元禄快挙録(上) - あけぼの簡文庫

元禄快挙録(上)
福本日南
上編 目次
序
一 勅使東下
二 浅野家系
三 山鹿素行
四 同
五 素行の日記
六 浅野内匠頭の人となり
七 内匠頭と大学
八 吉良家系
九 吉良上野介の人となり
一〇 勅使饗応係の任命
一一 内匠頭と上野介との確執
一二 戸沢下野守の忠告
一三 勅使登城
一四 紛争の起因
一五 殿中の凶変
一六 内外の騒動
一七 審 問
一八 裁 決
一九 内匠頭の遺言
二〇 検使の争論
二一 主従の決別
二二 内匠頭の切腹
二三 荘田下総守の罷免
二四 浅野家の処分
二五 鉄砲洲邸の立退き
二六 瑶泉院の賢行
二七 赤穂城没収の準備
二八 大石家系
二九 大石一族
三〇 妄 説
三一 同 誠から出た嘘
三二 大石内蔵助の人となり 素行との出会い
三三 同 伊藤仁斎との出会い
三四 同 奥村無我との出会い
三五 同
三六 同
三七 主家の凶報
三八 城中の大会議
三九 同
四〇 一藩の哀願
四一 烈士国難に赴く
四二 同
四三 最初の連盟
四四 同
四五 同
四六 同 内蔵助の書
四七 哀願使の無能
四八 開城の決議
四九 善後の処分 寺院への寄付
五〇 赤穂の一日
五一 国庫金の分配
五二 大野父子の逃亡
五三 同 大石内蔵助とクレベル将軍 大野九郎兵衛の女と梶尾某
五四 間諜の放免 吉田忠左衛門 竹井金左衛門
五五 急進派の来会 奥野将監と高田郡兵衛
五六 急進派の主張
五七 受城使の臨検
五八 同 内蔵助の哀願
五九 開城の前夜 内蔵助と曽国藩 内蔵助と片島武矩
六〇 開 城
六一 一藩の離散
六二 同
六三 尾崎村の仮寓
六四 内蔵助の退去
六五 俗論党の逃避
六六 山科の隠栖 諸侯の招聘と荒木重左衛門の返書 内蔵助と直江山城守
六七 紫野の瑞光院
六八 内蔵助初の東下
六九 吉良家の動静 天野弥五右衛門の皮肉
七〇 十五年の初春
七一 山科会議 一党の大激論
七二 同 吉田忠左衛門の東下
七三 内蔵助の乱行
七四 同 内蔵助の里げしき 江月斎の祇園島原
七五 同 京童の悪口
七六 冷光院一周忌 神崎と千馬の東下
七七 大石主税の人となり
七八 大石一家の離散 主税の決心
七九 盟友の増加
八〇 同
八一 金屋の美人娘 二文字屋お軽
八二 一挙の大難関 堀部安兵衛の上京
八三 浅野大学の左遷
八四 円山大会議
八五 同 快拳の決定
八六 盟友の淘汰
八七 同
八八 同 内蔵助、石束父子に与える書
八九 梅林庵の仮寓 百両の無心 牡丹の贈与
九十 義徒江戸に集まる
九一 東下の催促 大石無人の進言 永井氏赤穂に封ぜられる
九二 主税の先発
九三 小人の脱盟
九四 烈士と美人 内蔵助とお軽 内蔵助と平野次郎
九五 内蔵助再度の東下 内蔵助と日野家
九六 石町の寓居 内蔵助とカピタン
九七 義徒の変名および仮寓
九八 敵情偵察 内蔵助等と大村益次郎
九九 幕府と義徒 内蔵助と橋本左内
一〇〇 討入綱領の宣言 起請文前書
一〇一 統制と激励 内蔵助とカール大王
一〇二 討入要領の提示 人々心得の覚書
一〇三 同
一〇四 諸情報集まり来る
一〇五 一党の宣言書 浅野内匠頭家来口上
一〇六 同 内蔵助と朱子 安兵衛と広沢
上
篇
序
赤穂浪人四十七士が行った復讐の一挙は、日本武士道の花である。これに関する伝記の
類は非常に多く、全部集めたら立派な図書館が一つ出来よう。これだけ多く芝居にも演ぜられ、
講談にも乗せられる、小説にも入れば、浪花節にまで唄われる。支那にも聞え、欧米にも伝わ
って、歓迎される。しかしこれらの伝記や、芝居、講談、小説、浪花節は、俗流の俗趣味に迎
合するため、あるいは婦女子の好奇心を満たすため、それからそれへと架空の物語を連ねて、
四十七士の真面目と時代の真相を失っている。もっとも正確で信の置ける好著として、室鳩巣
(むろきゅうそう)の『赤穂義人録』や三宅観瀾(かんらん)の『烈士報讐(ほうしゅう)録』や、青
山佩弦斎(はいげんさい)の『赤穂四十七士伝』などがあるが、いずれも古く、窮屈な漢文で書
かれているので読みにくい。そのため私は、この頃友人の勧めにしたがって、私の知っている
範囲で一挙の顛末を記し、一つには武士道の一端を解明し、また一つには歴史の参考に供
しようと考えた。一言しておきたいのは、記述した事実は、私が信用した参考書に準拠したこと
である。そのつど書目を述べるのも繁雑だから一々は挙げない。ただそれが杜撰(ずさん)なも
のでないことだけは、読者にあらかじめ了承をもとめておく。
一
勅使東下(とうか)
慶長の創業から八十余年、元和の争乱終結からまた七十余年。江戸の将軍家は早くも四代
を経て、第五代の征夷大将軍綱吉公の治世となり、幕府の威光は全国を圧した。内に謀叛を
企てる者はない。寛永の鎖国令からまた五十年、外に辺境を犯す敵国もない。内外平安、上
下安治、世は富み盛えて、しかも豪華風流ないわゆる元禄時代が現出した。
当時の恒例として、毎年正月には幕府から朝廷に多く金品を献上して、朝賀を申し上げる。
これに対して朝廷からもわざわざ勅使を江戸に派遣し、徳川家に答礼する。その際、幕府は
特に諸侯のうちからに勅使饗応掛を命じ、大賓館である伝奏屋敷に伺候させる。いよいよ勅
使と将軍の会見の日となれば、殿中晴れの儀席において、将軍は親しく勅旨を受ける。翌日
は四座の能役者をことごとく召集して能楽の催しがある。それが終わると荘重な饗宴がある。そ
の翌日は将軍自身による勅諭答礼の式がある。以上の数日にわたり、幕府は御三家御三卿を
始めとし、在府の大小名まで衣冠束帯で総登城して儀式に参列する。これはもとより幕府の朝
廷に奉対する政略の一つであり、幕府はこうして朝廷尊敬を天下に示し、かつは京都の公卿
の心を捕えるのである。
さて恒例により、元禄十四年の春二月、当時の東山天皇の勅使として柳原権(ごん)大納言
資廉(すけかど)卿、高野権中納言保春卿、ならびに霊元上皇の院使として清閑寺権中納言
煕定(ひろさだ)卿は、京都を出発して江戸へと下向した。これによって幕府は接伴上の諸般
の手配を定め、同月播州赤穂の城主浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)および伊予
吉田の城主伊達左京亮(さきょうのすけ)宗春を殿中に召し、老中列席のうえ帝鑑の間におい
て、内匠頭には勅使饗応掛を命じ、左京亮には院使饗応掛を命じた。そして各々伝奏屋敷に
伺候し、諸事に手落ちなく神妙に相勤めるよう申し渡した。
事が事であるから、饗応掛を命ぜられた両家の名誉はいうまでもないが、一方実に懸命の
役儀であった。これと同時に高家衆の筆頭吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)、大
友近江守義孝もそれぞれ勅使、院使の接伴掛を命ぜられた。これには多少の解説を要する。
前の浅野、伊達両侯は賄(まかな)いの饗応掛で、費用を背負っての奉公である。しかし殿中
の典礼、勅使の接伴などは、高家の専門であった。なかでも上野介は、四十余年殿中にあっ
て、これらの作法にもっとも練達している。それで吉良、大友両家は事実上名誉職の接伴掛で、
万事に采配するだけの役儀である。これは諸侯に勅使、院使の饗応を手伝わせ、かつ典礼作
法に失態がないようにとの周到な用意から、高家を加伴させるのである。
二 浅野家系
今回勅使の饗応掛を申し付けられた播州浅野家は小名ながら名誉の家柄である。始祖浅
野弾正少弼(だんじょうしょうひつ)長政には三人の子があった。嫡男は紀伊守幸長、次男は
但馬守長晟(ながあきら)、三男は采女正(うねめのしょう)長重である。長政、幸長の父子は相
次いで太閤および家康公に仕え、関ヶ原の役に父子とともに東軍に属して殊勲があったので、
改めて安芸、備後の両国四十二万二千石に封ぜられ、紀伊から広島に移った。この紀伊守
幸長に男子がなかったので、兄弟の順により但馬守長晟がその後を継いだ。江戸の霞ヶ関に
屋敷を賜わって、子孫堂々たる大諸侯であった。古老の人は今でも記憶されていよう、「安芸
と黒田は国は遠いが、花のお江戸じゃ軒並び」と謡(うた)われた。これが浅野の宗家である。
長政の三男、つまり弟の采女正長重は幼名を又一郎と称し、つとに二代将軍秀忠公に仕え
た。大阪の両役に戦功があったので次第に増封され、元和六年以来常陸(ひたち)国で五万
三千五百石の笠間を領した。寛永九年に卒去したので、嫡子内匠頭長直が封を継ぎ、正保
二年播磨国に転封されて、赤穂、加西(かさい)、加東、佐用(さよ)四郡の内に同じ五万三千
五百石を領した。長直の父長重とその令兄長晟とは、きわめて友愛の情に富み、兄は弟に対
して、金穀武器何くれと絶えず協力した。そのため播州浅野家は祖先から富裕であった。さて
内匠頭長直が始めて播州に入国した時、赤穂は普通の一小都会で、城塁とてもなかったので、
しばしば幕府に嘆願し、ついにその許可を得て、赤穂城を建築した。この時にも広島の宗家
から一かどの助力を与えられた。この内匠頭長直はなかなかの明君で、入国後、領内の荒蕪
地を開墾して多くの新田を生み、また沿海の塩田を奨励していわゆる赤穂塩の生産を盛んに
した。藩の収入はとみに増加し、播州浅野といえば小名ながら、分限の評判は江戸にも聞え
ていた。江戸においては本邸を鉄砲洲に、別邸を赤坂に賜わり、鉄砲洲に上屋敷を置いた。
寛文十二年に長直が卒去し、嫡子采女正長友が遺領を賜わったが、この君は藩主在任僅か
二か年半の延宝三年正月に早世した。これにより当年九歳の嫡男又一郎が家督を継ぎ、祖
父の官名を賜わって内匠頭長矩と称し、第四代の赤穂城主となった。これがすなわち播州浅
野家である。祖父内匠頭長直が正保二年に赤穂城を築いてこの地を領してから、この年元禄
十四年までに、早くも五十七年となった。五十七年といえば半世紀以上である。治教はすでに
地に着き、人心に浸み入っていたことが推測されるであろう。
三
山鹿素行(やまがそこう)
内匠頭長矩の祖父長直が明君であったことはすで述べたが、この人の政治は、賢を敬(うや
ま)い、士を愛したものであった。したがって侯の一代に実に多くの賢人名家を招致した。中で
も当時国内第一の英傑山鹿素行を赤穂に招いたことは、大書特筆しなければならない。英雄
は英雄を知る。隔世の賢者である長門の傑物富永独嘯庵(どくしょうあん)は「徳川創業以来
の豪傑の士は、山鹿素行、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠の四人」といった。素行の人物は
独嘯庵の推奨だけでも知ることが出来る。素行の初めの名は義矩(よしのり)、後に高祐(たか
すけ)、字(あざな)は子敬(しけい)といい、素行はその号であった。もう一つの号は隠山ともい
う。幼名は佐太郎、また文一郎、長じて甚五左衛門と称した。学問はつとに林羅山の門に入っ
て、十一歳ですでに経史の講義に見台を用いることを許され、早くも人々に『小学』、『論語』、
『貞観政要』などを講じた。その弁論は老成人も及ばない観があった。兵学は、十八歳のとき
小畑勘兵衛景憲(かげのり)および北条安房守氏長の門に入り、わずか五年の努力で群弟第
一、その右に出る者なく、二十歳の時には景憲、氏長の持つ戦略の奥義をことごとく伝受した。
これよりすます文武を兼修し、名声の維持を自らの任とした。年齢三十に達する前に、すでに
名声は国中に広まった。三代将軍家光公はこれを聞き、彼を抜擢(ばってき)しようとの内意を
抱いたが、惜しいかな間もなく逝去したので、沙汰やみとなった。内匠頭長直は早くからその
門弟となり、素行の薫陶を受けていたが、ここに至って切に懇請し、三顧の礼をもって赤穂に
迎え、その俸に千石を給した。「人生は意気に感ず。功名を論ずるのは無意味である」というの
はこのことである。素行は千石を少ないともせず、承応元年三十一歳の時に招きに応じ、万治
三年三十九歳の時まで九年間浅野家の客分となった。この年に赤穂を辞し去ったが、内匠頭
の尊崇はいよいよ盛んであった。侯は別れに臨んで慇懃(いんぎん)に素行に向い「先生の大
才は、聖道を講明し、武学に精練されること、まことに天下第一である。禄高が少なくて、先生
を厚く奉ずることが出来なかったのは、終生の遺憾であった。今後諸方の大諸侯は争って賢
士を招聘するであろうから、先生を請う者も今後相次ぐであろうが、先生がもし書斎から出ると
きは、一万石以下では必ず断られることを希望する」と申された。素行がいったん赤穂を去っ
たのは、天下の広居にいて、天下の賢才を養おうとの願いであり、もとより俸禄のためでなかっ
たと、侯は知っていただろう。そして素行が終生他の諸侯の招きに応じなかったのは、深く内
匠頭の知遇に感じていたため、高禄を利して他家に仕えることによって、内匠頭に恥をかかせ
ないためであると思われる。素行の高風また称賛すべきではないか。
四 同
山鹿素行が赤穂を辞し、ーたび門戸を江戸に開くと、その勢力は実に一世を驚かせた。大
名小名旗下から諸侯の卿太夫、武士、庶人に至るまで、教えを請う者が門に充(み)ち、たち
まち門下生千人と称せられた。たかが一個の処士であるにもかかわらず、その生活は万石以
上に匹敵し、五千石の小名旗下などは足元にも及ばない有様であった。ある日素行の門弟の
一人であった大名が、堂々と行列を作って素行の屋敷の前を通行する時、にわか雨に会った。
大名は家来に命じて、素行の家に雨合羽を借りに走らせた。ソレという間に素行の屋敷から、
当時にあっては容易に得難い羅紗の合羽三百襲(かさね)を大勢の小姓に運ばせて用立てた
という話がある。これによっても素行の暮らしぶりがわかる。素行の天性は英邁(えいまい)卓越、
加えて博覧強記、例えれば古晋の杜武庫(とぶこ)のように、胸中にはすべてがあった。経学
では、初めは周程、張朱の説を宗としたが、英雄いつまでも他人の唾説によらない。たちまち
理気心性の説に疑問を持ち、ついに『聖教要録』を著わして、程朱を忌憚するところなく斥(し
りぞ)けた。試みに素行の立論の一部を紹介しよう。
当時の学者は名利を捨てることが肝心だとして、政治に利害を持たないことを良しとした。
だから治国平天下に関しては、関心を持たなかった。これでは未熟な学問というほかない。
学問は何のためにあるか。天下に立って政(まつりごと)を正し、人の先頭に立って人民を
救うためにあるのだ。仁にこだわることだけが聖ではない。博(ひろ)く善政を施し衆を救
済することは、治国平天下の究極の目的であり、学問の極点でもある。しかし、大学の道
は明徳を天下に明らかにすれば、天下は自から平らかに収まる、というにすぎない。中庸
の道は、天地を正常の位置に保てば、万物は自から繁栄するというにとどまる。どちらの
道も人間の分を超えた理想論にすぎない。そういう考えは、庶民の立場に立ち、三王(伏
義、神農、黄帝)を理想とし、天地の理を知り、鬼神に正義を求めるという、本来の道とは
異なる。言葉には嘘を交えるな、行いは必らず結果をもたらすという教えは、まったく小人
の学問であり、これが武士の志とはいえない。私はかつて疑ったことがある。当時は性・
心・道の論を三尺の童子までも信じ込んだ。国家の治平、朝廷の政事を論ずる者は、名
利に走る者だと非難し、実学を無視した。しかし孔子の弟子は皆朝廷政事に関して志を
述べたではないか。師の答えは常に治国平天下の具体論ではなかったか。今彼らを見
れば、孔子も一門の高弟も名利を求めるのに懸命なのではなかったか。私はこういう疑い
を久しく抱いていた。後の儒学者は聖学の実を知らなかったから、ただ異端としか思われ
ない清浄・虚無・無願・無物を儒教の中心課題だと誤ったのである。
これが素行の主張であるから、当時の腐儒たちは口をそろえて、幕府に讒言(ざんげん)した。
またその前年には由比正雪(ゆいしょうせつ)の謀叛に手を焼いた幕府であるから、正雪にも
勝る素行の勢力を日頃から注視していた。あれやこれやで嫌疑の筋があるというので、寛文六
年の十月に素行を江戸から放逐した。これを機会に浅野内匠頭長直は、彼を領内に預かって
監督すると申し立て、赤穂に引き取った。先のように賓師(ひんし)の礼をもって歓待した。こう
して素行は再び赤穂に十年間滞在し、延宝三年にやっと許しを得て江戸に帰った。素行の四
十五歳から五十五歳までのことであった。この一世の大豪傑は、前後を通じて十九年ほど赤
穂にあって、自ら発明した兵法と経学で藩の士人を訓育したのである。その効は空しくなかっ
た。素行は去るに臨み、衷心から内匠頭長直の好誼を感謝した。その際素行は侯に対し「殿
には素行の頑愚を捨てず、国士をもって待遇された御恩のほどは、報いようがない。せめては
万分の一の奉公にもと、日頃からいささか心をこめて家臣の教育に力を入れてきたので、将来
万一危急の場合には、思い当る節もありましょうか」といった。諺に「蒔かぬ種子は生えぬ」とい
うのは、ここである。異日一小藩から忠誠の日月を貫く四十七人の義士を出したことも偶然で
はないのである。
素行の墓は牛込早稲田の宗三寺にある。墓石の前に対すると、英霊は今もなおここに在る
心地がする。
五
素行の日記
明治四十一年九月二十六日、山鹿素行の二百二十四回忌の法要が早稲田弁天町の雲居
山宗三寺であった。この日法要に会した人々は、乃木大将、井上博士(頼圀(よりくに)翁)、小
山米峯(べいほう)、三宅博士(雪嶺)、三上博士、信夫恕軒(じょけん)、柳谷謙太郎、外崎(と
さき)覚、素行先生の子孫山鹿旗之進以下数十名、私もまた犬養木堂と共に出席した。いず
れも素行に私淑する士君子である。なかでも乃木大将の家は、代々山鹿流の兵法を伝えたと
のことで、大将が今日あるのも、偶然でないことが知れる。乃木大将が素行の遺教を普及する
のに熱心なことは、私費を投じて遺著の一つである『中朝事実』二巻を刊行されたのを見ても
分る。大将はその本を私にも恵与された。受けてこれを開けば、篇を天先、中国、皇統、神器、
神教、神治、神知、聖政、礼儀、賞罰、武徳、祭祀、化功の十三章に分け、国体の絶対尊厳
な理由から、国民が覚醒し率先して奮励すべきゆえんまで説き及んでいる。日本国民の本分
は、この一書に尽くされているといってもよい。素行が全篇を十三章に分けたのは、孫子の十
三篇にならったのでもあろうか。素行がこの書を『中朝事実』と題したのは、日本の中華本朝の
史実という意味である。当時の国情を顧みれば、一代の博識といわれた新井白石すらあえて
江戸将軍を日本国王と称し、希世の儒学者と認められた荻生徂徠を恥かしくもなく東夷之物
茂(ぶつも)卿などと書いた時代に、素行が独自の見識から上記の見解を抱いたことは、二百
余年後の今日からみてまことに尊敬に堪(た)えない。
この法会の席上には、素行に関する記念の遺物が諸家から種々持ち出された。中でも子孫
の山鹿氏が秘蔵する素行自筆の日記三巻は、実に希世の書であった。自分は快速力で三時
間をかけ通読した。日記はきわめて簡易な文字で、知己との往来や四時の寒暑などを記した
に過ぎないが、往来した人物はおおむね大小名である。そうでない者も旗本や諸侯の卿太夫
以下には下らない。この一事によっても当時いかに重んぜられた人物か、うかがい知ることが
出来る。聞きしに優る大人物であったことを今さらに深く感ずる。
さてこの日記中寛文六年の項に、赤穂へ追放された理由と道中、着後の情況がごく簡略に
書いてある。その一部を抄録して、同好の士に示そう。
十月三日 医師の中井卜養(ぼくよう)が来た。妹の熱がまだ下らないからである。
ついで大村因幡(いなば)守が来た。
未(ひつじ)の頃(午後 2 時から 4 時)北条安房守(あわのかみ)氏長から「公命あり役宅
に出頭せよ」との手紙が来た。すぐに手を洗い口をすすいで祖先の神を拝み、旧識の
人々に書置きを残して、告別の意を表した。遺書を書いて家に残し、晩餐を命じ、妻子と
永い別れの杯を交わした。「人間の上には万事天命がある。決して心配するには及ばな
い。こんな場合こそ丈夫の妻子は志を共にしなければならない。母君にお目にかかり、暇
(いとま)ごいをしたいが、お目にかかれば必ず悲嘆されるから、失礼して出ていく。後か
らよろしく申し上げてくれ。明朝は津軽侯と会見の約束があった。家来に今日の出来事を
述べてお断りするよう言いつけてくれ」と言い、衣服を取り換え、礼装を整え、不断より供
回りの者を省き、安房守の役宅に参上した。見れば目付の島田藤十郎も列席し、群士は
綺羅星のように並んでいる。やがて安房守氏長は自分に向い、播州赤穂に移送するとの
公命を伝えた。果して事は『聖教要録』についてであった。氏長はついで同情の意を表し
「不慮に起った事だから、定めて家を急ぎ出たであろう。書き残すことがあれば、拙者から
妻子の人々に申し伝える」といわれた。自分はこれに対し「ご芳情の段かたじけないが、
一たび門を立ち出れば、念頭に我が家はない。この期に及んで何の遺命もない」と申し
切り、並いる群士に一礼して座を立った。
赤穂侯の家臣大西七郎兵衛と篠田彦右衛門が迎えとしてやって来た。やがて籠に乗っ
て安房守の役宅を離れ、赤穂侯の宅へ入った。この夕べ藤井又助が播州から上京してき
た。自分を赤穂へ迎え取るためである。四日から五日間はそのまま侯の宅にいた。
七日 浅野因幡守(瑶泉院の父)が訪れ、藤井叉助から太守の命を伝え聞いた。
九日 未明に江戸を発し、今夜は戸塚に泊る。
(この間に赤穂到着の記載がある)
二十四日 大石氏兄弟、岡林杢介(もくすけ)、藤井又三郎が来た。
以上、記事は至極簡単であるが、当時三千の門下を有し、幕府の隠然とした一敵国の観が
あった素行を、幕府が成敗に乗り出したと聞いて、世間にはいかなる事変が生ずるかと、幕廷
は非常準備を整えた。戒厳令を布いたに等しかった。素行が呼出状を手にすると、早くも切腹
を覚悟し、平然として家を出、幕吏に対する有様まで、ありありと目に見る心地がする。
附言 このことは後に大石内蔵助の上に関係があるので、ここに掲げておく。
六 浅野内匠頭の人となり
内匠頭長矩(ながのり)は寛文七年に誕生し、祖先の采女正(うねめのしょう)長重の幼名を
そのまま取り叉一郎と称した。父君采女正長友が早世したので、延宝三年正月、生年僅か九
歳で赤穂五万二千石を受領し、同八年八月従五位の下に叙せられた。祖父長直の官名を拝
受して、内匠頭長矩と称した。この人の性行は、天性勝れていたが、およそ貴族に通有な天性、
つまり短気と気まぐれとの二つの性格は名残なく持っていた。父祖以来士を愛する風はこの人
の上にも見え、美しい君徳がないではないが、例の短気と気まぐれのために、勘気を蒙る者が
少なくなかった。ただしこの人が美質であったことは、侯の文学、宗教および哲学の趣味によ
って見ることが出来る。侯は好んで書史を読み、書画をよくし、雅号を梅谷(ばいこく)と称した。
挿花もまた石州流を酌(く)んで上手であり、歌にもまた心を寄せていた。
侯の素養について一端を挙げると、古歌に「思えども人の業には限りあり、力を添えよ天地
(あめつち)の神」という名吟を日頃好んで誦した。人間に限りあることを観念して、天地神明の
広大な霊徳に依存することは、天道を知らない者には思い到らない。これのみではない。大変
に先だつこと四年、元禄十一年二月二十五日のことであった。この日は一向専念宗の宗祖法
然上人の忌日に当り、京都黒谷の求問和尚という八十九歳の高徳を招待した法要の席上で、
「光明遍照十方世界」という心を、
月影のいたらぬ里はなけれども眺める人の心にぞすむ
と即詠された。前の古歌を愛誦された宗教心の上に、さらに本懐を詠(よ)み出す哲学心も見
える。こうして歌の手際もまた十分にその意を発揮して遺憾がない。透徹した霊性はこの間に
も十分流露している。今年元禄十四年、侯の春秋三十五歳、血気まさに剛であった。「これを
戒しめるは闘うにあり」という年齢に当ったのが不運であった。室鳩巣が侯を評して「人となり強
硬で、相手に屈しない」といったのは、よくその性格を言い表している。
侯の内室は同族浅野因幡(いなば)守長治(ながはる)の息女で、この年元禄十四年芳紀ま
さに二十八。内匠頭との仲睦(むつ)まじく、賢夫人との誉れが高かった。この因幡守長治は宗
家但馬守長晟(ながあきら)の妾腹の子で三次の城主として五万石を領していた。人となりは
賢明で、古風を尚(たっと)び、奢侈を抑えた。山鹿素行に学んだ一人である。一万石以上で
なければ仕えるなと素行に忠言したのはこの侯であると誤り伝える者もあるが、そう伝えられる
だけの明君である。素行がお預けとなった日に、嫌疑を冒して遠路来訪したことでも、気風がう
かがわれる。これによっても浅野家最初の家風が想いやられて、ゆかしい心地がする。
七
内匠頭と大学
内匠頭長矩には一人の弟があった。大学長広がその人である。長広は寛文十年の生まれ
で、幼名は犬千代、長じて大学長広と称された。兄弟ともに山鹿素行について兵学を学んだ。
現に素行の子孫の家には、今なお両君連署の誓書が秘蔵されている。その文言は次のとおり
である。
誓言前書の事
一 山本勘助流の兵法ならびに城築の武功は、一切他人に見せ話すことをしない。
一 ただし戦場においては別である。
一 秘事相伝の事柄は、相弟子といえども、許可ない限りは伝えない。
上記に違背するときは、日本国中の大小の神、特に八幡大菩薩、摩利支尊天の神罰を
蒙る。以上のとおり誓言する。
貞享元年八月二十三日
浅野内匠頭長矩 花押
浅野大学長広
花押
山鹿甚五左衛門殿
同
藤助殿
この書面は現に東京帝国大学に保管されている。思うに貞享元年はあたかも素行棄世の前
年に当る。この歳月をたどって素行の日記を読めば、左の記事に出会う。
八月二十三日。雨。終日止まず、夕刻少々晴れた。浅野内匠頭宅を訪問した。内匠頭は
兵法の門弟でもある。藤助、大学も来た。礼式どおり盃酒があった。奥野将監(しようげ
ん)、安井彦右衛門も来て立ち会った。
この記述は、誓書と合致する。時に内匠頭長矩は十八歳、大学長広は十五歳であった。奥
野将監と安井彦右衛門は素行の薫陶を受けながら、後年復讐の快挙には、二人ともに腰を抜
かし、背盟した痴物(しれもの)である。縁なき衆生は度し難いとは、釈尊でさえ嘆息したのだ。
素行を師とし内蔵助を友としても、腰抜けはどこまでも腰抜けであった。
さてこの大学は元禄元年に、兄内匠頭から幕府に願い済みの上、新地三千石を分領した。
幕府では寄合に列せられ、長矩の別邸木挽町の屋敷に住んだ。この年元禄十四年には三十
二歳であり、内匠頭より三歳若かった。当時の法制として、世継ぎのない大名が自分の封国に
つく際には、近親中の一人を仮に相続者として幕府に届けておく。そのうち世子が誕生すれ
ば、改めて届け出て許可を得、これを実際の世継ぎとした。内匠頭には当時子がなかったから、
大学が仮の後継ぎになっていたのである。
附言 『義人録』などに、大学は本庄の浅野家別邸に住んだと記しているが、大石、原、堀部
などの往復文書には皆木挽町様としているので、これが正確である。
八
吉良家系
幕府の懐柔政略は至れり尽せりであった。およそ足利以来の名家の子孫で封国を失った者
は、旗本に登用し、官位だけを高くして優遇し、もっぱら典礼の事を扱わせた。これを高家衆
(こうけしゅう)と称した。高貴の家柄という意味であろう。元禄の幕廷において吉良上野介義央
(よしなか)はその筆頭第一であった。この機会に吉良家の家系をみてみよう。
もともと吉良家は清和源氏の出で、足利左馬頭義氏(よしうじ)の子孫である。義氏の子長氏
の代に三河の吉良に住んだので吉良氏を称するようになった。室町幕府の頃には渋川、石橋
の両氏とともに将軍家一族の三家と崇(あが)められ、下馬衆(げばしゅう)の称があった。これ
は諸々の大小名が路上にこの三家と出会う時は、下馬の礼を取らねばならなかったからであ
る。徳川幕府の御三家に似たところがある。さてこの吉良は今川、織田、徳川起伏の際には徳
川家に対し、ある時は弓を引き、ある時は味方をしたが、大勢おおいに定まった後、家康公は
同族近親の宜(よしみ)を思い、吉良上野介義定を登用した。義定から上野介義弥(よしひさ)
を経て若狭守義冬となり、義冬の嫡男が上野介義央である。寛永十八年九月二日江戸に生
れ、幼名は三郎、ついで右近と称した。承応二年十三歳で幕府に出仕してから、前将軍家綱
公および現将軍綱吉公の二代に仕えた。次第に官位を進めて従四位上に叙し、左近衛少将
に任じ、三河国幡豆郡(はずごおり)および上野国甘楽(かんら)郡の四千二百石を領した。祖
先の地位にしたがって、上野介義央と称した。最初は鍛冶橋内に屋敷を賜わっていたが、元
禄十一年に改めて呉服橋内に屋敷を賜わりここに移った。およそ承応二年から今年元禄十四
年まで、四十九年間殿中にあって、典故儀礼のことを執ったから、作法に練達していたのも当
然である。この年六十一歳になり高家衆の筆頭として推されていた。
この上野介の内室は上杉播磨守綱勝の娘であった。上野介はこの方を納(い)れて、嫡男三
郎を挙げた。寛文四年に綱勝が急死し、後嗣がないところから、景勝卿以来の血が絶えること
を憂い、この三郎を養子として上杉家の家督を継がせた。これが後に弾正大弼(だんじょうだ
いひつ)綱憲(つなのり)である。この綱憲は二子を挙げ、長は民部大輔吉憲、次は春千代で
ある。上野介には晩年に子がなかったから、この甥の春干代を養子にした。これがすなわち左
兵衛義周(よしちか)である。これゆえ上杉家と吉良家とは重縁の間柄となった。養子左兵衛
義周は当年まさに十八歳であった。
附言 本名を称することは、中古までのことで、それから以後はほとんど行われなかったから、
所伝には誤りが多い。上野介の本名の一字も、中央の央の字であるが、当時の世間には
央の字などを知る者は少ない。一度世上に義英と写し誤って、講談師などが無闇にヨシヒ
デ、ヨシヒデと唱えたから、人々の耳に慣れ、いつしかヨシヒデが本名のようになってしま
った。いかにも英の字ならばヒデに相違ないが、その実は央である。義央すなわちヨシナ
カである。首を斬られたから英の字の草冠が飛んだと思えば、たちまち記憶に入るであろ
う。何はともあれ、万昌院にある墓石に「吉良前上野介義央朝臣」とあるのが確かな証拠
である。その子左兵衛義周すなわちヨシチカも周の字と固の字が似ているところから、ま
た写し誤って義固と伝え、したがってヨシカタと読ませている本もままある。
ついでにこの頃出た『大石内蔵助』に上野介が本所の屋敷に最初から住まっていたよう
に記したり、刃傷(にんじょう)当時に内匠頭が三十歳だの、上野介が五十九歳だのと記
したりしているのも皆間違いである。俗書だから言うにも足りないが、随分当てずっぽうな
話であるから一言しておく。
九 吉良上野介の人となり
吉良家と重縁の関係ある上杉家は、人も知った戦国の英雄、弾正大弼(だいひつ)輝虎入
道謙信の子孫である。その嗣子(しし)、会津中納言景勝卿は一片の義によって、関ヶ原の大
役に西軍に与(く)みし、家康から久しく敵視され、講和ののち会津百二十万石から米沢三十
万石に減封された。その子定勝、その孫綱勝と三伝して、綱勝卒去の際に後嗣がない。幕府
の法制として諸侯が逝去して後嗣がなければ、その家を廃絶して、封土を没収するのが恒例
であるが、名に負う関東管領の家筋、ことに不識庵謙信の後だから、特恩をもって綱勝死後の
養子綱憲(つなのり)に十五万石を受領させた。だから小さくはなったが東北に名だたる名諸
侯であり、ことに綱憲の内室為姫は紀伊中納言綱教(つなのり)卿の姉君であった。紀伊の綱
敦卿は将軍家の愛女鶴姫を配されて、威勢は大将軍にも匹敵するほどであったから、弾正大
弼綱憲の覚えも自然目出たかった。吉良上野介はその弾正大弼の実父であるというので、普
通の高家衆と違い幕廷では重んぜられたのである。
かつこの当時は将軍綱吉公がまだ館林にいた頃から左右に侍し、君寵をほとんど一身に集
め、たちまち厳然たる一大諸侯となり、中外の耳目を驚かした柳沢出羽守保明、後の松平美
濃守吉保(よしやす)全盛の時代であった。小人の常として権勢におもねることには抜け目が
ない。上野介は深く美濃守に取り入って、早くもその歓心を得ていた。それで世上には柳沢の
腰巾着(こしぎんちゃく)という渾名さえあった。これも上野介の羽振りがよかった一例である。
こればかりではない。前にも述べたとおり、上野介は四十余年の長い幕廷にあって、儀礼の
事を掌り、作法に練達しているから、ある意味では一個の元老である。これは今日でも手近く
知ることが出来る。維新の際には錦の御旗の旗持ちにも当らなかったが、四十年来政府に坐
したばかりで、元老などと言われるようになっている人もある。熟知は一つの武器でもある。まし
てや一切万事を前例格式で押し通す封建制度の幕廷においては。
これらの理由から上野介は幕廷においてなかなか勢力があった。そしてその人となりを概言
すれば、小人の特質に一つも欠けるところがなかった。上には諂(へつら)う。下には驕(おご)
る。そのくせ貪慾で賄賂(わいろ)に目がない。始末の悪い人物であった。それでいて、勅使の
御下向ごとに接伴掛とならないことはなかったから、これまで同じ掛を申し付けられた大名は、
おおむねこの人に賄(まかな)い、その歓心を得て、僅かに役儀をまっとうして来たのである。さ
てこのたびの勅使饗応掛には誰が任命せられるかと、上野介が見ている内に、浅野内匠頭が
その任に当てられた。播州浅野は聞える分限者、おまけに内匠頭は壮年であるから、まだ作
法には通じない。万事は上野介の指図まかせ。取れるぞ取れるぞ、大いに取れるぞと、ひそか
にホクホク喜んでいた。
一〇
勅使饗応係の任命
さて二月四日、殿中帝鑑の間において、浅野内匠頭はいよいよ勅使饗応掛を申し付けられ
た。この時内匠頭は老中に向い「このような重い役儀を仰せ付けられることは、家の名誉、身の
面目、この上もない次第ではありますが、公儀の作法にうとい不肖内匠、御用をまっとうできる
かと覚束なく存じます。恐れながらこの儀は他の人に仰せ付けられるよう願います」と辞退され
た。老中の一人はこれを遮って、その儀ならば懸念には及ばない。大小名誰とても恐らくこの
役目に練達された方はおられまい。この儀については多年勅使の接伴を申し上げ、万事を心
得た高家衆がある。なかでも吉良上野介がおられる。諸事上野介と相談されお勤めなされ」と
申し付けられたから、内匠頭も畏まって退出した。
内匠頭はきわめて真面目な人である。役を受けてからは懸命であった。邸に帰ってすぐ家老
の安井彦右衛門、藤井又左衛門を呼び出し、今日勅使饗応係の大役を命ぜられたと伝え「こ
れについて万事の指揮を吉良家に受けるよう内意もあった。早速同家へ挨拶に出るように」と
命じた。両人はいわゆる江戸家老で、当地の国務、財務に任ずる者である。両人が明達の男
なら、廷臣という者は賄賂次第のことは承知でなければならないが、生憎の朴念仁(ぼくねん
じん)であった。その上番頭の通有性である吝嗇(りんしょく)まで加味している。二人は内匠頭
にこう申し出た。「御意のとおりご挨拶には早速参ります。ただ上野介殿は四位の少将、高貴
の身分です。万事のお指図は役儀の上の公事で、私用のことでは有りません。滅多な物を差
し上げるのは、かえって不敬かと思いますので、ほんの印の進物を差し出すのがよろしかろうと
存じます。」内匠頭は聡明ではあるが殿様であることは免れない。おまけに天性清廉であるか
ら、自分に賄賂などを貪る心がないように、他人もまたその通りであろうと思う。そこで両家老の
申し出をそのまま容れた。家老の胸では、少しでも物入りのかからないようにするのが、一種の
忠義と心得たらしい。やがて両人は言上したとおりほんの進物の印を持参して、吉良家に挨拶
に赴いた。真偽は保証しないが、当時の噂では浅野家からは僅かに鰹節一連を贈ったという
ことである。これに反して院使の饗応掛となった伊達左京亮はその頃幼年であったから、家老
が取り仕切って万事を処置した。幸い家老にその人があったと見え、敏(さと)くも上野介の人
となりを探知し、ここぞと思い切った進物をした。これも噂だが、加賀絹幾巻か、黄金百枚、探
幽の筆になる竜虎の対幅などを贈ったということである。これにより上野介は伊達家に対しては
大得意となった代りに、浅野家に向っては大失望であった。「勝手向が不如意の伊達家でさえ
非常な敬意を表するのに、浅野の仕向けは何事か。この上野介を馬鹿にしている。内匠頭が
その心なら、こちらにも仕様がある」と、そろそろ小人の本色を動かして来た。未来の禍機はこ
こから始まったのだ。上野介の劣情はもとより論外であるが、浅野家の三太夫どもが吝(けち)
さ加減もまたはなはだしい。「雇い人国を誤る」というのは、このことである。これは独り浅野一
家のことだけではない。
一一
内匠頭と上野介との確執(かくしつ)
進物が軽少であったために、上野介が浅野家に対し内心大不満を抱いている、とは夢にも
知らない内匠頭である。両家老を挨拶に遣わした後、自身駕を促して吉良邸を訪問し、上野
介に面会した。今度勅使饗応掛を仰せ付けられた顛末を述べ、「未熟のことであり、万事貴老
のお指図に預りたい」と懇請した。すると上野介の態度は意外なものであった。彼は極めて冷
淡な語気で「折角のお頼みではあるが、勅使院使の接伴は私も同様に不案内なので、指図な
ど思いも寄らない。貴殿のお心次第に取扱いなされ」とはね付けた。内匠頭はムッとして、聞き
しに勝る腹の悪い老爺だと思いながらも、役目大事と思い直し「さように仰せられるが、老中よ
り万事は貴老のような功者の指図にまかせて行えとの指示があり、ひたすらお縋(すが)り申し
あげる」と重ねて丁寧な態度に出た。すると上野介は何やら心に浮んだ様子で「さようですか。
そうまでおっしゃるなら、いささか心づきを申し上げよう。お役目については進物が第一でござ
る。このたびのように重い方などは大事にしないでは済まされない。第一は勅使二方に対して
は、日々進物を贈りなさい。このことはゆめゆめ抜かりないように・・・」と意味ありげに答えた。
上野介の方では、「いかに吝(けち)でも頑固でも、あれほど打ち込んでおいたら、こちらの真
意を解しないことはあるまい。必ず相当な進物を寄こして来るであろう」と期待した。何を知ろう、
内匠頭は例の殿様である。自家に一点も収賄などという念慮がないから、上野介の話は彼自
身に多くの賄賂を納れよという謎であるとは、少しも気づかない。殿はかえって一層の悪感情
を抱いた。「狸爺め、自分が廷儀に疎いのにつけ込み、愚弄するのだ。勅使を大切にするの
は当然ながら、日々進物を差し上げねばならないという法があるだろうか。人を愚弄するにも
ほどがある」と思ったから、直ぐに月番の老中、土屋相模守を訪問し、上野介殿はしかじかと指
図されたが、さよう取り計らうべきものかどうかを質(ただ)された。これを聞いて相模守は不審
の眉を寄せ、「いかに上野介の指図でも、日々進物をするなどという先例はない。決してその
ようなことはしなくてよい。ただ饗応に手抜きなく勉めれば、それで沢山である」と答えた。さて
こそと内匠頭は心中に上野介をあざ笑って、その指示には一顧も与えなかった。これはたちま
ち上野介に聞えた。上野介は居ても立ってもいられない。「あの話を閣老の耳に入れたものが
ある。閣老は必ず私の心を疑って、おそらく良くは受け取らないだろう。あの内匠、俺に寄こさ
ないばかりか恥までかかせるとは、何事か。今に見よ、大失態をしでかせてやる」と、不吉な悪
念を燃やした。
一二 戸沢下野守の忠告
溝はすでに浚(さら)えられた。内匠頭が上野介を「狸爺」と軽蔑すれば、上野介は内匠頭を
「青二才」のくせにと蔑視する。上野介の貪欲を知り、内匠頭の硬直さを知る大小名は、内匠
頭のために密かに憂慮する者も少なくなかった。ことに内匠頭と交情の深かった戸沢下野守
政庸(まさつね)は一日浅野邸を訪れた。折から小笠原長門守も来合せていたが、いずれも懇
親の間柄であるから、主人侯は大いに喜び、共に書院に招いて、四方山の談を開いた。下野
守はもの思わしげに内匠頭に向い、
「このたび貴殿は上野介殿と勅使饗応掛をお勤めなさる由、ご存じか知らないが、あの人は
まことに驕慢で腹黒いと、かねがね父の上総介より聞いている。前年父があの人と共に日光御
廟の御用を仰せ付けられた節、それは様々の難題を持ち掛けられ、忍びがたい場合にたびた
び出会ったとのことである。大事な御用、ことに御廟の事だったので、一個の私怨をはらすべ
き時ではないと、じっと我慢して御用を勤め終えたと、私の戒めに語ってくれたことがある。この
たび貴殿はその上野介殿と同役とあれば、定めて腹に据えかねることもあろうか。しかしここは
貴家の一大事、よくよく分別されるべき場合と存ずる。このことを耳に入れようと、実は参上した
次第でござる」
と割なく注意を加えた。内匠頭は大いに思い当るところがあるので、深く感激し
「ご厚誼のほど幾重にもかたじけない。この上もない訓戒、肝に銘じて承服したい。ただ貴
殿の尊父様は老功であったからこそ堪忍も出来たのでしょうが、私などにはそんなの堪忍は…
…」と打ち沈んだ。両侯は口を揃え、
「そこを忍んでこそ始めて堪忍ですぞ」ととりどりに諌(いさ)め、主人も首を縦に振ったから、
両侯はやがて暇を告げた。
附言 この件は事件の後に、小笠原長門守が芸州侯を訪問したとき、列座の方々に向って
話したのを、芸州侯の家臣御牧武太夫が、側に侍して親しく聞き取った。それを同藩の
儒者小谷勉善(べんぜん)がさらに聴き質(ただ)したものを、後に室鳩巣翁が『義人録』
訂正の際に、史料として提供した。同じく世に伝える加藤遠江守泰経(やすつね)の談も、
早くもこの頃から四方に喧伝されていたものと見え、翁はことさらに断案を下し「これは必
らず同一事である。まさに勉善が聞いたことが真実であろう」といった。私も鳩巣の断案に
同意する。
一三 勅使登城
勅使と院使は三月十一日に江戸に到着し、竜口の伝奏屋敷に入った。幕廷は使者として高
家織田能登守を送り、途上の疲れを慰問した。浅野内匠頭と伊達左京亮は前夜から家人とと
もに伝奏屋敷に詰めた。それはそれは丁重な接待である。ここに至って上野介の内匠頭に対
する敵愾心(てきがいしん)はさらに大きくなり、何とかして手落ちをさせよう、恥をかかせようと
試みた。噂によれば、勅使到着当日の馳走にも既に大齟齬(そご)をさせようとしたという。それ
ぐらいのことはありそうにも考えられるが、内匠頭の方では役儀の上からいやいやながら、やは
り彼の指図を受けねばならない。例年勅使下向の常として、聖旨の伝達、勅使の饗応、徳川
家の奉答などの式が終わると、勅使は芝、上野への参詣がある。内匠頭は芝参詣の接伴にも
当った。それでわざわざ家臣に「勅使休息所の宿坊の畳表はいかが致すべきものでござろう
か」と、上野介に問い合わせた。上野介は事もなげに「何のそれには及ばない」と答えたから、
その積りでいると、院使饗応掛の伊達家では、これをすべて取り替えたとのことである。「それ
また出し抜かれたか」と内匠頭は烈火のごとく憤(いきどお)り、寸時も猶予ならないと、即刻取
り替えを命じた。急に職工を召集し、高張提灯を点(つ)けさせて、一夜のうちに宿坊普光院の
青畳二百余畳をものの見事に取り替えた。これについても噂があるが、その後上野介は増上
寺参詣の諸準備を見分しながら、この新調の畳を見て、「赤穂侯は福分者だから、お美事なこ
とだのう」と冷笑を加えたということである。かの老爺の言いかねまじい言である。
十二日には勅使、院使並んで登城した。大広間で聖旨、院宣を型のとおり徳川家に伝えた。
合せて恩賜の太刀、黄金などを交付して退出した。十三日にもまた登城があった。この日は最
初が能楽の催しで、四座の能役者がすべて出仕し、翁三番叟、高砂、田村、東北、春日竜神、
祝言(しゅうげん)など数番を演奏した。紀伊中納言綱教(つなのり)卿、甲斐権中納言綱豊卿
(後の六代将軍家宣公)、水戸参議綱条(つなえだ)卿を始め、列侯一同に陪観を許し、次に
饗宴に移ってこの日の式は済んだ。
さて翌十四日は徳川家の勅諭奉答の日となった。当時の幕府がいかにこの日本帝国を我が
物顔に振舞ったかは、その頃の識者ともいわれた有名な学者連のものの書きようで分る。新井
白石は幕府から朝鮮へ渡す公書に、将軍を日本国王と称し、室鳩巣は『義人録』を草して「朝
廷、天使を饗す」と言っている。その朝廷というのは、幕府のことである。「幕府、天使を饗す」と
は随分僭越ではないか。識者と聞えた連中ですらそれである。いわんやその他においてをや
だ。当時の幕廷では勅旨を拝受する場合よりも、公方家に勅答を唱える次の日の儀式を大切
とした。それだけ局に当る掛の役々は懸命であった。
一四
紛争の起因
三月十四日はいよいよ来た。徳川家自身が勅諭に奉答するいわゆる勅答日が、いよいよ来
た。この日は諸侯伯すべて衣冠束帯で登城し、将軍勅答の席に参列する慣例である。その儀
式は総じて正月元日の拝賀に準ずるもので、その大切なことが察せられる。事件前のことであ
るが、世上に広まった噂では、上野介と内匠頭との間に一衝突があると伝えている。内匠頭は
前日家臣に、明日の儀式には長上下(ながかみしも)を着用すべきか、また烏帽子は大紋を
被るべきかと、上野介に問い合せさせた。すると長着用でよいと返答があった。この返答に接
して、内匠頭主従の間には一評議が開かれた。明日の式に長とは心得がたい、また例のでは
あるまいかと、主従眉をひそめたが、ともかくも吉良殿の指図、無にするわけにはいかない。し
かしまた失礼を起させようとの悪意に出たのかも知れない。衣冠を用意のために持ち、途上は
長を着て登城した。そのうえ接伴の諸掛が総衣冠なら、控所で着替えするまでであると内決し、
朝は長上下を着て出仕した。すると案に相違して、同僚の諸有司は大紋烏帽子、これでまた
一恥かかされたが、準備の注意が届いていただけに、大失礼には至らなかった。そこで内匠
頭は上野介に会い、このことを詰めると、上野介は空とぼけて「どうも近頃は耄碌(もうろく)して、
まま勘違いをして済まない」と、取り合わなかったと伝えている。しかし格式を重んずる封建の
世代では、恒例の礼服などは不変のものであるから、そこまで上野介が虚言をつきそうもなけ
れば、それほど内匠頭が無知あったとも思われない。これは恐らく世間のねつ造であろう。
ただしこの日は勅使饗応中第一の晴れの席。この晴れの席において、内匠頭に終生拭えな
いほどの恥辱を与え、金にならなかった腹いせをするとは、上野介の心に兼ねて描かれた図
式と見える。どこまで腹の悪い老爺であろう。思うに内匠頭と上野介は同じ掛であり、ことに上
野介は事実上接伴長の地位にあるのだから、内匠頭とは日々会合し、指図を求められた事柄
は、衣冠束帯に限られたわけではなかったろう。その間には事ごとに、いうにいわれぬ難題を
振り掛けられたに相違ない。内匠頭は短気ではあるが、もとより馬鹿ではない。戸沢下野守な
どの懇篤な忠言もあり、かたがた積憤(せきふん)を押えて今日に至ったものと見える。だが人
と人との間には、一種不思議な相感の妙用がある。互いに会えば円滑に話をしているようでも、
一方の心中に「彼奴(かやつ)が」という心があれば、相手の心頭にも反響して、「此奴(こやつ)
が」という思いが起る。これに反していまだかつて一面識なくても、あの人は慕わしいと思えば、
その人もまたこれを悪いとは思わない。至誠は神に通ずるなどというのも、この相感の妙である。
上野介がいつか一度は内匠頭に大恥を与えてやろうと思っていた心は、今日までに既に受け
た恥辱とともに、内匠頭の心頭にあきらかに反響していた。侯がこれに対して大決心を定めた
のは、後から想い合せて間違いがないであろう。
附言 世間には往々奇説を立てたがる歴史家があって、内匠頭と上野介との確執の原因は、
男色から起ったのだという者がある。内匠頭が寵愛した若衆の美少年に上野介が恋慕し
て、是非もらい受けたいと所望したのを、内匠頭が惜しんで断った。これを上野介が意趣
に含んだのが原因だという。なるほど元禄の当時までは、戦国時代の余風を受けて男色
が盛んに流行した。ことに諸侯の間などには美少年大流行があったから、うっかり聴けば
そうかとも思われるが、この時上野介はすでに六十一歳の白頭翁であったことを思えば、
もはや若衆の争いでもあるまい。これは『忠臣武道播磨石』などの俗書に書かれてからの
俗説である。その実やはり上野介は釜よりも金の方であったのは、当時に至るまで、同じ
問題で多くの諸侯を困らせたのを見ても分る。
一五
殿中の凶変
三月十四日。勅使の席は白書院、侯伯の登城は已の時刻(午前十時)と触れ出された。この
日朝まだきから天気は陰々と曇っていた。東洋流の常套語を用いれば、「天心変異を示すに
似る」とでもいおうか。今日を晴れの日と装った千官の籠と馬は、雲のように江戸城に集まって
きた。御三家を始めとし、老中、御側(おそば)衆、譜代の諸大名は、前後に進み、席順に着
席した。接伴掛の両侯と高家衆はいずれも松の廊下に勅使、院使の登場を今か今かと待ち受
ける。内匠頭は念を入れたが上にも念を入れ、上席の上野介に向い、
「伝奏方ももうお着きの時刻と思われますが、お着きになれば、われら接伴掛は玄関の式台
でお迎えするものか、それとも式台の下に降り立ってお迎えするものか、お教え願う」と問い掛
けた。上野介はここぞという顔つきで、
「それは申すまでもない。全体にそのようなことは平生よりかねがね考えておくべきで、この場
に臨んで行き当ったお尋ねは、笑止千万でござる」と冷笑した。
内匠頭はさっと赤面し、憤懣胸を衝いて出たが、じっと耐えて黙った。折から将軍の生母桂
昌院殿の内使、梶川与三兵衛という仁が廊下に出て来て、内匠頭を見て、
「上様御勅答の式が済んだら、その旨私までお知らせ願いたい」と小声で頼んだ。
「畏まってござる」と内匠頭は答えた。これは桂昌院殿にも天皇から種々の恩賜があったので、
将軍家勅答式の後でこちらからも内使を立てて御礼を申し上げる、その打合せである。与三
兵衛はことを打ち合せて、立ち去ろうとする。上野介は呼び止めた。
「何の打合せかは存じないが。お尋ねのことがあれば、上野が承わるでござる」といいながら、
並いる人々を見回し、
「御作法を一つも心得ない内匠頭殿に、何事がお分りになろうか。あれでどうしてこの大切な
役が勤まりますか」といかにも憎々しげに言い放った。
間近でしかも場所は場所。衆人広坐の前にあってこの雪辱を加えられたので、内匠頭の耐
えに耐えた忍耐の緒は一時に切れた。内匠頭は大喝一声、
「覚えたか!」と叫びながら、腰の小刀を抜く手も見せず、上野介の頭上を目掛けて切つけ
た。「わっ」と悲鳴を揚げて上野介が打伏せに倒れるところを、二の太刀で再び切りつけたのが、
今度は肩から背にかかった。しかし咄嗟(とっさ)の際であり、かつは太刀間があったので、二
太刀とも致命傷にはならなかった。だが上野介は烏帽子の上から畳み掛けられたので、満面
を流血に染め、肩先から大紋を紅(くれない)にし、そのまま転がって逃げようとする。内匠頭は
仕損じたか、「残念!」と三たび血刀を振り揚げて、後を追おうとした。その一瞬、前に立ち去り
かかった梶川与三兵衛は、これはと見て取り、内匠頭の背後からむんずと抱き止めた。
「場所がらでござるぞ。御乱心!」と呼ぶ声を耳にも掛けず、内匠頭は、「お放しなされ!」
「お放しなされ!」と叫びつつ、振り放して追おう追おうと焦(あ)せるが、与三兵衛は旗下衆中
にも聞えた剛力の男であるから、組み着いたままちっとも動けない。そのうち上野介との間は
隔たる。品川豊後守が駆け寄り、上野介を保護し高家衆詰所に引きさがった。とかくするうちに
関久和という坊主がここに来合わせてこの様子を見、与三兵衛を助けて、太刀をかざした内匠
頭の手に取りすがった。ここで万事は休した。ああ「遺恨十年一剣を磨し、流星光底長蛇を逸
す」遺恨はこの不識庵一人のみではなかった。
一六 内外の騒動
それ刃傷と伝わるや否や、会場の内外にわたって、喧騒は一時に湧き出た。城内の大小名
から御書院番、大番、新番、その他に至るまで、争闘は誰、さては事件の発端は何、などを知
ろうとして、持場を離れ職務を捨て、右往左往に立ち騒ぐ。時に志摩国鳥羽の城主松平和泉
守兼邑(かねむら)は生年僅かに十六歳であったが、この場を見て、見苦しいことに思われ、
「方々お鎮まりなされ、方々の参集はかような場合の御用を勤めるためではありませんか。静
かに着席して、老中の指図を待ちましょう」と呼ばわつた。教養は人を欺かず、才能は早くから
芽を出す。この人は後に松平左近将監と称し、老中の筆頭にまで栄進した。とにかく会場はこ
の人に水を打たれ、ようやく静まりかけた。同時に玄関口の出入は一時禁じられた。蘇鉄の間
に伺候していた者はお払いとなる。麝香(じゃこう)の間と大広間の襖はふたたび閉ざされた。
この時将軍綱吉公は聖旨に奉答するため行水(ぎょうずい)をしていたが、御側衆の人々は
松の廊下の刃傷に驚き惑い、我も我もと言上しようとする。ところがここにも一英物があった。そ
れは柳沢出羽守保明(やすあきら)である。出羽守は同じく起居の臣僚の一人として湯殿の次
の間に控えていたが、静かにこれらの人々を制した。やがて将軍の行水が済み、髪上げも終り、
装束を着けかかる頃、出羽守は落ち着いて御前へ出て「ただいま松の廊下において、浅野内
匠頭が吉良上野介へ刃傷に及び、薄手を負わせましたが、一命にかかわるほどのことではあ
りません。取りあえず内匠頭を取り押え、上野介は介抱し、廊下の清めをしておりますが、差し
当り接待司の後役を誰に仰せつけられますか、勅使の席はそのまま白書院を用いますか、お
伺いします」と申し上げた。後に将軍の諱(いみな)の一字と松平姓を賜わり、天下の権勢を一
身に集めた松平美濃守吉保(よしやす)の人品はここに発露している。
殿中ですらこの騒ぎである。まして大下馬先(おおげばさき)には諸侯の家臣が雲霞(うんか)
のように屯(たむろ)している。誰とは知れないが殿中の刃傷が追々に伝わるや否や、いずれも
主人の身の上を気遣い、我も我もと大手門から入ろうとする。その混雑は名状も出来なかった。
御門は急に固められた。そのうち目付の鈴木源五右衛門が城中から駆けつけて来た。御門の
中央に突っ立って、「供廻りの面々鎮まってくれ。喧嘩の相手は浅野内匠頭と吉良上野介殿、
その他の方々は別条ない」と大音声で呼びかけた。なお御徒目付三、四人を駆け廻らせて、
これを触れ歩いたから、ようやくみな安堵して、秩序はここでも回復した。
やがて西湖(せいこ)の間において、老中列席のもと、下総佐倉の城主戸田能登守忠良を召
し、内匠頭に代る勅使饗応掛を申し付けた。同時に血に汚れた白書院は天朝に対して恐れ
多いとの配慮により、式場は黒書院に改められ、ここで勅答の式は滞りなく終わった。
一七 審問
吉良上野介は一刀の下に身体と首を異にするところを、梶川与三兵衛が内匠頭を抱き止め
たお蔭で、一命を助かって転がり逃げた。そして品川豊後守および坊主らに助けられて、高家
衆の詰所へと連れて行かれた。彼の日頃の驕慢にも似ず、逃げた醜態といい、負傷に気落ち
して青冷めた顔色といい、声を震わせて「医師を、医師を」と唸(うな)るばかりで言葉がなかっ
た。これを小気味よく思われたか、脇坂淡路守安照は目送(めくばせ)しながら、傍の人に向い、
「大紋が血に染ったのは珍らしくござるのう」と私語(ささや)いた。時を移さず外科の典医坂本
養貞(ようてい)が手厚い治療をほどこした。背後の傷は長さ五寸ばかりで極めて軽傷であった。
これは身を引く途端に太刀先が流れた上に、烏帽子の鉄の輪が刃を受けたので、助かったの
である。十分の手当と、傷の実体がさほどでもないと知れた上野介はホッと息をつき、次第に
元気を回復した。
一方の浅野内匠頭は是非とも敵を倒すと焦(あせ)ったが、与三兵衛にさえぎられ、多くの
人々に囲まれ、ああ万事休すと観念した。太刀を坊主の関久和に渡し「内匠は乱心してはい
ない。衣紋を繕いたいのでもう放しなされ」といい、平常心に戻った。そのまま目付の天野伝四
郎、曾根五郎兵衛らに監視されて、蘇鉄の間の杉戸の後に控え、後命が下るのを待ち受けた。
前に蘇鉄の間の人払いがあったのは、これのためであった。
そのうち当日の儀式は終わった。綱吉公は常の部屋に戻った。綱吉公は英明の大君である。
名分の一端は十分弁(わきま)えている。将軍が勅使に奉対し十分の敬意を捧げようと配慮し
た甲斐もなく、このような失態を生んだので、怒りは強烈であった。即刻双方およびその場にか
かわった者を糾問(きゅうもん)せよと命じた。そこでまず目付衆から上野介を糾問した。上野
介は老滑の狸爺だから、抜からず首尾をつくろい「上野は内匠頭に何の意趣遺恨もありませ
ん。察するところ内匠頭の乱心と存じます。殿中と申し、ことに今日の儀席と申し、大切の場所
がらと心得、急いで彼の乱行を避けようとしたために、背後に手創を蒙った次第であります」と
答えた。この取調べの内容はやがて御側の切れ者柳沢出羽守を始めとし、松平右京太夫、若
年寄衆などが時計の間に集まり、老中とともに目付から聴き取って、将軍に上申した。同時に
内匠頭の方は目付の多門伝八郎が向って、糾明を始めた。内匠頭はすでに覚悟していたの
で少しも悪びれず、「上野介より数度耐えがたい恥辱を加えられたから、遂に刃傷におよんだ。
場所がらを憚(はばか)らず、千万恐れ入る。この上はいかなる仕置を命ぜられようとも、一言も
申し上げることはない」と率直に語った。
その他上野介の同僚大友近江守は、なぜ刃傷の場に居合わせなかったかとの訊問に対し、
大切な御用の間が不在ではと配慮したからと答えた。梶川与三兵衛は、なぜ出てはならない
場にいたのかとの審問に対し、勅答が終わる時刻を聞きたかったためと答えた。
一八 裁
決
大将軍綱吉公は英明なだけに自から指示することも多い。ことに今日の出来事は事態が事
態だけに激怒も普通ではなかった。権力の下に譲らない専制君主の本色を発揮して自から裁
断し、ただちに老中に命じた。老中は奥州一ノ関の城主田村右京太夫建顕(たてあき)を殿中
に召し、時計の間において浅野内匠頭を当分お預けにすると伝えた。
同時に老中の命により、大目付の仙石伯耆(ほうき)守が吉良上野介が連れ込まれている高
家衆詰所に行き、「上野介は公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節を弁え、場所を慎しんだ
ことは称賛に値する。これによって何のお咎めもない。手疵の療養をせよとの上意である」と口
達した。そこには柳沢出羽守も来て、「上意はただいま申し上げたとおりであるから、回復次第、
前と同様勤めをされるように」と言葉を添えた。将軍の処理は残ることなく済まされ、上野介は
籠に載せられて呉服橋内の邸へと引き下った。
その他梶川与三兵衛、関久和はその場の働きが褒められ、後日与三兵衛には五百石の加
増、久和には銀子三十枚が下された。
これで当日の沙汰は一段落、内匠頭の処分は追ってのことかと思いのほか、綱吉公は時を
移さず老中を再び御前に召した。公は猶予なく「内匠頭の今日の行為、その身はことに勅使
の饗司でありながら、私の宿意をもって殿中を騒がせ、あまつさえ儀席をも汚し、公儀を無にし
たのは不届き至極である。その罪は容赦ならない。切腹を申し付けよ」と命じた。切腹となれば、
家名の断絶、城池の没収がただちに伴う。これは余りに厳しいとは、何人の心頭にも浮ぶので
あるが、将軍の命には逆らえない。列座はハッといいながら、しばらくは無言であった。
それもそのはずである。内匠頭の行為はいかにも大不敬の罪に当るが、これを犯させた原因
は上野介にある。彼は事実勅使の接伴長でありながら、誠意をもって忠勤を励まず、ついに内
匠頭とのいさかいを引き起したのであるから、十分審理を加えれば彼もお構いなしというわけ
にはいかない。まして殿中での喧嘩両成敗の規則は家康公以来の幕典として厳に存在する
のである。しかるに独り内匠頭のみの処分となれば、老中の責任も問われかねない。ややあっ
て老中の末席稲葉丹後守正通(まさみち)は口を開いた。
「上意のとおり内匠頭の行為、いかにも不届き至極ではありますが、ひたすら乱心の体にも
見受けられます。ご処分の件は今しばらく猶予されてはいかがと存じます」
丹後守の内意は、この件を発狂として処理し、罪を内匠頭の一身に止どめ、累を家国にま
で及ぼさないようにしたいという思いであった。同列の秋元但馬守喬知(たかとも)もまた「私も
丹後守と同様に存じます」と申し出、その尾について土屋相模守政直もまた「相模も同様に心
得ます」と発言した。だが、激怒した将軍の胸中には再考の余地がない。「我が心はすでに決
った。また言うな」と顔色を変えて、つとその座を起った。将軍は振り返って「丹後、遠慮には及
ばないぞ」と言い棄てて奥に入った。
やがて土屋相模守一人が呼ばれた。彼は老中のお月番、命令伝達の担当官である。将軍
は改めて「前に命じたとおり、即刻内匠頭に切腹させよ」と厳命した。ああ天日と専制君主の決
意は翻すことが出来ないのだ。
一九
内匠頭の遺言
田村右京太夫は内匠頭お預けの命を受け、留守居役の牟岐(むぎ)平右衛門に物頭、中小
姓、徒士(かち)足軽以下都合百人ばかりを付け、預り人受取のために城へ差し向けた。内匠
頭は朝服の烏帽子と大紋を着け、差し廻された駕籠に乗り移った。そのまま駕籠の引戸に錠
を下し、烏帽子、鼻紙袋、小刀、扇子などは平右衛門が受け取って従者に持たせ、平川門より
退出する。御門の外へ出れば、用意の網を駕籠にかける。これは罪人護送の掟である。こうし
て厳重に護送し、日比谷にかかって、愛宕下の田村邸に達したのは、かれこれ申の刻(午後
四時)過ぎであった。今朝までは五万三千石余の城主、朝散太夫の朝官を帯び雄風四辺を
払った一大名、午後には、「楚囚冠を外し、車に乗せて窮北に送る」の詩を読む境遇に落ちた。
図ることが出来ないのは、人間の栄枯盛衰である。
内匠頭はすでに覚悟を決めたから、何の騒ぐ気色もない。しかしながらいざという場で長蛇
を逸した遺憾は、実にやる方もない。侯は一室に入った後、静かに警護の士に向い、「家来に
ー書を送りたいが、苦しくないか」と尋ねた。この時田村家に人があれば、武士の情け、押し切
って承諾すべきであるが、一藩の上下はただ幕府の鼻息をうかがうのみとみえた。「それは上
へ伺わなければならず、今はできません」と答えた。内匠頭はジッと沈吟していたが「では一言
口上にて伝えることはできないか」と問返した。これにはいかに血のない連中でも、気の毒に
感じたとみえ「それもいかがとは存じますが一応目付衆に伝え、許可が出ればお伝えしましょう」
と言った。内匠頭は頷(うなづ)いた。警護の士は「それではお話しください」と筆を取りあげた。
内匠頭はきっとなり、憤慨にたえない語気で、「かねてから知らせておこうと考えていたが、そ
の機会がなかった。今日のことはやむをえず起ったものだ。定めて不審に思っているだろう」と
の意を述べた。そして「この件は家来の片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門に伝えてもらいた
い」と頼んだ。
内匠頭の遺言はただこれだけであるが、この簡単な数語の裏に無限の感慨が込められてい
る。しかも江戸邸には藤井、安井の両家老があるにもかかわらず、特に片岡、磯貝へ伝えたい
としたのは、前二者の凡庸、後事を托するに足らないことを看取し、後者の両人にこれを伝え
ておけば、君国を思う忠義の諸臣と共に我が意を理解してくれると考えたのであろう。「道義心
肝を貫(つらぬ)き、忠義骨髄に侵(し)む」士がこれを聞けば、誰かこの以心伝心の秘言に奮
い立たない者があろうか。後日大石以下が泣いたのは、この簡単な隠語であった。
二〇
検使の争論
殿中では、内匠頭を田村右京太夫にお預けの決定があって間もなく、目付一同を若年寄詰
所に集め、「今日の内匠頭の行為は不届き至極であり、田村右京太夫へお預けの上、切腹を
申し付けられた。これに引きかえ、上野介の振舞いは神妙であったから、医師にかけられ、投
薬を仰せ付けられた。一同さよう承知するように」と申し渡した。すると目付にその人ありと聞え
た多門伝八郎は進み出て、「上意ではござりましょうが、内匠頭はかりそめにも五万三千五百
石の城主、ことに本家は大身の大名でござる。お預けそしてただちに切腹とは、余りにお手軽
な判断と存ずる。この件は大目付ならびに私ども目付が立会い、再度糾明したうえ処分された
く愚考します。それまでは相手の上野介にも謹慎を命じるのがしかるべきで、今日の御称美は
余りにお手軽にすぎます」と憚(はばか)ることなく直言した。
彼は先刻から上野介のために盛んに庇護の労を取りつつある柳沢出羽守の言動を不満に
思っていたので、強くこの語を発したものとみえる。果せるかな、その語は出羽守の胸板に的
中した。出羽守はムッとして座を立ったが、たちまち伝八郎には差控えを命ずるとの上命が下
った。しかし老中の多数は伝八郎と同意見であるから、内からも疑問の声が上がり、時を移さ
ず差控えは取り消された。続いて大目付荘田下総守、目付多門伝八郎、大久保権左衛門は
内匠頭に対し、切腹の申渡しならびに検使の役が命じられた。ここに至れば諸老中と同様、君
主の意向には逆らえない。伝八郎は即時に大検使および検使とともに、御徒(おかち)目付磯
山武太夫以下十人の属僚を従えて、芝の田村邸へと臨んだ。
この間に一件解説を要するのは、当時の幕廷内に権勢派と非権勢派があったことである。す
なわち一方は柳沢派で他の一方は無論非柳沢派である。これは公然と派が結成されたもので
はないが、めいめいのうちには自然対立する。今日の大検使荘田下総守は前派に属し、検使
多門伝八郎および大久保権左衛門は後派であった。下総守は両副使に先だって主人右京
太夫に面会し、上意のあるところを伝え、内匠頭切腹の準備を命じた。その命令には「お預け
の内匠頭は、将軍の逆鱗(げきりん)に触れたため、一般の侯伯に死を賜う時の法にはしばら
れない」との私意を添えた。彼の心づもりはこれでわかる。
田村家はその意を体して、にわかに小書院前の白洲に蓆を延べた。その上に畳を敷き、ま
たその上を毛氈で覆い、その周囲に幕を張り巡らした。準備は立ちどころに整った。「いざご見
分を」との主人の案内に、三使が臨み見ればこの体である。伝八郎はたちまち見とがめ、「今
日のお預け人は一城の主である。ことに武士道にかなった仕置を命じられた人を無位無官の
徒輩(やから)と同様、庭で切腹とは、武門の作法にあるまじき礼儀と存ずる。いかなる考慮で
かようなしつらえになったのか」と問い掛けた。右京太夫が返答に窮するのを下総守は引き取
って、「これで差支えはない」と打ち消したが、伝八郎は承知せず、
「武門の作法にあるまじきことを差支えないとは奇怪千万、さらばこれより拙者は拙者の考え
を奏上し、下知を待ちます」という。下総守は色を変え、
「今日大検使の役は拙者である。拙者が差支えないと申すのに、要のない差し出口は控えら
れたい」と言い放った。
二一 主従の決別
内匠頭の家臣で内証用人兼児小姓頭(こごしょうかしら)である片岡源五右衛門高房は、今
日主君の登城に従って、大下馬先で供待ちをしているところに、殿中の凶変が紫電のように伝
って来たので、浅野家の一大事、片時も猶予できないと、汗馬に鞭打ち鉄砲洲邸に馳せ帰っ
た。事変を藩中に伝えたのち、筆を取って報告書を書き、これを赤穂への第一便に托するな
ど、機敏な働きをした。どうしても主君の身の上が懸念に堪えないので、さらに芝の田村邸に
駆けつけ、主君お預け後の処分を尋ねた。すると同邸の藩士は「お気の毒ながら内匠頭殿に
はお預け間もなく切腹の命が下りた。さきほど遺言の趣旨を書取り、検使の許しも得ているの
でお伝えしよう」と、前の書き取りを見せた。この時源五右衛門の心情はいかがであったろう。
彼はしばらく黙考したが、ややあって取次ぎの士に向い、「私はこれまで主人の左右に近侍し
てした者でござる。重いお仕置の場に恐れ入った次第ではあるが、主従の暇乞いにただ一目
主人に面会いたしたく存ずる。お許しいただけるよう、折入って取次ぎを願う」と申し出た。
取次ぎの士も断り難く、主人の右京太夫に取り次いだ。右京太夫もさすがに断りかねて、大
小検使の控の間に入り、「ただいま内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者が、お別れに、一目
内匠頭を見たいと願い出ているが、いかが取り計らいますか」と問うた。あたかもこの時大検使
荘田下総守と検使多門伝八郎との間に、内匠頭切腹の場について意見の衝突を来たしたとこ
ろであった。豪邁(ごうまい)の伝八郎はこれを聴くや否や「それは苦しくない。武士の情け、拙
者は聞き届けおく」と言いながら、大検使を顧みて「下総殿はいかが思し召す」と問う。先刻か
らの議論、伝八郎の主張が正理である。それをやっと大検使の職権で圧伏したところに、今ま
たこれも駄目と遮ったら、伝八郎は一層激昂し、いかなる大議論になろうとも計れない。のみな
らず、切腹場の当否を老中に訴えて、極力争いかねない意気込みであるから、下総守は苦り
切って、「貴殿の了簡どおりになされ」と言った。伝八郎は無論のことと言わぬばかり、「早く面
会を」と促した。
*
* * * *
ただ看る。田村右京太夫の庭の縁先に、裃を着て福草履を穿(は)いた一個の凛然たる士が
平伏した。するとまた一個の貴族はその縁先まで立ち出た。問うまでもなく、上の人は内匠頭、
下の者は源五右衛門である。源五右衛門は主君の顔を一目視るなり、胸が塞がり、せき来る
涙を止めかね、ハッと再び平伏した。内匠頭もまた悲喜交々至り。「よく尋ね参ってくれた」とた
だ一言、後に続く言葉もない。源五右衛門はやや顔を上げると、内匠頭もまた懐しげに見下ろ
した。両者の目と目が合った。主君は語らず、臣言わず、傍の人々も皆声を飲んだ。もとより長
時間の会見は許されないので、源五右衛門は万億の恨みを遺し「み心静かに……」との意を
こめて拝別し、悄然(しょうぜん)として庭を辞した。
附言 この場については俗説紛々し、一、二に止まらない。「由良之助はまだ来ないか」「い
まだ参上しません」などは、論外だが、世には内匠頭と源五右衛門の惜別の際、後事の
依頼から復讐の命まで伝えたとするものがある。これも伝奇小説者流の偽造である。
二二 内匠頭の切腹
やがて検使は大書院に入って来た。荘田下総守を上座に、大久保権左衛門、多門伝八郎
が続いて着席し、主人田村右京太夫は少し離れて座を占めた。時はすでに酉の上刻(午後六
時)、さすがに永い春の日も暮れようとする。天気は依然陰々としており、夕もやさえ出てきた。
悲惨な光景は言いようもない。内匠頭はこの時小袖の上に常用の裃を召し、御徒目付に左右
を囲まれて、物静かに出て来た。遥か末座に平伏する。下総守は、「浅野内匠頭」とまず姓名
を呼んだ。
「その方、今日殿中において、場所柄を弁えず、自分の宿意をもって、吉良上野介に刃傷
に及んだ。将軍はこれを不届きに思し召された。これによって、切腹を命じられたものである。」
と上意の趣きを申し渡した。内匠頭は慎んで一礼し、「今日の不調法、いかようにも処されると
ころ、切腹を仰せ付けられ、ありがたく存じ奉りまする」と受けた。
ついで内匠頭は辞を改め「さてお目付衆に伺いますが、上野介はいかがなりましたことか。
私が切り付けました傷はたしか二か所と覚えますが、見分なされましたか。承わりとう存じます」
と、気遣わしげに尋ねた。大久保、多門の両検使は最初から内匠頭に同情しているので、この
際せめて彼の臨終を安らかにしようとの意向は、期せずして同じであったから、両使はいずれ
も口を揃え、「申されるとおりいかにも傷は二か所であった。何れも浅手ではあったが、上野介
は老人の事、ことに急所であったから痛みははなはだしく、重態に陥っている。一命のほどは
覚束ないようだ」と話した。内匠頭は嬉し気に、眼中に涙をたたえながら、にっこり笑ってうなず
いた。
障子はさっと開かれた。内匠頭は歩を移し、庭上の設けの席へ着坐した。用意はことごとく整
っている。中小姓一人が小刀を載せた三宝を捧げ出て、内匠頭の前へ差し置いた。内匠頭は
再び検使に向い、「この際一つお願いがござります。拙者の差料の刀で介錯されるようお許し
下されまいか。それを許して下さるなら、記念として刀は介錯の方に進ぜようと存じます」と申し
出た。伝八郎はまた引き取り「ごもっともの御願い。苦しうござらぬ。ここへ取り寄せよ」と属僚の
人々に命じた。
太刀を取って来る間に、内匠頭は料紙と硯を求め、筆を取りあげて、愁然として沈吟しつつ、
やがて
風さそう花よりもなお我はまた、春の名残をいかにとかせん
と一首の辞世を書き残した。そのうちに太刀は取って来られ、当日の介錯人磯田武太夫に渡
された。準備はことごとく整った。内匠頭は騒ぐ色もなく、検使の方に目礼し、肩衣をぬいで肌
を押し広げた。小刀を手にする時、後に回った武太夫の太刀は春風を斬ると見る間に、哀れ
身と首は二つになった。三十五歳の一君侯、山桜に先だってこの春を辞した。検視は終る。蒲
団がかぶせられる。白地の屏風が周囲に立ち回される。遺骸は近親が引き取るようにと、下総
守の差図であった。
金鱗(きんりん)の首尾を振り、急流に逆(さから)って竜門に遡(さかのぼ)る鯉も、一たび俎
上(そじょう)に載せられれば、首を伸べて刀を待ち、動こうともせず、跳ねようともしない。その
名を惜しむ武夫(ますらお)の最後もまたこれと同じである。さすがは名家の嫡流内匠頭、従容
として死につき、武士の面目をまっとうした。
附言 市民は武門の作法を知らない。内匠頭が殿中にて帯し、上野介を切りつけたのは小
刀(ちいさかたな)であり太刀ではない。そして介錯に用いるのは太刀で、小刀でない。内
匠頭が介錯を差料の刀でと求めたのは、その人の太刀のことである。これらの区別を知ら
ないから、市井の俗書には、内匠頭が上野介に太刀で切り付け、あるいは切り着けた小
刀で介錯をと請われたように書き立てている。物を知らないことはなはだしい。
二三 荘田下総守の罷免
さて鉄砲洲邸では、君侯殿中の刃傷から、田村家にお預け、続いて切腹との命が内外から
一時に聞えたので、譜代恩顧の家臣らはただ憂慮に暮れて控えているところに、夜になって、
田村右京太夫から大学宛に通知が来た。「浅野内匠頭はただいま私宅において荘田下総守
殿、大久保権左衛門殿、多門伝八郎殿立合いの上、切腹された。死骸は近い者に遠慮なく
引き渡すよう命じられた。都合のつき次第早々にお引取りされたい」との意味であった。さては
いよいよ兄上は切腹、君侯は生害と、一同悲嘆の涙をふるいつつ、本邸から用人糟谷勘左衛
門、留守居建部喜六、内証用人片岡源五右衛門、小納戸中村清右衛門、田中貞四郎、磯貝
十郎左衛門のただ六人、僅かばかりの雑卆を連れて、田村邸に急行した。これは公儀をはば
かっての遠慮である。一行はやがて亡主の遺骸を受け取り、悄然として棺に付きそい、浅野家
の香華院である泉岳寺に送った。そして南面する丘上の地に薄命の主君を葬った。墓石には
「冷光院殿前(さきの)少府朝散太夫吹毛(すいもう)玄利大居士」と記された。
この夜片岡、磯貝の両士は悲憤やる方なく、言い合わせたように自分の髻(もとどり)を断ち
切った。言うまでもなく、亡君に殉死する決意を表したのである。しかしいたずらには殉死しな
い。主の讐(あだ)を返して殉死する意図であったことは後年の挙によって知る時があろう。もっ
ともこの際髻を切ったのは、片岡、磯貝の両士ばかりではない。同じく送葬の供に立った田中、
中村の二人もまたこれにならった。この瞬間には同じ念で殉死の覚悟をしたのであろうが、人
世の危険は山になく、川になく、人情反覆の間にある。後年の一挙を発するにあたって、後の
二人はもはやその列中にいなかった。
*
* * * *
今回の内匠頭の行動が大不敬であることは、もとより免がれない。しかしながら土間での切
腹とは、士庶人の取扱いである。さすがは大諸侯、浅野家の宗藩松平安芸守綱長朝臣はこれ
を聞いて立腹した。翌十五日安芸守は専使を田村右京太夫の邸に送り、「昨日内匠頭不屈き
につき切腹を命じられたことは、恐れ入る次第であるが、庭上において行われたとは、どこから
の差図であろうか、承わりたい」と書面をもって申し入れた。昨日の多門伝八郎の抗議といい、
また今日のこの書面といい、いかにももっともな道理であるから、田村邸では面食らった。「そ
の件は荘田下総守殿の内意を得てしたこと、無論老中の差図とは心得ますが、一応確かめた
うえでご返事する」と、そこそこに挨拶し、専使を帰した。右京太夫は即日書状を持って幕廷に
伺い出た。
すると老中はもっての外と考え、翌十六日老中秋元但馬守を始めとし、若年寄諸侯列座のう
え、荘田、大久保、多門の三検使を呼び出した。但馬守は三使に向い「貴殿らは何に拠って
内匠頭に士庶人の取扱いをしたのか」と糾明した。この時荘田下総守は前日の勢はどこへや
ら、もじもじして、その言語すら曖昧に「えーその件は全くもって心着きませず、うかといたし…
…」など言い紛(まぎ)らそうとする。それみたことかと大久保権左衛門、多門伝八郎の両使は
前に出て、「ただいま下総守は心着かれなかったと申されますが、その実私ども両人は、庭上
での切腹はいかにも不都合と存じ、下総守に向い、これを争いましたところ、下総守は私ども
の申し出を押えられ、庭上においてすることを至当と主張されました。上官の差図やむをえず、
私どもは黙止した次第であります」と、当日の真相を暴露した。下総守は一言の申し訳なく、恐
れ入って退出したが、同月十九日に至り、下総守は不束(ふつつか)のかどにより大目付つま
り大監察の役儀を罷免された。このところは権勢党の大凹(へこ)みであった。
*
* * * *
これと同じく田村右京太夫の宗家仙台の太守松平陸奥守綱村朝臣も、また右京太夫が武門
の作法をも、武士の情けをも知らず、内匠頭に対し冷酷な待遇をしたことを浅ましく感じ、伊達
家の面目を損う者と憤った。一年有余面接を許されなかったとのことである。
二四 浅野家の処分
内匠頭の切腹についで、さらに同日行われた浅野家に対する幕廷の処分を見ておこう。
この日内匠頭登城の供廻りに立った家臣らの一部は城内に入り、残りの大部は諸家の供廻
りと同じく大下馬先に控えていた。そのうち殿中においての刃傷、対手は浅野、吉良両氏であ
ると、この下馬先へも伝わったから、すわ当家の一大事と浅野家家臣は大手門前へ馳けつけ
た。しかし一人も入ることを許されない。そのうち主人は田村家へお預けになる。城内で主を待
っていた家臣らも退出を命ぜられて引いて来る。主を失った家臣らはすごすごと鉄砲洲へ帰
った。
内匠頭に代って臨時饗応掛を命じられた戸田能登守は勅使、院使の退出前に接伴の用意
をせよとの公命を受けたから、即刻伝奏屋敷に馳(は)せ向った。伝奏屋敷の装飾から器具万
端まで、すべて饗応掛の家の什器を使うのが例であるから、即時に浅野家が備え付けた屏風
幔幕の類一切を撤去して、たちまち戸田家の物に取り替えた。この間に目覚ましかったのは、
浅野家の家臣原惣右衛門元辰の働きであった。時に惣右衛門は足軽頭として家人の護衛を
してこの屋敷にいたが、撤去の命を受けるや否や、いつどこで用意しておいたか、あっという
間に藩の舟印を付けた軽舟を幾艘となく道三橋の下にもやい、秩序を乱さず、主家の道具を
積み込んだ。その神速さに戸田家の主従はことごとく感服した。
*
* * * *
この日の将軍家の厳命は実に猛烈を極めた。饗司は替えられる。浅野侯は預けられる。続
いて切腹は命ぜられる。これについで内匠頭の弟浅野大学を評定所へ召し、溝口摂津守から
「内匠頭の今日の殿中での刃傷は不届き至極につき、田村右京太夫へお預けの上切腹を
命じられた。これによって領地は召し上げられ、その方には閉門を命じられた」
と口達された。これは第七回の項にあるとおり、当時内匠頭にはまだ真の世子がなかったので、
大学が仮の世嗣ということになっていたからである。なおまた幕廷は一方で目付の天野伝四郎
と近藤平八郎を鉄砲洲邸に派遣し、両三日中に屋敷を引き払えと申し伝えた。また一方では
内匠頭の同族戸田采女正および浅野美濃守を同じく同邸に向わせ、幕府の意志を伝えさせ
た。これはこの際家中がもし騒擾するなどのことがあれば、その累はひとり赤穂の一藩のみに
止まらず、浅野家本支の一家一門に波及する旨をさとし、平静を保たせる用意であった。
同時にまた厳命は一門の方々へも伝えられた。
大垣城主
戸田采女正氏定(うじさだ) 長矩の従弟(いとこ)
大垣支藩
戸田弾正忠(だんじょうのすけ)氏成 長矩の再従弟(またいとこ)
前三次城主 浅野式部少輔(しきぶしょうゆう)長照 長澄の義父
現三次城主 浅野土佐守長澄 長矩夫人の生家
旗本寄合衆 浅野美濃守長恒 大石頼母の長男、長直の養子別家
旗本寄合衆 浅野左兵衛長武 大石頼母の次男、長直の養子別家
旗
本 内藤伊織忠知(ただとも) 長矩伯父
旗
本 安部丹波守信峰(のぶみね) 長矩従弟
旗
本 安部小十郎信方
以上はいずれも「遠慮」を命じられた。
まだこれだけでは収まらなかった。領地召上げ、屋敷立退き、いわば青天霹靂(へきれき)の
命令だから、藩の士衆がいかなる動きをみせるか知れない。それでどこまでも一門の大名に連
帯責任を負わせ、無事に落着させようとする周到な用意と見えて、親族の戸田采女正へは屋
敷受取りを、宗家の松平安芸守へは立退きの実行を命じられた。両家のものは恐縮せざるを
えない。戸田采女正は物頭に士卒百五十余人を添えて、鉄砲洲邸の近傍に屯して、外から
引払いを監視しさせた。松平安芸守は家老豊島安右衛門に士卒二百余人を引率させて屋敷
に乗り込み、立ち退きを催促させた。内匠頭家中の周章狼狽は想像するにも余りある。
二五 鉄砲洲邸の立退き
この湧(わ)いて出た騒動のために、浅野家の惨状は言語では言い表せない。外では今夕
内匠頭が切腹されるというに、内では鉄砲洲の上邸と赤坂の下邸を合わせて召し上げられる。
その間にただ僅かにこれまでどおり下しおかれたのは、大学が現住している木挽町の別邸の
みである。一家中は上下ともに途方に暮れたが、さすがは名藩だけに、江戸詰の諸士中にも
原惣右衛門、堀部弥兵衛、同安兵衛、奥田孫太夫、同貞右衛門、村松喜兵衛、同三太夫、
片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、富森助右衛門、赤垣源蔵、大石瀬左衛門、早水藤左衛
門、萱野三平など、忠義骨髄に徹する人々を欠かない。各々必死となって物情を鎮めた。ここ
にも屋敷の裏に多数の舟を用意し、主家の重宝什器を始め、思い思いに家中の財産家具を
積み、一々番号の札を付けて運搬させたので、さほどの混乱もなく、その夜のうちに片着いた。
浅野安芸守の家老豊島安右衛門はその後を引き受けて部下を指揮し、内外残る隈なく掃除
し、やがて戸田采女正より派遣された物頭の一隊に邸を引き渡した。今朝までは相並んで、君
家の御用を勤めた同家だが、今夕は親族を頼り、縁者を求め、名残惜しげに屋敷を見返りつ
つ離散して行く。栄枯一朝に地を変えるとは、この場合をいうのであろう。
* * * * *
ここにもっとも傷(いた)わしかったのは、内匠頭の奥方、後の瑶泉院殿であった。この数日内
匠頭は鬱々として楽しまず、ことに今朝は登城に臨み、顔色ことに常ならず見えた。奥方はこ
れを見て一方ならず気遣い、日頃夫婦の交情勝(すぐ)れて睦ましいから、女性の優しい心で
慰めれば思い返される節もあろうかと、侯を奥から送り出し、「果敢ない女の心とて、お笑い遊
ばしましょうが、今朝のご登城がどうも心に懸かり、胸安からず思われます。御用がお済みにな
れば、早うお帰り下さり、今日の物語を楽しく伺いとう存じます」と話された。だが、これが一期
のお別れとなってしまった。日もすでに正午の頃、大学が色を変えて奥に入って来て、
「大事件が出来ております」
奥方ははっと思われた。
「それはまたいかような事で」
大学は息をつぎ、
「内匠頭は殿中にて刃傷に及ばれ、それがため田村右京大夫殿にお預けになられたとのこ
とです。それにつきただ今老中より通知があり、邸の一同心得違いがないよう申しつけられて
おります。姉上始めお騒ぎなさらないよう申し上げようと存じ、とりあえず参上した次第です」と
語った。
こういう大学こそ大あわての体であった。奥方はきっとなり、
「してそのお相手はどなたですか。またそのお相手はその場にてお果て遊ばしたか」
大学はグッと詰まった。
「そこまではまだ聞いておりませんが、とにかく老中の命令でありますから、屋敷一統騒がれ
ないよう伝えるために参ったのです。」
これを聞かれた奥方は口惜しく、大学氏の面をじっと視つめた。そして、
「大学様は内匠頭の舎弟ではありませんか。ただいま兄上様の大事に、相手のどなたかも聞
かず、またその相手の生死も質(ただ)さず、たとえ老中の命だとて、ひたすら手を束ね、鎮撫
の仰せのみを承(うけたま)わること、この身には口惜(くちお)しうございます」と語った。大学は
恥しめられ、手持ち不沙汰に退出した。これより奥方は終生大学と親族の交際を断ち切ったと
いうことである。
二六 瑶泉院の賢行
内匠頭の内室は大学を帰したのち、じっと深い物思いに沈んでいるうちに、目付の天野伝四
郎、近藤平八郎が邸に来て、内匠頭の切腹、邸の引払いを伝達した。続いて宗家松平安芸
守からは邸引渡しの人数を向ける。親族戸田采女正は邸受取りの一隊を繰り出す。女性に取
っては消えも入りたい場合であった。だが内室は少しも乱した様子はなく、甲斐甲斐しく老女
腰元に差図し、それぞれ奥の重宝什器から手回りの調度などを取り片着けさせた。やがて腰
元の一人に懐剣をと命じた。腰元ははっと驚き、いかがしたものかとうろうろする。内室は物静
かに、「別に驚くほどのことでもない、早く早く」と促す。主命はもだしようもないから、それへと
懐剣を捧げ出た。その時内室はもの静かにお髪(ぐし)をさされ、
「この髻からフッツリと断ち切ってくれよ」
と思い込んで言いつけた。腰元はいよいよ驚き惑い、「そのお髪にどうしてこのお刀が当てられ
ましょう。お里方にお戻りの後に、お切りになっても遅くはないでしょうに」と辞を尽して止めた
が、内室の決意は巌のように固かった。
「遅かれ早かれ切る黒髪、せめては殿ご生害の今夕に」
と急いだ。今は止めようもない。
「それほど仰せられるなら」
と傷(いた)わしさ愛(いと)おしさに、両眼よりふり落ちる涙とともに切り落して、そのままそこに
臥した。ああ切られたものは黒髪であるが、切れないものはその真情であった。内匠頭終天の
遺憾を思いやり、この讐(あだ)を返さなければという心は前に大学を恥かしめた辞(ことば)の
裏にも見えたが、髪を断って夫に殉じ、氷雪の強い節を示されたのは、さすがに内匠頭の内
室であった。
最初に述べておいたとおり、この内匠頭の内室は同族三次の城主浅野因幡守長治の息女
である。そうして当時の三次侯は土佐守長澄であった。その邸は青山にある。内匠頭の内室
はそこに帰らなければならない。極めて質素な供の用意を整え、内室は静々と立ち出でて駕
籠に乗った。その戸を締めるまでは、一糸乱れずにいたが、鉄砲洲の邸を離れてから、青山
の邸に達するまで、四辺を忍んですすりあげる声は絶えなかったという。
附言 同月十八日付宗藩在府の寺尾某、戸辺某から在広島の沖某への文通に、「内匠頭
の奥様は式部様へ引取りなされた。ことの外のご愁傷であったそうだ。名も替えて、寿昌
院とされた」とある。式部様とは土佐守の養父長照のことである。この時なお二十八の芳
紀をもって、永く寡婦の身となられた気高い貴婦人の人格が察せられる。寿昌院は後に
瑶泉院と改められた。
二七 赤穂城没収の準備
江戸における浅野家の処分は一日で結了した。これからが赤穂城池の取上げである。同夜
老中土屋相模守は内匠頭の近親戸田采女正を邸に召し「今般内匠頭の領地を召し上げるの
で、同家中は勿論、領内の者一般に至るまで、心得違いのないよう諭(さと)し、城池とともに所
領の御朱印を返上し、兼ねて国絵図ならびに郷村目録および城中備付の武具一式をそのま
ま差し出すように」と達した。「ただし浅野家に属する武具家財はお構いなし」とのことである。
およそ封建の世においては、諸侯にとって一番大切なものは国城である。それで藩侯が江戸
在府の際には、重臣を城代として本国の城を守らせる。ゆえにその城代は、たとい幕府からの
命令があっても、藩主の命令がなければ、容易に城を開け渡すものではない。しかるに赤穂
の城主は既に切腹を命じられたから、近親の采女正に代って開城を諭せと命じたのである。
手もなく采女正は説得使の役目なのだ。
采女正は第一回には番頭(ばんかしら)戸田源五兵衛、植村七郎右衛門を両使とし、赤穂
に派遣したが、これではなお心もとないところがあったか、第二回にはさらに重臣中から、家老
戸田権左衛門に物頭(ものがしら)の杉村十太夫、使番(つかいばん)の里見孫太夫、鹿野治
部右衛門、八田彦太夫を添えて、同地に向わせた。
これと前後して浅野の宗家、松平安芸守にも同じ老中土屋相模守から内達があったので、こ
れも第一回には先手(さきて)の小山孫六(大石良雄の伯父)、第二回には馬廻の太田七郎右
衛門、第三回には用人の井上団右衛門、持筒頭(もちづつがしら)の丹羽源兵衛、西川文右
衛門を差し向け、これと同時に見届けのためとして、安芸守の家老浅野甲斐は内藤伝左衛門、
海野金七郎を、同じく家老上田主水は野村清右衛門、米田定右衛門を、同じく家老浅野伊織
は八木野右衛門、長束平内を派遣した。
そのほか同族浅野土佐守もまた同様の命を受けて、第一回には持筒頭徳永又右衛門、第
二回には内田孫右衛門を下向させた。その他同族浅野美濃守、浅野左兵衛からもまた家臣
を続発した。これらはみな説得使の役である。
以上のように幕廷は一方には親族の情誼上から攻めつけて、城池取上げの無事を期しつつ、
他の一方では公儀の権威を正面から実行しようとして、事変の翌日の三月十五日に、播州竜
野の城主脇坂淡路守安照、備中足守の城主木下肥後守利康を殿中に召し、老中列座のうえ、
月番の土屋相模守から、赤穂城召上げにつき、現地に向って城池を受け取り、なお受け取っ
た上は、淡路守の手によって当分警戒に当たるよう口達した。竜野と赤穂とは接近の土地柄
だからである。この一事に見ても、当時にあってはいかに城地の受授が大切であったかが知
れる。この両侯は受城正使の役目である。同日また殿中の山吹の間に目付の荒木十左衛門、
日下部(くさかべ)三十郎を召し、若年寄列座のうえ同じく赤穂城受取りの命が伝えられた。こ
れは受城副使の任務に当るものである。このうち日下部三十郎は内匠頭と由緒ある旨を申し
立てて、その任務を忌避したから、後日改めて榊原采女に替わった。この正副四使のほかに、
岡田荘太夫、石原新左衛門の両氏を郡代として派遣した。領内四郡の民政を司るためである。
以上公私の諸掌司は少なくとも十人余、多くは百、二百の士卒を率いて、赤穂の一地に四
集するのであるから、実に天下の視聴を聳(そび)えさせる。こればかりではない、播州浅野は
小名とはいえ、中国路に聞えた名藩である。城を引き渡せと迫ったら、忠義の家臣らが憤激し
て騒動を激発する恐れがあったので、さらに隣国の諸侯に命じて、軍隊を国境に繰り出させて
万一の変に備えた。備前岡山の城主松平伊予守は津田左源太に六百余人を与え、播磨と備
前の国境である虫上(むしあげ)に陣取らせた。讃岐高松の城主松平讃岐守は家老大久保主
膳にこれも一隊の兵を付け、兵船三十艘で四国路より押し寄せた。これらを始めとして阿波徳
島の城主松平淡路守、讃岐丸亀の城主京極縫殿介(ぬいのすけ)、播磨明石の城主松平左
兵衛督(かみ)、姫路の城主本多中務大輔(なかつかさたいふ)もまた旨を奉じて、あるいは陸
から、あるいは海から、いずれも数百の兵を発して、鎮圧に従事した。当時幕政が行き届いて、
一つの遺算もなかったのは、感ずるに余りある。それほどの天下の大問題であった。
古くから「家貧しゅうして良妻出で、国乱れて忠臣現わる」という。この一藩の大変に際し、こ
こに端なく一人の英雄が出現した。
二八 大石家系
赤穂の開城から亡君の復讐に至る一挙の顛末(てんまつ)を述べるに先だって、一挙の統領
内蔵助良雄の家系と良雄の人となりをみておく必要がある。大石氏の家は鎮守府将軍藤原秀
郷(ひでさと)から出た。その子孫は代々近江国栗太郡(くりたごおり)大石の荘を領して、ここ
に住んだから、大石氏を称えることになった。室町時代には将軍家に従って、忠勤を励んだが、
応仁の乱に一家ことごとく戦没した。それで大石の荘民どもが主家の断絶を嘆いて、同宗同族
の一人小山久朝(ひさとも)という人を迎えて、大石の家を再興させた。それからまた数代して
大石内蔵助良勝(よしかつ)に至った。良勝は幼少の頃男山八幡宮の宮本坊の弟子となり、
法師にされるところであったが、つとに有為の志を抱いていたので、頭髪を剃って袈裟を着け
ることを欲しない。十四歳の時に、宮本坊を逃走して江戸に出て、十八歳の時赤穂侯の祖浅
野采女正長重(ながしげ)に仕えた。元和元年大阪夏の陣には、采女正に従って、城将毛利
豊前守の兵と戦い、力戦して首二級を獲たほどの剛の者であった。采女正はこの人を深く信
任し、禄千五百石を与えて、城代家老に抜擢(ばってき)した。良勝は侯家に従い赤穂に移っ
た。これが大石家近古の祖先である。
良勝には数子があり、もっとも聞えたのは長子内蔵助良欽(よしすけ)、次男頼母(たのも)
良重である。良欽の長子を権内(ごんない)良昭といった。この良昭の嫡男がすなわち内蔵助
良雄である。それで家系の伝統を数えれば、
内蔵助良勝――内蔵助良欽――権内良昭――内蔵助良雄
となる。
さて良雄の父権内良昭は備前の池田侯の家老池田出羽由成(よしなり)の息女を納(い)れ、
三人の男子をもうけた。長は内蔵助良雄、次は大西坊専貞(せんじょう)、次は良房といった。
そうして権内は父内蔵助良欽の私設秘書として在世中、延宝元年九月六日、三十四歳で早
世した。これから徐々に内蔵助良雄のことに説き及ぶであろう。
内蔵助良雄は万治二年赤穂で誕生した。十五歳の時、すなわち延宝元年に先に述べたと
おり、父権内は早世した。当時の制度として家督相続は父子相伝になっており、祖父からただ
ちに孫に伝えることは出来ない。それで良雄は良欽の真孫であるが祖父良欽の養子ということ
になった。それからまた四年を経て、良雄十九歳の時、すなわち延宝五年正月二十六日、内
蔵助良欽は享年六十歳で歿したので、家の通称を承け継ぎ、内蔵助良雄(よしたか)と称し、
城代家老の要地に立ったのである。
ついでに述べておくと、良雄の次弟は祖先の縁故により、男山八幡宮の大西坊に入り、専貞
と称していたが、兄の快挙に先だつこと四年、元禄十一年八月二十二日同坊で死去した。ま
たその末弟良房は早世して、その伝を留めない。
二九 大石一族
大石内蔵助の一族がいかに名門であったかは、元禄十四年七月、内蔵助が赤穂から山科
に移住した際、地方の奉行に届け出た親類書で知ることが出来る。
親類書
一 養父
大石内蔵助
故浅野内匠頭に知行千五百石取の家老役を勤めていたところ、二十五年前の巳年に
病死。
一 養母
鳥居左近娘
左近は水戸中納言に合力米を受け、江戸住まいであったが、四十年前の寅年に病死。
養母も十四年前の辰年に病死。
一 実父 上の大石内蔵助伜
大石権内
故浅野内匠頭に合力米二百石取の無役であったが、二十九年前の丑年に病死。
一 実母
池田出羽娘
出羽は松平新太郎に知行三万三千石で仕えていたが、二十六年前の辰年に病死。
(実母の記述不明)
一 父方伯父
小山孫六
松平安芸守に知行三百五十五石で、先手の弓頭を勤めている。
一 父方伯父
小山源五左衛門
浅野内匠頭に知行三百石で、先手の鉄砲方を勤めていたが、当年四月浪人となり、今
は伏見に住む。
一 父方伯父
大石平内
松平讃岐守に知行三百石で仕え、現在は無役。
一 父方従弟
進藤与四郎倅
進藤源四郎
浅野内匠頭に知行四百石で先手の鉄砲方を勤めていたが、当年四月浪人となり、今は
山城州山科郷西之山村に住む。
一 父方従弟
進藤与四郎倅
進藤瀬兵衛(せひょうえ)
松平安芸守に知行三百石で騎馬頭を勤めている。
一 養母方従弟
鳥居瀬兵衛倅
鳥居瀬兵衛
水戸宰相に知行千石で書院番頭を勤めている。
一 養母方従弟
池田主水倅
池田玄蕃
松平伊予守に知行三万三千石で勤めている。
一 養母方従弟
池田美作倅
池田左兵衛
松平伊予守に知行三千石で小仕置役を勤めている。
一 養母方従弟
池田佐渡倅
池田七郎兵衛
松平伊予守に知行二千石で小仕置役を勤めている。
一 養母方従弟
池田美作倅
池田長左衛門
松平伊予守に知行三百石で勤めているが、現在無役。
一 実母方従弟
岡田竹右衛門倅
岡田竹右衛門
松平周防守に知行三千石で、仕置役を勤めている。
一 故主 浅野内匠
一 宗旨 禅宗
一 本国生国とも 播州赤穂
上記のとおり相違なく、このほかに親類はない。私は浅野内匠頭方に知行千五百石で家
老を勤めていたところ、この四月に浪人し、山城州山科郷西之山村の郷侍、進藤五郎右
衛門の家屋敷に住む。内匠頭に仕えていた時も大石内蔵助と称していた。
元禄十四巳七月
大石内蔵助 花押
巳四十二歳
附言 泉岳寺の碑面に刻んだ内蔵助の没年四十五歳から推せば、この年は四十三歳でな
ければならない。しかしここには、間違いなく四十二歳とある。
三〇 妄説(もうせつ)
内蔵助の素性についてここに一言しておかなければならないことがある。それは『大石記』
および『準縄(じゅんじょう)録』が、内蔵助は備前池田侯の家老池田玄蕃の弟であり、三歳の
時に大石家の嗣子となったという妄説を伝えたのに始まり、『赤穂義士見聞雑記』には、玄蕃
の次男池田喜内が十九歳の時に、大石頼母(たのも)の養子となったのがすなわち内蔵助良
雄であるという。前書と後書との間に、一は玄蕃の弟といい、一は玄蕃の次男というのみならず、
養子になったのを、一は三歳の時といい、一は十九歳の時という。これからしてすでに可笑
(おか)しいのである。
が、これらの妄説のよって出た理由を考えると、手もなく分かる。それは元禄の快挙が実現す
るや否や、内蔵助の名声は海内(かいだい)に広まり「内蔵助は大石家の養子であるそうな。
その母は池田氏とのことよ」と取りはやす。通信機関の備わらない当時のことであるから、これ
より以上には知りにくい。そこで市井の似而非(えせ)作者は想像した。しかも彼らが知る範囲
で想像した。前代播州でもっとも世に聞えたのは大石頼母で、備前の国老は池田玄蕃である
から、直ちに池田家の出身で、頼母の養子と速断したのである。
しかしながらこれは第一に、養子といえば、その父早世のために祖父内蔵助の養子となった
のを知らないからである。第二には内蔵助家と頼母家の別を弁えないからである。前にも書い
たとおり、内蔵助家は代々内蔵助で、内蔵助良勝、内蔵助良欽(よしすけ)などと称したのでも
分かる。同苗の頼母良重は別家である。この人は新知千二百石を賜わって、家兄内蔵助良欽
と相並んで家老に上げられた器量人である。良雄がもしこの人の養子になったのなら、内蔵助
とならず、頼母良雄とならねばならない。実に大きな誤りである。そうして良雄が内蔵助家の嫡
孫であった事実は、本人の手になった親類書に「養父内蔵助、実父権内」といい、自家の身
籍について「本国生国ともに播州赤穂」とあるのが、何よりの証拠である。
根本はこのとおりであるから、『見聞雑記』などに載っているところの、内蔵助が喜内といった
十九歳の時、備前侯松平伊予守綱政朝臣に薬を勧めた。その病気を癒(なお)すために、君
侯の頭を叩いて逃げ廻り、君侯これを追い疲れて、薬と知らずに、湯飲にある薬を一服飲んだ。
御感の余り新知五百石に召し出されたのを辞退して、かつて勘気を蒙って浪人となった同藩
士七人の復籍を取りなした、などという説が妄談であることはいうまでもない。
もっと可笑(おか)しいのは、前の池田侯を新太郎少将光政朝臣がまだ世子であった時代の
こととし、かの良薬を勧めたのを、内蔵助が十歳余のときのことだと伝える一説である。かりにこ
れが成立するためには、あいにく良雄の生れた年すなわち万治二年には、光政朝臣はすで
に五十一歳の時である。それから十余年を経て、良雄が名案を按出した少年となった時には、
朝臣はもはや六十余歳の老境に入っているのである。その六十有余歳のしかも天下後世にそ
の名を知られた明君光政朝臣が、薬嫌いの若君であるなどとは、ずいぶん滑稽極まる話では
ないか。
三一 同
前回にも俗説の一部を触れておいたが、今少し言っておきたいことがある。俗説によれば、
内蔵助家でもない大石頼母が有馬の温泉でゆくりなく池田玄蕃に会い、これに名刀を贈った。
返礼に、玄蕃が何なりとも家の重宝を差し出そうと約束したのに乗じ、それを言質に取ってつ
いに良雄を貰い受けたと伝える。詩人の李白なら、酔っぱらった紛れに「千金の名馬を小妾
(こしょう)に換え」もしただろうが、最愛の男子を刀と換えるなど、さような馬鹿げた真似が誉
(ほまれ)ある士流の間に出来るものではない。
次に青年時代の良雄が山鹿素行を護衛して、江戸から赤穂に送り届ける途中、素行の門人
が素行を奪い取ろうとするところを、青年の良雄が頓智と勇気を揮(ふる)って、指一本も触れ
させず、美事使命を完(まっと)うした話がある。講談や浪花節などで、「大石内蔵助、山鹿素
行送りの一段」といえば、もっとも人口に膾炙(かいしゃ)している。これまた新太郎少将談と同
じ妄説である。素行が赤穂に遠来して来た年の寛文六年には、良雄は僅か八歳である。赤穂
の一藩にいかに人がなかろうとも、堂々たる将軍の幕廷すら恐れて江戸払いした天下の大英
雄山鹿素行を、生年八歳の児童に護衛させる馬鹿もない。論より証拠は第五回に引いた山鹿
素行自筆の日記で知れる。同記によれば、素行を護送したのは、藩士藤井又助であったこと
が明白である。
その他種々の俗談があるが、うるさいからこの辺で止めておく。良雄の人となりを、偉いが上
にも偉くしようと思うところから、これらの空談をねつ造したものとみえる。だが余りにも荒唐無稽
であるので、端から尻がはげるのも一笑である。しかしながらこれみな良雄徳望のためである。
それにつけても、大丈夫たろうとする者は、身を立て、道を行い、名を後世に揚げることを志し
たいものである。本問題に入り込む前に街談巷説を片着けておく。
○誠から出た嘘
日南様へ。『六道士会録』に次のように載っている。栗田某という人が幕府の嫌疑を受
け、何某家の士が彼を護送
して、国に送って行く途中、栗田の門人だろうか、縁故あ
る人々が彼を奪い取ろうとした。その時護衛の士がその人々に栗田と面会させた。栗田
は彼らを諭して、無事にそこを通過した、と。
なお同書は里見の『公事物語』を引き、里見の家臣が、あたかもかの伊達騒動の原田
甲斐が最後に、酒井邸にて伊達安芸以下を傷つけ、双方死傷を出したように、里見の
負公事(まげくじ)の士が荒れ回った状況と同じとしている。とすればあの伊達騒動のこ
とはこの里見のことを移して伊達のことと誤り伝えたのではないだろうか。これも世人の
耳を驚かす一価値があろう。戯作家は往々世に知れていない家のことを、名高い事柄
に移し伝える手段を用いる。(里見の公事家老の赤松上野その他二名の名前もあった
が今は記憶しない。) だから大石の山鹿送りの際の、大石、山鹿の態度はまるでかの栗
田送りを見るようで、誤伝の出所がわかる。忠臣蔵のお軽が「お前のは嘘から出た誠で
なくて、誠から出た嘘・・・」と言ったが、なるほど嘘も種なしでは、手品も出来ないか。
(厳木陰士利)
なおここに一言しておくが、頼母良重は内匠頭長直にもっとも重用され、長直朝臣の息女を
妻に受けた。その腹に出来た一女二男のうち、両男ともに浅野の別家に取りたてられ、長は美
濃守長恒(ながつね)、次は左兵衛長武(ながたけ)と称した。これによっても浅野家と大石家と
は主従であるが、縁は一族になっている。すなわち大石家がいかに赤穂では名門であったか
わかるであろう。
附言 内蔵助の名の良雄はあるいはヨシタカといい、あるいはヨシカツともいい、一般にはヨ
シオと称している。が、ヨシタカが正称らしい。義士伝に精通の名ある信夫恕軒(しのぶじ
ょけん)翁は、ヨシタカと固く確信しているから、私もこれに従うこととした。
三二 大石内蔵助の人となり
素行との出合い
私は日頃古今の英物を評するのに四つの標準をもっている。その一は英雄、その二は君子、
三は英雄にして君子、そして四は君子にして英雄、この四つである。史上の英物は大概このう
ちに入るようである。大石内蔵助良雄は、君子にして英雄である。彼の天性を察するに、人と
なりは寛厚(かんこう)で、物事に齷齪(あくせく)しない。しかも毅然として犯すことのできない
威厳がある。論語に「君子は威有って猛(たけ)からず」とは、内蔵助のような人物にいうのであ
る。これはもとより内蔵助の持って生まれた性格ではあるが、しかし後天の工夫、つまり修養の
力によってその徳器を完成したところも、決して少なくない。
内蔵助は幼少のおりから文武の道に志し、つとに山鹿素行の門に入って、講学に励(はげ)
んだ。時代を考えると、素行は内蔵助が八歳から十七歳になるまで十年の間赤穂に流されて
いたのだから、内蔵助が薫陶を受けたのはこの期間である。素行は最初にも述べたとおり一代
の大英雄である。私の尺度からいえば、英雄にして君子の人である。その学問は経学と兵学と
にあった。言い換えれば、経世の学と乱世の学である。この人が少年の内蔵助に対するので
あるから、経学を教えない道理がない。内蔵助は常に論語を喜び、日々口誦して飽きなかっ
たという。内蔵助の経学は素行の啓発に原因するものが多大であった。これと同時に内蔵助
は素行が独自に発明した兵学を兼修した。これは恐らく素行が許しを得て江戸に帰った後ま
でも、研修を怠らなかったであろう。それでもっともよくこの道に精通し、いわゆる山鹿流兵学の
奥義を畳んで胸中に蓄えた。一は英雄にして君子である。他は君子にして英雄である。英雄
にして君子である素行から、君子にして英雄である内蔵助に、経学と兵学、しかも生きた経学
と兵学とを注入したのであるから、内蔵助の造詣は今から想い見るにも余りがある。後年、家国
喪失、人心乖離(かいり)の際に処し「必らずや事に臨んで畏(おそ)れ、謀(はかりごと)を好ん
でなし」たことは経学の素養による。一且事を挙げるに当り「静かなこと林の如く、疾きこと風の
如く」したものは、実に兵学の講義から得たのである。見よ、彼は満天氷雪の夜、策を決して仇
家に入った際、部署、行陣、用兵、作戦、すべて山鹿流を用い、一つも違算がなかった。そも
そも偶然などはなかったのである。
ここに至ってゆくりなく想い起すのは、八幡太郎義家のことである。前九年の役(えき)の後、
義家はある家で戦術を論じていたのを、大江匡房(まさふさ)卿が傍(かたわ)らで聴いて「惜し
いかな好漢、兵法を知らない」と独語した。八幡公はこれを聞いて、節を折って匡房卿に学ん
だ。後年いわゆる後三年の役が起こり、金沢の柵を攻める時「行雁の乱れるのは、伏兵が有る
からだ」といって捜索兵をだした。果して敵が荒原に置いていた伏兵を発見し、敗軍を免がれ
た。八幡公は「学ばなければほとんど危かった」と嘆じた。千古の名将八幡公すらこうである。
修養ほど貴重なものはない。
三三 同
伊藤仁斎との出合い
内蔵助は長じて京都に遊び、伊藤仁斎の門人となった。仁斎もまた一大儒学者であり、篤学
篤行当世に並びない人であった。あの傲岸自尊、古今を空しくした荻生徂徠ですら「仁斎の
徳と徂徠の学とを合せたら、東海に聖人が生まれるだろう」といっていたのでも、仁斎の人物は
知られる。仁斎は論語を極めて尊敬し、聖人の教えは論語の一部ですでに尽されていると唱
道した。あたかも内蔵助はこの聖経を尊信する同宗の人であったから、仁斎を慕って学んだも
のとみえる。もっとも内蔵助と同藩の一英物にして後年復志の一人であった小野寺十内秀和
は、当時京都における藩邸の留守居であったから、日夕に聴講する便宜もあり、早くから仁斎
の門下にあったから、多分この人の紹介で内蔵助は入門したのであろう。
これについて面白い逸話がある。内蔵助は実践主義の人であるから、経書の講究において
も、大義を得心すれば足りるとし、章句の末にまでこだわらなかった。ある日のこと、内蔵助は
仁斎の講座に侍して、先生の講義を傾聴していた。やがて先生が章句の解説を試みると、コク
リコクリと居睡りを始めた。同座に列なった多くの門下生はこれを見て、あちらでもクスリ、こちら
でもクスリ、隠し笑いの声がする。しかし本人は少しも感じない。講義が終って内蔵助は退出し
た。すると悪口は一斉に吹き出た。「あんな惰生に何が分るものか。先生の講座に侍して、居
睡りをするくらいなら、最初から聴講に出ないのがましだ」などと罵(ののし)った。この言が先
生の耳に入ると、さすがは仁斎、衆を戒めて「小子らみだりに人を謗(そし)るものではない。つ
らつら内蔵助をみると、彼は凡人の器(うつわ)ではない。必ず大事に堪える人間だ」と話した。
果して先生の言は当った。仁斎の眼力もまた実に偉いものであった。
内蔵助は天性からすでに『論語』中の人である。彼は曾参(そうしん)の質と子路(しろ)の勇
とを兼ねた人だといっても、遠くない。その上論語を前にしては、素行に私淑し、のちには仁斎
に薫陶されたから、『論語』は彼の生命であった。後年彼は子息松之丞つまり主税(ちから)に
対して、自身で『論語』を教授したということである。主税が僅かに成童の少年であってもよく大
義を理解し、父に従って義に赴いたのも、『論語』に負うところが大きかったのであろう。昔、宋
の趙普(ちょうふ)が論語の一部をもって天下を治めたというが、内蔵助が彼と同様に一代の快
挙を成しとげたのもまた『論語』の力であることは、これから追々見られる事実が証明するであ
ろう。私に言わせれば、『論語』は経(たていと)であり、『六韜三略(りくとうさんりゃく)』は緯(よ
こいと)である。彼には根本に『論語』の大本があって、そののち『六韜三略』が行動を導いたの
である。
三四 同
奥村無我との出合い
内蔵助はこのように一方では経学と兵学とに心を潜(ひそ)めたが、また一方では武芸に力
を入れた。当時讃岐の高松に奥村権左衛門重旧(しげふる)、号を無我と称する有名な東軍
流の剣客があった。備前岡山の出身で、容貌傀偉、蓬頭(よもぎあたま)の見るからに絶世の
勇士であった。彼は幼年期から剣を好み、時の名家、落合、阪口、吉川、鈴木らの諸剣客に
学び、奥を極めた。その術は天下に敵なしと称せられた。しかしある年、田神無外という江戸の
豪傑が備中に来遊した。無我はこの時美作に滞在していたが、これを聞くとすぐ「好敵手ござ
んなれ」と、袂(たもと)を投じて美作を発し、韋駄天(いだてん)走りに備中に向い、無外に会
って試合を求めた。時に大雨は盆を覆(くつがえ)した。無我は木刀を提げて、雨中にきっと立
ち「いざ一勝負」と声を掛けた。この時無外少しも騒がず、手に携えた杖を取り直し「さらば」とと
もに立ち合った。いずれも天下の豪傑である。両々相撃てば、刀下に火を発し、杖頭に風を生
じ、看る者は皆目を眩(くら)ました。が、無外の神技は人間以上であり、ついに無我の負けと
なった。無我の無我たるところは実にここにある。彼は衷心から感嘆し「権左は今始めて真の
英雄に会った」といって、直ちにその場で弟子となった。精を励んでこの人に学ぶことまたまた
数年、ことごとくその神髄を得た。ここにおいて四方の豪傑が無我の門下に集まり、五百余名
の多数に達した。大石内蔵助、大石瀬左衛門、潮田又之丞は皆そのうちの一人である。なか
でも内蔵助は国老太夫の身分でありながら、雪朝霜夜いまだかつて突撃弾剌の鍛練を怠らな
い。「英気の発する所、金石もまた透(とお)る。精神一到、何事か成らざらん」。彼は三十五歳
の時ついに免許皆伝を得た。この際彼が師の無我に納れた起請文は次のとおりであった。
起請文前書の事
一 東軍流の兵法を相伝するにつき、免許以前はいささかも他見他言をしない。
一 免許以後は他流を交え別に一流を立てることをしない。
一 免許以後誓紙なくして太刀を見せることをしない。
右の各条に背(そむ)くときは、梵天、帝釈、四大天王、伊豆・箱根・三島大明神、八幡
大菩薩、天満大自在天神、摩利支尊天、総じて日本国中大小の神祇の罰を蒙る。
元禄五年申(さる)六月二十日
大石内蔵助良雄 花押
奥村権左衛門殿
これによっても内蔵助がいかに堅忍の心を持ち、継続の精神に富んだ人であったかわかる。
この起請文は今も現に高松の見性寺に残っている。
同市の友人に聞くと、奥村無我の宅は同市の八幡馬場にあった。したがって、ここに留学し
ていた両大石と潮田の当時の逸話が、今もその地方の口伝えに残っているとのことである。
附言 無我の墓は同市の西方寺にある。その碑文は無我の門人で藩の儒者であった菊池
某が記し、『讃岐国名勝図絵』にも載せてある。
三五 同
内蔵助は生まれつき人に優れた上に、学問武芸もまた衆に超え、偉人の第一等の資格に
一つも欠けていない。文武兼備の士であった。しかしながら平生は極めて謙遜で、少しも才能
に誇ろうとしないし、また才能を見せようともしない。それかといって曲がった態度で偉人ぶる
俗物でもない。酒もよく飲めば、時には洒脱な遊びもする。とにかく珍しい人物である。こうして
「英雄自ずから閑日月あり」で、閑暇(ひま)がある時は、画を楽しみ花を楽しんだ。ことに画は
狩野友益(ゆうえき)氏信(うじのぶ)に学んで、なかなか巧妙であった。近世この道の大家と称
せられる田能村竹田は、容易に人を褒めない男であるが、彼が書き残したもののうちに、大い
に内蔵助の画を誉めており、この道においてほぼ作家の領域に入っていたことが知れる。彼
はまた花卉(かき)のうちでは特に牡丹を愛した。これもまた彼の円満にして趣味の高さを示し
ている。ある時近親の人に書を寄せて、仔細に花品の評論を試みたことがある。当時これを見
た者は皆その風流に感嘆したということである。
内蔵助はこのように能力と品位のある優秀な人物であるが、私が特に言いたいのは、彼が世
界に稀な平民主義の人であった一事である。というのは、当時の日本は貴族主義が上下を貫
通していた社会で、おまけに華奢風流を喜んだいわゆる元禄時代の真最中である。一藩の家
老しかも城代家老などといえば、常に仙台平の袴ぐらいは着用して、悠揚(ゆうよう)に構え、
尊大ぶって容易には人にも面会せず、また口を開かないものである。それでなければ家老ら
しくないとまで一般に思われるほど貴族主義の空気が充満していた。にもかかわらず、内蔵助
には一点の衿持(きんじ)と誇気(こき)がない。彼は平生いかにも質素な衣服を着け、藩庁に
出仕するにも古袴のままで何の頓着もない。途中で家老の通行と見て下座をする若党仲間に
対しても、それぞれ言葉をかけ、少しも尊大ぶった態度がない。この尊敬すべき操行を見て、
有識の人はつとに敬意を払ったに相違ないが、一般の評判では人品が軽卆で、太夫の威厳
がないなどと評していた。時代の気風というものは、実におそろしいものである。
ある時太夫に用談があって、邸を訪れた人がある。ちょうど夕飯の時であって、主人は夕飯
を命じて、客と対食した。客は何のご馳走が出るかと思ったが、一瓶の酒と韮雑炊(にらぞうす
い)であったのに驚いたということである。ここに至って端なくも思い当ることがある。維新前筑
前の家老で九州に正義を維持した加藤司書が好んで韮雑炊を食べたのも、あるいはこの辺に
私淑するところがあったからであろうか。とにもかくにもその質素で簡易なことは、身辺を飾る人
でなかったと知れるのである。
三六
同
内蔵助は十九歳で出仕してから、内匠頭長矩(ながのり)に仕え、いわゆる城代家老としてお
おむね赤穂に在住した。それで藩政の大事はこの人が仕切ったのであるが、世は昌平の真最
中である。一切のことは塗り絵に色を付けるに過ぎない時代である上に、性格が淡泊であった
から、余り政務にも関わらない。のみならず君侯の前に出ても、才智を振り回さないから、内匠
頭はむしろこの人を疎外した傾向がある。かえって吏才に長じた当世向きの大野九郎兵衛な
どの方が、万事に幅を利かしていた。しかし内蔵助は、これを少しも意に介しない。五井蘭洲
は『瑣語(さご)』という書の中で内蔵助を叙し、「常に韜晦(とうかい)して露(あら)わさず、人皆
斥けて痴と為(な)す」といった。韜晦して露わさずとは物事を曖昧(あいまい)に処理するという
意味だが、内蔵助はことさらに韜晦していたのでも何でもない。その実は天性のままに行動し、
不必要の場合に利巧めかそうとしなかっただけである。だが、人皆斥けて痴と為すという一言
は人は内蔵助を足りないのではないかといったのだが、そのとおりであった。というのは当時誰
言うとなく「昼行灯(あんどん」」というあだ名をこの人に付けた。「昼行灯」とは写し得て極妙で
ある。常時ボンヤリとして白昼の行灯の火を見るような有様が、回想できるのである。「君子は
盛徳有って容貌愚なるが如し」の聖語は内蔵助において見るのである。「昼行灯」のあだ名を
内蔵助自身も微笑して甘受していたと思いたい。
リンカーンが言ったとおり、人はある時、ある場合には欺かれるが、長い時、広い場合には欺
かれない。内蔵助がいかに謙譲でも、天分の大きさは長い歳月の間にいつとなく自然に現わ
れる。彼が一代の英雄であったのは、事変後に至って始めて知れたが、ともかく何となく偉い、
どこか信頼できる人だということは、事変を待たなくてもすでに赤穂の上下に広がっていた。鳩
巣はこの人を伝えて、「良雄の人となりは簡静で威望有り。国人は非常に彼を尊重した」といっ
たが、簡にして要を得た評である。
事変に先だつこと八年前、元禄六年の十二月、備中松山の城主水谷出羽守勝資(かつす
け)が急逝した。後嗣がないところから、領地を没収されたことがある。その際松山藩士に紛擾
(ふんじょう)の風説があり、浅野内匠頭は受城使を命じられた。内蔵助も随行したが、内蔵助
が率いたところの一隊の部署と松山の家老鶴見内蔵助との談判が、ともに優れていたので、
当時の評判になった。それで黙してはいるが赤穂には大石内蔵助という一傑物がいるというこ
とは、この頃から眼のある者の中には看取されていたのである。幕府が赤穂の城池受取りに近
傍諸藩の兵を繰り出させたのも、吉良、上野両家が非常の警戒を加えたのも、この辺の消息を
探知していたのがその一因であろう。さもなければ一個のボンヤリ者の「昼行灯」を気にする必
要もなかったのである。
附言 松山城受取りについても、俗説紛々である。すでに藩は守城と決めて立て籠っていた
のを、内蔵助一人が主人の名代として立ち向い、智謀を振って、無事に受け取った、など
種々俗書に見える。これもまた例の好事者流の捏造(ねつぞう)に過ぎない。
三七 主家の凶報
三月十四日殿中において凶変が起り、浅野内匠頭は田村右京太夫へお預けとなり、内匠頭
の供回りの人々はすごすごと鉄砲洲の邸に引き取った。「これ実に一藩存亡の場合である。と
もかくもこれを本国の城代に急報せねばならないとて、早水藤左衛門、萱野三平の両士を急
使として、直ちに赤穂へと馳せ向かわせた。もとよりこれは表面上浅野大学の命ではあるが、
その実は片岡源五右衛門の発議と思われる、両士は直ちに旨を受け、同日の已の下刻(午前
十一時)に本邸を出て、駅伝を馳せて播州へと向かった。当時駅伝の法として、士分以上の
急使が駅伝にかかる場合は、宿駕(しゅくかご)に乗り、前駅から次駅まで宙を飛んで駆けさせ
る。すると次駅もまた宿駕を出してこれを受け取り、籠舁(かごかき)を促して、また次駅へと送
る。この急使に当る者こそ災難である。まるで一種のぶらんこに載せられ、幾日幾夜揺れ通し
に揺られるのであるから、頭脳も胃腸もメチャメチャにかく乱される。それでこれに乗る士は、頭
には鉢巻、胴には固く晒布(さらし)を巻き、駕の中央に吊りさがる白布に取りすがり、僅かにそ
の身を支持するのである。維新前後に海内紛擾(ふんじょう)の際にいた人なら、今も記憶され
ているであろう。エンホイエンホイの掛け声で天下の事変を報ずる早駕の急使は海内到るとこ
ろに絶え間なかった。
さて早水、萱野の両士はこの早打ちによって百五十五里の道程を昼夜兼行で追い通し、同
月十八日の亥(い)の刻(午後十時)に早くも赤穂城に到着した。しかし既に時刻が時刻だから、
藩庁に出頭しても詮(せん)がない。それでそのまま城代大石内蔵助の屋敷に赴いた。何事か
と内蔵助は両士を迎え、急使の目的を尋ねれば、両士は先ず片岡源五右衛門の書状を差し
出した。内蔵助は手に取って見た。
口上書
勅使の柳原大納言、高野中納言、清閑寺中納言、道中御機嫌よく当月十一日到着、
十二日登城され、十三日饗応と能の催しが終わり、翌十四日白書院において勅答の式
がおこなわれた。執事役人諸侯残らず登城されたところ、松の廊下で上野介から理不尽
の過言をもって恥辱を与えられ、これによって君は刃傷に及ばれた。同席の梶川殿に押
えられ、多勢をもって白刃を奪い取り、吉良殿を打ち留めることは出来なかった。双方とも
存命で、上野介は大友近江守にお預けになり、伝奏饗応司は戸田能登守に命じられた。
あらまし右の通りであり、いずれにしてもお家大事の事件であり、注進として早水藤左衛
門、萱野三平両人を馳せ登らせた。この日取急ぎ一々書けないので、両人から委しく報
告させます。なお迫々ご注進いたします。
三月十四日已の下刻
片岡源五右衛門
花押
大石内蔵助殿
読み終って、内蔵助は深い憂慮の眉をひそめ、なお事がここに至った顛末を両士がかわるが
わる話すのを傾聴しつつ、幾度か溜息をついた。彼の胸中には、ああ「庸人(ようじん)国を誤
る」と無限の痛恨を湛(たた)えたことであろう。ただしこれは凶変当日午前中の出来事を知ら
せたまでで、その後の成行きはまだ五里霧中である。
明くれば十九日の卯の刻(午前六時)に第二の急使として原惣右衛門と大石瀬左衛門が江
戸から到着した。これは両士ともに凶変当日の処分を見届け、同夜直ちに同じ駅伝に乗り、昼
夜兼行で馳けつけたのである。全体江戸から赤穂まで百五十五里の道程、吉行なら日に十
里、すなわち十五、六日も要るところを、前使後使ともに四日半で乗り継いだ。志気の高揚し
た時は恐ろしいものである。後年復讐の挙を終えて、細川家にお預けの時、同家の侍堀内伝
右衛門が原に向い「いかにしてさように早くお着きなされたか」と問うたのに、「浅野家では
代々伝馬町の問屋どもへ金銀を与えておき、事ある時の用に備えていたので、遅滞なく知ら
せることができた」と答えた。これによっても浅野家が由来武道の家であったことが知れる。さて
この両使は内蔵助に会い、君侯の切腹、御家の廃滅に至るまで、その処分を逐一注進した。
この報が一たび伝わるや、赤穂の上下は常闇(とこやみ)のうちに陥った。ああ「危機に会わな
ければ、利器を知らず」、果たして「昼行灯」はこれから鋭い刀をどう振うのであろうか。
三八 城中の大会議
赤穂では、三月十八日の夜に達した注進によって殿中の凶変が知れ、翌十九日の朝届い
た報告によって、君侯の切腹、続いて主家の断絶が分った。今は片時も躊躇(ちゅうちょ)する
場合ではない。大石内蔵助は猛然として意を決し、即日家中一統に総出仕を命じた。藩士に
取って実に青天の霹靂(へきれき)である。何はともあれ、我も我もと出仕する。その人員は百
余名と注進された。内蔵助はやがて諸士に向い、極めて沈痛な語気をもって「去る十四日、将
軍家で勅旨奉答の式が行われる殿中にて、我が君侯は高家衆吉良上野介殿に対し、刃傷に
及んだ廉(かど)により、切腹された。お家は断絶ときまった。続いて城池を召し上げられること
と思われる。これは我が君の不調方によるとはいえ、事の起りは、上野介が堪えがたき恥辱を
君侯に加えたことによる。しかるに上野介には何のおとがめもないばかりか、手傷が平癒した
上は、これまでどおり役目を勤めよとの命があったという。我が君の最後の際の無念はさこそと
拝察する。古より「君が辱(はずかし)められるとき、臣は死す」という。我が君が今日このような
大恥辱に遭(あ)われた以上、正しく我ら臣子は節に死すべき時と存ずる。ただ死はもとより容
易なことであるが、死に処するのはまことに難しい。事ここに至れば我らは死に処を選ぶほか
ない。これに処する方々のご意見を受けたい」と言い放った。一座は実に悽惨な空気に充たさ
れた。
忠憤の士は血湧き肉躍って、黙止できない。「君侯の讐敵(しゅうてき)上野介がまざまざと
生きているとあれば、我らはこれから江戸に馳せ上り、彼の館に打ち入って、首級(しるし)を上
げるのみではないか」と一方から叫べば、「事すでにここに至った上は、藩祖以来のこの城を
開き、むざむざ官使に差し上げては、我らに何の面目があろう。矢玉のある限り、太刀の目釘
の続く限り、官使を引き受け戦い、城を枕に打死し、先君に地下に追い着くまでだ」と一方から
声をあげる。議論は実に百出した。だが前後二回受けた注進は、凶変当日から次の夜までの
出来事に過ぎないから、その後上野介が果して無事であるか否かまだ分らない。そのため評
議は十九日から二十日、二十一日と三日間継続した。
内蔵助の寛裕で沈着な天性は、ここに至ってようやくその一端を示した。彼は二回の注進に
よって、すでに決心していた。しかし人々の忠義ないし勇気は、このような場合になって始めて
分る。内蔵助は人々の吐露するところ、主張するところから、十分にその人の信念を察し、真
に信頼するに足る人々を得て、これと大事を共にしようと欲したのである。それで容易に評議
の決を取らず、各自の論争を続けさせたのである。優悠(ゆうよう)迫らない人物でなければ、と
うていそこまでは出来まい。
三九
同
三日間にわたる城中の大評議によって、正義党と俗論党との色合いはほぼ見えてきた。いう
までもなく正義党の統領は大石内蔵助であるが、俗論党の方では大野九郎兵衛が筆頭であ
る。九郎兵衛は吏才に長じ、世事にたけ、今日まで赤穂の藩政を専らにしたいわゆる仕置家
老であるから、内蔵助と相並んで、評議の上席を占め、依然列座を睥睨(へいげい)して、衆
議を自分の考えに一致させようと構えている。今日は評議の三日目となった。内蔵助は頃合い
を測って始めて意見を発表した。
「方々が城を枕にして打死し、先君に地下に殉じようとの意見は、至極同意であるが、人臣の
分際としてこの際なお国に尽すべき事があると思う。それはほかでもない。先君すでに自害さ
れ、主家断絶の不幸に会したが、幸いに先君の弟大学殿がおられる。この時に当っては主家
の継続が第一の急務である。ついては祖先以来代々の忠勤を申し立て、大学殿により主家の
祭りを残されるよう、われら一統死を決して公儀に嘆願すれば、あるいは容認されるかもしれな
い。たとえ一万石でも大学様取立ての許可が得られれば、われら臣下の分義において先君に
対し申し訳が立つというもの。もしこの嘆願が採用されないとなれば、もはやそれまでである。
その時は城を枕にして打死し、先君に地下で仕えるとしても、決して遅くない。方々はいかに
思うか」と衆に問うた。
すると九郎兵衛はこれを遮(さえ)ぎり、
「それは不穏当である。第一城に立て籠りながら、大学殿の取立てを嘆願するのは、嘆願で
はなく、上に強要することになる。その時は、われら一統は謀叛を企て、上に弓を弾くものと批
判されるであろう。これこそ日頃忠勤に励んだ先君を辱めることになる。もってのほかの狂事で
ある。この際われら早々に解散して、本城を開け渡し、しかるのち一同謹慎して跡目の事を嘆
願するほかはないとおもう。」と、分別らしく抗論して、早くも逃げ支度を始めた。
内蔵助は噴然として再び口を開き、
「大野氏の議には賛成できない。士の守るべきところはただ義である。士に義がなければ、
士とはいえない。今この危機に臨み、大義をもって自ら任ぜず、逡巡顧望して死を畏れ、死を
免れようとするのは、実に恥を知らないことはなはだしい。大学殿取立てはもとより未必のこと。
その未必の嘆願を口実にし、闇々と城を棄てて立ち去れば、天下の人はこれを何というか。赤
穂は士を養うこと数世にして、一旦の事変に際し、一人も君国に殉ずる者がいないと評された
ら、いかがであるか。籠城の挙がたとい国に寸尺の補いがないとしても、先君ならびに代々の
御祖先を辱(はずかし)めるのと、どちらを取るか」と発言した。
座中の正義党は皆眉を揚げる。俗論党はおおむね屏息(へいそく)する。大石内蔵助藤原
良雄が身をもって国に寄せる堂々の意気はこの時に現われた。九郎兵衛はなお言を左右にし
て、これを阻もうとする。このとき原惣右衛門は身を起して席を進め、九郎兵衛の前に堂々と坐
し、居猛高(いたけだか)になり、
「これ以上言いなさるな。われわれここにある者は、いずれも内蔵助殿の意見に同意でござる。
貴殿がこれに異存あるなら、もはやこの席にいることは無用である。早々お立ちなされ」
と短刀直入に肉薄した。その意気ごみのただならぬのに僻易(へきえき)し、日頃上太夫の権
威を誇った九郎兵衛はこそこそとして退城した。続いて俗論党一味の番頭物頭等を始めとし、
いずれも逃げるようにして立ち去った。それで衆議は一瀉(しゃ)千里に進行し、一統籠城(ろ
うじょう)の上、哀訴嘆願ということに決定した。後に復讐の挙が終って、大石、原ら十七人が細
川家にお預けになった際、細川家の士堀内伝右衛門が、原に当時の談判の始末を問うたの
に対し、惣右衛門は「その時九郎兵衛が座を立ち兼ねたら、直ちに打ち果す覚悟で、刀に手
を掛けていた。後になればさても馬鹿なことであった」と答えながら傍らの富森助右衛門を顧
みて大笑した。ああ謹厚な者もまたこのとおりだ。天の言葉「時窮して節すなわち現わる(困っ
たときに誠が現れる)」は「一々丹青に垂れる(その場で一々色が変わる)」のである。
四〇 一藩の哀願
衆議は内蔵助の主張に一決した。ここにおいて内蔵助は藩の上士中から上訴に詳しい多川
九左衛門と月岡治右衛門の両人を選び、三月二十九日に一篇の嘆願書を托して江戸に向か
わせた。その文意は次のとおりである。
恐れながら書付をもって申し上げます。このたび内匠頭不調法をつかまつり、御法式の
とおりに処置されたこと、かしこまって承りました。しかし上野介殿はご生存の由と承ります。
そうでありますなら、当城の離散は、どちらにも面を向けようもありません。この段家中一同
の存念でありまして、色々教訓をいただきますが、田舎者でありますから、承知できませ
ん。しかしながらもし、安心できる筋がありますなら、たとえ離散してもそれ以上は望みま
せん。上に対し毛頭恨みがましいところはありませんが、もし不可能であれば、当城にお
いて餓死する覚悟であります。以上申し上げます。
元禄十四年三月二十九日
大石内蔵助
並びに家中一同
荒木十左衛門様
榊原采女
様
至極簡単な書面ではあるが、意は言外にある。内蔵助は両人にこれを渡しながら、「今から
急いで江戸に行き、目付が登城する前にこの書を差し出し、われわれの心のあるところを述べ
て、ひたすら嘆願せよ。いささか気になるところもあるから、これを差し出す前に、在府の安井、
藤井両家老とは必ず相談しないよう注意せよ。またこの嘆願書はゆめゆめ大学殿の耳に入れ
てはならない。ただ願書を目付に渡したのち、戸田采女正殿に別紙一通を差し出し、同様の
願意を進達してくれ。以上とくと心得て、希望の貫徹に尽力せよ」と訓令した。内蔵助は安井、
藤井が凡庸で話にならないと見抜いている。彼らに計れば、必ずこれを阻む。あるいは阻まな
いまでも、進行上の妨げになる。また大学の耳に入れば、立場として黙過する訳にはいかない。
それにもかかわらずこれを遂行しようとすれば、それこそいよいよ幕府への強請となり、咎めは
直ちに大学の上に降りかかると予見したのである。内蔵助の用意は実に周到である。多川、月
岡の両人は唯々として命を守り、同三月二十九日に赤穂を発し、五十三駅を伝って、江戸へ
と向った。
後に暁諭使(ぎょうゆし)に差し出された文意はこの嘆願書とほぼ同一であった。室鳩巣(む
ろきゅうそう)の翻訳は内蔵助の真意をよく表現している。
「赤穂の老臣大石良雄らは、二人の腹心をあえて江戸に送った。亡君が罪を得て死を給
う。臣らあえて承服するだろうか。双方が相殺す場合は、国に所定の刑罰がある。しかし
いま吉良はもとどおり幕府の職についている。そうして大刑は独り寡君の身に加えられる。
これ臣らが日夜血に泣き、むしろ死しても悔いない理由である。臣ら一、二の老臣はもと
より朝廷一統の政(まつりごと)を崇敬する。しかし遠地の臣、頑愚の衆、ただ主君への忠
を尽すことを知るのみ。順逆の分を諭(さと)すといっても、衆心を変えることは出来ない。
群議を奪うことはできない。誰もがあえていう。朝廷を讐(あだ)とするのではなく、ただ城
について自殺し、もって人臣の分を果そうとするのみ。もし朝廷がさらに、亡虜の臣から国
を奪い天下に追い払う処分をするなら、臣らは衆をもって退き、ただ命に従うのみ。あえて
死をもって答えるのだ。
この訳文を得て、嘆願書の千金の力がはっきりわかる。「あえて請わない。もとより願うところ
である」との本意は、文の上に躍如(やくじょ)として表われている。内蔵助がもしこの訳文を読
んだなら、鳩巣はまことに我が知己だと手を打って喜んだであろう。
四一 烈士国難に赴(おもむ)く
天下の危険は、山にもなく川にもない。それは人情反覆の間にある。昨日まで肩を並べ、席
を列ね、いずれ劣らない忠勤の士と見えた赤穂の藩臣も、主家の断絶に会って魂を失い、会
議のたびごとに、十人減り二十人減り、まことに頼りない有様となった。しかし志士は溝に落ち
ても這い上がることを忘れず、勇士は自分の命を失うことを恐れない。真の志士、真の勇士は、
国家存亡の際に現われる。試みにその一斑を挙げようか。
千馬(ちば)三郎兵衛光忠(みつただ)は馬廻(うままわり)で、百石を領していたが、何か内
匠頭の心に違(たが)うことがあって、勤続しがたい事情になった。この上は永の瑕を乞うほか
はないと覚悟を決め、内々家財の一部をすでに大阪まで送ったところに、今度の凶変が勃発
した。尋常の士ならこれ幸いと立ち退くであろうが、三郎兵衛はこれを聞くやいなや「君が君で
なくとも、臣は臣でなければならない」と奮発し、志を翻して、籠城の列に連なった。
また横川勘平宗利(むねとし)は僅か五両三人扶持の徒士(かち)横目であって、本来の士
分にも列しない身分であるが、赤穂から一里余の地にある塩硝蔵の預りを命ぜられ、その番人
をしていた。凶変の報が聞えるや否や、内蔵助の許に馳せつけ、是非籠城の一人に加えてほ
しいと申し出た。内蔵助は深くこれを感称し、「忠義の志、神妙である。ただし塩硝は大切な軍
需である。今日の場合はいかなる変事に立ち到るか測れないから、詰所に帰って、大事にそ
れを守り、命を待て」と申し付けて、任所へと引き返させた。
また小野寺十内秀和は百五十石を領し、京都藩邸の留守居を勤める文武両道の士である。
すでに六十歳を超え、老功をもって聞こえていた。凶報が届くや否や十内は意を決し、「京中
に悠々としている時ではない。本国に帰って、諸士と進退を共にしなくてはならない」とそのま
ま馳せ帰ろうとする。下僚の某はこれを見て「貴殿は留守居役の事ゆえ、一応所司代へお屈
けなされ、お許しを得て、出発されてはいかがか」と注意した。十内はこれを聴きもあえず「い
や、京都の出入に所司代へ届けるのは、平生の作法、吾ら今日遺臣となった以上は、それら
の作法にかかわる要はない。もし届けして出発を差し止められたら、緩急に応ずることが出来
ないとも限らない。その時口惜しがっても後の祭りだ」と言い放し、妻女にも告げず、決然として
家を出た。鎧(よろい)一領に槍一筋、着替えの帷子(かたびら)一枚を携えて、赤穂城へと馳
せ着いた。理義に明らかな者には明快な決断がある。小野寺十内秀和が家を出た行為、また
実に称すべきではないか。
この十内の養子幸右衛門秀富は、当時なお部屋住であった。それで父十内は必ずしもこの
人までを強要しようとはしなかったが、幸右衛門は自ら進んで、養父と行動を同じくし、籠城の
列に加わった。
四二 同
また今回の国難について、江戸からはるばる馳せ着けた人々も少なくない。それは事変の第
一注進者の早水(はやみ)藤左衛門満尭(みつたか)、萱野三平重賢(しげたか)、同じく第二
注進者原惣右衛門元辰(もととき)、大石瀬左衛門信清を筆頭として、村松喜兵衛(きひょうえ)
秀直、同じく三太夫高直、その他片岡源五右衛門高房、磯貝十郎左衛門正久、寺井玄渓、
および中村清右衛門などで、追々赤穂に到着した。
ことに村松喜兵衛は江戸邸の専任者で、当年すでに六十を超える老齢であるが、単身江戸
を出発して来た。その子三太夫は父の命によって一旦は家に留まり、老母に孝養することを承
諾したが、父の出発後つらつら思えば「家にはなお弟もいるから、朝夕母上の看護に事を欠か
ない。自分はこの家の長子として、老父が義に赴かれるのに、後に残る道はない」と、奮然とし
て身を起し、大森、川崎を走りぬけ、神奈川駅にて喜兵衛に追い着き、是非に同行をと懇話し、
相伴って東海道を押し上り、四月四日赤穂に到着した。直ちに内蔵助の許を訪れ、素志のあ
るところをのべてそのまま籠城の列に就いた。
もっとも感ずべき人は、岡野治太夫、井関徳兵衛、井関紋左衛門、大岡清九郎、中村弥太
之丞(やたのじょう)の五人である。彼らは久しく浅野家の禄を離れ、浪人をして各処に散在し
たが、故主家断絶、諸士籠城との風説を聞くや否や、各々鎧櫃(よろいびつ)を担ぎ、相携え
て赤穂城にやって来た、内蔵助はただちに彼らを招き、来意を聞くと、五人は口を揃え「われ
ら久しく浪々としてはいたが、当家のご恩は忘れてはいない。このたび承れば、太夫には籠城
とのこと、何とぞわれわれもその列に加えて下さるようお願いする」と、誠意をその顔に表わして
申し立てた。内蔵助はこれを聴いて感激した。「重禄の士ですらややもすれば逃げ支度をする
今日、諸氏の高義は感ずるにも余りある。しかしながら諸士には当家を離れてから年月も久し
く、もはや藩籍に無関係の人と認められている。今になって諸氏の求めを納れ、一緒に籠城
すれば、赤穂では浪人を集めて、公儀に楯つくと噂されること必定だから、せっかくのお求め
であるが、この件は断念されたい」と謝辞した。だが五人は容易に承知しない。後に開城が決
定する日まで城下に滞在して、たびたび入城を求めた。
これらの噂を聞けば、薄夫も厚く、儒夫(だふ)も志を立てるであろう。
附言 事変発生の際、浅野家を離れ浪人となっている気骨の士がかなり多い。各所に散在
していた者には、上に挙げた五人のほかに、江戸には大石無人(ぶじん)、その子三平、
岡野治太夫の子不破数右衛門および間新六らがおり、また赤穂では、ここを去ろうとして
準備していた千馬三郎兵衛らがいる。大石内蔵助は城代家老の地位にありながら、多く
は国政に預からず、人格不明のわからない人と評判をとっていたのをみれば、時代の風
潮が早く浅野家の家風までもおおい、剛直の士はようやく退いて、口先だけは達者だが
誠意のない者が次第に増えて来たように見える。しかるに一旦事変が起き、内蔵助が起
って事に当ると聞いてから、数が少なくなった剛直連がいずれも勇躍し、この人に頼って
名節を顕示しようと志したのである。これによっても内蔵助が早くから清流の士心を得て
いたのが知れる。
内蔵助の周到な用意によっても、浪士の希望はことごとく報われなかったが、岡野や両井関
や、大岡や、中村や、無人父子の両大石は、一たびその希望を表明したために、義徒の四十
七士と共に、名前は不朽なものとなった。名節は必ず外に表われるものである。
四三 最初の連盟
赤穂籠城の風説は太平の惰眠(だみん)を驚かせて、四方に伝播した。四隣の兵は海陸か
ら国境(くにざかい)を圧して迫ろうとする。受城使の一行は日ならずして赤穂に来るであろう。
内蔵助は一身で万難に当る覚悟である。さきに出した多川、月岡両使の帰りを待たないで、ま
たまた会議を城中に開いた。が、問題はいよいよ籠城殉死と決っているから、俗論党はもはや
出席しない。この日約束を違えず来会した人々は、
大石内蔵助千五百石
奥野将監千石
進藤源四郎四百石
長沢六郎右衛門三百五十石
河村伝兵衛四百石
小山源五左衛門
三百石
原惣右衛門三百石
佐藤猪右衛門三百石
近松勘六二百五十
石
渡辺角兵衛百五十石
稲川十郎右衛門二百二十二石
山上安左衛門二
吉田忠左衛門二百石
間瀬久太夫二百石
潮田又之丞二百
岡野金右衛門二百石
岡野九十郎 金右衛門嫡子
佐々小左衛門二
岡本次郎左衛門二百石
岡本喜八郎
多芸太郎左衛門
百二石
石
百石
二百石
平野半平二百石
小野寺十内百五十石
小野寺幸右衛門
大石瀬左衛門百五十石
早水藤左衛門百五十石
灰方藤兵衛百五
上島弥助百五十石
田中権右衛門百五十石
幸田与三右衛門
十石
二百石
里村津右衛門二百石
間喜兵衛百石
間十次郎 喜兵
中村勘助百石
菅谷半之丞百石
千馬三郎兵衛百
橋本平左衛門百石
中村清右衛門百石
高谷儀左衛門百
仁平郷右衛門百石
榎戸新助百石
河田八兵衛百石
衛嫡子
石
石
久下織右衛門二十五石五人扶持 岡島八十右衛門二十石五人扶持
村松喜兵衛二
十石五人扶持
村松三太夫
大高源吾二十石五人扶持
矢頭長介二十五
石五人扶持
矢頭右衛門七 長助嫡子
勝田新左衛門十五石五人扶持
豊田八太夫二十石五人扶持
各務八右衛門十石五人扶持
倉橋八太夫
陰山惣兵衛金
十五両三人扶持
萱野三平金十二両三人扶持
貝賀弥左衛門金十両二石三人扶持
武林唯七金十
両三人扶持
猪子理兵衛金九両三人扶持
神崎与五郎金五両三人扶持
吉田貞右衛門金
九両三人扶持
三村次郎左衛門七石二人扶持
都合六十一人に過ぎなかった。が、その当時にあっては、いずれも忠義骨髄に徹する士(さむ
らい)である。内蔵助はきっと一座を顧み「方々浅野家の御恩を忘れずここに会合された段は、
内蔵助実に満足に存ずる。しかし受城使の来臨すでに眼前に迫る今日、この有様ではいかに
すべきか。そもそもこのたびの一挙は赤穂の孤城に拠って天下の大兵を引き受けての戦いで
はないか。たとえ一家中が心を合わせて城に拠っても、一月支えるにも覚束ないのに、ただい
ま残り留まるところの数、僅々この六十余名に過ぎない。これでは一方面に当るにも足りない。
もしこの数で戦いを開けば、一日で敗れるのは必定である。そうなれば、わずかな兵を弄(もて
あそ)んであのざまは何事かと取り囃(はや)され、いたずらに物笑いとなるだけではないか。事
ここに至った以上は仕方がない。むしろ受城使の来臨を待ち、お互いの意見を上申し、いず
れも城上に切腹して殉国の本意を明らかにするのが良いと思う。方々の意見はいかがでござ
る」と諮問した。いずれも「もはや策は尽きた。それよりほかあるまい」と一統は同意する。「では
この席にて盟約を立て、同盟書に署名しよう」と一巻の盟書が取り出された。いずれも劣らず
筆を取って、姓名を自署し、紅血の血判をそえて、内蔵助の前に差し出した。内蔵助胸中の
秘計はここに至って始めてその機微を露わす。
附言 俗間に伝える諸書に、この盟書血判を四月十一日の大集会当日のこととし、大野九
郎兵衛らは進藤源四郎から同盟血判を迫られ、激論の末に逃げ出したなどと記す。しか
し十一日は多川、月岡が江戸から帰着し、開城の議を決定した日であるから、このような
事実があるはずがない。のみならず盟書血判は内蔵助が同志として将来進退を共にしよ
うとする者に求めるところで、最初から腰抜けと知れ切った大野一派にまで強いるような愚
をする内蔵助ではない。これまた例の好事者流の涅造(ねつぞう)であると、私は断定す
る。
それからこの日の同盟について、諸書の報ずるところに異同がある。室鳩巣の『義人録』
は五十六人とし、片島深淵の『義臣伝』は五十七人とし、三宅観瀾の『報讐録』は五十八
人という。のみならず、鳩巣の挙げるところと、深淵の挙げるところの人名には相違がある。
しかしながら両書に載る人名を、その後の出来事や、義徒の書状などに徴すれば、いず
れも当時の同盟に列した徒輩である。それで私は両書にある異同の人名をことごとく数え
て、ここに挙げた。ただし『義人録』中には大石主税(ちから)までをこの最初の同盟仲に
収めているが、これだけは確かに誤聞であると認める事由があるから、数中に入れない。
なお一言付け加えおく。従来刊行本の『義人録』に載せる人名中には誤りが多い。それ
は
進藤源四郎を……近藤源四郎
小山源五左衛門を……小山源五右衛門
田中権右衛門を……田川権右衛門
平野半平を……矢野半平
里村津右衛門を……里村伴右衛門
中村清右衛門を……中村清左衛門
高谷儀左術門を……高田儀左衛門
猪子理兵衛を……猪子源兵衛
などに作っている。二百年来間違いのままであるから、ついでにここに正しておく。
もう一つ、これまでの学者はとかく佳字(かじ)を用いたがって、勝手に姓名の文字までも
取替える。例えば原惣右衛門の惣の字が面白くないからとて、総右衛門にしたり、礒貝左
衛門の礒の字に和臭があるとて、磯貝に改めたり、勝手な真似をする。頼山陽なども梶原
景時の梶の字が気に入らないとて、柁原景時と書きかえている。元禄の一挙に関する学
者の著書にもこの類が多い。いかに学者でも、人の固有名詞まで捻(ひ)ねくる権利はな
い。余計なことだから、自分は一切原字原称を尊敬して、その真を残しておく。これは
後々まで関係があるから申し添える。
四四 同
盟書血判の際においても、また一、二言うことがある。六十一人中の一人三村次郎左衛門包
常(かねつね)は、有志の士であるが、その身分は御台所の小役人に過ぎない。したがって
極々の小禄であるから、他の同志の人々も彼を信じない。会議のたびにいつも出席するが、
多くは秘密の相談に入れない。この日も会議の半ばに至り、時刻となったので酒飯を命ぜられ
た。次郎左衛門は諸士の間にまめまめしく働いた。諸士はかつ談じかつ飲みながら、盟書を
拡げて私語しているところに、次郎左衛門が銚子を持って進み来るのを見て、急にその巻物
を覆い隠した。すると次郎左衛門はムッと色をなし「これは方々のなされ方とは存ぜられません。
今日は身の貴賤、禄の高下を論ずべき場合ではありますまい。私は不肖かつ少禄でござるが、
忠義を存ずる心底は方々に劣らない覚悟でござる。是非連判に加えられたい」と熱心に希望
した。たまたま内蔵助は一間を隔てて酒飯をしたためていたが、これを聞いて、直ちに声をか
け「次郎左衛門の論ずるところ、もっとも至極である。連盟に加えなされ。」と指図したので、直
ちに同盟の一人となった。次の年吉良邸を襲った際、大槌を揮って後門の扉を打ち破ったの
は、この人であった。
*
* * * *
また同盟中の一人矢頭(やとう)長助の一子右衛門七教兼(のりかね)は、僅か十六歳で父
に従って会議の席に列なった。内蔵助はこれを見て、あたら少年の蕾の花を散らすに忍びな
い。やがて静かにこれを呼び「貴殿の父は既に同盟に列せられているから、矢頭家の忠誠は
議するところもない。貴殿は若年といい、かつは仕官も浅いので、連判に入るには及ぶまい。
早々この席を引き取って、一家の祭をだいじにされよ」と懇諭した。右衛門七聴きもあえず、紅
顔に朱をそそいだ。「それは太夫のお言葉とも存じません。私はたとえ仕官していなくとも、見
る見る父が国難に殉ずるに、子としてこれに従わない法がありましょうか。ましてや不肖ですが、
児小姓として先君に仕えて一年。人臣の義は列座の方々と同様でござる。それを若年だから
といって、取り除けられるのは、私が物の用に立たないと思し召されたのでしょうか。しかしお許
しがなければ詮方ありません。この座において切腹し、微志の存するところを明らかにするほ
かありません。どうかお見届けください。」と言いも果てず、襟を押し広げ、脇差の束に手を掛
けた。あわやと傍の人々は集って押しとどめた。内蔵助をはじめとして一座はことごとく暗涙に
むせんだ。やがて内蔵助の同意を得て、欣然として姓名を署し血判をそえた。のち父長助と京
都に隠れていたうちに、長助は病死した。明くる年の極月雪の夜に讐の邸を襲った時、亡父
の戒名を書いた紙片を兜の内に収めて打ち入ったのは、この人である。ああ「忠臣を孝子の門
に求む」と古人はいった。古人は我を欺かないのだ。
附言 真誠の義徒で、まだこの最初の同盟に加わらない人々は、第一に大石主税。彼は当
時なお十四歳、まだ元服もしない少年であったから、会議の席に列しなかったのである。
それからこの日の会合までは、部屋住の人々までを対象としなかったと見える。それで吉
田忠左衛門の息子の沢右衛門、間瀬久太夫の一子孫九郎なども抜けている。かつ内蔵
助は極めて寛大で自由主義の人であるから、責任の薄い下級の士までを強いて同盟に
加えようとしなかった。現に横川勘平などは、近在にあって、後命の来るのを今か今かと
待ちかまえていたにもかかわらず、通知に漏れた。茅野和助などもおそらくその一人であ
ったろう。寺坂吉右衛門は余りに身分が隔たっていたので、志はあっても申し出る機会が
なかったのである。
次に堀部弥兵衛、奥田貞右衛門、富森助右衛門、赤垣源蔵、不破数右衛門、間新六は
江戸に在勤していたから、同盟に列しようはずがない。次に矢田五郎右衛門、木村岡右
衛門、杉野十平次も同じく在府中と認める理由がある。前原伊助は当時どうしていたかわ
かっていない。
同じ江戸常勤の者でも、片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門はこの際赤穂に来ていたが、
まだ内蔵助の真意を知らず、自分の意見を固執して同盟に加わらなかった。
それから堀部安兵衛と奥田孫大夫は江戸を発って西上の途中にあったので、この会合
に加われなかった。
最後に一人の疑問者は、倉橋伝介である。この人もこのたびの同盟中に見えない。ただ
このリストの中に倉橋八太夫という名がある。この人が倉橋伝介と関係があるのかもしれな
い。
四五 同
六十一人が血を注いだ神文の盟書は、内蔵助の前に提出された。内蔵助は欣然としてこれ
を取上げ、皆の前で一々姓名を読み上げた。一座は粛然として声を呑み、決死の色が人々の
顔に表われた。内蔵助は再び口を開き、
「今日ただいま、方々の忠節を認め、ひたすら感激の至りにたえない。ついてはここで方々と
秘議すべき一事がある。このたび先君には、上野介の無礼を憤(いきどお)りなされ、殿中にお
いて打ち果そうとされたが、事はその志と違い、先君にはあのご始末、上野介は正しく我が君
の讐敵ではないか。その上野介はケロリとしてこの世にあり、これこそお互いが不倶戴天の讐
(あだ)である。われらが心を一にし力を合せて彼をうかがえば、まさか志を達せぬことはあるま
い。死は一つのみ。ここにて徒らに殉死するのと、先君の欝憤を散じてのち死すると、方々は
いずれを取るか。お互いにこの挙を企てて、もし仕損じても、大義を天下に宣することはまちが
いない。方々いかが思われるか」と決然として申し出た。座中の勇士は始めてここに雲霧を払
って天日を仰ぐ思いをし、小躍りして喜んだ。いずれも異口同音に、
「もとより希望するところでござる。願わくば太夫の指揮に従って、粉骨砕身致したい」と即答
した。
この時座中の一老人は首を傾け、
「一段の企て至極のことではありますが、これはもとより容易なものではなく、一朝一夕に成就
できるとは思われません。われら生存中にその挙に達せず、万一不幸にして病死などすれば、
先君に対しまた世上に向けても、申訳の言葉もない。むしろ前議に従って、城での殉死と決定
して下されまいか」
これはまことに老実な嘆願であった。内蔵助はこれを慰め、
「至極ごもっともな精神、私も多病の身だから、そう考えないでもないが、すでに神文に血を
注ぎ、連判した以上は、もはや我らは一心同体。たとえ不幸にも先だって死ぬとしても、後に
残った人々がその目的を達するなら、われらが全体がなしたと同然ではないか。もしや多くの
衆が死に、三分の一となっても、精神一到このことに従えば、両三年を出ないうちに、讐(かた
き)の首級を挙げえよう。方々の忠誠は神もみとめるであろう。私は上天の助けを得て、このこと
は必らず成就すると疑わない。『小を忍ばなければ大謀を乱す』というではないか。殉死だけ
では故主への忠義をまっとうするのに不十分である」
という。その態度なり、その言調なり、泰山前に崩れ落ちるとも、たじろぐ様子は見えない。老人
も安心すれば、衆士はなおさら隠然たる一敵国を得た思いをする。こうして秘密同盟は成立し
た。が、これはもとより秘中の秘として、親族朋友にも他言しない盟約であるから、籠城か殉死
かのほかに何かあるとは、誰も知る者はなかった。
ああこの六十一人、もしこの時の精神を失わなかったなら、先だって病死もしくは自殺した橋
本平左衛門、萱野三平、老岡野金右衛門、矢頭長助らの三、四士を除いても、江府その他に
散在する同志の士を合せて、打入り当夜七十余名の義徒を数えるはずである。しかし時日が
経つにしたがい、またまた一人減り二人減り、大事決行の日には、早くも神文中の二十九人が
忘義背盟の数に入った。人心の頼み難いこと、古今実に同嘆である。この間に処した内蔵助
の焦心を思えば、今なお同情の感にたえないものがある。
四六 同
内蔵助の書
最初は籠城、次には殉死、最後に初めて復讐と決した事態の外面のみをみれば、やむをえ
ずこう変化したようであるが、その実内蔵助の真意は当初から復讐にあったのである。内蔵助
は先ず籠城を主張して、人心の向背を察し、次に殉死を提唱して、神文に血まで注がせ、ここ
までついて来る者ならば、確かに死生を共にするに足る人物だと見極めてから、復讐の真意
を明かしたのである。たとえば恒沙の河で金剛石を採収する職人が、大ざるから中ざると、
段々ざるを小さくして、砂岩を除き、金剛石を見出すのと同じ手段である。これには確かな証
拠がある。三月二十一日内蔵助自身が中心となって、籠城を議したその当日、彼は密かに男
山八幡宮の法印大西坊に次のような書面を送っている。
急ぎ一筆したためます。最近の当地の騒動については忙しくて知らせもせず、是非なき
次第と、家中一同の心底お察し下さい。様子はすでにお聞きおよびのことでありましょう。
私自身は何方へでも片づくつもりでいますが、差し当たり何処へという心当りもなく、難渋
しております。それにつき山崎辺か山科辺に上下十四、五人で住まいたいと考えておりま
す。上方の様子不案内につき、浪人などが住むのに悪いところもあろうかと思うので、この
点を了解され、伏見か大津辺あるいは貴僧の近処で適地を教えていただきたく、お願い
申し上げる。以上。
三月二十一日
大石内蔵助 花押
大西坊
西之坊
専成坊
この男山大西坊には内蔵助の曽祖父良勝がいたこともあって、代々大石家から住職が出て
いる。現に内蔵助の弟専貞師もここに住んでいた。師は元禄十一年に逝去したので、今は内
蔵助の従弟の証讃という人が後住(ごじゅう)となっており、大石家とは深い縁故がある。この書
によって、内蔵助の真意はしばらく居を山沢に潜め、機会を図って博浪の一撃を試みようと考
えていたことを、十分に知ることが出来る。
これについても思い起すことがある。長州藩が攘夷令を奉じて、攘夷実行の真最中、攘夷党
の統領周布(すふ)政之輔は井上聞多(今の馨侯)、伊藤俊輔(今の博文公)、山尾庸三、遠
藤謹助らを密かに英国に遣わした。一面からみれば矛盾のはなはだしいものであるが、その
実は攘夷によって、惰気を振い落し、さらに討幕の挙に及ぼうと志したのである。攘夷と籠城、
和議と開城、遣欧と隠栖、討幕と復讐、事に大小の別こそあれ、俊傑の見るところするところは、
古今同じである。自(おの)ずから符節を合すようなところがある。胸に光風斉月を蓄える者で
なければ、なかなかこう考えるものではないと、私は思う。
この頃の内蔵助の多忙は常人の思うところを超えている。彼は一方で藩の向背を定め、先君
の名誉を辱しめない大責任を背負い込んだ。これだけでも容易でないのに、一方では日頃吏
才にたけ権勢を誇った大野の一派は気を落し、胆を奪われて、物の用に立たないので、藩の
内治外交にも当らねばならない。いわゆる「一身万難に当」った。その有様は小野寺十内秀和
が京都にある同族小野寺十兵衛に宛て赤穂から送った書面でよくわかる。その一節に、
格別の寸志有る者は、内蔵助について、次のように申している。内蔵助の働きは家中で
一等に感じられる。進退を天に任せたように見える。まだ年が若いので少しも考えあぐむ
様子もなく、毎日、終日城におり、万事を引き受け、少しもたじろがない。滞(とどこお)りな
くすべてを捌(さば)いている。
これによって、衆望は一身に集まり、一藩は実にこの人に信頼して前後の処分を待ったこと
がわかる。
四七 哀願使の無能
共に哀願の使命を受けた多川九左衛門と月岡治右衛門は、二月二十九日に赤穂を出発し、
四月四日に江戸に到着した。さていよいよ江戸に到着して聞き合わせると、荒木、榊原両副受
城使の一行は、四月二日にこの地を出発して、西上した後であった。両人は面喰った。この際
両人に内蔵助の心を心とする忠誠があったなら、直ちに他の在府の目付について、願意を上
申するであろうが、凡物の彼らは途方に暮れ果て、出発の際に懇々申し付けられた内蔵助の
訓令を一切忘れて、江戸家老の藤井又左衛門、安井彦右衛門に相談した。そこで万事を打
ち明けたからたまらない。藤井、安井は果して仰天した。「それこそ大変、さような珍事を仕出
かそうものなら、大学殿始めわれらに至るまで、いかなる災難に会うかしれない。それはともか
く戸田采女正殿に申し上げて指図を願うほかない」とあわてた。
四人の凡骨は同道して大垣侯に会い、使命の趣旨を一通り申し出た。大垣侯は哀願書を
読み、これは容易ならぬ企てであると看て取ったから、老臣中川甚五兵衛、高岡代右衛門に
逐一両人の陳述を聴き取らせた上「このような暴挙を企てては、日頃の内匠頭殿の忠誠も水
の泡となり、大学殿始め、重ねて重い仕置に会うことは必定である。その時は内蔵助ら家中一
同の行為は、忠義を尽して、かえって不忠の筋となってしまう。それでも是非に御目付衆に出
訴しようとの覚悟なのか」と突き込ませた。すると両使は腰を抜かして、さような次第ではありま
せん。筋立った趣意を伺えば、在国の者どもも納得します。くわしい書面でも書いていただけ
れば、それを頂戴し、馳せ帰って一同に見せ、開城をお受けするようさせます」と返答した。さ
らばとて翌日大垣侯は次の内容の親書を両人に渡して、赤穂の衆に送った。
多川九左衛門と月岡治右衛門の両使により差し越された紙面の趣き、まことに無骨の至
りである。当地の状況が不案内のせいであろう。内匠頭が日ごろ公儀を重んじ、勤仕され
ていることは誰も知っている。内匠頭と家中の奉公のありようは、速やかにその地を引き払
い、城を滞りなく渡すことである。それが公儀を重んじる内匠頭の日頃の信念にかなうも
のだ。申すまでもないことだが、追々指図のとおり守り、早速穏便に退くことが肝要である。
この旨を家中の面々よく承知し納得しなければならない。
已四月五日
戸川采女正 印判
浅野内匠家老中 番頭中 用人中 目付中 総家中
追伸 当地に詰めている面々は、最初から上記の旨を納得している。以上
両人はこれを受け取って退いた。藤井と安井はその上に上意奉戴の勧告状を書いた。なお
また両使出府の趣意を浅野大学の耳にも入れたので、大学氏からもまたまた懇々と開城の説
諭を受けた。両使はこれらの諭告、勧告の諸書を持って、即日再びもと来た五十三駅へと上っ
た。
これについては、義士贔屓(ひいき)の室鳩巣翁すら内蔵助を責めて「この件では良雄は人
を知らないといえる。思うに両使は才弁を好んだ者であったから、良雄も惑わされて使節に選
んだのであろう。大節ある者は命令を緩急自在に成し遂げるが、口弁の士はそれが出来ない。
ああ、人を用いる際には留意しなければならないことだ。」と論じた。内蔵助もこれに対しては
一言もないであろう。内蔵助はこの哀願については、初めからさほど重きを置いていない。願
意がとうてい届かないことは、派遣の前からわかっていた。その証拠には、両使の復命を待た
ず、開城を決定したのでも明らかである。開城の口実を作っておこうとの計略に過ぎなかったと
思われる。さりながら両人がこれほど意気地無しであろうとは気付かなかったらしい。鳩巣の言
うとおり、日頃の口達者に迷わされ二人を用いたに相違ない。
四八
開城の決議
多川、月岡の両使はさすがにこのたびは検使の到着前にと急ぎ、四月十一日に赤穂に帰り
着いた。そのまま戸田采女正からの諭告書ならびに藤井、安井らの私書までを合わせて内蔵
助に渡し、使命についての概略を報告した。内蔵助は、両使のうつけに呆れたであろう。だが、
さまでは驚かない。とにかくこの復命の如何は家中一同が首を長くして待っているところである。
それで内蔵助はまたまた城中に大集会を催した。江戸の首尾は誰にも大概想像されるので、
前日の籠城論ないし殉死論に風をくらって出席しなかった連中も、おおむね参加した。内蔵
助はやがて采女正からの諭告書を取り出して、これを読み上げかつ大学からの諭旨をも陳述
したのち「大学殿のお耳にまで入った上は、遺憾ながらもはや仕方がない。この上強いて籠城
すれば、大学殿も同意のように思われ、いかなるわずらいを御家に及ぼすか知れない。それ
ゆえここは大垣侯の指図に従って、一旦開城に決定し、検使の来場を待ち受けて、一応も二
応も大学殿に跡目が仰せ付けられるよう嘆願するほかはあるまい」と投げるように言い出た。腰
抜けの輩が最初から期待していたとおりである。また忠義の士はすでに密約を定めた後である。
それで本来なら第一に異議を唱える原惣右衛門が「いかにもここに至っては、太夫の意見に
従うほかはあるまい」と答えたので、衆議は直ちに一決した。昔から羊質虎皮(ようしつこひ)の
奴らを評して「草を見ればすぐ猛り、狼を見ればすぐおののく」という言葉があるとおり、ここに
至って大野九郎兵衛らの一党は大いに威張り出した。「それみたことか、籠城だの殉死だのと、
忠義面に言いつのって、一家中を立ち騒がせ、とどのつまりはやはり開城か、ザマをみよ」と嘲
り笑い、またまた昔日の太夫顔をして、内蔵助の処置につき、何のかのとくちばしをはさみに
来た。
この時浅野家一門の大小名から発せられた開城の論告使は、続々として赤穂に入り、主君
からの訓令を内蔵助に伝達する。なかでも大垣侯は多川、月岡に付与した論告書のみではま
だ心もとなく、その翌日さらにその家臣正木笹兵衛、蓑渡(みのわたり)平右衛門に再度の諭
告書を付し、先頃から赤穂に派遣しておいた家老戸田権左衛門へこれを渡し、まのあたり内
蔵助に開城のことを懇命した。それで内蔵助はここに始めて論旨に従い、正式に開城のお受
けをした。十二日にもまた引続き大集会を催して、このたびは開城および離散の準備、ならび
に民政の処分等につき、一々決着をつけた。さてその方法が一代の見物(みもの)であった。
これから順序を迫って、処理の次第を見てみよう。
四九 善後の処分
寺院への寄付
四月十二日の朝早くから、内蔵助は城中に諸士を集めて、諸般の処分を下し始めた。第一
には受城使に引き渡す本城備付の武器、その他の整頓である。これには一々目録を作って
一目瞭然となるよう準備させた。第二には城内の掃除から、受城使の経由する道路や橋梁の
修繕および清掃である。第三には民政の処分、なかでも藩札引換えの処分である。大野九郎
兵衛が専ら担当した時代に、藩札を乱発し、民間の硬貨を吸収した。それが一旦廃藩となっ
て、そのままにして立ち去られた日には、これこそ真の不換紙幣となり、びた一文の価もなくな
るのだから、領内の人民は騒ぎ出した。なかでも赤穂城下の町人は、九郎兵衛の日頃の処置
ぶりを知っているから、騒ぎは大きかった。内蔵助はこの日金奉行を全員集め、藩庫にある一
切の金銀を取り調べさせた。そして勘定方兼札座奉行の岡島八十右衛門に命じ、札座にお
いて六分標準、つまり札一貫目につき銀六百目の率により引き換えると、領内に布告させた。
これには人民が驚いた。「さても同じご家老ながら、こんな有難いご家老様がこの藩にもおわし
たか」と感涙を流して嘆称した。想うに城内の掃除も行き届いたであろう。道路の清掃も見物
(みもの)であったろう。だが、腐らかした民政の掃除、つまり濫発紙幣の引換えは、もっとも美
事であった。われらも赤穂の人民とおなじく、感嘆者の一人であることを禁じ得ない。一国の大
臣、担当の臣たる者はこうありたいものである。
なお翌十三日にも藩士はおおむね城中に集った。この日内蔵助はまた岡島八十右衛門に
命じて、藩札引換えに当てられた以外の金銀をことごとく会議の席に持ち出させた。その金額
は、御城付きの金二千五百両、御納戸金一万千二百両、御台所預金二千七百両、合計一万
六千四百両であった。内蔵助は一座に向い「いよいよ城の引き渡しが決定した以上は、この金
で今後の処置を片着け、皆々の立退料にも充てなければならない。本日はこの金の分配を行
う。」と述べた。「赤穂における金配当の評議」とは、この際のことをいうのである。これらの問題
は小人をにわかに能弁家とし、惰夫(だふ)をたちまち勇者とする問題である。大野九郎兵衛
らは出来るだけ多額の分配に預ろうと、肘を張って待ち構える。内蔵助は第一に浅野家の菩
提所および同家に由緒ある寺々への寄付金をこれから取除いておこうと主張する。これは今
後とも君家の祭祀が絶えないようにとの注意であるから、異議のあるはずがない。ただちにそ
れは決定した。後に内蔵助はその金を寄付させた。
華岳寺へ
田畑三町五反一畝六歩
高光寺へ
円畑五反三畝九歩
大蓮寺へ
田畑四反五畝二十九歩
遠林寺へ
金五十両
第二に内蔵助は先君の未亡人瑶泉院殿の御化粧料、これは返納しなければならないと主
張した。というのは、瑶泉院が浅野家に入った時、化粧料として持参された金である。その後
その金は藩庫の備金に入れて低利で人民に貸し付けられた。その利息を化粧などの用途に
充てたのである。それで内蔵助の主張に対し、異議のあるはずはない。いずれもごもっとも至
極と賛成した。先ずこれまでは至極無事であった。次の第三項に移ってからいよいよ今日の問
題となった。
五〇 赤穂の一日
私は明治四十二年六月十七日、東京から帰る途中、赤穂の遺蹟を見舞おうと考えた。山陽
線上郡駅から下り、千草川の長流に沿い、南播磨路を指して人力車を走らせた。播磨といえ
ば、日頃何となく平旦な土地のように思っていたが、来てみれば山脈は重畳として、赤穂の一
郡を三面から取り囲んでいる。封建時代の眼で観れば、美事な山河の固めだとほめてもいい
が、観光客に取っては、困難な山阪の連続に苦しんだ。ただ車の過ぎるごとに見る大小の赤
松が、枝をそろえて長生する。さては赤松円心の本国だなと、歴史趣味がそろそろ頭をもたげ
て来た。
周世(すせ)阪を越えると、大石内蔵助良欽(よしすけ)が持仏の観世音を安置するために神
護寺を創立したのは、名前から判断してこの村だなと思い、尾崎村を経ては、内蔵助良雄の
忠僕八助の居た村はここであったかと思い、路行く人に聞くと、その子孫は今も村内に住むと
いう。帯のような山脈の左に見える鷹取越は、脇坂淡路守安照が一隊を率いて越えて来たとこ
ろ。中村に達すれば、ここは良雄が城池を浚(さら)って検使の来臨を出迎えた場所。その状
態はあたかも旧識の人々が争って私を迎えてくれる心地がするので、うち続く快感に打たれつ
つ、六里十一町の道程を遠いとも覚えず、良雄の生まれ故郷赤穂に到着した。
現在の赤穂町は戸数一千三百、人口六千八百の小都邑(とゆう)に過ぎないが、有名な赤
穂塩産出の中心点。塩田は赤穂町、塩屋村、尾崎村、新浜村にまたがっている。塩の産額は、
一年に百三十万円から百五十万円の間を出入する。当年の浅野家が五万三千五百石の一
小藩にもかかわらず、富裕の大名と称せられたのも偶然ではなかったことが追想される。
やがて地方の郡長、郡書記に案内されて、いわゆる苅屋城の遺蹟を巡覧した。城郭の石壁
はところどころ破損して、ややさみしく感ずるが、本丸、二の丸、三の丸の旧形は依然として残
存する。他の城と比べると、十七万石時代の黒田如水父子が築造した中津城などは、はるか
に赤穂城の下風にある。これでその規模の如何が察せられる。この辺は一帯は海に近いから、
城下の飲料なども塩味を免がれまいと問えば、その昔内匠頭長直が築城の際に土管を城内
城下に装置し、上水を引いて全域に通じたので、二百数十年後の今日まで、町民は皆その恩
恵に浴しているという。用意の周到さに驚嘆した。
良雄の宅趾(たくあと)は三の丸内にある。住居は廃墟となったが、長屋門だけは寂しげに残
っている。邸内の面積は意外に狭い。しかしさすがは当時の上太夫の邸だけに要勝の地点を
占めている。代こそ変れ、良雄遺愛の枝垂れ桜の子孫は、そのまま糸を垂れている。頼三樹
の詩に、
白桜千古幾開落
白桜は千古から幾度開いては落ちたことか
義士遺栽香自高
義士の遺栽は自から香が高い
為想燕都復讐日
燕都の復讐の日を想うと
雪華爛漫満弓刀
弓刀に雪華が爛漫と落ちる
というのも我が意を得た。同じ区画内に近頃吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)の屋敷跡から移し
植えたという桜の老樹はその幹の巨大なこと、兼亮の巨躯であったのと相応じて、そぞろに兼
亮その人を回想した。
それから華岳寺に向う。寺前から目を上げて山門を見れば、堅牢さといい、形状といい、寺
院の門とは受け取れないので、同道者に質(ただ)せば、これは城の搦手(からめて)にあった
塩屋門を移したものという。さてこそと首肯(うなづ)きつつ寺に入り、浅野家三世の墓、四十七
士の墓、その塑像、忠義塚、さては遺書、遺物を見れば、まのあたりに古人に接する心地がし
て、感慨の情を禁じることが出来ない。私は和尚に「このような結構なお寺を、今日いかにして
維持しておられるか」と問えば「これも石太夫のお蔭」という。「それはなぜ」と推し返せば、和尚
はおもむろに「この寺は元禄の事変までは浅野家三世の菩提寺となり、後には宝永以来森家
世々の香華院となりましたので、豊かに寺を持ち続けましたが、維新の変革についで、廃藩置
県となり、侯家の供給はほとんど絶えました。そのため一時は一山の維持に差支え、廃寺同様
の運命に会いました。その際寺の古文書を調べて、図らずも見出したのが、石太夫の赤穂退
去の際に寄付しておかれた三町五反余の寄付の書類でございます。それから段々書類を証
拠に調べてみますと、依然として、その地は寺の所有でした。当時は山門が豊かで、田地の収
入など当てにしなかったのが起因で、いつともなく小作の全作取りという姿になっていたので
す。それ以後その田地は山門の直轄となり、稲米雑穀を合せ一年八十石ばかりの収穫がある
ので、維持も出来たのです」と答えた。ここに至って良雄の方策は、更に余沢を見る。「忠志空
しからず、永く爾(なんじ)の類に賜う」ともいえる。閑談は尽きなかったが、暮色は四方から寄
ってくる。「さようなら」六里十一町。上郡駅を経て夜半新太郎少将光政の旧城市岡山に達し、
一宿して帰った。
五一 国庫金の分配
本問題に立ち返える。菩提所始め由緒ある寺々への寄付金と、瑶泉院殿の用度金とは決定
した。これからがいよいよ分配である。大野九郎兵衛らはいかにして多くの分配が自分たちの
所得になるかと左思右考する矢先、内蔵助はまた一案を提出した。「浅野家の再興について
は、用意の金がなくてはならない。これにも若干は取り除いておかねばならない」と言い出した。
またしても内蔵助の要らない忠義だてと、九郎兵衛らは劫(ごう)を煮やしたが、主家再興の準
備金は不必要という訳にもいかず、不承不承に同意した。この金額は約一万両となったようだ。
これが取り除けられると、やっとのことに、分配問題にと入った。
平民主義の内蔵助はまたまた案を出し「さて方々への分配であるが、高禄の人々には自から
余裕がある。たとえ家産を売り払っても、相応の支度金は出来るであろう。だが小禄の者はそう
はいかない。それゆえこの分配は禄高の高下を問わず、家中一同へ平等に割り当てたいと考
えるが、いかがでござろう」と諮問した。すると九郎兵衛はその席から乗り出し、「拙者は大いに
不同意でござる。高禄には高禄、小身には小身相当の分限がある。小身の手合なら一両で事
足る場合でも、われわれの分限では十両も二十両も要る。分限の如何を問わず、家中一同へ
平等の割当には、拙者は同意できない。」と異論を唱えた。九郎兵衛に連なる俗論党の番頭
伊藤五右衛門、外村源左衛門、玉虫七郎右衛門を始めとし、近藤源八、岡林杢之助(もくの
すけ)らはおおむね高禄であるから「これは大野氏の意見が至極もっともである。われわれは
いずれもこれに同意する」と、声援する。一般小身の人々はいつもながら内蔵助の公平に感
服しているが、起って九郎兵衛の説に反対すれば、我田引水とみられる苦しさに、こればかり
は正義党も口を喋(つぐ)んで、一言も発しない。九郎兵衛説がこの席では輿論の形になった。
その説は必ずしも一理ないではないから、寛裕な内蔵助は「それなら禄高の割合で分配する
のもよろしかろう」と同意した。現金額と総禄高との比例が取られ百石につき金二十四両の分
配に決定した。
附言 従来の諸書が伝える藩庫の残金額は、一定しない。多くいう者は三十万両などと記し
ている。しかし赤穂がいかに富裕であっても、多額の藩札を硬貨と引き換えた残金に巨
額の金があろうはずがない。今赤穂分限帳によって、
上下の総扶持高を概算すれば、
ざっと二万五千石。これに百石につき二十四両の分配率で配当したところで、八千四百
両である。これでも金高は知れるのである。思うに江戸邸には江戸邸相応の準備金があ
ったろう。したがって定府その他江戸詰の上下処分については別に幅を持たせたに相違
ない。さてその江戸在府の人々の禄高を算すれば、士分以上でも六千石以上に上る。こ
れに歩行足軽まで加えれば、八千石は下るまい。三万五千石の総高からこれを除き、残
る二万七千石に前の率を推し当てれば、ちょうど六千四百余両となる。それで私は『赤城
義士年鑑』に挙げる金額に従って一万六千四百両説を採用する。
五二 大野父子の逃亡
分配率は決まった。内蔵助は同志の一人で札座奉行と勘定方を勤める岡島八十右衛に命
じ、その率に従って各人に金の分配を開始させた。八十右衛門は原惣右衛門の弟である。彼
は各人の受取額を計算し、先ず内蔵助の分を取って「お改めの上お受け取下さい」と差し出し
た。すると内蔵助はこれを押し返し「私は要らない。これを受け取らなくても、困らないだけの覚
悟がある。これは諸士の方へ組み込み下され。」といい、ついに受け取らなかった。彼の天性
が恬淡(てんたん)、寡慾(かよく)であったことは、この一事でもわかる。次には大野九郎兵衛、
これは分配額が予期に反し割合に少ないので、不承不承に受取った。こうして番頭から物頭、
用人から奉行と、順番に行き渡った。が九郎兵衛は藩札引換えの挙や主家再興の用意金取
除けの挙が、腑に落ちない。あたかも八十右衛門所管の札座の役人中に藩札引換えのため
に付托された現金すなわち硬貨の一部を引き掴(つか)んで出走した者があった。一藩廃絶
の折から、藩札引換えの傍らには、用金分配の事業もあるので、奉行の八十右衛門もこれを
未然に制止することが出来なかった。ここに至って九郎兵衛の不満の声は八十右衛門に向け
られた。「札座の役人が御用金を引っさらって逃げたとな。小役人どもばかりでもあるまい。奉
行も同じ穴の貉(むじな)であろう」と満坐の中に悪態をついた。九郎兵衛は必らずしも八十右
衛門のみを罵ろうとしたのではない。これを信用する内蔵助にも当ったのである。これを耳に
するや否や、正義党の勇士らは大いに憤激した。なかでも岡島八十右衛門常樹(つねき)は
烈火のように憤った。「籠城と聞けば腰を抜かし、あまつさえ一藩の士気までをはばみ、分配と
いえば所得を争って、私議を逞(たくま)しゅうする。彼こそ真の禄盗(ろくぬすっと)だ。その禄
盗の身をもって人に賊名を被(かぶ)せるとは、不埓(ふらち)千万、聞き棄てならない。よし第
一に彼の首を刎(は)ねて、不忠不義の徒の戒めにしてくれよう。」と、所掌の金員分配が終わ
るや、九郎兵衛宅へと押し掛けた。
「岡島八十右衛門、お尋ねしたいことがあって参上した。是非ご主人に面会したい。」と大野
の家の取次に向って申入れた。その剣幕のただならないのに驚いて、取次は九郎兵衛に告
げる。さてはと九郎兵衛は感づいて、留守をいわせた。「では後刻」といって立ち去ったが、夜
に入って再び来る。再び「お留守」「よしそれならば」と帰ったかと思う間もなく、三たび大音に
「頼もう頼もう」の声がする。首を挙げるまではこの門を離れまいとの意気込みは、臆病未練の
九郎兵衛の心臓の上にひしひしと反響する。しかもこのたびの八十右衛門は、留守の手には
乗らず、遮二無二奥まで押し通ろうとする。もはや絶体絶命である。「ただいま帰宅したが、急
病を発して、何分今夕は面会致し兼ねる。平癒次第、必らずお会いするので、今夕は平にご
容赦を蒙りたい」と泣声で訴えたから、これしきの奴を平らげるのに、今夕にも限るまいと思っ
たのか、八十右衛門はまたまた引き返した。
虎口を逃れて、ホッと一息した九郎兵衛は、片時も油断できないとて、伜郡右衛門と密儀を
凝らした。人目にかからないよう親子別々に逃れるにしかずと、九郎兵衛は急に女乗物を用意
させ、これに乗って盗むように、その夜のうちに逐天(ちくてん)した。続いて伜の郡右衛門も女
房を引き連れ、これも同じく姿を隠したが、余程周章(あわて)たものと見え、その際乳呑児が
乳母に抱かれて寝ているのを、もし起して泣き声など立てられては大変だとでも思ったか、そ
のまま起しもせず、打ち棄てて立ち去った。親に似ない子を不肖という。さすがは九郎兵衛、こ
の親にしてこの子ありだ。郡右衛門の方は不肖の子ではない。まことに親に似た肖の子といわ
ねばならない。
これについて面白いのは、二組の兄弟である。先に城中の大会議のとき、九郎兵衛が籠城
の議を阻もうとしたのを、一喝して退去させたのは原惣右衛門であった。また後に九郎兵衛が
金の分配から雑言を吐いたのを憎んで肉薄し、ついに逃げさせたのは、原惣右衛門の弟岡島
八十右衛門である。一方は大野父子、一方は原兄弟。彼は貪欲にして卑怯の痴物(しれもの)、
こちらは廉潔にして義勇の士、揃いも揃った対照であった。
五三 同
内蔵助とクレベル将軍 大野九郎兵衛の女と梶尾某
大野九郎兵衛は、日頃賄賂を事として一家の富を積んだ。国難以来は紛擾(ふんじょう)に
乗じ、自分の地位を利用して、またまた幾多の不正を働いた。もっぱら逃げ支度をして、目立
たないように一家の財産什器を荷作りし、赤穂の町家、木屋と大津屋の両家に密かに預けた
荷物の個数は百箱もあった。だが、岡島八十右衛門に迫られ、ついにどこともなく失踪した。
翌朝このことが城中に広がると、さすがに寛容の内蔵助も腹に据えかねた。
「その身一藩の家老でありながら、君家のことを憂慮しないばかりか、藩務がいまだ終らない
のに、私財を隠して逃げ去るとは、人臣として不届き至極である。私財をことごとく差し押え、封
印して預った家に保管させ、許可を与えない限り、決して本人に渡してはならないと厳命せよ」
と申しつけた。憎さも憎い九郎兵衛のことであるから、人々は争って暴(あば)き出した。隠して
いった私財の一切は、即日残るところなく封印された。だが、伜の郡右衛門が乳飲児まで棄て
て逃げたと聞くと、内蔵助はそぞろに惻隠(そくいん)の情をもよおし「ああ、子に何の罪がある。
不便(ふびん)なことよ。助け取らせよ」とて、直ちに人をしてその児を連れてこさせ、保母を付
けて育てさせた。
ここに至って私は実に心も広く体(からだ)もゆたかに覚える。フランス大革命の際に共和軍
の名将クレベルが、ある時ドイツの野に戦い、勝に乗じて進軍すると、途中で揺り籠に入れた
まま赤ん坊が棄ててあるのを見出した。鬼神をもひしぐ将軍クレべルは馬上にその児を抱き取
って、弾丸雨注の中を進撃し、かつ指揮し、かつあやし、敵軍が強く当るのを見ては眼尻を決
し、赤ん坊の親しみ笑うを見ては心を和(なご)ませ、終日血戦を続けた。後に「あの日の戦い
ほど忙しかったことはなかった」と大笑した。クレベルは真の英雄、内蔵助も真の国士であった。
大丈夫たる者はかくありたいものである。
*
* * * *
事のついでに九郎兵衛の始末をつけておこう。彼は本来赤穂の藩士ではなかったらしい。
元禄十四年に先だつこと十七年前、貞享二年に水戸中納言光圀卿が『大日本史』の資料収
集に、学者を関西に派遣した時、命を受けた一人が周防の徳山に赴いた。その折城主の毛
利侯が接伴に出した男は、徳山の町奉行大野九郎兵衛という者であった。それで水戸ではあ
の男ではなかろうかと、当時話題にしたということである。何でも彼の様子は変り物だったらし
い。とにかく内匠頭にへつらいおもねって、いわゆる仕置家老にまで立身したのであろうが、こ
こでまったく馬脚を現わしたのである。
*
* * * *
九郎兵衛父子はこのとおりの卑夫、小人であったが、その縁者には珍らしい士があった。そ
れは備中の人で梶尾某という士であるが、九郎兵衛の女(むすめ)はこの人に縁着いて、三人
まで子をもうけた。すると今度の赤穂の変である。追々に紛擾の知らせが届く。続いて九郎兵
衛父子が国難を見ながら逐電したと聞えるや否や、梶尾はその妻に向い「そなたの父は家老
でありながら、この場に及んで失踪するとは、不忠とも不義とも申しようがない。こんな人の女と
添うのは武士の道ではない。今日限り離縁する。しかしそなたに罪があるのではないし、今は
帰る家もない。別宅に引き移って、生涯を送られよ。三人の子供らがそなたに孝養をつくすか
どうかは、また自から子の道であるから、その意に委せる。自分は再びそなたとは対面しない。」
と言い聴かせ、召使って来た下婢を添えて、別居させた。その後梶尾は「罪のない者に不快を
感じさせるのは道でない」とて、終生独身で世を送ったということである。『閑田次筆』の著者は
これを記し「このような節操は易きに似て、じつに難しいことだ」といった。真にしかり。義あり、
情あり、操あり、愛あるこの人は、真の武士、また真の紳士である。
五四 間諜の放免
吉田忠左衛門 竹井金左衛門
大野九郎兵衛父子は逃亡する。彼ら一味の俗論党は息を止める。一藩の解体は日に日に
激しくなっていく。しかし齢(よわい)すでに六十をこえたけれども、思慮周密(ちゅうみつ)で、
忠勇兼備する老功の武士に吉田忠左衛門兼亮もあれば、これより五、六歳若いが、資性重厚
で、大事に当っても沈着な原惣右衛門元辰(もととき)もある。加えてその年令は忠左衛門に
迫り、理義明白、義勇衆に抜きん出ている小野寺十内秀和もある。内蔵助は彼らを率いて、
一々施策の決定に参加させた。そうして打物取っては万夫にも負けない壮年勇猛の士、神文
に血を注いで死生進退を共にする者は、なおまだ数十名を下らない。内蔵助はこれらを中堅
として一藩の士(さむらい)衆を指揮し、たとえ早晩この城を開け渡すとも、その暁に達するまで
は、指一本でも亡君から預ったこの城に指さされまいと、大手搦手それぞれ場を定めて、守備
を厳にする。四隣の列藩は、内蔵助の真意が測られないので、一意に戦備を急いでいた。
*
* * * *
この際のことである。ある日足軽頭の吉川忠左衛門は、その部下の一隊を率いて、城中を巡
察した。城内には開城準備のために修繕やら掃除やらに、多くの人夫職工が入っている。忠
左衛門はこれらの人夫が働くのを見ていたが、たちまち人足中の一人に目を付けた。「あいつ
は胡論(うろん)な奴だ。それ召し捕れ」と号令した。「よし」と応えつつ、兵士はばらばらと立ち
掛ろうとする。かの人足は「しばらくお待ち下され」と叫びつつ、悪びれもなく忠左衛門の前に
平伏し「どなたかは存じませんが、眼力のほどまことに恐れ入りました。ご注目のとおり、私は隣
国より入り込んだ間諜の一人で、城中の備えと人数の多少を見て取ろうと、人足に混っていた
者でござる。すでに露見した上は、我が運命も尽き果てた。この上はご慈悲により、武士の情
け、縄目の恥を与えず、この場において切腹を許されたい」と申し出た。忠右衛門はこれを聴
いて、打ち笑み「やはりそうであったか。いや士は各々その主のためにする。われらの籠城も、
貴殿の間諜も、人臣の分を果すものでござる。もしわれらどこまでも籠城し、敵に当るつもりで
あれば、城中の形勢を秘密にする必要もあるが、今日はご承知のとおり、無主のわれら、やが
て受城使の来臨を待ち受け、腹掻き切って亡君の後を追うつもりであり、秘密を守るにも及ば
ない。むしろ貴殿のお望みをかなえよう。遠慮なくこれより我が後に着いて、城中の有様を隈
なくご覧なされ。」と先に立って歩き出し、ここは本丸ここは二の丸と、一々指して縦覧させた。
間諜はこの老隊長の雅量(がりょう)に感泣した。「まことに失礼ではござりますが、貴殿の姓名
は何といわれますか。伺いとう存じます」と彼は感謝の意を込めて申し出た。すると忠左衛門は
頭を振り「いやそれはご免こうむる。先刻も申したように、人は各々その主のために動く。私は
貴殿のご苦労をお察しするので、志を助成したまででござる。今日の場合に私の姓名を名乗り
出ることはできない。また貴殿の姓名を承ろうとも存じない。お望みはもう達したでござろう。さ
らばこれにてお別れ申す」と、自身でその人を城門まで送って別れを告げた。この間諜は讃州
高松の藩中にその人ありと知られた竹井金左衛門という剛の者であった。彼は後々までこの一
事を語り出で、衷心から老隊長の高風を欽慕していた。ただこの一事についても、仲間から隠
然と副統領として信頼された彼の資質が知れよう。
附言 忠左衛門の間諜放免の一事は『讃陽盛衰記』に見える。ただし『盛衰記』はまた例の
噛み砕いた筆法を用い、竹井金左衛門が城中の人数から、同志の姓名まですべて教え、
懐中から連判状までも取り出して示したとしている。そして最後に忠左衛門の姓名を間う
に及んで「それは言えない。今は亡人(なきひと)も同然であるから」と、戒名を出して見せ
たとある。それを佩弦斎(はいげんさい)までがそのまま『四十七士伝』に訳載したのは、
気の毒千万であった。もしそうでああれば、頭隠して尻を隠さない芝居じみた似而非士
(えせざむらい)に過ぎない。一党の副統領とも仰がれる者が、さような軽卒な言動をする
はずがない。伝奇者流はこれだから困る。
五五 急進派の来会
奥野将監と高田郡兵衛
江戸の邸にいた正義党は、前後に相次いで赤穂に集まって来たが、なお数名の英物は江
戸にとどまった。その筆頭は今年七十五歳の堀部弥兵衛金丸(かなまる)、これに続いてはそ
の養子の安兵衛武庸(たけつね)、奥田孫太夫重盛、その養子の貞右衛門行高(ゆきたか)お
よび高田郡兵衛らであった。ことに堀部安兵衛と奥田孫太夫とは、剣道において天下の豪傑
と聞えた堀内源太左衛門正春の門下にあって、いずれもこの道の達人と称せられた。また高
田郡兵衛も平素気を負って過激な論を唱えたから、三人は意気投合していた。折から今回の
凶変が起った。三人は共に大いに憤激し、弥兵衛を推して統領とし、江戸邸勤務の同志を語
らって、一挙に吉良上野介を打ち取ろうと、種々に計画してみたが、俗論党はおおむね藤井、
安井に感化されて、復讐の相談に乗らず、正義党は大石の判断を受けようとて、前後に相率
いて赤穂に赴いたから、江戸在府者は弥兵衛父子、孫太夫父子および高田らの数名に過ぎ
ない結果となった。「讐(あだ)は名に負う上杉家の後援がある大敵である。しかるに当方はこ
の僅かな数名を出ない。これでは所詮吉良家に切り入ったところが、蟷螂(とうろう)の斧のそし
りを招き、世の物笑いとなるのが落ちである。こうなってはやむをえない。今から赤穂に馳せ上
り、大石太夫以下の人々と共に籠城のほかはあるまい。さらば三人先ず馳せ向って、太夫の
意見を叩こう」と、安兵衛、孫太夫、郡兵衛の三人は、四月五日に江戸を出発した。
こちら赤穂においては、この月十一日に多川、月岡の復命によって、いよいよ開城に一決し、
十二日、十三日と引渡しの諸準備、藩政の善後策から、一藩立退きの配当金まで済んだとこ
ろである。そうして十三日の夜に入って、大野九郎兵衛父子が先ず逃亡した。貪慾で腰抜け
でも、家老は家老である。職を分(わか)ち科を別けて藩政の残務から城池引渡しまでの事に
当たらなければならない家老の一人が逃亡したので、十四日に至り、内蔵助は物頭中の大身
で一千石の高禄を領し、しかも他の同僚と引き離れて、一人正義を主張し、事変の発生以来、
激烈に憤慨して内蔵助を助け、籠城論にも同意し、殉死論にも賛成し、内々は復讐論にまで
参与した奥野将監を上げて同列につけ、内蔵助とともに庶政に当らせることにした。この夜の
夜半に安兵衛らの急進派三人は赤穂の市中に到着した。この時に当って江戸の高田郡兵衛
と赤穂の奥野将監とは、一対の立派な士であった。安兵衛が郡兵衛を信頼するように、内蔵
助も将監を信任した。「進むこと早い者は、退(しりぞ)くこともまた速(すみや」かなり」。事件が
追々に進行し、困難が次々に加わるにしたがって、郡兵衛と将監の二人は終に節操を失った。
士が留意しなければならないのはここである。その失策は後篇の各条において、叱責する機
会があろう。
五六
急進派の主張
堀部安兵衛ら三人は赤穂に着いた。これから籠城防戦の方略を聞こうと意気込んで来た甲
斐もなく、軟風はここにも吹き荒(すさ)んでいた。受城使の来着を待ち受けて開城すると決議
し、引渡しの準備に着手したとのこと。腕を扼(やく)して歯をくいしばり、三人打ち揃って内蔵
助の許へと押し掛けた。内蔵助は喜んで早速に会見した。三人は来意を簡単に述べた後、
「承れば太夫にはおめおめ本城引き渡しの考えとか、近頃の太夫のなされ方とも思えません。
ここは再び前議に立ち戻り、籠城しようではありませんか」と勧告した。内蔵助は徐(おもむろ)
に答えて、
「方々の精神は、我らいかにも感服する。しかし先般江戸に差し遣わした多川、月岡の両人、
我らせっかくの注意に違(たが)い、籠城の儀を大学殿に伝えたところ、殿より厳しく開城の命
を受けた。その命を無視しこの上籠城すれば、真先に大学殿にお咎めがかかるのは、必定で
ある。こうなっては既に先君に離れ奉り、またまた更に連枝(れんし)にまで禍いを及ぼすおそ
れがある。それゆえ涙を呑んで開城に決した次第でござる」
といったが、三人はなかなか承服せず、
「それはごもっともであるが、元来喧嘩両成敗は東照神君以来の掟ではなかろうか。先君の
切腹はやむをえないとしても、上野介殿をも法によって重い処分があったならともかく、何らそ
のお仕置もなく、けろけろとしているのに、なんで本城を棄てられようか。われらの所存ではど
こまでもこの城に立て籠って、公儀の後命を待ち受け、殉国の義を明らかに致したい。」
という。内蔵助はこれを遮(さえ)ぎり、
「ご意見ではあるが、戸田采女正殿より再三の諭旨もあり、かたがた我らはもはや評議を決し、
開城のこと、既に戸田様までお受けになっているので、今はそれを実行するほかない」
と告げた。三人はますます激昂し、
「今この赤穂一藩の士、皆死を畏れて、おめおめと他人の指図に服従すれば、天下こぞって
赤穂に人なしというであろう。さよう嘲り笑われても、お構いなされないか」
と切り込んだが、内蔵助は泰山鳴動しない。
「たとえ天下の非難を受けるとも、一且既に承諾して、人に許した以上は、この約束を変える
ことはできない」
と言い切った。
三人は撫然として内蔵助の許を去り、何とかして開城の議を翻えすよう、奥野将監を訪ねて
前議を繰り返したが、この人も応じない。その他の正義党中の主だった士を叩いて切論したが、
これまた内蔵助と同論であるから、三人はいたずらに人々の言い甲斐ないのに憤慨した。内
蔵助はやがて三人を招き、「方々の憤慨はさることながら、身を捨てて国に報いるのは、必ずし
も今日のみに限ったことではない。一旦ここを退いても、そのうち自(おのず)から後図の道もあ
ろう」と説き諭した。その態度、その語気に、何か確然として疑いないものが包まれている。三
人は感じ悟った。さらばしばらく内蔵助の意見に従い、時機を待とうとようやく決心した。
五七 受城使の臨検
さて受城使の到着はいよいよここ数日となった。近隣諸侯の出兵は海から陸からひしひしと
国境に押し寄せている。そして赤穂の城下には浅野の宗家である松平安芸守、ならびに戸田
采女正、浅野土佐守、浅野甲斐守、浅野伊織、上田主水らの大小名より派遣された公私の説
得使が続々入り込んで来た。その数は幾百にも上った。しかし内蔵助はさして騒ぐ気色もなく、
開城の受書こそ出し、家中への内諭こそ出したが、城内の防備はますます厳重にし、一人の
間諜すら行動できない状況であった。いかに卯月の空とはいえ、苅屋の城の内外は今にも雨
となるか嵐となるか、誰も測り得なかった。人心は不安を抱え、噂は乱れ飛んだ。四月十八日、
副受城使の目付荒木十左衛門、榊原采女、知郡事となる代官石原新左衛門と岡田荘太夫の
一行は、すでに四郡の領内まで入ったとの報せが届いた。ここにおいて大石内蔵助は奥野将
監と共に城より出て、中村川まで出迎え、恭(うやうや)しく遠来の労を慰問した。やがて二人は
馬を回して、副使の一行より先に城中に馳せ返り、守城の諸士に号令し、城門を開いて待ち
受けた。荒木、榊原の両目付はその地位こそ副受城使であるが、江戸の中央政府から直派さ
れた受城の首脳であるから、あらかじめこの両副使の内閲を経なければならないのである。両
副使はまず設けた本陣に入って一息いれ、やがて本城へと向った。ここでは内蔵助が既に諸
士を戒めたうえ、自身は大手口で両使に拝謁し、自身先導して、城内の大広間に招いた。重
な藩士は皆ここに伺候していた。荒木副使は厳かに公命を伝え「このたび本城が召上げとなる
ので、本官らは今日先ず下見分をする。一同さよう心得るよう」と口達した。内蔵助は謹んで
「かしこまりました」と受けつつ、国絵図を始めとして、郷村帳から、金穀帳、さては城中備付け
の武器その他の什器目録等に至るまで、ことごとく整頓して検閲に供した。ついで両使は案内
されて、城中を隅から隅まで見分したが、清掃の行き届いていたこと、どこにも一塵を留めてい
ない。そうして大手、搦手(からめて)を始めとし、本丸、二の丸、三の丸、到るところの詰所は、
担当の武士がひしひしと固め、極めて厳重に備えていたが、両使が通行すると一同ハッと下
座し、一行がそこを立ち去れば、直ちに元の部署につく。その礼儀といい、規律といい、これ
が亡国の藩士で無主の孤城に拠る者とは、いかにしても受取りがたく思われた。両使はつらつ
らとこの有様を目撃して「ああ、このような名藩をむざむざ取潰すのは、いかにも惜しい。それ
についても内蔵助の力量手腕、一個の城代家老として国を辱めないものである」と深く心中に
感嘆した。
五八 同
内蔵助の哀願
内蔵助はやがて両使を案内して、亡主内匠頭長矩(ながのり)の居間へと導いた。見れば、
ここは一層綺麗にして、今なお主君が在(いま)す雰囲気である。両使も粛然として形を改め、
敬礼の意を表した。この時内蔵助は静かに懐中から一枚の哀願書を取り出し、恭しく両使に
差し出した。そして、末座に平伏し「このたび内匠頭不調法によって、切腹を命じられ、続いて
城池召上の件は、松平安芸守殿、戸田采女正殿からの内諭をも伺い、今日謹んで城池返上
をする次第であります。このように主人は歿し、藩国は滅亡し、一方で吉良殿には依然公儀に
お勤めとのことであれば、私ども生き長らえて、官使方に拝謁する面目次第もありません。しか
るに今まで恥を忍び生を盗み、便々としておりますのは、偏(ひとえ)に寡君の弟大学が控えて
おりますゆえであります。この件は先に戸田采女正殿に頼り哀願する所存でありましたが、官
使がすでに来臨されましたので、出来なくなりました。ただお上も御存じのとおり、我が浅野家
は祖先弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)以来権現様お取立の家筋でございますので、格別
の恩典をもって、大学に寡君の跡目を仰せ付けられるよう、家中一統哀願し奉る次第でござり
ます。この哀願が万一詮議に預り、御恩裁の命がありますれば、その節こそ私どもは一同寡君
の廟にて自裁いたし、人臣の義を果たそうと、かねてより覚悟しております。このささやかな願
いをご憐察下され、何とぞ成就(じょうじゅ)のほどを幾重にも願い奉ります」と述べた。場所とい
い、言葉といい、両使の心情は動かざるを得ない。ただし両使は職務の手前軽卒に諾否を表
すことはできないので、黙ってこれに肯(うなず)いた。
室鳩巣は『義人録』において次のように批評した。「良雄が官使に告げた言葉を味わうと、主
家のために後を立てると請うことは、人臣の分を尽すというに尽きる。しかし死をもって国に殉
ずる志は、いったん固めた以上は変えることが出来ない。確固として譲ることは出来ない。彼
は『恩裁が下れば、必らずその後退いて自殺する』といった。それは命を得なければ、あえて
手を束ねて徒死しないとの意味である。良雄は、言葉の使い方がうまい。」鳩巣の史眼は実に
核心をついている。
両使は元の大広間に戻った。内蔵助は再び畳みかけた。「弊藩が公儀のためにお手伝い申
し上げたことも久しいことでござります。寡君の曾祖采女正長重が大阪の陣に従軍し、戦功を
立てたので、台徳院殿より取立てになり、以来祖父内匠頭長直、父采女正長友を経て、寡君
内匠頭長矩まで、四代にわたり公儀の恩遇を受け、寡君の身に及びましても、日夜家臣を勉
励され、一意ただ藩政の任に背かないようにとのみ勤めてきました。しかるに一朝不幸にして
私怨のゆえをもっておとがめを受け、ついに今日に立ちいたりましたこと、家中一統いかにも
残念千万に存じます。重ねて申し出るのも恐れ入りますが、何とぞこの際は旧来の御恩典、継
絶の徳政に出られるよう、お取りなしのほどを願わしゅう存じます」と繰り返した。この時知郡事
の一人石原新左衛門は、これを聞いて「内蔵助の心底、家中の存念、余儀なきことと察し入る」
と挨拶した。やがて両副使の一行は本陣へと引き取った。
人はもとより木石ではない。内蔵助の誠意は深く官使の一行を感動させた。時を移さず本陣
の旅館へ内蔵助は呼ばれた。副使、知郡事皆列座して、これへこれへと内蔵助を進ませた。
十左衛門は改めて「このたび赤穂領内に入って見ると、通って来た道路の掃除、橋梁の修繕
といい、領内の町々在々の制法行き届き、殊に城内における家中の謹慎、帳簿目録の整備、
皆感じ入る。公儀を重んずる仕方は一般奉公の手本である。城内では職務の手前、その方の
申し出につき可否の返答はできなかったが、哀願の趣旨はもっともであり、今日の実情からそ
の方の申し立てまで、すでに具状使を発し、つぶさに上へ報告した。公儀におかれても、その
方らの奉公の旨を聞かれれば、定めて御感に届き、やがて大学殿の幸せとも存ずる。それに
しても内蔵助の万事の心入れ、われらもさこそと察し入る。自分らが帰府の上は、老中方へ
精々願意の徹底するよう力を尽したい。家中一統の去就は各人の存意に委(まか)せ、ここを
立ち退く者には、手形を渡してやるように」と話した。
内蔵助は「ありがたく存じます」と礼を言ってここを退き、城中に帰って一同にこの旨を披露し
た。ホッと一息ついて、「官使の内意はそうであったけれど、必ず当てにすべきではない。ただ
この願意を上申しておけば、われらが今日城上に殉死しない理由を、将来会得される日があ
ろう」といった。これが武士の一念、鳩巣翁のいわゆる「確乎不可抜(かっこふかばつ)」なもの
である。
五九
開城の前夜
内蔵助と曾国藩 内蔵助と片島武矩
荒木、榊原両副受城使の下見分は滞りなく終わった。この日正受城使の一人、播州竜野の
城主脇坂淡路守安照は、一隊の軍兵を率いて竜野を発し、鷹取峠を越え、十八日の戌の刻
(午後八時)過ぎる頃に赤穂に達した。大手の方面に当る町家に本陣を取り、纏(まとい)、高
張(たかはり)を押し立て、士卒全員武器を提げ、スワといえばその場からただちに大手に押し
寄せようと、軍容を示した。その兵威は四辺を払って見えた。また同じ正受城使の一人、備中
足守(あしもり)の城主木下肥後守利康は、これも一隊の精兵を率いて足守を発し、揉(も)み
に揉んで猪池越(いちごえ)に馳けつけたが、道程が長かったため少し遅れた。翌朝東天に曙
光を発する頃城下に達し、搦手を圧して陣を取った。
本城明渡しの時期は、両副使によって既に十九日の朝卯の刻(午前六時)からと定められて
いた。赤穂の藩士が祖宗以来、この城にいてこれを守るのも、もはや今宵一夜となった。内蔵
助は城内を馳け回って、士卒を励まし「方々の職分はこの一夕にあるぞ。警備に油断するな」
と戒めつつ、守城の人々に徹夜させ、諸門の固め、火の用心、残るところなく注意した。
やがて内蔵助は大手の櫓(やぐら)に登り、しばらく脇坂侯の本陣を眺めていたが、莞爾(に
っこ)と笑って傍の人々に向い「さすがは名家の子孫だけあって、脇坂殿の陣備(じんそなえ)
は美事なことである。だが、世は元亀天正ではない。攻城、守城は時にしたがって変化する。
今この城下に陣取り、纏(まとい)を連ね、高張を輝かせるのは、標的ここにありと示すようなも
のだ。われらが当初の決意どおり、ここから石火矢を連放(つるべ)掛けすれば、あの陣は一挙
に骨破微塵となったであろう。」と私語(ささや)いた。『義臣伝』の編者片島武矩(たけのり)はこ
れを評し「一世の人を観るに、上は呂望孔明の戦術陣法に則り、下は孫武呉起の奇正節制を
学習し、徒らに思いを歴史に馳せて、いまだ心を近世の兵学に用いる者がない。孫武が迅速
とするところも、火攻十三篇にとどまる。当時の大砲(おおづつ)や連城砲(いしびや)の神速な
ものも時代遅れになっている。良雄の眼はもっとも高いといえる」と。評もまた極妙である。
思うに、清国咸豊の初年に太平王が大乱が発し、金陵を陥(おとしい)れてここに拠った時、
儒学者であった一代の名臣曾国藩が奮起して義勇兵を編制し、勤王の兵を湘郷(しょうきょう)
に挙げた。その挙は壯とすべきも、国藩は徒らに孫呉の戦術を墨守し、夜営を敷くに当っても、
呉子の陣法に「夜は刁斗(ちょうと)を打つ」とあるのにしたがった。刁斗とは近世の銅羅のこと、
「刁斗を打つ」とは、銅羅をジャンジャンと打ち鳴らすことである。火器のない昔の時代には、こ
れを鳴らして身方の居睡りを覚まし、敵の夜襲に備える一方法として良かっただろうが、生憎
髪賊(はつぞく)時代には、大砲があれば、小銃もある。官賊両軍対陣の際に、曽国藩陣営で
毎夜ジャンジャンと頻りに銅鎖を打ち鳴らすから、髪賊の軍は得たり賢しと、音響をしるべに
処々方々から大砲小銃をドンドン撃ち込んだ。このため官軍は戦いもせずに、毎夜幾多の死
傷者を出し大失敗した。ここに至って国藩は呆気に取られ、晩蒔(おそまき)ながら「この戦術
は昔用いたもので、今では役に立たない」と嘆息して、銅羅を打つのを止めたのである。国藩
の兵を挙げたのは咸豊四年、我が安政元年であるから、今より僅か五十五年前、そうして国藩
は清の第一の名臣である。それですらなおかくのごとしだ。しかるに良雄は二百九年前にすで
にあのような見解を持っていた。深淵子の片島武矩が筆を取って、『義臣伝』にこれを記述し、
これを批評したのは享保三年。すなわち今から百九十二年前である。これによってこれをみよ。
内蔵助も偉いが深淵子も偉い。曾文正公がこれを聞いたら、頭を掻いて逃げたであろう。我が
東方帝国が尚武国であるゆえんは、実にここにある。世に一頭地を抜く大丈夫の間には、とっ
くの昔から呂望を師とするのも、孫武を宗とするのも必要なしという、武的思想を備えていた。
六〇 開
城
内蔵助の戦眼の一撃は、彼が良将の器であることを十二分に示したが、脇坂侯もまた決し
て俗将ではなかった。思うに侯が纏を飾り、高張を照らし、軍容を盛んにして陣取ったのは、も
はや内蔵助が籠城の方針を捨てたのを見抜いたからであったろう。この殿もまた早く大砲の価
値をよく知り、敵にあっては恐れ、身方にあっては頼む存在であった。万一の場合には、なる
たけ城方の攻撃を減じ、味方の攻撃の用に加えようと心掛けた形跡がある。当時赤穂の家中
に、兄は萩原兵助といって百五十石を領し、弟は同儀左衛門といって百石を領する士があっ
た。いずれも高禄ではないが、非常の金満家で、赤穂はおろか、隣藩にも比類がないほど富
裕であったが、これまた大野の一味と聞えた欲張りである。両人の家には、ない物がないとい
われるほど器物什器を持ち、なかでも大砲二門はこの家の珍器と称えられていた。脇坂侯は
これを伝え聞き、城の受取に先だって、ひそかに家臣を城下に遣わし、高価をもって兄弟を誘
い、ついにこれを買い取った。その機敏さもまた人々の意想外であった。この一事によっても、
いよいよ戦争となったら、脇坂侯もまた外観を気にして、見苦しく敗ける者でないことが察せら
れる。だが萩原兄弟の行為はまた言語道断である。このことが正義党の耳に入るや否や人々
は大いに憤激し「あたかも敵軍に等しい竜野藩に、大砲を売るとは不埓千万。来月華岳寺に
おける先君の法会(ほうえ)にあいつらが参詣に来たら、衣服をはぎ取って赤裸にし、並いる
人々に一々謝罪させ、赤恥を掻かせてくれよう。もし抵抗でもすれば、切って棄てるも刀の穢
れ。狂犬を追うようにして、杖で打ち殺してやろう」と息まいた。一国の浮沈安危の際には、忠
不忠が如実に現われる。それでこいつら兄弟も神崎則休(のりやす)の筆誅に上って、下等な
人物として永く汚名を後世に残した。気の毒な奴もあればあるものよ。
*
* * * *
さて四月十九日の卯の上刻(午前六時)となった。受城使の方から使者が来て、いよいよ受
渡しの実行を求めた。一藩はもとより覚悟の上である。内蔵助は諸士に号令して、一時に城門
の戸を押し開かせた。二正使、両副使、二知郡事を始めとし、両侯の軍隊は粛々として乗り込
んだ。一方は大手の三の丸、他方は搦手(からめて)の塩谷(しおや)口、東総門、西総門、川
口門から西仕切門、刎橋(はねばし)門を始めとし、門々櫓々を固めた赤穂の藩士は一々これ
を両侯の士卒に引き渡した。入れ代ってここには脇坂家、かしこには木下家の士、足軽が主
人顔して警備する。やがて大石内蔵助、奥野将監は正副四氏二知郡事を本丸の大広間に請
じ、かねて整理した諸記録諸帳簿を公式に渡し、ここに謹んで「本城を引き渡し申し上げる」と
の意を述べた。官使は一同いまさらのように感動した。なかでも正使の両侯は今眼のあたりこ
の場を見て「万事に行き届いた引渡しの準備、われら深く満足に存ずる。それについても今般
の事態、心情実に察し入る」と、会釈された。両人はこれを拝謝してここを退き、今しも諸方の
固めを解いて集まって来た一藩の士卒を率い、三代以来住みなれた苅屋の城門を出て、侯
家の菩提所華岳寺へとやって来た。文々山(ぶんぶんざん)が詩にしたように「辛苦起(た)っ
て一世」は過ぎた。「干戈(かんか)落落(らくらく)四年の星」こそ見なかったが、「山河破砕して
水は乱れ、身世浮沈して風は浮草を打つ」のとおり、血誠ある者、志気ある者、ともに悲憤の
暗涙に咽(むせ)んだ。この裏に復讐の一快挙が、隠れ住まずにいられようか。
六一 一藩の離散
主君を失い、本城を離れた赤穂の一藩は、哀れ一朝にして天下浪人の境涯に落ちた。忠も、
不忠も、義も、不義も、各々一身一家の処分を図らねばならない。離散はここに始まった。ある
者は知行地に因(ちな)んで田舎に隠れる者もあれば、ある者は親族を頼って隣国に移る者も
ある。老幼は悲しみ、婦女は泣く、実に目も当てられない光景を呈した。中にも正義党中の急
先鋒である堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛は開城の翌々日の四月二十一日、衆に先
だって決然と赤穂を引き揚げた。続いて村松喜兵衛、同じく三太夫、片岡源五右衛門、磯貝
十郎左衛門も、相ついで江戸へと帰り去る。これらを退去の先発として、四、五、六の三か月
間に名ある人々は大概皆離散し尽した。「越王(えつおう)勾践(こうせん)、呉を破って帰る。
壮士家に還ってことごとく錦を衣(き)る。宮女花の如く満ちた春殿は、今やただ鷓鴣(しゃこ)
が飛ぶのみ」。亡国の恨みは今なお想像に余りある。
こうして赤穂城の受授は平穏無事に終了し、脇坂淡路守はそのまま当分本城預りを命ぜら
れ、ここに在番することとなり、木下肥後守は受城の当日本国へと引き揚げた。国境に押し寄
せた諸藩の兵も張合い抜けして前後に引き退く。赤穂侯の一族から派遣された卿太夫も報告
のためそれぞれ本国へ戻る。なかでも宗家松平安芸守から派遣された同家の家老井上団右
衛門は両副受城使の本陣に伺候して「開城の首尾はいかが」と問うた。両副使は口を揃え「内
蔵助の万事の心入れ深く感じ入る」旨を答えた。なお榊原采女(うねめ)は、「ことに諸帳簿諸
目録が整頓していたのには、代官衆も肝を潰した」とまで明言し、「これは宗家の心添えにもよ
ることであろう」と両使は交る交る挨拶したので、団右衛門は面目を施して退出した。そして進
藤源四郎に対し、「当初籠城に決定の際、これに同意し連盟した名誉の諸士の姓名を承り、
主君に上申したいので、内蔵助殿と相談されたい」と請求した。進藤もさる者にて、抜からずこ
れに答え「籠城などは世間の取り沙汰、さような非議を企てたことはない。次第によっては城中
で切腹し、殉死を遂げようと覚悟を極めた仲間はある。一応内蔵助に聞いてお答えしよう」とて、
やがて内蔵助にこのことを告げた。「宗家のことだ。隠すにも及ぶまい」とて、内蔵助は直ちに
その人々の姓名を自署し、進藤に渡した。団右衛門は喜び極まって、急ぎ広島へと引き返し、
逐一主君に言上した。これをみればこの頃からすでに本藩と支藩との間には、多少気脈の通
ずるものがあったらしい。
少し遅れて両官使の荒木、榊原の目付は管内諸般の処置を終え、五月十一日に東帰の途
についた。残るは官使方では本城在番の脇坂侯と、両知郡事の石原、岡田の代官、城方では
大石、原以下の人々となった。
六二
同
内蔵助は本城明渡し後もなお残務を一身に負担した。領内の租税その他の民政に関する
引渡しは、帳簿の提出のみでは終わらない。知郡事の両代官に対し、一々これを実際に照し
合せて交付しなければならないので、日夜下僚を督促して対応した。その間には領内の種借
(たねかり)未進(みしん)百姓らが代官の督促に不満であわや一揆を起そうとする珍事さえ沸
き出た。内蔵助はまたまた自身でこれに当り、懇々と説諭して静めた。
こうして領地返上の残務が一段落を告げてから、内蔵助は始めて退いて一家の処分に着手
した。ここにもまた国士が公事を先にして、私事を後にする、その心情が想見される。この人の
妻女は但馬国豊岡の藩主京極侯の家老石束(いしつか)源五兵衛毎好(つねよし)の令嬢、
後の香林院その人であった。この間に男子二人と女子二人があった。長男は松之丞すなわち
主税(ちから)良金(よしかね)、次男は幼名吉千代、今は吉之進、後に僧籍に入り祖練(それ
ん)と称した。女子二人の中一人を、お空(お智嘉ともいう)と称し、後に青山大膳亮(だいぜん
のすけ)の家臣青山蔵人(くらんど)の妻となった。またの一人は進藤源四郎に貰われてその
養女となった。
さて当時は十四歳の松之丞を頭に都合四人、皆内蔵助の膝下にあった。内蔵助はこの四人
の子供を妻女に添えて、先ず豊岡に送り、石束氏の手許に一時預ってもらい、自家の立退き
を身軽にした。
附言 香林院は浄瑠璃にあるお石であり、主税は力弥である。香林院は石束の姓に因み、
お石と名付け、主税は国語の力に同じところから力弥と命じた。作者もなかなか隅におけ
ない。端語といっても故人の用意は杜撰(ずさん)でないことがよくわかる。元禄十六年の
春内蔵助の遺子処分の際に、大三郎僅かに二歳とあるから、石束家に大石一家を寄託
した際は、大三郎の外衛良恭(とのえよしやす)はなお母の胎中にあるか、あるいはまだ
産着(うぶぎ)を脱ぐ前であろう。とすれば母刀自と共に赴いた男子は、松之丞、吉千代の
二人であったらしい。
やがて内蔵助は屋敷を取り片づけ、家の什器を何くれとなく、出入りの者にまで分ち与えて、
別れを告げたから、彼らは「どこまでお手厚い檀那様であろうか」と、いずれも感涙を催した。こ
うして内蔵助は赤穂を出て、日頃召し使った老僕八助の在所の尾崎村に寓居した。恐らくこれ
は大石家の知行地であったろう。この頃から内蔵助はふと左右の腕に腫物(はれもの)ができ、
一時平癒と見えたのが療養不十分のために五月二十二日頃からまた再発した。痛みが激烈
で、翌月中旬まで枕についた。この間も江戸連の急進派からは火の着くように、出府の催促、
一挙の断行を責めて来る。内蔵助は実に気が気でない。しかし原惣右衛門は留まって内蔵助
を助け、これらの応答を取り仕切って処分した。何事をするにも時がある、焦るべからずと、
懇々と説き諭して人々を鎮撫した。
六三
尾崎村の仮寓
忠僕八助
内蔵助は尾崎村の寓居にしばらく臥して居たが、腫物も徐々に平癒して来た。あたかもよし、
当初主家の凶報が赤穂に達した時から、知人に托して探した隠れ家が、京都に近い洛東の
山科に見つかった。それで近々ここに引き移るとて、準備に取りかかった。これを聞いた昔の
老僕八助は息をはずませてやって来た。「旦那様はこのたび遠く山科に引越しなさるとのこと、
八助め今少し若うござりましたらお供し、永い歳月蒙りました厚恩の万分の一なりともご報公い
たしますが、こう老いさらばえては、もはやお役に立ちません。これが今生のお別れかと思えば
まことにお名残り惜しゅうございます。せめては何なりとも形見(かたみ)の一つを頂戴し、朝夕
旦那様と思って拝みたく存じます」と目をしばたいて申し出た。
内蔵助もそぞろ哀れを催し「このたびの凶変によって、自分も急に浪々の身となり、どこにも
頼るところがない。さらばとて今後仕官する訳にもいかないので、山科辺に引き込もり、百姓と
なって一生を送る所存、何ぞそちにも取らせたいが、それもはなはだ心に任せない。これは誠
に少ないが何かの足しにしてくれ」と、傍の手文庫から十両余りの金子を出し、鼻紙に包んで
与えた。
すると八助は目を怒らし「八助貧乏ではありますが、お金欲しさに、参上したのではありませ
ん。前にも申しましたとおり、これが今生のお別れと存じますので、ご筆蹟でも頂戴し形見とし
て長く旦那様の恩徳かつは忠節を慕いたいと存じます。全体このたびの凶変、殿様には切腹、
御家は断絶、して吉良様は無事の上に、何のおとがめもないとのこと、私のごとき奴でさえ残
念で残念でたまりません。ましてや城代の旦那様、その心情はいかばかりと、朝夕按じており
ましたのに、ただいまの仰せ、山科辺に引き込んで、一生を送り遊ばそうとは、八助め口惜しう
ございます。爺はお金は要りません」と、その金子を荒々しく押し返し、歯がみをしてすすり泣
いた。
先ほどから手をこまねいて黙然として聞いていた内蔵助は、暗涙をぬぐい「ああ悪かった。
爺や怒るな。機嫌を直せ」と言いながら、天性潤達な内蔵助はたちまち声を変えて「それでは
取らせる物がある」と、硯(すずり)を引き寄せ、画紙を広げ、筆で一幅の人物を描き出した。と
見れば、英姿颯爽とした一人の若侍、朱鞘の両刀を差し、編笠を目深に頭にかぶり、凛然とし
て先に立てば、眼のつぶらな元気な奴(やっこ)、これも太刀一本を腰に打ち込み、劣らぬ気
勢で主の後に引き添う。これは主従二人の画であった。主人は誰あろう若殿内蔵助、家来は
八助である。これは内蔵助がまだ部屋住であった頃、祖父か父かに従って江戸にあり、時に
忍んで吉原に遊んだ際、いつもその供には気に入りの八助が付き添っていた。それをそのま
ま写し出したのであった。一時の諧謔ではあるが、裏に不言の寓意がある。「我には今なお
勃々(ぼつぼつ)とした英気があるぞ」と示したのが、その一つ。また二つにはこの両人の態度、
意気が「千万人といえども吾往かん」と筆勢旺々として紙上に横溢(おういつ)した。ここで八助
は感悟した。「さては主人はなお斗牛が角突く意気があって、やがては快刀敵営を切り、上野
介の首級を揚げんと思っているのだ。前言は世を繕う一時の仮言であろう」とたちまち眉辺の
愁雲を払った。内蔵助はにっこりして「爺や吉原通いの夢心地、今でも覚えているであろう」と
大口を開いて呵々(かか)と大笑する。八助はこれを押し戴き「旦那様ありがとう存じます」と三
拝九拝し、嬉し涙を払いつつ尽きない名残りを惜しんで立ち去った。主人は語らず。僕(しもべ)
言わず。復讐の黙契はこの間にも隠約であった。
六四 内蔵助の退去
赤穂退去後に内蔵助が八幡、山崎もしくは山科の辺に、一時跡を晦(くら)まそうと望んだこ
とは、変報が達した当時、すでに書を男山の大西坊ら三坊に寄せて、これを依頼したのでも知
れる。内蔵助は京洛付近に多く親近の人々をもっていた。第一男山八幡宮には祖先以来の
深い縁故があり、四年前まではその大西坊には弟の専貞師がいたこともあり、現住の証讃(し
ょうさん)師もまた親族である。西坊、専成(せんじょう)坊、滝本坊らも懇意である。京都の裏で
は、天皇の代々の御陵である泉涌寺内の来迎院の泰以(たいい)師などとも親交がある。これ
らの人々も骨を折って隠れ家を探してくれた。また内蔵助の親族で、しかもこの際まで同盟の
一人である進藤源四郎の祖先の出処であり、依然当代まで関係を続けた山科の西之山村に
適当の場所が見つかったから、家屋敷と田地を買い取ってここに隠栖することになった。この
地は京都に近いので、東は江戸、西は赤穂と連絡を取るにも都合がよい。またこの地は幽静
であるから、同志の集合にも適しているので、ここを選んだのである。
内蔵助は譜代の家来瀬尾孫左衛門らを従えて、六月二十五日いよいよ郷国を退去した。こ
れを聞き伝えた領内の百姓、町人、さては神官、僧侶まで「それ大石様がお立ち」と手に手に
酒肴の用意を調えて、中村まで送ってきた。ここで歓送の宴を張り、あたかも親子の別離のよう
に、深く別れを惜しんだ。平民主義の内蔵助は一々会釈して、盃を酌みかわし、さらばと立ち
去った。「播磨潟(はりまがた)沖漕ぐ船の浪枕、赤穂の城は暮会いの中に高く聳えて懐かしく、
はるかな海に片舟浮かべ、沖辺遥かに漕ぎ出し、須磨明石も横に見て、浪華(なにわ)の港指
して行く、心の裏ぞ哀れなる」。内蔵助の当時の感慨を思うとそぞろに暗涙を催す。こうして大
阪から山城へと入り、八幡、伏見に親類を訪い、月の初め山科に達し、やがて妻子を豊岡から
迎え取り、誰の目で見てもここで余生を送るようしつらえた。
しかし内蔵助は同じ浪人でも、旧赤穂藩の城代家老、ことに開城の手際によって、世評隠れ
ない人物であるから、地方の奉行は等閑には置かない。鉄砲類は所持しないか、人柄は実貞
な者かと、一方は土地の庄屋年寄、一方は親族所縁から、一々それを証明する請書を徴収し
た。
六五 俗論党の逃避
大石、吉田、原、小野寺以下正義党の人々の、事変の発生から開城退去に至るまでの苦心、
尽力は並大抵ではなかった。これに反して俗論党の連中は凶変に会って先ず仰天し、籠城と
聞いていよいよ魂を消し、三代承恩の主家も何もあればこそ、恥を忘れ義を棄て、最初から君
国を見限った。その重なる輩(ともがら)は、
藤井又左衛門 家老八百石
安井彦右衛門 家老六百五十石
大野九郎兵衛
家老六百五十石
大野郡右衛門 九郎兵衛嫡子組外二十石 近藤源八 組外番頭千石
番頭千石
岡林杢之助
伊藤五右衛門 番頭四百三十石
外村源左衛門 番頭四百石
玉虫七郎右衛
門 番頭四百石
大木弥一右衛門 中小姓頭五百石 多川九左衛門 筒持頭四百石
中沢弥一兵
衛 歩行小姓頭三百石
八島惣左衛門 足軽頭三百石
田中清兵衛 用人三百石
植村与五右衛門
用人三百石
奥村忠右衛門 用人三百石
建部喜六 江戸留守居二百五十石
近藤政右衛門
江戸留守居二百五十石
藤井彦四郎 足軽頭二百五十石
早川宗助 大目付二百石
萩原兵助 槍奉
行百五十石
萩原儀左衛門 百石
いずれも赤穂の一藩中では高禄歴々の者であった。藤井又左衛門の祖は、浅野弾正少弼
長政に仕えて抜群の殊勲があったので、特選家老として采女正長重に付けられ、以来世々家
老の重職にいた。また安井彦右衛門は浅野家の宗族で、浅野家元は安井姓を名乗り、現に
長政朝臣もそのはじめは安井弥兵衛と称した。両氏は浅野家に対しては、密接な関係の家筋
である。ところが現代の藤井又左衛門はいわゆるお人好しで、門閥によって家老となっていた
にすぎないから、万事は安井彦右衛門次第、大事変に会っても、安井のために誤まられ、見
苦しい行動に陥った。安井彦右衛門に至っては、天性悪辣な上に、極めて吝嗇(りんしょく)な
男であった。この吝嗇が家を滅亡させたのであるから、せめてはその罪亡しに、節義を立てな
ければならないのに、在国在府の同僚を誘って、不義の仲間に大勢を引き込んだ。
次に大野九郎兵衛知房が陰険、貪慾であったのは、事実が何よりの保証人である。神崎与
五郎は彼を評して「人忠を覆い、士気を阻む」といった。藩がまだ無事の時に、気概ある士が
多く暇を出されたのは、彼の讒言(ざんげん)に当てられたのであろう。その子郡右衛門もまた
父に劣らない痴物(しれもの)であった。一朝正義党に睨(にら)まれ、父子とも一夜に欠落した。
四人の家老中、大石内蔵助を除く三人はともに不忠不義の列についた。番頭(ばんがしら)
の列では、一千石を領した近藤源八の父三郎左衛門は、つとに兵法を小幡勘兵衛景憲(かげ
のり)に学び、その高弟として世に知られた英物であった。それで浅野内匠頭長直は千石の重
禄で彼を召した。長直侯の時代に完成した有名な赤穂の築城は、実にこの三郎左衛門の縄
張りにより完成した。それぐらいであったから、関西において軍学の名家といえば、この近藤三
郎左衛門が第一であった。それだけ四方から俊才が彼の門下に集った。そのお蔭で後嗣の
源八もまた藩の軍学の師と仰がれたが、名家の子必らずしも名家ならず。彼は人となり貧しく、
常に大野に組し、凶変以来も始終大野と進退を共にした。藩の混雑に乗じて、商人と申し合
せ、不義の浮利まで貪り、一朝にして家声を滅茶滅茶にした。
岡林杢之助、伊藤五右衛門、外村源左衛門、玉虫七郎右衛門は近藤源八と同じくいずれも
番頭であったが、皆籠城論の初めから大野党となり、方面軍隊長の本分を放棄した。これらを
概評すれば、筆頭の岡林は無気力、伊藤はよこしま、外村は策略家、玉虫は腰抜けであった。
そのうちで一言しなければならないのは岡林杢之助である。彼は元来幕府の旗下松平孫左
衛門の弟で、岡林家に養子に入った者である。どちらかといえば性質も醇良で、籠城論を聞
いた時には、最初は同意であった。しかし番頭は一列一体、有事の場合には身体を共にし、
抜け駆けの働きは許さないというのが、国初以来浅野家の軍制であった。これは戦国時代に
は番頭に英物が多く、ややもすれば一人で夜討ち朝駆けなどを企て、ために全軍の策応を誤
るおそれがあるからだ。それで俗論党の番頭連はこれを口実にして岡林に同調を求めた。こ
の際岡林に独立の見地があれば、断乎として場合が違うことを説破したであろうが、悲しいか
なそこが坊ちゃん育ち、それで彼は正義党に向い「籠城の主張、至極と存ずるが、われらの職
分として、一人引き離れての働きを許されないので、遺憾ながら同列の意見に委せ、引き取り
ます」と挨拶して退散したまま長く不義の人となった。
その他多川九左衛門は、藩士中から哀願使の一人にまで挙げられながら、腰を抜かして使
命を辱(はずか)しめ、あまつさえ大野らとともに不忠不義の仲間に入った。中沢弥一兵衛は
藩の混雑に乗じて、御用金を窃取し、植村与五右衛門は罪悪が露顕しかかったので、小船に
乗って逃げ出し、建部喜六は江戸留守居として、眼前に主家の凶変を見ながら、藤井、安井
の両家老と共に、自家の私計ばかりを図った。萩原兵助およびその弟儀左衛門は前にも書い
たとおり、あり余るほどの金満家でいながら、脇坂侯に大砲までも売って、不義の利得を占め、
そのため藩中から爪弾きされて、屠牛(とぎゅう)と同じく撲殺されるところであった。
これらは徳義を忘れたはなはだしい奴どもである。後に神崎与五郎則休(のりやす)は『憤論』
を書いて彼らを非難した。
六六 山科の隠棲
諸侯の招聘と荒木十左衛門の返書 内蔵助と直江山城守
頃は元禄の世である。上下押しなべ人は皆風流華奢に浮身をやつす時代となったが、元和
偃武(げんなえんぶ)からまだ八十年余しかたっていない。諸侯、卿士(けいし)の間にはまだ
まだ緊張の思いが解けない。内蔵助の赤穂城明渡しの手際が水際だって見えたので、同地
を立ち去る以前から、同国竜野の脇坂侯から当分百人扶持の客分として来る気はないかと申
し出があった。一たび大阪まで出れば、肥前の鍋島侯、肥後の細川侯、筑後久留米の有馬侯、
土佐の山内侯、備前の池田侯などから、それぞれの伝手(つて)を求め、重職をもって招かれ
る。内蔵助はこれをすべて断り、もはや浮世に望みを絶ったことを示すとて、山科において屋
敷も買えば、田地も求めた、やがては京より大工左官を呼び寄せて、離れの隠居家まで新築
した。またその前栽には好きな牡丹などを植え、はるばる豊岡からは妻子を呼びよせ、行々は
家督を松之丞に譲り、自分は地主の楽隠居、花鳥風月を玩(もてあそ)んで、晩年を送ると見
せかけた。
*
* * * *
これより先、赤穂城明渡しの際に、内蔵助が誠意を披歴して城池を公儀に差し上げたのと、
また精神を込めて主家の再興を嘆願したのとは、担当の目付衆を深く感動させた。その一人
荒木十左衛門は深く内蔵助に同情を表し、江戸に帰って、公事を報告したのち、内蔵助の哀
願をいきなり老中列座の前に持ち出せば、あるいは当時の勢いとして「詮議の必要なし」と否
決されるかと気遣い、十左衛門はその後個々別々に老中の邸を訪い、内蔵助らの切なる哀願
の心情を取り次いだ。これには老中の人々も耳を傾け、何分の恩典を申し立てねばなるまいと
挨拶した人もあった。十左衛門はやがてこれを書面に認め、特使に托して内蔵助に送ったの
が、伏見の大塚屋小右衛門(こえもん)の許まで達した。この大塚屋はそのかみ浅野侯が参勤
交代の際宿泊した本陣で、同侯代々の庇護を受けた家であるから、内蔵助引退後も関係者
への書状などはおおむねここで取り扱った。それで荒木十左衛門からの特使およびその書状
もここに届いたのである。
その書は大石内蔵助と奥野将監宛で、書中の大要は「赤穂城返上の際、願い出た件は、老
中列座の折に申し出ては、互いに譲合いもあると存じ、一々その邸を訪問してつぶさに申し述
べたところ、土屋相模守始め快く返事があり、やがては大学殿取立にも成るだろうと、一応報
告しておく」との意であった。この書状によっても、内蔵助の度量を測ることが出来る。当時の
社会において天下の目付といえば、陪臣などに直々書状を出すものではない。いわんや浪人
においてをやだ。それが小藩家老のしかも現在は天下浪人に、特使を発して書状を送るなど
とは、実に異例のことである。これはとどのつまり内蔵助その人物が偉いからである。
これについて思い起すことがある。直江山城守兼続(かねつぐ)が関ヶ原の一挙に西軍を援
け、主人上杉中納言景勝に勧めて、東奥に兵を挙げさせたので、大乱鎮定後兼続は米沢三
十万石を没収され、六万石の格式こそ残されたものの、その実一万石の家老に落ちた。その
後のことであったが、ある時江戸に出て、時の老中の筆頭として権勢並びない土井大炊頭(お
おいのかみ)に面会した。全体老中の筆頭とも呼ばれる人が陪臣などに対する時は、中々権
柄なもので、相手が両手を畳に突き、頭を下げて最敬礼を行うのに対し、こちらは手を膝に載
せたまま目礼するのが恒例である。しかるに大炊頭は知らず識らず兼続の品位人格に引着け
られ、いつの間にか右の手を畳に突いて答礼した。後で気がついてみれば、幕府の老中とも
ある者が陪臣に手を突いて辞儀をしたでは済まされない。それで僅かに窮策を案じ出し、山
城守だけは従五位山城守の叙位任官もあることゆえ、陪臣ではあるが彼のみに対しては、老
中一統片手を突き、呼ぶにも「山城守殿」というようにとの除外例が設けられた。内蔵助に対す
る目付の特使派遣もこの類である。官位というものは人爵である。しかし人格は天爵である。天
爵の尊さはいずれの世でも争われないことが知れるであろう。
六七 紫野の瑞光院
内蔵助が居を山科に移してから、浪人系の諸惑星は近畿近辺に集まって来た。内蔵助を中
心として、山科には進藤源四郎、京都には小野寺十内、同幸右衛門の父子、大高源五らの伯
父と甥、間瀬久太夫、同孫九郎、潮田又之丞、中村勘助、大石孫四郎、同瀬左衛門、寺井玄
渓、同玄達、伏見には小山源五左衛門、膳所には岡野金右衛門、同九十郎。大阪には原惣
右衛門、矢頭(やとう)長助、同右衛門七らが、あるいは単身、あるいは家族とともに、あるいは
自宅、あるいは借宅を構え、その他幾多の諸同志はこの近辺に散った。もし知る者があってこ
れを見たなら、決して等閑視できないと感じたであろう。
ここに洛北天神厨子(ずし)の地に、紫野大徳寺の属院で瑞光(ずいこう)院という寺がある。
この寺に接して稲荷の祠(やしろ)がある。王朝の昔朝野宿禰(すくね)という人が清和帝の胞
衣(えな)をこの地に埋め、一宇をその上に建てたから、朝野稲荷というとの古伝がある。豊太
閤が聚楽の邸にいた時に、浅野家の祖先弾正少弼長政がここに別宅を構え、この稲荷を鎮
守として崇敬した。それでいつとなく世人はその祠を浅野稲荷と呼んでいた。が、その後豊臣
家の天下が亡びて、浅野家の別宅もすたれ、一時狐兎(こと)の栖処(すみか)となっていたの
を、慶長年中に大徳寺の琢甫(たくほ)師が草庵を開いて禅院を建てた。瑞光院がこれである。
この琢甫師についで、ここに住んだのが陽甫(ようほ)師である。不思議にも、この陽甫師は内
匠頭の奥方瑶泉院に縁のある人であった。これらの関係から浅野家から百石の寺領を寄付さ
れた。内蔵助が山科に移って来た際には、既に陽甫師も遷化(せんげ)して今は海(戒ともい
う)首座(すそ)が住んでいた。それで内蔵助は海首座とは懇意である。こうしてこの地は鬱蒼と
して、四隣に人家を断ち、同志の会合、密議の場処には最適であるから、内蔵助は院内の一
軒拾翠庵(しゅうすいあん)を借り受け、京都に出る時の仮寓とした。
故主を懐(おも)うこと痛切な内蔵助は、ここに一基の墳墓を立て、一つには永代の祭祀を欠
かさず、二つにはこの地にある同志の参拝に資し、三つには参拝に托して同志の密会を催す
便とした。石碑は冷光院殿吹毛(すいもう)玄利大居士の法号を彫りつけ、内匠頭の衣冠を埋
めた。この年八月十四日亡主の忌日に同志を集めて、法要を行い、以後毎月十四日の参拝
を怠らない。ただ見れば、故主の後生成仏を念ずるのみである。しかし地獄の閻魔(えんま)を
も驚かし、血の髑髏(どくろ)をひっ提(さ)げて、冥途の土産にしようとの計画は、慈悲忍辱を
旨とする仏陀の像の前で講じられたのである。
六八
内蔵助初の東下
この時江戸の急進派は、堀部安兵衛を中心として、日夜復讐の実行計画をしきりに内蔵助
の許に寄せて、江戸行を促し、この上遅延すれば、江戸連のみで実行し兼ねない勢いである。
万一軽挙して仕損ずることでもあれば、内蔵助の百年の苦心は水泡に帰する。内蔵助はこれ
を大いに憂慮した。それで先ず一人鎮撫の大将を下さねばならない。その人は吉田忠左衛門
か原惣右衛門かのほかにない。幸いに原は当時大阪にあって、同志の糾合に長じていたから、
この年の九月、原に潮田又之丞、中村勘助の両人を添えて、江戸へと下向させた。だが内蔵
助はまだ安心しない。のみならず江戸の敵情を偵察する必要もあるので、進藤源四郎が同志
ではあり、自家の親族でもあり、多少衆に推されているから、翌十月に入り、大高源五を同行さ
せて、これも江戸へ向わせた。
この間にあって、内蔵助はまた思考した。公儀の目付が浪人の自分に向い、特使を派して
公儀の首尾を報ずるということは、異例の処遇である。これをこのままにしていては済まない。
それで一つにはこのお礼に出向き、二つにはこの機会になお旧知の侯伯を訪問して主家の
再興を押し、三つには亡君の墓にも参詣し、四つには瑶泉院殿のご機嫌をうかがい、五つに
はこのついでに自身で敵の動静を視察し、また六つには同志の統一を図って来ようと、十月
二十日、奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門らを従えて京都を出発し
た。そして十一月三日に江戸に到着した。これが内蔵助初の出府であった。
こうして彼は公然として江戸に乗り込み、第一には泉岳寺の故内匠頭の墓に参詣し、ついで
瑶泉院の許に伺候(しこう)した。「折から寒中のこと、遠路の往復さぞやご苦労であろう」と、瑶
泉院は縮緬の円(まる)頭巾を贈ったということである。この夫人のなされるところ、どこまでも女
性らしく、少しの圭角をも表わされないが、そのうちに不言の妙味があって「我が家の後事はす
べて卿に頼る」との精神がほの見える。この時内蔵助の心情はいかがであったろう。次いで内
蔵助は奥野将監同道で、目付荒木十左衛門の邸を訪うて、深くその同情を謝し、さらに浅野
家の同族松平安芸守、浅野美濃守、浅野左兵衛等の邸を歴訪し、この上ともに大学殿を取立
て、故主の跡目継続ができるよう助力のほどを頼み上げた。他事なく熱心に願ったので、余所
目には誰がみても、ひたすら主家再興のほかには、余念ないように察せられた。
だが江戸の同志はこの機会だと勇みたった。殊に堀部安兵衛などは「太夫の出府こそ幸い
である。この潮を外さず、打入りの時期を定めたい」と迫ったので、十一月十日内蔵助の旅宿
で同志の集会を催した。会した者は奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎、原惣右衛門、岡本
次郎左衛門、潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七、勝田新左衛門、中村清右衛門、
堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛らである。中にも壮年の気鋭な堀部安兵衛は座を乗り
出し、
「先般来、原、進藤殿らの下向を迎え、相談を遂げておりますが、復讐の一挙が追々延期に
なることは、我ら心外千万に存じます。これというのも期日が定めてないからです。我らの所存
では、来年三月が適当の時期と存ずるが、太夫はいかがでござりますか」と口をきった。内蔵
助はこれに答え、
「方々の忠志はいかにも感服するが、敵を討つに時期を立てる必要はあるまい。機会があれ
ばいつでもできる。ただ今日は大学殿の処分がいまだ決せず、それに焦って一挙に出たなら、
たとえ復讐を遂げたとして、主家の後事をかえりみないことになる。それでは人臣の分としては
相済まぬ次第である。かたがた期限は無用であろう」
といった。安兵衛は重ねて、
「お言葉ではありますが、我らが明年三月を主張するのは、同月までにて丸一年となれば、
大学殿の閉門も免ぜられ、処分が着くであろうと存ずる。のみならず三月は先君の一周忌、こ
の期において先君の鬱憤を晴らすことは、我らの本意ではござらぬか。かつ期限がないと、士
気が引き立たず、ややもすれば姑息(こそく)に陥ります。それで三月を期したく存ずる次第で
ござる」
と弁じ、意気はますます軒昂する。内蔵助これを聴き、意(こころ)にはまだ早いと思うが、諸士
の希望を失墜させるのは得策でないと感じたので、
「三月期限、それは善かろう」
と承諾した。潮田、中村、大高、武林らこれを聞いて躍りあがった。さらばこの地に長居は破綻
のもとであると、内蔵助は進藤、潮田に中村勘助、中村清右衛門を従えて十一月二十三日、
原、大高らは翌十二月二十五日に、江戸を発して帰京の途についた。
六九
吉良家の動静
天野弥五右衛門の皮肉
ここで吉良家の動静を見ておく必要がある。この年三月十四日吉良上野介義央(よしなか)
は、殿中で浅野内匠頭長矩(ながのり)に二太刀まで切りつけられたが、幸いにいずれも浅手
であったから、傷は意外に早く平癒した。そうして幕府の方針は平癒ののちこれまでの通り出
仕するようにとのことであったから、本人はその気でいたらしい。しかし上野介が日頃高慢で、
幕府の宿老顔に振舞ったにもかかわらず、いかに殿中の出来事とはいえ、内匠頭に切りつけ
られて、一支えもできず、転がり返って逃げたざまは、一門の風下にも置けない爺(じじい)だと、
上下から指弾された。
これを証する極めて恰好な一話がある。天野弥五右衛門という旗下は義勇の人であるから、
上野介の体たらくを深く軽蔑していた。しかし吉良家とは昔からの交誼があるので、知らぬ顔し
ている訳にも行かず、いやいやながらある日吉良邸を訪うて、上野介を見舞った。すると上野
介はその際の振舞いを恥じる様子もなく、例によって傲慢な面構えである。見るからにいかに
も悪(にく)々しい。弥五右衛門は負傷の挨拶をしながら、さりげなく、「聞けば、内匠頭の初太
刀、貴殿の烏帽子を掠(かす)めたので、危いところを助かったとのこと、その烏帽子拝見した
いものでござる」と申し入れた。
「いかにもそのとおり」と烏帽子を取り出し、
「この鉄輪(かなわ)で切尖(きっさき)が止ったのでござる」と示した。
「なるほどこの鉄輪で……それは近頃のご厚運。これこそ貴殿のために、本当の烏帽子親で
ござる」と冷笑したので、さすがの上野介も大いに恥じ入った。
*
* * * *
一方では心ある人々から指弾される。そして他の一方では、内匠頭には切腹のうえ、城池没
収、跡目断絶とまでなったのに、上野介は何のおとがめもないのをみて、浅野の遺臣どもさぞ
や遺恨を抱くであろうと思う。あれやこれやをかねて、上杉弾正(だんじょう)大弼(だいひつ)
は「上野介負傷後とかくに健康旧に復せず。何とぞお役は免じ下さるように」と願い出た。その
ため事変の同月二十六日その職を免ぜられ、そのまま呉服橋内の邸にいた。幕府も追々彼の
在職中の貪欲を察知し、その人を輕んずるに至ったのか、この年九月に邸替えを申し渡され、
同月二日本所の邸に引き移った。これは内蔵助らに大きな復讐の便を与えた。というのは前
の邸は丸の内のことゆえ、ここに侵入すれば、自然城に乱入したことにもなり、重犯の嫌疑を
免がれない。おまけにこのたび下された本所の邸は、極めて粗末な邸だから、打ち入るにも至
極便宜がよい。それで一挙ののち世上ではこの邸替えを、まさに天の恵みであったと評判した。
しかし上野介は大臆病人のことであるから、自分でも警戒を怠らない。およそ邸内に置く人
間は、一々その身元を取り調べ、若党草履取などは勿論、下女下男の末までも、なるだけ領
地の吉良から採用し、余所の者を寄せつけない。そうして商売人が門内に立ち入ることを一切
禁じ、門番を厳重にして、人の出入りには厳しく注意した。上杉家といえば不識庵以来世に聞
えた弓矢の名家である。それゆえ万一赤穂浪人のため吉良家に切入られ、上野介の首級でも
挙げられた日には、一朝に上杉家の武名を傷つける。それで上杉家名誉の士を多くすぐって、
本所邸に派遣し、いざという場合に失敗しないよう十分な手配を整えた。内蔵助が夜襲を実行
するまでに非常な工夫を費したのも、このためであった。
上杉家ではこれでもなお安心せず、上野介に隠居を願い出させ、一層庇護の素地を作った。
願いは十二月十二日聞き届けられ、養子左兵衛佐(すけ)義周(よしちか)は異状なく家督を
相続した。所領四千二百石は元のとおりと達せられた。これはちょうど内蔵助が京都に帰って
十日後のことであり、端なくもまた義徒に一層の注意を喚び起した。
七十 十五年の初春
日月は人を待たず、元禄十四年も端(はし)なく暮れて、十五年の正月となった。新年を迎え
て内蔵助の胸中には絶えず二つの念慮が往来している。復讐もしたいが、主家の再興もした
い。一方で復讐の準備に努めると同時に、他方では主家再興の工夫にも少なからず苦心した。
三代相伝の城代家老としては当然のことである。この内蔵助の心は以心伝心に亡藩の同志の
間にもはっきり読めるので、忠義骨髄に徹する人はもちろん、内心に万一を望む徒輩(やから)
も、内蔵助に誓紙を入れ、同盟者の数は日を追って増加した。
正月九日原惣右衛門と大高源五の両士は江戸から京都に帰り着き、十二日上野介父子が
隠居と家督相続を滞りなく済ませ、風説によれば上野介は近々上杉侯の本国米沢に引き取ら
れるとのことであると、在京同志の人々に報告したから、人心は一時に興り立った。この間に一
言しおかねばならないのは、江戸においては堀部弥兵衛、同安兵衛、奥田孫太夫、同貞右衛
門、高田郡兵衛および昨年以来出府している武林唯七、京阪地方においては、原惣右衛門、
大高源五、潮田又之丞、中村勘助、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門らは急進派に属し、な
かでも江戸で堀部安兵衛、大阪で原惣右衛門、京都で大高源五の三人は隠然としてこの派
の領袖であった。それで原、大高の二士は堀部らと協議して、もはや片時も猶予が出来ない
から、旧年江戸での約束のとおり、来たる三月を期して一挙に事を決したいと内蔵助に迫った
のである。
が、内蔵助は、主家再興論者でもあり復讐論者でもあるから、容易にこれを承諾しない。の
みならず急進派の連中が焦りに焦り、この際自分を外して軽挙に事を発し、失敗しようものなら、
臍(ほぞ)を噛むと憂慮し、むしろ同盟中から声望ある壮年の輩を抑制できる人物を選び、再
び自分に代って江戸に下らせ、鎮撫に従事させる必要を感じた。この大任に当る者は、実際
上の副統領吉田忠左衛門のほかにはない。それで内蔵助は忠左衛門を播州から呼び寄せて
相談した。だが、さすがに副統領は副統領だけの分別があって「この忠左衛門が江戸に下向
するのが一味のために都合がよいと思われるなら、自分はさらさらその労を厭(いと)わない。し
かしそうするには、その前に同志の議論を一致させ、上方の決心はこうであると示さなければ、
江戸の衆は納得しまい。願わくば同盟の衆をここに集め、目のあたりに互いに約束し、しかる
後に出発いたしたいと思う」と建議した。
「貴老のご意見はもっともだ」と、内蔵助は四方に散在する同盟者に連絡し召集した。ここに
おいて二月十五日の会合を手始めとし数日にわたって秘密会議は処々で開かれた。だが、
議論は百出してなかなか決しない。それはそのはずである。同盟中には自(おのず)から三派
があった。第一は主家再興と復讐とをともに希望する温和派であって、内蔵助はこの主論者で
あるから、無論この派が一番多数である。が、第二は内心に主家再興のみを望む因循(いんじ
ゅん)派である。これは内蔵助の尽力によって多分主家は再興されよう。再興されるとすれば、
今強く主張しておかないと、再興の暁に幅が利かないという野心を持つ者で、その数もまた多
い。小山源五左衛門などは徐々にその機微を露わして来た。第三は復讐一点ばりの急進派
であって、この際これに傾いていたのは前に挙げたとおり 原、大高らの一派であった。議論
は衝突せざるを得ない状況であった。
七一 山科会議
一党の大激論
最後の会議は山科で開かれた。主な同志はすべて列席した。殺気は陰々として満場に溢れ
た。温和派は内蔵助の発言を待って控えている。因循派は沈黙して成行きをうかがっている。
急進派は堪えかねて内蔵助に向った。
「先般江戸会議の折までは。敵にはいまだ異同も見えなかった。それですら三月の期限には
同意されたではござらぬか。まして今や上州は隠居し、米沢に移ろうとしている。しかるに大夫
がいまだ決心されないのは、いかがなお考えなのかお聞きしたい」と詰め寄った。
内蔵助はつくづくこれを聞き、
「ご不審は一往ごもっともだが、江戸会議の席上でも反復して述べたとおり、大学殿の処分
がいまだ決まらない。幸いにもこの殿へ開門が決まり、万石にても跡目を継げれば、先君の面
目も立つ道理、この成行きの如何をも顧みず、一図に一身をのみ潔(いさぎよ)くするのは、決
して臣子の道ではない。それゆえ私はどこまでもこの処分を待ち受け、そののち動く所存であ
るが、関東衆の忠志も黙し難く、士気をくじくのも不本意であるから、しばらく方便にその言に
従ったのである。今日はいまだ時機ではない。私は軽発しない。」
と言い切った。
急進派はますます激昂した。
「仮に大学殿に跡目相続が出来るまで一挙を見合せるとし、さて希望のとおり御家再興とな
ったとしても、その後に多勢で党をなし、吉良邸に打ち入れば、それこそせっかく再興された
御家をまたまた潰す基となりましょう。そうすれば復讐はお止めになさるか」と、息まいた。
内蔵助は頭を振り、
「いや再興は再興、復讐は復讐でござる。いかにも御家再興の後に、多勢の打入りは出来ま
いが、不倶戴天の君の讐(あだ)をこのまま生かしておくことはできない。その節はこの私がた
だ一人で一党の方々に代り、吉良殿に怨を報いる所存でござる」と言い放った。
原惣右衛門は悲憤の熱涙を払い、
「去年三月より今日に至るまで、終始一貫盟約を変えない人々はもとより、その後追々に馳
せ加わった方々も、詮ずるに復讐を志すところは一つであるから、たとえ何があろうとも、この
志は翻してはならない。ただいま太夫の仰せのようになれば、太夫自身が総名代として本意を
遂げるとのこと。そうであれば我々一同は皆腰抜けとなり、控えるほかはない。これではまこと
に残念至極であるから、つまりは一挙を急ぐ次第である。君は赤穂一藩の君、太夫のためにも
君ならば、我々一同のためにも君であり、君父の讐(あだ)は人任せには出来ない。人々はどう
あれ、この惣右衛門は赤穂城中の死に損(そこな)いである。今更生きながら出家禅門となる
所存は兎の毛の末ほども持ちあわさない。方々のご意見はいかがでござるか」
と席を叩いて抗論した。
大高源五、潮田又之丞、中村勘助らも言葉を同じくし、
「原氏の申されるところは道理至極、我々の刃は敵の血を塗らなければ、このままでは終れ
ない。方々も同意ではあるまいか」と一座を見回した。
「同意、同意」の声はここかしこに響く。あわや一党は分裂かと見えた。
七二 同
吉田忠左衛門の東下
吉田忠左衛門と小野寺十内とは先刻から手をこまねいて、衆の激論を聴いていたが、ここに
来て口を開き、
「太夫の言われるところは、太夫一人が義士となろうとの議論ではない。方々の忠節をも空し
くせず、御家の再興にも妨げないようにとの分別から出たものであるから、各々これを悪く取っ
てはならない」
と宿老は宿老だけの威厳によって衆を鎮めつつ、
「ではあるが、諸士が一図に思い込まれたところも、またこの世にありがたい志と存ずる。実は
といえば、我々老骨はよい行きがけの駄賃であるから、死出の山の一番槍をこそ心掛けてい
た・・・」と言いさして。それとなく内蔵助の再考を促した。
内蔵助はこれを聴いて、感慨にたえず、
「今に始まったことではないが、こうまで方々が忠誠を果すことに熱意があれば、いかにも内蔵
助はきっと諸君と進退を共にする。ただただ大学殿の成行だけは見なければならない。来月
の先君の一周忌までには何分の沙汰があろうと存ずる。それがなければ、明年の三回忌まで
は忍ばねばならない。この期を経ても何らの恩典に接しなければ、もはや主家の運もそれ限り、
その上はお互いに一党の衆を挙(こぞ)って、無二無三に討ち入り、敵の首級を挙げ、亡君の
鬱憤をはらそう。ここは私の意に賛同され、全党一致の進退を任せられたい」
と辞を尽し、誠を尽して、一党の同意を懇請した。
ああ、この会議は実に赤穂党の快挙進行中の難関であった。内蔵助の徳望と赤誠(せきせ
い)がなかったら、このとき一党は分裂していたであろうが、今その誠意誠心を披歴(ひれき)さ
れたのを見ては、急進派といえど、さすがにこれに背くには忍びない。
「大夫が終局の一挙を受合いなされた以上は、決行の緩急は太夫の見込みにまかせ、忍んで
時機の到来を待ち受けよう」と、始めて会議は結論を得た。
「ではここにて改めて誓約されたい」との内蔵助の求めに、一同は更に神文誓書に血を注い
だ。十五年二月、赤穂の一党は更に盟約を重ねた。
ここに至って内蔵助は吉田、近松の二士に向い、
「こちらの意見が一致した以上、関東の衆を鎮めねばならない。ついては私の名代として吉
田氏にご苦労を願いたい。近松氏は介添えとして一緒に下向されたい」と訓令した。今後は文
書の往復、敵の看視に対しても、本名では便宜が悪い、互いに変名して対策を図るとて、内蔵
助は母方の姓に因んで池田久右衛門、吉田忠左衛門は篠崎太郎兵衛、近松勘六は森清助
と変名した。こうして吉田、近松の両士は寺坂吉右衛門を従えて、二月二十一日京都を出発
して江戸へと下向した。
この会議で上方の大勢は調(ととの)った。大阪には原惣右衛門がいて、赤穂と山科との連
絡を取り、江戸には吉田忠左衛門がいて関東と山科との気脈を通じ、統領大石内蔵助は依然
山科に本営を据えて全党を指揮し、小野寺十内は内蔵助の左右にあって、参謀長の任務に
服した。そうして大阪は原、江戸は吉田に命じ、中央は自身が切り盛りして、同志運動一切の
費用をかの主家再興費から支弁した。これによって先に密かに疑っていた者も、さてはと内蔵
助の用意の慎重さに感服した。
七三 内蔵助の乱行(らんぎょう)
ここで内蔵助の羊頭狗肉の計を語らねばならない。
彼はーたび山科に隠栖の地を決めてから、屋敷も買えば、田地も求める。新築をする。前栽
をしつらえる。妻子を迎える。誰の目から見ても、一家の計、子孫の計に力を入れ、行々は家
督を松之丞に譲り、自分は地主の楽隠居、花鳥風月を玩(もてあそ)んで、晩年を面白おかし
く送ろうとする者のように見せかけた。
しかし上野介の後楯には上杉侯の家老に千坂兵部のような傑物がいる。「内蔵助ほどの者
が主家を滅却され、城池を取り揚げられ、おめおめ手をこまねいて、引き込もうとは致すまい。
この世に望みを絶ったと見せて、我に油断させ、その虚に乗じて、一挙に志を果そうとする計
略に相違ない」とて、幾多の隠密(おんみつ)を京都に入れた。これらの隠密は種々に姿を変
え、内蔵助の隠家の地続きにあって、当時大いに流行した稲荷塚などに詣でた。里の民家に
ついても、内密に内蔵助の動静を探索した。「蟷螂(とうろう)蝉を窺(うかが)えば、野鳥またこ
れを伺(うかが)う」というのはこれらの様(さま)を言うのであろうか。
このことはまた追々に内蔵助にも知れて来る。「昨日も風体不審な男が西之山村に来て、内
匠頭太夫のお宅に浪人らしい者が出入りしないかと尋ねたそうでございます」と告げる者もあ
れば、「今日も稲荷塚詣でに言寄せて、怪しげな奴がこの辺をうろつき、しきりにお宅をうかが
っておりました」と報ずる者もある。ここで内蔵助はまた一考した。「さては引っ込み思案の見せ
かけぐらいでは、敵は用心を解かないと見える。それなら今度は乱行を働き、自暴自棄の体
(てい)に陥って見せ、敵の鼻毛を引き抜いてくれよう」と、高尾、愛宕が紅葉して松茸狩を催
す頃おいから、内蔵助は心にもなくたちまち時代の権化となり、思い切った遊びの大通人とな
り来たった。
その頃名高い遊所には、京の島原、祇園町、伏見の里の撞木(しゅもく)町、ここを夜ごとの
通路(かよいじ)とし、 今日は京で日を暮らし、明日は飛鳥に程近い奈良の木辻へ流れ込み、
豪興一たび加われば、蘆の花散る浪速津の新町にかけて遊びまわった。浪人とはいえ赤穂の
家老、金は無尽にありそうにみえる。いずれの里の廓でも、小粒の玉を雨と蒔(ま)く。姿は
凛々(りり)しいけれども威は猛(たけ)からず、端唄は歌う。酒は呑む。粋なお客の大将として、
浮名は三都の間に流れた。このことは追々に江戸へと注進される。さすがに上杉の兵部も
少々面食う。一時は讐家の間諜の耳目もやや山科から遠ざかった。この際はあたかも目付の
荒木十左衛門の使書が伏見に達し、江戸の急進派が頻々と一挙を促していた時であったから、
時分はよしと内蔵助、一度江戸に出府したのであった。
七四 同
内蔵助の里げしき 江月斎の祇園島原
上野介の隠居が赤穂党の注意を新たにしたように、内蔵助の出府もまた上杉、吉良両家の
警戒を呼び起した。それで両家ではますます間諜を多く放って、京都、伏見、宇治、八幡、山
科、大阪、奈良等に配し、再び内蔵助の動静を探偵し始めた。このことまた早く赤穂党にも知
れる。内蔵助は一層苦計の必要を感じ、出府以前に比べ一層思い切った乱行を演出した。そ
の頃名高い傾城(けいせい)といえば、京の島原では升屋の夕霧、伏見の撞木町で笹屋の浮
橋とて、評判記にも上れば、小唄にも謡われる。内蔵助はこれらの許に三日と欠かさず切々と
通い、ある時は吉田、原、小野寺、大高、中村等の同志と共に豪遊を極め、人生百年ただ行
楽との気概を示し、またある時は何人をもつれず、一人揚屋に流れ込み、浅酌(しんしゃく)低
唱して通を装う。彼が酔った余り戯れに作って廓の世界に伝えた自作の「里げしき」は、この折
の作と思われる。
里げしき 本調子
ふけて廓のよそおい見れば、宵の灯火(ともしび)うちそむき寝の、夢の花さえ散らす嵐の
さそい来て(合)、閨(ねや)をつれ出すつれ人(びと)男、余所(よそ)のさらばもなお哀れ
にて、裏も中戸をあくる東雲(しののめ)、送る姿のひとえ帯、とけてほどけて寝乱れ髪の、
黄楊(つげ)の(合)、黄楊の小櫛もさすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすが
のうきつとめ、こぼれて袖につらきよすがのうきつとめ
内蔵助が里の間に「うき様」として通(かよ)ったのは、恐らくこの「こぼれて袖に露のよすがの
うきつとめ」から来たのであろう。思うに彼の心にもない放蕩乱行は、もとより敵を惑わす計から
出たに相違ないが、英雄の胸中にはまた自(おのず)から閑日月がある。彼が夕霧の膝により、
左に伊丹の美酒をなみなみと盃に受け、右に蒔絵の硯箱を引き寄せ、紅筆を取って小菊の紙
に向ったその刹那は、風神はるかに我また我を知らないものがあっただろう。さりながら草して
最後の一句「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に露のよすがのうきつとめ」に至ったとき、
彼が秘懐する心中には、美人、烈士もこの嘆きは同じと、そぞろ暗涙を催したのであろう。彼が
「うき様」の称を喜んで受けたのも、そもそも偶然ではなかったと追想される
英雄は自から英雄を知る。維新中興の原動者の一人久阪玄瑞(くさかげんずい)が回天の
大策を抱いて京都に放浪した際、内蔵助と世を隔てて、その身は同じ境涯に落ちたところから、
端なくも当年の苦心を思いやり、李太白の詩意を介して内蔵助に同情の小唄を作った。
祇園島原撞木町、傾城狂いのその中に、病気何ぞで死なしゃんしたら、忠か不忠か分りゃ
せぬぞいのう
これまた内蔵助を謡いながら、自家の境涯を托したのである。大石の作を読み、久阪の作を
唱ずれば、二人の英雄は髣髴(ほうふつ)として眼前に現われて来る心地がする。
七五 同
京童の悪口
大将の内蔵助が先に立って、揚屋通いにうき身をやつすから、大高、中村らの壮年たちも負
けず劣らず豪遊する。当時の光景はこれらの人々が妓(ぎ)に贈った戯墨(ぎぼく)が間々世に
残っている。この際内蔵助を中心とし、これに従って遊興を欲しいままにした壮年たちや、同じ
老人中でも小野寺十内などは、久しく京都の留守居役を勤め、洒々(しゃしゃ)落々とした通
人であったから、揚屋でもてたであろうが、厳正武骨の間瀬久太夫などのお客振りはさぞや殺
風景であったろうと追想すれば、覚えず知らず噴き出される。しかしこれらの登楼にもまた二つ
の意味があった。一つには赤穂浪人の自暴自棄した堕落の状を世間に示すことであるが、二
つには青楼のうちに密談すれば、この方はまた人の目に立たない便宜がある。それで多勢が
揚屋に押し登れば、いつも壮年の連中が幇間(ほうかん)芸妓を相手に飲めや歌えやと陽気
に騒ぐ。その間に大石、小野寺、原らの領袖は別室に首を集めて議を凝(こら)した。それで赤
穂の浪士が朝夕会って復讐の計画を進めつつあるのを、世上では夢にも知らなかった。あた
かもそれは維新前の志士たちが祇園島原などの青楼を密議の場所としていたのと同じである。
その苦心のほどは推察するに余りある。
ただしこれは秘中の秘、遊蕩の主眼はといえば、自家の堕落をなるだけ世間に知らせるため
だから、揚屋通いぐらいではまだまだ足らない。その頃京都に隠れない芝居役者に瀬川竹之
丞という陰間(かげま)があった。内蔵助はまたしきりにこれを溺愛して金を使う。その体(てい)
たらくはひとえに当時流行の男色を喜ぶ者とのほかには受け取れない。彼はある時は大小の
刀さえ腰にせず、墨染の法衣を身にまとい、遊里のうちへと浮かれ込む。大小を外し法衣を着
けたのは、もはや武士を棄て世を捨てたと、人目に見せるためであるが、その世捨人が有ろう
ことか、有るまいことか、青楼に居続け、ほろ酔い心地の興に乗じては、幇間、芸妓、新姐(し
んぞ)、禿(かむろ)にかげまの竹之丞までを引き連れて、升屋さては笹屋の店をひょろりと立
ち出で、京洛の子女が群集する祇園のあたりで、更にまたまた大酒宴を催し、人目もはばから
ず、あらん限りの狂(たわ)けを尽した。目隠しもしたろう。隠れん坊もやっただろう。『忠臣蔵』
の作者が「由良さん此方此方(こちこち)手の鳴る方へ」と書いたのも、実際にあった「浮き様此
方此方」の写生と思われる。かくも浮かれ狂った果ては、酔いつぶれて人々に助けられ、つい
にはいきなり大道に打ち倒れ、揺すっても起しても動かず、鼾(いびき)の声は轟々と雷のよう
に響いた。士人に言わせれば「人間に羞恥のこころ有るを知らない」という状態である。これを
見る者余りのことに皆爪弾きして賤(いや)しみ悪(にく)み、誰が言い出したとなく京童の口に
あこうでわろうてあほう浪人。大石かるくて張抜(はりぬき)石
と嘲(あざけ)りはやした。ここまでくれば、もはや狂乱とも思われる。さては赤穂の退際に一万
両の大金を私したとの噂もまったく嘘ではなかったかと、上杉、吉良の両家はやや安堵し、洛
中洛外に張り付けた間諜も春から夏にかけ、追々江戸へと引き揚げた。ああこの間に鬼神は
すでに義央邸を伺っていたのである。
七六
冷光院一周忌
神崎と千馬の東下
前年三月十四日田村邸において内匠頭が切腹した際は、幕府を憚(はばか)って、僅かに
片岡、磯貝らの近侍数人が柩を守って、泉岳寺の浅野侯の墓所に葬ったが、その後祥月命
日の法事ないし墳墓の建設は、遺族の随意にと言い渡された。それで翌四月十四日までには
墓所の中央、一段小高い丘上に立派な石碑が建設され、その後六月には百か日の法要さえ
行われた。また一方赤穂においても、四月十四日は城池引渡しの準備で、混雑の最中であっ
たにもかかわらず、内蔵助は華岳寺において法会を開き、ついで六月百か日の追福も行って、
残っていた藩士と共に参拝した、同年八月には洛北の瑞光院で亡君の墓碑一基を建てて、
英魂を弔(とむら)い、以後毎月十四日同志と参詣を欠かさなかった。だが日月は実に電光の
ように早く、一周忌がやって来た。上べは酔狂混乱遊蕩の内蔵助も、亡君のことは一時も忘れ
ない。微行して赤穂に赴き、華岳寺に詣でて、何くれとなく法会を取り計らい、当日には亡君
の位牌の前にひれ伏し、やや久しく声を飲んで黙拝した。「ああ我が侯在天の英霊、しばらく
忍ばせ給え。敵はたとえ天に翔り地に潜むとも、臣らこの仇を濯(そそ)ぎ、必ずご鬱憤を散じ
ます」と、その神霊に告げた。この日赤穂の男女は先を争って参詣し、涙を流して今さらのよう
に旧領主の不幸を悲しみ、追慕の誠を表わした。なお同日同地の大蓮寺、高光寺、遠林寺で
も追善の法要があり、中でも殊勝に見えたのは、新浜の住民らが相談して寺院に位牌を祭り、
法事を営んだ一事であった。鳩巣はこれらを評し「侯の民に対する遺愛はこれでわかる。侯も
また人君の位は高いものであった」といった。
*
* * * *
亡君の一周忌もすでに済んだが、大学長広の閉門はそのまま続いている。急進派の諸士は
東西ともにますます憤激する。平静を装っている内蔵助も気が気ではない。これより先、内蔵
助は誰かもの慣れた同志一、二人を別に江戸に下向させて、上野家の動静を探らせようとし
た。岡島八十右衛門にそれを命じたが、八十右衛門は下向以前に妻子の処分をしようと赤穂
に赴いたところ、そこで病気に罹って、急に出京出来そうもない。さらばとて内蔵助は神崎与
五郎を選び、これに江戸下向を申し付けた。彼はこれを引受け、四月二日に江戸に到着した。
任務は敵に対する秘密探偵と、味方に対する情勢視察である。これについては千馬(ちば)三
郎兵衛もまた大阪を発して、江戸へと赴いた。これは恐らく原惣右衛門の命を帯びて急行した
のであろう。事態はいよいよ急転回をはらんできた。
七七 大石主税の人となり
この年内蔵助の長男松之丞は十五歳となった。名誉ある武門の家に生れたことで早くから武
芸を修め、また父内蔵助に従って『論語』を学んだ。由来『論語』はこの家の至宝である。父が
「必ずや事に臨んで畏(おそ)れ、謀(はかりごと)を好んでなす」のは、『論語』の教えであった。
この父がこの書を取ってこの子を薫陶したのである。彼は爽快な人柄で、気概に富んでいた。
年齢からいえば、僅かに学問の入口に達したばかりであるが、すでに立派な成長を遂げてい
た。この冬一党が仇家に討ち入るその前日、すなわち十二月十三日、小野寺十内が内室に
送った手紙に「大石主税歳十五で身長五尺七寸。万(よろず)それ相応の働きをする。珍らし
いことゆえ、短冊を書いて贈った」とある。これを見る者は皆驚くであろう。「忠臣蔵山科の段」
を芝居で観れば、主税の力弥は前髪振袖の優(やさ)若衆で、女にしても見まがう姿であるが、
実際はすでに大人に成長した若武者だったのである。昔、韓の張子房(ちょうしぼう)は、秦の
始皇帝が飛ぶ鳥をも落す勢いの日に、御車を博浪沙(ばくろうしゃ)に待ち伏せて、えいと一
声鉄槌(てっつい)を投げうった。さぞかし斗大の胆力にあふれた身体魁偉(かいい)な人物だ
ろうと思った漢代の良史太史公が、留侯(りゅうこう)伝を書くために調べたところ、何と容貌は
婦人のようであった。主税はこれと反対で、容貌は婦人のように思われていたが、実際は堂々
たる五尺七寸の大丈夫であった。またこの容貌魁偉の大丈夫の筆蹟の優美さは、『赤城(せき
じょう)落穂集』にみるとおり、誰もが感賞してやまないものである。
次に吉千代十二歳。この人も後に面目ある一家となったのは、その遺詠を読んでも知れる。
次は大三郎で今年始めて誕生した。長じて外衛(とのえ)良恭(よしやす)と称し、千五百石で
宗家の浅野侯に召し出された。そのほかに阿空(おくう)という女子があった。それで松之丞、
吉千代、大三郎、阿空は皆父母の膝下で山科の遇居で暮らしていた。(簡訳者注 もう一人の
女子は進藤源四郎の養女となっていた。六二項参照)
思うに内蔵助が島原に浮かれ、伏見に戯れ、祇園に遊び、大阪にさまよい、放蕩という放蕩、
乱行という乱行を極めたのは、実にこの時である。したがってその人に対する悪罵悪評は洛中
洛外に渦巻いたが、ここにゆかしいのは家庭の奥からはそよとの風波の声も起らなかったこと
である。これによって内蔵助の内室石束氏(香林院)が世に優れた賢婦人であったことが想像
される。
一家はこのように美しい家庭である。それだけ夫婦と親子との間にある恩愛の情はさぞ濃(こ
ま)やかであったと思われる。亡君の一周忌は早くも過ぎて、大学氏の閉門はそのままであり、
主家に対する恩命のほどもいよいよ測り難くなった。今が今まで一家の計、一身の楽しみのほ
かに、余念もないように見せかけた内蔵助も、もはや活動のために足手まといを片づける必要
を感じ、ここに大義のために恩愛の至情を断ち切ろうと決心した。なんという壮烈な心であろう。
今にしてこれを想うと、比叡の山頭に鬼が夜泣きし、琵琶の湖上に天が粟を雨と降らす思いが
する。
七八
大石一家の離散
主税の決心
ある日内蔵助は松之丞を書斎に呼んだ。松之丞は「お呼びですか」と入って来て両手を突
いた。内蔵助はじっとその顔を視つめ、形を正して言い出した。
「人は生れて十五を成童という。お前もいつの間にか成童に達したから、多少は理義のわき
まえも出来たであろう。これから父の言う言葉をよく心に留めてくれ。およそ人道は義より大きな
ものはないが、さてその義は君臣より重いものはない。お前が知るように、この父は先君の厚恩
を受けた者であるから、義として死をもってこの厚恩に報いなければならない。お前は当時ま
だ部屋住のことで、直ちに君の禄を受けたのではないが、その歳になるまで飽くまで食べ、暖
かに着て、歳月をゆったりと過ごし、とにもかくにも理義の一端を弁えるようになったのは、どな
たの賜(たまもの)か。全く先君の厚恩である。今この父は一死をもって君国に報いようと思うが、
お前は父と共に生を棄てて義を取る心はないか。父としてまざまざ我が子に死を勧めること、
まことに人情として忍びないが、さりとて古より『人生誰か死なずに済むものか』という。不義に
して生を保ち、臭を千歳に残すのと、義のために死につき、薫を後世に流すのとは、いずれを
いずれと思うか。私がお前に死ねというのも、大義の上から深くお前を愛する至情である。とは
いえ、お前にもしこの理の聴き分けがなければ、父の言葉もこれまでである。この上父に追随
する要はない。父はお前の母とは離縁し、吉千代以下を托して豊岡に返そうと思うから、お前
も母に従ってここを去れ。よくよく考えて答えてくれ」
と語った。平民主義の内蔵助は、また同時に自由主義の人であった。情と理をもってさとし、な
おかつお前の判断に任すというのである。
松之丞は流れ落ちる涙を払って、恨めし気に父の顔を見上げた。
「父上は、何ゆえにさよう情けない言葉を仰せられますか。私不肖ではありますが、日頃のご
教訓により、大義の一端は弁えております。どうして父上を棄て、君侯に背き、不義の名を取る
に忍びましょう。願わくば父上と一緒に死について、天下後世に父子国に殉じたと称せられた
く存じます」
と言葉涼しく言い切った。
「ああ、それでこそ我が児であった!」
とは、内蔵助の肺腑(はいふ)の底から発した語であった。
内蔵助はやや平静にかえり、
「回顧すれば、お前の誕生の後であった。先君の内匠頭侯は一日我が家においでなされ、
お前の健やかな体をご覧になって、守り刀にと太刀を頂戴(ちょうだい)したことがあった。また
お前の記憶にあるかどうか。お前が四、五歳の時であった。お前を伴ってお会いした時、お前
を側に寄せて『松之亟は何が好きか』と聞かれた。お前は『お馬が欲しゅうございます』と答え
ると、先君は『うい児だ』といわれ、厩(うまや)から何頭かの馬を連れてこさせ『さあ坊、どれでも
いいから選んで取れ』といわれ、駿馬(しゅんめ)一頭を賜った。先君がお前を愛されたのはこ
の通りであった。」
松之丞はますます感奮し、これより一個の少年は、断々乎として身をもって国に尽す覚悟を決
めた。
そして内蔵助は内室を呼び、離縁を申し渡した。ああ、この長年続いた厭(あ)きも厭(あ)か
れもしない交情(なか)に、一朝離縁の申渡し。内室の悲嘆いかばかりであったか。けれどその
意味は明らかに読める。快挙一たび発する日、せめては罪が三族に及ばないことを予想して
の離縁である。この一片の離別の書は、有情泣血(うじょうりゅうけつ)の書である。賢明な内室
はやがて托された三人の子供を引き連れ、永の別れを山科に告げて、淋しく但馬路に赴いた。
「今夜孤雁愁雲に迷う。明朝一路天色は闇」であろう。
*
* * * *
やがて内蔵助は松之丞に元服させ、大右主税良金と称させた。
附言 赤穂における最初の連盟の際から、主税をその一人に数えたのは『義人録』である
が、当時松之丞の主税は僅か十四歳で、まだ元服の前である。内蔵助はいかに我が子
だとて、元服もしない者を加えるはずがない。そうかと思えば、今年九月東下の途上、
川崎宿に到って、始めて元服し「毅然とした一丈夫」となったという。前の同盟は早きに
失し、後の元服は遅きに失して、ともに真を得ない。ここでは堀部安兵衛の記録によっ
て正しておく。
七九 連盟の増加
この機会に最初の連盟以降、今春までに後から相次いで同盟に入って来た人々を見ておく。
その中の金鉄の義徒を列挙すれば、
古田沢右衛門
間瀬孫九郎
前原伊助 十石三人扶
茅野和助 金五両三人扶持
横川勘平 金五両三人扶持
寺坂吉右衛門 足輕
堀部弥兵衛 元三百石
堀部安兵衛 二百石
持
奥田貞右衛門
富森助右衛門 二百石
奥田孫太夫 百五十石
赤垣源蔵 二百石
矢田五郎右衛門 百五十石
木村岡右衛門 百五十石
倉橋伝介 二十石五人
杉野十平次 金八両三人扶持
不破数右衛門 元二百石
間新六
片岡源五右衛門 三百五十石
磯貝十郎左衛門 百五十石
扶持
大石主税
都合二十一人である。これらの義徒は何ゆえ赤穂における最初の同盟に加わらなかったか
といえば、それぞれ理由がある。
当初の会議には、部屋住みの子弟にまで、強いて列席を促さなかったので、吉田忠左衛門
の嫡子沢右衛門、間瀬久太夫の子息孫九郎は控えていた。しかし父はいずれも連盟し、最後
の快挙を志すと聞いたので、父に遅れてたまるかと、進んで同盟についたのである。
次に前原伊助と茅野(かやの)和助とは、連盟当日その場に居合せなかったと見える。和助
は作州を浪人して以来、常に神崎与五郎と出処進退を共にして来た。その和助が与五郎の
連盟に、独り反する理由はない。
横川勘平は、前にも一言したように、最初から籠城論者で、内蔵助に迫ったほどの豪の者。
しかるに内蔵助から任所に帰って後命を待てと命ぜられ、やむをえず退いて自家の任務に服
している間に、連盟は発したのである。その日の通知に漏れた彼は、これを聞いて大いに腹を
立て、再び任所から内蔵助の許に押しかけ、同盟に列なったのである。
一同が神文に血を注いだ当時を顧みると、三村次郎左衛門でさえ身分が低いので連盟から
除かれようとしてした。いわんや足軽などはその場に臨む資格もない。それで寺坂吉右衛門は
部隊長の足軽頭吉田忠左衛門に頼って内蔵助に嘆願し、始めて連盟を許された。
次に堀部弥兵衛以下杉野十平次までの十名は、江戸定府らしくは江戸在勤そのままでいた
から、連盟当日参加しようがない。だが堀部父子、奥田孫太夫は、当初から復讐論者で、出来
ることなら独力ででもやろうとしたくらい。その他の人々も君国に忠誠を存する精神はいずれも
同じであった。内蔵助の真意を了解するとすぐに、皆争って誓書を入れた。特に感心な者は
不破数右衛門である。彼は亡主の勘気をこうむって、数年来江戸で浪人した。藩国の滅亡を
傍観してもそれまでであるのに、自ら進んではるばる上京し、山科に着いて内蔵助に懇願した。
その後内蔵助が江戸に出府の時、伴われて冷光院殿の墓前に参詣し、亡き君侯に赦免を哀
願し、ついに同盟の列に入った。
間(はざま)新六もまたその一人。彼は本国を亡命し、江戸に来て浪々していたが、父兄共に
義に殉ずると聞き、これまた内蔵助最初の出府の際と思われるが、ひたすらこの人に頼み込
み、義徒の群に投じた。
それから片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門とは、赤穂における当初の連盟の日、実は江戸
から赤穂に来ていたが、両人ともに日頃亡君の近侍で、深い君寵を蒙り、片岡は君侯今わの
際(きわ)に拝謁し、遺言さえ伝承した。それで当初の堀部安兵衛らと同じく復讐派であったか
ら、その場で内蔵助の真意を測りかね、殉死の連盟につかず、快を分(わか)って江戸へ引き
返したのであった。だが、その後無謀な一挙は彼ら孤力の能くするところでないことと、内蔵助
の秘中の秘を理解し、彼らの希望と同一であることを追々に感悟したので、大いに悔恨し、今
春吉田忠左衛門の出府を好機として、この人を通じて内蔵助に詫び、ついで両人ともに上京
して、まのあたりに懇願し始めて同盟についた。
最後に大石主税は余りの年少のために、父内蔵助はこれを同盟に加えることを控えていた
が、今春成童に達したのと、またその思想の堅固なことを察し、衆に披露して一員に加えたの
である。
八十 同
同盟の増加は上に挙げた諸士だけではない。その他に内蔵助の赤穂退去以来、今春にか
けて、誓書を山科に入れ、義徒の列につく者相次いだ。それらの人々を数えると次のとおりで
ある。
河村太郎右衛門 伝兵衛伜
長沢幾右衛門 六郎左衛門倅
小山弥六 原源五
渡辺佐野右衛門 角兵衛伜
佐々三左衛門 小
左衛門倅
佐藤兵右衛門 伊右衛門伜
左衛門倅
大石孫四郎 三百石瀬左衛門兄 月岡治右衛門 三百石
糟谷勘左衛門 二
百五十石
糟谷五左衛門 勘左衛門伜
井口忠兵衛 二百五十石
高田郡兵衛 二百
高久長右衛門 二百石
木村孫右衛門 二
塩谷武右衛門 百五十石
前野新蔵 百五十
石
井口半蔵 百五十石
百石
田中貞四郎 百五十石
石
酒寄作右衛門 百五十石
嶺 善左衛門 百石
杉浦順右衛門 百石
近松貞六 百石
田中代右衛門 百
石
松本新五左衛門 百石
山羽理左衛門 百石五人扶持
小山田庄左衛門 百石
田中序右衛門 八十石
小幡弥右衛門 百石
中田理平次 百石
近藤新五 三十石
六人扶持
鈴田重八 三十石三人扶持
田中六郎左衛門 二十五石三人扶持 生瀬十左衛
門二十石三人扶持
毛利小平太 二十石三人扶持
大塚藤兵衛 十五石五人扶持
土田三郎右衛門
三十石三人扶持
三輪喜平衛 金六両三人扶持
三輪弥九郎 喜兵衛伜
梶半左衛門 金五
木村伝左衛門禄高不詳
矢野伊助 足軽
両三人扶持
橋本次兵衛 金五両三人扶持
瀬尾孫左衛門 内蔵助家来
以上四十三人に上った。これらの同盟者の中では、
河村太郎右衛門、長沢幾右衛門、小山弥六、佐藤兵右衛門、渡辺佐野右衛門、佐々三左
衛門はいずれも最初から同盟に列した高禄の士の子息である。父の挙に従って列に入ったの
であった。次に内蔵助の同族で、瀬左衛門の兄の大石孫四郎。族長と弟の殉義に励まされて
加盟して来た。
月岡治右衛門は先に江戸に使いして、使命を辱しめて帰った一人。だが同僚多川九左衛
門が当初から逃げ隠れたのに比べれば、とにかく連盟に入ったのはまず感心であった。
高田郡兵衛は、初期には堀部安兵衛、奥田孫太夫と肩を並べる関東急進派三領の一人と
まで、俗眼にはみられていた人物である。
その他の三十有余人も、いずれ劣らぬ忠義の烈士と受け取られた。
*
* * * *
赤穂以来の連盟者を通算すれば、総計百二十五人の多数に達したから、衆の初志が変ら
なかったなら、このうち憤死もしくは病死した四人の義徒を除いても、なお百二十人の義徒を
有したのであった。しかるにこの徒を検討すれば、あるいは父兄の関係から投じた者もあれば、
一時の客気で加わった者もある。そうして後から誓書を山科に入れた者はと問えば、内蔵助の
哀願が公儀に取り次がれ、目付からは返書まで贈られ、そのお礼として内蔵助が江戸まで赴
いたのを見て、さては早晩願望成就と速断し、それではこの際の態度を装いおき、他日主家
再興の日に、抜擢(ばってき)に預かろうとの劣情から、志願した者もあった。
したがって今年三月冷光院殿の一周忌頃は、義徒増加の頂点に達し、一夜作りの偽忠臣が
肘を張り肩をそびやかして、いかにも頼もしく見えた。ああ人心の危く、道心の微(かすか)なこ
とは、今も昔も同じであるか。ここまで書いてくると、ため息を覚えずにはいられない。
八一 金屋の美人娘
二文字屋お輕
このように同盟者が増加するのは、たとえ一時の幻影としても、喜ばしくないではない。しかし
主家の方では亡主の一周忌を経ても大学氏の閉門は依然として解けず、再興の望みはいよ
いよ薄くなって来る。内蔵助は実に気が気でない。それで一方では妻子を片着けて、そろそろ
大飛躍の準備を開始した。だが、これを讐家に覚らせまいとして、他方では一層酒色の欲をほ
しいままままにし、目も当てられない乱行に出た。これが図に当って、世間では内蔵助は放蕩
(ほうとう)の邪魔払いに妻子を追い払ったと誤信した。これは単に世間の誤信ではない。同志
の人まで疑い出した。「いかに敵に油断させるためか知らないが、あまりにも乱暴である」と、気
早な連中には怒り出す者も少なくない。「これというのも、一つは空閨(くうけい)の寂しさも手伝
っているらしい。この際は側室(そばめ)を置いて、廓通いの足だけでも遠のかせようではない
か」とは、小山源五左衛門、進藤源四郎の両人の親族同士の評議であった。一説には、この
頃から両人は背盟(はいめい)の下心を生じ、内蔵助の遊蕩三昧に乗じて、美人をすすめ、こ
れに溺れさせて、一挙の初志を放棄させようと企てたのだともいう。あるいはそうかもしれない。
両人はやがて瑞光院の海(かい)首座(すそ)と図り、一条通寺町の辺に住んだ二文字屋次郎
左衛門の娘で、京洛の巷に評判隠れもないお軽という絶世の美人を側室にと内蔵助に周旋し
た。両人の真意が果して前者にあるか。そもそもまた後者にあるか。前者でほぼ可なら、後者
もまた可である。これを容れれば、世間でも「それ見たことか。妻子を追ったのは、あれを引き
込むためだったな」といよいよ悪評は高まった。讐家の方では「妾まで置くようでは、もはや大
丈夫」と安心するであろうとは、内蔵助の深慮、方一寸のうちに動くところ。それで喜々として彼
女を山科に迎え取った。そうして内蔵助が情愛厚くお軽を可愛がることも、また一とおりではな
い。恐らく同志の若者などはやっかみ半分に「これは怪しからん次第ではないか」と内々に息
まいたであろう。内蔵助も中々艶福家であった。こんな美女を棲家(すみか)に置いたから、彼
の放蕩は少しは薄らぐかとは思いのほか、深草や木幡の里を駆け歩き、上の空の夢人は伏見
の里の撞木町、笹屋の楼の浮橋にも、色の仇波寄せ返る大海の中、島原の舛屋が抱える夕
霧にも、やはりせっせと通い詰めた。ここまでやれば、探偵の方でもくたびれる。「内蔵助の正
体もいよいよ見えた。この上探るのも無益である}と。一人去り、二人去り、夏から秋の初めにか
けて、吉良、上杉の間諜はおおむね江戸に引き揚げた。これを聞いた時、内蔵助は独り自ら
手を打って「我が事成れり」と喜んだであろう。・・・が、女は亡国の恨みを知らない。枕を隔てて
内蔵助の顔をのぞき「浮様何を言やはります」?
八二 一挙の大難関
堀部安兵衛の上京
内蔵助の秘策はいざ知らず、表面は例によって例のごとく、花に戯れ、月に哺(うそぶ)き、
酔歌放浪して、君国の滅亡などは忘れ果て、ひたすら一身の快楽のみに耽(ふけ)り、正体も
ない有様である。こうして月日は空行く馬のように、元禄十五年もまた早くも半ばとなった。急
進派の二人惣右衛門と堀部安兵衛は、東西ともに約束したように、もはや急進派だけで初志
を断行するほかないと覚悟した。大阪では惣右衛門がしきりに一派のまとめに走り、江戸では
安兵衛が絶えず讐家の動静を偵察していたが、安兵衛は偵察の結果、大いに得るところがあ
ったので、六月十二日付で書を原、潮田、中村、大高、武林の五人に寄せ、早々に東下する
よう促した。その書中には、
かねては二十人もいなくては本望達し難いと考えていたが、退(しりぞ)いてよくよく考えて
みると、二十人いなくても、よく分った真実の者が十人もあれば、心安く本望が達せると思
う。近ごろ江戸侍は了簡が多く、腰の立たない有様は言語に絶している。十人しっかりし
た者があれば、このように相談する必要もないのだがと、口惜しく思っている。
とあった。
安兵衛はこの書を送った後、手紙だけでは生ぬるいと思い返し、同月十六日米沢町の借家
をたたみ、芝に住む吉田忠左衛門、近松勘六に会って、自身が上京する旨を告げた。十八日
新橋を立ち、東海道を上って二十九日京都に着いた。ただちに大高源五の門をたたいた。源
五はもとより惣右衛門の片腕である。安兵衛を迎えて大いに喜んだ。やがてともに大阪に下り、
三人会って協議を凝(こ)らした。「われらの一派は分離して事を挙げる。他の同志に対しては、
私情忍びないところだが、太夫の主家の祀(まつり)を害うまいとする誠意を傷つけず、亡君の
鬱憤もはらし、武士の面目をまっとうするためには、もはやこの方法によるしかない。」と一決し
た。中村、潮田、武林らの諸士も約束し、七月二十六日までに抜け抜けに関東に下向しようと、
個々に準備を始めた。惣右衛門はこの間にあって、意中の十四、五名を一層の苦心を費して
引き抜いた。源五は無論、弟の小野寺幸右衛門、その甥岡野金衛門らを徒中に引き入れた。
そして老功間瀬久太夫およびその子の孫九郎らもこれに同意したであろうと思われる。
思えば、去年四月赤穂開城の第一難関から、今年二月山科会議の第二難関を経て、今回
は一派分離の第三難関である。これでもし決行されていたなら、元禄の快挙はあのような万古
に輝く成果を収め得たかどうか、疑問であった。だが、時も時。天か人か。亡君の令弟大学氏
が芸州へ左遷されることが公議決定したとの急報が、端なく内蔵助の許(もと)にも安兵衛の方
にも前後して到着した。ここにおいて局面は一変し、たちまち全党の活動は新展開を始めた。
八三 浅野大学の左遷
亡き浅野内匠頭の弟大学氏は、去年三月の凶変以来閉門のまま、木挽町の邸に籠って月
日を送りつつ、いつかは我が家復興の恩命に接し、優曇華(うどんげ)の花咲くときもあろうかと、
ひたすら謹慎していた。しかし命を待った甲斐もなく、七月十八日、浅野の宗家松平安芸守綱
長朝臣に公命が下った。その大意は「大学は亡内匠頭存命中世嗣と成っていた。内匠頭が公
儀に対し不届きを働き、切腹を命じられた上は、そのまま差し置き難く、今般閉門は控えるが、
知行を召し上げる。安芸守は当人を本国へ引き取るように」というものであった。ただし大学自
身が犯した罪ではなく、まったく兄の大不敬に関連しての処分であるから、格別の恩典により
家および家来を帯することは許された。このような厳命でも、親族であれば「大学が閉門は免じ
られ、私の在所へ送るよう命じられたこと、有り難い仕合せであります」と受けなければならない。
大学の落胆はいうまでもない。綱長朝臣の残念もさこそであった。
大学は罪なくして配所の月を見なければならないこととなり、七月二十八日、内室と家族その
他数十人を従え、さみしく江戸を出発した。途中広島藩士に警護されて、五十三駅の長程を
旅した。翌八月二十日には、木挽町の邸は松平駿河守へお預けとなり、さしも中国路に名を
得た赤穂の名藩もここに全く『武鑑』の上から跡を消した。ちなみにいう。大学の内室は伊勢菰
野の城主土方(ひじかた)市正(いちのしょう)の息女であった。婚儀の際には未来に千々の好
夢を載(の)せて嫁(とつ)がれたであろうに、栄枯は一朝に地を易えて、不幸な良人の運命に
従い、永く配所の客となった。
*
* * * *
江戸にある同盟の義徒は大学の遠流を聞いて、憤然として眦(まなじり)を決した。これは片
時も猶予できないと、副統領の吉田忠左衛門は即日密使を京都に発した。その使は夜を日に
継いで七月二十二日に山科に到着した。報告を聞いた時の内蔵助の心情はいかがであった
だろう。昨春以来苦心惨たん、内外に尽力した主家再興の計画は哀れにも一片の画餅に帰し
た。ここに至って内蔵助の胸中に久しく往来した二つの思いは、ついに一点に絞られた。
思いは同じ、急進派の領袖奥田孫太夫も大学左遷の公命を漏れ聞くや、これも一書を在京
の堀部安兵衛の許へと飛ばした。その書は吉田のそれより少し遅れて、同月二十五日安兵衛
の許へ着いた。安兵衛はこれを一読して、胸裏の干戈(かんか)は一時に飛動した。「事ここに
至っては太夫の心機も一転し、もはや思いおかれることもなかろう。この期(ご)におよんで、な
お事を太夫に隠し、一党の分離を図るのは、同志に対して忠実ではない。むしろ打ち明けて
快挙を図るのが至当である」と考量し、同志の会合を内蔵助に請求した。あたかも内蔵助も思
い立ったところである。さらばとて安兵衛は檄(げき)を京都、伏見、山科、大阪の同志に伝え、
日を決めて会合を催した。
八四 円山大会議
京畿の義徒は檄に接して、我も我もと馳せ集まった。やがて秘密の大会議は七月二十八日
の辰の刻(午前九時)から円山の重阿弥別荘で開かれた。あたかもこの日は大学氏が匹馬淋
しく江戸を出発した同じ日であった。偶然とはいえ偶然である。この日ここに会合した人々は、
大石内蔵助
小野寺幸右衛門
潮田又之丞
大石主税
間瀬久太夫
大高源五
原惣右衛門
間瀬孫九郎
林唯七
大石孫四郎
小野寺十内
堀部安兵衛
中村勘助
不破数右衛門
貝賀弥左衛門
大石瀬左衛門
矢頭右衛門七
岡本次郎左衛門 三村次郎左衛門
などであった。が、これまで義徒の面貌を装っていた進藤源四郎、小山源五左衛門らはこの
会議に欠席した。哀れ偽(にせ)忠臣の化けの皮はそろそろこの頃から剥(は)げかかって来た。
しかし今日この席に列なった人々は、これに何の頓着もしない。「人は人なり。我は我なり。
我はしようと欲するところをやりとげるだけ」との決意は、各自の面上に溢(あふ)れ、いずれも
頼もしく見えた。内蔵助は例によって慎重な態度を取り、容易に口を開かない。したがって諸
士も堅唾(かたず)を呑んで、内蔵助の意見を待ち構えた。この時間瀬久太夫が席を進め、
「老人は老人同志とやら。この頃堀部弥兵衛が寄こした書面に、『上方の長分別にも厭きた。
自分の年令も八十になろうとし、余命のほども測りがたい。もしもこのままで枯れ果てたなら、泉
下の亡君に対し面目ない。無分別かもしれないが、老後の思い出に一人で吉良の館へ突き
入って、屍(しかばね)をその庭に曝(さら)そう』との覚悟を示された。拙者も六十余歳、所詮は
末若い方々と立ち並び、甲斐甲斐しい働きが出来そうにもないので、この席の評議次第によっ
ては、弥兵衛老人と生死をともにしたい」
と言い出した。小野寺十内は聴きもあえず、
「いかにもごもっともである。十内とても同じ老骨、いつがいつまでという訳にはいかない身、
そうなる場合には、死出の山道にご同道申すであろうが、もはや山も見えた。太夫の賢慮もご
ざりましょう」
と、暗に内蔵助の決心を促(うなが)した。
一挙の実行はかえって老成の人々から持ち出された。猛進派中の猛進家堀部安兵衛は躊
躇しない。
「至極の決断、われらは当初よりそれのみ昼夜心掛けてきたが、主家の再興につき、太夫の
厚い思召しがあったので、今日まで忍びに忍んできた次第。しかし大学殿の処分が決定した
上は、主家の運もこれ限り。この上は一同申し合せ、間瀬老のいわれるとおり、まっしぐらに讐
家に討ち入り、決死の覚悟を極めるほかはあるまいとおもう」
と、これも内蔵助の面を見上げ、最後の決断に期待した。
八五 同
快挙の決定
二十余名の視線はことごとく内蔵助の顔に集中した。内蔵助の目は輝いた。
「一難を経るごとに倍増して来た方々の忠誠、内蔵助はただ感激のほかない。今日までこの
内蔵助が取ってきた意見については、方々も手温(ぬる)いと思ったことであろう。自分も早くか
らこれを承知してはいたが、『父母に病があり。万に一つも命はないとしても、薬を飲まない訳
にはいかない』というように、われら世々浅野家の厚恩を蒙り、浅野家の禄を食んだ者は、たと
え一縷(る)の望みであっても、これある間はと思い、御家再興のことに心を砕いてきた。だが、
今回公儀の沙汰といい、大学殿の処遇といい、弾正少弼公以来の名家もここに全く廃(すた)
れてしまった。」
といいさして、感慨の涙を打ち払い、
「この上は武士道の本意、ただ最後の一挙に打ち掛り、これを断行するのみである。さりなが
ら用兵にはまた自からその道がある。必死の覚悟は当然ではあるが、いたずらに讐家に討ち
入り、讐(あだ)の首級も挙げ得ず、犬死しては、廃れた後までも浅野家武名の恥である。先君
の恥辱にさらに恥辱を重ねることはできない。兵家の至聖孫武子(そんぶし)も「算多い者は勝
ち、算少ない者は負ける」といった。不肖ながらこの内蔵助に多少掛引きの心得もある。十月
までには後事を処分し、必らず関東に下向する。同志の方々もそれ以前に各々出府されたい。
ただその間は銘々努めて敵の動静を偵察し、誰にもあれ、抜駆けの手出しは厳禁するぞ。こ
の件は堅く約束する。方々もさよう承知されたい」
と凛然(りんぜん)として宣示した。「朕の意は既に決した。また言うことなかれ」と命じた昔の英
主を、今目の前に見る心地がした。
内蔵助の宣言は、同盟の義徒にあっては、空谷(くうこく)の恐音(きょうおん)、岐山(ぎざん)
の凰鳴(ほうめい)であった。歓呼の声は潮が寄せるように、席の四隅から湧き出した。さらば
一献祝いの盃を挙げようとて、酒宴は山荘の中央に開かれた。臣らは「死を避けず。斗酒辞す
る要はない」と、ますます感激が高まった。小野寺十内は手鼓(てつづみ)を打って「剛者(つ
わもの)の交り、頼(たのみ)ある中の酒宴かな」と小歌の一曲を謡い出せば、原惣右衛門は内
匠頭長直朝臣に近侍して乱舞に堪能の聞えがあった人である。やがて扇をさっと開き「富士の
み狩の折を得て、年来の敵(かたき)、本望を達せん」と、自から謡い自ら舞い収めれば、人々
はすでに敵の首を手にした思いをし、深更になってこの会を終えた。
附言 文士は武士の真情に通じない。従来の文学はこの会を疑い、たとえ会するとも、こ
のような議論を闘(たたか)わすはずがないとか、視聴をはばかるこの席に謡曲乱舞など
する訳がないとか、文士の豆より小さな心で武士の言動を批判している。こんな連中に久
阪玄瑞が坂下門の刺客河本杜太郎(とたろう)の門出を送る前夜の詩酒高吟を聴かせた
ら、目を回して仰天するであろう。
八六 連盟の淘汰
円山会議によって、一党総討入に決定したので、列席の諸士は大忙し、手の舞い足の踏む
ところを知らない。「死を見ること帰するが如し」とは、真にこれらの人々をいうのであろうか。な
かでも猛烈なこと火のような堀部安兵衛は少しも時間を空費しない。会議の翌朝京都を離れ、
ただちに東下の路についたから、内蔵助は潮田又之丞に命じて、これに同行させた。二人は
途中遠州浜松の駅に差しかかる時、端なく西上して来た大学氏の一行に出会った。が二人は
秘かに思うところがある。それで素知らぬ風をして、馬を早めて駆け抜けた。
*
* * * *
こちらは大学氏、尾張から近江路を経て、山城に入り、伏見の駅に一宿したので、内外に散
在した赤穂の浪士中旅館に伺候する者も少くなかった。内蔵助は病気と称して出なかった。そ
の他復讐の挙を心に期する輩は、言い合わせたようにお見舞を欠いた。その心情を察すれば
「大学殿は正しく先君の兄弟、今は左遷の身となられ、遠く祖地に向われる。これこそ永の別
れ、ご気嫌を伺いたいのは山々であるが、ここでなまじ拝謁(はいえつ)したら、他日復讐の後
に公儀の耳に入り、どのような嫌疑が再び大学の上に降りかかるかもしれない」と遠慮したので
ある。
附言 世にこの義徒のお見舞回避を、大学氏を疎んずる結果だとする者がある。義徒の心
情がもしこの俗説のとおりであったなら、内蔵助を始めとして、義徒は主従の礼も知らない
没義漢(ぼつぎかん)に落ちるのである。義徒にこれを聞かせたら、その馬鹿さ加減に呆
れたであろう。
*
* * * *
開城当時の腰抜け連が、嘆願は無効と聞くや否や、たちまち四散し始めたように、春以来
増加した同盟者も、大学の左遷を聞くと、昨日の意気はどこへやら、当初から内蔵助の腹心と
なって、謀議をともにして来た奥野、進藤、小山などまで、ボツボツ曖昧な様子が見えて来た。
これらの連中がこんな有様では、多数の向背は想像するに難(かた)くない。ここにおいて、深
謀遠慮、かねて考量大度な内蔵助は考えた。「到底こんな連中と大事を共にすべきではない。
しかし一旦神文まで納れた者を、無下に疎外することもできない。この際全員に神文を返して
やれば、あらゆる砂礫を捨て純金のみを残せよう。こうすれば臆病連の面子(めんつ)も立ち、
後害を残す憂いもない」と、彼の自由主義はここでまた発動された。やがて彼は物に慣れた貝
賀弥左衛門と大高源五を選び、かねて手許に収めてある中から幾十通かの神文を両士に托
し、かつこれに旨を授けて、同盟者を歴訪させた。
八七
同
八月五日貝賀弥左衛門と大高源五は内蔵助の家を出発し、近くは山科、伏見、京都、大阪、
遠くは赤穂の辺までに散在する同盟者を尋ねた。両士は一々彼らに会って、
「今日参上したのは、太夫の命を伝えるためである。太夫は昨年以来貴殿たちと相談し、ひ
たすら御家の再興に苦心された甲斐もなく、大学殿にはこの始末。この上は、お互いの忠義も
もはやこれ限り、この上力の尽しようもない。いつまで盟約を続けても詮ないので、かねて差入
れのあった神文盟書は、一先ず返却することになった。後日またよい機会があれば、重ねて相
談に及ぶこともあろうが、それにこだわらず御自身の身の振方を着けるようにとのことでござる」
と言いながら、一々その盟書を返した。
「これは鄭重な仰せ、太夫が思われるとおり、こうなった上はやむをえませんな。何とぞ太夫
によろしくお伝えください」
と答えつつ、ホッと一息、ヤレヤレ厄難を逃れたかと、面上に喜びの色を湛える者が過半数で
あった。両士は実に悲憤に堪えないが、今さら朽木糞土(きゅうぼくふんど)の輩と論争したとこ
ろで詮ないことと、足早に去って、次の面々を歴訪した。
しかし純粋な正義の徒は両士の言を聴くや否や、顔色を変え、
「それは何ということか。われら神文の上に誓い、この血を注いで決心したのは、御家の再興
もあるが、不倶戴天の君の讐に、一太刀報いるためであるぞ。それにしても今日に及び、盟書
を返す太夫も太夫、またこれを持って来る貴殿らも貴殿らではないか。こんな腰抜けと知らず、
ともに大義を議(はか)ったのは心外千万である。言葉交わすも武士の恥、とっとと立ち去って
くれ」
と眦(まなじり)を決し、気早な勇士は刀を引き寄せ、刺し違えようとする勢いである。両士はこ
れを見て、
「そんなに強い忠誠心をお持ちか。実は去月二十八日円山の秘密会議で、太夫は決心され
た。それはかくかくである。それについて今一度方々の覚悟を見せてくれとの、太夫の深い賢
慮で、諸君をお試しした次第。事態は切迫しているので、太夫の出発は九月中とまで決まって
いる。各々方にはそれ以前に早々出府されたい」
と告げた。
「さようであったか。それでこそわれらの統領、敵はもはや掌中にある」
と小躍りして勇み立つ。これらの連中とはなお交々今後の手筈を約し、両士は帰って内蔵助
に諸士の向背を報告した。
世に有り難いのは真誠の義士である。両士の通告を受けるや否や、父母を残し、妻女を振り
捨て、我遅れまいと約を違えず、十月以前にすべて江戸へと馳せ下った。それについても内
蔵助の慎重な用意、ただ感服のほかない。
八八 同
内蔵助、石束父子に与える書
内蔵助は用意慎重の人である。それだけ万事をゆるがせにしない。が、一たびこうと決断す
れば片時も躊躇(ちゅうちょ)しない。彼は大学左遷の報告を受けた瞬間から、もはや一挙決
行のほかないと覚悟して、ただちに東行の準備に取りかかった。円山会議を開く前四日、彼が
岳父に贈った書を見れば、彼の胸中は明々である。
速達をもって啓上致します。お身体いよいよ別条なく、勇健でおいでになることお喜び申し
上げます。去る二十日付けの貴簡京より届き、拝見いたしました。妻子たちいよいよもっ
て無病に肥立ち、平生のとおり達者に過ごし、大三郎も息災に生い立ち、くう、吉之進も
無事と聞き大変に喜んでおります。私、主税、源四郎も異議なく過ごしております。この間
家来の左兵衛をそちらへやりましたが、今明日中には帰ってくるでしょう。
一 去る十八日江戸を出、二十二日にこちらに着きました。大学殿は同日加藤越中守
様より閉門を申し渡され、妻子、家中ともに松平安芸守様へお預けになります。近々
芸州へ越すとの連絡があり、いずれそちらにも連絡が届くと存じます。
一 それに付き私も支度ができ次第、父子ともに江戸へ下向する所存であります。もし
江戸在府中死亡するような ことがあれば、万一妻子などへどのような処置があるか、
計り難いのですが、その節は見苦しくないようによろしくお申し付けくださるようお願い
いたします。皆様の御難儀の段、至極迷惑と存じますが、今さら算段しようもありませ
ん。不慮に御縁に連なり、このような次第となり、不本意ながらこう申し上げるほかあり
ません。何か方法もあるかとかれこれ考えましたが、それもできず、幾重にもご免下さ
れたくお頼み申し上げます。事改めて申上げますが、これまでのご懇情、御礼申す
べきようもございません。一度お会いしたかったのですがそれも出来ず、残念に存じ
ております。
一 妻子どもへはわざわざ申しませんので、御前様のよろしいように聞かせてやってくだ
さるよう、お願い申し上げます。もし不覚悟に取り乱す風情があれば、残念です。我ら
武士の家に珍しくない事情ですから、よく話してやってください。主税は心元なく思っ
ていたところ、思いのほかに丈夫に理解してくれ、心強く思っております。どうかご安
心ください。もはや思い残すところはありません。この上ながら御前様のご心労を推察
し、有難い次第であります。何分にもよろしくお頼み申し上げます。
一 江戸へ引越したあとの諸道具、こだわる訳ではありませんが、打ち捨てておくのも
かえって見苦しく、いかがかと思います。長持は五、七棹(さお)まではなく、お引き
取りいただくよう、また伜どもの入用物もあれば、なにとぞ貴意次第にお頼み申しま
す。ご同意いただければ、確かな若党、できれば茂二、伊左内を遣わされたく存じま
す。家来の孫左衛門は用事があって赤穂ヘ遣わしております。私が立つのは来月
中と存じております。支度次第で早くなることもあろうかと存じます。赤穂へ差しおい
た貝桶の件、いつぞやも申し上げたとおり、孫左衛門へ申し付けてあります。ここに
残っている道具類は、どのようにも処理ください。屋敷はどうしようもないので抵当に
入れ借金しました。面倒なことはないと存じます。
一 以上すべてそちらでお計らい下されたく、何分にもお頼み申しあげます。委細申し
上げたいところ用事が取り込みその時間がありません。御一家の皆様へ申しあげる余
裕がありませ
んので、御前様御の了簡次第でお話されるようお願い申しあげます。
七月二十五日
池田久右衛門
石束源五兵衛 様
同 宇右衛門 様
この手紙によって察すれば、内蔵助の妻女の表面的離別も、また自身の狂的乱行も、石束
父子とはすでに了解済みであったことは瞭然である。
附言 『烈士報讐録』に、石束源五兵衛は内蔵助の乱行を見て、非常に立腹しているとこ
ろに、東行の議決を済ませた主税が、母、兄弟ならびに源五兵衛父子に暇乞いにはる
ばる尋ねて来たとしている。家族の再会を期しがたい旨を告げると、源五兵衛は主税を
叱りつけ「よしこの後、再び会いに来ても面会は許さない」と追い返したと記している。主
税の暇乞いは事実であるが、これを追い返したとは、例の市井の妄談に過ぎない。さす
がの観瀾(かんらん)もこれには一杯食わされたとみえる。
八九
梅林庵の仮寓
百両の無心 牡丹の贈与
内蔵助は出発の準備、軍費の供給、戦具の整頓、諸士の統率等に心身を忙殺された。彼は
その外戚である備前岡山の家老池田玄蕃の許にしばらく身を寄せると称して、世上の疑惑を
避け、家財什器の一分は石束源五兵衛の許へ送り付けた。秘蔵の愛妾お軽には事情を諭(さ
と)し、数多くの記念品を取らせて、二文字屋に帰らせた。日頃内蔵助が彼女を愛しただけ、
彼女もまた心から内蔵助を恋い慕っていた。それを急に里方に帰れといわれたので、お軽は
深く嘆き悲しみ、かつは内蔵助が備前に行くと言うのを、不審に思ったが、温厚でこそあれ、一
たびこうと決心すれば磐石も動かない主人の気象であるから、泣く泣く京都へ帰った。
閏八月になり、内蔵助は京都四条の道場金蓮寺中の梅林庵を借り入れた。知る者があって
これを問うと、山科の隠棲を片付けるためと答え、世上に対しては、一層遊蕩の便宜に供する
ものと見せかけた。これより先、堀部安兵衛と同行して江戸に赴いた潮田又之丞は敵情を偵
察し、八月十七日江戸を発し、近松勘六と共に帰京し一切を報告した。それで内蔵助は子息
主税と又之丞、勘六を梅林庵に寓居させ、また寺中の永福院には三村次郎左衛門および家
来の瀬尾孫左衛門、その他若党の室井左六、加瀬村幸七らを寄留させ、自身は梅林庵と山
科の間を往復した。
*
* * * *
この時に当って、一挙の軍資金はと顧みれば、昨年赤穂の退去以来、二年間にわたる同志
への支給、運動の費用等のために、一万両の資金も残り少なになって来た。それで内蔵助は
山科の家屋敷を抵当にして金を借り入れ、またその家財の一分を同志の一人寺井玄渓(げん
けい)に托して売却し、軍資の一端に供したが、まだなかなか心細い。ついに内蔵助は京都に
ある親族で近衛家の諸太夫を勤めていた進藤筑後守長富から百両という金を借りようとした。
長富は日頃内蔵助の放蕩に呆れているところであったから、恐らくまたそれに使うのであろうと
速断し「せっかくのご相談ではあるが、持合せがない」と断った。内蔵助これを聞き、内心「この
人まで私の真情を察してくれないか」と嘆いたであろうが、名に負う内蔵助のことである。「それ
なら仕方もないが、実はしばらく地方に引き込もうと思うので、長持一棹(さお)だけ一時お預り
願いたい」と依頼し、やがてこれを持ち込んだ。事の因みにその結末まで話しておこう。この年
十二月十五日内蔵助は赤穂の一党を率いて、見事上野介を討ち取ったとの風聞はここにも
達した。「さては」と長富は驚き、預りの長持を開いてみれば、あるいは書籍、あるいは書画、あ
るいは刀剣などに、一々宛名の付箋が付けてある。これは皆知人朋友への記念の品であった。
長富はこれを見て額に汗し「こうと知れば、百両や二百両は用達てるのであったものを」と足ず
りして悔んだという。とにもかくにも、内蔵助の当時の苦心はいかばかりであったろう。今さら同
情に堪えない。
* * * * *
こうして九月になり、内蔵助は山科の隠棲を男山の大西坊証讃に譲り渡して、四条の道場に
移って来た。繁忙な時期でもあったが、その間にも英雄の胸中にはなお余裕があった。彼は
平生牡丹を愛して、山科の邸内にも多く育てていたが、この地を去るに臨み、これを放棄して
野人の摘み取るに委すのは忍びない。そこで一々これを掘り起し、日頃の雅友に贈った。そ
の中の一人に与えた手紙がある。
このところご無沙汰いたしたところ、お手紙拝見。ますますお元気のこと、喜ばしい限りで
す。明十一日お茶の会に招待いただき有り難く存じますが、不本意ながら京住居なりが
たく、近々近辺へ引っ越しすることになりました。ついては何かと用事も多く、参上すること
が出来ません。御免くださるよう、御礼かたがたご通知申し上げます。
九月十日
大石内蔵助
三宅多中 様
返す返すも勝手ながら上記のとおりであります。良いものではありませんが牡丹二、三
種お分けいたしたく、明後日にでも、御人を遣わしてください。
「忙中に閑有り」とはこのことである。これがあればこそ天下の大事に任ずることが出来るのだ。
九〇 義徒江戸に集まる
忠不忠、誠不誠、勇不勇、義不義の自然淘汰はほぼ行われた。ここに至って真誠の義徒は
人目に怪まれないよう、一人、二人、三人、四人と、ばらばらになり、相次いで関東に馳せ下っ
た。
横川勘平は衆に先だち、七月末に江戸に着く。
岡野金右衛門、武林唯七、毛利小平太は相伴って、閏八月二十五日に着府する。
吉田沢右衛門、間瀬孫九郎、不破数右衛門は九月二日に入府する。
千馬三郎兵衛、間十次郎、中田理平次もまた同行し。九月七日に到着する。
木村岡右衛門は同月二十日に下り着く。
大高源五は京都から母を送って赤穂に到り、この月四日京都に取って帰し、これまた同月江
戸に出た。
大石主税は間瀬久太夫、大石瀬左衛門、茅野和助、小野寺幸右衛門、矢野伊助に伴われ、
若党加瀬村幸七を従え、父に先だって、九月十九日に京都を発し、同月二十四日に着府す
る。
原惣右衛門は舎弟岡島八十右衛門、ならびに貝賀弥左衛門、間喜兵衛同行で、十月十七
日に江戸に入る。
小野寺十内は内蔵助譜代の留守居瀬尾孫左衛門を伴い、同月十九日に着府する。これは
内蔵助到着に先だち、旅館に隠れる準備と見える。
中村清右衛門、鈴田重八もまた同月三十日下着した。
気の毒なのは矢頭右衛門七である。彼は僅かに十七歳の少年、一人の母の処分に困り、母
を伴って出府しかかったが、少年の初旅であるから、婦人の関所手形を請求する手続きを知
らなかった。そのため新居関で差し止められ、しょんぼりと引き帰した。母を大阪まで送ってた
だちに一人取って返し、艱難辛苦して、同じく九月二日江戸まで馳けつけた。
中村勘助もまた家族の処分に窮した一人である。彼が頼む所はただ奥州白川の城主松平
大和守基忠の家士である甥の三田村十郎太夫のみである。それで勘助は京都から家族を伴
い、はるばる奥州まで送り届けた。時機に遅れては一期の恥辱と、これも昼夜兼行で出府して
来た。
もっとも遅れて寺井玄達は十一月下旬に江戸に着いた。
さらに東都在府の面々を見渡せば、在府の領袖としては堀部弥兵衛、同じく安兵衛を始めと
し、奥田孫太夫、同じく貞右衛門、村松喜兵衛、同じく三太夫がいる。
別働隊としては片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門などがいる。田中貞四郎、小山田庄左衛
門らは、むしろこの派に属する。
富森助右衛門は事変後一端川崎の平間村に引き込んでいたが、それでは緩急の間に遅れ
るおそれがあるとて、この頃は帰府して、先輩を助けて働いている。
赤垣源蔵も江戸に坐り込み、いつでもござれと構えている。
在府同志の金主としては杉野十平次がいて、人々の窮乏を救っている。
事変前から亡命して江戸にいる間新六も、一挙を今か今かと待ち設ける。
転じて関西から早く下向した人々はと見れば、吉田忠左衛門は関東方面の探題として今年
三月以来ここに滞在し、同志の統率に気を配っている。寺坂吉右衛門は最初から忠左衛門に
従い、万事に忠実に働いている。
また神崎与五郎と前原伊助は偵察隊として四月以来各々一商店を構え、昼夜に偵察を続け
つつある。倉橋伝介は前原の手代となって、同じく偵察に従っている。
勝田新左衛門、矢田五郎右衛門もすでに府下に集まった。
附言 義徒の出府については、諸書の伝えるところ、実に色々である。しかし寺坂吉右衛門
の覚書および各本人の手筆を正確とするのが妥当であろう。私は主としてこれに従った。
今妄説の一、二を挙げると、
『義臣伝』に矢頭右衛門七、武林唯七、小野寺幸右衛門三人の同行を報ずるが、間違って
いる。矢頭の一人旅は上にいうとおりである。武林は岡野および毛利と同行し、小野寺は
大石主税に随行した。
また同書に瀬尾孫左衛門が内蔵助に随行したとあるのも間違いである。郎党であるから隋
行と速断したのであろう。その他の諸士についても、到着時日の上にも、多くの誤謬があ
る。
『義臣伝』ですらこうである。他の俗書に至っては、数え挙げるいとまがない。武林唯七が内
蔵助に随行して、鳴海の駅で珍事を惹き起したなどの話は、俗書や講談のおはこである
が、もとより根もない架空の話である。この頃出た『大石内蔵助』なども盛んにこれらの虚
談であふれている。半小説のことであるから、とがめるにも足りないが、随分出放題を書く
ものだ。
九一 東下の催促
大石無人の進言 永井氏赤穂に封ぜられる
内蔵助の左右に残っている数名の同志を除き、義徒はすべて東都に集合した。今はただ統
領が足を揚げて東下するばかりとなった。
内蔵助の東下を説くに先だって、主税が京都を出発した当時の情況から述べよう。大石氏
はさすがに名門旧家のこととて、同族が極めて多い。安芸にもあれば、讃岐にもあり、山城にも
あれば、常陸(ひたち)にもある。これも同族の一人で、大石無人と称する士があった。元は浅
野家に仕えていたが、ゆえあって早く国を去り、江戸に出て浪人した。その子二人、長を郷右
衛門と称し、津軽侯に仕えて側用人を勤め、次は三平と称し、父と同居していた。父子三人い
ずれも義を好む人々であった。この父子は日頃から一党の人々と交わり、なかでも堀部父子と
は昵懇(じっこん)であった。浅野家の凶変の後であったが、無人は一日堀部弥兵衛を訪れ、
「長らく赤穂から遠ざかっているが亡君の厚恩は決して忘れていない。このたびの一挙には是
非拙者も加えて下されたい」と申し出た。弥兵衛は「お志は有り難いが、貴殿の退去はもはや
一昔、その上ご子息は今日他家に奉公なされ、殿は御子がかりの身分ではござらぬか。ただ
いまの申し出は、無分別と申すもの、内蔵助が同意されようはずがない。これは切にお止め申
す」と丁寧に忠告した。「そうおっしゃればそれも道理、二男もいることであれば、また寸志の致
しようもあろう」と、それからは、陰となり日なたとなって、義徒の志を助けていた。
時に無人は齢(よわい)すでに八十になろうとする(弥兵衛より一つ上)が、一飯に斗米肉十
斤の感がある。ある日無人は片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門を招き、厳然として姿を正し
「貴殿らの復讐の企てについては、さこそと我らも当初から同意に存じ、いささか心を尽しては
いるが、もはや二年の春秋を送って、今なお主意を果さないのは、甲斐のない次第ではござら
ぬか。敵の所在が不分明なればともかくも、現在上野介はまざまざ眼前にいる。そのまま見過
ごされること、誠に武門の恥辱と存ずる。それとも敵がこわければ腹掻き切って、せめて臣子の
分義を明らかにすべきである。このことを同志の方々にお伝え下さい」と激励した。意は内蔵
助を促せというのである。
両士はこれに感激し、堀部安兵衛、奥田孫太夫と会って、このことを図った。あたかも安兵衛
が敵に付けておいた間者から、上野介の近況を仔細に報告してきたところであった。「さらばこ
の上は一日も速やかに太夫の出府を促そう」とて、詳細に無人の忠告をも持たせて、急使を京
洛へと走らせた。
附言。この無人父子三人の話はもっぱら片島深淵の『義臣伝』に拠ったのであるが、これと
思い合わされるのは、三宅観瀾(かんらん)の『烈士報讐録』である。氏は同書の著述に
関し、史料の出所を記して「江戸の出来事は良雄の一族大石良丸に聞いて記した。良丸
は庄司と称し、現に津軽氏に仕えている」という。これによれば、郷右衛門は後に名を庄
司と改めたとみえる。なお三平のことは一党討入の条で取上げることとしよう。
*
* * * *
同じ九月に公命が下り、昨年開城以来脇坂淡路守にお預けのままであった赤穂城は、永井
伊賀守直敬(なおたか)侯が新たに転封することとなった。先々月大学氏が芸州に移る前まで
は、まだまだ一時のことにして、そのうちには再び開運の時があり、また世に出ることもあろうか
と、頼み甲斐(がい)ないことを頼み、なお忠義風を装っていた輩(やから)も、ここに至ってまっ
たくあきらめた。
九二
主税の先発
内蔵助は堀部らの急報に接して、壮心を江戸の空に飛ばせたが、いかにせん内外の用務
があふれ、ただちに出発することが出来ない。憂慮の情はその色に見えた。主税はひそかに
思い計って父の前に手を突いた。「父上の出府はほどもないとは存じますが、この際出府を一
日でも猶予すれば、一党の志気にかかわり、かつは同志の疑惑を増すものと懸念されます。
私は年少で物の用には立ちますまいが、主税が出府したと聞えましたら父上の東下も近いと、
衆の安堵ともなろうかと存じます。私に先発の許可を下さい」と申し出た。ああ、これが当年十
五歳の少年か。後日雪夜に敵営を攻める際、搦手(からめて)の大将となっただけの意気と器
量は、この一場の建議にも見える。内蔵助の悦びを想うべしである。内蔵助はこれを同志に議
した。同志の人々いずれも「さすがは太夫のご令息、大人も及ばぬ分別は感服のほかない」と
嘆賞した。「さらば主税の望みにまかせる」と、ただちに先発に決したのであった。
それについて主税は一日母上に会い、長い別れを告げて来たいと、数日の暇を父に請い、
但馬の出石に赴いて、母を始め弟妹および石束父子にそれとなく最後の暇乞いをした。この
時の母子の心情はいかがであったろう。惜しいかなこの間の文献は欠けて、その詳細を知るこ
とができない。
*
* * * *
子を思う情は誰も同じである。主税のこの行為、万に一つの疑問はない。いかに武運を神明
に祈ったとて、武運長久を期すことはできない。また命を守れるものではない。ただその武運
は敵に勝って上野介の首級を挙げるのみである。しかし内蔵助からみれば、主税の東下は実
に我が子の初陣である。やがて内蔵助は主税を伴って、石清水の男山八幡宮に参詣し、我が
子のために武運を祈った。宮の一坊大西坊証讃はゆかりの人で、山科の隠栖を引き受けたほ
どの間柄であるから、無論一党の消息にも通じている。父子はここに立ち寄って一宿し、復讐
の祈願に丹誠をこらし、翌日京に引き返した。
こうして老功の間瀬久太夫、同族からは大石瀬左衛門、若党には加瀬村幸七、その他茅野
和助、小野寺幸右衛門、矢野伊助を加え、一行は五条の宿で旅装し、表面は明春三月先君
の三回忌の法会準備のために東都に赴くと称し、ここを発した。同月二十四日に江戸に着き、
石町(こくちょう)三丁目の小山屋弥兵衛の離れの座敷を借り、しばらくここに落ち着いた。「さ
あ令息もいよいよ到着された。さては太夫の出府も近かろう」とは同志間の取り沙汰、士気はこ
の頃から一層高揚した。
九三
小人の脱盟
内蔵助が故主を思い慕う情は、常人の思うところではない。彼は昨年山科に来たのち、冷光
院殿前(さきの)少府朝散太夫吹毛(すいもう)玄利大居士の墓碑を京都紫野の瑞光院に築き、
以後毎月の命日には参拝を欠かさなかった。しかし東行の時がようやく切迫して来たので、自
分が一たびこの地を離れたら、後世永く祭祀を奉ずる人がないと思い、百両の金を瑞光院に
寄付し、永代の回向(えこう)および墓掃の料に供した。のみならず内蔵助はもう一基亡君の墓
碑を紀州の高野山に立てた。高野山は世人も知るとおり、国内第一の霊地として、古来多く諸
侯の石碑を建て、その冥福を修め、かつはこれを永遠に伝えるのが、恒例になっている。内蔵
助はこれに倣(なら)ったものとみえる。その墓碑は厳然として今も現存するということである。ど
こまで周到な用意であろう。
こうして公私の処分、内外の準備も大略整った。それで十月七日にいよいよ京都出発の日と
定めた。ところがここに宗藩広島の津田某という士が、当時病気療養のために京都に滞在して
いた。彼は日頃内蔵助と交友があり、かつは復讐の企てを窺い知っている。ある日津田は内
蔵助を見舞い「この頃本国よりの便りに、本月十六日藩庁の有司が君命を承わり、上京すると
のことである。あるいは大学殿の吉事の内意をもたらすのではあるまいか。それまで出発を見
合わされてはいかが」と説き勧めた。これを漏れ聞いた進藤源四郎、小山源五左衛門は得たり
と付け込み、何気ない顔をして内蔵助に会い「津田氏の伝えるところ、いかにも吉報かもしれま
せん。令息がすでに先発された上は、急ぐこともないのでは。ここはしばらく津田氏の説につき、
見合せる方がよいと思われます」と、分別らしく述べた。一家の留守居瀬尾孫左衛門までがそ
の尾に付いて、この東下を引き延ばそうとした。
しかし内蔵助の決心は泰山不動である。交る交る提言するこれらの連中に向い「大学殿の成
行きはもはや明白である。この上何の沙汰があろうか。内蔵助の考えはすでに決定しているか
ら、この上の猶予は無益である」と排斥した。二人は反論せずに退いた。だが内蔵助は進藤、
小山が自分の親族でありながら、この際になって脱盟しようとするのをいかにも心外に考えた。
それでさらに潮田又之丞をやって、今度はこっちから最後の勧告を試みた。「余人と違い、貴
殿らはもっとも当家に由緒あり、かつは我らの近親でもあり、今般の一挙について最初から
人々に信頼されていたではないか。それがこの期に及び盟約を脱するとは、上は先君の尊霊
に対し、下は一門の面目に関し、いかにも遺憾千万である。両所ともにこの議を思い返して同
行されるように」と情理を尽して説諭させたが、両人の精神は疾くに腐敗し切っているから、い
ずれも互いに目くばせして「内蔵助のこのたびの挙は、今日の生活に困る関東勢らの無謀な
企てに乗せられたものである。こんな浅はかな企てにどうして大望が達せよう。我らは後に引き
残り万全の策を講じた上、時機を見定めて下向いたす」と、空嘯(そらうそぶ)いて取り合わな
い。この時潮田の腰の間の宝刀は鞘のうちで鳴ったであろうが、統領の親族、かつ犬猫にも劣
る奴原(やつばら)を平(たいら)げたとて何にもならんと、袖を払って帰って来た。内蔵助の無
念さもさこそと察せられる。
九四
烈士と美人
内蔵助とお軽 内蔵助と平野次郎
出発の前日、十月六日、今日を京の余情ぞと、内蔵助はただ一人紫野の瑞光院に詣でて、
亡君の墓前に額(ぬか)付き、やがて海首座を訪うて、過去行末のことどもを談じた。海首座も
また別離を惜しみ、夕日ようやく傾くままに、送って二文字屋の門まで来た。ここで首座は始め
て禅杖(ぜんじょう)を回(かえ)した。
入れ代って二文字屋親子は内蔵助の入来と聞いて、一たびは喜んで迎えたが、明日は吾
妻への早発(かしまだち)と聞いて、かつは驚き、かつは不審がり「それにしてもさあ一献、前途
をお祝い申しあげましょう」とて、ここに僅かな宴を張った。天性快活な一英雄「それはかたじけ
ない」と辞せず応じたが、お軽はそれと推察したか、打ちしおれて銚子をすすめた。時は天下
太平の世「夜深うして四面楚歌の声」は聞かないが「灯暗うして数行の虞氏の涙」を眼前に見
ては、九腸を絞らないものはない。「美人烈士この心同じ」とは、これをいうのであろう。内蔵助
は暫し沈吟していたが、たちまちまた気を転じ「アアここ当分のお別れじゃ。軽女一曲を」と所
望した。最前から深く物思い、訴え出るに方法なく、躊躇していた美人は「それでは拙(つたな)
い一手(ひとて)を」といい、琴を引き寄せて松風を十三絃の上に起し、思いを込めた最後の一
声「七尺の屏風も躍(おど)らばよも超えざらん。綾羅(りょうら)の袂(たもと)も引かばなどか絶
えざらん」と高らかに唱歌した。内蔵助は何やら心に首肯(うなづく)ところがあるのか。打ち微
笑み「さらばこれにて……」と二文字屋の門を立ち出(い)でた。私はかつてある会で、同人の
ために旋頭歌(せどうか)をうたい、丈夫の思いを表現したことがある。「勾当(こうとう)の内侍
(ないし)が袖を巻けばまくべし巻けるとも、泣くな、いざつな、いざという時に」と。この時の私の
気持は実に良雄と同じであった。
附言 ここに至って私の胸中の何物かが言葉を強く発しようとする。元治元年の禁門の変に
より、七卿は周防の三田尻に流された。その時、我が郷の一熱血児、平野次郎国臣(くにお
み)は、
七卿の一人沢宣嘉朝臣(さわのぶよしあそん)を奉じ、義兵を但馬(たじま)の生野に挙げ
ようと志し、一夜沢卿を盗みに行った。もとより卿と国臣との心線はつとに通じていたから、
かねての
合図は定めてあった。国臣は築地(ついじ)の下に身を寄せて「七尺の屏風も飛び上がれ
ば越える。綾羅の袂も引けばちぎれる」と微吟した。声に応じて一個の黒影が築地の上に
現われ
たと見る間もなく、「えい!」とかけ声をかけ、沢卿は大地に飛び降りたから、そのまま守っ
て但馬路さして行った。これは、国臣の同志で我らの父の友でもあった藤四郎茂親(ふじし
ろうしげ
ちか)の直話であった。「君子は義に覚り、小人は利に覚る」という一句の文学的表現も、
天下の大事を断ずるに足るのである。思うに内蔵助がお軽の鶯のような喉からあの一句を
聴いた瞬
間に「吉良家の塀は高さ幾尺ぞ」との感懐はその胸を衝いて発したであろう。彼がにこりと
ほほ笑んだ笑いが、今も眼前にほのかに見える。
九五 内蔵助再度の東下
内蔵助と日野家
いよいよ十月七日の朝となった。内蔵助は一行を率い、京三条の旅店を発(た)った。隨う
人々は、潮田又之丞、近松勘六、菅谷半之丞、早水藤左衛門、三村次郎左衛門および若党
の室井左六、そのほか中間どもを加えて同勢すべて十人、上下の分に従って、本馬輕尻それ
ぞれにまたがり、「日野家用人垣見五郎兵衛」と大書した絵符を付けた長持二竿を雲助に担
がせ、公儀の関所関所を欺き、悠々として五十三次を押し下った。まことに不敵の振舞いであ
る。
内蔵助がこのように大胆に日野家の用人と称して、あえて憚(はばか)らなかったのには、一
つの逸話がある。去年三月内匠頭は切腹の際に、赤穂に一人の姫君を残した。これは瑶泉院
殿ではなく、妾腹の子であった。内蔵助は主家の再興が恐らく覚束なかろうと慮(おもんばか)
り、せめては亡君の血統を諸侯のうちに残したいと志した。京都の宮家日野家と主家とは多年
の好(よし)みがあるので、ひそかに日野家に申し込み、赤穂退去の際に預っておいた御用金
から、多額の金員を割き、これを姫君の養育料なり化粧料なりとして同家に納め、成長の後は
どこかの大名にお輿入れ下さるようにと約束した。つまりこの姫君を日野家の養女にしてもらっ
たのである。この縁故から今回の東下にも、日野家用人と申立てて行くことの内諾を得た次第
であった。
このことは後年に至るまで、誰知る者もなかったが、宝永、正徳も打ち過ぎて、世は享保の頃
であったろうか、当時尾張の藩士久野彦八郎という者の叔母にお照という者があり、松平兵部
大輔(たいふ)の奥方に侍した。この奥方は京都日野家からの輿(こし)入れと聞えたが、毎年
一回ずつ必らず泉岳寺の浅野内匠頭のお墓に参詣するのが恒例である。それでお照はその
訳を彼女に尋ねて見たが、老女も容易に理由を告げない。そのうち奉公数年に及んで、始め
て彼女から当家の奥方は実は浅野内匠頭様の遺子だということを聞いた。それからお照は一
層気を付けたが、三月十四日の命日が来るごとに、仏間には燈明が点(つ)き、香華が捧げら
れた。奥方自身は精進して、回向怠りなく、翌日はきっと仏参されていたと、お照の口から世に
伝わった。奥方の孝情また真に心あふれる。
附言 このことはまだ誰も書いていないが、義士の事実に精通する信夫恕軒(しのぶじょけん)
翁の談であるから、拠りどころがあるものと思い、ここに収めておく。
*
* * * *
内蔵助の一行は駅馬静々と吾妻を望んで押し下る。「これやこの行くをかぎりの逢阪の、せき
来る涙を袖にとめ、しばしは宿す月影の、消えぬ水と見えながら、小波寄せる湖は、蕭々とし
て風寒く、壮士の心を傷ましめ、遠き昔の易水の、秋もかくやと眺めつつ、草津の露を踏み分
けて、幾夜定めぬ草枕、衣かりがね寒き夜に、旅寝の夢も結び得ず、篠の小笹に蔭宿す、秋
も末野の夜半の露、虫の音(ね)いとど打ち湿り、匹馬(ひつば)風に噺(いなな)いて、暁の鈴
の声、今日も旅路の急がれて、草分け衣しおれつつ、過ぎ来し方を見返れば、伊勢路をあと
に尾張路や、三河を越えて遥けくも、末はいずこと遠江(とおとうみ)、駿河の国もはや過ぎて、
向うは何処(いずこ)伊豆相模、遠くも来つる旅の空、四方の八重霧立ちこめて.何時かは霽
(はれ)る胸の月、都の方(かた)は白雲の、たなびく果てとぞなりにける、高くも登る箱根山、振
りさけ見れば天の戸を、おし明け方の海の面(おも)、沖の小島に波荒れて、漂う船に身の上も、
思い比(くら)ぶる行くえかな。松風寒く時雨(しぐれ)来て、しばし馬をも駐(とど)めつつ、小田
原の宿(しゅく)打ち過ぎて、酒匂(さかわ)、大磯、相模川、深き思いは身にのみぞ、もつれて
解けぬ藤沢や、もろき涙の袖の色、唐紅(からくれない)に染めなせる、唐(もろこし)ヶ原、砥並
(となみ)ヶ原、片瀬、腰越袂(たもと)をも、濡らす浮世の露けさは、草葉に受けて隠家を、鎌
倉山に求めつつ、忍ぶ命の置きどころ.心深めて着きにけり」とは、ある人がこの旅を記したも
のである。十月二十二日一行は鎌倉の雪の下に到着した。
九六 石町の寓居
内蔵助とカピタン
内蔵助出府の日取りは、早くも在府の同志に知れていた。それで鎌倉着の前日の二十一日、
吉田忠左衛門は富森助右衛門およびこの前々日に先着した瀬尾孫左衛門を伴い、川崎の平
間村に出張して、内蔵助の当分寓居する家を見分した。これは助右衛門が浪人になってから
将来の隠棲のために建築した家である。忠左衛門は見分の上、孫左衛門を留めて諸子来訪
の準備を命じ、自身は直ちに鎌倉へと出迎えた。一つには遠来の労を慰し、また二つには諸
般の打合わせをするためである。一行は三日間ここに滞在し、二十五日鎌倉を発し、翌二十
六日打ち連れて平間村の隠家に行った。約十日ばかりここにいて、江戸の様子をうかがった
が、市内に入っても問題なしとの見当がほぼ立ったので、十一月五日ついに江戸に乗り込み、
前月来息子の主税らの宿、日本橋石町三丁目の小山屋の離れに入った。
この小山屋は当時よく繁昌していた旅館であって、オランダ人の入貢の際なども、ここが宿所
になったくらいで、国内諸州の訴訟人は多くこの店に泊った。主税の垣見左内は近江(おうみ)
の豪家で、公儀に訴訟のため下ったと称して、この家の離れを借りている。内蔵助の垣見五郎
兵衛は左内の叔父で、左内弱年のゆえに、訴訟の後見のために来たと言い触らした。したが
ってその他の人々も、あるいは親族、あるいは手代、小物などと分相応に偽っていずれも変名
し、二人の耳目となり、手足となった。
事のちなみに一言しておこう。この年初春に入貢したオランダのカピタンは、前年の三月、松
の廊下の刃傷(にんじょう)事件を聞き、珍しい出来事に驚いて帰ったが、当年も過ぎ、次年の
二月また入貢して、やはりここに宿した。その頃江戸では義士復讐事件の評判が到るところ
噴々(ふんぷん)であった。ことに義士の統領大石内蔵助を始めとし、子息主税、その他小野
寺十内等が、今カピタンが泊まっているその家にしばらく住み、多くの義士が日々ここに出入
していたと聞き、カピタンは衷心から彼の忠烈を感嘆し、隣屋を望んで「あの家がその人たち
のいたところか」と涙を流したとのこと。思うに欧洲で「浪人」といえば、赤穂四十七士を意味し、
「腹切」といえば、日本武士道の特質として喧伝(けんでん)されるのは、恐らくこのカピタンが
日本土産に帰国して報じたのが最初であろう。
内蔵助の一行はすでに到着した。義徒の悦びはたとえようがない。いずれも代る代る内蔵助
の気嫌伺いに来たが、これでは世上の疑惑を招くので、ここには一党の幹部である吉田忠左
衛門、原惣右衛門、小野寺十内と、時には間瀬久太夫らを加え、この数名のみとし、一般の衆
へは会議の結果を伝令することに内定した。こうしてもとかく人目に付きやすい。それでいずれ
も深編笠をかぶり、あるいは粗服を着て出入した。また町人の扮装をし、裏口から出入りした。
世を忍び、仇をうかがう人々の苦心は、尋常普通でなかった。
九七 義徒の変名および仮寓
義徒はことごとく将軍家の膝下(ひざもと)に集合した。いまこの人々がどこに仮寓し、何と変
名し、いかに行動したかをまとめると、
石町三丁目小山屋弥兵衛裏座敷
垣見左内 店借主 大石主税
垣見五郎兵衛 池田久右衛門 大石
内蔵助
仙北中庵 十庵、又四郎 小野寺十内
・・・・ 町人政右衛門 菅谷半之亟
・・・・ 小田権六 大石瀬左衛門
原田斧右衛門 ・・・・ 潮田又之丞
森清介 三浦重右衛門、田口三助 近松勘六 ・・・・ 町人嘉兵衛 三村次郎左衛門
垣見家若党・・・・ 加瀬村幸七
同 ・・・・ 室井左六
森清介家来・・・・ 甚三郎
(以上十一人同宿)
以上のうち、垣見左内は訴訟の本人。五郎兵衛は叔父で後見。仙北中庵は医師との申立て。
また森清介(せいすけ)の家来甚三郎は江州の在所からはるばるやって来て、清介こと勘六の
家来となった。
新麹町六丁目大星喜左衛門裏店
田口一真 店借主篠崎太郎兵衛 吉田忠左衛門
田口左平太 ・・・・ 吉田沢右衛
和田元真 前田善蔵 原惣右衛門
松井仁太夫 町人八左衛門 不
門
破数右衛門
古沢吉右衛門 町人伴介 寺坂吉右衛門
(以上五人同宿)
田口一真(いっしん)は兵学者と称し、和田元真は医者だと触れ込んだ。この家はこれまでの
本営であったから、四方より集する義徒は先ずここを訪(と)い、それから処々に居を移した。
新麹町四丁目和泉屋五郎兵衛店
山彦嘉兵衛 店借主 中村勘助
三橋浄貞 ・・・・ 間瀬久太夫
三橋小市郎 ・・・・ 間瀬孫九郎
郡武八郎 ・・・・ 岡島八十右衛門
岡野九十郎 ・・・・ 岡野金右衛門
仙北又助 ・・・・ 小野寺幸右衛門
小僕
(以上七人同宿)
・・・・ 某
この中で三橋浄貞(じょうてい)は医者を業とし、岡野金右衛門は前の本名九十郎をそのまま
称した
新麹町四丁目裏大屋七郎右衛門店
原三助 店借主子 千馬三郎兵衛
杣庄喜斎 ・・・・ 間喜兵衛
杣庄十次郎 杣庄伴七、町人重介 間十次郎
杣庄新六 松屋新助 間新六
中田藤内 ・・・・ 中田理平次
(以上五人同宿)
杣庄喜斎(そましょうきさい)もまた医者だと触れ込んだ。
新麹町五丁目秋田屋権左衛門店
山本長左衛門 店借主 富森助右衛門
(以上妻子同宿)
芝通町三丁目浜松町檜物屋惣兵衛店
高畠源之右衛門 ・・・・ 赤垣源蔵
塙武助 ・・・・ 矢田五郎右衛門
(以上二人同宿)
初 八町堀、後 本町
村松隆円 荻野隆円 村松喜兵衛
(以上妻子同宿)
頭まで丸めて医師を業としたから、完全な仮装であった。
深川黒江町春米屋某店
西村丹下 店借主 奥田貞右衛門
西村清右衛門 ・・・・ 奥田孫太夫
(以上家族同宿)
丹下もまた薬の調合をして、少々医者の真似をした。
芝源助町
内藤十郎左衛門 店借主 磯貝十郎左衛門
植松三太夫 荻野十左衛門 村松
三太夫
富田源五 町人助五郎 茅野和助
内藤十郎左衛門僕 ・・・・ 某
(以上四人同宿)
南八町堀湊町平野屋十左衛門裏店
吉岡勝兵衛 店借主 片岡源五右衛門
清水右衛門七 水木又七 矢頭右衛
門七
脇屋新兵衛 ・・・・ 大高源五
・・・・ 町人喜十郎 貝賀弥左衛門
田中玄昌
(以上五人同宿)
・・・・ 田中貞四郎
吉岡勝兵衛は尾州浪人と触れ込んだ。そうして田中玄昌もまた医者だと称した。
本庄林町五町目紀伊国屋店
長江長左衛門 店借主 堀部安兵衛
・・・・ 三島小一郎 横川勘平
石田左膳 町人八兵衛 木村岡右衛門
木原武右衛門 ・・・・ 毛利小平太
・・・・ ・・・・ 小山田庄左衛門
・・・・ ・・・・ 中村清右衛門
玉野平八 ・・・・ 鈴田重八
僕 ・・・・ 某
(以上八人同宿)
本庄三ッ目横町紀伊国屋店
杉野九郎右衛門 店借主 杉野十平次
・・・・ 町人嘉右衛門 勝田新左衛門
渡辺七郎右衛門 ・・・・ 武林唯七
(以上三人同宿)
杉野九郎右衛門は剣術の指南と称え、同志の出入を便にした。
本庄二ッ目相生町三丁目
米屋五兵衛 ・・・・ 前原伊助
小豆屋善兵衛 美作屋善兵衛 神崎与五郎
(以上両人同宿)
両人は前衛の哨兵のまたその先兵として吉良家の近傍に小店を開き、昼夜敵邸の偵察にあ
たっていた。
両国矢の倉米沢町
馬淵市郎右衛門 馬淵平右衛門 堀部弥兵衛
(以上妻子同宿)
本町一丁目七文字屋
・・・・ ・・・・ 寺井玄達
(以上一人別宿)
以上のほか、倉橋伝介は米屋五兵衛こと前原伊助の手代となって。偵察の任務を担(にな)
っていた。ある説に彼は当時倉野十左衛門と称していたという。早水藤左衛門は多分大石父
子のもとに同宿していたであろうと思われる理由がある。彼は曾我金介と称したということであ
る。そして、
川崎在平間村垣見五郎兵衛隠家
・・・・ 小田権六
瀬尾孫左衛門
・・・・ ・・・・ 矢野伊助
(以上両人同宿)
これは留守番の役に当ったのである。
附言 従来諸書にある義徒の仮寓および変名を見ると、いずれも誤謬、脱落がある。私は
ここに掲げたものが、自ら完全と信ずる。馬鹿労力を費したから、一言自賛しておく。
九八 敵情偵察
内蔵助と大村益次郎
さて統領の内蔵助は十一月五日に、始めて江戸に乗り込んだが、彼は着府するとただちに
副統領吉田忠左衛門、原惣右衛門、参謀長小野寺十内を石町の旅寓に集めた。内外諸般の
報告を聴き、次いで参謀会議を開いて、一党の部署約束を決定した。党中の壮年を四組に分
け、毎夜交替で吉良、上杉両家の防備の状況、上野介の所在ならびにその動静を偵察するこ
とにした。壮年の者は訓令を受けて、時は到ったと雀躍し、あるいは下人に身をやつす者もあ
れば、町人に扮装する者もあり、日暮から各々仮寓を出て、黎明(れいめい)まで両家の近傍
を徘徊(はいかい)し、事の大小に関わらず、探り得た情報は、一々幹部に報告した。
なお統領らはこの事業を壮年層のみに放任していない。忠左衛門は、ほとんど毎夜偵察隊
に加わった。そしてさすがは兵家である。その偵察は単に讐家の動静ばかりでなく、両家四辺
の大路小路、さては遠近の里程から、上杉家の兵がもし出てくるなら、どこの橋際どこの入口
で迎え撃つと、進退掛引きのすべてを練った。幾百の上杉勢が後詰となって押し掛けても少
人数で応戦し、一挙の目的を妨げない方略は厳然として整った。
これについて思い起すのは、長州が幕府から征討の兵を受ける前であった。長州の大村益
次郎は多くの門人を引き連れて、国境の辺に遊び、日々無性に山野を散歩した。これをみた
長州の有志家連は大いに憤慨し、この危急の際に大村の呑気さ加減はいかがであるかと指
摘したが、大村はこの間に実際の地形をことごとく踏査しておいたので、幕兵がやって来た時
には、彼我の距離は、幾キロ幾メートル、あの敵を討つには、この角度で射撃すれば、弾に無
駄はないと号令した。幕兵は到るところ長州兵のために散々に打ち破られた。ここで先に指弾
していた連中も真誠の兵家が用意するところを始めて認識し、いずれも深く感服した。大石、
吉田らの用意もまた実にここにある。「必らずや事に臨んでは畏(おそ)れ、謀(はかりごと)を好
んでなす者なり」の一章は、この場合においても実地に応用されたのである。
一方ではかくも周到に敵情を偵察したが、敵の保護者である上杉家は名誉の武門である。
今でも名誉の武士を欠かさない。昨年来内蔵助に問諜を着けたこともある。もし彼から先発さ
れ、我が統領に不慮の変でもあれば、大事の破綻ばかりか、一党の名折れである。あらかじめ
こちらにもこれに備える必要がある。内蔵助の出入には党中の勇士一、二人をそれとなく目立
たぬように介添に付けた。「彼を知り己を知れば、百(ももたび)戦い百勝つ」と孫武はいう。兵
家は兵家、大事の挙に違算のないのが見える。
九九
幕府と義徒
内蔵助と橋本左内
私はかつて疑った。幕府の当時の警察がいかに疎(おろそか)であったにせよ、高度の機関
としては大目付があり、目付がある。町奉行の警務としては与力がある。同心がある。更に大
名の邸には、その家々の辻番があって、市街にはまた町々の自身番がある。内蔵助一党の江
戸に集まる者は若党仲間の類まで数えれば、六十人にも達する。七月以降ここに五人かしこ
に十人と同居しつつある。何ほど形跡を晦(くら)ましても、全然知れないことはないはずだ、と
疑っていた。しかるにこの年十一月内蔵助が着府後、播州の恵光、良雪両師に寄せた手紙を
見ると、この疑問はすっきり氷解した。その書中の一節にいう、
同志の者どもは麹町四軒、外みなと町、源助町、石町本所二軒、都合十軒余に五十人
余りが借家をしている。方々より浪人どもが追々着き、拙者どもが集まっているとの噂も
色々あるようだ。老中もご存知のはずであるが、何のお構いもなく、うち破るまでは、その
ままにしておかれるものとも察せられ……
これで知ることが出来る。幕廷の老中にその人あり「彼ら赤穂の浪人ども、一旦刀を動かした
以上は、もちろん法に問わねばならぬ。が、彼らには露ほども将軍を犯す心があるのではない。
その志すところは、ひとえに旧主の鬱憤を晴らし、臣としての道を尽そうとするのみである。ここ
は武士の情け、しばらく不問の裏においておこう」との意から放任されたものとみえる。
*
* * * *
しかし「この頃赤穂の浪人が大分市中に入り込んで、上野介殿を狙うということよ」との風聞は、
あたかも地底の火脈のように、それからそれへと伝わった。これを耳にした内蔵助はやがて一
党を集め、万一の場合を約束した。「今日に至り、もしも不幸にして、同志の中で召し捕られ、
密謀が露顕すれば、お互いの武運もそれ限り。その上は一同打ち揃って名乗り出て、赤穂開
城以来の顛末をありのまま申し上げ、この年月我らの孤忠を明らかにして、処分を受けるほか
ない。方々このことを確と心得よ」と宣示した。ああこれ橋本左内が幕吏に逮捕された時、自家
の秘策を逐一申し立て、春岳公に対する大節を公にしたのと、全く同じ用意である。志士仁人
の心掛けは、古今その符を合わせている。これがあるので義徒の忠誠はますます崇敬できる
のである。
一〇〇
討入綱領の宣言
起請文前書
月日は実に電光である。早くも十二月となった。今は上野介の所在を詰めれば、ただちに討
ち入るばかりである。それで内蔵助はこの月二日に、一党の同志全員を深川八幡前の一旗亭
(いっきてい)に召集した。亭主への触込みは、頼母子(たのもし)講の取立について、今日初
会を開くというのであるから、誰も疑わない。だがその実は去年以来金鉄の士と見える同盟中、
江戸到着以来またまた数名の背盟者を出したので、一つには今一回神文の上に血を注いで、
一層同志の精神を高め、また一つには軍令を全員に浸透させ、討入りの結束を定めるためで
ある。
やがてその軍令は吉田忠左衛門の手によって二様に起草された。その一は一党討入りの綱
領で、「起請文前書」として、人々の名を署名し血をそそぐ連判状の冒頭に記載された。これ
はもとより言うまでもなく、この綱領をもっとも神聖にし、同志の頭脳に深く印して、一人の違背
者をも出すまいとの用意である。その明文は次のとおりである。
起請文(きしょうもん)前書の事
一、冷光院様の讐、吉良上野介を討ち取る志のある侍どもが申し合せたところ、この節
に及び、大臆病者ども変心、退散した者を選び捨て、必死を決めた面々は、御霊魂
も御照覧遊ばされるであろう。
一、上野介の屋敷へ押込む際、功の浅深があってはならない。上野介の印を挙げた者
も、警固一通りの者も同じである。役割の好みを言わず、先後争いをしてはならない。
一味合体、いかようの役割に当っても不満を言わないこと。
一、各々の申し出は、自己の意趣を含み、妨げとなるのでしてはならない。誰もが理の
当然に従い、かねて不快の 意があるとしても、互いに助け合って役割を果たし、素
早い行動により、完全な勝利をもっぱらに働くこと。
一、上野介を十分に討ち取っても、誰も一命が助かる覚悟はない以上、一同散々(ちり
ぢり)にならず、手負の者 がある場合は、互いに助け合ってその場へ集って来ること。
以上四か条に背くときは、この一大事は成就しない。それはこのたび退散した者と同じ
である。
として、その後に神文は記された。この案の起草に参与したのは、吉田忠左衛門のほか原
惣右衛門であった。この案は内蔵助の前に提出された。内蔵助はこれを見て「自分の考えも
ほかにはない。残るところなく申された」と喜び、やがて厳かにこれを衆に宣示した。一党中こ
れに反対する者があるはずがない。内蔵助を筆頭として我も我もと姓名を自署し、血判を押し
て、ここに最後の神盟は成立した。
一〇一
統制と激励
内蔵助とカール大帝
大石といい、吉田、原といい、さすがに兵家は兵家である。義徒の一党が身を棄てて義につ
く精神は、誰彼の別なく同じであるが、目指すは上野介の白髪首である。我こそ我が手に首級
(しるし)を挙げ、この場第一の功名を独占したいという思いは、人情の常である。もしこの希望
にしたがって個々に行動すれば、軍紀も統制もあったものではない。それで三統領はまずここ
に苦慮した。上野介の首級を挙げる者も、警備に一身を委ねる者も、その功に厚薄ないことを
約し、あらかじめ一党を一団一体と固め、敵を破るも、一党がこれを破り、讐(あだ)を取るのも
一党がこれを取ることとして、任務の好悪や、前後の争いを完絶した。
こればかりでない。公儀においては同一の意見でも、私情においては往々相容れないもの
がある。これまた人情の免(まぬ)がれないところである。義徒のうちにも各種の人士がある。そ
の一端は小野寺十内が一党の人物を品定めをした評論を寺井玄渓に与えたことでも察せら
れる。三統領はつとにこれを予見していた。それで人々が自已の底意を含まず、理の当然に
従って、公義に従い、戦友互いに相助け、要は全局の勝利を期すべき旨を各人に党悟させた
上、目的を達して総引揚げする際まで、整然として一致した行動を取るよう、同志を約束のうち
に入れたのである。
以上は軍令の精神であるが、三統領はなお一党の志気名節を鼓舞するために、冒頭に冷
光院殿の霊魂もご照覧あれといい、亡君いまわの鬱憤を回顧させ、最後にこの約束に違背す
る者は、背盟逸脱した大臆病者と同じだと恥しめた。用意の周到、思慮の緻密、ただただ感嘆
のほかない。
これについて思い起すのは、スエーデンの英主カール十二世が乾坤(けんこん)の一擲(い
ってき)を賭けたポルタワの血戦である。あたかも彼は極西にあって、極東の大石らとその時代
をともにした。北欧の不識庵とも称すべきカール十二世は、スカンジナヴィヤの半島から決起
して、天下を征し、ロシアのピョートル大帝を追って追いまくり、モスクワの小天地にまで追い込
んだが、大雪のために、後軍続かず、糧道は絶え、逆にピョートルの大軍に取り囲まれた。ポ
ルタワの血戦は実にカール大王最後の悪戦であった。ああ、この一戦は、万に一も勝つ見込
みのない戦いである。しかし大王は親しく陣頭に臨み、当年精騎八千をもって老猾なピョート
ルの八万の大軍を一挙に蹴破ったナルワの戦勝を示して「お前らは未曾有のナルワ戦に打ち
勝った、世界に知られた名誉の武夫(もののふ)だぞ。この期に臨んで一人も、一歩も敵に遅
れを取って世界の名誉を傷うな」と励ました。事に大小の別こそあれ、内蔵助らがここに先君の
鬱憤を繰り返して言い、名誉の討入りを奨励したのと、心は同一である。英雄の見るところは東
西その節を合わせる。私が感嘆極まって、これを激称するのも偶然ではあるまい。
一〇二
討入要領の提示
人々心得の覚書
快挙の綱領は、起請文前書としてすでに全員に宣示された。これと同時に討入り当夜の心
得が覚書として、更に人々に示された。その覚書は次のとおりである。
人々心得の覚書
一、実行日が決まれば、かねて定めたとおり、前日の夜中より物静かに、定めおいた三か
所に集まること。
一、実行日には、かねて定めた時刻に出発のこと。
一、敵の印を揚げた時は、引取り場へ持参する。その時の首尾次第で、骸(かばね)の上
着を剥ぎ取って包むこと。もし上使などが馳け着けたときは、この首を泉岳寺へ持参し
たいと述べる。しかし許可ない場合はやむを得ない。我が党の歴々の印は、打ち捨て
難いので、許可を得て泉岳寺へ持参したいと願うが、指図次第である。敵の印は、勝
手次第となれば泉岳寺の墓所へ供え申すこと。
一、子息の印を揚げたときは、持参に及ばず、打ち捨てておくこと。
一、味方の手負は状況次第で、引き退くことが肝要である。しかしながら肩に掛けても引
けない時は、印を揚げて 引き取ること。
一、父子を討ち取ったときは、合図の小笛を吹き、吹き継いで、統領に知らせること。
一、鉦の合図は総人数が引上げた時、打ち鳴らすこと。
一、退くときは裏門より引き上げること。
一、引き上げる場所は、無縁寺とする。ただし無縁寺へ入れないときは、両国橋東の広場
に集まること。
一、引き上げる途中で、近所の屋敷方より人数を出し、押し留める時は、挨拶する。実を
告げて、「私ども何方へ
も逃げ去ることはない。無縁寺まで引き上げ、公儀の見分
を受け、趣旨を申し上げる志である。さりながら信じられないと思われるなら、寺まで同
道されたい。一人も逃げる者はない」と、話すこと。
一、かの屋敷より追手が来る場合は、全員が踏み留まり、勝負する。
一、勝負中に検使が来たときは、大門を開かず、潜(もぐ)りより一人が外へ出て応対する。
勝負半ばであれば、終ったときの挨拶を心得ておくこと。その実を告げ、「ただいま当
人をも討ち取った。生き残った者どもを呼び集め、追っ付け自首して命を受ける覚悟で
ある。私ども一人も逃げる考えはまったくない」ということ。門内へ入り検分するといわれ
たら、しばらく待ってもらう。「打ち入った者どもが屋敷中に散らばっており、危険である。
追っ付け門を開き、お目にかかる」と申し、堅く門を閉じておくこと。
一、もちろんのことだが、討ち入りの覚悟、全員必死の決意が決定した。引き上げるときの
行動を定めたのは、そ の時の心得のためである。引上げを考える意識が胸中にあれ
ば、討ち入っても成功しない。退去することがあっても、それは結果論である。必死の
仲間であるから、討ち入る時の武士の覚悟がもっとも大切である。言うまでもないが、一
人一人が死ぬ覚悟を決め粉骨の働きがもっとも肝要である。
以上
附言 この十三条の覚書は、諸書により異同、省略がある。ここには当時の世にあって『報
讐録』にこれを訳載した三宅観瀾の訳文と照し合わせ、内容を正し、かつ諸書の異同を
詳細に校訂した。これでやや大石、吉田らの立案の真意に近づいたと思う。
一〇三
同
討入り心得の覚書十三条を三宅観瀾は『報讐録』に次のように訳出した。
一、当夜一同並び向う。決めた日に三か処に集まれ。
一、時間になれば即出発し、決して遅れることなかれ。
一、讐の首を獲たら、衣をはいで包み、持ち去って泉岳寺に祭れ。途中で公使の迎えに
遇えば、素直に渡し深く拒むことなかれ。
一、左兵衛の首を獲ても、持ち去る必要はない。
一、傷者は助けて去れ。助からない時は首を斬って出よ。
一、讐父子を獲たら、笛を吹いて集まれ。
一、退く時は鉦(どら)を鳴らして率(ひき)いて出よ。
一、退くときは後門より出る。
一、退く場所は無縁寺とする。入れない時は、しばらく両国橋の東にとどまれ。
一、退路時に各邸から人を出して止めれば、告げて言え。我ら内匠の家士は今讐をとげ
て、無縁寺に入り、公使を
迎える。もし逃散を恐れるなら、後について見張ってくれ。と。
一、讐家から追ってくれば、ただちに返し闘う。
一、讐を取る前に、公使が到着した場合は、一人腰門より出て、偽って言え。今すでに讐
を獲た。衆を集めて出て
来るところだ。わが衆は必死を懐いているから逃げ隠れし
ない。しばらく待つことを願う、と。それでも公使が入るといえば、討ち入りはまだ終わっ
ていない。誤って死傷者が出るかもしれないといい、門を開くな。
一、上に示した引退時の心得は、時に臨んで迷わないためである。退くときのことをもっぱ
ら考えては、進むこと
を忘れやすい。たとい退くといえども、また生を得ることはない。
衆人進決の際、奮身して顧ることなかれ。
これを前の覚書の原書に合わせ見れば、いよいよ義徒の統領らの本旨が明らかになる。これ
をまとめて言えば、その意は謹慎、その言は恭順である。そして裏には、讐の首を得なければ
一人も生還しないことを、天地に誓って決心させたのである。良匠(りょうしょう)の意の使い方
は、良苦(りょうく)の結晶である。これがあってこそ少数の衆で上杉、吉良両家の甲兵に当るこ
とが出来たのである。
この覚書もまた忠左衛門の執筆による。惣右衛門がこれを読み、内蔵助の承認を経て、同盟
者に示された。会衆は異口同音に「すべて了承します」と承ける。「されば討ち入りは今月のほ
かにはない。方々さよう心得よ」と、重ねて統領から予告した。この日の黄昏(たそがれ)、頼母
子講の会は終ったのか、坊主、宗匠、医者、町人、一人、二人、三人、四人、各々面上に喜色
を湛え、四方に別れて散り去った。次回の頼母子講にはどんな福籤(ふくくじ)を引くのだろう
か。
一〇四
諸情報集まり来る
この時、一党の本部はどのような重要情報を手にしていただろうか。
第一に堀部安兵衛の剣道の朋友で、しかも志を義徒に寄せる某が、特に寄贈した吉良邸の
絵図がある。これは某が同邸の先住者松平登之助(のぼりのすけ)の家来から取り出して来た
物である。
また噂によれば、岡野金右衛門は同邸の召使に関係をつけて、その少女の叔父に当る棟梁
の大工某から同邸の建築当時の設計図を得て、本部に提出したという説もある。
しかし同邸は吉良家が来て以後、種々普請を加えたから、勝手が違った。それで本部は先
に堀部がもたらした図面を神崎、前原の両士に渡し、実地について変更の箇所を探らせた。
両人は種々苦心の末、一方には同邸の小物召使を手懐(てなず)けて、それとなく様子を質
(ただ)し、また一方では各々商人となって、長屋に入り込み、邸内の有様を偵察したから、邸
内の異同も大略は判った。この偵察のために、大胆な神崎与五郎の小豆屋善兵衛は、内庭ま
で立ち入って、散々に叱られた末、門外に追い出されたこともあった。
また女にしても見まほしいほどの好男子磯貝十郎左衛門は同邸に奉公する一婦人に心を通
わせ、邸内の多くの秘密を得た。これらの結果で、上野介と左兵衛との居間までほぼ当りがつ
いた。
また大高源五の仮装呉服屋は茶道に托して、有名な宗匠四方庵(しほうあん)山田宗偏(そ
うへん)から時々同邸内の模様を聴き取り、これまた一々本部に報告した。
このほか毎夜毎夜の交代密偵によって、外部から邸内の長屋を隈なくうかがい、防備の一端
を調べたのは、後日富森助右衛門が直接話したとおりである。
それで本部はこれらの諸情報の結果を総合して、一党に内示したから、吉良邸の光景はも
はや歴々として人々の心に映った。
折から大高源五はまた例の四方庵の許で「来たる六日吉良様御茶会」の開催日程を報告し
て来た。「なに六日に茶会を開くとな。それなら五日の晩に夜討をかけよう。今一度事実を確
めよ」と本部は命じたので、源五は再び多方に偵察の歩を進めた。すると多分彼の同族であろ
う、大高五郎作という者の家が、「来たる五日松平右京太夫の邸に将軍がお成りになるので、
六日の吉良邸の茶会はしばらく延期となった」ということが判った。「さては天いまだ我が党に
好機を与え給わぬか」と、一党が集まったところに、待てば海路の日和とやら、機会の神は前
髪を垂れて、一党の前へと再現して来た。統領大石内蔵助、これを躊躇するはずがない。背
筋を伸ばして確と襟首をつかんだのが、元禄十五年十二月十四日という一挙の日であった。
一〇五
一党の宣言書
浅野内匠頭家来口上
諸情報は期せずして集って来た。その第一は大高源五の京都呉服屋が四方庵から引き出
した十四日の吉良邸の年末茶会の情報である。この茶会後、年内に上野介は麻布の上杉邸
に移ることまで知れて来た。第二には横川勘平の情報である。人もあろう、同じ四方庵にかか
わる。源五は彼から茶会の期日を聴き得たのであったが、勘平はまた図らずも四方庵のため
に、同日の茶会に参加し接伴の役を勤めることになり、同邸の執事に宛てた承諾の返書を代
筆させられ、おまけにそれを吉良邸まで持参したのである。当然、ついでに同邸内の光景を
偵察して、これを報告した。第三は大石瀬左衛門、第四には義徒に全幅の同情を寄せる大石
三平がいずれも十四日の吉良邸の茶会は間違いなしとの情報をもたらした。一党の歓びはい
かばかりであったろう。
「さらば十四日の夜は、上野介在宅に決まった。同夜一斉に夜討をかけよう。万が一同夜に
障(さわり)があれば、十九日は節分であるから、彼が在宅しないはずがない。遅くとも同夜を
逸(のが)すべからず」と、軍議は一決した。
そこで内蔵助は命じて一篇の宣言書を作らせた。これは討入りの当夜敵営もしくはその付近
に残しておき、一つには幕廷に一挙の趣旨を知らせ、二つには大義を天下に述べるとの用意
である。その文は次のとおりであった。
浅野内匠頭家来口上
去年三月、内匠頭は伝奏御馳走の件に付き、吉良上野介殿と共に接待を勤めていたと
ころ、殿中において忍び難い侮辱を受け、刃傷に及んだ。時節場所を弁えない働きは、
至極不調法として切腹を命じられ、城地の赤穂は召し上げられた。家来どもも上使の命を
受け、家中は早速離散した。この喧嘩の節、同席に差し留める方があり、上野介殿を討ち
留めることが出来ず、内匠頭末期の無念の心は、家来どもも忍び難い。高家の御歴々に
対し、家来どもの慰憤をはばかりながら言上したものの、君父の讐は黙止(もだし)難く、
今日上野介殿に推参した次第である。ひとえに亡主の意趣を継ぐ志であり、私どもの死
後、もし見分の御方があれば、よろしくご賢察を願いたい。以上。
元禄十五年十二月
日
浅野内匠頭長矩家来
として、この下に義徒の姓名を列記するよう用意した。そうしてこの書面は「屋敷より引き上げる
とき文箱に入れ、竹に挿(はさ)み、見やすい場所に立てて置くこと」までを命じた。軍令の綱
領としては「起請文前書」を作り、またその条目としては「心得覚書」を示し、更に宣言書として
はこの「口上書」を留めた。一挙に対する内外の用意は周到であった。
一〇六
同
内蔵助と朱子 安兵衛と広沢
「君父の讐は共に天を戴くべからず」の語は、内蔵助の意によって、宣言の口上書に記され
たが、『礼記』には「父の讐は与に共に天を戴かず」とあって、君父の讐とは言ってない。それ
で党中の一英物堀部安兵衛は安心しない。疑問を抱いて細井広沢(こうたく)を訪れ「我ら一
挙の書において、統領は経語を改め、君父の讐と書かせたが、かように経語を変えては、後世
の笑いを招くことになるまいか」と質問した。広沢は「心配無用でござる。理義を表現するため
に経文を変えることは、許される。必ずしも成語に拘泥するには及ばない」と答えた。「それなら
安心だ」と安兵衛は大いに喜んで去った。
思うに経語の改変は、独り内蔵助に始まらない。趙宋一代の碩儒(せきじゅ)である朱子が、
時の皇帝孝宗に上げた書の中に、早くも君父の讐と見える。内蔵助は勿論、広沢もまた恐らく
これを知らなかったであろう。しかも一人は断じてこれを用い、一人はこれを是認して疑わない。
大人の見るところは、古今通じて一つである。そして安兵衛の細心もまた実に感ずべしだ。
*
* * * *
室鳩巣は『義人録』の上に、一党のこの宣言書を次のように訳出した。
赤穂の陪臣大石良雄ら再拝して申す。去年三月、寡君(かくん)命を受け、皇使を歓待す。
事を共にする人吉良上野君と不和あり。遂に朝会の際、廷にて刃を振う。積怨の溶けざる
をもってしたか。廷議は、寡君がこれを避け得ざる理由を知らず、ただ大不敬とし、死を賜
う。また列侯に命じ、規律を保つため、城邑を収める。陪臣らは官使の指揮を請い、謹ん
で城邑を離れ、郷里を離散し、あえてその地に住居せず。誠に幕命を畏れて、命に従っ
たのである。寡君は怨を吉良氏に報いるや、幕廷諸公のために阻止される。ゆえにその
志を果さず。思うに死に臨むまでの間、遺憾は解けなかったであろう。質を委(ゆだ)ね禄
を食(は)んだ臣にあっては、実に忍ぶことができない。陪臣の賤をもって、廷貴の臣を謀
るのは、横恣(おうし)の罪、自ら知らざるに非ず。しかし同仇(どうきゅう)の士相議し、今
戴天の恥をそそがねば在世の義を尽すことなしと。ゆえに今夜上野介君に謁し、あえて
その首を請(こ)い、もって寡君の志を遂げる。他には何もない。我ら死する後、来たりてこ
こに臨む人あれば、かたじけなくも観覧を賜え。我らの志を知れるであろう。
元禄十五年十二月
日
赤穂陪臣良雄ら再拝申す
これを通読一過すれば、英気凛々五内を衝いて発するのを覚える。原文はこの訳を経て、
義徒の面目はますます高まる。それで観瀾の軍令状の訳文をここに合せ挙げることとした。