農工戸時代において近江国は総石高 77 万石であり、 台買主の数は 254

柳川騒動(i諭御免の一揆)−(「頑4の歴史」(増補版)より)
江戸時代において近江国は総石高了了万石であり、領主の数は254家という驚くべき多数にのぽ
っていたと書いてありますが、この内彦根藩は近江において30万石を領していましたから、纏まっ
た所領を持っていた雄藩でありました。その上一度の国替えもなく、領民は終始井伊家の支配下にあ
りました。このような理由のほかに、歴代藩主の善政がしかれたためでありましょう、江戸時代にお
いては全国的に見て、1,240件という多数の百姓一揆が起っていますが、彦根藩では柳川騒動を除い
ては、一揆らしいものは1件も起っていません。この柳川騒動は俗に「積銀御免の一揆」といわれてい
ますが、次にこの経過を記すことにします。宝暦11年(1761)10代藩主井伊直幸は、「諭inl鉦」
の資にあてることを名目に、領内にあまね<積銀を命ずる計画を立てました。そのため了月23日町
方から4名、郷だから3名の有力者を呼び出して、積銀の元締め方を命じました。柳川村の両浜組(薩
摩・柳川の松前商人で結成した組合)の有力者田村新助重孝も、元締方を命ぜられました。新助は再三
固辞しましたが許されず、不本意ながら命に服するほかはありませんでした。さてこの積銀というの
は頼母子講の形式で資金を作り、これを持って備荒とか社寺の改築などに充てるものでありましたが、
藩では折からの財政難のために、米札引換のための資金に当てる目的で始めたものでありました。(米
札とは江戸時代各藩で発行し、領内に流通させた通貨の一種で、額面に米穀の量と、その金銀鎖の換
価額が併記されているものであり、彦根藩では享保15(1730)年以後数回発行されています。)
しかし11月に入って、米札の通用が幕府から禁止されそうだという噂が流れたため、群集が引換
所(皆米札会所)に押寄せて、米札の引換を要求しました。しかしもとより役人がこれに応ずるはずが
ありません。そのため領民の憎しみは、積銀元締方に向けられました。
11月8日亥の刻(午後10時)
南部の農民が徒党を組んで、積銀の不平をとなえ、新助宅を襲うという急報が南筋代官より入りまし
た。この報を受けた新助は一族や両浜組を集めて防御の部署を定め、両浜の壮年たちの応援もあって
暴徒に備えました。翌9日申の刻(午後4時)3,000余人の暴民が中山道筋から押寄せてきました。
新助重孝の嫡男豊親は両浜組の組員とともに、これを柳川村の神社の境内に導き入れて説得に努めま
したが、暴徒道は聞きいれず、ついに新助の屋敷内に乱入して、倉庫を破り器物をこわし、あるいは
略奪する者もありました。そして酉の刻(午後6時)狼籍を働いた暴民は、朝鮮人街道を彦根に向かい
ました。一方この騒動の通知を受けた藩では、早速藩兵を繰り出し、浜街道を柳川村へ向かわせまし
た。しかし藩兵が到着した時は、すでに新助宅が荒らされた後であったので、警固のため一部の兵を
残して引揚げました。さて彦根に向かった暴民の群は途中からますます増え、10日の明け方平田村
に迫った時は5万余人にふくれあがり、藩兵の制止も聞き入れず、城郭内に押し入ろうという気勢を
示しました。ここにおいて藩庁も防ぐすべがなく、遂に同日積銀廃止の令を出し、ようやく一揆は沈
静しました。首謀者数名は捕らえられ、新助は謹慎を命ぜられました。新助の謹慎は、もちろん身辺
の保護のためでありました。翌12年12月28日新助は謹慎を解かれ、入牢していた首謀者も罪を
許されて釈放されました。これは藩主直幸が、この事件を自らの政治の不徳としたものであると伝え
られています。そして更に翌13年了月新助に家屋修繕料として600俵を与えて、損害を補償しま
した。さてこの騒動は彦根藩における最初の一揆であり、その後天保了年(1836)打続く凶作にも拘
らず、年貢の取立てに激昂して、坂田・浅井・伊香三群の農民がー揆を企てましたが、これは未然に
防がれました。これも藩主の良識と領民遠の自重の結果であったといえましょう。なお田付新助は後
章「松前商人の活躍」で記しました松前商人の先駆者新助影豊の子孫であり、蝦夷松前藩との交易で巨
富を積み、一丁(いっちょう)屋敷と呼ばれる広大な屋敷に住み、専用の船着場もありました。土地
改良工事により今はこの堀も埋められて、現在100坪ばかり残っている屋敷址の一隅に、「田付新助
影豊発祥之跡」と刻まれた碑が建てられています。またこの時一揆が押寄せたところは、高宮口御門で
あり、彦根図書館蔵の図によると、この門はかつて土橘町と呼ぱれた処で、現在の協和銀行彦根支店
のあるあたりにあったとのことです。図面によると、外側には幅8聞ないし13聞位の堀がめぐらさ
れ、その内側には土手が築かれて藪となっていたようです。すなわち一揆はこの門前で押し止めれた
のでありますが、この時付近の町家では、一揆を支援して焚出しをせられた家もあったということを
聞きました。