G-5 飛鳥に残る仏像たち - 14 - 彫刻内容と金工技法 彫刻 位置 宝塔 上段と中段の中央 三尊像 上段の左右 七尊像 中段の左右 仁王像 下段の左(右は木製) 小仏坐像 上段の周縁部(上辺) 小仏立像 上段・中段の周縁部(左辺と右辺) 金工技法 鋳出 十方諸仏(千体仏) 上段の一面(一部剥落) 押出 銘文 下段の中央(一部欠損) 浚い彫り 奏楽天人 下段の周縁部 線彫り 長谷寺:銅板法華説相図 *飛鳥に現存する仏像は? 仏教公伝の地である飛鳥に寺院が創建され、天武朝では24カ寺が京内にあったと史料 に記されており当時祭られたであろう仏像は数多く在ったのは事実ですが1300年経 た現在に残された仏像はわずかです。 国が指定した国宝・重要文化財として飛鳥の地に保存されている飛鳥・白鳳仏は *法隆寺 釈迦三尊像、薬師如来坐像、百済観音、夢違観音、救世観音 :各国宝 *中宮寺 弥勒菩薩(半跏思惟像)白鳳仏 :国宝 *法輪寺 虚空蔵菩薩立像 飛鳥仏 :重要文化財 *当麻寺 塑造弥勒仏座像 白鳳仏 :国宝 補修多いが現存最古の塑像 *飛鳥寺 銅造釈迦如来坐像 飛鳥仏 :重要文化財 伝止利仏師作 飛鳥大仏 いしいでら *石位寺 石造三尊仏 は せ で ら どうばんほっけせっそうず *長谷寺 銅板法華説相図 白鳳仏 :重要文化財 白鳳仏 :国宝 伝我国最古の石造仏 686年天武病回復祈願の押出仏 以上であるが明日香村にあるのは飛鳥大仏のみである。 *石位寺の石造三尊仏とは? 石位寺は桜井市大字忍坂にある無住寺で、この地には舒明天皇陵とされる押坂内陵や鏡 王の墓、欽明天皇の大伴皇女の墓等があり、この寺の収蔵庫に我国最古の石彫三尊仏があ り国の重要文化財に指定されている。 調査により白鳳仏とされているが出処は不明で、伝説では元飛鳥の粟原寺(おおはらで ら)にあったが水害で流されてきた三尊仏を忍坂の村人が祀ってきたとされている。 - 15 - 現在談山神社所蔵の粟原寺三重塔伏鉢は国宝に指定されており、それに刻まれた銘文で は仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を偲んで寺の建立を発願し、大嶋の死後に比賣朝臣額田により 持統 8 年に起工して金堂と釈迦像が造られ、22 年後の和銅 8 年に三重塔が完成したと記 されている。 ここに記載の大嶋は日本書紀に記載された実在した人物で、比賣朝臣額田(ひめあそん ぬかた)は万葉歌人・額田姫王との伝承があり、この石造り三尊仏は彼女の念持仏であっ たとされており、粟原寺は忍阪街道(国道 1666 号線)の中ほどの丘陵・粟原の集落にあ る粟原寺跡と遺跡指定されているがその下流に石位寺があることから話がつながってい る。また近くに現存する長谷寺の銅板法華説相図の三尊像と類似しているのも謎である。 *長谷寺・銅板法華説相図とは? 「法華経」見宝塔品で説かれる宝塔出現の光景を銅板にしたもので下方に製作の経緯を 浚い彫で記銘されている。 銘文に戌年 7 月上旬に僧・道明が天皇陛下のため造立したとされるが右下部分が欠損し て木造後補修されている。 製作年代は諸説あり天武期 686 年説、持統期 698 年説、元正期 722 年説、称徳期 770 年説があるが寺伝では 686 年説なるも、698 年説が有力である。仏像彫刻も白鳳様式と 奈良時代初期の両説がある。 長谷寺では 943 年の火災で紛失したと報告したためその後保管されていたことが判明 したまま本品を永年秘匿し続けていたが、明治 9 年同寺・三重塔の火災に際して世の知る ところとなり国宝に指定された。 *なぜわずかしかないの? 寺院に祭られた仏像は寺の盛衰と運命を共にするからです。 天武朝で24カ寺あったとされる飛鳥の寺院も平城遷都で多くは移転(本薬師寺の薬師 三尊像が薬師寺に移動)し、遺された寺院も檀家が居なくなると寺院の維持が困難となり、 隆盛寺院の末寺としてしか存続できなかった。 奈良・平安時代までの貴族社会では古京の寺院として尊重されていたが、武家社会とな ると兵火や天災で寺院が焼失すると再建が不可能で祭られていた仏像の多くは逸散した り、持ち出されてしまったようで典型的な事例は聖徳太子ゆかりの橘寺でしょう。 従って有名寺院である法隆寺、薬師寺や興福寺等に飛鳥の仏像が現存する可能性があり、 事例としては興福寺の国宝・仏頭は山田寺の本尊・薬師如来の頭部(G-3参照)であった とされています。 更に飛鳥仏は国産技術未熟で半島からの渡来仏が多く、輸送に適した小金銅仏が大半で 持ち運びが容易な為逸散の要因にもなった。 明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で危機に面した法隆寺が逸散防止もあり多数 の小金銅仏を皇室へ献上して現在東京国立博物館蔵となっている。 この献納・四十八体仏の中には飛鳥の寺院から法隆寺に持ちこまれた仏像が含まれてい - 16 - たものと考えられます。(G-4参照) *なぜ白鳳仏が地方に多いの? 天武天皇が全国統一国家形成の手段として仏教を活用し、国家仏教として諸国に仏舎を 造り、仏像と経を置く詔(みことのり)を発令しており、奈良時代の国分寺の発祥とされ ています。 この令により地方に白鳳仏が流布され、諸国の有力氏族により維持管理され存続し続け たのではなかろうか? 東京の深大寺、島根の鰐淵寺、大分の長谷寺等の白鳳仏が有名ですが、長野県や宮城県 の郡部にも当時の渡来仏が現存し半島との交流が伺えます。 しかし地方といっても畿内周辺に多く現存し、小金銅仏が主体で渡来仏を鋳型にとり、 これを国産として量産して地方に流布させたのでしょう。 これらの小金銅仏は寺院で祭られ続けて現存するのは僅かで、逸散して埋没した仏が発 掘されて現存しており、今後も各地で発掘される可能性がある。 <飛鳥以外に現存する主な飛鳥、白鳳仏> *は国宝 東京 国立博物館 四十八体仏等 14仏 飛鳥、白鳳期 京都 広隆寺 *木造半跏思惟像 2仏 飛鳥期 渡来仏 宝冠・宝髻弥勒 大阪 観心寺 野中寺 兵庫 一乗寺 鶴林寺 島根 鰐淵寺 123/89cm 銅造観音菩薩立像 白鳳期 658 年銘光背(根津美術館) 像高 49cm 銅造半跏思惟像 白鳳期 666 丙寅年銘橘寺知識請願 像高30.6cm 銅造聖観音菩薩立像 白鳳期 渡来仏? 像高76.5cm 同上 白鳳期 像高82.4cm 銅造観音菩薩立像 白鳳期 692 壬辰年銘出雲制作 像高80cm し どり 鳥取 倭文神社*銅造観音菩薩立像 白鳳期 大山寺にも 21.5/27.3cm 大分 長谷寺 銅造観音菩薩立像 白鳳期 像高39.4cm 関東 深大寺 銅造釈迦如来埼像 白鳳期 関東にある白鳳仏の一つ 像高81.8cm 龍角寺 銅造薬師如来坐像 白鳳期 奈良 桜本坊 銅造釈迦如来坐像 白鳳期 仏頭系列 像高 18.4cm 興福寺 *銅造薬師如来頭部 白鳳期 685 作山田寺本尊 1180 移転 当麻寺 白鳳期 多聞天は後世補昨 像高 218cm 新薬師寺 銅造香薬師如来像 白鳳期 行方不明 像高 73cm 薬師寺 *銅造薬師三尊像 白鳳期?本薬師寺移設説、新造説あり 像高 312cm 白鳳期?東院堂本尊 像高 190cm 乾漆造四天王像 *銅造聖観音菩薩立像 107cm 金龍寺 木造観音菩薩立像 白鳳期 法隆寺六観音像に近似 像高 47.6cm 悟真寺 銅造誕生釈迦仏立像 白鳳期 像高 13.7cm 神野寺 鉄造半跏思惟像 飛鳥期 止利様式? 和歌山 妙見神社 銅造弥勒半跏思惟像 白鳳期 - 17 - 像高25.5cm 像高 22cm *飛鳥で発掘された仏像あるの? 飛鳥の諸寺院発掘調査で7~8世紀の仏像の残片が出土しており、多くの仏像が祭られ ていた事実は確認出来る。 特に川原寺裏山遺跡からは白鳳期の塑造・菩薩頭部や丈六仏残片が出土し、飛鳥に最後 まで残った官寺としての偉容を示す塑像群の存在を示している。 また川原寺や山田寺の発掘調査で「塼仏」と呼ばれる浮彫仏像の素焼土製品が出土して おり、この塼仏は現在のタイルの如く寺院の内壁を飾っていたと考えられており、塼仏に は三尊像や菩薩、天女像等がある。(参照G-6飛鳥の塼仏) この制作技術の延長線上に塑造仏像があり白鳳期から多くの塑像が製作されたと考え られるが材質的に壊れやすいため残存した白鳳仏は僅かで、代表例は当麻寺の弥勒仏が現 存する。 <註> 天武朝二十四カ寺:日本書紀天武九年条に記されているが廃寺等もあり特定されていない 石位寺石仏:桜井市忍坂にあり、伝説では石仏の願主は額田王とされている 長谷寺:桜井市初瀬にあり、天武発願で川原寺道明上人が建立(686年) 銅板法華説相図:千仏多宝仏塔とも呼ばれ作成祈願文が刻まれており国宝に指定 山田寺:蘇我倉山田石川麻呂の発願建造中不慮の死で中断天武朝で完成本尊は薬師三尊 1023 年藤原道長が参詣しており創建当時を維持されていた 川原寺:斉明の川原宮跡に天智が母の菩提のため創建、天武朝以降主要官寺として隆盛 浚い彫:銅板に墨書した漢字の輪郭を刻印し中を浚える彫り方 - 18 -
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