特集 色あせない絆(6~7ページ)

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右/神戸の病院で手当を受けたエルトゥー
ルル号の生存者。上/生存者をトルコまで
送り届けた軍艦「金剛」。
不眠不休の救助活動
嵐の海へ
1890年9月 日、使節団一行
横浜港を出港、帰国の途につきま
は
した。
日本国側は、9月が台風の季節で
り、エルトゥールル号が建造後
あ
溺れるなど、オスマン・パシャ以下
名という未曾有の海難事故とな
国名を尋ねましたが、言葉が通じま
島民の介護のおかげで、徐々に体
を回復した生存者は、神戸の病院
力
供しています。
この日記は、当時の貴重な資料とし
てトルコ記念館に保管されています。
コ人であることが判明しました。
コ国旗を指したので、負傷者がトル
れている資料を示したところ、トル
せん。そこで、各国の国旗が掲載さ
検疫のため、長期間足止めを食った
ことからオスマン・パシャは、これ
以上帰途が遅れないようにと、同日
横浜港を出港し神戸を目指しました。
エルトゥールル号の遭難
横浜を出港して、翌日の9月 日
後9時頃、エルトゥールル号は串
午
本町大島樫野崎沖を航行中、台風に
遭遇。船は猛烈な波浪と強風により、
瞬く間に自由を失い、次第に樫野崎
救助活動を行いました。
に移送され、手当てを受けた後、日
救援者の子孫に聞く事故当時の様子
に寄せられ、船甲羅岩礁に激突した
メートル近い崖を下り、体の大
なトルコ人を救出するため、1人
き
本の軍艦﹁比叡﹂と﹁金剛﹂によっ
話ばかりだったとのことです。
のです。
が負傷者を背負い、別の人が後ろか
て、無事祖国であるトルコに送り届
トルコに帰れたのかな」と心配する
潜りで遺体の引き上げを行う者など、
船体破損部から流入した海水が機
に入り、水蒸気爆発を引き起こし、
関
ら押し、さらに崖の上から縄で引き
けられました。
ことです。陸から捜索を行う者、素
船は大破。乗組員は海に吹き飛ばさ
上げる。トルコ人1人を助けるため
国の途に就いた後は「みんな無事に
れ、爆発による火傷や荒れ狂う海で
そして、大島の島民は、言葉も通
な い ト ル コ 人 に、 衣 類 を は じ め、
じ
芋や貴重なタンパク源である卵を産
に3人がかりで救出を行ったと言わ
その後、他村の協力も得て、事故
亡くなった方の収容と埋葬も行わ
で
む鶏も食料として、惜しげもなく提
れています。救出された負傷者の冷
ロール号難事取扱ニ
慰霊碑が樫野崎に建てられています。
Interview
組 員 に も 蔓 延。
しかし、当時日本ではコレラが発
しており、エルトゥールル号の乗
生
樫野埼灯台にも生存者が助けを求
て 集 ま っ て い ま し た。 灯 台 守 は、
め
集落に戻り、区民に伝えています。
生存者と遭遇。事故を知り、すぐに
現場周辺に居合わせた高野友吉氏
、自力で断崖を這いあがってきた
は
りました。
に
580余名が殉職、生存者はわずか
6
69
余 名 が 亡 く な り、
出発の延期を勧めました。
年以上を経た木造船であることから、
20
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れており、事故の翌年には、最初の
エルトゥールル号の事故を知った
島の島民は、不眠不休で献身的な
大
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え切った体を温めるなど、1人でも
耳其軍艦エルトグ
広報くしもと 2015 年 12 月号
広報くしもと 2015 年 12 月号
7
ことは聞いていません。生存者が帰
があり、全員が救出に携わったとの
さん
事故を知った島民により懸命な救助活動が行われた。
号事件の詳細を「土
上/第一発見者の高野
友吉氏。右/当時の樫
野埼灯台。
当時、樫野には60戸くらいの家
濵野 三功
紀伊大島沖で台風に遭遇、舵の自由を奪われ、岩礁に激突し沈没。
氏はエルトゥールル
「つらかった、苦しかった」という
でした。
帰国の途についたエルトゥールル号を待ち受ける悲しい運命――
の村長であった沖周
多くの命を救うため、懸命な活動が
係ル日記」として、残しています。
行われました。
沖周大島村長の日記
過酷な状況だったと思いますが、
こったのは、私の祖父が11歳の時
エルトゥールル号遭難現場。写真中央の奥に見える岩が船甲羅。
事故当時の様子を克明に記録
役割を決め救助活動が行われました。
エルトゥールル号の海難事故が起
エルトゥールル号の悲劇
事故当時、大島村
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