いくさゆーの沖縄 ②

いくさゆーの沖縄②
地獄の戦場となった沖縄
長谷川 了一(FC事務局長)
戦争や軍隊とは縁遠かった沖縄
本土決戦のための「捨て石」とされた沖縄
アジア・太平洋戦争では日本でただ一カ所、
44 年 10 月のレイテ沖海戦で敗北した日本軍
沖縄県において地上戦が戦われた。今回の旅で
は、連合艦隊の主力を失った。本土決戦を計画
は戦跡をたくさん訪ねた。これらはどれも「沖
せざるをえなくなった大本営は45 年1 月20 日、
縄戦」の〈戦さ場〉であった。今回は沖縄県で
「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。大綱は
の戦争・「沖縄戦」の概要と実態をたどってみる。 「皇土特に帝国本土の確保」を作戦目的とし、沖
*
*
*
縄本島以南の南西諸島を皇土防衛のための「縦
戦前、沖縄県は戦争とか軍隊とかにいちばん
深作戦遂行上の前縁」とし、「やむを得ず敵の上
縁遠い地域であった。沖縄は常駐する郷土部隊
陸を見る場合においても極力敵の出血消耗をは
を持たない唯一の県であった。琉球王国から沖
かる」とした。大綱では、沖縄は「帝国本土」には
縄県に移行したのが 1879(明治 12)年のことで
入っておらず、第 32 軍の任務は沖縄を守りぬ
あった。また、気候風土は厳しく、全国一の貧
くことではなく、出血消耗によってアメリカ軍
しい県であった。このおよそ戦争とは縁のない
を沖縄にくぎづけにし、本土決戦のための時間
島々が、皮肉にもアジア・太平洋戦争で日米最
をかせぐことと定められた。沖縄は時間かせぎ
後の決戦場=〈戦さ場〉になったのである。
の持久戦の場、
すなわち本土決戦のための「捨て
いちどきに大軍がやってきて軍民雑居
石」とされたのである。
アジア・太平洋戦争の開戦から半年間は、北
小学3年生から老人までも作業に動員
太平洋から東南アジアにかけて破竹の進撃を見
第 32 軍は在郷軍人(兵籍にある者)を徹底的
せた日本軍も、1942(昭和 17)年 6 月のミッドウ
に召集したほか、
兵力不足をおぎなうために「陸
ェー海戦の敗北以後はアメリカ軍を主力とする
軍防衛召集規則」によって防衛召集を実施し、2
連合軍の反攻の前に惨めな敗退を重ねていた。
万 5,000 人以上の防衛隊を編成した。また、県
43 年 9 月、
大本営は延びきった戦線を縮小し
下の中等学校や女学校の生徒、青年団の男女を
て「絶対国防圏」を設定した。中部太平洋のマリ
鉄血勤皇隊・護郷隊・義勇隊・特志看護隊・救
アナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)に精鋭
護隊などさまざまな名称で戦場に動員した。
軍を配置して、その後方の沖縄と台湾に航空基
44 年夏から 45 年 3 月まで、沖縄全域で飛行
地を置き、きたるべき航空戦に備える構想であ
場建設と全島を要塞化する作業が強化された。
った。
沖縄各地で飛行場の建設工事がはじまり、 作業に必要な工具も資材も本土からはまったく
伊江島、北(読谷)
、中(嘉手納)
、南(浦添)
、 送られてこない。物資だけでなく人力も現地で
石嶺(首里)
、西原、小禄(今の那覇空港)
、糸
調達しなければならない。沖縄全域から労務者
満、南大東島などのほか、宮古島や石垣島でも
を徴用したが、この頃、青壮年男子は軍隊や軍
飛行場の建設が強行され、最終的には 15 の飛
需工場にとられていたから、工事に協力できる
行場が建設された。これを守備する部隊も配属
者といえば女性か子どもか老人しか残っていな
され、
にわかに軍事色が沖縄の島々をおおった。 かった。徴用は市町村に割り当てられ、1 日平
大本営は 44 年 3 月に沖縄守備軍として第 32
均 5 万人が動員された。国民学校(小学校)の 3
軍を新設した。その夏、陸軍部隊約 8 万 6,400
年生以上も動員の対象とされ、土石運びや丸太
人、
海軍の陸戦部隊1 万人など、
実戦部隊が続々
の皮むき作業などにかり出された。
と沖縄諸島に移動してきた。これら南西諸島の
日本軍によって強制された「集団死」
日本軍を統括したのが牛島満中将を司令官とし
アメリカの西太平洋の全戦力−約1,500 隻
た第 32 軍である。いちどきに大部隊を迎えた
の艦船と 55 万人の兵士−が沖縄本島の 1 点
島々はたちまち大混乱に陥った。兵舎もなく、
に集中した。アメリカ軍が真っ先にねらったの
食糧もないなかで軍民雑居の状態がはじまった。 は、慶良間諸島であった。3 月 26 日、米軍は阿
嘉島・慶留間島・座間味島に上陸、27 日には渡
嘉敷島に上陸、29 日には慶良間諸島の全域を支
配した。この戦闘のあいだに、慶留間・座間味・
渡嘉敷の島々では、日本軍の強制によって残酷
な強制「集団死」事件がおこっている。死者数
は 3 島で、それぞれ 53 人・171 人・329 人に
のぼっている。
座間味では隊長の名で「老人子どもは忠魂碑
前に集合、全員自決せよ」という通達がなされ、
手榴弾も配られていたという。このように住民
は自主的に死を選択したのではなく、複合要因
があるとはいうものの、
基本的には「天皇の軍隊
による強制と誘導」によって、
肉親同士の殺し合
いを強いられたのである。
それは強いられた「集
団死」であった。「沖縄戦」には、ことば本来の意
味において「集団自決」はなかったのである。
激しい攻防戦後、首里が陥落
アメリカ軍は沖縄本島上陸前の 1 週間に、戦
艦から 4 万発の砲弾をうちこみ、1,600 機の艦
載機で爆撃や銃撃をくわえた。
そして4 月 1 日、
水平線を真っ黒に埋めつくしたアメリカ軍は、
沖縄本島中部の西海岸(読谷・嘉手納・北谷)
に上陸、北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)
を占領し、4 月 5 日ごろまでには宜野湾以北の
中部一帯を制圧した。
上陸部隊の主力は、4 月 7 日ごろから首里に
軍司令部をおく日本軍陣地をめざして総攻撃を
開始した。首里北方の浦添市前田、宜野湾市嘉
数の高地を中心に、一進一退の攻防戦が 50 日
間もつづいた。この戦いで日本軍は主戦力の 8
割を失った。5 月下旬、首里はアメリカ軍に占
領された。牛島司令官は首里をのがれて、島の
南端の摩文仁へ撤退した。
追いつめられた南部の島尻地区の惨状
6 月下旬ごろには、3 万人の日本軍と 10 万人
の住民が南部の島尻地区に追いつめられていた。
日本軍は住民が避難していたガマ(壕)を奪い、
あるいは軍民雑居のガマでは泣きさけぶ乳幼児
を殺した。アメリカ軍は、ガマにかくれている
住民と日本軍に投降をよびかけた。しかし日本
軍は、
「敵に降伏する者はスパイとみなして射殺
する」と、
投降勧告にしたがって出ていこうとす
る住民を射殺した。
アメリカ軍は、陸上からは砲兵部隊と戦車部
隊によって、海からは艦砲射撃によって集中砲
火をあびせた。1 平方メートルに 1 発の割合で
砲弾がふってきた。また、火炎放射戦車と手榴
弾によって洞窟を一つひとつ攻撃してつぶし、
沖縄戦の経過
は米軍の進行前線と日付
日本兵を殲滅(せんめつ)した。これをアメリカ
兵たちは「ジャップ・ハンティング」といった。
沖縄県民の死者は15万人にのぼる
日本軍守備隊の現状をみて、米第 10 軍司令
官バックナー中将は、11 日の午後 5 時をもって
日本軍へのすべての攻撃を中断し、牛島司令官
に無条件降伏の勧告を行った。しかし、牛島司
令官はこれを無視し、戦闘は継続された。そし
て 6 月 23 日正午、摩文仁部落の守備隊が全滅
した後、牛島満軍司令官と長勇(ちょういさむ)
軍参謀長は軍司令部のガマで自決した。ところ
が、牛島司令官は自決前の 6 月 19 日に、「各部
隊は各地における生存者中の上級者これを指揮
し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との
軍命令を出していた。これは、いっさいの降伏
を許さず、死ぬまで戦えという命令であった。
この命令によって戦闘が続けられた結果、住民
の被害はいっそう大きくなった。
沖縄戦での一般県民の死者は、公式統計では
約 9 万 4,000 人と軍人の死者とほぼ同数となっ
ている。しかし、ガマ追い出し.食糧強奪・虐
殺・自決の強要・傷病死などを総合すると、住
民の死者は 15 万人にのぼるといわれる。「沖縄
戦」は“住民を道づれにした”戦争であった。こ
のほか、
県外出身日本兵の死者が 6 万 5,908 人、
米軍兵士の死者は 1 万 2,520 人にのぼっている。