スンニ派とシーア派はなぜ争うのか?

スンニ派とシーア派はなぜ争うのか?
日本人が知らない中東&イ
スラム教
預言者ムハンマドが建てたモスク
(サウジアラビア・メディナ)
政治的覇権や
経済的利害対立が背景
「イスラム国」では、スンニ派がシーア派を敵視しているが、
その要因は「宗教的な宗派対立」ではない。
宗バー制度も持たないイスラム教で
教集団を統率する本山制度もメン
は、当初から正統と異端を区別する意識
はなかった。宗教的少数派も、基本的な
教義から外れさえしなければ、少なくと
も宗教上は異端として迫害されることも
なく、同じモスクで祈り、ともにメッカ
巡礼に出かけ、近所付き合いをして姻戚
関係を結ぶこともできた。歴史の過程で
分派間の確執や紛争が生じるのは、政治
的覇権や経済的利害問題が背景にある時
に限られてきた。
昨今、イラクでは、スンニ派を中心と
した「イスラム国」がシーア派を敵視し
ているが、その要因も「宗教的な宗派対
立」ではないことに注意する必要がある。
イスラム初期の分派発生が、預言者ム
ハンマドの後継者争いという政治的闘争
によるものであったことも、こうした特
徴をよく示している。ムハンマドの従弟
で女婿であるアリーが第4代カリフに就
任した際、当時シリア総督であったムア
ーウィヤは彼のカリフ位就任を認めず、
たいじ
二人はシッフィーンの戦いで対峙するこ
とになった。アリー軍は戦闘では優勢だ
ったが、敵側の戦略にはまって停戦協定
を結び、それに反発したかつての味方が
西暦661年にアリーを暗殺してしまった。
アリー家の悲劇はこれにとどまらず、
ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの
死去に伴って決起したアリーの次男フサ
インも、680年10月10日、カルバラの
荒野(バグダッドの南南西約80㌔)で幼
い子供や女性を含む一族郎党とともに戦
死した。フサインは預言者の最愛の孫で
あり聖家族の直系であるために、彼の戦
死は「カルバラの悲劇」としてシーア派
発祥の最重要モチーフとなった。
シーア派の特徴
シーア派という名称は、
「アリーの党」
という意味のシーア・アリーに由来する。
彼らは「アリーが友とするものを友とし、
敵とするものを敵とする」を合言葉とし
て結束し、アリーを初代イマーム、次男
のフサインは第3代イマームとした。シ
ーア派が成立して初めて、それ以外の多
数派が「スンニ派」
(ムハンマドの慣行
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と共同体の合意の人々)と呼ばれるよう
の最高の徴)と呼ばれる。イラン・イス
になったのである。
ラム革命後にはこれがさらに整備され、
教義においてシーア派とスンニ派が最
7位階が設けられた。そのためにシーア
も異なる点は、預言者ムハンマドの後継
派では、イスラム復興運動の担い手がほ
者を誰にするかという点である。
とんどの場合、ウラマーであることは興
スンニ派ではイスラム共同体の政治的
味深い。イラン革命を成功に導いたホメ
及び宗教的権威は、全信者の合意のもと
イニ師も最高位のウラマーであった。
に選ばれる最高指導者に委ねられると
他方、スンニ派のウラマーは多くが市
し、預言者の後継者を意味するカリフを
井の一般人である。最近まで法学者とな
最高指導者として認めてきた。
る資格にも、一定の基準はなかった。前
一方、シーア派は、預言者の血縁者を、 近代では、裁判官・判事などのように定
正確にはアリーとその妻である預言者の
職に就くものも少数ながらあったが、多
末娘の子孫を「聖家族」として認め、そ
くのウラマーは別に生業を持ち、モスク
の中でもイマーム位についた者のみが預
などで無償で法律相談に乗っていた。
むびゅう
言者の絶対的で無謬の権威を受け継いで
いると主張してきた。
「宗派対立」ではない
イスラム集団を統率する最高指導者の
忘れてならないことは、スンニ派もシ
存在は、両派に共通した教義である。し
ーア派も教義上はいくつかの相違がある
かし、シーア派では、イマームはムハン
ものの、両派とも互いに正統的であると
マドの血縁である「聖家族」によって継
認め合っていることである。シーア派は
承され、それぞれの時代に一人しか現れ
少数派であるが、最大分派の十二イマー
ない、神聖で絶対的な救世主であり、宗
ム派はイラン・イスラム共和国の国教で
教的にも政治的にも最高指導者である。
あり、また、アラウィー派はシリア人口
シーア派には多くの分派があるが、そ
の12%を占めるにすぎないが、大統領一
れは聖家族の子孫のうち、誰を「イマー
族がこの派に所属しているために、両派
ム」と認めるか、という違いから生じて
とも政治的に大きな注目を集めている。
いる。最大分派の十二イマーム派では12
それでは、なぜ互いに正統であると認
代までのイマームの存在が認められてい
せいさん
る。最後のイマームは874年に小幽隠に、 め合っている宗派同士が、凄惨な対立を
続けているのか。確実なことは、抗争の
940年には大幽隠に入ったとされ、現在
も隠れて生きていると信じられている。 要因が「宗教的な宗派対立」ではないと
この最後のイマームを「隠れイマーム」 いうことである。シリアの混乱は、スン
ニ派を中心とする反政府グループとアラ
として崇敬する十二イマーム派では、イ
マームは終末の日に救世主(マフディー) ウィー派政権との対立であると見られて
いるが、双方ともにスンニ派もシーア派
としてこの世に再臨し、地上に神の正義
もキリスト教徒までもが入り乱れていて
を実現すると信じられている。
一枚岩ではない。
一方のスンニ派では、アッバース朝の
イラクでは、南部のシーア派政権と中
滅亡後も、さまざまな形で共同体の指導
者「カリフ」の存在が認められており、 部地域を支配しているスンニ派強硬派の
オスマン帝国では1924年まで、曲がり 「イスラム国」との間の覇権争いが激化
なりにもカリフ制度が実施されていた。 しているが、正確に言えば、これも「宗
派対立」ではない。これらの紛争は、意
現代に至るも、イスラム社会の理想形と
図的に仕組まれた貧富の格差と政治混乱
してカリフ制の再興を求める意見が後を
し れ つ
から生じた熾烈な経済的利権闘争であ
絶たないことも事実である。
る。この闘争にスンニ派とシーア派の対
カリフの権威を認めないシーア派で
立というシナリオをまとわせることは、
は、イマーム不在の期間はイスラム法の
宗教的な大義名分によって本質的な要因
専門家ウラマーが信者を指導するため
に、ウラマーの位階が設定されており、 を覆い隠す手段に過ぎない。
(塩尻和子・東京国際大学特命教授)
最高位がアーヤトッラー・ウズマー(神
エコノミスト
2015.3.24
15/03/12 21:20