目 次 - 岩波書店

目 次 v
目 次
序 章 政治思想史の課題と方法
…………………………………… 1
──精神史としての政治思想史──
1 「政治」=自己と他者との関係の秩序化 2
2 「精神史」=時代の雰囲気 4
第 1 章 古代ギリシア精神史
………………………………………… 9
第 1 節 自己の成立/他者の成立──「政治」の誕生── ………… 13
1 感性における革新──内面性の成立── 13
2 知における革新──哲学の成立── 22
3 政治における革新──ポリスの成立── 27
第 2 節 ギリシア悲劇の政治思想──「第二の政治」の誕生──
… 32
1 アイスキュロス──ポリスへの信頼── 32
2 ソポクレス──神々の秩序への懐疑── 35
3 エウリピデス──見せかけの悲劇── 39
第 3 節 合理主義の諸相──政治哲学の誕生── ……………………… 46
1 ソフィスト──啓蒙主義── 47
2 ソクラテス──「他者」との対話── 51
3 プラトン──哲学者の主観的 抽象的理性── 55
4 アリストテレス──市民の「常識」── 67
第 4 節 内面への逃避──ヘレニズム期精神史── …………………… 78
1 ヘレニズム期の精神史的状況 78
2 ヘレニズム期の諸思想 84
vi 目 次
第 2 章 キリスト教中世精神史
……………………………………… 89
第 1 節 信仰と理性 ………………………………………………………… 93
1 原始キリスト教の精神史的意義──パウロ── 93
2 キリスト教神学の体系化──アウグスティヌス── 95
第 2 節 中 世 の 秋 ……………………………………………………… 102
1 「12 世紀ルネサンス」と「13 世紀革命」 102
2 中世合理主義の成立──トマス・アクィナス── 107
第 3 節 中世末期の精神史的特質──非合理主義の台頭── ……… 115
ヴォランタリズム
1 主意主義──ドゥンス・スコトゥス── 115
ノミナリズム
2 唯名論──ウィリアム・オヴ・オッカム── 116
パンセイズム
3 汎神論──ニコラウス・クザーヌス── 117
4 宗教改革──ルターとカルヴァン── 117
第 3 章 近代の胎動──ルネサンスからバロックへ──
…………… 123
第 1 節 イタリア・ルネサンス──「自然と人間の発見」── …… 127
1 盛期ルネサンス 127
2 後期ルネサンス(マニエリスム) 131
3 近代的「政治」の誕生 1──マキャヴェリ── 133
第 2 節 北方ルネサンス ………………………………………………… 139
1 近代的「政治」の誕生 2──イギリス── 140
2 近代的「政治」の誕生 3──フランス── 148
第 3 節 バロック精神史 ………………………………………………… 159
1 バロック精神の光と影 161
2 デ カ ル ト 167
3 パ ス カ ル 177
目 次 vii
第 4 章 イギリス自由主義の成立と展開
……………………… 185
第 1 節 ホ ッ ブ ズ ……………………………………………………… 190
1 ホッブズの近代性 191
2 ホッブズは自由主義者か? 201
第 2 節 ロ ッ ク
………………………………………………………… 204
1 認 識 論 205
2 道 徳 哲 学 207
3 政 治 哲 学 209
第 3 節 スコットランド啓蒙
………………………………………… 214
1 ス ミ ス 216
2 ヒ ュ ー ム 221
第 4 節 功 利 主 義 ……………………………………………………… 229
第 5 章 転 回──ルソー──
…………………………………………… 239
1 実存的問題意識 246
2 社会・政治思想 249
3 「夢想」の世界 260
第 6 章 19 世紀ドイツ精神史
……………………………………… 265
第 1 節 古典主義とロマン主義 ……………………………………… 268
ビュルガー
1 「 市 民 」の理念──ゲーテ── 268
キュンストラー
2 「芸 術 家」の理念──ノヴァーリス── 277
第 2 節 観念論哲学 ……………………………………………………… 286
1 カ ン ト 286
2 ヘ ー ゲ ル 298
第 3 節 マ ル ク ス ……………………………………………………… 310
viii 目 次
1 初期マルクスにおける弁証法論理の獲得 310
2 経済的疎外の論理 313
3 物象化の理論 316
第 7 章 20 世紀精神史への転回──ニーチェ──
……………… 323
1 ロマン主義からの出発と決別 328
2 既存の価値の批判 332
レアリテート
第 8 章 「 実 在 」の探求
…………………………………………… 347
第 1 節 「モデルネ」の芸術 …………………………………………… 353
第 2 節 文化ペシミズム ………………………………………………… 369
1 ウェーバー 369
2 フ ロ イ ト 383
第 3 節 ファシズムの精神史
………………………………………… 390
キュンストラー
ビュルガー
1 旧保守主義──トーマス・マン:「芸 術 家」から「 市 民 」へ── 393
2 新保守主義(保守革命派) 405
アルバイター
──ユンガー:「ブルジョア」から「労働者」へ──
オントロギッシュ
第 9 章 存在論的転回──ハイデガー──
………………………… 415
1 両義性の哲学 421
ダ ス・ポ リ テ ィ ッ シ ェ
2 政治的関与──ハイデガーにおける「政治的なもの」── 433
第 10 章 戦後精神史
…………………………………………………… 443
リングィスティック・ターン
第 1 節 言 語論的転回──ソシュールとヴィトゲンシュタイン── … 446
第 2 節 20 世紀マルクス主義──ルカーチとアドルノ── ………… 456
第 3 節 フランス実存主義──サルトルとメルロ
ポンティ── …… 466
目 次 ix
第 4 節 構造主義とポストモダニズム ……………………………… 486
──レヴィ ストロースとデリダ──
終 章 「存在」の耐えられない軽さ?
………………………… 495
あとがき 503
学部学生のための邦語参考文献 505
装丁 桂 川 潤
序章 政治思想史の課題と方法 1
序章 政治思想史の課題と方法
──精神史としての政治思想史──
最初に,本講義では,(1)
「政治」を如何に捉えるのか,
(2)
「政治」を解明
するために採用する「精神史」の方法とは如何なるものか,という 2 点につい
て,ごく簡単に説明しておきたい.こうした根本問題について本格的に論じる
時間的余裕はない.ここでは最小限の説明を与えておきたい.なんとなれば,
開始早々から聴講者は,これが法学部に置かれた政治思想史の講義であること
を訝しく思うに違いないからである.思想史の講義であるからには哲学に触れ
るのは当然であるとしても,美術や文学について,あるいは科学について講義
されることに戸惑う諸君がいるであろう.それというのも,一般に政治と見な
4
4
4
されている営みよりもはるかに広く政治を捉えるからであり,そうした政治的
なま
現象の歴史的変化をできるだけ概念化を通すことなく,生の姿で理解してもら
いたいからである.つまり,この講義は精神史としての政治思想史をめざして
いるのである 1).なお,本講義ではテキストを読む訓練も兼ねる意味で,思想
家自身の著書等から多数の引用文を掲げるつもりである.難解な文章の場合は,
本文で平易に解説するつもりである.何よりも面白いことを旨とする精神史と
いえども,テキストに即しているという最低限の実証性は満たしていなければ
いけない 2).
1)
より詳しくは以下の拙文を参照のこと.「性的人間と政治的人間──政治概念の再検討のため
に」
(小野他『近代日本の意味を問う──政治思想史の再発見Ⅱ』木鐸社,1992 年);「精神史として
の政治思想史から政治思想史としての精神史へ」
(田中浩編『思想学の現在と未来』未來社,2009
年)
;
『ヒューマニティーズ 古典を読む』
(岩波書店,2010 年)
.
2)
ところで,その引用文であるが,翻訳のある場合には原則として訳文を用いているが,訳語や
表記などを含めて本書全体で統一したほか,場合によっては訳文そのものも変更した.また,下線を
引き太字で強調したのも,特に断りがない限りは引用者である.思想家を理解する上で重要な語句に
ついては,括弧を付して読者の注意を喚起してある.また,他者や理性については,著者の問題意識
を読者にわかってもらうために,随時,括弧を付してある.
2 序章 政治思想史の課題と方法
1 「政治」=自己と他者との関係の秩序化
マキャヴェリ以来の近代の政治観は,そしてウェーバー以降の現代政治学は,
政治を正当な物理的暴力によって担保された合理的法に基づく物質的利益の再
分配に求め,政治的領域(法的,公的領域)と非政治的領域
(道徳的,私的領域)
の峻別をその前提と考えてきた.また権力についても喧しい議論があるが,究
極的には国家によって独占された正当な物理的暴力に求められるのである.
ポリティーク
政 治 とは何か.これは非常に広い概念で,およそ自主的におこなわれる
4
き ょ う
4
今日ここで政治と
指導行為なら,すべてその中に含まれる.……〔しかし〕
4
4
4
4
いう場合,政治団体──現在でいえば国家──の指導,またはその指導に
影響を与えようとする行為,これだけを考えることにする.……国家とは,
4
ある一定の領域の内部で──この「領域」という点が特徴なのだが──正
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である,と.
(ウェーバー『職業としての政治』
,脇圭平訳,岩波文庫,8 9 頁) 政治についてのこうした即物的な考え方は,ウェーバーが言うように,余り
に多岐にわたる目的の側から規定することができないが故に,物理的「暴力」
の行使という手段に着目して定義せざるをえない西洋近代の政治に特有のもの
である.しかし,究極的には物理的暴力の発動に訴えることは事実であるとし
ても,人間が群を作って生活する生き物である限り,古来,人間は群を維持す
ひい
るために暴力とは異なる様々な手段を用いてきた.腕力に秀でたボスの威嚇が
集団の秩序を保っている猿の群とは異なり,人間は「意味」によって集団を分
節化し,そこに共同体的秩序を作り上げたのである.他者を動かす手段として
は,物理的威嚇の他に,相手の打算に働きかける利益誘導,相手の理性に訴え
る合理的説得があるが,現代政治学が無視している方法,即ち,自明的な意味
秩序に訴え,改めてそれに基づく規範性を想起させることこそ,人類が猿から
進化して以来,最も有効であったと考えられる.物理的暴力の発動は文字通り
ウルティマ・ラティオ
最 終 手 段であり,最も知恵のない統治手段なのである.例えば,よく知られ
序章 政治思想史の課題と方法 3
た小説である夏目漱石の『こころ』を見てみよう.先生は,恋敵である K を
して如何にお嬢さんへの思いを諦めさせたのか.
K は昔しから精進という言葉が好でした.……「精神的に向上心のない
ものは,馬鹿だ」.
私は二度同じ言葉を繰り返しました.そうして,その言葉が K の上に
どう影響するかを見詰めていました.
「馬鹿だ」とやがて K が答えました.「僕は馬鹿だ」
.
K はぴたりと其所へ立ち留つたまま動きません.
(夏目漱石『こころ』岩波文庫,239 240 頁) 先生は,若者が国家の隆盛に貢献する立身出世という共通の目標に邁進して
いた明治という時代の精神を K に改めて思い起こさせ,恋心という K の欲望
を断念させると同時に,自らの欲望を成就するのである.意識を緊張させて自
分の言葉が K に及ぼした効果を探る先生の眼差しは,単なる比喩を越えてま
さに政治そのものであり,しかもこの政治的行為を可能にしたのは,その時代
にあっては自明の理と考えられている当為規範である.重要なことは,この規
範は法のような合理的な,それ故に明瞭に意識されたものではなく,漠然とし
た時代の気分,雰囲気の中に孕まれた暗黙の共有物なのであり,時代の変化に
ともなって移り変わることである.明治の日本を覆う時代の雰囲気とは異なり,
個人的欲望の充足に正当性を付与する現代にはまた違った自明性が存在し,従
4
4
4
って,それに即した異なる政治的行為がありうるであろう.K に恋を諦めさせ
た倫理は,疑いもなくエゴイスティックに振る舞う先生にも共有されていて,
だからこそ罪の意識に苛まれて生きていた先生は,明治天皇の死をきっかけに
明治の精神に殉じたのである.歴史的に可変的な時代の精神を温床とする自明
エ
ー
ト
ス
的な規範とその時代の人間に共有された倫理的生活態度が,その共同体に住ま
う人間の相互行為に正当性を与えている.理性に基づく契約や合意が,個々の
人間行動や共同体の秩序を支えているかに見える近代にあっても,理性的吟味
を経ずに当該の時代の人々によって自明であると見なされている規範こそが,
深部において共同体を支えているはずである 3).
4 序章 政治思想史の課題と方法
要するに,〈その時代に自明であると見なされている意味秩序を形成するこ
と,そしてその秩序に訴えて人間を動かすこと〉そのものが「政治」なのであ
る.このような政治概念は,〈最終的には正当な物理的暴力の行使によって決
着が図られる自他の利益の調整〉という現代の政治観とは異なるものであり,
本講義でも論じられる言語論的転回以降の,とりわけポストモダニズムの政治
についての考え方と共通なものと言えるかもしれない.それは,今日の政治学
において常識的な意味での政治と区別して「政治的なもの」と呼ばれている政
治概念に近いものである.しかしながら,私自身は,政治概念を拡張する試み
をポストモダニズムから学んだわけではない.ポストモダニズムの研究を開始
するはるか前から,研究者の道を歩み始めた頃に好んで読んだディルタイをは
じめとするドイツの精神史の中から学んだのである.
2 「精神史」=時代の雰囲気
ガイステスゲシヒテ
この講義では政治思想史を「 精 神 史 」の立場から講じる.法学部に置か
れた政治思想史の講義であるにもかかわらず,哲学はもとより科学,文学,は
ては美術,音楽まで広く考察されるのはその故である.ここで精神史という時,
19 世紀末からドイツのディルタイを中心に開発されてきた思想史の方法論を
指している.この意味での精神史は明確な人間学的基礎をもつ.即ち,人間を
理性的存在と見なし,歴史を理性が十全に開花していくプロセスとして整序す
レーベン
る啓蒙主義的な理解ではなく,非合理的存在としての人間の「 生 」が生成,
発展する運動として歴史を捉えようとする.こうした歴史観は,ロマン主義や
歴史主義といった,とりわけドイツで盛んであった思想運動から始まり,ヘー
ゲルによって最初の完成を見るのであるが,彼には歴史を目的成就のプロセス
3)
ここで私が「自明性」という言葉を用いるとき,私は明確に現代ドイツの精神病理学者 W. ブ
(1978 年,木村敏他訳,みすず書房,
ランケンブルクの名著『自明性の喪失──分裂病の現象学』
1978 年)を 念 頭 に 置 い て い る. 哲 学 に お い て も し ば し ば 言 及 さ れ る 本 書 の 主 題 は,
ゼルブストフェアシュテントリッヒカイト
明
性 の領域,すなわち「フッサールの意味での「間主観的に構成された生活世界」」
自
(ⅲ頁)
における人間の根のおろし方の問題であるが,それはまた 19 世紀ロマン主義における「土壌」
が人間に対してもっている意味でもある.なお,ブランケンブルクのこの著書については第 1 章第 4
節の註でも言及される.
序章 政治思想史の課題と方法 5
と考える目的論の色彩が濃厚である.ロマン主義の影響下に出発しながらも,
パ ン ロ ギ ス ム ス
それを概念の万力の下に体系化したヘーゲルのこの汎論理主義に強く反発した
のが,ディルタイであった.
〔客観的精神という語をヘーゲルと共有しつつも〕ヘーゲルは諸共同体を普
レアリテート
遍的,理性的な意志から構成する.今日,我々は生の 実 在 から出発しな
ければならない.生において心的連関の全体が作用している.ヘーゲルは
形而上学的に構成する.我々は所与のものを分析する.そして人間の実存
に関する現代の分析が示すように,我々全ての心を満たしているのは,衰
弱感であり,暗い衝動やその暗鬱さに対する苦悩の力であり,生全体に対
する幻想とその有限性〔の感情〕である.共同体的生という最高の構造物も
また,この生の全体に起源を有している.従って,我々は,客観的精神を
むし
理性から理解することはできず,寧ろ諸共同体にしっかりと据えられてい
る生の一体性の構造連関へと回帰すべきなのである.(Dilthey, Der Aufbau
der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften, Gesammelte Schriften, Bd.7,
S.150)
ディルタイは,生を主観
客観の分離以前の意識と世界との相互交流と考え
る.つまり,そこではまだ自己意識と世界との分離が生じてはいない.私の生
の基底には私を含む共同体的生が横たわっているのである.この生は,まず時
アトゥモスフェール
シュティムング
代を覆う不定形な「 雰 囲 気 」「 気 分 」として現象化するのであるが,こ
の共同体的情緒は具体的対象に向けられた主観的感情
(例えば,母の死がもた
らす悲しみ)ではなく,多くの共同体構成員を覆う漠然とした時代の雰囲気
(例
えば,ファシズム前夜のヨーロッパを覆う閉塞感)である.この雰囲気が結晶
アウスドゥリュック
化,概念化して,その時代の文化的所産である種々の「 表
現 」
(これも精
神 史 の テ ク ニ カ ル ・ タ ー ム で あ る)を 生 み 出 す.
「表 現」 の 全 体 が
ヴェルトアンシャウウング
「 世
界
観 」なのであるが,それは自他未分離の層に澱む気分,雰囲気か
図 1 「世界観」の構造
6 序章 政治思想史の課題と方法
ら始まって,順次,主観化と概念化が進んでいく次のような構造をしている.
(図 1)
フェアシュテーエン
精神史とは,最終的には所与の時代の不定形な気分を「 理
解 」するこ
とであるが,その手がかりとして政治思想を含む種々の「表現」を「理解」し
ようとする.つまり,思想家の主観的意図を越えて,時代の気分に肉薄するの
である.従って,本講義の構成もまた所与の時代の芸術,哲学,政治思想とい
った「表現」を可能な限り順次扱いながら,時代の気分を解明し,その時代と
他の時代との相違を際立たせることを目指す.重要なことは,個々の思想家の
政治思想を把握することではなく,それもまた彼の生きた時代を理解するため
の「表現」の一つであるという精神史の立場である 4).
そして,もう一つ重要なことは,
「理解」とは精神史という学問の一手段で
あるのみならず,我々が日常的に行っている「他者」を理解することに他なら
4
4
4
4
4
4
ないという点である.「他者」とは誰かという問題は本講義を一貫するテーマ
であるが──ことさらに他者を問題にする時は,以下では「他者」と表示する
──,差しあたってここではディルタイに従って次のように理解しておこう.
4
4
4
4
4
4
4
即ち,「他者」を理解するとは,自我を持つ主体としての私が,同じく自我を
4
4
4
4
4
4
4
4
持つ客体としての貴方を客観的に把握することではなく,私と貴方の区別を越
えた自他未分離の層に投錨すること,換言すれば,〈汝における我の再発見〉
で
あり,自己と他者との共同性の確認なのである.それこそが,固い殻を被った
ロゴス
自己と他者とが合理的な言葉を通して意思疎通を行うこととは異なる,真に
フェアシュテーエン
「他者」を「 理
解 」することなのではないか.
個人が捉える生の表現は,通常は単に個別的なものであるのみならず,共
同性についての知識とその共同性の中に与えられる内面的なものとの関連
をも十分に有している.個別的な生の表現がこのように共同性の中に秩序
4)
精神史としての政治思想史といえども,階梯状をなす「表現」の諸相のうち,政治思想の部分
では通常の政治思想史で必ず触れられる論点を扱う.しかし,本書では,紙幅の都合からそうした部
分を大幅に省略して,精神史としての政治思想史ならではの論点,即ち視覚芸術や言語芸術,そして
勿論のこと,哲学や科学を素材とする分析に紙数を割くことにしたい.実際に行われた講義において
政治思想史らしい論点,例えばプラトンの政体変遷論やアリストテレスの正義概念がまったく話され
なかったわけではない.
序章 政治思想史の課題と方法 7
だって組み込まれているのは,客観的精神が組織だった秩序をそれ自体の
中に含んでいるからである.客観的精神は法律や宗教などそれぞれ同種の
連関をその中に有しており,それらの連関は一定で規則的な構造をなして
いる.(Dilthey, Plan der Fortsetzung zum Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften, Bd.7, S.209)
但し,ここで「解釈学的循環」のアポリアに
着することを忘れてはならな
い.我々は,過去のテキストを,異なる「世界観」を,そして「他者」の考え
(デカルト『省
を,その外から客観的に理解する超越的な「アルキメデスの点」
察』
「第二省察」
)に立つことは不可能なのである.それらを理解するためには,
それらが発せられた時代の文脈や他者が置かれている立場(
「地平」被拘束性)
を理解していなければならないが,それらの「地平」を理解するためには,解
釈者が拘束されている「地平」を脱してテキストや他者の発言を理解していな
ければならないのである.こうして過去の「地平」と現在の「地平」の間で
堂々巡りを繰り返すことになる.しかしながら,このアポリアに絶望して過去
や他者を理解することを諦めてはいけない.我々は,それにもかかわらず「地
(ガーダマー)をめざして「対話」を継続するべきなのである.
平の融合」
以上の方法論的な考察を踏まえて,本講義では以下の 3 点を受講者に要望し
たい.
リベラリズム
1)政治とは自他の関係の秩序化そのものであり,自由主義の下で政治的な領
域を私人間の関係と切り離して理解するようになったのは,西洋においてもた
かだかこの 4,5 世紀のことである.また,この近代的な公 私二分法自体が自
他の関係の秩序化の一つのあり方にすぎない.要するに,政治思想とは他者を
如何に理解し,他者と如何なる関係をもつかという問題なのである.従って,
政治思想史という学問に接する時に,それを自分とは無縁な公的領域について
の思想として扱うのではなく,常に他者と関わりながら生活している自らの問
題として受け止める努力を払うべきなのである.
2)その際に受講者は,政治思想を論理的に理解するだけで事終われりとする
テューニング
のではなく,論理的構築物の背後にあるパトスに感性的に 同 調 する努力を惜
しんではならない.思想を紡ぎ出す源は,時代に同調する,あるいは時代に抗
8 序章 政治思想史の課題と方法
う中で思想家を突き動かすパトスであるからである.それを摑み取るためには,
我々もまた感受性を全開し,思想家と「対話」,いや寧ろ格闘しなければなら
ない.
3)政治思想も含めて過去の文化的所産を理解することは,自らを取り囲む現
在の「他者」を理解することと同じであり,我々が他者と共に生きることの訓
練でもあるということを忘れるべきではない.法学部に置かれ,政治学の基礎
部門を担う政治思想史は,確かに社会科学ではあるが,限りなく人文科学に近
く,また専門科目であると同時に教養科目でもある.青臭いかもしれないが,
大学で学問を学ぶことの意味は専門知識を身につけるだけではなく,人間的に
向上することであるはずである.