弦楽四重奏曲第二番(心理~超心理学的音楽) 「あの世から愛され

弦楽四重奏曲第二番(心理~超心理学的音楽)
「あの世から愛されし喜怒哀楽」-ナナリアンに捧ぐ!
人間界とは別の上界と親密な接触をする中、この4月から2.3.4と弦楽四重奏曲(S
Q)を立て続けに書いて来た(当日、全楽譜をロビーにて公開する予定)。ご周知のように、
クラシック音楽の作曲から内発的な楽想が激減して久しい。若きシェーンベルクの「浄夜」
の溢れるような豊かな楽想も、後年の彼にあっては「作曲する=独創に徹する」という身
構えの陰に隠れがちとなった。現代音楽の歴史も結構長くなり、かつてはなおざりになっ
ていた「音楽的な」リズム、メロディー、ハーモニーが大分戻って来た観がある。だが、
それは自発的な産物か?同様に、新ウイーン楽派以降の古き現代音楽の無調主義や12音
技法の使用にしたって真似事ではなかったか。素材へ隷属すること著しくなかったか。
>20世紀においてもっとも自由な曲作りを誇ったストラヴィンスキーだが、最晩年はベー
トーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲を聴くことを喜びとしていたという。そのSQは何しろ、
使っている素材からの自由に満ち満ちている。たとえば、明らかに調性音楽でありながら
全然それに縛られていないのだ。「ははぁ、ここに作曲の極意があるな!」とは私LMの実
感だ。作曲は人生だ。素材への隷属?関係ない。独創的な人生?これも滑稽だ。まずは自
由であること。作曲時のベートーヴェンは自由三昧の人生を謳歌。その鑑賞者もまたしか
り。本道を行く「我らが作曲家」B.の後に続こう!
私の楽譜をじいっと見ていた尹伊桑(ユン・イサン)が突如、立って歩き回りながら「君
は・・・潔癖すぎる!」と怒り出したことがあったが、その感受性は流石である。
今、アティレ弦楽四重奏団(第二バイオリン亀井庸州)による合同練習を盛んに行なっ
ていますが私は思わず「この名曲!一体誰の?」と叫んでしまいました。
「初演にして名演というものがあり得る」ということの証明にもなるかも?音楽通の諸賢
必聴です。来たれ!
なおナナリアンとは全音階のこと:それは、ロクリアンを含め七つの胎児、すなわち七
つの教会旋法を今も分け隔てなく養い育てつつある偉大な音楽子宮である。と同時にこれ
らそれぞれに個性的な七つの音イ・ロ・ハ・ニ・ホ・ヘ・トのいずれもが、相対音ド・レ・
ミ・フ・ァ・ソ・ラ・シの七役を演じうる変身(演技) 能力を与えられて居さえするので
ある。残る五つ(12-7=5)の音の出現はその筋からも必然性があり、和声的短音階やオルター
ドそのほかの様々な特殊音階も出現・生動できることと相成った。この作品は、上記のよ
うな思考の精華である。
また、題名からお察しいただけようが、この曲は、我々一人一人の掛け替えのない人間
がこの世だけのはかない存在ではないことを、音楽となって人々に実感してもらおうとす
る気勢に富んだものである。いずれにせよ、音楽は、それを聴いた人々が幸福感を味わえ
るものでなければならない。
現代音楽だけはその必要条件から免れているなどということがあってよいだろうか?た
だし、現代音楽の十分条件は別のところにあるのだが。
「イドフリミエロ」のミが好きだとかフが嫌いだとか言いあっている(cf .ロクリアン リ
アルタイム)のはいわば胎児同志の喧嘩、とは言わぬまでも差別、依怙贔屓の類ではない
のかな?「何々?『この世では虐めや喧嘩、差別、依怙贔屓が許されなくなったから、胎
児のうちにやっておくだって???」
ただし、
「全音階に属する旋法なんて、どれも同じなんじゃない」ではお話になりません。
若いときは大いに、「ロクリアンは気持ち悪い」「リディアンは軽薄(チャラ男)」とか「エ
オリアンは秋のごとく深みがある」
「いや、それだったらフジリアンの方だ」とか「つまる
ところ、イオニアンが一番まともだ」とかおおいにいがみ合い、お互い老齢になって初め
て「全音階は偉大なり。母の掌のごとし。よってナナリアン万歳!」で全員納得となるの
が理想的なのかもしれませんよ。