山陰の鏡と古墳―三角縁神獣鏡を中心に―

山陰の鏡と古墳―三角縁神獣鏡を中心に―
岩
本
崇(島根大学)
はじめに
古墳出土鏡の大きさやデザインにもっともバリエーションがみられる時期は、古墳時代前期
である。こうした出土鏡のあり方は、日本列島全体という枠組みでみても、山陰地方という限
定した地域においても、基本的には変わらない。
そのような多種多様な銅鏡のなかでも、生産面と流通における一元性をみとめうるのが、三
角縁神獣鏡の資料的特性である。同一の文様、さらに同一の笵傷をもつ「同笵鏡」の存在をは
じめ、断面三角形の縁部と画一的な外区文様をもつこと、そのすべてが大型鏡であることなど
は、三角縁神獣鏡を生産面において単一の器物と認定する重要な根拠となる。それゆえに、三
角縁神獣鏡が日本列島の各地で出土する背景に、王権の成立という共通した事象を想定し、流
通における一元性という性格を付与しうるのである。しかし、逆にいえば、古墳出土鏡にたい
して地方生産を認定しにくいという点が、鏡から地域の動向を説明しづらくしているだという
ことにも、研究を推進する上では十分に承知しておく必要がある。
山陰地方で出土した三角縁神獣鏡には、上述した三角縁神獣鏡の考古資料としての特性を考
えるうえで、学史的な経緯と意義という点において無視することのできない事例がある。以下
では、まず、三角縁神獣鏡の生産と流通における一元性という点についてあらためて考察する
ために、普段寺古墳群から出土した2面の三角縁神獣鏡とその「同笵鏡」の関係について再検
討を試みる。そしてそのうえで、王権という中心とその周辺地域の関係性を考える際の一つの
基準として三角縁神獣鏡をとりあげ、出土鏡から地域の社会構造と展開を考える叩き台を提示
することを目論みたい。
1.
「同笵鏡」にまつわる議論と普段寺古墳群出土鏡
山陰の古墳出土鏡のなかでも、学史的な意義の大きさという点で、普段寺1号墳から出土し
た三角縁惟念此銘二神二獣鏡は無視することのできない存在である。すなわち、この鏡をはじ
めて具体的にとりあげた樋口隆康によって、①「同笵」
・
「同型」の議論の出発点となる基準資
料と位置づけられ、②いわゆる魏晋鏡と連結しうる材料として使用されたのである〔樋口 1952、
下垣 2005〕
。とくに、①の視点は、三角縁神獣鏡の製作が一元的なものであるかどうかにかか
わるきわめて重要な論点である。そこで、この機会にあらためて資料を観察し、私見を示すこ
ととしたい。
普段寺1号墳出土鏡と「同笵鏡」 普段寺1号墳を含む「同笵鏡」は合計4面確認されてい
る(図1)。先行研究では、鳥取・普段寺1号鏡→大阪・伝石切神社鏡→大阪・推定茨木将軍
山鏡→島根・大成鏡という製作順序が想定され、普段寺鏡と石切鏡のあいだに踏み返しが介在
すると指摘されている〔藤丸 2000〕
。
1
その根拠としては、石切鏡のみが唐草文帯を画す内外の圏線が踏み返し時のずれによって二
重となっている点があげられており、そののち将軍山鏡段階で鋳型が補修され、二重線は消滅
したと説明されている〔藤丸 2000:40〕。ただし、藤丸は、石切鏡を写真により観察したことを
明記しており、これとは別の写真資料では藤丸のいう二重線を石切鏡に確認することができな
い。したがって、普段寺鏡と石切鏡のあいだに踏み返しを想定するような積極的な根拠は存在
しないことになる。
しかし、「同笵」・「同型」のいずれにしても、重要なのは同一文様の三角縁神獣鏡の製作が
同時性のあるものかどうかという点である。そこで、4面の「同笵鏡」に同時性がみとめられ
るのかという点に焦点をしぼって、検討を加えてみたい。
4面の三角縁神獣鏡にみる、同時性を考えるうえで有効な共通点として、鏡背文様にたいす
る鈕孔の向きに注目したい。欠損部分の著しい大成鏡には、接合の歪みにともなう位置のずれ
が生じているが、ほかの3面の鈕孔はことごとく同一の向きとなっている。
三角縁神獣鏡の鈕孔の多くは、その下辺が鏡背面あるいは鈕座面より浮いた位置にある。こ
のことは三角縁神獣鏡の鈕孔が鋳型に明確な足場をもって設置されたうえで鋳造されるもの
ではなかった可能性を示す。要するに、棒状にした粘土を鋳型の鈕となる部分に置くといった
程度の、じつに簡便な構造であったと考えることができるのである。
上述したように、三角縁神獣鏡の鈕孔がフレキシブルな構造をもつものであれば、
「同笵鏡」
において鏡背文様にたいする鈕孔の向きがことごとく同一であるという点は、けっして偶然に
よるものではないだろう。そこには、鈕孔の向きが同一となりうる共通の背景が存在したと考
える。しかも、その鈕孔の向きは、鏡背文様の方向性とは合致しないため、むしろ湯口の方向
といった技術的な側面とかかわる可能性を考慮できる。そうであるならば、鈕孔の向きを鋳型
の構造という技術面の共通性と関連づけることが可能となる。また、それは製作の同時性を示
す材料として評価しうるものとなるだろう。
あらためて普段寺1号鏡を観察すると、一方の鈕孔が鮮鋭に鋳出されているのにたいし、も
う一方は丸みを帯びた形態となっている。湯口に近い位置で湯冷えが生ずるという鋳型の構造
上のメカニズムを考慮すれば、丸みを帯びた鈕孔があけられた側の縁部に、湯口が取り付けら
れた可能性がきわめて高い。茨木将軍山鏡についても、同じ側の鈕孔がやはりやや丸みを帯び
る。また、大成鏡については、該当する鈕孔の延長上の外区文様が不鮮明となっており、やは
りここに湯口が存在したのであろう(図2)。あらためて将軍山鏡の同じ場所を仔細に観察す
ると、唐草文帯の一部の文様に表出の甘い部分がみとめられる。将軍山鏡も同じ場所に湯口が
存在したものと考えうる。すなわち、鋳造欠陥のあり方から、これらの「同笵鏡」では湯口の
位置が共通する可能性がきわめて高いといえる。さらに、鈕孔の向きが鋳型構造という技術面
の共通性にかかわるものであることを確認できたので、これら「同笵鏡」の製作における同時
性についてもみとめることができるであろう。
普段寺2号墳出土鏡と「同笵鏡」 普段寺2号墳から出土した三角縁神獣鏡も、1号墳出土
鏡と同様に、きわめて興味深い事例である。というのは、普段寺2号鏡とその「同笵鏡」であ
る熊本・城ノ越鏡のあいだにも文様改変がみとめられるからである(図3)。改変の詳細につ
いては割愛するが、それぞれが踏み返しによって得られた別の鋳型から製作されたものと説明
されている〔富樫・高木 1982〕。これについても、現状で可能な限りの再検討を試みよう。
城ノ越鏡をみると、外区文様帯の図で右上にあたる一部分がやや不鮮明となっているのを確
認できる。その位置は、まさに鈕孔の開口方向の延長上でもある。普段寺2号鏡は全体に遺存
状態が悪いため、文様の状態を城ノ越鏡と同じように検討することは困難であるが、城ノ越鏡
で確認した外区文様の不鮮明な部分に該当する付近の縁部に、細かな鋳巣と考えられる無数の
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穴が存在するのを確認できる(図4)。城ノ越鏡と普段寺2号鏡にみる鋳造欠陥はほぼ同様の
場所において生じていることから、この2面の「同笵鏡」についても湯口の位置がほぼ共通す
るものとみてよいであろう。
普段寺古墳群出土鏡と「同笵鏡」 以上の検討結果として重視すべきは、細部における差異
ではなく、むしろ鋳型レベルで文様の改変がおこなわれたと考えうる鏡群のあいだにおいても、
湯口の位置や鈕孔の向きの向きなどにうかがえる、鋳型の構造や鋳造技術の共通性を確認しえ
た点である。
こうした共通性が、技術的な側面でもきわめて根本的ともいえる側面と結びついている点は
けっして偶然の結果ではなく、きわめて限られた時空間において、これらの「同笵鏡」が製作
されたことは明らかである。「同笵鏡」は同一性の強いものである、まずはこの点を確認して
おきたい。
なお今後、さらにX線透過写真撮影による観察などを「同笵鏡」に実施して湯口の位置をよ
り正確に特定することで、鈕孔の向きが技術的な側面にかかわる可能性についてより適切なデ
ータを提示することが可能となることに期待したい。
2.三角縁神獣鏡の分布と山陰
前章では、三角縁神獣鏡の「同笵鏡」がきわめて近似した時空間において製作された可能性
について確認した。このことは、三角縁神獣鏡の製作が一元的なものであったと考える基本的
な要件である。さらに、三角縁神獣鏡の流通における一元性については、「同笵鏡」の分布状
況をもとにこれまでも先学によって指摘されてきたところである(図5)。製作において一元
性をみとめうる「同笵鏡」が広域に分布する状況にたいして、いわゆる「分配」という流通の
一元性を想定したわけである〔小林 1955〕。
それでは以上の前提をもとに、どの製作段階の三角縁神獣鏡が、どこの古墳から出土してい
るのかという基本的な側面に留意しつつ、山陰地方で出土している三角縁神獣鏡について概観
しておきたい。山陰地方における三角縁神獣鏡の分布については、図6に示す。あわせて筆者
の時期区分案(図7)に基づいた三角縁神獣鏡の年代も明示している〔岩本 2003・2005・2008a〕。
いずれも日本海沿岸に近い場所、あるいは内陸部でも主要河川沿いに分布するのが特徴である。
これらの分布において、とくに重要なのは三角縁神獣鏡が継続的に副葬されている地域のあ
り方である。飯梨川流域、日野川流域、天神川流域という3つの河川を基盤とした地域圏は、
王権との関係性の強さという点で、山陰地方における古墳時代のはじまりを考えるにあたって
無視することのできない存在といえよう。日本海沿岸域に拠点的に点在する様相をみれば、こ
れらの地域が倭王権による計画的な分配の対象となっていた可能性は十分に考慮することが
可能であり、倭王権が日本海沿岸域を含めた交渉関係をある程度重視していた可能性をうかが
える。その背景には、広域における関係をいち早く構築しようとした王権の意図があったに違
いない。
これらの地域圏のなかでも、もっとも多数の三角縁神獣鏡が長期にわたって副葬されるのが、
東郷池周辺と天神川流域を含めた東伯耆地域である。東郷池周辺と天神川流域という2系列に
首長墳系列を整理しうるが、これほどまで三角縁神獣鏡を古い段階から新しい段階まで継続的
に副葬する地域は、日本海沿岸域においてほかに存在しない。王権が日本海を媒介とした交渉
関係を構築するうえで、東伯耆地域にきわめて重要な位置づけを与えていた可能性を現状にお
いてうかがうことができる。
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3.出土古墳の様相
つぎに、三角縁神獣鏡の時期区分に基づいて、副葬古墳の様相を概観してみよう。ただし、
外表施設や埋葬施設など古墳構成要素の多くが明らかとなっている例は、それほど多くない。
そのため、以下の検討は、あくまでも今後の指針を探る作業となることをあらかじめお断りし
ておきたい。詳細については、弥生時代の墳丘墓からあらためて説きおこす必要があると考え
ており、これについては別途に検討を予定している。
Ⅰ
期
該当する古墳は神原神社古墳である。葺石や埴輪をもたない方墳であり、竪穴式
石槨を埋葬施設とする。石槨上において山陰型特殊器台をはじめとする各種土器が出土してい
る。出土状況から破砕土器供献の可能性を考えうる。
Ⅱ
期
大成古墳が該当する。葺石の存在が想定されているが、埴輪をもたない方墳であ
る。埋葬施設は竪穴式石槨である。墳頂から各種の土器が出土している。土器類は出土状況か
ら破砕されたうえで、石槨上に置かれたものと考えられている。
Ⅲ
期
馬ノ山4号墳が該当する。葺石と埴輪を備える前方後円墳である。多数の埋葬施
設が確認されているが、中心埋葬は竪穴式石槨である。器財埴輪も確認されており、墳頂に配
列されたものと想定できる。
Ⅳ
期
造山1号墳が該当する。葺石の存在が想定されているが、埴輪は確認されていな
い。方墳である。埋葬施設は竪穴式石槨である。墳丘上から山陰型特殊器台が採集されている。
山陰型特殊器台を主体とする土器祭祀をとりおこなった可能性を考慮しうる。
小
結
上記したように、検討の俎上にあげうる三角縁神獣鏡出土古墳がほとんど存在し
ないというのが実情である。
また、三角縁神獣鏡の年代にしたがって古墳をとりあげたが、三角縁神獣鏡の年代と古墳の
年代が必ずしもリンクしないことにも注意が必要である。Ⅲ期の三角縁神獣鏡を出土した馬ノ
山4号墳では新相の仿製鏡も共伴しており、古墳の年代としてはⅣ期の造山1号墳よりも新し
い位置づけを与えなければならない。実際には、三角縁神獣鏡でⅤ期に相当する資料が主体と
して副葬される時期になるだろう。つまり、三角縁神獣鏡ひいては銅鏡の製作年代は、長期保
有や伝世など副葬されるまでの期間の不定性によって〔森下 1998〕
、古墳に副葬される年代と
のあいだにずれが生ずる場合があることを十分に理解しておく必要がある。
こうした資料的な制約はあるが、それでも古墳時代前期の前半期においては、埴輪を墳丘上
に配列せず、特殊な土器を用いた祭祀をとりおこなう、あるいは方墳が主体であるなど、山陰
地方においては地域的な様相が濃厚に墳墓に残存するのを確認できる。そのいっぽうで、王権
とのかかわりを示す三角縁神獣鏡が副葬されている事実は、中心と周辺とで構成される求心構
造をなすかにみせる。ただし、その具体的な様相の把握については、地域の実態に即したさら
なる検討が必要と考える。
いっぽう、上記した三角縁神獣鏡と古墳のあり方に変化が生ずるのは、前期末以降である。
三角縁神獣鏡じたいの生産量が下降するという動きとも不可分であるが、対置式神獣鏡や斜縁
神獣鏡などをモデルとして製作された仿製鏡が副葬されるという動きが列島規模で確認でき
るようになる。
山陰地方では島根県上野1号墳出土の斜縁神獣鏡系仿製鏡や鳥取県六部山3号墳出土の神
頭鏡系仿製鏡、鏡式は異なるが同時期の鏡と考えられる鳥取県馬ノ山4号墳出土の画文帯神獣
鏡系仿製鏡は、古墳時代前期でも新しい段階の仿製鏡である。これらの鏡を出土した古墳をみ
ると、埴輪を墳丘上に配列すること、前方後円墳や円墳など円形原理の墳丘形態を採用する点
が注目できる。いわゆる畿内地域的とも評価しうる古墳である点は、それ以前の三角縁神獣鏡
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を中心とした舶載鏡を副葬する古墳とは大きく特徴を異にする。
こうした一連の動きは、畿内地域的な要素が目立つ点において、王権からの影響力が大であ
ったと考えうる。しかしながら、因幡地域にみるような埴輪に地域的な要素をとどめる例が存
在する点は、王権の影響力をさほど大きく見積もる必要性がない可能性を示すのかもしれない。
むしろ、古墳の出現と展開を契機とした多様な地域間関係が時間的な流れのなかで強化される
ことによって、埴輪の導入を含めた墓制のまとまりが生まれたのだと考えておきたい。
まとめ―銅鏡から地域社会をいかに考えるか―
大きく2つの柱を立てて分析を試みたわけであるが、果たして銅鏡から地域についてどのよ
うな視点を提示できるのであろうか。そもそも古墳時代の研究において鏡が果たしてきたのは、
第一に年号鏡の存在から年代論であり、第二に「分配」という流通の特殊性に基づく王権論で
ある。
むろん、鏡の年代が古墳の年代に直結しない場合があるものの、古墳の年代を考える1つの
材料になりうるし、他地域との併行関係を決定するなど広域的な編年には欠かせない。そうし
た意味で、鏡を地域研究に活用することは可能なのである。
さらに、地域研究における鏡の活用方法として提示しておきたいのが、製作・流通にみる一
元性に着目して、墳墓の諸要素を対比的にとらえ、墳墓さらには地域圏を構造的に理解しよう
とする手法である〔岩本 2008b〕。出土古墳の様相を整理する過程においてわずかにふれたよう
に、三角縁神獣鏡にみる王権を中心とした求心構造があるいっぽうで、山陰地方では墳丘形態
や土器祭祀などに地域的な様相をとどめる事例の存在を確認できる。この地域的な様相は、
「分
配・受領」という流通の特殊性に対比すれば、地域的な主体性の顕現ととらえうるものである。
さらに、そうした主体性を許容しうるような求心構造を王権がその成立当初にとっていたので
あるならば、当該時期の王権と地域のつながりはどちらかといえばゆるやかなものであったと
考える。
このように、地域研究から王権の求心構造の実態に迫ることは十分に可能であり、銅鏡とい
う遺物の本質的な側面を認識すれば、地域研究に対してさらに新たな手法を提示できる余地は
数多く残されていると考える。今後、銅鏡が地域研究に積極的に活用されることを大いに期待
することとしたい。
ただし、そのためには基準となりうる出土鏡の抽出作業と、出土古墳そのものについての再
検討が不可欠である。墳丘や埋葬施設についての種別を把握するだけでなく、その具体的な構
造の認識、埋葬方法の復元、土器の出土状況など墳丘上において執行された儀礼の痕跡を丹念
にたどる必要性があろう。ここで示した問題の追究はあくまでも例えに過ぎないが、さらなる
問題意識の深化がまた新たな説明の切り口を生み出すと考える。
5
引用文献
※一次文献については、紙幅の都合等から割愛させていただきました。ご了承ください。
岩本 崇 2003
「「仿製」
三角縁神獣鏡の生産とその展開」
『史林』第 86 巻第5号 史学研究会 pp.1-39
岩本 崇 2005「三角縁神獣鏡の終焉」
『考古学研究』第 51 巻第4号 考古学研究会 pp.48-68
岩本
崇 2008a「三角縁神獣鏡の生産とその展開」『考古学雑誌』第 92 巻第3号
日本考古学会
pp.1-51
岩本 崇 2008b「三角縁神獣鏡と東海地方の前期古墳」『東海の古墳風景』雄山閣 pp.14-22
小林行雄 1955「古墳の発生の歴史的意義」『史林』第 38 巻第1号 史学研究会 pp.1-20
下垣仁志 2005「附篇2 阿為神社所蔵三角縁唐草文帯二神二獣鏡」『将軍山古墳群』Ⅰ―考古資料
調査報告集1― 新修茨木市史史料集8 茨木市 pp.66-70
富樫卯三郎・高木恭二 1982「熊本県城ノ越古墳出土の三角縁新獣鏡について―鳥取県普段寺2号墳
出土鏡との比較―」
『考古学雑誌』第 67 巻第 3 号 日本考古学会 pp.110-114
樋口隆康 1952「同型鏡の二三について―鳥取県普段寺山古墳新出鏡を中心として」『古文化』第1
巻第2号 日本古文化研究会(『展望 アジアの考古学―樋口隆康教授退官記念論文集―』新潮社
pp.9-20 再録)
藤丸詔八郎 2000「三角縁神獣鏡の製作技術について(予察)―製作工程に「踏み返し」が介在する
同笵(型)鏡群の場合―」
『研究紀要』第7号 北九州市立考古博物館 pp.29-67
森下章司 1998「鏡の伝世」
『史林』第 81 巻第4号 史学研究会 pp.1-34
挿図出典
図1 普段寺1号鏡:米子市史編さん協議会 1999『新修米子市史』第7巻、石切鏡:車崎正彦編 2002
『考古資料大観』第5巻 小学館、推定将軍山鏡:下垣 2005、安来市教育委員会 1999『荒島古墳
群発掘調査報告書』安来市埋蔵文化財調査報告書第 27 集に掲載の拓影・写真・図面を一部改変。
図2 奈良県立橿原考古学研究所編 2005『三次元デジタル・アーカイブを活用した古鏡の総合的研
究』に掲載の三次元データを一部改変。
図3 城ノ越(宇土市教育委員会蔵)岩本拓影資料、米子市史編さん協議会 1999『新修米子市史』
第7巻に掲載の拓影を一部改変。
図4
普段寺2号鏡(個人蔵)岩本撮影資料。
図5 新納泉 1989「王と王の交渉」
『古代史復元』6古墳時代の王と民衆 講談社に掲載の図面を
一部改変。
図6
岩本作成。
図7 神原神社:加茂町教育委員会 2002『神原神社古墳』
、八日山1号:岡崎雄二郎・原田律夫・
松本岩雄 1978「出雲における同笵鏡の新例―島根県八日山1号墳出土の三角縁神獣鏡をめぐる
二・三の問題―」
『考古学雑誌』第 63 巻第4号 日本考古学会、造山1号:三木文雄 1966『埴輪・
鏡・玉・剣』日本原始美術6 講談社、その他:米子市史編さん協議会 1999『新修米子市史』第
7巻に掲載の拓影を転載・再構成。
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