2 巨視的状態と微視的状態

機シ:統計熱力学 2015 (松本)
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2
巨視的状態と微視的状態
熱力学では,内部エネルギー・温度・圧力など,通常の手段(=巨視的な実験)で測
定される 熱力学量 thermodynamic quantities の存在がほぼ自明のこととして仮定され
ている.実際に,多くの熱力学量は,天秤・温度計・圧力計など身近な手段で直接的あ
るいは間接的に測定されるものである.
(もちろん,内部エネルギーやエントロピーな
ど,直接に測ることが難しい量もたくさんあるが…)これらの熱力学量を別名,巨視的
変数 macroscopic variables と呼ぶ.いくつかの 巨視的変数が指定 されて系が一意的 例えば,
「1 atm, 300 K, 1 m3 の
空気」
に定まった状態が,巨視的状態 macroscopic state である.
熱力学で学んだように,ごく少数の巨視的変数を指定するだけで,巨視的状態はただ
1つに定まる.
Josiah Willard Gibbs (1839–1903)
米国の数学者・物理学者,Yale 大
学教授.熱力学・統計力学の体系
化やベクトル解析の開拓に力を尽
くした.
(熱力学の復習)ギブスの相律 Gibbs’ phase rule
c 種類の成分からなる物質が r 個の相にわかれて平衡・共存状態にある場合,自
由度 f は
f =c−r+2
(2–32)
である.ここで,自由度 degree of freedom とは,与えられた平衡条件を満たしな
がら,自由に変えることのできる巨視的変数の数である.
(Wikipedia 日本語版より)
18 世紀中葉,米国の大学は,科学
例1:酸素と窒素の混合気体(c = 2,r = 1)の自由度は,f = 2 − 1 + 2 = 3 である.例えば, に殆ど関心を示さず,古典に偏重
していたから,ギブズの講義は,学
温度・圧力・組成比を自由に変えることができる.
生の興味を殆ど引かなかった.彼
の業績に興味を持ったのは,他の
科学者,特に,スコットランドの
例2:純水 (c = 1)が,気体・液体・固体の3相共存状態 (r = 3) をとるときの自由度は, 物理学者マクスウェルだった.ギ
ブズが論文を発表したのが,ヨー
f = 1 − 3 + 2 = 0 である.従って,温度も圧力も1つに定まる.これが,よくご存じの ロッパでは余り読まれていない無
名雑誌であったため,評価される
三重点 triple point (T = 273.16K,P = 610Pa) である.
ようになるのは遅く,ギブズの考
えがヨーロッパで広く受け入れら
れたのは,論文がオストヴァルト
により書籍の形でドイツ語訳され
(1888 年),ルシャトリエにより
しかし,前章で述べたように,ほとんどの場合において実際の系は極めて多数の粒子 フランス語訳されて(1899 年)か
らだった.
(素粒子・原子・分子など)で構成されている.このため,巨視的状態を指定しても,な
お様々な異なる状態(粒子分布)をとることができるが,我々が観測できるのは通常,
その 平均 だけである.個々の粒子レベルの状態のことを微視的状態 microscopic state ここで,前章の結果,つまり「粒
子数が多くなると,平均からのず
と呼ぶ.この章では,微視的状態と巨視的状態の関係を,簡単な系を例にとって調べる れは相対的に小さくなる」,を思
ことにしよう.
い出してみよう.
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2.1
問題設定:自由電子気体
微視的状態を厳密に考えることのできる典型例として,
一辺が L の立方体中に閉じこめられた(複数個の)電子の系
を考えよう.本当はもちろん,電子間にはクーロン力が働くのだが,ここでは問題を簡
単にするため(手で解けるようにするため)に,電子間の相互作用は無視 できると仮 これを,自由電子気体 free electron
gas モデルなどと呼ぶことがある.
後の章で詳しく見るように,金属
や半導体のモデルを考える出発点
となる.
定する.
2.2
量子力学の復習
1つの粒子に対する,古典力学の Hamiltonian H は
H(~r, p~, t) ≡
p2
+ V (~r, t) = E
2m
(2–33)
である.ここで,~r は位置ベクトル,p
~ は運動量ベクトル,m は粒子質量であり,V は
外場のポテンシャル,E は全エネルギーである.量子力学に移行する ためには,位置 ここでは,座標空間での量子化(=
運動量を座標での微分演算子に置
も運動量も,粒子の波動関数 wave function に対する演算子 operator として扱い,次 き換える)を行っているが,逆に
運動量空間で量子化することも可
能である.詳しくは量子力学の授
業や教科書を復習して下さい.
の置き換えを行う:
~r
→ ~r
(2–34)
∂
∂~r
p~ →
−i −
h
t →
t
(2–36)
∂
i−
h
∂t
(2–37)
E
→
(2–35)
h
である.
2π
ここで,h は Planck 定数,
6.6256 × 10−34 J·s である.なお,
−
h は「Dirac の h」とも呼ばれる
らしい.
1電子波動関数を ψ(x, y, z; t) とするとき,この置き換えにより ψ の満たすべき方程 −
h≡
式は,次のようになる:
[ 2
]
h
∂
∂2
∂2
∂
−
+ 2 + 2 ψ + V ψ = i−
h ψ
2m ∂x2
∂y
∂z
∂t
−2
(2–38)
これが,有名な Schrödinger 方程式 であり,波動関数が満たすべき偏微分方程式を表 Erwin Rudolf Josef Alexander
Schrödinger (1887–1961) オース
している.古典力学における Newton 運動方程式と同じ役割をする基礎方程式である. トリア生まれの理論物理学者.ベ
ポテンシャル V が時間変化しない場合は,波動関数を位置だけの関数と時間だけの
関数の積で表すことにより,変数分離することができる:
ψ(x, y, z; t) ≡ u(x, y, z)T (t)
という形を仮定して,式 (2–38) に代入すると






i−
h
d
T
dt
ルリン大学時代に,波動力学形式
の量子論を完成,1933 年にノーベ
ル物理学賞を受賞した.ナチスの
台頭を逃れてアイルランドに亡命.
(2–39)
= ET
[ 2
]

−2

h
∂
∂2
∂2


 −
+
+
u + V u = Eu
2m ∂x2
∂y 2
∂z 2
(2–40)
が得られる.ここで,E は定数であり,エネルギー固有値と呼ばれる.最後の式を,時
間に依存しない (time-independent) Schrödinger 方程式という.
先ごろ訪れた Wien 大学に置かれていた Schrödinger
の胸像.下部に,Schrödinger 方程式が彫り込ま
れているのが見える.
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自由電子気体の微視的状態と多重度
2.3
直方体の箱に閉じこめられた自由電子の状態は,容易に計算できる.箱内部ではポテン
シャル V がゼロと考えると,波動関数 u(x, y, z) に関する時間に依存しない Schrödinger
方程式
−
−2
h
∇2 u = Eu
2m
(2–41)
の解のうちで,箱の壁のところでゼロになる ものを求めればよい.
以下,簡単のために,一辺 L の立方体(壁の位置を,x, y, z = 0, L とする)にとじ
波動関数の絶対値の2乗 |ψ|2 は,
物理的には,その位置における 粒
子の存在確率密度 を表している
と解釈されている.
「箱に閉じこめ
られている」ということは,箱の
外の存在確率はゼロであることを
意味する.さらに,存在確率は空
間的に連続関数でなければならな
い(ただし,折れ曲がりは許され
る)という物理的要請があるため,
壁のところで ψ = 0 である必要
がある.T (t) がゼロだと全空間
でゼロになるので,結局,u が壁
のところでゼロでなければならな
い.詳しくは,量子力学の教科書
を参照のこと.
こめられた電子を考えると,もう一度変数分離することによって,結果は次のように
なる:
wnx (x) · wny (y) · wnz (z)
( πn )
r n = 1, 2, 3, . . .
wn (r) = sin
L
)
h2 ( 2
E = Ex + Ey + Ez =
nx + n2y + n2z
2
8mL
u(x, y, z) =
(2–42)
(2–43)
(2–44)
よって,よく知られているように電子のとり得るエネルギー E は離散的となる.
同じエネルギーを与える (nx , ny , nz ) の組み合わせが複数個あることに注意しよう.
【問】 E の表式,(2–44),が,確
かにエネルギーの次元を持ってい
ることを確かめよ.
例えば,(1, 2, 3), (1, 3, 2), (2, 3, 1), . . . はいずれも同じエネルギーを与える.同じエネル
ギーを与える組み合わせの数を多重度 multiplicity あるいは 縮退度 degeneracy とい
う.図 2–4 に,多重度がエネルギーによってどう変わるかの例を示した.低いエネル
ギーのところだけを見ていると不規則さが目立つが,広い範囲(高いエネルギーまで)
で眺めると,規則性があるように見える.
8
左の図は,次のような簡単なCプログラムを作成して,計算したものである.
2回生の計算機数学などで学んだ知識で,およそ理解できるだろう:
7
Multiplicity
6
5
4
3
2
1
0
Multiplicity
0
5
10
15
Energy
20
25
#include <stdio.h>
30
50
45
40
35
30
25
20
15
10
5
0
#define
#define
0
50
100
150
Energy
200
250
200
40000
int main( ) {
static int state[EMAX];
int i, nx, ny, nz;
FILE *fdata;
300
140
120
Multiplicity
NMAX
EMAX
100
80
for (i=0;i<EMAX;i++) state[i]=0;
60
40
20
for (nx=1;nx<NMAX;nx++) {
for (ny=1;ny<NMAX;ny++) {
for (nz=1;nz<NMAX;nz++) {
i=nx*nx+ny*ny+nz*nz;
if (i<EMAX) state[i]++;
} } }
0
Multiplicity
0
500
1000
1500
2000
Energy
2500
3000
500
450
400
350
300
250
200
150
100
50
0
0
5000
fdata=fopen("numstate.dat","w");
for (i=0;i<EMAX;i++) fprintf(fdata,"%7d %7d\n",i,state[i]);
fclose(fdata);
10000 15000 20000 25000 30000
Energy
図 2–4: 立方体中の電子の多重度.エネルギーは
h2
8mL2
を単位としている.
return 0;
}
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この規則性を大まかに説明してみよう.まず,多重度密度 g(E) を次のように定義 density of multiplicity. また,状
態密度 density of states (DOS)
と呼ばれることもある.
する:
エネルギーが E と E + ∆E の間にある微視的状態の数 ≡ g(E)∆E
nz
E は式 (2–44) で与えられるから,
8mL2
8mL2
2
2
2
E
<
n
+
n
+
n
<
(E + ∆E)
x
y
z
h2
h2
(2–45)
nx
ny
となるような自然数
√(nx , ny , nz ) の組の数を数えればいいことになる. すなわち,右図
8mL2
1
を参考に,半径が
E の球殻の体積の を求めればよいことがわかる.
h2
8
(
)3/2
(
)3/2
4π 8mL2
4π 8mL2
球殻の体積 =
(E
+
∆E)
−
E
式変形において,|x| 1 の場
3
h2
3
h2
合に
]
(
)3/2 [(
)3/2
4π 8mL2
∆E
(1 + x)a ∼ 1 + ax
=
E
1+
−1
2
3
h
E
と近似できることを使った.
(
)
[(
)
]
3/2
4π 8mL2
3∆E
'
E
1+
−1
3
h2
2E
(
)3/2
8mL2
∆E
= 2π
E
2
h
E
=
この
1
8
211/2 πm3/2 L3 E 1/2
∆E
h3
(2–46)
= 2−3 が多重度密度である.また L3 は箱の体積 V であるから,以上をまとめ
ると
g(E) '
25/2 πm3/2 V √
E
h3
(2–47)
確かに,図 2–4 から,g(E) は E の平方根にほぼ比例しているように見える.
2.4
もう一つの例:磁場中の孤立スピンの集団
多重度密度 g(E) を比較的簡単に求めることができる別の例として,孤立スピン系を
考える.
素粒子は,スピン角運動量 spin angular momentum をもっている.これは,粒子の
「公転運動」に対応するの
自転運動 の量子力学版であると考えることができる.以下,スピンについて簡単にまと なお,
は軌道角運動量 orbital angular
momentum である.
めておく:
−
スピン角運動量はベクトル量 ~s であるが,その大きさは一般に,|~s|2 = s(s + 1)h
の形
2
(
に書くことができ,s は素粒子の種類によって決まっている半整数 s = 0,
1
, 1, 32 , 2, . . .
2
)
である.例えば,電子・陽子・中性子は s = 12 ,光子は s = 1 である.
~s のある方向の成分を考え,これを sz とすると,sz には
−
−
−
−
−sh
, − (s − 1)h
, · · · , (s − 1)h
, sh
の 2s + 1 個の固有状態が存在する.電子のように s =
1
2
の素粒子は,2つの固有状態が
あることになる.これを,古典力学的に「右回りと左回り」と考えてもよいし,角運動量
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(参考)電子スピンを利用した新しいデバイス
ベクトルの向きから「up spin と down spin」と考えてもよい.
以下,電子のスピンを考える.外部から磁場を加えた場合,スピンが磁場と平行で
あるか,反対を向いている(反平行)かでエネルギーが異なる.すなわち,電子は1つ
1つが小さな磁石であると考えることができる.多くの原子では,± 12 の電子がペアと
外部磁場の中で,このような不対
なって見かけ上はスピンがゼロとなるが,何らかの理由によりペアを作っていない電子 電子は電磁波(マイクロ波)を吸
(不対電子 unpaired electron)がある場合には,各原子が「磁石」として働くことに 収して高いエネルギー状態に遷移
する.この原理を用いて,物質中の
不対電子(ラジカル)を検出するこ
とで,物質を同定することができ
る(電子スピン共鳴法,Electron
Spin Resonance).
なる.このように電子のスピンは,物質の磁性の原因として重要である.
さて,静磁場 B 中に N 個のスピンが置かれているものとする.各スピンは up また
は down の2つの状態をとることができるとする.スピン同士の相互作用は無視でき
る (=孤立スピン) と仮定し,スピンの持つ磁気モーメントの大きさを µ とすると,こ
の系のエネルギー E は次のように表される:
E = Nup · (−µB) + Ndown · (+µB) = − (Nup − Ndown ) µB
(2–48)
ここで,Nup , Ndown はそれぞれ up スピン,down スピンの数である.エネルギーが
最小 (E = −N µB) になるのは,すべてのスピンが up(磁場と平行)な場合であり,エ
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ネルギーが最大 (E = N µB) になるのは,すべてのスピンが down(磁場と反平行)な
場合である.エネルギーの最大値が存在することが,先ほどの「箱の中の自由電子系」
の場合と大きく異なる点である.
ある E に対して,その多重度を計算することは容易である. すなわち,N 個のスピ 以下の議論では,スピンの総数 N
ンのうち,Nup 個が up であり,残りの Ndown 個が down なのだから
g(E) =N CNup =
N!
Nup !Ndown !
(2–49)
は十分に大きいと考えている.こ
のため,エネルギー E に比べて,
その最小単位 µB は非常に小さく,
エネルギーは連続的に見えると仮
定している.
であり,式 (2–48) と N = Nup + Ndown から
Nup
=
1
2
Ndown
=
1
2
(
(
N−
N+
)
E
µB )
(2–50)
E
µB
であるので,結局,
g(E) = (
E
N − µB
2
N!
) (
)
E
N + µB
!
!
2
(2–51)
となる.
この2項分布を,第1章と同様にして正規分布で近似すると
 ( )2 
√
E
µB
2 N


g(E) '
2 exp −

πN
2N
(2–52)
図 2–5 に g(E) を片対数プロットした.E = 0 にピークがあること,また N の増加
にともなって,急激に g(E) が増大する ことがわかる.
10
9
10 8
10 7
Multiplicity
N がアボガドロ数程度になるとど
うなるか,考えてみよう.
N=30
20
10
10 6
10 5
10
4
103
10
2
10
1
-40 -30 -20 -10
0 10
E / µB
20
30
40
図 2–5: スピン系の多重度.粒子数 N の増加とともに急速に大きくなるので,縦軸は
対数プロットしている.
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2.5
この章のまとめ
(1) 同じ巨視的状態をとる数多くの微視的状態が存在する.
(2) 特に,同じエネルギーとなる微視的状態の数(密度)g(E) を多重度密度あるい
は縮退度という.
(3) 簡単な系については,g(E) を厳密に求めたり,近似的に評価したりすることがで
きる.
次の章では,この多重度を手がかりにして,接触している2つの系の 平衡状態 につい
て考えることにする.
演習
巨視的状態を指定するのに,エネルギーだけが使われるのではない.簡単な例
として,長さ l の棒が N 本,1次元的につながった鎖を考える.それぞれの棒は
図のように2通りの向きしか考えないことにすると,鎖の全長 L は,右向きの棒
と左向きの棒の数で決まることになる.このとき,巨視的状態は長さ L で指定さ
れることになる.L の関数として多重度 g(L) を求めよ.
これは,ゴムなど高分子集合体の弾性を説明するための簡単な物理モデルであ
る.
l
L=nl