巻第七宣公

『春秋左氏伝』
巻第七 宣公
在位:前608年~前591年
魯の第二十一代目の君主
名は俀(タイ)
文公の子、母は敬嬴
1
『經』
・元年(前608年)
、春、王の正月、公、位に即く。
・公子遂、齊に如き女を逆う。
・三月、遂、夫人婦姜を以て齊自り至る。
・夏、季孫行父、齊に如く。
・晉、其の大夫胥甲父を衛に放つ。
・公、齊侯に平州に會す。
・公子遂、齊に如く。
・六月、齊人、濟西の田を取る。
・秋、邾子、來朝す。
・楚子・鄭人、陳を侵し、遂に宋を侵す。晉の趙盾、師を率いて陳を救う。
宋公・陳侯・衛侯・曹伯、晉の師に棐林に會し、鄭を伐つ。
・冬、晉の趙穿、師を帥いて祟を侵す。
・晉人・宋人、鄭を伐つ。
『傳』
・元年、春、王の正月、公子遂、齊に如き女を逆うとは、君命を尊ぶなり。
・三月、遂、夫人婦姜を以て齊自り至るとは、夫人を尊ぶなり。
・夏、季文子、齊に如き、賂を納れて以て會を請う。
・晉人、命を用いざる者を討じて、胥甲父を衛に放つ(杜注:胥甲、下軍に
佐たり、文十二年、河曲に戰い、秦に険に薄るを肯ぜず)
。而して胥克を立つ(杜
注:克は甲の子)
。
・平州に會して、以て公の位を定む。
・東門襄仲、齊に如き成ぎを拝す。
・六月、齊人、濟西の田を取るとは、公を立つるが為の故に、以て齊に賂う
なり。
・宋人の昭公を弒するや、晉の荀林父、諸侯の師を以いて宋を伐つ(文の十
七年に在り)。宋、晉と平ぎ、宋の文公、盟いを晉に受け、又諸侯に扈に會し、
将に魯の為に齊を討たんとす。皆賂を取りて還る。穆公曰く、
「晉は與するに足
らざるなり。
」遂に盟いを楚に受く。陳の共公の卒するや、楚人、禮せず。陳の
霊公、盟いを晉に受く。秋、楚子、陳を侵し、遂に宋を侵す。晉の趙盾、師を
帥いて陳・宋を救い、棐林に會して、以て鄭を伐つ。楚の蔿賈、鄭を救い、北
林に遇い、晉の解揚を囚う。晉人乃ち還る。
・晉、成ぎを秦に求めんと欲す。趙穿曰く、
「我、祟を侵せば、秦、祟を急と
し、必ず之を救わん。我以て成ぎを求めん。
」冬、趙穿、祟を侵す。秦、與に成
がず。
2
・晉人、鄭を伐ち、以て北林の役に報ゆ。是に於いて晉侯、侈れり。趙宣子、
政を為し、驟々(屡々に同じ)諫むれども入れず。故に楚に競わず。
『經』
・二年(前607年)
、春、王の二月壬子、宋の華元、師を帥いて、鄭の公子
歸生の帥いる師と、大棘に戰う。宋の師、敗績す。宋の華元を獲たり。
・秦の師、晉を伐つ。
・夏、晉人・宋人・衛人・陳人、鄭を侵す。
・秋、九月乙丑、晉の趙盾、其の君夷皐を弒す。
・冬、十月乙亥、天王崩ず。
『傳』
・二年、春、鄭の公子歸生、命を楚に受けて宋を伐つ。宋の華元・樂呂、之
を御(禦に通ず)ぐ。二月壬子、大棘に戰う。宋の師、敗績す。華元を囚らえ、
樂呂を獲て(
「囚」は捕らえられる、
「獲」は打ち取られるの意)
、甲車(兵車)
四百六十乘・俘二百五十人・馘百に及ぶ。狂狡、鄭人を輅(むかえる、楊注:
「輅」
は迎戰の意)う。鄭人、井に入る。戟を倒にして之を出だす。狂狡を獲(鄭人
が井戸に落ちて、狂狡が戟で助け出したが、鄭人が反って狂狡を打ち取った)。
君子曰く、
「禮を失い命に違う。宜なるかな其の禽と為るや。戎は、果毅を昭ら
かにして以て之を聽くを之れ禮と謂う。敵を殺すを果と為し、果を致すを毅と
為す。之を易えば、戮なり。
」将に戰わんとす。華元、羊を殺して士に食らわし
め、其の御羊斟は與えず。戰いに及び、曰く、
「疇昔(チュウ・セキ、前日)の
羊は、子、政を為せり、今日の事は、我、政を為さん(
「政」は自分が行うべき
こと、やりたい事の意)
。
」與に(華元を乗せて)鄭の師に入る。故に敗れたり。
君子謂う、
「羊斟は人に非ざるなり。其の私憾(私怨)を以て國を敗り民を殄(
「盡」
の意、全滅させること)くす。是に於いてか、刑孰れか焉より大ならん。詩(小
雅の角弓篇に在り)の所謂人の良無き者とは、其れ羊斟を之れ謂うか。民を残
(そこなう)いて以て逞(こころよし)くせり。
」宋人、兵車百乘・文馬百駟(文
馬は飾り立てた馬、駟は四頭なので四百頭)を以て、以て華元を鄭に贖う。半
ば入りしとき、華元逃れて歸る。門外に立ち、告げて入る。叔牂(羊斟)を見
て、曰く、「子の馬然るなり。」對えて曰く、「馬に非ざるなり。其れ人なり。」
既に合(杜注:
「合」は猶ほ「答」なり)えて來奔す。宋城く。華元、植と為り
(杜注:「植」は将主なり。普請奉行の意)、功(土木工事)を巡る。城く者謳
いて曰く、
「睅(カン)たる其の目、皤(ハ)たる其の腹(杜注:
「睅」は出目、
「皤」は大腹)、甲を棄てて復る。于思于思(杜注:于思は鬚多きの貌)、甲を
棄てて復り來たる。
」其の驂乘をして之に謂わしめて曰く、
「牛には則ち皮有り、
3
犀兕(犀の皮と兕の皮、牛の皮と共に甲を作る材料。兕は楊注に、野牛の如く
して青と云う)は尚ほ多し。甲を棄つるは邦ぞ(杜注:
「邦」は猶ほ「何」なり。
宋の國には甲を造る材料の皮は沢山あるので、甲を棄てるぐらいどうしたと言
うのだ)。」役人曰く、「縦(たとい)い其れ皮有るも、丹漆は若何せん。」華元
曰く、
「之を去れ。夫は其の口衆く我は寡し。
」
・秦の師、晉を伐つは、以て祟に報ゆるなり。遂に焦を圍む。夏、晉の趙盾、
焦を救い、陰地自り諸侯の師と鄭を侵して、以て大棘の役に報ゆ。楚の鬭椒、
鄭を救う。曰く、
「能く諸侯を欲して、其の難を惡まんや(諸侯との同盟を望み
ながら、それが難儀に遇っているのを見逃すことが出来るだろうか、出来な
い)
。
」遂に鄭に次り、以て晉の師を待つ。趙盾曰く、
「彼の宗、楚に競し(杜注:
「競」は「強」なり)。殆ど将に斃れんとす。姑く其の疾を益さん。」乃ち之を
去る。
・晉の霊公、不君なり。厚く斂して以て牆に彫る(税を重くして、それで宮
殿の土塀を美しく彫刻した)
。臺上從り人を弾して、其の丸を辟くるを觀る。宰
夫、熊蹯を胹て熟せず(「宰夫」は料理長、「熊蹯」は熊の掌、「胹」は煮る)。
之を殺して、諸を畚(ホン、草の縄で作ったもっこ)に寘(
「寘」は「置」
)き、
婦人をして載せて以て朝を過らしむ。趙盾・士季、其の手を見(死体の手が、
もっこからはみ出しているのを見た)
、其の故を問いて、之を憂う。将に諫めん
とす。士季曰く、
「諫めて入らずんば、則ち之を繼ぐもの莫からん(趙盾は正卿
で家臣のトップなので、諫めて聞き入れられなかったら、次に続く者はいない)
。
會、請う先んぜん。入らずんば、則ち子、之を繼げ。
」三たび進んで、溜に及び
て、而る後に之を視て(楊注:士會、前に進むこと三次、最後に階間の霤(軒
下)に及び、晉霊始めて頭を挙げ目を張りて之を視る、前の兩次の進は、晉霊
偽装して見ず)
、曰く、
「吾、過つ所を知る。将に之を改めんとす。
」稽首して對
えて曰く、「人誰か過ち無からん。過ちて能く改むる、善焉より大なるは莫し。
詩(大雅の蕩の句)に曰く、『初め有らざる靡し、克く終わり有ること鮮し。』
夫れ是の如きは、則ち能く過ちを補う者は鮮し。君、能く終わり有らば、則ち
社稷の固めなり。豈に惟だ羣臣のみ之に頼らんや(社稷の安泰は、臣下だけが
そのおかげを被るものではありません)
。又曰く(
『詩経』大雅の烝民の句)
、
『袞
職闕有らば(「袞」(コン)は天子と三公の着る礼服、三公の職に就いている者
に失政が有れば)、惟だ仲山甫(周の宣王の賢臣)之を補う。』能く過ちを補う
なり。君、能く過ちを補わば、袞は廢れざらん(袞は三公を指すが、霊公に例
えている)
。
」猶ほ改めず。宣子驟々(しばしば)諫む。公、之を患う。鉏麑(シ
ョ・ゲイ)をして之を賊せしめんとす。晨に往く。寝門(趙盾の寝所の門)闢
けり。盛服して将に朝せんとす。尚ほ早し。坐して假寐(カ・ビ、杜注:衣冠
を解かずして睡る)す。麑退きて、歎じて言いて曰く、
「恭敬を忘れざるは、民
4
の主なり。民の主を賊するは、不忠なり。君の命を棄つるは、不信なり。此に
一有るは、死するに如かざるなり。
」槐に觸れて死せり(槐の木に頭をぶつけて
死んだ)
。秋、九月、晉侯、趙盾に酒を飲ましめ、甲を伏せて、将に之を攻めん
とす。其の右提彌明(シ・ビ・メイ、趙盾の車右)之を知る。趨り登りて曰く、
「臣、君の宴に侍り、三爵を過ぐるは(「爵」は杯、三杯以上飲むのは)、禮に
非ざるなり。
」遂に扶けて以て下る。公、夫の獒(ゴウ、猛犬)を嗾(ソウ、け
しかける意)す。明、搏ちて之を殺す。盾曰く、
「人を棄てて犬を用う。猛しと
雖も何をか為さん。
」鬭い且つ出づ。提彌明之に死す。初め、宣子、首山に田し、
翳桑(エイ・ソウ)に舎す。霊輒(レイ・チョウ)の餓えたるを見て、其の病
を問う。曰く、「食らわざること三日。」之に食らわす。其の半ばを舎く。之を
問う。曰く、「宦すること三年(「宦」は物事を学ぶために人に奉公すること)。
未だ母の存否を知らず。今近し。請う以て之を遺らん。」之を盡くさせしめて、
之が為に食と肉を箪にし(竹のかごに詰める意)
、諸を橐(タク、袋)に寘きて
以て之に與う。既にして公の介(甲士)為るに與る。戟を倒にして以て公の徒
を禦ぎて之を免れしむ。何の故ぞと問う。對えて曰く、「翳桑の餓人なり。」其
の名と居とを問う。告げずして退く。遂に自ら亡ぐ。乙丑、趙穿、霊公を桃園
に殺す。宣子未だ出でずして復る。大史書して曰く、「趙盾、其の君を弒す。」
以て朝に示す。宣子曰く、
「然らず。
」對えて曰く、
「子は正卿為り。亡げて竟を
越えず、反りて賊を討たず。子に非ずして誰ぞ。
」宣子曰く、
「鳴呼、詩に曰く、
『我の懐い、自ら伊(「是」の義)の慼(うれい)いを詒(「遺」の義)す(私
のいろいろな思いを、何とかしようと思っているうちに、このようになってし
まった)。』其れ我を之れ謂う。」孔子曰く、「董狐(大史)は、古の良史なり。
法を書して隠さず。趙宣子は、古の良大夫なり。法の為に惡を受く。惜しいか
な、竟を越えば乃ち免れん。
」宣子、趙穿をして公子黒臀(晉の成公)を周より
逆えしめて之を立つ。壬申、武宮に朝す(楊注:武宮は、曲沃武公の廟なり、
晉侯は即位する毎に、必ず之に朝す)
。
・初め、麗姫の亂に、羣公子を畜うこと無からんと詛(ちかう)う。是れ自
り晉に公族無し。成公位に即くに及びて、乃ち卿の適を宦して之に田を為(あ
たえる)えて、以て公族と為す。又其の餘子(嫡子と母を同じくする弟)を宦
して、亦た餘子(この餘子は官名)と為す。其の庶子を公行と為す。晉、是に
於いて公族・餘子・公行有り。趙盾、括を以て公族と為さんことを請う。曰く、
「君姫氏の愛子なり(楊注:君姫氏即ち趙姫は、晉の文公の女、趙衰に嫁ぎて
趙括を生む者なり。晉の成公に於いて姊弟なり)
。君姫氏微かりせば、則ち臣は
狄人なり。
」公、之を許す。冬、趙盾、旄車の族と為り(杜注:旄車は公行の官。
趙盾は正卿で公族であったが、括を公族にさせたので、自ら公行の位まで退い
た)
、屏季(趙括)をして其の故族(趙盾が率いる趙夙以来の一族)を以て公族
5
大夫と為さしむ。
『經』
・三年(前606年)
、春、王の正月、郊牛(郊祭用の牛)の口傷る。改めて
牛を卜す。牛死す。乃ち郊せず。猶ほ三望す。
・匡王を葬る。
・楚子、陸渾の戎(地名)を伐つ。
・夏、楚人、鄭を侵す。
・秋、赤狄、齊を侵す。
・宋の師、曹を圍む。
・冬、十月丙戌、鄭伯蘭卒す。
・鄭の穆公を葬る。
『傳』
・三年、春、郊せずして望せるは、皆禮に非ざるなり。望は、郊の屬なり。
郊せざれば、亦た望すること無くして可なり。
・晉侯、鄭を伐ち、延に及ぶ。鄭、晉と平ぐ。士會(晉の人)入りて盟う。
・楚子、陸渾の戎を伐ち、遂に雒(雒水)に至り、兵を周の彊に觀す。定王、
王孫満をして楚子を勞わしむ。楚子、鼎の大小輕重を問う。對えて曰く、
「徳に
在りて鼎に在らず。昔、夏の方に徳有るや、遠方は物を圖き、金を九牧に貢し、
鼎を鑄て物を象り、百物にして之が備えを為し、民をして神姦を知らしむ(杜
注:鬼神百物の形を圖き、民をして之を逆備せしむ)
。故に民、川澤山林に入り
て、不若(杜注:
「若」は「順」なり。妖怪や己を害する者)に逢わず。魑魅罔
兩、能く之に逢うこと莫し。用(
「以」の義)て能く上下を協(かなう)え、以
て天休を承く(「休」は「賜」、杜注:民、災害無ければ、則ち上下和して天祐
を受く)
。桀に昏徳有りて、鼎は商に遷る。載祀六百、商の紂、暴虐にして、鼎
は周に遷る。徳の休明(楊注:「休」は「美」なり、「明」は「光明」なり、休
明は猶ほ美善光明を謂う)ならば、小なりと雖も重きなり。其の姦回(よこし
ま)昏亂ならば、大なりと雖も輕きなり。天、明徳に祚するや(
「祚」は「福」
、
福を与える)
、底止(
「底」は「至」
、至り止まるで、限度の意)する所有り。王、
鼎を郟ジョク(コウ・ジョク、ジョクは“おおざとへん”に“辱”の字、周の
旧都)に定め、世を卜するに(天子が何代続くか卜う)三十、年を卜する(何
年続くかを卜う)に七百、天の命ずる所なり。周徳、衰うと雖も、天命未だ改
まらず。鼎の輕重、未だ問う可からざるなり。
」
・夏、楚人、鄭を侵すは、鄭、晉に即くが故なり。
・宋の文公、位に即きて三年、母弟の須と昭公子とを殺すは、武氏を之れ謀
6
るなり。戴・桓の族をして武氏を司馬子伯の館に攻めて、盡く武・穆の族を逐
わしむ。武・穆の族、曹の師を以いて宋を伐つ。秋、宋の師、曹を圍むは、武
氏の亂に報ゆるなり。
・冬、鄭の穆公卒す。初め、鄭の文公に賤妾有り、燕姞(キツ)と曰う。夢
に、天使(天の使者)、己に蘭を與えて、曰く、「余は伯鯈(ハク・チュウ)為
り。余は而の祖なり。是を以て而の子と為さん(楊注:蘭を以て其の子と為す
なり、杜注に、蘭を以て女子の名と為すと謂うは、恐らく傳の意に非ず。楊注
の説が正しいと思う)
。蘭に國香(國で一番の香り)有るを以て、人の之に服媚
(楊注:「服」は「佩」、「媚」は「愛」、佩びて之を愛するなり。之に従いて愛
する意)すること是の如くならん。
」既にして文公、之を見て、之に蘭を與えて
之を御(寝所に入れる意)せんとす。辭して曰く、
「妾、不才なり、幸いにして
子有るも、将に信ぜられざらんとす。敢て蘭を徴とせんか。
」公曰く、
「諾。
」穆
公を生む。之に名づけて蘭と曰う。文公、鄭子の妃に報ず(杜注:鄭子は文公
の叔父の子儀なり、漢律に季父の妻に淫するを報と曰う)
。陳嬀と曰う。子華と
子臧とを生む。子臧、罪を得て出す。
(文公は)子華を誘いて之を南里に殺し(僖
公十六年の傳に見える)
、盗をして子臧を陳・宋の間に殺さしむ(僖公二十四年
の傳に見える)
。又江に娶り、公子士を生む。楚に朝す。楚人、之を酖す。葉(シ
ョウ、楚の地)に及びて死す。又蘇に娶り、子瑕・子兪彌(シ・ユ・ビ)を生
む。兪彌は早く卒す。洩駕、瑕を惡み、文公も亦た之を惡む。故に立たず。公、
羣公子を逐う。公子蘭、晉に奔り、晉の文公に從いて鄭を伐つ。石癸曰く、
「吾
聞く、姫と姞と耦すれば、其の子孫は必ず蕃らん。姞は吉人なり。后稷の元姫
なり。今、公子蘭は姞の甥なり。天或いは之を啓かば、必ず将に君と為らんと
す。其の後は必ず蕃らん。先づ之を納れば、以て寵を亢(林注:
「亢」は「極」
なり)む可し。
」孔将鉏・侯宣多と之を納れ、大宮(杜注:大宮は鄭の祖廟)に
盟いて之を立て、以て晉と平ぐ。穆公、疾有り。曰く、「蘭死(「枯」に読む)
れしとき、吾其れ死せんか。
」蘭を刈りて卒す。
『經』
・四年(前605年)
、春、王の正月、公、齊侯と莒と郯とを平げんとす。莒
人、肯ぜず。公、莒を伐ち、向を取る。
・秦伯稻(トウ)卒す。
・夏、六月乙酉、鄭の公子歸生、其の君夷を弒す。
・赤狄、齊を侵す。
・秋、公、齊に如く。
・公、齊自り至る。
・冬、楚子、鄭を伐つ。
7
『傳』
・四年、春、公、齊侯と莒と郯とを平げんとす。莒人、肯ぜず。公、莒を伐
ち、向を取るは、禮に非ざるなり。國を平ぐるには禮を以てして、亂を以てせ
ず。伐ちて治めざるは、亂なり。亂を以て亂を平げんとす。何の治まることか
之れ有らん。治まる無くんば、何を以て禮を行わん。
・楚人、黿(ゲン、大きいスッポン)を鄭の霊公に獻ず。公子宋(子公)と
子家と将に見えんとす。子公の食指動く。以て子家に示して曰く、「他日、我、
此の如くなれば、必ず異味を嘗めり。」入るに及び、宰夫将に黿を解かんとす。
相視て笑う。公、之を問う。子家以て告ぐ。大夫に黿を食らわしむるに及び、
子公を召して與えず。子公怒り、指を鼎に染めて、之を嘗めて出づ。公、怒り、
子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんと謀る。子家曰く、
「畜の老いたる
すら、猶ほ之を殺すを憚る。而るを況や君をや。
」反って子家を譖る。子家、懼
れて之に從う。夏、霊公を弒す。書して、鄭の公子歸生(子家)
、其の君夷を弒
すと曰うは、權足らざればなり(子家に子公を抑えるだけの権力が無かったこ
とを謂う)。君子曰く、「仁なれども武(武断の勇気)ならざれば、能く達する
こと無きなり(杜注:初め畜老を稱するは仁なり、子公を討たざるは、是れ不
武なり、故に自ら仁道に適うこと能わずして、君を弒するの罪に陥るなり)。」
凡そ君を弒するに、君を稱するは、君無道なり。臣を稱するは、臣の罪なり。
鄭人、子良(公子去疾)を立つ。辭して曰く、
「賢を以てすれば、則ち去疾は足
らず。順を以てすれば、則ち公子堅は長ぜり。
」乃ち襄公(公子堅)を立つ。襄
公、将に穆氏を去りて、子良を舎かんとす。子良可かず。曰く、
「穆氏宜しく存
すべきは、則ち固より願いなり。若し将に之を亡ぼさんとすれば、則ち亦た皆
な亡びん。去疾何ぞ為さん。
」乃ち之を舎き、皆な大夫と為す。
・初め、楚の司馬子良(令尹子文の弟)
、子越椒(ショウ)を生む。子文曰く、
「必ず之を殺せ。是の子なるや、熊虎の状にして豺狼の聲なり。殺さずんば、
必ず若敖氏を滅ぼさん(林注:子文・子良皆な楚の若敖の子孫)
。諺に曰く、
『狼
子は野心なり(林注:豺狼の子の心は山野に在り馴服す可からず)。』是れ乃ち
狼なり。其れ畜う可けんや。
」子良、可かず。子文、以て大慼(
「慼」
(セキ)は
「患」)と為す。将に死せんとするに及び、其の族を聚めて曰く、「椒や政を知
らば(
「知」は「司」の義)
、乃ち速やかに行れ。難に及ぶこと無かれ。
」且つ泣
きて曰く、
「鬼猶ほ食を求めば、若敖氏の鬼、其れ餒えざらんや(
「餒」は「餓」
、
「而」は終助詞、反語の意)
。令尹子文卒するに及び、鬭般は令尹と為り、子越
(子越椒)は司馬と為る。蔿賈は工正(林注:工正は百官を掌るの長)と為り、
子揚(鬭般)を譖りて之を殺し、子越は令尹と為り、己は司馬と為る。子越又
之を惡む。乃ち若敖氏の族を以て伯嬴(蔿賈)を轑(ロウ)陽に圄(とらえる。
8
杜注:
「圄」は「囚」なり)らえて之を殺す。遂に蒸野に處り、将に王を攻めん
とす。王、三王の子(文王・成王・穆王の子孫)を以て質と為す。受けず。漳
(漳水)の澨(ゼイ、みぎわ)に師す。秋、七月戊戌、楚子、若敖氏と皐滸に
戰う。伯棼(子越椒)
、王を射る。輈を汰(杜注:
「輈」
(チュウ)は、車の轅(な
がえ)、「汰」は「過」なり)ぎて鼓跗(太鼓を乗せる台)に及び、丁寧(鼓跗
の下に付けた銅鑼)に著く。又射る。輈を汰ぎて、以て笠轂(笠状の車の覆い
の骨軸が集まる頂上)を貫く。師懼れて退く。王、師に巡(となえる、楊注:
「巡」
は「徇」なり)えしめて曰く、
「吾が先君文王、息に克ちて三矢を獲たり。伯棼、
其の二を竊む。是に盡きたり。」鼓して之を進め、遂に若敖氏を滅ぼす。初め、
若敖、鄖に娶り、鬭伯比を生む。若敖卒し、其の母に從いて鄖に畜わる。鄖子
の女に淫し、子文を生む。鄖夫人、諸を夢中(「夢」は雲夢の澤)に棄てしむ。
虎、之に乳す。鄖子、田して之を見、懼れて歸る。夫人以て告ぐ。遂に之を収
めしむ。楚人、乳を穀(コウ)と謂い、虎を於莵と謂う。故に之に命づけて鬭
穀於莵と曰う。其の女を以て伯比に妻わす。實に令尹子文為り。其の孫箴尹(シ
ン・イン、杜注:箴尹は官名)克黄、齊に使いし、還りて宋に及びて、亂を聞
く。其の人曰く(楊注:其の人は、克黄の従者)
、
「以て入る可からず。
」箴尹曰
く、
「君の命を棄てば、獨り誰か之を受けん。君は天なり。天は逃がる可けんや。
」
遂に歸りて復命して、自ら司敗(楊注:楚の司法を主どるの官)に拘わる。王、
子文の楚國を治めしを思いて曰く、
「子文にして後無ければ、何を以て善を勸め
ん。
」其の所(元の官職箴尹)に復せしめ、改めて命づけて生と曰う。
・冬、楚子、鄭を伐つは、鄭未だ服せざればなり。
『經』
・五年(前604年)
、春、公、齊に如く。
・夏、公、齊自り至る。
・秋、九月、齊の高固、來たりて叔姫を逆う。
・叔孫得臣卒す。
・冬、齊の高固、子叔姫と來たる。
・楚人、鄭を伐つ。
『傳』
・五年、春、公、齊に如く。高固、齊侯をして公を止めしめて、叔姫を請う
(杜注:公を留めて昏を成すを強いる)
。
・夏、公、齊自り至るとは、過ぐるを書するなり(杜注は「過」を過ちと解
し、叔姫との成婚のことを言う、会箋は滞在が長すぎたと解釈している。今は
会箋に従っておく)
。
9
・秋、九月、齊の高固、來たりて女を逆うるは、自ら為にするなり。故に書
して叔姫を逆うと曰うは、卿自ら逆うるなり。
・冬、來たるは、馬を反すなり(杜注によれば、女が実家より車馬で嫁ぎ、
三か月後の嫁ぎ先の廟に挨拶をして、馬だけを反す禮)
。
・楚子、鄭を伐つ。陳、楚と平ぐ。晉の荀林父、鄭を救いて、陳を伐つ。
『經』
・六年(前603年)
、春、晉の趙盾・衛の孫免、陳を侵す。
・夏、四月。
・秋、八月、螽(シュウ、いなご)あり。
・冬、十月。
『傳』
・六年、春、晉・衛、陳を侵すは、陳、楚に即くが故なり。
・夏、定王、子服(周の大夫)をして后を齊に求めしむ。
・秋、赤狄、晉を伐ち、懐と邢丘とを圍む。晉侯、之を伐たんと欲す。中行
桓子(荀林父)曰く、「其の民を疾ましめて、以て其の貫を盈たさば(「貫」は
銭さしで、
「盈貫」は「満貫」で、銭さしが一杯になって、それ以上させないこ
とから、物事の極点の状態をいう、ここでは赤狄の兵士の疲れが極点に達した
ときを謂う)、将に殪(たおす)さんとす可きなり。周書(『尚書』康誥)に曰
く、『戎殷を殪す(「戎」は「大」の意で、戎殷は、大いなる殷、紂王の非道を
待って、大いなる殷を倒すという意味)
。
』とは、此の類を之れ謂うなり。
・冬、召桓公(周の卿士)
、王后を齊に逆う。
・楚人、鄭を伐ち、成ぎを取りて還る。
・鄭の公子曼満、王子伯廖(杜注は鄭の大夫とするが、会箋は楚の大夫とす
る、会箋の説が妥当)と語り、卿為らんと欲す。伯廖、人に告げて曰く、
「徳無
くして貪る。其れ周易に在りては、豊、離に之くなり(豊の卦が変じて離の卦
になる、豊の爻辭に、三年までに亡ぶようなことが書いてある)
。之に過ぎず。
」
一歳を間てて、鄭人、之を殺す。
『經』
・七年(前602年)
、春、衛侯、孫良夫をして來盟せしむ。
・夏、公、齊侯に會して、莱を伐つ。
・秋、公、莱を伐つ自り至る。
・大いに旱す。
・冬、公、晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯に黒壌に會す。
10
『傳』
・七年、春、衛の孫良夫、來盟するは、始めて通じ、且つ晉に會せんことを
謀るなり。
・夏、公、齊侯に會して莱を伐つは、與に謀らざるなり。凡そ師の出づる、
與に謀るを及と曰い、與に謀らざるを會と曰う。
・赤狄、晉を侵し、向陰の禾を取る。
・鄭、晉と平ぐ。公子宋の謀なり。故に鄭伯を相けて以て會す。冬、黒壌に盟
う。王叔桓公(周の卿士)、之に臨みて、以て不睦を謀る。晉侯の立つや、公、
朝せず、又大夫をして聘せしめず。晉人、公を會に止む。黄父(杜注:黄父は
即ち黒壌なり)に盟うも、公、盟いに與らず。賂を以て免る。故に黒壌の盟書
せざるは(楊注:黒壌只會を書し、盟いを書せず)
、之を諱むなり。
『經』
・八年(前601年)
、春、公、會自り至る。
・夏、六月、公子遂、齊に如き、黄に至りて乃ち復る。
・辛巳、大廟に事有り(楊注:「有事」は、禘祭なり。祖先の祭り)。仲遂、
垂に卒す。壬午、猶ほ繹(エキ、正祭の翌日に行う小祭、辛巳は六月十七日、
正祭である禘祭を行い、翌日壬午の十八日に小祭を行った)す。萬入りて籥を
去(すてる)つ(
「萬」は舞の名、
「籥」
(ヤク)は笛、仲遂の死を憚って、笛の
使用をやめた)
。
・戊子、夫人嬴氏薨ず。
・晉の師・白狄、秦を伐つ。
・楚人、舒蓼を滅ぼす。
・秋、七月甲子、日之を食すること有り。既く(皆既日食)
。
・冬、十月己丑、我が小君敬嬴を葬る。雨ふりて葬ること克(楊注:
「克」は
「能」なり)わず。庚寅(翌日の二十七日)
、日中にして克く葬る。
・平陽(魯の邑)に城く。
・楚の師、陳を伐つ。
『傳』
・八年、春、白狄、晉と平ぐ。夏、晉に會して秦を伐つ。晉人、秦の諜を獲
え、諸を絳市に殺す。六日にして蘇る。
・大廟に事有り。襄仲卒して繹するは、禮に非ざるなり。
・楚、衆舒の叛くが為の故に、舒蓼を伐ちて、之を滅ぼす。楚子、之を彊し
(杜注:其の界を正すなり)
、滑汭(
「滑」は「滑水」
、
「汭」は川の隈)に及び、
11
呉・越に盟いて還る。
・晉の胥克、蠱疾(コ・シツ、精神病の一種、或いは胃腹の病二説がある、ど
ちらでもよい)有り。郤缺、政を為す(楊注:趙盾已に死し、郤缺、之に代わ
りて政を為す)
。秋、胥克を廢して、趙朔をして下軍に佐たらしむ。
・冬、敬嬴を葬る。旱して麻無し。始めて葛茀を用う(「茀」(フツ)は柩車
を引く縄、日照りで麻が無かったので葛の縄を使った)
。雨ふりて、葬ること克
わざるは、禮なり。禮に、葬を卜するに、遠日を先にするは、懐わざるを避く
るなり(二つ以上の日を卜するときは、遠い日を優先する、それは死者の事を
思わずに、早く葬りたいと思われることを避けるためである)
。
・平陽に城くとは、時なるを書するなり。
・陳、晉と平ぐ。楚の師、陳を伐ち、成ぎを取りて還る。
『經』
・九年(前600年)
、春、王の正月、公、齊に如く。
・公、齊自り至る。
・夏、仲孫蔑、京師に如く。
・齊侯、莱を伐つ。
・秋、根牟(國名)を取る。
・八月、滕子卒す。
・九月、晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯、扈(鄭の地)に會す。
・晉の荀林父、師を帥いて陳を伐つ。
・辛酉、晉侯黒臀、扈に卒す。
・冬、十月癸酉、衛侯鄭卒す。
・宋人、滕を圍む。
・楚子、鄭を伐つ。
・晉の郤缺、師を帥いて鄭を救う。陳、其の大夫洩冶を殺す。
『傳』
・九年、春、王、來たりて聘を徴せしむ(楊注:
「徴聘」とは、意は魯が使い
を遣わして周に往きて聘問することを示すなり)
。夏、孟獻子、周に聘す。王以
て禮有りと為し、厚く之を賄う。
・秋、根牟を取るは、易きを言うなり(易は、やすく手に入れること)
。
・滕の昭公卒す。
・扈に會するは、不睦を討ずるなり。陳侯、會せず。晉の荀林父、諸侯の師
を以いて陳を伐つ。晉侯、扈に卒す。乃ち還る。
・冬、宋人、滕を圍むは、其の喪に因りてなり。
12
・陳の霊公、孔寧・儀行父と夏姫に通じ(杜注:二子は陳の卿、夏姫は鄭の
穆公の女、陳の大夫御叔の妻)、皆其の衵服(ジツ・フク、肌着)を衷(うち、
楊注:内に着るを謂う)にし、以て朝に戯る。洩冶諫めて曰く、
「公・卿、淫を
宣(林注:
「宣」は「示」なり)さば、民、效(ならう)うこと無からんや。且
つ聞(声聞、評判)令(
「善」の意)からず。君、其れ之を納れよ。
」公曰く、
「吾
能く改めん。
」公、二子に告ぐ。二子、之を殺さんことを請う。公、禁ぜず。遂
に洩冶を殺す。孔子曰く、
「詩(大雅の板の句)に云う、
『民の辟(杜注:
「辟」
は「邪」なり)多きに、自ら辟(のり、杜注:
「辟」は「法」なり)を立つるこ
と無かれ。
』とは、其れ洩冶を之れ謂うなり。
」楚子、厲の役の為の故に(杜注:
六年、楚、鄭を伐ち、成ぎを厲に取る、既に成ぎ、鄭伯、逃れて歸る、事は十
一年に見ゆ)
、鄭を伐つ。
・晉の郤缺、鄭を救う。鄭伯、楚の師を柳棼に敗る。國人皆喜ぶ。唯だ子良
のみ憂えて曰く、
「是れ國の災なり。吾、死すること日無からん。
」
『經』
・十年(前599年)
、春、公、齊に如く。
・公、齊自り至る。
・齊人、我に濟西の田を歸す(元年の傳に、濟西の田を納れて齊に賂いて以
て會を請う、とある)
。
・夏、四月丙辰、日之を食すること有り。
・己巳、齊侯元卒す。
・齊の崔氏、衛に出奔す。
・公、齊に如く。
・五月、公、齊自り至る。
・癸巳、陳の夏徴舒、其の君平國を弒す。
・六月、宋の師、滕を伐つ。
・公孫歸父、齊に如く。齊の惠公を葬る。
・晉人・宋人・衛人・曹人、鄭を伐つ。
・秋、天王、王季子をして來聘せしむ。
・公孫歸父、師を帥いて邾を伐ち、繹を取る。
・大水あり。
・季孫行父、齊に如く。
・冬、公孫歸父、齊に如く。
・齊侯、國佐をして來聘せしむ。
・饑ゆ。
・楚子、鄭を伐つ。
13
『傳』
・十年、春、公、齊に如く。我が服するを以ての故に、濟西の田を歸す。
・夏、齊の惠公卒す。崔舒、惠公に寵有り。高・國、其の偪るを畏る。公卒
して之を逐う。衛に奔る。書して崔氏と曰うは、其の罪に非ざればなり。且つ
告ぐるに族を以てして、名を以てせず。凡そ諸侯の大夫の違る(楊注:國を去
る違ると曰う)、諸侯に告げて曰く、「某氏の守臣某(杜注:上の某氏は姓、下
の某は名)、宗廟を守るを失う(君の宗廟を守るのに手落ちがあった)。敢て告
ぐ。
」玉帛の使い有る所の者(諸侯の使者、聘するとき玉帛を持参することから
このように言う。聘禮である)には則ち告ぐ。然らずんば則ち否らず。
・公、齊に如くは、喪に奔るなり(急いで出かけた意)
。
・陳の霊公、孔寧・儀行父と酒を夏氏に飲む。公、行父に謂いて曰く、
「徴舒
(陳の大夫御叔の妻夏姫が生んだ子)は女に似たり。」對えて曰く、「亦た君に
似たり。
」徴舒、之を病む。公出づ。其の厩自り射て之を殺す。二子、楚に奔る。
・滕人、晉を恃みて宋に事えず。六月、宋の師、滕を伐つ。
・鄭、楚と平ぐ。諸侯の師、鄭を伐ち、成ぎを取りて還る。
・秋、劉康公(周の使者、王季子のこと)
、來たりて聘に報ゆ(九年の夏、孟
獻子、周を聘するに対する返礼)
。
・師、邾を伐ち、繹を取る。
・季文子、初めて齊に聘す。
・冬、子家、齊に如くは、邾を伐つの故なり。
・國武子、來たりて聘に報ゆ(季文子の訪問に対する返礼)
。
・楚子、鄭を伐つ。晉の士會、鄭を救いて、楚の師を潁北に逐う。諸侯の師、
鄭を戍る。
・鄭の子家卒す。鄭人、幽公の亂を討じ(子家、鄭の霊公乃ち幽公を弒した
こと、四年の經傳に見える)
、子家の棺を斲りて、其の族を逐う。改めて幽公を
葬り、之に謚して霊と曰う。
『經』
・十有一年(前598年)
、春、王の正月。
・夏、楚子・陳侯・鄭伯、辰陵(杜注:辰陵は陳の地)に盟う。
・公孫歸父、齊人に會して莒を伐つ。
・秋、晉侯、狄に櫕函(サン・カン、狄の地)に會す。
・冬、十月、楚人、陳の夏徴舒を殺す。
・丁亥、楚子、陳に入る。
・公孫寧・儀行父を陳に納る。
14
『傳』
・十一年、春、楚子、鄭を伐ち、櫟(レキ)に及ぶ。子良(鄭の公子去疾)
曰く、
「晉・楚、徳を務めずして兵争す。其の來たる者に與して可なり(攻めて
きた者に味方しておけばよい)。晉・楚、信無し。我焉ぞ信有るを得ん。」乃ち
楚に從う。夏、楚、辰陵に盟うは、陳・鄭、服すればなり。
・楚の左尹子重(楚の荘王の弟、公子嬰齊)、宋を侵す。王(荘王)、諸をエ
ン(
“おおざとへん”に“延”の字、楚の地)に待つ。
・令尹蔿艾獵、沂(キ)に城く。封人(設計建築を行う土木の役人)をして
事を慮らしめ、以て司徒(工事の責任者)に授く。功を量り日を命じ、財用を
分かち、板榦を平にし(土塀を築くときに両側に立てる柱を「榦」
(カン)と言
い、
「板」は柱と柱との間に入れて土が崩れないようにする板、それらの高さを
等しくする)、畚築を稱り(「畚」(ホン)は土を運ぶもっこ、「築」は土を討ち
固める杵、
「稱」は量る、もっこを担ぎ、土を固める労力を考えて、人夫をふり
わけること)
、土物を程り(
「土」は築城に使う土、
「物」は材木、土と材木の量
を計算する)、遠邇を議り(土を運ぶ道のりの遠近を均しくなるようにする)、
基趾を略り(「基趾」は城壁の土台となる所、「略」は巡る、巡って定める意)、
餱量(コウ・リョウ、ほしいい、乾燥させた飯)を具え、有司を度り(
「有司」
は役人、役人の力量をよく考える)、事三旬にして成る。素を愆らず(「素」は
「本」
、
「愆」は誤る、元の計画に違わなかった)
。
・晉の郤成子、成ぎを衆狄に求む。衆狄、赤狄の役を疾(にくむ)み、遂に
晉に服す。秋、櫕函に會するは、衆狄、服すればなり。是の行(会議を指す)
や、諸大夫、狄を召さんと欲す。郤成子曰く、
「吾之を聞く、徳に非ざれば、勤
むるに如くは莫しと。勤むるに非ずして、何を以て人を求めん。能く勤むれば
繼ぐこと有り(林注:能く力を勤むれば、則ち功之に繼ぐこと有り)
。其れ之に
從わん。詩(周頌の賚の句)に曰く、『文王既に勤む(「止」は終助詞)。』文王
すら猶ほ勤む。況や寡徳をや。
」
・冬、楚子、陳の夏氏の亂の為の故に、陳を伐つ。陳人に謂う、動く無かれ。
将に少西氏(杜注:少西は徴舒の祖子家の名。夏徴舒を指す)を討たんとすと。
遂に陳に入り、夏徴舒を殺し、諸を栗門(陳の城門)に轘(カン、車ざきにす
る)にす。因りて陳を縣とす。陳侯、晉に在り。申叔時、齊に使いす。反り、
復命して退く。王、之を讓めしめて曰く、
「夏徴舒は不道を為して、其の君を弒
せり。寡人、諸侯を以いて討ちて之を戮す。諸侯・縣公(縣の長の大夫、楚は
君主が王を称しているので、県の大夫も公を称していた)皆、寡人を慶す。女
獨り寡人を慶せざるは、何の故ぞ。
」對えて曰く、
「猶ほ辭(申し開きをする意)
す可きか。王曰く、
「可なるかな。
」曰く、
「夏徴舒は其の君を弒す。其の罪は大
15
なり。討ちて之を戮するは、君の義なり。抑々人亦た言える有り、
『牛を牽きて
以て人の田を蹊す(杜注:「蹊」は「径」(みち)なり。動詞に読んで渡る意)。
而して之が牛を奪う。
』牛を牽きて以て蹊するは、信に罪有り。而して之が牛を
奪うは、罰、已だ重し。諸侯の從うや、罪有るを討ずと曰うなり。今陳を縣に
するは、其の富を貪るなり。討を以て諸侯を召して、貪を以て之を歸すは、乃
ち不可なること無からんか。
」王、曰く、
「善いかな。吾未だ之を聞かざるなり。
之を反さば、可ならんや。」對えて曰く、「吾が儕(ともがら)小人の所謂諸を
其の懐に取りて之を與うるなり。
」乃ち復た陳を封じ、郷ごとに一人を取り、以
て歸り、之を夏州と謂う(夏徴舒を討伐した功を後世に伝えるために、陳の各
郷ごとに一人を連れて帰り、楚の地に住まわせて、そこを夏州と呼んだ)
。故に
書して、楚子陳に入り、公孫寧・儀行父を陳に納ると曰うは、禮有るを書する
なり。
・厲の役に(六年の傳に、楚人、鄭を伐ち、成ぎを取りて還るとある)
、鄭伯
逃れて歸る。是れ自り楚未だ志を得ず(鄭はその時々により晉に付いたり、楚
に付いたりしており、楚は鄭を自分の國に引き付けておくことが出来ていない)
。
鄭既に盟を辰陵に受け、又晉に事えんことを徼(もとめる)む。
『經』
・十有二年(前597年)
、春、陳の霊公を葬る。
・楚子、鄭を圍む。
・夏、六月乙卯、晉の荀林父、師を帥いて楚子と邲(ヒツ、杜注:邲は鄭の
地)に戰う。晉の師、敗績す。
・秋、七月。
・冬、十有二月戊寅、楚子、蕭を滅ぼす。
・晉人・宋人・衛人・曹人、清丘(杜注:清丘は衛の地)に同盟す。
・宋の師、陳を伐つ。衛人、陳を救う。
『傳』
・十二年、春、楚子、鄭を圍むこと旬有七日。鄭人、成ぎを行わんことを卜
す。不吉なり。大宮に臨し(杜注:「臨」は「哭」なり、「大宮」は鄭の祖廟)、
且つ巷に車を出ださんことを(市街に戦車を並べて決戦の覚悟を示すこと)卜
す。吉なり。國人、大いに臨し(楊注:城中の人皆哭す)、陴((ヒ、城上のひ
めがき)を守る者皆哭す。楚子、師を退く(哭するのを見て哀れに思い退いた)
。
鄭人、城を修む。進みて又之を圍み、三月にして、之に克ち、皇門(鄭の城門)
自り入りて、逵路(キ・ロ、広場で道が四方八方に通じている所)に至る。鄭
伯、肉袒して羊を牽きて以て逆えて曰く、
「孤、不天にして(天祐を得られない、
16
天に見放された意)
、君に事うること能わず。君をして怒りを懐きて以て敝邑に
及ばしむるは、孤の罪なり。敢て唯だ命を是れ聽かざらんや。其の諸を江南に
俘(とりこ)にして、以て海濱に實つとも、亦た唯だ命のままなり。其の翦(け
ずる)りて以て諸侯に賜い、之に臣妾たらしめんも、亦た唯だ命のままなり。
若し前好を惠顧して、福を厲・宣・桓・武に徼め(鄭の始祖桓公友は周の厲王
の少子にして、宣王の庶弟、武公は桓公の子)
、其の社稷を泯(ほろぼす)ばさ
ずして、改めて君に事えしめて、九縣に夷しくせば(杜注:楚、九國を滅ぼし
て以て縣と為す。「夷」は「比」の儀で、ひとしいと訓ず)、君の惠みなり。孤
の願いなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く(偽りのない本心を述
べること)
。君實に之を圖れ。
」左右曰く、
「許す可からず。國を得て赦すこと無
かれ。
」王曰く、
「其の君能く人に下る。必ず能く信もて其の民を用いん。庸(な
んぞ)ぞ幾(ねがう)う可けんや(どうして鄭を滅ぼすことを望むことが出来
ようか)
。退くこと三十里にして之に平ぎを許す。潘尫(バン・オウ、杜注:楚
の大夫)
、入りて盟う。子良(杜注:子良は鄭伯の弟)
、出でて質たり。
・夏、六月、晉の師、鄭を救う。荀林父、中軍に将たり、先縠、之に佐たり。
士會、上軍に将たり、郤克、之に佐たり。趙朔、下軍に将たり、欒書、之に佐
たり。趙括・趙嬰齊、中軍の大夫と為り、鞏朔・韓穿、上軍の大夫と為り、荀
首・趙同、下軍の大夫と為る。韓厥、司馬と為る。河に及び、鄭、既に楚と平
げりと聞き、桓子(荀林父の謚)、還らんと欲して、曰く、「鄭に及ぶこと無く
して民(兵士)を勦(「勞」の儀、つからす)らす。焉んぞ之を用いん。楚、歸
りて動くも、後れず。」随武子(杜注:武子は士會)曰く、「善し。會聞く、師
を用うるは、釁(キン、油断している所、隙)を觀て動くと。徳刑政事典禮、
易らざるは(楊注:不易は、其の道に合うを謂う)
、敵す可からず。是が為に征
せず。楚君の鄭を討つや、其の貮を怒りて其の卑を哀れむ。叛きて之を伐ち、
服して之を舎(ゆるす)すは、徳刑成れり。叛を伐つは、刑なり。服を柔ぐる
は、徳なり。二者立てり。昔歳、陳に入り、今茲に鄭に入るも、民、罷勞せず、
君、怨讟(エン・トク、「讟」も「怨」の義)無きは、政に經(杜注:「經」は
「常」なり。常法のこと)有るなり。荊尸(荘公四年の傳の杜注に、
「尸」は「陳」
(陣に通図ず)なり、
「荊」は亦た楚なり、更に楚の兵を陳するが為の法なりと
ある)して舉ぐるも、商農工賈は其の業を敗らず、卒乘(歩兵と車兵)
、輯睦(楊
注:
「輯」は「和」
。和み睦じくする)するは、事奸(杜注:
「奸」は「犯」なり。
楊注:意は各々相犯さざるを謂う)さざるなり。蔿敖、宰と為り、楚國の令典
を擇ぶや(楊注:令典は、禮法政令の善なる者を謂う)
、軍行に、右は轅し、左
は蓐を追い(杜注:車の右に在る者は轅を挟みて戰いの為に備え、左に在る者
は草蓐を追求して宿の為に備う)、前茅は無を慮り(「前茅」は、茅で作った旗
印を掲げた前衛部隊、「慮無」何も無い所でも警戒を怠らない)、中は權り、後
17
は勁く(杜注:中軍は謀を制し、後ろは精兵を以て殿と為す)百官は物に象り
て動き(日月龍虎などを象った旗指物に従って行動する)
、軍政、戒めずして備
わるは、能く典を用うるなり。其の君の舉ぐるや(楊注:
「舉」は人材を選抜す
るを謂う)
、内姓は親より選び(内姓は同性、王族より人を選ぶとき、人物に差
がない時は、血縁のより近いものから選ぶ)、外姓は舊より選ぶ(外姓は異性、
異性の臣下で人物に差がない時は、より古い者から選ぶ)
。舉ぐるに徳を失わず、
賞するに勞を失わず。老には加惠有り。旅には施舎有り(楊注によれば、
「施舎」
は「賜予」、他所から来たものには、困窮しないように徳惠を施す意)。君子小
人、物に服章有り(楊注:君子小人は位を以て言う、各々一定の衣服の色彩有
り。杜注:尊卑の別なり)
。貴に常尊有り、賤に等威(威儀の等差)有るは、禮
逆わざればなり。徳立ち刑行われ、政成り事時あり、典從い禮順う。之を若何
ぞ之に敵せん。可を見て進み、難を知りて退くは、軍の善政なり。弱を兼ね昧
を攻むるは、武の善經なり。子姑く軍を整えて武を經せんか(武は武備、經は
ととのえる)
。猶ほ弱にして昧なる者有らん。何ぞ必ずしも楚のみならん。仲虺
(チュウ・キ、殷の湯王の左相)言える有り、曰く、『亂を取り亡を侮る。』と
は、弱を兼ぬるなり。汋(シャク、『詩経』周頌の篇名)に曰く、『於、鑠(よ
し、杜注:「鑠」は「美」なり)きかな王師、遵いて時(「時」は「是」なり)
の晦を取る。』とは、昧を耆すなり(「耆」はいたすと訓ず。楊注:耄昧は即ち
昧を攻むるなり)。武(周頌の篇名)に曰く、『競きこと無からんや惟れ烈なり
(楊注:毛傳に云う、「競」は「彊」、「烈」は「業」。何と強いことか、これが
武王の功業である)。』弱を撫し昧を耄し、以て烈所(輝かしい功業)を務めて
可なり。」彘子(先縠)曰く、「不可なり。晉の覇たる所以は、師武に臣力むれ
ばなり。今諸侯を失わば(諸侯は鄭を指す、救いに来た鄭を見捨てるなら)
、力
むと謂う可からず。敵有りて從わざるは、武と謂う可からず。我由り覇を失わ
ば、死するに如かず。且つ師を成して以て出でて、敵の強きを聞きて退くは、
夫(
「夫」は「丈夫」
、男らしいこと)に非ざるなり。命ぜられて軍師と為りて、
卒るに非夫を以てするは、唯だ羣子(あなた方)のみ能くせん。我は為さざる
なり。」中軍の佐を以て濟る(杜注:佐は、彘子の帥うる所なり、「濟」は河を
渡る)。知荘子(荀首)曰く、「此の師殆きかな。周易に之れ有り、師の臨に之
くに在りと。曰く、
『師出づるに律を以てす、臧(よし、
「臧」は「美」
)からざ
れば、凶なり。』事を執ること順成なるを臧しと為し(楊注:凡そ事を行うに、
其の道に順いて行い、以て成る有れば則ち善と為す)
、逆うを否と為す。衆散ず
るを弱と為し、川壅がるを澤と為す。律有れば以て己に如う(杜注:
「如」は「從」
なり、法行われば則ち人法に従い、法敗れば則ち法人に從う)
。故に曰く、律臧
からざれば、且に律竭(杜注:
「竭」は「敗」なり)きんとす、と。盈ちて以て
竭き、夭にして且つ整わざるは(「夭」は塞がる意、「整」は整流のことで、ほ
18
どよく流れる意)
、凶なる所以なり。行かざるを之れ臨と謂う(水の流れが塞が
れて澤となることを臨と謂う)師有りて從わず、臨孰れか焉より甚だしからん。
此れを之れ謂うなり。果たして遇わば(楚の師に遇えば)、必ず敗れん。彘子、
之を尸(杜注:
「尸」は「主」なり)る。免れて歸ると雖も、必ず大咎有らん。
」
韓獻子(韓厥)、桓子(荀林父)に謂いて曰く、「彘子、偏師(一部の軍、彘子
が中軍の副将として率いる手勢)を以いて陥る。子の罪大なり。子は元帥為り、
師、命を用いざるは、誰の罪ぞや。屬(鄭を指す)を失い、師を亡うは、罪為
ること已(はなはだ)だ重し。進むに如かざるなり。事(軍事)の捷たずとも、
惡分かつ所有らん(罪を皆で分かちあいましょうという意)
。其の罪を專らにす
るよりは、六人之を同じくすること、猶ほ愈(まさる)らずや。
」師、遂に濟る。
楚子、師を北にしてエン(
“おおざとへん”に“延”の字)に次る。沈尹、中軍
に将たり、子重、左に将たり、子反、右に将たり。将に馬を河に飲(みずかう)
いて歸らんとす。晉の師、既に濟るを聞き、王、還らんと欲す。嬖人伍參、戰
わんと欲す。令尹孫叔敖欲せずして曰く、「昔歳、陳に入り、今茲に鄭に入り、
事無しとせず(休む暇なく戦争をしているという意)
。戰いて捷たざれば、參の
肉其れ食らうに足らんや。
」參曰く、
「若し事の捷たば、孫叔、謀無しと為さん。
捷たずんば、參の肉は将に晉の軍に在らんとす。食らうを得可けんや。」令尹、
轅を南にし、旆(軍前の大旗)を反す。伍參、王に言いて曰く、
「晉の政に從う
者は新たなり。未だ令を行うこと能わず。其の佐先縠は剛愎(頑固)不仁にし
て、未だ肯えて命を用いず。其の三帥の者は行いを專らにせんとして獲ず。聽
かんとして上無し(楊注:聽きて從わんと欲するも、聽く可きの上司無し)
。衆
誰にか適從(身を寄せ從う)せん。此の行や、晉の師必ず敗れん。且つ君にし
て臣を逃れば、社稷を若何せん。
」王、之を病(うれう)え、令尹に告げ、乘轅
を改めて之を北にし、管に次りて以て之を待つ。晉の師、敖・鄗の間に在り。
鄭の皇戌使いして晉の師に如きて曰く、
「鄭の楚に從うは、社稷の故なり。未だ
貮心有らず。楚の師、驟々(しばしば)勝ちて驕る。其の師老れたり。而して
備えを設けず。子、之を撃たば、鄭の師、承ぐことを為さん。楚の師必ず敗れ
ん。
」彘子曰く、
「楚を敗り、鄭を服するは、此に於いて在り。必ず之を許さん。
」
欒武子曰く、
「楚は庸に克ちし自り以来、其の君、日として國人を討(杜注:
「討」
は「治」なり)めて之に訓えざること無し、于(林注:
「于」は「曰」なり)く、
民生は易からず(民の生活を安定させるのは容易でない)
、禍の至るは之れ日無
し、之を戒懼して以て怠る可からず、と。軍に在れば、日として軍實を討めて
之を申儆せざること無し(楊注:
「軍實」は、此の軍中の指揮員・戦士等を指す、
「申儆」(シン・ケイ)は、猶ほ再三告誡するを言う)。于く、勝ちは之れ保つ
可からず。紂は之れ百たび克ちて卒に後無し、と。之に訓うるに若敖・蚡冒の
篳路・藍縷にして以て山林を啓くを以てし(杜注:若敖・蚡冒は、楚の先君、
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篳路(ヒツ・ロ)は柴車、藍縷(ラン・ル)は敝衣(粗末な衣装)
)
、之を箴(杜
注:
「箴」は「誡」なり)めて曰く、
『民生は勤むるに在り、勤むれば則ち匱(
「匱」
は「乏」なり)しからず。
』驕ると謂う可からず。先の大夫子犯言える有り、曰
く、『師は直を荘と為し、曲を老と為す。』我は則ち不徳にして、怨みを楚に徼
(楊注:
「徼」は「求」なり)む。我曲にして楚直なり、老と謂う可からず。其
の君の戎は分かちて二廣と為す。廣に一卒有り、卒は偏の兩なり(杜注:十五
乘を一廣と為す、司馬法は百人を卒と為す。
「偏」は五十人、それが兩乃ち二倍
で百人で一卒になる。この「偏」・「兩」の解釈は異説が多数あり、どれも定め
がたい)
。右廣初めて駕し、數えて日中に及べば、左は則ち之を受けて、以て昏
に至る。内官、序もて其の夜に當り、以て不虞を待つ。備え無しと謂う可から
ず。子良は鄭の良なり。師叔は楚の崇なり。師叔、入りて盟い、子良、楚に在
り、楚・鄭は親し。來たりて我に戰いを勸む。我、克たば則ち來たらん、克た
ざれば遂に往かん。我を以て卜するなり。鄭は從う可からず。
」趙括・趙同曰く、
「師を率いて以て來たるは、唯だ敵を是れ求むるなり。敵に克ちて屬を得ば(鄭
を従属させること)、又何をか俟たん(それ以外何も望まない)。必ず彘子に從
わん。」知季曰く、「原・屏は咎の徒なり(杜注:知季は荘子、原は趙同、屛は
趙括、徒は黨なり)。趙荘子(趙朔)曰く、「欒伯は善いかな。其の言を實にせ
ば、必ず晉國を長くせん。
」楚の少宰(大宰の副)
、晉の師に如きて曰く、
「寡君、
少くして閔凶(不幸、特に親の死別を謂う)に遭い、文を能くせず(学問をす
る時間がなかった)
。聞く、二先君の此の行に出入するや(二先君は、楚の成王
と穆王。此の行は、鄭への道で、出入は、攻め入ったこと)
、将に鄭を是れ訓定
せんとす、と。豈に敢て罪を晉に求めんや。二三子、淹久(久しく留まる意)
すること無かれ。」随季(士會)對えて曰く、「昔、平王、我が先君文公に命じ
て曰く、
『鄭と周室を夾輔して、王命を廢すること毋かれ。
』今鄭は率(杜注:
「率」
は「遵」なり)わず。寡君、羣臣をして諸を鄭に問わしむ。豈に敢て候人(使
者)を辱くせんや。敢て君命の辱きを拝す。
」彘子以て諂うと為し、趙括をして
從いて之を更めしめて曰く、「行人(接待したもの)、辭を失えり。寡君、羣臣
をして大國の迹を鄭より遷さしめんとして、曰く、『敵を辟くること無かれ。』
羣臣、命を逃るる所無し。
」楚子、又成ぎを晉に求めしむ。晉人、之を許し、盟
うこと日有り。楚の許伯、樂伯に御たり、攝叔、右と為り、以て晉の師を致す
(晉の師をおびき寄せて挑戦すること)。許伯曰く、「吾聞く、師を致す者は、
御は旌を靡かせ壘を摩して(「靡旌」は、旗を靡かせて疾駆すること、「摩壘」
は敵の陣営に近づくこと)還る、と。」樂伯曰く、「吾聞く、師を致す者は、左
は射るにシュウ(
“くさかんむり”に“取”の字、杜注:シュウは矢の善き者)
を以てし、御に代わりて轡を執り、御は下り、馬を兩り鞅を掉して還る(杜注:
「兩」は「飾」、「掉」は「正」なり。馬を飾り鞅を正して余裕のあるところを
20
見せている)
、と。
」攝叔曰く、
「吾聞く、師を致す者は、右は壘に入り、折馘(セ
ツ・カク、殺して左耳を切る)し、俘を執りて還る、と。
」皆其の聞く所を行い
て復る。晉人、之を逐い、左右に之を角す(左右に軍を分かつこと)
。樂伯、左
は馬を射て、右は人を射る。角進むこと能わず。矢は一のみ。麋、前に興(た
つ)つ。麋を射て龜に麗く(
「麋」は大鹿、
「龜」は背骨、
「麗」は「著」
(つく)
、
背骨を射抜いたこと)
。晉の鮑癸、其の後ろに當る。攝叔をして麋を奉じて獻ぜ
しめて曰く、「歳の時に非ずして(狩の時期でないこと)、獻禽の未だ至らざる
を以て、敢て諸を從者に膳す。」鮑癸、之を止めて曰く、「其の左は善く射、其
の右は辭有り(楊注:辞令を善くす)。君子なり。」既にして免る。晉の魏錡、
公族を求て未だ得ずして怒る。晉の師を敗らんと欲す(晉の師をわざと敗北さ
せようと思った)
。師を致さんと請う。許さず。使いせんと請う。之を許す。遂
に往き、戰意を請いて還る。楚の潘黨、之を逐う。熒澤に及び、六麋を見る。
一麋を射て以て顧みて獻じて曰く、
「子、軍事有り。獣人(鳥獣を捕らえる役人)
乃ち鮮を給せざる無からんや。敢て從者に獻ず。
」叔黨命じて之を去らしむ(楊
注:叔黨は即ち潘黨、部下に離去を命じて追わず)
。趙旃(チョウ・セン、杜注:
旃は趙穿の子)
、卿を求めて未だ得ず、且つ楚の師を致す者を失うを怒り、戰い
を挑まんと請う。許さず。召して盟わんと請う。之を許す。魏錡と皆命ぜられ
て往く。郤獻子(杜注:獻子は郤克)曰く、
「二憾(
「憾」は「怨」、二人の怨み
不満を懐いている者、乃ち魏錡と趙旃)往けり。備えずんば、必ず敗れん。
」彘
子曰く、「鄭人、戰いを勸むるも、敢て從わざるなり。楚人、成ぎを求むるも、
好みすること能わざるなり。師、成命(確定した命令)無し。多く備うとも何
をか為さん。」士季曰く、「之に備うるは善し。若し二子、楚を怒らし、楚人、
我に乘ぜば、師を喪うこと日無からん。之に備うるに如かず。楚の惡無きとき
は、備えを除きて盟うも、何ぞ好みに損あらん。若し惡を以て來たらば、備え
有らば敗れじ。且つ諸侯相見ると雖も、軍衛徹せざるは、警なり。
」彘子可かず。
士季、鞏朔・韓穿をして七覆を敖の前に帥いしむ(七覆は七か所に置いた伏兵、
この時晉の師は敖・鄗の間に在り)
。故に上軍敗れず。趙嬰濟、其の徒をして先
ず舟を河に具えしむ。故に敗れて先ず濟る。潘黨、既に魏錡を逐う。趙旃、夜
に楚軍に至り、軍門の外に席(蓆をしいて座る意)し、其の徒をして之に入ら
しむ。楚子、乘廣三十乘を為り、分かちて左右と為す。右廣は鶏鳴きて駕し、
日中にして説く(「説」は車から馬を外すこと)。左は則ち之を受け、日入りて
説く。許偃、右廣に御たり、養由基、右と為る。彭名、左廣に御たり、屈蕩、
右と為る。乙卯、王、左廣に乘りて以て趙旃を逐う。趙旃、車を棄てて林に走
る。屈蕩、之を搏ち、其の甲裳(鎧の草ずり、鎧の胴の下から垂らして腰から
下を覆うもの)を得たり。晉人、二子の楚の師を怒らせんことを懼れ、トン車
(トンは、左に“車”右に“屯”の字、トン車は兵車)をして之を逆えしむ。
21
潘黨、其の塵を望み、騁(はせる)せて告げしめて曰く、「晉の師至る。」楚人
も亦た王の晉軍に入らんことを懼れ、遂に陳(
「陣」に通ず)を出づ。孫叔曰く、
「之を進め。寧ろ我、人に薄(楊注:
「薄」は「迫」なり)るも、人をして我に
薄らしむること無かれ。詩(小雅の六月の句)に云う、元戎(先陣を切る兵車)
十乘、以て先ず行を啓くとは、人に先んずるなり。軍志(兵法書)に曰く、人
に先んずれば人の心を奪う有りとは、之に薄るなり。遂に疾く師を進め、車馳
せ、卒奔り、晉軍に乘ず。桓子、為す所を知らず。軍中に鼓して曰く、
「先ず濟
る者には賞有り。
」中軍・下軍、舟を争い、舟中の指掬す可し(
「掬」音はキク、
訓はすくう、後から来た者が舟に手をかけるが、先に乗っている者がその指を
切り、切り落とされた指が掬うほどに沢山有るという意)。晉の師、右に移り、
上軍は未だ動かず。工尹齊(工尹は官名、齊は楚の大夫)
、右拒(右翼)の卒を
将いて以て下軍を逐う。楚子、唐狡と蔡鳩居とをして唐の惠侯(唐は楚の属国)
に告げしめて曰く、
「不穀、不徳にして貪り、以て大敵に遇うは、不穀の罪なり。
然れども楚克たずんば、君の羞じなり。敢て君の霊に籍りて(
「霊」は「福」
、
「籍」
は「由」
)
、以て楚の師を濟(すくう)わん。
」潘黨をして游闕四十乘を率い、唐
侯に從いて以て左拒と為り、以て上軍に從わしむ。駒伯(杜注は郤克とするが、
楊注は郤克の子郤錡とする、楊注に從う)曰く、
「諸を待て。
」随季曰く、
「楚の
師は方に壮なり。若し我に萃(あつまる)まらば、吾が師は必ず盡きん。収め
て之を去るに如かず。謗を分かち、民を生かさんは、亦た可ならずや。
」其の卒
に殿して退き、敗れず。王、右廣を見て、将に之に從いて乘らんとす。屈蕩、
之を戸(杜注:「戸」は「止」なり)めて曰く、「君、此を以て始む。亦た必ず
以て終えよ。是に自り楚の乘廣は左を先にす。晉人或いは廣の隊ちたるを以て
進むこと能わず(一台の兵車が穴に落ちて動けなくなった)
。楚人、之に惎えて
扃を脱せしむ(杜注:
「惎」は「教」なり。
「扃」
(ケイ)は車の前の横木、これ
がつかえて動けないので、外すように教えた)
。少しく進む。馬還(めぐる)る。
又之に惎えて旆を抜きて衡に投ぜしむ(
「旆」は大旗、
「衡」は轅の前の横木で、
馬の首につけるくびき。旗竿を抜いてくびきに倒しかけるように教えた)
。乃ち
出づ。顧みて曰く、「吾は大國の數々奔るに如かざるなり。」趙旃、其の良馬二
を以て其の兄と叔父とを濟(すくう)い(兵車の馬二頭を与えた)
、他馬を以て
反る。敵に遇いて去ること能わず。車を棄てて林に走る。逢大夫、其の二子と
乘る。其の二子に顧みること無かれと謂う。顧みて曰く、「趙傁(「傁」はめう
えにたいする尊称、ここでは趙旃を指す)、後ろに在り。」之に怒りて、下らし
め、木を指さして曰く、「女を是に尸せん(汝の屍をここで拾うという意)。趙
旃に綏(車に乗るときに持つ垂れ紐)を授けて以て免れしむ。明日、表(目印
の木)を以て之を尸す。皆重獲(重なって殺されていること)せられて木の下
に在り。楚の熊負羈(楚の大夫)、知罃(晉の知荘子の子)を囚らう。知荘子、
22
其の族を以いて之を反す。厨武子、御たり、下軍の士多く之に從う。射る毎に、
矢シュウ(シュウは“くさかんむり”に“取”の字)を抽(ぬく)き、諸を厨
子の房に納る(「矢シュウ」は善い矢、「房」は箙、自分の箙から矢を抜いて、
善い矢は厨武子の箙に入れた)
。厨子怒りて曰く、
「子を之れ求むるに非ずして、
蒲(矢シュウの材料)を之れ愛しむ。董澤の蒲、勝げて即くす可けんや。知季
曰く、
「人の子を以てせずんば、吾が子、其れ得可けんや。吾以て苟も射る可か
らざる故なり(人の子を捕らえて、吾が子と人質交換をするのが目的で、其の
時の為に善い矢をおいておくという意)。」連尹襄老を射て、之を獲たり。遂に
其の尸を載せ、公子穀臣を射て之を囚らう。二者を以て還る。昏に及び、楚の
師、邲に軍す。晉の餘師、軍すること能わず。宵に濟るも、亦た終夜聲有り。
丙辰、楚の重(杜注:
「重」は輜重なり)
、遂に衡雍に次る。潘黨曰く、
「君、盍
(何不の合音字)ぞ武軍(軍営)を築きて晉の尸を収めて以て京觀(杜注:尸
を積み土を其の上に封するを之れ京觀と謂う。相手への見せしめにする)を為
らざる。臣聞く、敵に克てば、必ず子孫に示して、以て武功を忘るること無か
らしむ、と。
」楚子曰く、
「爾知る所に非ず。夫れ文に、止戈を武と為す(
「文」
は文字、「武」という文字は「止」と「戈」とから成り立っているという意)。
武王、商に克ち、頌(『詩経』周頌の時邁篇)を作りて曰く、『載(すなわち)
ち干戈を戢(あつめる)め、載ち弓矢を櫜(コウ、弓の袋、動詞に読んで袋に
入れる意)す。我、懿徳を求め、肆に時に夏いなり(杜注:
「肆」は「遂」
、
「夏」
は「大」。楊注:「時」は「是」なり)。允(まこと)に王として之を保つ。』又
武を作り(周頌武篇)
、其の卒章に曰く、
『爾の功を定むるを耆す(楊注:
「耆」
は、毛傳に云う、「致」なり)。』其の三(周頌賚篇)に曰く、『鋪きて時れ繹ね
(杜注:「鋪」は「布」、「繹」は「陳」、「時」は「是」、「思」は「辭」(語末助
詞、義無し)なり)
、我徂(ゆく)きて維れ定まらんことを求む(父文王の功業
を受け継いで、それを更に広めた、私が征戰に赴くのは民の安定を求めてであ
る)
。
』其の六に曰く(周頌桓篇)
、
『萬邦を綏んじ、屢々(數々の義)豊年なり。
』
夫れ武(武力)は、暴を禁じ、兵を戢(おさめる)め、大(大業)を保ち、民
を安んじ、衆を和し、財を豊かにする者なり。故に子孫をして其の章(楊注:
王念孫云う、凡そ功の顕著なる者を之れ章と謂う)を忘るること無からしむ。
今我、二國をして骨を暴さしむるは、暴なり。兵を觀して以て諸侯を威すは、
兵戢まらざるなり。暴にして戢まらず。安んぞ能く大を保たん。猶ほ晉の在る
有り、焉んぞ功を定むるを得ん。民の欲に違う所猶ほ多し。民何ぞ安からん。
徳無くして強いて諸侯を争う、何を以て衆を和せん。人の幾(杜注:
「幾」は「危」
なり)きを利として、人の亂に安んじ、以て己が栄と為す。何を以て財を豊か
にせん。武に七徳有り。我は一も無し。何を以て子孫に示さん。其れ先君の宮
を為り、成事を告げんのみ。武は吾が功に非ざるなり。古者、明王は不敬を伐
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ち、其の鯨鯢を取りて之を封じ(「鯨」は雄くじら、「鯢」は雌くじら、鯨鯢は
小魚を食らうことから、悪逆の親玉に喩える、之を土に埋めて土を盛り上げた)
、
以て大戮と為す。是に於いてか京觀有り、以て淫慝を懲らせり。今、罪所無し
(楊注:此れ晉に大罪無しを言う)
。而して民皆忠を盡くして以て君命に死せり。
又以て京觀を為る可けんや。」河を祀り、先君の宮を作り、成事を告げて還る。
是の役や、鄭の石制、實に楚の師を入る。将に以て鄭を分かちて、公子魚臣を
立てんとす。辛羊、鄭、僕叔と子服とを殺す(杜注:僕叔は魚臣なり、子服は
石制なり)。君子曰く、「史佚の所謂亂を怙(たのむ)む毋かれとは、是の類を
謂うなり。詩(小雅の四月篇)に曰く、
『亂れて離え瘼む。爰(いずれ)れにか
其れ適歸せん(杜注:
「離」は「憂」
、
「瘼」は「病」
。
「適歸」帰るに適した所で、
行きつく所、國は乱れ民は憂えて病んでいる、この禍は誰の身にふりかかるの
だろうか)
。
』亂を怙む者に歸せんかな。
」
・鄭伯・許男、楚に如く。
・秋、晉の師歸る。桓子死を請う。晉侯、之を許さんと欲す。士貞子諫めて
曰く、
「不可なり。城濮の役に、晉の師、三日穀せり(楚に大勝して、三日間も
楚の食料を使用したこと)。文公猶ほ憂色有り。左右曰く、『喜び有りて憂う、
如し憂い有りて喜ぶか。
』公曰く、
『得臣猶ほ在り、憂い未だ歇(杜注:
「歇」は
「盡」なり)きざるなり。困獣(困窮した獣)すら猶ほ鬭う。況や國相をや。
』
楚、子玉(得臣)を殺すに及び、公の喜び而る後に知る可きなり。曰く、
『余を
毒すること莫きのみ。
』是れ晉は再び克ちて楚は再び敗るなり。楚、是を以て再
世(二代のことで、ここでは成王・穆王の二代を謂う)競わず。今天或いは将
(金沢文庫本により、
「将」の一字を補う)に大いに晉を警(杜注:
「警」は「戒」
なり)めんとするなり。而るに又林父を殺して以て楚の勝を重ねば、其れ乃ち
久しく競わざること無からんや。林父の君に事うるや、進みては忠を盡くさん
ことを思い、退きては禍を補わんことを思う。社稷の衛なり。之を若何ぞ之を
殺さん。夫れ其の敗るるや、日月の食の如し。何ぞ明に損あらん(林注:日月、
面を食すと雖も本体の明を傷うこと無し)
。
」晉侯、其の位に復せしむ。
・冬、楚子、蕭を伐つ。宋の華椒、蔡人を以いて蕭を救う。蕭人、熊相宜僚
と公子丙とを囚らう。王曰く、
「殺すこと勿れ。吾、退かん。
」蕭人、之を殺す。
王怒り、遂に蕭を圍む。蕭潰ゆ。申公巫臣曰く、「師人多く寒えたり。」王、三
軍を巡り、拊でて之を勉む(楊注:
「拊」は「撫」に通ず、撫摩(いたわりなで
る)して之を慰勉(慰め励ます)するを謂う)
。三軍の士皆纊(コウ、綿)を挟
むが如し。遂に蕭城(金沢文庫本により「城」の一字を補う)に傅く。還無社、
司馬卯と言い、申叔展を號ぶ(還無社は蕭の大夫、司馬卯と申叔展とは楚の大
夫、司馬卯に語りかけて、知り合いの申叔展を呼んでもらった)
。叔展曰く、
「麥
麹有るか(
「麥麹」
(バク・キク)は薬草の名、胃腸の働きをよくすることから、
24
何か良策が有るのかという問いかけに喩えた)。曰く、「無し。」「山鞠窮有るか
(
「山鞠窮」は香草の名、外部から降りかかる病気を防ぐのに効果が有ることか
ら、防御法は有るのかと言う問いかけに喩えた)
。
」曰く、
「無し。
」
「河魚の腹疾
を奈何せん(河の湿を防ぐ薬草が無ければ、魚も死んでしまうように、城が落
城しようとしている時にあなたはどうするのかという問いかけに喩えてい
る)
。
」曰く、
「眢井を目して之を拯え(楊注:
「眢井」
(ワン・セイ)は、水無き
枯れ井なり。
「目」は目印、
「拯」はすくうと訓ず)
。
」
「若(汝)
、茅絰を為れ(
「茅
絰」
(ボウ・テツ)
、
「絰」は喪服の時首や腰からぶら下げる麻の紐であるが、こ
こでは茅で輪を作ること、それを井戸にぶら下げて目印にする)
。井に哭するは
則ち己なり。
」蕭潰ゆ。申叔、其の井を視れば、則ち茅絰存せり。號びて之を出
だす。
・晉の原縠・宋の華叔・衛の孔達・曹人、清丘に同盟して曰く、
「病めるを恤
え、貮を討ず。
」是に於いて卿を書せざるは、其の言を實にせざればなり。
・宋、盟いの為の故に陳を伐つ。衛人、之を救う。孔達曰く、
「先君、約言有
り(先君は衛の成公を指す。杜注:衛の成公と陳の共公とは舊好有り、故に孔
達、盟いに背きて陳を救う)
。若し大國討たば、我は則ち之に死せん(大國は晉
を指す、晉が盟いに背いたことを責めるなら、私は死んでおわびをしよう)
。
『經』
・十有三年(前596年)
、春、齊の師、莒を伐つ。
・夏、楚子、宋を伐つ。
・秋、螽あり。
・冬、晉、其の大夫先縠を殺す。
『傳』
・十三年、春、齊の師、莒を伐つは、莒、晉を恃みて齊に事えざりし故なり。
・夏、楚子、宋を伐つは、其の蕭を救うを以てなり。君子曰く、
「清丘の盟い
は、唯だ宋のみ以て免る可し(宋だけが清丘の盟いを守らなかったという謗り
を免れることが出来た)
。
」
・秋、赤狄、晉を伐ち、清(杜注:清は一名清原なり)に及ぶ。先縠。之を
召すなり(赤狄を招き入れて亂を興そうとした)
。
・冬、晉人、邲の敗と清の師とを討じ、罪を先縠に歸して之を殺し、盡く其
の族を滅ぼす。君子曰く、
「惡の來たるや、己則ち之を取るとは(
「惡」は「禍」
、
禍が降りかかるのは、自ら招いたものである)
、其れ先縠を之れ謂うか。
」
・清丘の盟いに、晉、衛の陳を救うを以て、焉を討ず。使人去らずして曰く、
「罪歸する所無くんば、将に而に師を加えんとす。」孔達曰く、「苟も社稷に利
25
あらば、請う我を以て説け。罪は我に之れ由る。我則ち政を為して大國の討に
亢(楊注:王念孫云う、
「亢」は「當」なり。杜注は「禦」に解するが、王念孫
の説が良い)る。将た誰を以て任ぜん。我則ち之に死せん。
」
『經』
・十有四年(前595年)
、春、衛、其の大夫孔達を殺す。
・夏、五月壬申、曹伯壽卒す。
・晉侯、鄭を伐つ。
・秋、九月、楚子、宋を圍む。
・曹の文公を葬る。
・冬、公孫歸父、齊侯に穀に會す。
『傳』
・十四年、春、孔達、縊れて死す。衛人以て晉に説きて免る。遂に諸侯に告
げて曰く、
「寡君に不令の臣(楊注は「令」を「善」に解す。善からぬ臣)達有
り。我が敝邑を大國に構え、既に其の罪に伏せり。敢て告ぐ。
」衛人以て成勞(以
前の手柄)ありと為し、室を其の子に復えし(
「復室其子」
、杜注・楊注は、
「室」
を動詞に読んで「娶」の意に解す。孔疏は、
「室」を家財の意に解す。孔疏に従
っておく)
、其の位に復せしむ。
・夏、晉侯、鄭を伐つは、邲の為の故なり。諸侯に告げ、蒐(閲兵)して還
る。中行桓子の謀なり。曰く、
「之に示すに整を以てし、謀りて来たらしめん(鄭
に晉軍の威儀を示し、鄭に自ら晉に従うようにさせよう)
。鄭人懼れて、子張を
して子良に楚に代わらしむ。鄭伯、楚に如く。晉の故(
「事」に通ず)を謀るな
り。鄭、子良を以て禮有りと為す、故に之を召す。
・楚子、申舟をして齊に聘せしめて曰く、
「道を宋に假ること無かれ(宋を怒
らせて、攻める口実を作るために、宋の地を許可を求めずに通過するように指
示した)。」亦た公子馮をして晉に聘せしめて、道を鄭に假らず。申舟は孟諸の
役を以て宋に惡まる(楊注:宋、楚の穆王を導き孟諸に田す、申舟、宋公の命
を違うにおいて、其の僕を抶つ、文十年傳に見える)。曰く、「鄭は昭らかに、
宋は聾(くらい、耳が聞こえないように物事に暗い)し。晉の使は害せられざ
るも、我は則ち必ず死せん。
」王曰く、
「女を殺さば、我は之を伐たん。
」犀を見
えしめて行く(杜注:犀は申舟の子、子を以て王に託す)
。宋に及び、宋人、之
を止む。華元曰く、
「我を過ぎて道を假らざるは、我を鄙とするなり。我を鄙と
するは、亡ぶとするなり。其の使者を殺さば、必ず我を伐たん。我を伐たば、
亦た亡びん。亡ぶは一なり。
」乃ち之を殺す。楚子、之を聞き、袂を投じて起つ。
屨は窒皇に及び(屨は履物、窒皇は正殿前の庭、靴もはかずに飛び出した意)、
26
剣は寝門(庭の外の門)の外に及び、車は蒲胥(地名)の市に及ぶ。秋、九月、
楚子、宋を圍む。
・冬、公孫歸父、齊侯に穀に會す。晏桓子を見て、之と魯の樂しきを言う。
桓子、高宣子に告げて曰く、
「子家(帰父の字)は其れ亡びんか。魯を懐えり(君
の寵により高位を得てそれに執着していること)
。懐えば必ず貪り、貪れば必ず
人を謀る。人を謀れば、人も亦た己を謀る。一國之を謀らば、何を以てか亡び
ざらん。
」
・孟獻子、公に言いて曰く、
「臣聞く、小國の大國に免るるは、聘して物を獻
ずるなり。是に於いて庭實旅百有り(杜注は主人が返礼として庭に並べた引き
出物と解するが、会箋や楊注は聘した国の献上物と解し、この説を採用する者
が多い)
。朝して功を獻ずるなり(功を獻ずとは、自国の統治が安定しているこ
とを報告すること)。是に於いて容貌(冠などを飾る珠玉類)・采章(衣服・旌
旗を装飾するもの)
・嘉淑(善美の物)有りて、加貨有り(容貌采章嘉淑以外に
更に付け加える貨財が有ること)
、と(上文も下文も主人側の引き出物か、聘し
た国からの献上物かのちがいであるが、私は杜注の説を採用したいと思う)
。其
の免れざるを謀るなり。誅められて賄を薦めば、則ち及ぶこと無きなり。今、
楚は宋に在り。君其れ之を圖れ。
」公説ぶ。
『經』
・十有五年(前594年)
、春、公孫歸父、楚子に宋に會す。
・夏、五月、宋人、楚人と平ぐ。
・六月癸卯、晉の師、赤狄潞氏を滅ぼし、潞氏嬰兒を以て歸る。
・秦人、晉を伐つ。
・王札子、召伯・毛伯を殺す(傳の注を参照)
。
・秋、螽あり。
・仲孫蔑、齊の高固に無婁に會す。
・初めて畝に税す。
・冬、蝝(エン、螽の幼虫)生ず。
・餓う。
『傳』
・十五年、春、公孫歸父、楚子に宋に會す。
・宋人、樂嬰齊をして急を晉に告げしむ。晉侯、之を救わんと欲す。伯宗曰
く、
「不可なり。古人言える有り、曰く、
『鞭の長きと雖も、馬腹に及ばず。
』天
方に楚に授けんとす。未だ與に争う可からず。晉の強きと雖も、能く天に違わ
んや。諺に曰く、『高下心に在り(事の宜しきを制するのは心に在り)。』河澤、
27
汚を納れ、山藪、疾を藏し(
「疾」は害毒を及ぼす草木や生き物など)
、瑾瑜(美
しい玉)
、瑕を匿し、國君、垢(はじ)を含むは、天の道なり。君其れ之を待て。
」
乃ち止む。解揚をして宋に如かしめ、楚に降ること無からしめて曰く、
「晉の師、
悉く起ち、将に至らんとす。
」鄭人、囚らえて諸を楚に獻ず。楚子、厚く之に賂
いて、其の言を反せしむ。許さず。三たびして之を許す。諸を樓車(物見櫓を
取り付けた車)に登せ、宋人を呼びて之に告げしむ。遂に其の君命を致す(晉
侯の命を翻さずに、その君命を告げた)
。楚子将に之を殺さんとす。之と言わし
めて曰く、「爾、既に不穀に許して、之に反す。何の故ぞ。我、信無きに非ず。
女則ち之を棄てたり。速やかに爾の刑に即け。」對えて曰く、「臣之を聞く、君
は能く命を制するを義と為し(君が命令を制定し発布するのは当然のやるべき
こと)、臣は能く命を承くるを信と為す。信は義を載せて之を行うを利と為す。
謀、利を失わず、以て社稷を衛るは、民の主なり。義に二信無く、信に二命無
し、と。君の臣に賂うは、命を知らざるなり。命を受けて以て出づれば、死有
りとも霣(
「隕」に通じて落ちるの意で、ここではすてると訓ず、君命を棄てな
いこと)つること無し。又賂う可けんや。臣の君に許すは、以て命を成さんと
してなり。死して命を成すは、臣の禄(
『説文』に言う、福なり)なり。寡君に
信臣有り、下臣、考(
「考」は成功の意で、なすと訓ず)すを獲て死せば、又何
をか求めん。
」楚子、之を舎して以て歸る。夏、五月、楚師将に宋を去らんとす。
申犀、王の馬前に稽首して曰く、「毋畏は死を知りて、敢て王命を廢せず。王、
言を棄つ(毋畏は申犀の父申舟、齊に使いし、王命により道を宋に假らずに、
通過しようとして宋に殺された、言を棄つとは、宋を滅ぼすことを止めようと
していることを言う)
。
」王、答うること能わず。申叔時、僕たり、曰く、
「室を
築き、耕者を反さば(城攻めの時、強引に攻めずに、城の郊外に住居を作り、
兵の中から農耕に通じた者を住まわせ、農作業をしながら城を包囲し、敵の力
の尽きるのを待つ戦法)、宋必ず命を聽かん。」之に從う。宋人懼れ、華元をし
て夜楚の師に入らしむ。子反の牀に登り、之を起こして曰く、
「寡君、元をして
病むるを以て告げしめて曰く、
『敝邑、子を易えて食らい(食料が尽きて、子供
の肉を食らうほどであるが、吾が子を食らうには忍びないので、お互いに子供
を交換して食らっていると言う意)、骸を折きて以て爨ぐ(燃料が尽きたので、
死体の骨を割いてそれで飯を炊いていると言う意、
「爨」はかしぐと訓じ、飯を
炊く意)
。然りと雖も、城下の盟いは(城下の盟いとは、攻め込まれての盟いの
ことで、最も屈辱的な盟いである)
、國を以て斃るること有るも、從うこと能わ
ざるなり。我を去ること三十里ならば、唯だ命を是れ聽かん。』」子反懼れて、
之と盟いて、王に告げて、退くこと三十里。宋、楚と平ぐ。華元、質と為る。
盟いて曰く、
「我は爾を詐ること無く、爾は我を虞(楊注:
「虞」は「欺」なり)
くこと無かれ。
」
28
・潞氏嬰兒の夫人は、晉の景公の姊なり。鄷舒、政を為して之を殺す。又潞
氏の目を傷つく。晉侯将に之を伐たんとす。諸大夫皆曰く、
「不可なり。鄷舒に
三儁(
「俊」に通ず)才有り。後の人を待つに如かず。
」伯宗曰く、
「必ず之を伐
たん。狄に五罪有り。儁才多しと雖も、何ぞ補わん。祀らざるは、一なり。酒
を嗜むは、二なり。仲章(杜注:仲章は潞の賢人なり)を棄てて黎氏の地を奪
うは、三なり。我が伯姫を虐ぐるは、四なり。其の君の目を傷つくるは、五な
り。其の儁才を怙(楊注:「怙」は「恃」)みて、以て徳を茂(務めるの義)め
ず。茲れ罪を益すなり。後の人或いは将に敬みて徳義を奉じて以て神人に事え
て、申ねて其の命を固くせんとす。之を若何ぞ之を待たん。罪有るを討たずし
て、将に後を待たんとすと曰う。後に辭有りて討つ。乃ち不可なること毋から
んか。夫れ才と衆とを恃むは、亡ぶるの道なり。商紂は之に由る。故に滅べり。
天、時に反するを災と為し、地、物に反するを妖と為し(楊注:羣物、其の常
性を失う、古人之を妖怪を為すと謂う)
、民、徳に反するを亂と為す。亂なれば
則ち妖災生ず。故に文、正に反するを乏と為す(
「文」は文字、
『説文』では「乏」
の字は「正」の字の反形になっていることから、
「正」の字を反対にすると「乏」
の字になるという意味)。盡く狄に在り。」晉侯、之に從う。六月癸卯、晉の荀
林父、赤狄を曲梁に敗り、潞を滅ぼす。鄷舒、衛に奔る。衛人、諸を晉に歸る。
晉人、之を殺す。
・王孫蘇、召氏・毛氏(楊注:三人は皆王の卿士なり)と政を争い、王子捷
をして召戴公と毛伯衛とを殺さしむ。卒に召襄(杜注:襄は召戴公の子)を立
つ。
・秋、七月、秦の桓公、晉を伐ち、輔氏(杜注:晉の地)に次る。壬午、晉
侯、兵を稷(晉の地)に治めて、以て狄土を略す。黎侯を立てて還る。雒に及
ぶ。魏顆、秦の師を輔氏に敗り、杜回を獲たり。秦の力人なり。初め、魏武子
に嬖妾有り。子無し。武子疾む。顆に命じて曰く、
「必ず之を嫁せよ(私が死ん
だら嬖妾を他家にに嫁がせよ)
。
」疾病にして則ち曰く、
「必ず以て殉と為せ(嬖
妾を殉死させよ)
。
」卒するに及び、顆、之を嫁せしめて曰く、
「疾病なれば則ち
亂る。吾、其の治に從わん(
「治」は心が乱れていない時を謂う)
。
」輔氏の役に
及び、顆、老人の草を結びて以て杜回を亢(さえぎる、廣雅の釋詁に、
「亢」は
「遮」なりとある)ぎるを見る。杜回、躓きて顛る。故に之を獲たり。夜、之
を夢む。曰く、
「余は而の嫁せしめし所の婦人の父なり。爾、先人の治命を用い
たり。余是を以て報ゆ。
」
・晉侯、桓子(荀林父)に狄臣千室を賞す。亦た士伯を賞するに瓜衍の縣を
以てす。曰く、
「吾、狄土を獲たるは、子の功なり。子微かりせば、吾は伯氏(桓
氏)を喪わん。
」羊舌職、是の賞を説びて曰く、
「周書(
『尚書』康誥)の所謂『庸
うべきを庸い、祗むべきを祗む。
』とは、此の物を謂うかな(杜注:
「庸」は「用」
、
29
「祗」は「敬」
、
「物」は「類」なり)
。士伯、中行伯を庸いしめ、君之を信じて、
亦た士伯を庸う。此を之れ明徳と謂う。文王の周を造りし所以も、是に過ぎざ
るなり。故に詩(大雅文王篇)に曰く、『陳き錫いて周を哉む(「陳」は「布」、
「錫」は「賜」、「哉」ははじめると訓じ、創始の意。文王は利を広く賜いて、
周の國を作り、今に至っている)。』能く施せるなり。是の道に率うや、其れ何
ぞ濟らざらんや。
」
・晉侯、趙同をして狄の俘を周に獻ぜしむ。不敬なり。劉康公(杜注:劉康
公は王季子なり)曰く、
「十年に及ばずして、原叔(杜注:原叔は趙同なり)必
ず大咎有らん。天、之が魄を奪えり。
・初めて畝に税するは、禮に非ざるなり。穀の出だすは籍に過ぎず(
「穀」は
年貢米の意、
「籍」は「借」の義で、公田を耕やす労働力を民から借りることで、
税はその民力だけで充分である)
、以て財を豊かにするなり。
・冬、蝝生ず。餓うとは、之を幸いとするなり(杜注:蝝未だ災いを為さず
して、之を書するは、其の冬に生じて、物に害を為さざるを幸いとす、時の歳
餓うと雖も猶ほ喜びて之を書す)
。
『經』
・十有六年(前593年)
、春、王の正月、晉人、赤狄の甲氏と留吁とを滅ぼ
す。
・夏、成周(雒陽)の宣榭(セン・シャ、孔疏、服虔を引きて云う、威武を
宣揚するの義。演武堂のこと)に火あり。
・秋、郯の伯姫、來歸す。
・冬、大いに年有り(楊注:穀梁傳に云う、五穀大いに熟するを大いに年有
りと為す)
。
『傳』
・十六年、春、晉の士會、師を帥いて赤狄の甲氏と留吁・鐸辰(杜注:鐸辰
の書せざるは、留吁の屬なればなり)とを滅ぼす。三月、狄の俘を獻ず。晉侯、
王に請い(士會を卿にすることを願い出た)
、戊申、黻冕(フツ・ベン、天子に
認められた卿の礼装のひざ掛けとかんむり)を以て士會に命じて中軍に将たら
しめ、且つ大傅(楊注:蓋し晉の禮刑を主どるの近官なり)と為す。是に於い
て晉國の盗、逃がれて秦に奔る。羊舌職曰く、
「吾之を聞く、禹は善人を稱(楊
注:
「稱」は「舉」なり)げて、不善人は遠ざかると。此を之れ謂うなり。詩(小
雅小旻篇)に曰く、
『戰戰兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し。
』
とは、善人上に在ればなり。善人上に在れば、則ち國に幸民(僥倖を求める遊
民)無し。諺に曰く、民の多幸は、国の不幸なりとは、是れ善人無きを之れ謂
30
うなり。
」
・夏、成周の宣榭に火ありとは、人、之を火(
「焼」の義)くなり。凡そ火は、
人火を火と曰い、天火を災と曰う。
・秋、郯の伯姫、來歸すとは、出だされしなり(離縁して追い出されたこと)
。
・毛・召の難の為の故に、王室復た亂る。王孫蘇、晉に奔る。晉人、之を復
す。冬、晉侯、士會をして王室を平げしむ。定王、之を享す。原襄公、禮を相
く(杜注:原襄公は、周の大夫なり、「相」は「佐」なり)。殽烝す(楊注:古
代の祭祀・宴会は、牲を殺して以て俎に置くを烝と曰う、「烝」は「升」(のぼ
す)なり、骨に肉有るを殽と曰う)。武子(士會)、私かに其の故を問う。王、
之を聞き、武子を召して曰く、
「季士、而は聞かざるか。王は享に體薦有り(杜
注:享は則ち其の體を半解して之を薦む、其の険を示す所以なり)
、宴に折俎有
り(杜注:體は解し節は折り、之を俎に升す、物皆食す可し、慈恵を示す所以
なり)。公には當に享すべく、卿には當に宴すべし。王室の禮なり。」武子歸り
て典禮を講求(研究する)し、以て晉國の法を修む。
『經』
・十有七年(前592年)
、春、王の正月庚子、許男錫我卒す。
・丁未、蔡侯申卒す。
・夏、許の昭公を葬る。
・蔡の文公を葬る。
・六月癸卯、日之を食すること有り。
・己未、公、晉侯・衛侯・曹伯・邾子に會して、斷道(杜注:斷道は晉の地)
に同盟す。
・秋、公、會自り至る。
・冬、十有一月壬午、公の弟叔肸(キツ)卒す。
『傳』
・十七年、春、晉侯、郤克をして會を齊に徴さしむ(杜注:
「徴」は「召」
なり、斷道の會を為さんと欲す)
。齊の頃公、婦人を帷にして之を觀しむ。郤子
登り、婦人、房に笑う(郤子は足が悪く、婦人は歩く姿を笑った)。獻子怒り、
出でて誓いて曰く、「此に報いざる所あらば、能く河を渉ること無からん。」獻
子先づ歸り、欒京廬をして命を齊に待たしめて曰く、
「齊の事(齊が會に参加す
るという返事)を得ざれば、復命すること無かれ。
」郤子至り、齊を伐たんと請
う。晉侯許さず。其の私屬を以てせんと請う。又許さず。齊侯、高固・晏弱・
蔡朝・南郭偃をして會せしむ。斂盂(レン・ウ、衛の地)に及びて、高固、逃
れて歸る。夏、斷道に會せるは、貮を討つなり。巻楚(杜注:巻楚は即ち斷道
31
なり)に盟い、齊人を辭す。晉人、晏弱を野王に執らえ、蔡朝を原に執らえ、
南郭偃を温に執らう。苗賁皇使いして、晏桓子を見る。歸りて、晉侯に言いて
曰く、「夫の晏子は何の罪かある。昔者、諸侯の吾が先君(文公)に事うるは、
皆逮(およぶ)ばざるが如し。舉(杜注:
「舉」も亦た「皆」なり)言う、羣臣
信ならずと。諸侯皆貮志有り。齊君、禮を得ざるを恐る、故に出でずして四子
をして來たらしむ。左右(齊君の近臣)或いは之を沮みて曰く、
『君出でずんば、
必ず吾が使いを執らえん。
』故に高氏、斂盂に及びて逃れたり。夫の三氏の者曰
く、『若し君の好を絶たば、寧ろ死に歸せん。』是が為に難を犯して来たれり。
吾若し善く彼を逆えば、以て來者を懐けん。吾又之を執らえて、以て齊の沮を
信にするは、吾既に過たずや。過ちて改めず、而して又之を久しくし(楊注:
久しく之を執らえて釈放せず)
、以て其の悔いを成す。何の利か之れ有らん。反
りし者をして辭を得しめて、來たりし者を害し、以て諸侯を懼れしむ。将た焉
んぞ之を用いん。
」晉人、之を緩くして逸せしむ。秋、八月、晉の師還る。
・笵武子(士會)、将に老せんとす。文子(武子の子、士燮)を召して曰く、
「燮(ショウ)や、吾之を聞く、喜怒、類を以てする者は鮮く、易うる者は實
に多しと(
「類」は禮法、喜びや怒りが禮に適っている人は少なく、それに反し
ている人は多い)。詩(小雅巧言篇)に曰く、『君子如し怒らば、亂庶わくは遄
かに沮まん(杜注:
「遄」は「速」
、
「沮」は「止」なり)
、君子如し祉(楊注:
「祉」
は「喜」なり)ばば、亂庶わくは遄かに已まん。
』君子の喜怒は、以て亂を已む
るなり。已まざる者は、必ず之を益す。郤子は、其れ或いは亂を齊に已めんと
欲するか(郤子は、齊が晉に従わない亂れを討伐することを望んでいるのか、
暗に笑われたことに対する報復であることを言っている)
。然らずんば(討伐が
思うように出来なかったとしたら)
、余は其の之(齊に対する恨み)を益さんこ
とを懼るるなり。余は将に老せんとす。郤子をして其の志を逞(こころよし)
くせしめば(政を主らしめて快くさせれば、)、庶わくは豸くこと有らんか(杜
注:「豸」は「解」なり。齊に対する恨みを解くことが有るだろうか)。爾二三
子に從いて唯敬め。
」乃ち老を請う。郤獻子、政を為す。
・冬、公の弟叔肸卒す。公の母弟なり。凡そ大子の母弟、公在さば公子と曰
い、在さざれば弟と曰う。凡そ弟と稱するは、皆母弟なり。
『經』
・十有八年(前591年)
、春、晉侯・衛の世子臧、齊を伐つ。
・公、杞を伐つ。
・夏、四月。
・秋、七月、邾人、ショウ(
“おおざとへん”に“曾”にの字)子をショウに
戕(ころす)す。
32
・甲戌、楚子旅卒す。
・公孫歸父、晉に如く。
・冬、十月壬戌、公、路寝に薨ず。
・歸父、晉自り還り、笙に至り、遂に齊に奔る。
『傳』
・十八年、春、晉侯・衛の大子臧、齊を伐ち、陽穀に至る。齊侯、晉侯に會
して繒(ソウ)に盟い、公子彊を以て晉に質と為す。晉の師還る。蔡朝・南郭
偃、逃れて歸る。
・夏、公、楚に如きて師を乞わしめて、以て齊を伐たんと欲す。
・秋、邾人、ショウ子をショウに戕す。凡そ内自り其の君を虐するを弒と曰
い、外自りするを戕(ショウ)と曰う。
・楚の荘王卒す。楚の師、出でず(魯が齊を伐つ為に依頼した兵が出動しな
かった)
。既にして晉の師を用う。楚、是に於いてか蜀の役(成公二年冬に在り)
有り。
・公孫歸父、襄仲(歸父の親)の公を立つるを以て寵有り。三桓を去りて、
以て公室を張らんと欲す。公と謀りて、晉に聘し、晉人を以て之を去らんと欲
す。冬、公薨ず。季文子、朝に言いて曰く、「我をして適を殺して庶を立てて、
以て大援(大国の援助、乃ち齊の援助)を失わしめし者は、仲なるかな。
」臧宣
叔怒りて曰く、
「其の時に當りて治むること能わずして、後の人に何の罪かある。
子、之を去らんと欲せば、許請う、之を去らん(杜注:宣叔は文仲の子、武仲
の父、許は其の名なり、時に司寇為りて刑を主行す)。」遂に東門氏を逐う(杜
注:襄仲は東門に居る、故に東門氏と曰う)
。子家(歸父の子)還りて笙に及び、
壇帷(セン・イ、
「壇帷」は「墠帷」に同じ、草を掃って祭場を設けること)し
て、介に復命す(「介」は副使、副使に復命の言葉を伝えた)。既に復命して、
袒して髪を括ね(
「袒」は左肩をはだぬぐこと、
「括」
(たばねる)は冠や笄を去
り、髪を束ねることで、喪に服する姿)
、位に即きて哭し、三踊して出づ。遂に
齊に奔る。書して歸父、晉自り還ると曰うは、之を善みするなり。
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