かなであん No.273

ざい
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
2016.1.20 発行
kanadean
No. 273
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「壮年」、「初老」、「老年」と
自然であることを若く健康な時か
いまこのままのわたしが してみると、前半は現役、後半は
ら学ぶ環境がありました。その寿
救われたわたし 老後となるでしょう。しかし今、
命が短くとも長くとも、そこには
「人生に向き合う」 「現役」でなくなってから人生の
湧き起こる無意識の生命力で生き
「おまけ」のように生きるには、
切る「いのち」というもののもつ
皆さまには新しい年をどのよう
あまりにも長い老後です。長い人
本来の姿があり、誰もが必ず行く
生を覚悟しなければならない時代
ぞ宜しくお願い申し上げます。 だからこそ、やはりこの人生のひ
* * * とつづつの区切りの持つ意味を受
道を知り、手本とすることができ
私は今年70歳、いわゆる「古
け止める思想は必要になっている
自覚すればこその、心の寂滅と命
稀」を迎えます。思えばついこの
のではないかと思います。 の躍動だったことでしょう。 間まで「人生50年」と言われ、
残念ながらそれまでに人生を終
* * * 70歳を迎えることは長生きであ
えていかなければならなかった人
親鸞聖人は90歳まで生きられ
り「稀」なことでした。しかし今、
もおられますが、これからは益々
ました。医学の進んだ今でも大変
急激に高齢化は進み、「人生百年」
多くの人が「林住期」「遊行期」
な老いる日々の中で、弟子に宛て
は空想ではなくなり、私たちは衰
を生きるのです。生産するという
た手紙の末尾を次のような言葉で
えを背負いながら長く生きること
現役ではなくなっても、生きてい
結んでおられます。 を覚悟しておかなければならない
る間は「いのちの現役」であり続
目も見えず候、なにごともみな
時代を生きています。 ける覚悟と気概を持ち続けたいも
忘れて候うへに、人などにあきら
人の一生は、山あり谷あり、喜
のですが、それは、「一億総活躍
かにまふすべき身にもあらず候…
びも悲しみもあり、じつに変化に
時代」や「終活」で叶うものでは
他人にとやかく言える身ではな
富んでいます。そんな人間の一生 ありません。それではただの「老
いと吐露し、いくら苦しくても、
について、古代インドには「四住
害」になってしまう可能性の方が
寿命のある限りは生きねばならな
期(しじゅうき)」という思想が
高くなるかもしれません。 いという、いのちを生き切って見
ありました。人生を四つの時期に
* * * せて下さいました。 区切って、それぞれの生き方を示
日本にはお年寄りを「翁」とい
「苦」は「思うようにならない
唆する興味深い思想です。 う呼び方があります。人が老いる
ことを思い通りにしようとする」
それらは、「学生期(がくしょ
ということは、実にさまざまなも
ことです。今の日本には、アンチ
うき)」「家住期(かじゅうき)」
のを喪失するという現実を生きる
チェンジングのような、あくまで
「林住期(りんじゅうき)」「遊
ということです。肌は張りを失っ
喪失に抗おうとするような力みば
行期(ゆうぎょうき)」の四つで、
て垂れ下がり、視力も聴力も、あ
かりが見え、それは時に痛々しく
最近は日本でもよく知られるよう
るいは知識や家族、友人も次第に
醜くさえあります。喪失の原因が
になりましたが、現代の生き方の
失っていきますが、その喪失の中
病であれ災害であれ、その中にも
サイクルからすると、数字的には で老いを真正面から受け止め生き
差す陽を「綺麗だ」と見れる、そ
20歳近い開きをもって考えてい
たのが「翁」だったのです。その
れが老人のはたらきなのではない
いかもしれません。この四つの区
翁と呼ばれるお年寄りがいた時代
かと思います。そんな「老い」を
切りを分かりやすく、「青年」、
は、老いが人生の逃れようのない
生きたいものです。 合掌
にお迎えでしょうか。本年もどう
たのです。それを導く翁の願いは、
いのち終えるまで消えない煩悩を
仏教が生んだ日本語 奏 庵 法 座 【利益(りやく)】
人は絶えず自分の利益を求め
日 時
て生きる。現実の社会全体が、
1月26日(火) 利益社会と呼ばれ利潤追求の機
午前11時∼ 構となっている。いわゆる利分、
「真宗宗歌」 得分、つまりもうけの関心で成
正信偈 り立っていると言ってよい。 法話 宗教においても、祈りに応じ
真宗仏光寺派・大阪別院輪番 大阪高槻・郡家御坊妙円寺住職 葦名 彰 師 ご文章拝読 「恩徳讃」 ∼*∼ おとき 新しい年の初法座を迎えること
ができますこと、今年は特に感慨
深く、ありがたく、嬉しく思いま
す。今月は「お見舞いに」という
甥に「それなら法話を…」と日を
合わせてもらいました。暖冬のせ
いで紅梅もすっかり盛りを過ぎて
しまいましたが、残り香が階段を
上る労を少し癒してくれます。ど
うぞ香りに一息ついてからお参り
下さい。本年も皆様のお参りをお
待ちしています。
編集後記
昨年末、インターネット通販のアマゾ
ン・ジャパンが、僧侶手配チケット「お
坊さん便」の取り扱いを開始した。知っ
ての通り、葬儀や法事に僧侶を派遣す
るというサービスだ。当然、仏教界か
ら猛反発が出たが、どこかで「今更…」
と感じる自も分いた。■何故なら、こ
れらに関係する業界(あえて業界とい
う)には、もう何十年も前からその下
て利益をもたらしてくれるのが、
地がはびこっていた。その原因の一因
には、その責務を一番負うべき仏教界
よい宗教であると考える人がい
側にあることは否めず、その僧侶の一
る。雨乞い、雪乞い、疫病払い、
人として常々憂い、被害(?)も被っ
息災延命、家内安全、合格祈願、
ているが、すべてに対しそういう価値
商売繁昌など、願いは欲張りで
観を持つ根底には、何事もお金で判断
多種多様、人は、現実の生活苦
することに躊躇と恥じらいを持たない
からの離脱を求めて祈り、与え
日本社会の病巣を思う。■戒名(浄土
られた恩恵をご利益といってい
真宗では法名)、院号を授けるか否か、
る。 場所は一箇所か移動するか等々、その
こと細かい 明瞭会計 は身も蓋もなく、
しかし、仏教では、自分が得
それこそ「味噌もクソも一緒」状態で、
るということだけではなく、他
そこに漂うのはお金の匂いそのもの。
の人を益するということ、恵み
寺や葬儀社の金権主義を責めながら、
を与えるということがなければ
結局は金額が判断の基準なのだ。それ
利益ではない。仏の教えに生き
が「俗」だと自覚してのことならまだ
て得られた恩恵を、自利、利他
しも、「良いことだ」とするところに
の益として明らかにし、自らが利
過ちを大きくしていく元がある。■こ
のことは日本社会を象徴している。今
益を得ることは同時に、他の人々
の政治や教育に危なっかしさを感じる
を利益することが実践であり、
のと同じ、価値観の未成熟を感じるの
菩薩の精神であると説く。 だ。先頭に立つ人たちが、自分の本分
仏の教えによって得られる利
がわかっていないのだ。だから世の中
益は、金銭上や物質上の利益で
は、政治家臭い、坊主臭い、教師臭い、
はなく、自らの「いのち」に目
親みたいなもの、雰囲気(臭さ)だけ
覚めて生きる自覚者の誕生をい
が溢れている。■道を極めるとは、自
う。仏の教えに出遇い、教えに
ら然り、身につけ、自然にそれが出る
ようになり、そして「忘れること」で
導かれて育てられて、我々もまた、
完成するといわれる。茶道に喩えれば、
自らのいのちの尊さに目覚めて
なまじ中途半端だと、いくら作法を間
生きる者となるのである。深い
違いなく行えても、素養のない人を接
意味での利益とは、自己を生き
待できないように、衣と袈裟で外観を
る自分自身の獲得ではないだろ
装いお経を間違いなく唱えても、それ
うか。そこに自ら人々を利益して、
だけでは仏縁は結べず、ただの「読経
他と共に生きるという、共存の
屋」にすぎない。「お坊さん配達サー
ビス」を無くすには、やはり坊主が坊
「生」という大きな利益が開か
主であることのはからいを忘れるくら
れるのではないだろうか。 いになって、本物の宗教家の自然な生
大谷大学【編】参考
き方を見せていかなければならないと
いうことだろう。 Norimaru