解説 トンネルの話 岩 本 太 郎 Taro IWAMOTO 理工学部機械システム工学科 教授 Professor, Department of Mechanical and Systems Engineering り,通常なら橋を架けるところであるが,そのうち 1.はじめに のいくつかは長年の土砂堆積により川底が周囲の地 滋賀県の技術の歴史を調べていて,いくつかの歴 面より高くなったいわゆる天井川であった.このた 史的遺産であるトンネルに出会った.日本で初めて め,日本で最初の鉄道トンネルは天井川の下を通る の鉄道山岳トンネルは大津の逢坂山に掘られ,続い ものであった.1870 年に神戸−大阪間の工事が行 て敦賀への道を開いた長浜の柳ヶ瀬トンネルがあ われ,石屋川,住吉川,芦屋川の下にトンネルが作 る.また,京都に水を送る琵琶湖疏水のトンネルが られた. ある.当時日本で最長のトンネルであった.これら 川の下にトンネルをそのまま掘ると,川底が抜け のトンネルを掘る技術は生野銀山の手掘りの技術の る恐れがある.そこで,工事を指導したお雇いイギ 応用から始まって,試行錯誤で技術を作り上げてい リス人技術者ダイアックとイングランドは川底をレ ったものである.今回は滋賀県のトンネルと,それ ンガで固めることにした.しかし日本ではレンガは に係わる技術に焦点を当ててみたい. 製造されていなかったので,川田村(現:山科区川 田)にレンガ工場を建設し,各地から瓦や陶器職人 2.滋賀県の明治期のトンネル を集めた.西洋建築の基本材料であるレンガの国産 昔の日本の有名なトンネルとして,1763 年開通 化が始まったのである.川幅の半分の水流を堰き止 した大分県中津市耶馬溪町にある青の洞門がある. めて掘削し,川底やトンネル壁をレンガで固めてか 諸国遍歴をしていた禅海和尚が通行人の安全のため ら埋め戻し,次に残りの半分の工事を行う.このよ 石工を雇い 30 年かけて掘り抜いたものである.し うにトンネル部分の土砂を上から掘り取ってトンネ かし,ここでは明治期以降の話に限定したい. ルを形成し,その後トンネル上部を埋め戻す方法を 開鑿(かいさく)工法という.こうして,約半年か 2.1 天井川のトンネル けてわが国初の鉄道トンネルである石屋川隧道は 1872 年 9 月に新橋−横浜間に日本初の鉄道が開 1871 年 4 月に完成した.長さ 61 m,高さ 4 m のト 通し,2 年後には神戸から大阪まで路線が敷かれる ンネルは当時の機関車の大きさに合わせた必要最小 ことになった.この区間にはいくつもの河川があ 限のものだった. ―1― 図1 図2 大砂川トンネル 図3 大砂川トンネルの内部 大砂川トンネルの上部 図4 草津川トンネル(現在) 近江盆地には天井川が多い.県内で最も古い図 1 はトンネルを掘った経験はまだ少ししかなく,しか の大砂川トンネルは 1877 年に開通した旧東海道の も外国人技術者の指導の下での作業だった.これを トンネルである.川底がトンネルの天井に近く,現 憂えた当時の鉄道頭(かしら)井上勝は日本人の手 在は護岸工事がされていて当時の状況はわからない だけでトンネルを作ろうと思った. が,図 2 に示すように,すでに水は流れていなかっ 京都−大津区間の工事責任者となる技師長は国沢 た.図 3 はトンネル内部の状況であるが,内壁は切 能長である.井上勝も自ら出向き策を検討したが, り石が積まれている . 1886 年 に は 栗 太 郡 大 路 井 できるだけトンネルの長さを短くするために,路線 (おちのい)村に草津川トンネルが開通した.これ は京都駅から南下し,稲荷のあたりから東に向かっ も旧東海道で,この通りには草津の宿本陣や草津中 て山科を横切り大津の馬場(現在の膳所)に向かう 央商店街がある.当時は長さ 43.6 m,幅 4.5 m のア ルートを選択した. 1878 年 10 月にトンネルの東口から,12 月には西 ーチ式であったが,今は図 4 に示すようにコンクリ 口から工事が始まり,翌年 9 月に貫通して,1880 ート製に造り替えられている. 年 6 月 28 日に竣工し,1921 年 8 月に線路変更にな 2.2 るまで使用された.準備期間も含め日本人だけで 1 逢坂山トンネル 東京から横浜までの路線に続いて神戸から大阪ま 年 10 ヶ月で達成した壮挙で,お雇い外国人の費用 で敷かれた鉄路は京都を経て大津へと延びようとし がかからなかったため工事費は 17% も減らすこと ていた.しかし京都から大津の間には東山があり, ができた.全長 664.8 m,幅 4.27 m,高さ 4.72 m の トンネル工事を避けることができない.当時日本に カマボコ型断面をしたトンネルで,工事は生野銀山 ―2― の技術者・技能者が伝統的なノミとツルハシで手掘 は切石積みである. 坑門の上部には図 7 に示すように太政大臣の三条 りしたものである. 煉瓦積みの壁は今でも見ることができる.西口は 実美が書いた「楽成頼功」の篇額がかかげられてい 名神高速道路の下に埋められてしまったが,東口は る.ちなみに,完成の意味である「落成」が「落 京都大学の地震観測施設として使用されており,図 盤」に通じることから,「落」の代わりに「楽」の 5 に示すように,数十メートル入ることができ,そ 文字をあてた. 「功」は「工」の当て字と思われる. この工事には生野銀山の鉱山労働者,坑夫が雇わ の内部は図 6 に示すようにレンガ積みで入り口部分 れたことが知られている.主に手掘りだが,固い岩 盤には火薬を使用し,換気の技術や 8 時間 3 交代制 もはじめて導入された.工事単価は当時の価格で 306 円/m であった. 2.3 柳ケ瀬トンネル 鉄道の建設計画の当初から,日本海からの物資輸 送のため,琵琶湖と敦賀を結ぶ敦賀線の構想が持た れていた.大変な山越えであり,トンネルは避けが 図5 逢坂山トンネル東口 たい.しかし,ここも日本人のみでトンネルを掘削 することになる.トンネルは 4 つ必要であったが, 最大の難所が逢坂山トンネルの 2 倍の長さが必要な 柳ヶ瀬トンネルであった. 25‰( パ ー ミ ル : 1 / 1000)の急勾配で,1882 年の開通までに 4 年かか った.トンネルの断面は逢坂山トンネルと同じで狭 く,長さは 1352.1 m あった.国鉄として初めて削 岩機(Ingersoll-Rand Co.),コンプレッサ,換気用 タービンなどの最新設備を使用した.トンネル工事 の機械化の先駆けである. 図6 その後,鉄道の電化に伴ってルートが変更され, 逢坂山トンネル内部 1964 年にはこの鉄道路線は廃止された.現在は県 図7 図8 逢坂山トンネル扁額 ―3― 柳ヶ瀬トンネル入口 図 10 図9 琵琶湖疏水第 1 トンネル入口 柳ヶ瀬トンネル内部 道 140 号線の一部になっている.トンネルは交互通 行で,一分半ほどのトンネル走行の動画は YouTube でも見ることができる.図 8 は小谷側の入り口で, 図 9 はトンネルの内部である. 2.4 琵琶湖疏水トンネル 琵琶湖疏水トンネルについては前々回および前回 の記事で詳しく述べた.1885 年着工,1890 年竣工 図 11 で,長さは当時最長の 2,436 m である.断面は幅 4.8 m,高さ 4.2 m(水深 1.8 m)で,鉄道単線トン ネルとほぼ同じである.図 10 に示す第 1 トンネル 琵琶湖疏水第 2 トンネル試作品 3.生野銀山 前述したように,日本の初期のトンネルは鉱山の 入口は三井寺近くにある. 山田寅吉,南一郎平らが計画を立て,田辺朔郎に 手掘り掘削技術の適用から始まった.日本には新潟 よって工学的な計画・指導が行われて実現した.ト 県の佐渡金山,島根県の石見(いわみ)銀山,兵庫 ンネル内部はレンガにより巻立てられている.削岩 県の生野銀山をはじめいくつかの優良な鉱山があっ 機,ダイナマイト,蒸気ポンプ,蒸気巻き上げ機な た.今では考えられないことだが,日本は金や銀が どの機械化が推進された.竪坑の下には揚水ポンプ 豊富に出る国であった.戦国時代から江戸時代前期 を設置し,足踏み水車や手押しトロッコや蒸気巻き にかけて銀の生産は盛んになり,江戸時代後半には 上げ機によるズリ(掘り出した土砂)出しを行っ 生産量は世界の約 3 分の 1 に達していたと言われて た.工事単価は 178 円/m で,鉄道トンネルより安 いる. 生野銀山は兵庫県のうち京都府との境界付近にあ く仕上げられた. 山科にある第 1 疏水の諸羽トンネルあたりでは図 る朝来(あさご)市にある.天空の城として名高い 11 に示す第 2 疏水トンネルの試作品が展示されて 竹田城から 20 km ほど南下したところである.平 いる.技術を実地に習得する当時の技術者の努力が 安時代の 807 年に鉱脈が発見され,室町時代の 1542 しのばれる. 年には良質な銀の鉱脈が見つかり,「灰吹法」とい う精錬技術を導入して効率よく銀の生産ができるよ うになった.戦国時代に領主の山名氏が豊臣秀吉の ―4― 手により滅ぼされ,徳川家康に引き継がれて石見銀 鉱山のトンネルは鉄道や道路のトンネルとは少し 山と共に軍資金の調達に使われた.金や銀は貨幣と 違う点がある.鉱山のトンネルは掘り出した岩石が して使用され,西日本では主に丁銀が,東日本は佐 重要なのに対し,交通のトンネルは掘り出した岩石 渡の金による小判が流通した. に用はない.また,鉱山のトンネルは鉱脈を追いか 幕末期,日本は欧米から大量の最新兵器を購入で けていくので,狭くて複雑な形となるのに対し,交 きたのも金銀が豊富だったおかげである.当時のオ 通のトンネルは広さが大きく一定で,目的の箇所に ランダ軍艦に搭載されていた大砲の青銅は日本産だ 正確に到達しなければならない. ったと言われている.明治になって新しい貨幣制度 が発足したが,その基礎は国内に大量に蓄積されて いた銀であった.その後日清戦争に勝利し,賠償金 として大量の金を獲得して金本位制に移行した. 明治になると,フランス人鉱山技師コワニエが着 任し,これ以降フランスの技術で近代化が進み,日 本初の鉱山学校が開設されて,多くの鉱山技術者を 育てた.その後,1896 年に三菱合資会社に払い下 げられ,銀の生産量は次第に減り,1973 年に閉山 するまで銅,鉛,亜鉛,錫などを生産した. 現在,生野銀山は観光地として整備され,鉱山資 図 13 坑道入口 図 14 坑道内部 料館に多くの資料が展示されている.図 12∼15 に 示すように,慶寿ひという露天掘りの跡や坑内を見 学することができる.坑内には様々な形態の人形を 配置して当時の坑内の作業を再現している. 図 12 図 15 慶寿ひ ―5― 手掘りの様子 門に入った.その後,佛午前も後を追って尼とな 4.妓王寺と祇王井川 り,四人は一緒に仏道に励み往生を遂げたというも トンネルの話から少しそれるが,野洲市にある妓 のである. 王寺について記したい. 祇王の出身地である野洲には「妓王寺縁起」とい 京都の嵯峨野に祇王寺という尼寺があり,訪れた う古文書が残っており,そこには次のような話が載 人も多いと思うが,野洲市野洲町中北に一字違いの っている.清盛が妓王に何かほしいものはないかと 妓王寺がある.実はどちらも同じ白拍子(しらびょ 問うたときに,妓王は,故郷の人々が水不足で大変 うし:舞姫)の祇王または妓王に関する寺である. 困っているので,野洲川から水を引く用水路を作っ 平家物語の巻第一にその物話が出てくる.都で評 てほしいと願い出た.清盛はその願いを受け入れ, 判の白拍子が平清盛の寵愛を受けるようになり,母 祇王井川という用水を作ったので,この地方では米 の刀自(とじ),妹の妓女とともに豊かな暮らしが が沢山とれるようになった.住民はこの妓王の功績 できるようになった.それから 3 年後に佛午前(ほ をたたえるために妓王寺を建てたのである.図 16 とけごぜん)という白拍子が現れ,清盛に舞を見て は妓王寺の門であり,図 17 に示す仏壇には上記の もらいたいと申し出たが,清盛はすでに祇王がいる 4 人が祀られている. ため断った.しかし,妓王があわれに思い清盛にと 祇王井川は野洲川から取水し,途中から東西に分 りなして舞を披露させたところ,清盛は心変わりし かれ,東祇王井川は朝鮮人街道に沿って流れ,西祇 て祇王のほうを屋敷から追い出してしまった.刀自 王井川は中之池川や童子川と合流し,ともに家棟川 ・祇王・妓女の 3 人は出家して嵯峨野に庵を結び仏 に流出して琵琶湖野田浦に注いでいる.その川は作 図 16 図 17 妓王寺の門 図 18 現在の祇王井川(1) 妓王寺の仏壇 図 19 現在の祇王井川(2) ―6― られてから長い年月が経っているが,図 18, 19 に た.山田川の取水口から隧道入口までの開渠が 100 示すように良く整備され,現在も清らかな水が流れ m,隧道が 200 m の工事は機械力が乏しい当時とし ていて,住民が大切に守っている. てはかなりの難工事であったと思われる.この用水 なお,4 人の墓がある嵯峨野の祇王寺は明治初年 に廃寺となったが,琵琶湖疎水計画を推進した元京 都府知事の北垣国道が別荘一棟を寄付し,これが現 在の祇王寺の建物になっている. もよく整備され,現在も有効に使用されている. 6.トンネル掘削技術 6.1 古来の日本のトンネル 日本は山国であり,古来から多くのトンネルが掘 5.稲山隧道 られてきた.その用途の多くは水田に水を引くため 農業国である日本では,水田に水を引くために で,断面積は小さい.明治以前に日本には実に 300 様々な土木工事を行っている.明治中期に行われた 余のトンネルがあった.中には箱根トンネルや甫木 トンネル工事の一例を紹介する. 山トンネルのように 1 km を超える長大なものもあ 琵琶湖西岸の高島市は鎌倉時代から戦国時代にか けて高島七頭が勢力を誇っていた.その名残とし る.トンネル掘削技術はいわゆる手掘りで,鑿(の み)と槌(つち)などの手工具で掘ったと思われる. て,いくつかの城跡が残っている.その一つ,田屋 城跡は JR マキノ駅から西に 5 km ほどのところに 6.2 トンネルの技術の変遷 ある.手前にある森西集落には平安時代の文書「延 ヨーロッパで近代的トンネルが掘り始められたの 喜式」にその名がある大処(おおところ)神社があ は 1665∼1681 年のマルパストンネル(長さ 157 m, り,そのわき道を山に向かうと田屋城に向かう分岐 断面 6.7×8.2 m)と言われており,ランゲドック運 路がある.その登り口を通り過ぎて少し行くと,図 河の頂上にある. 20 に示す稲山隧道の出口がある. 鉄道王国であるスイスでは昔からアルプスに多く 稲山隧道は森西地区の水利のために 1895 年から の長大なトンネルを掘ってきた.その用途は交通で 1900 年にわたって作られた.図からわかるように ある.このため,断面積を大きくする必要性が高 人が這ってやっと通れるような小規模の四角形断面 く,ヨーロッパでトンネル掘削技術が発達した. で内壁は石積である. 日本のトンネルは明治以降,鉄道の導入に伴い, 森西地区は昔から水利が悪く,農業用水の確保に 大断面のトンネル掘削技術も外国から入ってきた. 苦労していた.住民の協議により,個人所有の山林 次第に機械化が進み,現在では全断面を一気に掘り にトンネルを掘り抜き水源を確保することになっ 進むトンネル掘削機で日本は世界を凌駕するまでに なっている. 6.3 手掘りの掘削技術 手彫りでトンネルを掘るのは大変な作業である. トンネル内部で作業を行うには,照明,換気,排水 が必要である.そのほか音響,粉塵,場所により高 温などの環境も厳しい. トンネルを掘る地盤は柔らかいほうが掘りやすい が,硬いほうがいい.掘るのは大変だが,穴を開け 図 20 稲山隧道 た後,つぶれないように内壁を支えてくれるからで ―7― ある.硬い岩は熱するといくらかやわらかくなり, た新欧式は(c)のように底設導坑を先進させ,途 掘りやすくなる.水をかけると亀裂が入る場合もあ 中から切り上がって頂設導坑も掘る.頂設導坑のズ る.ただ,トンネル内では煙の処理が困る. リ(排出土砂)は切りあがった穴から下にある台車 穴を掘った後の地盤は緩んで崩れてくるので,木 材や鋼材の支柱を立て,崩落を防ぐ.この支えを支 保という.一般に,一度緩んだ地盤は内壁を保持さ に落とすと排出が容易になる.ズリだし作業と切り 広げ作業が干渉しないので効率的である. (3)ベルギー式(逆巻き式) 図 21 の頂設導坑で①∼③に示す上半分を掘り広 れると次第に安定して土圧が下がるが,掘ったまま げ,半円状の上部アーチを先に構成してしまう.こ 長時間放置すると地盤が緩み崩落する. れで上部の土圧を支えながら下部を掘り,アーチに 6.4 続く側壁を作る.アーチの落下を防ぐため,側壁部 機械化 固い岩盤を効率よく掘るためにダイナマイトが利 は櫛(くし)の歯状に堀り,先行する柱状の側壁で 用されるようになり,ダイナマイトを仕掛ける深い アーチを支えておいて,そのあと柱の間の空間を埋 孔を掘るために削岩機が用いられるようになった. める.軟弱な地盤に有効である. 削岩機は空気圧を利用して鑿(たがね)を繰り返し (4)イギリス式 岩盤にたたきつけるもので,その排気は坑内の通風 上設導坑あるいは底設導坑をトンネル全長に渡っ の一部としても利用できた.大型トンネルでは櫓 て貫通させた後,全断面の同時掘削を進めて巻き立 (やぐら)を組み,多数の削岩機を取り付けて同時 てをする.全断面に拡幅するときの掘削深さは浅い 作業が行われるようになり,これをジャンボと呼ん ので地盤が緩みにくい. (5)側壁導坑式(ドイツ式) だ. トンネル内に軌道を敷き,トロッコを用いて掘り 岩盤に作用する圧力による崩壊は左右の壁面から 出した土砂を排出しなければならない.ベルトコン はじまり,そのあと上部が陥没する.そこで図 21 ベアやローダーなどが導入された. 6.5 各種掘削様式 大型のトンネルになると,全断面を一気に掘るこ とが難しい.そこで,先進導坑を掘り,これを所定 の手順により広げるようになった.そのときの手順 図 21 導坑の位置と掘削順序(断面) によりいくつかの方式が生まれた. (1)頂設導坑式(オーストリア式) 日本で主に行われた方法である.図 21 および図 22(a)に示すように天井近くに導坑を掘り,これ を左右,さらに下方に拡幅するものである.丸数字 は掘削の順序を示す.全断面を掘った後,レンガ積 みやコンクリートなどで内壁部を巻き立てる.これ を覆工(ふくこう)という. (2)底設導坑式 図 21 および図 22(b)に示すように底部中央に 導坑を掘り,上に掘り広げていく.これを発展させ ―8― 図 22 導坑の位置と掘削順序(進行方向) に示すように両側の側壁部分に導坑を掘り,側壁を 構築して側面の土圧を支えながら上部に掘り進め る.有効な場合もあるが,あまり用いられない. (2)水底トンネル/海底トンネル 水底トンネルや海底トンネルでは地盤が軟らかい る.アーチが完成したあと,中央に残された部分を 場合が多く,一旦出水すると川や海から水が供給さ 掘り出す. れて出水が止まらない.従って,一般のトンネルと 6.6 異なる方法を適用する場合がある. その他の掘削技術 ①沈埋工法 (1)出水対策 岩盤が連続体であれば問題は少ないが,分断され 地上でトンネルのモジュールを作っておき,これ ていると,その境界には多数の礫(れき:小石)や砂 を整地した川底に沈下させ,水中で接続作業を行 が詰まっていることがある.ここには地上の水や地 う.この上に土をかぶせて埋没させ,地上から水底 下水が溜まっていて,このような破砕帯にトンネル のトンネルに接続するトンネルを掘る. が突き当たると大量の出水に見舞われて工事が中断 ②シールド工法 し,場合によっては切羽(掘削部)が水没することが シールド工法は図 23 に示すケーソンと同じよう ある.これに対処する方法がいくつか考えられた. な原理でトンネルを作る方法である.ケーソンは橋 ①圧気工法 脚などを作るときに河底にケーソンと呼ばれる空洞 水圧に対抗するだけの圧力の圧縮空気を工事箇所 で円筒状の構造物を置く.その底部には河底との間 に適応して出水を抑える.作業は高圧空気の中で行 に掘削作業ができる空間があり,河底を掘るとケー われるので,人や物資の移動はエアロックを通さな ソンは自重で埋没していく.所定の深さまで埋没さ ければならない.作業員の安全のため,空気圧力に せると,内部をコンクリートで埋めて橋脚とするの は制限がある.また,地盤を押しのけて圧縮空気が である.ケーソン下の作業場には圧縮空気が作用し 放出され事故になる場合がある.ハドソン河のトン ており,エアロックがある. ネル工事ではトンネル先端の切羽で作業していた労 シールド工法はこれを横に展開したようなもので 働者が空気とともに河底を潜り抜けて水面に放り出 ある.図 24 に示すように,切羽に接する部分に円 されたことがあった.幸い命は取り留めたというこ 筒状の本体があり,その後部の円周には水圧のジャ とである. ッキが多数配置されている.このジャッキを伸展さ ②セメント注入 せるとシールド本体は前進し,円筒のエッジ部分は 岩盤に多数の孔を明け,亀裂にセメントミルクや 地盤に食い込む.地盤が柔らかければ,廃土はシー 水ガラスを圧入して出水をとめる方法である.この ルド円環内に押し出され,これを排出すればよい. 一部分はその後のトンネル掘削によって削り取られ てしまうが,前進したところで再度注入工事を行う. ③多導坑工法 本坑の脇に導坑を掘り,破砕帯に当ててここから 排水する.一般に破砕帯の水量には限度があり,あ る程度出水したら本坑の出水は止まる.丹那トンネ ルのように大規模な出水事故では,たくさんの排水 トンネルを掘って排水しなければならなかった. ④凍結法 土を冷却して凍結させ,出水を止める方法であ ―9― 図 23 ケーソンによる橋脚建設工事 琵琶湖疏水の第一トンネルでも崩落事故があっ た.着工から 2 年ばかりたった 1888 年 10 月 5 日午 後 10 時 20 分に巻き立てが遅れていた東口坑口から 15 m のところで崩落し,その後再度崩落があって 図 24 65 名が閉じ込められた.地上には 12.6 m×10.8 m, シールド掘進機 深さ 5.4 m のくぼみが生じた.内外から脱出口をつ 地盤が固い場合は,シールド本体を押し出す前に切 くろうとしたが,土砂には支保の木材等が混入して 羽に人が入って掘削作業を行わなければならない. おり,作業は難航した.また,連絡がつかなかった ジャッキで押し出すときの反力はトンネル内壁と ため,内部から掘る脱出穴と外部から掘る救出穴の なる覆工で支える.ジャッキを収縮したときシール 位置が相違し,それをつなげるのに苦労した.3 日 ド機の後方にできる空間を利用し,セグメントに分 後の午後 7 時 30 分,脱出口がつながり,全員無事 割した内壁モジュールを円環状に組み立て,すでに に脱出した. 出来上がっている覆工にボルトで固定する.覆工の 万一のため排水路には蓋(ふた)がしてあったの 裏側にはコンクリートや砕石を詰め込む.このよう で,被災者が水没しおぼれる事態は防げた.送風鉄 に,尺取虫のように伸縮しながら前進する. 管も無事で換気ができた.この鉄管は被災者と音声 出水を抑えるため,圧縮空気が適用される.人の で連絡したり食料を搬送するのに役立つが,このと 出入り,資材の搬入のため,いくつかのエアロック きは使われなかった.油切れのため照明がなくな が設置される. り,内部からの掘削作業が難しかった.これらの体 験は,後日の改善に役立った. (3)トンネル掘進機 現在では,硬い岩盤のトンネルでも全断面で掘削 する巨大なトンネル掘進機が作られている.円筒状 8.おわりに の本体の前面が回転するようになっているが,ここ 技術のルーツを探して滋賀県を歩きまわっている に多数のカッターが取り付けられていて,地質に関 間にいろいろな知識が得られた.その知識がサーフ わらず切羽全面を掘削する. ィンのように連鎖していくのが楽しかった.興味に 昨年,日立造船株式会社堺工場の見学会に参加 ひかれて未知の道の扉を開いていくのは研究と同じ し,トンネル掘進機を見学した.1967 年にシール 感覚である.これまで拙文を我慢して読んでいただ ド掘進機の製造を開始し,国内外に 1,200 基以上の いた方々に深く感謝を申し上げる. 納入実績があるそうである.残念ながら写真撮影は できなかったが,世界最大規模の掘進機で直径が約 参考文献 18 m もあるものが造られ,輸出されているとのこ ⑴ Gösta E. Sandström 著,福島啓一訳(一部自著),ト ンネルの歴史,Barrie Books, e-Bookland, 1963 とだった. 7.トンネル事故 ⑵ 中西隆紀,日本の鉄道創世記,河出書房新社,2010 ⑶ 滋賀県中学校教育研究会社会科部会編,12 歳から学 ぶ滋賀県の歴史,サンライズ出版,2009 東海道線が伊豆半島の根元を横断するところにあ ⑷ 田邊朔郎,とんねる,丸善株式会社,1922 る丹名トンネルは,トンネル工事中に 6 つの破砕帯 ⑸ 平山復二郎,トンネル,岩波全書,1943 に出会い,水が大量に噴出して難工事となって,完 ⑹ 有馬宏,トンネルを掘る話,岩波書店,1941 成まで 16 年もかかった.この難工事での犠牲者は ⑺ 鐡道省熱海建設事務所,丹那トンネルの話,1933 67 名といわれている. ― 10 ―
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