§58. ベルクソン的目的論の四つの根本特徴(承前) 目的論の

§58. ベルクソン的目的論の四つの根本特徴(承前)
目的論の原理が「心理学的」なものであるとはどういうことか。その「柔軟さ」「拡張可能性」
「広がり」を理解するには、『創造的進化』第三章の「類の問題と法則の問題」(あるいは、原
著の頁上のタイトルでは簡略化して「類と法則」)と題された一節を参照しつつ、上述した「質
的多様性」の内実にさらに踏み込まねばならない。
この一節で、ベルクソンは二種類の秩序を区別している。量的多様性が属するのが〈法則〉
によって機械的・幾何学的に構成される「物理的秩序」だとすれば、質的多様性が属すのは
〈類〉によって有機的・芸術的に構成される「生命の秩序」である。常識・人間知性・科学は、生
物界のいたるところに、特権的な瞬間・特異点を捉える有機的な「類」ではなく、任意の瞬間
に適用される機械的な「法則」を見出す。「心理学的」(むろん以上に見てきたベルクソン的な
意味での)合目的性ではなく、物理学的な因果性(causalité)を見出す。目的論の論理は、言
葉の本来の意味で類的(générique)でなければならない。これが、「目的論の原理は心理学
的な本質を持つ」という言葉がさしあたり意味するところであるように思われる。
ここで簡潔に二つの注記を行なっておこう。
1)ベルクソンはこの一節で、アリストテレスに言及しながら、「類の一般性(généralité des
genres)、すなわち、要するに、生命秩序の表現的な一般性(généralité expressive de
l’ordre vital)」について語っている(III, 688/229)。「類」と「一般性」と「生命秩序」のこの関係
は日本語では見えにくい。類概念というものはおよそ分類に必要なものであるが、「類」
(genre)という語はギリシア語の「ゲノス」(γένος)に由来する。古代ギリシアにおいて共通の
家系・家柄に属する社会集団を意味してもいたこのゲノスという語自体は、「成る」「生ずる」を
意味する「ギグネスタイ」(γίγνεσθαι)という動詞に由来し、「発生」(genèse)という語に通じる。
同じ生まれ・由来・発生源をもつものが、その同朋性・共方向性によって、ひとつの同じ類概
念に包括される対象の領域を形作るということである。事物の由来が事物の実体的本質を構
成することの謎を、アリストテレスが「ト・ティ・エーン・エイナイ」(τὸ τί ἦν εἶναι)という不思議
な概念によって解こうとしたが、事物の由来は事物の本質に対して単に偶然的な事柄ではな
く、むしろそれに対して構成的な意味をもっているというのが、ゲノスという語に含まれている
「哲学」だ、と三木清は言う。発生的方法は現代では心理主義もしくは歴史主義の名のもとに
非難されているが、私たちはなお心理主義や歴史主義に陥ることなく、しかもひとつの新しい
発生的方法を考えることはできないだろうか、と。ベルクソン的な目的論の論理は、類(ゲノス)
という語の語源的な意味で、そしてアリストテレス的・三木的な意味で、ジェネリック
(générique)な、つまり類的で一般的であるとともに発生的なものである。言い換えれば、生
命秩序は、合目的性を決定的に離れることなく超出するという形で、その周辺を揺れ動いて
いる。
第一類の秩序について言うと、それが目的性を中心に揺れ動いている(oscille)ことは確
かである。しかし目的性でもって定義できないわけは、それの上にいないときは必ず下にい
るからである。この秩序で最高の形のものは目的性以上のものである。例えば、自由活動あ
るいは芸術作品について見るなら、いずれも完全な秩序を示していることは言えても、それを
理想の用語で表現するとなると、後から、それも近似的にするほかはない。生命をひとまとめ
に創造的進化として眺めたものもどこかそれに類している。目的性というものを、あらかじめ
思念された、あるいは思念されうる理想の実現と解するなら、生命は目的性を超える。(III,
685)
私たちは単純に目的性に安住することもできず、そうかといって安易に目的性と手を切ること
もできない。この揺れ動き(oscillation)が創造的進化やエラン・ヴィタルという概念を考えると
きに決して手放してはいけないアリアドネの糸である。後で芸術的創造の目的論を論じる際
に再びここに戻ってくることにして、次の注記に移ろう。
2)一個の生物の発生に際して、無限小の要素(ベルクソンは「小労働者」になぞらえる)が
たった一つでも欠けるか逸れるかすれば、すべては崩壊する。なるほどそれはそうだが、にも
かかわらず、生命的な合目的性は、何らかの統制的な原理(ベルクソンは「現場監督」になぞ
らえる)に助けを求めないこともできる。先に述べた意味で類的(ジェネリック)な目的性は、こ
う言ってよければ、現場監督を失業させる。
精神のそもそもの動きはじめは、そうした小労働者たちの群れに「生命原理」なるよく気の
付く現場監督をつけてやって、過ちが起きたらいつでも繕わせ、逸れの結果は修正させて、も
のをあるべき位置に戻させることなのである。このようにひとは物理秩序と生命秩序の違い
を翻訳してみて、前者は同じ原因の組み合わせから同じ総体的結果を生じさせるもの、後者
は原因の浮動するときにも結果を定常に保つものだとする。けれどもそれは翻訳にすぎない。
反省してみれば、現場監督などそこにいるはずもないので、それは労働者がいないという至
極簡単な理由から分かる。(III, 686-687/226-227)
現場監督も労働者もいない。この比喩が意味するのは、生命秩序を物理秩序の語彙に翻訳
することで、前者を後者へと併合し、「自然の一般的な秩序」を打ち立ててしまう趨勢と、その
背後に潜む〈存在=被制作性〉モデルに抗して、「思弁の関心しか引かないまったく内的な多
様性」(diversité tout interne, qui n’intéresse que la spéculation)を見出そうとする(もちろ
んここで言う「思弁」とは、すでに第二部末尾(§53)でも言及した「経験の転回点」への眼差し
であり、ベルクソンの心霊科学への思弁的関心にも通じるものである)。私たちの日常生活は
どうしても同じ事物や同じ状況の期待になりがちである以上、実践において私たちの関心を
引く「行動」の観点から、生命現象も物質的側面からのみ理解して事足れりとしようとするが、
それでは決して生命現象の本質には到達しえない。だからと言って、逆に、物理現象までも
生命現象に還元しようとするのでもない。ここにも目的性との微妙な関係が見られる。後で、
ベルクソンをカントやクロード・ベルナールと比較しつつ、この点に立ち戻ってくることにしよ
う。
以上の二つの注記によって、「目的論の原理は心理学的な本質を持つ」という言葉の意味
がどのように解釈されるべきか、その方向性が示された。私たちが注目すべきは、「類」(ゲノ
ス)性、生命的・発生的側面である。来るべき生気論的目的論の課題がこうして規定される。
古典的な合目的性の概念は、生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切り
つめている[…]。このより包括的な現実こそ、真の目的論が再構成せねばならないものであ
るのに[…]。目的論の方向の一つを目的論を超えて進むとしたらどんなものになるのか、と
問われよう。[…]機械論では進化を説明するのに十分でないとして、この不十分さを証明す
る手段は、[1]古典的な目的概念に執着することではなく、いわんや[2]切りつめたり弱めた
りすることでもなく、かえって[3]それを超えて進むことである。これを確立する時が来た
(538-539)。
「目的論の方向の一つを目的論を超えて進むこと」、言ってみれば超目的論である。ベルクソ
ンにあっては「新生気論 néo-vitalisme」(530/42)と分かちがたく結びついたこの「新目的論
Néofinalisme」(リュイエ)の根本特徴は、『創造的進化』第1章において、旧来の目的論・生
気論への三つの「否」を通じて浮かび上がってくる。急進的目的論への「否」、その延命策とし
て登場してきた内的合目的性概念への「否」、そして旧来の生気論への「否」である。
§59. 急進的な目的論への「否」:創造的目的論
ベルクソンは、目的論の純粋な理念型とでも言うべきものを「急進的な目的論 finalisme
radical」と呼び、ライプニッツにその代表例を看ている。この急進的な目的論の見方に立てば、
世界はあらかじめ設計された計画・モデルに基づいて実現された、何のサプライズもない制
作物ということになる。この第一の批判から窺われるベルクソンの目的論の第一の特徴は、
、、、、、、、、、、、、、、
①未来先取的でなく回顧的である、ということだ。生命の目的論が心理学的であることは先に
見たが、ベルクソンはこう但し書きを付け加えている。
進化はどの瞬間においても心理学的な解釈を許すはずである。ただし、この解釈は、私た
ちの見地からは最善の説明であるにしても、回顧的(rétroactif)な方向・意味にとらない限り、
価値がなく意味すらもない。私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、決して未来を先取り
するもの(anticipation sur l’avenir)の意味にとってほしくない(538)。
持続の流れに耳を澄ます目的論。持続の流れに耳を澄ますとは、予見不可能性や創造性に
対して常に開かれてあろうとすることだ。宇宙に思いがけないことが何もなく、予見不可能なも
のの創造がないのであれば、時間は無用になる。この予備的注意によって、次の三つの特徴
が捉えられることになる。
[2]進化は一本道を描かない、[3]進化はそれぞれの方向をとりはするが目的を目指しは
しない、そして最後に、[4]進化は適応の中までも創意を持ち込んでやまない。(582)
それぞれ②分岐的に収束する目的論(710-711)、③目的なき目的論(584)、④創発的な目的
論と名づけることが出来よう。②と③は、檜垣立哉氏によって、『ベルクソンの哲学 生成する
実在の肯定』(勁草書房、2000 年)の中で、生命進化が絶えず拡散・分散・分岐する「拡散的
な目的論」、持続同様、常に予見不可能な形で新たなものを創造し、あらかじめ設定された目
的などもたない「開かれた目的論」として強調されているので、ここではごく簡単に触れるにと
どめ、④を強調しておくことにしたい。
②分岐的収束(convergence divergente)。「創造的進化」は耳障りよく響く、誤解を与えか
ねない表現だが、予見不可能な創造は必ずしも心地よいものとは限らない。世界は「不協和
音」に満ちており、その深い原因は「埋めようのない[持続の]リズムの差異」(603)に潜んで
いる。進化とは進歩であるどころか、生命の敗走に次ぐ敗走の歴史であって、進化の基本的
な原理は、「分離と分裂」(571)である。
ところが、はずみ(エラン)は有限である(……)。それはあらゆる障害を乗り越えることはで
きない。生命のはずみの刷り込む運動は、あるときは逸れ、あるときは分裂し、常に反抗を受
けている。そして有機的世界の進化とは、この戦いの展開にほかならない。(……)そこには
あらゆる種類の後戻りや停止や事故のあったことも考慮されなければならない。とりわけ心
に留めておかねばならないのは、種はどれも、生命の一般的な運動が自分を通り抜けない
で、あたかもそこに停止しているかのように振る舞うという点である。(……)そこから数知れ
ない戦いが自然を舞台として演じられることになる。そこから目を覆いたくなるようなどぎつい
不調和も生まれる。だが、そうした不調和を生命原理そのもののせいにしてはなるまい。
(710-711)
抽象的な生命原理に基づく単純な目的論でないことはこの一節からも明らかである。不調和
を孕んでいるのは、生命と物質の衝突の現場なのであり、ベルクソンの目的論が焦点を合わ
せているのもまさにこの点なのだ。
③不調和に絶えず注意深くあることは、予見不可能性に開かれてあることへと私たちを導
く。
計画とは仕事にあてがわれた目標である。それは未来を形に描きながら未来を閉じる。こ
れに対して、生命進化の前方には未来の扉が大きく開け放たれている。(II, 584)
予見不可能性については、カントの「目的なき合目的性」との比較でさらに深めることにしよ
う。
④「合目的性を立てる説は、自然の仕事を知的な職人の仕事になぞらえようとする」(546)
ので、「擬人的な合目的性」(finalité anthropomorphique)は製作的・職人的目的論とも呼
ぶべきものであり、先にも述べたように〈存在=被制作性〉モデルを背後に隠し持っているが、
これに対して、ベルクソン自身はいわば創造的・芸術家的な合目的性を対置する。
機械論の宿す幾何学がはっきりと浮き出してくるにつれて、何かが創造されるということは、
たとえ形態の創造の場合に限ってもいよいよ容認できなくなる。幾何学者であるかぎり、私た
ちは予見できぬものを排する。芸術家であるかぎりでなら、それを認めうるかもしれない。芸
術は創造をいのちとし、自然の自発性への秘めた信仰をもっているのだから。だが、[…]私
たちは、芸術家であるよりもはるか前に、職人なのである。(533)
生命の論理は、見事ではあろうが計画通りの職人仕事ではなく、むしろ失敗作かもしれない
が本質的に予見不可能な芸術家の創造に似ている。実証科学なら生命現象・有機化・進化
を職人の製作のように見てよいし、また見るべきであるが、それは科学の目的がものの真相
を私たちに示すことではなく、ものに働きかける最良の方法を私たちに提供することだからだ、
とベルクソンは言う。「これが科学の見方である。私の考えでは、哲学の見方はまったく異な
る」(574)。思い起こしておけば、『創造的進化』の真の哲学的主題は、進化論の科学的妥当
性を問うことではなく、具体的な生という哲学的概念を再び練り上げることにあるというのが私
たちの見方であった。『創造的進化』もまた、ベルクソンの他のあらゆる著作同様、科学の領
域への野蛮な侵入でもなければ、形而上学の盲目的な擁護でもなく、哲学と科学の間の境界
線を批判し、引き直し、確定しようとする試みなのである。
以上の四つの特徴をまとめよう。ベルクソン的目的論とは、迂回・拡散・分岐の目的論であ
る。目的なき目的論であって、しかも回顧的な視点を要請する。だが、他方で、単なる無政府
的な多元論なのでもない。「有機的世界を貫いて進化する力は限られた力であること、自分を
超えようと常に努めながら自分の生み出そうとする仕事に対していつもきまって背丈が足りぬ
ということは、忘れられてはならない」(602)。造物主(デミウルゴス)ではなく、職人的でもない、
芸術家的な、あるいは自己創造される芸術作品がもちうる創造的目的論である。
§60. 内的合目的性への「否」:ベルクソンとカントの目的論
次に、ベルクソンが「すでに久しく古典的となっている合目的性」とも呼んでいる概念の批判
に移る。「ライプニッツの目的論を無限に砕くことによって緩和するのは道を誤っているように
思われる。だが、これが合目的性をたてる教説のとった方向であった。[…]その要点は、つま
るところ、古来の目的観念を細かく砕くことに存する」(529)。「目的論を無限に砕く」「古来の
目的観念を細かく砕く」という表現で彼が指しているのは、外的合目的性と内的合目的性の
区別である。外的合目的性(finalité externe)とは、ベルクソンの少しおどけた調子の説明を
借りれば、「草は牡牛のために、子羊は狼のために作られた」と「生物は次々にもたれあいに
なっているとするような」合目的性であり、これが批判を受けて持ちこたえられなくなったので、
内的合目的性(finalité interne)、すなわち「生物はいずれも自分自身のために作られており、
そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけてきちんと有機的に組
織されている」ような合目的性が登場してきたというのである。少なくとも私の知る限り誰も指
摘していないのであまりに自明なことなのかもしれないが、ベルクソンはこの二つの合目的性
の区別をカントの『判断力批判』から借用している。たとえベルクソンがこの箇所で一度もカン
トの名を出していないとしても、先に引用した軽い調子の定義は、明らかにカント『判断力批
判』第六三節以下を参照したものであり、ベルクソンによる「内的合目的性」の全面否定は、
カント第三批判の目的論への挑戦である。
合目的性概念の哲学史において、他の多くの概念にとってそうであるように、カントの寄与
は決定的なものであった。佐藤康邦は、『カント『判断力批判』と現代-目的論の新たな可能
性を求めて』(岩波書店、二〇〇五年)において「目的論による哲学的生命論復権の試み」に
取り組んだ。最終的には常に機械論の枠組みに回収され続けてきた目的論を、なんとか生気
論的な枠組みとも折り合いを付けさせようとすることこそ、『判断力批判』の中心課題であった
のだとして、では、同じく「哲学的生命論」であるベルクソン哲学との関係でとりわけ重要にな
ってくる「外的合目的性」と「内的合目的性」の区別は、いかなる射程をもつものであるのか。
ベルクソンはあたかも外的合目的性が打ち捨てられ、内的合目的性が古典的目的論の延命
策として持ち出されたかのように語っているが、少なくともカントの体系はそうなってはいない。
カントによる合目的性概念への寄与は、ここでもまた、ヒエラルキーの体系を導入することで、
当該概念を批判し再規定するという仕方で行なわれている。カントによれば、一方が原因で、
他方が結果であるような二つの対象に自然目的の概念を適用すると、自然全体が諸目的に
よって支配される体系であり、したがって、外的合目的性は内的合目的性に従属すると考え
ざるを得ない。だが、他方で、同時に自らの原因であり結果であるような事物、すなわちその
諸部分が互いに形態や関係を産み出しあうような事物に自然目的の概念を適用すると、有
機体は必然的に有機体間の外的関係、自然全体を包含するような諸関係へと導かれ、内的
合目的性からある種の外的合目的性へと送り返される。こうして、二つの合目的性は、カント
の複雑な目的論の体系においては、相互依存的・円環的関係を形成しているのであって、ベ
ルクソンの言うように、外的合目的性が維持されえなくなったので内的合目的性だけでも死守
しようとしたというのではない。カント読解としては不正確なこのベルクソンの内的合目的性批
判が興味深いものになるのは、実は、まさにこの内的合目的性概念が、背後に宇宙の究極
目的という概念を隠しつつ、その後の進化論学説の隆盛の中で、大きな役割を果たすことに
なるからである。ベルクソンが撃とうとしたのは、進化論的カントなのである。カントの超越論
的目的論に対するベルクソンの答えはこうだ。
私のテーゼは、これもかなり急進的なものと見えようが、こうである。合目的性は外的である
か、でなければまったく何物でもない。/実際、きわめて複雑でこのうえなく調和した有機体を
考察してみよう。あらゆる要素が全体の最大善のために協力している、と我々は教えられる。そ
うだとしよう。しかし、忘れてならないのは、各要素がいずれもある場合にそれ自身一つの有機
体でありうること、そしてこの小さな有機体の存在を大きなものの生命に従属させることでは外
的合目的性の原理を受け入れているのだということである。こうして、あくまでも内的な合目的
性というような観念は自己崩壊する(529-530)。
クリティカル・ポイントは、ここでもまた、個体概念と個体化・傾向概念の対立である。有機体
は一個体として自己充足しているように見えても、環境と不断にして不可避の交流を行ってい
る。だとすれば、環境との因果関係を外的合目的性として、自己再生産(オートポイエーシス)
を内的合目的性として配分し直すことで、救い出したいと思っている肝心の生命の論理自身
が自己崩壊を起こしてしまうではないか、とベルクソンは考える。個体概念が厳密には成り立
たない以上、内的合目的性もまた成立し得ない。したがって合目的性は外的であるか、でな
ければ何物でもない、というのである。カントにとって、このことが問題にならないのは、最終
的には二つの合目的性を上から統御してくれる統制的理念としての「自然の目的の一大体系」
――ドイツ語原文では、Idee der gesamten Natur als eines Systems と書かれており、フラン
ス語では、Idée de la totalité de la nature en tant que système と訳されている――(『判断
力批判』第六七節)があるからであり、他方、ベルクソンがこの解決策に甘んじていられない
のは、まさにこのような超越論的なギミックなしに、内在的な目的論を創設したいからにほか
ならない。その優れた才能が真に認められる前に世を去ったジェラール・ルブラン(一九三〇
-一九九九)が代表作『カントと形而上学の目的=終焉』(一九七〇年)でいみじくも述べてい
るように、「こうして生のパラダイムは、カント以後、魅惑的な力を引き出すことになるだろう。
生から出発して規定された外的合目的性は、もはや古典主義者たちの合目的性と同じ意味
を担ってはいないのである」(p. 725)。カントは、超越論的な目的論によって、従来の神学
(théologie)と目的論(téléologie)の関係を変えた。いわば目的論の世俗化(sécularisation
de la téléologie)である。ベルクソンは、二つの合目的性が構成する円環体系・閉じた全体を
放棄し、外的合目的性のみからなる「開いた全体」によって内在的な目的論を構成しようとし
た。ベルクソン的な観点からすれば、内的合目的性やそれを支える超越論的な統制理念とい
う神話をこそ放棄せねばならない。言ってみれば「目的論の脱魔術化 désenchantement du
finalisme」である。ヘーゲル的な「理性の狡知」に倣って、カントには「自然の狡知」があるとド
ゥルーズは言ったが、ベルクソンには「エラン・ヴィタルの狡知」があると付け加えておこう。
(続く)