スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」

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スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」
― スコトゥスによるヘンリクスの実体形相の latitudo の受容 ―
小川 量子
序 『形而上学問題集』の執筆時期と「個的段階」の問題性
『形而上学問題集』は神学講義である『レクトゥーラ』や『オルディナティオ』
(以下
『レポルタティオ』は含まずに両テキストを『命題集註解』と記す)に先立つ哲学講義と
して、スコトゥスの著作の中でも最初期の著作に位置付けられてきたが、近年その校訂
版研究により『命題集註解』や『第一原理論』など後期の著作への言及が含まれること
などから、最後期の著作としても捉えられるようになった1) 。特に「個体化の原理」に関
する『形而上学問題集』VII q.13 は、
『命題集註解』II d.3 p.1 とは全く異なる語が用いら
れているため、
『命題集註解』の後『形而上学問題集』において新たな個体化の理解が試
みられたという解釈も現われた2) 。『形而上学問題集』VII q.13 で個体化の原理をあらわ
す語3) には「個的形相」forma individualis と「個的段階」gradus individualis があるが、そ
れぞれ q.13 の前半部と後半部(n.115 ∼)に限られるため、同じ問題においても執筆時
期の相違が推定される。
「個的形相」は他の著作には見られず、一時的使用であった可能
性が高いが、
「個的段階」は『命題集註解』I d.17 p.2 で「愛徳 caritas」の増減に関して語
られる完全性の個的段階と関連づけられ、
『命題集註解』とは異なる個体化の理解のよう
に捉えられる可能性も示唆された。
1) G. Etzkorn,
“Introduction”, in Quaestiones super Libros Metaphysicorum Aristotelis Opera
Philosophia, vol. III, The Franciscan Institute St. Bonaventure Univ. N. Y., 1995, pp.vii - l.
2) S. Dumont,
“The Question on Individuation in Scotus’s Questiones super Metaphysicam”, in Via
Scoti, vol. I, ed. L. Sileo, 1995, pp.193 - 227. T. Noone, “Scotus’s Critique of the Thomistic Theory of
Individuations and the Dating of the Quaestiones in Libros Metaphysicorum ”, in ibid., pp.391 - 406.
3) ここでは
haeceitas や contenta unitiva という語も用いられるが、Lectura と Ordinatio にはな
く Reportatio で使われていることから、Dumont は Metaphysics を少なくとも Lectura よりは後に
位置付ける。
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/113
確かに用語の違いは執筆時期に関係するとしても、用語の違いだけからスコトゥスが表
そうとした考えそれ自体も異なると断定できるかは問題である。
『形而上学問題集』は註
解という性格上、アリストテレスの形而上学的用語や問題点に制約されざるをえないし、
ヘンリクスやゴッデフリドゥスなどの解釈を吸収し学んでいたことが随所にうかがわれ
るため、スコトゥス自身の立場は萌芽的にはできていたとしても、それを十分に語りう
る思想的装置が完成していたとは言えないからである。むしろ『命題集註解』のような
神学的著作におけるほうが、既存の形而上学用語にとらわれずに「形相的差異」distinctio
formalis という独自の形而上学的観点に基づいて個体化の理論を展開することが可能に
なったとも考えられる4) 。そのため、
『命題集註解』の後で『形而上学問題集』に書き加え
たとしても、新たな思想的展開を記すためというより、自己の過去の思索を再考し、手
直しする必要性が生じたからではないかと推測される。というのも、オックスフォード
で書かれた『オルディナティオ』に関しても、スコトゥスはパリに渡ってから死ぬまで
随時書き改めたと考えられるのに、
『オルディナティオ』を書き換えずに『形而上学問題
集』だけで思想的変更を成し遂げようとしたとは考えにくいからである。
そこで『形而上学問題集』VII q.13 におけるスコトゥスの「個的段階」の理解が、その
ような仕方で『命題集註解』とは異なる個体化の理解を示しているのかが検証されなけ
ればならない。そもそも、形相に段階的な個的差異を認めることは、ヘンリクスからス
コトゥスに受け継がれた考えであり5) 、そのことは次の巻の『形而上学問題集』VIII q.2 -
3 で、ヘンリクスの『任意討論集』IV q.156) をベースに「形相が magis et minus を取りう
るのか」が論じられていることからも明らかである。
『命題集註解』I d.17 p.2 では、スコ
トゥス自身の理解に基づいてゴッデフリドゥスやヘンリクスに反論しているので、
『形而
上学問題集』VIII q.2 - 3 のヘンリクス解釈を基にしていると考えられる。さらに『命題
集註解』I d.17 p.2 では、
「愛徳」というハビトゥスの強度に問題が限定されるため、個体
化の原理との繋がりはつかみがたいが7) 、『形而上学問題集』VIII q.2 - 3 ではヘンリクス
4) 渋谷克美「スコトゥスの二つの個体化の理論」
、オッカム著『スコトゥス「個体化理論」への
批判』知泉書館、2004、pp.163 - 189.
5) Jean-Luc
Solère, “Plus ou moins: le vocabulaire de la latitude des formes”, in L’Élaboration du
vocabulaire philosophique au Moyen Âge, ed. J. Hamesse, C. Steel, Turnhout, 2000, pp.437 - 488, “Les
Degrés des forme selon Henri de Gand (Quodl., IV, q.15)”, in Henry of Ghent and the Transformations
Scholastic Thought, ed. G. Guldentops, C. Steel, Leuven, 2003, pp.127 - 155.
6) Henricus,
Quodlibeta, IV, q.15, ed. Parisiis 1518, reimpri. Lovaniensis 1961.
7) 横田蔵人「個体的差異と個体的グラドゥスの間で―ドゥンス・スコトゥスの個体化理論を
めぐって」『中世哲学研究 Veritas』XXIII, 2004, pp.87 - 96.
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に従い、実体形相についても段階が措定されうるかが議論されるため、個体化の問題と
もかなり通じ合うことが予想される。そこで『形而上学問題集』VII q.13 の「個的段階」
による個体化の議論と VIII q.2 - 3 で論じられるヘンリクスの実体形相の個的差異の理解
がいかに関係するのかを確かめることにする。
I. 個体化の原理としての個的段階
13 世紀後半(1266 年頃)Guillaume de Moerbeke による Simplicius の『カテゴリー論
註解』翻訳で8) 、magis et minus についての様々な解釈が紹介され、latitudo という訳語
も定着したが、もともとアリストテレスの『カテゴリー論』では「質」のカテゴリーの
ごく限られた種類に latitudo が認められたにすぎなかった9) 。しかしアウグスティヌスも
神への愛の強さ intensio に言及していたことから10) 、
『命題集註解』では愛徳の増減に関
してこの問題が取り上げられた。その際トマスは、基体において質料に形相が分有され
る度合いに応じて個的差異を認めたのに対して11) 、ヘンリクスやフランシスコ会の神学
者12) は形相そのものに latitudo の可能性を認めたのである。
『任意討論集』IV q.15 でヘンリクスは付帯形相だけではなく実体形相にも段階性を認
め、そのことは 1277 年のタンピエによる禁令に反しないと述べている13) 。すなわち、禁
令の 124 命題は「キリストの魂がユダの魂よりも完全である」と考えるためには知性的
魂それ自体に差異が認められなければならないとし、質料によって差異を認める立場を
8) Simplicius,
Commentaire sur les Catégories d’Aristote, Traduction de Guillaume de Moerbeke, ed.
A. Pattin, Tome I, Leuvain, 1971, II, Leiden, 1975.
9) Aristoteles,
10) Augustinus,
11) Thomas,
Cat., VIII, 10b27 - 11a14.
Epist., 186 (Ad Paulinum), III, 10, PL 33, 819 (CSEL t.57, p.53).
Sent., I, d.17, q.2, a.1 - 2, Summa theol., I-II, q.52, a.1 - 2.
12) 『形而上学問題集』
VIII q.2 - 3 で言及されるのは、ミドルタウンのリカルドゥスである。
Richardus de Mediav., Sent., I, d.17, a.2, q.4, ad 1.
13) Henricus,
Quodlibeta, IV, q.15, 128L. “bene verum est quod Christi anima in natura sua nobilior et
superior est in gradu naturae quam anima Iudae. Vel forte est alius modus secundum quem hoc potest
contingere quem ignoro. Et propter illam eamdem rationem qua in formis specialissimis substantiae non
est secundum eos magis vel minus nisi in forma humana vel anima rationali, iuxta hoc quod determinavit
quondam episcopus Parisiens, cuius sententiae non contradico.”
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/115
誤りとするのである14) 。そもそもヘンリクスは禁令の作成委員の一人であり、禁令に近
いのは当然であるが、禁令を理論的に根拠づけるために実体形相の個的な段階性を唱え
たとも考えられる15) 。
スコトゥスも禁令に影響された世代であり、
『形而上学問題集』VII q.13 で「個的形相」
や「個的段階」によって個体化の原理を理解したことも禁令と関連があると考えられる。
しかしスコトゥスは『形而上学問題集』でも『命題集註解』と同じく16) 、ヘンリクスが
本性の「分割可能性」と「他との同一性」に対する二重の否定によって個体化を説明し
たことを批判する。ただし、ヘンリクスの「これらの二重の否定は形相の ratio を全く形
相的な仕方で限定し、形相の本質の上に加えられたそのような限定によって絶対的な個
体 suppositum absolutum は構成される」17) という捉え方は、スコトゥスが個体化の原理を
理解する仕方ときわめてよく似ている。すなわち、スコトゥスは否定性によっては個で
あるという積極的 positive なあり方は根拠づけられないとヘンリクスに反論するが、本
性に何かが形相的に付け加って個体が構成されると考える点では、ヘンリクスの思考形
式をそのまま受け入れているのであり、否定的なものを肯定的なものに置き換えること
で、実質的な意味でヘンリクスの思想的影響を脱しようとしたのである。
このことは個的段階に対する両者の表現の仕方にも表れる。ヘンリクスの場合、形相
を個へ限定する個的差異の段階は、『任意討論集』IV q.15 で、それ以上「分けられえな
い段階」 gradus indivisibilis と語られるが、スコトゥスは『形而上学問題集』VII q.13 で
個体化の原理を表す「個的段階」にこのようなヘンリクスの用語を一度も用いることは
なく、
「個体化する段階」gradus individuans18) のように分割にそれ自体で矛盾する段階と
14) Chartularium
universitatis Parisiensis, prop.124, ed. H. Denifle et A. Chatelain I 550. “Quod in-
conveniens est ponere aliquos intellectus nobiliores aliis, quia, cum ista diversitas non possit esse a
parte corporum, oportet quod sit a parte intelligentiarum; et sic animae nobiles et ignobiles essent necessario diversarum specierum, sicut intelligentiae. — Error, quia sic anima Christi non esset nobilior
anima Judae.”
15) J. A. Aertsen,
“Die Thesen zur Individuation in der Verurteilung von 1277. Heinrich von Gent und
Thomas von Aquin,” in Individuum und Individualität im Mittelalter, ed. J. A. Aertsen, Miscellanea
Mediavalia 24, de Gruyter, Berlin, New York 1996, pp.249 - 265.
16) Quaest. Metaph., VII, q.13, n.56 - 58.
17) Henricus,
Lect., Ord., II, d.3, p.1, q.2.
Quodl., V, q.8, 166M. “Et haec duplex negatio omnino formaliter rationem formae de-
terminat, qua determinatione supra essentiam formae constituitur suppositum absolutum.” cf. Summa,
a.39, q.3, ad 2, I, 246Q - S; q.4, ad 5, I, 248L; a.53, q.3, in corp. II, 62S - 63S.
18) Quaest. Metaph., VII, q.13, n.133.
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して捉えるのである19) 。
さらにヘンリクスは『任意討論集』IV q.15 で、被造物の本性は存在することも存在し
ないことも可能であることから、神に創造されて存在するかぎり、本質 essentia と存在
esse の両面において、様々な仕方で互いに対して magis et minus という比較可能な完全
性の段階をもつと述べている20) 。すなわち、神によって本性が存在することによって、
本性は否定的に限定されて個的差異をもつので、神こそが個体化の能動的な原因である
とも捉えられる21) 。したがって、ヘンリクスにおいて個的段階は、個である在り方をあ
らわすが、本性が個体化された結果であるので、個体化の原理とは考えられない。すな
わち、ヘンリクスには個体化は実存することであっても、存在するのは本性だけである
ので、個体化の原理は個体の内に存在しない22) 。一方スコトゥスでは、本性だけではな
く、個も存在することも存在しないことも可能であり、現実に実存すること exsistentia
actualis によって本性が個になるわけではない。というのも、「個が実存する」というよ
うに、個であることは実存という規定に先立つので、実存によって個が規定されるとは
考えられないからである。そのため、スコトゥスでは個体化の原理は個それ自体にある
が、個体化という変化はない。このように実存による個体化に反対する点でも『形而上
学問題集』は『命題集註解』と一致する23) 。
『形而上学問題集』VII q.13 に続いて論じられる個の認識可能性に関しても、両者の相
違は顕著に現われる。ヘンリクスでは、個は本性の可能性が否定的に限定されたものに
すぎないので、本性の認識内容を超えるわけではなく、天使は自らの知性に与えられた
普遍的形象によって個を十分に認識できると捉えられるが24) 、スコトゥスでは、個は抽
19) Ibid., n.119.
20) Henricus,
Quodl., IV, q.15, 124K. “Et tamen in qualibet creatura cadunt duo secundum aliqualem
compositionem et hoc ad minus: scilicet ex essentia sive natura quae ex se est possibilis ad esse et
non esse: quod ei communicatum est a primo ente ... ordo dictus secundum gradus perfectionis, et in
essentia et in esse cuiuslibet creaturae, et hoc proportionabiliter: ita quod semper in gradu perfectiori
naturae sunt esse et essentia unius creaturae quam alterius.”
21) Henricus,
Quodl., II, q.8, in corp. p.51, “Ideo causa individuationis eorum prima et efficiens dicen-
dus est Deus, qui dat utrique eorum subsistentiam in effectu et seorsum”
22) ヘンリクスの個体化の理論については、Stephen
F. Brown, “Henry of Ghent” in Individuation in
Scholasticism, The Later Middle Ages and the Counter-Reformation 1150-1650, ed. Jorge J. E. Gracia,
State University of New York Press, 1994, pp.195 - 219.
23) Quaest. Metaph., VII, q.13, n.17, n.28 - 30,
24) Henricus,
Lect., Ord., II, d.3, p.1, q.3.
Quodl., IV, q.15, 181T - V. “Oportet videre quomodo angelus cognoscit singulare in ra-
tione universalis conspecti in singulari ... Ad cuius intellectum sciendum est quod quaelibet forma
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/117
象的には把握できない「個的段階」を含むので、この世において感覚的表象から普遍的
形象を抽象して認識することしかできない我々の知性には捉えられず、事物をありのま
まに直観可能な神や天使の知性にのみ認識可能と考えられるのである25) 。この点も『命
題集註解』と共通するが26) 、
『形而上学問題集』q.15 では「究極的な現実態性と一性の段
階」 gradum ultimae actualitatis et unitatis というように27) 、『命題集註解』で個体化の原
理をあらわす語によって補われている28) 。すなわち、
『形而上学問題集』においても、個
体化の原理である「個的段階」は、究極的な個的実在性 entitas と個的一性 unitas に基づ
いて、本性とは異なる固有の可知性をもつと捉えられているのである。
したがって、スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」は種的本性に固
有な段階とは存在論的に区別された存在の段階を意味するので29) 、ヘンリクスの個的段
階のように、本性の取りうる一つの段階を意味しているわけではない。もし個体化の原
理としての「個的段階」が個的に限定された本性の段階にすぎないならば、本性と自体
的に一であることは言うまでもないが、
『形而上学問題集』VII q.13 でスコトゥスは「個
的段階」が本性に固有な段階に一致して分かちがたく個に内的に含まれることを unitive
continentia という言葉で何度も強調している30) 。このフレーズも『命題集註解』にはな
く『形而上学問題集』VII q.13 の後半で「個的段階」とともに語られているが、『命題集
註解』では本性と個体性は同一の実在 res を構成する二つの realitas として形相的に区別
particularis in natura sua est tota essentia speciei, et solum differens intentione ... Nihil enim est obiectum intellectus, primo et per se, nisi universale secundum rationem universalis.”
25) Quaest. Metaph., VII, q.15, n.29 - 30.
26) Lect., II, d.3, p.1, q.5 - 6, n.181.
“dico quod singulare non intelligitur intellecta specie, et quod sin-
gulare intelligitur per se ab intellectu qui potest omnia intelligere intelligibilia (sicut Deus et similiter
angelus).”
27) Quaest. Metaph., VII, q.15, n.14.
“Singulare totam entitatem quiditativam superiorum includit, et
ultra hoc, gradum ultimae actualitatis et unitatis, ex quaestione ‘De individuatione’, quae unitas non
deminuit, sed addit ad entitatem et unitatem, et ita ad intelligibilitatem.”
28) 『命題集註解』において本性と形相的に区別される個的な形相性をあらわす
entitas, realitas,
actualitas などは同義的用語であり、『形而上学問題集』VII q.13 にもこれらの用語は個体化の原
理を表すものとして、何度か登場する。『命題集註解』の後で表現の統一のために『形而上学問
題集』に書き込まれた可能性も考えられる。Quaest. Metaph., VII, q.13, n.111, 131, 151.
29) Quaest. Metaph., VII, q.13, n.131.
“Et homini, secundum gradum suum proprium, naturaliter pri-
orem gradu singularitatis, non repugnat in multis esse, quia in ipso sic nihil invenitur per quod repugnet.”
30) Ibid.,
“Cum etiam nunquam fiat in rerum natura nisi sub determinato gradu, numquam est ab illo
separabilis, quia ille gradus, cum quo ponitur, est secum unitive contentus.”
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されるので、このような表現で一致が語られる必要性はなかったのである。ここでは個
が様々な存在のレベルから重層的に構成された全体として捉えられている点で、
『命題集
註解』とは多少視点が異なるかもしれないが、より進んだ理解であるとも言えない。
したがってこの『形而上学問題集』VII q.13 を読む限り、個体化の原理として捉えられ
た「個的段階」は、ヘンリクスの考える本性の個的差異の段階ではないことは明らかで
あり、
『命題集註解』における個体化の原理の理解と根本的に相容れないことは何も見出
されない。しかし、スコトゥスにおいて個的差異の段階と個体化の原理がいかなる関係
にあるのかは、ここからは確かめられないので、次に『形而上学問題集』VIII q.2 - 3 に
おいてスコトゥスがヘンリクスの実体形相の個的差異をいかに受け入れたのかを見るこ
とにする。
II. 実体形相の個的差異とアヴェロエス批判
『形而上学問題集』VIII q.2 - 3 の前半でスコトゥスは、ヘンリクスの立場をヘンリクス
自身の『任意討論集』IV q.15 に基づいて弁護していることからも、大筋支持しているよ
うに見える。しかし、スコトゥスはそこでのヘンリクスの議論のすべてを受け入れてい
るわけではなく、ヘンリクスの考え方の根底にある本性の分有論には全くタッチしない
し、
「実体は付帯性よりもより大きな存在である」や「第一実体は第二実体よりもより実
体である」31) といった存在の類比的な比較についてはたんに紹介するにとどめ、あくまで
も実体形相と付帯形相とがそれぞれいかに latitudo をもちうるのかに問題を絞っている。
そこで実体形相に関する前半の解決 solutio では、「実体は何性 quiditas として普遍的
に考えられた種に基づいては magis et minus を受け入れないが、個体 suppositum におい
ては、この個体は他の個体よりもより完全な仕方で種的本性をもつことにより magis et
31) Henricus,
Quodl., IV, q.15, 125Z. “Aut enim determinabile univoce vel analogice. Secundo modo
substantia et accidens comparantur in ente secundum magis et minus, est enim substantia magis ens
quam accidens. Et sic bene dicitur quod magis et verius sit esse aut entitas substantiae quam accidentis: inquantum scilicet substantiae essentia maior est: et habet persistere et esse in seipsa quam sit
essentia accidentis quae non habet esse nisi in alio ... primae substantiae maxime sunt substantiae. Substantiarum vero secundarum magis substantia species est quam genus: et hoc non solum propter actu
subsistendi: sed quia non est proprie substantia nisi singulare et universale.”
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/119
minus を受け入れることが可能である」32) と述べ、実体が個として、抽象的に理解されう
る種的本性とは区別されるかぎりで、個的差異を受け入れる可能性を認めるのである。
そのことは、
「個的段階」が本性の段階とは区別されていることと通じ合うが、個である
から個的差異を受け入れるのであり、個的差異によって個であるとは考えられてはいな
いのである。すなわち、個的差異も個体化の原理と同じように、個に固有な段階に属す
としても、それらが同一視されているわけではない。
この問題の最後でスコトゥスは、実体形相に関するヘンリクスの立場が認められるの
は、あくまでもアヴェロエスの立場と区別されるかぎりでという条件をつける。そもそ
も 13 世紀後半に、形相の latitudo をめぐる議論が盛んになったのはアラビアの自然学の
影響であり、アヴェロエスが『自然学註解』33) で基体が最終的に獲得する形相を部分的に
受容する過程として自然学的変化を捉えたことは議論の的となった34) 。ヘンリクスもア
ヴェロエスに従って形相が段階的に獲得されて可能態から現実態へと変化することを認
めていたのであるが、スコトゥスは三つの問いによってヘンリクスとアヴェロエスの立
場との間に明確な線を引こうとする。
まず第一問「同じ種に属する実体形相は他の実体形相よりも大きいか」に関しては、
ヘンリクスがいかなる実体形相にも普遍的に認めるのに対して、アヴェロエスは特殊な
場合に認めるにすぎないと区別される。すなわち、ヘンリクスでは、本性が分割可能性
をもつことから、どんな被造の本性も段階性をもちうると考えられ、非質料的実体であ
る天使も存在するかぎり個的段階に限定されていると捉えるが35) 、アヴェロエスにおい
て実体形相の個的差異が認められるのは、質料的実体を構成する火や水のような物質的
元素の形相に限られ、非質料的知性には個的差異は一切認められないので、その点が禁
令の対象になったのである。
32) Quaest. Metaph., VIII, q.2 - 3, n.37.
“Substantia ergo, secundum speciem in universali considerata
ut quiditas, non suscipit magis et minus, sed in supposito potest, eo quod hoc individuum perfectius
habet naturam specificam quam aliud suppositum.”
33) Averroës,
In Physicam, III, com.4, ed. Iuntina IV f.41rb. “Quoniam motus secundum quod non dif-
fert a perfectione ad quam vadit nisi secundum magis et minus, necesse est ut sit de genere illius perfectionis. Motus enim nihil aliud est quam generatio partis post aliam illius perfectionis ad quam intendit
motus, donec perficiatur et sit in actu.”
34) Cecilia
Trifogli, Oxford Physics in the Thirteenth Century (ca.1250 - 1270) Motion, Infinity, Place
& Time, Studien und Texte zur Geistesgeschichte des Mittelalters LXXII, Brill Leiden · Boston · Köln,
2000.
35) Henricus,
Quodl., IV, q.15, 125T, 126C
120
次に第二問「数的に同一な個体において実体形相が強められるか」に関して、ヘンリ
クスは否定するが、アヴェロエスは肯定すると完全に分けられる。ヘンリクスにおいて、
実体形相は質料と結びついて個体を形成するとともに、付帯形相のように latitudo をもっ
て変化することはないと考えられるが、アヴェロエスの場合、元素の形相はその固有性
とともに変化しうると捉えられる36) 。そのため、第三問「いかなる仕方で実体形相は変
化するのか、部分的に継起的に変化するのか、不可分なかたちで同時に変化するのか」
はアヴェロエスにのみ問題になり、ヘンリクスは答える必要がないとする。このような
変化の仕方に関しては、アヴェロエスの『自然学註解』の影響でオックスフォードで盛
んに議論されたらしく、スコトゥスもこの問題の中間部で付帯形相の変化に関して、同
時的か継起的かを非常に詳しく議論している37) 。
このように実体形相の段階的変化を認めるアヴェロエスの立場は、実体の運動変化を
認めないアリストテレスの『自然学』38) の立場に根本的に対立するので認められないと
し、アヴェロエスの立場を根拠づける三つの論証の媒介 medium についても一つ一つ批
判する39) 。すなわち、アヴェロエスは、熱の強さは火の形相の強さをあらわすとし(第一
の媒介)、水から火が転化する場合、火に固有な熱さに至るまで、水の形相の強さが部分
的に減少し、火の形相の強さが部分的に増すと考え(第二の媒介)、熱する働きが不均等
なのも火の形相の段階が不均等であることによる(第三の媒介)として、付帯形相の段
階は実体形相それ自体の段階をあらわし、付帯形相が段階的に変化するかぎり、実体形
相も段階的に変化すると考えるのである。スコトゥスはこのようなアヴェロエスの捉え
方では、元素の働きが外的に妨げられたり、強められる可能性が考慮されないだけでは
なく、異なる元素が部分的に混じり合って転化するので、いかなる段階が元素に固有な
段階かは認識しがたいと批判する40) 。すなわち、付帯性のある段階に実体のある段階が
必然的に対応するならば、問題が特殊化され、何がどのような場合にどの程度の latitudo
で変化しうるのかを一般的に捉えられなくなると考えるのである。
しかし、スコトゥスがアヴェロエスに反対するのは、このような自然学の理論的問題
36) Averroës, De caelo, III, com.67 ed. Iuntina V f.105rb.
“Dicemus quod formae istorum elementorum
substantiales sunt deminutae a formis substantialibus perfectis, et quasi suum esse est medium inter
formas et accidentia.”
37) Quaest. Metaph., VIII, q.2 - 3, n.48 - 178.
38) Aristoteles,
Physica, V, t.9, 225a34 - b9.
39) Quaest. Metaph., VIII, q.2 - 3, n.222 - 245.
40) Ibid., n.237.
“Averrois nihil valet, quia multa simpliciter necessario requirunt qualitatem infra lati-
tudinem aliquam, non tamen necessario in hoc gradu.”
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/121
に限られるわけではなく、むしろアヴェロエスの捉え方が様々な複合体や魂にまで応用
された場合に同様の問題が懸念されるからである。たとえば、この生命はある限定され
た段階で体液 humor が調和を保つ場合に健康であるとするならば、私の身体が弱った場
合、生命の原理である私の知性的魂も弱ったと考えなければならなくなると反論する41) 。
というのも、身体の状態が魂の段階に基づいて必然的に変化するならば、精神の身体か
らの独立も認められなくなるからである。そこで、魂のある段階に基づいて魂の様々な
状態や働きがすべて同じ段階にあるわけではないと理解されるのである。
スコトゥスがここでヘンリクスの立場をアヴェロエスの立場から明確に区別しようと
したのは、実際にはヘンリクス自身もアヴェロエスの自然学に基づいて実体形相が基体
に受け入れられる過程での段階的変化を認めているからである。『任意討論集』IV q.15
でヘンリクスはこのような場合は運動 motio ではなく変容 mutatio にすぎないと区別す
るが42) 、その例となるのは、胎児が人間に成る場合であり、母胎において胚種の形相が
部分的に減少し、人間の形相が部分的に増加することで、最終的には人間の形相と入れ
替わり、
「この人」がこの世に生まれると考えるのである。もちろん「この人」として生
まれてからは実体の段階的変化は一切認められないが、ヘンリクスは人間の生成を説明
するためにアヴェロエスの自然学的立場を参照したのである43) 。
スコトゥスは当然このヘンリクスの見解を知っており、「個体化の原理」のすぐ前の
『形而上学問題集』VII q.12 では「胚種の理拠」 ratio seminalis に関してこのような立場
を取り上げ、その解決を VIII q.2 - 3 に先送りしたのであるが44) 、ここでその点に触れな
いのは、実体形相に magis et minus を認めることと、実体形相における段階的変化を認
めることとは別の問題であると考えるようになつたからである。そのため、スコトゥス
41) Ibid., n.237.
“Exemplum: vita requirit sanitatem aliquem, igitur necessario requirit hanc propor-
tionem praecisam humorum ad hoc ut sit haec vita. Tunc sequeretur quod, corpore meo aliqualiter
infirmato, anima mea intellectiva remitteretur, quia illa formaliter vivo.”
42) Henricus,
Quodl., IV, q.15, 130S. “in indivisibili autem non est motus sed mutatio tantum: non
obstante quod in forma substantiali aliqua et aliquo modo sint magis et minus, non erit motus in ipsam:
sed mutatio tantum. Et nullo modo est simile de forma substantiali et accidentali, ut dictum est.”
43) Ibid. 128N.
“Et hoc maxime apparet ubi fiunt magis et minus per contrarium existens in subiecto
ex remotione partium unius et acquisitione partium alterius, secundum quod dicit Commentator super
secundum Physicorum. Generatio albi secundum quod est motus, indiget principio opposito: et partes
oppositi successive recedunt a subiecto: et fiunt in ipso partes generati. Similiter est in substantia, in
spermate enim apud generationem hominis non cessant partes spermatis recedere: et partes hominis
fieri, donec forma hominis perficiatur ... Unde generatio necessario sequitur alterationem.”
44) Quaest. Metaph., VII, q.12, n.24.
122
自身は VIII q.2 - 3 で魂は基体において継起的にではなく同時的に生成しうると述べ45) 、
『レクトゥーラ』II d.18 でも、魂が存在する瞬間と魂が基体に受け入れられる瞬間は時間
的に同じと捉えるのである46) 。したがって、スコトゥスの場合、魂が胎内に受け入れら
れた瞬間に「この人」であり、魂それ自体は全く変化せずに、人間のもつ様々な機能が
継起的に異なる仕方で発展する可能性が認められるのである。
スコトゥス以前には、個体化も形相と質料のいずれか、あるいは両者の結合によって、
説明されることが多く、ヘンリクスの場合にも、形相が質料に段階的に受容されていく
過程で「この形相」となり、
「この複合体」が生成すると考えられたのである。それに対
してスコトゥスでは、実体形相は基体との関係によらずに、初めから「この形相」とし
て存在し、そのような形相を受け入れる質料も「この質料」であり、両者が結合した瞬
間に「この複合体」として実体が生成するのである。しかし「この形相」が「この質料」
から「この複合体」を形成する根拠であるため、
「この形相」が実体を個体化するのであ
る。そのような点からは『形而上学問題集』VII q.13 で「個的形相」による個体化が語ら
れたことも理解できる。すなわち、形相も、質料も、それ自体では個体化の原理ではな
く、いずれも「個的形相」によって個体化されるのであり47) 、ここでは実体の個体化が
問題になっているのである48) 。
『命題集註解』においても「質料による個体化」に反論す
る議論の一部で「この質料」よりも「この形相」のほうが差異の根拠とみなされるが49) 、
「この形相」も「この質料」も「この複合体」も基本的にはそれぞれの究極的現実性に
よって個体化されると説明される50) 。この点でも『形而上学問題集』の個体化の理解は、
「個としての人間」の生成をいかに理解するかという具体的な問題と密接に関わり、スコ
45) Ibid., VIII, q.2 - 3, n.138.
46) Lect., II, d.18, q.1 - 2, n.72.
“Respondeo quod in creatione animae in corpore et gratiae in anima
est duplex mutatio: una a non-esse animae ad esse animae, et haec est creatio animae, et ista mutatio
animae potest esse licet anima non uniatur corpori; est autem alia mutatio corporis organici, privati
anima, ad formam animae. Et istae duae mutationes sunt simul in eodem instanti temporis, licet una sit
prior alia secundum ordinem naturae.”
47) Quaest. Metaph., VII, q.13, n.120.
“Non materia, nec forma, nec esse actu, si differt a forma,
propter argumenta facta superius.”
48) Ibid., n.101.
“Sed quaeritur de primo principio distincitivo, quod est causa distinctionum aliarum.
Et illud est substantia, quia forma individualis.”
49) Lect., II, d.3, p.1, q.5 - 6, n.195.
“Dico quod generans et genitum sunt distincta et propter materiam
et propter formam, et magis propter formam quam propter materiam. ... Sed ratione ‘huius formae’
magis est distinctio quam ratione ‘huius materiae’.”
50) Ord., II, d.3, p.1, q.5 - 6, n.188.
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/123
トゥス以前の個体化の議論との接点を残している。
しかし個体化の原理をあらわす「個的形相」という語も、もともとはアヴェロエスに
由来する言葉であったらしく、基体に普遍的形相から順に特殊な形相が受け入れられ、
最終的に個的形相が第一質料を個的に限定するのである51) 。すなわち、アヴェロエスの
場合、個的差異をもつ個的形相とは元素の形相なのである。スコトゥスもこのようなア
ヴェロエスの「個的形相」の理解を知らなかったわけではなく52) 、この『形而上学問題
集』ではアヴェロエスとは全く異なる意味で「個的形相」を個体化の原理として捉えて
いたのであるが53) 、アヴェロエスに対決するために、アヴェロエスと同じ語を全く異な
る意味で使うことに問題を感じたのであろうか。というのも、
「個的形相」が形相の個体
化の原理であるならば、
「この形相」として限定された形相を意味するわけではないから
である。そのため「個的形相」という語も「個的段階」と個的差異のように微妙な区別
を必要とするのである。
結 「個的段階」と個的差異
このように『形而上学問題集』VIII q.2 - 3 で、スコトゥスは実体形相の個的差異を認
めるとしても、ヘンリクスのようにアヴェロエスに基づいて受け入れるわけではない。
そのため、実体形相の段階を肯定することにも否定することにも決定的な理由はないと
し54) 、もしある人がたんに禁令に従うためにヘンリクスの立場を肯定しても、アヴェロ
エスのように実体の段階的変化を認めないならば何も問題はないと語っている55) 。しか
51) Averroës,
Metaph., I, com.17 ed. Iuntina VIII f.7vb. “Genus enim est forma universalis; materia
autem secundum quod in ea non debet esse in actu aliquid omnino. Et ex eis quae recipit, nullam
habet formam omnino, neque universalem neque particularem, sed primo recipit formam universalem
et postea, mediante forma universali, recipit formas alias usque ad individuales.”
52) In
duos lib. Perherm., q.1, n.5. “sicut Commentator ait III De anima, sic se habet intellectus ad
species intelligibiles, sicut materia prima se habet ad formas individuales quas recipit.”
53) スコトゥスはボナヴェントゥラや Richard Rufus の個体化の理解から「個的形相」という語を個
体化の原理として使用するに至ったと推測されている。Rega Wood, “Individual Forms: Richard Ru-
fus and John Duns Scotus”, in John Duns Scotus: Metaphysics and Ethics, ed. L. Honnefelder, Leiden,
Brill, 1996, pp.251 - 272.
54) Quaest. Metaph., VIII, q.2 - 3, n.220.
55) Ibid., n.229.
124
し、スコトゥス自身がたんに禁令のためだけにヘンリクスと同じ立場を取ったとは考え
がたい。すなわち、禁令のように、キリストの魂がユダの魂よりも完全であることを魂
の個的差異から理解することには問題がないとしても、両者の性質や行為を比べること
によってそれを理解するならば、アヴェロエスと同様に、付帯性の個的差異が実体形相
の個的差異をあらわすと考えることになる。しかし、魂の完全性の段階が魂の性質や活
動の完全性の段階を必然的に根拠づけるとすれば、各人の魂はその完全性の段階に応じ
て必然的に完全な働きをすることになり、魂の自由は認められなくなる。したがって、ス
コトゥスがアヴェロエスのように実体形相の段階を付帯性の段階に必然的に結び付ける
ことに反対するのは、この問題が意志の自由にも関わりうる可能性をもつからである。
その意味で、実体形相の個的差異を認めるとしても、それを性質や活動の優劣から理解
することはできないのであり、実体形相の個的差異は、実体とともに常に同一で変化し
ないと考えなければならない。
このように『形而上学問題集』では、実体形相に段階性を認めるヘンリクスの立場に
は根拠がないと語るだけで終わったが、愛徳の変化を扱う『レクトゥーラ』では、実体の
段階性は「質」の段階性からではなく、「量」の分割可能性の根拠として捉え直される。
量だけが同じ ratio をもつ諸部分から成るのではなく、実体や質もそうである。すな
わち量の一性は、同じ ratio をもつ諸部分に存するが、そのような一性から、先立っ
て、実体の一性が同じ ratio の諸部分から成ることが結論されるのである。というの
は、量だけが部分の外に部分をそれ自体からもつが、このような付帯的な分割可能
性は実体の部分も実体における分割可能性も原因することはないからである。とい
うのも、原因が結果よりも不完全であることは決してないからである56) 。
実体が同一の本質 ratio をもつ部分に分かれうることは、同一の実体が同じ ratio の段
階性をもちうることを意味するのであり、ヘンリクスも本性の分割可能性から段階性の
可能性を理解していたのである。このような実体の分割可能性は、量的なものの分割可
能性に本質的に先立つが、量的分割があることから、実体の分割可能性についても結論
できると考えているのである。このことはスコトゥスが「量による個体化」に反論する
56) Lect., I, d.17, p.2, q.4, n.218.
“Respondeo quod non solum quantitas componitur ex partibus eius-
dem rationis, sed etiam substantia et qualitas. Nam ex unitate quantitatis, quae consistit in partibus
eiusdem rationis, concluditur unitas substantiae – prior – ex partibus eiusdem rationis, quia quamvis
quantitas sola habet partem extra partem ex se, haec tamen ‘per accidens partibilitas’ non causat partes
substantiae nec partibilitatem in substantia, quia causa nunquam est imperfectior suo effectu.”
スコトゥスの『形而上学問題集』における「個的段階」/125
根拠ともなる。たとえば同じ水が量的に分けられるのも、水の本性が多くの水に分けら
れうることによるのであり、量が分けられるからではないのである。しかし、実体が分
割可能であることは、実体の本性 ratio によるが、分けられた部分がこれ以上分けられえ
ないのは、本性によるのではない。したがって、実体の本性から様々な段階を取る可能性
が根拠づけられるが、個体化の原理によって実体は「この段階」に限定されるのである。
ヘンリクスの場合、形相が基体に段階的に受け入れられることを、アヴェロエスに基
づいて可能態から現実態への移行として、完全性が低い段階から高い段階が引き出され
るように捉えられていたが、
『レクトゥーラ』ではこのようなヘンリクスの捉え方も批判
される57) 。すなわち、スコトゥスでは、完全性の段階が高かろうと低かろうと、強度が
量的に区別されるだけで、同じ完全性を現実にもつ点では全く区別されないのである。
そのため、愛徳に関しても、全く新たに愛徳が付け加わることによって愛徳の段階性が
変化するのであり、愛徳それ自体が魂において内的に完成していくわけではない。さら
に、実体である魂の段階と質である愛徳の段階とは完全に独立し、質の個的段階は変化
しても、実体の個的段階は変化しないのである。
『オルディナティオ』では実体の段階性については特に触れられず、一般的に magis
et minus という個的差異は種的本性を変えることなく、個へと限定する条件であること
が確認される58) 。ただしその欄外の書き込みでは、同じ個体でなくても同じ段階を取り
うることから、個体化の原理と個的差異とは区別されている59) 。すなわち、個的差異の
段階性は個体化の原理ではないことが、スコトゥスにとって大きく取り上げるほどのこ
とではなく、すでにヘンリクスも同じように考えていたことなのである。
それではなぜ『形而上学問題集』VII q.13 では「個的段階」という語によって個体化
の原理を表したのかという問題が残る。その時点ではまだ個的差異の段階と個体化の原
理が明確に区別されてはいなかったからなのであろうか。しかし『形而上学問題集』VII
q.13 では、本性の一性と個の一性の大きさが比較されることに基づいて「個的段階」が
理解されており、同じ本性がもちうる個的差異の段階性については全く言及されなかっ
たのである。ヘンリクスの『任意討論集』IV q.15 では、同じ本性の magis et minus とい
57) Ibid., I, d.17, p.2, q.3.
58) Ord., I, d.17, p.2, q.2, n.251.
“gradus autem individualis quicumque, sicut et differentia individualis
contrahens ad esse ‘hoc’, sive unitas sive pluralitas individualis, et breviter quaecumque condicio individualis addita naturae specifica, non additur sibi quantum ad rationem quiditativam, ita quod secundum
illam rationem determinet eam, et propter hoc non mutat speciem quiditatis cui additur.”
59) Ibid., n.214.
hAdnotatioi “ ‘Magis’ est conditio individualis, non signata sicut ‘haec’, sed vaga,
quia potest esse idem gradus licet non idem ‘hoc’.”
126
う一義的比較だけではなく、個である第一実体と種である第二実体との実体性の比較の
ように存在論的に異なるレベルの類比的比較についても語られていたのであるが60) 、ス
コトゥスは『形而上学問題集』VIII q.2 - 3 では、そのような類比的比較については取り
上げずに、同じ形相の ratio に関する一義的比較に問題を絞ったのである。そのことから
も、
『形而上学問題集』においても、異なる存在性のレベルという意味での段階と、同じ
存在性が様々な段階を取る場合の段階とを混同していたわけではなく、あえて問題を分
けてそれぞれについて論じたのである。もし「個的段階」が個的差異の段階と同じなら
ば、スコトゥスの立場はヘンリクスと異ならず、
「個体化の原理」を積極的に措定する必
要はなかったことになる。すなわち、個体化の原理が認められるかぎりで、アヴェロエス
に対して、自然学的変化に先立つ実体の存在論的な自己同一性と不可変性を根拠づける
ことができると考えられたのである。そのため、ヘンリクスにおける実体形相の個的差
異は、スコトゥスにおいてその自然学的意味を失うだけではなく、形而上学的にも固体
化の原理に代るものではなく、むしろそれを必要とするものとして捉えられたのである。
[筆者:立正大学非常勤講師]
60) 註
31 参照