見ることと本質 田 中 康 司

福岡教育大学紀要,第64号,第2分冊,47   54(2015)
見ることと本質
Sehen und Wesen
田 中 康 司
Koji TANAKA
福祉社会教育講座
(平成26年 9 月30日受理)
序
フッサールは,現象学がよってたつ究極の原理(一切の諸原理の原理)について,『純粋現象学と現象学
的哲学のための諸構想』第 1 巻(『イデーンⅠ』)のなかで次のように述べている。2 箇所から引用する。
「直接的に『見る(Sehen)』ということ(ギリシャ語でいえば,ノエインということ),つまり,ただ単
に,感性的に,経験しつつ,見るということだけではなくて,どんな種類のものであれ原本的に(originär)
与える働きをする意識であるかぎりの見るということ一般こそが,あらゆる理性的主張の究極の正当性の源
泉である。」(Ⅲ-1 43)
「さて,一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち,こういうもの
である。すべての原本的に与える働きをする直観こそは,認識の正当性の源泉であるということ,つまり,
我々に対し『直観(Anschauung)』のうちで原本的に,(いわばその生身のありありとした現実性におい
て),呈示されてくるすべてのものは,それが自分を与えてくるとおりのままに,しかしまた,それがその
際自分を与えてくる限界内においてのみ,端的に受け取られねばならないということ,これである。」
(Ⅲ-1
51)
要するに「見る」ことによって真理は明らかになるということである。ただし,注意すべき点がいくつか
ある。
まずここでいう「見る」は視る,すなわち視覚のことのみをいうのではなく,一般に「原本的に与える
働きをする直観」のことをいうのであり,しかも感性的直観に限られるものでもないのである。周知のよ
うにフッサールは,カントが直観に感性的直観しか認めなかったのとは違い,「範疇的直観(kategoriale
Anschauung)」ないしは「本質直観(Wesensanschauung)」なるものも認めている。つまり様々な「見る」
があるのであり,そのそれぞれが真理の源泉なのである。どういうことかといえば,事象にはさまざまな種
類があり,その種類に応じて,真理を顕わにするのに相応しい「見る」がある,ということである。たとえ
ば,事象が音ならその本当のところを露わにするのは「聞く」であろうし,事象が色なら対応するのは「視
る」であろう,ということである。
次に注意すべきは,「見る」が真理の源泉であるために「見る」主体が従わなければならない条件がある
ということである。その条件とは,「見る」主体は,「見る」に即して現れてくるものを,「それが自分を与
えてくるとおりのままに」受け取らねばならない,つまりありのままに受け取らなければならないというこ
とである。要するに「ありのままに」見ることこそが真理の源泉であるということである。
では,「ありのままに見る」とはどういうことであろうか。「ありのままに見る」ことを可能にする条件は
何か。「ありのままに見る」主体は誰で,どのようなあり方をしているのか。「ありのままに見ること」を徹
底していくことで明かされる 「ありのまま」 とは何か。これらの問いを問うていくことで,フッサール現象
学が最終的に切り開いた地平をフッサールに即しつつフッサールを超えて明らかにしていきたいと思う。そ
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のさい外的知覚に焦点を絞って考察していくこととする。というのも外的知覚こそは,「原本的に与える直
観」つまり「見ること」の典型であり,さまざまな事象の志向的・構成的分析のモデルの地位を占めている
からである 1)。
さて外的知覚がその対象とするのは外的事物すなわち空間的事物である。我々が日常,我々の身体の外部
に見いだす事物のことである。例えば机とか椅子とか木とか山とかである。これら事物の特徴は,空間的に
広がり,空間の中に位置を占めているとともに,時間的にも持続していることである。このような事物を以
下では単に事物(Ding)とのみ表記する。したがって本稿の問いは次のようになる。事物をありのままに
見るとはどういうことか。そのための条件は何か。事物をありのままに見ている主体は誰で,どのようなあ
り方をしているのか。そして事物をありのままに見るということを徹底していくと辿りつく「ありのまま」
とは何か。これらの問いを問うにあたってまずは,外的知覚の本質を明らかにしておくことが必要である。
1 外的知覚の僭称
外的知覚(äußere Wahrnehmung)についてフッサールは『受動的綜合の分析』の冒頭で 「外的知覚
は,その固有の本質によればなしえないことをなす不断の僭称である。」(XI 3)と述べている。この僭称
(Prätention)が何を意味するのかを解明することによって,外的知覚の本質を明らかにしていこうと思う。
さて,外的知覚は事物そのものを志向する。つまり事物そのものを把握することを目指している。しかし
外的知覚において直接与えられている(現れている)のは事物の一面でしかない。 外的知覚における事物
そのものへの志向(Intention)は所与(Gegebenes)ないし現れ(Erscheinung)によってその一部のみが
充たされるだけであり,それ以外は充たされず,志向には充たされない側面すなわち空虚(Leere)が残る。
この空虚は,外的知覚が進行するなかで,例えば身体を動かしてその事物の周りを回るとかして,事物の別
の側面が直接与えられる(現れる)ことによって,次々に充実されていく。しかしこの空虚が完全に充実さ
れることは原理的にない。なぜなら,事物が自己を与える仕方(現出の仕方)は原理的に無限にあり,その
無限性を完全に遂行していくことは原理的に不可能だからである。外的知覚がどこまで進行したとしても,
事物は常に自らを隠し続けるのである。したがって外的知覚の志向とは裏腹に,外的知覚が把握できるのは
常に事物の一面のみであり,事物そのものを把握することはできない。しかし外的知覚は事物そのものを把
握していると僭称する。事物そのものが直接的所与となることは決してないのにである。なぜこのような僭
称が可能なのか。この点を明らかにするためにもう少し詳しく見ていこう。
外的知覚における意識の働きは三つに分けることが出来る。一つは事物の直接的所与を受け取る働きであ
る。この直接的所与が外的知覚の進行において核となるので,この働きは核-現出(Kern-erscheinung)と
呼ばれる。事物の無限に多様な現出可能性のうち現実に遂行されているのはこの核-現出だけであり,それ
以外の現出は現実化されておらず全体として核-現出を取り巻く可能性の地平を形成している。この地平は
現実的な現出を欠いているがゆえに空虚な地平である。上で述べた空虚とはこの空虚地平(Leerhorizont)
のことである。意識の働きの二つ目はこの空虚地平にかかわるものである。この地平は空虚であるから未規
定であるが完全に未規定であるわけではない。核-現出に動機づけられて一定の下絵を描かれている。意識
の二つ目の働きはこの下絵を描く働き(Vorzeichnung)である。単純な例を挙げれば,事物の前面が黒色
で背面も黒色だと思い込んでいるとき,意識は黒色の核-現出を取り巻く空虚地平に黒色の現出という下絵
を描いているのである。もちろんこの下絵の描き方には様々なレベルがある。今の例とは異なり背面の色に
ついて判断を保留している場合でも,空虚地平には少なくとも色の現出という下絵は描かれているのであ
る。背面があるかぎりそこになにがしかの色があることは確かであろうから。もちろん知覚の進行に応じ
て,空虚地平の一部が現実化し新しい核-現出が遂行されることによって,すでに描かれている下絵が不適
切であったということが分かり,修正を余儀なくされる場合もある。しかしいずれにせよ重要なのは,核現出を取り巻く空虚地平が下絵を描かれるという仕方で核-現出とともに意識されているということである。
これを地平意識(Horizontbewußtsein)という。核-現出とそれに伴う地平意識によって事物そのものの把
握が可能となる。この事物そのものの把握が意識の働きの三番目である。
かくして,上述の外的知覚の僭称がどのように可能になるのかが明らかとなった。鍵は地平意識である。
核-現出を取り巻く無限に多様な現出可能性の領野を一つの空虚地平として一網打尽にして下絵を描くこと
によって,事物そのものの把握が可能となったのである。しかしこの把握が僭称であることは明らかであ
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る。なぜなら事物の可能的現出様式は無限であるから,描かれた下絵の正しさが完全に確証されることは原
理的になく,常に誤りである可能性がつきまとっているからである。それを無視して外的知覚は事物そのも
のの把握を僭称するのである。外的知覚は核-現出にとどまるかぎりで自らの権能の範囲内にあるが,それ
を超えて事物そのものの把握を標榜することにおいて越権行為を行っているのである。核-現出から事物そ
のものの把握への超越という越権を架橋し促すのが地平意識による下絵の素描なのである 2)。
2 外的知覚の時間的構造
外的知覚についてその本質を明らかにするには,以上の分析に加えて時間という観点からの分析も必要で
ある。つまり外的知覚の時間的構造を明らかにする必要がある。そして意識の時間的構造を明らかにするに
は,空間的要素をほとんど無視してよい音の知覚を範例として使用するのが好都合である。そこでまず音の
知覚を分析し,その時間的構造を取り出し,それをふまえて外的知覚の時間的構造を明らかにすることとす
る。例えばキン・コン・カンというチャイムの音を聞いている場合を考えてみよう。
いま現にコンの音を聞いているとき,たったいままで聞こえていたキンの音はある種の仕方で想起されて
おり,次にやってくるであろうカンの音はある種の仕方で予期されている。このある種の想起と予期が随伴
しているからこそ,我々はキン・コン・カンというひとつのメロディを聴くことができるのである。もしこ
れら想起と予期がなければ,我々はキン,コン,カンをばらばらに聞くだけである。これは何もメロディを
聞く場合に限ったことではない。ひとの話を聞く場合もここでいう想起と予期がなければ,我々は,ばらば
らの単語を耳にするだけで,そこにひとつの意味をもった文章を理解することはできない。もっといえば何
かを話すときもそうである。たったいま話した言葉についてのある種の想起とこれから話そうとする言葉の
ある種の予期がなければ,我々は意味のある文章を話せない。話を戻すと,音の知覚には,いま現に聞こえ
てくる音を受け取る働きに付随してある種の想起と予期が伴っているのである。そうでなければ音の知覚
は成り立たない。ここで注意しなければならないのは,ここでいう想起と予期が通常の意味での想起と予
期とは異なるということである。想起にしろ予期にしろ通常の意味でのそれらは,それぞれ想起され予期
されたものを主題的に把握する働きであるが,音の知覚に随伴する想起と予期においては,そこで想起さ
れ予期されているものは非主題的(unthematisch)に捉えられているにすぎないのである。フッサールは
音の知覚の内部にあってそれを成り立たせているこの非主題的意識を,それぞれ把持(Retention)と予持
(Protention)と呼んでいる。また把持と予持を随伴させているいま現に聞こえている音を受け取る働きを
原印象(Urimpression)と呼ぶ。コンの音の原印象にキンの音の把持とカンの音の予持が随伴することで,
キン・コン・カンというメロディの知覚が成立するのである。
以上見てきたように,音の知覚は把持-原印象-予持という三肢構造によって構成されている。ここで予持
について補足しておかなければならないことがある。予持は次に来る音にかかわる働きであるが,その予持
にはかなりの幅があるということである。たとえばよく知っている曲を聴いているときであれば,次にどう
いう音が来るか熟知しているから,かなり具体的に次に来る音を予持しているものである。しかし何の前触
れもなく得体のしれない音が聞こえてきたときなどは,次に来る音への予測が全くつかず,何らかの音が来
るだろうという仕方でしか予持できない。つまり予持には具体的なレベルから全く空虚なレベルまでかなり
の幅があるということである。そしてその違いをもたらすのは,その時点での原印象と把持のあり方という
ことになる。予持は原印象と把持に動機づけられて遂行されるのである。
では音知覚の分析で取りだした把持-原印象-予持という三肢構造を外的知覚にあてはめてみよう。事物の
その都度の直接的所与を受け取る働きである核-現出が原印象であることは明らかであろう。そしてその核
-現出に動機づけられて遂行される地平意識が予持に対応することも異論はなかろう。地平意識によって下
絵を描かれている空虚地平は基本的に将来的に充実されるべき,つまり未来に開かれた地平であるからであ
る。地平意識は核-現出(原印象)に動機づけられ予持という仕方で遂行されるのである。そして地平意識
によって下絵を描かれた空虚地平はその一部を核-現出(原印象)によってその都度鮮明に彩色されるので
あり,こうして彩色されたその空虚地平の一部は,その後鮮明さの度合いを順次落としながらもそれなりの
色を維持していくのであるが,それを可能にするのが流れ去る核-現出(原印象)を引きとめる把持の働き
なのである。外的知覚は,核-現出(原印象)とそれに動機づけられた予持という仕方での地平意識によっ
て下絵を描かれた空虚地平が,知覚の進行においてその都度の核-現出(原印象)およびその把持的連鎖に
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よって詳しく規定されていくプロセスなのである。そしてこのプロセスにおいて外的知覚は事物そのもの
の把握として自らを僭称するのである。しかしこの僭称にもかかわらず外的知覚が事物そのものを十全に
(adäquat)把握することはできない。なぜなら事物そのものの十全な把握には空虚地平の完全な規定が必
要であり,そのためには無限の経過を要するが,そんなことはそもそも不可能であるからである。
3 見られるもの
外的知覚の本質が明らかになったところで,事物をありのままに見るとはどういうことかを考えてみよ
う。そのためには事物の本質を明らかにする必要がある。これまでの考察で分かったことは何であろうか。
事物そのものは決して十全に把握されることはできない,ということである。事物には汲み尽くすことので
きない深淵が潜んでいるのであり,いわば底が無いのである。事物という沼には底が無いから,事物という
沼の持つ規定性は決して汲みつくすことはできず,事物は最終的に何物とも規定することができないのであ
る。言い換えれば事物は何かとして閉じられたものではなく,何ものでもないものとして開かれているので
ある。この無底性(Ungrund)・汲み尽くし難さ・無規定性・開放性こそが事物の本質である。
したがって事物をありのままに見るとは,事物の無底性・汲み尽くし難さ・無規定性・開放性を明るみに
もたらすように見ることである。しかし通常の外的知覚は,すでにみたように,事物そのものを把握してい
ると僭称することによって,事物の無底性・汲み尽くし難さ・無規定性・開放性を覆い隠している。した
がって事物をありのままに見るためには,すなわち事物の無底性・汲み尽くし難さ・無規定性・開放性を明
るみにもたらすためには,この僭称をストップすればよい 3)。そして僭称をストップするためには,この僭
称を引き起こす地平意識の遂行をストップすればよいのである。これはいいかえれば予持と把持の遂行をス
トップするということであり,核-現出(原印象)に留まるということ,あるいは原印象的今に留まるとい
うことである。そしてフッサールによれば原印象的今とは「今という語がもっとも厳密な意味で解される場
合にこの語が意味するもの」(X 67)であって,過去と未来の境界としての絶対的今(absolutes Jetzt)の
ことであるから,事物をありのままに見るとは,絶対的今において見るということなのである 4)。
ところで,絶対的今は,先にも少しふれたように過去と未来の境界であって,時間幅ゼロの瞬間
(Augenblick)である。したがってそのような瞬間に存在できるものは何一つとしてない。 何かが存在でき
るためにはどれほど短くとも一定の時間幅を必要とするのだから。その幅がゼロであるわけだから,絶対的
今には何も存在しない。絶対的今にはいかなる意味でも存在者は存在しない。したがって絶対的今において
見るとき,通常の意味の外的知覚の対象である事物,つまり外的知覚によって把握されたと僭称されている
事物が見られているわけではない。そんなものは僭称によって仮構されたものであり,絶対的今にあること
でそのような僭称はストップされ仮構は解体されているのだから。すなわちそのような事物は存在者である
から,絶対的今には存在しないのであり,したがって絶対的今において見られるわけがないのだから。では
絶対的今において見るとき見られているものは何であろうか。絶対的今において見るとき,事物の無底性・
汲み尽くし難さ・無規定性・開放性が開示される。事物の無底性・汲み尽くし難さ・無規定性・開放性が開
示されるとき,何が見られているのだろうか。
絶対的今には何ものも存在できないのであるから,絶対的今においては,何も見られていない,あえてい
えば「無(Nichts)」が見られている,といえるかもしれない。あるいは,絶対的今は何かが存在する以前
であり,存在すること自体に先行する場であって,そこでは何かが「先存在(Vorsein)」(vgl.XV 585,568)
している,とするならば,絶対的今において見られているのは,事物が何かとして存在する以前に「先存
在」している「何ものでもないもの」である,といえるかもしれない。ここで補足していえば,絶対的今に
おいて見るとは,核-現出(原印象)にとどまることであったことを思い出して欲しい。核-現出とは事物の
一面の現出であるが,核-現出が事物の一面の現出であるといえるためには,地平意識を介して事物そのも
のが把握されていることが前提となる。しかし核-現出に留まるということは地平意識をストップし事物そ
のものの把握もストップすることであるから,そこでは事物は存在せず,当然,事物の一面の現出もありえ
ない。一面は何かの一面としてのみ意味をもつからである。したがって核-現出においては,事物はもちろ
ん事物の一面も現出してはいないのであって,事物が事物として現出する以前の,すなわち一面が事物の一
面として現出する以前の,つまり事物でも事物の一面でもない何かが,現出しているというしかない。それ
はあえていえば先ほど述べたように,事物(の一面)に 「先存在」 している 「無」 ないし 「何ものでもない
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もの」 というしかないものである。
事物を,ありのままに(絶対的今において),見るというのは,外的知覚において把握されている(と僭
称されている)事物存在を解体し,それに「先存在」している,いまだ何ものとも規定されていない「何も
のでもないもの」あるいは「無」を見る,ということであって,そこにおいてかえって,事物の無底性・汲
み尽くし難さ・無規定性・開放性が開示されるのである。というのも事物は,この「何ものでもないもの」
あるいは「無」を根底にその上に仮構されたものであるからである。以後,ここで明らかとなった見られる
対象を,事物に 「先存在」 しているという意味で「原事物 Ur-ding)」5)と呼び,通常の外的知覚の対象で
ある事物と区別することとする。
ところでこの原事物であるが,これは存在者ではなくかつ何ものでもない故に,他の原事物とは区別でき
ない。事物であれば,それは何かとして存在しているからその何であるかに応じて他の事物と区別できるの
と対照的である。このことからいえるのは,事物は複数であることができるのに対して,原事物は複数であ
ることが不可能であり,したがってそもそも他の原事物などありえないのである。原事物は,そういう意味
で,単数複数の区別以前の絶対的単数性において 「先存在」 しているのである。
個々別々のいかなる事物であれ,それをありのままに見ることにおいて見えてくるのは,あらゆる事物の
根底に絶対的唯一性において 「先存在」 している原事物なのである。
4 見るもの
事物をありのままに見るとは,事物の存在を解体し原事物を見るということであるが,その原事物を見る
主体は誰か,について考えていこう。前章でみたように,原事物を見るためには,地平意識の遂行を,した
がって把持と予持をストップしなければならない。このストップのことをフッサールはエポケー(Epoché)
ないし還元(Reduktion)6)と呼ぶのだが,これによって見る主体は核-現出ないし絶対的今(原印象的今)
に留まることとなるのであり,つまりは「絶対的今において見る主体」へと変容することとなるのである。
ところで,変容前の見る主体,すなわち通常の外的知覚の主体は誰かといえば,それは人間としての我々
であって,一般に心(Seele)とか精神(Geist)と呼ばれているものであるが,ここでは今後「自我(Ich)」
と呼ぶこととする。この自我が還元によって「絶対的今において見る主体」へと変容を遂げるのはどうして
かといえば,自我は明らかに時間的に持続する存在者であるが,絶対的今においては何ものも存在できない
からである。還元によって開示される絶対的今という存在すること自体に先行する場に,存在者である自我
は住めないのであって,この場に住むにふさわしいあり方,すなわち「先存在」というあり方へと変容せざ
るをえないのである。このように「先存在」というあり方に変容した主体が「絶対的今において見る主体」
であって,これこそが,ありのままに見る主体,すなわち原事物を見る主体なのであるが,これを今後,自
我に 「先存在」 している自我という意味で「原自我(Ur-ich)」7)と呼ぶこととする。
では原自我とは何であろうか。すでにみたように原自我とは,存在すること自体に先行する場である絶対
的今において「先存在」しているのであるから,原自我はいかなる意味でも存在者ではない。この意味で原
自我は「無」である。あるいは,自我が何かとして存在する以前に「先存在」している「何ものでもないも
の」である。
原自我は存在者ではなく何ものでもない。それゆえ原自我は他の原自我とは区別できない。原事物につい
て述べたのと事情は同じである。自我であれば,それは何かとして存在しているから,その何かに即して他
の自我すなわち他我と区別できるが,原自我ではそのような区別は不可能である。自我は複数であることが
できるのに対して,原自我は複数であることが不可能であり,したがってそもそも他の原自我などありえな
いのである。原自我は,単数複数の区別以前の絶対的単数性において 「先存在」 しているのである 8)。
いかなる自我から出発したとしても,原事物を見ることにおいて見る主体としてあらわになるのは,絶対
的唯一性において 「先存在」 している原自我なのであって,ということは,この原自我があらゆる個々別々
の自我の中に宿っている,ということである。
5 「無」の自己開示
ここまでのところをまとめると,事物をありのままに見るとは,事物を絶対的今において見ることであ
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り,それは原事物を見ることである。そして原事物を見る主体は原自我であるから,事物をありのままに見
るとは,原自我が原事物を見ること,ということになる。
さらに原事物も原自我も,絶対的今にあって存在者ではなく何ものでもない。以下この意味で 「無」 とい
う言葉を使うこととすると,原自我も原事物も 「無」 である。ゆえに事物をありのままに見るとは,「無」
が 「無」 を見ることである。(要するに,絶対的今において事物を見ることによって,見る主体としての自
我が消え,それと入れ替わりに見る主体として原自我(「無」)があらわれ,それと同時に見られる対象が事
物から原事物(「無」)へと変容する,ということである。)
では見る 「無」 と見られる 「無」 は異なるのか。同じく 「無」 であるから区別のしようがない。したがっ
て,「無」 が 「無」 を見るとは,「無」 が自己自身を見ること,ということになる。
さらにここに 「無」(原自我・原事物)が住まう絶対的今をくわえて考えてみよう。絶対的今は 「無」 の
住処である。「無」 の場所である。では 「無」 と 「無」 の場所は異なるのか。「無」 の場所が存在する場所だ
とするとそこには何かが存在できるはずである。しかし絶対的今(「無」 の場所)は,そこにおいて何も存
在できない存在自体に先行する場であるのだから,存在する場所ではありえない。とするなら 「無」 の場所
も 「無」 である。同じ 「無」 であるから 「無」 と 「無」 の場所も区別しようがない。したがって,「無」 が
「無」 を見るとは,「無」 が 「無」 において 「無」 を見ることであるが,それはすなわち,「無」 が自己自身
において自己自身を見ることである。
ここまでくると,事物をありのままに見るということは,畢竟,「無」 の自己開示,である。そして事物
をありのままに見ることにおいてあらわになる 「ありのまま」 とは,一切が 「無」 である,ということであ
る。
さてここで,この「ありのまま」(「無」)から自我や事物が存在する世界がどのように成立するのかを確
認しておこう。
「無」を核として世界は構成される。このプロセスを存在者化という。その第一段階が時間
化(Zeitigung)であるが,それは存在することの第一の条件は時間的に持続することであるからである。
時間化とは絶対的今(場所としての「無」)を超えていく働きであって予持と把持の二つから成り立って
いる。絶対的今を「後へ(re)」超えていくのが把持であり「前へ(pro)」超えていくのが予持である。予
持と把持からなる時間化によって,絶対的今から幅のある現在が構成され,その現在に基づいて過去-現在未来(Vergangenheit-Gegenwart-Zukunft)という時間が構成されるのである。そしてこの現在及び時間の
構成と同時に運動というものが可能となる。なぜなら時間幅ゼロにおいてはいかなる運動も不可能であるか
ら。そしてこの運動可能性において空間が構成されるのである。したがって,絶対的今(場所としての 「無
」)とは時空に 「先存在」 している場であって,その意味で 「原時空(Ur-raumzeit)」 と呼ぶことができる。
そしてこの原時空が時間化されることにおいて時空が成立するのである。このように絶対的今すなわち原時
空(場所としての 「無」)が時間化される(時空が構成される)ことによって,そこに「先存在」している
「無」(原自我=原事物)も時間化・存在者化され,複数の自我および複数の事物という多種多様な存在者が
個々別々に構成される。
こうして一切が「無」の「ありのまま」から,この「無」を核として自我や事物が存在する世界,すなわ
ち万物が個々別々に存在し主客が分離した世界が構成されるのである。それゆえ世界の核には「無」が巣
くっているのである。世界の根底には「無」が潜んでいるのである。したがって,世界は無底で,汲み尽く
し難く,何ものとも規定できず,何かとして閉じられることもないのである。つまり世界は,限りなく多様
で豊饒である,ということである。かくして事物をありのままに見ることにおいて,「無」の自己開示を介
して,世界の多様性・豊饒さもあらわになるのである。
結び
以上縷々述べてきたことから明らかなように,フッサール現象学の一切の諸原理の原理である「ありのま
まに見ること」の徹底において,「無」 が自らを開示するのである。一切が「無」の「ありのまま」があら
わになるのである。これこそがフッサールの意図や自覚とは別にフッサール現象学が最終的にたどりついた
境位である。
本稿を閉じるにあたって,この 「無」 が自らをどのようなものとして開示するのか,すなわち 「無」 の現
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成(Wesen)の仕方を概観し,「無」 の本質(Wesen)を確認しておく。
まず,「無」 は自らを場所として開示する。この限りで 「無」 は原時空である。通常は,世界(時空)の
母胎として,世界の根底にあって世界を支え,世界と一体化している 9)。
次に,「無」 は自らを見られるものとして開示する。この限りで 「無」 は原事物である。通常は,世界内
の事物の根底として事物を支えそれと一体化している。それゆえ一個の事物といえども限定し尽くせないの
であって,無限を宿しているのである。
最後に,「無」 は自らを見るものとして開示する。この限りで 「無」 は原自我である。通常は,世界内の
あらゆる自我に宿っているが,そのことに気づいていない。「ありのままに見ること」において原自我は自
らに気づくが,このとき自我及び事物を含む世界は 「無」 と化している。原自我としての 「無」 は 「無」 と
化した世界を見るものである。
「無」 は,同時に,場所であり見られるものであり見るものなのである。それが 「無」 の Wesen である。
註
Husserliana からの引用は巻数をローマ数字で,頁数をアラビア数字で本文中に記した。
  1)外的知覚の現象学研究における重要性については『イデーンⅠ』(Ⅲ-1 81)を参照。
  2)事物そのものの把握を僭称するさい,意識は当の事物を「何か」として把握する。例えば 「机」 とし
て,「椅子」 として,「人間」 として把握する。このことをフッサールは『イデーンⅠ』で 「意味をもつ
ということ,あるいは或ものを『意味においてもつ』ということが全意識の基礎性格なのである。」(Ⅲ
-1 206)と述べている。あるいはこの意識の働きは 「意味付与(Sinngebung)」 とも呼ばれる。要する
に意識が事物そのものの把握を僭称するさい「意味」を介するということである。これは重要な観点で
はあるが,本文では詳述しない。煩雑になるからである。とはいえ暗に示されてはいる。
  3)註 2)で述べたことをふまえると,この僭称をストップするには 「意味付与」 をストップすればよいと
いうことになるが,本文では詳述しない。なお,私見によれば,「意味付与」の働きは広い意味での言
語にかかわる働きであって,「意味付与」 をストップするためには言語から離脱する必要がある。この
「離言」 とありのままに見ることとの関係については可能であれば別の機会に述べたいと思う。
  4)原印象的今は後に 「生き生きした現在(lebendige Gegenwart)」 として捉え返される。この生き生き
した現在は,立ち止まることと流れることという相矛盾した性格を合わせもつ謎めいた 「存在」 であっ
て,後期フッサールはこの謎の解明に思索を傾注することとなる。ともあれ,ここで押さえておきたい
のは,原印象的今と呼ぼうと生き生きした現在と呼ぼうと,これを核として時間が構成される根源であ
るということであり,したがっていかなる意味でも時間的幅はもたないということである。なにがしか
の幅を持つとしてもそれは決して時間的な幅ではなく,あえていえば先時間的ないしは非時間的幅であ
る。本稿ではその時間的幅を持たないというところに焦点を当てそのことを強調するために 「絶対的
今」 という言葉を使用する。
  5)「原事物」 という言葉は,後述の原自我が通常の自我に 「先存在」 していることからそのように呼ばれ
ているのにならった,私の造語である。後出の「原時空」についても同様。
  6)還元には様々な形容詞がつく。現象学的還元,現象学的心理学的還元,超越論的現象学的還元,超越論
的還元等。ここではそのそれぞれについて詳述はしないが,いずれにしろ一切の諸原理の原理に基づ
き,ありのままに見るために必要な操作をいう。ここでいう予持と把持の働きをストップする還元は,
「素朴性の最後の克服」(XV 585)として「徹底化された還元(radikalisierte Reduktion)」ないし「究
極的還元(letzte Reduktion)」(XV 585)と呼ばれ,フッサールの辿りついた最終的境位をあらわにす
るための還元である。
  7)
「原自我」についてはフッサール最晩年の著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』)第
54 節(b)参照。これはまた「絶対的エゴ(absolute Ego)」(『危機』55 節参照)とも呼ばれる。
  8)
『間主観性の現象学』においてフッサールは,原自我を 「還元の第一のエゴ」 とか 「原初的エゴ」 とも
呼び,「このエゴは,これに対して他のエゴがいかなる意味も与えないゆえに虚偽のエゴと呼ばれる」
(XV 587)とか 「このエゴは絶対的意味において唯一のエゴであって,いかなる有意義な複数化をも許
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田 中 康 司
さないエゴなのであり,より一層鋭く表現すればそのような複数化を無意味なものとして閉め出すとこ
ろのエゴなのである」(XV 589f),と語っている。
  9)こ の側面の 「無」 はプラトンのいう 「コーラ」 のごときものである。『ティマイオス』の該当箇所
(50C-53C)参照。