなかった。 そ ば や お や 麦屋、八百屋、薬局、写真館──ことごとくシャッターを 蕎 下ろした店舗には、どれも閉店のお知らせが貼られていた。そ のすべてが数年前の日付で、中には看板が斜めに外れかかって いるものや、窓ガラスがガムテープで補修されているものもあ る。 ──念のため、一軒一軒確認したものの、『折紙屋』らしき 店はなかった。 まさか閉店してしまったのだろうか。案内してくれた鴉には 悪いが、とんだ骨折り損だったのかもしれない。 ──と、その時。 死んだ鴉の夜鳴くところ 58 カアッ! 抗議するように鴉が鳴いた。 驚いて頭上を仰ぐ。途端、ぽとっと修治の足元に何かが落ち た。 見下ろすと、鴉がくわえていた巻物が、アスファルトの路面 に転がっている。 慌てて近づいて覗きこんだ。紐がほどけて広がった巻紙には、 やはり筆で書いた文字があった。先ほどと同じ筆跡の、けれど 全く別の文面が。 死んだ鴉の夜鳴くところ 59 いわく──。 ──猫の通り道を行け。 「……どういう意味なんだ?」 思わずそう呟いた修治は、巻物を拾い上げながら、眉をひそ めて首をひねった。 何かヒントになるものはないかと、何気なく辺りを見回した その時──正面に並んだ店と店の隙間から、一本の細道がのび ているのに気がついた。 閉店の札がかかった写真館と、看板の外れかかった骨董屋の 死んだ鴉の夜鳴くところ 60 間にのびる細い路地。一見、建物同士の隙間にしか見えないが、 存外深い暗がりはさらに奥へと続いている。 「──これ、なのか?」 たず ねてみた。 鴉の返事を期待して、修治は声に出して訊 しかし耳を澄ませても、鴉の鳴き声はおろか、羽音すら聞こ えなかった。役目を終えた鴉は、どこかへ飛び去ってしまった のだろうか。 肯定も否定もないまま、それでも修治は細い路地へと足を向 けた。一歩一歩、探るような足取りで──けれどその一方で、 確信めいた予感を抱きながら。 果たして、暗く狭い路地は、人一人きりがようやく通れる程 死んだ鴉の夜鳴くところ 61 度の狭さだった。もしも向こうから人が歩いてきたら、後ずさ りして道を譲るより他ないだろう。しかも、どこにも横道のな い一本道だ。 延々と左右に続く木の塀は、猫一匹逃げられそうな隙間もな く、その向こうにそびえる家々にも、なぜか窓一つ見当たらな い。たまに工場らしき建物があっても、それものっぺりした裏 壁で、窓のないプレハブ倉庫が壁のように立ち並んでいる光景 もあった。 ──ちりん。 死んだ鴉の夜鳴くところ 62 かす 不意に、幽かな鈴の音と共に、ニャア、と猫の鳴き声が聞こ えた。同時に、温かな何かが、するりと足の間をすり抜ける気 配。 (なるほど──本当に、ここは猫の通り道なのか) 思わず口元をほころばせた修治は、撫でてやろうと足元を見 け げん 下して──途端、怪訝に眉をひそめた。路地のどこにも、猫の 姿は見当たらなかった。暗く狭い路地には、靴底から修治の影 がのびる他は、しんと静まり返っている。しかし耳を澄ませる と、何も存在しないはずのその空間から、走り去る動物の足音 が聞こえてきた。 ──たっ、たっ、たっ。 死んだ鴉の夜鳴くところ 63 まさか猫の亡霊なのか。 せんりつ 慄しながらも路地を進むと、次々と目に見えない猫 ぞっと戦 の数が増えていった。 時には塀の上で毛を逆立て、時には修治の足にじゃれつく、 何匹もの猫たちの気配。しかし肝心の姿は見えず、ただ塀を横 切る影や、路面についた足跡だけが、猫たちの存在を伝えてい る。 (──一体、ここは何なんだ) 慄然としながらも、さらに奥へと足を進める。 その内、修治はおかしなことに気がついた。 路地が深まるごとに視界が暗くなっていくのだ。まるで夜の 死んだ鴉の夜鳴くところ 64 とばり 帳 が下りつつあるように。 いぶか ただ しみながら頭上を仰ぐと、屋根の隙間から覗く空が、爛 訝 あかね れたような 茜 の色合いを帯びていた。路地を進むにつれ、茜 の濃さが増していく。まるで夕暮れのような有様だ。 しかし、アパートを出たのは早朝で──まだ午前中であるは ずなのに。 慌てて腕時計を覗きこむ。文字盤の上を滑る針は、午前十一 時を指していた。すでに日が高くなっている頃だろう。しかし、 日没にはほど遠い。 ぞっと背筋に悪寒が走る。同時に、まるで火種がくすぶるよ うに、胸の奥から不安と迷いがわき起こった。理性に耳を傾け 死んだ鴉の夜鳴くところ 65 るなら、今すぐ引き返すべきなのだろう。しかし修治は、半ば 意地になって足を進めた。 ──自分でも、その理由はわからない。 ただ脳裏には、七歳の夏の日、振り返りもせずに遠ざかって いった父親の背中があって──もしかすると自分は、この巻物 おじ け を残した父親に、こんなところで怖気づいたと思われたくない だけなのかもしれなかった。 (──なんて馬鹿馬鹿しい) じ ちょう 嘲 に歪む。雑念を追い払うように頭を振っ 自然、口元が自 て──しかし修治は、それでも足を止めようとはしなかった。 ──一体どれほど歩いただろうか。果たして、本当にこの先 死んだ鴉の夜鳴くところ 66 に終わりはあるのか、胸の奥で風船のように膨らむ不安が破裂 しそうになった頃──唐突に路地が途切れ、まるでトンネルを 抜けたように眩しい茜の光が差しこんだ。 ──ざあ、と。 ほお を打つ。 吹きつける風が頬 修治の前に広がったのは、視界一面の深紅の夕暮れと、枯れ 草のなびく野原だった。 空き地──と呼ぶべきなのだろうか。しかし、それにしては あまりに広い。 死んだ鴉の夜鳴くところ 67 草原だった。それも見渡す限りの。 膝丈の草が茜色に染まって波打つ様は、まるで日没を迎えた 海のようだ。 つば を飲 異様──の一言に尽きるその光景に、修治はごくりと唾 みこむ。思わず、逃げ道を求めて背後を振り向いたその時、ま たもや驚きの光景が目に飛びこんできた。 ひしめき合うように軒を並べた民家やマンション。そんな建 物の隙間を縫うように、たった今修治が通り抜けてきたばかり の、暗い路地がのびていた。 そして、要塞のようにそびえ立つそれらの建物には──窓が なかった。 死んだ鴉の夜鳴くところ 68 0 0 0 0 窓もなければ、扉もない。まるで出来損なった舞台の書き割 りのように、ただのっぺりと凹凸のない壁面をさらすばかりで ある。 0 をしてい まるで町全体がこの野原に背を向けて、見ないふり るように。 ぞっと背筋を凍らせて、知らず修治は後ずさりした。スニー カーの靴底が、ざくり、と背後の枯れ草を踏みつける。 ──カアッ、カアッ。 かんだか 高い鳴き声が頭上で弾けた。 途端、甲 死んだ鴉の夜鳴くところ 69 しん く したた 顔 を 上 向 け る と、 深 紅 の 夕 暮 れ に、 黒 い 鴉 の シ ル エ ッ ト が 踊っているのが見てとれた。 おう ま が とき 々しいという言葉の似合う、 滴 るような血染 まが まが 頭上には、禍 めのだんだら。 た かれ とき 魔ヶ時には『大禍時』と その色を目にした修治は、元来、逢 いう字を当てるのだと、高校の授業で古文の教師にそう聞かさ たれ れたことを思い出した。 か は誰、誰そ彼。 ──彼 だ。 世界が最も狂気を帯びる、逢魔の刻 ひざたけ 途端、ざあっと風が吹いて、膝丈の草がざわざわ鳴った。 死んだ鴉の夜鳴くところ 70 あ か 絶え間なく波打つ草の海は、風の在り処が一目でわかる。た ちまち地平線から大きな波がやって来て、どう、と修治の体に ぶつかって過ぎた。 (俺は──本当にこの先に進んでいいんだろうか?) 迷いと不安から、きつく拳を握り締める。 けれど、ここまで来て後戻りするのは、あまりに口惜しいよ うにも思えた。 (毒を食らわば皿まで、か──他人からすればヤケを起こした と思うかもな) ばち になって足を進める。 そう半ば捨て鉢 茜色の海に踏みこむと、スニーカーの底で踏まれた草が、撫 死んだ鴉の夜鳴くところ 71 なめ でられた猫の毛の従順さで地面に伏せた。修治の背後には、蛞 くじ 蝓の這った跡のような細い獣道ができている。しかし前方に、 人の踏み固めた形跡はなかった。 本当に、この先に折紙屋などあるのだろうか。 ──カアッ。 今度は、前方で鴉が鳴いた。 途端、バサバサと羽音をたてながら、頭上を飛んでいた鴉た ちが降下する。 ──と、その直後。 死んだ鴉の夜鳴くところ 72 (──あれは?) 鴉の行方を追った修治の目に、一軒の平屋が飛びこんできた。 草の海に埋もれるような低い瓦屋根。民家というより、昔なが らの商家のような門構えだ。 「あれが──折紙屋?」 ざくり、ざくり、と草を踏み分けて、やがて修治はその正面 に立った。 かわら ぶき 葺 一見、ごく平凡な店構えだった。いかにも古めかしい 瓦 だが、意外にも廃墟然とした印象はなく、むしろこざっぱりと 手入れの行き届いた様子に見える。店周りの草は引き抜かれ、 正面のガラス戸には「商い中」の札がかかっていた。 死んだ鴉の夜鳴くところ 73 ──ごくり、と無意識に唾を飲みこむ。 この世ならぬ店に踏みこんで無事に帰る自信はない。しかし 修治の中には、未知のものへの恐怖と共に奇妙な懐かしさも息 づいていた──まるで古巣に帰って来たような。 一体なぜ──と眉をひそめたその時、古びた漆喰と埃の匂い が鼻腔をついた。 が てん 点する。かつて父親のい ああ、そうか、とにわかに修治は合 た土蔵と同じ匂いなのだ。 ──ガラン、ガラン。 死んだ鴉の夜鳴くところ 74 ガラス戸を開けると、戸口に下がっていた鈴が、騒々しい音 を鳴らした。 薄暗い店内は、背後のガラス戸から差しこむ茜の光が、細か な埃を金色に光らせている。手前に広がる土間床は、どうやら 売り場であるらしい。壁際には、天井まで届く棚が配され、大 小の木箱が並んでいる。その奥には、畳二畳ほどの帳場。さら ふすま に奥には山水を描いた 襖 が並んで、細く開いた隙間から畳の 座敷が覗いている。 ひと け 気はなく、しかし奥の和室に灯りの がらんとした売り場に人 つく様子もなかった。 ──留守なのだろうか。 死んだ鴉の夜鳴くところ 75 「ごめんくださ──」 そう店の奥に向かって叫ぼうとした──次の瞬間。 ──ボーンッ。 突然、間延びした音が鳴った。 驚いて音の出所に顔を向けると、帳場の片隅に、背の高い柱 時計の姿が見えた。 ──と、その直後。 まるで時計の鐘を合図にしたように、あちこちの物陰から紅 い影が飛び出した。次々と躍り出た深紅の何かが、薄暗い店内 死んだ鴉の夜鳴くところ 76 を、ひらり、ひらり、と舞い始める。 あか い金魚だっ ふと 蝶だろうか──と思って目を凝らすと、なんと紅 た。 りゅう きん か、 琉 金 と い う 種 類 だ っ た か。 で っ ぷ り と 肥 っ た 腹 は、 ちょ確 う ちん 提 灯のように丸々と紅い。ひらひらと揺らめく尾びれは、ま しゃくやく るで大輪に咲いた 芍 薬の花だ。 宙を泳ぐ金魚たちは、棚に並んだ木箱をつついて舞い上がる 埃を飲みこんでいる。 ぱくり、ぱくり、と──どうやら掃除をしているようだ。 「…………」 すく んだ修治は、そんな金魚たちの働きぶりをただ茫然と 立ち竦 死んだ鴉の夜鳴くところ 77 見守った。 ──と、ついっと群れからはぐれた一匹が、ふら、と修治の 前まで泳いできた。 珍しげに顔を覗きこまれ、ちょん、と鼻をつつかれる。思わ ず修治は、ほとんど反射的に金魚を手の平で捕まえてしまった。 (マズイ──潰したか?) ひや、と背筋に寒気が走る。しかし慌てて指を開くと、ちょ し がい こん、と手の平にのっていたのは、潰れた金魚の死骸ではなく、 紅い折り紙でできた魚だった。 それは、たいていの文房具屋で売っていそうな、ごく平凡な 和紙だった。ただ、複雑に入り組んだ折り目からは、常人離れ 死んだ鴉の夜鳴くところ 78 した巧者の技を感じさせる。しかし、しょせん紙は紙。今も視 界を泳いでいる金魚たちとは、まるでかけ離れた存在だった。 ──そのはずなのに。 「一体、どういうことなんだ、これは」 我が目を疑う、とはこのことだろうか。 ──魚から、紙へ。 ──動から、静へ。 まるで狐に化かされたか、詐欺まがいの手品でも見せられた 気分だった。 (これが──折紙屋の術なのか?) しかし、不用意に捕まえてしまったものの、この魚は一体ど 死んだ鴉の夜鳴くところ 79 うすればいいのか。 途方に暮れた修治は、悪事の証拠を隠そうとする小学生のよ うな心境で、そっとズボンのポケットにしまいこもうとした。 ──まさに、その時。 ひど 「──まったく店に来て早々、ずいぶん酷いことしますね、ア ンタ」 突然、背後で冷やかな声が上がった。 ぎくり、と動きを止めた修治は、慌てて声の主を振り返る。 ──と、いつの間にか、奥の座敷を隔てる襖が開いて、そこ に黒い人影が立っていた。黒染めの着物をまとった人物が、腕 組みして柱にもたれ、胡乱に修治を見下ろしている。 死んだ鴉の夜鳴くところ 80 濡れた飴玉を想わせる、黒目がちの瞳。朱塗りと見まがう、 鮮やかな朱唇。 かさで背中を滑り、 長くのびた黒髪が、流れ落ちる墨の艶や なめ 匂い立つような白い肌は白磁そのものの滑らかさだ。人形のよ うな、としか形容できない、夢幻の美。 美しかった──そして、なぜか酷く懐かしかった。 「ようこそ、折紙屋へ──歓迎はしかねますがね」 冴え冴えと冷たい声が耳朶を打つ。 しかし、それでも修治の中には溢れるほどの懐かしさがあっ 死んだ鴉の夜鳴くところ 81 た。まるで探し続けていた誰かとようやく再会を果たしたよう な。 暗闇の中でずっと誰かを探していた、明け方の夢の──その 続きを見ているような。 (けれど──…) こぶし 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 を握り締める。関節の白く変わった指は、肉に食 知らず 拳 いこむ爪が痛みを生んだ。 0 (それなら──…どうして) 0 。 目の前の人物に、まったく見覚えがないのだろう 混乱から意識が白くなるのを感じながら、修治は過去の記憶 を探った。しかし目の前の誰かの姿はない。まるでこの懐かし 死んだ鴉の夜鳴くところ 82 さが、マヤカシによるマボロシであるかのように。 か ふ し ぎ カア、と誰そ彼の茜の枯れ野で、鴉の嗤う声がする。 ──懐かしくとも、記憶がない。 いと ──愛おしくとも、理由がない。 くる おしくとも、恋情がない。 ──狂 ま 訶不思議こそが、修治と折 ごとめいてちぐはぐな摩 そんなか嘘 いこう 紙屋の邂逅だった。 死んだ鴉の夜鳴くところ 83 (死んだ鴉の夜鳴くところ 第一話/おわり)
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