四王寺山新春トレッキングで古代から戦国の世に想いを馳せるの巻 栗秋和彦 会社の山仲間と新春登山会を四王寺山(410 ㍍)で催した。寒さに弱いМ木隊長の機嫌を損ねないよう に近郊の低山を模索した結果、アプローチに水城跡を歩き、下山ルートに大宰府天満宮での初詣を加え ることで、四王寺山行の正当性を強調。もちろん下山後は周辺のいで湯に浸り、二日市か南福岡あたり で新年会も視野に入れたのは言うまでもない。そこでМ木隊長宛に以下のタイムスケジュール案を送り、 参考としていただけるなら望外のヨロコビであることを暗に迫った。 「門司駅発 10 時 04 分。博多駅からは 10 時 43 分発の普通電車に乗れば、うたかたの時を経て、水城 駅着は 10 時 58 分。ここで隊を整え、水城跡をゆるゆると歩こう。はるかいにしえ百済は白村江 (はくすきの え) の戦いに敗れ、憂う間もなく外敵の脅威に苛み、国を護る大工事に至らしめた為政者の心情は如何ば かりか。ほどなく大宰府政庁跡に着き、ここに政庁を設置した意義や風水について考える。さてここから山 道に分け入り、281m まで高めると“兵どもが夢のあと”の岩屋城跡に達する。遮るもののない本丸跡から 宝満山の霊峰を仰ぎつつ、新年の計を図ろう。その後は頂稜までひと登り、山稜の縁を縦走して最高峰 の大城山(410m)を落としめる。展望は得られないが、きっと意気軒昂な面々の表情を伺い知ることがで きようぞ。 下山ルートは往路を戻り、焼米ヶ原からは一気に連歌屋地区へ下り、大宰府天満宮の境内に降り立つ。 ここは学業の神とて、仕事のしがらみや世俗事の悩み解決依頼など全方位の願いごとなどは避けたい。 さぁて仕上げの湯は宝満山麓の都久志の湯まで足を延ばすか、連歌屋の高台に位置するみかさの湯に するか、はたまた二日市温泉まで歩き、御前の湯で清めるか、そのときの空気で決めればよかろう。あっ、 新年会の詳細については地元・М木隊長に委ねたい」 さて本番はどうなることやら。 ○分断された水城跡 さぁどう繋ぐか? 水城西端から鹿児島線を見る 土塁上部のトレイルはすぐ消滅 二日市側の平地を行く 西鉄線が阻む、さぁどうする JR 水城駅に降り立ち四王寺山を目指すのに水城跡をアプローチとすれば、悠久の時空を超えて古代 へ思いを馳せることができよう。JR 鹿児島線で博多〜二日市間を通るたびに大がかりな土塁の森の連な りを目の当たりにして、いつかはここを歩いてみたいと密かに思い描いていた。それがやっと実現の運び となったのだから懸案成就して興味深々の体。М木・T田両兄も初見参とあって指向性は一致、さぁ行か ん!である。 先ずは線路沿いの道路から土塁の頂稜部へ駆け上がったが、わずかに踏跡はあるものの、灌木やい ばらに遮られて前途多難。たまらず二日市側の平地(学術用語では下成土塁と言う)へ逃げると、広々と した草地公園へ出て、快適ウォーキングと相成った。「うんうん、水城の森を見上げながら気持ちのいいト レイルであるぞよ」と一同に笑みが戻った。ところがこの悦楽も長くは続かず、300 ㍍も進むとトレイルは田 んぼのあぜ道へと変わり、土塁の小山も消失。目の前には西鉄線と 3 号線の高架橋が立ちふさがり、進 路を阻んだ。しかしその向こうには四王寺山へと続く(であろう) 小高い森を認めたので、ここに至って水 城跡分断の一部始終がはっきりと見てとれたのだ。 で向こうの水城の森へどうやって辿り着くかである。先ずは西鉄線を股越さなければならない。あぜ道 から線路脇へ這い上がり、バラストを蹴散らして横断するも、その先は河川が阻んだ。ならば戻って今度 は二日市方へ 30 ㍍ほどの鉄橋をすばやく渡った。犬走り部分のグレーチングを駆け抜けたが、いつ電車 が進来してくるか分からぬ場面だもの、あまりいい気持ちではなかった。しかしその先も河川が阻み、ガッ クリ。考え込みそして困ったぞ。 西鉄線横断で途方に暮れ人工河川へ降りる 分断した東側の水城の平地を歩く 水城を東側から臨む展望台へ上がる う~ん、残された道はコンクリ壁を伝って人工河川へ降りるしかない。水量の少ない暗渠を進むと再び 線路側の側壁へと導かれ、これを攀じ登り線路を横断すると、ガードレール越しに 3 号線下の市道へと抜 け出せたのだ。やったばい!思いがけぬバリアを何とか克服し、難儀さをつくづく思い知ったが、意思貫 徹、分断された水城を繋ぐことに成功したのだった。あとは東方へ延びる土塁の森を見上げながら、同じく 二日市側の下成土塁を辿っていくと、これまた 300 ㍍ほどで土塁は消滅し、行く手は交通量の多い市道に 阻まれた。しかしここは横断歩道を渡るだけで何の労苦もなかったので今更驚きはしない。さて水城跡の 東端を臨む展望台に上ると、辿ってきた土塁の全体が俯瞰でき、先ずは水城跡をなぞったウォーキング の完結をみたのだった。 とまれいにしえの歴史的遺構も、現代の営みを維持するためには分断も致し方なかったと、忙しげに蠢 く車や電車の往来に加え、周りを取り囲むビル群に圧された風景が如実に物語っていたものと思う。その 意味では遺構の重みと現代がせめぎあった落としどころとしての風景と言えなくもない。 ○四王寺山へのアプローチ考とトレランの隆盛を垣間見る 展望台から支稜への登り 森が切れた箇所から水城全体を俯瞰する(中の 2 枚) 両側に住宅地を挟み上へ上へ さて四王寺山への登路である。ガイド本(「新・分県登山ガイド 39 福岡県の山」他数冊) にはもっぱら 大宰府政庁跡から九州自然歩道を辿るコースを紹介している。と言うよりこれ以外のコース紹介がないの だ。もちろん国土地理院の二万五千分の一地図には他にも踏み跡(破線) が記されているが、取り付き点 が分かりづらく判然としなかった。よってスケジュール案で示したとおり大宰府政庁から九州自然歩道が 無難かなとの思惑が先行した。しかしわざわざ政庁跡まで市街地(住宅地)を歩き、そこから取り付くのは いささか興ざめの感がしないでもない。水城を繋いで歩いてきた以上は、この東端から直接山稜に突き上 げるのが理に適っている。 そもそもくだんの展望台は四王寺山から派生する支稜の末端と(地図では) 読み取れるし、ならば稜線 へ繋がっている踏跡があろうというもの。で思惑どおり奥へとつづく踏跡があり、この支稜は住宅街を南 北に分け徐々に高度を上げていった。しかし森の中を進むので展望はきかない。それでも 1.2 カ所森がき れ、その都度四王寺山の山腹が大きく迫ってくるのが分かった。しめしめである。そして眼下に広がる市 井の風景から完全に離れると、斜度も増してタブノキやシイなどの広葉樹の森を直上するコースへと変わ った。すっかり登山モードで喘いでいたのだ。と言うのも昨年暮れに登った立花山は支峰の白岳の登りに 似て、落ち葉に足を取られた直上ルートは踏ん張りが効かず、けっこう難儀だったのだ。 けっこうな直登ルートがつづく 頂稜に上がり国分分岐の道標を発見 毘沙門天にて すぐ隣は大城山の頂 しかしそれも低山ゆえのちょっとの我慢で傾斜も緩くなると平坦な森に達し、国分分岐の導標を確認し たことで大野城跡を一周する頂稜に出くわしたのだった。となれば最高峰の大城山までは楽勝の至り。多 少のアップダウンはあるものの、林道と見まごうほどのトレイル(土塁跡?) を駆け足で北進すると毘沙門 天の鳥居が現れ、その縁の小高い隆起が大城山のてっぺんなのだ。森の中の隆起は展望もなく、山名 標がなければ頂とは分からぬほどで、およそ 10 年振りに踏んだ山頂の感触は地味さだけが蘇えったこと を記しておきたい。 おっと昨今のブームを反映してか、山頂でのトピックをもう一つだけ付け加えると、痩身寡黙なおじさん トレイルランナーと会ったこと。もちろん言葉を交わすこともなかったが、我々は折り返して南端の縁にあ たる焼米ヶ原に到達してほどなく、彼は時計回りで到着してちょっとびっくり。地図上で推測すれば大城山 から引返した我々の倍くらいの距離を走ってきたことになり、なるほどけっこうなスピードで縁を廻った結 果と読み取れたのだ。 復路は頂から数分で 29 番札所 気持ちのいい土塁跡がつづく 広々とした 焼米ヶ原にて 大宰府口城門跡にたたずむ また下山途中の岩屋城跡直下では別の青年ランナーから追い越されたが、これまた細身のトレイルラ ンナー然としていてアッと言う間に視界から遠ざかった。四王寺山自体、頂稜まで駆け上がればトレイル ランに格好の環境を有しており、練習コースとして申し分なかろう。とそれにしても一昔前までと比べると、 この趣味の裾野は大きく広がっていることを実感したシーンだったなぁ。 ○“嗚呼壮烈岩屋城跡”を偲び、太宰府天満宮の参拝で考察する 下山後は大宰府天満宮参拝を目論んでいたので、(筆者は) 焼米ヶ原から直接連歌屋経由を提唱した ものの、「政庁跡に寄らずんばこの山行の趣旨に合わず!」と二人に却下され、しぶしぶ?政庁跡へと取 った。しかし直接連歌屋へ下っていたなら岩屋城跡には立ち寄ることもなく、感慨も生まれなかったことを 考えると、“却下二人組”には感謝すべきか。それほどこの山城跡から大宰府や二日市の街を見下ろす 眺望は素晴らしかったし、城を守った時の武将・高橋紹運は島津の大軍を迎え撃つに当たり、地の利を最 大限に生かして戦ったことが容易に想起できたのだ。主君・大友氏に忠誠を貫き、「主人の盛んな時には 役立つ武士はいかほどにも候。衰えたるときに腹を切ってこそ誠の武士にて候」と和睦を拒否し、多 勢に無勢の結果として 762 名の家臣とともに殉死・落城はしたが、義を尽くした名将として歴史に名を残し て今にある。その意味では我がサラリーマン人生に照らし合わせること自体おこがましいが、その潔さや 義の心のいくばくかは、仕事に限らずこれからの人生の処し方にいささかの参考になるのではないか、と 念じた次第。もちろんこんな思いを口に出せば、“却下二人組”から揶揄されることはあっても感心される ことはまずないので、粛々と瞑想顔で下山の途についたのだった。 本丸跡にある嗚呼葬列岩屋城跡の碑 本丸跡から東方には宝満山を仰ぐ 下山地点は大宰府政庁跡 でこの時期、大宰府天満宮は一番の書き入れ時であることを改めて思い知ったのだ。政庁跡から天満 宮へは延々と渋滞する車を横目に早足で通り抜け、観世音寺からは裏道づたいに天満宮境内へ入った が、予想以上の人ごみにちょっとはびっくり。参道を見遣ると太鼓橋は言うに及ばず、門前町の入口から これまた延々とつづく参拝待ちの列には更にびっくりして唸った。こりゃまともに待っていたら日が暮れて しまうぜ。待ちきれない者は横をすり抜け直接拝殿側面へ行きますわな。そんな人のために正面参拝ス ペースの横側にも臨時のスペースが設けられており、便宜をはかっていたが、この時期ならではの必要 に迫られた対応であろうや。 もちろん我々は待ち時間ゼロで参拝を果たしたが、思わず御利益が薄まることのないよう先に願ってし まい苦笑いの体。またまた口に出せば、本末転倒じゃないかと揶揄されるは必定なので、口ごもったのは 言うまでもない。と同時に人混みの大半を占めるであろう合格祈願の者で、我々と同様に横側からショー トカット参拝をした者はよもやいまいな、と目を光らせてみたが、余計なことでしたね。分かっていますとも、 受験生や親御さんの気持ちは。 観世音寺境内を歩く 大宰府にて参拝の列(左側の列) 二日市温泉御前の湯と南福の居酒屋・王國をセットで愉しむ (参加者)М木、T田、栗秋 (コースタイム) JR門司 10:04⇒(JR)⇒JR水城駅 10:58 11:04→水城跡東門展望台 11:33 35→稜線(国分分岐)12:27 29→ 大城山 12:37 50→28 番札所 13:00 03→焼米ヶ原 13:16 20→岩屋城跡 13:31 37→大宰府政庁跡 14:04 10 →大宰府天満宮 14:40 14:55→西鉄太宰府駅 15:09⇒(西鉄)⇒西鉄二日市駅 15:16 20→二日市温泉御前の 湯 15:45 16:15→JR 二日市駅 16:32 49⇒(JR)⇒JR南福岡駅 16:56 居酒屋王国にて新年会 JR 南福岡駅 19:40 ⇒(電車)⇒JR 門司駅 20:34 総歩行距離 14 ㌔ (平成 27 年 1 月 11 日)
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