『戦争と平和』から『アンナ・カレーニナ』

『戦争と平和』から『アンナ・カレーニナ』へ
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『戦争と平和』から『アンナ・カレーニナ』へ
― レフ・トルストイの作品における子供の特質と愛の形象の変容 ―
覚 張 シ ル ビ ア はじめに
1860 年頃,トルストイは,ロシアの変革のためにクーデターを試みた「デカブリスト」
という青年貴族を主題とする小説を構想していた。しかし,作家の関心は皇帝から農民まで
が一体となって戦った 1812 年の対ナポレオン戦争まで遡っていく。その結果,デカブリス
トの小説を中断し,後に『戦争と平和』
(1863 - 1869)となる小説を,1805 年を起点とし
て書き始めた。
『戦争と平和』は,しばしば歴史的叙事詩と形容される通り,歴史小説と考
えられる傾向があるが,トルストイ自身は,
『
「戦争と平和」について数言』でそれを否定し
ている。作家が,自分が表現したかったものを書いた結果,このような形になったと言う通
り, 作品は必ずしも歴史小説の枠組みに収まるものではなく,歴史的人物と並んで,トル
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ストイの同時代人と思われる人々の特徴を備えた人物も数多く描かれる。
『戦争と平和』を完成させると,今度は 17 世紀末から 18 世紀初頭のピョートル大帝によ
る改革の時代に取材した小説に着手した。しかし,三年間にわたる労力も虚しく,この遠い
時代を舞台とする小説の試みは,断片的な文章が書かれただけで終わってしまった。その後,
トルストイはすでに着想を得ていた『アンナ・カレーニナ』に着手し,農奴解放等の改革に
揺れる同時代のロシアを描き出す。まさに,自分が生きる時代とその人間のルーツを過去に
求めようとして,結局は同時代に帰着するのである。2
トルストイの幸福な家庭生活の絶頂期に描かれ,1812 年を背景に調和を探求した『戦争
と平和』と,作家の精神的危機が始まる真っ只中に,進歩と改革に揺れる混沌としたロシア
を描き出した『アンナ・カレーニナ』の関係に焦点が当てられることは意外と少ない。
本論では,この二つの小説が,過去にルーツを求めようとしながら同時代を描き出したと
いう共通性と,
『戦争と平和』の完成後,数カ月で『アンナ・カレーニナ』が着想されてい
るという一種の時間的連続性に着目し,この二つの小説の関係を捉える試みを行う。トルス
トイの世界観にはルソーの思想と共通する部分があり,彼の作品にはルソー的な意味での自
然人的本質を備えた子供,或いは子供の特質を内包する人物が登場する。しかし,例えば,
処女作の『幼年時代』と『戦争と平和』を比較すると,子供や子供の特質を内包する人物の
特徴に変化が見られる。このことを踏まえ,子供と子供の特質の描写を手掛かりに,『戦争
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と平和』と『アンナ・カレーニナ』の関係を分析していきたい。
1.『戦争と平和』における子供の特質 3
『戦争と平和』には,年齢とは無関係に子供の特質を備えた人物が登場する。冒頭では,
すでに青年期に達しているピエール・ベズーホフが,子供のような眼差しをもってペテルブ
ルグのサロンに現れる。彼は,その子供のような無頓着さと不器用さでサロンの秩序を乱す
が,やはりその子供のように無邪気な笑顔で,サロンの女主人を安心させる。
Мсье Пьер не знал, кому отвечать, оглянул всех и улыбнулся. Улыбка у него была не
такая, как у других людей, сливающаяся с неулыбкой. У него, напротив, когда приходила
улыбка, то вдруг, мгновенно исчезало серьезное и даже несколько угрюмое лицо и являлось
другое – детское, доброе, даже глуповатое и как бы просящее прощения. (9, 25)
ムッシュー・ピエールは,誰に答えるべきか分からず,皆を見まわして微笑んだ。彼
の微笑みは,他の人たちとは違い,無愛想な表情と溶け合うようなものではなかった。
彼の場合には,逆に,微笑みが浮かぶと突然,一瞬にして,真面目でいくらか陰気くさ
いとすらいえる表情が消えて,別の,子供のように善良で愚かにも見え,許しを請うよ
うな表情が浮かぶのであった。
この後,舞台はモスクワに移り,ロストフ家の名の日のお祝いには,すでに子供ではないが,
まだ大人にもなりきれていないナターシャという娘が客間に駆け込んでくる。そして,一度
は秩序を乱すものの,その場の空気の支配者となる。
Черноглазая, с большим ртом, некрасивая, но живая девочка <...> была в том милом
возрасте, когда девочка уже не ребенок, а ребенок еще не девушка. Вывернувшись от
отца, она подбежала к матери и, не обращая никакого внимания на ее строгое замечание,
спрятала свое раскрасневшееся лицо в кружевах материной мантильи и засмеялась. <...>
И Наташа не могла больше говорить (ей всё смешно казалось). Она упала на мать и
расхохоталась так громко и звонко, что все, даже чопорная гостья, против воли засмеялись.
(9, 47)
黒い目で口は大きく,美しくはないが生き生きとした少女は,[…]もう子供ではな
いが,まだ一人前の娘でもない可愛い年頃であった。父親のもとからすり抜けると,彼
女は母親に駆け寄り,そのきつい小言には目もくれずに,母のケープのレースに赤くなっ
た顔をうずめると,笑い出した。
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ナターシャはもう,話すことができなかった(彼女にはすべてがおかしく思われたの
だ)
。彼女は母親の上に倒れ込み,あまりに大きく,よく響く声で笑い出したので,皆が,
堅苦しい女性の訪問客までもが,思わず笑い出した。
ピエールは,冒頭から大人として登場し,10 代前半の少女として登場したナターシャも,
小説が始まる 1805 年からクライマックスを迎える 1812 年までに大人になっていくわけだが,
彼らは,この期間を通じて,子供の特質を失わない。こうした人物は,特に動機づけのない
振舞いによって周囲から際立っている。
ピエールは,外国から帰国したばかりの当初,まだ勤務していなかったが,職に就いてか
らも,実際に何か仕事をしているような様子は見られない。ピエールは常に受動的で,父親
の死や自身の結婚という,自分の利害が関わるはずの重要な局面においても他者の意図に
従って生活しており,その意味では無為な人間だということができる。ナターシャの方は活
動的で,常に何かをしているように見えるが,彼女の行為には利害に関わる目的が存在しな
い。また,彼女の振舞いというのは,客間や馬車の前に飛び込んでくるかと思うと,歌を歌
い,踊りを舞い,空を飛ぼうとするという調子で,行為というよりは戯れに近い。
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そして彼らの無為と戯れに満ちた人生は,
紆余曲折を経ながらも,1812 年というロシア
軍とナポレオン軍の決戦の時を迎えても,つまり両者がすでに大人となったこの時にも変わ
らない。ピエールは,ある時は入隊しようと思い,またある時はナポレオンと直接対決しよ
うと夢見るが,結局のところ,運命的なことを待っているだけで何も具体的な試みをせずに
捕虜となる。そして,捕虜の身で何もできない状態にありながら,プラトン・カラターエフ
という農民との出会いを通して,自分の存在をこの歴史的な瞬間に相応しい次元へと高める
力を持つ。
Высоко в светлом небе стоял полный месяц. Леса и поля, невидные прежде вне
расположения лагеря, открывались теперь вдали. И еще дальше этих лесов и полей
виднелась светлая, колеблющаяся, зовущая в себя бесконечная даль. Пьер взглянул в
небо, в глубь уходящих, играющих звезд. «И всё это мое, и всё это во мне, и всё это я!»
думал Пьер. «И всё это они поймали и посадили в балаган, загороженный досками!» Он
улыбнулся и пошел укладываться спать к своим товарищам. (12, 106)
明るい空高くに満月がかかっていた。以前は野営地の外で見えなかった森や野原が,
今では遠方に開けてきた。この森と野原のさらに先には,明るく揺らめき,自分の方へ
と招くような遠景の無窮の広がりが見えた。ピエールは空を,遠ざかりながらまたたく
星々の奥行きをちらりと見上げた。
「そしてこれはすべて私のものだ,これはすべて私
の中にある,これはすべて私なのだ」とピエールは考えた。「そしてこのすべてを彼ら
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は捕まえて,板で囲まれたバラックに閉じ込めたのだ」彼は微笑み,床に就こうと仲間
の方へと歩き出した。
ピエールの存在は,何もせずして歴史的次元,そして宇宙的次元にまで増大し,捕虜から
解放されると,その存在の豊かさを他者にも還元する。その結果,かつてはピエールに対し
て好感を抱いていなかった従姉妹の公爵令嬢も喜んで彼の世話をするようになった。
ナターシャは,人生や愛に対しても戯れるような態度をとっていたがゆえに,アンドレイ
公爵を裏切り,愚かなアナトールに夢中になった結果,病床につく。だが,教会に通って祈
ることで精神的に回復し,ナポレオンのモスクワ侵攻が迫ると,その非常事態の中でかつて
のような快活さをも取り戻す。そして,家族や召使がモスクワから撤退する準備を進めてい
ても,弟のペーチャと一緒に戯れ,皆の邪魔となる。しかしながら,母の指図により,負傷
兵ではなく家財道具が荷馬車に積まれる光景を目にした時,ナターシャは母親を説得し,ま
さに戯れるような調子で,負傷兵のために荷馬車を解放するという必要なことをやってのけ
る。ナターシャも,ピエールと同様,戯れという無為に近い子供の特質をもって,1812 年
という時に相応しい次元にその存在を昇華させていく。
さらに,彼らの無為と戯れの生は,他者に対しても作用する力を持つ。狩猟の後,おじさ
んの家で踊りを舞うナターシャは,自分と他者との間に存する差異と差異に対する不安を消
失させる。また,空を飛びたいと思うナターシャに出会ったアンドレイ公爵は,その孤高の
人生から脱して他者と共に生きたいという欲求を抱き始める。
まさに,ナターシャは戯れながら,部屋に駆け込んでくるのと同じ調子で他者に働きかけ,
自身のうちにある子供の特質を他者に伝達し,生命を吹き込んでいく。ピエールは,ナター
シャのような行動に出ることはないが,まさに無為のまま,自身の存在の幅を拡大し,この
特質を伝達することができる。
2.
『アンナ・カレーニナ』における子供
それでは,
『戦争と平和』が完成してから数年後に着手した小説『アンナ・カレーニナ』では,
子供の特質はどのように描かれているだろうか。この小説でも,年齢とは無関係に子供の特
質が顕現する。オブロンスキーに会いに彼の職場にやってきたコンスタンチン・レーヴィン
は,流行に従わない自分の流儀に反して新しいフランス仕立ての洋服を着ていることを指摘
されると,まるで子供のように赤くなる。
Левин вдруг покраснел, но не так, как краснеют взрослые люди, - слегка, сами того не
замечая, но так, как краснеют мальчики, - чувствуя, что они смешны своей застенчивостью
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и вследствие того стыдясь и краснея еще больше, почти до слез. И так странно было
видеть это умное, мужественное лицо в таком детском состоянии, что Облонский перестал
смотреть на него. (18, 22)
レーヴィンは,突然赤くなったが,それは,大人が自分でもそれと気づかずにかすか
に赤みを帯びるのとは違って,まるで少年が,はにかんでいるがゆえに自分自身が滑稽
だと感じ,その結果,さらに恥ずかしくなり,涙が出るほどまでに赤くなってしまうの
と同じような具合であった。そして,この賢く男性的な顔がこのように子供っぽい状態
にあるのを見るのはあまりにも奇妙に思われたので,オブロンスキーは彼を見るのをや
めてしまった。
冒頭に登場するなり,
その子供のような状態が顕著に示されるのは『戦争と平和』のピエー
ルの登場の仕方と似ているが,ピエールの「賢そうな眼差し」がむしろ子供特有のもので
あったのに対し,レーヴィンの場合には,
「賢くて男性的な顔」が「子供っぽい状態」と対
照的に捉えられている。ピエールは,然るべく立ち居振る舞いができなくとも,その子供の
特質のおかげで周りから容赦され,妻エレンをめぐってドーロホフと決闘することになった
時や,戦場を訪れる際には,勇敢で威厳のある振舞いすら見せる。しかし,レーヴィンにお
いて,子供の特質は,滑稽さを増すだけである。ピエールは,うまくサロンの表面的な会話
に溶け込むことができず,秩序を乱してはいるが,彼自身はそれに気がついていない。一方,
レーヴィンは,兄コズヌイシェフと有名な哲学の教授の会話に明らかな違和感を覚え,表面
的な会話に参加はできなくとも,その問題点を大人として分析する冷静さを保持している。
モスクワのスケート場で彼が目にしたキチイもまた,子供の特質を備えているが,それは,
レーヴィンの眼差しでのみ捉えられている。
Когда он думал о ней, он мог себе живо представить ее всю, в особенности прелесть этой,
с выражением детской ясности и доброты, небольшой белокурой головки, так свободно
поставленной на статных девичьих плечах. Детскость выражения ее лица в соединении с
тонкой красотою стана составляли ее особенную прелесть, которую он хорошо помнил...
(18, 32-33)
彼が彼女のことを考えた時,彼女のすべてを,特にこの,娘のすらりとした肩にかく
も楽々とのせられた子供らしく澄んで善良な表情をした小さな金髪の頭の魅力を,生き
生きと思い浮かべることができた。彼女の顔の表情の子供らしさは,その上半身の端正
な美しさとあいまって,彼がよく覚えていた特別な魅力を成していた。
このスケート場でキチイの子供らしさが強い印象を与えているのは,レーヴィンだけであ
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り,彼女における子供の特質は,ナターシャの場合と違い,空間全体を支配するほどの力を
持たない。また,キチイは,レーヴィンに対して,冷たい態度をとったり,母親の冷たい印
象を和らげるために微笑んだりと故意に態度を変える。このように,レーヴィンとキチイの
うちに現れる子供の特質は,ピエールやナターシャに比べると,その顕現の仕方において不
自然かつ不完全で,影響力においても弱いというべきである。
『戦争と平和』では,子供以上に大人やナターシャのような中間的な年齢にある者が,子
供の特質を強く顕現しており,ナターシャの弟ペーチャを除けば,子供そのものの存在は
それほど目立たない。一方,
『アンナ・カレーニナ』では,大人に備わる子供の特質という
よりは,子供そのものの存在の方が際立っている。列車ごっこをして遊びながら,「屋根に
乗客を乗せたらいけないと言ったでしょ」と英語で叫ぶ子供の声を聞いたオブロンスキー
は,
「すべてがごちゃごちゃになってしまった(Всё смешалось)」と感じる。列車ごっこを
する子供たちは,鉄道が発達する時代そのものを反映しているわけだが,それと同時に,
「す
べてがごちゃごちゃになってしまった」オブロンスキー家の状態をも反映している。父母が
喧嘩したことを知っている娘のターニャは,父親に母親が元気かどうか尋ねられて顔を赤ら
め,自分がそれほど愛されていないと感じている息子のグリーシャは,父親の冷たい挨拶に
微笑みを返そうとしない。ここでは,子供たちがナターシャのように突然現れて空気の支配
者となることはなく,大人の世界を反映する役割を担っており,その振舞は大人との関係に
よってすでに拘束されている。また,憎しみに満ちた妻ドリーの表情が,子供の叫び声に反
応して和らぐと,オブロンスキーは,
「彼女は私の子供を愛しているのだから,[…]私のこ
とを憎めるわけがない(Ведь любит же она моего ребенка, <...> как же она может ненавидеть
меня?)
」と考えるが,ここで,子供は,親同士の愛情を確認する単なる指標であるに過ぎない。
誕生日に息子に会いに来たアンナのカレーニン家での立場を,セリョージャは何となく感じ
ており,乳母の囁き声を聞いて,
「母と父とが鉢合わせしてはならない」のだと理解する。
良妻賢母のアンナがオブロンスキー家を訪ねると,その家の子供たちはできるだけ彼女の
そばに行きたがり,少しでも彼女に触れようとする遊びさえ始まるが,舞踏会でウロンス
キーと踊った後,つまり道徳的完全性を失った彼女に,子供たちは無関心な様子である。ま
た,ドリーと共に教会を訪問する子供たちは,その愛らしさによって母親の価値を高めてい
る。これらの場面では,子供は大人の道徳性を評価する基準としての役割を担っている。教
会から帰宅した後,家庭教師の言うことを聞かなかった罰として,おやつを抜きにされたグ
リーシャに,ターニャが自分の分を分け与えようとする感動的な場面は,あくまでも家庭
内の出来事としてとどまる。
『戦争と平和』における子供や子供の特質を備えた人物のよう
に,他者に生死の次元で影響力を持つことはない。このように,『アンナ・カレーニナ』では,
子供は独立した力を持たず,完全に大人社会の一部として存在することが分かる。
ところで,
『戦争と平和』においては,いわゆる大人たちは,何らかの目的をもった活動
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に従事し,子供や子供の特質を備えた人物は,ほぼ何もしないか戯れるように生きていたが,
『アンナ・カレーニナ』では,状況が逆転している。例えば,オブロンスキーは役所に勤め
る大人として登場するが,生きながら眠っている(забыться сном жизни)かのようであり,
妻との間に不和が生じても,マトヴェイの「何とかなりますよ(образуется)」という言葉
を受け入れて解決のために何もしようとしない。実際に彼らの不和を解決するのは妹のアン
ナである。
また,レーヴィンは,オブロンスキーと食事をしながら次のように言う。
- Может быть. Но всё-таки мне дико, так же, как мне дико теперь то, что мы, деревенские
жители, стараемся поскорее наесться, чтобы быть в состоянии делеть свое дело, а мы с
тобой стараемся как можно дольше не наесться и для этого едим устрицы...
- Ну, разумеется, - подхватил Степан Аркадьич. – Но в этом-то и цель образования: изо
всего сделать наслаждение.
- Ну, если это цель, то я желал бы быть диким. (18, 40)
「そうかもしれないね。だが,それでも,我々のような村の住人は,自分の仕事をする
ために,急いで腹ごしらえをしようとするのに,君と僕が,なるべくすぐには腹いっぱ
いにならないように,牡蠣を食べているのが,今ばかげたことだと思われるのと同じよ
うに,ぼくにとってはばかげたことなんだ」
「そりゃ勿論そうさ」とステパン・アルカージイチは言った。「だがそこにこそ,教育の
目的があるってもんだ。何事からも快楽を生み出すってことにこそね」
子供の特質を備えた村の住民であるレーヴィンは労働する者として,勤務する都会人オブ
ロンスキーはただ何もせず楽しむために生きる人間として,それぞれ自分のことを認識して
いる。
子供たちはどうかと言えば,
オブロンスキーの子供たちは列車ごっこをして遊び,セリョー
ジャもまた学校で流行っている遊びとして列車ごっこに触れているが,彼らは遊ぶ存在とし
てよりもむしろ,社会を反映する存在として重要な意味を持つようだ。その上,この作品で
は,子供たちが遊戯に興じる姿よりも,学習する姿の方がより印象的である。ドリーは,教
育のため,子供たちにフランス語を話させている。エルグショーヴォでのドリーと子供たち
の家庭生活に好感を抱いていたレーヴィンは,真情の伴わないフランス語で会話しようとす
る取り組みを見ると,不快感を抱かずにはいられない。セリョージャは,家庭教師や父親の
授業を受けるが,消えた母親に会いたい一心の彼は,とても勉強など手につかない。ここに
は,
作家自身が携わっていた教育事業の影響の他に,
『戦争と平和』執筆時にはまだ幼児であっ
た自分の子供たちが,
『アンナ・カレーニナ』執筆時には,学習が必要な年齢に達していた
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という,トルストイ自身の家庭環境の変化という背景も関係しているだろう。しかし,いず
れにしても,長大な歴史的叙事詩において無為と遊戯に興じていた子供のような人物は影を
潜め,この同時代を描いた作品の子供たちは,学習というその年齢に応じた仕事に従事する。
ここで,他者に作用する子供の特質の力はすでに失われているようだ。
3.鉄道
すでに述べた通り,
『戦争と平和』で主人公の地位にあった子供の特質は,
『アンナ・カレー
ニナ』では明らかにその役割を失っている。そして,子供の典型的な特質でもあった無為や
生に対する戯れるような態度が,子供から大人特有のものへと変化しつつある。この小説に
おいて,
無為や戯れの場を大人たちに提供するのが,鉄道である。『アンナ・カレーニナ』
(1873
- 1878)の執筆時期は,ロシアにおいて鉄道が飛躍的に発展を遂げた時期と重なっており,
この小説の構造において鉄道が重要な意味を持つことについては,しばしば言及されている。
鉄道は,一貫して小説の舞台となっているわけではないが,主人公たちが出会い,関係を深
め,肉体的・精神的死を迎える場面で背景として現れる。
トルストイの医師であったマコヴィツキーは,作家の鉄道に対する見方を次のように記録
している。
「……私は,あまり列車で旅をしない。道中,人々はすることもなく揺れている。
[…]私は,鉄道のない所では,鉄道のある所よりも,人々が旅の途中で時間を無駄にする
ことが少ないと考える。なぜなら,そこでは,必要もないのに列車に乗ったりしないからだ。
これは,無為を習慣づけてしまうのだ」5
マルドフが,
「生の頂きへの渇望は,人々が従事するまぼろしの活動とは両立し得ない」6
と指摘する通り,
『戦争と平和』の主人公たちが日常的な生活の次元から生の頂きへと近づ
くのは,無為または戯れの状態,或いは活動から解放されている時である。特に,ナターシャ
やピエールは,こうした状態にあって,自分自身のうちに精神的調和を獲得し,他者をも調
和へと導き,愛の対象の範疇を拡大しながら,自分自身の存在をより大きな次元へと変容さ
せていく。それは日常から非日常を作り出すプロセスともなる。一方,
『アンナ・カレーニナ』
で,勤務はしているものの,その生に対する受動性ゆえに無為なオブロンスキーは,まさに
生きながらにして眠っており,彼が無為な状態にあって生の頂きに近づくことはない。ただ,
この小説でも,列車の中で無為に陥る人物には,確実に変化が起こっているように見える。
モスクワでウロンスキーと出会ったアンナは,ペテルブルグへ向かう列車内で,これまで
の平穏な家庭生活には異質な,混沌とした精神状態に陥る。人間は,活動から解放されると,
生活の枠組みと虚偽の感情から解放され,その代わりに真の感情や本来の性質が現れる。ま
さに,
アンナは列車の中で日常的活動から解放されると,抑制しようとしていたウロンスキー
に対する芽生えたばかりの感情が噴出し始める。ただし,『戦争と平和』では,活動からの
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解放時に真の感情が解き放たれると,それが国民的,宇宙的次元の調和へと向かったものだ
が,アンナの感情は,社会的秩序との衝突を免れない。列車という閉ざされた空間は,精神
の自由な解放を許さない社会的な拘束そのものを示しているかのようだ。アンナの夫カレー
ニンが,妻の病について知らせを受け,列車に乗る時,彼女の病気が本当か否かという疑問
に襲われるが,実際に病の床に伏したアンナの姿を見た時,これまで抑圧されていた,彼本
来の善良な性質が現れる。鉄道上で様々な思慮をめぐらせながらも無為の時間を過ごしたこ
とで,本来の性質が解放されたと考えられるが,この性質は,国家的に重要な立場にあるカ
レーニンを,社会的に不利な立場へと追い込んでいく。このように,列車内の無為は,真の
感情や性質を解放させながらも,それによって社会との衝突をも引き起こしてしまう。
4.
「子供の特質」から「百姓の形象」へ
『戦争と平和』において,無為や戯れの主人公によって体現される子供の特質は,他者に
新たな生命を吹き込むことで愛と愛に対する欲求を喚起し,周囲の人物たちを精神的,国民
的,宇宙的調和へと導く機能を担っている。アンドレイ公爵は,アウステルリッツの戦い,
ナターシャ・ロストワとの出会い,ボロジノの戦いと,活動能力を失い,幼年時代の感覚を
取り戻す度に,身内への愛,他者への愛,敵への愛と,愛の対象の可能性を拡大していく。
つまり,この小説においては,子供の特質が愛と密接な関わりを持つと考えられる。ここで
は,子供の特質と愛との関係性を明確に捉えるために,ボロジノの戦いで負傷したアンドレ
イ公爵の思考を見てみよう。准医師によってボタンをはずされ,衣服を脱がされる瞬間,彼
には,子供の頃の感覚が思い出される。
Самое первое далекое детство всмомнилось князю Андрею, когда фельдшер торопившимися
засученными руками расстегивал ему пуговицы и снимал с него платье. (11, 257)
准医師が,袖をまくり上げた手をいそいそと動かしてボタンを外し,彼の服を脱がせ
ていた時,アンドレイ公爵には,一番初めの遠い幼年時代が思い出された。
その後,気を失い,再び意識を取り戻すと,幼年時代の記憶と共に,生そのものがもたら
す幸せの感覚も甦る。
После перенесенного страдания, князь Андрей чувствовал блаженство, давно не
испытанное им. Все лучшие, счастливейшие минуты в его жизни, в особенности самое
дальнее детство, когда его раздевали и клали в кроватку, когда няня убаюкивая пела
над ним, когда, зарывшись головой в подушки, он чувствовал себя счастливым одним
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сознанием жизни, - представлялись его воображению, даже не как прошедшее, а как
действительность. (11, 257)
苦痛を耐え忍んだ後,アンドレイ公爵は,長いこと経験したことのなかった至高の幸
福感を覚えた。彼の人生において最もよき,最も幸福な瞬間のすべてが,とりわけ,彼
が服を脱がしてもらっては寝床に入れてもらったり,乳母が子守歌を歌ってくれたり,
頭を枕の中に埋め,ただ生きているという意識だけで幸せを感じた最も遠い幼年時代が,
過去としてですらなく,現実として彼の想像に浮かんだのだった。
そして,アンドレイ公爵は,隣でうめき声を上げて苦しんでいるのが敵であったアナ
トールだと気がつくと,
「この人と私の幼年時代,私の人生を結びつけるのは何だろう(В
чем состоит связь этого человека с моим детством, с моею жизнью?)」と自問する。すると突
如として,
「子供の頃の清らかな愛の世界から新たな,予期していなかった思い出(новое,
неожиданное воспоминание из мира детского, чистого и любовного)」 が 甦 る。 そ し て, ナ
ターシャが彼に吹き込んでくれた愛情を思い出し,自分とアナトールとの関係を思い出す
と,その憎んでいたはずの相手に対する「歓喜に満ちた憐憫と愛(восторженная жалость и
любовь)
」が彼の幸福な心を満たす。アンドレイ公爵は,婚約者のナターシャを誘惑したア
ナトールを憎み,
決闘を挑むために追いかけてきたが,生きているという感覚そのものによっ
て幸福だった幼年時代,そしてナターシャが他者に吹き込む愛を思い出すと,この敵だった
人物に対して愛情を抱き始める。これは,大人としてナターシャを愛していた時とは次元の
異なる愛であり,まさに幼年時代の記憶,そして子供の特質を備えたナターシャの記憶に
よって可能になったものだといえる。トルストイが子供の頃,兄ニコライが,
「あらゆる人々
が不幸を知らず,けんかしたり怒ったりすることなく,いつも幸せでいられる秘密」を緑の
杖に書いて埋めてあると言ったが,トルストイにとっては,これは単なる子供の遊びではな
く,一生涯,大切にしていた記憶だった。この緑の杖を実際に見つけることはできなかった
が,自分の死後は,これが埋めてあると考えられている場所に埋葬するようにと遺言し,実
際に杖があると想定される場所に埋葬された。トルストイ自身,幼年時代と子供特有の愛に,
重要な意味を認めていたと言っても誇張ではないだろう。
アンドレイ公爵がこの今まで経験したことのない愛を理解する時,「イ・ピチ・ピチ」,「イ・
チ・チ」という音に合わせて針と木っ端でできた「ふわふわとした建物」が顔の上に築かれ
ていく幻覚を見る。建物が上に伸びていく幻覚は,彼自身が「神の愛」を築きながら生の頂
上へ向かうプロセスを示している。
パルチザン戦に参加し,死を間近に控えたペーチャは,
「オ
ジッグ・ジッグ」というサーベルを研ぐリズムに合わせて鳴り響く音楽を通し,彼を取り巻
く自然の世界を縦横無尽に操る。
「イ・ピチ・ピチ」や「オジッグ・ジッグ」という音,狩
猟の際,
感極まったナターシャが発する叫び声や,彼女のおじさんの口癖である「チースタエ・
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ヂェーラ・マルシュ(Чистое дело марш)
」は何ら意味をもたないが,これら無意味な音声は,
生の頂きへと向かうために,人間社会という枠組みを突き抜け,直接,宇宙的自然に到達す
るための合図でもあり,突破口ともなる。そして,時にこれらの音声に随伴して現れる幻想
的形象は生の頂きへの上昇のプロセスそのものを象徴する。
『アンナ・カレーニナ』にも,ニコライ・レーヴィンの死,キチイの出産,アンナの死等,
あぶく
活動から解放された人物の生死に関わる描写や,ピエールの地球儀の夢と呼応する「泡」の
存在についての考察が見出される。しかし,
『戦争と平和』の立体的かつ幻想的描写と異なり,
『アンナ・カレーニナ』では,これらの現象が平面的でより地上的に描かれており, 上方への
動き,つまり生の頂きへの志向が感じられない。この作品の人物においては,生と死の境界
にあって,存在の本質を理解しようとする能力,個の存在を宇宙的自然の次元に調律する能
力が低下していると考えられる。
『アンナ・カレーニナ』では,
『戦争と平和』のように多様な形象は見いだされないが,そ
の代わり,繰り返し現れる奇妙な人物の形象が読者の注意を引く。それは,度々現れる百姓
の姿である。百姓が最初に姿を現すのは,アンナとウロンスキーが出会うモスクワの駅であ
る。この場面では,二人の愛の結末を予告するかのように,線路番が列車に轢き殺される。
次に,アンナがペテルブルグへ向かう列車内でかま焚きとして姿を現す。そして,第 4 編の
第 2 章と第 3 章では,ウロンスキーとアンナの夢に共通して,フランス語で「鉄を打って砕
いて捏ねなくてはならない……(Il faut le battre le fer, le broyer, le pétrir...)」と言いながら,屈
んで何かをしている百姓が現れる。第 7 編第 26 章でも,鉄の上に屈み込んで何か恐ろしい
仕事をしている百姓が,そして最後に,アンナの死の瞬間にも鉄を打つ百姓が登場する。藤
沼貴は,この百姓の形象について,
「かつて多くの神話で火を作り,雷を支配し,鉄を溶かし,
継ぎ合わせて,人間の男女の結合や愛もつかさどっていた主神が,文明の地上に落とされて,
しがない村の鍛冶屋か機関車のかま焚きになり下がった姿」7 だと述べている。これらの場
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面では,実際,百姓が現れる度に愛の形が変容しており,
百姓の形象は確かに愛の形象と
いう役割を担っていると考えられる。
『戦争と平和』では,他者に生命を吹き込み,愛を喚
起する役割を子供の特質が担っており,それが様々な抽象的な形をとって現れるが,『アン
ナ・カレーニナ』では,この愛を象徴する機能が百姓の形象に受け継がれていると考えられ
る。しかし,言うまでもなく,その役割は同じではない。『戦争と平和』では,子供の特質
を備えた人物が欺瞞に満ちた人間や社会を浮き彫りにし,人間を全体的な調和に導くために
宇宙との調律を行う機能を担っている。
『アンナ・カレーニナ』の時代,鉄道によって象徴
される文明社会の個人への圧力が強まっている時代には,子供,または子供の特質も時代の
枠組みに拘束されており,力を発揮することができない。その代わりに現れる百姓は,アン
ナによる真の愛情の発露を非難し,個人という人間をも押しつぶすような不気味さを持つ。
この百姓の表情は全く描かれていないが,この無表情な百姓がフランス語で「鉄を打って
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創価大学 ロシア・スラブ論集 第9号
砕いて捏ねなくてはならない……」と言いながら鉄道で労働する様は,ロシアの農民,さら
には文明国家に後れを取ったロシアそのものが,文明国家の号令に従い,その号令を反芻し
て自分に言い聞かせつつ,自分の意志とは無関係に文明化に加担するプロセスを暗示する。
『戦争と平和』では,自然発生的で無意味だが表現豊かな音と声の力により,主人公たちは
社会の枠を突き抜けて宇宙的な調和へと導かれたが,この百姓が発する言葉には,自発性も
発話者の表情もなく,文字通りの意味が存在するだけである。
『戦争と平和』で描かれる無為や戯れが自然発生的なものであるのに対して,『アンナ・カ
レーニナ』では,列車という空間の中で無為を強要される。無為の中で感情が解放されてい
くアンナの愛の対象は,ウロンスキーと自分自身へと狭まっていき,それと共に家族や他者
に対する愛情は減少していく。この愛の減少を指し示すかのように姿を現す労働する百姓の
姿は,アンナを非難する存在として現れる一方で,生の頂きに到達するべく別の生き方を示
唆するようでもある。オジノーコフは,百姓の形象にアンナとレーヴィンを結びつける役割
9 を見出しているが,
確かに,フランス語を話しながら労働する百姓の姿は,貴族でフラン
ス語を話せる身でありながら,農民と一緒に鎌を振り下ろして草刈りに従事するレーヴィン
を想起させる。
Чем долее Левин косил, тем чаще и чаще он чувствовал минуты забытья, при котором
уже не руки махали косой, а сама коса двигала за собой всё сознающее себя, полное жизни
тело, и как бы по волшебству, без мысли о ней, работа правильная и отчетливая делалась
сама собой. Это были самые блаженные минуты. (18, 267)
レーヴィンは,より長い時間刈れば刈るほど,より頻繁に忘我の瞬間の訪れを感じて
いた。その時には,手が鎌を振るのではなく,鎌自体が,絶えず自分自身を意識し,生
命に満ちた肉体を動かすのであった。そして仕事は,あたかも魔法のように,それにつ
いて考えなくとも,正確にきっちりと自然に進んでいくのであった。これは,最も至福
な瞬間だった。
一切の感覚を失い,自然に突き動かされているかのように草を刈るレーヴィンは,まさに
この労働によって生の頂きを志向するかのようだ。子供の特質を備えているレーヴィンで
あっても,社会や国家が進む方向に人間も進むことが求められるこの時代には,無為のまま
では社会と別方向に進むことができず,生の頂きへ向かうこともできない。この時代に生の
頂きを目指すためには,農民と共に労働に従事することで,差異を超え,愛の対象となる範
囲を拡大することが必要だったのだろう。 『戦争と平和』から『アンナ・カレーニナ』へ
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おわりに
『アンナ・カレーニナ』の執筆中,トルストイは早くこの作品を書き終えて,『初等教科書』
に集中したいと考えていた。自分の生きる時代の空気を敏感に感知せずにはいられなかった
トルストイは,時代,人間の本質を描こうとして,主人公を,社会に束縛され,最後にはそ
の下敷きになって死ぬ存在として描かざるを得なかった。小説を連載していた『ロシア報知』
誌の意向に反し,単行本での出版を余儀なくされても第八編でセルビア出征を批判的に取り
上げたのも,やはり同様の理由からであろう。人間が社会によって押しつぶされる世界から,
子供の特質が力を発揮する世界へ戻る欲求こそが,作家をこの長編小説から『初等教科書』
を始めとする教育の仕事へと向かわせたのではないか。 注
1 Толстой Л.Н. Полное собрание сочинений в 90 томах. М., 1992. Т. 16. С. 7. これより先,本稿におけるトルストイ 90 巻全集からの引用は(巻数,頁数)によって示す。
2 藤沼貴は,
「『戦争と平和』の大きな課題の一つは,トルストイの階層のルーツを示すこと」であると述べ,
「ロシア人のルーツを訪ねる試み」としてピョートル大帝時代が選ばれたと考える。(藤沼貴『トルストイ』
(第三文明社,2009 年),282 頁,326 頁。)
3 このテーマについては,拙論「レフ・トルストイの『戦争と平和』における子供の特質」(『ロシア語ロシ
ア文学研究』第 47 号(2015 年),81-99 頁)で詳しく論じている。
4 『戦争と平和』における「無為」の意味については,『SLAVISTIKA(東京大学人文社会系研究科スラヴ
語スラヴ文学)』第 31 号に掲載予定の拙論「レフ・トルストイの『戦争と平和』における無為の描写」で
論じた。
5 Маковицкий Д.П. Яснополянские записки. // Литературное наследство. Т.90. Кн.4. С.402-403.
6 Мардов И.Б. Лев Толстой на вершинах жизни. М., 2003. С. 8.
7 藤沼『トルストイ』373 頁。
8 愛の変容がどのように起こっているかということについては,拙論「レフ・トルストイの作品における旅
の描写」(『緑の杖(日本トルストイ協会報)』第 11 号(2014 年),26-37 頁)で論じた。
9 Одиноков В.Г. Л.Н.Толстой-художник. Новосибирск. 1978. С. 149.