産業におけるイノベーションと労働保健の役割

「労働安全衛生研究」,Vol. 2, No.2, p.76, (2009)
特別寄稿
産業におけるイノベーションと労働保健の役割
山 本 宗 平
独立行政法人労働安全衛生総合研究所
客員研究員
メンタルヘルス対策が労働現場において最も重要な問題になっている現在,関連学会の動向に
関心が向けられるのは当然である.
昨年度と今年度と2年続きで,「産業精神保健学会」は精神医学教室が実行委員会を組織した
が,ここで取り上げた中心的テーマは「うつ」であった.但し,論議の中心は昨年度は「面接指
導」であったのに対し,今年度は精神医学で進歩の著しい薬物療法と職場復帰のプログラム適用
の事例報告があり,職域でのメンタルヘルス不調を“症状発現機序”の解明に向けて議論を進め
る素地が出来たことは収穫であった.
対象のテーマは共通していても,伝統的な方法論が違う場合アウトカムに統一性が期待される
場合と,むしろ産業や技術のイノベーションの推進に期待が寄せられる場合があるが,ここでは
後者の必要性が高いと考えて,それについての感想をまとめてみたいと思う.
例えば,うつ病の薬物治療の中で紹介された治療薬の作用機序等について,単に向精神病薬の
分類と臨床効果を整理するだけでなく,伝達物質と受容体との結合機序や拮抗作用を理解してお
くことが重要であることが指摘された.
シナプス間隙における伝達物質の動態も同様で,基礎的知識として必須なものである.また,
神経終末における伝達物質のシナプス小胞内貯蔵とこれの放出後の状態が伝達疲労の実態である
ことも,産業疲労研究者の注目すべき事項であり,神経伝達物質の代謝や疲労の慢性化に関係す
る神経系の変化に注目すべきであろう.
さらに,シナプスの可塑性の知見は労働の学習と適応に関連する重要なものである.これらに
は近年神経生理学者が報告してきた樹状突起伸長などの実験的データがある.
精神疾患の薬物治療は精神医学の著しい進歩の結果であるが,それとともに画像診断の適用に
よって,PTSDの患者の扁桃体や海馬の大きさの変化が報告されてきたことも特筆すべき知見で
ある.情動の関与が形態学的にも裏付けられてきたからである.
うつ病と不安障害の治療には,薬物療法が不可欠になったが,一方,面接による精神療法を必
要とする現場の問題も指摘されている.
職場では作業環境においても,作業条件においても不安誘発要因が多いため(例えばヒヤリ
ハット),注意の集中と監視の継続が不可欠であり,これが精神的疲労を強め不安とストレスの
要因になっている.また,作業空間中の作業者と機材の設置の状態も監視の対象になる.作業の
「場と型」がスキルと密接に関係すると云われているが,視力や筋力や調節力は年齢変化が大き
いため,これを加味した効率と安全と衛生の面からの総合的な環境評価のための計測及び評価指
標の開発が望まれる.
産業イノベーションの推進のためには多くの専門分野からの自由な問題提起と意見交換が必要
である.近年経験した職場IT化での対応はその実例であり,安全衛生向上のための理工学系,医
学系など多くの関連分野からの相互批判と提言が製品の質的向上とともに作業環境改善の面でも
役立っている.
また,「現代型うつ病」の者に対しては,面接によって職場ストレスの発端を正確に把握する
必要がある.殊に,職場構成員の“自己開明”による人間関係の良好化は,職場の不安・ストレ
ス解消の気づきとともに,同僚との自由な独創的意見交換の可能性を高め,産業イノベーション
の契機にも繋がるものとして保証すべきである.
職場の不安・ストレス解消は新規産業の開発のためにも重要であるといえよう.