平 成二 四 年一 二 月二 十 日 第二 五一 号 発行 に 、「 拝 啓 此 間 君 が 持 つ て 帰 つ た 本 の う ち に 馬 場 孤 蝶 夏 目漱 石の 内 田百 間宛 、 大正 五年 二月 二八 日 付葉 書 二% にも 満た ず 、制 限選 挙 がい かに 民意 から ほ ど遠 い 全人 口は 二二 〇万 人で 、うち 、有権 者数 は三 万六 千人 、 目 で見 事落 選 、大 敗を 喫し た 。因 みに 当時 の 東京 市の 土 佐 史談 大 正デ モ クラ シー の 先駆 者 後援 集が あり ま すか 、も し あれ ば神 戸平 野祥 福 寺鬼 村 も ので あっ たか が窺 わ れる 。孤 蝶立 候補 の 折の 選挙 資 ― 馬場 孤 蝶立 候 補の 顛 末 以上 」と あ 正 元 成宛 デ小 包デ 送つ て 下さ い面 倒な がら 金 調達 の手 段 とし て、 企画 、 出版 され たの が 右の 文集 高橋 る 。鬼 村元 成 は晩 年の 漱石 と 親交 のあ つた 禅 僧で 、そ がら 少し 辿っ て みた い。 であ る。 孤蝶 立候 補の 経 緯・ 顛末 を新 資 料も 踏ま えな 改 造社 ) の「 二人 の 雲水 」の 章に 詳記 さ れて い の 人 柄 、 親 交 ぶ り は 夏 目 鏡 子 『 漱 石 の 思 ひ 出 』( 昭 和 三年 土 佐藩 士の 家 に生 まれ た。 自 由民 権運 動左 派 の闘 将、 孤 蝶は 明治 二年 、高 知 城下 中島 町、 通 称金 子橋 の元 「 馬場 孤蝶 後 援集 」は 、 正確 には 馬場 勝弥 後 援会 編 馬場 辰猪 の実 弟で あ る。 明治 学院 で島 崎 藤村 と同 窓。 る。 輯 『 孤 蝶 馬 場 勝 弥 氏 立 候 補 後 援 ― 現 代 文 集 』( 大 正 四 詩 文に 活躍 。北 村透 谷 ・戸 川秋 骨・ 樋口 一 葉ら とも 親 明 治 浪 漫 主 義 文 学 の 栄 光 の 砦 、『 文 学 界 』 同 人 と し て 大 正四 年三 月二 五日 に 行わ れた 第一 二 回衆 議院 議員 し かっ た。 日 露戦 後は 「慶 応 大学 教授 とし て より も政 実業 之世 界 社) のこ とで あ る。 選 挙に 、文 士 馬場 孤蝶 はノ ン ・セ クト ・ラ ジ カル の旗 治的、社会的問題に関心の深い評論家として名があ 年三 月一 二日 幟を 鮮明 にし て 、東京 市区(定員 一一 名 )から 立候 補 、 っ た 」。 孤 高 清 節 の 文 人 だ っ た が 、 漱 石 や 永 井 荷 風 の (1) 得票 僅か に三 二 票、 立候 補 者二 七名 中最 下 位よ り二 番 -1- スなどの大陸文学を次々と翻訳 紹 ・ 介・講義、その本 領 を発 揮し た。 その 豊 富な 文学 的素 養と 、 来る 者は 拒 う 抜 群の 語学 力を 駆使 し て、 ロシ ア・ ド イツ ・フ ラン よ うに 狭量 狷 介で はな かっ た 。漱 石も 舌を 巻い た とい 突 発 し た 。 瀬 沼 茂 樹 『 日 本 文 壇 史 2 3 』( 昭 和 五 三 年 一 月、 四七 歳の 初老 を 迎え た孤 蝶の 身辺 に ある 事態 が は 同 一〇 月刊 。第 三巻 の 校正 も終 り、 夏 には 第四 巻の 字 詰原 稿用 紙 四、 五〇 〇枚 、 大正 三年 七月 刊、 第 二巻 刊行 も予 定、 こ の大 仕事 完 結ま であ と一 息の 大 正四 年 ま ずと いう 広 量の 性格 が、 い つの 間に か、 孤 蝶を 中心 の 花』 に『 文壇 与太 話 』を 書い て名 を 売り 、今 は野 講 談 社 )「 第一 〇章 」に 、 系 赤 ・ 門 系 ・ 売 文 社 系 ・『 近 代 思 想 』 系 ・『 明 星 』 系 ・ 『 青鞜 』系 その 他の 若 い連 中が 、東 京市 牛 込区 市ケ 谷 依 秀一 の実 業 之世 界社 に 籍を おく 安成 貞雄 が 和気 律 一月 の或 る 日、 かつ て堺 利 彦の 売文 社の 『へ ち ま 田 町二 ノ一 に 居住 の貧 乏文 士 孤蝶 宅に 頻繁 に 出入 りし 次郎 とと もに 訪ね てき て 、腐 敗堕 落し た 政界 の根 本 とする多彩な交流の人脈を形成した。三田系 早 ・ 稲田 た 。孤蝶 は大 逆事 件以 後の い わゆ る ”冬の 時代 ”にも 、 的革 新の た めに 、衆 議院 議 員に 立候 補す るこ と を要 を 日本 語に 重 訳す ると いう 大 仕事 に取 り組 ん でい た。 正 元年 九月 から トル ス トイ の『 戦争 と平 和 』の 英訳 本 でし まっ たと いう 豪 の者 であ る。 弟安 成 二郎 は歌 人・ 畑 寒村 から 預 かっ てい た短 銃 を勝 手に 質に 入 れて 飲ん 『 火鞭 』 同 人 とし て 活 躍。 酒 貧 ・ 乏 ・浪 吟の 生 活 を送 る 、一 種の 無頼 漢的 異 色の 人物 であ った 。 ある 時、 荒 ヨタリング は早 大卒 の評 論家 で 、平 民社 へ出 入り 、 革新 的文 芸誌 獪 汚濁 の政 界 へ押 し出 そう と した ので ある 。 安成 貞雄 次 郎」 が孤 蝶宅 に突 然 やっ て来 て、 立候 補 を要 請、 老 (4) 弟分 でも あり 、 遊び 仲間 で もあ った 安成 貞雄 と 和気 律 いえ ば書 斎の 人で あっ た 。そ の「 孤蝶 に もっ とも 近く (4) 文字 どお り生 き 残り の社 会 主義 者た ち、 堺利 彦 ・荒 畑 請 した 。 (3) 寒 村・ 大杉 栄ら との 親 交を 続け た。 次の 歌 は立 候補 直 と ある 。孤 蝶 は政 治に 関 心は あっ たが 、ど ち らか と (2) 前 、 堺 利 彦 の 売 文 社 刊 行 の 『 へ ち ま の 花 』( 大 正 四 ・ 二 一 ・ ) 所 載の 孤蝶 の歌 であ る。 さら さら と 雪降 る夜 半の 燈 火に 亡 き秋 水の 遺書 を読 む かな 七 十の 老母 の 飢を 嘆き つ つ 轢死 せし 兵あ り戦 勝 の新 春 神田 区小 川町 一番 地 の国 民文 庫刊 行会 か ら『 秦西 名著 ジャ ーナ リス ト ・小 説家 で 、第一 歌集『貧乏 と恋 』 (大 孤蝶 は慶 大 のみ なら ず早 大 にも 出講 して い たが 、大 文庫 』の 一つ と して の依 頼 であ った 。第 一 巻は 二〇 〇 -2- 正五 実業 之 世界 社) には 「 豊葦 原瑞 穂の 国に 生 れ来 あ る。 はな かろ う か。 孤蝶 もま た 、一 見粗 野で 無遠 慮 なこ お そ らく 、貞 雄は 孤蝶 を 終生 の師 と あお いだ ので 国に 生ま れき て もの が言 へ ぬと はウ ソの よな 話 」など 、 の 青年 の、 真は 誠実 で 理性 のす ぐれ た 性格 をよ く見 て 米 が 食 へ ぬ と は 嘘 の よ な 話 」 と か 、「 言 魂 の 幸 は ふ 風 刺の 利い た歌 があ る 。兄 貞雄 同様 、孤 蝶 とも 親し か 彼 に 孤蝶 によ って いっ そ う輪 がか けら れ た。 彼が 一 抜 いて 貞雄 が 死ぬ まで 親 しく 交わ った 。読 書 好き の 安 成貞 雄ノ ー ト(二 )」 (『s 時期 、探 偵 小説 に読 みふ け り、 ルブ ラン の『 金 髪美 っ た。 (5) 伊 田 波英 夫氏 の「評 伝 昭和 人 』を 一本 にし たの も 孤蝶 の影 響で あ る。 貞雄 の文 秋 田県 大 館鳳 鳴高 校同 窓会 誌 四 二年 一二 月二 〇日 壇 史に 有名 な “誤 訳の 指 摘” も、 震源 地は 孤 蝶で あ un ―紀 』2 号 間 と馬 場孤 蝶 」は 、孤 蝶と 貞 雄と の関 係を 初 めて 詳述 った 。早 稲田 で彼 らは 、 島村 抱月 とい う 偉大 な教 師 非売 品) の「(七 )《 北斗》 の仲 した 論考 とし て貴 重で あ る。 次は その 抄 であ る。 を 得て いた ので ある 。 に教 わり 、 学外 では 馬場 孤 蝶と いう もう 一人 の 教師 で が独 歩ば りの 小説 を 書い たの に、 貞 雄だ けは ほと 本 元の 慶応 の 学生 たち を 押し のけ て三 田の 教 授の 周 さて 《北 斗 》時 代の こ とに 戻る が、 歌人 の牧 水 ま ん ど評 論と か 海外 文壇 の 消息 めい たも のし か 書か な 辺に 群が って いる 様は 、 おそ らく 現代 の 学生 たち に 早 稲田 の 学生 が、 本家 かっ たよ うだ 。そ のく せ 、グ ルー プの 中 では 、生 活 冒頭 の《 北斗 》は 早 大在 学中 の貞 雄が 北 斗七 星に 因 は想 像も つ かな いこ とで あ ろう 。し かも 孤蝶 は 決し やが て彼 らの 仲間 に 同級 の福 永喚 ( 挽歌 )が 加わ み 、 同 級 の 若 山 牧 水 ・ 土 岐 善 麿 ( 当 時 哀 果 )・ 佐 藤 緑 の苦 労を 味 わい 、分 別く さ い彼 が親 分格 であ っ たこ るよ うに な る。 北斗 七星 が 八人 にな った の だか ら会 葉 ・仲 田勝 之助 ・藤 田 進一 郎・ 三沢 豊の 七 人で はじ め て 三田 の学 生に 愛想 を つか した ので も 、ま た排 斥さ の 名も 一隅 会と 改め た が、 回覧 雑誌 は やめ てし まっ た 回覧 雑誌 で ある 。そ の後 、 新た に同 級の 福 永挽 歌が と は想 像さ れる 。 た 。そ のか わ り、 この 福 永の 手引 きで 彼ら は 慶應 義 加わ り、 福永 の父 が かつ て彦 根中 で孤 蝶 の同 僚教 師で れ たの でも な い。 塾の 教授 であ る馬 場 孤蝶 と相 知る 。福 永 の父 が彦 根 あった縁で《北斗》の貞雄 牧 ・ 水・善麿らが孤蝶の家 ― 略― 中学 で孤 蝶 と一 緒に 教壇 に 立っ てい たと い う縁 故で -3- が孤 蝶を 「終 生 の師 」と 仰 ぎ、 立候 補を 迫っ た 背景 も 心 を 鷲掴 みに した 孤蝶 の 魅力 が活 写さ れ てお り、 貞雄 へ 出入 りす る に至 る経 緯の 記 述は 貴重 であ る。 貞 雄の つ もり で方 々の 国々 の 探偵 小説 を読 む とい って おら らし い。 夜 、床 には いっ て から 講談 本を 読む よ うな 英 語 がよ くで きて 、日 本 語を 読む くら い 楽に 読め た ン ス文 学と 、 ロシ ア文 学 に興 味を 持っ てい られ た 。 れ た。 とに か く驚 くべ き 語学 力だ った らし い 。そ の 伊 田波 氏の 論考 でよ り 鮮明 にな った 。 孤 蝶の 名講 義 に魅 せら れ た学 生は 彼が 教鞭 を とる 三 る しい 目標 」を 使っ て いら れた が、 ド スト エフ スキ う え 、本 好き とき てい る 。ず いぶ ん読 ま れた こと と 荷 風に いな くな られ た 私は 、一 生の 希 望を 失っ た ー の「 カラ マ ゾフ の兄 弟 」が 論じ られ てい る とこ ろ 田 に もも ちろ んい た。 次 は大 正七 年慶 大 卒の 作家 小島 よ うな 気が し た。 が、 若 いこ ろは 失望 した ま まで は に来 ると 、本文 なん かそ っち のけ で 、 「カラ マ ゾ フ 」 思う 。教 科 書に は有 名な 「 ロシ ア文 学史 上の い ちじ いら れな い。 やが て馬 場 孤蝶 先生 の講 義 に出 て、 文 の梗 概を 話 し出 され る 。トル スト イの「戦争 と平 和 」 政二 郎の 文で あ る 学の わか る 先生 にぶ つか っ た喜 びを 感じ た。 い ろん な先 生に 教わ っ たが 、正 直に い って 、文 学 だ 口移 しに じゃ べっ て いる だけ のこ と だ。 その 先生 なく ても 、 その 道の 本を 読 めば 書い てあ るこ と をた で は話 し切 れ ない 。そ う する と、 学校 を出 て 三田 の 先 生の 時間 も二 時間 続 きだ った が、 と ても 二時 間 カ 「 ラマゾフ」や「戦争と平和」を読んでいるよう な梗 概の 話 し方 なの だ 。だか ら 、とて も おも しろ い 。 が論じられていると 戦 「 争と平和 の 」 梗概を話され る 。そ れが あ りき たり の梗 概 では ない のだ 。ま るで 、 か らで なけ れ ば聞 けな い よう な講 義な んか 、 一つ も 通り から 芝公 園を 抜 けて 、芝 の大 門に 出 、ど うか す の わか る先 生 は一 人も い なか った 。だ から な んの 講 なか った 。そ こへ ゆ くと 、馬 場先 生の 講 義は 、す べ 義を 聞い ても おも しろ く なか った 。講 義 なん か聞 か てが 、だれ の 説も 借り ない 先 生自 身の 読後 感だ っ た 。 ると 、あ す この 太 「 々 餅屋 で 」 ひ と休 みを し 、更 に、 露 月町 、柴 井町 、日 蔭 町を 通っ て銀 座 に出 、パ ウリ なか った ので はな い かと 思う 。み んな ご 自身 が読 み 先 生は 、 講義 をす るた め に読 んだ 本な んか 一 冊も んな もの を ご馳 走に なり な がら 、そ れか ら それ へと り、 先生 に鮟 鱇鍋 と か、 馬鍋 とか 、寄 せ 鍋と か、 そ ス タで 休ん で もま だ話 が 尽き ない 。そ のま ま 夜に な だ から 、話 が生 きて い てお もし ろか っ た。 たく って 読 んだ 本ば かり だ った と思 う。 先 生は フラ -4- 話 を承 わる 。 あげ くの 果 てに 講釈 場へ はい るか 、 タ 大 学教 授・ 文学 者孤 蝶 の卓 抜な 魅力 を 説い て余 す所 吾 々に 取 つて 第一 に貴 重 なも のは 、言 論お よ び出 蝶の憤懣やるかたない思いを打ちまけた 保 「 証金の問 題 ―現 行の 新聞 紙条 例 を難 ず― 」の 抄で あ る。 論ずるを目的とする新聞 雑 ・ 誌は多額の保証金を納め な け れば なら ない など 、 新聞 紙条 例の 改 悪に 対す る孤 が ない 。小 島 が孤 蝶の 勧め で トル スト イの 『 アン ナ・ 版 の 自由 であ る。 此れ が 無い 以上 は、 誰 が総 理大 臣 (6) レ 義 太の 寄席 へは いる か する 。だ から 、 先生 の講 義 カ レ ーニ ナ』 を読 み、 そ の偉 大さ に圧 倒 され 、小 説が にな らう が 、誰 が内 務大 臣 にな らう が、 吾々 に 取つ のあ る日 は 一日 楽し い遊 び だっ た。 書けなくなって三年も呻吟したという話は有名であ て は何 の関 係も 無い 事 であ るの だ。 い る。 長江 は中 学時 代 から 馬場 辰猪 の崇 拝 者で あり 、 生田 長江 が訪 ね てき て、 成 否を 問わ ず、 出馬 を 促し て 「政 治宗 教文 芸の 高等 批 評」 雑誌 『反 響 』を 主宰 する 事 は出 来無 い のだ 。 得 られ るに 到ら 無け れ ば、 其の 一端 だ に満 足さ せる らう が、 吾 々の 希望 は、 先 づ以 て言 論出 版の 自 由が 来る 事に なれ ば、 其れ で 達せ られ た事 に なる ので あ 所 謂憲 政 擁護 を叫 ぶ人 々 の目 的は 、責 任内 閣 が出 る。 孤 蝶の 立候 補 につ いて は 、安 成・ 和気 ら と前 後し て 、 そ の弟 の孤 蝶 に会 うこ とに も 憧れ てい たが 、 一高 生の 與へ られ て 居ら ぬと 言つ て 宜い 。 (7) 折、桑原古城の紹介で対面し、孤蝶の人物 識見に心 ・ 全一 六 今日 の所 では 、吾 々に は 、言 論出 版 の自 由は 全く 打た れた 。『 反響 』( 大正 三 年四 月~ 四年 九 月 ― 略― 現 行の 新 聞紙 条例 には 、 保証 金を 納む るに 非 らざ (8) 冊 ?) は発 行人 森田 草 平、 編集 人生 田長 江 とい う二 人 の 漱石 門下 生 の共 同事 業と し て始 めら れた 革 新色 の濃 れば 、時 事即 ち政 治 を論 議す る新 聞若 し くは 雑誌 を で奨 励し 無 けれ ばな らぬ 事 であ る。 識及 び意 見を 各人 が 持つ 事に なる のは 、 政府 が進 ん 治 は民 衆各 人 の事 であ る 。さ れば 、政 治に 関 する 智 文 明な 、甚 だ不 當な 法 律で ある 。言 ふ 迄も 無く 、政 発行 する 事 は出 来無 いと 言 ふ条 項が ある 。 此れ は非 い雑誌で、孤蝶も時々執筆を依頼され、 保 「 証金の問 題」 (大 三 ・ 一 〇 一 ・ 五 )、 再 「び 保 証金 の問 題に 就い て 」 (大三 一 ・一 二 ・ 八 )、 現 「 今 の 裁 判 を 難 ず 」( 大 四 ・ 二 一 ・ )など、権力に抗する切っ先鋭い文章を発表して いる 。 次は 、政 府 が国 民の 言論 封 殺の 手段 とし て 、政 治を -5- 所 の 新聞 雑誌 の益 々多 く 出る やう にな る のは 、政 府 故 に、 政 治上 の智 識を 與 へ、 政治 上の 論議 をな す な 政 府の 処置 に服 従し て 居た のみ なら ず 、尚 又増 額 成 る可 く出 来 無い のが 望 まし いの で、 さう いふ 不 法 の 如く 、吾 々は 、眼 中 利己 の利 益よ り 外に 何物 も無 の如 きに 到 つて は、 それ に 寧ろ 賛成 した のだ 。 斯く 而 るに 、何 が故 に、 政 府は 民間 の者 が 政治 を論 議 い 藩閥 者― ― 官僚 と、 先 づ以 て商 利を さき に する 新 の喜 ば無 け れば なら ぬ事 で ある のだ 。 す るの に不 便 を與 へ、 民 間の 各人 が政 治上 の 訓練 を 聞 雑 誌業 者と の為 めに 、 吾々 の重 んず べ き言 論出 版 吾々 は、 吾々 の差 し当 つ ての 、行 動 とし ては 、一 経 や うと する のに 甚だ し き障 碍と なる べ き法 律上 の 事だ と言 はざ るを 得無 い 。政 府は 此れ に 関し て辨 じ 切の 国法 を ば、 真の 民権 の 基礎 の上 に立 てさ せ るや の自 由を ば 、唯 に空 文の 上 です ら有 する 事が 出 来無 て言 ふで あ らう 、新 聞雑 誌 をば 脅喝 若し くは 煽 動の う に、 努力 すべ きで あ る。 雑誌 『反 響 』の 政治 に対 条文 を設 け て置 くの であ る のか 。極 めて 非立 憲 の所 具 にす る者 が有 つて 、 無力 の人 民が そ れが 為め に苦 す る主 張は 、 何う かさ う いふ 風で あり 度い と 思ふ 事 く なつ て居 るの であ る 。 し めら れ、 若 しく は過 失 をな すの であ るか ら 、此 の を、 ここ に、 主筆 たる 生 田長 江君 に告 げ る。 業 と言 は無 けれ ばな ら 無い 。而 かも 、 近年 にな つて 条文 を設 けた ので ある し 、殊 に近 頃に 至 つて は、 さ 長々 と引 用 して 恐縮 だが 、 言論 出版 の自 由を 真 正面 ― 略― うい ふ脅 喝 若し くは 煽動 を なす 輩が ふえ たの で 、保 か ら説 き、 民主 主義 の 根幹 に触 れる 孤蝶 の 論で ある 。 保 証金 の額 を 増し たの に 到つ ては 、實 に怪 し から ん 証 金を 増す 事に した の だと 必ず 言ふ で あら う、 が、 孤 蝶は 言論 抑 圧の 卑劣 な手 段 と化 した 現行 の 新聞 紙条 り 、ま た近 年 にな つて 其の 保 証金 の増 額さ れた の を 、 証金を納めて居る新聞雑誌が此れまで黙認して居 而る に、 斯 うい ふ不 法 な条 文の 存在 をば 、 現に 保 るや うに 努力 すべ き であ る」 は、 政治 の 高等 批評 雑誌 の 「一 切の 国 法を ば、 真の 民 権の 基礎 の上 に 立て させ に する 新聞 雑誌 業者 」 をき びし く糾 弾し て いる 。末 尾 け で な く 、 不 条 理 な 保 証 金 を 黙 認 し て 、「 商 利 を さ き ママ そ れは 、唯 言 ひ譯 に過 ぎ 無い 。 例の 保証 金問 題を 取 り上 げ、 政府 を激 し く攻 撃す るだ 唯々 とし て承 諾し た のは 、何 うい ふ譯 か とい ふと 、 『反 響』 への 期 待と 激励 の 一文 で、 主筆 生 田長 江に さ ママ ―略 ― さう いふ 新 聞雑 誌社 に取 つ ては 、商 売上 の 競争 者の -6- に 、 我が 田へ 水を 引か う とす るの でな い 。廣 く世 間 私 は私 共 自ら が文 芸界 の 人間 と云 はれ てゐ る為 め 長 江 は「 馬場 孤蝶 氏の 立 候補 につ いて 」(『反 響』 二 開 いて いる 限り 、何 人 も否 定し がた き 事実 とし て、 す が辰 猪の 弟 だと 思わ せた に ちが いあ るま い。 ―三 大正四・三 一 ・ )と題する文章で、文士孤蝶の 立 候補 の意 義に つい て 詳述 して いる 。次 は その 抄で あ 日 本の 今日 の 社会 に於 て 、最 も潑 溂た る生 命 をつ か を見 渡し て ゐる 限り 、そ れ ぞれ の専 門以 外に 眼 界を る。 堕 落と を極 め てゐ るの で ある 。こ れを 此儘 に 放置 し で ある 。殆 んど 、世 上 に於 てあ り得 る 限り の腐 敗と 尽く して 、 行き つま れる だ けを 行き つま つて ゐ るの 人、 文芸 界の 人間 が政 界 に進 出し なけ れ ばな らな いと 治 屋で は駄 目 だ。 清新 潑溂 た る生 命を つか ん でい る素 長 江は 、今 日の 汚濁 腐 敗し た政 界を 浄 化す るに は政 方面 であ る こと を憚 らず 言 明す る。 ん で ゐる のは 、最 も生 き 生き して ゐる の は、 文芸 の てゐ てよ いと は、 自ら な る推 移に 委し て 置い てよ い して 、兄 辰猪 譲 りの 気骨 あ る文 士馬 場孤 蝶に 白 羽の 矢 要 す るに 今日 の政 界は 、 一通 り行 く べき 道を 行き とは 、何 人 がよ く言 ひ得 る もの ぞ。 は 、泥 を以 て 泥を 洗ふ の 愚劣 にゆ づら ない 。 大隈 重 堺利 彦の 売文 社に 拠る 文 字ど おり 大逆 事 件生 き残 りの 孤 蝶の 立候 補 を推 すも う 一つ のグ ルー プが あ った 。 を 立て たの であ る。 信氏 に代 ふる に原 敬氏 を 以て する も、 原 敬氏 に代 ふ 社会 主義 者た ち 、堺 をは じ め荒 畑寒 村・ 大杉 栄 らで あ と ころ で、 政治 屋を 以 て政 治屋 に代 ふ るの 無意 味 るに 、犬 養 毅氏 を以 てす る も、 犬養 毅氏 に代 ふ るに 衆 議院 議 員候 補に 推薦 す る 。大 正四 年一 月二 三 日の 『萬 朝報 』に 、 小 それ ぞれ の 陣笠 を以 て する も、 斯く の如 き 姑息 の 孤蝶 馬場 勝弥 君 尾 崎行 雄氏 を以 てす る も、 乃至 は彼 等 に付 随す る大 方法 によ つて 、既 に 膏肓 に入 れる 政界 の 病弊 を除 去 と いう 、三 行広 告が 載 った 。そ れま で ハム レッ トの 東 京社 会主 義者 有志 即 ち根 本的 の革 新が 、 彼等 政治 屋共 か ら軽 視さ れ侮 如 く迷 って い た孤 蝶も 、こ の 広告 を契 機に 、 立候 補の せん とす る は、 百年 河清 を 待つ が如 きも の であ る。 蔑 され てゐ る とこ ろの 、 青年 と素 人と の奮 起 に須 た 決意 を最 終的 に固 め た。 堺も 長江 同 様に 、辰 猪、 そ の弟 孤蝶 には 早 くか ら関 ねば なら ぬの は、 多 言を 要し ない こと だ と思 ふ。 ―略 ― -7- (9) 声の 如き は 最も 深く 私の 頭 に染 みこ んで 居る 。 馬場 な る 欽仰 愛慕 の感 情を 養 うて 居る 。馬 場 辰猪 君の 名 て 過し た私 は 、自 由党 改 進党 の諸 名士 に対 し て特 別 明 治三 年の 末に 生れ て 、明 治の 十年 代 を少 年と し 馬場 辰猪 君 と馬 場勝 弥君 と は兄 弟で ある 。 と って 良平 は姪 の旦 那 であ り、 義理 の甥 に 当た る。 甥 娘屋 寿( 安子 ) が良 平と 結 婚し てい る。 つま り 孤蝶 に の 姉 駒子 が三 菱に 縁故 の ある 草郷 清四 郎 に嫁 し、 その 重 きを なし た 人物 であ る。 孤 蝶と 良平 の関 係 は、 孤蝶 来 の功 労者 、番 頭格 で 、貴 族院 議員 など 、 政・ 財界 に 叔母美和が岩崎弥太郎 弥 ・ 之助兄弟の母であり、つま り良 平は 弥太 郎 たち の従 弟 に当 たる 。財 閥三 菱 創業 以 れ た。 豊川 良 平は 、高 知城 下 の医 師の 家に 生ま れ た。 勝 弥君 は明 治二 年の 生 れと 聞く 。辰 猪 君の 名声 が遠 と いっ ても 、 年は 良平 の方 が 一七 歳も 年上 で あっ た。 心 を抱 いて い た。 次は 堺の 「 辰猪 と勝 弥」 と題 す る文 く 九州 の一 少 年に 及ぼ し た感 化か ら考 へて 、 勝弥 君 ある とき 、屋 寿は 「私 に は泣 く伯 父( 孤 蝶の こと )が 章 の 冒頭 部分 であ る。 が直 接に 其の 兄君 から 受 けた 感化 の大 な る事 は私 に あり ます 」と い って から か った 。堺 は孤 蝶と 財 閥岩 崎 (10) よく 想像 が 出来 る。 家や豊川良平との関係の深さを危惧していたのであ は次 のよ うに 述べ てい る 。 る 。孤 蝶は 堺 の危 惧を 即座 に 否定 した 。そ の こと を堺 (11) ― 略― 斯くの如 く辰猪君が少年時代の私に与へた感化 は、 中年 時代 の私 にも 猶 少か らぬ 刺激 と なつ て存 し 堺 利彦 に会 って いる 。そ の時 、堺 から 馬場 家と 岩崎(三 を知 るこ とが で きる 。孤蝶 は 立候 補の 腹を 決 める 直前 、 右の 文に よっ て、 堺 の馬 場兄 弟に 対す る 関心 の深 さ こ れも 亦私 に よく 想像 が 出来 る。 の 事を 回想 して 、為 に多 くの 刺激 を受 け て居 た事 は 、 何 程か の助 力 をし たい と 決心 した 。 猪 の弟 』だ と思 つた 。 そこ で若 し出 来 るな ら、 私も た 。それ で 私は 非常 に面 白 く思 つた 。それ でこ そ『辰 でも独立の一文士として戦ふのだと云ふ事であつ す るの では 、 自分 の出 る 意味 がな い。 自分 は 何処 ま ん な事 はな い。 大隈 を 担ぐ とか 、同 志 会に 入る とか 然る に直 接 勝弥 君に 会 つて 聞い て見 ると 、全 く そ 菱 )と の関 係 、殊 に保 守・ 体 制派 の豊 川良 平 との 関係 孤蝶 立候 補当 時の 政 界は 、い わゆ る大 正 デモ クラ シ て居 た。 勝 弥君 がそ の後 の 生活 に於 いて 、常 に 兄君 の深 いと ころ から 政 府与 党の 同志 会か ら 立候 補す るの ーの 潮流 の高 ま りと とも に 、騒 然と して い た。 大正 二 (12) では ない かと い う風 評が 立 って いる がど う か、 と聞 か -8- 守旧 派の 山県 有 朋に 近い 辣 腕家 大浦 兼武 内相 の 強引 な を至 上目 標と して 、あら ゆる 手段 を弄 し て野 党を 圧迫 、 今 度の 選挙 で 政友 会征 伐、 与 党同 志会 など の 党勢 拡大 散 した 。長 州閥 の井 上 馨の 息の かか って い る大 隈は 、 り、 二個 師団 増 設案 が否 決 され ると 直ち に衆 議 院を 解 絶 対 多数 を誇 る原 敬率 い る反 長州 の政 友 会の 反対 によ れ てい た 。大 隈 内閣 は同 年一 二月 二 五日 の帝 国議 会で 、 二 次大 隈重 信内 閣に は 、二 個師 団増 設の 難 問が 課せ ら シー メン ス事 件 で転 覆、 そ のあ と四 月一 六日 成 立の 第 が 倒 れ、 後継 の山 本権 兵 衛内 閣は 翌三 年 三月 二四 日に 実 業之 世界 社の 社長 、野 依秀 一と 掛け 合 い 、快 諾を 得 、 には お手 のも の の貞 雄が 早 速動 き、 先日 まで 在 籍し た を選 挙資 金に 充て よう と いう ので ある 。 こう いう こと 料 で原 稿を 寄 せて もら い、 一 大文 集を 発行 、 その 印税 金 の調 達方 法と して 考 え出 され たの は、 著 名文 士に 無 筆 「 先の 労働 に 依つ て僅 かに 衣食 し て居 る貧 寒 文士 」 孤蝶 には 自ら の 選挙 資金 を 賄う 術は なか った 。 運動 資 挙 事務 長と な った 。 田 仲猿 楽町 の三 国館 に 後援 会事 務所 を開 き 、貞 雄が 選 蝶宅 に集 まり 、 後援 会と し て孤 蝶を 正式 推挙 し た。 神 二 月 一二 日、 安成 貞雄 、 生田 長江 、森 田 草平 らが 孤 す る可 能性 は あっ たの であ る 。 選 挙干 渉も あっ て、 与 党は 大躍 進、 同志 会 一五 三、 中 出 版元 は同 社 と決 まっ た。 本 の題 名は 冒頭 に 記し たよ 年 二月 一一 日 には 護憲 運動 に よっ て第 三次 桂太 郎 内閣 正 会三 三、 国 民党 二七 など 大 勝、 野党 の政 友 会は 前回 うに 『孤 蝶馬 場勝 弥氏 立 候補 後援 ―現 代 文集 』と し、 ( 1 3) 選挙 時の 二一 一か ら一 〇 三と 一挙 に半 減 、大 敗し た。 書と 演説 、す な わち 言論 の みに よる 理想 選 挙で 、腐 敗 して 、当 時認 めら れ てい た戸 別訪 問も 一 切や らず 、文 ス 方式 にな ら い、 あく まで も 一自 由思 想家 ・ 一文 士と つ もり はな かっ た。 兄 辰猪 が英 国留 学で 学 んだ イギ リ 二 月十 二日 の夜 十一 時 半頃 、一 月末 迄 『実 業之 世 末の 野依 の跋 文 『 「 現代 文集 』の 発 行に 就い て に 」 よっ て知 るこ とが で きる 。次 は その 抄で ある 。 銭 で初 版は 一 千部 であ った 。 発行 に至 る経 緯 は同 書巻 二 部四 六三 頁、 計一 、 一二 七頁 の大 冊、 定 価一 円九 〇 当代 文士 八一 名 の作 品を 網 羅す る菊 版 、一部 六六 四頁 、 堕 落し た政 界の 浄化 、 革新 の捨 て石 にな れ ばと いう 一 界 』記 者で あ つた 安成 貞 雄君 が、 社の 三階 に 寝泊 ま 孤蝶 は政 界 の泥 沼の 中に 溺 れて 、人 間喜 劇を 演 ずる 念 で、 立候 補 を決 意し た。 た だ当 選さ えす れ ばよ いの あつ て、 遅 いと は思 つた が やつ て来 た』 と 云ふ 。僕 り し て 居 る 僕 を 訪 ね て 来 た 。『 至 急 相 談 し た い 事 が なら、親戚の政 財 ・ 界の実力者、豊川良平の後援を得 て、 与党 の同 志 会の 公認 候 補に でも なれ ば 、十 分当 選 -9- は 寝床 の中 で 本を 読ん で 居つ たの で直 ぐ会 つた 。 『 愈 々馬 場孤 蝶先 生を 推 し立 てる 事 にな つた 。今 日、 先生 の 宅で 、生 田長 江 、森 田草 平其 他の 諸 君に 集 つて 貰つ て相 談を 取 り極 めた 。選 挙運 動の 方法 は 、 あ る。 そこ で 、僕 は、 安 成君 に『 宜し い、 引受 け よ う 。』 と言 つた 。安 成君 は 『そ れで 安心 した 。』 と云 つて 、十 一 時五 十分 に帰 つ て行 つた 。 原 稿が 集ま つた のを 見 ると 、文 壇の 名 家八 十氏 の きな 文集 を作 つて 、其 の 原稿 料を 運動 費 に充 てる 計 先 生と 吾々 の 知つ て居 る 人々 から 原稿 を貰 つ て、 大 『 併し 先生 にも 吾々 に も金 が無 い。 そ こで 、馬 場 の理 想の 一 部の 実行 と信 じ 、且 つ、 それ を依 嘱 せら ふ。 僕は 本書 の出 版を 引 き受 ける こと を 以て 、自 分 会 の趨 勢に 一 歩を 進め て 居る と云 ふ明 証で あ ると 思 達 する に、 日本 空前 の 方法 によ るこ と は、 文壇 が社 作 品が 揃つ て 居る 。安 成 君や 和気 君に 聞く と 、今 度 画を 立て た 。今 確実 には 言 へな いが 、少 なく と も四 れ たこ とを 光栄 とす る もの であ る。 全 然英 国の 方 法に 拠る こ とに した 。此 の社 か ら出 る 五 十人 には 寄稿 を承 諾 して 貰へ るだ ら うと 思ふ 。ど 貞 雄の 要請 を 快諾 した 社 長の 野依 秀一 は、 戦 後、 天 の 様 な企 てに 対し て文 壇 の殆 んど 全部 が 賛同 した の う だら う、 其 の本 の出 版 を引 き受 けて 貰へ な いだ ら 皇中 心主 義・ 反共 主義 で 知ら れて いる が 、明 治末 から 安 部 さん の「 誰を 選ぶ べ きか 」に 書い て ある 通り の う か 。』 と 云 つ て 原 稿 を 依 頼 す べ き 人 々 の 名 簿 を 見 大 正 時 代 に か け て は 熱 烈 な 国 家 主 義 者 で あ る 一 方 、” は、 空前 で ある と云 ふ。 そ して 、馬 場氏 が其 目 的を せた 。 冬 の時 代” の社 会主 義 者た ちを 支援 し、 孤 蝶の 人物 ・ 方法 を採 る こと にし たい の だ 。』 ― 略― も と多 少の 損失 位は 厭 はな い覚 悟で あ つた ので ある 安部 先生 の 『誰 を選 ぶべ き か』 を出 版す る 時、 もと てて 見た 。そし て 、少な くと も損 はし な いと 考へ た 。 想 選挙 には 少 なか らぬ 貢献 を した こと にな る 。 軍 資金 とな り、 文化 人 らが 手弁 当で 応援 し てく れる 理 印税 を一 〇% と し、 千部 全 部売 り切 ると 、 一九 〇円 の 『現 代文 集』 の印 税 契約 の内 容は 不明 だ が、 かり に 識 見に も敬 意 を払 って いた 。 か ら、 其の 本 に書 いて あ る方 法で 運動 する 人 の為 め 僕 は寄 稿 者を 四五 十人 と して 、出 版の 胸算 用 を立 に本 を作 るこ とは 僕 の望 む所 であ る。 夫 れで 損を し 原稿を無料で寄せた文士は夏目漱石 北 ・ 原白秋・正 宗白 鳥・ 大町 桂 月・ 鈴木 三 重吉 小 ・ 宮 豊隆 与 ・ 謝 野寛 ・ なけ れば 、 出版 業界 とし て も引 き受 ける の が至 当で - 10 - 与 謝野 晶子 ・ 蒲原 有明 ・野 上 弥生 子・ 内田 魯庵 ・ 小山 内薫・吉井勇・森下雨村 森 ・ 田草平・堺利彦・田山花 袋・ 佐藤 春夫 ・ 徳田 秋声 ・ 久保 田万 太郎 ・生 田 長江 ・ の 心境 につ い ては 、い わゆ る 「則 天去 私」 伝説 が 流布 し て いる が、 はた して 漱 石は その よう な 静謐 ・諦 観の 境地に甘んじていたであろうか。否むしろ、ノン セ ・ クト ラ ・ ジカルの旗幟を鮮明に掲げて果敢に立候補し た 孤蝶 を自 ら の代 弁者 とし て 、ま たそ の 同伴 者と して 、 安 成貞 雄・ 安成 二郎 ・ 岡本 綺堂 らで 、当 時 の錚 々た る 文 壇人 八一 名 が挙 って 名を 連 ねて いる 。た だ 、森 鴎外 ない か。 その 点 につ いて は 、松 尾尊 兊氏 の詳 細 な卓 見 が ある ので 御参 照戴 き たい 。 先生 (漱 石の 事) に始 め て拝 顔の 栄 を得 たの は、 (16) 腐 敗 、汚 濁の 政治 の現 実 と厳 しく 対峙 し てい たの では 永 ・ 井荷風の名がないのはなぜであろうか。島崎藤村 は渡 仏中 であ っ た。 「 凡例 」に 「原 稿の 配 置は 、寄 稿を 承 諾せ られ たる 義 」が据 えら れて いる 意義 は 大き い 。 「 私の 個 人 主 義 」 明治 四十 年 の冬 頃か と思 ふ 。場 所は 、そ の時 分 森田 孤 蝶は 漱石 と の初 対面 の こと を、 は漱 石が 大正 三 年一 一月 二 五日 、学 習院 輔仁 会 で行 っ 草 平氏 の居 た本 郷の 丸 山福 山町 四番 地 ―故 樋口 一葉 順 序に よる 」 とあ り、 開巻 劈 頭に 漱石 の「 私 の個 人主 た 講演 筆記 に加 筆し た もの であ る。 漱石 は 権力 や金 力 の 住ん だ家 ― であ つた 。 (17) に 近い 上流 階 級の 子弟 であ る 学習 院の 生徒 た ちに 、 権 「 と 書 い て い る 。「 明 治 四 十 年 」 と い え ば 、 漱 石 は 同 筈 だっ た『 輔仁 会雑 誌 』第 九五 号( 大四 三 ・ 二 ・ 二) に 先 駆 け て 、『 現 代 文 集 』 の 巻 頭 に 掲 げ ら れ た こ と 、 孤 あ る 。 文 通 や 著 書 の 遣 り 取 り も あ り 、「 私 ( 孤 蝶 ) の 者 は共 通の 弟 子で ある 森田 草 平を 介し て出 会 った ので 年三 月に 帝大 を 辞し 、東 京 朝日 新聞 社に 入社 、 孤蝶 は 蝶立 候補 の推 薦人 二 〇人 の筆 頭に 漱石 の 名が あっ たこ 宅へ も二 度ほ ど 来ら れた 。私も 行っ た 」など とあ って 、 力」や 金 「 力」についての自制を説いている。そのよ うな 内容 の 私 「 の個 人 主義 が 」 、 本来 、先 に掲 載 され る と 、漱石 の題 字 で飾 られ た「政治 宗教 文 芸の 高等 批評 」 二 人の 仲は かな り親 密 だっ たよ うで ある 。 漱石 が孤 蝶 前 年九 月、 日銀 を辞 し 、慶 大の 教職 に就 い てい た。 両 雑 誌『 反響 』の 発行 人 森田 草平 、編 集人 生 田長 江の 二 の 立候 補を 積 極的 に支 援し た 理由 は、 個人 的 な友 人関 (14) 人 が漱 石の 門 下生 であ り、 孤 蝶担 ぎ出 しの 張 本人 であ 係か らな どで はも ち ろん なく 、次 に述 べ るよ うな 孤蝶 (18) った こと など を勘 案 する と、 孤蝶 の立 候 補に 対す る漱 の鮮 烈、 高邁 な 政見 に強 く 共感 、賛 同し た から であ ろ (15) 石の 思い は並 々 なら ぬも の があ った 筈だ 。 漱石 最晩 年 - 11 - 為 めに 、国 民 中の 各個 人 は、 自尊 心を 増促 さる ゝ こ と が 無い 。此 の如 く、 我 国の 代議 士選 挙 の法 は、 国 う。 孤 蝶 の 政 見 「 立 候 補 の 理 由 」 は 『 反 響 』( 二 ― 三 民の 一般 的 活動 に対 して は 、寧ろ 障碍 と なつ て居 る 。 と 格調 高く 、堂 々と 自 らの 所信 を述 べ 、以 下の よう 意義 であ る 。 経 ざ る政 治の 存在 は、 法 治国 の事 実と し ては 全く 無 府 の存 立、 形 式上 に於 て さへ 国民 の大 多数 の 同意 を 形 式上 に於 てさ へ国 民 の大 多数 の同 意 を経 ざる 政 大四 三 ・ 一 ・ ) に 載っ てい る 。孤 蝶は まず 、 民 族の 興隆 は、 その 民 族の 原子 たる 各 個人 の充 実 せ る活 動に 俟 た無 けれ ば なら ぬ。 民 人 の政 治は 、斯 くの 如 き民 人の 充 実せ る活 動を 基礎 とし て 、行 はる るも の で無 けれ ばな らぬ 。 民 人の 充実 せる 活動 は 、各 個人 の国 民 とし ての 自 な 政治 改革 案 を具 体的 に提 示 して いる 。選 挙 権の 大拡 張、 すな わち 普通 選挙 の 実現 、婦 人参 政 権の 付与 、軍 覚 より 始ま る べき もの で ある 。 故に 一国 の法 規は 、各 個 人の 自覚 、 各個 人の 正常 備縮 小、 特に 今 次選 挙の 大 きな 争点 であ る二 個 師団 増 る 法的 規制 、 官学 偏重 打破 、 私学 ・自 由主 義 教育 の振 なる 活動 に 対し て、 妨碍 と なり 、不 便で ある と いふ 我 国の 国 法は 、各 個人 の 自覚 を促 し、 各個 人 の正 興、 労働 者の スト ライ キ 権を 実質 的に 禁 じて いる 治安 設 反対 、軍 部大 臣・ 裁 判官 ・警 察官 など の 横暴 に対 す 常な る活 動を 十分 自由 な らし むる 精神 に 於て 、設 け が 如き もの であ つて は なら ぬ。 られ たる も のと 謂へ るで あ らう か。 予等 は、 何 うし 行等 々を 列挙 し、 次 のよ うに 結ん でい る 。 通 行税 ・営 業 税な どの 諸悪 税 の廃 止、 行財 政 改革 の断 警察法の撤廃、新聞 雑 ・ 誌の発行に莫大な保証金を取 り 、言 論の 自由 の障 害と な って いる 新聞 紙 条例 の改 正 、 て もさ うで ある とは 認 め無 い。 我 国民 の 大多 数は 、自 己 の意 志を ば 、国 政の 上に 、 働か し得 べき 法的 の 権利 を奪 はれ て居 る 。即 ち、 我 ち 、六 千萬 人 中の 僅に 百 五十 萬人 が、 参政 権 を持 つ 現 行の 我国 法で は、 我 国民 の総 数の 二 分五 厘、 即 る人 を得 るに 至つ て 、そ の効 用を 十分 に 発揮 し得 べ め しむ るの が 最も 必要 で ある 。法 は、 それ を 運用 す た ざれ ども 、そ の根 本 に於 ては 、為 政 者の 精神 を改 思ふ に、 現 代に 於て は 、国 法更 正の 必要 は 論を 俣 て居 るに 過ぎ 無い 。 此の 如き 現状 では 、 国民 の大 多 きも のな る が故 に 、予等 は 、国民 全体 の 自覚 を促 し 、 国民 の大 多 数は 、参 政権 を 奪は れて 居る 。 数は 、国 政 に対 し何 等の 責 任を も負 はせ ら れ無 いが - 12 - 神の 上に 立 たし むや うに 努 力し なけ れば なら ぬ 。 め の もの たり 、民 意に 協 ふも のた らし む ると いふ 精 一 切の 国法 、 一切 の政 策 をば 、人 民の 利益 を増 す 為 八 日 付 の 一 通 は 長 文 で 、 孤 蝶 の 立 候 補 、『 現 代 文 集 』 川 宛 三通 の書 簡が 見付 か った 。う ち、 大 正四 年三 月一 の 恩師 豊川 良 平関 係の 文書 を 検索 して いて 、孤 蝶 の豊 平 ・与 謝野 寛 ・安 成貞 雄ら も 登壇 、熱 弁を ふ るっ た。 一 〇数 回開 かれ 、孤 蝶 をは じめ 、長 谷川 天 渓・ 森田 草 の政 見演 説会 は 二月 二二 日 の神 田青 年会 館を 皮 切り に 立し てい る孤 蝶の 勇姿 が 彷彿 と浮 かん で くる 。孤 蝶ら 時 高ま りつ つ あっ た大 正デ モ クラ シー の最 尖 端部 に屹 ま さに 瞠目 の論 であ る 。こ の一 文か ら だけ でも 、当 に誓 つて 置 く。 会に 乗じ て、 如上 の懐 抱 の実 現に 努力 す るこ とを 爰 予 等は 、正 当 なる 有ら ゆ る手 段に 依り 、有 ら ゆる 機 の 予等 の努 力は 、今 後 、決 して 弛緩 する こと は 無い 。 過ぎ 無い と 思つ て居 る。 如 上の 懐抱 を実 現す る 為め 回 の 挙を 以つ て、 民福 を 計る 予等 の努 力 の第 一歩 に を 以つ て、 そ の大 網を 述 べ得 たと 思ふ 。予 等 は、 今 来得 る限 りの 分返 納 致し 、余 分は 少額 の 月賦 にて も 間 敷候 哉さ す れば 他よ り の収 入を 精算 致し 候 上、 出 候 事故 ここ にて 一時 の 所弐 百円 だけ 御 立換 置き 被下 就て は何 共 申上 兼候 次第 な がら 先日 の御 好意 も 有之 るや うカ タを 付け 度く と 存候 作 ると いふ 方 法に て始 め 候為 め余 まり 見苦 し から ざ 候 らへ ども 友人 等よ り 原稿 の寄 付を 受 けそ れで 金を 事務 所の 費 用な どは 払は ず に打 捨置 き候 も差 支 無之 より 更に 援助 を受 けず に やつ て居 り候 運 動に 候は ば い 渡し 呉れ ず 甚だ 弱り 居 り候 次第 に御 座候 小 生が 他 『 現代 文集 』を 出版 せ る実 業の 世界 社 が未 だ金 を払 無之 候て は 従来 の費 用の 決 算附 かず 候と ころ 後 援の 如 き もの には 過ぎ ざれ ど も今 後何 うし て も弐 百円 程 小 生の 先日 来 致し 居り 候 選挙 運動 ホン のま ま ごと の に 触れ てお り、 興味 深 い。 次は その 抄で あ る。 入場 料一 〇銭 を取 っ たこ とは 前代 未聞 の 椿事 とし て話 返納 致す べ く候 今度 の運 動 は元 より 当選 を 期し ての 予 が衆 議院 議員 の候 補 に立 つた 理由 は 、如 上の 言 題 に な っ た 。 選 挙 結 果 は 僅 か 三 二 票 で 惨 敗 、『 現 代 文 事 は無 之、 唯だ 一般 人 の政 治思 想を 喚 起致 し度 き事 ふや うな 意 味に 過ぎ ず従 つ て貴 下に は一 切 ご迷 惑を ママ 集 』に 寄稿 した 文士 八 一人 との 数的 ギャ ッ プは 当時 の と 、若 し、 今 後今 少し く 大運 動を 開始 する 機 会も 有 (19) 制 限選 挙下 、 文士 の殆 どは 国 税一 〇円 を払 う だけ の定 りと せば 、之 の機 会 に乗 ずる 第一 歩を 著 け候 事と い (20) 収入 はな く、 選挙 権 がな かっ たか らで あ ろう 。 国会 図書 館 の憲 政資 料室 で 明治 義塾 時代 の 大町 桂月 - 13 - と 、 年 上 の 義 甥 豊 川 へ 膝 を 屈 し た 形 だ が 、「 立 候 補 の 支 払 いに 窮し たの で、 二 百円 ほど 融通 し てく れま いか 界 社か ら予 定 の印 税が 入ら ず 、選 挙事 務所 等 の経 費の 書 簡 の 主 な 用 件 は 、『 現 代 文 集 』 刊 行 元 の 実 業 之 世 むを 得ず 前 陳の 義厚 顔に も 願出 候次 第に 御座 候 り 候 ては 何と か致 さね ば なら ぬ窮 境に 立 ち候 故、 已 掛 けず にと 思 ひ居 り候 し も、 事今 日の 有様 に立 ち 至 な どと いっ た軽 いも の では なく 、孤 蝶の 胸 奥に 長年 蟠 「馬 場 先 生 の 許 に 集 ま つ て ゐ た 文 学 青 年 の 衒 気 の 所 産 」 と は 思想 的に 全く 波長 が 合っ てい る。 孤 蝶の 立候 補は 衆 議院 選へ の 立候 補 、そ し てそ の政 見「立 候補 の理 由 」 一 ・ 六~ 一 〇 四 ・ )な どに 対 する 孤蝶 の鋭 利、 激 烈な 批 判 につ いて は、 ここ に 再論 しな いが 、孤 蝶 の第 一二 回 洋 書 」と 題す る愚 かな キ ャン ペー ン記 事 (明 四三 ・九 思 想的 鎖国 を 主張 する 『東 京 朝日 新聞 』の 「危 険 なる し て 弟 孤 蝶 に 遺 し た 言 葉 、「 勝 弥 も 大 き く な つ た ら 、 (21) 理 由」 に示 され た高 邁 な政 見を 携え て立 候 補し た孤 蝶 っ てい た純 粋 無垢 な正 義感 の 発露 であ り、 そ の爆 発で 孤蝶 と同 郷 で終 生兄 事し て いた 大衆 作家 田中 貢 太郎 牢 に入 る位 な勢 いが あ るや うで なけ れば 駄 目だ 」の 果 (24) の 行為 に些 か の瑕 疵を もも た らす もの でな い こと はい あっ た。 それ はま た、 兄 辰猪 が渡 米に 際 し、 両親 を介 は 、堺 ら社 会主 義者 たち が 孤蝶 を推 薦す る のは 逆効 果 、 敢 な実 践で あ り、 辰猪 が、 妻 帯を すす める 友 人に 「私 (25) うま でも ない 。 ぶ ち毀 しだ と 怒り 、堺 の家 ま で抗 議に 行っ た 。そ れを に は 年 の 違 つ た 弟 が あ る 。( 略 ) 私 が 妻 帯 を し て 子 が (26) 聞いて、孤蝶の立候補に当初批判的であった筈の大 出来 ると した と ころ で、 あ れだ けの 者さ へ出 来 るか 、 (22) ( 23 ) 杉栄 が、 なぜ か 今度 は田 中 の家 へ怒 鳴り 込ん で 来る と 何 うだ か、 それ は分 ら 無い 。今 有る もの の 方が 、ま だ (28) 出 来無 い者 よ りは 、確 かだ 」 と語 った とい う 、兄 辰猪 (27) い った 賑や かな 一幕 も あっ た。 明 治三 〇年 代 末か ら大 正 初期 へか けて の孤 蝶 の評 論 の期 待と 信頼 に十 分 応え るも ので もあ っ た。 政見 を第 一 に立 つ馬 場孤 蝶 文士 の中 の文 士 なり けり 活動 は格 段に 活発 で あり 、そ の論 調は 自 由主 義者 、反 体制 派と して 常 に一 貫し て おり 、全 くブ レ てい ない 。 生 田春 月 孤 蝶立 ち我 日 の本 のま つ りこ とあ らた まる と き 勇 特 に第 二次 桂内 閣の 文 相小 松原 英太 郎等 が 画策 した 文 芸 統 制 目 当 て の 「 文 相 に よ る 文 士 招 待 会 」( 明 四 二 ・ 吉井 春は 来に けり (29) 一・ 一九 )・「文芸委 員会 官制 」 (明四四 ・五 一 ・ 六 )や 、 トル スト イ・ モ ーパ ッサ ン らの 外国 文学 を 危険 視し 、 - 14 - 注 () ( 1 )松 尾尊 兊「 一九 一 五年 の文 学界 の ある 風景 と最 一九六八 一 ・ 高 昭一五 大 一 ・一 二 一 ・) 晩 年 の 漱 石 」(『文 学 』 三 六 ― 一 〇 〇 ・一 〇) ( 2 )「 座談 」(『近代 思想 』3 ( 3 )「 馬 場 先 生 を 悼 む 」(『 博 浪 沙 』 五 ― 八 ・七 ・二 三 ) ( 4 ) 木 戸 昭 平 『 馬 場 孤 蝶 』( 昭 六 〇 ・ 三 ・ 一 五 知 市民 図 書館 )二 一四 ~ 二一 五頁 (5 )伊 田波 氏は 安成 貞 雄と 同郷 で彼 の 卒業 した 旧制 日 本経 済新 大館 中学 の 後身 、現 鳳 鳴高 校卒 、安 成貞 雄研 究 家 ( 6 )『 私の履 歴書 』( 昭五 八 ・一 〇・ 一 二部 』 2 3 』( 一 九 九 八 ・ 八 大四・三 一 ・ )の表紙にある 聞 社) 三 七〇 ~三 七一 頁 ( 7 )『 反 響 』( 二 ― 三 文句 講談 社) 二一 六 頁 (8)瀬沼茂樹『日本文壇史 ・ 一〇 (9 ) 『孤 蝶 馬 場 勝 弥 氏 立 候 補 後 援 ― 現 代 文 集 二七 〇 ~二 七一 頁 ( 10 )( 4)に 同じ 二 八五 ~二 八 六頁 昭 一五 ・九 ) 二一 五頁 ( 11 )阿 部 彰「 馬場 先生 」(『三田 文学 』 馬場 孤蝶 追 悼号 (1 2 )(9) に同 じ ( 13 )( 9)に 同じ 二八 五頁 大四・三・ 協和 書 大 三・ 七 ・一 ) ( 1 4 )「 編 輯 の の ち 」(『反 響 』 二 ― 三 一) 粏 (1 5 ) 「編 輯 の 後 」 (『反響 』一 ―四 ( 16 )( 1)に 同じ 一 四二 頁 ( 1 7 )『 明治 文壇 回顧 』( 昭一 一・ 七・ 二四 院) 一四 五 頁 ( 18 )( 17) に同 じ 孤蝶 の 立候 補と『現 秋田県大館鳳鳴高校同窓会誌 (1 9 )伊 田 波英 夫「評 伝 安成 貞雄 ノー ト(七 )」 (『s u n ― 紀 』) 7 号 昭五 五 一 ・二 二 ・ 〇 )の 二 「 代 文集 』 ( 20 )『 読売新 聞 』( 大四 二 ・ ・二 六) (2 1) 拙稿 「孤 蝶の 新 発掘 の書 簡 」(『高知新 聞』 昭 五九 ・一 〇 ・一 三) 昭 ( 2 2 )「 馬 場 孤 蝶 等 の 選 挙 運 動 を 難 ず 」(『 東 京 毎 日 新 聞』 大 四・ 三 一 ・ 四) (2 3 )「馬場 先生 の立 候 補 」(『博浪沙 』五 ―八 一五 ・七 二 ・三 ( 24 )拙 稿「 大逆 事 件前 ・後 の荒 涼た る 文壇 風景 ― 平二三 六 ・ ― 馬場 孤 蝶『 日本 と云 ふ 国が 一時 に消 えて 了 へば よ い 』 ― ― 」(『日 本 文 学 研 究 』 四 八 ・三 〇) 参 照 - 15 - ( 25 )( 23) に同 じ 一四 巻 自 由 民 権 編 ( 続 )』 昭 三 日本評論 ( 2 6 ) 孤 蝶 編 「 馬 場 辰 猪 日 記 ( 抄 )」(『明 治 文 化 全 集 社 )三 六九 頁 大四・三 ( 2 7 )「 弟 の 見 た る 馬 場 辰 猪 」(『新 小 説 』 大 五 ・ 九 二二 二頁 一 ・) ( 2 8 )「 選 挙 運 動 の 歌 」(『 反 響 』 二 ― 三 一 ・) ( 29 )( 8)に 同じ - 16 -
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