田 二〇 正 三 後期ドイツ社会統計学研究序説 後期ドイツ社会統計学研究序説 有 の領域において形成されたものである。それゆえ数理統計学的成果の社会科学的領域への導入は無条件には許されない。 最近における数理統計学の急速な展開は、祉会統計学の存在を押し流すがごとき観がする。数理統計学は元来自然科学 に期待するところも決して少なくないのである。 ることをわれわれは承認しなければならないであろうし、また、今日社会科学がその研究方法論の一つとして社会統計学 スの相異を示しながらも、社会科学的領域における統計方法の学として、社会統計学が歴史的に成立し現実に存在してい は種々相異なってくることも予想しなければならない。この様な制約のために学問的な内容と性格において種々ニュアン 計方法の特殊性をみとめるとしても、統計方法を一つの完結した研究方法とみるか否かによって、形成される社会統計学 れに応じてそこに提示される統計学の内容と性質もまた種々相異なってきた。さらに、たとい社会科学的領域における統 想する。もっともこの特殊性をいかなる質と量とにおいて認めるかについては、論者において見解が種々相異なるし、こ 規定は社会現象の特質、したがってまた社会科学的認識の特殊性にもとづいて、この領域における統計方法の特殊性を予 社会統計学は社会科学的領域において用いられる一連の研究手段としての統計方法を研究対象とする学問である。この 圃 無批判的導入を批判し、導入の条件を明確にし、限界を規定することは社会統計学の重要な課題であるが、それにもまし て重要な課題は、社会科学的領域における統計方法を独自に展開することでなけれでならぬ。ところで社会統計学が、今 日までおさめてきた成果は極めていちじるしいものであるけれども、同時にまた大きな限界をもち、今日の社会科学の発 展段階からすると、その立遅れは否みがたい。そのよってきたるところはどこにあるか一−。 反省はドイツ社会統計学をも含めてなされねばならぬ。ドイツ社会統計学は近代統計学の二大潮流の一つを形成するだ けでなく、終始自己を社会科学的領域に位置づけて、この領域における統計方法の独自的展開を志向しつづけてきた。し む かもわが国の統計学界はドイツ社会統計学の強い影響の下に発展してきたのである。このことを考えるときドイツ社会統 計学の反省はわれわれ自身の自己反省をも意味するのである。 ①鴫・切四げ曽印Go・︾葺2↓ゴΦ目Φp。繊轟ohω雷鉱ω鉱。ωぎ田p窟p♪言Φユ8昌Qα鼠的野。貯ジ<o一に℃乞ob。こ︾鷺6おΦ9b・罠●大橋隆憲﹁日本 における統計学の発達。現状。諜題﹂︵﹃経済評論﹄第九巻第︼五号・昭和三五︵一九六〇︶年︵臨時増刊︶・一七−一九頁︶ 内藤越夫編﹃邦訳統計学 文献﹄・大原社会問題研究所資料通報・昭和一六︵一九四一︶年一月号。 後期ドイツ祉会統計学研究序説 二一 に甑。。︶およびボルトケヴィッチ︵﹃じdo﹁爵δ訊oN︶を代表者とし、人口および道徳現象を基盤として、統計学への確率論の応 をその代表者とすることができよう。 この系統は、これと平行しつつ発展した数理派および論理派と一般に区別してとらえられる。数理派は、レクシス︵芝. 方法論を従属させるところの、一九世紀後半期にドイツで成立した統計学の一つの歴史的形態である。マイヤー︵ρ鼠四胃︶ られる記述的ならびに法則的知識を体系化して一個独立の実体的社会科学を構想し、これに統計調査論を中心とする統計 ドイツ社会統計学とよばれるものは、本来的には、統計にとらえ得るかぎりにおいて社会を観察研究することにより得 二 後期ドイツ社会統計学研究序説 二二 用を対象とする。レクシスのごときは、ドイツ流会統計学と本来よばれるものと密接な関係をもつだけでなく、統計学を 実体社会科学として構想する。このような親近性にもかかわらず、またその生成展開の過程における交錯にもかかわらず 学問的内容の相異によって数理派の統計学は、ドイツ社会統計学と本来よばれるものと区別してとらえねばならない。こ れに対して﹁論理派﹂は事情が相異なる。論理派はリューメリン︵ρ智ヨm膏︶を代表者とし、統計学を一つの方法論11 ﹁形式科学﹂とする点において、ドイツ祉会統計学と本来よばれるものと鋭角的に対立する。マイヤーはこれを方法論者 として蔑視し、外敵たる数理派に対して論理派を内敵としてこれを排撃した。しかしながら、上述のような相異対立が存 在するにもかかわらず、論理派の統計学はドイツ祉会統計学と本来よばれるものの生成展開と表裏をなし交錯しつつ成立 したばかりでなく、その問題にするものが実質的には社会科学的領域における統計方法であり、その統計方法が統計調査 を中心とするものであって、これを論理学的に取扱うことによって、ドイツ社会概計学と本来よばれるものに基礎を提供 した。それゆえに筆者は、ドイツ祉会統計学と本来よばれるものと論理派の統計学とを一緒にしてドイツ社会統計学とよ ぶ。たしかに論理派を含めて広義にドイツ社会統計学とよばれるべき学流が現実にあったのである。 ところで今日われわれの前には、みずから﹁フランクフルト学派﹂︵等p。導噛・暮臼Q。9幕︶となづける社会統計学者の一団が ある。フランクフルト大学を本拠とし、ジージエック︵国Nぼ騨︶の後継者フラスケムパー︵即霊麩訂包隠民︶を中心とするこ す のグループの志向するところは、社会科学の研究方法論としての統計学の確立であり、この意味においてフランクフルト 学派は方法論者である。しかし、このことによってこのグループをドイツ社会統計学の外にあるものとみることは誤りで あろう。むしろこのグループは現代ドイツ統計学者のなかにあって、ドイツ社会統計学の伝統に最も忠実なものといわな ければならない。フランクフルト学派はドイツ社会続計学の現代的形態である。生成11確立期のドイツ社会統計学との聞 にみられる学問的な性質および内容の相異は、ドイツ社会統計学の一世紀になんなんとする歴史的歩みを反映する。これ を無視してドイツ社会統計学を語ることは許されないであろう。かくしてわれわれはドイツ社会統計学と本来よばれるも の、これと表裏をなす論理派統計学、および、これらが二〇世紀に入ってとる転化形態を全体としてとらえてドイツ社会 統計学とよぶのである。 経済新報社刊・二 三 頁 。 ①蜷川虎三﹃統計学概論﹄・昭和九︵一九三四︶年・岩波雷店刊・ゴ⋮二四頁、﹃社会統計学派﹄・統計学辞典・増補版・昭和三二︵﹁九五五︶年・東洋 ②数理派1ードイッ数理統計学の生成展開については、足利末男﹃形式的人口論の成立と展開﹄・人文︵京大教養部︶・第六集・昭和三四二九五九︶ ③蜷川博士は﹁社会統計学派と方法論の区別は実質的にはむしろ無意義のように思われる﹂と記している。所説によれぽ次のとおりである一﹁現に 年、﹃数理統計学の一原型にかんする一考察﹄︵同上︶。昭和三三︵一九五八︶年、参照。 社会統計学派はその論ずる限りでは”科≠”と主張するが、その統計学においては与えている内容は、むしろ彼等の形式的意昧における望障陣ω二評で いわゆる統計方法として、もっぱら大量観察法を説くにとどまる。ゆえに、それらの現に与えている問題とは異なるので、実質的にみれぽいずれも方 ④翼翼ぴ。っ什p。叶帥ω農隙§α○$Φ房。象含毘Φぽ01↓出自Φ叶匿9Φω詩論甑F卜。.︾艦hドおタ<o﹃芝。冨ω.囲く”大橋隆憲訳・﹃統計学の本質と方法﹄・ 法論者だといっていい﹂ ︵蟻川虎三﹃統計学概論﹄・前掲・三二四頁︶。 昭和一八︵一九四三︶年。小島書店刊・第二版序言。二頁。 ⑤ 近時における数理統計学の発展は目ざましく、これにともなってその成果の社会的領域への寒入の試みが盛んとなり、その部分的成功︵例えば品質 って育てられ、あるいはその学問的影響を受ける人々、たとえばブリソト︵︾.国ぎ匹︶、 ハルトウィック︵鵠凸嵩蝉﹃件≦一αq︶、メンゲス︵O﹂≦Φ昌騎①ω︶ 管理・漂本調査︶が普遍的統計学の思想を強化し社会統計学の独立性を押し流すかのごとき感があるなかで、ジージェックおよびフラスケムパ1によ 等の諸氏がフラスケムパーを中心として結集し、数理統計学的成果を社会科学的領域へ導入するには大きな制約があることを強調し、社会科学的領域 会統計的認識の問題と特質﹄・彦根論叢・第四三号・昭和三三︵一九五八︶年・二三頁以下参照。 における統計方法の独自性を主張している。フラスケムパーは筆者への私信においてこれらの人々を﹁フランクフルト学派﹂とよんでいる。拙稿﹃社 後期ドイツ社会統計学研究序説 二三 ドイツ社会統計学はドイツ国民の社会的数量的現実像の形成を志向しつつ生成展開した。その生成はすでに一八五〇年 黒 後期ドイツ社会統計学研究序説 二四 代に始まるが、明確な形態をとるのは一八六〇年代に入ってからである。それはプロシャを主導とするドイツ帝国の形成 のプログラムの実行と実現の過程にほぼ照応する。ドイツ帝国の成立より第︸次世界大戦にいたる期間においてドイツ社 会統計学は一応完成した形態を誇示する。 ドイツ社会続計学の生成を語るにあたっては、先ず、それが社会をいかにとらえ、これに関する数量像をいかなる実践 的志向において形成しようとしたかをみておかねばならぬ。 ドイツ社会統計学の生成に大きな役割をえんずるリューメリンの社会概念は、動物的物質的なものから真善美をもとめ る精神的なものにいたるまでの多くの種々なる欲求をそれぞれもった個人の多数存在から出発する。個人相互間における 欲求の相互作用と集団作用を通じて多数個入の総体には意志的統一が成立する。しかもこの意志的統一は、真善美を求め る精神的欲求の作用が動物的物質的欲求の作用を圧倒するために、すぐれて理性的なものとなる。種々なる欲求をもつ個 人の多数存在から出発することにおいてリューメリンの社会概念は原子論的集合を基底とするものであって、このかぎり において近代的市民杜会をみずからのなかに包蔵する。ところでこの原子論的集合は階級の捨像の上に立ち、しかも一足 とびに国家に到達する途である。まこと、原子論的集合をこえた理性的統一こそリューメリンの社会概念の核心であり、 理性的統一にまつわる神秘を経験科学的に出来るだけ解消することがりューメリンの社会の学の課題であった。 ところで個入の欲求の相互作用と集団作用を抽象を基礎にして法則として規定することは可能である。古典経済学はこ の方向に大きな成果をあげているが、しかしその法則は、抽象を基礎としているために、多数多様な契機要因の作用する、 現実の祉会に移される場合には相対的妥当性しかもち得ない。さらに個人の欲求には法則的に規定することができないも のが存在す・る。それゆえに問題は、国家的社会的生活をその特定した歴史的形態においてとらえ、その現実的条件と推進 力から理解すること、および、この基礎の上に立って一般的傾向を明らかにすることである。 原子論的集合を基体としつつこれをこえた有機的統一において社会を概念し、これを歴史性においてとらえるこの思惟 形態は、ひとりリューメリンだけでなく生成期におけるドイツ祉会統計学者のなかに、若干の相異をはらみながらも類似 したものをみいだす。しかもそれは経済学︵歴史学派︶・法学︵歴史法学︶等社会科学全般の支配的底流に一致するものであ った。ドイツ社会統計学はまさにこの支配的底流の上に立って社会の数量像を志向するものである。 ところでこの数量像は、すぐれて科学の課題とされるが、しかし、国民の単なる歴史的理解におわらないで、その鍛階 に対応する国家の政策の必要と基礎づけにつながるものである。ドイツ産業資本がイギリス資本主義の圧力のために成立 の当初より国家権力と結びついて登場し国家の経済政策の麦援のもとに発展したことは周知のとおりである。しかも急速 に産業革命を遂行することによってつくりだされた強大な生産力はいちはやく生産関係と矛盾せざるをえなくなった。一 八七二年忌恐慌は一九世紀のすべての恐慌のうちで最大のものであったが、その中心舞台はほかならぬ若い資本主義国ド イツとアメリカであった。さらにドイツ資本主義の急速な展開がたちまち中産階級の没落や社会主義運動にすぐ結合した 労働運動の発生をもたらし、これらの社会問題の解決を国家の政策と権力にまたねばならなかったという事書は、祉会の 数量像を祉会的生産力の展開という志向をうちにふくませつつ、それよりも、社会的生産力の発展にともなって激化する 社会的経済的矛盾の調整という志向を濃化させずにはおかなかった。エンゲル ︵国●じ弓bσqユ︶が﹁社会政策学会﹂︵<馨ヨ ︷蔑ω。﹄巨℃。ま犀︶の創設者の有力な一入であって、 ﹁国民福祉﹂の視点において官庁統計の整備に努力するとともに自己の 統計的研究を組織したことは、この点について指標的な意味を担うものである。 Φ冒①吋ΦΦ卯Φ=ω∩げ餌津巴Φげ﹃ρ一〇〇〇〇Qo層ぎ”即①鮎ΦうF︾信hω999ω醤Go㊤軽鴇Qり﹄画QQ津. ①園口BΦ出pd①9巴ユ窪じd。ひq﹃自匙Φω︿亀︻呈し。。刈卜。﹂巨閑a①部q■﹀謀ω母器L藁。。誤闇QQ.。。。。h賞6①び。﹃O窪しd£無hα興OΦωΦ房9鋒叶§ 二五 ②鴻蝿ヨ㊦麟pqΦげ臼O興しdΦ讐譲Φ︷淳ω。。oo芭窪O①ωΦ嘗Φρ一。。①刈し﹃穀盗魯戸︾離騎簿N①し藁。。謡”G自.=一蒔. ③裂言霞算PPO二ω.鵠﹄ひ 後期ドイツ祉会統計学研究序説 後期ドイツ社会統計学伊究序説 二六 ④ 森戸辰男﹃エソケルの生涯と業績﹄・統計学古典選集・第一一巻・附録・昭和一七︵一九四二﹀年・栗田書店刊。 ドイツ社会続計学は、この視点にあ4。いて分邦および帝国の統計事業と結びつき、その整備をはかるとともにケトレー ︵︾・○篤箆3の統計学の摂取を通じて形成される。 ドイツの主要分書は、早くより立法および行政の必要から、数学材料を得るために、統計局を設け統計調査を行ってぎ た。いま、王要分邦の統計局設置年をみると、プロシャが一八〇五年、バイエルンが一八0八年、ウユルテンベルクが一八 二〇年、ザクセンが一八三〇年でかなり古い。ただし、全分邦が独立の続計官庁の設置を完了するのは、一八七〇年まで またねばならなかった。主要分邦の統計局においても、その統計事業の発展はおくれていた。わずかにプロシャがホフマ ンQ’の’頃。鵠B磐コ在職一八一〇一四囚4により、後にバイエルンがヘルマン︵国bご■癌,餌ωコ髭旨在職一八三九i六八︶によっ て、統計事業の整備を進めていたにすぎない。 一八三四年関税同盟の成立にともない関税同盟統計が作成されるようにな り、国民的規模における統計の作成が部分的に緒についた。しかし同盟は計算局をもつだけで統計局をもたなかったし、 統計上の活動は制約されていた。 ドイツ社会続計学は、これらの統計事業の整備とこれが全国的統一の促進に努力する。エンゲルは一八五〇年ザクセン の統計局長となり、一八六〇年にプロシャ統計局長に転じその後二二年間この職にあって、統計事業の近代化および整備 につとめた。リューメリンは一八六一年度ウユルテンベルクの統計地誌局長︵在職一八六一一八︶となり、マイヤーは一八 續Nバイエルン統計局長︵在職一八六九一,八七九︶となった。 一八六九年にエンゲル・リューメリン。マイヤー等の指導 創設によって始めて実現した。富鉱統計局の機構は小さくその権限は狭く、また国家統計の権威ははなはだ制約されてい 的規模における統一的統計の実現は、プロシャを主導とするドイツ帝国の成立にともなう帝国統計局の設置、国家統計の 者によって﹁関税同盟統計整備委員会﹂︵囚。臼ヨ奮δ5N感嘆①話目窪﹀β昏凌GづσQα下心p・け︸答陣α窃No穿霞鉱ロω︶が設置された。国民 ⊥ハ ② たが・一 ドイツにおける統謝事業の発展の指橡として人口調査の発展なみるにーシュナソパー1ーアルント︵ω昌葛署ゆで︾彦簿︶はこれを三 ③ つの期間に区別している。第一は=八三四年まで、第二は]八六七年まで、第三はそれ以降である。第一の期間にはドイツ全分邦に共 させた。一八七一年帝国全体に対する統一的調査が行われ、↓八七五年以降は、五年毎に調査が実施された。 通の入口調査は行われなかった。関税岡盟が入口数による関税牧入配分のために、一八六七年まで此分邦における同時定期調査を発展 ちなみに、先進諸国の国勢調査の実甑状況をみるに、アメリカが一七九〇年世界で初めて国勢調査を実施し、一八○○年にはスウ・ ーデンが、一八○︷年にはイギリス・フランス・デンマークが国勢調査を開始した。イギリスは一八〇一年以降一〇年毎に、フランス トレーによって指導された非常にすぐれた国勢調査を開始した︵以降一〇年毎︶。 は一八〇一年と一八〇六奪に調査を実施したが、しばらく中断し、一八二一年より定期的に調査を実施した。ベルギーは一八四六年ケ マイヤーはいっているーコ八七一年十二月一日のドイツ帝国の国勢調査によって始めてベルギーがすでに四半世紀前に実施した ④ ところのものを実現したのであるしと。 国家的統一のおくれよりくる官庁統計事業の発達の総体的未熟性と不均衡性、連邦的国家形態からくる国家統計の制約、 −このことは明らかに国民的規模における統一的数量像の形成の技術的組織的基礎の弱さを意味する。ドイツ社会統計 学はこの基礎の弱さを観念的に克服して統一的社会数量像の形成を統計実務よりもより多く学問の課題とするのである。 ∪一Φ国⇔けミざ鉱偉口α身鮎①国傷Φ信叶⑳oげΦロ<o涛ひユ幽囚叶総げQ⊃沖匹①げ円Φ帥ヨ一Φ.回p。ぽ焦げ信口尻Φ諄矯bΩ’↓①一罰おOQ。聯×××<口︾Qo.㊦i卜σ刈■⋮ 団.NpずPoり9凱。α鉱搾 ①ドイツ諸分邦の官庁統謎事業の発展については次の諸文献を参考にした。の.ωΦぴ♂ωぢ器にぎ営山興喝霧邸讐ΦN信国冨Φ刷く。⇒O噸ω畠B9︸Φ質 ︵♪一山叶一陣O⋮口Φ︶℃ヨ”鵠山p恥≦09Go富豪ω類.ω.︾耀自■①.bd飢こ一Φ一ゲ6Q.Q。二一帆Q。.O■一≦m︽N.QQ邸口警田口嵩鳥O①ωΦ旨ωoご黒房δ醐﹃PQebり㍑h.ω叶四 瓢瞭ロづα○雷Φ躍ωoげ黒富一①げ門P↓ぼ①o器鉱。な。げΦω欝け着陣r卜⊃。︾嵩典お一♪≦山ひq口①ぴω3甑u唾鉱Fげ帥∪Φ¢叶ωo冒①o。ω昏冥m房1≦oほ2び¢oダげ冨騨く・い ②国家統計は直接国家統計と間接連合国家統計にわかれる。前者は帝園家統計局およびその他の国家機関によって整理編成されるものである。国の機関 6■じdじ簿総ぼF囚’ud窺8﹃噛一Pしσα二一。。$■大内兵衛訳﹃統計学﹄・統計学古典選集・第六巻・昭和一七︵一九四二︶年・栗田書店刊。 により編集が行われるものと、州機関によるものとがある。間接連含国家統計は、州統計局が独自の設問を附加しつつ調査をおこなうだけでなく整理 二七 。編成をもおこない、國家統計のために定められた概括表を帝国統計局に送致するにとどまる。調査票はすべて州統計局にとどめおかれる。国家統計 後期ドイツ社会統計学研究序説 後期ドイツ社会統計学研究序説 一一八 のB臨ω二ぎド﹀二四H・ω﹄㎝㎝1①.⋮国.NpげPもり9江ω鉱置︵︾臼汁¢oげρ∪Φ山斗。げΦω菊Φドず︶矯ぎ”翻四目α≦90噸ω3帥雰渇こω■︾q鉾一箪どΦごd息.ω・c。ω塔。自︷・ において間接.盛合統計の比重は非常に大きい。すなわち、人口統計全体、経済統計の最も重要な分野がこのカテゴリーに属す。罎ロ。曳5↓冨。冨二ω9Φ ③しDoご昌唱Φマ﹀∋量QDoN圃鎮ω3江。・ユぎ60。。’しD.切Φ. なお詳細は、Oo8帥韓魯αΦの∪Φ葺ω。冨ω殉島∩訂鴨じdq﹄O一μ。。りS参照。 ④竃P。団びOΦω①裏年器の副産詳陣80Φ器HH。・。冨津巴ΦσΦP田刈8GO’一〇P高野岩三郎訳﹃社会生活に於ける合法則性﹄統計学古典選集・第一〇巻・昭 和一七︵一九四二︶年・栗田書店刊。=一八頁。 に つ ③ ケトレーの統計学のドイツへの導入ば、これへのまったき傾倒において、すでに一六五〇年代にエンゲルによって行わ れている。 一六六〇年代に入って宿命論的側面の強調をともないつつおこなわれたワグナー︵﹀’≦謂蚕︶による導入をめ ぐっていわゆる﹁意志自由論争﹂をまきおこす。これについてはすでにわが国に詳細に紹介されているゆえ、ここに詳説 するまでもない。この論争がドイツ的地盤に適合する形態へのケトレーの統計学の改変を志向するものであり、これを通 じてなされたドイツ社会統計学の定礎に注目しなければならない。ドイツ社会統計学は、その祉会概念において階級を捨 象した原子論謡曲台を基底とするかぎりにおいて、ケトレーの統計学を受容する可能性を含む。個人が自由な意志の主体 となり、またその総合において理性的統一をもたらすところがらケトレーと決定的に挟価する。かくして改質は先ず第一 に、ケトレーの基礎とする原子論的集合の有機的統一体への転換、統計的観察結果が関係する典型的個人の国民への置換 がおこなわれる。エッチインゲン︵︸○象⋮σq窪︶は道徳統計に関する大部な研究を通じてーークナップ︵O.閃.菌調⑳℃℃︶の 要約によると一﹁人間は自由にして責任を有する一生物であるが、しかしこれは独立した原子として宇宙間に浮遊する ものではなく、幾千百の事実的ならびに法的関係によって入間社会という珊瑚礁に結合されているものである﹂とし、こ の意味において考察されるべきは社会であり、要求されるのは社会物理学でなく社会倫理学であると考え、道徳統計の意 義をこの方向より評価した。改質は第二にケトレーにおける統計法則の自然法則視の否定、事実の概括結果としての統計 法則の解釈の確立、これである。リューメリンは統計法則が自然法則でないことを明らかにする−−−。 ﹁われわれは、事 の最初の発見者が考えたようにまったく特別の神の秩序を認識したわけでもなければ、新しい続計学者がいうように自然 ⑥ 法則を認識したわけでもない。それは事実以上のものでもなければ、事実以下のものでもなく、それを理解する鍵はまだ 与えられていない。そこに欠けているものはまさに法則である﹂と。社会法則は歴史的な事実たる統計法則を多数つみか さねることによって始めてこれに到達することができる。ただし、この法則は歴史的法則であり、発展法則でしかないで あろう。統計学はこの方向において社会諸科学に確実な経験的材料を提供することがでぎる。クナップおよびシュモーラ ー︵︵甲. ωOげ口PO臨①H︶の見解もこの方向にある。 ﹁国民経済の普遍的法則を否定し、経済生活の時間的空間的相対性を強調 し、経済学を発展法則の学﹂として構想するヒルデブラント︵しd■ 画工鉱Φげ憎節臨鎚︶は、﹁普遍的法則を発見するための手記では ③ なくて発展法則研究の手段として﹂統計学を国民経済的文化史とともに国民経済学の唯一の基礎とする。 ① ドイツ社会統計学のケトレー統計学導入にあたってはまず第﹁に、国情記述的と政治算術およびケトレー的方向との抗争と折衷から生じた︸九世紀 初葉以来のドイツ統計学界の混乱の清算過程がある。クニース︵姻■姿一Φω︶ は両方向を分離すること、政治算術単方向一すなわち社会現象の数量 的把握と含法則性の究明一に﹁独立の学問としての統計学﹂の権利を認証することによって解決しようとした。この試みはりューメリソおよびワグ の統計学﹄・統計学古典選集第二巻・昭和一七︵一九四二︶年・栗田書店刊。 O菊ロヨΦ一一PN母↓冨。ユΦユ興QQ8け一のユぎ一。。①。。・ ︵ぎ”閑①号コロ◎ ナーの原則的支持を得、学界の主流となる。国・囚巳Φρ∪δωB陸圃ω仲騨画一ωωΦぎ除碧α凝①奢δω9ωo冨蟄一。。㎝P 高野岩三郎訳﹃独立の学問として ∪冨OΦω①けNB帥。αω茜閃Φ客貯αΦ⇒ωo﹃Φぎげ帥﹁芝登霞ロユ帥。﹃①⇒ヨΦ5の。げ嵩。びΦ口出po口話¢コ瞬Φ昌く。ヨω富コα℃賃コ犀8創①村ω3賦ω二ぎ一Q◎2■⋮QD什自。鉱ω二ぎ一μ騨 ﹀口hω無NρピH。。謡.ω﹄卜・㊤・︶権田保之助訳﹃統計学の理論に就て﹄・統計学古典選集第五巻・昭和一七︵一九四二︶年・三九六一七頁。︾’芝鋤瞬昌Φび 七︵一九四二︶年・栗田書店刊。ゆ・口牌αΦび昌昌全龍脳のΦ昌ωoげ帥蓉犀。げΦb自ひq鋤びΦ島震ω汁口飢ω郎ぎ醤■栖冥護.FQり四二①bd職二一。。φ①・なお、高野岩三 ∪Φ口畠OげΦωω三富ω8乏O蓉の﹁びロO章耳ωαq●回・ρじd冨P諾O謀穿国.じd冨審ひHO.切軌こ目。。①㊤●大内兵衛訳﹃統計学﹄・統計学古典選集第六巻・昭和一 郎博士の﹃社会統計学史研究第一巻﹄・大正一四︵一九二五︶年・同人社刊、および、前掲訳書の訳者解説参照。 No富の。ご触●劉b憎ΦGロ馳しロδoげΦづω什・ゆ離H¢ゆ口ω● ②国・国口αq9蜜。ごooけ窪8彗閃叶α卑津品Φαq畠Φ目げ①賞9島冨望豊ωけ節①圃話ωΦきω什琶象碧を蕾①匿。受話&①村峯門①ぎΦζΦ夢。号ω鼻 後期ドイツ社会統計学研究序説 二九 後期ドイツ社会統計学研究序説 同。。総。ワグナーにおいて個人は、自然法則1ーコ大機構の奉仕的肢体しとして現われる︵堕濠.︶。 三〇 ③︾.芝角屋び∪冨OΦu。①欝亀山ωω蒔冨詳冒幽Φbω畠⑦冒冨同旨H野ξ膏げg日gωoε同9露出p。昌巳§αqΦ口<。ヨω口出9島簿Φα窪Qワ仲ωヨ飲ぎ ④意志自由論争における反ケトレー主義の立場をとる主な論者および論争文は次のごとくであるt冨◎∪﹁。σ冨6﹃∪冨ヨ。轟一冨。冨ω紅け圃ω嵩渥毒α 刊。︾.OΦ簿げσqΦ㌍∪δ]≦oB﹃鼠戸δ脚湯離ロ良巳①O評ユω爵。冨QQ一洋。巳Φ年9一●↓六一﹂≦o憎巴ω置慧ωユぎ一。。①。。●の●国d臼9一望¢ΦぴΦり魁封じd①σqユ頃 象①ヨΦ匿。罠ぎ冨を田Φロω坤9冨罫困。。雪.森戸辰男訳﹃道徳統計と人間の意志自由﹄・統計学古典選集第七巻・昭和一八︵一九四三︶年・栗田書店 ①ぎ$ω09月目βΦ①ω9N霧矯H。。⑰メぎ”菊Φ幽①pF︾自器什NPど一G。δ.一〇●男国切口OO唱O=①9叶2鶏ω8ず8﹃①鋤同ハ①び一Q。鵡陰ぎ⋮国衆貯胃自コσqぎΦ7 年。栗田書店刊。Uδ昌①q碧魯︾湯口〇耳Φ旨旨ぴ霞鍵。﹃巴ω欝鉱加鉱ぎ一。。刈一●ぎけ団ぎ言置貫嘱ぎ忠ロ一ぴq①属目日置Φ夏卑Φ一議翼p毒中δ轟ざ評。昌oB一ρ 昌碍Φ頃器冥閃Φ寓Φ富鳥曾乞四疏。昌巴。犀。き日置ω﹂刈−帆。。巳権田保之助訳﹃理論家としてのケトレー﹄・統計学古典選集第五巻・昭和一七︵一九四二︶ 象。国Φu。巳訂冨二興b⇔Φ<9開Φ毎づロqω−§αζo冨冨鼠鉱①鉱評二。。諺.大内兵衛訳﹃人口統計及び道徳統計の結果について﹄統計学古典選集第八巻・昭 ω’G。1一①’権田保之助訳﹃道徳統計に関する近時の見解﹄・統計学古典選集第五巻・昭和一七 ︵一九四二︶年・栗田書店刊。 O・ω9ヨ。一一。びqΦび興 和一八︵一九四三︶年・栗田書店刊。 なおこの論争についての主な邦文文献としては次のものを参照i岡崎文規﹃近代統計思想史﹄昭和二四︵一九四九︶年・永晃社刊、﹃ケトレー﹄・ 統計学辞典・増補版・二二頁。大内兵衛﹃統計学者としてのワグナー﹄統計学古典選集第六巻附録・二七六一二八○・二九四i三〇四頁。﹃シュモー 対する訳者の解題。 ラーの人口統計及び道徳統計の結果について﹄解題・統計学古典選隼第八巻・三七一i三九六頁。ドロービヅシュ、シュモーラーの前掲論争文訳書に ⑥○・閃離白Φ嵩ジ釦.pOこω﹄㎝一①. ⑤O.司.内罫O㍗Uδづ①ロΦ冨昌︾ロ駄。鐸窪多雪言。上巴三四叶冨餓ぎ蕊コ・訳・三三九頁。 ⑦O・”斌日Φぎ層即節.Oこω・ ⑧白杉庄一郎﹃歴史派経済学﹄・経済学説全集・第五巻・歴史学派の形成と展開・大河内一男編・=OI三頁。Gd.露冠Φ暫磐多≦最手。ぴ鉱岳畠。 同qo①ω.<o﹃≦o脱ゴω¶ω. ︾口自国び①山gω8江ω鉱ぎ臼σ・や乞p,曾9ω仲こ⑪じd9一Q。①①・ω‘一−bo恥U冨ぬΦ鵬①口≦竃什蒔①﹀口侭9﹂びΦQ臼芝一ωω①gざ鑑匹田2Z餌ユ。コ巴。涛050日一ρ 国民的規模における統一的な社会数量像の獲得は、さしあたり、断片的・非統一的な数学材料の編集および分析をとお して行われる。かくて多くの統計的編集物と統計的研究が世に現れる。エッチインゲンは道徳統計における全文献を集大 成し、ワッポイス︵旨国隣巷℃舞。。︶は人口統計の分野においてこれに比肩する仕事をなしとげた。 マイツェン︵艶寓葺N窪︶ 統計的研究は著名である。 はプロシャの農地統計を集大成する。シュモーラーの賃金統計および所得統計の歴史的分析、ビュッヒャー︵凶’芝葺臼︶の しかもこうしたなかで、統計調査および統計分析によって得られた社会および経済に関する多岐の統計的知識を総合し 体系づけて一つの科学にまで高めようとする志向が生まれる。 ﹁実体科学としての統計学﹂の構想、これである。エンゲ ルはすでに早くよりこの方向を推進していたし、エッチンゲンやワッポイスの業績もこの志向においてなされた。そして この志向はマイヤーによってほとんど完成に近い形態を与えられるのである。マイヤーによれば、統計学は、統計調査論 を中心とした統計方法論を包摂するが、核心は、具体的統計素材より導ぎだされるところの、社会の状態および現象の合 法則性および類型と、科学的に純化整序された具体的統計的結果を含むところの、統計的知識の総計にあり、それは、一 つの精密祉会科学であって、かかるものとして祉会科学の体系のなかに一個独立の科学の地位を与えられねばならぬ。こ こにわれわれは、統計実務よりも、より多く学問の課題となった国民的規模における統一的な社会数量像の獲得という課 題の到達点をみる。 ﹁実体科学としての統計学﹂の構想は、さらに、イナマロシュテルネク︵ぎ⇔暴あ醇濤σq︶。コンラート ︵回.OO霞ρ・畠︶にも見出され、二〇世紀に入っても長くドイツ社会統計学の底流を構成するのである。マイヤーの後継者ツァ ーン︵閏.N跳嵩︶はいうまでもなく統計学を実体科学とする。 ゾムバルト︵芝ワω。ヨげ舞︶はマイヤーの統計学に社会現象の﹁グロテスクな秩序づけ﹂をみる。しかしこのような批判的 見解は、エンゲルーーマイヤーを代表者とする一団の人々によって諸種の統計的知識の﹁独立の社会科学﹂への体系化が試 みられつつあるとき、論理派統計学からすでにいち早く提示ずみのものであった。論理派統計学はさきに記したようにリ ューメリンによって代表されるが、オンケン︵︾’09汀コ︶やマイツェンもこの流れに属し、さらに論理学者ジクワル 後期ドイツ社会統計学研究序説 三↓ トおよびヴントの統計学的寄与も論理派統計学の中に含めるべぎであろう。これらの学者は、統計方法として統計調査を 後期ドイツ社会統計学研究序説 三二 ⑨ 中心に問題をとり上げ、その論理学的取扱いを行うものとして統計学を論理学に所属させる。リューメリンはいっている ⑩ 1統計学は統計方法の使用そのものであり、またその方法論であり、論理学に基礎をもつ。統計方法によって得られる 知識は、それぞれその実体的内容にしたがって、社会的個別科学に帰属させるべきである、と。マイヤーは、すでに記し たように、この方向を﹁方法論者﹂︵一丁目Φ酔げO臣H瞠Φ回︶と蔑視し、統計学の内敵とした。しかし﹁実体科学としての統計学﹂の 実際になし得たことは、まさに方法論者の予想したように、雑多な統計的知識の集積以上のものではなかったのである。 一〇。切O●⋮﹀.7臼Φ詳N①量∪Φ﹃ゆ。αΦロρμq象Φ冨5α≦群酔の。げp陣一一〇げ。コ<Φ同げ巴汁巳ωωΦユ①﹁づ﹁Φβ器一ひ。oずΦ昌○つ仲四隅のロΦoげΩ①ヨ O①σ一Φ房⊆菖h国ロ瞬く。博 ①︸Ooa轟魯、∪δζo﹁匿ω叶聾。。二瞠箋α象ΦO耳韓一ざ冨Gっ三g回①腎ΦしG。Φ。。一謎.⋮↓﹄.≦藁葺易層≧茜ΦヨΦぎ①bd①<。貯Φ遷ロσq。⋮冨沖翼ぎ 一Q。①①い画ゆ亀ρ一Go零iコ. ②国華σqΦピ一︶霧馨讐翼δ。ず①ωΦヨぎ冠し。。コ・森戸辰男訳﹃エンゲル統計学論﹄・統計学古典選集・第一巻・附録・Ω削掲︶・三八七頁。 ③エッティソゲはいっている一﹁統計学は、組織的な量的集団観察から国民の国民経済的社会的政治的性格を認識し、一つの科学的全体像として示 構想する統計学は﹁実体科学としての統計学﹂である︵旨●め.ミ弓買受p霊三①岸⊆畠轟轟のQDεα冨ヨロ①﹃の部叶一ω訟ぎド。。。。ピG。■い。切.︶。 そうとつとめる﹂と︵O簿禽コぴq①ジ言。冨一泊障闇。α江﹃一Q。Q。O︶。 ワッポイスはアッヘンワール的方向の存置を強調する点において特殊性をもつが、その 二︶年・栗田書店刊、ω3戯馨涛償昌αO①。7①房。豊津匹Φぽρ目﹂Wqこ87Φoお識ωo冨ω8餓ωけ涛−磨︾黒﹃目。。り帆●坪︾二第お嵐.大橋隆憲訳﹃統計学 ④O.堅塁びO①ωΦ欝ヨ器の茜閃Φ詳ぎO窃①房室豊津匹①び窪払。。謡.高野岩三邦訳﹃社会生活における合法属性﹄・統計学古典選集・昭和一七二九四 ⑤ ]≦勉矯ひ↓びΦo同①露ωo﹃①ωけ彗喧二ぎb。・﹀鼠一・ω.ω一−卜。●訳・七九−八○頁。 の本質と方法﹄︵前掲︶、Nしd創二じdΦ︿σ涛Φ2ロひ鳥ω馨ρ。訟馨一評”一︾象一﹂。。雪・b。﹀断乳おb。9ω切αこ冨oHo﹃冨江ω江犀℃目︾竃一﹂罷職 ⑥同型日キω3旨①四堕OΦ。・り三。耳①=巳ω仲讐ω二ざG∩﹃蜜。葛ヨ∩耳・誌.。、レ。。。。b。、ぎ“ω富雪ω葦ωの①コω9野芝6ゴ窪﹀び冨甦ξづ,q窪・お8・QQ・b。認・甲 一・Oo霞ρ。9ω富叶冨二ぎHQ。㊤O・ く。居毒。時噂りn●り・ ⑦喝.N践9ω旧註ω怠ぎゴ“瞑壁α毛。詳①旨g7轟興ω3鷺ω惹ωωΦ拐。冨沖窪添﹀口器蒔刈ゆα﹂露90∩唖。。謡・罰ヨΦGりけ塾ω≡︵言∪Φ三ω。臣碧氏レΦ舞 ⑧芝・ωO旨びO詳唖U三頭鼠Z暮一〇P巴。評050日δコ、おωO●小島昌太郎監修訳﹃三つの経済学﹄・昭和八︵一九三三︶年・三一五頁。 目G。Q。Φ●⋮OFQ◎帥αq≦二陣、ピ。ゆq蒔−鉾ゆ9L≦①菌。鮎①巳①ξρ一.︾鼠一﹂。。刈Q。し芝.芝二面ロρ寓Φ白鼠①巳①写ρbっ.︾乱塾切①α。鼠律ユ興O血馨萄”塗Φ﹃ ⑨ ︾・○詳聞①攣q段Φ誘口。げ虞コαq蛸げΦ巴ユΦ目切Φαq二寵α興Qり3臨馨一ぎ一。。ざし ︾●ζ①律NΦぎO霧〇三〇馨ρ↓び8岱Φ¢昌鳥↓①9三ズユ興望p⊃匡馨一ぎ ωoげ練審P鵠.︾g巨.一Q。O㎝・ ⑬O・園けヨ①ロジN霞↓7①oユ①α興ω鼠器寓﹃鐸お日典幽﹃国①α①口盟・︾鼠ω鴛Nρピ一。。刈伊ω﹄⑪。。1⑩・訳・四四四一五頁。 ドイツ社会統計学は、宮庁統計事業の整備充実が不十分なために本来的には官庁統計事業の課題であるドイツ国民の数 量的現実像の形成ということを直接に自己の課題した。ところで官庁統計、特に国家統計は初め活動を制約されていた が、次第に活動分野をひろげ内容を改善する。このことは、ドイツ社会統計学がドイツ国民の数量像の形成ということを 直接に自己の課題とする理由を稀薄にする。けだし、ドイツ社会統計学は相矛盾する課題の上に自己の存立をかけていた のである。 そればかりではない。一九世紀より二〇世紀への世紀の転換がその指標となる、かの産業資本主義より独占資本主義へ の社会的経済的地盤の変化は、政治および哲学・社会科学等の上部構造に大きな変化をもたらし、ドイツ社会統計学にも 直接間接の影響をおよぼさざるを得なかった。とくに注了すべぎものとしては、第一に、国家と独占資本の結合による経 済政策の積極化、経済政策の基礎として経済統計の重要性の増大、経済統計の需要増大およびこれに照応する経済統計の 拡充展開、これである。第二は、独占における統計の使用の開始および展開である。 一連の統計学者はこれを経営内部統 の 計および経営外部統計としてとり上げる。第三は、社会科学における分化の促進、実証的量的方向への関心の増大であ 後期ドイツ社会統計学研究序説 三三 業および営業調査、疾病保険統計等、新規統計調査の開始および他の行政機関の調査ならびに編集業務の吸牧を通じて活動論叢を拡張するが、この勢 ①一入七二年に創設された帝国統計局の活動は始めは著しく限られていたが、八○年に貿易統計の吸牧によって大きく拡張した。ついで犯罪統計、職 また余りにも過剰であった。ドイツ社会統計学は再編成され新しい展開を用意されねばならなかったのである。 る。 ﹁実体科学としての統計学﹂を主流として成立したドイツ社会統計学は、この事態に対してあまりにも狭溢であり、 後期ドイツ社会統計学研究序説 三四 いはこの世紀に入っても継続する。一九〇二年には﹁労働者統計部﹂が設置される。第一次世界大戦は官庁統計事業を大きく拡充させる。第一次大戦 られた。NQげジω訂二ω二ぎ鋤ヨ葺。ゴρぎ“自雪山白。.9噸ω胃内簿ω芝・﹁野︾象rしdq・ω・ 後、経済統計を中心として、官庁統計事業の拡充が進む。労働統計に関する業務が連邦統計局より離れた。景気研究所が連邦統計局の管理の下に設け 一ΦDQ①’ ②属の旨ρ切。窪①粂三はωoげ巴二同。冨ω3二ω=ぎ6トひ切二〇巴ヨ①9uD8諺け騨ぎ閃口σ二ぞロ己芝銭①口訂巳巴のげ9ユ9︾一︾幽いδ=.O︾段ド れることを明かにしている︵ωON一〇一〇晦陣Φ 仁天馬 ω回国け一ωけ一犀℃ H㊤一bニー Qq巳刈.頃鴇︶。ーシ子、、ット︵団・QQoび唐一象︶は統計学者と協同して活動すべき社会研究 ③ジージェックははその初期の労作において社会学者の研究方法論を詳細に分析し、統計に対する社会学者の関心の増大が一九世紀末より顕著にみら 学会の創設を提唱した。ドイツ統計学会 ︵Oo¢盆。げ①の齢p匡ω二ωo冨OΦω巴尻。ず餌ヰ︶ が﹁社会学会﹂の﹁部門に入った。経済学において歴史的帰納 的研究方法と演釈的研究方法との接近が見られるようになる。第一次大戦後議訳的景気観測が急速におこり盛行する。 かくて二十世紀に入ると、ドイツ社会統計学は変容しはじめる。マイヤーによって代表される、そして、統計学を一個 独立の社会科学とする主流的見解は衰退し始める。 ﹁統計学は方法であるかそれとも科学であるか﹂の論議がはなやかに 展開された。この論議は明確な結着をみせなかったとはい、兄、 ﹁実体科学としての統計学﹂の権威を失墜させるのに十分 なものをもっていた。第一次世界大戦と第二次世界大戦とを結ぶ約二十年の間ドイツ社会統計学の理論的代表者であった ジージェックにはもはや﹁実体科学としての統計学﹂を主張するのに往年のマイヤーにおけるがごとき迫力と確信がな い。しかもその﹁結果科学としての統計学﹂︵。。け盛ω鼻聾卑σq①び凱。・鼠器窪宥冨εの主張は伝統的実体科学的見解の換骨奪胎以 外の何者でもない。次の世代をみよ−一主張に多少の強弱と不一致があるとはいえ、統計学を形式科学とすることにおい てはもはや動かし難いものをもっているように思われる。フラスケムパーは統計学を明確に﹁形式科学﹂と規定する。ド イツ社会統計学は、いまや、 ﹁実体科学としての統計学﹂より﹁形式科学としての統計学﹂に転換したのである。 ﹁形式科学としての統計学﹂への転換にともなって、統計方法論が統計学の全体系を占領する。統計方法論が統計学そ のものとなる。そしてこの場合、一般統計方法論が統計方法論の中核をなす。一般統計方法論は﹁実体科学としての統計 学しでは斯学の研究方法論として従属的地位におかれ、多くの制約をうけていたが、いまや解放され、自立的運動をゆる され、統計学全体において主導的地位を与えられる。 さて、統計調査論はドイツ社会統計学の統計方法論においてかつては支配的な地位をしめていた。ところが二〇世紀に 入ると事態は変化する。統計利用論の成長とともに統計調査論の独占的地位は破られる。それだけではない。統計利用論 はその展開にともなって統計方法論においてもつ地位を次第に高め、やがて主体的地位を確保するのに反し、統計調査論 は従属的地位に降り、内容を貧弱化せずにはおかない。 ﹁形式科学としての統計学﹂はかかる構成において、社会科学の方法論的補助学となり、また立法・行政および経営等 の社会的実践に結合する。 以上、要するに、二〇世紀に入って、特に第一次世界大戦後において、ドイツ社会統計学は学問的性質においても学問 ④ 的内容においても根本的な転換を行っているといわなければならないのである。 八四−九七頁。ρじd鉱一〇斜δ叶&①ooけ簿一ω江押①ぎΦ芝﹃ωΦ富。冨沖‘<Φ畦白巴町¢コαq信&Qq8二・α二犀曽お一ω∴℃臨NコΦきじuΦ旨Φ同犀qコ鵬⑦コNoαΦ﹁ω霞97 ①﹀.閤p鼠ヨ。§層↓冨。風①=a冨Φ夢&窪臨霞ω什9。器賦ぎ一壷ω.Qob心一O凱言鋤胃−↓冨。諾駐。冨ω冨二二ぎb。●﹀慧㌘お唇ω・巽10。.訳・ 蹄9。瞬①二曾象①ω訂二。q梓時Φ一コΦ]≦Φ芽。α①oα興≦6器鵠9錬梓”冒﹂・Z讐.ロ●ωびじd島。督Q。.”一㊤二● ω冨鉱ω鉱。α9ΦNp三魯①暮ω叶ΦげΦpおωSω.憲Q。.凍・⋮U一①<①議9一aΦ冨口切Φ鵬四一hhΦ<oづ..ωけ鉾δ鋤犀..場菊①︿置。ユΦ囲.ぎ8旨ρ。隊。コ巴6∩富賦ω汁δ皿9 ②N冒。ぎO讐コ締同器ユ巽Q自剃p藻二ぎト。﹀ξrおb。ρω“b。b。H一ω.竹田武男訳﹃応用統計学﹄・大正一四︵ 九二五︶年・有斐閣刊・ニー六頁。≦δ 三五 ③麟pω冨ヨ唱Φ﹃・の霊民二絵良Φ同ω什鉾圃ωユぎ目①旨H”≧一膳。日Φぎ①曽p蔚ユ﹃b。︾9hドおお曾ω﹂ら。鱒大橋11足利訳﹃一般統計学﹄・昭和二八︵一九 >目ω09おG。。。も・認。。・拙稿﹃統計学の学問的性質への一つの歴史的接近﹄・彦根論叢・第五八号・昭和三四︵一九五九︶年・一頁以下参照。 五三︶年・農林統計協会刊・七頁。 後期ドイツ社会統計学研究序説 後期ドイツ社会統計学研究序説 三六 その生成展開の過程においてドイツ社会統計学が学問的性質および内容において経験した変遷は極めて大きなものとい うべぎであろう。しかもわれわれはこの変遷の中に太い連続をみる。かの大きな変遷は社会統計学が歴史的に形成される 過程における姿態転換ででもあったのであろうか。 そこでわれわれは、第一次世界大戦を基準にして、ドイツ社会統計学を前後の二期にわける。前期ドイツ社会統計学で は、﹁実体科学としての統計学﹂に統計調査論を中心とする統計方法論を従属させる主流的構想が、﹁形式科学としての統 計学﹂の見解と表裏交錯する。筆者は、マイヤーの統計学とリューメリンの統計学にその代表的形態をみる。後期ドイツ 社会統計学は次の特徴をもつ一 ω ﹁実体科学としての統計学﹂より﹁形式科学としての統計学﹂への転換。 ㈹ 統計方法論の地位の向⊥と内容の充実。 ㈲ 一般統計方法論が統計学の全体系の主導的地位を占め、統計方法論が統計学そのものとなる。 ⑭ 統計調査論の再編成。 の 統計利用論の展開。 ジージェックの統計学およびフラスケムパーの統計学は、この代表的形態とみることができる。ジージェックの統計学 は﹁実体科学としての統計学﹂より﹁形式科学としての統計学﹂への過渡的形態として、同時に、統計調査論の再編成 と統計利用論の発足として。フラスケムパーの統計学は﹁形式科学としての統計学﹂の一応の完成形態として、同時に、 数理統計学的成果の批判的受容の代表的形態、統計利用論の展開を本格化したものとして。かかるものとして両者はそれ ぞれ指標的な意味をもつ。 後期ドイツ社会統計学については、それが自己の課題を、いかに、またいかなる内容においてとらえて、その体系と内 容を構成したかを明らかにすることが問題になる。 第二の問題は、後期ドイツ社会統計学が、社会科学的領域における統計方法をいかに展開したか、またこの展開をも含 めて、社会科学的領域における統計方法をいかに基礎づけたか、そしてこれらの方向において、いかなる寄与をなしたか、 またこの寄与にはいかなる限界があるか、を明らかにすることである。 第三の問題は、後期ドイツ社会統計学の上記の方向における寄与とその限界を規定制約する条件である。この条件とし て筆者は特に後.期ドノーツ社会統計学が、祉会11客体と方法とをいかに関係させたか、ということを重視する。それは、客 体と方法とをいかに関係させるかということが、累増統計学においても、成果とその限界を強く規定するからである。 三七 以上、筆者は、後期ドイツ祉会統計学について三つの問題を提起した。これに対する解答はこれを別電にまたなければ ならない。 後期ドイツ社会統計学研究序説
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