認知症の歴史的 背景と定義 第 1部

第
1部
認知症の歴史的
背景と定義
3
Ⅰ
第
章
認知症の歴史的背景と
定義
はじめに
認知症(dementia,Demenz,démence)は,特異な病像のひとつとして,
あらゆる精神機能の荒廃した状態(ドイツ語でいう Verblödung がその状態を
よく示している)を示すものとして用いられてきた用語である.その場合,
その背景にある疾患を問わない.
歴史の経過のなかで,種々のタイプの認知症のうちで(たとえば,Kraepelin
の「早発性痴呆」概念にみるように,統合失調症の末期は荒廃した認知症に
至るという考えは一般的であった)
,慢性の器質性脳疾患に伴う認知症は器質
性認知症と特記されるようになった.現在,認知症といえば,注記しないか
ぎり,もっぱらこの器質性認知症を指すようになってきた.しかし,それは
比較的最近のことである.現代の人たちは,認知症=器質性認知症という考
えを当然のことと思っているが,歴史的にいえば,そのような考えは 20 世
紀になってからみられるようになってきたことは,歴史的な論文を読む際に,
念頭においておく必要があるであろう.
しかし,以下本稿では話題を限定して,ここで述べる認知症は従来いわれ
てきた器質性認知症のことを指すとしておきたい.
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第Ⅰ章 認知症の歴史的背景と定義 Ⅰ.器質性認知症の歴史的背景
DSM−Ⅲ−R に代表される現代的な認知症の定義,あるいは治療可能な認知
症概念等については後述するとして,いわゆる器質性認知症を主体とした個々
の疾患がどのような歴史的経緯をとって単一疾患として認められるようになっ
てきたのかについてここで簡単にふれておく必要があるであろう.器質性認
知症(the organic dementia)という一般概念があるわけでなく,個々の疾患
を通して具体的な状態像として現れる器質性認知症(an organic dementia)が
存在するにすぎないからである.
ここで,基本的に重要なことは,1822 年に A. L. J. Bayle によって進行麻痺
が臨床的概念として確立して以来 19 世紀の後半に至るまで,器質性認知症
は 2 つの疾患,つまり進行麻痺と「老年痴呆」
(歴史的用語として,括弧付
きの痴呆という用語を用いる)に分類され,とくに,50 歳以前に発症する器
質性認知症は進行麻痺,50 歳以降では「老年痴呆」と診断されることが通常
であった.しかし,この 2 つの疾患は,今にしてみれば,種々の疾患群を包
含していたいわゆる集合概念であって,歴史の経過とともに,これらの疾患
から現代的装いをもった疾患群が分離されてくる.すなわち,進行麻痺とさ
れる疾患群から血管性認知症が,
「老年痴呆」とされる疾患群からアルツハイ
マー病とピック病が抽出されてくる.この歴史的経緯はきわめて重要で,後
世のわれわれはその歴史的背景をきちんととらえておかなければならない.
1 .血管性認知症
1891 年,フランスの医師 M. Klippel は,臨床的に進行麻痺と診断されて剖
検に付せられた症例の組織学的検索を行い,その特徴によって進行麻痺を以
下の 3 群に分類した1)
(以下,本文でふれられる個々の原著者たちの論文につ
1 paralysie
いてはここでは引用しない.詳細は,文献 1∼3 を参照のこと)
.
2 paralysie générale arthritique,
3 pseudo−paralysie générale
générale pure,
3 群が,進行麻痺の病変がなく,脳内の動脈硬化
arthritique で,このなかの
性変化とそれによると思われる脳実質の変化が主体となっていることを明ら
3 群が後の動脈硬化性精神障害に位置づけられることになる.
かにした.この
認知症の歴史的背景と定義 5
また,1894 年,イエーナ大学の O. Binswanger 教授が,臨床的に進行麻痺と
診断された群に真の進行麻痺と区別しうる症例が混在していることを指摘し,
その群を,arteriosklerotische Hirndegeneration と Encephalitis subcorticalis
chronica progressive の 2 型にわけた.後者が,後世,ビンスワンガー病とし
て脚光を浴びることになる疾患型であるが,Binswanger は,この特殊なタイ
プを提唱したのではなくて,臨床的な進行麻痺群に,脳内の血管性変化によ
る病的機転が混じっていることを指摘したのである.
しかし,血管性認知症概念の嚆矢は Klippel と Binswanger であったとして
も,血管性認知症の臨床型,臨床症状や経過の特徴,つまりこの疾患の全貌
を明らかに,血管性認知症の疾患概念を樹立させたのは,1895∼1902 年の間
になされた A. Alzheimer による一連の業績によってであった.Alzheimer は,
後述するアルツハイマー病によってその名を残し,彼の業績の中心はアルツ
ハイマー病の原著例の報告にあるかのように思われているが,精神医学史か
らいえば,彼の偉大な業績は,血管性認知症(当時は,動脈硬化性精神障害
と呼称されていた)の臨床病理学的研究と進行麻痺の神経病理学的研究であっ
たことはここで強調されてよい.Alzheimer による研究後,E. Kraepelin,W.
Spielmeyer,C. Ladame,D. Rothschild などの仕事により,血管性認知症概念
が確立されていくが,その詳細は別稿に譲らざるを得ない1).
2 .ピック病
19 世紀末までの精神医学界では,「老年痴呆」は,高齢者に発症する認知
症を主症状とした疾患で,大脳皮質がびまん性に障害されることもあって,
この疾患では巣症状は出現しないのが特徴であるとされていた.その意見を
強く主張したのが,ブレスラウ大学の C. Wernicke 教授で,当時のドイツ精
神医学界での大御所であった彼の意見は定説として広く受け入れられていた.
しかし,その定説に反して,臨床的,神経病理的(ただし,主として肉眼
所見による)にみて「老年痴呆」と思われる症例に,超皮質性感覚性失語と
いう巣症状が認められた症例が,1892 年,プラハ大学の A. Pick 教授によっ
て報告された.臨床症状のみならず,神経病理学的にみても,血管性障害に
よらない限局性の脳萎縮が「老年痴呆」例にみられたことも強調された.そ
6
第Ⅰ章 認知症の歴史的背景と定義 の後,Pick 自身によって,1900 年初頭までに 8 例の類似の症例が報告され,
Pick のいう「限局性脳萎縮」
(Picksche umschriebene Hirnatrophie)という概
念は,
「老年痴呆」の一特殊型として,広く知られるようになった2).たとえ
ば,1911 年に刊行された Kraepelin の『精神医学教科書,第 8 版』の「老年
期,退行期の精神障害」の章でも,Pick の提唱した概念は紹介されている.
その後の 1926 年,大成・Spatz によって,Pick の「限局性脳萎縮」症例
は,ピック病と称されることになったことについてはよく知られている.
3 .アルツハイマー病
1906 年の第 37 回南西ドイツ精神医学会で,ミュンヘン大学の Alzheimer
博士は臨床的に「老年痴呆」と診断された症例の剖検所見で,神経細胞内に
ビルショフスキー嗜銀染色で黒色に染まる封入体がみられる所見を発見し,
「特異な大脳皮質の変化」について,報告した.その簡単な抄録が翌年の 1907
年にドイツの抄録誌に掲載されたが,その詳細は,1910 年の G. Perusini の
論文によって明らかとなった.ここで初めて,この症例が,4 年の経過で亡
くなった 55 歳の女性 D. Auguste であることが判明することになる.
その後,類似の症例が報告され,1911 年,Alzheimer の師である Kraepelin
が『精神医学教科書,第 8 版』で,アルツハイマー病と命名したことは周知
のことであるが(Alzheimer の報告から Kraepelin の疾患提唱に至るまでの詳
細は別稿3)を参照のこと),そこで記されたことは,「アルツハイマー病の特
徴は,臨床的には,病初期から,記憶障害,思考貧困,錯乱,人物誤認,幻
覚妄想がみられ,さらに,不穏,多弁,独語,不潔などの症状も出現,徐々
に疾患は進行し,ついには状況の認識ができず,高度の認知症状態に至る.
巣症状も目立ち,失象徴,失行のほかに,著明な言語障害(失語)がみられ
るのが特徴である.錯語,保続現象があり,最後には,言葉が失われ,言語
理解も喪失してしまう.また,全身の筋強直も認められる.病理学的所見と
しては,著明な脳萎縮があり,組織学的には,神経細胞の高度の消失,残存
した神経細胞内の嗜銀性の線維束(神経原線維変化)と多数の老人斑が特徴
である」.
Alzheimer が 1906 年に報告したときは,どちらかというと,「特異な」神
認知症の歴史的背景と定義 7
経病理学的所見の発見に重点がおかれていたが,Kraepelin がアルツハイマー
病という疾患概念を提唱したときは,むしろ初老期発症に加えて,特徴的な
臨床症状や認知症のあり方が重視されていたことは,注目しておく必要があ
る.つまり,Kraepelin においても,いわゆるアルツハイマー病は,神経病理
学的には「老年痴呆」のカテゴリーにありながら,臨床的な特徴により,ひ
とつの疾患単位として提唱されたという認識にあったことは特記してよい.
もちろん Alzheimer も,自らが報告した症例は,独立した疾患というより
は,
「老年痴呆」のひとつの亜型,あるいは特殊型に属するという考えを抱い
ていた3).
Ⅱ.認知症の定義
一般的に,認知症は,
「後天的な脳疾患の慢性症状として,知能,記憶,判
断,抽象能力,注意力,思考,理解,言語等の高次の精神機能の障害が出現
し,日常生活に支障をきたす状態をいう.さらに,これらの症状に,感情,
意欲,性格等の障害が加わることがある」と定義される4).種々の教科書を
見ると,それぞれの文言は異なるものの,おおよそは,上記のようなスタイ
ルで,認知症が定義される.そこでの要点は,障害される心理学的要素,高
次の精神機能の障害,慢性・進行性の経過,感情・意欲・性格の二次的変化
の項目が含まれることである.
障害される心理学的要素を単純に並列するのか,あるいはそれぞれの要素
に重みをつけ障害される重要な心理学的要素を強調するのかによって,認知
症の定義は異なってくる.
現代精神病理学の基礎を築いた K. Jaspers は,認知症を知能の障害として
位置づけ,まず,知能の定義から始めている5).知能は,
「一切の天賦,生活
課題に適応するために何らかの作業に用いられ,かつ合目的的に利用される
一切の道具」をいい,一般的には知能の中核因子は判断力であること,また
知能の予備条件(記銘力や記憶,疲れやすさ,運動現象,発語装置の機構な
ど)や知識(学習機能)
,生来の賦質から区別されることを指摘する.そし
て,知能の障害である器質性認知症では,全知能の崩壊に加えて,知能の予
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第Ⅰ章 認知症の歴史的背景と定義 備条件もまた広範囲に破壊されるのが通常であるとした.
Jaspers の流れを汲むハイデルベルク学派の K. Schneider は,認知症では,
基本に判断力の障害があり,それに記憶と了解の障害が伴うことが重要であ
ると指摘している6).しかし,一方で,記憶障害のみが目立った状態は認知
症とはいわないとする.
このように,認知症では,主として障害される心理学的要素としては,判
断力,記憶,了解の諸機能が重要であるという共通の認識が得られていた.
Ⅲ.DSM 診断基準とその後の認知症定義
おそらくそのような臨床的な経験がドイツや日本のみならず,英米におい
ても共通していたのであろう.認知症において,記憶障害が主要なファクター
になることが知られてきた.そのひとつの決算として生まれてきたのが,精
神疾患の診断・統計マニュアル第 3 版(Diagnostic and Statistical Manual of
Mental Disorders, 3rd edition;DSM−Ⅲ)以降の,操作的診断における認知症
の基準である.形式的にはあくまでも認知症の診断基準であるが,それは別
な言い方をすれば,認知症の定義でもある.
周知のように,精神疾患の診断・統計マニュアル第 3 版改訂(DSM−Ⅲ−
R)における認知症の診断基準(定義)は,記憶障害を必須の症状として位
置づけ,それに加えて,失語,失行,失認,実行機能障害のいずれかの症状
を伴うことを条件づけている.
DSM−Ⅲ−R が出版された 1987 年以降,認知症の定義では,記憶障害の存
在が基本的に重要であることが謳われるようになってきた.
“Oxford Handbook of Psychiatry”の定義では,認知症は,
「進行性で,通常
は回復不能な,全体的な認知障害によって特徴づけられる症候群である.最
初に出現する症状は記憶障害で,引き続いて,失語,失行,失認,実行機能
障害と人格崩壊が現れる」とする7).
また,Kaplan & Sadock の教科書によれば8),認知症は,「明瞭な意識状態
のなかで生じる認知機能の進行性障害で,慢性で広範な機能障害を示す種々
の症状が出現する.知能の全般的な障害が基本で,それは記憶・注意力・思
認知症の歴史的背景と定義 9
考・了解の障害として現れる.他の障害される機能として,気分,人格,社
会的行動がある.それにもかかわらず,記憶障害と少なくとも 1 つのそれ以
外の認知障害がなければ,認知症の診断はなされるべきではない」
.
その他の,現代における精神医学教科書等における認知症の定義はいずれ
も DSM−Ⅲ−R における認知症の診断基準(定義)の影響を強く受けている
ことは強調されてよい.
Ⅳ.認知症は回復不能なのか
上述のように,認知症の定義に,
「通常は(usually)回復不能(irreversible)」
という文言がはいることが多い.たしかに,一般的には,慢性の脳器質性疾
患に伴う認知症は,進行性に経過し,回復不能であることが多い.しかし,
一方,とくに身体的疾患に伴う認知症では回復可能な症例が少なくなく,そ
のような症例の存在を強調するという意図から,1970∼1980 年代ごろより,
reversible dementia,あるいは treatable dementia という概念がもてはやされ
るようになってきた.さらに,最近では,reversible dementia の関連概念と
して rapidly progressive dementia という概念すら唱えられるようになってき
た4).
回復可能な認知症という考え方は正確には 1917 年ころに始まる進行麻痺
の発熱療法までに遡ることができるが4),これらの概念が,従来認知症に対
して抱かれていた治療的ニヒリズムを再考し,打破する一つのきっかけとな
り,治療の現場に大きなインパクトを与え,認知症は診断・検査のみならず,
治療の側面でも臨床活動の対象となってきたことは特記すべきことである.
なお,reversible dementia あるいは treatable dementia という概念が有効性
を保つのは,一方で irreversible and untreatable dementia が存在するからで
あって,将来,抗認知症薬がさらに開発され,認知症の治療が可能となって
くれば,もはや,これらの概念が存在する理由がなくなってくることを指摘
しておく.つまり,そのことは,将来そのような時代になると,また,認知
症の定義も変わってくるということを意味していることになる.
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第Ⅰ章 認知症の歴史的背景と定義 おわりに
― 認知症という用語のこと ―
従来の「痴呆」という言葉が,
「ボケ,呆け」などとともに,侮蔑的,差別
的な用語で,病む人やその家族に対して偏見を抱かせるという危惧,懸念は,
専門家の間でも,以前から指摘されていた.どうにかしなければという気持
ちがある一方,慣習的に,その用語を用いてきたというのが現実であった.
しかし,2004 年 4 月,愛知県の高齢者痴呆介護研究・研修大府センター長
等より,
「痴呆」呼称変更についての要望書が提出され,ときの厚生労働省は
ただちに反応し,
「痴呆に替わる用語に関する検討会」が立ち上げられた.関
係者や関係団体のヒアリング,あるいはパブリックコメント募集などを経て,
2004 年 12 月,
「検討会」は,
「痴呆」に替わる用語として,
「認知症」を用い
ることを決定し,その結果を厚労省に提出した.それを受けて,2005 年よ
り,
「認知症」の採用を行政指導することになった.ただし,関連学会でその
呼称変更をどのようにするかはそれぞれに任されることになったが,同年,
日本老年精神医学会では,
「認知症」という用語を公認することにしたのであ
る.
ここでいう認知とは,知能,記憶,認識,理解,思考,判断,言語などの
精神機能を総合した概念として用いられ,認知症とは,その認知の障害,あ
るいは認知の障害を呈する疾患を意味するものとして使われる.
その後,現在まで 4 年以上を経過しているが,「認知症」という言葉はほ
ぼ学界,行政等で定着し,もはや「痴呆」は死語となりつつある.
なお,この間の経緯から分かるように,
「痴呆」から「認知症」への用語の
切り替えは,学問的にみて前者が不適だからということではなく,もっぱら
「侮蔑・差別用語」を廃するという観点からなされたということを忘れてはな
らない.
つまり,認知症の定義を含めた用語の受容は,臨床的に認知症にかかわる
医師やコメディカルは患者の人権を守ることが一義的であるということを示
す画期的なことであったということをここで改めて強調しておく.
認知症の歴史的背景と定義 11
文 献
1)松下正明:脳血管性精神障害.(懸田克躬ほか編)現代精神医学大系・第 18
.
巻;老年精神医学,144−184,中山書店,東京(1976)
2)松下正明,田邉敬貴:ピック病;二人のアウグスト.医学書院,東京(2008)
.
3)松下正明:アルツハイマー病の発見をめぐって;アルツハイマー病の歴史の中
.
で.日本臨牀,66(増刊号)
:7−17(2008)
4)松下正明:Treatable dementia 概念・再考;その誕生と受容をめぐって.老年
.
精神医学雑誌,19:947−952(2008)
5)Jaspers K:Allgemeine Psychopathologie.(1913)
.(ヤスペルス著,内村祐之,
西丸四方,島崎敏樹,岡田敬蔵訳:精神病理学総論.3 巻,岩波書店,東京,
1953;なお,本訳は,第 5 版〈1948〉による)
6)Schneider K:Klinische Psychopathologie. 6 Aufl., G. Thieme, Stuttgart(1962)
.
7)Semple D, Smyth R, Burns J, et al.:Oxford Handbook of Psychiatry. Oxford U. P., Oxford(2005)
.
8)Neugroschl JA, Kolevzon A, Samuels S, et al.:Dementia. In Kaplan & Sadock’s
Comprehensive Textbook of Psychiatry, 8th ed., ed. by Sadock BJ, Sadock VA,
Lippincott Williams & Wilkins, Philadelphia(2005).
(松下正明)