老人の語るアルナーチャル・プラデーシュ州開発史

ヒマラヤ学誌 No.16, 135-141, 2015
ヒマラヤ学誌 No.16 2015
老人の語るアルナーチャル・プラデーシュ州開発史
小坂康之 1)、Bhaskar Saikia2)、Tag Hui2)、Tomo Riba3)、安藤和雄 4)
1)京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
2)ラジブ・ガンディー大学生物科学学部植物学科
3)ラジブ・ガンディー大学環境科学学部地理学科
4)京都大学東南アジア研究所
現在のインド北東部アルナーチャル・プラデーシュ州が位置する地域の開発は、20 世紀半ばから
始まった。この地域の地誌には伝統文化に関する記述が多い一方、政府による開発政策については専
門的な記述が散見されるだけである。そこで本稿は、アルナーチャル・プラデーシュ州の開発史を、
地元の老人の語りから描くことを目的とした。同州ローワー・スバンシリ県ディード村のトコ・リバ
氏、ウエスト・シアン県ドジ村のグンケン・バグラ氏、アッパー・スバンシリ県リグ村のロムガ・ドゥ
ロム氏は、1947 年のインド独立以降に政府の指導で進められた水田稲作導入の歴史を詳細に記憶し
ていた。開発政策の一環として進められた水田稲作の導入、共同作業による水田稲作の実験、アッサ
ム州での鉄や塩の購入についての 3 者の語りは、政府側の視点による地誌の記述を補完するもので
あった。また高収量品種が配布されてから住民は自発的に水田稲作を始めるようになったこと、60
年間の試行錯誤を経て独自の稲作技術を作り上げたことは、3 者の語りに共通しており、アルナーチャ
ル・プラデーシュ州における緑の革命の展開が明らかになった。老人の語る同州の開発史は、地誌や
政府刊行物の一面的な記述を相対化し、開発現場のリアリティを伝えるものであり、今後の地域行政
や地域文化を考える際に重要である。
1.
はじめに
従来の地誌には、多様な民族の伝統文化に関す
現在のアルナーチャル・プラデーシュ州が位置
る記述が多い。一方、インド政府による開発政策
する地域は、長い間「隠された土地」と呼ばれて
については、専門的な記述が散見されるだけであ
きた 1)。急峻な地形、マラリアなど猖獗をきわめ
る。例えば Purkayastha13) は、アルナーチャル・
る疾病に加え、住民の非友好的な態度により、外
プラデーシュ州が施行した農業改良普及事業によ
部者の入域が困難だった 2)からである。
る農業生産の向上を報告した。Baruah17)は、アル
この地域の開発は、20 世紀半ばから始まった。
ナーチャル・プラデーシュ州が位置する国境地域
1947 年にインドが英領植民地政府から独立する
を開発することで国家安全保障をはかる、中印紛
と、道路建設、学校教育の普及、公衆衛生の向上、
争後のインド政府による政治的意図を指摘した。
焼畑耕作から水田稲作への転換を目標にした開発
しかしこれらの記述から、20 世紀半ば以降に住
政 策 が 施 行 さ れ た 3)。North-East Frontier Tracts
民が経験した急激な生活変容を読み取ることは困
(NEFT)
、
その後 North-East Frontier Agency(NEFA)
難である。アルナーチャル・プラデーシュ州の開
と呼ばれたこの地域は、1972 年にアルナーチャル・
発史における住民の経験を記録することは、今後
プラデーシュと名付けられた。
の地域行政や地域文化を考えるうえで重要であ
開発政策の施行と同時に、地誌が作成された 3~6)。
る。そこで本稿は、アルナーチャル・プラデーシュ
1987 年にアルナーチャル・プラデーシュが州に
州の開発史を、地元の老人の語りから描くことを
昇格すると、州内の県別にガゼッティアが出版さ
目的とする。特に住民の生業を大きく変容させた
れた 7~11)。近年では、地元の学者や郷土史家によ
水田稲作の導入に焦点をあてる。
る地誌も出版されている 12~16)。
― 135 ―
老人の語るアルナーチャル・プラデーシュ州開発史(小坂康之ほか)
図 1 インド北東部アルナーチャル・プラデーシュ州における調査地の地図。
2.
調査地と方法
ドゥロム氏(タギン、2011 年当時、60 代)の語
2009 年 3 月 と 7 月、2010 年 7 月、2011 年 3 月
りをまとめた。
と 7 月に、アルナーチャル・プラデーシュ州のロー
ワー・スバンシリ県ジロ近郊、ウエスト・シアン
3.結果
県アロ近郊、アッパー・シアン県ダポリジョ近郊
3-1.ローワー・スバンシリ県ディード村のトコ・
の 3 地域で(図 1)、開発史に関する聞き取り調
リバ氏の語り
査を行った。インフォーマントは、アホム(4 カ
「1947 年にインドが英領植民地政府から独立し
村 6 人)
、ミシン(3 カ村 4 人)、タギン(3 カ村
た 後、Deputy Commissioner と Block Development
8 人)
、ガロ(11 カ村 15 人)、ミニョン(7 カ村 7
Officer が村長を任命した。ディード村では、当時
人)
、ニシ(12 カ村 20 人)、アパタニ(3 カ村 8 人)
もっとも裕福だったリカ氏が村長に任命された。
の各コミュニティーから、開発史に詳しい老人が
しかしリカ氏は、妻がジョラム村の村人に誘拐さ
選定された(図 1)。聞き取り調査では、インド
れたという個人的な問題を政治的に解決しようと
独立以降の開発政策による生活変容について、特
したため、公私混同の罰で解雇された。南インド
に焼畑耕作から水田稲作への転換に焦点を当て
出身の Village Level Worker(政府プロジェクトの
た。インフォーマントによる自由回答に加え、必
普及を担当する公務員)フィリップ氏の料理人を
要に応じて種籾の入手先や技術の習得方法など具
務めていた私は、後任の村長選抜の面接を受け、
体的な質問により回答を促した。本稿では、上記
学校と道路の建設を提案したことが評価され、
3 地域で最も詳細な回答の得られた、ローワー・
1950 年に村長に任命された。村長就任後、Deputy
スバンシリ県ディード村のトコ・リバ氏(ニシ、
Commissioner に、鉄製クワの支給、学校教師の招
2011 年当時 70 代、村長)、ウエスト・シアン県
へい、道路建設を陳情した。当時、兄がラキンプ
ドジ村のグンケン・バグラ氏(ガロ、2011 年当時、
ルで入手した鉄製クワが一つあり、湿地に拓いた
68 歳)
、アッパー・スバンシリ県リグ村のロムガ・
小さな水田を耕すのに用いたが、それを 1 日借り
― 136 ―
ヒマラヤ学誌 No.16 2015
るために 2 日間の労働提供が必要だった。鉄製ク
その後、ジョラム村のジョラム・タコ氏らとと
ワがなかった頃は木片を用いたが、乾いた土地を
もに、ニシ・コミュニティー全体の祭りである
耕すことができなかった。
Nyukum の設立にも尽力した。ZPM(Zila Parishad
1954 年に NEFA から 5 人の代表がデリー在住
Member、District で数人選出される政治家)に選
の首相と大統領を訪問することになった。モンパ
ばれたこともある。今は村長を務めている。」
(タワン出身のラマ)、アパタニ、アディ、ワンチョ
の各コミュニティーの代表に加え、ニシからは私
3-2.ウエスト・シアン県ドジ村のグンケン・バ
が選ばれた。ディード村から歩いてジロへ行き、
グラ氏の語り
ヘリコプターでラキンプルへ、その後ジョルハト、
「1950 年のアッサム大地震のとき私は 7 歳で、
ゴウハティを経由して鉄道でデリーに到着した。
両親とともに山の上のバグラ村に住んでいた。バ
ジロでヘリコプターに乗るとき、見送りに来た母
グラ村は戦い好きで有名で、周囲から恐れられて
親が付き添いの役人に、息子を連れて行かないよ
いた。バグラ村では、焼畑耕作が唯一の生業だっ
う泣いてせがんだ。今思えばデリーに招待される
た。焼畑耕作は世帯ごとに行っていたため、農作
のは名誉なことだが、当時は私が誘拐されると
業の時には近隣村からの襲撃を警戒した。私は鳥
思ったのだろう。デリーではこの世のものとは思
やイノシシなど害獣を追い払う作業を手伝った。
えないほど巨大な建物を見て驚いた。ジャワハル
当時は米が不足し、野生のヤムイモを食べてしの
ラール・ネルー首相に面会したとき、首相は私の
いだ。
着るニシの伝統衣装に関心を持ち、隣に座った。
1952-1953 年頃に、水田稲作の指導のため、ミ
スピーチの機会が与えられたので、学校の建設と
ゾラム州出身のサプタナ氏が政府から派遣されて
教師の招へい、農業技術指導と灌漑用水の必要性
きた。山間盆地のドジ村に、練習用の小さな共同
を訴えた。インドに居住しているのにチベットか
水田が作られた。私の父親は水田稲作に興味を持
ら塩を入手していることも伝えた。首相は、軍と
ち、家族を連れてドジ村に移住した。水路作り、
GREF(General Reserve Engineering Force)が早急
耕起、移植、除草、収穫の全ての作業を共同で行
に道路建設を始めることを約束してくれた。ラー
うため、村人はみな強制的に参加させられた。サ
ジェーンドラ・プラサード大統領は、デリーでク
プタナ氏は、農作業の合間の食事どきには自分の
ラス 10(日本の中学校 3 年レベルに相当)まで
皿(クズウコン科植物の葉)をもたず、村人から
勉強すればジロの Circle Officer に任命する、と提
少しずつご飯を分けてもらって食べた。今思えば、
案した。しかし私は身寄りのない大都会で暮らす
村人と打ち解けるための努力だったのだろう。香
ことが恐ろしく、提案を断り村に帰った。
りの良いタルティという品種の種籾が配布された
1955 年に村に帰ると、水田稲作の導入と普及
が、収量は低かった。村人の共同作業による水田
に努めた。農業局が水田稲作の導入を奨励し、村
稲作を 5 年ほど続けたが、みな焼畑耕作を好み、
に派遣された Village Level Worker が鉄製クワと種
自ら水田稲作を始める者はいなかった。
籾を配布した。水田稲作の導入は、ジョラム村や
1962-1964 年に、アッサム州出身のバルア氏が
タロ村の方が早かった。しかし当初、自ら水田を
Block Development Officer として赴任した。彼は
拓く者は村長を中心に 5-10 人ほどしかいなかっ
とても活動的な大男で、反抗する人をすぐに殴っ
た。焼畑耕作ではイネ以外のさまざまな野菜を栽
た。彼はアッサム式の水田稲作の方法を教えた。
培できるが、水田はイネしか作付できない。また
サプタナ氏とちがい、世帯ごとに水田を作らせた。
泥水に浸かって行う慣れない農作業が嫌がられ
水路は、水田を持つ者が集まって共同で管理した。
た。1970 年頃に IR8(緑の革命を起こした高収量
当時はまだウシがおらず、人力で耕した。鎌を用
品種)の種籾が配布された。それまでは Taba、
いて根刈りするアッサム式の収穫法を習ったが、
Kapa、Rupa という名の品種を栽培していた。改
自分たちが焼畑で行う穂刈りの方が慣れているた
良品種は収量が高く、水田農家は裕福になるため、
め、今でも穂刈りしている。新たに配布されたサー
この 15 年ほど村人はみな水田稲作に熱中してい
ティという品種は香りが良いものの収量が低く、
る。
中国産のタイシュンという品種は美味しくなかっ
― 137 ―
老人の語るアルナーチャル・プラデーシュ州開発史(小坂康之ほか)
た。バルア氏は、学校の建設も指揮した。
し、水田稲作を指導した。Assam Rifles(準軍事
その数年後に、IR8 の種籾が配布された。IR8
的組織)のネパール人やナガランド人も一緒に来
の収量が非常に高いのを見て、みな水田稲作を始
た。当時、ダポリジョの Circle Officer はゲンダー
めるようになった。私も自ら水田を拓いた。しか
氏だった。ゴヘン氏は 3 か月で実る早生水稲の種
し IR8 は、収量は高いものの味が悪く虫害も大き
籾を持ってきた。自分たちの陸稲品種であるケー
いので、酒造り用に 5 年ほど作付してやめた。政
セー、バロ、プミン、ガク、パナ、パケック、ル
府から配布される新しいイネ品種はみな、試しに
ブンも試しに水田に植えた。森の中で 5 晩野宿し
植えても虫害が大きい。そこで自分たちで土地に
ながらアッサム州まで歩き、ラキンプル、デマジ、
合ったイネを選抜してきた。今では、レムックと
ディブルガルで、乾燥タケノコを売って鉄製クワ
呼ぶイネを作付している。レムックは、収量はそ
や塩を得た。紙幣は濡れてすぐに破れるので、硬
れほど高くないが、食味が良く病虫害も少ない。
貨しか信用しなかった。当時はまだウシがいな
キミンやバールーという陸稲の品種は、草丈が高
かったので、鉄製クワで耕し、水路や畦をつくっ
く、水田に植えると倒伏し、鳥やネズミに食べら
た。鉄製クワがない場合、山刀を用いた。湿地に
れてしまう。
水田を拓いたので、腰まで浸かる湿田もあった。
耕起の効率を上げるため、アッサムからウシを
母親は自らアロへ行って水田稲作を習った。
導入した。当初はウシの調教師にも来てもらった。
1967-1968 年に、山間盆地に位置する現在のリ
ミトゥンは持久力がないため、犂を引かせること
グ村の小学校が設立された。当時この辺りは森で
ができない。ミトゥンは太陽、ウシは月の象徴な
覆われ、土地の保有権も決まっておらず、水田も
ので、ミトゥンとウシの雑種はドニポロ信仰のタ
なかった。現在リグ村の周囲にはタギン、ニシ、
ブーであり、食べてはいけない。しかし畜産局は、
ガロの村があるが、盆地の水田はみなタギンとニ
試験的に雑種をつくった。アッサムから導入した
シが拓いた。アロ方面からやってきたガロは、商
牛は当初、トラを恐れて森に入らなかった。昔は
売に従事していた。
塩を入手するため、ドジ村からアロまで森の中を
1969 年に、インド政府の役人が SSB(Sashastra
1 日かけて歩いたが、トラが恐ろしかった。
Seema Bal; Armed Border Force)とともに、IR8 の
以前は世帯を養うのに十分な水田があったが、
種籾を持って水田稲作の技術指導にやってきた。
子供に分割相続するうちに不足するようになっ
IR8 は、作付当初は収量がよかったが、数年経つ
た。現在、村の 7 割の世帯が水田をもち、全世帯
と実りが悪くなった。今では IR8 の他に、ネパー
が焼畑耕作にも従事している。食用には陸稲の方
リー・ダハン(ネパールイネ)と呼ぶ品種も作付
が美味しい。陸稲は、おかずがなくても食べられ
する。農業局の配布する品種は病虫害に弱いので、
る。現在バサルに農業改良普及事業を担う KVK
知人からさまざまな種籾をもらい試植している。
(Krishi Vigyan Kendra; Agricultural Knowledge
ジロは寒いから雑草が少ないが、ダポリジョは暑
Center)があるが、技術指導は行われず、何をし
いので雑草の生育が旺盛である。そのため畦には
ているか全くわからない。」
除草剤を散布するようになった。村に除草剤の散
布機が 5 台ある。筆の中は手取りで除草する。現
3-3.アッパー・スバンシリ県リグ村のロムガ・ドゥ
在では耕耘機を使用する人もいる。リグ村西方の
ロム氏の語り
山中にニシの村が 8 カ村あり、リグ村にシコクビ
「1953 年にダポリジョの町ができたとき、周囲
エを売りに来て、米を買って帰る。シコクビエは
に水田はなかった。当時リグ村は山の上にあり、
酒作りに用いる。リグ村のタギンは、ニシと婚姻
焼畑で陸稲やシコクビエを作っていた。誘拐事件
関係にある人も多い。
や争いごとが多かった。父親は塩を入手するため
1980 年代には、アルナーチャル・プラデーシュ
に、アッサム州のシラパタルまで 1 週間かけて歩
を訪問したラジーヴ・ガンディー首相がパンジャ
いた。当時は塩 50 kg で 1 Rs だった。
ブの森でミトゥンを飼育したいと希望したので、
1955-1956 年に、アッサム州出身のルク・ゴヘ
飛行機でミトゥンをデリーに届けたこともある。」
ン氏(アホム)が Village Level Worker として赴任
― 138 ―
ヒマラヤ学誌 No.16 2015
4.
考察とまとめ
どの問題も発生した。そのためインドの大部分の
3 地域の老人の語るアルナーチャル・プラデー
農民は、高収量品種の種子があるにもかかわら
シュ州の開発史は、主観的な面があるものの、政
ず、在来品種の種子を保存し、農民同士で交換し
府の視点から書かれた地誌の記述を補完し、住民
合った 18)。このような緑の革命による正負の影響
の視点を明らかにするものである。現在のアル
は、アルナーチャル・プラデーシュ州でもみられ
ナーチャル・プラデーシュ州にあたる地域の開発
たことが、3 者の語りから明らかになった。アル
は、英領植民地政府の時代に、パシガートからは
ナーチャル・プラデーシュ州の農業改良普及事業
じまった 3)。パシガートからアロへの方面への道
について記した Purkayastha13) の文献には、農業
路建設が始まると、次いでノース・ラキンプルか
生産の増加が強調して記されているのみで、住民
らジロ方面への道路建設も進められた。建設され
の試行錯誤の歴史を読みとることはできない。
た道路の近くにある村は、学校教育の普及、公衆
ドゥロム氏は 1950 年代に、塩や鉄製クワを得
衛生の向上、そして水田稲作導入を含む開発計画
るため、アッサム州の市場まで歩いた。フュー
の対象とされた。アッサム州に直接通じる道路が
ラー・ハイメンドルフによる 1944 年のジロへの
建設されなかったダポリジョは、アロやジロから
探検記 5)に、関連する記述がある。「(アッサム州)
の道路が通じてからようやく開発が始まったこと
ノース・ラキンプルに近い彼の家は、ノース・ラ
は、聞き取り調査の結果からも裏付けられた。
キンプルをおとずれるダフラ族、アパ・タニ族、
3 者の語る開発史には、共通点がある。開発の
山地ミリ族のたまり場だった。彼らは平野へ塩、
影響を受ける以前は、周辺の村落間で争いが絶え
衣類、鉄の買出しにくると、宿と助言をもとめて
なかった。インド政府の役人が指導する水田稲作
彼のところへあつまったのである」。しかし 3 者
は嫌だったが、銃を持つ役人にはかなわず、反抗
の語りでは、物々交換のために乾燥タケノコを持
すると逮捕されるため、命令に従わざるを得な
参したこと、鉄は水田耕作に必要な鉄製クワに用
かった。受動的に始められた水田稲作は、1960
いるためであることなど、さらに詳細な状況が描
年代末から 1970 年代に高収量品種 IR8 が配布さ
写されている。
れると、自発的に行われるようになった。しかし
1950 年代にリバ氏がデリーの政府要人に、「学
IR8 をはじめ政府が配布する水稲品種はみな、病
校の建設と教師の招へい、農業技術指導と灌漑用
中害に弱くうまく育たなかったため、土地に適す
水の必要性を訴えた」、「インドに居住しているの
るイネを自家選抜した。同時に、近隣コミュニ
にチベットから塩を入手していることも伝えた」
ティーから水田稲作技術を習い、また焼畑耕作技
という語りは、この地域の開発を進めていたイン
術を転用するなど、試行錯誤を経て独自の稲作技
ド政府の意図と一致する。しかし前述のとおり、
術を作り上げた。1960 年代末から 1970 年代にか
当時の住民はチベットからだけでなくアッサム州
けて国際研究機関で開発された高収量品種によ
にも自ら出向いて塩を得ていた。若くして村長に
り、第三世界でイネやコムギが大幅に増産された
任命された聡明なリバ氏は、村の暮らしを良くす
ことは、緑の革命と呼ばれる。聞き取り調査で確
るため、政府の意図に沿う発言をしたことが推察
認された IR8 や TN1(タイチュン・ネイティブ・1、
される。
バグラ氏はタイシュンと発音)は、緑の革命で開
1950 年代にバグラ氏の父親が参加した水田稲
発された高収量品種である 18)。インドでは、約
作の共同作業は、NEFA 政府によって奨励された
750 万ヘクタールの水田に高収量品種が作付さ
ことが、Elwin3)の回顧録で指摘されている。「従
れ、不可能といわれた米の自給が達成された。し
来の焼畑耕作は、世界の多くの地域が目指そうと
かし高収量品種から高い収量を得るには、大量の
している共同農業の基礎となる。水田稲作を導入
化学肥料と水を必要とした。また高収量品種は、
することで、新たな個人主義により土地争いが生
イネゾウムシ、トビイロウンカ、シラハガレ病な
じないように気をつけなければならない。住民の
どの病虫害を受けやすかった。その結果、化学肥
自治組織を通じて共同の水田稲作を始めさせるこ
料の購入による借金、大規模灌漑水路の建設によ
とができるかもしれない」。Elwin はインドの少数
る水害や塩害、農薬の大量使用による中毒症状な
民族とともに長年暮らし、少数民族政策に関する
― 139 ―
老人の語るアルナーチャル・プラデーシュ州開発史(小坂康之ほか)
政 府 顧 問 も 務 め た 人 類 学・ 民 族 学 者 で あ る。
4) Furer-Haimendorf, C., von. The Apa Tanis and
Elwin の記述から、水田稲作の共同作業は、アル
their neighbours: A primitive society of the eastern
ナーチャル・プラデーシュ州住民の将来を考慮し
Himalayas. Oxford University Press, London,
て立案された開発政策だったことがわかる。しか
1962.
しバグラ氏が語るように、当時の住民にとって、
5) フューラー−ハイメンドルフ C., von. 著、常
慣れない水田稲作の共同作業に強制参加させられ
盤新平訳「ヒマラヤの蛮族」『現代の冒険 6.
ることは心外だった。開発の現場では、政府側の
未開の土地の部族』川喜田二郎編、文芸春秋
社 . 1970.
意図を越えた困難があった。政府派遣の専門家が
村人と打ち解けようとした努力の甲斐なく、5 年
6) Furer-Haimendorf, C., von. A Himalayan tribe
間の共同作業による水田稲作の実験は失敗したこ
from cattle to cash. University of California Press,
とが、聞き取り調査によって明らかになった。
開発史に関する聞き取り調査において、水田稲
California, 1980.
7) Choudhury, S. D. (ed) Arunachal Pradesh District
作の導入については、どの老人も熱心に語った。
Gazetteers – Lohit District. N.K. Gossain & Co.
60 年間の試行錯誤の結果、現在では水田を持つ
Private Ltd., Calcutta, 1978.
ことが富と社会的地位の象徴になったことへの自
8) Choudhury, S. D. (ed) Arunachal Pradesh District
負が感じられた。政府の指導で始められた水田稲
Gazetteers – Tirap District. N.K. Gossain & Co.
作だが、住民はいまや農業改良普及所など政府機
Private Ltd., Calcutta, 1980.
関に頼らず自ら技術を改良し習得しており、これ
9) Choudhury, S. D. (ed) Arunachal Pradesh District
は従来の文献では見過ごされてきた点である。老
Gazetteers – Subansiri District. N.K. Gossain &
人の語る開発史は、政府刊行物や研究者による地
Co. Private Ltd., Calcutta, 1981.
誌の一面的な記述を相対化し、開発現場のリアリ
10)Choudhury, S. D. (ed) Arunachal Pradesh District
ティを伝えるものであり、今後のアルナーチャル・
Gazetteers – East Siang and West Siang Districts.
プラデーシュ州の地域行政や地域文化を考えるう
N.K. Gossain & Co. Private Ltd., Calcutta, 1994.
11)Choudhury, S. D. (ed) Arunachal Pradesh District
えで重要である。
Gazetteers – East Kameng, West Kameng and
謝辞
Tawang Districts. N.K. Gossain & Co. Private
本研究は、総合地球環境学研究所プロジェクト
Ltd., Calcutta, 1996.
「人の生老病死と高所環境−『高地文明』におけ
12)Mibang, T. and Behera, M. C. (ed) Dynamics of
る医学生理・生態・文化的適応」(代表・奥宮清
tribal villages in Arunachal Pradesh: Emerging
人准教授)において行われた。またアルナーチャ
realities. Mittal Publication, New Delhi, 2004.
ル・プラデーシュ州では Mr. Tsering Wange、Mr. C.
13)Purkayastha, A. K. Arunachal agriculture over the
K. Rai、Mr. Hage Komo、Mr. Passang Tsering を は
years. P. R. Publishers & Printers, Guwahati,
じめとする皆様のご助力とご厚意により調査が可
2008.
能となった。ここに記してお礼申し上げます。
14)Riba, T. Shifting Cultivation and Tribal Culture of
Tribes
参考文献
of Arunachal
Pradesh,
India.
Rubi
Enterprise, Dhaka, 2013.
1) Blackburn S. Colonial contact in the ‘hidden
15)Showren, T. The Nyishi of Arunachal Pradesh: An
ethnohistorical
land’: Oral history among the Apatanis of
study.
Regency
Publications,
Delhi, 2009.
Arunachal Pradesh. The Indian Economic and
16)Tara, T. T. Nyishi world. D. B. Printers,
Social History Review 40: 335-365. 2003.
2) キングドン−ウォード F. 著・金子民雄訳『ツ
Banderdewa, 2008.
17)Baruah
アンポー峡谷の謎』岩波文庫 . 2000.
3) Elwin, V. A Philosophy for NEFA. Himalayan
S.
Nationalizing
Space:
Cosmetic
federalism and the politics of development in
Northeast India. Development and Change 34 (5):
Publication, Itanagar, 1959.
― 140 ―
ヒマラヤ学誌 No.16 2015
915-939, 2003.
18)ヴァンダナ・シヴァ 著,浜谷喜美子訳『緑
の革命とその暴力』,日本経済評論社.1997.
Summary
Oral History by the Elderly on Regional Development in Arunachal
Pradesh
Yasuyuki Kosaka 1), Bhaskar Saikia 2), Hui Tag 2), Tomo Riba 3), Kazuo Ando 4)
1) Graduate School of Asian and African Area Studies, Kyoto University, Japan
2) Department of Botany, Faculty of Life Science, Rajiv Gandhi University, India
3) Department of Geography, Faculty of Environmental Science, Rajiv Gandhi University, India
4) Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University, Japan
Regional development in Eastern Himalaya has been progressed by the Indian government since 1940s.
Geographical documents of this region focused more on the traditional culture than on the development
policies and their impacts on the communities. This paper aims to depict the local experience of regional
development in eastern Himalaya from the oral history of the elderly people in Arunachal Pradesh, India.
Mr. Toko Riba at Deed village in Lower Subansiri District, Mr. Gunken Bagra at Doji village in West
Siang District, Mr. Romga Durom at Ligu village in Upper Subansiri District remembered the detailed
process of introducing paddy rice cultivation promoted by Indian government since 1940s. The three
informants narrated that the high-yield rice variety led the people to start paddy rice cultivation, and that
they have developed their original cultivation techniques after several decades of trial and errors. The
record on oral history of regional development will be useful in considering the future perspective of local
governance and cultural conservation.
― 141 ―