日本国憲法から<戦争・空襲>を考える “政府の行為”によって“戦争の惨禍”がもたらされた 和田雄二郎(FC事務局員) 日本国憲法 前文(抜粋) 日本国民は、……われらとわれらの子孫のために、諸国民 との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為 によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国 民に存することを宣言し、この憲法を確定する。……日本国民は、恒久の平和を念願し、 人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の 公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。……われらは、全 世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有すること を確認する。 (太字は筆者) 憲法前文に込められた「認識」と「決意」 には、も一度戦果をあげてから…」 。②(同 日本国憲法前文から要点だけを抜粋した 年 7 月 10 日、近衛をソ連に派遣して有利な 上記箇所(特に太字の所)には、以下のよう 降服をはかった時、近衛に) 「場合によって な重要な意味が含まれていることが読み取 は沖縄は切り捨ててもよいが、国体護持は れる。―(1)戦争の惨禍は、政府の行為によ 絶対に譲れぬ線……」 。③(7 月 26 日、 「ポ って起ったと述べていること、(2)そうした ツダム宣言」に対し)「この宣言では国体護 惨禍を再び招かないようにすることを、日 持の保障がない」 (と黙殺を決め、政府は「戦 本国民が決意していること、(3)平和によっ 争に邁進する」と声明した)。(小林末夫著 てこそ、世界中の人々は恐怖と欠乏から免 『天皇制に関する 27 の疑問』 白石書店・1993 かれ安全と生存が保持できることを確認し 年 5 月刊 による) ていること、などである。 敗戦の決断の遅れが、 “政府の行為”で 多くの国民を犠牲にした “戦争の惨禍”が起こった もし①の時点で降服していたら、沖縄戦 明治維新以降の日本は、1945 年にアジア も、戦場となった各地での「玉砕」も、日本 太平洋戦争で敗れるまで「他国へ侵略戦争 本土空襲も原爆投下も、ソ連参戦もなくて をしかける国」であり続けた。その間に起 すみ、約 100 万人の国民が殺されずにすん こった戦争はすべて「日本政府の行為」に だ。③の時点でもなお、もし「宣言」をす よるものだった。 ぐに受諾していたら数十万人の命を救うこ 「大日本帝国憲法」のもとでは、天皇が「国 とができたはずだった。 家統治の大権」を握り「統治権の総攬者」 「国体(=天皇制)護持」に固執して実 であったから、政府の行為は即ち天皇の行 に多くの国民を見殺しにした天皇の責任は 為であった。 重大な戦争犯罪に値するが、マッカーサー 昭和天皇が、あの戦争を始め、 の占領政策上の思惑のために、それは問わ 長引かせた れなかった。 太平洋戦争の開戦は、天皇も出席した「御 戦場となったアジアの各地では多くの兵 前会議」で決定されている。だから、昭和 士・軍人が戦闘よりも飢えによって多く“戦 天皇があの戦争を始め、長引かせ、敗戦を 死”し、本土では度重なる焼夷弾による都 遅らせ、国民に多大な犠牲を強いたことは 市空襲と 2 発の原爆で多くの無辜の市民が 明白な事実だ。 殺戮された。 とりわけ戦争末期の、以下のような天皇 前文の「戦争の惨禍」が の発言を見過ごすことはできない。―① 含む重く深い意味 (1945 年 2 月、天皇の側近・近衛文麿が「も 前文の「戦争の惨禍」という僅か五文字 はや敗戦は必至。国体護持のため直ちに降 の意味の重さと深さは、計り知れないもの 服を…」という旨の上奏をした時) 「天皇制 がある。 を維持し、より有利な条件で降服するため アジア太平洋戦争で犠牲になった人々は、 日本人が約 310 万人、その他アジアの人々 行政が 「戦争の惨禍」拡大に手を貸した が 2 千万人以上と言われる。その 310 万人 空襲が激しくなると、どこの都市でも、 の内、民間人は約 80 万人、その半数が都市 防空壕づくりや防空・防火訓練など防空態 への焼夷弾による空襲の犠牲者だった(他 勢に市民を駆り立てるようになっていたが、 は、広島・長崎への原爆投下、沖縄戦、シ 当時の富山市は、他都市にない大きな誤り ベリア抑留など) 。 を二点犯した。 当時すでに、空爆などで民間人を殺戮し 一つは、予想された空襲を市民に知らせ てはならないとの国際的なきまりはあった ず、避難・疎開の指示も一切しなかったこ が、これを最初に破ったのは、ナチスドイ とだ。前々日に空襲を予告するビラが B29 ツ軍(1937 年・ゲルニカ)であり、日本軍 から撒かれ、県も市もそれぞれ対策会議を (1939∼41 年・重慶)だった。そしてアメリ 開いたが、結局市民には知らせず、避難指 カ軍は、その戦法をはるかに大規模で残虐 示もしなかった。 なものに拡大強化した。 もう一つは、空襲から逃れようとする市 民間人を大量に殺戮―日本の都市空襲 民を炎の中へ追い返したことだ。炎と煙の 1944 年 7 月にマリアナ諸島を陥れた米軍 中を郊外へ逃げようとする市民を、憲兵・ は、グァム、テニアン、サイパンの 3 島に 警察・警防団・在郷軍人・町内会役員らが 5 箇所の飛行場を作り、11 月から日本への 「逃げるな、戻って火を消せ」 、 「逃げるのは 空爆を始めた。 非国民、国賊だ」と押し返し、死に追いや 初めは発動機などを作る大工場へ大型爆 った。富山市と同日に空襲を受けた八王子 弾を投下したがあまり効果があがらず、翌 市や水戸市では、避難・疎開の指示が出さ 45 年 3 月に、夜間に低空から人口が密集し れ、犠牲者の数は数百人にとどまっている た都市市街地に大量の焼夷弾を投下する戦 が、富山市では地方行政機関(=政府の末 法に切り替えた。10 万人以上が焼き殺され 端機構としての「市」 )の行為によって「戦 たという 3 月 10 日の東京大空襲がその始ま 争の惨禍」が増幅されたのだった。 りだった。大都市を焼き尽くすとターゲッ 「平和(9条)」が トは中小都市に移り、8 月 15 日までに広 「生存(25条)」を保障する 島・長崎を含め 66 都市を廃墟にし、およそ 日本国憲法は「政府の行為によって戦争 60 万人の命を奪った。 の惨禍がふたたび起ることのないやうにす このような具体的な事実が、憲法前文の る」ことを国民の総意として決意している。 「戦争の惨禍」には込められている。それは、 渡辺治氏は「(9 条・25 条の)二つの条文 地震や洪水とは異なり、人間がつくった政 は…現代日本社会の二大問題である戦争と 府という権力機構の行為がもたらしたもの 貧困をなくすために、決定的な位置を占め だった。 ている」と述べている。 ( 『憲法 9 条と 25 他に例を見ない「惨禍」―富山大空襲 条・その力と可能性』かもがわ出版・2009 推定 3 千人の市民が殺された 45 年 8 月 2 年 12 月刊) 日未明の富山大空襲は、中小都市空襲のひ 憲法前文の「平和のうちに生存する権利」 とつではあるが、①米軍が目標にした区域 とは、 「平和(9 条)」が「生存(25 条) 」を保 の 99.5%が焼かれ、この「焼夷率」が全国 障することを示している。戦争をなくすこ 一であること、②人口 1 千人あたりの死者 とが恐怖と欠乏=貧困をなくすことにつな が約 16 人(全国平均は 8.7 人)と全国有数 がる。軍事費を削って、生活・福祉・社会 であることなど、他には例を見ない特徴が 保障の財源にまわすことが当面のたたかい ある。 (詳しくは、LL 第 61 号の拙稿をご の焦点になっている。 覧いただきたい。 ) 憲法 25 条第 2 項には次のようにある― なぜこのような大きな「惨禍」をもたら 「国は、すべての生活部面について、社会福 したのか。いくつかの理由が挙げられるが、 祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進 見過ごせないのは、当時の富山市当局が、 に努めなければならない」―。今の政府・ 市民の命を守るためには何もしないどころ 与党の面々は、この条文を忘れているのか、 か、逆に市民の犠牲を増やすことに手を貸 あるいは知らないふりをいているのではな したということだ。 いか。
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