月の出を待つ平安京最後の天皇、 孝明天皇の遺勅と救世主出口王

月の出を待つ平安京最後の天皇、
孝明天皇の遺勅と救世主出口王仁三郎聖師
大阪中央分苑
出口
出口和明
三千年と五十年、 みろくの大神の経論編
おま
を織り交ぜています。
孝明天皇
ら亀岡に移住し、本部
奉仕をされていまし
た。東大病院の看護婦
長をしていた清江夫
人との結婚は大正十
一年だそうです。
したか。大本事件との関わり
と同い年で、東京帝大法学部独
十六年生まれだから、二代さま
清江さんでした。土井氏は明治
育ててくれたのは、土井夫人の
実直そのものでしたが、和明を
ほめたたえたというエピソード
その一徹な信仰や高潔な人格を
みじんも揺るがず、裁判官まで
たと思うね。しかし信仰信念は
になったのだからさぞつらかっ
た土井さんが逆に裁かれる立場
に住んでいたのでほとんど記憶
事件前私は、天恩郷の光照殿
がある。
初参綾し、大正九年七月七日か
ていて、大正八年(一九一九)に
学科卒業、東京地裁で検事をし
が、かつて鬼検事として鳴らし
年八カ月の投獄生活を送ります
大本事件で検挙され、三
孝明天皇を平手に乗せて避難さ
えられたという歴史秘話におい
示、数表、遺勅、錦の御旗が伝
は?
土井さんはどのような方で
平安京最後の天皇
せ、その褒美に天皇より切紙神
危険が迫った時、旭形亀太郎が
国一
問
和
明
本論考のテl マについて、読
五十年目の聖師命日に発見され
者の方からあまりにも信じがた
い内容なので、特に事実を裏付
出口和明と切紙神示との関わ
た物証
い、詳細な内容を示してほしい
りについて、和明の証言をもと
ける文書なり証拠を示して欲し
というご要望をいただきまし
日本には﹁皇国の神術﹂とされ
に記載します。
内容と重複するところが出てき
る切紙神示のルl ツがあり、和
た。それを示すには過去発表の
ますが、ご容赦くださいますよ
明は中学生の頃、土井靖都氏か
やすくに
うお願いします。
ら切紙神示を伝授されました。
一一月号などでお伝えした禁門
はつこういちう
ましては、掲載文中にそれを解
の変で、孝明天皇の身に被弾の
謹i
厳Z
て
土で
井す
靖字。
都A
氏
は
潔
癖
症
で
恒
くヒントになると思われる内容
また、八紘一宇の数表につき
d
48
がない。土井さんの出所は昭和
うに亀岡内丸町の土井家に行つ
ていた。家が私の通っていた小
つまり孝明天皇ルl ツ を 裏
づける証拠がなかった。
暗くなったので、私は熊野館に
一泊をすすめた。夕食のおり、
皇と切紙神一不に触れたのです
十四年(一九三九)夏で、私の
十八日に愛善苑で聖師五十年祭
ね。すると彼がドキツとしたよ
茶の間でたまたま話題が孝明天
行き帰りに寄るのが日課だっ
があり、翌十九日の本当の命日
うな顔をし、中座しましたが、
今年(一九九八年)の一月
た。土井さんは二階を占拠して
の夜に、なんとそれを裏づける
学校の裏門前にあって、学校の
出所、昭和十二年の二年後であ
読書や研究に打ち込んでいて、
九歳の年でした。
り、孝明天皇が月(聖師)の出を
すぐ箱を持って戻ってきまし
いましたが、隅にこんなものが
た
。 ﹁さっき書庫を見せてもら
資料が発見されたのです。
どうして五十年祭が一日早
められたのでしょう。
ありました。これ、今のお話と
その後、玉手箱と呼んでいまし
古びたその箱(私たち家族は、
O
十八日は日曜目だったの
-
'-
した。
だから和明さんを特別可愛
がっていたのでしょうね。
日ゃ
ら私の記憶違いだろう。そう納
は全く触れられていない。だか
﹃大本七十年史﹄にも切紙紙一不
う。しかし土井氏の著作にも
示も伝授してくれたのだと思
よく理解できた。だから切紙神
大本教義を教え、なぜか私には
野館の庭を写真に撮りたいと。
が前ぶれもなく来訪された。熊
としている時、東京から藤井氏
く中断していた執筆にかかろう
公式的な行事は終りと。しばら
善苑の祖霊祭があって、これで
拝者が多かった。翌十九日は愛
り抜きなどが入っていました。
は四冊の古い書物や古新聞の切
いこんでいたのです。箱の中に
行された。だから予想以上に参
に若
執い
図二の右から﹃孝明天皇和歌御
事件中でも、子供の私に
のっ
たて
めい
にる
前人
彼は写真が趣味でね。撮影には
予五、 庫カ3
宜ぎ狩
てのこ
し1 小おと
ま父じは
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思の たと
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可
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ので
昭和十四年といえば、聖師
問
和
明
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待たれた皇紀二千六百年の一年
て:
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円
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コ
間
人で 和
明
42
慕
前に当たりますね。
玉手箱にあった 4冊の古い審物
ちな食
やか事
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」 ゃ H
寺
と
や
く
呼吹ら
ん ζ い
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間
得して活字にしなかった。
49
.
.
.
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謡ま 以た
曲ま 日
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こ
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かつ ら見
毎学
日校
の時
よ代
図ニ
和
明
問
は 和
土 明
井
夫そ
人う
にで
懐さす
いね
はまだ佐藤紋次郎は、出口主仁
神示を当然知っていました。む
降は、土井氏は孝明天皇の切紙
が中学生になる昭和十八年頃以
前から闘病生活が続いていまし
三郎聖師に会っていないし、
しろ孝明天皇にかかる神と、出
と昭和七年三月十日。このとき
まほこのひ可里﹄・﹃正八位旭形
たが、私は当時、名古屋の椙山
吋たまほこのひ可里﹄を見る限
れた。八十一歳でね。二年ほど
亀太郎小伝﹄の四冊・:
女学園大学集団給食実習室の主
口なおにかかる神である良の金
命日記及御年譜﹄・﹃照日乃影﹄・﹃た
恒聖師の著作権の存続期間は
り、佐藤紋次郎は、﹁皇紀二千六
神、が、聖師、すなわち﹁月﹂
任をしていて、臨終には立ち会
百年が来るまでは固く口外を禁
聖師の御昇天(昭和二十三年一
月十九日)後、五十年間ですか
く、聖師の御生涯、満七十六歳
﹁
オl ル読物推理小説新人賞﹂を
から﹂と言われる。前年に私は
い。私が持っていても仕方ない
筆した当時は、切紙神示の情報
がって、土井靖都氏が著書を執
ある﹂と言明しています。した
は神、が同じということはありえ
聖師にかかるので、その意味で
入か
つめ
たも
こせ
のず
本に
えった。土井靖都さんは昭和
とそのあかし﹄で切紙神示を発
似じはる
しな趣
てい旨
し、もは
まの-'-'
ての高
し同天
不が伝えられた、おそらく和明
出口和明に土井氏から切紙神
のものであるはずですが。
と、孝明天皇の切紙神示は別々
かし土井氏の伝える切紙紙一不
書皇紙
のイ云神
内授示
容のの
と記伝
酷ミ載え
t
宜 ま
郎とともに、第二回目に新人賞
ネームで一九六三年、西村京太
り、出口和明は野上竜のベン
短編の推理小説を募集してお
していた公募新人文学賞です。
九六二年から二千七年まで主催
小説新人賞は、文義春秋社が一
解説しますね。オl ル 讃 物 推 理
新人賞のことについて少し
す
ね
の場合、
五ヶ月と五十年ですね。その数
に確
は伝わっていないはず。その切
もらっていたので、何かの役に
ぞ時
土井靖都氏が﹃大本の出現
ゴ
一っこ。
ナI J一ナ/
詰?
れはと思う本を沢山いただい
表の中心には聖師の栂印と思わ
著書の謎
孝明天皇や旭形亀太郎の名を
た爪
表したのが、その発行日を見る
見て、 急 に 昔 の 記 憶 が よ み が
そ
て
コ
十九年一日九日に自宅で昇天さ
恒
孝明天皇の遺勅と、土井靖都氏
立っと思ったのでしょうね。こ
出を待ちいづるという意味で非
コ
。
じられている私なのだ。どんな
、て
れるものが押されています。
ら、平成﹁十﹂年一月十九日、玉
上得
常に似ていると思えます。艮の
しL;入
方にだってまだ一度だって話し
問機
ま主
土井夫人が﹁本がお好きだから、
読
と
手箱の中身、四冊の本や数表が
弔
?
宍
金神は、出口なお逝去後、出口
問土そ
たこともみせたこともないので
をつ
なんでももらってやって下さ
井な
家か
発見された当日までですね。こ
士え
貰 Eた
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千
年
と
五
十
年
で
な
50
郎の作品は
した。
司会
朝西
だ
的 凶2
な徒五
E
1'=ミ村
そ京
の太
切り紙神示の真実を明らかに
字でした。
りのいい年が昭和十五(一九四
O)年で、私は小学校五年生。国
民の戦意高揚がはかられ、学校
和
御指示だとしか思えない。 ﹁
右年右月新十日田八日
仮寓に住む清月
、が浮き立っていた。その翌昭和
旗行列、音楽行進などで日本中
では﹁紀元二千六百年﹂という歌
八日旧六月六日小暑
(図二一)を歌わされた。十一月十
明、いま、切紙神示の真実を明か
贈佐藤老人(佐藤徳祥こと佐
浪華日本
年の命日に、切紙神示の実証が
橋書庖にて人掌
ディスポlザ ー な ど を 使 用 し た
にせよ﹂という。いそいで本を小
譜﹄は民間でも販売されていた
冗二千六百三年
皇紀ニ干六百年、そして神武紀
月二十日の、神と悪魔の戦いで
大正十年(一九二一)新十
渦の中に巻き込まれて行く。
が勃発し、後は日本中、戦争の
(旧暦十月二十日) に 日 米 戦 争
十六年(一九四二十二月八日
が行なわれ、ちょうちん行列、
完全犯罪殺人事件でしたが、作
た。四人の選者のうち、最後に
らしく、昭和十四年五月五日発
J
月:
口1
H
叶孝明天皇和歌御曾記及御年
松本清張が野上竜こと出口和明
行、発行所は共盟閣、定価一円
神武紀元二千六百三年と
の作品に一票を入れて、二対
いっても今どきの人にはピンと
ある本宮山神殿破壊の日と、日
の差があるのですね。大正十
もに十月二十日であり、二十年
は、新と旧との違いはあれ、と
良らじ
来ませんね。
そうでしょうね。皇紀と
もユ一一口います。神武天皇が即位し
た と い う 年 ( 西 暦 前 六 六O 年)
を紀元元年としてね。
坂 iめ
ので
戦あ
いる
)真
の珠
日湾
とで、受賞後に注目されまし
藤紋次郎)
だから聖師の霊界からの
三十四年ぶりに現われるなんて。
新
ー
七
月
日から十四日にかけて祝賀行事
辛平三
未;年
天下茶屋紹鴎ケ森天神ノ社畔
不思議ですね。聖師五十周
二
千
六
百
八十銭です。その内容は題名の
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で同時受賞となりました。松本
ト
1
:
: ..&
ところで驚いたのは、
比ひは
清張は作品を読んだだけで出口
r
5歌
孝明天皇との親愛の深さが感じ
王仁三郎がモデルだと見抜き、
hた 、
雌
熱烈に推しました。野上竜の名
仁 Yす
、が
られる。
峨五で
前は当然、十和田の龍神伝説を
意識したものです。さて、切紙
日
来
明
神武紀元二千六百年というき
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1
泉2の
黄子
川l通
宮り
しに万年筆で書き込まれた文
返
親ヱミ
コ
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王
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出よ
座 V'1
有
只中西
見
攻米
撃の
ひのもと救霊会をめぐる
/¥ プ
じ
冊ずつ手に取って見ました。
興
宗大
者が出口王仁三郎の孫というこ
新』
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s神
和武
三紀
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後﹃華やかな殺意﹄に変わりま
干がし
べた
在は
1日
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十
八
年
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二又
見上
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ての
た作
紙一不発見の日に戻ります。
5
1
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こ野
間 せ
和
明
を
同
寺
日
教 本
そして、﹁十﹂とは
六九﹂と現れます。
内容を﹁神諭の三千年と五十年﹂
﹃大本神諭﹄は全く永遠の謎
﹃新月の光﹄から抜粋します。
だし、大本は叩き潰されて一番
で、大本開祖と聖師のみ真解が
昭和十八年は日本は戦時中
して現れ、キリス
苦難の最中でしょ。だのになぜ
切紙神示で﹁神﹂と
﹁十字架﹂を
できるという。明治三十三年四
昭和十八年五月二十六日に
月七日の﹃神諭﹄に﹁艮の金神
弥鞍なのだろう。
前年の八月七日に聖師がオリオ
なる。十八年をことさら弥鞘の
十年押し込められて、蔭からか
と¥
説示されている(明治二十五年
から五十年は昭和十七年、この
とまらぬ如く世はおつるなり
山頂ゆ落ちる巨石の中途にて
年、聖師は出所される)
五余
意出 、
一 J
1
f
!
} 可
三
をし 表は護
も意味します。
は﹁弥鞘の世の幕開け﹂というこ
けると十八だし、
ンの星座から出られる。
年、昭和十年の弾圧事件はとも
年として意義づけているんで
が、数表を解く重要なヒントの
ひとつとなりますので、同様の
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4
;
t
,威 の
三千年と五十年
いうと十八年です
とでしょう。聖師の(戸籍上の)
五六七をたして
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ニた
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現界はそうでも、神界で
ね。わざわざ﹁昭和
生誕日は明治四年(一八七一年)
ま
み口
ず笑 士
貰た
2?神去
九四三年、昭和で
三六之十八年﹂と
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民主主
と三神
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ま明
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クトぐ年
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署め大
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も十八の吉数に
に﹁十﹂を含み、真珠湾攻撃、本
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しょ
数表では﹁みろく﹂は﹁
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判主とぷ
ら
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た支阻
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我がこ
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主入
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チはま
ツそう
とれで
もだお
人けり
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一一
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よ,
を示せ今紀元 1
:1二千六百年
(
L、やさか)の日はのぼる
宮山神殿破壊、ともに﹁十﹂月二
﹁十﹂日と、﹁十﹂を含みますね。
間
のじ士宅
品C害
てに
世現
界れ
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救付申
けの
る威
ぞ勢
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百
三神
年武
は紀
西元
暦
千
弥ヶ平日
時三明
奉祝国民歌紀元二千六百年
図三
和
明
未川ま辛
十
日げ副くよ恒
ロ司一
~(l) ん)たる旗の下日月掛アシヤうち建てん
5
2
切り紙神示は﹁みろく﹂の世界
tあ k'
り広三日
7
初
三千世界 一度にひらくしらう
です。ミロクを知るにあたり、
烏の翼も枯れて地に落つ
(これは、 昭 和 十 八 年 は 下 流 の
水主体
は
ボ
ネ中を火 仙
O
巣す高安ぺ
日び産 U臣
産川丈~
良の金神が永らく変性男子の
水はミの芦、之を合してカミと
P
L
しゅんひの充てる日にそある
御 経 論 三 千 年 に 充ちぬるは
4
字 の 端 々 にO を 加 へ て 六 のO と
形であるぞよ。火は霊系、天系、
火は人の立つ形で水は獣類の
なる。
々ば云
は Ht
地地
の球
数上
にO を 加 へ て 五 のO となる。火
/¥寸
で水と 一一口う意義であって、水の
二 のr
人小羊、昭和十九年は中流の
人猿、昭和二十年は上流の人
鳥まで飢えて地に落ちることを
不しています)
大正七年十二月二十三日
みろく
五六七を示す神諭
のは
五大
大の
洲字
にの
象主形
どで
る梅
明治の二十四年なりける
昭和十八年来年のとしより三
千年のいよいよしくみの幕は
あかれり
三千年と五十年にできりかえ
﹃月照山﹄にある他の予言
の準備まったくできあがりける
恒
なお、孝明天皇の遺勅、数表、
端ぜと
世は
の借
終主扉
い統
の一
世、
の一
初 人
りの
が事
1
も五六七、﹁みろく﹂なのかもし
の﹁土﹂とみると、﹁水と火と土﹂
﹁火﹂は玉、そして七を﹁地成﹂
歌にありますが、 ﹁
水
﹂ は六、
﹁水と火と土﹂ の 洪 恩 と 先 の
八年二月一日号)。
である(﹁神諭﹂﹃神霊界﹄大正
は地球と一五ふ意義で土也、成事
ミロクの世であるぞよ。また土
で
あ
る
めの意義であるぞよ。十は物の
主後
水と火と土の洪恩おのつから
めの花咲きみちてみのるとき
の時下
申すぞよ。七は地成の数で、土
4 に
六七の世がまいりたぞよ。釈迦
政千
が万
来年
るの
¥天
火の
の数
字で
の火
したのは、五六七と申す事で在
神七
J は
申はゆたかに 木の果をくらう
君
、
信
(五
かみ天地も海も動き初めたり
主ろ十
うじ
意や
義ぞ
でよ
あ
成就、
2主ミノ コ
モ
ァ
よひとのさとる時とはなりける
下記の神諭が大切ですので、掲
神系:x
がーで均
の神が初まりで、 火はカの声、
巣寸系君
日び二系
完一也
全の成
無集の
欠り意
両た義
手もで
揃 Zの あ
ふ J っ
事 T て
、、は、
¥円土
一満は
は具十
初足と
手と口とで知らして在りた、五
載します。
来ぬ
か申2
五十年の
v
るぞよ。皆謎が授けてありたの
至吋が
*﹃月照山﹄の歌の予言。羊(
に梢?年
申 年 (昭和十九
舞 にιて
ふは
十八年は
守勢早
樹に住める猿も又飢ゆ申の年
準
昭和歴十八年の元旦は五十年
イニヶ五
大千世界ただ一輪のしら梅の
空み王
れ 業地
り 了ぉ上
えの
てし
ゅ
ん
び
花かほる神代は 遠からすなり
f
っかつに 羊 の む れ は 草 を は み
車盗型
な 神
みろく神世に出てまさん時ち
食は小 年 昭
み羊
和
ては
十
八
年
コ
。
年
と
歌を一部紹介します。
5
3
鳥全員
第備
け
り
れないと考えます。
明治維新この年、佐藤紋次郎
生まれる
日 露 戦 争 開 戦 聖師はこの年、
上回王仁三郎として役所に届け
昭和五年八月十五日みろく神業
(世界統一の神業)の継承者出
河川治元年(一八六回)八月二十
山入山三十五年前)八・一八の
開化天皇の神業のはじめ(高熊
文久三年(一八六三)葵亥年
衛の次男として出生
太郎、大阪市島之内速見清兵
朝日形(旭形)出生時本名速見亀
十五日壬寅年
天保十三年(一八四二)、三月
出口なお開祖出生
一月二十二日
天保七年(一八三七)丙申年新
是実関白都落ち
月一日(旧二月九日)戊戊年
明治三十一年(一八九八)新三
から二十八年後
亀太郎天皇旗を返還禁門の変
くの大神現る、八月十七日旭形
五十年準備の初年綾部にみろ
年旧正月元日一開祖帰神
明治二十五年(一八九二)壬辰
勢神宮祭主に
十二月三O 日有栖川宮織仁、伊
三千年の神業満ちる
明治二十四年(一八九一)辛卯年
は一八七一年同日辛未年)
出口王仁三郎聖師生誕(戸籍上
一一日庚午年
みろく大祭聖師五十六才七ヶ月
戊辰年(旧二月十二日)
昭和三年(一九二八)三月三日
いるのを見た。
円形の月と太白星が空に輝いて
入蒙二月十二日白昼、聖師楕
三日甲子年
大正十三年(一九二四)二月十
様な光を放って輝く。
上弦の月と太白星(金星)が具
第一次大本教事件白昼の空に
日辛酉年
大正十年(一九二一)二月十
神島聞き
(旧九月八日)丙辰年
大正五年(一九三ハ)十月四日
師出所
五十年準備の最終年八月七日聖
昭和十七年(一九四二)壬午年
太平洋戦争開戦
八日辛巳年
昭和十六年(一九四二十二月
口ヲl ワニ (月) の出を待つ
十になるスの栂印を持つ男出
皇紀二千六百年孝明天皇、七
昭和十五年(一九四O) 庚辰年
ノアの洪水から一万二千年目
七月七日、麗溝橋事件勃発
立替のはじめ、開祖生誕百年、
昭和十二年(一九三七)丁丑年
第二次大本教事件勃発
日乙亥年
昭和十年(一九三五)十二月八
口和明出生
日(旧七月十九日)甲子年
聖師高熊山入山大本の真の開教
秋、十和田の龍神男装坊の英霊
昭和十八年(一九四一二)葵未年
) 旧七月十
明治三年(一八七O
禁門の変
明治三十七年(一九O 四)二月
天に昇る
貞観十三年(八七一)四月藤原
明治元年(一八六八)旧九月八
八日甲辰年
出
る
日戊辰年
政
治t
~
54
昭和十八年(一九四三)葵未年
元日一五十年準備の充てる日
昭和二十三年(一九四八)
一日天皇の人間宣言
三千年の仕組みの幕があがる
十九日(旧十二月九日)戊子年
筆先にはしばしば﹁一二千年
ました。
ミロク関連を中心に特に
出口王仁三郎聖師ご昇天
月
昭和二十年(一九四五)乙酉年
八月十三日神庭会議八月十五
日太平洋戦争敗戦﹁神・世に出
る?﹂十二月三十日吉岡発言
昭和二十一年(一九四六)
余りての経論﹂という言葉が使わ
れますが、 つまり明治二十四年
(一九四二)。 そして昭和十八年
年準備の最終年が昭和十七年
九二)辰年を第一年として五十
以後、 日本軍は全くふるわず、
五)する。ガダルカナル島撤退
グラl ドのドイツ軍が降伏(図
山本五十六元帥が西南太平洋上
四月十八日に連合艦隊司令長官
で戦死(疑義あり)し、五月十
元日から神業が切り替わって、
山頂ゆ落ちる巨石の中途にて
二日にはアッツ島の守備隊二千
弥鞘の大神の経論が始まる・
とまらぬ如く世はおっるなり
五百人が全員玉砕と敗色がいっ
たという感じですね。
待って、天も地も海も動き始め
そう深まる。 聖 師 出 所 の 日 を
それって、なにか切紙神一不
とつながるのですか。
もちろん深いところでね。
もう少し先まで聞いて下さい。
聖師の保釈出所された昭和十七
谷前さんらしい。谷前さんは当
h
い フの、も、 いかにも弥鞠信仰の
の雅口ずです。昭和三六之十八と
清月は谷前清子さんの歌
六の数字にこだわるのは大本の
ン海戦が起り、米軍がガダルカ
ナル島に上陸(八月七日)
四)して米軍の本格的反撃が始
まる。昭和十八年二月一日に日
時大阪に住んでいましたからね。
谷前さんが本を贈った佐藤
三た
で三千年の神業が満ち、開祖の
帰神になる明治二十五年(一八
t天
;
賢
誰壊
﹁今日から日本は負け始めじゃ﹂
年八月七日を期して、 聖 師 が
とこ
いの
う本
のを
は佐
人だと思うのですが。
j
青t問
問
本軍はガダルカナル島から撤兵
を開始し、翌二日にスターリン
5
5
月
日
和
明
と言われた通り、第一次ソロモ
図
•••••
間
和
明
大恒
事
な
出
来
事
を
年
表
和
明
月
し
て
み
スターリングラードの
ドイツ軍が降伏
図五
米軍八月七日ガタルカナル上陸
図四
老人というのは誰でしょう。
それがこれから話そうと
思う問題の人物、明治元年辰年
生まれの佐藤徳祥こと佐藤紋次
私の前に置き、
が皇室や恵まれない下積みの社
会に尽した数々の事跡にまず感
したのである。左様な次第であ
るから、 この神術を行う時は、
動してしまった。
経緯について
の出口和明の
いかなる場合でも直接にたたみ
Lー
'rI
つ
Dζ
間
だけど私にとっては、土
いたことがない。
旭形という力士の名前は聞
驚きをご紹介
たと
のね
でん
の上などでなしてはならぬ。決
ミk
します。
伝ょ
れたのは、いつのことですか?
て、思いもかけず五十余年ぶり
郎が旭形に切紙神示を伝授され
てから五十二年になる。
その時聞いた秘話が書かれてい
を裏づける資料が載っていた。
て、さらに﹃照日乃影﹄にそれ
うべき秘伝の神術を一力士に伝
読めば読むほど驚くことばかり
でね。
﹃たまはこのひ可里﹄は誰
が書いたのですか?
一力士の身でありながら、旭形
郎小伝﹄を読むまではね。まず
本でしょう。筆で書かれた奥付
だから、恐らくこれ一冊の貴重
と小冊子の﹃正八位旭形亀太
た。古い箱にあった﹁照日乃影﹄
私だって信じられなかっ
わった?
授して、それがまた一車夫に伝
孝明天皇が鶴の一声ともい
﹃たまほこのひ可里﹄の中には、
に旭形の名にめぐり合った。
底わ
下
山
明治二十五
さいます
され
れな
てい
昭和十八年だから、紋次
つ士
き命事 tご
日付リど ニ
[
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たまほこのひ可里が口述さ
i
E
蘇
年(辰年)のあ
すから慎んで御受納ありたい。
かモ
り し1
ろし
にで
問
る日のこと、
﹁本日はおそれ多い事ながら、先
鶴の一声と申すことがあるが、
この神術を御秘伝遊ばすに当た
た皇国の神術をその方に伝授致
この神術を申したのである
り、天皇様はかく仰せられた。
しうる者があらば、神も天皇も
佐藤紋次郎については、
介していますのでご参照くださ
ないものと思え。鶴の一声と申
﹁この神術は朕をおいて他にな
い。切紙神示が孝明天皇から旭
すことがあるが、この神術を申
一年二月号、三月号にご紹
形亀太郎(図六)に伝えられた
のげ
さ
か
れ
た
和ゎ
綴と
じ
本
郎です。
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さ紙町
と叫四
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よ鉄 3
海
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憶児
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記主
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名さ 明
前ん
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間
和
明
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玉
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手
御
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和
明
問
和
明
衿t
枚宇士
勤王力士隊当時の旭形亀太郎
図六
の
家
で
先
生
は
不十帝
肖E
孝
のノ明
臣天
旭皇
形様
和
明
O 垣
'
56
だと口述は佐藤徳祥。つまり佐
2
市
5よ
大幹部ですね。﹃大地の母﹄に
﹁十年目の弟子﹂として書かれて
いる。
んな亀太郎は座視しておれず、
21b2
藩力士隊が組織されると、亀太
につれ、伊藤博文が率いる長州
氏の弟にあたります。木庭次守
郎はその隊に加わり、﹁朝日形﹂
目覚ましい活躍ですが、こ
王のために奔走します。
の命を奉じて京師に出張し、勤
だと言われている。そして隊長
氏は木庭才記とブデの次男であ
に書かれています。
勤王力士隊隊長としての朝日形
旭形亀太郎の出自等につ
の頃、幾つですか。
すとギ
社たい
なめろ
主にと
い藩貢
勤王棲夷の論争が激しくなる
木盃などを賜ります。
士ょに
湯浅さんなら、古い大本の
と、各藩はその警備に追われ
か、公
で、旭形から聞いたことを必死
脅
る。土佐藩が摂津の住吉に出陣
日八
で記憶し、伝えた。校関は湯浅
藤紋次郎です。彼は無学なの
が一
して砲台を築きますが、血気盛
24
援問
仁斎。
にす
外二
女
国叫・
と四股名を名乗ります。これが
木こ感
庭ばじ
次 3ま
守 tし
り、輝男は三男です。改訂編集
鑓 2実
亀太郎が力士名を名乗った初め
事
意外な名前を発見して、
;
J
E
歪
;
孟
と清記が西田豊太郎。筆で丁寧
は アB
いては、すでに触れておりま
まだ数えで二十歳前後で
ぎまちさねなる
親町三条実愛(後に嵯峨とあら
れ、左の御書を下られ、当時の
ためられる) に具申せられし
文久二年(一八六二)十二月、
頭取へ実父よりそへ書を為し渡
す。維新を成し遂げたのは、名
亀太郎二十一歳の時、勤王力士
されたり。
に、御評議の末、赤心のある所
隊を組織して自ら隊長となり、
その方共議、当時御時世を存勤
もない若い下級武士たちの力に
宮中守衛の部に任じられること
王の士山神妙の至候御用の節は任
嘉納せられ、力役御用命ぜら
を出願する。翌年正月に勅許を
指図早々馳参候事
奉任します。そんな教養もない
若造がと思うだろうけど、この
文久三亥年正月
(大原左衛門替は勅使、勅使は
時の書類が次のように残ってい
旭形亀太郎つとに勤主の士山を
天皇の代理としての資格を以つ
大原左衛門替殿御役所
いだき、文久年間接夷御一定に
て宣旨を伝達する)
二位重徳荘厳老公の許に来り力
士共結合し、強勢の業をもちて
勤王の所あり、時の議奏・故権
おう
の身辺を守護し始めてより二年
こうして旭形が孝明天皇
禁門の変と明治天皇
より国家他端の折柄、実父贈正
ます。
(そへ書省略)
得て総指揮となり、日夜宮中に
よるものが大きい。
和
明
大納言中山忠能卿、権大納言正
5
7
まS
主献士
松し佐
平た藩
間
力 正
士 月
中
和
明
明
佐う出
守で入
にすし
謁 2J て
間
日
来
たこ
和
明
後、例の切紙神一不と関係の深い
﹁禁門(図七蛤御門)の変﹂が
禁門の変、 た し か 京 都 御 所
起こる
同可J
R:
l
長州藩が勢力回復を図って京都
え続け、焼失家屋は二万八千余
戸に及んだそうです。激しい戦
といわれるが疑義あり)は恐怖
附川
RZ wZ仏寺Z
禁門の変で、孝明天皇も弾雨に
の余り気を失い、公卿の中御門
経之が水をふくませて息を吹き
さらされかけるわけですが、朝
﹁一天万乗の大
返させたと伝えられる。
まだ小さかったのですか。
数え年で十三歳。
勅筆)
孝明天皇御製色紙
何歳?
想像がつかない。孝明天皇は
いくぐり、朝日形自らの被弾に
皇を平手に受けて飛弾の中をか
との玉の御声を受けて、孝明天
切紙神示はこの時に旭形が天皇
古屋で伝授を受けた神術、即ち
した。佐藤紋次郎が旭形から名
んだ。神官が三方を捧げるよう
文字通り平手に乗せて運
ということですか。
ら、平手に受けた?お抱きした
天皇に弾が当たる恐れがあるか
逃げるのなら楽だが、それでは
本当だろうか。背に負って
から伝授を受けたものです。
こび左の御製(図九)を賜った
した。天皇は先生の至忠をよろ
も関わらず天皇の危地を救いま
明治天皇のイメージでは
I
e ).,
",
0
,
,.
と窓会の
御うきっ秘
旗天法
を皇を
たまほこのひ可里
和明数え三十四歳です。
照る影を平手に受けし旭形
ことが﹁たまほこのひ可里﹄に
記してあります。
﹃たまほこのひ可里﹄か
ら、このおりの旭形の活躍を記
照る影をひら手にうけし旭形
間
和
明
に出兵し、会津や薩摩の藩兵と
仏
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戸
ネ
申
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書低固
図九
託の伝
し直授
ま筆し
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隊費時三n 官三智伊??可涛7で干~~~一一汗積
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交い
いで
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詰とれ
空弾
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の内
明に
治も
天飛
皇び
した文を抜粋します。明治二十
唇主を
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にと竹
図八
信6
販
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.
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戦って破れた事件です。
空トさ
京都禁裏御所禁門(蛤御門)
図七
六の己
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1
2
P手
九年に先に話した佐藤紋次郎が
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八円ふ
戦いは一日で終りますが、京
時く
ー御霊
旭形から直接関いたものです。
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年蛤きた
都の火災は三日間にわたって燃
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治代認
問 和 間
明
和
明
も和の
い明付
う 近
二えで
5
8
に。なにしろ力の強い力士だか
残っています。
の、ものであると証した文図十が
めて宮中守衛を志願、三年正月
二)年十二月に勤王の同志を集
旭形伝説は相撲界に伝わって
奉した。翌元治元(一八六四)年
た、同年八月の八幡行幸にも供
に勅許を得て日夜奉仕し、
、こ
占
fU l
手で受けた伝説は、 ﹃たまほこ
組織して自ら隊長となり、宮中
は京都力士団によって力士隊を
七月の蛤御門の変では、朝日形
のひ可里﹄だけで伝わっている
に召されて錦旗や王座の守衛を
さて、旭形の孝明天皇を平
のでしょうか。それなりに今の
命ぜられるや良く任務を果たし
巻
﹀
年
)
。
︿
中
(一九六四
この H Pで﹁旭形亀太郎﹂
﹁旭形﹂ の 名 前 が そ の 朝 日 形 の
忠を愛でての孝明天皇の命名で
あることを新たに知りました。
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嶋崎町貨安"は先品川の飾品点臓をう材給へり一川品川流
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彩の背中時酬に闘してつまひらかじ浅内併の μ にぶして民に山間へら
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の名前を見つけました。
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其 坊 H7 局 窓
' 岨 聞 旅 刀 剣 仲 内 総 H州 荷 物 山 間 山 け ね T 習 又 九 Mm伏見破崎明 J m m M 問 予
叉柑中海
v ? 柄 小 貰 一ナ.,於侃 n 勧,l J - 心 紳 品 開 ノ 知 情 問
時代に周知されているのか、調
査してみました。
﹁大相撲記録の玉手箱﹂という
Tぉ
告
ら。頭で考えるよりも先に身体
が動いて、金剛力をふりしぼっ
た
。 至誠の力かな。
御製の﹁照る影﹂という意
味は。
影には多義があります
が、ここでは﹁日・月・星・灯火な
どの光﹂の意味でしょう。
り玉体をさす。
私がまさに歴史的事実だ
と信じられたのは、﹃照日乃影﹄
E
t
H Pを私は見つけ、そこに旭形
ま
以下は H Pよりの引用です。
孝明天皇
照る影をひら手に受けし旭形
千代に輝く勲なりけり
京都力士の朝日形が天皇に対
して尽くした功労について詠ん
の
東久世通曙の自筆証文
にそれを実証する写真が載って
E
)相旭守
~
いたからです。これを見て下さ
い(孝明天皇の展筆で御製の書
が贈傍
そっ言正
のたと
書和し
歌て
=、
筆さ嵯
'
恒
だ句。朝日形は文久二(一八六
5
9
かれた色紙の写真を示す)。
通号形に
高賜 た
酒る
o
明井とま
治忠同た
正時
大著に朝
正日名円
篇本を7lラ
費
イ
コ
本当だ。﹃照日乃影﹄の書名
市喜みに
も御製からきているんですね。
久がさ
世旭ら
正二改御
め製
たを
図十
問
ら峨和
ま
問
和
明
和
明
に賓主明
東 愛2
同H11
同寸 J
コトンヤレトンヤレナ
らひらするのは何じゃいなト
ンヤレナ
主の為故じゃトコトンヤレト
信じがたいでしょ
ぅ。でもそうまでされた天
ねらい外さずねらい外さずど
尾が作詞したという。たしか六
益次郎、井上馨の愛人砥園の君
弥二郎が作詞して、作曲は大村
節﹂ですね。長州萩審士の品川
都風流﹁トコトンヤレ
あれは朝敵征伐せよとの錦の
御旗じゃ知らないかトコトン
皇の御心を考えて見て下
さい。逆に言えば、それぐ
らい天皇の身辺に信じら
れる誠の者がいなかった
する奴をトコトンヤレトンヤ
し1
和
明
睦仁親王(当時数え十三歳)は
年七月の﹁禁門の変﹂の時には、
しかし元治元年(一八六四)
十一)
王に渡されるべきでした。
本来は、天皇旗は、睦仁親
仁親王
孝明天皇と睦一仁親王、そして蛾
という意味)。
L
という証拠でしょう。錦旗
糸で日月を刺繍し、あるい
んどん撃ち出す薩長土トコト
は赤地の錦の上部に金銀
は描いたもので、朝敵を征
ンヤレトンヤレナ
五、国を追うのも人を殺すも誰
伐する官軍の標章として
用いられました。
ンヤレトンヤレナ
も本意じゃないけれどトコト
限らない。たとえば鎌倉時代、
薩長土肥の薩長土肥の先手に
ただ天皇旗は一っとは
承久の乱には後鳥羽上皇から十
手向いする故にトコトンヤレ
錦の御旗はどう新しく造られ
人の大将に錦旗を賜って官軍の
トンヤレナ
孝明天皇が旭形に託した錦
標としたと﹃承久記﹄にあるそ
殺やま藩は
レすで二
図
:
の御旗(天皇旗)について、教
六、雨の降るよな雨の降るよな
うです。
鉄砲の玉の来る中にトコトン
る
トた事で
も前あ
ふのにつ
と長売
は言州、!?
トわ藩丙
コれ存時
トて薩の
ンい摩旗
手
向
か
の
も
皆
御
錦の御旗の歌がありまし
たね。
す
v
王宮ナ
和
明
一、宮さん官さんお馬の前にひ
γ
で作疏;番
ょっ 、ノま
ヤ
レ
レ
ナ
命ヤ
惜レ
しト
まン
ずヤ
つまり錦の御
ま
す
間
えてください。
主旗
まさか。錦の御旗が民間に。
と皇
1
'
宣
睦仁親王と東京明治天皇
図十一
天
万ト
乗ン
のヤ
帝?レ
魁
長
旗き天
た
か
間 旗和
明
錦i
nhu
u
ハ
文章の歳を見出だされ、京都の
岩倉邸で倒幕の謀議に参加して
に反し長州に協力して活躍して
ンボルが有効ではないかと考
は、倒幕のためには天皇軍のシ
いました。その謀議の中で岩倉
いましたから、天皇は当時、蛾
え、それには錦旗がふさわしい
と考えました。すでに幕末には
錦の御旗はなく、太平記などに
出ている錦御旗を参考にして、
ふ通図
丙妾止を
、、
がノ創
¥西作
こ陣し
のでま
年)に最初に現れ、ついで建武
錦旗は承久の変(一二二一
かりません。
したが、これに関わったかはわ
視の密使としても活躍していま
す。旭形亀太郎は、よく岩倉具
に一統ずつ渡したとのことで
二腕の旗を調製し、薩摩と長州
図案を持たせて西陣に走らせて
たのめ案
みさおともみ
た玉松操、岩倉具視、大久保利
0
j
仁親王に錦の御旗を渡す気にな
れなかったでしょう。
みろく三会は瑞霊の御活動
孝明天皇が旭形に託した錦
まの
がわきます。
孝明天皇がその妹、和宮と一
憶に卿て
したが、岩倉具視にその学問と
辺 通
真玉の
野松こ
と操と
し¥ f
:
tミ
カ
う没記
所落さ
に公れ
砲声と女官達の悲鳴に驚いて失
神したといわれています。幼少
時、婚約させた有栖川官蛾仁親
王は、本来次の天皇として孝明
天皇の意中の人であったと思わ
れます。
棲 Rで い
し琵ま
大、詰
す
内
"
u
よりの虚弱体質で毎年風邪をこ
じらせ、十六歳になっても宮中
も無関心、 乗 馬 は で き な い な
ど、天皇としてふさわしい資質
を何も持ち合わせていませんで
した。
一八五二年新十一月三日生ま
れの陸仁親王は、禁門の変当時
は満年齢では十一歳。孝明天皇
が幼少の、実の子第二皇子と
されている睦仁親王を見限るに
は若すぎる。孝明天皇の側室
中山慶子との聞に生まれたとさ
れる陸仁親王(のちの東京明治
天皇(図十一)ではなく)を孝
明天皇が、実の子供と認めてい
天童きとの
手Ijの
授けたとさ一口われて
可里﹄ (本年二月
は﹃たまほこのひ
藤紋次郎の関わり
る島津の隠居と佐
錦の御旗をめぐ
し1
皇 居 5変
のをの
意命時
向じに
γ
ま
す
て:品主
皇の象徴となった錦旗を作成し
(首相官邸レプリカ)
孝仁宗
明は門
幕縞調 まて
す
考京査
f
;
:
: ユ
判
し がー
お口九ま
い吋 1 さ三
て 力
日
か
よ
ご ら月
、茂も九 に 号
天の司 歴に
皆
目し
下へよ
手たに
で遊
、戯
政に
務い
にそ
なかったのではないかとの疑問
6
1
薩畏製の錦の御旗か
住栖
はし1
書
帯し玉
地た松
を f操
仕入が
立久錦
て保旗
図十ニ
ど山た
し1 し
、
短を
醍の
醐中
天興
皇 (
が,一
楠主三
木五三
正 3四
成長年
ら )
のの
諸時
将
に後
らは
れ
や有
紹の恒
介御
さ旗
れに
てっ
水馬史
』遼的
の太な
中同事
にの実
F
しで
み女
孝明天皇のときの錦の御旗と
は明らかに形、が異なります。﹃霊
界物語﹄に記された赤色旗は、天
殿破壊時の人夫の
例
" ,あ一一
3
5八
は r
洋主
主
士
揚 fと
明治二十五年
(一八九二)炭年・:
もしかすると、 そ
そう、弥助の大
神の出現とは、開祖(図
の帰神のことで
しようね。
聖師数表には、 ﹁聖師二十
ミロク三会と王ミロク
会である。天からは大元霊たる
のミロクと揃うた時がミロク
天のミロク、地のミロク、人
です。その後、日章旗は﹁御国
主神が地に下り、地からは国祖
国常立尊が地のミロクとして現
禁門の変から二十八年目という
は、元治元年(一八六四年)の
のミロクの内流をうけて暗黒世
の霊魂を宿し、天のミ口クと地
地上に肉体を現はし、至粋至純
はれ、人聞は高い系統をもって
と、何時のことになりますか?
問弥助の神が出現になるの
位を確立しました。
総標﹂となり、国旗としての地
されました。これが日章旗を日
平一
和明島津家は薩摩の藩主の家
掲日の 丸 年
)
隠居が明治天皇の即位の時、錦
島津の御隠居というのは?
だったのか
みろく大神とは出口なお開祖
真は鉢巻型をしています。
鉢巻﹂と考えますが、図十二の写
h
本の船旗として掲揚した第一号
るものです。図十二の写真が首
ま
す
1
島津家の紋は、大本の裏紋
z
i
旗としての制定に、関わってい
日号害
相官邸にある、天皇旗のレプリ
カ(図十二)で、禁門の変で旭
Z
のて
形が天皇旗を預かったため、薩
摩長州により制作された、幕末
明治に使用されたものと思われ
ます。
と
書
カ
ミ
れ
て
「れ
和
明
和 れ 問
明 は
十
四
大本開祖出口なお
図十四
二恒
ノ
人
た実
本際
宮に
山は
振 神大
赤
木
綿
の
よ
氏が三 と恒
は 秦 EJ 酷
似
す
の
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丸
は 十
@
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説 字
の.y,に 紋
で
き 玄 ?す
ね
日島祖 図
章津先 十
し
柄です。 そ の 島 津 家 の 分 家 で
号)をご参照ください。島津の
島津の 0
1こ十字の紋(有)
の御旗がなかったことを証言す
部ヘ
亘些
l
t
:
:
l
7l~道
艦安
麿す
島ま
津す
斉t
きを
初幕
め府
てに
日献
章上
旗し
がま
大本の裏紋(左)と
図十三
阪皇
朝旗
日の
新象
間徴
にで
記あ
さり
間
r官、
てU
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暁主神
ぁ
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君
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コ
体体子
は
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父説公
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7
子て t
f
とお可
聖るキ
霊がリ
と、ス
をそト
言のは
う 三 二i
活動を暗示したものに外ならぬ
一口うのである。要するに瑞霊の
聖代をさしてミロク一ニ会の暁と
ている。故に三位一体といって
にも人にも聖霊が主要部を占め
独立したものでなく、 天にも地
ておる。聖霊なるものは決して
辛ー現
昼また
世せの
告で
水あ
三位一体即ちミロク一二会を説く
鏡
﹄
)
。
骨
天のミロクは瑞霊であり、地
王ミロク様
〉ノ¥
く現わる﹀意味であり、ミは遍
満具足して欠陥なき意味であ
り、水の動きであり、 ロは修理
固成の意味であり、クは組織経
論の意味である。天地人三才を
(﹃水鏡﹄)。
貫通したるが王の宇となるので
国
王仁三郎は﹁王﹂﹁仁﹂と書
またその通りである。仏教は
ても母がない。マホメット教も
て神は人体を天地経論の司宰者
クというのである。そうして総
の三体のミロクを称して王ミロ
しようか。﹁王仁﹂の意味は、天
きますが、﹁王﹂は王みろく、す
阻し、応身は人に配するのであ
切が無であって、父もなければ
地人三界を貫通する三体の弥鞘
は愛を意味するので
であり、その本体は﹁愛﹂なのか。
陥があり、実行が伴い得なかっ
なかった。故に総ての教理に欠
たり、母があっても父がなかっ
は総て父があっても母が無かっ
はないか。今日までの既成宗教
る。一一百霊学上から一言えばオホミ
でなく、王の宇をあてるのであ
聖師の言説を﹃新月の光﹄から
予言に関わる数表の一番大切な
おほミロクは大の字を書くの
さて、ここでは、孝明天皇の
三三三と七七七
八紘二千の数表での遺勅を解く
たのである。ミロク三会の世は
たり、変性男子、があっても女子
ロクのオは神又は霊、又は心及
鍵
引
用
し
ま
す
ロクの働きをするのである。
言心行一致の神の現わることを
が無かったり、不完全極まる教
用に奉仕する現実の霊体が王ミ
から、天地の御内流を享けて御
し
なわち天地人の三体の弥勤を表
る。昔から法身の阿弥陀に報身
として地に現わしたものである
キリスト教には父と子はあっ
ぁ申
聖代をヨ一口うのである。人間にと
っておるで
阿
弥
母もない、唯人間あるのみと説
現はれたけれども、まだ自由閥
J
[
;
、
とな
ら
ば
唯
び治むるの意義であり、ホは高
達身退無碍の応身聖者が現われ
土ぜ
理であった。天の時来って真の
陀い
にて
己こい
心える
の
過な
の釈迦、キリストその他の者が
ると一一一一口う意味である。
のである。天地人、また法身、報
I
もその実態は三位一体である。
位位みり
身、応身のミロク一度に現われ
即ち日の出の御代、岩戸開きの
Z向
法身は天に配し、報身は地に
神手考
k7)¥
2
2
7出
ので
霊あ
でり
警
現
れば天は父であり、地は母であ
6
3
惟土本
朝日づは
能的厳
売め霊
あ
る
i
立えし
r
i
る宇
ロ σ
コ
クミ
はロ
伊ぃク
三界
界の
を光
根明
本と
的な
l
こり
三暗
くの
会も
のあ
暁れナ
き
つl
津
二日)は、聖師満五十六歳七ケ
月になられたその日。
﹃新月の光﹄上巻をひもとき
h
ましょ フ。
﹁綾部の至聖殿で昭和三年三
虚溝橋と獅子頭
図十五
七に三三三を加えて十十十とし
て祝ったのであります。右は聖
師がみろく大祭の意義につい
て、昭和十三年の京都地方裁判
所で庄司直治裁判長に答えられ
た言葉である。昭和十二年(西
暦一九三七年、 皇 紀 二 五 九 七
年)の七月七日、虚溝橋の事変
に対する答えである。西紀も、
皇紀も、 七七七と重なるので、
助け、悪をこらしたもうのであ
がライオンにまたがって、善を
助、時置師神、岩彦、木花姫命
長である。﹃霊界物語﹄では、杢
子頭でかざられている。意味深
獅十と
三三三を加えて十十十と神の数
F
4し
昭和三年三月三日(旧二月十
。
〉
月三日にみろく大祭を奉仕いた
図十六
地獄のはじめ、 い く さ の は じ
迎えた年なのです。話をミロク
。
しょ フ
v
瑞霊の活動のさきがけなので
のミロクとして現われたのも、
二十五年に開祖に国常立尊が地
活動を暗示したものです。明治
クといっても、要するに瑞霊の
天のミロク、地のミロ
明治二五年、旭形、天皇旗返納す
の話に一民します。
えられた元々の寿命、満百歳を
孝明天皇に下賜された天皇旗
(赤色旗か)
め、開祖満百歳
聖師は七七七は不吉な数とさ
れますが、 日 本 で は 七 七 七 が
ラッキーセブンと喜ばれるよう
に不吉な数という認識は強くな
和
明
走l
金お
る:::(﹁虚溝橋事変﹂﹃新月の
し
み常と
ろ夜よ
しましたのは、七を重ねるのは
r
始め﹂、そして開祖の、神から与
「づ五ご
五さと
)れし
は
皆たて
光﹄上巻)
地 と九く
獄く「
の 戦i
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ょ~と
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万
大凶悪数でありますから、七七
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の七
始 月 ーいと
め 七 九く思
'--日 三さし 1
皇は 七ま
年す
紀
で西一
み暦亙
るで紀
と {.t¥二じ
反橋苧
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のモど
万柱啓
l
ミ函 X
の溝
出
擬ぎ:
代
上
64
旭形も霊感の強い人だったと
返納した天皇旗の添え書き
現。なんだ、なんだ、このつな
うーん、天皇旗とミロク出
現、つまり開祖の帰神を察知し
がりは。
見え、霊感で地のミロクの出
て、孝明天皇の一一一一口葉通り天皇旗
克治変乱ノ際於
紫山辰殿
和明
こんごうしよ
金剛杵の一種です。金剛
杵は古代インドの武器で、のち
の写真が﹃照日乃影﹄にありま
悩を打ち砕く象徴として用いた
御旗返
孝明天皇より五鈷杵並びに御旗
共に下賜
明治二五年八月十七日
実際に明治二十五年七月三十
すが、その下に筆で添え書きが
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7
桝斗や LJV人晴説
342L込み三年計'定本
tf毒向斗手 州、
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川
品
伸
、
局
峰
、
仰
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邦 芥 持 、l 品
H
礼的も砂 k品いて吋人 JL料 品川司
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L、fゆ
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民、牛島崎叩よ奇妙 L
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えを e動
令官伊荷役?ωmAω古式命令時哉、乏が1i招JY
ハ'自陣内寸々白河
へ一均々、知亨秩
土方宮内大臣から旭形へ感謝と百円の下賜金
類あって、両端の
い。それには三種
中央の握りが細
に密教で外道悪魔を破砕して煩
日付の大阪府知事山田信道(八
らわれ、拘禁五年の判決を受け
る)から宮内大臣土方久元あて
の書簡に、旭形から天皇旗を奉
還したい旨が記され、さらに官
内省の天皇旗領収の書類がある
(図十七)。孝明天皇の命じた弥
戦出現の明治二十五年が来て
も、何時の日かは特定できな
い、そこへ山田知事からの説得
E
W
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メえ逸、系紙,靖之常時ゐ宮崎 aj 政
一
軍A F i
山崎AF
府去一茅
ハ
月
Ji
川ゆ砂必札ふ九、内初仇
佐藤紋次郎を弟子
みたいだ。旭形が
のこだわりがある
辰年に対する特別
いると、旭形には
お話を聞いて
あ三端尖
る鈷がつ
杵分た
、か独
五れ鈷
鈷て杵
杵し、
がる両
間
究員、?噂毛
持母校 e
法具です。真織や鋼などで作り、
この時に返納した天皇旗
フの
ある。(図十六)
を奉還します。
の年
は
な
ん
で
月十八日の政変により幕府に捕
還す
す 間 辰
年
か
五ごは
鈷子竺
杵 EE
と♂ノ
因
し¥ ~旦
図十七
があって、旭形はそれを孝明天
皇の神示と受け取り、嬉々とし
て返納に応じたということで
しょうね。
6
5
間
和
明
~t
n
若さで亮去される。そ
はん
判より五十六億七千万年の星霜
明治二十五年(一八九二) 壬
を終わる。辰年でミロクに関係
から明治へと改元した
辰の節分には開祖は帰神状態に
の死を予感されていた
のは、明治元年(一八六
なる、 いわば天のミロクの先が
あるのは、それだけじゃない。
八)戊辰の九月八日。こ
けとしての、地のミロクの出現
としか思えない。慶応
の時から一世一元の制
余り好きじゃなかったけれど、
ね。でもなぜ明治への改元がミ
の二月十日には日露戦争勃発。
では干支を大事にしますが、最
悶縁の年だったのじゃないかと
和明
というと?
な気がしてきで。
(土の上に立つ)の三月一二日(旧
十年は昭和三年(一九二八)戊辰
一巡しますが、明治元年から六
いうのかな。干支では六十年で
天のミロクの神霊であることの
拝が行なわれ、翌旧九日、聖師が
月五日(旧九月八日)には神島参
大正五年(一九一六)丙辰の十
して町役場に届け出られます。
近、私もその重要性が理解でき
思います。慶応二年(一八六六)
ミロク出現の準備段階と
るようになった。干支は陰陽五
十二月二十五日、孝明天皇は旭
皇のこだわりでしょうね。大本
行説(図十八)と結んでさまざま
形に総てを託してから二年余り
たとえば辰年はミロクの
な占いや呪術などに応用され、
で、ミロクにちなむ三十六歳の
この年こそ旭形や佐藤紋次郎が
皇紀二千六百年に当ります。
)庚辰は
昭和十五年(一九四O
有名な筆先、が出ます・::
丙午のように迷信にもからんで
和
明
換行十二
期な六月
にわ歳十
なれ七二
り、ヶ日
ま大月て
す本でさ
二神、ら
三業みに
2
4のろは
て大く聖
天 Zき 大 師
地ちな祭満
剖f
l転 が 五
間
旭形というよりも孝明天
にしたのも佐藤が辰年生まれと
繭
この年、聖師は上国王仁三郎と
鳩 '~.~.,t
厩
十
ロクと関連するのでしょう?
で九
す月
か八
巴。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
0
天運と数運という見地から見る
商1
8顕
:
!
いうことに関係あるし、ミロク
明治二十七年(一九O四)甲辰
内省に天皇旗が返還されている。
です。それを侍って旭形から宮
て) ,
:
.
っ
一
一
喝
に
コ
度が定まります。
」で
の舌
干支と陰陽五行説
図十八
9
P6 東
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と、大本では無視できないよう
ι司
ι ; 1
まま寅 4
m
;
京
子
a品
出現が明治二十五年というのも。
日 間
の
経 L筆
給手先
i
Q
和
明
6
6
んでいた年なのです。
孝明天皇の遺勅によって待ち望
形亀太郎小伝﹄は伝えます。再掲
い。そこで旭形の出番です。﹃旭
ますが、 幕府の探索の日が厳し
冠したるをもって、容易に諸第
顧うに是れ君が力士旭形の名を
生涯に特筆すべきの事跡とす。
われ、それが元で没。註七大久
木屋町の宿舎で守旧派浪士に襲
郎幕末・維新期の兵制家。京都
て大に密議を凝らさんと
等は諸公卿との問におい
(註八)、坂本龍馬(註九)、
市蔵(註七)、山田市之丞
村益次郎(註六)、大久保
四)、広津兵助(註五)、大
(註三)、横井平四郎(註
家。註玉広津兵助のち真臣。幕
横井小楠。幕末・維新期の政治
島城山で自刃。註四横井平四郎
年西南戦争に担、ぎ出され、鹿児
で江戸無血革命に成功。明治十
ちの西郷隆盛。勝海舟との会談
草に当たる。註三西郷吉之助の
木戸孝允。﹁五箇条の誓文﹂の起
合に尽力。註二桂小五郎のちの
殺される。
襲われ、中岡慎太郎とともに惨
を練る。慶応三年十一月、京都で
後藤象二郎とともに﹁船中八策﹂
長同盟を結ばせることに成功。
佐藩を脱藩、慶応二年京都で薩
司法相歴任。註九坂本龍馬土
各内関でも司法相、各内閣でも
第一次伊藤構文内閣の司法相、
山田顕義。明治前期の陸軍軍人。
さねおみ
欲すれども、幕府の注目
末の志士、政治家。維新後長州出
これで見ると、旭形は多く
厳なるをもって、互に相
あきよし
に暗殺される。註八山田市之丞
化と専制に反発する士族反対派
に全力を傾注。明治十一年、西洋
者として活躍。集権体制の樹立
遺勅ですってi
主も
小松帯刀薩摩藩士、議長連
玄ど
保市蔵のち利道。薩摩藩の指導
十
土
ロ
ば 1
1
んと
身者としては、政府最高の参議
4
2
4
虫 え
に出入し得て、あえて世の疑い
らよ
ずる
載ですが、ご了承ください。
元治慶応ノ交(甘三歳より甘五
ょに
有栖川宮蛾仁親王と旭形
勤王・佐幕の論で国内が騒
慧いり
にし
くごとくならんや。
天 Zを
菓古う
のけ
敏 Zざ
往来するを得ず。毎に君
主
ての三五
ロ 殴 ) ( j
j
問
之桂内議
助小雄国
の推新の志士たちとつながりが
鹿実?主
となる。明治四年四月私邸で刺
己刀,主
を密使として斡旋の労を
号帯以勤
あったんですね。坂本龍馬と山
間
然となる元治・慶応の頃(一八六
か 1
γ
M b主 V
'
-
亡と
四l 六七)、雄藩の志士たちは公
卿たちと密議をこらそうと思い
、
心i
客に暗殺される。註六大村益次
五士旧年至
郎小しる
(松くて
取らしめたるの功は君の
6
7
フルベッキ写真の四十六人
器内六
のに歳
図十九
問
和
明
禍御所の旧地と普請料等を下賜
一日にその替え地として東山仙
写真に載っていますね。旭形は
される。そして新邸竣工までの
田顕義を除く会員がフルベッキ
志士と公卿との間の連携を果た
その里坊は京都のどの当り
にありました?
問、父宮は戎川別邸に、織仁親王
町絵図を見ると、仙洞御所の近
ていない。天保二年刊行の京都
られ、先年有栖川宮より東京帝
輪王寺里坊はどんなお寺で
O
ありましたが、 その跡が今の京
ちょうどその頃です。蛾
なるほどそれで見当がつく。
うべく、本章の概して粗略に流
みても、なほ余りあることとい
大付属病院になっている。
その御法衣等は久しく保存せ
したようですが、 公 卿 の 名 前 は
は十月二十八日から輪王寺里坊
-ミ
4U
Jq,
たのは?
仁親王はひそかに討幕活動され
かにしがたきも、 ま た 止 む を 得
れ、往々にして終始をつまびら
輪王寺は栃木県日光市に
加茂大橋にかかる下手あたりに
記されていない。
おそらく当時、 公 卿 の 名
前を明かにすることがはばから
携があったと推測できる。
どうしてですか?
ある天台宗の寺で、里坊という
親王の叔父に当る慈性入道親王
僧装を為し、頭を頭巾にて包み、
一日も国事を懐に忘れず、毎に
戸1
-o
/
f 申カ込ィつ ナ w
おとなしく謹慎していたのじゃ
すると蛾仁親王(図二十)は
ざるなり。
﹃織仁親王行実﹄を引用し
間幽問中の身で?
ます。
およ
親王幽閉、凡そ三年、その問、
ため、東北偶にあった有栖川宮
と公紹入道親王も輪王寺門跡に
もとより謹慎を旨とせられしが、
邸の上地(知行地を官に没収さ
手には念球を携へて、或は早展、
なっていますからね。
おお
ノ〈り記
のは山寺の僧などが人里に構え
和 間
明
和
明
禁門の変で、 械仁・織仁親
朝他行ならびに他人面会を禁じ
られています。
O
つまり蛾仁
l
干が輸
金深王
温い寺
型
は
」て七有
れること)を仰せつけられ、七月
慶応元年六月に御所の拡張の
間 活
動
せ隠に
親逢号
王瀬せ
父と
子策
と動
もし
にた
参疑
卒ふ往
2
奇
空
火ぺ復
中相の
せ空文
ら太書
れり、等
し 1
1
2
J
l
士 山n
h
a
、 召t
た
惜 fに 少
僧形だけでなく、﹃織仁親
有
栖田
川よ
宮ね
蛾と
仁の
品州
幽問中の身での織仁親王の倒幕
室博物館に寄付せられたり。当
。
LJG
σ
コl
ゴ
;
くで、賀茂川と高野川の分岐点
今の京都の地図には載っ
僻言或
に仮寓されることになります。
えびす
問
和
明
処夜
に半
会に
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て同
、士
時の
務公
を卿
討等
議と
ぷZ
F
甘
齢
乞
斗
4
屯令LL
よか時
りらの
てざ自
間
主隠工
若
宮2
和
明
竺縁
のた
蛾2
中ん
仁?心で
親的し
王役よ
父割う
子だね
とっぷ
はた訂
密有ぺ
接栖勤
な川王
連 │械主公
写
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長
日
来
明
八代栖る
代詔~ )
1
1住
械イ二 E宮 居
仁親家の
親王とこ
王のはと
の弟特で
弟品にす
和
明
仁 ~g印れ
い 王
ヨ
三 和 間
で父 明
勅 t子
6
8
一つが、聖師の母の世祢さんの
いたとありますが、 その場所の
お手がついて、
ゃったのや。ところが宮さんの
かった。養女にもらうつもり
﹁隠僻の処﹂は伏見の船宿がその
言です。 この証言からすると、
籍)もろた。母が祖母に打ち明け
きて、婿(明治三年一月十六日入
王から、上回よねへの短冊が残
うことですね。有栖川官蛾仁親
に蛾仁親王のお手がついたとい
なるほど、 そ こ で 世 祢 さ ん
大きなひとつでしょうね。
叔父の経営していた船宿じゃな
どうもならんから、渋々帰って
ると祖母は、﹁こんな結構なこと
されています(図二十一二)。
つわりになって
かったかと思います。
の神主を三十年ほどつとめてい
はない﹂と言うてとても喜んだ。
まだ独り身の三十代だし、 それ
私はそう推理しています。
た上田幸吉氏の証言によれば、
嬉しいから喜三郎とつけた。
て隠、に
間
王行実﹄には祖母妙勝定院宮の
たこともあるそうです。 それだ
け幕府の監視の目は厳しく、旭
形の活躍の場もあったわけです。
織仁親王と旭形の関係を示
すものは、何かありますか。
﹁母から聞いた話だと、お婆さん
て、件一訳者を嫁にしていた。だから
(うの)の弟が伏見に船宿しとっ
蛾仁両親王の額(図二十二)が残
三か月早く生まれたが、 父はき
三巴
めい
自由になる姪を貸して欲しくて、
をま
されているところからも、うか
44
、
廃 Zれ
れる
てと
がつかんなんだ﹂。
69
織す
え中
日
来
明
合ったということでしょう。
1
1宮峨仁親王書
有栖 )
が 怖i
死
魅ひ保 n~rj
きのし
玉鉾神社宝物
図二十二
Z が
誕生
聖師が七ヶ月児と思われた証
皇女和宮親子内親王
血 伯2
4
2
二
イ が
伏見によんだんや。母は末っ子
ゃからどこに嫁に行っても良
図二十一
2は
波守みーレ
の佐さぶ
埜L
仁::1て
で百
行の
か体
れに
にま
ト
σ
〉
卿 C
E
ら入
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丹波ば同
主面
て病
がい知ることができる。
自
主
伐の
同局 i
伊
じ 丹5
2
二
互
旦
篭ご姫
社し
山弟
の
比ひ豊
沼ぬ受
麻ま大
奈な神
為いを
神祭
社る
恰壁か-,
鉾 Tヨ
!
神白
丹
長を
」、か
娘たに
可か亀親
那な岡王
o 0
コσ
コ
三だ
代か
続ら
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玉E
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後聖
市師
峰の
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女ね
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尽
二床
問
旭 和
形 明
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僻言
のそ
処れ
l
t
γ
,
、
J
八木清之助は弘化四年
(一八四七)に穴太から北へ一一旦
家に奉公していたと言っていい
でしょう。
万延元年(一八六O
)三月に桜
助は目撃したまま、﹁天抹録﹂と
ますが、この一連の事件を清之
なテロの嵐が京都を吹きすさび
田門外の変が起こり、井伊大老
の拝田村に生まれている。
聖師を思い続けていた。第一次
が水戸浪士らに暗殺されたこの
婚しますが、結婚後もひそかに
、
ム
ハ
ク JFMhvd
f i i f毛
点〆必ド乙ム Jhjgみよあー
どへんくつうほう
大本事件で検挙された聖師の写
年、清之助は十四歳で京に出て、
れないから、主命によるものと
思われる。
すると、その頃、清之助は江
そうです。そして文久三
年八月十八日、すなわち八・一八
政変の翌朝、 都 落 ち す る 七 卿 に
従って清之助も長州に向かいま
す。禁門の変では、長州から一民つ
た清之助は桂小五郎と連絡し、
烈を
らの録
。度変窟烏峰宗匠こと維新の志士
真が新聞に載ると弁はそれを切
ある宮家に中間奉公しています。
そうなのです。 おそらく
宮家の名前は不明ですか。
り抜いて針箱に入れ、毎日おや
つを供えていたそうです。
聖師は蒙古から帰られて間も
考仲?に
え 開f
記
八木清之助
同じ関連で、 八 木 清 之 助
とのからみも容易に想像がつく。
間八木清之助というと。
上田喜三郎(聖師)の冠句
と同
名前を出すのをはばかってで
之助は供として加わり、
藩邸に滞在しているから、
問
和
明
の師匠、度変屈烏峰宗匠のこと
称左
す近
る暗
猛殺
なく弁の消息を求めて尋ね当て、
♂
語
です。
皮
切文
り久
身しい
でてう
そい和
んま綴
なすじ
暇 2O の
がし冊
あか子
るしに
とー克
け
ら明
戸から京都へ舞い戻っていたの
戸茂ど皇
しょ フ
、
が
、 ある宮家としか伝
v
ち軍白
江家三ヘ
以後、山内夫婦と親しい交際が
尽--l-
そういえば﹃大地の母﹄に出
の哩生
下りますが、その一行の中に清
発た将工
ですね。
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、
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つ ft . 品
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ふ4 J - v l v J J l v し か し 翌 文 久 元
を世話したのも聖師でした。
第二次大本事件で保釈出所し
たのち、聖師は側近の森良仁さ
あ十二
続きます。弁の長女ふさに養子
和 間
明
の和年
結宮(
婚(ー
ていますね。度変窟の次女弁は
言朱?
話
で
す
ね
替 が、 h
一
一
・
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聖師の恋人だった。
和 間 し
て
明
微;;昇
笑え天
ます
しる
千午
そうです。実らぬ恋だっ
たけど。弁は聖師より四歳年下
E
、年
天 Zに
十
んを連れて、年老いた弁に会い
へと女
和 石
宮 )1
でね。高熊山入山の明治三十
そして弁は聖
し1
年(一八九八)、弁は亀岡町(現・
満
足
図
亀岡市)北町の山内松之助と結
こ
師 l
に行
死ょっ
水字て
をい
取ま
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て。
も
ら
和
明
和
明
問
来
日
明
70
故郷の拝田村の生家のわら小屋
カくま
ます。
家茂に降嫁した和宮はいく
つでしたか。
同い年だから、やはり
十一歳。
り合
に匿い、のち八木・但馬を経て但
馬・出石へ逃がします。
清之助も若い頃から旭形と
劣らぬ働きをしていたのですね。
だから旭形と清之助は勤
王方としていっしょに行動をひ
左喜2
ては、 いまだに謎に包まれてい
家茂や孝明天皇の死につい
よね(図二十四)がいたかもしれ
そう、どちらも暗殺の噂
ますね。
仁親王があった。その恋人、上田
それから二十日後の二十五日、
E慶 f
とつにしたことがあったと思う。
l
五
五口
代に
孝明天皇が崩御する。
第万
その結び目に和宮や有栖川宮蛾
が士
ない。それから時を経て、蛾仁親
王の子、若い頃の聖師や度変窟
烏峰宗匠、晩年の聖師や佐藤紋
次郎のつながりになる。なにか
ただならぬ因縁を感じます。
孝明天皇と家茂との中は、公武
がつきまとう。和宮の降嫁以来、
し擾夷を決行しなければ、日本
切紙神示じゃなかったかと。も
けど紫展殿で神と対座して得た
ししんでん
合体という意味ではうまくいっ
は外国に奪われるという恐怖。
慶応三年(註慶応四年一月三
を引用しましょう。
については、﹃旭形亀太郎小伝﹄
しますが、 そ の 後 の 旭 形 の 働 き
親王(明治天皇とされる)が即位
イ
木
川 4目的/
円
μ 寸司 J 慶 応 三 年 一 月 九 日 、 睦 仁
旭形の社会奉仕
する。
それならわかるような気が
ていたしね。孝明天皇は頑迷な
棲夷主義者でしたが、討幕論者
じゃなかった。 公武合体を願つ
ていた。だから討幕派が死を望
んでも不自然ではなかった。
望は、
からではなく
て、むしろ信仰
治家。のち華族に列し伯爵)に従
的なものだと
思う。だからあ
い本営詰めとして砲隊に加わり、
ヂ衛
ν
し
て
は御
鳳f
l親
輩t征
のと
供し
れほど狂熱的
弘護
また征東将軍仁和寺宮殿下に従
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孝明天皇と徳川家茂の死
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とむ見
幕
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羽
推の
新変
期に
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政薩
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、A伏
宣諜
になれた。その
大きな理由は
大胆な推論だ
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明
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図二十四
慶応二年(一八六六)七月
十十
一四
歳代
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若軍
さ家
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和 遅り 問
明 れ評
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明
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献上偏向脱出
H 4 7以
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す州問拙引之叩
榔仙刷へ史上総此段巾入院批
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明品川ニ十八ヰ同月六
しょくたく
より世話係を属託され、尽くす
ところあり。
明治十八年(四十四歳)、大阪
アサヒピ!ルは﹁旭形﹂からの命
名で、孝明天皇がルi ツ ?
口貝を寄付し、社員の募集に尽力
日本赤十字社の事業を賛け、金
となり、明治廿五年(五十一歳)
同年大阪慈恵病院設立の発起人
を送ったという文書を提出して
形亀太郎が旭ピl ル二十ダl ス
苅名で当時の広島県知事に、旭
子爵である宮内大臣名
同年九月より普通力士の伍に入
具視督および弾正台より褒賞を
作の短刀ならびに金口貝を、岩倉
て参謀本部の軍属となり、長崎
役には大久保内務卿の紹介を得
明治十年(一二十六歳)、西南ノ
張し、大本営、宮内省、陸軍省、
明治廿七八年戦役には広島へ出
して宮内大臣より褒詞を賜り、
の総代となり、旭ピi ルを献納
ル)会社(現在のアサヒピl ル)
年発売の﹃史談のうちそと﹄雲母
である﹂と書かれていますが、同
前は旭形の名を取ったものなの
二年)では、﹁アサヒピl ルの名
﹃天皇破壊史﹄(成甲書房、二0 0
ことがわかりました。太田龍の
ょ-フ
ほっ
vし
得、明治二年(廿八歳)四月従六
に出張し公私の聞に奔走せり。
本日岡本を入手したところなの
書一房にも同様の記載があります。
し永
か世
れ録
ど六
も石
君コ
感人
じる所あり、同月これを返上し、
記念碑建設に際し、陸軍借行社
海軍省の御用を命ぜらる。
そこで調査をしてみたら次の
ありえない。
いる。 ピl ル二十ダl スを贈る
奉となり、海軍総督の横須賀へ
れり、されども時には岩倉右府
御祝典に際し、清、福白鶴を献納
し、翌廿六年特別社員となり、大
方かソ
、U
た?と
久 E ひ
ことで宮内大臣が文書を作る
出軍には、従軍して大総督府付
の内命を含み、某県に出張し、県
し 、 明 治 廿 八 年 大 阪 麦 酒 ( ピl
LL
土せら七早
が日を
同年十一月大阪に帰り、戦死者
明治廿七年三月大婚満廿五年
となり、その効によりて島津久
官の密事を偵察したること等あ
図ニ十五
光公より慶長大判、紋服、仙台平
刀;
りという。
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お大阪事情株式脅枇抑制代旭熔組太山州日リ
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袴地等を、山内容堂侯より黄金
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日内大田子限
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腕品綜知事鍋品幹蹴
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と旭恒
つ形
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落爽す→
阪支部幹部となる。
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世
扶ぶ位
持ちに
を叙
給をせ
わら
るれ
7
2
にわたり旭形を紹介していまし
ぶ﹂ということで、三十五ページ
ですが、﹁旭形亀太郎の業績を偲
銭的には無欲な人のようだ。
会奉仕もしているのですね。金
形は勤王だけでなくずいぶん社
自分のことより、他に徳
を施すことに喜びを持っていた
た。旭形亀太郎が実在して、かつ
歴史上の人物であり、 ﹁アサヒ
のじゃないかな。
はつこういち-つ
八紘一宇の数表
ビール﹂の﹁アサヒ﹂という名前
で現在社会に影響を与えている。
但し、 こ れ に つ い て は 次 月 号 で
先に引用の﹃たまはこの
ひ可里﹄の続きです。
この切紙神一不の他に八紘一宇
までに、
ているのでございます。
る。そして中央四十一から放射
線状に縦横斜めの八本の線が伸
びている。その数表がそれぞれ
の天運を一不すものらしい。箱の
中には何人かの数表があった。
皇室関係では神武天皇、明治天
皇、大正天皇、今上陛下(昭和天
十九年に綾部へ参られたのも、
日直)、聖師、二代教主、直霊(三
成天皇)、大本関係では教祖(出
皇)、義宮殿下、皇太子殿下(平
実はこの数表と切紙神示によっ
にいたします。
八紘ニ干の数表というのは、
どんなものですか!
縦横九つ、全部で八十一の升目
それ(大本現象)も入っていた。
神の印の押印者は私は出口王仁
印が押されています。 栂印や主
部分に﹁O﹂の栂印と思われる栂
は、その四十一、すなわち中央の
﹁大本現象﹂という数表に
れからの課題だな。
方は、私にはよく分からない。こ
さんでしょう。だがその表の見
字から見ると、土井靖都
誰が作ったのでしょう。
代教主)の十人です。
生ぽ亨
て綾部の事はすでに明治二十五
先事何
実は見つかった箱の中に
和 問
明
めざましい働きですが、旭
LEF叩ふハト五本
て kT
まし工大
数て
表お
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こら
就つれ
きた
まか
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てで
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まご
実ざ
物を御覧頂いて説明申上げる事
。つ
を作ってそれに数字を割り当て
7
3
のくて
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御
にも皇
現無室
れいと
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皇
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日
来
明
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同
校h
・
図二十六
御報告します。
間
国を守る一念で、それだけ純粋
切紙神一不を信じればこそ、
中間なる尾州武豊一の地に粛き杷
よ
いてやこつこ o
, 寸λ ナ / / ザ ナ /
y
じたらわが神霊を伊勢と熱田の
れであれば、﹁大本現象﹂(図二十
れよ。朕は武豊一の地に鎮座して
三郎聖師その人と考えます。そ
六)の記入者がだれであれ、聖師
皇国を守護せむ﹂
,
,
/
t
建設も、意外にも孝明天皇様鎮
られていているたまほこ神社の
議な気がする。愛知県知事まで
の許可が出なかったのは、不思
視してまで、孝明天皇神社建設
間しかし孝明天皇の意志を無
建設許可の出ぬ孝明神社
明天皇の存在を大きくする宮の
関わった疑惑が事実ならば、孝
皇暗殺に岩倉具視、伊藤博文が
であるわけです。まして孝明天
断しました。だから北朝は異朝
前年、明治四十四年に天皇は裁
南朝が正統であると、亡くなる
論で三種の神器を所有していた
天皇です。
E、しせ明、
間ぽ
韮お
奔定しているのに。
このように重大な意義が秘め
皇
で
あ
る
と
し カ1
てり
もに
本
南青
﹁皇紀二千六百年となれば、米国
の大要を左に記します。
いる。佐藤紋次郎の語るご遺勅
八年にはとうとう武豊に住居を
くれなかった。旭形は明治二十
に運動されましたが、許可して
そこで当時の愛知県知事も懸命
には早くも創建されている。そ
三年の大正四年(一九一五)九月
と昭憲皇太后)は明治天皇死後、
旭形は住み慣れた大阪を離れ武
J
なぜ武豊なのでしょう。
孝明天皇の遺勅を信じて、
ョっこ
。
一ナi
カ
建設を認めるわけにはいかな
はわが神国の国旗日の丸(これ
移されてがんばられましたが、
豊に移住までするわけですが、
評価が低かったということかな。
明治神宮(祭神・明治天皇
は司霊界物語﹄の世界ではO の丸
れだけ孝明天皇に対する政府の
孝明天皇は自分の死後七十
(日本分県地図を見なが
心にした地図の上で武豊 (
A)、
本当だ。 そ こ で 伊 勢 湾 を 中
ら)武豊は熱田と伊勢のほぼ中
室寅之佑、南朝の子孫を名乗る
であるのに対し、明治天皇は大
問点にありますね。
恒孝明天皇の評価が低かった
帝
はよ
平
日
明
います。孝明天皇が北朝の天皇
五年(一九四O 年 ) の 日 米 戦 争
奪う仕組みをしているから、将
やはりだめだった。
す。そこで旭形に遺勅を託して
近いことを感じていたと思いま
孝明天皇は自分の死期の
旭形に託した孝明天皇の遺勅
作成と同じ意味を持ちます。
来
日
明
和
明
来必ず攻めて来る。いよいよ攻
と当
思時
うの
で公
ということが原因ではないと思
去と
への分水嶺を予測していられ
しようよ。
〉 什 つ
め寄せる際には、最初に伊勢の
神鏡を奪い、 次 に 熱 田 の 神 剣 を
奪い、最後に神璽すなわち玉座
を伺う計画であるから、朕が亮
2
モ
家た
た!
ちそ
はれ
、は
和
明
間
問
を意味します)と三種の神宝を
幾祭
年の
奔け申
走1
社
さと
れし
てて
もは
許ど
さう
れし
なて
いも
和
明
7
4
熱田 (B)、 伊 勢 (C) の三点を
のでしょうね。
皇の霊感で知り得た神定の地な
知っていましたか。
すが、﹃大地の母﹄の取材の時、
まったく知らなかった。
だからこのことを知った時には、
倉の持ち主の朝倉伊助とい
住した旭形に、真の信仰者の姿
口叶J
うのは、どんな人でしたか。
;
Rl
本当に驚いた。
るのですか?
ところで孝明神社は創建され
を見る思いがする。
孝明天皇の遺勅を信じて移
Cを
結ぶと、 Aを 頂 点 と し て B ・
長い底辺とした鈍角三角形がで
きる。(図二十七)
三種の神器のうち、熱田神宮
は剣、伊勢神宮は鏡を把るから、
武豊に玉に当たる神社を創建し
今となっては詳細は不明
とは?
り豆の花﹄から抜粋します。
え、良の金神を奉斎した。薄縁を
十枚買ってきて板の間に敷き、
開祖と旭形の会見
会いがある。
と出口開祖との出
前提として、旭形
それがなかなか・・・・・・その
助の名前が出てきます。
を三十三一戸まで数えた中で、伊
底﹃妙り一旦の花﹄)で、近隣の家
かれた﹁かめおかの巻﹂(八幡書
違いない。二代さまが晩年に書
本宮村の住人であったことは間
近い号で触れる予定です。
ましょう。数表につきましては、
などは紙面の関係で次号に回し
建、佐藤紋次郎の聖師への面会
の
創
照日乃影、八紘一宇の数表、た
神
社
て孝明天皇が自ら祭神となり、
について、 す で に
﹁木戸・大槻:::伊助さん:::﹂
まほこのひ可里など、 P D Fで
十畳の部屋を作った。
二千十一年二月号
そして本宮村に不幸な人が多い
すが実物の状況を確認されたい
た
ま
ほ
旭形亀太郎の遺言、念願の
で触れていますの
と述べた中、﹁:::伊助さんのお
聖師と開祖の
開祖の借りた伊助の倉のこ
で割愛します。
ですが、出口家元屋敷のあった
司
E
方は、愛善苑事務局までお問い
旭形と開祖の初会と伊助の倉
!
旬
、
し
、
ばさんが小めくらになりたとの
武豊・熱田園伊勢の鈍角三角形
神国日本を守るというお気持ち
でしょう。だから武豊は孝明天
をな閉
合わせください。
初会はその二年後
の明治三十一年で
7
5
裏
町
こと﹂とある。
図二十七
ら八古
あ
り
ま
し
た
が
じ宍お
和
明
足倉
台で伊
を J 助
譲士の
り 厄1, 倉
受 f
更は
け 1
4二
2
2間
厨寸畏と
子L乞 こ
和
明
和
明
問
開
孝恒
明
神
社
間
来
日
明
足
並
向祖様、帰神ょっ
ず白魚崎・冠色句神色
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一切叶一次事件
A Aヘ
同
弘
(升-一次亭件五経て
聖位町州慨が出析される
与問は
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地上司準備期間グ・
昭引制叶叶汁州
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駒内大神'の
も紛が一時まっγ い
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