卒業論文 人事労務管理論 黒田兼一ゼミナール プロサッカー選手の現状と未来 ~セカンドキャリアもふまえて~ 明治大学 経営学部 経営学科 4年16組25番 学籍番号 1710110033 橋本 亮 完成日 2015/1/8 目次 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2 第一章 サッカーの歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 第一節 サッカーのはじまり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 第二節 サッカーの世界史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 第三節 日本サッカーの歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 第二章 現在のプロサッカー選手の現状・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6 第一節 プロサッカー選手になるためには・・・・・・・・・・・・・・・・・・6 第二節 香川真司の場合―特殊なケース・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 第三節 プロサッカー選手の契約、給料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 第四節 プロサッカー選手の実態・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9 第三章 カテゴリーごとの存在意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 第一節 大学サッカーの存在意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 第二節 JFL の存在意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11 第四章 日本サッカー界の働きかけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13 第一節 キャリアサポートセンター(CSC)・・・・・・・・・・・・・・・・・13 第二節 日本プロサッカー選手会(JPFA)・・・・・・・・・・・・・・・・・・14 第五章 インタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 第一節 インタビュー内容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 第二節 回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17 第三節 インタビューを終えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22 あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24 1 はじめに 2014 年夏、南半球の遠いブラジルの地で、ワールドカップの熱戦が繰り広げられていた。 ブラジルでサッカーは熱狂的なサポーターも多く、子どもから老人まで非常に人気のある スポーツである。スタジアムの完成が遅れ、大会の開催を反対する過激なデモも起こって いたため、盛り上がりを心配する向きもあったが、実際に開催してみれば大きな盛り上が りを見せ、大会は大成功に終わった。 一方、日本は、アジア代表として無事に本大会に出場することができ、優勝という目標 を掲げて臨んだが、1 分 2 敗のグループステージ敗退という結果で終わってしまった。そ れでも、深夜や早朝からテレビにかじりつき、世界の一流のプレーに酔いしれ、寝不足に なってしまった日本人も多かっただろう。 ここまで話をしてきたワールドカップの話は、日本のトップクラスで活躍をしている選 手や海外で活躍をしている選手が出場している。その第一線で活躍をしている選手にスポ ットライトが当てられがちだが、その陰で毎年約 150 人ものプロサッカー選手が J リーグ から登録を抹消されている。そしてその選手の中の約 40 人が転職をしてセカンドキャリ アを歩んでいる。私は今の登録の制度や日本サッカー協会の体制が不十分であるために、 引退を迫られえた多くの選手が苦しんでいるという現状があるのではないかと考えた。ま た昨年の 12 月まで大学でサッカーをしてきた私の周りには、プロの世界を目指して頑張 っているチームメイトがたくさんいる。そんな仲間達が進むプロの世界の実情を、卒業論 文において踏み込んだところまで調べていきたいと考え、このテーマにした。 2 第一章 サッカーの歴史 第一節 サッカーのはじまり サッカーの始まりは、中世ヨーロッパまでさかのぼる。中世のイギリス人達は街の狭い 路地を使って、特に決まったルールもなくボールを手や足で運び、奪い合う「ストリート サッカー」という乱暴な遊びを行っていた。この遊びに熱狂するあまり大騒動になって、 時には市民が暴徒し、怪我人や死者が出た。ひどい時には死者の生首でサッカーをしたこ ともあったのである。これが、のちに学校教育に取り入れられてルールが統一されてサッ カーが生まれた。それからサッカーはイギリスから世界の国々に普及していった。 日本にサッカーが伝わったのは明治時代ことである。日本はサッカーを明治時代の富国 強兵のもとで国民の身体を強化するという目的に用いられ、戦後には企業の士気高揚のた めに活用されてきた。つまり日本サッカーは、近代の日本人の思想の影響を受けて時代と ともに発展を遂げてきたのである。 例を挙げてみると、1993 年秋に中東のカタールでワールドカップアジア地区予選が行わ れた時、日本のワールドカップ出場を賭けた対イラク戦では、視聴率が深夜にも関わらず 48%を記録した。このことから日本におけるサッカーは、国民を一致団結させまとめあげ られることのできる機能を持っている。またそれは J リーグにも同じことが言える。ホー ムタウンのチームを地域全体でサポートして、応援しようと結集する力があるのである1。 第二節 サッカーの世界史 前節で述べたとおり、日本にサッカーが浸透したのは最近のことである。世界を見渡せ ば、近代以前に足を使って球のようなものを蹴る遊びは数多く見られた。日本では蹴鞠が 知られている。インドネシアなどの東南アジアには、籐(トウ)で編んだボールを蹴り合う セパ・ラガがある。またイギリスでサッカーの起源として記録をされているのは 1314 年 頃にさかのぼる。イギリスとフランスの間で勃発した百年戦争にあたる頃に、エドワード 二世の名によってロンドン市長ニコラス・ファーンドンが治安維持のためにサッカーを禁 止するという布告文を出している。また百年戦争に突入した 1365 年には国防上の理由で サッカーがロンドンで禁止をされている。不経済で無益なサッカーをするのではなく、休 日や祝祭日の余暇には弓矢の練習をするように命じたのである。このことからもイギリス 人がどれほどサッカーに熱狂をしていたのかが分かるのだ。 1800 年代になってもまだクラブ対抗のサッカーは存在せず、それぞれの地域がそれぞれ の異なるルールのもとで競技を行っていた。それでは対抗戦ができないということから、 ルール統一をしようという取り組みが生まれ、1863 年に世界で最初の協会がイングランド にできたのである。協会は統一ルールを作成した。サッカーという言葉自体、 1参考:高橋義雄 『サッカー社会学』 NHK ブックス、 1994 年 3 ASSOCIATION(協会)が縮められてできた造語なのである。そしてルールが統一され、全 英選手権大会(FA カップ)が 1871 年に開始された。サッカーは、パブリックスクールの卒 業生やオックスフォードやケンブリッジの学生によってヨーロッパ諸国に伝えられ、植民 地世界に伝播していった。サッカーは、植民地へのイギリス文化の侵攻と見ることもでき る2。 第三節 日本サッカーの歴史 日本にサッカーを伝えたのは、1873 年に東京の築地にあった海軍兵学校の教官でイギリ ス海軍将校のアーチフォールド・ダグラス少佐とその部下たちによって伝えられた。その 翌年にはサッカーの授業が開始され、次第に近代スポーツと変化を遂げてきた。そして 1902 年の日英同盟をきっかけに、イギリス人教師が日本各地に招聘され、彼らがサッカー を教えていったのである。また 1904 年に日本で最初のサッカーの国際試合が、東京高等 師範学校と横浜在留外国人チームとの間で行われ、国内チーム同士の試合もその 3 年後の 1907 年に始められた。このように文明開化につとめた明治期はお雇い外国人教師らにより 欧米の近代スポーツが伝播した時代であった。 日本のサッカーの一大転機となったのは、やはり 1964 年の東京オリンピックである。 日本サッカー協会は開催国としてのプライドをかけて、ドイツからデッドマール・クラマ ーを代表コーチとして招聘し、国家的に強化を図った。結果、強豪アルゼンチンを破り見 事にベスト 8 入りを果たした。東京オリンピックの成功は、国民スポーツ熱を燃え上がら せることになった。そして東京オリンピックの翌年に、日本サッカーリーグが開幕するこ とになった。当時、競技力を保っていた大学サッカー部から、日本リーグに選手が入団し、 この頃から日本サッカー界の構図も様変わりしてくる。 1968 年のメキシコオリンピックのアジア予選でアジア代表の座を獲得し、本大会では地 元のメキシコを破り 3 位入賞を果たした。日本リーグの人気も最高潮に達した。この当時 の日本サッカー界を支えた当時の関係者が現在の日本サッカーを支えている。 しかし、アマチュアとして社会人チームで活動をしてきた日本のサッカーの実力は明ら かに低下していってしまった。この代表選手の実力の低下は、サッカー界の全体の人気低 下にも繋がった。 しかし、サッカー界の長いトンネル脱出のための地道な努力も続けられた。読売クラブ などの企業チームではない本格的なクラブチームが結成された。企業チームからの脱皮が 進む中、1986 年より正式にプロ選手というくくりを認める選手登録規定ができ、プロ契約 をする選手が現れるようになってきた。そしてプロリーグ結成にむけた働きかけを追求す るようになった。そして 1989 年にはプロリーグ検討委員会が設置され、プロリーグ参加 条件が決定された。1990 年には J リーグに参加をする 10 チームが決まり、日本にプロサ ッカーリーグができることになったのである。そして 1993 年に J リーグが開幕したので ある。 2参考:高橋義雄 『サッカー社会学』 NHK ブックス、 1994 年 4 J リーグ開幕から現在に至るまでも様々な出来事が起きている。 「ジョホールバルの歓喜」 で手にした 1998 年のフランスワールドカップに始まり、ワールドカップには 5 大会連続 で出場をしている。 そのうち 2 度は決勝トーナメントに進出を果たしているだけではなく、 1999 年のワールドユース(現 U-20 ワールドカップ)準優勝や 2012 年ロンドンオリンピッ ク準決勝進出など、国際舞台で確固たる存在感を示している。この 20 年間で世界が感じ たインパクトは、当事者である日本人の想像よりもはるかに大きいものだろう。しかし一 方で、世界との差を埋めることの難しさを実感した 20 年でもあったのである。より早く 日本が世界に追いつくためには、過去 20 年の成長速度をさらに上げるしかないのだ3。 3参考:高橋義雄 『サッカー社会学』 NHK ブックス、 1994 年 5 第二章 現在のプロサッカー選手の現状 第一節 プロサッカー選手になるには 前章では、サッカーのおおまかな歴史について説明をしてきた。この章では、プロサッ カー選手の実情について研究する。 現在日本のプロリーグで活躍をしているサッカー選手は、1000 人を超えている。一般的 にサッカー選手は、サッカーすることで報酬を受け取り、そのお金で生計を立てている。 その選手達は皆違うルートを歩んでプロになっている。そのルートは大きく分けて3つの 方法がある。 1.高校、大学で活躍をしてスカウトされる ex.本田圭佑、内田篤人、中村憲剛 2.クラブの下部組織からの昇格 ex.宇佐美貴史、吉田麻也、 3.テスト、練習参加を受けて入団する ex 中澤佑二4 まず第1のルートであるが、Jリーグではプロ野球のようなドラフト会議を採用してい ない。つまり高校や大学でのプレーがスカウトの目に留まり、声がかかれば、クラブと自 由に交渉することができる。 また毎年年末年始に行われる全国高校サッカー選手権には、どこかのチームに入団が内定 している選手が出場している。全国大会に出場していない無名高校の選手でも個人能力が 異常に高ければ、スカウトの目に留まることもあるかもしれないのである。しかし最低限 そのチームの中心選手として活躍をしていなければ、プロの目に留まることは不可能に近 い。 次の第2のルートであるが、それぞれのクラブがもっている下部組織から上がっていく ルートである。Jリーグに所属しているクラブは、小学生(ジュニア)、中学生(ジュニア ユース) 、高校(ユース)年代の下部組織を持っている。いずれかのカテゴリーから下部組 織に入り、 最終的にユースチームでの実力が認められれば、プロ契約を結ぶことができる。 これがプロになる一番の近道なのかもしれない。その理由は明快である。それは高校年代 の下部組織とプロチームが繋がっているからである。しかしどのユースチームも毎年たく さんの応募者がいるため、厳しいセレクションを突破しなければチームに入ることができ ないのである。 第3のルートのテストのことを一般的にはセレクションと呼んでいる。J1.2 のセレクシ ョンは一般公募することは少ないのが現状である。チーム関係者の紹介で、まずプレーの 4 引用:Career Garden http://careergarden.jp/soccer/naruniha/ 6 ビデオ審査があり、それに通れば練習参加するなどしてテストを受けるのである5。 第二節 香川真司の場合―特殊なケース 香川真司は今紹介をした 3 つとは違うルートを歩んで、プロサッカー選手となった。J リーグが開幕をして 20 年が経ったが、プレミアリーグの名門、マンチェスター・ユナイテ ッドでプレーをする日本人選手をいったい誰が想像することができただろうか。 彼は 2001 年に小学校卒業と同時に生まれ育った神戸を離れて東北の仙台に渡り、 「FC み やぎバルセロナ」に入団した。このチームは 1998 年に創設され、12 歳から 18 歳の子ども 達を一貫して指導をする地元のクラブチームとして活動をしていた。ここでサッカー留学 を始めた中学 1 年生の彼は、当時から異次元の輝きを放っていたわけではない。あくまで もうまい選手の一人で、スピードもなく、筋力もない線の細い選手であった。 「FC みやぎバルセロナ」というチームは、他のチームとは違うスタイルのチームだった。 特にジュニアユースで実践されていたのが、徹底的な個人技教育である。それはおそらく 育成年代に技術を体得することと、サッカーの原点である一対一の勝負の重要性を伝える という意図がある。練習は一対一が基本で、試合になるとパス禁止というルールがあるな どとても徹底的である。そのクラブが掲げるスタイルがおそらく彼の選手としての特性に 見事に合っていたのである。 高校1年生の頃に、彼はボランチにコンバートされ一気に才能が開花した。ドリブルと パス巧みに使い分け、ボランチの位置から試合の流れを変えるプレーで活躍をしていった のである。 高校2年生の頃に出場した仙台カップ国際ユースサッカー大会での活躍が関係者の目に 留まり、彼は高校生にしてセレッソ大阪とプロ契約を結んだ。18 歳にしてプロになった彼 は次第に将来を嘱望されるタレントとして注目を浴び始めた。ボランチからトップ下にコ ンバートをしたことで、その価値を決定的に引き上げることに成功したのだ。2008 年には 35 試合に出場して 16 得点を記録して、わずか 19 歳で日本代表に選出された。さらに、2009 年には J2 で 44 試合に出場して 27 得点を記録して、見事に得点王のタイトルを獲得した。 2010 年には南アフリカワールドカップにサポートメンバーとして帯同し、その年の夏に、 海外移籍をすることとなったのである6。 5 参考:Career Garden http://careergarden.jp/soccer/naruniha/ 6 参考:テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考 法 日本のサッカーを強くする 25 の視点』 文藝春秋、2012 年 7 第三節 プロサッカー選手の契約、給料 前節で紹介した香川真司は、多少の挫折があったものの、華々しい経歴を歩んできた。 しかし、ほとんどの選手が彼とは違う競技人生を歩んでいる。 まず野球選手との違いを説明する。プロサッカー選手の給料は、実力、実績主義が徹底 されている。高校や大学時代にどれだけのスター選手だったとしても、プロサッカー選手 としての実績がなければ、高額の給料はもらえない。大卒のドラフト 1 位で「契約金1億 円、年俸 1500 万円」という例もある日本のプロ野球選手とは違うところである。プロサ ッカー選手の契約制度は以下のようになる。 (図表1) 図表1 「プロサッカー選手の契約制度」2014 年 選手種類 A 契約 人数制限 25 名以内 契約締結条件 報酬 規定試合出場又は 年俸 480 万以上 C 契約を 3 年経過 ただし A 契約初締結 時は年棒 700 万以下 B 契約 制限なし 規定試合出場又は 年俸 480 万以下 C 契約を 3 年経過 C 契約 制限なし なし 年俸 480 万以下 (出典 J リーグ選手契約制度 http://www.j-league.or.jp/aboutj/player/contract-system.html をもとに作成) Jリーグでは選手との契約を結ぶ上で、3つの段階がある。まず新卒入団の選手は、通 常「C 契約」といわれる契約を結ぶ。C 契約は年俸の上限が 480 万円となっている。現実 には、選手の実力やチームの経営状況によって 200 万円前後の選手もいる。C 契約の選手 が、公式戦において所定の出場時間をクリアすれば、A 契約、または B 契約を交わすこと ができる。その時間は J1 が 450 分(5 試合のフル出場に相当)、J2 が 900 分(10 試合の フル出場に相当)となっている。また C 契約は、在籍 4 年目以降の選手と交わすことがで きないのである。そのため、高卒、大卒とも在籍 3 年間で戦力外通告を受けるケースが多 くなっているのである。 A 契約は1チーム 25 人までという制限がある。また、J1 のチームは 15 人以上、J2 の チームは 5 人以上の選手と A 契約を結ばなければいけないのである。A 契約は年俸に制限 は設けられていないが、現在年俸 1 億円以上の日本人選手は J リーグ全体で 10 人もいな いのである。また年俸は選手の実力、実績の他にもチームの経営状況によって大きな差が あるというのが現状である。マスコミ報道によると、J1 の主力クラスで 1000 万円〜6000 万円、J2 の主力クラスで 800 万円〜2000 万円というのが相場である。ただし、新人選手 が A 契約を結ぶ場合、初年度は報酬の総額が 700 万円以下に制限されている。2 年目以降 に A 契約を結ぶと、年収の上限はなくなる。 B 契約は、所定の出場時間をクリアした選手で、A 契約以外に選手が結ぶ契約である。 8 年俸の上限は 480 万円となっている。また人数制限はない7。 第四節 プロサッカー選手の実態 毎年 J1.2.3 のチームは優勝、残留、降格争いで盛り上がり、多くの観客を魅了している。 しかし、目には見えないところで別のもう一つの争いを繰り広げている。それは来季もプ ロサッカー選手として人生を送ることができるかの契約更新である。一般的には 11 月末 にクラブから J リーガーに提示が行われる。現在 J リーグのクラブチームと契約をするサ ッカー選手は約 1000 人である。毎年、その 10 人に1人にあたる約 100 人が新たにプロ 契約を結び、約 100 人が引退をしている。そのうち約 30 人が 12 月からの合同トライアウ トで他のチームに救済される。そして残る約 70 人は転職組となるのである。 また選手は 1 年でも長くプレーすることを望むが、プロの世界は難しい。2002 年度に 契約を更改されなかった選手の一番多い年齢層は 19〜24 歳である。つまり高校、大学を 卒業してクラブに入ってから 3 年程度で、早くも人生の岐路に立たされている選手が出て くるのだ。普通であればまだ社会人としてスタートを切り出す年齢であるのにもかかわら ず。 2011 年に J リーグから登録を抹消された選手の数は 150 人である。その後の進路は、 その半数の 75 人が JFL や地域リーグなどのカテゴリーを下げて選手生活を続行し、30 人 がコーチやスタッフなどの J クラブなどのサッカー関連の仕事に就いた。そして残りのう ちの 42 人が他の業種への転職を決断している。要するに、怪我や病気など理由は様々あ るが、毎年のようにプロサッカー選手という肩書を失ってしまう人間が少なからず存在し ているということなのだ。 プロサッカー選手の平均引退年齢は、26 歳と極めて短い。つまり戦力外通告はどの選手 の身にもいつか降りかかるものであって、選手にとって、セカンドキャリアは、決して無 視することのできない人生にとっての大きな転機なのだ。 しかし、小学校や中学校から今までの人生すべてをサッカーに捧げてきた選手達にとっ て、全く違った人生であるセカンドキャリアに進むのは決して簡単なことではないのだ。 また 20 代前半などの若いころならなおさらサッカーへの情熱は衰えず、だからこそ登録 を抹消された選手のうち約半数の選手が JFL や地域リーグの門を叩くのだろう。しかし、 待遇や環境は J リーガーだった頃とは大きくかけ離れるものとなってしまう。このような 現状をしっかりとふまえて、J リーガーのセカンドキャリアをより良いものとしていくこ と、またその際に選択する進路の環境を整備することが、20 年目を迎えた J リーグにとっ て間違いなく大きな課題の一つと言えるだろう8。 7 参考:Career Garden http://careergarden.jp/soccer/salary/ 8 参考:テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考 法 日本のサッカーを強くする 25 の視点』 文藝春秋、2012 年 9 第三章 カテゴリーごとの存在意義 第一節 大学サッカーの存在意義 私は、去年の 12 月まで大学の体育会サッカー部の部員として活動をしていた。その部 内の私の先輩や同期の中にはもちろんプロサッカー選手として J リーグの舞台で活躍をし ている選手がたくさんいる。そんな彼らが、選手としてまたセカンドキャリア考えた時に 1 人の人間として大人になっていくためには、大学においてどのような育成をしていけば 良いのかということを考えてみる。 近年、J リーグ各クラブが獲得をする新人選手には興味深い変化が生じている。2011 年 に J1,J2 のクラブに加入をした新人選手は 121 名いる。その内訳を見てみると、高校出身 者が 22 名、クラブユース出身者が 31 名であるのに対して、大学出身者がなんと 68 名と 圧倒的多数を誇るのである。その理由は、大学出身の選手は、身体がしっかりしていて、 メンタル的にも備わっているため、即戦力として活躍が見込める。またクラブ経営的にも 非常に厳しい状況があるため、選手を育てる時間もお金もない。などがある。 大学出身選手の台頭は、オリンピックの代表メンバーを見ても明らかである。1996 年の アトランタオリンピック、2000 年のシドニーオリンピックともに大学出身者はゼロ。しか し 2004 年アテネオリンピックは 3 人、2008 年北京オリンピックは 2 人、2012 年ロンド ンオリンピックは 3 人の大学出身者がメンバーに入っていて、特に近年、大学サッカーで 活躍をしている選手が大きく注目をされている。 しかしこの 25 年間でサッカー界のおける大学の役割は大きな変化を遂げてきた。決し て平たんではなかった。J リーグが始まる 1993 年以前、高校生は大学に進学してサッカ ーを続け、4 年後に社会人チームや実業団に入団するのが一般的なルートであった。1992 年のバルセロナオリンピックではサッカー競技で初めて 23 歳以下という年齢制限が実施 され、本大会出場を目指して戦った選手の多くは大学生が中心であった。つまり、今から 約 20 年前の大学サッカーは日本サッカー界全体にとって非常に重要な育成機関の一つで あったのだ。 ところがその存在意義は、プロ化とともに軽視されてしまう。高校サッカーの次の舞台 は J リーグである。そんな風潮が浸透されてしまった結果、1996 年アトランタオリンピ ックの本大会出場メンバーは 18 人全員が J リーガーになってしまった。そして同時にこ の頃、日本サッカー協会は世界のサッカーの育成を見習ってプロクラブによる下部組織の 育成を重視し始めた。 しかし、 ジュニアユースからユース、 ユースからトップチームへと昇格をしていく中で、 生き残ることができなかった選手たちは行き場を失い、サッカーを大学に行って続けると いう進路を選ぶようになっていった。するとその選手たちが、大学サッカー低迷からの復 活を果たすこととなったのだ。またそもそも J リーガーの寿命は短く、次第に高校生たち は、高校から J リーグに直接進むことに魅力を感じなくなったのである。 そこで存在価値を高めていったのが大学サッカーである。大学サッカーは 4 年間で高卒 J リーガーには経験がたくさんできる。J リーグにはかつて「サテライトリーグ」があっ 10 たが、これは各クラブの経営的に負担が大きいという理由から 2009 年に廃止されてしま った。したがって J リーグに出場することのできない選手は、公式戦での実戦の経験を積 めないという現状がある。それに対して大学サッカーは春から地域ごとにリーグ戦が始ま り、アミノバイタルカップ、天皇杯予選、総理大臣杯、秋のリーグ戦、冬には全国大学サ ッカー選手権(インカレ)と数多くの大会が行われる。また下級生や一軍ではなくセカンド チームに所属をしている選手にも「インデペンデンスリーグ」というサテライトリーグが あり、そこで公式戦の試合を体験することができる。部に所属をする選手皆に実戦の場を 提供し、20 歳前後の大人になりかけているがまだまだ未熟なメンタル、精神面を多くの時 間をかけて徹底的に鍛えなおすこともできる。また大学生というたくさん自由な時間があ る中で、 「本当にプロになりたいのか?」などを自分に問い掛けることで、サッカーに対す る情熱、夢などを再確認することができる。またプロクラブは心技体ともに計算できる選 手を即戦力として獲得したいと考えている。高校時にプロの夢から破れて這い上がった大 学出身選手はとても重宝されるということなのである。 ・流通経済大学 大学サッカーの中でも著しい成長を遂げているのが流通経済大学である。流通経済大学 は約 10 年という短い期間のうちに 60 人近くもの J リーガーを輩出してきた。また環境に おいても J リーグのクラブの環境を上回っている。人口芝のグランドが 3 面、ミニゲーム 用のゴールピッチ、ビーチサッカー専用のコート、屋内練習場、最新機器が導入されたス ポーツジムを備えている。また流通経済大学は非常に多くの部員を抱えているが、トップ チームから 6 軍までの 6 チームすべての選手が公式リーグ戦に所属しているため、選手が 実戦経験を積む場がしっかりと確保されている。この実戦経験こそがサッカー選手として の最大の成長につながるのである。 さらに人間性における成長を促す環境も整っている。自主性を尊重した寮生活も精神面 を鍛える大切な時間となっている。選手は仲間とともに 4〜6 人部屋で過ごし、サッカー 漬けの毎日を送る。食生活、睡眠時間、自主トレーニングなども自らがしっかりと決めて、 自己管理能力を養うことができるのである9。 第二節 JFL の存在意義 J リーガーに戦力外通告が言い渡されてそえでもまだサッカーを続けたいと考えている 選手の多くは下のカテゴリーである JFL や地域リーグで新たな挑戦を始める。国内のトッ プリーグの J リーグではなく、あえて JFL や地域リーグの存在を考えることも日本のサッ カー界の全体を見た時に必ず重要なのである。 また JFL は日本のサッカーを一つのピラミッドとして考えた時に、だいたい山の中腹に 9参考:テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考 法 日本のサッカーを強くする 25 の視点』 文藝春秋、2012 年 11 位置している。ピラミッドの上の部分と下の部分をちょうど支えている真ん中の JFL を考 えることは大切なことなのだ。 1999 年に J リーグの二部制移行と同時に「旧 JFL」が解体され、J2 に参加をしなかっ た 8 チームに横浜 FC を加えた 9 チームで、現行の JFL が再始動された。日本サッカー界 全体の位置づけで言えば、2014 年に J3 が創設されるまでの間の 15 年間は J1 と J2 に次 ぐ事実上の 3 部リーグとして、またアマチュアの中では、トップリーグという側面を持っ ている。全国リーグとはいえあくまでもアマチュアリーグであるから、クラブ平均の予算 規模は J1の約 31 億円、J2 の約 9 億円に対して、約 1 億 2000 万円と極めて小さい。ま たアウェーで試合を行う時に、前日に移動をして前泊をするお金もないため、当日にアウ ェーの遠征で片道 7.8 時間もかかるバス移動を選択することも当たり前のことなのである。 中にはクラブとプロ契約をしている選手もいるがそれはごくわずかで、ほとんどの選手が 他の仕事をやりながらサッカーと両立させているのが現状である。もちろん働きながらサ ッカーをすることは、簡単なことではない。なぜそこまで自らを追い込んでサッカーを続 けるのかというと、サッカーが純粋に好きだからである。逆に仕事をしながら本気でサッ カーをすることのできる環境がとてもありがたいのである。もちろん J リーグの舞台を目 指して頑張っている選手も少なくないはずである。しかし大切なのは、プロと育成年代の 間に位置している JFL は、サッカーが純粋に好きで、本気で努力している選手たちが、プ レーをする場所であるということなのだ。あまり注目されない JFL の舞台でプレーをして いる素晴らしい選手たちにもっと長くサッカーをプレーさせるクラブの経営、地域企業、 スポンサーの関わり方などをしっかりと考えてあげなければいけないのだ。また引退をし てセカンドキャリアに進む選手たちへの体制を整えてあげることも重要なのである10。 10 テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考法 日本のサッカーが世界一になるための 26 の提言』 文藝春秋、2014 年 12 第四章 日本サッカー界の働きかけ 前章で述べたとおり、日本のサッカー界には様々なカテゴリーが存在していて、その中 懸命にサッカーに取り組んでいる選手がたくさんいる。しかし J リーガーは、プロ選手と して活躍できる時間は決して長くない。クラブと来季の契約を結べなかった選手の進路は どうなったのだろうか。引退後にどんな社会生活を送るのかは選手にとって大きな課題で ある。もちろん全員がサッカー関連の仕事に就けるわけではない。かなり多くの数の選手 が新しい世界にチャレンジしなければならないのである。例えばプロ野球選手であれば、 プロサッカー選手と比較して平均的に引退するまでの時間が長く、平均年俸もサッカーに 比べて高額な年俸を受け取ることができている。プロサッカー選手が、将来のセカンドキ ャリアに対して不安を抱いてしまっていることは明確である。 J リーグでは、選手の第二の人生(セカンドキャリア)をサポートするために 2002 年 4 月に「キャリアサポートセンター(CSC)」を設立している。また「一般社団法人 日本プロ サッカー選手会労働組合日本プロサッカー選手会(JPFA)」 (以下日本プロサッカー選手会を 指す)という団体も活動している。 第一節 キャリアサポートセンター(CSC) キャリアサポートセンターは、新人研修を始め、フォローアップ研修、2.3 年目の選手 に対するリフレッシュ研修、さらには職業訓練のサポートなども行っており、戦力外通告 を受けた選手の相談にも乗ってくれる。しかし単なる就職のサポートではなく、選手ら自 身が自立をし、人生を積極的に考えるためのパートナーとして寄り添う必要がある。また キャリアサポートセンターを活用しているクラブはあるが、将来的にはキャリアサポート センターの活動をクラブ単位で行われることや選手個人に意識付けされることが大切であ る。 フォローアップ研修 ・J クラブの導入研修(クラブ理念の浸透、事業全体の理解)実施サポート ・J クラブスポンサーへのインターンシップ教育サポート ・ボランティア実施後の面談サポート リフレッシュ研修 ・ 「キャリアデザイン(目標設定)研修」 「プロ意識啓発研修」 「メディアトレーニング(コ ミュニケーション研修) 」 「リスクマネジメント研修」など キャリアサポートセンター 1. 自分の世界を広げる→地域貢献、老人ホーム訪問など 2. 学ぶ・習う→資格取得の推進 3. インターンシップ→企業での就業体験11 11 参考:J リーグ キャリアサポートセンター http://www.j-league.or.jp/csc/topic/ 13 第二節 日本プロサッカー選手会(JPFA) 日本プロサッカー選手会とは、J リーグはもちろんのこと JFL や地域リーグなどの日本 国内のサッカークラブに所属する日本人のプロサッカー選手とプレミアリーグやブンデス リーガなどの海外のサッカークラブに所属する日本人プロサッカー選手が会員となってい る組織のことである。当時日本サッカー協会の川淵三郎第 10 代目Jリーグチェアマン (2002 年〜2008 年)が呼びかけをしたことで、プロサッカー選手の立場で活動や発言を発 信することのできる組織として、1996 年 4 月に J リーグ選手協会が設立された。その後、 2010 年 11 月に日本プロサッカー選手会と名称を変更し、J リーグでプレーする日本人選手 だけでなく海外のプロサッカークラブに所属する選手も加入し、日本のプロサッカー選手 を代行する組織として生まれ変わったのである。日本プロサッカー選手会は、現在サンフ レッチェ広島で長く活躍をしている佐藤寿人が会長を務めている。副会長は、日本代表で 活躍をしている川島永嗣をはじめとする 8 名が名を連ねている。また J1,J2 などのクラブ には、支部長と呼ばれるチームの代表者がいてその人たちも日本プロサッカー選手に所属 をしている。 プロサッカー選手の地位向上に関する問題への取り組みのみならず、全国各地でのサッ カークリニックや各種チャリティー活動など、社会貢献活動にも積極的に取り組んでいる。 日本プロサッカー選手会は、その組織内の日本サッカー界のトッププレーヤーが豊かな サッカー文化の普及及び振興に寄与するとともに、プロサッカー選手の社会的、経済的地 位の向上のために、五つの理念を掲げている。 ・サッカー文化の普及と振興を目指す ・社会に貢献する活動を行う ・プロサッカー選手を取り巻く環境の改善に取り組む ・国内外のサッカー関係団体との交流 ・ファンサービスの周知徹底 日本プロサッカー選手会は、現役のプロサッカー選手のために様々な取り組みを行って いる。例えば移籍制度に関する問題。FIFA(世界サッカー連盟)は、所属しているクラブ との契約が満了したか、あるいは 6 か月以内に満了予定の時にだけ、プロサッカー選手は 別のクラブと自由に契約を締結できるという条件を出している。しかし日本でプレーする 多くの選手の契約期間は、2 月 1 日からその翌年 1 月 31 日までとなっている。そうすると FIFA が定める条件によれば、6か月以内に満了予定の時=翌年 1 月31日の6か月前、つ まり8月1日以降は別のクラブと自由に契約を締結できるということになるのである。だ が、2008年シーズンまで日本のサッカー界でこの条件は適応されていなかったのであ る。そこで、日本プロサッカー選手会では日本サッカー協会や J リーグに対して、契約交 渉期間を FIFA の定める条件と同じにするように求めたのである。その結果、2009年シ ーズンから暫定的に FIFA の条件が定めている契約交渉期間が実現し、2010年シーズン 以降は、FIFA の条件のとおり、所属クラブと契約が満了したか、あるいは6か月以内に満 14 了予定のときにだけ、プロサッカー選手は別のクラブと自由に契約を締結できることにな ったのである。 また、2009年シーズンから移籍金制度が撤廃されることになった。FIFA の条件によ れば、契約満了時以降の別のクラブとの契約締結は、自由にできると規定されている。た だ、日本のプロサッカー界では長い間このような契約満了時以降の次の契約を締結しよう とする場合、その選手(プロ A 契約、30歳未満の場合に限る)を獲得しようとするクラ ブが、現在所属のクラブに対して、国内で決めている独自の移籍金を支払わないと移籍が できない仕組みとなっていたのである。J リーグで長年活躍をしている選手は、移籍金の 金額が当然大きい為、選手の年俸の約10倍程度の移籍金が必要になり、その選手を獲得 しようとするクラブは、年俸と併せて約11倍もの資金を用意しないと選手を獲得できな い状況だったのである。日本プロサッカー選手会では2007年以来、この移籍金制度を 撤廃しようと、日本サッカー協会及び J リーグと協議を行い、呼びかけを行ってきたのだ が、3年かけてようやく、2009年シーズンからこの移籍金制度は撤廃されることが決 まったのである。今後は、契約満了時における自由な移籍が可能になるため、選手の複数 年契約が増加していくのではないかと期待が高まっている。その結果多くの選手が、でき るだけ長く選手としてのキャリアを過ごすことができるのである12。 また日本国内の選手契約に関するクラブとの交渉において、選手を代理できるエージェ ントと呼ばれる人間を備えている。日本プロサッカー選手会は、そのエージェントのリス トを紹介しすべての選手が活用することができるようになっているのだ。選手がエージェ ントに付くことで、移籍交渉を円滑かつ効率的に行うことができる。またしっかりとした 契約条件のもと選手に何の不満も残すことなく、サッカーに集中することができるのでは ないのではないだろうか。 12参考:日本プロサッカー選手会 http://www.j-pfa.or.jp/ 15 第五章 インタビュー 第一節 インタビュー内容 日本サッカー界において、今プロの舞台で活躍をしている選手達に様々な取り組みをし ているということは、前章で述べてきた。そして、この研究を進めるにあたって、その取 り組みがすべての選手にしっかりと届いているのかという疑問が沸いてきた。 そこで今回、私が所属をしていた体育会サッカー部のコーチの方にインタビューを行っ た。以後、省略するために体育会サッカー部のコーチを A コーチとする。A コーチは大学 サッカー出身で、卒業をした後 J1、J2、JFL、地域リーグと様々なカテゴリーでサッカー 人生を送ってきたため、それぞれの環境差、周りの選手の状況、セカンドキャリアを中心 に伺ってきた。インタビューの内容としては、以下の質問をし、回答を頂いた。 1. サッカー選手になった経緯、目指したきっかけ、どのようにしてプロになったのか教 えてください。 2. プロサッカー選手における経歴、現状(契約、給料、クラブの環境の差、周りの選手) を教えてください。 3. 引退を選んだ理由(戦力外通告、怪我、その他の理由)を教えてください。 4. トライアウトとはどういうもので、受けましたか。 5. 「プロサッカー選手→コーチ」になった経緯は何ですか。 6. 引退後の生活、環境におけるギャップはありましたか。 7.周りで引退した人のセカンドキャリアを教えてください。 8.日本サッカー協会の働きかけはあったのか教えてください。 9. 日本サッカー協会に対しての要望、改善点は何かあるか教えてください。 10.今の仕事に対してどう思いますか。 16 第二節 回答 では、A コーチの回答をみていく。 1.サッカー選手になった経緯、目指したきっかけ、どのようにしてプロになったのか 目指したきっかけは、1993 年Jリーグ開幕の影響が大きかった。小学校1年生からサッ カーを始めて、小学校中学年の頃にちょうど開幕してプロのサッカーを観に行ける環境が 身近にあったおかげで、目指すようになった。 そしてプロになるために高校時代は強豪校にスポーツ推薦で入学した。高校3年時はチ ームのキャプテンに就任するものの、公式戦に出場できたりできなかったりと苦しい状況 が続いていた。3年時の後半の時期にやっと試合に出場することができ、国体(県選抜)に も選出されたのだが、途中でメンバー落ちをしてしまい本大会に出場することはできなか った。そのためJ1のクラブから練習参加の声も掛かっていたのだが、その話もなくなっ てしまった。 そして大学に進路を変更しようとしたのだがタイミングが遅く、大学のセレクションは 何個か落ちてしまった。自分の実力や将来のことなどを考えた時に保健体育の教職課程を 取ることなども考えた。そんな中教職課程を取得することもでき、サッカーに専念するこ とのできる環境である東北の大学に進学を決めた。その大学で大学1年時からコンスタン トに試合に出場することができ、2年時からは東北選抜にも選出されていた。また東北を 代表してユニバーシアード(全日本大学選抜)の候補合宿に参加をした。そのときから全国 的にも注目されるようになりプロサッカー選手の練習参加に呼ばれるようになった。そし て大学4年時から特別強化指定選手になり、プロの世界をよりリアルに考えるようになっ た。そのままの流れでクラブと契約を結ぶことができ、プロサッカー選手になることがで きた。 2. プロサッカー選手における経歴、現状(契約、給料、クラブの環境の差、周りの選手) 大卒は即戦力でなければいけない。そのため戦力にならないと判断をされた場合たとえ 1年目でも酷い扱いを受けてしまう。酷い扱いとは、決して人間的に差別を受けるもので はなくて、練習で全く監督に見てもらえず、チーム内で孤立をしてしまうというものだ。 プロだからこそ実力におけるはっきりとした優劣が存在してしまう。この現状を大学4年 生の頃から練習参加をしていた頃から見てきたので、プロのチームに入団するときは相当 の覚悟を持っていかなければいけないと痛感した。幸いに在籍していた3年間 C 契約の上 限のお金で契約をすることができていた。しかし1年で契約を打ち切られた選手もいると いう話を聞いた。J1の C 契約の給料は相当恵まれていて、何も支障なく十分に生活をす ることができていた。同じチームメイトの選手も生活に苦しんでいる人はいなかった。 4年目からは J2 のチームにレンタル移籍をした。当時のチームは J1 に昇格争いをして いて、チームの雰囲気や状態は非常に良かった。しかし環境の面はそこまで良い環境だと 17 は言えなかった。前チームがとても恵まれていると思い知らされた。筋力トレーニングの 器具や治療の器具にとっても大きな差があった。練習場はジプシーと呼ばれ、毎日転々と 別の場所で練習をすることも少なくなかった。またクラブハウスもなく、スポンサーが経 営している総合施設の一角の筋力トレーニング施設を一般のお客さんと一緒に使っていた。 周りの選手の給料も前チームの選手と比べると大きな差があった。特に高卒の選手は、寮 でご飯が出るから食費は問題ないものの自分自身で使えるお金は全くなく、年金もこのま ま 20 歳になったら払えないのではないかと心配になるほどの金額であったらしい。もち ろんチーム内には A 契約の選手もいる。しかしその選手たちも決して多くのお金をもらっ ているわけではなかった。 次は地域リーグのチームに入団して、即戦力として活躍をすることができ、良いスター トを切ることが出来ていた。またサッカー選手以外に他の仕事をやりながら生活をしてい た。その仕事は朝 7 時から野菜を並べて販売するというものであった。そのチーム自体が NPO(非営利組織)法人であったため、選手と契約を結ぶことはしなかった。つまりサッカー における給料は一切発生しないということである。チーム自体も地域のスポンサーからお 金を募り、会場の運営費や練習場のナイター代や遠征費などは選手が払わなくていいよう に努めていた。生活面のサポートもしっかり行われていた。また正社員として企業で働く ことが出来ていた。毎朝 6 時に出社をして 9 時からのオープンに備えていた。1 時間の昼 休憩を挟み、夕方の 4 時が定時のためそこで仕事を終える。その後夜の 7 時から 9 時まで 練習をする。そして次の日も朝が早いのですぐに帰宅して床に就く。そんな毎日の繰り返 しをしていた。 そんな矢先に公式戦で大怪我をしてしまった。そして仕事とサッカーの両立を強いられ ていたので、怪我を治すことに専念することができないと判断した。そのため正社員とし て雇われていた仕事を辞め、所属をしていたクラブも退団をして無職となった。そして千 葉の実家に帰りリハビリをひたすら行った。その時 26 歳であった。給料が発生しないのに、 年金と車の税金を払わなければいけなかった。幸いに J1、J2 の時に貯めていたお金で工面 することができた。 順調にリハビリが行われている時にたまたま JFL のチームからからの練習参加の打診が り、ラストチャンスだと思って参加をした。そこで結果を残すことができたため、契約を 結ぶことができたのだが、今までの契約の中で一番厳しい契約条件であった。しかし何が なんでもサッカーを続けたいという強い思いとクラブに対する感謝の思いからプレーをす ることに決めた。生活することすらままならないため、自分にとって勝利給というものが 大きな救いとなっていた。チームの勝利が生活にダイレクトに影響してくるとてつもない プレッシャーを感じながら邁進することができていた。結果的に 2,3 か月負けなしの時期 もあった。その当時の印象としてはとても楽しかった。負けたら生活できないという精神 的にとても苦しい状況下におかれ、勝った、負けたにここまで一喜一憂でき、貪欲にボー ルを追い続けた日々が非常に刺激的であった。 その活躍も認めらえれ、次の年の契約では給料を倍にすることができた。しかし監督が 交代し最初こそ試合に出場することができていたものの、途中から一切出場することがで きなくなった。チームも全く勝てなくなってしまった。そして戦力外通告を言い渡され、 選手として、1人の人間としての将来を考えた上で引退を決意した。 18 3. 引退を選んだ理由(戦力外通告、怪我、その他の理由) 引退を選んだ理由は、プレーヤーとしての限界ややりきった満足感を得たからである。 何かしらの形でサッカー選手を続けることももちろん可能であった。しかし自分の中で最 も大きく影響したのは家族の存在である。今の状況では、十分に家族を養っていくことが できないと判断をした。また度重なる怪我も少なからず引退を決める上で影響があった。 4. トライアウトとはどういうものなのか、受けたのか 2チーム目のクラブから戦力外通告をうけてしまったため、トライアウトを受けること にした。トライアウトは単にテストを受けるという感覚は全くなかった。ただスパイクと ユニフォームを持って、申し込んだ所に行って知らないメンバーといきなりチームを組ん で殺伐とした空気の中で試合をする。そして笛が吹くとともに試合が終了し、出入り口の ところにいるスカウトの人や関係者から声がかかるかかからないかで次の人生が決まって しまう。トライアウトを受けた選手は地域リーグやカテゴリーを選ばなければ、約半分の 選手が決まる。また良い選手はトライアウトを受けずに入団が決まるケースもある。それ はトライアウトを申し込んだタイミングでリストに名前が載った段階で、契約が決まるこ とがあるのだ。また各チームに直接セレクションも受けに行った。J2 や地域リーグなど 3 チーム受けに行った。そして結局地域リーグのクラブに入団することを決めた。この時は まだまだ自分の実力はこんなものじゃないとやる気に満ち溢れ自信を持って取り組むこと が出来ていた。 5. 「プロサッカー選手からコーチ」になった経緯 プレーヤーとしての観点ではなく違った方面からサッカーを追求したいと考えた彼は、 サッカー選手の次になりたい夢であった指導者になることを決めた。引退するタイミング で所属していたチームのユース世代のコーチの枠が空いていたため就任することができた。 6. 引退後の生活、環境におけるギャップ ギャップは特になかった。コーチとして雇ってくれたクラブに対して恩返しをしたいと いう気持ちで、とにかく全力で仕事をすることができた。また教えている子どもたちの未 来を背負って仕事をしているため、そのプレッシャーを感じながらとても充実していた。 19 7. 周りで引退した人のセカンドキャリア J1 のチームにいた時の周りの引退を選択した選手のセカンドキャリアについてはその クラブがしっかりと働きかけをしてくれていた。それも一方通行の斡旋ではなく、本人の 意思や意向を尊重ししっかりと考えてくれていた。また日本プロサッカー選手会という組 織がセカンドキャリアのサポートとして支えてくれていた。引退して後に一般企業として 働く人に関しては、クラブや選手会からの斡旋はもちろんのこと、企業側からも募集が行 われている。 セカンドキャリアを歩む選手に最も大切な要素は、パーソナリティーである。 またパーソナリティーが原因としてチームから戦力外通告を受けてしまっている選手も多 かった。 8. 日本サッカー協会の働きかけはあったのか まずオフシーズンには、一般企業にチームから何人か派遣をして、インターンシップを 行う制度がある。紳士服売り場やコンビニ、スーパー、生鮮売り場など色々な仕事を体験 することができる。それは引退や戦力外を見据えた選手のためだけの職場体験などではな く、社会というものがどのように動いているのかといった関心のあるすべての選手が参加 することができる。また参加した選手の活動記録や内容が簡単なレポートになって参加を していない人に配られることで、情報を共有することのできる体制も整えてある。 9. 日本サッカー協会に対しての要望、改善点は何かあるか インターンシップなどの社会経験を全選手に必須にするべきであると考えた。サッカー ではなく一般の企業で働いている人はどのくらい働いて、どのくらいの給料をもらってい るのか、どのような仕事内容なのかというのを知るべきである。今の体制では、希望者を 募って参加したい人だけが参加をするこという形をとっている。逆に現役中希望をしない まま引退を迎えると、何も知らないまま社会に放り込まれ挫折をしてしまうケースが生ま れてしまう。 また「サッカー選手だから偉い」 「サッカー選手だから特別である」といった考え方を持 ったプライドの高い選手が多いために、引退した後に一般の社会人とうまく適応すること ができないという問題もある。サッカー選手は、たまたま運動能力が高く、たまたまその 能力を他人から評価され、お金が発生しているだけで、必ずしも偉ぶってはいけない。そ のようなプライドの高い選手が引退をして、違う仕事に就くことになった時に、変なアク シデントが起こらないために、一般の人の仕事に対する感覚であったり、物事に対する考 え方を理解していないといけない。その為に、すべての選手が社会経験をすることが大切 なのである。 20 10. 今の仕事に対してどう思うか 今は自分の新たな夢の為に、日々学ぶことが多く、充実している。人にも恵まれ今のチ ーム監督や他のコーチからより多くのことを吸収しようと努力を続けている。 第三節 インタビューを終えて インタビューをする前、全ての選手がセカンドキャリアに対する活動や取り組みの恩恵 を受けていないのではないのかと私は思っていた。しかし今回のインタビューからしっか りとした働きかけが行われていることが確認できた。しかしそれは、選手がセカンドキャ リアに進むことのできる権利を得ただけであって、必ずしも完璧な準備や経験をすること ができていないということも同時に知ることができた。私は、形式的に整えただけであっ て、実際は中身が全く伴っていないと捉えることもできると考える。 例を挙げてみると第四章の第二節で、今の条件であれば選手は契約満了の 6 か月前から 他のクラブと交渉・契約することができると述べた。しかし、たたえその年が契約最終年 だとしても、選手がシーズンの終了の 6 か月前に、クラブに契約更改の意思があるのか、 また既に戦力外と見なされているのかを知ることはほとんどないのが現状なのである。現 実的には、シーズン終了間際の 11 月や 12 月という時期になって初めて、来年どうすれば いいのかを考えなければいけないというケースが多いのである。つまり 12 月中旬に行わ れるトライアウトに参加をする選手のほとんどが、直前に戦力外通告を言い渡されそのシ ョックを引きずったまま人生を懸けたサバイバルに臨まなくてはいけないのである。 もちろんこの問題には、クラブ側にも事情がある。契約満了の 6 か月前に翌年以降の契 約の意思や戦力外通告を伝達するとなれば、それは必ずチームの全体の士気の低下に繋が ってしまうからである。またチーム状況は日々変化しているため、翌年の戦力を 6 か月前 に確定させるのは難しいのである。 しかし、選手の立場を考えるのであれば、シーズンの終了間際に戦力外通告を受けるの はとても苦しい。選手としての人生を続けるにしても、別のセカンドキャリアを選ぶにし ても、シーズンの終了間際に来年の契約を告知されたのでは、次に向けての準備をする期 間があまりにも短すぎる。また心の整理がつかないままサッカー選手としてのキャリアを 諦めてセカンドキャリアに進むほど、不本意なものはない。 クラブ側が時間的に余裕を持って、選手に来年の契約を伝えるべきである。またやはり インターンシップや就業体験を全選手に必須化することで、いきなり戦力外通告を言い渡 され、引退になってセカンドキャリアを歩むことになったとしても、しっかりとした経験 や準備ができている状況を少しでも作り出すことができるのではないだろうか13。 13 テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考法 日本のサッカーを強くする 25 の視点』 文藝春秋、2012 年 21 おわりに 今回の研究を通して、私が思っていたよりもプロサッカー選手の現役中の活動や将来に 対してしっかりと考えられていると感じた。しかしそれはまだまだ不十分で、選手とクラ ブ、日本サッカー協会の間でより良い連携を取り合っていかなければいけないと感じた。 私の所属する体育会サッカー部の中でも、将来プロサッカー選手を目指している人がたく さんいる。だがその人の多くが、 「サッカー選手は寿命も短いし、給料も少ない。なら安定 した一般の企業に就職をした方がいい」と不満を漏らしている。才能のある選手がこのよ うな理由でプロになることを諦めてしまうのは、とてももったいない気がする。現役中の 契約、給料などの体制を整えて、また引退後のセカンドキャリアへ進むことになったとき に、より円滑に進めてあげられるような環境作りをすることが重要なのであると私は考え る。 プロサッカー選手にスポットを当てて研究をした論文であったが、私は大学サッカーを 経験してきた立場として、今の大学サッカーに対して伝えたいことがある。それは全選手 に就職活動を必須するというものだ。幼稚園や小学校に始まり、中学校、高校とサッカー 漬けの毎日を送り、その才能を認められてスポーツ推薦で多くの選手が大学に入学してく る。そして大学においてもサッカーに情熱を注ぎ、プロサッカー選手という大きな夢を目 指して取り組んでいる。そのような選手たちがプロサッカー選手になり、またサッカーを 追求して努力を続ける。そして引退を迎えて社会に出るときに、サッカーのことしか分か らず、 一般の社会人と共に仕事をしていくことは難しくなってしまうのである。そのため、 大学生として社会を知ることができる機会である就職活動を経験することは、大切なこと なのである。つまりプロの世界だけではなく、育成年代やアマチュアのリーグなど全ての カテゴリーにおいて、選手の将来を考えてあげられるような仕組みを作ることが求められ ているのである。 22 【参考 URL】 Career Garden (2014/12/22 閲覧) http://careergarden.jp/soccer/salary/ http://careergarden.jp/soccer/naruniha/ J リーグ公式サイト キャリアサポートセンター(2015/1/4 閲覧) http://www.j-league.or.jp/csc/topic/ JPFA 日本プロサッカー選手会 (2015/1/4 閲覧) http://www.j-pfa.or.jp/ 【参考文献】 吉田毅 『競技者のキャリア形成史に関する社会学的研究 サッカーエリートの困難と再 生のプロセス』 道和書院、 2013 年 高橋義雄 『サッカー社会学』 NHK ブックス、 1994 年 宇都宮徹壱 『股旅フットボール 地域リーグから見た J リーグ「百年構想」の光と影』 東邦出版、 2008 年 テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考法 日本 のサッカーが世界一になるための 26 の提言』 文藝春秋、2014 年 テレビ東京 FOOT×BRAIN プロジェクトチーム 『フット×ブレインの思考法 日本 のサッカーを強くする 25 の視点』 文藝春秋、2012 年 23 あとがき 小学校から大学まで毎日のようにボールを追いかけてサッカーを追求してきて私は、プ ロサッカー選手にはなることはできなかった。そんな私がプロサッカー界の問題について 研究をすることは難しかったが、研究はとても面白かったというのが本音である。黒田ゼ ミでは2年半、人事労務管理論について研究を続けてきたわけだが、サッカー界に関して 言えばまだまだ人事労務管理論の概念は浸透していないと感じた。ただ、日本サッカー界 の進歩とともに少しずつ制度などが改善されていると思う。 そして、この論文を執筆するにあたり、インタビューに協力してくださった池上様に大 変感謝致します。池上様の協力のおかげで、実際の現場の声を知ることができ、納得のい く論文を書くことができました。ありがとうございました。 最後に、2年半このゼミでご指導頂いた黒田兼一教授に心から感謝致します。私は勝手 な行動により、ゼミの調和を乱すことがあり、教授には大変迷惑を掛けました。ただ、私 はここの黒田ゼミに入ることができて、黒田教授や同期、先輩方、後輩達と出会うことが できてとても良かったと思っています。黒田教授と黒田ゼミに感謝の気持ちを込めて、卒 業論文を締めたいと思います。 24
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