9 死んだ鴉の夜鳴くところ

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死んだ鴉の夜鳴くところ
死んだ鴉の夜鳴くところ
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黒埜 形 ──
Kurono Kei
愛 知 県 在 住。 田 舎 暮 ら し。「 KIG
⊃ ∩
」 に て、 黒 形 圭 名
R MI
義 で 第 六 回 Y J 新 原 作 大 賞 佳 作 受 賞、 コ ミ ッ ク ス 化。 本 作 に
Hiko
新人賞受賞。小説、漫画原作、ノベル
て第二十三回 BOX-AiR
ゲームのシナリオなど執筆中。
ヒコ ──
http://hiko0612.blog.fc2.com/
装画等でぼちぼちお仕事させてもらってます。和菓子が好きで
す。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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くじら
❖ 序 ❖
よ いん
ボォォ─…ン、と 鯨 の鳴くような余韻を残して、柱時計の
音が鳴った。
あめいろ
ぼ
色がかった帳場の奥──ちょうど正午を指した文字
古びて飴
盤の手前を、ゆらりと紅い金魚がよぎる。まん丸な腹は、まる
ほおずき
すす
で鬼灯。ひらひらと暗がりに揺らめく尾びれは、今が盛りの牡
たん
丹の花だ。空中を泳ぐ金魚たちは、煤けた棚の立ち並ぶ店の売
死んだ鴉の夜鳴くところ
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り場を、まるで墨絵に散った朱墨のように、あちらこちらと飛
び回る。
この世ならざる光景。それもそのは
一言で評すれば、まさおに
りがみ や
ず──この店の名は、折紙屋。ヒトならざるモノの営む店だ。
そして、何十と泳ぐ金魚たちの中心に、当の店主の立ち姿が
あった。
ひど
しゅう じ
う
「──まったく店に来て早々、ずいぶん酷いことしますね、ア
ンタ」
たたず
からすあげ は
あで
り向いた先に 佇 むその人は、土間床に立った 修 治を、胡
ろ振
ん
まな ざ
乱な眼差しで見下している。
りん
と黒染めの着物をまとった姿は、 鴉 揚羽の艶やかさ。
凛
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そうぼう
濡れたような黒目がちの双眸、匂い立つほど白い肌──目を
疑うような美貌だった。
しかし、はっと修治が息をのんだのは、別の理由だ。
(──…何だろう、この懐かしさは)
にじ
み出るその懐かしさは、人
知らず胸が熱くなる。じわりと滲
肌にも似て温かい。
0
0
まるで探し続けていた誰かと、ようやく巡り合うことができ
たような──。
0
(そうだ、俺はずっと何かを──…誰かを、こんな風に、夢の
0
中で)
真夜中の暗闇で、顔も名前も忘れてしまった誰かを、ずっと
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ひと
孤りで探し続けてきたような、そんな──。
「ようこそ、折紙屋へ──歓迎はしかねますがね」
冷やかに言葉を放つ店主の、その幽玄の美貌に目を奪われな
がら、修治は──今この時この光景が、まるで明け方に見た夢
❖ 壱 ❖
の続きのようだと思った。
──こんな夢を見た。
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こう し まど
顔を上げると、天井近くの格子窓から覗く、白い満月と目が
む
合った。舞台の書き割りめいたその輪郭は、噎せかえるような
ほこり
び こう
盛夏の闇に、じわりと溶けて滲んでいる。ふと疲れた足を止め、
しっ くい
息苦しさから深呼吸すると、古びた漆喰と 埃 の匂いが鼻腔を
ついた。
──土蔵だ。
おそらく修治が生まれ育った屋敷の、敷地の片隅に建ってい
た蔵。名高い人形師だった父親が、工房として使っていた場所
でもある。一人息子だった修治を含め、屋敷の使用人から取引
先の美術商まで、固く出入りを禁じられていた。
けれど今、修治は一人で、その真夜中の土蔵をさまよってい
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る。
0
(──…早く見つけなければ)
0
探しているのか、それすら修治にはわか
しかし何を──誰を
しょう そう
らなかった。ただ居てもたってもいられない 焦 燥だけが、胸
うず
の奥に疼いている。
らん ちょう ぼん
(なぜなら──…俺は□□したのだから)
もう ろう
朧とした意識は、まるで乱 丁 本をめくるような歯抜けぶ
朦
りだ。
けれど、この暗闇の奥で誰かが泣いているような──そんな
予感が、ただそれだけで誰かを探す理由には十分なのだと、奇
妙に確信めいた思いとなって胸にあった。
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シャン。
その時、背後で鈴の音が鳴った。
音 に つ ら れ て 振 り 返 る と、 大 小 の 道 具 が ひ し め く 土 蔵 の 奥
よど
──澱んだ暗闇が人の形をとったように、ぬっと歩み出る人影
があった。
は、奇怪な様相の男だった。
青い月光に浮かび上がったかの
く おび
ぞう り
帯をしめた草履姿。一見すると、
紺無地の羽織をはおり、角
やなぎ ごう り
富山の薬売りによく似た格好だ。その背に大きな 柳 行李を背
負い、すげ笠の下からねめあげている。
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かえる
面相は、 蛙 に似ていた。
つぶ
へんぺい
したような、扁平にひしゃげたガ
性根の悪い子供が叩いて潰
マ蛙の顔。しかし、肌はまぎれもなく人間のものだ。なのに双
眸には、瞳孔の縦に長い爬虫類の目玉がはまっている。人では
ありえない異形だった。
(これは──いや、こいつは一体、何なんだ)
シャン、とその手元で音が鳴った。旅の僧侶が携えるような
しゃくじょう
錫 杖 が、拍子をとるように床をつく。すると、幾つも繋げら
れた鉄の輪が、鈴の音に似た音を鳴らした。
お かん
寒を覚えて後ずさりした──その瞬間、ガマ蛙の口
ぞっと悪
がにたりと笑った。
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びんづめ
あなた
「瓶詰屋あ、瓶詰屋でございます。貴方様を詰めに参りました
あ」
面相と同じくひしゃげた声だ。
シャン、シャン、シャン。
杖で床をついた男が、獲物を追いつめるガラガラ蛇のように
音を鳴らして、立ち尽くす修治との距離を詰める。
シャン!
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ひときわ
一際大きく音が鳴った。
せつ な
那、錫杖の先が跳ね上がった。くるりと回転した杖が、男
刹
の手中にパシリとおさまる。やおら槍のかまえをとった男は、
修治に逃げる隙も与えず、錫杖の先を突き出した。
がくぜん
然と見開かれた修治の左目に向かって。
愕
❖
鋭く尖った先端が角膜に突き刺さった──その瞬間、パリン、
と、ガラスの割れる音を聞いた気がした。
「──痛っ!」
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ふ とん
目覚めた途端、左目に走った激痛に、たまらず修治は蒲団か
ら跳ね起きた。
まぶた
的に指を押し当てると、熱い涙に濡れる 瞼 の下で、痛
反射
かたまり
みの 塊 が、ずきん、ずきん、と脈動している。しばらく動く
こともままならず、修治はじっと痛みを噛み殺した。
(──…夢だったのか。今のが、全部?)
では、この激痛の原因は一体何なのか。やがて痛みの波が引
くと、ようやく蒲団から抜け出した修治は、よろめく足取りで
洗面所に向かった。築十五年の木造アパート二階、浴室の手前
にかかった鏡に、高校二年生である修治の姿が映し出される。
ほそ おもて
黙な印象の、やや目つきの悪い細 面 。一八
か もく
父親似らしい寡
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○センチを超える長身は、同級生たちから「剣術の師範代のよ
うだ」とからかわれるほど姿勢がいい──そして今、その左目
に明らかな異常が見てとれた。
(──ひび割れ?)
愕然として、修治は鏡に映った自分の顔を見返した。
──左の眼球に、亀裂があった。
まるで鋭利な刃物で突いたような──割れたビー玉にも似た、
縦長の裂傷。
0
0
0
0
0
0
0
0
0
ずいぶん深そうな傷だ。いや、割れ目と呼ぶべきなのか。な
にせ修治の左目は、ガラスでできているのだから。しかも義眼
な ど で は な い。 人 並 み に 視 力 の あ る、 生 身 の 眼 球 だ。 そ れ が
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ぱっくり縦に裂けているのだから、何にせよ、異様な状況には
違いない。
「…………」
恐る恐る人差し指の腹で眼球に触れる。そっと亀裂をなぞる
と、割れたガラス特有の危うげな感触が伝わってきた。下手に
力をこめれば、指先を切ってしまいそうだ。
(やけに視界が悪いのは──この傷のせいなんだな)
まるでハンマーで割られた窓ガラス越しに、景色を眺めてい
るような有様だ。失明していないだけマシかもしれないが──
どのみち左目を隠すより他なさそうなので、さほど有り難みも
感じられない。
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(それにしても、一体なんだってこんな傷が)
まゆ
をひそめる。
理不尽な状況に、やり場のない怒りにかられて眉
昨夜蒲団に入った時は、確かに何の異常もなかった。眠って
いる間に槍で片目を突かれれば、こんな状況になるのだろうか。
いや、そんな馬鹿げた話が──。
(──…待てよ、そういえば)
その時、修治の脳裏に、夢の中で目にした光景が思い浮かん
だ。
かお
──時代劇の薬売りに
真夜中の土蔵で遭遇した、ガマ蛙の貌
よく似た、異形の商人。
確か目覚め際に、手にした錫杖の先で左目を突かれた。もし
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もあれが現実の出来事だったら、こんな傷になったのだろうか。
(けれど──しょせん、夢は夢だ)
たとえ、それがガマ蛙の化け物に襲われる悪夢や──暗闇の
中で誰かを探してさまようやるせない記憶だったとしても。
(今はまず──この左目をどうするかだ)
0
「ものもらい」と偽って眼帯をはめれば、しばらくの間はやり
0
過ごせるだろう。しかし、いずれ修理が必要になる。
がん か
窩にはまっていた、本
なにせ修治にとっては、生まれつき眼
物の目玉なのだから。
あ
確かに素材はガラス製だ。しかし、無機物のツクリモノまで
ばた
るはずの眼球は、生まれつき修治の左目として機能し、 瞬 き
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か
ふ
し ぎ
をし、涙を流し、そして視力を有している。
ま
0
0
訶不思議な部品は、この左
おそらく修治の体内に隠れた、摩
目だけではないのだ。
たとえば、血管を脈動させるため、心臓にば組ねみこまれた大小
の歯車。太股の筋肉にまぎれこんだ金属の発条──そんな世に
も珍しい人体部品の数々が、休みなくカチコチと動いているの
からくり
だ。まるで時計仕掛けの機巧人形のように。
なぜなら修治の体は、半分が人ではないのだから。
木修治という存在だった。
、半人形。
半人間にしかて
らす ぎ
それが、 鴉
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しゅう ぞう
こう ず
か
─修治の父親である男は、好事家の間で『生き
鴉木 柊 造た─
た
き だい
神』とまで讃えられた稀代の人形師であり、その妻となったの
は、彼が生み出した作品だったのだから。
はら
から
──修治は、おそらくこの世でただ一人、生き人形の胎
生まれたのだ。
❖
今から十七年前──修治が生まれた当時の話だ。
北陸に位置する農村に、古くから屋敷を構えた鴉木家。今な
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そ ほう か
お素封家として知られるこの旧家に長年仕える老医師は、ある
夜、若き当主である柊造の命で、工房の土蔵へと駆けつけた。
うし み
お
つな
うぶごえ
三つ時──そこで彼が目にしたのは、奇々怪々
草木も眠る丑
の光景だった。
「──どうして、ここに赤ん坊が」
へそ
の緒で繋がったまま産声を
それは冷たい床の上で、母親と臍
かたわ
上げる、生まれたばかりの赤ん坊だった。しかし、 傍 らに寄
まつ げ
り添う母親は、柊造の作品である女人形だったのだ。
ぼう とく
っ そ 冒 涜 的 な ほ ど 人 に 似 せ ら れ、 睫 毛 の 一 本 一 本 に ま で
ねずい
み
み め うるわ
鼠 の毛を植えこまれた、見目 麗 しい生き人形。しかし、しょ
せんヒトガタだ。どんなにヒトに似ようと、喋りもしなければ
はら
瞬きもせず、まして胎に命を宿すなどありえない──そのはず
なのに。
「一体、どうしてこんな──」
ぼうぜん
然と呟いた医師に、柊造は短い答えを返した。生まれた我
茫
しょう すい
が子を抱き上げようともしないまま、けれどなぜか酷く 憔 悴
した顔つきで。
──『折紙屋』に頼んだ、と。
しかし『折紙屋』とは何なのか、どんなに周囲が聞き出そう
らったのだと。
こ の 世 な ら ぬ 力 を も っ た 商 人 に、 相 応 の 代 価 を 約 束 し て
『 妻 』 の 命 を 買 い 取 り ── 命 な き 人 形 に、 魂 を 吹 き こ ん で も
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死んだ鴉の夜鳴くところ
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としても、それ以上柊造が口を開くことはついになかった。そ
して、柊造の『妻』となり、修治の『母』となった人形が、再
び命を宿して動き出すこともまたなかったのだ。
と つきとお か
月十日、柊造と共に暮らしたという母親は、出
少なくとも十
で く
産を境に物言わぬ木偶に戻ってしまった。まるで魂のすべてを、
生まれた我が子に譲り渡してしまったように。
死体同然となった妻を、柊造は一族の墓に埋葬した。
そして『鴉木修治』と命名された赤ん坊は、誕生と同時に母
親という存在を失った。
はな
から忘れ
しかし柊造は、忘れ形見となった修治の存在を、端
てしまったように見えた。世話の一切を使用人に任せ、工房に
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閉じこもったまま、我が子がどんなに周囲から奇異の目を向け
られようと、その暮らしぶりを気にかけることもない。
そして修治が七歳の誕生日を迎えた夏、ふらりと屋敷から姿
を消した柊造は、そのまま行方知れずになってしまった。
──捨てられたのだと、今なお修治はそう思っている。
❖
洗面台の蛇口をひねって顔を洗うと、幾らか頭の中がすっき
りした気がした。
ぬぐ
って鏡を覗くと、未だ涙の滲んだ左目には、
しかしタオルで拭
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変わらずひび割れが走っている。どこか途方に暮れた子供のよ
うなその表情に、自然修治は溜息をこぼした。
(──さて、一体どうしたものかな)
ゆが
み を 何 と か し よ う と、 押 し 入 れ の 奥 を
とりあえず視界の歪
探った修治は、埃まみれの救急箱を見つけ出した。中にあった
さんぱく
眼帯をはめると、なんとか視界は正常に戻った。もともと三白
がん
眼気味なので、ずいぶん迫力のある面相になったが──まあ、
四の五の言っていられる状況でもない。
よし、と一息ついて時計を見ると、ようやく午前六時を回っ
たところだった。
早起きは三文の徳とは言ったものだが、あいにく土曜日で高
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校もない。かと言って休日診療の病院に駆けこめば、診察した
医師に卒倒されるか、未知との遭遇扱いだろう。
いっそ寝直してしまおうか──そうヤケクソ気味に考えた途
端、脳裏にニタリと笑うガマ蛙の顔が思い浮かんだ。今眠れば
悪夢にうなされるのは間違いない。
(──じゃあ、俺は他に何をすべきなんだろうか)
腕組みをして考えてみるものの、一向に妙案は浮かばなかっ
た。
知らず、修治は二度目の溜息を吐いた。しかし、ただ思い悩
んでいるのも性に合わない。とりあえず蒲団を畳んで台所に向
かうと、手早く味噌汁を作って昨晩の残り物で朝食をすませた。
ち そう さま
が差しこんでくる。
りち ぎ
ぽつりと呟いて腕組みをする──と、同時に、脳裏によみが
「──…弱ったな」
ない、と思い直した。
和だ。ついでに蒲団も干すか、と腰を
まごうことなき洗濯日
上げかけて──いや、重大問題を放り出したままで洗濯も何も
び より
誘われるように窓辺に近づき、修治はカーテンを引き開けた。
薄く曇った磨りガラス越しに、秋晴れを予感させる白い陽射し
午前七時──そろそろ町が動き出す時刻だ。
ジン音が聞こえてくる。
「ご馳走様でした」と律儀に手を合わせた頃、表から車のエン
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える記憶があった。
かげろう
かす
炎 の 向 こ う に 霞 む よ う な そ れ は、 今 か ら 十 年 前
遠く夏の陽
しっそう
──柊造の失踪にまつわる出来事だった。
❖
思い出すのは、原色の絵の具をぶちまけたような、鮮やかに
青い八月の空だった。
ず
修治は、夏休みの宿題を終え、暇を持
当時小学二年生だっおた
も や
ひろえん
て余した昼下がりを母屋の広縁で涼んでいた。濡れたように冷
は
たい縁側は、その硬さが心地良い。ざあ、とざわめく葉擦れの
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せみ
音に、遠く近く蝉の鳴き声が加わって、まるで雑踏の騒がしさ
だ。
か
し
ぎんねず
いつからうたた寝してしまったのだろうか。ふと目覚めた修
治が体を起こすと、ぎょっとするほど間近に人影があった。ま
か
るで枯れ野の案山子のような、生気の失せた影法師。銀鼠の着
物をまとった体は、今にも盛夏の日射しに溶け崩れそうに見え
る。
──柊造だった。
つ 工 房 か ら 出 て き た の だ ろ う か。 ぬ ぅ、 と 亡 霊 の よ う に
たたい
ず
佇 んだその顔は、逆光のせいで表情が読めない。ただ真一文
字に口を閉ざしたまま、じっと修治を見下ろしている。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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どこかただならぬその様子に、知らず修治もまた息を詰めた。
ちりん、と。
─の─
きした
下の風鈴が鳴る。
軒
次 の 瞬 間、 そ の 音 を 合 図 に し た よ う に、 柊 造 の 腕 が 持 ち 上
がった。節くれだった人形師の手が、修治の頭に向かってのば
おさな ご
される。 幼 子をあやす親が、その頭を撫でようとするように
──いや、作品の出来を確かめようとする人形師の手つきにも
見えた。
一瞬、時間が止まった気がした。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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瞬きを忘れ、呼吸すら止めて、修治は近づくその手を見つめ
た。これほど間近で父親と対面したことは一度もない。まして
頭を撫でようとしてくれたことも。
──けれど。
触れるか触れないかという、その一瞬。
すき ま
間を残して、今まさに修治の頭に触れようとし
指一本分の隙
ていた柊造の手が、ぴたりと止まった。
──ちりん、ちりん、と。
繰り返し、繰り返し、風鈴が鳴る。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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永遠にも思えたその時間は、実際には数十秒にも満たなかっ
たろう。
「お前は、人形じゃないんだな」
ぽつり、と独白めいた呟きが落ちた。同時に手を下ろした柊
造は、結局、修治に触れないまま背を向けると、工房へと遠ざ
かっていった。
修 治 は、 と っ さ に そ の 背 を 呼 び 止 め よ う と し て ── で き な
かった。お父さん、と呼びかける機会すら、修治には生まれて
から一度もなかったのだから。
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果 た し て、 柊 造 が 行 方 を く ら ま せ た の は、 そ の 翌 朝 の こ と
ほの
だった。誰にも行く先を仄めかすこともなく、書き置き一つ残
さないままで。
それを知った時、修治の脳裏に浮かんだのは、最後に父親の
残した呟きだった。
──お前は、人形じゃないんだな、と。
その通りだ、と修治は思った。片親が人間である以上、完全
な人形にはなりえない。だからこそ父親は、人形師としての審
美眼によって、修治を『人形ではない』と──『人形の出来損
ない』と断じ、要らないものとして置き去りにしたのだ。
人 形 で は な い か ら 捨 て ら れ た の だ と ── 今 な お 修 治 は そ う
死んだ鴉の夜鳴くところ
41
思っている。
──けれど、柊造の手によって、修治の元に残されたものも
あった。
しゅっ ぽん
奔した日の朝、修治の部屋の前に置かれ
それが、柊造が 出
た巻物の箱だったのだ。
ふた
の上には、黒く並んだ三つの墨文字。達筆なそれは、
細長い蓋
柊造のものとよく似た筆跡に見えた。
──折紙屋。
──よろず相談。
──地図。
修治を驚かせたのは、その一つ目だった。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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折紙屋──かつて物言わぬ人形だった母親に魂を吹きこんだ
という商人の店。
蓋を開けると、中には一本の巻物があった。そして、あれか
ら十年が経った今でも、箱の中の巻物は、当時のまま保管され
ている。
もしも──と、高校生になった今、修治は再び考えを巡らせ
る。
あれが本当に折紙屋の地図だとしたら、どうだろうか。困り
事 が あ っ た ら こ の 店 を 訪 ね る よ う に と、 最 後 に 父 親 が 残 し た
メッセージなのだとしたら。
地図を手がかりに折紙屋を訪ねれば、この左目を修理しても
死んだ鴉の夜鳴くところ
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らえるかもしれない。
──試してみる価値は、あるように思えた。
❖
「──よし、あった。これだ」
果たして、先ほど救急箱を引きずり出した押し入れの、さら
くだん
に奥の奥の方で、 件 の巻物は見つかった。引っ越し直後に放
いまいま
りこんでそのままだったのだろう。まるで目に入るのも忌々し
いと言わんばかりの仕舞い方だ。むしろよく燃えるゴミの日に
出さなかったものだと、過去の自分を褒めてやりたい気持ちに
死んだ鴉の夜鳴くところ
44
もなる。
そう考える原因は、箱の中の巻物にあった。
「……やっぱり、白紙のままか」
畳の床に正座した修治は、膝の上に巻物を広げて溜息を吐い
た。
十年ぶりに手にした巻物は、幼い頃と何一つ変わらず、見事
に真っ白なままだった。
ち
肝心の地図どころか、筆文字一つ見当たらない、まっさらな
無地。
た
質の悪い冗談だろう」と不快げな
巻物を見た大人たちは「性
顔で口を揃えた。何度も捨てるようにうながされ、修治自身も
死んだ鴉の夜鳴くところ
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そうするのが一番だと悟ってもいた。
れでも──何か読み解くのに工夫がいるのかもしれないと、
いそ
ち る
一縷の望みを捨てきれないまま、さまざまな方法を試してきた。
あぶ
熱や光、そして水による炙り出し。しかし、すべては徒労に終
わり、中学生の頃、危うく端を焦がしそうになってからは、無
ちょうぶつ
用の 長 物として捨て置かれている。
もしかすると十年の月日が経った今なら、何か変化があるの
ではないか──そう淡い期待を抱いたものの、やはり今度もま
た徒労に終わったようだ。
自然、駄目押しのような溜息がこぼれた。
なに、最初からわかっていたことだ、と胸中で独りごちる。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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そして、元通り巻物を仕舞い直そうとした──その瞬間、修治
は驚きに目を見開いた。
突然、巻紙の表に、じわり、と墨が滲んだのだ。
まるで見えない手で筆を滑らせたような、流麗な墨字が。
──表へ出ろ。
けん か
嘩を売られているような文句だ。
……喧
物相手にお
思わず「何様だアンタは」と言いかけて、いやき巻
ょう がく
前こそ何なんだ、と修治は慌てて口を閉じた。 驚 愕のあまり
思考が変な方向に飛びかけたらしい。
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み
じ たく
急いで身支度をすませた修治は、指示通りにアパートの外へ
と飛び出した。
──カン、カン。
さ
びた金属の外階段が鳴る。コツ、と最
スニーカーの底で、錆
後の一歩でアスファルトの道路に降り立つと、ざあ、と街路樹
を鳴らして、秋の風が吹き抜けていった。
風につられて空を仰ぐと、頭上には雲一つない十月の空が広
がっている。
街に、通行人の姿
見たところ、白々と朝日に照らされた住お宅
うらい
はなかった。はたと我に返ってみると「往来で巻物を広げる男
子高校生」というのも、なかなか珍妙な光景なので、目撃者が
死んだ鴉の夜鳴くところ
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いないのは幸いだった。
せきばら
払いをして、手元の巻物を覗きこむ。てっき
こほ、と一つ咳
り、すぐに次の指示が出るかと思いきや、巻物の文字は「表へ
出ろ」のまま何の変化もなかった。
さて、どうしたものか。
眉をひそめて考えこんだ修治が、ふむ、と唸りながら顎に片
手をあてた──その時。
「──あ」
ざあ、と強く風が吹いて、指先からさらわれた巻物が、高く
空へと舞い上がった。
──次の瞬間。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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──バサッ、バササッ。
不意に、修治のすぐ目の前で羽音が鳴った。
突然、行く手を遮るように一羽の鴉が舞い降りたのだ。
愕然と目を見開いた修治の前で、あろうことかパクリと巻物
をくわえた鴉は、再びバサバサと羽音を鳴らして飛び去ってし
まった。
「
おい、こらっ、待て!」
しかし、そのまま飛び去ってしまうかと思いきや、数度大き
慌てて駆け出した修治が、鴉の後を追いかける。
!?
死んだ鴉の夜鳴くところ
50
く羽ばたいた鴉は、今度は曲がり角の電柱にとまった。
黒く円い瞳が、じっと修治の姿を見つめている。獲物を盗ら
れまいと警戒するよりは、「早く来い」とうながすような目つ
きで。
「──何だ?」
しみながら、そっと電柱へと歩
いぶか
どこか奇妙な鴉の様子を 訝
み寄る。
すると、再びバサリと羽音がして、巻物をくわえて飛び立っ
た鴉は、次の曲がり角で郵便ポストの上にとまった。物言いた
げなその目が、じっと修治を見つめている。
──こっちに進め、とうながすように。 死んだ鴉の夜鳴くところ
51
ようやくわかってきた。
自分は今、鴉に道案内されているのだ。
❖
鴉の後を追いながら、修治は故郷での日々を思い返していた。
ひら
かげ え ちょう
この辺りは、拓けたばかりの振興住宅街だ。影繪 町 ──読ん
ふもと
で字のごとく影繪山の 麓 に広がるこの町は、そこかしこに田
畑を潰した名残があり、新築のビルや高層マンションなどに混
ざって、古びた瓦屋根の民家や昔ながらの駄菓子屋の姿も見え
死んだ鴉の夜鳴くところ
52
る。町全体が、どこかちぐはぐな印象だった。
ちんじゅ
守の森の生い茂る神社、建設中の雑居ビル、昭和の匂いの
鎮 た ば こ
漂う煙草屋──そんな町並みを横目に見ながら、ただひたすら
案内人の鴉を追いかける。
──謎の失踪から、早くも十年。
今や柊造は、法的にも社会的にも死んだものと見なされてい
る。鴉木家の家督は一人息子の修治に引き渡され、当時中学生
だった修治の元には、代々の屋敷と土地、それから少なくない
財産が遺された。同時に、修治の『保護者』を名乗り、我が物
まさ
顔でのさばり始めたのが、今やただ一人の肉親である叔父の雅
ひこ
彦だった。
死んだ鴉の夜鳴くところ
53
ばくち
かんどう
博打好きが高じて先代から勘当を言い渡され、一時故郷を遠
ざかっていた雅彦は、しかし兄の柊造に代替わりして以来、何
い そうろう
食わぬ顔で舞い戻り、居 候 生活を続けていた。
いまいま
々しげ
しかし雅彦は『保護者』を自称する一方で、修治に忌 ぶ べつ
な目を向けた。まるで人でなしの化け物を見るような、侮蔑と
恐れのこもった目で。
──見ろよ、あの兄貴そっくりの無表情なツラ。まるで木偶
の人形だ。従順なフリして、腹の底じゃ人間を馬鹿にしてるん
だよ。アイツだってヒトモドキの化け物なんだ。
さすがに犬猫のように棒で打たれることはないけれど、これ
見よがしの陰口もまた人の心を痛めつける。やがては遺産の使
死んだ鴉の夜鳴くところ
54
い こ み が 発 覚 し て、 当 時 中 学 生 だ っ た 修 治 は、 つ い に 雅 彦 と
たもと
袂 を分かち、屋敷から追い出すことになった。
そして修治は、高校への進学をきっかけに、心機一転、遠方
の地へと移り住んだ。屋敷や山林の管理を専門家に任せ、高校
近くにアパートを借りて一人暮らしを始めたのだ。
新天地に、修治の生まれを知る者はいない。ようやく奇異の
眼差しから解放された修治は、自然と同級生の輪に溶けこみ、
時には馬鹿話にも興じられるようになった。
それでも時折、周囲との間に、見えない壁を感じてしまう。
めたさなのだろうか。しかし、
隠し事をしている、という後だろ
ま
嘘を吐いたわけでも、悪意で騙したわけでもない。やましさを
死んだ鴉の夜鳴くところ
55
覚えるいわれはないのだ。
──そのはずなのに。
それでも修治の中には、今なお根深い恐れが巣食っていた。
い
もしも正体を暴かれれば──この体の半分が『人間ではつな
ちか
もの』であることを知られれば、その瞬間に、これまで 培 っ
てきた友情や信頼が水泡に帰して、背を向けられてしまうので
はないかと。
あの夏の午後、幼い自分に背を向けた父親と同じように。
は、半人間、半人形の出来損ない──どちらに
しょせん自は分
ん ぱ もの
も属せない半端者だ。
死んだ鴉の夜鳴くところ
56
そんな諦めにも似た想いが、修治の心に根を下ろしている。
❖
それからも、巻物をくわえた鴉を追って、修治は町を進んで
いった。
さび
れた商店街だった。入
やがて辿り着いたのは、見るからに寂
り口のアーチにとまった鴉は、それきり彫像のように動かない
──ということは、まさかこの場所に折紙屋があるのだろうか。
慎重にアーチをくぐった修治は、期待や緊張と共に辺りを見回
した。
死んだ鴉の夜鳴くところ
57
廃墟然とした商店街には、しかし誰の姿もなかった。
そ ば
や お や
麦屋、八百屋、薬局、写真館──ことごとくシャッターを
蕎
下ろした店舗には、どれも閉店のお知らせが貼られていた。そ
のすべてが数年前の日付で、中には看板が斜めに外れかかって
いるものや、窓ガラスがガムテープで補修されているものもあ
る。
──念のため、一軒一軒確認したものの、『折紙屋』らしき
店はなかった。
まさか閉店してしまったのだろうか。案内してくれた鴉には
悪いが、とんだ骨折り損だったのかもしれない。
──と、その時。
死んだ鴉の夜鳴くところ
58
カアッ!
抗議するように鴉が鳴いた。
驚いて頭上を仰ぐ。途端、ぽとっと修治の足元に何かが落ち
た。
見下ろすと、鴉がくわえていた巻物が、アスファルトの路面
に転がっている。
慌てて近づいて覗きこんだ。紐がほどけて広がった巻紙には、
やはり筆で書いた文字があった。先ほどと同じ筆跡の、けれど
全く別の文面が。
死んだ鴉の夜鳴くところ
59
いわく──。
──猫の通り道を行け。
「……どういう意味なんだ?」
思わずそう呟いた修治は、巻物を拾い上げながら、眉をひそ
めて首をひねった。
何かヒントになるものはないかと、何気なく辺りを見回した
その時──正面に並んだ店と店の隙間から、一本の細道がのび
ているのに気がついた。
閉店の札がかかった写真館と、看板の外れかかった骨董屋の
死んだ鴉の夜鳴くところ
60
間にのびる細い路地。一見、建物同士の隙間にしか見えないが、
存外深い暗がりはさらに奥へと続いている。
「──これ、なのか?」
たず
ねてみた。
鴉の返事を期待して、修治は声に出して訊
しかし耳を澄ませても、鴉の鳴き声はおろか、羽音すら聞こ
えなかった。役目を終えた鴉は、どこかへ飛び去ってしまった
のだろうか。
肯定も否定もないまま、それでも修治は細い路地へと足を向
けた。一歩一歩、探るような足取りで──けれどその一方で、
確信めいた予感を抱きながら。
果たして、暗く狭い路地は、人一人きりがようやく通れる程
死んだ鴉の夜鳴くところ
61
度の狭さだった。もしも向こうから人が歩いてきたら、後ずさ
りして道を譲るより他ないだろう。しかも、どこにも横道のな
い一本道だ。
延々と左右に続く木の塀は、猫一匹逃げられそうな隙間もな
く、その向こうにそびえる家々にも、なぜか窓一つ見当たらな
い。たまに工場らしき建物があっても、それものっぺりした裏
壁で、窓のないプレハブ倉庫が壁のように立ち並んでいる光景
もあった。
──ちりん。
死んだ鴉の夜鳴くところ
62
かす
不意に、幽かな鈴の音と共に、ニャア、と猫の鳴き声が聞こ
えた。同時に、温かな何かが、するりと足の間をすり抜ける気
配。
(なるほど──本当に、ここは猫の通り道なのか)
思わず口元をほころばせた修治は、撫でてやろうと足元を見
け げん
下して──途端、怪訝に眉をひそめた。路地のどこにも、猫の
姿は見当たらなかった。暗く狭い路地には、靴底から修治の影
がのびる他は、しんと静まり返っている。しかし耳を澄ませる
と、何も存在しないはずのその空間から、走り去る動物の足音
が聞こえてきた。
──たっ、たっ、たっ。
死んだ鴉の夜鳴くところ
63
まさか猫の亡霊なのか。
せんりつ
慄しながらも路地を進むと、次々と目に見えない猫
ぞっと戦
の数が増えていった。
時には塀の上で毛を逆立て、時には修治の足にじゃれつく、
何匹もの猫たちの気配。しかし肝心の姿は見えず、ただ塀を横
切る影や、路面についた足跡だけが、猫たちの存在を伝えてい
る。
(──一体、ここは何なんだ)
慄然としながらも、さらに奥へと足を進める。
その内、修治はおかしなことに気がついた。
路地が深まるごとに視界が暗くなっていくのだ。まるで夜の
死んだ鴉の夜鳴くところ
64
とばり
帳 が下りつつあるように。
いぶか
ただ
しみながら頭上を仰ぐと、屋根の隙間から覗く空が、爛
訝
あかね
れたような 茜 の色合いを帯びていた。路地を進むにつれ、茜
の濃さが増していく。まるで夕暮れのような有様だ。
しかし、アパートを出たのは早朝で──まだ午前中であるは
ずなのに。
慌てて腕時計を覗きこむ。文字盤の上を滑る針は、午前十一
時を指していた。すでに日が高くなっている頃だろう。しかし、
日没にはほど遠い。
ぞっと背筋に悪寒が走る。同時に、まるで火種がくすぶるよ
うに、胸の奥から不安と迷いがわき起こった。理性に耳を傾け
死んだ鴉の夜鳴くところ
65
るなら、今すぐ引き返すべきなのだろう。しかし修治は、半ば
意地になって足を進めた。
──自分でも、その理由はわからない。
ただ脳裏には、七歳の夏の日、振り返りもせずに遠ざかって
いった父親の背中があって──もしかすると自分は、この巻物
おじ け
を残した父親に、こんなところで怖気づいたと思われたくない
だけなのかもしれなかった。
(──なんて馬鹿馬鹿しい)
じ ちょう
嘲 に歪む。雑念を追い払うように頭を振っ
自然、口元が自
て──しかし修治は、それでも足を止めようとはしなかった。
──一体どれほど歩いただろうか。果たして、本当にこの先
死んだ鴉の夜鳴くところ
66
に終わりはあるのか、胸の奥で風船のように膨らむ不安が破裂
しそうになった頃──唐突に路地が途切れ、まるでトンネルを
抜けたように眩しい茜の光が差しこんだ。
──ざあ、と。
ほお
を打つ。
吹きつける風が頬
修治の前に広がったのは、視界一面の深紅の夕暮れと、枯れ
草のなびく野原だった。
空き地──と呼ぶべきなのだろうか。しかし、それにしては
あまりに広い。
死んだ鴉の夜鳴くところ
67
草原だった。それも見渡す限りの。
膝丈の草が茜色に染まって波打つ様は、まるで日没を迎えた
海のようだ。
つば
を飲
異様──の一言に尽きるその光景に、修治はごくりと唾
みこむ。思わず、逃げ道を求めて背後を振り向いたその時、ま
たもや驚きの光景が目に飛びこんできた。
ひしめき合うように軒を並べた民家やマンション。そんな建
物の隙間を縫うように、たった今修治が通り抜けてきたばかり
の、暗い路地がのびていた。
そして、要塞のようにそびえ立つそれらの建物には──窓が
なかった。
死んだ鴉の夜鳴くところ
68
0
0
0
0
窓もなければ、扉もない。まるで出来損なった舞台の書き割
りのように、ただのっぺりと凹凸のない壁面をさらすばかりで
ある。
0
をしてい
まるで町全体がこの野原に背を向けて、見ないふり
るように。
ぞっと背筋を凍らせて、知らず修治は後ずさりした。スニー
カーの靴底が、ざくり、と背後の枯れ草を踏みつける。
──カアッ、カアッ。
かんだか
高い鳴き声が頭上で弾けた。
途端、甲
死んだ鴉の夜鳴くところ
69
しん く
したた
顔 を 上 向 け る と、 深 紅 の 夕 暮 れ に、 黒 い 鴉 の シ ル エ ッ ト が
踊っているのが見てとれた。
おう ま
が とき
々しいという言葉の似合う、 滴 るような血染
まが まが
頭上には、禍
めのだんだら。
た
かれ
とき
魔ヶ時には『大禍時』と
その色を目にした修治は、元来、逢
いう字を当てるのだと、高校の授業で古文の教師にそう聞かさ
たれ
れたことを思い出した。
か
は誰、誰そ彼。
──彼
だ。
世界が最も狂気を帯びる、逢魔の刻
ひざたけ
途端、ざあっと風が吹いて、膝丈の草がざわざわ鳴った。
死んだ鴉の夜鳴くところ
70
あ
か
絶え間なく波打つ草の海は、風の在り処が一目でわかる。た
ちまち地平線から大きな波がやって来て、どう、と修治の体に
ぶつかって過ぎた。
(俺は──本当にこの先に進んでいいんだろうか?)
迷いと不安から、きつく拳を握り締める。
けれど、ここまで来て後戻りするのは、あまりに口惜しいよ
うにも思えた。
(毒を食らわば皿まで、か──他人からすればヤケを起こした
と思うかもな)
ばち
になって足を進める。
そう半ば捨て鉢
茜色の海に踏みこむと、スニーカーの底で踏まれた草が、撫
死んだ鴉の夜鳴くところ
71
なめ
でられた猫の毛の従順さで地面に伏せた。修治の背後には、蛞
くじ
蝓の這った跡のような細い獣道ができている。しかし前方に、
人の踏み固めた形跡はなかった。
本当に、この先に折紙屋などあるのだろうか。
──カアッ。
今度は、前方で鴉が鳴いた。
途端、バサバサと羽音をたてながら、頭上を飛んでいた鴉た
ちが降下する。
──と、その直後。
死んだ鴉の夜鳴くところ
72
(──あれは?)
鴉の行方を追った修治の目に、一軒の平屋が飛びこんできた。
草の海に埋もれるような低い瓦屋根。民家というより、昔なが
らの商家のような門構えだ。
「あれが──折紙屋?」
ざくり、ざくり、と草を踏み分けて、やがて修治はその正面
に立った。
かわら ぶき
葺
一見、ごく平凡な店構えだった。いかにも古めかしい 瓦
だが、意外にも廃墟然とした印象はなく、むしろこざっぱりと
手入れの行き届いた様子に見える。店周りの草は引き抜かれ、
正面のガラス戸には「商い中」の札がかかっていた。
死んだ鴉の夜鳴くところ
73
──ごくり、と無意識に唾を飲みこむ。
この世ならぬ店に踏みこんで無事に帰る自信はない。しかし
修治の中には、未知のものへの恐怖と共に奇妙な懐かしさも息
づいていた──まるで古巣に帰って来たような。
一体なぜ──と眉をひそめたその時、古びた漆喰と埃の匂い
が鼻腔をついた。
が てん
点する。かつて父親のい
ああ、そうか、とにわかに修治は合
た土蔵と同じ匂いなのだ。
──ガラン、ガラン。
死んだ鴉の夜鳴くところ
74
ガラス戸を開けると、戸口に下がっていた鈴が、騒々しい音
を鳴らした。
薄暗い店内は、背後のガラス戸から差しこむ茜の光が、細か
な埃を金色に光らせている。手前に広がる土間床は、どうやら
売り場であるらしい。壁際には、天井まで届く棚が配され、大
小の木箱が並んでいる。その奥には、畳二畳ほどの帳場。さら
ふすま
に奥には山水を描いた 襖 が並んで、細く開いた隙間から畳の
座敷が覗いている。
ひと け
気はなく、しかし奥の和室に灯りの
がらんとした売り場に人
つく様子もなかった。
──留守なのだろうか。
死んだ鴉の夜鳴くところ
75
「ごめんくださ──」
そう店の奥に向かって叫ぼうとした──次の瞬間。
──ボーンッ。
突然、間延びした音が鳴った。
驚いて音の出所に顔を向けると、帳場の片隅に、背の高い柱
時計の姿が見えた。
──と、その直後。
まるで時計の鐘を合図にしたように、あちこちの物陰から紅
い影が飛び出した。次々と躍り出た深紅の何かが、薄暗い店内
死んだ鴉の夜鳴くところ
76
を、ひらり、ひらり、と舞い始める。
あか
い金魚だっ
ふと
蝶だろうか──と思って目を凝らすと、なんと紅
た。
りゅう きん
か、 琉 金 と い う 種 類 だ っ た か。 で っ ぷ り と 肥 っ た 腹 は、
ちょ確
う ちん
提 灯のように丸々と紅い。ひらひらと揺らめく尾びれは、ま
しゃくやく
るで大輪に咲いた 芍 薬の花だ。
宙を泳ぐ金魚たちは、棚に並んだ木箱をつついて舞い上がる
埃を飲みこんでいる。
ぱくり、ぱくり、と──どうやら掃除をしているようだ。
「…………」
すく
んだ修治は、そんな金魚たちの働きぶりをただ茫然と
立ち竦
死んだ鴉の夜鳴くところ
77
見守った。
──と、ついっと群れからはぐれた一匹が、ふら、と修治の
前まで泳いできた。
珍しげに顔を覗きこまれ、ちょん、と鼻をつつかれる。思わ
ず修治は、ほとんど反射的に金魚を手の平で捕まえてしまった。
(マズイ──潰したか?)
ひや、と背筋に寒気が走る。しかし慌てて指を開くと、ちょ
し がい
こん、と手の平にのっていたのは、潰れた金魚の死骸ではなく、
紅い折り紙でできた魚だった。
それは、たいていの文房具屋で売っていそうな、ごく平凡な
和紙だった。ただ、複雑に入り組んだ折り目からは、常人離れ
死んだ鴉の夜鳴くところ
78
した巧者の技を感じさせる。しかし、しょせん紙は紙。今も視
界を泳いでいる金魚たちとは、まるでかけ離れた存在だった。
──そのはずなのに。
「一体、どういうことなんだ、これは」
我が目を疑う、とはこのことだろうか。
──魚から、紙へ。
──動から、静へ。
まるで狐に化かされたか、詐欺まがいの手品でも見せられた
気分だった。
(これが──折紙屋の術なのか?)
しかし、不用意に捕まえてしまったものの、この魚は一体ど
死んだ鴉の夜鳴くところ
79
うすればいいのか。
途方に暮れた修治は、悪事の証拠を隠そうとする小学生のよ
うな心境で、そっとズボンのポケットにしまいこもうとした。
──まさに、その時。
ひど
「──まったく店に来て早々、ずいぶん酷いことしますね、ア
ンタ」
突然、背後で冷やかな声が上がった。
ぎくり、と動きを止めた修治は、慌てて声の主を振り返る。
──と、いつの間にか、奥の座敷を隔てる襖が開いて、そこ
に黒い人影が立っていた。黒染めの着物をまとった人物が、腕
組みして柱にもたれ、胡乱に修治を見下ろしている。
死んだ鴉の夜鳴くところ
80
濡れた飴玉を想わせる、黒目がちの瞳。朱塗りと見まがう、
鮮やかな朱唇。
かさで背中を滑り、
長くのびた黒髪が、流れ落ちる墨の艶や
なめ
匂い立つような白い肌は白磁そのものの滑らかさだ。人形のよ
うな、としか形容できない、夢幻の美。
美しかった──そして、なぜか酷く懐かしかった。
「ようこそ、折紙屋へ──歓迎はしかねますがね」
冴え冴えと冷たい声が耳朶を打つ。
しかし、それでも修治の中には溢れるほどの懐かしさがあっ
死んだ鴉の夜鳴くところ
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た。まるで探し続けていた誰かとようやく再会を果たしたよう
な。
暗闇の中でずっと誰かを探していた、明け方の夢の──その
続きを見ているような。
(けれど──…)
こぶし
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
を握り締める。関節の白く変わった指は、肉に食
知らず 拳
いこむ爪が痛みを生んだ。
0
(それなら──…どうして)
0
。
目の前の人物に、まったく見覚えがないのだろう
混乱から意識が白くなるのを感じながら、修治は過去の記憶
を探った。しかし目の前の誰かの姿はない。まるでこの懐かし
死んだ鴉の夜鳴くところ
82
さが、マヤカシによるマボロシであるかのように。
か
ふ
し ぎ
カア、と誰そ彼の茜の枯れ野で、鴉の嗤う声がする。
──懐かしくとも、記憶がない。
いと
──愛おしくとも、理由がない。
くる
おしくとも、恋情がない。
──狂
ま
訶不思議こそが、修治と折
ごとめいてちぐはぐな摩
そんなか嘘
いこう
紙屋の邂逅だった。
死んだ鴉の夜鳴くところ
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(死んだ鴉の夜鳴くところ 第一話/おわり)